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我が菜園の今日の姿です。猛暑の中、「アーティチョーク」の花が開花を初めています。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)キク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本。草丈は1m)内外で、葉は50 - 80cm に達し、花蕾は8 - 15 cmに達する。分枝は少なく、1株に3 - 4本程度である。主茎の先端につく花蕾の形はいろいろあり、パープル種とグリーン種がある。収穫適期を過ぎるとこの紫色の花が咲くのである。「アーティチョーク」の花言葉は「傷つく心」、「警告」、「傷つく恋」など。「アーティチョーク」の葉の先にはトゲがあり、そのトゲで傷がつくことから由来していると。多くの我がミツバチがこの花を訪れていました。花の中に潜り込んで。日本ではあまり馴染みがありませんが、ヨーロッパやアメリカではポピュラーな野菜とのこと。ウロコのような萼が重なった若いつぼみが食用部分。つぼみを茹でて、少し肉厚になった萼やつぼみの芯を食べます。萼をすべてひっぺがえした芯の部分「アーティチョーク・ハート」は軟らかくてたっぷり食べ応えがある。デンプン質でほくほくしており、ソラマメとクリを合わせような風味があるのだと。古くから野菜として親しまれ、改良された品種もたくさんあるようだ。日本では江戸時代中期に栽培されていた記録がありますが、広まらなかったようです。そして我が菜園のスイカ畑です。スイカが野鳥に啄かれないようにキャップで覆っています。デンスケスイカの成長の早いものは10cm以上の大きさになっています。そして我がセイヨウミツバチの巣箱の入口です。猛暑の中、換気係の働き蜂が頑張っていました。黄色の花粉珠を持ち帰っている働き蜂の姿も。そして我が菜園からの富士山の姿です。電線が邪魔なのですが・・・。日本大学藤沢中・小学校の校舎の後ろに。更にズームして。山頂下の残雪の残り少なく。更にズームして。 ・・・END・・・
2022.06.30
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次この日は3月31日(木)、2回目の「寒川町の寺社旧蹟を巡る」に向かう。小田急線の地元の駅に6時前に到着。JR藤沢駅で下りの電車を待っていると、小田急線のホームには赤色のロマンスカーが入線。そしてJR茅ヶ崎駅でJR相模線に乗り換え、「宮山駅」で下車。相模國一之宮である「寒川神社」の最寄駅である。・1931年(昭和6年)7月1日:寒川神社や地元住民の請願により、相模鉄道の宮山停留場 として開業。・1944年(昭和19年)6月1日:国有化。同時に駅に昇格し運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2014年(平成26年)12月26日:出札窓口の営業を終了。・2016年(平成28年)2月21日:茅ケ崎駅の遠隔管理の下で無人化を実施。神奈川県高座郡寒川町宮山。「寒川町観光案内」。観光案内地図。神社仏閣案内。主な公共施設案内。「宮山駅」の前を通る道路を北に向かって進む。左手の「青木農園」の大きな温室の中ではスイートピー栽培が行われていた。ピンクの花をつけたスイートピーは出荷直前か?「直売 スイートピー つみ取り出来ます」と。そして「産業道路」の「中里」交差点に合流。交差点の花壇の黄色のパンジーも迎えてくれた。「産業道路」の横断歩道を渡り直進する。更に直進すると、直ぐに前方T字路にに朱の鳥居が見えて来た。「中洲神社」。鳥居の下から。「中洲稲荷●地蔵尊立像(子育て) 右 江戸時代 (ロ保五年) かっては、相摸川の河原にあったといわれてます。その後、交通安全を願い、この地に 移されました。そうしたところ、子宝に恵まれる家か出て、子育て地蔵と呼ぶようになり ました。●中洲稲荷 中央 かっては、相模川の中洲にあったものを、この地にうつしてきたため「中洲稲荷」と いわれています。●地神塔 左 江戸時杙(天保七年・一八三六) 地神講とは百姓の神、稲を持ってきた神といわれる「地神」を信仰する人々の講組織です。 春と秋の社日に床の間に三幅の掛軸を掛けかっては中里三八軒の農家で行われていました。●庚申塔 人り口左 江戸時代 (天保七年・一八三六)」●地蔵尊立像(子育て) 右 江戸時代 (ロ保五年)●中洲稲荷 中央●地神塔 左 江戸時代(天保七丙申年・一八三六)山状角柱型 「地神宮」と刻まれていた。横面には「相列高座郡」/「宮山村中▢▢」と。●庚申塔 人り口左 江戸時代 裏 面「天保七申年三月吉日・一八三六」 台 石「講中」横面には左側面「此方 一之宮 なんこ 道」右側面「此方 あつぎ 八王子 道」左側には小さな五輪塔の如き石碑が3基。境内の石碑群を再び見る。鳥居越しに再び。そして南に進むと左手にあったのが「けやきの森病院(朋友会)」。しかし、進路を間違えていることに気が付き、引き返す。梨畑の横を通過。寒川町の町花・スイセンをデザインした汚水マンホール蓋を再び。「ホルトノキ」。「ホルトノキ常緑高木。花は白色で、花弁の先が糸状に裂けます。果実は黒紫色に塾します。初夏に古い葉が紅葉しますホルトノキ科」弁の先が糸状に裂けた「ホルトノキ」の花。 【https://www.travel.taipei/ja/news/details/24031】より初夏に古い葉が紅葉。 【https://lab.syncer.jp/Tool/Webp-Converter/】より「メグスリノキ」。「メグスリノキ眼薬木。雄の木と雌の木がある落葉高木。日本国内にのみ自生します。若葉が薬用として用いられ、戦国武将、黒田官兵衛の生家は、代々それを生業としていたことで有名です。ムクロジ科(旧 カエデ科)」「メグスリノキ」の紅葉。 【https://naegiya.ocnk.net/product/21】より更に進むと目的の「旧目久尻川ふるさと緑道」が姿を現した。昔の目久尻川は蛇行していたが、水害を防ぐため昭和4年に現在の流れに変えられた。元の流れの名残を「ふるさと緑道」として整備されたのだと。そして「目久尻川」に架かる「寒川橋」の先、「旭保育園入口」近く右手に石碑が現れた。「三猿庚申塔」のようであった。享保2年(1717)と。更に北に進む。道路脇の林の樹の上には「アオサギ」の姿が。「寒川町 北部文化福祉会館」の角には石碑が。「大震災記念大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東一帯ニ亘リテ大震災アリ 相武ノ沿岸被害殊ニ甚シク本村亦頗ル惨状ヲ極ム 當町戸数三十而シテ焼失三全潰二十六半壊一全キモノ更二ナク死者一名負傷者三名ヲ出ス 實ニ有史以来ノ火参事タリ 此ノ時二當リ大工職谷釋長藏君父子挺身家屋ノ復旧ニ従事シ孜々榮々未ダ周年ナラザルニ町民皆安住ノ所ヲ得タルハ一ツニ君ガ献身的行為ノ賜トイフべシ 此ニ町民ハ大震災ヲ記念シ君ノ徳ヲ頌センガ爲メ石ニ刻シテコレヲ後昆ニ傳フ大正十ニ年九月 國幣中社寒川神社宮司正七位河村政吉撰」と。碑文には、『旭町の戸数30戸のうち、焼失3戸、全壊26戸、半壊1戸で、被害のない家屋はなったこと、死者1名、負傷者3名を出したこと、このような状況下で、大工の谷澤長蔵氏父子が家屋の復旧という困難な作業に奮闘努力し、1年を待たずして町民は全員安心して住む場所を得たこと、町民は谷澤長蔵氏父子に感謝し、このことを石に刻んで後世に伝えることにした』ことなどが記されていた。東に向かって進むと、道端には白いスイセンの花が。ズームして。更に進むと民家の墓地の横に小さな社が建っていた。社の中には地蔵様が。地蔵様に近づいて。卒塔婆には「旭岩舟地蔵尊」の文字が。さらに東に進みこの先を右折する。右手に石碑群。庚申塔・「青面金剛像」享保□年(1716-1736)もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.30
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タイトル 👈リンク付き 発表日★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その1) 2022.06.29 倉見神社~行安寺~倉見才戸遺蹟~倉見観音堂~日吉神社~陣屋敷~JR倉見駅~湘南釣堀~ 寒川水族館~倉見水神宮★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その2) 2022.06.30 宮山駅~中洲神社~旧目久尻川ふるさと緑道~三猿庚申塔~大震災記念~旭岩地蔵尊~石碑群★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その3) 2022.07.01 念宗寺~小動神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その4) 2022.07.02 寒川町立小谷小学校~阿弥陀堂~十三塚(亀の子塚)~菅谷神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その5) 2022.07.03 岡田遺跡~越の山横穴墓群~東守神社~大山燈籠~等覚寺跡~塔の塚~寒川キリスト教会~ 日枝・八坂神社合祀記念碑~宮山遺跡★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その6) 2022.07.04 宮山緑地~根岸弁財天~寒川 冬のひまわり~西善院★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その7) 2022.07.05 寒川神社(1/4 ):寒川神社参集殿~石灯籠~神池橋~三之鳥居~重修寒川神社太鼓橋記碑★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その8) 2022.07.06 寒川神社(2/4 ):末社 宮山神社~旧一ノ鳥居~黒松と梛~手水舎~さざれ石~彬姫櫻~ はまごう(蔓荊)~客殿~納札殿~社務所~横浜緋桜★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その9) 2022.07.07 寒川神社(3/4):客殿~社務所~絵馬掛け~狛犬~神馬舎~神門~回廊~拝殿~渾天儀~授与所★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その10) 2022.07.08 寒川神社(4/4):御神木~南門~八福餅~人形奉斎殿~神池~石橋★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その11) 2022.07.09 寒川神社少年館~馬洗戸橋碑~馬洗戸橋碑~興全寺~シンコースポーツ 寒川アリーナ (寒川総合体育館)★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その12) 2022.07.10 寒川中央公園~寒川町役場★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その13) 2022.07.11 大塚古墳公園~護国霊塔~大(応)神塚古墳~安楽寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その14) 2022.07.12 寒川神社一之鳥居~水道記念館~寒川町観光協会★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その15) 2022.07.13 JR寒川駅~相模稲荷神社~景観寺~中瀬大神★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その16) 2022.07.14 一之宮八幡大神~南泉寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その17) 2022.07.15 第六天神社~金刀比羅宮~妙光寺~車地蔵堂~寒川駅~帰路★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その18) 2022.07.21 信玄芝原公園~福泉寺~露座不動明王~小谷十一面観音像~大蔵東原遺跡★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その19) 2022.07.22 宮山駅~宮山橋~地蔵堂~参集殿~寒川神社三の鳥居~目久尻川水道管~端午橋石碑群★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その20) 2022.07.23 寒川神社ニ之鳥居~いこい橋~寒川浄水場~相模川八景 寒川宮山の富士~寒川取水施設~ 神川橋★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その21) 2022.07.24 一之宮公園~一之宮緑道~八角広場~旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡碑~一之宮不動堂~ 浄徳寺~一之宮小入口交差点★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その22) 2022.07.25 梶原景時館跡(一之宮天満宮)~西町集會所(薬師堂)~濱降祭駐輿記碑~梶原伝七士の墓★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その23) 2022.07.26 松戸橋~南部文化福祉会館~両替子育地蔵尊~花川用水~万部寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その24) 2022.07.27 貴船大神横の稲荷社~貴船大神~稲荷社~田端バス停~生往寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その25) 2022.07.28 萩園キリスト教会~医王院~グリーンガーデン寒川~高安善塚~十二神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その26) 2022.07.29 正一位お稲荷さん~大曲地蔵堂跡(大曲共同墓地)~下大曲神社跡~東福寺跡 大曲共有墓地~ 聖天橋~香川駅 ・・・以上・・・
2022.06.29
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンク、「茅ヶ崎市」👈リンクを完了し、今回の『寒川町の寺社旧蹟を巡る』への〆の挑戦をスタートしたのであった。「寒川町の寺社旧蹟を巡る」のスタートは「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の最終日の帰路に立ち寄ることから始まったのであった。正面に「倉見神社」の石鳥居。熊野社(くまのしゃ)と称していたが、明治2年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、倉⾒大神となった。その後、昭和18年(1943)に倉見神社と改称された と。神奈川県高座郡寒川町倉見45−3。石鳥居の扁額「倉見神社」。「倉見神社御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ) 熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと) 倉見大神と称する御由緒 御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始りと伝えられる。以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社に列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり現在に至る。往事に於ける社殿の規模などは詳らかではないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)六月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。現在の本殿は、明治二十七年寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八年移築したものである。尚この本殿は 寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三年寒川町重要文化財に指定されている。拝殿は、平成四年、寒川神社「平成御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の「御大典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年九月に移築されたものである。」「夫婦欅」。「倉見神社本殿(くらみじんじゃほんでん)寒川町指定重要文化財第四号昭和五十三年十ニ月一日指定寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の江戸時代の彫刻が配置されています。夫婦欅(めおとけやき)寒川町指定重要文化財第五号昭和五十三年十ニ月一日指定樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅とよばれています。幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。」正面に「拝殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。左右両方とも歯が見えて、阿形像の如き姿であった。手水舎。社務所。拝殿。拝殿は平成4年(1992)の寒川神社の平成の御造営にあたり譲与されたもので、平成6年(1994)9月に寒川神社から移築されたもの と。扁額「倉見大神」。「拝殿」の正面。「本殿」。寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿(町重要文化財指定)を、明治28年に移築されたもの と。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。茅ヶ崎西浜海岸で開催される「暁の祭典 浜降祭」に参加する神輿の姿をネットから。神輿製作年は昭和54年(1979年)と。境内社の「浅間大神(木花之佐久夜比賣命)」が。大きな石碑が正面に。浅間大神を護る大正5年生まれの「狛犬」。阿形像の下顎が欠けていた。阿形像は子狛を連れていた。吽形像は玉を持っていた。その奥に「浅間大神」碑。天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。「浅間大神」は、明治16年(1883年)2月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。昭和60年(1985年)10月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。「倉見神社」を後にして、次の「行安寺」に向かって進む。新幹線の架道橋・第ニ倉見BVを通過。架道橋とは道路を越える橋梁を指す。略称「BV」で、「Viaduct Bridge」が元になった。「Viaduct」とは高架橋の意。「B」が先、「V」が後として記されている。寒川町の汚水マンホール蓋。町の花「スイセン」を描いたもの。マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて花を咲かせている。円の中心で3個の蕾の先端が触れるが如くに。マンホールの下方には平仮名で「さむかわ」「おすい」と。そして次に「行安寺」の入口に到着。神奈川県高座郡寒川町倉見1873。参道の左側には無数の墓石が並んでいた。合掌する石仏。「子育地蔵尊」であろうか。寺号標石「浄土宗 寶積山 行安寺」。無数の墓石、石仏を振り返る。そして正面に山門。「木造阿弥陀三尊像寒川町指定重要文化財第16号平成3年(1991)4月1日指定中尊は、底部の銘により天正10年(1582)(*)の造立であることが明らかであり、古式の偏袒右肩(へんたんうけん)、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、中央の桃山風の基準作として重要である。両脇侍(りょうわきじ)は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。構造…各 寄木造・玉眼・漆箔(しっぱく)付属品…各 光背・台座」*: 後北条氏家臣の山中氏が倉見を知行していた時代。「木造阿弥陀三尊像」をネットより。像高:42.3センチメートル中尊阿弥陀如来坐像は室町時代の作。両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像は江戸時代の作。 山門を潜るとさらに両脇には墓地が続き、墓石が並んでいた。そして「本堂」。寶積山了覺院と号す。「行安寺」は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領している。大正七年四月建 と刻まれた六角形の石塔。よく見ると6面のそれぞれに異なった地蔵菩薩像が浮彫されていた。これは地蔵様は単独で立つものばかりではないことを表したもので、これを燈篭型六地蔵と呼ばれていると。「本堂」の扁額は山号の「寶積山」。内陣。墓地を見る。境内から「山門」を振り返る。「殉國」碑。「英霊奉斎の銘支那事変及太平洋戦争に一死以て国難に殉じ給いし英霊三十七柱を謹んでこの霊地に斎き奉る。」「孝 陸軍砲兵 勲八等功七級 柳下賢治之墓」と。「昭和十三年五月八日徐州附近ニ於テ名誉ノ戦士ヲ遂グ 享年 二十三才」と。徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦で亡くなったのであろう。日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。 日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかったのであった。そして再び新幹線・第一倉見川Bを通過する。橋りょう Bは河川や海を渡る橋である。「梁」は常用漢字ではないため、正式文書では「りょう」とひらがなで書かれる。略称のBはBridgeの略。そして「倉見才戸遺蹟」を訪ねた。社宅の建物の敷地内に案内板があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2014。「倉見才戸遺跡」案内板。「倉見才戸遺蹟平成3年、社宅の建替え工事にともない発掘調査がされ、平成5年に範囲確認調査、さらに平成6年、平成11年にも住宅開発にともない発掘調査がおこなわれました。調査の結果、一番古いものは今から5,000年ほど昔の縄文土器が発見されています。弥生時代はこの遺跡の中心の時代で、中期から後期( 3~4世紀ごろ)の竪穴住居址が40軒以上も発見されました。なかでも中期の3軒は普通の住居より大型な住居で、県内でもこれほど大きい住居はめずらしいものです。環濠といった村のまわりをぐるっとめぐらせた溝も発見されました。その他、有角石斧や、勾玉、管玉、鉄器といっためずらしいものも出土しました。東海地方や東京湾岸方面に影響を受けた土器も出土し、当時の交易関係が伺えます。古墳時代の竪穴住居址や平安時代の住居址や井戸址や掘建穴柱定物址、溝址なども発見されました。さらに中~近世の溝址や土坑も発見されています。このように、倉見才戸遺跡は過去から現在にいたるまで、絶え間なく生活が営まれてきた場所ということができるでしよう。なお、出土した土器等は文化財学習センター(ー之宮小学校内)で見ることができます。」「大型住居(一次調査)」の上空からの発掘状況の写真。「出土石器〈左から3点目が有角石斧〉(一次調査)」。東に進み右に曲がるとフェンスの中にあった石碑群・「陣屋跡」碑。ここは、江戸時代初期(天正19年(1591))に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられている。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。「未開の頃、開拓者達が原(はら)と才戸(さいど)の広い地域に「陣屋敷」という御倉屋敷を建て、その立ち並ぶ倉を遠方からながめ「倉見」という地名がついたと言われている。残る石像は、右より第六天、金比羅宮、堅牢地神(けんろうじしん)、道祖神、五輪塔の五つである。」と。中に入り込んで。右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔。近づいて。「陣屋跡この周辺に、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷(陣屋)があったと伝えられています。その規模は「新編相模風土記」によると、東西四十ニ間(76m)、南北ニ十四間(43m)とされています。現在は石造物が寄せられ、右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔が並んでいます。」大日製罐(株) 湘南工場の前を通過し、さらに今は使われていない住居前を通過。そして次に訪ねたのが「倉見観音堂」。観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在した。その後、その地に観音堂として残り、現在に至っている。観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと。しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っているので、地元では寺と堂を区別せずに使っていた可能性があるとのこと。「南無大悲観世音菩薩」碑と右側は解読不能。「観音堂(行安寺末 倉見山観音寺)観音堂は、かっては観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に建てられていた。江戸時代の末頃、旅人の火の不始耒から火事になったが、本尊は焼けぬよう永池川に投げ込まれた。後に本尊は、岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供して、現在の地に安置したという。またこの地は、徳島藩士の長崎玉淵が寺子屋を開き、明治初年まで手習師匠をしたところで、これが明治六年徳彊(とくきょう)学舎に発展、明治九年倉見学校と改称された。明治十年旭学校(現在の北部文化福祉会館の地)ができるまで、教育の場としてここて多くの子弟が育った。」「銅造千手観音立像(本尊)寒川町指定重要文化財第十八号平成四年九月一日指定本尊は、小像(像高ニ〇・八cm)にもかかわらず丁寧で、細面の尊顔、宝髻(ほうけい)、頂上仏面等がよく表現されている。また尊体には奥行があって均整よく、動きがあり近世作には認め難い味わいが感じられる。制作は室町時代と考えられる。」そして次に訪ねたのが「日吉神社」。倉見日吉神社の創建年代等、詳細は不詳、個人所有の社とのこと。その先に小祠があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2215−5。そして進んでいくと新幹線の高架橋がありここを潜る。JR相模線の「倉見駅」に到着。「JR倉見駅・1926年(大正15年) 4月1日:寒川駅から相模鉄道線が延伸開業し、その終着駅として開業。 7月15日:貨物取り扱いを開始。相模鉄道線が厚木駅まで延伸開業。・1944年(昭和19年)6月1日:相模鉄道が国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1961年(昭和36年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。 相模川の砂利採取用の専用線が厚木方へ(現在途中まで遊歩道になっている)、トロリー線が 茅ケ崎方へそれぞれ続いていた。トロリー線で運搬された砂利を貨車に積み込むホッパーも 駅構内にあった。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2016年(平成28年)2月12日:出札窓口の営業を終了。・2月21日:多機能券売機設置。同時に茅ケ崎駅の遠隔管理による無人化を実施。・2021年(令和3年)3月18日:エレベーターを設置。相模線を跨ぐように走る東海道新幹線には将来、当駅付近に新駅を設置する構想がある。また、相鉄いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅)が湘南台から当駅周辺まで延伸される構想もある」とウィキペディアより。「倉見駅相模線は、大正10 (1921)年9月、茅ヶ崎一寒川間で開業したのを皮切りに、大正15 ( 1926 )年4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、補蓚費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。」昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通した時の写真であろうか。当時の「倉見駅」。「倉見駅」入口。有害図書追放ポスト「てんとうむしポスト」。有害図書を回収するために町青少年環境浄化推進協議会が40年ほど前設置したもの。名前の由来は、害虫のアブラムシを食べてしまうてんとう虫。寒川駅とここ倉見駅の「てんとう虫ポスト」が、役目を終え2月中旬に撤去されたとのこと。そして次に訪ねたのが「釣って見つけるぼうけんの国 湘南釣堀」。神奈川県高座郡寒川町倉見935−1。2020年7月リニューアルオープン。釣りとトレジャーハントを一緒に楽しめる、全天候型屋内施設。海水・淡水・カニ・ヤドカニなど、色々な魚釣りが楽しめる。海水魚は近くの寿司屋で調理してもらえる(別料金)小さい子供はヤドカニやカニ釣りが楽しめるのだと。料金表。原則はキャッチ&リリースであるようだ。「寒川水族館」にも立ち寄った。神奈川県内でも規模の大きい魚を含めたペットショップ。熱帯植物等も販売していた。様々な熱帯魚をしばし楽しむ。熱帯・観葉植物。この日の最後に訪ねたのが「倉見水神宮」。正面から。右側の石碑は草競馬の「名騎手 相模五郎」碑。更に近づいて。「倉見水神宮」。「水神宮(すいじんぐう)水神宮は水禍難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。」 ・・・つづく・・・
2022.06.29
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次今日はいよいよ「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の「その82」です。「輪光寺」の次に訪ねたのが「山王社(日枝神社)」。〒253-0084 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2228。「山王社(日枝神社(ひえじんじゃ))御祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)(山末之大主神)全国の日吉神社、日枝神社、松尾神社の主祭神で、古来日吉山王権現、江戸山王権現、山王権現、山王社などと称したものを明治元年(1868)に日枝神社と改められた。しかし今でも山王さんと親しまれている。圓蔵神明大神宮奥宮にある古器物に、紀元弐千五百三十二年(明治五壬申年秋九月) 天照皇大神 日枝大神 合社記されており、当地より神明大神宮に遷され祀られていたが町内守護神として昭和十九年七月鐘楼堂の建物と共にこの地に遷宮された。昭和四十七年二月竜巻により鐘楼堂は全壊し立替られ現在に至る。御祭神山王権現は安産子育縁結び等に霊験が深く、又酒を造ることが上手な神であった為、酒造業、酒店、酒飲業者から酒の神と敬われている。特に土木の知識にもすぐれているので、土木建築業者からも厚い信仰を受けている神です。尚、申(猿)を神使とすることで知られている。 元旦祭 一月一日 町内祭礼 三月三日 浜降祭 七月十五日 大 祭 九月十七日」「社殿新造、境内整備事業実行委員会」碑。「道祖神」碑。句碑。「春や春 岐路に立てども 和合神」「摂社 山王社」碑。手水場は使用禁止。「山王鳥居」とその先に「神猿像」そして「社殿」。「山王鳥居」は笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架したもの。日吉(ひえ)山王権現の鳥居から始まったという。「九重石塔」。「摂社 山王社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵字御屋敷2228番地 御祭神 大山昨命(山末之大主神) 境内地 二十三.五坪(神明大神宮飛地境内) 元旦祭 一月一日 例 祭 三月第一日曜日 神幸祭 九月第三日曜日山王さまの祭神大山昨命は、農業生産に欠かすことのできない山の自然と山につきものの水流とを司り給う神、ひいては万物を化育するムスビの霊徳を有せられる神である。山王社の神の使いは猿と云われ夫婦円満、殖産繁栄のご利益がある。特に女猿は安産、子育てに霊験があらたかだといわれている。当社の神猿像は東京都千代田区永田町田官弊大社日枝神社の許可を得て模造する。当社の創建は江戸時代で、本宮は旧官幣大社日吉大社東本宮懐島の御屋敷の辰巳(東南)に鎮座と安政六年(一八五九)の圓蔵村絵図に記されている。明治五年九月政府の一村一社令により圓蔵鎮守神明大神宮に合祀。昭和十九年七月神明大神宮の鐘楼堂を移設、社殿として再鎮座。昭和四十七年二月竜巻により倒壊、同年辻町氏子により再建。平成十八年十一月神明大神宮総氏子により、社殿新造、境内整備事業竣工。奉納 土垣・社号碑・神明燈籠・山王鳥居・神猿像・賽銭箱・手洗い水鉢・ 日吉大社遥拝所碑」山王社(日枝神社)の社殿には、ほかの神社と大きく違う特徴があった。それは、境内に狛犬ではなく「猿」が置かれているところ。 猿は御祭神の大山咋神の使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われている。その「まさる」という音から「勝る(まさる)」「魔が去る(まがさる)」とも考えられ、勝運の神や魔除けの神として置かれている。音読みの「えん」という音から、猿が「縁(えん)」を運んできてくれると考え、商売繁盛や縁結びの祈願を受けに来る方も多くいる。右には父親の神猿像。左には子供を抱いた母親の神猿像(まさるぞう)。猿は群れを大切にし、子宝に恵まれ安産であることから、「家内安全」や「子授け」「安産」を願い母猿を、そして「マサル」の語呂から「商売繁昌」「社運隆昌」「厄難消除」を願って父猿を撫でていく方が後を絶たないのだと。私も、「神猿(まさる)」の両方の頭を撫でさせて頂いたのであった。鳥居の先に「石碑」があった。その両脇に「道祖神」(左)と「子育石」(右)。「総本宮 日吉大社」。そして「社殿」。「山王社(日枝神社)」の前の路地の先に、「石祠」があった。歴史を感じさせる石祠が鎮座。「懐嶋郷本圓蔵辨財天」碑。「江戸時代の圓蔵村高札場跡 神幸祭御旅所」と。次に訪ねたのが某精機工場の裏手にある「オチョバンバ」。「現在この土地を所有する工場は土地を購入する際に敷地内に建てられていた「お千代」と言う名の老婆の慰霊碑について聞くと、疫病で亡くなったお千代さんを供養するための慰霊碑であり、遺体などは埋まってないことで土地を購入することにしたのだと。民話資料によると了覚寺の敷地にあったお堂に住み堂守りをしていたお千代さんは周りから「オチヨばんば」と呼ばれていた。お堂を守り続け年齢は100歳になり、この地に葬ってほしいと遺言を残し、亡くなった後に高橋文右エ門が代表者となり供養塔を建てたという。昔、子供がこの慰霊碑に触れマラリア系の病気に感染し亡くなったことで「祟りの慰霊碑」として言い伝えられ、心霊スポットに指定されているとのこと」であったがその姿は無かったのであった。何処に行ってしまったのであろうか。これを探したのであったが・・・、ネットより。 【https://anpanmann.amebaownd.com/posts/3580744/#&gid=1&pid=1】より諦めて帰路に。JR相模線沿いを歩く。右手には「鶴田第一踏切 1K960M」があった。「鶴田第二踏切」まで歩き、踏切を渡る。左手の社の中にあったのが2基の「石仏」。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目15。庚申塔(左・1686年)と観音菩薩(右・1755年)。さらに進むと、左手にあったのが「大山灯籠」と「道祖神」碑。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目11。「大山灯籠」の中には双体道祖神が。「茅ヶ崎中央通り」方向に向かってひたすら戻る。。右手奥にお伽の国の如き建物が現れた。「湘南やまゆり第二幼稚園」。「湘南やまゆり学園湘南やまゆり第ニ幼稚園横浜こども教育センター湘南やまゆり学園本部」と。ズームするとこの塔が幼稚園の入口門であるようだ。さらに歩きその先左手に折れた場所にあったのが「円蔵稲荷神社」。もっと大きな神社をイメージしていたが・・・。神奈川県茅ヶ崎市円蔵。「円蔵稲荷神社」の「社殿」。内陣を格子の隙間から。そして「茅ヶ崎中央通り」に出て左折し「円蔵」交差点のカーブに沿って左に進む。JR茅ヶ崎駅行きのバス停を探したが現れないのでGoogle Mapで確認するとに「茅ヶ崎中央通り」はバス通りになっておらず、先程の「円蔵」交差点を直進する「梅田通り」がバス通りになっていることに気がついたのであった。やむなくJR茅ヶ崎駅まで歩くことにする。「千ノ川」に架かる「新千ノ川橋」を渡り上流を見る。下流側には「イオン」の駐車場へのルートが見えた。右側に「神奈川県 茅ヶ崎警察署」。そして左側には「茅ヶ崎 中央公園(第一カッターきいろ公園)」。その先で道路を渡り「茅ヶ崎市役所前広場」へ。「茅ヶ崎市役所」。「茅ヶ崎市役所」を訪ねた。右手に「分庁舎」、正面に「本庁舎」。本庁舎入口へのコミュニケーションウォールには「茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞された皆様」👈リンクの紹介パネルがあった。野口聡一氏。「日本人5人目の宇宙飛行士として、スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、史上初めてとなる宇宙での機体補修をサポートしたほか、計3回におよぶ宇宙での船外活動を成功させました。茅ヶ崎とのゆかり 浜須賀小学校、浜須賀中学校、茅ヶ崎北陵高等学校を卒業されました。」原寸大人形の姿も。宇宙姿の野口聡一氏の写真がサイン入りで。「開高健」コーナー。「開高健 小説家1930年、大阪府天王寺区東平野町生まれる。1954年、壽屋(現・サントリーHD )に入社。宣伝部でコピーライターとして活躍。1974年、茅ヶ崎市東海岸南に仕事場が完成。それ以降、芥川賞選考委員を務め、『夏の闇』で「フィンランド文部大臣翻訳賞」、他作品で「川端康成文学賞」「菊池寛賞」を受賞。病床で書きつづった「珠玉」が最後の作品となり、1989年12月に死去翌年「開高健賞」が創設される。」1957年、ネズミの大繁殖とい-う巨大工ネルギーの奔出を描いた小説『パニック』を新日本文学に発表。一躍新人作家として注目され、翌年には大人社会と対峙する絵画教師を描いた『裸の王様』で「第38回芥川賞」を受賞。サントリー退職後、1964年、朝日新聞社臨時海外特派員として、ベトナム戦争の取材のため南ベトナムへ出発。この体験をもとにした「輝ける闇」で1968年、「毎日出版文化賞」を受賞」と。そして「本庁舎」館内へ。手前は「ビッグ アロハシャツ サイズは驚きの20XL!」と。「「茅ヶ崎アロバビズ」期間中にアロハシャツを着ることて工アコンの利用を控え、環境にやさしいまちを目指す取り組み。環境省が推進してきた「クールビズ」に先駆け、茅ヶ崎アロハ実行委員会が2003年から実施。茅ヶ崎ならではの過ごし方でまちに彩りと活気を。コロナ禍のなか、笑顔てがんばっている人がたくさんいます。茅ヶ崎に住んている人、働いている人、みんなが様々な色合いのアロハシャツを着ることで、まちの彩リと活気に繋がるきっかけになればと思います。」「鎌倉殿の13人」ポスター。「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地2 0 2 2年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」放送をきっかけに、鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか頼朝と茅ヶ崎鎌倉幕府は1192年※、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は、反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武上・大庭景能は頼朝に味方した。一方、弟・大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幅宮の造営など鎌倉幕府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京に上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い、落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。※諸説あり」「ゆかりの人物相関図」。「市役所本庁舎」のロビーで順番を待つ人々。「茅ヶ崎市役所 本庁舎。分庁舎」ガイダンスボード。「茅ヶ崎市市民憲章」と各種の「都市宣言書」。「茅ヶ崎市章は1957(昭和32)年10月1日、市制施行10周年を記念として制定されました。これは「チガサキ」の「チ」を図案化したもので、円形であるのは市の融和と団結をあらわし、また翼状平行線は市勢の飛躍と発展を象徴しています。市章は公募によって500余点のなかから佐賀県の方のデザインが採用されました。」と。「茅ヶ崎市役所本庁舎」を後にして「茅ヶ崎市役所前広場」を歩きJR茅ヶ崎駅に向かう。広場にあった像。裸婦像。平和の象徴の鳩が乗った茅ヶ崎市の市章を掲げ持つ。「茅ヶ崎市庁舎の落成にあたり白砂青松の地に人類の平和と市の発展を記念しこの像を建立する。 昭和四十八年六月」製作 日展審査員 中村青田 と。茅ヶ崎市役所庁舎を振り返る。そして左側には巨大な石灯籠が四基。四基の石燈籠は高さが2m以上はある大きな石灯籠。「旧寛永寺石灯籠 四基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 (大八木信昭・信義氏寄贈)東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。これらの銘文から、二番目の燈籠は「嚴有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。」徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていた。それが茅ヶ崎市内に6基移されている。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものである と。右から「奉獻武州 石燈籠 兩基東叡山 尊前天明六丙午年九月八日從五位下甲斐守大江朝臣毛利氏匡芳」奉獻上 石燈籠 一基東叡山嚴有院殿 尊前延寳九年五月八日從五位下信濃守丹治姓大関氏増榮」「奉獻 石燈籠 兩基東叡山浚明院殿 尊前天明六牛丙年九月八日稲葉能登守越智弘通」「奉獻石燈籠兩基武州東叡山浚明院殿 尊前天明六年丙午 九月八日松平伊賀守源忠済」「茅ヶ崎駅前」交差点の地下道を利用する。そしてJR茅ヶ崎駅北口ペデストリアンデッキを歩きJR茅ヶ崎駅に到着。そして2022年3月6日(日)から5回に渡る「茅ヶ崎市の寺社旧跡を巡る」を、この日5月6日(金)に完了したのであった。そして私の『復習の場』として、ブログを82回に分けてアップして来たのであった。【追記】その後、茅ヶ崎市汐見台地区の漏れていた場所を3回に渡ってアップしたのであった。茅ヶ崎市の主要寺院・神社をリストアップ(順不同)して見ました。🔔神奈川県茅ヶ崎市の寺院一覧真言宗了覚院👈リンク 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170長福寺 神奈川県茅ヶ崎市松林3-11-52廣徳寺 神奈川県茅ヶ崎市小和田1-17-5千手院 神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4成就院 神奈川県茅ヶ崎市甘沼473善福寺 神奈川県茅ヶ崎市柳島1-3-28満福寺 神奈川県茅ヶ崎市萩園1632圓蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市十間坂1-3-39金剛院 神奈川県茅ヶ崎市南湖1-2-11輪光寺 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2238寶生寺 神奈川県茅ヶ崎市西久保546長善寺 神奈川県茅ヶ崎市矢畑150宗泉寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085善性寺 神奈川県茅ヶ崎市松尾3-22浄土宗 / 浄土系宗派浄見寺 神奈川県茅ヶ崎市堤4317来迎寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291西光寺 浄土宗神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3222梅雲寺 神奈川県茅ヶ崎市下町屋2-14-15浄林寺 神奈川県茅ヶ崎市中島1052西運寺 神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-34浄土真宗来恩寺 神奈川県茅ヶ崎市今宿1-1曹洞宗正覚院 神奈川県茅ヶ崎市堤3681善谷寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137宝積寺 神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3042永昌寺 神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15-44海前寺 神奈川県茅ヶ崎市本村4-21-34玉林寺 神奈川県茅ヶ崎市甘沼214白峰寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551玄珊寺 神奈川県茅ヶ崎市香川1565龍前院 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷356宝蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市行谷318日蓮宗 / 法華系宗派唱導寺 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷401蓮妙寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472妙伝寺 神奈川県茅ヶ崎市堤1032本在寺 神奈川県茅ヶ崎市高田1-7-38妙行寺 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神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10−44鶴嶺八幡宮 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷赤松稲荷神社 神奈川県茅ヶ崎市赤松町3−1金森稲荷神社 神奈川県茅ヶ崎市本宿町4新田八幡宮 神奈川県茅ヶ崎市平太夫新田78第六天社 神奈川県茅ヶ崎市萩園1228豊受稲荷社 神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66姥母神社 神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンク、そして今回の『茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る』を完了し、残りは「寒川町」を残すのみとなったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「輪光寺」の散策を続ける。「本堂」 天慶山 地藏院 輪光寺 宗派 高野山 真言宗 開山 天快 創建 康永元年(1342) 本尊 運慶作と伝える地蔵菩薩 札所 相模国準四国八十八ヶ所 第19番 御詠歌 「良き種をまきし実りやうつせみの 身も世も安き円蔵じかな」 札所 相模国高座郡南部地蔵二十四札所 第5番 御詠歌 「むつのりの 光りを杖に 六つの道 迷はで西の 空に行かまし」」 本堂前の「梵音海潮音」と刻まれた鐘。「鐘」をズームして。龍の彫刻。扁額「輪光寺」。龍は玉眼?木鼻(右)。木鼻(左)。賽銭箱の横にはメッセージが。本堂前には「不動明王参観ご自由に」の貼り紙があり本堂内へ。手前に鎮座する小さな仏像。近づいて。右側には「不動明王像」と「弘法大師画像」が。この「不動明王像」は、ここ「輪光寺」の関光典(こうてん)住職(73)が、約5年の歳月をかけて一人で手作りした漆塗りの不動明王座像が昨年5月に完成。5月21日(金)には開眼供養が執り行われ、護摩壇に祀られたのだと。台座から炎の光背を含め約180cmの高さがあると。お顔をズームして。「弘法大師画像」。本堂の立派な祭壇を斜めから。祭壇の左側の控間の入口。「平常心是道(びょうじょうしんこれどう・へいじょうしんぜどう)」と。修行とは決して特別な人が特別なことをすることではなく、誰もが平凡な毎日を過ごす中で、その時その時の一つ一つに心を尽くして丁寧に取り組むこと と。この仏具の飾りは何と呼ぶものだろうか?学友から仏具飾り「華鬘(けまん)」と言うのだと。そして「関光典住職」👈リンクが約5年の歳月をかけて一人で手作りした漆塗りの「不動明王」の「製作工程写真」が展示されていた。「不動明王製作工程写真 写真提供 岩崎孝夫 殿」5年の間、檀家の岩崎孝夫さんが制作過程を写真に収めたのだと。「胎内仏と仏舎利」。「本堂」から境内を見る。茅ヶ崎発祥の昔話として有名な「河童徳利」👈リンク。その河童徳利にゆかりのある寺として知られる、ここ円蔵の輪光寺。「本堂」前の巨大な甕には滑稽な姿の河童像2体があった。住職の関光典氏がデザインし山形県羽黒町の陶芸家江川満氏が製作したものであると。湯浴みを楽しんでいるが如き姿で。また、河童にちなんだ伝説がほかにもあると。「男が川でウナギを捕まえて食べてたところ、そのウナギが河童の友達でした。河童につかまった男が尻子玉を抜かれそうになったのですが、平謝りしお詫びに酒をたんまり渡しました。河童はそれで酒盛りを始めたのですが、河で飲んでいたので酒が河に流れ辺りが酒の香りでいっぱいになりました。それで、この辺りの地名が酒が香る川で「香川」というようになり、河にいた子供の河童が酔っ払って流されていきました。それで、油断すると河童でも河に流されるという「河童の川流れ」ということわざができた。」と言う話。境内にあった句碑。「うたかたを 川の精霊(すだま)に 獺祭(おそまつり) 九一」と、これも学友から。「川の精霊」は河童のことであろう。ちなみに獺祭とは川獺(かわうそ)が魚を岸に並べることから春に使う季語であると。この銘酒の名前にも使われている季語が、見事な一句として読まれているのであった。裏面には「河童徳利の碑二百余年の昔、西久保間門川で同村の五島兵衛さん(三堀)が助けてやった河童からお礼に貰った徳利 底をたたかなければ永久に酒が出るといわれた江戸時代以来全国的に有名な伝説の徳利がその後行方不明となり横浜、千頭(静岡県)と転転していたのを直系円蔵小室由氏妻せきさんが千頭移住の姉ウタさんから譲り受けられ昭和四十二年九月六日六十数年ぶりで再び茅ヶ崎へ戻って来た。記念の為めに建てた此の碑は県下に於いても極めて異色ある存在となるであろう」と。「地蔵菩薩像」。右手に錫杖、左手に宝珠が。御真言「おんかかひ さんま えいそわか」。こちらは「水子地蔵尊」。「有縁無縁一切諸精霊」と台座に。墓地の奥には「山王社」と書かれた案内板があった。「山王社山王権現社當寺三世法印隆善大和尚之墓源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔」「山王塚」「山王塚由来輪光寺出土の蔵骨器(平安時代末期) 當寺本堂裏手に鍵の手に連なる竹藪があり、本堂に近い約五米の個所は、古くから立入 れば崇りを受けると言われていた。墓地の拡張の為、この薮を取払う事となり一端から 伐除して前記の個所に及んだところ、蔵骨器を発見し作業は中止されるに至った。恐ら くかつての墓域を限った記憶だけは、禁忌の場所だけは禁忌の場所として、失われなか ったものであろう。 発見の際は正位に埋納された蔵骨器の周囲を礎石で固めてあったと云う。 本蔵骨器は備前焼系の素焼土器で、須恵質の蓋を伴っている。蔵骨器の底の方に十糎ほ ど土砂まじりの骨粉があったと云う。火葬骨は現位置に埋納する。源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔 承元四年(1210)四月九日卆五輪塔 空輪・風輪・火輪(鎌倉時代) 水輪・地輪 (平成時代)無縫塔當寺三世 法印隆善大和尚之墓 永正元年(1504)十月山王権現社 祭神 大山昨命 山王総本宮日吉大社東本宮(滋賀県大津市坂本) 千時寛文十二年(1672)敬白王子三月吉祥日朝宥神使一猿像 寛文十二年」「懐嶋平権守景能入道供養塔」、「五輪塔」。そして「輪光寺」を後にして次の目的地に向かうと、民家の庭にはクレマチスの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.27
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次所狭しと境内に石碑・石像が並んでいた「神明大神宮」を訪ねた後は、ポツンと「本堂」と墓石群が並ぶ「了覚院」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170。トタン屋根の上に宝珠(ほうじゅ)を載せた小さな「本堂」。ネットによると「昭和20年以降無住寺となり廃寺になっていて空き地の中に小さな堂と位牌型墓碑が二基。一つには「太田善太夫吉次之墓」吉次は家光に仕え2260石、御先手弓頭などを務め延宝八(1680)年相模国高座郡円蔵村に葬られたとある。江戸時代初期、円蔵村は旗本三家の分給支給地で大田家はその一つ。」と。「本堂」の隣には墓石群が。「高野山真言宗 輪光寺末寺了覚院 御本尊 阿弥陀如来像江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石(総知行高は二千二百六十石)太田善太夫吉次が菩提の為に元和五年(一六一九)に創建。吉次は法名を了覚院と云。延宝八年(一六八〇)没。太田氏一族及歴代僧侶之墓」大きな墓石が二基。右が「太田善太夫吉次之墓」。左が「◯住院殿◯義空了禪居士正定聚位」「正定聚(しょうじょうじゅ)」とは必ず仏となることの決まった聖者。不退転の菩薩たち。真宗では、他力真実の信心を得た者 をいうのだと。「三十三度」碑。正面 : 淺草観世音 相州圓蔵邑 三十三度 大山不動尊 行者了察右 : 寛政七乙卯暦左 : 十一月日造立之大山不動尊に三十三回登拝した記念にたてられた石碑なのであろうか。ここにも「茅ヶ崎市広報板」が。そして「了覚院」の後方に同様の「御堂」が見えたので訪ねてみた。「円蔵祇園社」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2163-2御堂を正面から。「了覚院」の御堂の一つであったのだろうか。小さな社も横に。道祖神であったのだろうか。注連縄が奉納されていた。寺院の御堂のようであったが。御堂の前から「了覚院」を見る。この畑の場所は、「了覚院」の境内であったのだろうか。そして次に訪ねたのが5分ほどの場所にあった「輪光寺」。「高野山真言宗天慶山輪光寺」。掲示板。二宮尊徳の少年時代(金次郎)の像。境内左側には「庚申塔・石碑群」が。近づいて。「輪光寺の庚申塔(こうしんとう)昭和四十四年八月十五日茅ヶ崎市指定重要文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は寛永十七年(一六四〇)の年号が刻まれ市内に所在する九十基余りの庚申塔の中で最も古いものである。舟形光背で、頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされている。このような形は同時期のものに他に類例を見ず塔の移り変わりからはやや異質であるが、年号からは全国的にも古い三猿塔である。」上記案内板の「庚申塔」はこれであろう。舟形光背型庚申塔寛永17年(1640)5月ケン?・バン・バン(梵字)・三猿正面右側「當六具供養勧功徳伴成佛 寛永拾七年 庚」 〃左側「辰 五月吉日 相州宅良郡圓像人殺嶋村天□岩戸久右衛門 」「人殺」は「人殿」????頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされていた。唐破風笠付角柱型庚申塔元文4年(1739)9月月日(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「元文四己未年」・5人の名左側面「九月吉祥日」・5人の名「廿三夜供𫝥塔」。以下、六地蔵を右から。「栖蓮院殿俊譽妙順大姉 霊位 亨保十五戌天(1730)十二月上十日」。右手に錫杖、左手に宝珠(欠損)を持っ。年銘は没年日と思われる。「華香院殿夏屋清月信女 寛文十年戌四月十一日」両手で香炉を持っ。年銘は没年日と思われる。「智教院隋譽清順大姉 元文三午天八月十四日」「一乗院妙喜日理 正徳二壬辰天四月十五日」と。「雲庵心晴信女 寛文十一年亥十二月廿四日」と。「随源院順譽教哲居士 元文五申年十月廿九日」と。「弘法大師修行像」。「弘法大師修行像」碑。「大師堂」。「弘法大師像」。「本堂」前の石庭。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.26
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そして近くにある「第ニはす池」に向かう。「マツバギク」の花も満開。そして「第二はす池」に到着。「皆様へこの公園付近一帯は、昔鵠沼の地名の由来と言われる「沼」が七つもあったそうです。しかし時代と共に埋められ、残された池はこの三つの「ハス池」だけとなりました。そのような貴重な場所を残そうと、住民が運動を起こし、長い間の努力が実って、現在の公園になりました。住宅地の中にあって釣りができ、自然が楽しめる公園は数少ないと思います。◯いつまでも全ての人々が安心して憩える楽しい公園である為に 次のことを守りましよう。1.ルアーでの釣りは危険ですので禁止です。2.釣り糸、ゴミは捨てずに必ず持ち帰りましょう。3.やたらに魚(コイ・プラックバスなど)を放流すると、生態系が崩れ絶滅する生物もいます ので、やめましよう。」こちらは「誠蓮(まことばす)」であると。福岡県の佐藤誠氏が食用蓮「備中」から作った品種で、「福岡八重蓮」とも呼ばれていると。お盆の切り花としてよく栽培されているのだと。しかし、今年も花数はかなり少なかったがこれからか?「誠蓮」は濃桃色の花弁は140枚前後、時に160枚ほどにもなる非常に豪華な八重咲き花。カワセミを撮しに来られたのであろうが、この時は・・・・。大きな鯉が悠々と。カモ(鴨)のツガイが仲良く早朝散歩中であった。そして葉の表面に浮かぶ水滴を追う。ハスの英名はLotus(ロータス)。ハスの葉に水滴が落ちると表面張力で水滴が丸く固まったり、葉の上から転がり落ちる様子を見かけることがあります。 この様に、水をはじくという特性を撥水性といいます。そして、この撥水性の効果をロータス効果と呼ぶのです。ハスの葉には超撥水性があるので、雨が降っても水滴は水玉となって転がっていきます。その時、葉の表面のほこりや小さな虫も一緒に転がします。 そしてハスの葉全体を掃除してくれるのです。この自浄効果があることで、ハスの葉は表面をいつもきれいな状態に保ち、汚れがないのである と。ハスの地下茎は蓮根(レンコン)。蓮根の中は空洞がある。 ハスの葉は、一番低い真ん中に水玉がたまる。その下に茎があり水玉を落とし込む仕掛けが出来ているのだ。養分・水分・水に含まれた空気が地下茎の蓮根まで運ぶ仕組みが出来上がっているのだと。 この管が詰まると閉塞し機能しません。ですから茎の管は4本だが地下茎の管は9本あるのだと。どこかの管が詰まっても他の管で頑張れるのだと。 この穴の構造と仕組みを作り上げたからこそ現在のハスが凛としてあるのだと。ハスの葉の葉脈が放射状に伸びて。そして「柳小路駅」まで戻り江ノ電で「藤沢駅」、JR東海道線で「茅ヶ崎駅」、JR相模線で「宮山駅」まで向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.25
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「神明大神宮」の散策を続ける。拝殿の左側にあった案内板。案内板に従い「拝殿」の横から奥に進む。正面奥に、「慰霊」碑、手前に、「鶴岡八幡宮景能祭」碑があった。「鶴岡八幡宮景能祭」碑。「景能祭」は、2003年(平成15年)から行われている神事であると。「懐嶋郷 景能祭」碑の「景能祭」は鎌倉の鶴岡八幡宮宮司・吉田茂穂氏の揮毫。「慰霊碑」。前面に日清戦争から第二次世界大戦で亡くなられた英霊32名の名前が刻まれている。明治二十八年四月 ~ 昭和二十三年二月裏面には、過去百年をさかのぼるまでもなく、われわれは幾多の戦争を経て来た。今日の繁栄はこれらの戦争と無縁なものではない。深く戦争の辛酸をなめてきたからこそ平和への堅い信念はゆるごうとしないでのである。ここに日清日露戦争日華事変太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く区民の浄財により慰霊の碑を建立し英名を刻して後世に伝え、永く祭祀の誠をいたさんとする。「懐嶋館土塁址 基底幅 二・五 M 高 サ 一・五 M」「山王権現社」の石鳥居。「山王権現社 御祭神大山咋命元禄十四年(1701)十二月大吉日 相州大圓蔵村氏子創建鶴田町の小室勇氏所有地に三〇七年間鎮座 文化財保護の為、当境内を社地と定め遷移」「山王権現社」の社殿は石造り。「懐嶋平権守景能公年譜保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。 保元物治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。 源平盛衰記 八月廿日 頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。 吾妻鏡 八月廿日 弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。 源平盛衰記 八月廿四日 頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。 吾妻鏡 十月九日 景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。 十月十一日 景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える 十月十二日 景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。 十月十五日 頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。 十月十七日 景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。 十月廿三日 景能、頼朝より懐島郷を安堵される。 十月廿三日 景能、囚人の河村義秀を預かる。 十一月廿日 景能、頼朝に有常の免罪を願う。 十二月十二日 頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。治承五年一月一日(1181) 頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。 ・・・・・中略・・・・・建久六年三月十日(1195) 頼朝の上洛に随行する。正治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。建仁元年三月十日(1201) 景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。承元四年四月九日(1210) 景能、死去する。建暦三年五月二日(1213) 景兼、和田の乱に加勢し敗死する。 五月九日 二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。」「享和年間 懐嶋館出土礎石」と。「懐嶋館址」関連の石碑、石像が所狭しと並んでいた。「懐嶋館址」碑。「懐嶋平権守景能公像」。「懐嶋平権守景能公」碑。お顔をズームして。「南無妙法蓮華経 大庭景能入道霊」碑。「懐嶋館とは、八百年前、懐嶋景能が・・・構えた屋敷である。源頼朝の信頼が厚く、終生身近に仕えた。この館は所領である懐島郷の・・・・・」「懐嶋平権守景能公没八百年祭 承元四年四月九日」「源頼朝、奥州征伐につき景能に意見を聞く大庭平太景能は武家の故老たり。兵法の故實を存ずるの間、故にもってこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合はせられて日はく、この事天聴を窮ふのところ、今に勅許なし。なまじひに御家人を召し聚む、これをなすこと如何に計らひ申すべし。てへれば、景能思案に及ばず申しで云はく。軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるる上は、強ちに其の左右を待たしめたまふべからず。随って泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。論旨を下されずといへども、治罰を加へたまはんこと何事か有らんや。就中に群参の軍士、数日を費すの條、かへって人の煩ひなり。早く発向せしめたまふべし。てへれば、申状すこぶる御感あり。あまつさへ御厩の御馬を賜はる。吾妻鏡 文治五年六月三十日」「八一〇余年前のことです。源頼朝は、命令に従わない奥州の藤原泰衡を討つために、多数の軍勢を集めて、後鳥羽天皇からの出陣許可を待っていました。しかし、なかなか許可が下りません。困った頼朝は、兵法にくわしい景能(かげよし)を呼んで意見を尋ねました。「泰衡はあなたの部下です。部下をこらしめるのに天皇の許可はいりません。直ちに進発なされるがよい」と。なるほどと決心のついた頼朝はたいへん喜び、景能に馬一頭をさずけて感謝しました。」「懐島ゆかりの五輪塔」。「懐島ゆかりの五輪塔」碑。「供養碑の由来高橋庄平家、屋敷内に大正十五年十月九日に建立された供養碑は、高橋藤吉氏が眼を病ってから或る夜、大庭景能が夢枕にたち、自分の供養碑の建立を懇願され、眼の完治を約束した。兄、高橋豊蔵氏と共に懐嶋館の西方内堀北側に供養碑を建立すると忽ち、眼は治癒し効果が現れ、平成十六年十一月二十一日境内に移された。尚、五輪の塔はその時、内堀から出土したものである。大庭平太景能公は、源義朝に従い保元の乱に参戦し、鎮西八郎為朝の強弓を受け膝を負傷した。為朝は射外した口惜しさを、自分の矢が外れたのは不思議だ。日本中で「運」のよい武士を探しても大庭景能ほどの者はいないであろう。「保元物語」」さらに石碑が続く。「奉載景能ゆかりの鶴岡八幡宮源平池、鎌倉懐嶋平権守景能邸跡、大庭小次郎景兼ゆかりの和田塚、三ヶ所の土を戴き、鶴岡八幡宮若宮において、お祓いを受けて層塔内に納め、おまつりしています。」五重石塔。「顕彰碑鎌倉権五郎景正の代々の子孫は広く相模の各地に土着して開発を進め、それぞれが有力な武士団となった。わが懐嶋郷は東の赤羽根川から小出川にまたがる広い地域であって、そこは古くから大庭御厨として開発が進められた土地でもあった。やがて景能は、主君の源頼朝から懐嶋郷の領主と認められ、しかも信頼できる部下として、何事にも重用された。頼朝が上京の際には、懐嶋館に宿泊したのも、主従の絆の堅さを語っている。さらに景能は鎌倉の街の整備、ついで鶴岡八幡宮や若宮の造営、および頼朝邸の建築を任されるなどは、極めて厚い信任によるものであった。それらの工事にあたっては多くの村人らを同伴して、手堅い仕事ぶりを披露していた。建久二年、景能は鶴嶺八幡宮の境内、社殿の大造営を行って面目を一新した。鶴岡八幡宮とは神官僧侶をはじめ、人々を頼りに往来し、鎌倉との文化交流はますます深まった。同時に、懐嶋郷の存在は広く曲間に知れ渡っていった。一方、鶴嶺八幡宮前を鎌倉へ通ずる鎌倉街道は、上方と鎌倉を結ぶ軍事上の要路であって、景能には警備の大任がひそかに課せられていた。かくて景能は、終生鎌倉開府の裏方として志誠を尽くしたが、武士の勢力争いの激しい時勢のために、やがて孤独に立たされてしまったのは、余りにも寂しい晩年であった。まして、息子の景兼が和田の乱にまき込まれて敗北し、ついに懐嶋氏は滅亡の悲運に終わった。それゆえに、父子の墓さえ明らかではない。ここに有志一同はそこはかとない郷愁にかられ、八百余年前の景能、景兼ら一族がふるさとに遺した偉業を景仰し層塔を供え、併せて建碑して後世に問うものである。」石灯籠。石灯籠を別の場所から再び見上げて。「懐嶋平権守景能公没七九五年祭今は昔、風の音も遠い鎌倉の御代に懐嶋の郷を治めて、偉大なる功績を残した懐嶋権守平景能を称え、年毎に「景能祭」の祭儀を斎行することと定める。尚、ここに記念の碑を建立して、ゆかりある鶴岡八幡宮宮司𠮷田茂穂氏に「景能祭」の揮毫を受けた。」「第六十二回神宮式年遷宮茅ヶ崎市神社総代会お白石持行事業曳団参加記念」碑。「掲示板」。「天照皇大神宮」。石の社を正面から。側面には、「宝暦十三癸未歳 林鐘吉且」と。「本殿」の横にも石祠(山王権現社)と石灯籠が。「石祠は平成二十年の暮れまでは円蔵二丁目九番の一画にあったが、新たに移転させられたもの。大きさは基礎を含まない屋根までの高さ七四センチ、屋根の幅六〇センチ、石祠の幅四五センチ、屋根の奥行き五八センチである。銘は石祠の右側面に「山王権現社」 、石祠正面の上部に山王二十一社の種子が最初の一文字(バク)を除く前半十文字(バイからバイ)が刻まれている。また、年号銘は石祠の左側面に「元禄拾□□十二月大吉日」とある。 「元禄拾」までははっきりしている。その下の一文字は 「二」か「四」で、 さらにその下の一文字は 「巳」(み) か「己」(つちのと)と読める。屋根の右側面には 「□□四□/□月吉日」とあり、これはかすかに「慶應四年/六月吉日」と読める。」とネットより。「山王権現社 御祭神 大物主命 滋賀県大津市坂本本町山王総本宮 日吉大社西本宮より分霊を勧請 元禄十四年十二月吉日建之の旧祠が破損し、平成二十五年十二月吉日に改修。」「周遊マップ」。「拝殿」横から境内を見る。再び「神輿殿」。道路沿いには石灯籠が並ぶ。そして、石鳥居と向かい合うように建っていた建物は「神明大神宮」の倉庫であろうか。その裏にあったのが「懐嶋権現社」。鳥居の先に社殿。鳥居の扁額は「懐嶋権現」。内陣。社殿の扁額は「懐嶋権現社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.25
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この日は6月20日(月)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の最終回に向かう。「鵠沼」にある「はす池」が開花を初めているとのネット情報から最初に立ち寄るこことする。「江ノ電 藤沢駅」に向かう。改札口。「江ノ電普通運賃表」。江の島電鉄とは鎌倉駅と藤沢駅の約10kmを結ぶ小さな路線で、江ノ電という名で親しまれている。だいたい1時間に5本程度、つまり12~15分に1本の割合で電車に乗ることができるのだ。下の写真には左手の、終点の鎌倉駅が写っていないが。藤沢駅~鎌倉駅まで15駅。腰越駅の先から稲村ヶ崎の手前まで海岸線を走る(―)人気の路線。早朝6:12発の電車を利用。ホーム正面には「花時計」が。「花時計」に上には江ノ島、相模湾、富士山の夕景写真が。乗車する二両編成の電車が藤沢駅に入線。既に表示等は「鎌倉」に変わっていた。そしてこの日は、藤沢駅から約3分で柳小路駅到着、下車して「第一はす池」に向かったのであった。藤沢市鵠沼藤が谷4丁目の早朝の住宅街を進む。徒歩で5分ほどで「第一はす池」に到着。一面に白い蓮花が咲き初めていた。満開には少し早いようであった。藤沢市鵠沼藤が谷4丁目4。7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日も来月7月。昨年は自宅から車で訪ねたのだが今年は電車で。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを以前知ったのです。鵠沼藤が谷のここ第1蓮池の蓮は、「舞妃蓮(マイヒレン)」という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮とのこと。カモ(鴨)の巣が近くにあるのだろう。まだまだ蕾が多い場所もあった。「鵠沼のはす池と蓮について昔、境川が蛇行して流れていた際、洪水で川の流れが変わり、鵠沼の低地に幾つもの池や沼が残りました。それらの池には冬になると鵠(うぐい、白鳥)が飛来していたことから、鵠沼いう地名の由来になったとされてます。それらの名残のはす池は7つあったとされていますが、周辺開発と共に埋め立てられ、現在は第一はす池と第ニはす池の2つとなりました。第ニはす池周辺は昭和62年に桜小路公園として整備され、小田原城や鶴ヶ岡八幡宮より蓮を株分けしてもらい移植しましたが根づかず、平成4年に京都より誠蓮(まことばす)を移植し、植え付けに成功しました。第一はす池には昭和30年代前半まで白っぽい花の咲く蓮があったそうですが、ゴミの不法投棄や冬場の渇水で、いつの間にか枯れてなくなってしまいました。その後、鵠沼女子校(現鵠沼高校)が第一はす池一帯をグランド化する計画を発表しましたが、地域住民が池の存続を求めた結果、高校は池を残し、藤沢市に貸し出し管理をゆだねる事となりました。その際、第一はす池は造園しなおされ、ヨシやガマなどが水辺に植えられました。平成20年、第一はす池と第ニはす池に、特定外来種アゾラ・クリスタータ(水生シダ植物)が大繁殖し、赤い浮草は水面を覆いつくし、池の生き物の生態系を脅かす事となり、地域のボランティアが6年掛かりで駆除活動を行いました。浮草を全て取り除くには、障害となるガマやヨシ、枯れ蓮や雑草を刈り取る必要があり、第ニはす池については、作業により池の中央部のヨシが枯れ、誠蓮の領域が広がり、毎年多くの紅色の蓮の花が咲くようになりました。一方で、第一はす池にも蓮を復活させようと、赤い浮草がなくなった平成26年春に舞妃蓮(まいひれん)という品種を6ヶ所に植え付けましたが、殆どの蓮根は腐ってしまい、唯一タライの中に植えた2つ蓮根から3輸の花を咲かせる事ができました。翌年の春、タライの中で蜷局(とぐろ)状になった舞妃蓮の地下茎を第一はす池の泥に直植えすると、半年で91輸の花が咲き、念願の植え付けに成功しました。開花数は毎年30倍ずつ増え、昨年は3ヶ月間に約2700輪が開花し、ビーク時( 6 / 20前後)は数百輸の大輪が一斉に開き、名実ともに「はす池」となりました。」この案内板もそろそろ更新が必要。「舞妃蓮(マイヒレン)」案内。「舞妃蓮 マイヒレン (黄紅系一重大型)第一ハス池に咲く花は、昭和41年( 1966年)、阪本祐ニ氏がアメリカの黄蓮系「王子蓮」と日本の紅蓮系「大賀蓮」とを交配し、育て開花させた蓮の花です。昭和43年( 1968年)の春に蓮根が現在の天皇皇后両陛下に献上され、その夏に東宮御所で開花しました。昭和44年(1969年)、花の開閉があたかも女性の舞い姿のようであったことから、阪本祐ニ氏により「舞妃蓮」と名付けられました。別紙の写真は、「舞妃蓮」の花芽が水面に出てから開花し、閉じてゆく様子と時間です。 (撮影後藤妙子さん)」・花芽が水面に顔を出しました。 花芽が出てから、約3週間で開花を迎えます、但し、外気温、日照時間などに左右されます ので、3週間は日安です・開花一日目は、花弁が短く、お行儀良く並んでいます。閉じる時間も早くて、お昼までには 閉じてしまいます。・開花二日目になると花弁が伸びて、将に舞っている姿が見られます。 一般的に花蓮の品種比較に使用される花の大きさや形は、開花二日目の午前8時頃を 比較の対象とします。・開花三日目になると、花托の周囲を取り囲んでいる雄蕊(おしべ)が乱れます。 見た目にも美しさが失われてきます。・舞妃蓮の閉じる姿 一日目の午前11時半頃 二日目の午前11時半頃 二日目の午後四時頃花色は初日は淡い黄色で、全体に淡い紅色が乗り、赤、黄とも日を追うごとに退色していき、二日目以降、淡い黄色の爪紅状になる。屈光性のため、花弁がやや捩れる傾向があり、風に舞うように見える事から舞妃蓮の名が付いたと言われているのは上述どおり。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化すると。開花直後の花。花片下部は薄い黄色に。展望台も出来ていた。花のエピローグに。ハナショウブ(花菖蒲)の花が一輪。ズームして。再び「舞妃蓮」をカメラで追う。ハスの花はよく見ると不思議な構造をしている。花の中心に、ろうと状の構造物がにょきっと突き出し、その周りをたくさんの雄しべが取り囲んでいるのだ。そして花びらを完全に失い・・・。写真の如く果期になると花床が肥大して子房の周りは大きな穴になり、蜂の巣状に見える。ここからハスの古名「蜂巣(はちす)」が生まれ、それが略されたのがハスの名の由来といわれる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.24
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「円蔵神明大神宮」前に到着。正面に石鳥居、その奥に「拝殿」。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2282。「懐嶋郷圓蔵鎮座 神明大神宮」碑。裏面には「鎮座八百三十年承安年中記念 平成十三年七月吉日建立」と。狛犬(右)。狛犬(左)。「神明大神宮境内案内図」。右手に「手水舎」。「手水舎」の手前右側にあったのが「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「旧鐘樓礎石」。御神木の銀杏。廻り込んで。垂乳根(たらちね)が下がる大銀杏。「いちょう 昭和三年十一月十日 昭和天皇御即位記念樹」と刻まれた石碑。「神明大神宮社誌」右側には「懐嶋郷発祥の地」。「神明大神宮附近の懐嶋郷の地形図の復元」。「懐嶋郷の景観(大山道より)」。「懐嶋郷の景観(昭和30年代)」。「小室又兵衛が記した円蔵村絵図」。左側に「浜降祭今昔」。「浜降祭参加後境内にて 昭和22年7月15日」「南湖通り 浜祭場へ向かう 昭和29年7月15日」「浜祭場にて 平成21年7月海の日」。「神明大神宮浜降祭初めての供奉届来ル7月1 5日、寒川神社修行之節、私村方大神宮神輿同社同道浜降祭渡幸猶 寒川神社迄奉仕候間此段御届申上候也 明治1◯年7月8日 高座郡圓蔵邑明治14年~25年迄 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年 21年 22年 23年 24年 25年南湖浜列順 7番 6番 6番 6番 4番 5番 5番 5番 5番 5番 4番 6番寒川神社 6番 5番 5番 5番 3番 4番 4番 4番 4番 4番 3番 4番 列順 寒川神社浜降祭 出輿回数 明治時代 15回 大正時代 12回 昭和時代 54回 平成21年迄 21回 鶴嶺八幡宮浜降祭(茅ヶ崎の神社だけ) 明治27年~42年 出輿 数回」「圓蔵甚句セェー さあさ皆様 アイヨー 担ごうじゃないか 同じ神輿を担ぐなら 相州相模は圓蔵の 神明神社の大神輿 あばれ神輿と人は言う 祭り囃子の、そのなかで ゑ組の大紋、背につけて 大山下しの風受けりゃ 担ぐ神輿も荒くなり 度胸千両の勇み肌セェー 茅ヶ崎名所は アイヨー 茅ヶ崎名所は、左富士 上り下りの東海道 そこに、い出たる圓蔵の 懐嶋は景能公 神明神社は館跡 武士どものエー 声がする 」「神明大神宮社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵守御屋敷二二八二番地 御祭神 大日孁命(天照大神) 境内地 二百二十五坪相模国高座郡圓蔵村 村誌昔から高座郡に属しています。懐嶋郷は平安時代の百科事典『和名抄』には大島と記されており、鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鑑』には建久元年(1190)十月の頃に相模国懐嶋としてその名がみえる懐嶋郷の圓蔵村こそ私たちの村です。懐嶋郷の西側を沼地(今では水田になっている)が取り囲んでおり、その中央の高所にあるのでそこが懐嶋と呼ばれたのかもしれません。懐嶋権頭平景能の屋敷跡が村の中央の高い所にあるのがその証拠です。圓蔵村の由来は不詳であり、旧大庭の庄の一部であったものが、大庭の名を取り、圓蔵村の名を使っています。村の西南に位置する浜之郷と呼ばれていたところを、明治元年に分けて村にして、浜之郷と呼んでいます。同じ高座郡の茅ヶ崎村にある円蔵寺の記録には、室町時代の永正年間(1504~1520)までは現在の矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村の全てが相模国高座郡大庭庄懐嶋郷圓蔵村と呼ばれて今、浜之郷にある鶴嶺八幡宮を全体の鎮守としてお祭りしていました。お宮に付属する別当寺も幾つかありましたが、矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村に分離してゆくなかで、別当寺も各村に属するようになりました。各々の寺の名前を名乗っています。圓蔵村は昔からの村の名を継いだので、円蔵寺というようになったとか言い伝えがあります。神明大神社延喜式という平安時代の法令に記載された特に古い神社ではありませんが、神社としての規模は、東西に十五間三分、南北に十三間五分で面積は二百六坪、村の西に属する字御屋敷に位置します。大日孁命(天照大神)を祭神とし、創建された年月日は不詳です。里の言い伝えには、承安年間(1171~1174)に懐嶋権頭平景能(大庭平太のこと)がこの地に住んでこのお宮を創建したという。広さは社地として東西六十間南北三十間、面積が千八百坪といわれてきたが、享和年間(1801~1803)に村の領主の一人 旗本の大田善太夫がお宮の周囲を開墾したという。天和元年(1681)から天保六年(1835)に至る社殿造営の棟札四枚が伝わる。明治六年村社に列せられる。明治十三年神輿が新造される。大正十二年関東大震災で倒壊した社殿は、昭和三年に再建される。昭和十七年梵鐘は戦時下で金属回収され、昭和十九年鐘楼は辻町山王社々殿として移築される。昭和二十年神楽殿戦災で焼失し、昭和二十四年に再建される。昭和四十五年大鳥居が再建される。昭和五十六年神輿殿新築、手水舎が再建される。平成九年拝殿屋根銅板に葺替えられ、本殿、幣殿が再建される。平成十三年境内整備事業として社号碑、社誌、神明燈籠、狛犬、春日燈籠、常夜燈、玉垣、懐嶋館址ノ碑が奉献される。 元旦祭 一月一日 景能祭 三月 第四日曜日 浜降祭 七月 海の日 神幸祭 九月 第三日曜日 例大祭 九月十七日 」「円蔵祭囃子の由来」碑と「円蔵神明大神宮」碑。「円蔵祭囃子の由来」碑「円蔵祭囃子の由来平安末期頼朝の頃大庭より景義が此の地円蔵に移り姓を懐島と改め懐島平権之守景義と名乗り館を築き住居した今の神明大神宮一帯の地其の一隅に社を建て鬼門除とす。景義は頼朝に味方し又自分の家臣をいたわり時々酒宴を開き楽人が舞を舞い太鼓を叩き其の太鼓が今日の円蔵祭囃子の起源であるこの太鼓が近郷にひろがり叩いて居たが一時途絶えたが近来復活し急に脚光をあび円蔵では後継者を養成しその甲斐あって昭和五十年三月茅ヶ崎市指定無形文化財一号となる。今回保存会の子弟が指導者長老に感謝の意を持って記念碑を造り無形文化財を文化遺産とし後世に伝えんとするものである。」「円蔵神明大神宮本社は鎌倉時代前約八百年の昔、大庭景義が大庭から此の地ふところ島に移って懐島氏を名乗り屋敷の守り神として建てたお宮である。その後二階堂氏代々が導んだが両氏族共亡んでお宮は村の鎮守様となった。私共はここに立つ時毎年九月十七日の祭礼の日、当時遠く東京伊豆方面まで大衆をうならせた神楽の名人鯛さんのお神楽と太鼓連中の祭はやしをなつかしく思い出さずには居られない」その隣に「道祖神」碑。その右側には「神輿九拾年祭」と「神明大神宮大神輿の由来」。「神輿九拾年祭 大正八年新造吉野嘉一翁は、鎌倉の建具屋に建具職として弟子入りし、修行に励み、年季明けを記念に、大正八年(1919)十八才の時に子供神輿を製作し、神明大神宮に奉納する。昭和三年神明大神宮の拝殿の造営に当り、軒先の垂木の配列を指導する。拝殿の大扉及び建具の施工等、神社に貢献し功績を残した。又茅ヶ崎町最後の町会議員として二期(昭和十四年十月~二十二年九月迄)務める。神輿新造九拾年祭を記念し建碑する。」「大神輿百参拾年祭 明治十三年十月吉日新造神明大神宮大神輿の由来懐嶋郷大円蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮の神輿は、文化三年(1806)二十七両で新造と、輪光寺の過去帳に記されている。円蔵・浜之郷・矢畑・西久保・下町屋・松尾・茅ヶ崎の氏子は、代々南湖浜で浜降祭(みそぎ神事)を独自で斎行する。わが円蔵の大神宮も神輿を造ろうと、明治十三年(1880)七月十五日の浜降祭の後、その日の内に梅澤の里(中郡二宮町山西)の西山神輿屋に、数人の神輿新設世話人が、神輿の製作を依頼する。金七十五円也。神輿の屋根に巴の神紋がないのは、当時の八幡宮の神輿の屋根になかったので、円蔵は付けなかったと古老は云う。十月中旬に神輿が完成したので、世話人はじめ大勢の氏子が歩いて梅澤の里へ行き、神輿を担いで東海道を通り円蔵に戻る。九月十七日の秋の例大祭を十月十七日に延ばし、初めて円蔵の各町内を氏子が神輿を担いで渡御する。明治十四年(1881)七月十五日の寒川神社浜降祭に、初めて円蔵の神輿が出輿する。浜降場式典後、寒川神社迄随行し着後に社頭で式典。後に円蔵に戻る。(明治十四年~二十五年迄)円蔵の神輿の担ぎ方は、明治時代から昭和三十年代までは、担いで走る事が伝統。甘沼・下赤羽根の神輿は小出県道が開通する前は、円蔵・矢畑・浜之郷の参道を通り鳥井戸橋へ。円蔵も同道、のち浜祭場へ。明治時代より円蔵の神輿は、七月十五日の浜降祭の後、甘沼・下赤羽根・高田へ渡御する。又昭和三十年代には、甘沼・下赤羽根の神輿が円蔵二丁目迄円蔵の神輿を送ってくれた事もあった。七月十六日は円蔵の各町内を渡御する。現在の浜降祭は、七月海の日に斎行。円蔵・浜之郷・矢畑・西久保の懐島四社で往復担いで渡御する。秋の例大祭には、円蔵の各町内を渡御する。又神輿の大修理は、大正九年と昭和五十三年に行う。神輿の新造に貢献し功績を残した氏子総代・世話人・円蔵村八十七戸の氏子先人の方々の労苦に感謝し、神輿百三拾年祭を記念し建碑する。明治十三年十月十五日 神輿新設世話人・・ 以下十八名の氏名が記載されていたが略す」。「円蔵神明大神宮境内整備工事奉納者名」碑。2階建ての「円蔵自治会館」。そして「拝殿」。唐破風下の鳳凰の彫刻。その下の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「神明大神宮」。拝殿前に石祠、そしてその中にあったのが「癌封じ霊石」。「がん封じ」と。「がん封じ」の霊石は鶴嶺八幡宮から勧請されたもの。鶴嶺八幡宮に祀られている霊石の両方をさすると病を癒す力が増すという。7月の「浜降祭」のときに「がん封じ」の祈祷が行われるとのこと。 「癌封じ霊石の由来当宮の御祭神天照大神と当宮創健者懐嶋景能公の夢のおつげにより、元懐嶋郷大圓蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮より霊石を勧請。氏子、崇敬者の方々が癌にならぬ様に一生の息災を願ってお祀りしています。又この霊石の兄弟石が市内浜之郷四六二に鎮座する鶴嶺八幡宮に祀られており、両方の霊石をさすると御利益があります。」「神輿殿」。「円蔵神明大神宮」の「神輿」をネットから。 【https://ameblo.jp/abiraunken-0618/entry-12391520553.html】より拝殿左側にあった「力石」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.24
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「本丸跡」碑。城内で最大規模を誇る「本城曲輪(本丸)跡」が、政治と生活の中心施設が置かれた場所。秀吉は、小田原攻めの間ここで生活をしていたことになる。中央奥に見える小山が「天守台跡」。天守台は、本城曲輪の南西隅から西曲輪へ張り出すように造られていた。本城曲輪から約4m、西曲輪からは10mほど高くなっていた。天守台の石垣は、ほとんど崩(くず)れ落ちていたが、東西に長い長方形をしていたと考えられていると。崩れた石垣の間には、数えきれないほどの瓦(かわら)が見つかっており、天守が瓦で葺(ふ)かれていたことが確実であると。この中に「天正十九年」と書かれた瓦が見つかていると。この天守が、関東より北側で初めて瓦を葺いた建物だったのだと。天守台から本丸(本城曲輪)を見る。前方に神社が。石祠?本丸の神社に参拝。前方に案内板。近づいて。「小田原合戦と一夜城伝説小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣秀吉は、天正18年(1590) 3月1日に京都を発し、4月3・4日には小田原城の攻囲を開始しました。そして、4月6日には早雲寺(箱根町)を本陣とし、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。周囲9畑にわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めました。普請は急ビッチで進み、秀吉は5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。6月9・1 0日には奥州の雄、伊達政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候します。その時政宗は、前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に称賛されています(「木村宇右衛門覚書」)。そして6月26日、秀吉は石垣山に本陣を移しました。これを期に、秀吉は小田原城へと一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かしました。このような秀吉の行動や政宗と白壁の逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(「大三川志」)や「面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(「北条記」)との、後の一夜城伝説を生んだのです。一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員した築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったのです。」「豊臣方の布陣」小田原城布陣 出陣した諸将【豊臣秀吉軍】 主力部隊 「豊臣秀吉」「徳川家康」「織田信雄」「蒲生氏郷」「黒田孝高」「豊臣秀次」「宇喜多秀家」 「細川忠興」「小早川隆景」「吉川広家」「石田三成」「宮部継潤」「堀秀政」「池田輝政」 「浅野長政」「長束正家」「立花宗茂」「大谷吉継」「石川数正」「増田長盛」「高山右近」 「筒井定次」「蜂須賀家政」「大友義統」「加藤清正」「福島正則」約17万。 水軍部隊 「長宗我部元親」「加藤嘉明」「九鬼嘉隆」「脇坂安治」約1万。 北方部隊 「前田利家」「上杉景勝」「真田昌幸」約3万5千。 総計約21万。【北条軍】 小田原城部隊 「北条氏直」「北条氏政」「北条氏照」「成田氏長」「垪和康忠」「松田憲秀」「笠原政晴」 「笠原政尭」その他諸城部隊 山中城「松田康長」 忍城「成田泰季」 韮山城「北条氏規」 松井田城「大道寺政繁」 鉢形城「北条氏邦」 総計約5.6万。秀吉の出陣から概ね1か月後の4月3日。秀吉は小田原に着陣し、豊臣軍による小田原包囲網が出来上がりました。豊臣軍21万vs北条氏5万6000。」その差は実に15万4000であったと。「伊達政宗像」。馬上少年過 馬上少年過ぐ世平白髪多 世平らかにして白髪《はくはつ》多し残躯天所赦 残躯《ざんく》天の赦《ゆる》す所不楽是如何 楽しまずして是《これ》を如何《いか》にせん『戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。今や天下は泰平。俺の髪の毛はすっかり白くなった。生き残ったこの身の処し方くらい、どうしようと天は許してくれる。楽しまないでどうするというのだ。』と。城の東側には展望台が築かれていた。説明板などもここにある。展望台横にあった「史跡 石垣山」石碑。展望台・物見台。説明パネル。注目すべきは下部「一夜城からプレート境界を見る」。一夜城の目の前にはフィリピン海プレートと北米プレートのまさに境目がある。これが数千年にも亘る大噴火によって富士山を形成し、箱根を作り出し、そして関東大震災を引き起こしたのだ。かなり横長なので左右を分けて掲載。まずは左半分。「小田原城に立て籠もる小田原北条氏を攻めるため、箱根火山外周の尾根上に豊臣秀吉が、築いた総石垣の城で、国の指定史跡となっています。石垣は小田原城とは異なり、自然石や矢穴のない、荒割りした安山岩を用いた野面積みで造られており、井戸曲輪や南曲輪の石垣の様子は見事です。また、ここからは、小田原の市街地が広がる足柄平野から大磯丘陵、そしてその境界に位置すると考えられている国府聿ー松田断層の地形を一望できます。」パネルの右側には小田原合戦攻防図。真ん中に色違いで書いてある「天下分け目(プレート境界)の戦い」という表現。展望台ができる前から、ここは海が一望の絶好の眺望スポットだったのだろう。ズームして。標識柱の上には瓢箪(ひょうたん)が。戦国武将の馬印と言うと、まず豊臣秀吉の「千成瓢箪」が思い出されます。ここ石垣山一夜城にも「秀吉の出世」にあやかりたいという思いの「願掛けの出世ひょうたん」が。「西曲輪跡」に向かって進む。史跡石垣山実測図(『史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群』2012 小田原市教委)。度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されているのであった。この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されている。近年、城跡の樹木が伐採され、城の様子が非常に見やすくなったのだと。 「西曲輪」の石垣跡。この後に下った「東口城道」を左手に見ながら進んで行った。ここにも標識柱があった。「左 西曲輪跡」に従い進む。「西曲輪」の正面口であった「西曲輪東門」跡は、石垣がかなり崩落し、原型が失われていたが。「西曲輪東門」跡には「門の基台跡」と。そして前方に姿を現したのが「西曲輪跡」。標高250m、敵地小田原城から隠れ本曲輪の西側にある曲輪。かなり広い曲輪で、有浦図では「長四十九間横八間」約89x14.4mとあり、実測では30~45x90m、1200㎡の面積を有していると。「西曲輪跡」碑。そして次に訪ねたのが「南曲輪跡」。大手門の手前にあり、大手筋を防衛する重要な曲輪。有浦図では「長二十間 横十三間」約36x23m、現況では25~47x30m、面積は1200㎡と。「東口城道」から侵入してくる敵を攻撃するための役割が考えられていると。この曲輪の最大の見どころは、最初に見た南面と東面に残されている石垣であると。「南曲輪跡」碑。「東口城道」を下って行った。元の通路を覆(おお)うように石材が散乱(さんらん)していた。石垣に使われた石材がかなりの大きさだったことがよく解るのであった。石材が散乱(さんらん)していた「東口城道」を下り終えて振り返る。駐車場を縦断して奥にあった「石垣用石材」の展示場所に。「移設された石垣用石材国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面の一帯には、17世紀前半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があり、早川石丁場群関白沢支群の遺跡名が付されています。平成17~18年(2005~06 )に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390 )建設に伴って発掘調査が実施され、石を割って石垣用石材に加工する作業が行われていた跡が多数確認されました。ここに置かれている石垣用石材は、この時の発掘調査によって発見されたものです。これらの石垣用石材には、石を割るために彫られた「矢穴」が一列に並んでいます。また、石材の面のひとつには、「◯に+」の刻印が刻まれていますが、これは石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられています。これらの石垣用石材は、事業者である神奈川県及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されたものです。」石を割るために彫られた「矢穴」が一列に並んでいた。「寄贈 あずまや建立」と。「一夜城Yoroizuka Farm」。約2,000坪のファームでは柑橘類やベリー類、野菜、花などを栽培していたのであった。馬の親子の姿であろうか。ファームの奥の海を見下ろす静かな場所にあったのが「川島なお美慰愛碑」。2015年9月24日に胆管がんのため54歳の若さで亡くなられた女優の川島なおみさん。生きていれば昨年で還暦を迎えました。彼女の生きていた証は今でもご主人の経営しているヨロイズカファームに記念碑として残されていた。川島なお美さんが最後に書いた直筆の遺言が慰愛碑に刻まれていました。「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らしたわわに実る果実となってあなたの作品として美味しくお皿の上にのります美しく生き生きしたファームガーデンは私の夢ですその夢をかなえて下さい今までありがとうなお美より」と。在りし日の鎧塚俊彦ご夫妻の姿。慰霊碑の傍らにはハグ蛙の像が。良縁成就、夫婦円満の守り神だそうです。畑にはブルーベリーの実がタワワに。近づいて。アジサイ「ブルースカイ」に似て。「石垣山城ブルー」か?そしてこの日の予定を全て完了し、帰路に。途中、「茅ヶ崎西IC」出口の近くにあった「かつや茅ヶ崎今宿店」に立ち寄ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝生寺」の山門を出て道なりに進むと3っつ目のT字路にあったのが、「北向地蔵」。その横には「➡ 国重文 阿弥陀三尊像 高野山真言宗 宝生寺」案内があった。神奈川県茅ヶ崎市西久保573。「北向地蔵」。1862(文久2)年に再建された道標を兼ねた「北向地蔵」。確かに、北に向いて置かれていて、足元には、「北向地蔵」の石柱が。再び北側正面から。台座には、文久二年(1862年)に再建されたことが刻まれていて、先代のお地蔵さんが、同じ場所か別の場所にあったことを示俊しているのだと。そして「北向地蔵尊」と同名の地蔵尊はあちらこちらに有るが「坐像」は珍しいのであった。地蔵の辻を東に10mほど進んだ三差路には、西久保下町辻の「道祖神」と1860(万延元)年の銘がある「庚申塔」があった。庚申塔の左面には「此方南湖道」と刻まれ、通行人が道に迷わないよう案内していたのであった。神奈川県茅ヶ崎市西久保573。左から自然石板「文字道祖神」銘の彫が浅く、年代等は不明。中央は「青面金剛庚申塔」摩耗が激しく、下部は三猿なのであろうか。右側に「双体神祇道祖神」。いずれも摩耗が激しく、歴史を感じさせてくれるのであった。そして「茅ヶ崎中央通り」に向けて茅ヶ崎市円蔵の住宅街を東方面に向かって進む。アヤメの花が道端に。ここ円蔵の歴史を見て来た民家の門。そして「茅ヶ崎中央通り」が現れた。横断歩道を渡りながら「茅ヶ崎中央通り」の北方向を見る。南方向に少し歩くと「円蔵」バス停近くに石碑があった。この石碑は???ネットで調べてみたが一連のモニュメントの説明が書かれていたのであろうか???その先の右手への道の先にあったのがこの日の後に訪ねた「神明大神宮」への「神明大神宮道」碑。引き返して「茅ヶ崎中央通り」を北に向かって歩き、一連の石碑を追う。次に現れたのが「井戸から出土した 古代の長頸瓶(ちょうけいへい)」「井戸から出土した 古代の長頸瓶この場所で発見された井戸から出土した、今から約1,000年前の土器です。模型は実物大の大きさで細い方が上部で膨らんでいる方が底です。ここで生活していた古代の人が水などの液体を入れていたものでしょう。全体の形は良く残っていましたが、口の部分が故意に割られている可能性もあることから、祭りごとに使ったのではないかと考えられます。しかし、なぜ井戸に埋められたのでしょうか?」「古代の織物具 紡錘車(ぼうすいしゃ)」「古代の織物具 紡錘車(ぼうすいしゃ)ちょっと変わった形をしているこの遺物は、石を加工して作られたもので、糸を加工して作られたもので、糸を紡ぐ道具の一部で古代に使われたものです。周辺からは住居の跡が発見されておりこの地に住んだ人が使っていたものでしょう。紡錘車は図のようにして用いられました。また、本資料は刻み線による模様が描かれていることから、本来の使用目的の他に呪術に使われた可能性もあります。模型は、斜め横から見た状態で実物の4倍であらわしてあります。」道路を横断してジグザグに進む。次にあったのが「まとまって出土した古銭(こせん)」。「まとまって出土した古銭本地区で発見された中世の井戸から古銭が10枚重なり合って出土しました。判読できた文字からこれらの古銭の多くは中国の北宋時代以後に作られた渡来銭と考えられます。しかしながら、どういう経緯で井戸に埋まったのかは明らかでありません。呪術的な意味合いで埋められたのか、あるいはうっかり落とされてしまったのかなどが考えられます。皆さんはどのように考えられますか?模型は、実物の4倍の大きさで表現しています。」「古代生活を知ることの出来る須恵器(すえき)」。「古代生活を知ることの出来る須恵器この場所で出土したうつわの一種で、今から約2,000年前の平安時代の須恵器という土器です。うつわは杯(つき)とよばれる普段使いの食器で、現在のお茶碗に似た使い方をされていました。模型は、底を上にして出土した状態を実物大で表現しています。須恵器は窯で焼かれ、陶器の源流となる焼物です。この須恵器は、形や使用されている土などから多摩丘陵で生産されたものと考えられています。出土する土器によって、時代と物の流通なども知ることができます。」「円蔵北交差点」まで戻り、左折して東に向かう。途中で右折して進むと「あおぞら輝き保育園」が右側にあった。そして園内・道路際にあった「稲荷神社」。次に訪ねた「神明大神宮」の入口手前にあった「避難所・避難場所案内」板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.23
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坂道をあがって、二の丸へ。「石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正一八(一五九〇)年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて約ニ十ニ万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになリました。この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城ともいわれています。ここニの丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪て、中心部分、北へ長方形に張出した部分及び東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。「新編相模国風土記稿」ではニの丸として紹介されているが伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようてす。井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点ては、詳細は不明です。」「右 井戸曲輪 便所 左 本丸」案内板。こちらが先ほど説明板に書かれていた「櫓台」。石も崩れ、形も丸くなり、芝生が植えられ、もはやただの丘と化していたが。丘の上に建っている石碑は「櫓台跡」と書かれていた。「櫓台跡」と書かれた石碑。小田原の市街地、相模湾を見る。左方面にズームして。小田原城をズームして。二の丸の東側に広がる「井戸曲輪」へ向かう。井戸曲輪は高い石垣で囲まれた一段低い場所になっていて、巨大な石垣で有名だという。この階段を降りる。「北口の城道 関白道へ通じていた」と。斜面に作られた細い階段をぐるっと回りながら下へ。左奥に、何やら巨大な石垣が見えて来たのであった。こちらが、井戸曲輪の大石垣。井戸は石垣の下の中央にある巨大なくぼみで、その周りを取り囲むように高石垣が建設されていることが解るのであった。「国指定史跡石垣山 井戸曲輪跡 指定昭和三十四年五月十三日井戸曲輪は、石垣山一夜城ニの丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸はニの丸からニ十五メートルも下がったところにあり、今でも涌き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石山一夜城は、高い石垣で築かれた東国て最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。井戸曲輪の石垣は、石山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましよう。」井戸曲輪の命名の元となった「淀君化粧井戸」を下に見る。巨大な穴の中に更に石垣が組まれていることが解るのであった。井戸曲輪全景。中央の井戸の周りを高石垣がぐるっと取り囲んでいることがよく解かった。「井戸曲輪跡」。「井戸曲輪跡井戸曲輪は、谷地形を利用して造られた曲輪です。南側・西側には石垣、北側・東側には石塁が造られています。この石塁によって谷を遮し、湧水を貯水する構造になっています。湧水部は、馬屋曲輸(ニの丸)から25m低位にあり、本来は馬屋曲輪(ニの丸)東側からスロープと階段で降りるようになっていました。そのため、らせん状に降りる構造から「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石塁は約10m以上の高さがあり、下幅で11~18m、上幅で5 ~8m程度の規模を有します。このような石塁は石垣山城では井戸曲輪のみですが、穴太衆にる野面積みの様子がよくわかります。」「史跡石垣山城縄張図」をズームして。「井戸曲輪」の場所。中まで入って井戸を覗きこみたかったが、ここから先は立入禁止。そして「井戸曲輪」を振り返って。井戸曲輪の周囲を囲む石垣の中に赤い巨石が埋め込まれている部分を正面に発見。元々ここにあったのか、秀吉がここに運ばせたのか?「井戸曲輪」の大石垣をズームして。穴太衆にる野面積みの様子がよく解るのであった。「井戸曲輪」の姿を独り占めし、この場を後にしたのであった。二の丸まで戻って、再び小田原市街、相模湾を望む。手前に「早川」、「東海道本線」の鉄橋、そして「西湘バイパス」が見えた。次に長方形の曲輪の奥にあるという「展望台」を訪ねた。先ほどの復元絵図を見返すと、この先は石垣で囲まれた物見櫓的な場所があったようなので、眺望も良かった。展望台から見た眺望。西方面。こちらは山しか見えない。下記の説明板によると向かいの山には「長興山のしだれ桜」という、江戸時代の小田原城主 稲葉氏が植えた名木があるという。「展望案内図」「長興山紹太寺としだれ桜長興山紹太寺は、しだれ桜の巨木(市指定天然記念物)や稲葉氏一族と春日局の墓所(市指定史跡)によって知られており、広大な伽藍跡として、多くの文化財や史跡があり、ここ石垣山一夜城と長興山史跡を巡るハイキングコースも整備ざれいます。長興山紹太寺のしだれ桜は、エドヒガンの変種で、滝のようにしだれた桜はまことに華麗です。花の見頃は3月下旬~4月上旬頃で、稲葉氏が紹太寺を入生田の地に移した寛文9年(1669 )にこのしだれ桜が植えられたといわれ、樹齢は330年以上、高さ13メートル。」自衛隊員が、小田原市街を望みながら、説明隊員の話を聞いていた。櫓台跡から更に奥へ進むと、二の丸の北側に突出した長方形の曲輪へ。この先には「展望台」そして右側に進むと「井戸曲輪」がある、と左の石碑に書かれていた。石碑の上には秀吉のトレードマークであるヒョウタンが置かれていた。そして「本丸」方面に歩を進める。左手が二の丸跡。広大な芝生公園となっていた。以前はここに巨大な御殿などが建っていたのだろう。「二の丸跡」碑をズームして。二の丸から本丸へとあがる「本丸登口」。石垣が崩れているが、それでもなんとなく雰囲気が感じられる。当時は両側が立派な石垣に囲まれた立派な入口だったのだろう。「石垣山の縄張りは誰が?」案内板。「石垣山城には、同じく豊臣秀吉が築城した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)との共通点が多く見られます。両城を比較すると、南曲輪=弾正丸、西曲輪=ニの丸、本城=本丸(天守台の位置も一致)、馬屋曲輸=三の丸に該当しているように見えます。井戸曲輪に該当するものは肥前名護屋城にはありませんが、三の丸に相当する場所でちょうど井戸が確認されています。『太閤御陣城相州石垣山古城跡』には描かれていませんが、石垣山城で北曲輪と想定されている部分には、肥前名護屋城には東出丸があり、その類似性は明らかです。肥前名護屋城の普請は、石田正澄の書状などから黒田長政(一説に黒田官兵衛)・小西行長・加藤清正などが命じられたとされています。しかし、この3人は小田原合戦には参陣しておらず、黒田官兵衛のみ参陣を確認することができます。石垣山城は誰が縄張りしたのでしようか?石垣山城の謎の一つです。」「石垣山城縄張図」。「肥前名護屋城図」。少し引いて、本丸石垣全景。上の方は少し残っている部分もあるが、大部分が崩壊し、下に石が落ちて重なっているのであった。という状況。正面から。これより「本丸登口」案内板。再び本丸石垣跡を振り返る。巨大な城だったことがよく解るのであった。本丸への道を進んでいくと苔むした巨石がゴロゴロ転がっていた。更に道が左に折れ曲がり、本丸へと到達する。正面の土塁の上が本丸。折れ曲がる手前あたりに小さな看板があった。「門の基台跡」と。崩れてしまっていたが、西曲輪の門の跡のようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.22
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「宝生寺」の見事な瓦葺きの「本堂」が正面に。「懐嶋山 宝生寺 御本尊 金剛界 大日如来 宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七) 総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町 宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現する ために、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの 務めであり喜びです。」「本堂」前の「常香炉」。龍の彫刻であろう。扁額「宝生寺」。内陣。内陣には「金照院」と。ズームして。本尊の「大日如来」は江戸時代中期の作であると。「當山本尊 金剛界大日如来(金剛界大日の真言:オンバザラダトバン) 正観自在菩薩(オンアロリキャソワカ) 大聖不動明王(ノウマクサマンダバザラダンカン) 若誦真言各七編或不定」「「真言(しんごん)」とは、サンスクリット語のマントラ(मन्त्र Mantra)の訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意。『大日経』などの密教経典に由来し、日蓮宗、浄土真宗を除く多くの大乗仏教の宗派で用いられる呪術的な語句である。」とウィキペディアより。「高野山開創千百五十年記念 本堂再建之碑」。そして四月二十九日に年一回の「阿弥陀三尊」の御開帳が行われた「阿弥陀堂」。「阿弥陀堂」。「阿弥陀堂」碑。「宝生寺の阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ善光寺(長野市)の本尊を模したといわれる善光寺式の阿弥陀三尊像です。手のかたちや一つの光背に三尊がはいっているところなどが、一般の阿弥陀三尊像と違います。善光寺式の阿弥陀三尊は、鎌倉時代から造られており、この像も銘はありませんが鎌倉時代の作とされています。しかし、来歴については不明です。なお、台座と光背は近世のものです。」「阿弥陀三尊像」。ここ「阿弥陀堂」に安置されている「阿弥陀三尊像」は、信濃善光寺の本尊の模像で、1195年(建久6年)の造立といわれ、懐島郷を領していた大庭景義の持仏ではないかともいわれている像であると。カラー写真をネットから。四月二十九日の御開帳に参加したつもりで。鎌倉時代に造られたと考えられ、国の重要文化財に指定される。材質は銅。飛鳥時代や奈良時代の仏像は、銅で造られたものが多いが、平安時代以降は木彫像が主流になる。そのため、鎌倉時代に銅で造られた仏像は少数派だ。わざわざ銅を選んだ理由は、由緒のある銅造の仏像を模刻したからと考えられる と。 【https://mainichi.jp/articles/20201111/ddl/k14/040/170000c】より梵字が刻まれた石碑。上に「キリーク」:阿弥陀如来(あみだにょらい)下右に「サ」:聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)下左に「サク」:勢至菩薩(せいしぼさつ)であろうか。「本堂」の横に屋根が設置されていた。法事等の駐車場なのであろうか?「瀧不動尊」。「瀧不動尊」碑。近づいて。お顔をズームして。左眼が・・・。厳しい表情なのであった。「秋光や 不動明王 屹然と(登) 白楊」仮設屋根?を反対側から。「手水舎」。両脇に石灯籠、その先に「大師堂」が。「大師堂」。「弘法大師像」。「宗祖 弘法大師」碑。「本堂」、「庫裡・寺務所」を見る。「観音堂」を見る。「二宮金次郎像」であっただろうか。正面から。「観音堂」碑。内陣の「観音像」。お顔をズームで。「六地蔵」。「本堂」南の墓地。石塔、石仏が所狭しと。中央の石塔。「宝生寺」の「先師墓」。「當山先師墓」碑。宝篋印塔には「當山先師尊霊」と刻まれていた。立派な墓石が並ぶ大きな墓地。「大師堂」横から「本堂」を見る。そして「宝生寺」を後にし、「山門」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.22
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早川にあった「東善院」の「魚籃大観音」を後にして次の目的地の「石垣山城跡」に向かって「石垣山農道」を西に向かって進む。左手にあったのが「出世道」案内板。(以下2枚の写真は数年前に別々に撮影したもの)。「美しい日本の歩きたくなるみち500選 太閤・一夜城と長興山 史跡のみち 12キロコース」「出世道緑と花の夢の道、風と雲の通い道、出会いがつくる心道農を育てる命道、歴史が誇う学び道」経済の国際化が進み、作物の転換と土地利用形態の改革が必要になり、大型農道なくして実現は不可能となりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により、名刹海蔵寺山門跡より石垣山一夜城址まで団体営農道整備事業が採決されました。新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて建立いたしました。起 工 昭和六十年一月 竣 工 平成三年三月」小田原の市街を見下ろす。小田原城の天守をズームして。「石垣山一夜城歴史公園」に向かって進む。「石垣山に参陣した武将たち」案内板。道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があったので旅友がその都度下車して撮影してくれた。(実際は帰路に逆の順番で撮影)「堀 秀政(ほり ひでまさ) 天文22年(1553年)~天正18年(1590年)美濃の豪族、堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の伊賀攻めの年に近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前、加賀に18万石の領土を与えられて北ノ庄城に入り、北国支配の中心となった。小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。」「伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と戦い、仙道七郡を手に入れて勢力を広げていった。秀吉に従い小田原攻めに加わるべきか迷い、なかなか参陣したかったため、その遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死後、まもなく家康に近づき、伊達62万石を確定させ、仙台城を築いた。幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。」「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) 元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)備前岡山城主宇喜多直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。」「徳川 家康(とくがわ いえやす) 天文11年(1542年)~元和2年(1616年)三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して、東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに秀吉に対抗したが、その後に秀吉と和睦し、氏直にも秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝ち征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。家康の陣馬跡には今でも土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。」「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ) 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)豊臣秀吉の甥にあたり、近江八幡43万石の城主。小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の包囲に加わった。秀次の陣場は小田原城の北西、辻村植物園の東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の総世寺に寄進されている(市指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に関係が悪くなり、謀反を企てたとして高野山に追放、切腹を命じられた。」「千 利休(せんの りきゅう) 大永2年(1522年)~天正19年(1591年)和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のちに宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、ついで秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道の一つである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。」「淀 殿(よど どの) ?~慶長20年(1615年) 生年を永禄12年(1569年)とする説あり近江小谷城主浅井長政の娘。幼名はお茶々。母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣であった柴田勝家と再婚した母とともに越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身ごもった。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられる。秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大坂城にあったが、大坂の陣に敗れ、落城するとともにその生涯を閉じた。」「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) 天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)織田信長に仕えて活躍、信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際は80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、天下平定を成し遂げた。」「石垣山に参陣した武将たちこれより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があります。散策しながら、今は昔の物語をお楽しみください。」そして「石垣山駐車場」に到着し「続日本100名城」のスタンプ置き場に向かう。「御城印」案内板。「126 石垣山城」のスタンプを頂きました。「石垣山城」の「御城印」も本館で300円で購入しました。駐車場横の法面には青のアジサイの花が。ガクアジサイの見事な青の色合い。青の濃さを増して。白の花が一輪。「石垣山城跡」のご案内マップ。そして「石垣山城跡」の入口に向かって進む。右手にあった石碑には「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」と刻まれていた。正面には巨石が2つ展示されていた。「移設された石垣用石材国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面一帯には、 17世紀半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があります。 この石丁場は、早川石丁場群関白沢支群という遺跡名で呼ばれており、平成28年(2016)には静岡県熱海市と伊東市の石丁場とともに「江戸城石垣石丁場跡」として国指定史跡となり ました。ここに置かれている石垣用石材は、平成17~18年 (2005~06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390) 建設に伴う発掘調査によって発見され、移設したものです。移設された2石の石材は、発掘調査の11区から発見された 7号石材(右側)と8号石材 (左側)です。元々ひとつであった石 に「矢穴」を一列に彫った後、矢(クサビ)を入れて2石に割ったものです。左側の石材の前面には「八」の刻印、右側の石材の割った面に「◯寸」の刻印が刻まれていることから、「八」の刻印より「◯寸」の刻印が後で刻まれたことが分かります。これらの刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられます。これらの石垣用石材は、広域農道小田原湯河原線(市道2390) の事業者である神奈川県、及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されました。」 7号石材、左側の上部に「矢穴」の痕跡が。8号石材 (左側)。生命の星・地球博物館までのハイキング「自然を楽しむ みち」のご案内石垣山一夜城の一帯は、自然にまれています。ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりてすが、その途中のの道沿いで見ることがてきる動物や植物などについて、その説明や道案内を9カ所に設けました。どうそ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂てす。50分ほどて博物館につきます。博物館から入生田駅まては3分てす。」「石垣山城案内図」。ズームして。「東国最初の総石垣の城 石垣山城」案内板。「石垣山城は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、その本陣として築城されました。完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、「一夜城」とも呼ばれています。しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、昼夜間わずに工事が行われました。また、塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝っています。秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、参陣の諸大名をなぐさめたりしました東国で最初に造られた総石垣の城で、白亜の櫓・塀を備えた近世城郭と呼べるものです。石垣は、自然石をそのまま使う「野面積み」で、近江の穴太衆(あのうしゅう)による当時の最先端の技術によって築かれました。大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、当時の面影がよく残されています。一夜城伝説『北条記』には、秀吉が一夜にして城を築いたことに「関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来るぞや」と、一夜城伝説の一端を伝えていますが、石垣山城を築城するには山を削リ、周囲の木を伐採して、大量の石垣石を掘り出す必要があリます。夜間はかがり火を焚いて、大勢での作業の様子は、小田原城からも逐ー確認されていたものと考えられます。むしろ、短期間に築城したことこそが、伝説として語り継がれているものと考えられます。」「城への登城ロは、東ロと北ロの2か所あり、東口が大手と考えられます。本城曲物(本丸)を中心に馬屋曲輪(ニの丸)、西曲輪、東ロの両側に南曲輪と東曲輪が配置されます。本城曲輪の西端に天守台があリ、馬屋曲物の北側には井戸曲輸、さらに北側には北曲輪(三の丸)、西曲輪の西側には大堀切があリ、出曲輪が配置されています。こうした城の縄張は、肥前名護屋城に似ておリ、黒田官兵衛の関与が想定されています。」「小田原城と石垣山城の位置関係」「小田原合戦の経過天正17年(1589) 11月 秀吉、北条氏討伐の宣戦布告状を発する天正18年(1590) 3月1日 秀吉軍、京を出陣 3月29日 山中城落城 4月6日 秀吉、箱根湯本早雲寺を本陣とする 4月6日 秀吉が築城を指示(現在の石垣山) 5月14日頃 北政所(ねね)に石垣の完成を伝える 6月9日 伊達政宗、秀吉に拝謁 6月26日 秀吉、早雲寺から本陣を移す 7月5日 北条氏直、降伏し、小田原城開城天正19年(1591) 8月 天守に瓦が葺かれる」「小田原合戦の攻囲陣立図」。「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」を上って行った。「旧城道 東登口」。「東曲輪」(右)と「南曲輪」(左)の間を上る旧城道。この先がかつて大手門があった場所とされている。東ロ城道は駐車場川にある入口から南曲輪・南腰曲輪を経て本城曲輪へと至る現在の園路。北側に東曲輪、南側に南曲輪を見ながら切り通し状の道を入口から直進すると、南腰曲愉の石垣に突き当たる。途中大きな石垣が城道に崩れ落ちていて、さながら登山道のような風景であった。また、説明板の付近では、城道の脇に造られた石組水路の跡を確することができたのであった。突き当りを南へ折れて南曲輪へ人るところには、東口外門があったと。この東ロ外門を過ぎると、すぐ西へ折れて東ロ中門のある南腰曲輸へと登る。さらに南腰曲輪を北・西へと折れると本城曲輸東門に至るのであった。このように、東ロ城道は、東ロ外門・中門と本城曲輪東門の三つの門を通過して本丸である本城曲輪に至る構造となっていたのであった。左側に巨大な石垣が。「南曲輪」下の、穴太衆により築かれた野面積みの石垣。角度を変えて。更に上って行った。「東口城道」は大きな石垣が城道に崩れ落ちていて、さながら登山道のような風景。「石垣山城」案内板。「石垣山城石垣山城は、「笠懸山(かさがけやま)」あるいは「石垣山」と呼ばれる箱根から派生する山上にあります。関白豊臣秀吉が天正18年(1590)の小田原合戦の際に築いた陣城で、徳川家康家臣松平家忠が記した「家忠日記(六月ニ十ニ日)」に「石かけの御城」と記されていることから、「石垣山城」と呼ばれています。秀吉が、一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、実際には「聚楽(じゅらく)又ハ大坂の普請を数年させられ候ニ不相劣様」と、聚楽第や大坂城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。今も穴太衆により築かれた野面積みの石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。」「石垣山城復元模式図」。「井戸曲輪の様子」。振り返ると、陸上自衛隊のジープと隊員の姿が。「二の丸」方向に進んで行った。「東曲輪(上段)」下の石垣。前方に「二の丸(馬屋曲輪)」下が見えて来た。「二の丸(馬屋曲輪)」下の石垣斜面。江戸時代の古絵図では二の丸と書かれていたが、伝承ではここに馬屋が置かれ、馬洗場と呼ばれた湧水もあったとか。櫓台跡も残っているという。「馬屋曲輪石垣史跡指定年月日:昭和34年(1959年) 5月13日石垣山は、豊臣秀吉が戦国大名小田原北条氏の小田原城を攻略するため、天正18年(1590年)に築いた総石垣の城です。地震等による被害で崩れた箇所もあるものの、今なお雄大な石垣が残っています。秀吉が天下統一を成し遂げ戦国時代が終わる舞台となった歴史的意義と併せ、築城年が限定される築城史上の基準として、学術上価値ある遺跡として史跡に指定されました。石垣山の石垣は、古式の野面積みと呼はれる技法で積まれています。図2に示す馬屋曲輪の石垣は、比較的良好に築城当時の姿を保ち、延長約67m、高さ最大約6m、勾配約60度となっています。規格のない自然石を適切に組み合わせることで、強固な石垣を築いており、構築した技能者の高度な技術が窺えます。(図2は安全を確保するため平成2 8年度に実施した保全対策工事前の写真です) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.21
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「妙運寺」を後にして次に訪ねたのが150m程度の場所にあった「日吉神社」。「西久保日吉神社」とも。現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂ける。神奈川県茅ヶ崎市西久保466。礎石が高い「石鳥居」とその先に「拝殿」。大きな神輿の通過の為なのであろうか。「神社境内では次のことを守りましょう」と子供達に向けて。右手に「西久保自治会館」。「拝殿」。創建年代や由緒は不詳。御祭神には、山王様といわれる大山咋命。例祭は9月3日だが、現在は8月末などに神輿渡御が行われているようだ。当宮は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。当社神輿は、参加神輿の中でも最重量級とされる。境内には、本殿や拝殿の他、昭和16年(1941年)建立の阿吽の狛犬や、神輿殿がある。同じ敷地に、上記のごとく西久保自治会館があった。他に境内には、戦没者を弔う慰霊の碑、大山街道の道標、江戸時代後期の寛政6年(1794年)銘のある道祖神と庚申塔の碑や、力石があった。昭和16年(1941年)建立の阿形の「狛犬」。昭和16年(1941年)建立の吽形の「狛犬」。「拝殿」の唐破風下の「鳳凰」の彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)にも見事な龍の彫刻が。木鼻(右)。こちらは牡丹の花を持って。木鼻(左)。こちらは竹毬を持って。神明造の「本殿」を見る。「脇障子」(右)。「脇障子」(左)。「慰霊の碑」。近づいて。裏面には「この碑は過去数次の大戦に於いて祖国の繁栄を念じつヽ一命を捧げられた英霊を慰めるため区民並びに篤志家の浄財によって建設されたものです昭和四十五年 西久保自治会」と。「慰霊の碑」の前右側にあったのが「力石」。「力 石この石は、昔村の若い衆が力競べに使ったものです。その当時、娯楽の一つとして農休みの日や夏の宵の一と刻、村の辻でこの石を相手に汗を流しあって、力自慢をしたのだそうです。石の重さ100キログラム以上(三〇貫位)」と。大きな神輿殿。「神輿」をネットから。「日吉神社」の前のT字路にあった「石碑群」。右から「大山街道の道標」、江戸時代後期の寛政6年(1794)銘のある「文字道祖神」、そして「庚申塔」。「大山街道の道標」。「板碑型庚申塔」延宝8年(1680)日月・「奉造立」・三猿正面右側「維持延宝八庚申暦□□吉日」 〃左側「相州高座郡□□」 〃下側 9人の名近くのサツキの花、新緑が美しかった。ナビに従ったが、少し遠回りをしてしまったが次の目的地の「室生寺」に向かう。左手に見えたのが「湘南東部総合病院」。神奈川県茅ヶ崎市西久保500番地。そして目的地の「宝生寺(ほうしょうじ)」に到着。白壁に設置された「掲示板」。「令和四年四月二十九日 自 午前九時 迄 夕方「阿弥陀三尊御開帳」 御自由に拝観下さい」と右側に。これには茅ヶ崎市に住む旅友が訪ねたとのこと。「宝生寺」の「山門」。奥に「本堂」が見えた。「山門」前の両側の赤い頭巾を被った地蔵様が迎えてくれた(右側)。道しるべ情報が刻まれていて、「右子権現道 左南湖道」と二方向を示している。宝暦七年(1757年)に造られたと。近づいて。「山門」前の両側の、頭巾を被った地蔵様が迎えてくれた(左側)。こちらは文久二年と。「右子権現道 北一之宮道 左南湖」と三方向を示している。子権現(ねごんげん)とは、萩園橋を渡って八王子道に出たところにある常顕寺のこと。宝暦七年から文久二年までの105年間で、寒川方面への往来が増加した証であると。「阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国重要文化財指定 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ仏法最初の像と伝える信濃善光寺木尊の模像で、いわゆる善光寺式如来といわれるものである。鎌倉時代に非常に多くつくられたという。木像も鎌倉時代の作とみられている。一説にこのあたりを領していた懐島景義の持仏であったともいわれるが、その来歴については全く不明である。なお、台座および光背は後世のものである。」山門右側の石碑には「重要文化財 六躯体銅造 阿弥陀如来両脇侍立像 三体昭和三十四年六月二十七日指定」と。左側には寺号標石「懐嶋山寶生密寺(かいとうざんほうしょうみつじ)」と。境内右側にあったのが「白蛇辯才天(はくじゃべんざいてん)」。鳥居の扁額「白蛇辯才天」。「白蛇辯才天」碑。石造りの太鼓橋の先に石祠の「白蛇辯才天」。「白蛇辯才天」は、金運上昇・商売繁盛・病気平癒・登校拒否解消・家出人足止めなどにご利益があるとのこと。ズームして。その先にあったのが「水子地蔵尊」。「いつの日も変わる事なくさしてあげたや一輪のコスモス」。「生まれかわってこの胸に思いきりだきしめてあやしてやりたやかざくるま」石仏が二体。そして数え切れないほどの「舟形水子地蔵」のお姿が。「水子地蔵尊」を横から。「庫裡」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.21
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次に訪ねたのがJR早川駅の山側にあった「厄よけ魚藍観音(ぎょらんかんのん)」がある「薬王山 東善院(とうぜんいん)」。途中、道路脇あった案内板。神奈川県小田原市早川482。そして「東善院」への入り口の路地にあった案内板。境内への石段の手前には六地蔵尊が。近づいて。「東善院」の「本堂」。薬王山東善院は、早川にある真言宗東寺派の寺院。本尊は薬師如来。開山は改祐で、応永22年(1415)の創建。江戸時代には国府津・宝金剛寺の末寺で、早川村の天神社を管理していた。「本堂」の屋根の上に「厄よけ魚藍観音像」のお顔が。扁額「東善院」。石祠は稲荷神社であろうか?手前には五輪塔が。鉄筋コンクリート造で高さ13mという「厄よけ魚藍観音像」を見上げる。「魚籃」とは獲った魚を入れておく魚籠(びく)のことで、よく見ると観音様の手には魚の尻尾がはみ出た魚籠が提げられているのであった。中国の三十三観音の1つに数えられる魚籃観音には、悪鬼の害を除く力があると信じられていることから、厄除け観音として地元のちょっとした名物となっているのだと。もちろん、漁業や航行安全の御利益もあるとされていて、目の前に広がる相模湾をじっと見つめているのであった。「厄除 魚藍大観音」と。観音様の中へ入ることは出来なかったが、足元まで近づけたのであった。電車でJR早川駅を通過するたびに気になっていた観音像。お顔をズームで。観音様の手には魚の尻尾がはみ出た魚籠が。相模湾の安全を祈り見つめてくれている「厄よけ魚藍観音像」。JR東海道本線の早川駅、後方に西湘バイパス石橋支線高架橋が見えた。「厄よけ魚藍観音像」の台座は部屋になっていた。入り口左には「魚籃観音建立の由来」案内板が。「魚籃大観音建立の由来当山は應永二十二年(五六四年前)の開創で薬王山東善密寺と号して昔から小田原市早川地区の鎮守紀の宮神社の副別当寺として今日に至りました。本尊は薬師如来、魚籃観音を脇仏として御祀りしております。縁あって愚僧東善院住職を拝命以来,四十余年、此の景勝の台地に海上から拝せるな魚藍観音像を建立して海上安全、大漁満足、別しては我々に栄養源として生命を捧げている魚貝類への報恩感謝の供養また平和日本建設と殉国の英霊並びに大戦による犠牲者と世界無名戦士の冥福を所念したいと念願し、檀家一同に相図りその賛意を得て建立計画が立案されました。尊像の建立を望月先生に依頼、施工はマルセ建設㈱で着工、有縁の方々の尊い御寄進と、更に建立委員の献身的な作業奉仕を得て鉄筋コンクリート造、總高十三米の慈悲あふるる麗しい代表的芸術として、後世に偉跡を残す尊像が参ヶ年の工期を経て大業の成就となりました。願はくは本尊のご加護、十万有縁の観音の妙知力を念ずる皆様方が厄除開運、家内安全、諸願成就のご利益を授からんことを祈念する次第であります。例祭日 毎月十七日 昭和五十七年十一月吉祥日薬王山東善院住職 権大僧正 大野大雅」部屋の中にあった絵画。墓地から新幹線線路を見る。折しも新幹線が通過。小田原城にズームして。墓地の最上段に石碑があった。「驅逐艦五月雨(さみだれ)戰没者慰霊之碑」。「驅逐艦五月雨戰没者慰霊之碑」に近づいて。「驅逐艦五月雨戰没者慰霊之碑」がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているとネットから。白露型駆逐艦6番艦「五月雨」は浦賀船渠で1934年(昭和9年)12月19日に起工し、1935年(昭和10年)7月6日進水、1937年(昭和12年)1月29日に竣工した。横須賀鎮守府籍。機関部は川崎造船所で製造されたのち、浦賀に海上輸送された。建造したのは私が卒業した会社であることを今知ったのであった。 【https://appget.com/c/special/199988/purple_1608-69/】より慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれていた。昭和十七年十月十四日 10名 (ガダルカナル島の戦い)昭和十八年十一月二日 6名 (ブーゲンビル島沖海戦)昭和十九年八月二十六日 9名 (パラオ・ガルワングル環礁) と。裏面には「昭和五十七年八月 戦友並ニ遺族 建之」と。そして歴代住職の墓地を見ながら「東善院」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.20
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが大山街道の小出川にかかる「大曲橋」の手前にあった「河童徳利ひろば」。供用開始は 令和4年3月28日とのこと。神奈川県高座郡寒川町大曲4丁目4−211−3。ここは「小出川」の東にあったので「茅ヶ崎市内」と思い訪ねたのであったが、今回ブログを書いている時に、この場所は、茅ヶ崎市西久保と寒川町大曲にまたがり、茅ヶ崎市と寒川町の広域連携事業として設置された公園であることに気がついたのであった。入口付近は「寒川町」、河童の像があるところは「茅ヶ崎市」であるようだ。ネットには「維持管理は茅ヶ崎市が行っています」と。Googleマップの航空写真には「河童徳利ひろば」は未だ存在していない。地域に伝わる「河童徳利」の民話をテーマにしており、約2300m2の敷地にはブロンズ製の河童像や井戸水をたたえる池があった。「間門川伝説 河童徳利発祥の地」。「民話「河童徳利」伝承について」案内板。民話「河童徳利」伝承について民話「河童徳利」は、むかし西久保に住んでいた五郎兵衛さんという人物が、この付近にあった間門橋(現在の大曲橋)のたもとで河童と出会ったことから始まります。馬の尻尾にかじりついた河童は、村人たちに捕まりますが、五郎兵衛さんが河童を助けてあげました。そのお礼にと河童からもらった徳利は、底を3回叩くまでいくらでもお酒が出るものでした。五郎兵衛さんは朝から晩までお酒を飲み続け、すっかり怠け者になってしまいましたが、ある日大切にしていた馬がやせ細っていることに気づき、徳利の底を3回叩きお酒が出てこないようにし、もとの働き者に戻りました。西久保には遥か古来よりこの河童にまつわる伝説が民話として伝わっており、現在に至るまで多くの人々に愛されてきています。」五郎兵衛さんと河童。「河童徳利ひろば」の最奥から池と池の中の「河童」を見る。「河童」に近寄って。高さ約1.2mの「河童」の銅像。正面に廻り込んで。「河童」の持っている徳利から酒の代わりに水が流れ落ちていた。流れ出た水で周囲は池になっていた。流れ落ちる水(酒)をズームして。「河童」の後ろ姿を。懐かしい手押し井戸ポンプが安全柵に囲まれて。非常用のポンプなのであろう。そして池の端には石碑が。手前に石碑と堰の一部が残されていた。廻り込んで。「西久保 堰竣工 添田良信(他にも九名の名が刻まれていた。) 起工 昭和二十九年四月 竣工 昭和二十九年七月 工費 三百三十萬圓」 と刻まれた石碑。この朱の小さな社のある場所が、「間門川の河童伝説」👈リンク 発祥の場所『古池のあった所』であるようだ。「小出川」はその昔は「間門川」と呼ばれていたようだ。入口から「河童徳利ひろば」を振り返る。右手には「小出川」、奥には「新湘南バイパス」・「圏央道」の「茅ヶ崎JCT」が見えた。そして来た道を戻り次の目的地の「妙運寺」に寺の裏から向かう。そして「妙運寺」の入口に到着。神奈川県茅ヶ崎市西久保1564。「掲示板」。「三日見ぬ間」と。「世の中は 三日見ぬ間の 桜かなという俳句があります。世の中の動きや変化はとても早い。ちょうど三日見ないうちにつぼみたった桜が咲いたり、満開の花が散ったりするようなものという意味の句です。学生の頃は、一年経つと学年が上がり、また小学校から中学、高校、大学と学校も変わっていきます。時問の変化が実感としてよく分かりました。しかしある年齢になると世の中も自分もいつまでも同じで、昨日も今日も、今年も来年も変わらないと考えてしまうようです。よく考えると、それはとても怖いことです。人問は生まれた瞬間から死に向かって歩き始め、一日一日確実に死に近づいています。人生とは死に向かっての旅です。一秒過ぎれば一秒分、一日過ぎれば一日分、間違いなく死に近づいているのです。縁起がいいとか悪いとかは関係ありません。悲しいけれど、それが世の中の真実です。「時は金なり」といいますが、「時」はお金以上に大事な「いのち」なのです。その大切ないのちの「時」を、私たちは昨日も今日も明日も明後日も同じと思い、ボーッと過ごしたり、お金や地位のために無為に過ごしてはいないでしょうか。子どもたちを見ると、時間の持つ重さがよく分かります。頼りなかった子が、ほんの一~ニ年の間にすっかり大人に成長しています。まさに「三日見ぬ問の桜」です。子どもは「時」を栄養に、間違いなく成長します。そんな子どもに引き比べて、私たち大人はどれだけ人間として成長したでしょうか。考えると背中に脂汗の流れる思いがします。日蓮聖人は、「人変じて仏となる」と私たち人間の生き方を教えられました。「時」は、とても移ろい易いもの。そしてあっという間に過ぎていくもの。それだけに、「三日見ぬ問の仏かな」といわれるように、「今」という瞬問を大切に、仏の自分を目指してしっかりと生きたいものです。」「法性山 妙運寺」。もちろん日蓮宗の寺。右に「本堂」、左に「??」を見る。「本堂」。「本堂」の扁額「妙運寺」。内陣。更にズームしましたが・・・。日蓮聖人が・・・「まだまだ修行が足りない」と。本堂前に建つ、「日蓮聖人像」。お顔をズームして。この時はしかっりとカメラの焦点を確認してシャッターを押したのでした。寺務所。「今月の聖語法華経は明鏡の中の神鏡なり」=神鏡=鏡の前に立ったとします。あなたの顔、映っていますよね。でも不思議に思いませんか? 一番身近にありながら自分の顔は鏡を通さないと見ることができません。同様に私たちの生き様自体も自分では見えているようで実は見えていません。私たちの姿がありのままに見えているのは仏さまのみです。その仏さまの目を「神鏡」というのです。そんな私たちが「神鏡」に映った我が身を見る術は、素直な心で一心に仏さまに手を合わせる。この一点に尽きるのです。日蓮聖人ご遺文『神国王御書』本書は「神国」とあるように、冒頭、天神七代・地神五代の流れを受け継ぐ日本に、仏教が伝来した経緯から説き起こされます。その尊き縁をいただく国でありながら、なぜ内乱が起きるのかを究明され、その原因は仏法の乱れが人心の乱れを引き起こし、下剋上の世を招いたと指摘されています。人びとの心の鏡になるべき教え……。すなわち法華経という「神鏡」に心を照らすべきことを強く訴えられているのです。 文永12年(1275) 聖寿54歳」チョット古い、昨年の「今月の聖語」であったようだが。境内には「井戸」があった。題目塔「南無妙法蓮華経」。 日蓮宗の宗紋である「井桁に橘」。「本堂」、「日蓮聖人像」を斜めから。再びこの建物は?「慈母観音」とその奥に「十三重塔」。「慈母観音」とその奥に八重桜。更に近づいて。「慈母観音」。賽銭箱の上に常香炉。「稲荷社」の朱の鳥居。「稲荷社」。「稲荷社」の横に「十三重塔」。「妙運寺 墓参り十ヶ条」とあったが・・・。「本堂」を振り返って、「妙運寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.20
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次に訪ねたのが真鶴半島。2月2日(水)~3日(木)に「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」で帰路の最後に尋ねる予定でしたが、この日2月2日(水)に旅友が伊豆の国市長岡で体調が急変し救急車で緊急搬送され手術入院したので、旅友がこの真鶴半島を訪ねていないので、彼が訪問したことない主要な場所をこの日に案内したのであった。最初に訪ねたのが真鶴町にある「しとどの窟」👈リンク治承4年(1180年)に勃発した石橋山の戦いにて、大庭景親らに敗れた源頼朝らは、土肥実平の案内にて土肥郷椙山に逃げ込み、湯河原の岩屋「しとどの窟」にて休息した。そして、土肥実平らと箱根を経由して真鶴に降りて、岩海岸(岩海水浴場)にある「しとどの窟」にて一夜を明かし、船で東京湾を横断して、安房国(房総半島)へ脱出したと伝わっているのだ。しかし、出航した地は、ここ真鶴港ではなく、岩漁港と、ここから約1.6km、離れているのだが。この真鶴町にある「しとどの窟」の真相は??源頼朝のみぞ知る真鶴「しとどの窟」。そして次に訪ねたのが「源頼朝船出の浜」碑 👈リンク。石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中に逃れ、一時箱根権現に潜んでいたが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、この浜から安房へと向かった。湯河原町の城願寺に残されている頼朝主従七騎の伝説によれば、従っていたのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。頼朝の脱出に協力した漁船は、その後長く税が免除されたと伝えられている。「源頼朝開帆處」👈リンク。「誓復父讎擧義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆 處謡曲長傳七騎名 文學博士 鹽谷 温 題」 と刻まれていた。読み下しは、「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す 佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」意味は、「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と兵を挙げて、石橋山にて(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)佐公(頼朝)が再起を図り船出した昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)七騎の名を伝えていることからも分かる。」と。源頼朝が安房へと船出した岩海岸(岩海水浴場)と有料「真鶴道路」の岩大橋を見る。真鶴町と合併するまでは、岩村と呼ばれていた岩地区。「祝村」(いわいむら)を呼ばれていたものが「岩村」(いわむら)と呼ばれるようになったのだとか。「祝村」と呼ばれた由来は・・・○平氏の追跡から免れた頼朝が喜んで「祝村」と名付けた。○船出した頼朝が、戦に敗けたことがなかったことから「祝い村」と呼ばれるようになった。などの話が残されているのだと。前方の島の名は「弁天島」と。次に訪ねたの「兒子神社(ちごじんじゃ)」。この「兒子神社」は私も前回は訪ねていなかったのであった。しばし神社入り口にあった民宿「さざ波」のオバちゃんと雑談。このオバちゃんはこの真鶴半島で生まれ現在までこの地を離れたことはないと。そして神社の一の鳥居へと向かったのであった。近いうちにこの民宿で新鮮な魚料理を楽しみたいと考えているのである。神奈川県足柄下郡真鶴町岩653。アジサイも美しかった。石段の横にあった「護國塔碑」と「忠魂碑」。「護國塔」碑。圓覚管長 宗源書と。朝比奈 宗源(あさひな そうげん)氏であろうか。「英霊氏名」が刻まれていた。大東亜戦争における戦没者 英霊四七柱。「感謝の碑平成七年八月十五日は終戦五十周年になります。平和日本の礎となりました英霊諸兄の尊い生命を捧げ、祖国を守り日本再建の基をつくってくれました。この功績が永く輝き続けるよう関係者一同多数の協力者と感謝の碑を建立し遺族の方々の幸せと郷土の繁栄を祈ります。 平成八年八月十五日」「忠魂碑大正8年12月2日建立昭和12年5月 移設 帝國在郷軍人會岩村分會 建立元帥公爵 山縣 有朋 書」移転の経緯碑(副碑)大正八年十二月二日瀧の元の地を相し碑を建て護国の忠魂を祀れり地や素村内一望の高台に在り数畝の沃田を脚下に眺むる風光なりしが、大正十二年九月一日の大震災に依り、倒壊せる小学校校々合の此の附近に移転改築せられてより、碑前の風致頓に狭院の感を呈し、新に改修成られる村社兒子神社境内に改修の議起こりたる時、図らずも二月十五日小学校不幸の襲ふ所となり、校舎鳥有の死に遇ふ。即ち、校舎復興の計画樹立せられ、校地拡張の議決するに及び全村民各位の一致協力を仰ぎ、此の神域に移転改修の工を竣へたり石段を上って行った。突き当りを右に。さらに石段が続きその先に二の鳥居が現れた。二の鳥居の先に拝殿が。「御大典記念事業完成碑自然に恵まれた岩の氏神として、御鎮座以来人々の篤い心と、力の結集をいただき、期に望み御造営、改修等を実施してまいりましたが、昭和八年、御社殿の改築時に完成した石段も永き歳月により「ゆがみ」を生じ、修復を願う人達の要望により、御大典記念事業として着手したところ特志ある六百余名の御協力により、無事完成をみるに至り、関係者一同にとり喜びにたえません。また、この記念事業に合せ、心ある篤志家より、大前に本小松石による、春日燈籠壱対の奉納もあり、深く感謝いたす次第です。この計画の完成により、神域の威容を高めたことは勿論でありますが、今回の計画に奉賛された人達の家業の安全隆昌と、家族の健康を偏えに祈念するものです。」。手水舎。二枚貝の如き石碑。「さざれ石」。「さざれ石 北海道沙流川産さざれ石とは本来小石のことですが、「古今和歌集」に我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむす迄 とあるように次第に大きくなって巌になると信じられてまいりました。氏子皆様がたが千代に八千代に共に栄えこの「さざれ石」のように大きく発展されることを祈って奉納されたものです」「兒子神社」碑。「御祭神 文徳天皇の皇子 惟喬親王(これたかしんのう)とその御子神 例祭 七月十四日 十五日に近い土曜 日曜 由緒 延喜年間(17世紀)の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を焼失し、 古記録等はこの時に失った。 御子神は親王の後を慕ってきた従者二人を従え二才になられた若宮を擁して当所に 来られたが若宮 病を得て夭逝されたので御父と供に奉斎したと伝えられ、以後 子供の流行病の厄除けの参拝が多く見られた。 古来、岩地区の人たちの生産と生活の守り神として信仰されている。」「神輿舎建設記念」碑。「御輿舎建設基金寄附者御芳名」が刻まれていた。そして正面に「拝殿」。狛犬(右)。「昭和8年生まれの陶器製狛犬。写真で阿の顔が大きく写っていますが、これは写し方が悪いのではありません。実際に阿吽の上半身の大きさがかなり違うのです。吽は均整のとれた体つきをしていますが、阿は上半身が太く逞しく腰が異様なほど小さい子で、大きな顔でガハハッと笑いながら参拝者を出迎えています。眉毛・鬣・尾など毛の流れが躍動的ですね。」とネットから。狛犬(左)。「拝殿」。1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。以前に訪ねた「瀧門寺」👈リンク の「五層塔」は、万寿を葬った塔なのだ。扁額「兒子神社」。大きな流造の「本殿」。真鶴町の児子神社は、延喜年間の創建と伝えられる古社。1180年(治承4年)、石橋山の戦いで平氏に敗れた源頼朝が船出したという岩海岸を見下ろす高台に建てられた社。祭神:惟喬親王之御子神(これたかしんのうのみこがみ)。社殿の裏側に立つ裏門からの石鳥居。「本殿」の右奥の裏門手前にあった手水場の「手洗鉢」。「右三つ巴」紋、「法輪」紋、「卍(まんじ)」紋が。「重要文化財指定 名称 岩村中奉納 手洗鉢 数量1上記のものは、真鶴町文化財保護条例に基づき重要文化財(有形文化財)に指定する。平成18年4月1日 真鶴町教育委員会」「石灯籠」とその奥に公孫樹の大木。「本堂」前から境内を見る。境内社「龍宮神(りゅうぐうじん)」に向かう。鳥居の扁額も「龍宮神」。新設された「社殿」。竜宮伝説は、浦島太郎に始まった訳ではなく、それ以前から海の神様としての龍神信仰に基づくもので海の中に竜宮があり、海の神様である竜神が住んでいるとの伝承は古代から続いているもの。海を生業の場としている漁業者は、竜神様が頼みの綱であり、それをお祭りした竜宮様、竜神様が全国の漁村にあるのだと。扁額「龍宮神」。内陣。そして再び岩海岸に向かって進むと左にあった石祠。次に訪ねたのが「津島神社」通称は「お天王さま」。真鶴町の岩郵便局の裏手、住宅に囲まれたひっそりとしたところに、ひときわ目立つ真っ赤な鳥居が建てられていた。神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴709−1。「津島神社祭神 素戔之男命(スサノオノミコト)勧請 寛文四年八月(1664年)御神徳 疫病・厄災難除け由緒 当社は疫病・厄災除けの神として、霓文四年(1664年)に勧請されて以降、「津島神社」は 岩のお天王さんと呼ばれ永く地域の方々に信仰され崇敬を集めておりますが、長年の風雨などに よる損傷が激しくなってまいりました。 その為、令和ヘの御代替わりの大事業として鳥居の復元を筆頭に堺内地の整備を行い、愛知県 津島市神明町に鎮座する「津島神社」の御本社より「分御霊」を再び勧請してまいりました。 今後とも地域の皆様の守り神として広く信仰されます事を祈念いたします。」歴史を感じさせる石碑群。長年の風雨にさらされ、損傷が激しくなっていたのであった。石段を上って行った。鳥居に見立てた鉄骨が。その奥には石祠が3基と石灯籠が1基。中央の石祠2基。次に訪ねたのが以前に訪ねた「如来寺跡」👈リンク。神奈川県足柄下郡真鶴町岩630。そしてこの日の真鶴半島の最後として訪ねた「龍門寺」👈リンク。神奈川県足柄下郡真鶴町岩。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「八幡神社」を後にして北に向かう。正面の道路脇に墓地が現れた。地蔵堂。地蔵尊。歴史を感じさせる石碑群が並ぶ。「陸軍歩兵一等卒勲八等石井徳蔵墓」と刻まれた墓石。墓地を望む。右折して進むと見えて来たのが「萩園橋」。「はぎそのはし」。「はぎぞのばし」ではないのだと。「小出川」の下流側を見る。新湘南バイパスも見えた。上流側。「小出川」。「萩園橋」を渡った後は「小出川」に沿って北に進む。富士山の姿が確認できた。ズームして。大山の姿も。道なりに進むと右手にあったのが「神奈川県立茅ケ崎養護学校」。「神奈川県立茅ケ崎養護学校」の正門から校舎を見る。神奈川県茅ヶ崎市西久保29−1。「神奈川県立茅ケ崎養護学校」発達障害もしくは発達が気になるお子さんが利用できる神奈川県(茅ヶ崎市西久保)の特別支援学校。「新湘南バイパス」の下を左折して高架下を歩く。前方にあったのが「懐嶋山の碑」。その先には「茅ヶ崎JCT」の高架橋が見えた。「旧跡 懐嶋山(ふところじまやま)」碑(えな塚)。神奈川県茅ヶ崎市西久保。「旧跡 懐嶋山新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を歩んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス」「旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤(胞衣(えな))を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。」そして県道44号線・伊勢原藤沢線の地下道に向かう。地下道の壁画を楽しむ。平成28 年度から茅ヶ崎市とNPO 法人湘南スタイルとの協働事業(平成29 年度までの2 か年事業)「落書き防止、抑制のためのアートペイント事業」を実施し、平成30年2月に第2期の西久保橋東側地下道のアートペイントが完成した のだと。製作者は1986 年生まれ、福島県福島市出身 佐川 友星氏茅ヶ崎に残る河童徳利伝説をテーマに、自分のスタイルである抽象表現を組み合わせて描いたと。トンネル中央の2 体のキャラクターは、『河童』と『おちょこ』をかけ合わせており、その両脇に広がる抽象的なラインは、左手側が『光(おじいさんと馬のあおが過ごした希望ある日常)』、右手側が『闇(酒に溺れ迷うおじいさんの精神世界)』をイメージしているのだと。壁画として周囲の環境を見て感じ、色味や空気感を大事に描いた。また、現場でのペイント中に、道行く地元の方々からのお言葉や会話の中からヒントを頂きながら制作にあたったのだと ネットから。そして県道44号線・伊勢原藤沢線への階段を上る。県道44号線・伊勢原藤沢線に出る。左に進むとあったのが2枚の案内板。「民話 「河童徳利」伝承について民話「河童徳利」は、昔西久保に住んでいた五郎兵衛さんという人物が、この西久保橋の上流にある間門橋(現在の大曲橋)のたもとで河童と出会ったことから始まります。馬の尻尾にかじりついた河童は、村人たちに捕まりますが、五郎兵衛さんが河童を逃がしてあげました。そのお礼にと河童からもらった徳利は、底を3回叩くまでいくらでもお酒が出るものでした。五郎兵衛さんは朝から晩までお酒を飲み続け、すっかり怠け者になってしまいましたが、ある日大切にしていた馬がやせ細っていることに気づき、徳利の底を3回叩きお酒が出てこないようにし、もとの働き者に戻りました。西久保には遥か古来よりこの河童にまつわる伝説が民話として伝わっており、現在に至るまで多くの人々に愛されてきています。」「小出川流路の今昔この西久保橋の下を流れる小出川は、昔は間門川や赤池川と呼ばれてきました。河童徳利の民話など、小出川は古来より地域と共にあり、様々な恩恵を授けてきた一方で、自然災害の猛威を振るってきました。小出川は大正時代初期までこの西久保地域より少し西側を細かく蛇行しながら流れていました。しかし、夏頃になるとしばしば水害が起きていたことから、上流と下流側で河川改良組合が発足し、大正時代後期から昭和時代初期にかけて、ほぼ現在の流路とするための改修が行われました。この結果水害が減り排水路も安定したため、農業の向上にも繋がりました。」このキャラは?「小出川流路の今昔」。昔はかなりの蛇行があったようだが。「小出川」に架かる「西久保橋」、高架橋は圏央道。圏央道の「茅ヶ崎JCT料金所」を見る。圏央道の「茅ヶ崎JCT料金所」を見る。「小出川」を見る。この後に訪ねた「妙運寺」の案内が妙運寺第二墓地前に。新湘南バイパス脇には電波塔があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.19
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「熱海・ジャカランダそしてブーゲンビリアを楽しむ」の帰路に「熱海身代り不動尊」に立ち寄った。国道135号を左折し、幟の立ち並ぶ坂道を上って行き、「大本堂」横の第2駐車場に車を駐め、散策開始。右手にあったのが「寺務所」。城の隅櫓の如き建物であった。静岡県熱海市伊豆山837。「熱海身代わり不動尊 境内ご案内」。「木所正衆大僧正」像。「身代り不動尊」は正確には大日大聖身代り不動明王といい、神奈川県川崎市の別格本山大明王院とここ熱海そして横浜、東京の三別院のご本尊であると。前貫主「木所正衆大僧正」はここ熱海伊豆山に縁の深い、真言宗修験道・山伏の元祖である役の行者神変大菩薩を祀り、身代り不動尊熱海別院を、ここに建立することを発願した人物であると。車お清め所。このエリアが車お清め希望の方専用の駐車場となっているようであった。そして「大本堂」を斜めから。「不動尊は不動威怒王あるいは、無動尊、不動使者とも言われ、五大尊の中央に位し、憤怒形を示しており、外は厳めしい形相を表しております事は貧瞋痴の三毒や悪魔を折伏し強剛難化の衆生を漏らさず済度するためで、青黒色は大威猛金剛不壊と絶対活動を意味するものであり、慈悲心の象徴でもあります」とネットから。石碑には「伊豆山 身代不動尊 熱海別院」と。「大本堂」を正面から。海上安全や水難除けといった海の安全祈願を行っている寺院。平成十二年に落慶十周年を迎えた。緑の山脈に懐かれ、紺碧の空の下、清澄な伊豆の海を眼下に白亜に丹朱の大本堂。賽銭箱には「浄財」と、桐花紋「五七の桐」が。太閤 豊臣秀吉ゆかりのある神社が使用する例が多いが。内陣。ズームして。「身代わり不動尊護摩祈願」案内板。様々な御利益があるようだ。「がん封」や「ぼけ封」も。「虫封」とは「水虫封じ」ではなく、「子供の疳(かん)を鎮めるためのまじない。昔は、子供がひきつけや疳をおこしたりするのを、「虫がおきる」「疳の虫」などといい、体内に虫気が生じたからと考えられた。」とネットから。最奥の場所から国道135号を見下ろす。坂道には様々な色(五色?)の幟が「密」状態で並んでいた。「身代り不動尊 奉納五代明王」の文字が。そしてこちらは「信徒会館」。坂道を降っていくと左手にあったのが「熱海地蔵尊」。近づいて。「子授子育 水子供養 熱海地蔵尊」。「子授子育 水子供養 熱海地蔵尊〇当山熱海地蔵尊は子育て、子供の安全生育を守り、殊にはやむにやまれず中絶流産等により 尊い生命を奪われた事は思うだに悲しいことです。 この菩提をとむらい七十七回熱海地蔵尊にお参りするとその罪障も消えて愛児も安んじて 華蔵界(極楽)に入り親も幸福になると謂われております。 愛児の冥福を祈らなけれぼやがてわが身の罪としていろいろの障害に苦しみ、或いは中老年に なって頭痛腰痛その他の厄難に遭うと謂われています。この憐れさ苦しさを救うには、 六道能化の地蔵菩薩のお導きの外ありません。〇茲に当山貫主木所宥衆は発願して涌き水も清らかなこの地を結界して熱海地蔵尊を建立し たものてす。〇ご供養のため「月まいり」「日まいり」をされる方は本堂受付へお申込み中下さい。朱印帳を 差し上げます。また菩提供養のために護摩札の申込みも受付ております。ご真言 オンカカカビサンマエイソワカ 二十一返 身代り不動尊」ご真言をおとなえするとき七返、二十一返、百八返を基本として数えます。そこで、仏具の百八の珠があるお念珠では、七つ目、二十一つ目のあとに小さな珠をおき、 数を教えてくれるようになっています。多くの可愛い人形やミニカー、玩具が奉納されていた。その横には湧き水が。湧き水による「手水場」。水場の石は苔生して風情が。奥に進み、「信徒会館」を見上げる。手前の擁壁のブーゲンビリアをカメラで追ったのであった。糸川と同じく2色のブーゲンビリア。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「萩園通り」に面して隣にあった「満福寺」に向かって進む。「満福寺」の入口に直ぐに到着。神奈川県茅ヶ崎市萩園1632。「高野山真言宗 大皷山満福寺」。入口右側に右側に鉄枠で囲まれた「地蔵尊」。寺号標石「高野山 真言宗 大皷山 満福寺」。正面に「本堂」。参道右手に石仏群。その隣に「大子堂」。「弘法大師像」。石碑には、「鉦の音 六つの巷に 栄えなば みの入相を 思いしるべし」 新編相模風土記稿萩園の条に 地蔵堂満福寺持木造にて腹籠の 像あり相州二十四輩札所第八番なりの記あり「宝篋印塔」。大きな石碑。菊池翁碑銘 前宮内大臣正二位勲一等伯爵土方久元篆額嗚呼菊池翁之逝既三年・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・猗菊池翁 起身名族 和以親人 郷辑黨睦 誠以敬神 崇祀穆粛 治水有功以感州牧 蠶桑興富 以潤民屋 慶◯孫子 永◯介福 分福無窮 有碑之大正五年八月 神奈川縣立小田原中學校長正七位阿部宗孝撰 雨降山大山寺法主前學頭権中僧正高木秧雅書「菊池翁碑」「菊池翁」の文字が。墓地を見る。石碑と石仏。「屋根修理記念」碑。石仏。「本堂」。近づいて。「高野山真言宗 重ね宗紋」。内陣。ズームして。「本堂」前の大きな石灯籠。そして「十王堂」。内陣。死後の世界をつかさどる十人の王を祀ったお堂。 泰広王(不動明王)・初江王(釈迦如来)・宗帝王(文殊菩薩)・五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩) 変成王(弥勒菩薩)・太山王(薬師如来)・平等王(観音菩薩)・都市王(勢至菩薩)・五道転輪王(阿弥陀如来)ズームして。十王とは私たちが亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の十人の裁判官である。そして、亡者は供養によって、これらの仏様に救われて仏界に送られるという。 「萩園通り」から墓地越しに「満福寺」の「本堂」を見る。同じ場所から「常顕寺」の「本堂」を見る。次に訪ねたのが「稲荷社跡地」。前方の小さな林の前に石鳥居が見えて来た。神奈川県茅ヶ崎市萩園1805−9。石鳥居。扁額「正一位」。社殿。内陣。小さいながら、稲荷社があったが、「稲荷社跡地」とは??畑の角にあった「馬頭観音」碑。「馬頭観音」碑に近づいて。そして次に訪ねたのが「八幡神社」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1819−15。朱の鳥居。扁額も「八幡神社」。「社殿」。内陣には石祠が3基。「社殿」の裏にあった小さな五輪塔群。その先、民家の庭?の角にあった石仏。赤ではなく白の布で覆われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.18
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「御成橋」の名は、家康公が熱海を訪れた際、この橋を通って「御成り」になったことに由来し、橋には家康公が詠んだとされる「句」👈リンクが刻まれていた。「徳川家康熱海入湯句碑春の夜の 夢さへ波の 枕哉慶長9年3月3日 徳川家康」。「春の夜は短くすぐ明けてしまうのに、そのはかない夢にもこの地・熱海の波が現れて来てはかなく消えてしまったのだ」か。慶長9年(1604年)3月、家康は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した。関ヶ原合戦前の慶長2年(1597年)3月にも訪れ、熱海の湯で天下取りへ心身の疲れを癒した。計2度訪れたと。 「あたみ桜」の案内板。「あたみ桜」は、明治4年( 1 8 7 1年)頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関東以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1カ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1~2週間)。市制40周年にあたる昭和52年4月には「市の木」に制定されました。今にも動き出しそうなタコの姿が。近づいて。再びブーゲンビリアの花を愛でながら川に沿って下って行った。糸川の清き流れを覗き込むように赤のブーゲンビリアが。「ドラゴン橋」のドラゴンは口を大きく開けて。「かつて赤線地区だった一帯のイメージを変えたかった」が、様々な橋のデザインの当初の目的の一つであった事を以前にネット情報から知ったのであった。再び「ドラゴン橋」から「糸川」の白き流れを背景に。「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。」亀とマンボウのオブジェ。上部は波の姿か。「亀」さん。「桜橋」の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。今日が花のピークか。「黄一点」。「桜橋」まで戻る。「金糸梅」もこの時期は遠慮気味に。ベンチは蔓植物が独り占め。「金糸梅」に近づいて。「糸川」の」水面を覆い隠すが如くに。赤のカオス。そして「糸川橋 」の麓、これが「糸川あたみ桜 基準木」。アジサイも負けじと。「熱海桜」碑。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年( 1 8 7 1年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植我されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」「糸川あたみ桜 基準木」案内柱。「糸川あたみ桜 基準木」を再び。今年2022年2月2日(水)早朝に訪ねた「糸川あたみ桜 基準木」の開花状況です。「糸川橋」から上流を見る。「糸川橋」の欄干には白きカモメの姿が。ズームして。緑の木、青い水、白い鳥のデザインが美しい。「HOTEL LIVEMAX(ホテルリブマックス) 」が対岸に。懐かしい文字「鎌倉御殿 Soap Land」と。「熱海なのに鎌倉?」。様々な色合いのアジサイが。見事な青のガクアジサイ。これぞパープルブルー。「ジャカランダ」も忘れないでと。「ノウゼンカズラ科中南米原産の落葉高木。ラッパ形で青紫や青藤色の花ガ多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種がある。」そして駐車場の脇の民宿の玄関前にもブーゲンビリアが。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.06.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「産業道路」に向かって「萩園」の住宅街を西に進む。「産業道路」に合流して右折して100mほど進むと、左手にあったのが「第六天社」。石鳥居の扁額は「第六天」。正面に「社殿」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1228。内陣。境内にあった「道祖神」碑。そして次に訪ねたのが「十二天神社」。神奈川県茅ヶ崎市萩園511付近。石鳥居の扁額は「十二天」。唐破風笠付角柱庚申塔。元禄7年(1694)12月月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・四臂)・三猿(三面)正 面 月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・四臂)・一猿(不聞)正面右側「オン・カ・バ・ブ・キシャ・ウーン・□・ウン・ラ・ソワー・ サ」(梵字) 〃左側「爲庚申供養二世安楽也」 〃下側「敬白」右側面 蓮華・一猿(不見) 「□□□者」・5人の名左側面 蓮華・一猿(不言) 「現證佛菩提」・5人の名裏 面「時元禄四甲戌天 十一月吉祥日 萩薗村」「十二天神社」は、少し通りから離れた場所、忘れられたような林の中に境内があった。「道祖神」碑。小さな五輪塔の如き石碑群。正面に「社殿」。「拝殿」御祭神:十二天、(以下推定)・国常立神/国常立尊(くにのとこたち)・豊雲野尊/豊斟渟尊(とよくもの)・泥土煮尊/宇比邇神(ういじに)・沙土煮尊/須比智邇神(すいじに)・角杙神(つのぐひ)・活杙神(いくぐひ)・大戸道命/大戸之道尊/意富斗能地神(おおとのぢ)・大戸辺命/大斗乃弁神(おおとのべ) ※[別称]大苫辺尊(おおとまべ)・淤母陀琉命/面足尊(おもだる)・惶根尊(あやかしこね)・伊弉諾尊/伊邪那岐命(いざなぎ)・伊弉冉尊/伊邪那美命(いざなみ) ※[別名]黄泉津大神(よもつおおかみ)扁額「十二天」。卒塔婆には「有縁無縁一切精霊」の文字が。「拝殿」前から境内を振り返る。銀杏の若芽が美しかった。南下して次に訪ねたのが「常顯寺」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1441。題目碑「南無妙法蓮華経」・常顯寺と。よって日蓮宗の寺。大乗阿闍梨日澄の旧跡。旧本山は鎌倉の比企谷妙本寺、脱師法縁。「日蓮聖人 法孫 九老僧 日澄聖人 旧跡」。法孫(ほうそん):仏教の門流であること九老僧(くろうそう):日蓮の弟子の日朗の高弟9人のこと。日朗は多くの子弟の養育にあたる。 その中で特にすぐれた以下の9人を後世に九老僧と称した。「今月の聖語浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」「今月の聖語」解説=自らの価値観を顧みよ=「丈夫」とは一般に強い、壊れにくいことをいいます。仏教では「正道をまい進し決して退転しない修行者」のことを指します。さらに仏さまを尊称して「調御丈夫」と表現することがあります。この語は仏さまが一切の丈夫を教え導く師であることを意味しています。師たる仏さまは弟子の丈夫たちにこのように説かれました。「世法の価値観に囚われてはならぬ。不変の真理を規範として歩め」と。日蓮聖人ご遺文『顕仏未来記』本書は日蓮聖人自らが題号をつけられたお手紙で、短編ながら枢要な教えが説かれています。聖人は本書著述の前に最重要御書である『観心本尊抄』を著わされ、ご自身の使命と弘めるべき教えを弟子信徒に顕示されました。この書にはその教えがより端的に説かれています。書中、お題目の流布は既に2千年前に釈尊が予言されていたこと。さらに聖人自身が釈尊から末法の世に法華経、お題目の布教を託された丈夫であるとの自覚とその誇りを述べておられるのです。文永10年(1273) 聖寿52歳」「山門」。扁額「本立山」。ここにも「今月の聖語仏くようの功徳莫大なり」。これは3月の聖語であったが。井戸跡であっただろうか。既に紅葉したような姿のモミジ葉。正面に「本堂」。永代供養墓。「日蓮大菩薩」碑。「本堂」の正面。扁額「常顯寺」。内陣。ズームして。山門前にあったが「常顕寺の木造日蓮坐像大永七年(1527)在銘 平成八年十一月茅ヶ崎市指定重要文化財【写真は何故か外されていた】室町時代の年号銘のある日蓮像です。市内の仏像彫刻の古いものの一つであり、全国に数多い日蓮像のうちでも早い時期に造立されたものとして重要です。本堂にまつられています。像高二九センチ、袖張三七・五センチの大きさです。寄木造りで玉眼嵌入、彩色はほとんど剥落しています。像が敷いている上げ畳台座の天板裏に、向かって右から「敬白 願主/大永七年丁宛(亥)四月十八日/小田原 徳乗房/日盛(花押)」と墨書銘があります。」「重要文化財「常顕寺の木造日蓮坐像(大永7年:1527年)」をネットから。【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006294.html】より「日蓮大聖人」像。お顔をズームで。「子之権現(ねのごんげん)」。扁額「子之権現」。龍の彫刻。「子之権現本立山 常顯寺日蓮宗 鎌倉妙本寺末元応元年(1319年)宗祖日蓮大聖人九老僧行善院日澄聖人によって開かれた。境内に祀る子之権現は日澄聖人の開眼になり諸願成就の神霊として古くより世に知られる。寺宝として日蓮大聖人の直筆を所蔵している」句碑。「御扉や桜の空へあけ(希)放つ 九一題 一九八〇建立 門人 小池まさる」。寺務所。「萩園学校跡」碑が左手に。「萩園学校跡明治五年八月学制布告される。明治七年(1874)常顯寺に詳恭学舎設立後萩園学校と改称萩園新田を通学一区域とす。明治十年六月萩園学校と今宿学校合併、今宿に台小学校設立される」境内の南側にあった「淨行菩薩」。「淨行菩薩像」。「淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま因縁淨行菩薩さまは法華経涌出品第十五に説かれ、上行等四菩薩のお一人で久遠実成のお釈迦さま、成道の最初のお弟子です。毎に垢穢を淨めることを行とされ、諸人この淨行像を淨めれば、その功徳によって病は即ち消滅の霊験たちまちに至り、御経文の「其身甚清淨 如彼淨瑠璃」の御利益を得られることと存じます。何卒遍く参拝されて淨行徐病の慈恵を受けられるよう念じます。」開山以来歴代上人の墓。大きな「五輪塔」。「歴代上人」と。「子ノ権現」、「本堂」を見る。先程休憩した「常顯寺」の「休憩室」を振り返る。駐車場入口にあった「日蓮宗 本立山 常顯寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.17
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国道135号の横断歩道を渡り、「熱海渚橋(あたみなぎさはし)」越しに「熱海城」を見る。「糸川」に架かる「熱海渚橋」の遊歩道を渡る。今年の2月2日(火)に「第12回あたみ桜 糸川桜まつり」👈リンクの糸川沿いの糸川遊歩道のを訪ね「あたみ桜」の散策を楽しんだのであった。反対側の欄干を。円形のサイトグラスのある小さな白い橋。水族館でサイトグラスから魚を覗き込んだ如き姿や波の姿等一つ一つ違ったデザインで描かれていた。隣にあったのが「渚歩道橋」。こちらは、波の模様の欄干。上流に向かって左側の遊歩道を進む。前方に見えてきたのが「柳橋」。大きな波の姿が欄干の両側に。ザバーン!波をモチーフにしたダイナミックなデザイン。波頭には水鳥の姿が。「糸川」の流れ。「糸川」は、その源を静岡県熱海市の北部に位置する岩戸山(標高約700m)に発し、熱海市街地を貫流して熱海港に注ぐ、幹川流路延長2.9km、流域面積約3.4km2の二級河川。流域は、伊豆半島の東側に位置する熱海市の中央部に位置している。そして国道135号に架かる「糸川橋」。「糸川橋」から満開の赤のブーゲンビアリアを見る。ブーゲンビリア(Bougainvillea)は、オシロイバナ科ブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木。和名はイカダカズラ(筏葛)、ココノエカズラ(九重葛)であると。原産地は中央アメリカ及び南アメリカの熱帯雨林。ブーゲンビリアという学名の由来には2説あるのだと。1つは1760年代にブーゲンビリアの花を発見したフランス人探検家、ブーガンヴィル(ブーゲンビル)にちなんで付けられた説で、もう1つは、フランスの植物学者フィリベルト・コマーソンが見付け、友人のブーゲンビルの名を冠したという説。熱海市の中心部を流れるここ「糸川」の御成橋から糸川橋間(約180メートル)には、川を覆うようにブーゲンビリアが植えられているのだ。このブーゲンビリアは、毎年5月から10月にかけて赤・マゼンタ・紫などの南国的な美しい色の花(苞)を咲かせてくれるのだ。糸川橋付近には川へ降りる階段があり、隠れた撮影スポットとなっているのであった。石段を利用して川へ降りてブーゲンビリアを見上げる。実は、この花のように見える部分は苞(ほう)といい、花を取り巻く包葉。その中心にある白い筒状の部分が花なのだと。その先には赤紫のブーゲンビリアが。赤に比べて葉がやや多いが。灯りの造形。赤紫&赤のブーゲンビリアの共演。再び赤のブーゲンビリア。そして「桜橋」へ。欄干には「糸川桜」が。ズームして。石の欄干部にも「糸川桜」が。川面を覗き込むように。花言葉も「情熱」「激しい愛」「魅力」などと、南国らしい華やかさ。そして次に「ドラゴン橋」に。頭部に近づいて。「ドラゴン橋」からの絶景。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。骨格の如き欄干。「糸川」の白き流れを背景に。赤が水面に映り込んでいたが・・・。「ドラゴン橋」の袂に4基あった「瓦斯燈」。ズームして。現在、このガス燈は熱海市・建設課が管理、実際の運用/保守は熱海ガスが受け持つ。ガス燈の点灯時期は季節によって変わる。基本はタイマー点灯。熱海市内にはこのほか、熱海ガスの本社前に2基あるのだと。「瓦斯燈昭和63年四月吉日寄贈 熱海瓦斯株式会社」あたみ桜とガス燈のツーショットをネットから。 【https://my.plaza.rakuten.co.jp/diary/update/reservation/?d_date=20220616&d_seq=1748926】より。掌を拡げたが如きオブジェ。沢蟹の姿が。「新柳橋」へ。「新柳橋」の欄干のモニュメントには揺らめく柳の葉を見つめる若い男女の姿が。金糸梅とブーゲンビリアであったが・・・。花が糸川の川面に溢れ出るが如くに。手打ち蕎麦屋「鳳家(おおとりや)」の前には珍しいアジサイの花が。新種アジサイ 獅子王 に似ていたが。ヒラメのモニュメント。そして折り返し予定の「御成橋(おなりばし)」に到着。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市平太夫新田にあった「新田八幡宮」を後にして、再び東に向かって歩き「三島大神」に向かう、チョット道を間違えたが。正面の信号の角にあったのが「三島大神」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1719番。「神奈川縣指定村社 三島大神」碑。朱の鳥居が正面に。境内には多くのタブノキの大樹が。石灯籠(右)。石灯籠(左)。久しぶりに見る「両脚(四脚)鳥居」。扁額「三島宮」。「山宮藤𠮷翁㞢(之)碑」山宮藤吉は明治から昭和時代初期の政治家で、萩園村に生れる。鶴嶺村長、衆議院議員(3期)を歴任。「橋石」。小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって親しまれたが、大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊したという「橋石」が安置されていた。左側の石碑には江戸時代中期の「元禄十四年(1701年)三月」の記念銘があった。「橋石この巨石は、小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって村人に親しまれていた。大正十ニ年九月一日・関東大震災にあい、堤防と共に、ことごとく崩壊した。間もなく河川改修が行われ、現在の荻園橋として装いを新たにした。江戸時代中期に建造されたものと推定されるが、川巾四間・橋巾一間にこの巨石を使用した。当時としては、相当な大工事であって、村人には大きな負担が課せられたであろう。それ故に、此処が如何に重要な街道であったか想起される。小さい方の石は、側面に「元禄十四年三月」の記念銘があり、貴重な橋に使用されたものと推定されるので、村の中央を貫いている八王子街道の石橋の十字路にあったものと思われる。何れも萩園の歴史を物語る重要なもので、後世に残すべくここに保存する。」石碑群。境内の左奥から拝殿、鐘楼を見る。「三島大神」の境内の南西隅には多くの石碑が。「鎮守の杜は心のふるさと」碑。「震災記念碑」「弎(三)島社殿改築㞢(之)碑」石碑には下の如くに。萩園集落の被害として住家140軒の過半が全壊、死者2名、負傷者10余命を出し、地面に亀裂が走り、道路・橋梁・河川堤防など悉く崩壊したと記されていた。また碑文を書いた山宮藤吉は萩園出身で、茅ヶ崎・寒川地域を代表する明治・大正期の政治家であったとのこと。 【http://www.histeq.jp/kaishi_28/HE28_001_017_Takemura.pdf】より「徴兵加藤勝五郎招魂碑」西南戦争に従軍し負傷、凱旋中の10月5日に病死した加藤勝五郎さんの招魂碑。享年25歳。村民らによって明治12年10月に建立された。碑高157㎝、幅103㎝、厚さ17㎝、台石15㎝。漢字のみで。「徴兵加藤勝五郎招魂碑(篆額)明治十年西南之變相模髙座郡萩園村徴兵加藤勝五郎従役死明年十月正副戸長村用村民其其等及小區内其其等憫其勞而不歸又嘉其平素有行将立招魂之碑于本村三島神祠傍先書其従軍之始終與行状請余嘱銘之其従軍曰明治八年四月應徴入東京鎮臺營為一等卒十年三月隷陸軍少将野津公發東京廿日始戰于肥後植木町爾後數戰于日向濛雨焦暑攀嶺伏澗被銃創幸活九月全軍匝撃敵兵悉夷於是官軍凱旋五郎過西京得疾十月五日死齢廿五年八月之葬于大佛山其行状曰父曰平三郎家貧以五郎僮于江島下坊時年十一事僧甚慎餘力習書算亦成及父歿還家與母兄居時年十五家倍貧母恒病臥牀兄日外出傭作五郎毎日數次入輙省母出輙執来耜未曽見其少休也如此者數歳母頼之得安東陽居士曰嗟五郎勤于家勞于國如此而天貧之又従而奪之何耶雖然人皆知五郎恐其泯滅無傳相謀而不朽之蓋人之所為亦天也不可謂之不幸雖富且壽人聞其名則唾而詈若斯者抑亦不幸之甚□耶銘曰克孝克勇公私咸敦奚怙形□令名維存故老追悼胥謀于村有欝其社于招厥魂明治十一年戌寅十月本郡羽鳥耕餘塾師小笠原東陽造并書又篆 鎌倉郡片瀬村秋元平治鐫」「慰霊之碑」。西南戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争における萩園地区出身戦没者の英霊41柱(西南役1柱、日露戦役5柱、支那事変2柱、大東亜戦役33柱)を祀る慰霊碑。 地元自治会によって昭和42年4月に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日及び享年が刻まれていた。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝。神楽殿。「手水舎」。「手水舎」の読み方はさまざま。神社本庁は「てみずや」、大國魂神社は「てみずしゃ」と呼びますし、「ちょうずや」「ちょうずしゃ」と呼ぶところも多々あります。また、手水舎は「水盤舎(すいばんしゃ)」や「御水屋(おみずや)」と呼ばれることも。場所や地域によっては表記の仕方が変わることもあるのです。「水盤」の文字は「顒若(ぎょうじょく、ぎょうじゃく) 」と。おごそかなさま を表すと。そして「三島大神」の「拝殿」祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと) 菅原道真(すがわらみちざね)御利益 海上安全、家内安全、厄災除け、学業・受験合格唐破風下の鳳凰の彫刻。龍の彫刻。これも鳳凰の彫刻。「東川斎桂山筆 源為朝図」👈リンク 解説版。「市指定重要文化財 第四一号 東川斎桂山筆 源為朝図東川斎桂山筆(とうせんさいけいざんひつ) 源為朝図は、三島大神の社殿に保管されている絵馬である。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードを取材したものであこと、画風や款記から、狩野派に師事した町絵師の東川斎桂山による制作であること、また、奉納者や奉納年が天保七年(1836)であることが明らかになっている。本絵馬の奉納理由を直接伝える資料は残されていないが、源為朝が疱瘡などの疫病除けのモチーフとされる例があることから、図柄を広義の魔除けと捉えることができるほか、奉納された天保年間は飢饉や水害をはじめとする不安定な世相に対する意識を反映したものと考えられる。なお、東川斎桂山は、「金指桂山」「藤原美信」とも名乗り、江戸時代末期、没する弘化三年(1846)までの間、相模国各地で活動し、本市をはじめ、海老名市、相模原市、平塚市でその作品が確認されている。以上のことから、本絵馬は、江戸時代末期の茅ヶ崎における庶民の生活文化を伺うことができ、また、当時の相模地域の民間における芸術文化の受容を知るうえで重要な資料であると考えられる。」「東川斎桂山筆 源為朝図」。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードをもとに描かれた。海辺で、弓の名手と知られた源為朝の弓を鬼が弾こうと奮闘している姿が盛り込まれている。奉納年は1836(天保7)年。東川斎桂山は、茅ヶ崎市をはじめ、海老名、相模原、平塚でも作品が確認されている。「墨書の内容と位置関係」。「拝殿」、「本殿」を見る。拝殿横の「掲示板」。「萩園 三島大神 縁起御際神 大山紙命(おおやまつみのみこと) 山・海 兼備の守護神として祀られております。鎮座地 神奈川県茅ヶ市萩園1 7 1 9番地由緒 創建の時期は不明ですが、小田原北条氏のころ、荻園を治めていた家臣の篠窪氏と石川氏は 村民ともどもあつく崇敬していたと伝えられています。 江戸時代には真言宗満福寺が別当として管理していましたが、明治初期に明治政府の 神仏分離政策によって神社として独立いたしました。 今は、萩園地区(旧萩園村)の鎮守様として多くの人々に親しく祀られています。催事 初詣は、元旦・2日の2日間、御札などお分かちしています. 例祭は、毎年7月(海の日)に浜降祭に合わせて奉行されます。社伝等1 .本殿及び拝殿:大正14年3月 再建2.神楽殿 :昭和8年3月 再建3.鳥居 :昭和8年3月 再建 鳥居中央の「神額」は天保10年3月とされている4.幟 :大正4年9月 作製(山宮 藤吉書) 平成10年 複製作成5.鐘楼及び鐘 :昭和50年 再々作製6.手水鉢 :明治12年3月 作成7.神輿殿 :昭和56年10月 新築8.神輿 :昭和11年 中神輿新調 :昭和25年4月 大神輿新調」「萩園 三島大神 奉納絵馬茅ヶ崎市指定重要文化財「東川斎桂山 筆 源為朝図」・種別:絵・名称及び数量:「東川斎桂山 筆 源為朝図」1面・所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719番地(三島大神社殿内)・所有者:家教法人 三島大神・文化財(絵画)の構造・品質及び形状 【寸法】 縦119.4cm 横178.4cm 【材質及び形状】板絵著色・重要文化財指定日:令和8年(2021)年2月18日・重要文化財指定理由: 本絵馬は墨書により、制作者、奉納者、奉納年月が明らかであり、当地域における 江戸時代末期の生活文化をうかがい知ることができる資料である。 制作者である東川斎桂山は、江戸時代末期に相模国各地で活動し、当市を含む各地に多数の 作品を残していることから、本絵馬は、当時の相模地域における民間の芸術文化の受容や 絵師の活動を知ることができる貴重な絵画である。※拝殿扉が開く浜降祭・例祭日(海の日)、及び初詣【1月1日・2日】には、拝殿内左奥に 掲示されており、拝観できます。」次に「鐘楼」。「鐘楼」、昭和五十年七月吉日。「〇〇氏子中」と。ここには文字はなし。「神輿殿」。神輿をネットから。 【https://www.youtube.com/watch?v=B6Ye5_ODpis】よりそして「魯文の碑」。『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』などで有名な明治初期の戯作者、仮名垣魯文の記念碑。「魯文」の直筆が刻まれていた。その下に「印」。「先生が父の故郷相模国高座郡鶴嶺村萩園の人和田氏偶草庵を訪問されしかばななつかしさの余り訪ふ人もあらしの庭の秋去りて 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末 仮名垣魯文」と書かれているのであると、学友から。「魯文の碑本名を野崎文蔵といい、文政十二年(1829)魚屋、佐吉の長男として江戸・京橋に生まれる。父・佐吉は、萩園野崎一族の生まれであったので、魯文は幼少の頃、父の生家、野崎作右ェ門方で育てられ、寺の小僧や農家の手伝いにやられた。性来、本を読むことが好きで、百姓仕事など身が入らず、何処も長続きはしなかった。江戸へ戻ってからも丁稚奉公などに出されたが、相変わらず本ばかり読んでいた。十五歳の時、英魯文という筆名で戯作を始め、次々と新作を発表、明治八年横浜にて、「仮名読新聞」を創刊、大衆新聞の始めで好評を博した。その頃から、仮名垣魯文と改め、その名を知られようになった。ある時、和田久徳氏の祖祖父が、その居を訪ねた折 訪ふ人もあらしの庭の秋去りて 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末仮名垣魯文との一首を贈った。碑文はその直筆である。」この解説文を読む前には、何故この場所に「魯迅」が・・・と思った自分がいたのであった。「萬福寺」の文字が刻まれた石碑。根元にも石碑が。境内の北側・社殿の裏には「萩園自治会館」があった。タブノキの大木。「萩園東土地改良完成記念碑本東地区面積は十四ヘクタールの耕地であり古来より未整理の耕地の為、現在の大型化した農機具の使用に大変不便を感じ再三土地改良の計画がありましたが、実現されず今日に至り今回、相鉄興産㈱、相模興業㈱二社の土地改良を前提とした砂利採取の契約が地権者全員の同意のもと成立し昭和六十三年十月県の認可を受けて以来五年の歳月をかけて無事採取が終了し、平成六年十一月土地改良区を設立し県・市・土地改良連合会等関係機関のご指導を頂き県・市の補助により片側の側溝も整備することが出来ました。地権者の皆様には長い間一致団結され理解あるご協力を頂き約十年の歳月を費やして事業は完成致しました。以上で土地改良事業が完成したことを記して記念するものです。」そして神社前にあった「茅ヶ崎市広報板」。2022年7月6日(水)に今人気の落語家・春風亭一之輔の独演会が開催されるようであった。そして次に「小出川」の川沿いにある「来恩寺」に向かう。「新湘南バイパス」の高架に沿って進む。耐震補強工事が行われていた。そして橋の袂にあったのが「浄土真宗 来恩寺」。「沿革来恩寺は平成3年8月1日築地本願寺の湘南布教所として茅ヶ崎市矢畑に誕生いたしました平成6年6月現在地の今宿に本堂が完成し移転平成10年11月19日(獅子座流星群が地球に舞い降りた次の日)宗派に包括され 湘南教会 来恩寺となり平成12年8月18日神奈川県知事の認証を受け宗教法人「来恩寺」となりました浄土真宗本願寺派 東京教区 鎌倉組に属します」と「来恩寺」のHPより。「小出川」の下流を見る。そして次の目的地に向かって田園地帯を北西に進む。「萩園南土地改良完成記念碑」。道端の角にあった石仏、道祖神であろうか。畑の隅には紫のラベンダーの花が。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.16
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「熱海警察署 中央交番」まで戻る。「熱海警察署 中央交番」の先にあったジャカランダ越しに熱海城を見る。ジャカランダ越しに熱海海岸も。国道135号沿いのビル群も。「熱海サンビーチ」に人の姿は全く無くここも独り占め。ここを訪ねるのは「熱海桜」👈リンク を見に来た今年の2月以来。そして「熱海桜」の木の下にあったのが「釜鳴屋平七夫婦像」。台座には「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」ズームして。さらに。「ムーンテラス」を再び。廻り込んで。「熱海ムーンテラス」碑。正面から。ズームして。「熱海ムーンテラス」の「恋人の聖地」 のモニュメントをズームして。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。更にズーム。ヨットハーバーその先に熱海城。そして「スカイデッキ」を歩く。豪華クルーザー。プレジャーボートのうち、サロンクルーザー、メガヨット、ギガヨットと呼ばれているものの通称。一般的に25フィート(7.62m)以上の船舶で、サロンまたはラウンジ、トイレ、キッチン(ギャレー)、ベッドルーム、シャワーなどの「居住空間と居住設備」を備えたレジャー用のヨットやボートを現す言葉であるとウィキペディアより。熱海の高級マンション群を振り返る。美しい曲線美を楽しむ。再び山稜に立つ熱海城の姿を。左には「熱海後楽園ホテル」。再び「熱海城」をズームして。静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっている。しかし城郭は歴史的に実在したものではない。更に「スカイデッキ」を進む。知床半島の事故を想い出したのであったが。曲線の造形を楽しむ。「熱海親水公園」を振り返って。石段を降りて国道135号に。正面に見えたのが「ホテル渚館」。静岡県熱海市渚町11−11。「ホテル渚館」前のジャカランダ。このジャカランダには大きな花房がついていた。ズームして。今年のジャカランダの花もこれが見納め。こんな光景を自分の眼で見ることが出来る日が来るのであろうか?【オーストラリアのジャカランダ】👈リンク。 そしてジャカランダの花吹雪も。【メキシコのジャカランタ】👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「萩園通り」を北上すると左手にあったのが「松尾大神」。神奈川県茅ヶ崎市今宿586。入口右に社号標石「今宿 松尾大神」。入口左に境内社の「祇園天満両社」と。石鳥居。扁額「松尾大神」。手水舎。手水舎の蛇口には可愛らしいカエルの姿が。鐘楼。梵鐘。正面に拝殿。石灯籠(右)。石灯籠(左)。拝殿。ご祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)、総本社は松尾大社(京都市西京区)。現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂けるとのこと。創立年代、由緒などは不詳。松尾神社の一つだろう。例祭は7月中旬とする資料もあるが、9月中旬のようだ。神輿渡御などがある。もともと9月には当社の境内社である祇園社・天満社(祇園天満両社)の例大祭が行われ、今宿祇園天満両社例大祭として執行されていた。現在は、これが、今宿松尾大神 祇園・天満両社例大祭として行われている。また当社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。これらの神輿渡御のために、今宿松尾大神神輿保存会が結成されている。境内には他に、手水舎や鐘楼、石祠道祖神、庚申塔などがある。【ご利益】家内安全、地域安全、事業成功唐破風下の彫刻。蟇股部の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「松尾社」。「慰霊」碑。昭和13年から昭和22年にかけて日中戦争、太平洋戦争及びソ連抑留で亡くなられた今宿地区出身者の英霊23柱を合祀した慰霊碑。自治会によって昭和49年3月に建立された。碑高223㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝碑正面:「慰霊鈴木新吉 昭和一三・九・一 廿九才 北支森甚五郎 仝一六・三・一六 廿七才 中支佐々木昇 仝一七・六・五 廿二才 ミッドウエー今井憲一 仝一八・二・三 廿四才 青島粂旭 仝一八・四・三 廿三才 ビルマ今井理一 仝一八・八・一四 廿七才 中支今井藤助 仝一八・一二・二〇丗六才 南方洋上石井和助 仝一九・二・六 丗四才 マーシャル群島松本健三 仝一九・四・一六 廿五才 比島沖鈴野顕妙 仝一九・七・一八 丗二才 ミンダナオ島今井高治 仝一九・九・三〇 丗二才 マリアナ諸島板倉利保 仝一九・一二・二〇廿一才 レイテ島今井元次郎 昭和二〇・一・十五 廿五才 ハルピン森廣吉 仝二〇・二一五 廿二才 宮古島福田重太郎 仝二〇・二・一六 廿六才 日立飛行隊今井敏司 仝二〇・三一六 廿四才 比島田中榮治 仝二〇・三・一七 丗六才 硫黄島相原貫造 仝二〇・四・一九 丗八才 比島齊藤三郎 仝二〇・六・九 廿一才 朝鮮海峡岩崎國忠 仝二〇・六・一〇 廿四才 南方洋上森次尾 仝二一・三・七 廿才 ソ連太田健次 仝二一・七・一五 廿五才 ラバウル大井出蕃章 仝二二・六・五 廿七才 ソ連 元市長 出口肇 謹書」石碑の裏側。「建碑のことば平和で豊かに生活できる現在の私達は過去苛烈なる戦争に於いて尊い一命をささげられた勇士のあったことを忘れることはできません。ここに日中事変太平洋戦争における殉国諸士の遺勲を仰ぐため自治会員の浄罪を集めて慰霊の碑を建立しその英名を刻して感謝の意を表し後世に伝えて永く祭祀の誠をつくそうとするものであります 昭和四十九年三月 今宿自治会 渡辺三郎謹書 施工者 片瀬三代目 秋元」「本殿」を見る。現在の社殿は関東大震災で崩壊後明治四十五年に再建されたものである。「松尾大神」の「神輿」をネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/ohmiyasya/e/423924f9619debda58ed024fb0024909】より境内社が正面に。「天満宮」・「祇園社」。右には「天満宮」碑。左には「祇園社」碑が。庚申塔。「帝釈天王」の銘で帝釈天王庚申塔日月三猿庚申塔日蓮宗では庚申の本尊を帝釈天としている。今宿自治会館。御神木を見る。拝殿前から石鳥居方向を見る。脇門の近くにあった石碑。こちらは裏面のようであった。「氏子人名」として、4段に渡り合計48名の名が刻まれていた。正面の写真は撮り残っていたのでネットから。「震災記念碑」と。石碑の正面は、道路に向いていたのであった。この神社の前の道を通る多くの近隣住民に知って欲しいからなのであろう。 【http://maoym.blog27.fc2.com/blog-category-7.html】より。正面の文字は下記であると。ここ今宿の被害については、家屋が殆ど倒壊したと書かれ、「地表決裂シ至ル所ニ水ヲ噴キ」と書かれていることから、地盤の液状化現象が甚だしかったことが分かるのであった。 【http://www.histeq.jp/kaishi_28/HE28_001_017_Takemura.pdf】より石祠(流破風付)道祖神。年代不明拝殿前の御神木を振り返る。「松尾大神」を後にして再び「萩園通り」を北に進むと右手にあったのが「宮の前第2公園」。茅ヶ崎市今宿の「萩園通り」を進む。「萩園通り」を左手に折れ進むと、前方右手に石碑が立っている場所が現れた。ここが「萩園辻日枝神社」。社殿は取り壊され更地になってしまっていた。社殿の基礎は残してその周り敷地内はコンクリートでフラットにしてあった。柱などがあった位置には礎石がはめ込まれていた。庚申塔はしっかり固定され、道祖神などもそのままに位置にあるようだ。現在の状態になったのはつい最近のようで新規に社殿を造ることは無いのであろう。社殿の基礎は残してその周り敷地内はコンクリートでフラットに。三猿の庚申等の如き板碑が中央奥に立っていた。寛文2年(1662)11月板碑型月日(月日)・「南無妙法蓮華経 山王大明神」・三猿(龍前院型)正面右側「寛文二壬寅十一月吉日」 〃左側「施主辻村 惣旦方中 常顕寺日鏡 敬白」以前からあった石碑なのであろう。道祖神。兜巾型文字道祖神天保十三(1842)年板碑を斜めから。日枝神社を後方から見る。道祖神も。在りし日の「萩園辻日枝神社」の写真をネットから。 【https://ameblo.jp/soubu-nakamiti/entry-11788637438.html】よりそして次に訪ねたのが1kmほど西にひたすら歩いた場所・相模川の東側にあった「須賀夕映え公園」。神奈川県平塚市須賀2646−11・相模川の東にあったので「茅ヶ崎市」内と思い込み訪ねたのであったが、ここは「平塚市」なのであった。相模川の東側にある「神奈川県平塚市須賀」の飛地。相模川の流れの変遷を実感できたのであった。「須賀夕映え公園」は小さな公園。公園の左側には「彦右衛門新田」案内板が立っていた。「彦右衛門新田(ひこうえもんしんでん)現在この地は「須賀」の地名を残していますが、かつては、相模川対岸河口「須賀村」の飛地でした。この地は「彦右衛門新田」と呼ばれ、江戸時代前期に新たに開発された畑地でした。彦右衛門新田は、この地を開発した清田彦右衛門に名からとったものです。彦右衛門新田の記録としては、寛文五年(一六六五)の「相州大住郡須賀村御繩打御水帳(検地帳)写」が残っており、彦右衛門新田がそれ以前に開発された新田であることがわかります。代官坪井治右衛門の検知によって確定した広さは、九町四反八畝二〇歩(九四〇〇〇m2)で、市内でも最も開発面積の大きい新田でした。」西に進み相模川の堤防に上がる。「相模川」の姿と、遠くに「大山」の姿も辛うじて見えた。写真右手に「湘南平」の姿も。残念ながら富士山の姿は・・・。これぞ「夕映え公園」からの光景をネットから。ズームして。中央に「湘南平新展望台」の姿も確認できた。「ひらつかサン・ライフアリーナ」をズームして。神奈川県平塚市の馬入ふれあい公園内に位置する平塚市立の体育館である。平成25年に株式会社サン・ライフは平塚市との間で、ひらつかアリーナのネーミングライツ(愛称命名権)の契約を締結したのであった。地域企業が参加する「湘南ひらつかテクノフェア」がここで開催され、知人が出展しているので、何回か通ったことがある体育館。リバーポートマリーナの「ジェットフィールド湘南」。そして相模川の堤防上から「須賀夕映え公園」を見る。そして300mほど北上して「新田八幡宮 (しんでんはちまんぐう」へ。茅ヶ崎市内には江戸時代の村が23あったが、新田という名を付けていたのは平太夫新田(へいだゆうしんでん)だけと。新田とは、不毛な原野や大きな河川の流域などを耕作できるよう開発した土地のこと。戦国時代には戦国大名が、江戸時代には幕府や藩、村、農民、町人などが開発を進めた。特に江戸時代に多く行われ、全国の耕作地は倍増したといわれている。平太夫新田は松下平太夫という者が開いたといわれているのだと。 神奈川県茅ヶ崎市平太夫新田78。我が家の近くにも、「新田」と呼ばれる地があるのだ。「避難所・避難場所案内」板。現在地をズームして。この地図は「北」が下方に。よってこの場所は「相模川」の東100m程の場所。私には解りにくい地図表示であるが、住民の方々にはこの表示が解りやすいのであろうか。「松下平太夫」と刻まれた石塔。松下平太夫の供養塔は、今も鎮守・八幡神社の境内に祀られており、石塔の正面には「三諦院法源居士 松下平太夫」の文字が刻まれていた。ここ平太夫新田ではこの松下平太夫を偲んで、毎年11月30日に、塔の前で供養を続けていると。「新編相模国風土記稿」によると、「民戸十」とあることから平太夫新田が小さな村だったことが伺える。1855年(安政2年)は村人70人、1886年(明治19年)には家数13、人数61と記録にあるとのこと。裏面には蓮の花とこの石碑の奉納者の名前が刻まれていた。境内の石仏・石碑群。「舟形光背型庚申塔」天和3年(1683)10月21日ウーン・日月・青面金剛像(人/絹索・六臂)・二鶏・三猿正面右側「奉造立青面金剛尊像 施主」 〃左側「干時 天和三癸亥天十月十一日 敬白」 〃下側 9人の名持ち物 右上手(宝輪)・中央手(ショケラ)・下手(矢) 左上手(矛)・中央手(羂索)・下手(弓) 中央手と上手の持ち物が普通と左右逆になっている。地蔵尊。欠損した、倒壊した石碑が並ぶ。拝殿。御祭神 応神天皇 (おうじんてんのう) 佐塚大神 (さづかおおかみ)小さな境内社。稲荷社であろうか。榊は、人の心や神様が宿りやすい神聖な植物とされているが、この日は枯れていた。斜めから拝殿、本殿を見る。奥には「新田自治会館」があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.15
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こちらが「お宮緑地(ジャカランダ遊歩道 約380m)」の北側の入り口。「ジャカランダ遊歩道」案内板。「ジャカランダ遊歩道」。「ジャカランダ詳細世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げるげる花となりました.街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ。本州ではめすらしい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者の増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く雨シーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩ります。●形質 ノウゼンカズラ科の落葉高木~低木。葉は優美なシダに似た2回羽状複葉、花は藍色または 青紫色が基本でピンクや白色もある。落葉だが春先まで葉を着けることが多い。●原産地 南米の熱帯~亜熱帯地方原産で約50種が知られる。●分布 世界の熱帯、亜熱帯の乾燥地帯を中心に栽培される。国内では関東南部~沖縄まで 栽培事例あり。●生育特性 凍障害を受けない温暖な土地で、かつ日照の多い比較的乾燥地を好む.●開花特性 国内では花より葉が先行して出芽する。花数も相対的に少ないため樹冠全体が花で覆われる ことは少ない。」「ジャカランダ遊歩道」からの帰路は、国道135号に沿って設置されている、熱海の風景をテーマにした石碑を楽しみながら歩く。最初に「長谷寺山門」。熱海にも「長谷寺」👈リンク があることを以前知ったのであった。ジャカランダと椰子のコラボ。この花にはミツバチの訪花は確認出来なかった。「キバナランタナ」の花とのコラボ。さらに国道135号の遊歩道を歩く。「錦浦景勝熱海の景勝地の一つ。伊豆の玄関、魚見崎の南から約1キロメートルに及び断崖が続く名勝。(魚見崎~錦ヶ浦~曽我浦は約2キロメートル)太陽がのぼるとき、光が浦にそそいで眩しい五色の光となって輝くことから、京の錦織の名をかりて「錦ヶ浦」と呼ぶようになりました。熱海多賀火山の名残を残し、源頼朝、加藤清正などの歴史的人物に由来する伝説も残されています。崖の高さは80メートル。荒波が刻んだ兜岩・基盤岩・烏帽子岩・弁天岩など奇岩が並び、海上には初島や大島が浮かびます。」とネットから。「サンビーチ 花火大会熱海海上花火大会は、1952年(昭和27年)にはじまった歴史ある花火大会。夏だけではなく年間を通して10回以上も開催されている熱海名物です。会場である熱海湾は、3面を山に囲まれた「すり鉢」状の地形のため、海で上げる花火の音が反響し、 大きなスタジアムのような音響効果があり、花火業者さんも絶賛する日本一の花火打上会場です。 夜空に広がる花火や、水面に映る花火、そして、フィナーレを飾る「大空中ナイアガラ」の美しさは、瞬きを忘れるほど!心にずっと残る思い出ができる、熱海ならではのイベントです。」と。陽光があれば、青紫の花が更に耀くのであったが。以前に訪ねた「来宮神社 👈リンク来福・縁起の神として古くから信仰されている來宮神社。本殿横には国の天然記念物にも指定された樹齢二千百年、幹の太さは24メートルの大楠の御神木があり、パワースポットとしても有名です。幹を一回りすると一年寿命がのびると伝えられており、この木の生命力にあやかろうと長寿・病気平癒・健康祈願の参拝者が多く訪れます。また、願い事のある人は、思うことを誰にもいわず一回りすると願い事がまとまる、とも言われています。夜はライトアップされ、朝、昼、夜とそれぞれの表情が楽しめます。例大祭は毎年7/14~16に開催されます。」と。「貫一お宮の像」の手前の入り口。「熱海♨観光案内マップ」。「貫一お宮の像」の広場前が前方に。「お宮の松」案内。遊歩道にも巨大な「お宮の松」の絵が刻まれていた。更に歩道を進む。朝顔に似た花。「コンボルブルス」であろう。「梅見の滝」👈リンク熱海市の全国的に知られる観光名所である「熱海梅園」内にある、四季の移ろいが感じられる滝。「姫の沢公園」。「姫の沢公園」は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができると。「金糸梅」とのコラボ。北側の「サンデッキ広場」への石段の横の壁前を通過。「貫一お宮」。「尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。」ここでもジャカランタと椰子のコラボを。「中山晋平記念館」👈リンク。「大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。」まだまだ人の数が少ない熱海海岸、しかし早朝の為か?「大湯間歇泉」👈リンク「お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間隙泉。関東大震災により噴出が不規則になり現在は復旧工事にて人工間歌泉となった。」「熱海」と書いて、「あたみ」と読むこの地名の由来は、海中より温泉が凄まじく沸きあがり、海水がことごとく熱湯となったため、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになった」と。石板絵画をさらに追いかける。「澤田政廣記念館」👈リンク。「熱海が生んだ芸術家澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、澤田芸術の集大成がここに展示されています。」「ブットレア」を再び。「伊豆山神社」。この「伊豆山神社」👈リンク は一昨年2019年2月に訪ねたのであった。「伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。」日本に住んでいるとなかなか見る機会のない花・ジャカランダ。和名は「紫雲木」。その名の通り青紫色の花が、ふわりと煙るように咲き誇っているのであった。宮崎市内にもジャカランダの並木があるようだが訪ねたことはない。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.14
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鶴嶺参道歴史ひろば」の前、松並木側にあったのが「馬頭観音」像。寛政7 (1795)年銘の市内ではかなり古い馬頭観音であると。衆生を恐ろしい顔で叱り導く観音から馬の供養、交通安全の願いを込めた観音様。「馬頭観音馬頭観音は、馬の供養や無病息災の祈願をこめて造立されます。本像は、真ん中に合掌した観音像、向かって右側に「寛政七年三月乙卯三月日」、左側には「施主熊澤左四良」と刻銘されています。「寛政七年」(一七九五年)の銘から、市域において古い馬頭観音であることが分かります。砂岩を浮彫にし、自然石による光背形像です。馬頭観音の形相の多くは「憤怒」を示しているものが多い中、本像は比較的穏やかな形相をしています。現在は欠けてしまっていますが、馬頭観音の特徴である馬の頭部が観音像の頭部に彫られていたと考えられます。 像の大きさ 高さ四十二cm✕ 幅十九cm✕奥行十二 cm」そして次の目的地の「梅雲寺」に向かって西に進む。民家の庭にあった黄色のバラの花の色合いが美しかった。そして「梅雲寺」の山門前に到着。神奈川県茅ヶ崎市下町屋2丁目14−15。「山門」前のこの石碑には「三宝荒神の碑」。碑の高さ一四〇センチ、幅四三センチ、厚さ一一九センチで、表面には「難除三宝大荒神慈覚大師御作」、向かって右には「町屋山」左に「梅雲寺」、その裏面に「明和元年(1764)甲申歳初冬三五第十三世海誉代」と刻まれているのであった。「初冬三五」とは十月、三✕五=十五日 であると。数字の積や和が洒落として用いられているのであった。「掲示板★満天星(どうだん(つつじ))の花はみんなで揺れる花。★見るたびに 大きくなってく 孫たちよ ばあばは心 大きくなるよ。★「和敬清寂」 和ー互いに勧め合う 敬ー身分に関係なく尊敬し合う 清ー清らかな気持ち持つ 寂ー動じない★萬恩に生かさるる身の百恩を知る せめて一恩に報ぜん」「山門」の扁額「美証門」。その奥には「摩訶般若波羅蜜多心経」👈リンクが書かれた木版が。観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経」墓参用の桶と柄杓置き場。本堂前・横の天水桶と石灯籠。「本堂」。町屋山 大廣院 梅雲寺宗派 浄土宗 開山 廣譽(こうよ) 梅雲建立 慶長4年(1599)本尊 阿弥陀如来札所 相模国準四国八十八ヶ所 第42番御詠歌 「春はなお梅のにほひにかくつちの 神も光をます鏡かな」「本堂」には山難除三宝荒神かまつられ、この三宝荒神は、現在、秘宝のため開帳されていない。江戸時代には、江戸で開帳したほどの信仰で、南品川にある海雲寺「千躰三宝荒神」とともに関東では多くの参拝者を集め、有名たったと。三宝荒神というのは、仏(仏陀)、法(仏陀の教え)、僧(教えの修行者)の三宝を守護する神で怒りの相を示し、不浄を嫌い、清浄な火を愛すると言われ、火を燃やすかまどの神とされる神様。かまどのある台所にまつれば、一切の災難を除き、衣食住に不自由しないと言われているのだと。浄土宗 宗紋「月影杏葉 (つきかげぎょよう )」。屋根の飾り瓦。「墓地」。墓地の西側・最奥にあった御堂。五輪塔。「内田徳十郎君之碑」と。日露戦争に出征し、明治37年12月5日旅順要塞203高地の戦闘で戦死された陸軍軍曹内田徳十郎さんの慰霊碑。享年23歳。明治39年12月5日に遺族らによって建立された。同氏は東京体操伝習所(現在の筑波大学体育専門学群の祖)を卒業され、体操や銃剣術に優れていたという。碑高253㎝、幅126㎝、厚さ15㎝、台石40㎝。碑正面:「内田徳十郎君之碑旅順之險稱為東洋無比焉日露之役我軍海陸攻之數月勝敗未決至於爾霊山之戰敵勢始衰而我陸軍歩兵軍曹内田君實陣歿於此□矣夫武人之死孰非可貴而死於両軍勝敗将決之際可謂死得其所也君既死中隊長上田中尉寄書君家中有君克恪勤従事慎重數有功爾霊山之戰□小隊長廷身奮進突入敵壘以鼓舞部下遂陥之而身亦歿之語當時殉難之状可想児矣君諱徳十郎相模高座郡鶴嶺村之人為亦右衛門君第六子以明治十五年一月二十二日生以三十七年十二月五日歿享年二十三此日叙賜功七級金鵄勲章及勲七等青色桐葉章初君将應徴兵之選以為凡為兵者不當不操練體□也因入東京體操傳習所卒其業已入營勇而機敏左善體操銃劔之術常踰儕輩其數有功實非遇然也項君遺族将建碣請予表之予不敢辭以深感其忠勇也 明治三十九年十二月五日 神奈川縣高座郡鶴嶺村長 出口直吉撰 山宮藤吉書 内藤岩吉刻」六地蔵であっただろうか。本堂の裏手にあった御堂。「大師堂」。「弘法大師像」(右)が「不動明王像」(左)とともに鎮座。「南無阿弥陀佛」碑。三面六臂の「馬頭観世音」。この碑は、高さ六四センチ、幅二七・五センチ、厚さ一四センチで光丹形の砂岩?に厚肉彫りされ、反花(かえりばな)角座に角の蓮華座を乗せた台座にまつられていた。中央部に亀裂が入っていたが、下部に厚みがあり保っている。忿怒の馬頭で怒髪が大きく広がり形相がすごい。三面のようだが正面と横の顔の違いが大きくアンバランス。旧東海道沿いで馬も使われていたのでしょう。享和3年の銘。庫裡であっただろうか。五重石塔。そして南に進む国道1号に出て西に進む。左手にあったのが以前に訪ねた和菓子屋「でかまん本舗」。進んでいくと前方に「新湘南バイパス」の高架が見えて来た。左手の桜の樹々の下には、これも以前に訪ねた「史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」」👈リンク があるのだ。沼田頼輔氏の『湘南古橋行』の「漢詩」が刻まれた石碑が見えた。「下町屋橋」を渡る。流れる川は「小出川」。橋の欄干には海鳥の姿が。カモメであろうか。「一級河川 こいで(小出)川」。新湘南バイパスの高架下にあった連絡歩道橋を渡る。折り返しの有る長いスロープの歩道橋。歩道橋の途中から「史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」」を望む。「小出川」の下流方向を見る。連絡歩道橋の欄干にも海鳥の姿が。いつも、仕事で平塚の寺務所に行く際には、新湘南バイパスのここを降り国道1号に右折するのであった。長いジグザグの連絡歩道橋を渡り、更に国道1号を相模川方向に向かう。そして「今宿」交差点を右折して次の目的地の「松尾大神」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.14
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熱海のお宮緑地(ジャカランダ遊歩道)の散策を続ける。北側の「サンデッキ広場」への石段の横の壁。この作品の作者は??椰子の木と「ジャカランダ」のコラボ。見上げて。オレンジ色の「カンナ」の花。「アガパンサス」。「クジャクサボテン」の花であっただろうか。そして「アメリカデイゴ」。和名はカイコウズ(海紅豆)。カイコウズの名はあまり使われず、「アメリカデイゴ」と呼ばれることが多い。近づいて。初夏から初秋にかけて真っ赤な花を咲かせ続けるアメリカデイゴは、南アメリカ(ブラジル及び北部アルゼンチン)を原産とする暖地性の花木。日本へ渡来したのは江戸時代末期のこと。寒さを嫌うため日本で植栽できるのは、本州南部~沖縄にかけて。主に暖地の公園などで目にするが、九州などでは街路樹として利用され、鹿児島では県の木に指定される。なお、沖縄で県の花に指定されているデイゴは別種であるとのこと。アメリカデイゴに似ているが、葉の出る前に開花するのと寒さに弱い点などが、アメリカデイゴと異なるのだと。既に落下した花びら。アルゼンチンやパラグアイの国花であると同時に、鹿児島県の県木にも指定されているのだ。鹿児島県の県木としては、確かに南国ムードはあるものの、できれば県産自生の木を選んでほしかった気もするのであるが・・・。「アメリカデイゴ原産(インド・マレー半島)日本名(海紅豆(かいこうず)・海外から来た赤い豆、の意。)日本では沖縄県が北限とされています。沖縄県の県花になっています。」「アツバキミガヨラン(厚葉君が代蘭)」の花。ズームして。アツバキミガヨランという名前ですが、蘭の仲間ではないと。「キング・プロティア」の蕾。開花すれば。「キング・プロティア学名 プロテア・キナロイデス分類名 ヤマモガシ科プロテア属樹高 1 m ~ 3m程度原産地 南アフリカ開花期 4月~ 10月花言葉 王者の風格 甘い恋プロテアは花の王様と賞賛される南国の常緑低木で、花名な自由に姿を変えることができるギリシャ神話の海神プロテウスが由来。南アフリカには多種類のプロテアが自生しており、中でもこの「キング・プロテア」は花が大きく優雅であることから南アフリカ共和国のシンポルであり国の花となっています。」再び「椰子」の木を見上げて。そして「貫一お宮の像」の広場に到着。和文と英文の案内板。「明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説「金色夜叉」は、明治30年(1897)1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載され、たちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子、富山に見初められることに始まります。宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者・間貫一がいたにもかかわらず、それを承知で両親が富山の求婚を受け入れたことから繰り広げられる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限りが広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになりました。今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったことは申すまでもありません。金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・・月が・・・月が・・・曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思ってくれ」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。紅葉は、35歳の若さで死去し、『金色夜叉』はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した『腹案覚書』をもとに、紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成されたのであります。熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものであります。平成元年5月吉日」そして「貫一・お宮の像」。「尾崎紅葉記念碑」。「尾崎紅葉」の写真。「尾崎紅葉(1867~1903)森鴎外等と並び明治を代表する文豪。胃癌のため35才の若さで惜しまれつつ世を去ったが、晩年、読売新聞紙上に連載した恋愛小説「金色夜叉」が日本全国の読者の熱狂的支持を得て、その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れわたった。以来。熱海市は国際観光温泉文化都市を標榜し、全国有数の観光地として大きな発展をとげ、今日に至っている。熱海市民は、尾崎紅葉先生の業績に感謝するとともに、その遺徳を偲び「金色夜叉」の「来年の今月今夜のこの月を」の名科白で有名な貫一・お宮の別離の日、1月17日を記念日と定め、尾崎紅葉祭うぃ開催している。」心変わりの許しを請うお宮と、それを足蹴にする貫一の姿の像が。「この像は、明治時代の新聞連載小説、尾畸葉著「金色夜叉」の主人公の貫一とお宮の切ない別れを再現したものです。ニ人の心の擦れ達い、愛情、悲しみが詰まった象徴的な場面であるため、物語を忠実に再現したもので、決して暴力を肯定したり助長するものではありません。是非、この小説をご一読いただき、ニ人の心情や当時の世相に思いを馳せていただけましたら幸いです。」台座には館野弘青(たてのこうせい)作と刻まれていた。角度を変えて。貫一の顔をズームして。お宮の顔をズームして。さらに。「「お宮の松」の由来。お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものである。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれている。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていた。1897(明治30)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものである。このことから、1919(大正8)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立された。この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となった。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めている。1949(昭和24)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にあった)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めた。その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、1966(昭和41)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものである。「お宮の松」の樹齢は、2001(平成13)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。」「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」。「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」と。「金色夜叉の碑明治の文豪尾崎紅葉の傑作「金色夜叉」にちなんで建てたものです。”宮に似たうしろ姿や春の月”・・・・・「終遍金色夜叉」を執筆した門弟小栗風葉自作自筆の句が刻まれた記念碑です。毎年1月17日にはここで尾崎紅葉祭が行われます」そして現在の「お宮の松」。「お宮の松」。「初代のお宮の松」。現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのこと。2代目の脇に展示されている初代の切り株をみると相当大きな松の木だったことが分かるのであった。更に近づいて。更に進む。昨年に比べて比較的花のボリュームが少ない気がしたが。昨年の花付きの姿。今年の花に近づいて。「ブッドレア ブラックナイト」とのコラボ。別名は「房藤空木(フサフジウツギ)」。原産地は中国である。日本へは明治時代にヨーロッパで改良されたものが渡ってきた。ブッドレア・ブラックナイトはそうした園芸品種の1つである。特徴は花の色が濃い青紫色をしていることである。樹高は1メートルから3メートルである。葉は卵状の楕円形で、向かい合って生える(対生)。葉の裏面には毛が密生していて白い。開花時期は7月から10月である。細い枝を広げて円錐花序(枝分かれして全体が円錐状に見える)を出し、紅紫色の花をたくさんつける。花は上側に向いて咲くので下面には少ない。花はよい香りがする。花の後にできる実はさく果(熟すると下部が裂け、種子が散布される果実)である。全体にサポニンを含み有毒である。」とのネット情報。以前、日比谷花壇大船フラワーセンターでも見た記憶があるが。振り返って。白百合と金糸梅。前方にユニークな形の石造りのオブジェが。小さな丘の上に。鍵穴の如き造形であったが、説明書き等はなかった。この作品名の判かる方は書き込みお願い致します。ピンクの百合の花。ズームして。更に進む。緑あふれる岸辺の空間。中心が淡いピンクの百合の花が群生して。鉄砲ゆりの「トライアンフェター」に似ているが中心の濃さが違うか。「銀梅花(ギンバイカ)」にも似た花であったが。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.13
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に「長善寺」の隣・北側にあった「本社宮」を訪ねた。石鳥居。石造りの扁額「本社宮」。鳥居脇の右手に石造物が二体。双体道祖神と道祖神。右側道祖神は裏面に「旹天保九戊戌年正月吉日」とあり、1838年の建立。「旹」は「時」の異体字であると先生から。およそ180年前。「矢畑邑 地所永代寄附 熊澤傳兵衛」と刻まれていた。こちらは「双体道祖神」。「本社宮の由緒由来」。「本社宮の由緒由来長元三年(1030) 源頼義は勅命により東征(下総の乱)の途次、当村の南、鎌倉街道に接した佐塚大明神の丘に、源家の守護神石清水八幡宮(誉田別命)を勧請、関東での守護神として懐島八幡宮を創建、戦勝を祈願した。天喜三年(1055) 鎮守府将軍頼義は、長子八幡太郎義家(十三才)と安部一族の乱(前九年の役)に向かう途次、再度懐島八幡宮に戦勝を祈願し、乱を平定したのを機会に神恩に報いて康平六年(1063) 懐島八幡宮を鎌倉に勧請、鶴岡八幡宮を創建した。(乱橋の元八幡)応徳三年(1085) 鎮守府将軍義家は、清原一族の乱(後三年の役)に懐島八幡宮に重ねて戦勝を祈願し、寛治元年(1087)平定した。寛治三年(1089) 義家は度重なる神恩に感謝の意をこめて、広大なる神域を隣村浜之郷に設け、鶴嶺八幡宮を創建し、以来太子免の懐島八幡宮は、本社宮と改称され、当村の鎮守となり、霊験灼(あらた)かなる神として崇敬されて来た。殊に享保二年(1717)よりの祭典は氏子総出で、超大幟を立てるなど盛大に行なわれて来たが、天保年間に現在地の南隣りに遷座して参拝と管理を便にし、昭和二年(1927)現在地に再遷座したものである。」先代の石鳥居の姿であろうか。境内には「矢畑自治会館」があった。「拝殿」。祭神:誉田別命(ほむだわけのみこと(応神天皇))狛犬(右)。狛犬(左)。「慰霊碑」。矢畑地区出身者の大東亜戦争戦没者の慰霊碑。英霊15柱が合祀されている。 地元自治会によって昭和41年9月5日に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日、戦没地及び享年が刻まれている。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝。近づいて。正面:「慰霊碑 鶴嶺小学校長二宮忠義書」裏面には「建碑の言葉大東亜戦争に際し戦没せられたる諸勇士の霊魂を永遠に慰めんがため自治会員の総意により茲に慰霊碑を建立して其の冥福を祈りその氏名を永く後の世に傳へんとす昭和四十一年九月五日 矢畑自治会昭和一七、七、一二 支那 久保田年春 二四 仝一八、一二、二七 仝 高橋秀夫 三四 仝一九、八、二〇 グアム島 熊沢榮次 一九 仝一九、八、三一 ビルマ 三橋喜作 二六 仝一九、一〇、二六 南方洋上 小川清 二七 仝一九、一一、二三 比島 永野覺次 二六 仝二〇、四、一 仝 石黒春吉 三二 仝二〇、四、一二 沖縄 岩壁金造 三六 仝二〇、四、二四 比島 熊沢藤雄 三四 仝二〇、四、三〇 仝 水野次郎 二四 仝二〇、五、二五 仝 牧野隆 二八 仝二〇、六、二〇 沖縄 櫻井國雄 三二 仝二〇、六、二〇 比島 兵藤二郎 三五 仝二〇、八、一 ビルマ 山口武 二六 仝二〇、八、四 ガダルカナル 小沢日米雄 三八」基壇銘板:「發起人 小澤璋 石黒英雄 熊沢弘道 熊沢美雄 古川幾太郎 熊沢義春 山口勝司 山上里次 山上千代蔵 山口正一 山口政信 小川次幹 永野藤吉 牧野孝作 熊沢幸太郎 久保田久作 熊沢輝夫 久保田久男 宮川スイ子 石黒シゲノ 菱沼鍛代石材店」。「本殿」を見る。境内の石造物群。中央は双体道祖神、その左は合掌像ですが馬頭観音でしょうか。石造物群の並びの覆堂内に二体の石造物が祀ってあった。右側は座像のようであったがお顔が欠けていた。お顔が欠けてしまった石仏。左側はとぐろを巻いたヘビも姿。いわゆる「宇賀神」と呼ばれる福の神であろうか。これもお顔が失われていた?「宇賀神」は古来、人間に福徳をもたらすと考えられている福の神たちの総称。食物神・農業神ともされる。幸福・利益・知恵・財力の神とされている弁財天と同一視されることが多い。その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではないとのこと。覆堂庇下に祀られた笠付きの庚申塔。珍しい石祠形状で三猿の浮彫が。三猿の上には日月も刻まれていた。左側面から。案内板によると「相州矢畑村施主 敬白」と刻まれていた。右側面には「明暦二申年十月吉祥日」。「本社宮の庚申塔 明暦二年(1656)在銘 平成八年十一月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内の年号銘のある庚申塔の中で古い方から四番目にあたり、三猿〔見ざる、聞かざる、言わざる〕が刻まれる型の初期のものです。また庚申塔としては例の少ない石祠の形をしています。碑高五一センチ、塔身の幅三四センチの大きさです。塔身の正面には日月・梵字・三猿の彫刻が、またその右側面には「□明暦二申年十月吉祥日」、左側面には「相州矢畑村施主 敬白」の銘があります。」「神輿殿」。「本社宮」の「神輿」👈リンク をネットから。「本殿」を反対側から。「神輿殿」の前にあったこちらは?祭関係の備品倉庫か?「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「本社宮」を振り返る。茅ヶ崎市矢畑の住宅街の中にあった墓地。梅沢家墓地であるようだ。そして畑には既に収穫したタマネギが天日乾燥されていた。今年はタマネギが不作であり、値上がりしているとニュースで。今の時期に多くのたまねぎを出荷している北海道で、夏の暑さが原因で、不作だったためであると。我が趣味の菜園のタマネギも今年は成長不足なのである。そして次に訪ねたのが「唱導寺妙光殿」。「唱導寺妙光殿」を通りから。神奈川県茅ヶ崎市浜之郷404−1。「延寶山 唱導寺」碑。歴史は古く江戸時代に創建され、現在は檀信徒の要望により「納骨堂」を中心とした寺のようであったが、詳細は判らなかった。そして以前に訪ねた「鶴嶺八幡宮前」交差点が前方に。「鶴嶺八幡宮」👈リンク への入口が右手に。「鶴嶺八幡宮前」交差点を左折し、松並木を南に進む。車、人の数は比較的に少なかった。歩道の中央に松の老木が至るところに、歴史を感じるのであった。そして正面に、以前も訪ねた「鶴嶺参道歴史ひろば」に再び。「鶴嶺参道歴史ひろば」には説明板が設置され、参道の移り変わりや歴史を知ることができるのであった。「鶴嶺参道歴史ひろば鶴嶺八幡宮は、その創建が平安時代末期にさかのぼると云われる古社です。その後は幾度にもわたる戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代になって、僧朝恵が領主山岡氏の援助を得て再興を果たし、三代将軍家光から社領七石の御朱印を受けた記念に、南大門馬場の左右に松を植えました。これが現在に残る松並木の参道です。この辺りは、古墳時代後期(1400年前頃)から村の営みが始まり、奈良・平安時代にかけて発展したことが発掘調査でわかっていますが、鎌倉時代になると「懐島」という地名が記録に現れ、鎌倉幕府とのゆかりが強い地域であることが知られています。この鶴嶺八幡宮参道は市の史跡に、松並木は市の天然記念物に指定され、地域の中で保護されてきましたが、参道の整備にあわせてこの歴史ひろばが設けられました。貴重な歴史景観が間近なこの広場で、地域の移り変わりを偲んでみませんか。」「絵図に描かれた参道」。「絵図に描かれた参道この絵図は、江戸時代末期の万延元年(1860)に皇女和宮が降嫁する際に備えて描かれた山岡家所蔵の絵図の一部で、当時の参道と松並木の様子を見ることができます。絵図には、神社本殿よリ東海道まで長くのびている約764mの参道と両脇に松が整然と立ち並んでいる姿を確認することができます。このほか、本堂前の横参道や参道両脇にある池および反り橋の様子も見ることできます。また、東海道と接するところには大鳥居があり、付近に弁慶塚の存在も確認することができます。」そして「茅ヶ崎市指定史跡・天然記念物 鶴嶺八幡宮参道及び松並木(昭和44年8月15日指定)」参道の上空からの写真。何時の時点の写真なのであろうか。昭和44年?「鶴嶺八宮は、平安末期の創建と伝えられており本市でも由緒のある神社の一つです。本殿から南に延びる参道の両脇には松並木が続いています。神社の縁起では天正18年(1590)の小田原城落城の後、社領は武家の所領となって荒れ果ててしまったとされますが、江戸時代になり別当寺常光院の僧、朝恵が再興を志し、領主山岡氏の援助で正保年間(1644~48)に本社の拝殿が再興されたとされます。そして、慶安2年(1649)に幕府から社領を認める朱印を得たことから朝恵はこれを記念して参道420間(約764m)の両脇に松を植樹したとされています。茅ヶ崎市では、参道及び松並木を後世に継承していくために、昭和44年8月15日に市の文化財(史跡と天然記念物)に指定し保存しています。」「発掘調査で確認された古参道」「確認された礫敷きの参道烏居付近で発見された古参道は複数時期の面を確認しましたが、そのうち最も下層にあるものは礫敷きでした。礫は敷かれている部分と無い部分とがみられましたが、丁寧に整備されていたことがわかります。」「出土した木製鳥居国道1号に近い部分から木製鳥居の基部が出土しました。材質はヒノキで太さは約45cmで八角形に加工されており、転倒防止のためと考えられる横木もみられます。資料では文化文政年間に石鳥居が立てられたことがわかっており、発見された木製鳥居はそれより古く参道が整備された時のものと考えられます。」「絵はがき・古写真に見る参道および松並木」「新編相模国風土記稿に見る参道江戸時代に編まれた『新編相模国風土記稿』には参道をばじめとして鶴嶺八幡が描かれています。これをみると、鳥居が東海道沿いに立っており、近くには弁慶塚と思われる高まりも描かれています。また、松も参道両脇に立ち並んでいる様子もわかります。」「東海道と参道鳥居明治時代ごろと思われる絵はがきです。東海道(現国道1号)に接する参道と石製鳥居の様子をみることができます。また、松並木は参道だけでなく東海道にも植樹されていた景観を見ることができます。」「参道と松並木の様子1そして2」。「参道と松並木の様子1この絵はがきは、明治の頃と考えられますが、参道がまだ舗装されておらず、大八車を引いている様子を見ることができます。また、車輪の轍が複数あることから頻繁に使用されていたことがうかがえます。」「参道と松並木の様子2この写真は、上の絵はがきと同様に、当時の参道と松並木の景観をうかがうことができますが、特に参道両脇の松並木部分では、松が大きく成長している様子をみることができます」「鶴嶺参道歴史ひろば」を現在の参道から振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.13
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この日は6月10日(金)、今年も熱海海岸沿いを彩るジャカランダそして糸川沿いのブーゲンビリアを愛でにいつもの旅友と行って来ました。自宅を6時に出て茅ヶ崎に住む旅友邸へ。そしてこの日は私の愛車で熱海に向かったのです。順調に車は進み、7:45に熱海海岸近くの駐車場に到着。「ATAMI ジャカランダ フェスティバル 2022」が行われていた。5.28 Sat ~ 6.12 Sun ジャカランダライトアップ 期間中毎日 18:00~22:00 ブーゲンビリアライトアップ 期間中毎日 18:00~23:00そしてまずは熱海海岸沿いを彩るジャカランダの花の散策開始。駐車場前のジャカランダの花を見上げる。今年も5/28(土)~6/12(日)の間「ジャカランダフェスティバル2022」を開催。期間中は遊歩道をライトアップされると。「花が頭に落ちるとしあわせが訪れる」と言われる「ジャカランダ」の花。咲くか、咲かないか、その年になってみないと分からない花と。そんなちょっと気まぐれなジャカランダ。1990年に熱海市の国際姉妹都市、ポルトガルの力スカイス市から贈られた2本が、いまでは100本以上に。常夏の熱帯地域を中心に分布する世界三大花木は、いまでは熱海の初夏を告げる花となった。熱海の海沿いでは、この6月になると、お宮緑地からサンビーチにかけて、ラッパの形をした小さな青紫色のジャカランダの花がブーケのように空を彩るのです。熱海の景勝地、錦ヶ浦の山頂にそびえ立つ熱海城をズームして。「熱海サンビーチ」沿いの国道135号に向かって歩く。熱海市春日町の高台に立つ高層高級マンション「ザ・クレストタワー熱海」の姿。地上30階建、全320邸であると。手前の写真左のピンクの建物は「ゼファー熱海ビーチタワー」。熱海ビーチライン出入口の目の前に建つ、熱海で2番目に高いタワーマンション。ヨーロッパのリゾートホテルを彷彿とさせるカラーリングで熱海のサンビーチ沿いの建物の中でもひと際目を引く素敵な佇まい。眼前に相模灘を望む伸びやかな眺望の温泉大浴場には露天風呂もあると。海上花火大会の際は屋上が解放され、花火と夜景を肌で感じることができるのだと。熱海親水公園のムーンテラスを見る。熱海海岸への石段の横の壁には亀やマンボウの姿が水族館の水槽の中の如くに。後ほど訪ねた「釜鳴屋平七(かまなりや へいしち)夫婦像」の後ろ姿を見る。ズームして。ムーンテラス・恋人の聖地を正面から。国道135号沿いのホテル・ビル群。遊歩道のタイル絵・「熱海ムーンテラス」。こちらは「市の花 梅」。このジャカランタの樹には多くの花が。ラッパ状の花がたわわに。右手にあったのが「熱海警察署 中央交番」。「熱海サンビーチ案内図」。そしてお宮緑地(ジャカランダ遊歩道 約380m)がここからスタート。赤のブーゲンビリアもゲートフェンス上に。ズームして。「ブラシの木」の花も。「キバナランタナ」の花。原産地は南アメリカ。和名を七変化(シチヘンゲ)というように、花の色が黄色から橙色、赤色へと変化する。葉に斑が入っているので「フイリキバナランタナ(斑入り黄花ランタナ)」であろう。ジャカランダは、世界三大花木のひとつとされているノウゼンカズラ科の高木で、中南米が原産。世界三大花木とは、鳳凰木(ほうおうぼく)、火炎木(かえんぼく)、そして紫雲木(しうんぼく)の3つで、ジャカランダは、この「紫雲木」という和名を持つ木で、本来は、日本の桜・ソメイヨシノと同じく葉を落とした状態で花だけを咲かせるのだ。南米・アルゼンチンや、ヨーロッパ・ポルトガルなどでは、初夏になると房になった釣り鐘状の花が無数に咲き、ジャカランダが植えられた街が紫色に染まる風景写真をインスタグラムや観光案内などで見かけるのだが、その風景は圧巻のひとこと。房になった釣り鐘状の花に近づいて因みに、他の世界三大花木の「鳳凰木」👈リンク。「火炎木」👈リンク。2019年に訪ねたポルトガルでは、初夏になると青紫のジャガランダで街が紫一色に染まるのだと。さしずめ紫の桜といったところ。ポルトガルでは「ジャカランダ」の紫色の花が満開になる頃はちょうどイワシ祭りというお祭りの時期。賑やかなイワシ祭りと、ジャカランダの満開の花を見る為に海外からもたくさんの人が訪れるのである、というがコロナ禍が収まりつつ有る今年は??。こちらが、南アフリカの首都・プレトリアのジャカランタの並木。熱海のジャカランダは、残念がら花のボリュームより葉のボリュームが多いのだが。これも天候、土地の質等が微妙に影響するのであろう。熱海の「ジャカランダ」の花には多くの葉が同時にあり残念だが。「ブッドレア ブラックナイト」と。右手に「竹灯籠」。竹灯籠「まめっこ&あつおくん」。そして竹灯籠「駒犬」。「熱海市とカスカイス市」碑。「熱海市とカスカイス市カスカイス市はポルトガルの国際的なリゾート地であり、大西洋に面した美しい海岸線と街並みで有名です。熱海市とは、ポルトガルに柔道を伝えた日本人柔道家を通じた交流がご縁の始まりとなり、1990年7月に姉妹都市の締結を行いました。その時、記念に贈られたジャカランダは1999年に初めて開花して以来、カスカイス市と熱海市の友好のシンボルとして、市民や観光客に愛されています。」この鳥の名は?「ハクセキレイ」であろうか?お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)を進む。熱海市の汚水マンホール。熱海市は、2017年に市制80周年を迎えたことを記念し、マンホール蓋2種類をデザインした。明治時代に熱海温泉を一躍有名にした尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名場面と「お宮の松」、そして背景の夜空には「花火」を図案化したもの。今年はやや花の数が少ないか?ジャカランタの下にはベンチが。「カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携記念樹木ジャカランダ(ノウセンカズラ科) 平成2年(1990)7月2日」。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市。市内には、国際的なリゾート地であるエストリルを含む。また、2019年に訪ねたユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」👈リンクへの定期バスがここカスカイス市から発着しているのだと。お宮緑地のこのジャカランダは平成2年7月にポルトガルのカスカイス市と国際姉妹都市提携を記念して植樹された木であるのだ。しかし今年の「記念樹木」には花がなかった。再び「キバナランタナ」。花の外側の色が黄色からピンク色へと変化。「キバナランタナ」と。そして「カシワバアジサイ」。近づいて。「サンデッキ広場」への階段横の壁の造形。石段横の黄色の「キンシバイ(金糸梅)」と「ジャカランダ」。石段の奥には子供とハートをイメージしたオブジェが。ラッパのごとき藤色の花。その形がファンファーレを吹くトランペットを連想させることから「栄光」「名誉」という花言葉がつけられたと。その神秘的な紫色は高貴な色とされ、王室をイメージするとも。南アフリカのツアーが最も人気が出るのがジャカランダの時期・10月。プレトリアでは街全体が紫色に染まり、まるで花のトンネルをくぐっているような気分に!。日本の桜の「青紫」版。コロナ禍が落ち着いて行ける日が来るであろうか。「サンデッキ広場」の植栽の間を歩くと左手にもベンチとタイル画があった。「和田山雪」の文字が。画家山本光一の作品。「AAY380タイムカプセル」碑。「AAY380タイムカプセルこのカプセルは昭和59年10月1日より昭和60年3月30日の間、熱海梅園開園百年等の記念すべき節目の年を迎え、この年を「明日へ向けての熱海観光元年」としATAMI ANNIVERSARY YEAR380(AAY380-熱海380記念祭)と名付け開催された数々のイベント等の記録を収納したものです。21世紀、市にとって最良の日に後継者により、オープンされますことを期待しここに設置いたします。」「熱海八景」碑。「熱海八景画家、山本光一は天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信敬。明治36年(1903) 10月6日、61歳で歿した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区童泉2丁目2ー15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男て画もまたよくし、生歴を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。詳細は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には、「熱海梅園之図」と「改正熱海市街全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と題する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。この「熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かって成島柳北(1837 ~ 1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鵑、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪、を版画にしたのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去る90余年前の熱海である。 「1980年熱海八景色紙」より」英語にても。「ルリマツリ(プルンバゴ)」の花であろうか。 ・・・つづく・・・
2022.06.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市「中央公園」碑。「中央公園」は、第一カッター興業株式会社とネーミングライツ契約を締結し、令和3年4月1日から愛称が「第一カッターきいろ公園」となったと。かながわの公園50選に選ばれた茅ヶ崎市民憩いのスポット。40000.63平方メートルの広大な敷地。奥には「夕焼小焼の赤とんぼ~♪」のフレーズでおなじみの童謡「赤とんぼ」のモニュメントが。正面から。「赤とんぼ」👈リンク の楽譜 三木露風作詞・山田耕筰作曲夕焼小焼の、赤とんぼ負われて見たのは、いつの日か山の畑の、桑の実を小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか十五で姐(ねえ)やは、嫁に行きお里のたよりも、絶えはてた夕焼小焼の、赤とんぼとまっているよ、竿(さお)の先公園の入口近くの池。小さな川になって遊歩道沿いを流れていた。広場の一番奥には人工滝と大きなステージがあった。イベントのときにはこのステージが大活躍するのだと。近くまで歩いて。そして「茅ヶ崎中央通り」を挟んで反対側にあった「市民文化会館」を見る。「茅ヶ崎中央通り」沿いの「中央公園」の「宇宙ツツジ」。「宇宙飛行士は宇宙飛行をする際に、いくつかの品を飛行の記念品として宇宙船に持ち込なことが許されています平成6年( 1 9 9 4年)7月9日に日本初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんはアメリカのケネディ宇宙基地から打ち上げられたスペースシャトルコロンビア号に搭乗しました。その際に、出身地である群馬県館林市の市の花てあるツツジの種を公式飛行記念品として持って行きました。地球に帰還後、その種は宇宙ツツジとして館林市で大切に育成されてきました。その宇宙ツツジの一部が、茅ヶ崎市制施行70周年記念事業第9回宇宙飛行士ゆかりのまちサミット開催を記念し、館林市より寄贈されました。ツツジの成長とともに子どもたちの夢、希望を育みます」この2本のツツジの子苗がそれか?枯れてしまったのか?何代目の苗なのであろうか。「茅ヶ崎市インフォメーション」板。そして「市民文化会館」。1980年10月1日に開館。平成30年10月に耐震補強・改修工事によりリニューアルオープン。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目11−1。「茅ヶ崎市役所分庁舎」が道路を隔てた南側に。「市民文化会館」の入口。大ホール:座席数1381席小ホール:座席数 384席「市民文化会館」の北側にあったのが「イオン 茅ヶ崎中央店」。「茅ヶ崎市民文化会館」と「イオン 茅ヶ崎中央店」の間の道路を西に向かって進む。左手にあったのが「J-POWER(電源開発株式会社)茅ヶ崎研究所」。前方に橋が現れた。「飯島橋」。下を流れる川は「千ノ川」。下流側を見る。上流側を見る。「せんのかわ(千ノ川)」。そして到着したのが「本社丘(ほんじゃがおか)」。茅ヶ崎保健所の道路をまたいで斜め前の住宅街の中にあった。地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っているとのこと。16本のサクラの大木に覆われた小高い丘。「本社丘(ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(矢畑142番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前九年の役に向かう頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後三年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる。なお、別に江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』の浜之郷村鶴嶺八幡宮の項に「社伝に長承二年筑紫宇佐鶏足寺の僧が八幡本地種字の正体を奉じ来て祀る」との創建に関する記載もある。」5月4日(水・祝)に「皐月祭」が「鶴嶺八幡宮」で行われたようであった。「さわやかな緑風を感じながら「巫女舞親子教室」でお稽古に励んできた子供たちが御神前にて「豊栄舞」を奉納いたします。自由にご観覧できます」と。正面に小さな「石祠」があった。ここは、天保年間、本社丘の発祥の地になって源頼義ほかが矢畑を治めた。このあたりは、頼朝系の人が様々なエピソードを残している。その例の一つは、源頼朝の重臣・稲毛三郎重成(妻が北条政子の妹)が亡き妻の供養のため相模川に橋を架けたが、頼朝が、その落成式の帰りに落馬して亡くなってしまった馬入川という名前が残っているのだ。近づいて。神奈川県茅ヶ崎市矢畑603−5。さらに近づいて。「本社宮」碑。茅ヶ崎市矢畑地区の住宅街を北に向かって進む。左手に「茅ヶ崎市消防団第21分団」の建物。神奈川県茅ヶ崎市矢畑580-9。次の目的地の「長善寺」に向かって進む。左折し「鶴嶺通り」を西に進みこの先の路地を右折。そして「長善寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市矢畑150。「掲示板」。門柱には「隣海山長善寺」と。参道の先正面に「本堂」。参道右手に「地蔵尊」。「大師堂」。「南無大師遍照金剛・弘法大師像」。「戦歿各英霊追悼地蔵尊」。ズームして。後ろの塔婆には「大東亜戦争」の文字が。その手前にあった2基の石仏。「馬頭観世音」碑。小さな「五輪塔」が3基。そして「本堂」が正面に。「高野山 真言宗 臨海山 長善寺」。開基:清誉 創建:慶安元(1684)年 、万治2年(1659年)智道が中興。本尊:大日如来(金剛界)札所:相模国準四国八十八ヶ所第61番御詠歌:「梓弓はるの耕しいそぐらん矢はたのみのりまとにかけつヽ」江戸時代は「鶴嶺八幡宮」の別当12院の一つで「勝運坊」、「壮源寺」ともと呼ばれたとのこと。白の藤の花が迎えてくれた。境内の石灯籠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.12
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茅ヶ崎市とNHK横浜局の主催で「大河ドラマ 鎌倉殿の13人 スペシャルトーク in 茅ヶ崎」が行われることを知り茅ヶ崎に住む旅友が往復はがきで事前に申し込んでくれ、当選したので、この日6月4日(土)の午後に、茅ヶ崎に向かいました。「入場整理券」が事前に届きました。ゲスト出演者は「伊東祐清」役の「竹財耀之助(たけざい てるのすけ)」さんと「江間次郎」役の「芹澤興人(せりざわ たてと)」さん。旅友と開催場所の「市民文化会館 大ホール」で14:15の待ち合わせとしてJR茅ヶ崎駅から徒歩で向かう。左手にあったのが「茅ヶ崎市役所」。「茅ヶ崎市役所」の東・茅ヶ崎中央通り側は、ビジネスホテル「東横イン」の建設工事が行われていた。東横インの工事現場は基礎工事、地下工事も完了している模様、1階部分のフロアーを打設も終わったようであった。「ふれあい橋」を「市民文化会館」に向かって進む。「ふれあい橋」は茅ヶ崎駅から国道1号線を越え、市役所手前から、市民文化会館、中央公園を結ぶ高架の歩道橋。橋 長 188m構 造 PC箱桁橋竣 工 昭和57年。右手には先日訪ねた「茅ヶ崎 中央公園👈リンク(第一カッターきいろ公園)」が見えた。「ふれあい橋」から西側を見る。「茅ヶ崎中央通り」の北側方向を見る。そして左側にこの日の目的地が。「茅ヶ崎市民文化会館」。旅友と合流し館内に入るとロビーには様々なパネル展示があった。会場の「大ホール」はまだ入場できなかった。見慣れた「鎌倉殿の13人」のポスター。館内には既に多くの市民が集って、開場を待っていた。館内ロビーに展示されていた黄金のモニュメント。「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」放送をきっかけに鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか頼朝と茅ヶ崎鎌倉幕府は1192年※、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は。反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武士・大庭景能は頼朝に味方した。一方、大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幡宮の造営など鎌倉暮府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京に上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い、落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。」「鎌倉殿の13人のパネル展」。「北条義時」の人気のポスター。「略年表」---「鎌倉殿の13人」の時代をたどる。1180年 治承4年 8月 源頼朝、伊豆で平家追討の挙兵 源頼朝、石橋山の戦いで大庭景親らの軍勢に敗れる 9月 平清盛、源頼朝追討の宣旨 10月 源頼朝、鎌倉に人府 富士川の戦い 源頼朝と対峙した平維盛が敗走 源義経、黄瀬川にて源頼朝と対面を果たす 11月 平清盛、京へ遷都 12月 源頼朝、鎌倉殿となる 平清盛が後白河法皇の幽閉をとく1181年 治承5年 平清盛死去 養和元年1182年 養和2年 源頼朝・北条政子の長男・頼家、誕生 寿永元年1183年 寿永2年 5月 倶利伽羅峠の戦い 木曽義仲が平家軍を破る 7月 平家一門が三種の神器を伴って都落ち 木曽義仲と源行家が入京 閏10月 水島の戦い 木曽義仲、平家軍に敗れる1184年 寿永3年 1月 宇治川の戦い 元暦元年 源義経が義仲軍を破る 木曽義仲、粟津原で討ち死に 2月 一の谷の戦い 源義経と源範頼が平家軍を破る1185年 元暦2年 3月 壇ノ浦の戦いで平家滅亡 文治元年 11月 源頼朝が諸国に守護と地頭を置く1190年 文治6年 源頼朝、権大納言・右近衛大将任官 建久元年1192年 建久3年 源頼朝、征夷大将軍任官第9回「決戦前夜」鎌倉に本拠を構えた源頼朝(大泉洋)は、平家方の伊東祐親(浅野和之)討伐を指示。北条義時(小栗旬)は、祖父・祐親と、義時が思いを寄せる祐親の娘・八重(新垣結衣)を救うため伊東へ駆けつける。一方、平家の頼朝追悼軍は富士川に到着、源平両軍は川を挟んでにらみ合った。その夜、北条時政(坂東彌十郎)と三浦義澄(佐藤B作)のささいなケンカで、義澄が川に落ら込み、大きな音に驚いた水鳥の群れが一斉に飛びたった。その羽音を源氏軍の襲来と勘違いした平家軍は戦わずして総崩れに。戦の後、源氏の陣を訪れた若者がいた。頼朝の弟・源義経(菅田将暉)だ。頼朝と義経は感動の対面を果たす。第10回「根拠なき自信」鎌倉に凱旋し、新政権の体制固めを進める頼朝は、阿野全成(新納慎也)や源範頼(迫田孝也)、源義経ら弟たちを前に「源氏再興には、血を分けたそなたたちが頼り」と喜びを語る。伊東祐親は助命となり、八重は頼朝を陰から見守ろうと侍女となる。義時はそんな八重のことが気になって仕方がない。頼朝は佐竹氏討伐のため常陸に出陣、上総広常(佐藤浩市)を交渉に遣わすが、戦が始まる。頼朝勢が攻めあぐねる中、実戦経験のない義経が大胆な攻略法を思いつくが、佐竹勢のあっけない降伏で手柄はおあずけに。勝利した頼朝の前に、新たな弟・義円(成河)が現れる。第11回「許されざる嘘」鎌倉に御所が完成し家人たちを集めた頼朝は、自らが「鎌殿」と宣言。所領を与えて主従の関係を結んだ。都では平清盛(松平健)が反対勢力一掃のため源義経はすぐに京へ攻め上りたいと訴えるが、頼朝は動かない。優秀な兄・義円の存在も気に食わない義経は、義円を鎌倉から追い出そうと画策。頼朝は義経を叱責するが、義円は戦で討死。その冬、頼朝の妻・政子(小池栄子)が2度目の懐妊。伊東祐親が存命する限り男子は望めないと言われた頼朝は祐親を暗殺、義時はその冷酷さに戦慄する。第12回「亀の前事件」父・伊東祐親の突然の死を受け止め切れない八重は、鎌倉から義時の所領・伊豆の江間に移り住む。御所には武蔵の比企能員(佐藤二朗)が出仕。都、官療・大江広元(栗原英雄)らも下向し、新たな人間関係が動き出す。寿永元(1182)年8月、政子は無事、男子・万寿を出産するが、頼朝が愛妾・亀(江ロのりこ)の館に通っていると知り激怒。仕返しとして、都の「後妻打ち(うわなりうち)」という習わしを真似て、亀の館を形だけ打ら壊すことにするが、源義経の暴走から館は焼失。頼朝は、政子に浮気を責められるも、立場を理由に非を認めようとしない。そんな頼朝の態度に父・時政が逆上。故郷の伊豆に帰ってしまう。第13回「幼なしみの絆」頼朝に勝るとも劣らない源氏の勢力・信濃の本曽義仲(青本崇高)が平家と通じているという情報が入る。真偽を問う頼朝は、鎌倉の軍勢を信濃に差し向けるが、源氏同士の争いの駒に使われているとして、御家人たちの不満は高まっていく。源氏同士の争いを否とする義仲は、嫡男・源義高(市川染五郎)を人質として差し出すことを決める。一方、鎌倉では時政の不在を好機と捉えた比企能員が、婚姻で源氏と緊密になった北条に負けじと、娘を源義経に近づける。それぞれの思惑が交錯する中で奔走する義時。八重は多忙な中でも変らず自身への思いを貫く義時を慕うようになり・・・。第14回「都の義仲」義時と八重はついに夫婦となる。鎌倉入りした源義高は、頼朝の娘・大姫の許嫁(いいなずけ)に。木曽義仲は京へ進軍し、次々に平家を撃退していく。義仲を恐れた平清盛の後継者・平宗盛(小泉孝太郎)は帝(みかど)とともに都を落ち延びる。上洛を果たした義仲だったが、後白河法皇(西田敏行)との関係は次第に悪化していく。この機に頼朝は法皇に取り入り、法王も頼朝に東海道・東山道の軍事支配権を得ることで義仲を追い込んでいく。法王から義仲討伐を求められた頼朝は、義経率いる先発隊を京に派遣。しかし鎌倉では源氏同士の争いを拒む一部の御家人に謀反の動きが!第15回「足固めの儀式」寿永2 (1183)年11月、源義経の軍勢が迫る中、木曽義仲は後白河法皇を捕らえ京に籠(こも)る。鎌倉で頼朝を排除しようとする企てを察知した義時は、官療の大江広元らと奔走。実力者・上総広常にあえて謀反側に加ってもらい、企てを阻止する。企てに関わった者を処分しようとする頼朝に対して、義時は必死に広常の寛大な裁きを訴える。しかし広常を関わらせたのは、強大な力を持つ広常を排除したい頼朝の計略だった。全ての責任を広常に負わせ決着。頼朝は御家人たちに改めてその権威を示した。一方義時と八重の間には嫡男・後の北条泰時が誕生した。第16回「伝説の幕開け」上総広常の命と引き換え、御家人たちをまとめ上げた頼朝。寿永3(1184)年が明け、頼朝は源範頼を総大将、梶原景時を軍奉行とする本軍を京に派兵。義時も従軍し、源義経の先発隊と合流する。戦場の義経は、軍略家の才を存分に発揮し軍勢の数を偽て噂を流す。義経の計略にはまった木曽義仲は、京から敗走し討ち死にする。義経は、福原を拠点に復権を図る平家の軍勢に対しても次々に奇策を立案し追い込んでいくが、無謀な作戦の数々に武将たちの間に不協和音も生じ始める。そして源平合戦最大の攻防「一の谷の戦い」が始まった!「ご近所の鎌倉時代 神奈川の「ゆかりの地」地元神奈川が舞台となる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ドラマでは紹介されていないゆかりの地が、他にも数多くあります。ご近所を巡り、鎌倉時代に想いを馳せるのも楽しみのひとつです。源頼朝ゆかりの伝承地二枚橋 川崎市麻生区頼朝が挙岳したことを知った源義経が奥州の平泉から弁慶たちとかけつけた際、ここを通りかかり、粗末だった橋を馬も通れるように造り直したという伝説が残っています。橋には、丸太を並べた上に土が盛られており、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えたため、「ニ枚橋」と名付けられたといわれています。義経に関する伝説は、日本各地に残っていて、その人気を物語っています。神奈川県鎌倉市亀ケ谷坂神奈川県鎌倉市。亀でさえ引き返すほど急な坂道だったことからその名が付いたともいわれている亀ヶ谷坂。源頼朝が鎌倉入りした当時、北から鎌倉に入る道はここだけだったといいます。寿福寺寿福寺は、頼朝の父・義朝の屋敷があった場所に建てられた、録倉五山の一つです。政子が比叡山の僧・栄西を招いて創建。三代将軍・実朝もしばしば訪れ、発展を遂げていきました。鎌倉駅から北へのびる小町道りは、多くの観光客で賑わいます。しかし、頼朝と義時が鎌倉入した当時は、鶴ケ岡八幡宮の前を東西に走る六浦路・横大路メインストートでした。この道を中心に、幕府の重要な施設が建てられていきます。二枚橋神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32。亀ケ谷坂(かめがやつざか)。鎌倉市史(考古学編)に、当時の鎌倉における亀ケ谷坂の防衛線としての役割を次の様に述べている。「山ノ内に入った敵軍は、長寿寺の脇を経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通した亀ケ谷坂である。現在の切通は後世において深く且つ広く改 修したものである。当時は現在の切通のはるか上の狭いところを切通道が通っていたので、ここに逆茂木を並べて陣を敷いて待ち構えていたら敵軍は通る事は出来な い。」と切通の軍事施設としての様子を説明している。神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目.寿福寺。神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7。「鎌倉殿の13人 作:三谷幸喜 音楽:エバン・コール 語り:長澤まさみ三谷幸喜が贈る予測不能工ンターティンメント!平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無課な大博打に乗った。頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ら破る。幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむニ代将軍・頼家。"飾り"に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ---。」主な登場人物。伊豆の国市の「大河ドラマ館」👈リンク でも見た出演者のパネルがここにも並ぶ。そして定刻になり「市民文化会館」の「大ホール」会場に入り指定された席へ。そして定刻の15時になり「スペシャルトーク」の開演が近づく。手話通訳者が交代で終了まで。茅ヶ崎市長、NHK横浜放送局長の挨拶で始まる。佐藤 光市長がアロハシャツ姿で。そしてゲスト出演者の「伊東祐清」役の「竹財耀之助(たけざい てるのすけ)」さんと「江間次郎」役の「芹澤興人(せりざわ たてと)」さんが舞台上に。「伊東祐清」役の「竹財耀之助(たけざい てるのすけ)」さん。伊東祐親の息子で八重の兄。頼朝と結ばれた妹のため奔走する一方、父をそばで支え続ける家族思いの優しき若武者。「竹財耀之助」さん。「江間次郎」役の「芹澤興人(せりざわ たてと)」さん。八重は源頼朝の子を妊娠し、千鶴丸(千鶴御前)を産むが、八重姫の父・伊東祐親に見つかってしまい子供は殺害された。そして、八重は父に仕えていた家来の江間次郎という武将に嫁がされた。源頼朝が鎌倉に入ると、伊東祐親は江間次郎に八重を殺害するように命じる。しかし、江間次郎は逆に八重を逃がそうとしたため、善児によって、江間次郎は殺される。その後、八重は北条義時が保護し、未亡人となった。八重は源頼朝を陰から見守ろうと、官女として大倉御所にて出仕する。そして源頼朝との仲が復活しそうになるが、その後、八重姫は北条義時(江間四郎・江間小四郎)に嫁いで、北条泰時を産むと言う物語になっているのだ。史実では北条泰時は1183年に生まれている。史料によると、母は御所に仕えていた女房(官女)である「阿波局」(あわのつぼね)とされる。この阿波局は、生没年・出自などは不詳の女性で、本名も不明。「芹澤興人」さん。舞台上には女性司会者とゲスト2名の3席がアクリル板を挟んで。トークショーはNHKアナウンサーの司会者の問いかけでゲストが回答するQ/A方式で進む。このトークショーを楽しい時間にしたいと意気込みを話す竹財さん。芹澤さんは今日はご褒美と思って頑張りますと語る。司会者が今回トークショーの地ここ茅ヶ崎に来たことがあるかと。竹財さんは何度か茅ヶ崎駅を通過したことはあるが今回初めて降りたと。芹澤さんは実家が沼津で、八王子の大学在学中頃、実家に帰る時金が無くて相模線で茅ヶ崎まで来て、そこから東海道線に乗り換えて沼津まで鈍行で帰宅したとのことで、茅ヶ崎に降りたのはやはり初めてと。八重の2番目の夫江間次郎役の芹澤さんにあの新垣結衣さんが妻役だったのはどう思ったかと司会者は尋ねる。伊東家の家人であることは認識していましたが、渡された準備稿の台本には名前が載っていなかったのだと。その後新垣さんが自分の妻役になると知って、「え!?新垣さん!?」と。そして巨大スクリーンに善児の姿が。善児大嫌い!と竹財さん、思い出すと頸動脈が痛くなると芹澤さん。そして善児に殺された「善児被害者の会」の「談義」で盛り上がったのであった。「今回もう1人スペシャルゲストがいます」、と司会者。「工藤茂光」役の「米本学仁」さんが突然に登場したのであった。座る前に巨体で座れるかどうか確認するかのように椅子に。「善児ひどくないですか?」と能弁な米本さん。ドラマ上では工藤茂光が「善児被害者の会」第一号だったと自慢気に語る米本さん。「工藤茂光」役の「米本学仁」さん。工藤 茂光は、平安時代末期の武将・豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。狩野氏の祖であり、狩野茂光(かのもちみつ/しげみつ)とも呼ばれる。勢力範囲は山がちではあったが、伊豆国を代表する牧草地だった牧之郷を領有し良馬を多数有したため伊豆半島最大の勢力を築くこととなった。伊豆大島を所領としており、保元の乱(1156年)で大島に流罪となった源為朝の監視役となる。やがて為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を切り従えて自立の動きを見せたため、嘉応2年(1170年)にこれを追討し自害に追い込んでいる。治承4年(1180年)、同じく伊豆国において流人生活を送っていた源頼朝が反平家の兵を挙げると頼朝の下へ馳せ参じる。石橋山の戦いで平家方の大庭景親・伊東祐親らと交戦するも敗れ自害した。一説には、茂光は肥満体であったため思うように走ることができず、周囲の足手まといになることを嫌い、外孫の田代信綱に懇願して介錯されたともいう。狩野氏は古代から安土桃山時代の小田原征伐にいたるまで武家として活躍し、末裔が現代まで伊豆に多数残り、伊豆名門の一つである。後北条氏に仕えた狩野泰光・狩野一庵や、画派の狩野派らは、茂光の子孫である とウィキペディアより。石橋山の戦いに敗れた頼朝は、山中の洞窟に身を潜めた。頼朝はもとどり(髪を頭の上で束ねた髪形)の中から小さな観音像を取り出し「こんなことなら、ご本尊を持ってくるべきであった。誰か取ってきてくれ!誰か!」。宗時(片岡愛之助)が「私が参りましょう」と立ち上がり、北条館に観音像を取りに戻ることに。挙兵に加わった恰幅の良い伊豆在郷武士・工藤茂光(もちみつ、米本学仁)も「私も行こう。鎧が体に合わん。いったん戻って(鎧を)取り替えてくる」と宗時に同行した。北条館まで少しの川辺。茂光は「ここで別れよう。鎧を替えたら、北条館に行く」。宗時は「鎧が小さくなったのではなく、工藤殿が太られたのではないか。一体、何を食べれば、そんなに大きくなる…」。川の水を水筒に入れ、振り返ると、茂光が突っ伏している。茂光に駆け寄ると、背後に人の影。刀を抜こうとしたが…祐親の下人・善児(梶原善)の小刀に襲われた。祐親にとって宗時は孫だが、善児に命じたのであった。つまり、大河ドラマでは義時の兄・宗時とともに工藤茂光も善次に殺さたたのであった。そして「北条宗時」・「工藤茂光」の墓👈リンク をこの2月に訪ねたのであった。「米本学仁」さん。米本さんは結婚され、福島におばあちゃんができたのだと。大河ドラマをいつも楽しみにしていて、今作も見てくれたのだが、「もう死んじゃったのかい?」と言われてしまったと。身長180cm、体重180キロの立派な体格で座る椅子が他の二人と同じで爆笑。ネットで調べると、米本学仁は日本とアメリカのハリウッド俳優。宮城県仙台市生まれ、大阪府育ち。生年月日:1979年3月9日(43歳)であると。その後も様々な質問が続いたのであった。そしてそれぞれの演じた役について知っていたか質問する司会者。竹財さんは伊東祐清について全然知らなかったと。江間次郎のことは全く知らなかったと芹澤さんも。史実にも出てこないので調べようがなかったので脚本通りに演じようと決めたと。米本さんは工藤茂光は三谷さんが作ったとも言える役とのことで、記録では善児でなくこれ以上逃げられない、と自害したとのことできっと太っていたために逃げられなかったんだろうと、これはぼくの役だ、と思ったと。役作りのために所縁の地である加納城跡と石橋山古戦場にも行ったと語ったのであった。その後も大河ドラマと他のドラマとの違い、楽屋風景、手を抜いていないNHKのセット等の話題で盛り上がったのであった。そして最後にそれぞれが夢は「NHK大河ドラマ」の「主人公」を演じること と熱く語っていたのであった。頂いた資料の中にあった「源行家」役の「杉本啓太」さんんポストカード。行家は義経と結託し、頼朝に叛旗を翻した。すでに後白河から頼朝追討の宣旨を得ていたが、味方となる豪族は乏しかった。元暦2年(1185)年11月、状況を察した行家らは都落ちしたが、その前途は多難だった。翌年5月、行家は和泉国で潜伏生活を送っていたが、やがて地元の住民らの通報により、鎌倉幕府により捕縛された。同年5月12日、行家は子の光家・行頼とともに山城国赤井河原(京都市伏見区)で斬首されたのであった。そして「八重」役の「新垣結衣」さん。義時の初恋の人にして、源頼朝の最初の妻。平家を恐れる父・伊東祐親と愛する頼朝との間で板挟みとなり、苦悩する悲運の美女。伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院👈リンク があった。伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の音無神社👈リンク、八重姫が千鶴丸を祀ったとされる最誓寺👈リンク などがある。バッグも頂きました。「トークショー」終了後の楽屋?のスナップ写真をネットから。そして「大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 スペシャルトーク in 寒川」も行われることを知る。【ゲスト】 「梶原景時」役の「中村獅童」さん【日時】 2022年7月15日(日) 開場:午後1時15分 開演:午後2時 終演予定:午後3時30分【会場】 寒川町民センター ホール(神奈川県高座郡寒川町宮山165番地) であると。今回も往復はがきで申し込んだが、競争率はかなり高いのであろうが。旅友と久しぶりに茅ヶ崎駅前の飲み屋で、この日の反省会を行い帰宅の途についたのであった。 ・・・幕・・・
2022.06.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は5月6日(金)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の5回目・そして最終回を企図して自宅を早朝に出発する。この日はJR茅ヶ崎駅北口からスタートした。北口のペデストリアンデッキ👈リンクには、茅ヶ崎市ゆかりの方々の手形モニュメントが設置されていた。ペデストリアンデッキを下りて、一里塚通りを国道1号に向かって進むと、右手に、以前訪ねた「茅ヶ崎一里塚」があった。神奈川県茅ヶ崎市6。「茅ヶ崎一里塚」👈リンク昭和三十六年八月十五日 茅ヶ崎市史跡指定徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。慶長9年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から14番目にあたります。かつては道の両側にありました。」「一里塚」交差点から国道1号の「茅ヶ崎駅前」交差点方向を見る。「一里塚」交差点を渡った先が、反対側の「茅ヶ崎一里塚」があった場所。その場所にあったのが「案内板」。「『平成の一里塚』一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山道、北陸道の沿道に一里(約4km)ごとに設けられました。塚は、沿道の両脇に築き、大きさは5間(約9m)四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向い側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。」ところで、木の数種はいくつかあるのですが、中でも「一里塚」には【榎(えのき)】が多い。その理由は次の様な逸話があるのだと。『東海道が整備された時、一里塚の上に何か木を植えることになりました。東海道整備は徳川家康の肝いりの政策だったので、家臣が何の木を塚の上に植えたら良いか家康に聞きました。家康はそんなことまでいちいち聞くなよ!という思いで、『ええ木にせい(良い木にしておけ)』と答えたとか。すると家臣は、『榎にせい』と聞こえたらしく、このために一里塚には榎が多く植えられることになりました と。まあ、どこまでホントの話か??円形ベンチの中心には江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されていた。「茅ヶ崎一里塚」の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられているのだと。「一里塚北通り」を北東方向に進みJR相模線の踏切を渡る。「小出(こいで)踏切」。茅ヶ崎駅から0K952mと。その先T字路の左側には「地蔵尊」が。神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目5−25近く。多くの造花が手向けられていた。その先の緑地帯の右側を斜めに進んで行った。緑地帯の一角には薄いピンクの花が一面に。「ヒルガオ」の花であろう。その先の「本村四丁目」交差点手前に案内板があった。ここ「本村居村遺跡」は茅ヶ崎市の本村に所在しており、国道1号と県道404号遠藤・茅ヶ崎線の交差点から一つ北の交差点「本村4丁目」付近に位置していた。「本村居村(ほんそんいむら)遺跡出土木簡」解説碑と「本村居村遺跡」解説板。令和2年3月に、実際に木簡が出土した地点の近くである「本村4丁目」の南西約30m地点に設置された、遺跡内容がわかる解説板。「本村居村遺跡出土木簡」解説碑。「茅ヶ崎市指定重要文化財 本村居村遺跡出土木簡 平成27(2015)年6月1日指定出土した木簡は6点で、短冊形のほか桶底や折敷をニ次利用したものもあります。仏教行事に関連する「放生」が記されている文書木簡や、行事に伴い作成された帳簿木簡、文字の練習に使用された習書木簡などがみられ、古代の地域における実態を知ることができ、茅ヶ崎市の歴史を語る上で欠くことのできない資料として市の重要文化財に指定されています。なお、表示は実物大の赤外線写真です。」「本村居村遺跡と古代の木簡」解説板。「皆さんが立っているこの場所は、本村居村遺跡の一部にあたります。遺跡は、東西方向に形成された砂丘とその南側の低湿地に立地しており、奈良・平安時代を中心に縄文時代晩期や中近世など複数の時代に亘っています。道路建設や下水道工事に伴う発掘調査で、砂丘部分(居村A遺跡)からは古代の竪穴建物や井戸、土坑などが発見されました。とくに井戸は木枠を有する立派なもので、多数の土器が出土しています。また低湿地部分(居村B遺跡)からは、古代の水田が発見されたほか、文字が書かれた土器や木製品などが出土しました。木製品は、通常土の中ではなかなか残らない遺物ですが、水気の多い低湿地であったことから、良好な状態で発見されました。その中の一つが木簡です。木簡は、木札などに文字などが書かれている資料のことで、本村居村遺跡ではこれまで神奈川県内で最も多い6点が出土しています。このことは遺跡の性格を示す重要な手掛かりになります。出土した木簡のうち、第2号木簡は公文書が記されていますが、注目されるのは「放生」という文字です。「放生」とは捕らえた生物を放ち逃がすことで、仏教の不殺生の思想に基づく「放生会」という行事が、ここで行われていた可能性を示しています。また第3号木簡は、曲げ物容器の底板に「茜槽」などと記されていました。「茜」は染色に使用される植物であり、当地域における古代の産業を知る手掛かりとなります。さらに第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。こうした木簡が出土する本村居村遺跡は、公的な性格を有する遺跡であった可能性が高く、茅ヶ崎市地域における古代の歴史を知る上で欠かせない遺跡です。」発掘調査時の上空からの写真。出土状況、出土品の解説。第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。発掘調査後は埋め戻しがされていた。解説板前から県道404号線・遠藤茅ヶ崎線方向を見る。舗装されている場所も発掘調査場所。近くにあったのが「本村観音堂」。朱色の屋根の上に宝珠が。「本村観音堂」の前には小さな社があった。神奈川県茅ヶ崎市本村5丁目6-53。内陣には石仏が鎮座。石仏に近づいて。弘法大師像であろう。「相模国準四国八十八ヶ所 第七十番 茅ヶ崎観音堂御詠歌よびあいて結ぶみのりやふだらくのきしさし渡す舟のちがさき」。民家のような前庭であったが。そして茅ヶ崎市本村5丁目の住宅街をスマホの案内に従い進むと路地の角の空き地にあったのが「うしのごぜん」碑。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎503−4。「うしのごぜん」碑。以下ネットより「茅ヶ崎の「うしのごぜん」は塚になっていたという記述がある。「うしのごぜん」と呼ばれる人のお墓もしくは供養塚だったのか、はたまた「神様」を祀ったものなのか、明らかにする手掛かりがまったくない。近年この塚の辺りが住宅地になり、いっしか塚も姿を変えていくのだがその頃から居住者の間に不幸な出来事が続いた。もしや、と思案した自治会や有志の方々によって「うしのごぜん」と刻んだ石塔を建て供養したという。言伝えによると、塚の辺りには狐が棲んでいて、南湖の魚売りが魚を置かないで通ると化かされるといわれていた。南湖から千ノ川沿いに来て、梅田から高田に抜ける唯一の生活道であるので、魚行商もこの道を行き来していた。道は高田と円蔵の村境を通り赤羽根との接する所で大山道を横切る。千ノ川をどのように渡ったのか。『新編相模国風土起稿』や『皇国地誌』などによると、幅2間( 3.6m )、深さ1尺5寸(45cm)という。川を渡る側に塚が築かれていたのは、川を渡る安全を願ってのことに由来するのかもしれない」また、茅ヶ崎に「うしのごぜん」があるのは、江戸本所「牛御前」の効験が大山に詣でる信徒や旅人達によって伝えられ、祀られる様になったのではないかとも。石碑の裏側。「昭和六十一年十月吉日 本村地元有志」と。そして「茅ヶ崎グリーンハイツ」手前の三叉路を左に進む。「茅ヶ崎グリーンハイツ案内図」。正面に見えたのが「東邦チタニウム(株)茅ヶ崎工場」。正面に「JR相模線」の「北茅ヶ崎駅」。折しも茅ヶ崎駅行きの電車がホームへ。以前も通過した「北茅ヶ崎踏切 1k233m」を再び渡る。右手に「JR相模線」の「北茅ケ崎駅」。JR茅ヶ崎駅方面を見る。そして線路沿いを今回も歩き、途中右折して「茅ヶ崎中央公園」に向かって進む。緑溢れる「茅ヶ崎 中央公園」の園内の遊歩道を歩く。「茅ヶ崎 中央公園」の桜の若木の横にあった案内板。「人と人との繋がりと復興を願い、この桜と同じ桜を南三陸町歌津中学校に植えました。」と。左に「茅ケ崎中央病院」と工事中の現場が見えた。茅ヶ崎中央通りに出て右折すると、右手に「避難所・避難場所案内」があった。右手にあった「茅ヶ崎中央公園」案内板。ズームして。「「茅ヶ崎中央公園(第一カッターきいろ公園)」正面の県道沿いには、フラワーロードの草花が、公園の中央には、芝・草地広場がひろがっています。早春には、北側園路沿いにクロッカス、スイセン・ヒヤシンスなどが咲き春の訪れを感じます。引き続き桜の時期にはソメイヨシノ・ヤマザクラが咲きます。初夏には、中央南側の花壇に香り豊かなテッポウユリ・白ユリやアジサイなど咲き競います。夏には、けやきの木陰で一休みできます。晩秋には、もみじ・けやきが色づき、また、東側広場には、県内相模線沿線の市町の木が植えられています。」とネットから。そして左手奥には「市民文化会館」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「本在寺」を後にして、再び「田村通り大山道」を西に進むと正面に「高田熊野神社」の姿が現れた。「(高田)熊野神社」。 神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10−44。正面から石鳥居と拝殿を見る。社号標石「熊野神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。扁額「㷱㙒(熊野)社」。「拝殿」そして正面の彫刻、大きな注連縄を。祭神 ✦熊野大神 ✦櫛御気野命 ✦天神七座地神五座 ✦大山咋命(日枝神社祭神)祭事 ✦歳旦祭(年賀祭):1月1日 ✦浜降祭:7月14日 ✦例祭:9月第2日曜日「高田総鎮守 熊野神社 👈リンク 高田の鎖守熊野神社は、万治元年(西暦一六五八年)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長八年(西暦一六〇三年)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうらで百六十余石を徳川将軍より賜り、爾後、明治維新に到るまでその子孫の釆地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、もちろん当時の建物ではなく、昭和二年に高田総氏子によって新築されたものです。日枝神社(山王社)当社は、享保五年(西暦一七二〇年)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社です。その社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこには青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下ろす景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和四十七年に新築された建物です。」「本殿」を見る。御祭神 : 熊野大神(くまのおおかみ)、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)、 天神七座地神五座(てんしんななざちしんござ)。 大山咋命(日枝神社祭神) 『古事記』では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としているそうです。 最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代としています。 また、地神とは天神七代と人皇の間に位置する神々の時代のことだそうです。 <天神七座> 国之常立神(くにのとこたちのかみ) 豊雲野神(とよぐもぬのかみ) 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ) 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ) 淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ) <地神五座> 天照大神(あまてらすおおみかみ) 天忍穂耳尊(あめのおしほみみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 火折尊(ほおりのみこと) 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)例祭は9月第2日曜日。7月海の日には浜降祭がある。市内香川の諏訪神社を兼務しているという。【ご利益】:地域振興・地域安全、家内安全、一族・子孫繁栄。「頭貫」の上の彫刻。「神輿殿」。「高田熊野神社」の「神輿」。 【http://blog.livedoor.jp/ryoujinkai/archives/50730169.html】より木鼻(右)。木鼻(左)。境内社が2社。正面から。扁額「正一位 森家稲荷大神 白笹稲荷大神」。「由緒元和三年森武右エ門が一族狼徒を連高田に土着をし屋敷内に京都伏見稲荷大神系の秦野大泉に鎮座する白笹稲荷神社の分霊を勧進建立をしたのが始です。その後同屋敷内に紀州熊野本宮も分霊し熊野神社を建立をしてその機会に同屋敷を分割して熊野神社境内社として現在に至っている。当然今の社殿は当時の物とはちがいます。森家を始め高田人々の篤い信仰を受けて大切に保存をされています。」掲示板。「日枝神社(山王社)」の社殿。扁額「山王社」。社殿の裏に「庚申塔」が。「地神塔」も。社殿の裏に石碑が別の場所にも。柵があって中に入れないので、文字が読み取れなかった。右の二基には、「奉寄進石灯籠」と。そして「高田熊野神社」の北側にあった「赤羽川」を訪ねた。ここから流れは南下し「千ノ川橋」近くで「千ノ川」に合流するのだ。そして県道404号線・小出県道に出る。北側には「新湘南バイパス」が見えた。そしてこの日の予定を全て制覇し、帰途につく。予定通り神奈中「高田」バス停へと向かったのであった。茅ヶ崎駅行きのバスが到着。そしてこの日の最後に、茅ケ崎駅北口から続くペデストリアンデッキに飾られた、茅ケ崎にゆかりのある著名人の手形モニュメントをカメラで追ったのであった。最初に「加山雄三 海その愛」。本名・池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾厚作。父は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。横浜市に生後8か月まで、次の田園調布には1歳9か月までいた。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、上原謙は息子のために、自然環境の良い茅ヶ崎へ引っ越した。茅ヶ崎の実家には31歳で結婚するまで過ごした。宇宙飛行士「野口聡一 きぼうの未来圏へ」。茅ヶ崎市立浜須賀中学校、神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校出身。「12代目市川團十郎 温故知新」。9代目市川團十郎が茅ヶ崎市に別荘を持っていたことが縁で、ここに手形が置かれたとの事。宇宙飛行士「土井隆雄 宇宙をめざせ」。実家が神奈川県茅ヶ崎市にあり、学生時代の一時期を過ごしたことがあると。中日ドラゴンズ投手「山本昌広 名球会」。茅ヶ崎私立松林小・中学校を経て、日大藤沢高校から1983年にプロ入りし最多勝、最優秀防御率、沢村賞などの成績を収めた。2006年には史上最年長の41歳1カ月で無安打無得点試合を達成。50歳を超えて現役を続け、史上最年長登板記録、最年長勝利をマーク。通算219勝を挙げた。そして茅ヶ崎駅舎へ。藤沢駅近くで腹ごしらえ。そして旅友が藤沢市内の「白旗神社で藤の花」👈リンク を楽しんでいるとのLINE連絡があり、急遽向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.10
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「熊野神社」を訪ねる前にその先にあった「本在寺」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7−38。左側の門柱には「日蓮宗 本在寺(ほんざいじ)」と。右側の門柱の裏にあったのが「大山灯籠」。「本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。」と。一般的に石燈籠と言われるもので、城塁形に切り石を築き、その上にもう一つ段のある基壇を持つ、全高2m78cm、江戸時代特有の鋭く、きつい軒ぞりの、堂々とした石灯籠。正面に「山門」。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板には「今月の聖論けわしき山 あしき道 つえをつきぬれば たおれず」と。「日蓮聖人御遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮宗」「「今月の聖語」解説=1人で抱え込まないで=針に糸を通すのは中々大変です。針を固定して糸の先を穴に通していたら、「糸を固定して針を動かすほうが通しやすいよ」と、助言してくれる人がいました。それ以来この方法で糸通しをしていましたが、細い針金を使った糸通しの道具を見つけました。これは便利です。糸通しひとつにしても、やり方は色々あるものです。人生の様々な場面においても、解決策は一つではないと思います。自分一人では困難なことも、他の力を借りれば乗り越えられる方策が必ず見つかります。一人で抱え込まず、肩の力を抜いて、他に頼ることも時には大切なことではないでしょうか。」「日蓮聖人ご遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮聖人の有能な外護者、北条弥源太入道に与えた書状です。書中、聖人は法華経を諸仏発心の杖とたとえられ、弥源太入道に「日蓮のことも杖や柱と思って頼ってください」と呼びかけられます。入道が聖人に従って法華経を信じるようになったのは不思議の因縁であるとして、いよいよ信心強くしたならば霊山浄土のみ仏のもとに導いていただけることと諭されています。文永11年(1274) 聖寿53歳」正面に「本堂」。「日蓮上人之像」。ズームして。更にお顔を。庫裡であろうか。「本堂」。「本堂」の「蟇股(かえるまた)」の彫刻。「本堂」の唐破風下のこの紋は、日蓮宗の徽章「宗章紋」。日蓮聖人の名に因んで、日輪と白蓮華を図案化されたものである。賽銭箱には「浄財」と中央に日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。扁額は山号の「村澤山」。「本堂」を見る。「本堂」の「天水桶」にも日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。「日蓮大菩薩」碑。「掲示板」内に「宗旨」案内板が。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一ニ五三年)本尊 久遠の本師 釋迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えある法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経)本堂のご本尊さまに先ず合掌」本堂の裏にあった墓地。「南無妙法蓮華経」、「南無日蓮大菩薩」の文字は判るが。この石碑は?ここにも文字が書かれていたのであろうが。「山門」、「日蓮聖人像」を見る。「山門」を境内側正面から。「山門」の鬼瓦とその上に素弁八葉蓮華文の軒丸瓦。これは?「一等水準点」。全国的な水準測量のための基準測点としてその標高が精密に求められている点。国土地理院によって設けられ標識は普通、花コウ岩またはコンクリートでつくって地中に埋設し、その頭部の高さを決定する。東京都千代田区永田町1丁目1番地にある日本水準原点を基準として一等、二等、三等の等級があり、一等水準点は水準原点から出発して全国の国道・都道府県道沿い2kmごとに全国で約2万点埋設されており,その高さがcmの単位まで決めてある と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.09
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「田村通り大山道」を西に向かって進むと、右側には墓地があった。大きな墓石の前には石鳥居が。大きな石碑に書かれた文字は?「志」ではないかと学友から。杉崎家の墓地らしい。杉崎家「墓誌」。「杉㟢家𡳿(之)碑」。杉崎家7名、志村家2名の名が刻まれていた。「金重家」墓石。その手前にあったのが「大山街道句碑」。「大山街道句碑」と。「添田唖蟬坊、杉﨑鳥花句碑」。「春風や いそがぬ人の そでを吹く 鳥花 」「密会の かなしみを泣く 蛍かな 唖蟬坊」 添田唖蟬坊は、明治大正期の演歌師で名は平吉。神奈川県大磯の生まれで一時茅ヶ崎に住んでいたと。号は「歌をうたう唖しの蟬」と自らを称したところから由来すると。そして唖蟬坊は茅ヶ崎で杉崎鍋之進と知り合い、その付き合いから俳句を始めた。この杉崎鍋之進の俳句の号が先の句碑の「鳥花」であるのだと。そして道路に面した場所にあったのが「赤羽根六地蔵堂」。正面から。「赤羽根 六地蔵堂」。六地蔵の右側三体。六地蔵の左側三体。更に西に進む。ここは茅ヶ崎中央商店街。街路灯が洒落ていた。「田村通り大山道」の時代には賑わった場所であったのだろう。そして左折すると左手に小高い山があった。「高田緑地」と。神奈川県茅ヶ崎市高田1-58。石段を上って行くと正面奥に立派な墓地があった。その他は一面、松を中心とした林。立派な墓石は並ぶ墓地であった。「水越家之墓」。先程、「神明大神」の「一之鳥居」の前にあった「長屋門」の家・水越家の墓であるようだ。「水越家は、 江戸時代、このあたりの名主を務め、明治中期から昭和初期にかけて地方自治に貢献した水越良介の生家でもあります。良介は、藤沢の羽鳥にあった小笠原東陽 の「耕余塾」👈リンクに学んだ後、地元の小学校の教師になりました。明治15年(1882)21歳の時、赤羽根村ほか3か村(組合村)の戸長に推され、後に松林村長、 高座郡会議員、神奈川県会議員を務め、大正9年(1920)に茅ヶ崎町長に就任しました。当時、学校改築に端を発し、町政が紛糾していましたが、この解決 に努め町政を安定させました。また、「老桃」の号を持つ俳人としても知られ、同家から近い墓所の碑に「出来稲や 腹かかへゆく 村夫子」という句が刻まれ ています。」と。残念ながら、句碑は撮していなかったが。「水越家先祖代々之精霊位」碑。そして「高田緑地」前の道を南に進み途中で右折し西に向かう。この路地を右折。正面に墓地があり、その後ろに小高い丘があった。丘を上ると頂上に石碑が立っていた。「鶴田栄太郎氏頌徳碑」。1957 年の七堂伽藍跡碑の建碑に尽力したのは、鶴田栄太郎であった。鶴田は 1888(明治21)年に茅ヶ崎市円蔵に生まれ、1968 年に 80 歳でなくなっている。詳しい経 歴は不明だが、戦前期には横浜に出て事業を起こしていたようである。『相武研究』や『郷土神奈川』の編集に携わっており、神奈川県郷土研究連盟では 副会長の要職にあった と。「鶴田栄太郎氏頌徳碑鶴田栄太郎は明治廿一年三月隣邑に生る 資性・・・常に名利を棄て清貧に甘んずるの風あり専ら郷土史研究に身を捧ぐること丗餘年相武の山野君の足跡至らざるなく以って地方文化の向上に寄与するところ大なり君偶と大山街道沿線を踏査するや守谷氏の祖に歌人仁兵衛兼布のあるを見出し之を世に紹介す君のこの譽れは守谷氏の深く感動するところとなりついに守谷氏は君の為に建碑の全をなす蓋君が芳志の現なり而て建碑の地をこの山王山に相したる所以はこの地が嘗て〇〇高田の山王社の鎮座せし所にして君が・・」下部の黒い部分が読めずに残念。「下寺尾の都市資源紹介「人物」 鶴田栄太郎氏( 1888 ~ 1968 下寺尾遺跡群の一画にある「七堂伽藍跡の碑」建立の中心となったのが、鶴田栄太郎氏です。彼は茅ヶ崎生まれの郷土史研究家で、一生を茅ヶ崎の史跡発掘、研究、紹介活動に尽くしました。伝説の七堂伽藍については、本当なのかどうかや時代者証などで多くの議論があり、結論は将来の『研究』にゆだねられました.彼は、この「七堂伽藍」研究を機に、西久保宝生寺の阿弥陀三尊像の発見、東海道ー里塚は、懐島の碑など数々の句碑の建立、大岡祭の開催など茅ヶ崎の文化財保護活動をはじめ、郷土史小冊子「あしかび叢書」を創刊し、郷土史雑誌「武相文化」などにも積極的に投稿し、茅ヶ崎の史跡・文化財を積極的に紹介し読けました。1968年10月20日、講演を終えた後、「これで今日の講座を終わります」と言い終えるや、隣の人に倒れかかり絶命したと言ういきさつは、終生の研究者を象徴しています.近年「古代寺院( 七堂伽藍跡)」の存在が証明され、国の史跡になるにあたり、草むす「碑」のそばに立ら、大いに喜んでおられることでしよう。こんなに素晴らしい宝を探究し伝えてくださった鶴田栄太郎氏に、茅ヶ崎市民として深く感謝いたします。(増田・富水)」「下寺尾の都市資源紹介「民話」 民話 【七堂伽藍】昔、下寺尾に大きな寺がありましたが、火事で焼けて今はありません.この火事は住職の尼さんの比丘尼が、南港の漁師の苦情に耐えかねて寺を焼いたというお話です.今からハ百年ほど昔、現在の茅ヶ崎北陵高校の南の所に、海円院というお寺がありました。大きな規模ですので近在の人々は七堂伽藍とも呼んでいました。比丘尼は、30歳そこそこで、美しく聡明で気立てがよく、近郷の村人にたいへん慕われていました。比丘尼は空腹で倒れていた乞食の助三の看護をして、寺にしばらく住ませていました。お寺の灯明の灯りのせいで魚が取れないという漁師の苦情に思い悩む比丘尼に、助三は心を痛め、本堂を焼いて姿を消しました。海円院の火事の後、南湖の海ではもとどおり豊漁が続くようになりました.身代わりになって役人に捕らえられた比丘尼は、詮議を受け、処刑されたとのことです.「茅ヶ崎の民話劇 第一集」編集 茅ヶ崎民話の会(要約 川合)」 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/155/vol12.pdf】より左手前方に「NTT局舎ビル NTT東日本 茅ヶ崎松林局」の鉄塔が見えた。そしてこの日の最後に訪ねた「高田鎮守 熊野神社 大岡家創建」の案内塔が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.08
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次道路が狭いので大型車は進入禁止になっている神奈川県道44号伊勢原藤沢線を西に進む。江の島から田村(平塚市)を経由し、大山へ向かう「田村通り大山道」が元になっている道路である。前方右に「赤羽根神明大神社(あかばねしんめいおおかみしゃ) 」の「一之鳥居」と大ケヤキ(欅)が姿を現した。「神明大神社 」の「一之鳥居」とその先の参道を見る。「一之鳥居」の右側には「指定村社 神明大神」と刻まれた石碑があった。「赤羽根神明大神社」とも呼ばれているとのこと。石碑の裏側には「大正七年十月二十九日指定」と刻まれていた。村社に指定された年月日であろう。「一之鳥居」の左側には大ケヤキ。根元は樹齢数百年以上と思われる歴史を感じさせる姿なのであった。この部分の大山道の道幅は約3.6mあり、1841(天保12)年にまとめられた『新編相模国風土記稿』にある「道幅約2間」に一致していると。かつての大山道をしのぶことができる貴重な場所なのであった。そして「一之鳥居」を潜り長い参道を北の方向に進む。その先に住宅街を東西に走る舗装道路がありこれを横断してさらに進む。左手にあった瓦屋根のこの建物は?隣には「下赤自治会防災資材置場」と書かれたスチール製物置があったが、これも同じ目的で使われているのであろうか?近くにお住まいの方から書き込み頂きました。先代の神輿殿ではないかと。なるほど同じような造りなのであった。そして右手参道横には「鐘楼」があった。梵鐘の下には、安全確保の目的であろうか、ブロック基礎の上に鉄柵が設けられていた。明治に入る前は神仏習合で「満蔵寺」という寺院があったが、今は廃絶され姿を消したのだ と。その名残でこちらの神社にも梵鐘が残っているのであった。梵鐘。古そうな一対の石灯籠(右)。石灯籠(左)。そして石段を上って行った。見えて来たのは「拝殿」ではなく「新湘南バイパス」の高架道路。その先には「ニ之鳥居」と拝殿が漸く姿を現した。ズームして。この歩道橋は「神明歩道橋」と呼ばれているのであった。参道・「神明歩道橋」は新湘南バイパスの側道をオーバーパスし、新湘南バイパスをアンダーパスしているのであった。新湘南バイパスのこの場所の真下は緑地帯になっており、木が植栽されていた。そして側道の先に「ニ之鳥居」が現れた。境内の銀杏の木は側道にはみ出し、守られていたのであった。よってこの場所は4輪自動車の通行は不可能。「ニ之鳥居」から「拝殿」を見る。白い大きなマスク姿の狛犬(右)。足下の子供もマスク姿。狛犬(左)。「相刕(州)赤羽根 鎮座 神明大神」碑。「ニ之鳥居」を潜り「拝殿」に向かって進む。「記念碑湘南地域交通緩和に伴う新湘南国道の建設にあたり、神明大神境内地参道の一部が建設省の計画路線に掛かる。このため神社の財産たる境内地保全と神社の尊厳維持のため深く憂慮し、財産処分の決定については氏子を挙げその英知を結集する。昭和五十四年を起点として建設省との度重なる協議の末、買収価格に神木銀杏の保存を条件に加えて譲渡成立する。昭和五十五年神社本庁への財産処分申請を手始めとして、境内地の模様替え造成工事と神殿、神楽殿、社務所、手水舍等主要建築工事の設計契約を経て、諸工事は年度を追って着々と進み各々その竣工をみるに至る。思うに昭和五十八年、御遷宮までの5か年間建設委員をはじめ氏子は一致団結してその精魂を傾け数多の困難を克服して、ひたすら由緒ある神明大神の保全と御神徳の発揚を念じ、また関係建設業者の熱意ある貢献のもと慈に御遷宮の大業を成就するに至る。昭和五十八年九月十七日 赤羽根 神明大神氏子中」「神楽殿」。「赤羽根神明大神 掲示板祭 事一月 元旦祭七月 浜降祭(海の日)九月 例大祭(第三日曜日)」「手水舎」。「神輿殿」。「赤羽根神明大神社」の「神輿」。 【https://ameblo.jp/syounan0211/entry-10142027320.html】より「社務所」。「拝殿」は神明造(しんめいづくり)。切妻造、平入りで弥生時代の穀倉としての高床建築と類似する。伊勢神宮の本殿の様式である。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468。「拝殿」前の狛犬はマスクなし(右側)。左側。比較的新しい「拝殿」。昭和五十七年新湘南道路計画により、新築されたのであろう。「神明大神由緒祭神 大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)合妃神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真公・福津日神(ふくつびのかみ)大日孁貴命は天照大神の別称、大日霎貴ともいい日神とある。合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の一村一社制度の施行に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)のニ社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。新相摸風土記稿によれば、神明宮は十一世紀後期に陸奥守源義家(八幡太郎義家)の建立と伝う、とある。慶安ニ年(一六四九)には、大猷院三代将軍家光公より社領六石の御朱印を賜う。往古は神仏混淆であったと思われる。その満蔵寺も明治四年の廃仏毀釈で廃絶し姿を消した。千古の歳月を村民の崇拝によって、畿度も再建が繰り返され、元和七年(一六ニ一)や、宝永ニ年(一七〇五)等棟礼が今尚残存する。明治一七年(一八八四)九月に再建された、社檀には間ロ四尺八寸、奥行四尺の僅か六合の神殿が安置された。昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と神輿渡御で賑わい日々常々は地区民が平穏を願う鎮守神である。」扁額「神明大神」。内陣。「拝殿」前から境内その先に「新湘南バイパス」の高架を振り返る。境内の様子。「千木(ちぎ)」と「堅魚木(かつおぎ)」をズームして。「千木」は社殿などで、破風の先端が棟上にのびて交差した木。「堅魚木」は屋根の上に乗っている丸太のような部材。権威の象徴として古墳時代からあったと。そして「赤羽根神明大神社」を後にして再び「新湘南バイパス」の高架下を歩く。そして「神明歩道橋」を渡り、振り返る。「一之鳥居」手前から大ケヤキそしてその先の「長屋門」を見る。「水越家の長屋門」茅ヶ崎町長をした水越良介氏の生家で、江戸時代の名主の家の長屋門がそのまま残っていると。水越良介と孫の悔ニは俳人、孫の茅村は書家であったと。「長屋の一部に門を開いたもので、当時は領主の許可がなければ建てられなかったと言われている。水越家は代々続く大地主の家。(「茅ヶ崎市史」によると、高田村(現在の高田)の有力地主)長屋門とは(小学館:日本大百科全書2001から)門の扉の両側に部屋が連なっている形式の門をいう。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まる。この道は藤沢市四谷からつながっている旧大山街道で茅ヶ崎歴史街道に『「この大ケヤキの辺りは、江戸時代の大山街道の道幅と大体同じ」と聞いたことがある。史料にも「村の南に大山道 幅2間余(1間は約1.8m)と記されているので、実際に測ると史料通り約4mだった。』と記載あり。以上 ネット情報である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.07
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昨日・6月5日(日)の朝は5時半過ぎに目が覚め起床。雨の心配がなかったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に向かう。藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ。大清水橋から鷹匠橋までの約400メートルは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したものであると。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。 ●七変化(しちへんげ):七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変えこと からついた別名 ●四片・四葩(よひら):「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな):丸く集まった装飾花の形から ●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。 ●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽 ●八仙花(はっせんか):「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前「大清水橋」を振り返る。斜面の草刈りも行われていた。この場所にひまわりを植えて平成16年度の「藤沢市まちづくり賞」を受賞と。今年もヒマワリの苗が植えられていた。ガクアジサイ。藤沢市民病院を見る。山の斜面には住宅がさらに広がっていた。こちらはこれからが見頃か。車で移動し「鷹匠橋」を見る。「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。このことから市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m 完成:1990年(H2)欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドガラスの如き絵が飾られていた。近づいて。下を流れる川は横浜市との市境になっている「境川」。前方に藤沢バイパスに架かる「境川大橋」。「境川」の上流側を見る。「鷹匠橋」の欄干には同テーマの造形作品も。近づいて。白いスミレの花であろうか。別の場所のステンドグラス。「さかいがわ(境川)」。歩道にもタイル模様が。モンシロチョウの飛ぶ姿が微妙に異なるのであった。橋の袂の民家のあじさい。そして「境川」の上流に向かってアジサイ(紫陽花)を楽しみながら進む。ここ「境川」の西側の堤防上の道は「藤沢・大和自転車道」が。大和市下鶴間と藤沢市鵠沼海岸の間の一般県道で、境川サイクリングロードや境川自転車道と呼ばれる大規模自転車道。アジサイの「七変化」を楽しみながら進む。「アジサイは咲き始めは白っぽく、開花が進むにつれ、淡い色から濃い色へ濃淡や色が変化していくため、別名「七変化」とも呼ばれます。一般的に、土壌の酸度によっても花の色が変わり、酸性だと青寄り、アルカリ性だと赤寄りの色になります。日本は元々酸性土壌なので、赤色品種のアジサイでも庭に植えると、次第に赤紫色に変化。鉢植えでも、根酸(根から分泌される酸)の影響で土が次第に酸性になり、同様のことが起こります。色鮮やかな赤色を維持するには、土に石灰をまいて、土をアルカリ性に傾ける方法があります。なお、青紫色のアジサイに石灰をまいてもきれいな赤色にはなりません。青紫色のアジサイは酸性の土壌で鮮やかな色が出る、日本の風土に合った花木と言えます。」とネットから。「鷹匠橋」を振り返る。純白のアジサイも。帰路にあった「カシワバアジサイ」。そして濃い赤紫のアジサイ。この日に立ち寄った近くの「わいわい市」にあった変わったアジサイ。 ・・・END・・・
2022.06.06
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次バス通りを北に進むと、右手に「道祖神」があった。「道祖神 昭和三十三年正月十四日 室田部落講中」と。そしてその先に「室田八王子神社」があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13−35。ところで八王子神社は茅ヶ崎に4か所 ・堤八王子大神👈リンク・本村八王子神社👈リンク・菱沼八王子神社👈リンクそしてここ・室田八王子神社茅ヶ崎市内の全ての八王子神社を巡ったのであった。室田八王子神社の扁額は「八王子神社」。正面に「拝殿」。八王子神社は、スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。「拝殿」に近づいて。創建年代や由緒は不詳。御祭神は五男三女命(ごなんさんにょのかみ)と、・大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)。五男三女神は、・天忍穂命(あめのおしほのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)・多岐理比売命(たきりひめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・湍津比女命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神。例祭は5月第3日曜日。室田八王子神社神輿保存会があり、神輿渡御などが行われる。同保存会により、初詣の振る舞いなども行われている。現在は小和田熊野神社の兼務社である。唐破風下の「懸魚(げぎよ)」の彫刻。「懸魚」は、神社や寺院の建物の正面に見られる。建物の唐破風の下に取り付けた飾りをいう。破風に取り付けた火除けまじないで、魚をつるした形をしている。この装飾を取り付けると、水のゆかりにちなんで、火災にあわないまじないになるという。懸魚彫刻は、唐破風の下に合うように形にがまとめられている。鳳凰や鳥の形のものが多く見られる。龍植物・動物・飛天などもあり、優れた彫刻を見ることができるのであった。「妻飾り」そして「大虹梁」上の龍の彫刻。見事な組物。「脇障子(右)」。「脇障子(左)」。「室田自治会館」。「神輿殿」毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。「室田八王子神社」の「神輿」。 【https://blog.goo.ne.jp/shin354/e/0d001f384e511b5eee16608ea6eb7e57】より「拝殿」の右横の小高い丘。古墳の如き姿であったが。「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「室田八王子神社」を後にして、室田通りに向かって室田1丁目12近くを進むと空き地の隅に小さな神社があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目10。稲荷神社であろうか。「室田通り」に向かって白壁の旧家の前を。屋敷内にも神社が祀られていた。寺の山門の如き民家の門。そして次に訪ねたのが「妙行寺(みょうぎょうじ)」。寺号標石「妙法山妙行寺」。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目5−5。横には「南無妙法蓮華経」と。「日蓮大聖人六百五十遠忌記念」碑。「・・昭和六年五月三日大法會修行之・・」と刻まれた石碑。そして「本堂」に向かって参道を進んでいったのであったが・・・・。しかし「本堂」の姿はなく更地になっていたのであった。その後ろには、墓地が残っているので、「本堂」の建替えが行われるのであろうか。山号は妙法山(みょうほうざん)寺号は妙行寺(みょうぎょうじ)。開基は日蓮聖人の直弟子 六老僧の1人 大国阿闍梨日朗聖人(1245年~1320年)。比企谷 妙本寺の末寺である。妙行寺は享保10年頃(1725年)室田の山本仁兵衛による草創と伝えられています。この時期に鎌倉小町より当地に移転されたと思われる と。ネットで調べてみると「妙行寺(松林3の5の5)で5月14日、本堂の建て替え工事を前に地鎮祭が行われた。数年前の大雪の影響で雨漏りが発生し、調査した結果「いつでも倒壊する恐れがある」と診断された。これを受け、建て替えの流れとなった。」と。墓地をズームして。写真の如き赤い屋根の「本堂」があったようだが・・・。 【https://www.myougyouji.net/myogyoji/】より境内の隅には比較的新しい石祠が立っていた。別の石祠をズームして。そして「室田通り」沿いにあったのが「特別養護老人ホーム」。「社会福祉法人松宝苑 特別養護老人ホーム 湘南くすの木」。鯉のぼりが上がっていた。「室田通り」を引き返すとその先「田村通り大山道」との四辻の角にあったのが「松林村役場跡」碑。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根1358。「松林村の由来この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であった。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたことでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合併を重ねていった。明治二十二年(一八八九年)赤羽根村を始め、室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が建設され、村長には水越良介氏(後に茅ヶ崎町町長・神奈川県議会議員を歴任)が就任した。明治四十一年、松林村、鶴嶺村、茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町ができるまでの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。昭和二十二年市制が施行された当時の茅ヶ崎市の五万余の人口も、市制六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中核的都市となりました。大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります。」「江戸時代23ヶ村:黒文字明治22年市制町村制施行当時の4ヶ村茅ヶ崎村松林村鶴嶺村小出村」「松林村」には「大山街道」と「東海道」が貫いていたことが理解できたのであった。左手への路地を入ると右側には大きなひょうたんが店頭に置かれている「井上酒店」があった。更に「室田1丁目」と「赤羽根」地区の境界を通る「田村通り大山道」を西に向かって進む。前方に「室田小学校正門」交差点。左手に「室田小学校正門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.06
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「長福寺」を後にして、本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路があった。そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っていた。右側から「青面金剛庚申塔寛政11年(1799)11月6日山伏角柱日月・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「講中連名」・7人の名左側面「寛政十一己巳十一月六日」・8人の名」これも「青面金剛庚申塔享保13年(1728)12月8日唐破風笠付角柱日月(手持)青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「庚申講中 菱沼村」左側面「享保十三戊申天十二月八日」「馬頭観世音」嘉永七年(1894)。墓石であろうか。「三猿庚申塔延宝7年(1679)舟型「奉□就庚申」・三猿正面右側「延宝五天」」首の部分が補修されたと思われる「地蔵菩薩」。亨保十五年(1720)。一番左にあったのも墓石であろう。反対側にも石碑が。最近は道路整備などで多くの石仏が移設されているが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが多かったのだ。道の辻は自ずと人が多く行き交う。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まると考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説している。長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所。「双体神祇道祖神天明二年(1782)」オースティン・ニコルズ社が製造するバーボン・ウイスキーの「WILD TURKEY」の飲み掛け?の瓶が奉納されていた。そして茅ヶ崎市松林3丁目の路を進むと、大きな敷地の旧家が点在しているのであった。こちらは屋根瓦の付いた長い塀を持つ農家であろうか。そして「室田通り」に合流し、ここを左折。次に右折して「松林通り」を進むと水路の如き川が路地の先に現れた。近くに石碑群があった。「室田橋」と刻まれている石碑。その横に、道祖神が。文字道祖神茅ヶ崎市室田2-19。石仏。「昭和二年十二月落成」と。別の場所から右側に石碑群を見る。ここが「相模川左岸幹線用水路」・「千ノ川暗渠水路」の出口。地図上ではここから千ノ川が始まっているのであった。地図で千ノ川を下流へ辿ると小出川へ合流し最後は馬入川(相模川)へ流れ込んでいるのだ。相模原市南部の相模川から水を取り入れ、河口の茅ケ崎市域まで相模川東側の624ヘクタールもの広大な水田を潤すのが相模川左岸幹線用水路。用水と排水のネットワークで、太平洋戦争前の1940年(昭和15年)に完成し、今年で82年目を迎えた。そして次の目的地の「永昌寺」に向かって北に進むと右側にあったのがエッグダモンTOTO(株)室田寮。左手には楽器店「パプリカミュージック」。そしてスマホに従って進むと正面にあった石碑。「畜霊供養碑」と刻まれていた。廻り込んで「永昌寺」の山門へ。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15−44。寺号標石「禅宗 龍澤山 永昌寺」。庚申塔群。「青面金剛像「文化5年(1808)6月板駒型月日・青面金剛像(羂索/人・六臂)・三猿右側面 3人の名左側面「文化五年 辰六月吉日」・4人の名」こちらも四臂青面金剛像か。地蔵尊。山門を潜り境内へ。正面に「本堂」。曹洞宗 龍澤山 永昌寺(りゅうたくさん えいしょうじ)。「本堂」に近づいて。扁額は「永昌禅寺」。歴代上人の墓地。建設中の納骨堂?内陣。反対側から。この幾何学紋は?輪宝紋に似ているが。「本堂」を斜めから。「山門」を境内から。「山門」横の石祠。「本堂」と「寺務所」を振り返る。寺務所を見る。「永昌寺」を後にして「室田通り」を北に向かうと竹林の中にあった神社。鳥居には「正一位」と。石祠。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目3−6付近。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.05
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「菱沼八王子神社」を後にして、西に進むと右手に「茅ヶ崎市立松林小学校」の東門が現れた。ガザニアの花に似ていたが。そしてこちらが「松林小学校」の正門。校内には、パナソニックエコシステムズ(株)のサボニウス型風車・『風かもめ』が。小型の風力/太陽光発電システムでありサボニウス型風車にひねりを持たせた型式のもの。そしてクランク状に進むと左手にあったのが「長福寺」。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目11−52。寺号標石「高野山真言宗 菱沼山長福寺」。「一願不動」碑と「為太田家先祖菩提 護摩堂建立」碑。「一願不動昭和五十九年弘法大師御入定千百年御遠忌大法会を記念して建立されました。伊豆の願成就院の本尊不動明王(國宝)を勧請しました。護摩堂は太田政光氏の特別志納により建築されました。」四阿の先に「一願不動」。中央に「大聖不動明王像」一願不動に一つだけの願いごとを一心に祈願すれば必ず叶えてくれるといわれている。「大聖不動明王像」。「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」正面左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子が。「制旺迦童子(せいたかどうじ)」。眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな「制旺迦童子」。心を和ませる木彫像。句碑であろうか。境内には大山古道吟行の句碑、鴫立庵芳如の句碑、水越梅二の結願歌碑などがあるとのことだが。学友が茅ヶ崎図書館まで出向き、調べて下さいました。「踏みて来し 雲雀か(賀)起臥の 野芳し(か(香)ん(无)ば(者)し) 九一題」「縁起略記一、高野山真言宗菱沼山薬師院長福寺と号す一、創建は鎌倉期末と伝承。本尊薬師如来を安置一、正保年間大道法印中興一、明治ニ年赤羽根満蔵寺を併合一、大正十一年関東大震災に本堂庫裡倒壊一、大正十四年四月本堂再建一、昭和四十七年四月新本堂落成 棟梁 太田文雄」弘法大師御誕生千ニ百年を記念して本堂新築を発願 資を有縁に募り昭和四十五年八月工を起し同四十七年四月ニ日の吉日を期して理趣三昧の法莚を設けてその竣工を祝し、山運の隆昌檀信徒の繁栄を祈る 住職二十八世 隆玄」左「盆栽 山野草塚」碑、中央「南無大師遍照金剛」碑、右「唖蝉坊(あぜんぼう)句碑」。一番右手の「唖蝉坊句碑」。「河豚食ふて北を枕に寝たりけり」。「六地蔵」。正面から。「生かせいのち 同行二人」碑。「修行大師像」。近づいて。境内の池。石の上には「亀」が昼寝?「結願の 寺にわが杖 おさめきて 寂しくあれど 心やすらぐ」。水越梅二之作品 と。私も「四国八十八ヶ所お遍路の旅」👈リンク の結願の寺・大窪寺では同じ心境に。裏面には「四国八十八ヶ所霊場巡拝の同行当山総代水越梅二氏は歌集「遍路」を出版された遍路の心普く一切に及ぶことを念じ八十八首の中より結願の一首を刻す昭和五十八年春彼岸建之 幻住 隆興誌」と。水越梅二氏は茅ヶ崎市の初代収入役で、昭和22年から昭和43年まで21年2カ月もその地位に と。「宝篋印塔」。ズームして。この石碑には??後日、我が学友がこの寺をわざわざ訪ねて下さり現地調査の上、解読して下さいました。石碑は「般若心経」であるとのこと。『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若多羅 茅村書』碑文の読みは「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそぎゃてい ぼじそわか はんにゃたら」さらに碑文には「往(ゆ)ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ 悟りよ 幸あれ」 と。 石仏群。「お遍路の 誰もが持てる 不仕合(ふしあわせ) 白象」であると国文学専攻の学友から。森白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの と。「わ(王)す(春)れ傘して梅か(可)香の偲ばる(者)ゝ 十八世鴫立庵芳如」。この句碑の裏面に「昭和二十八年に長福寺に九一の雲雀の句碑が建てられた時、傘を忘れて帰った芳如に届けた住職隆玄宛て礼状の末尾の一句」だと記してあります。(抜粋、一部省略)。石灯籠。寺務所。「本堂」正面。扁額「長福寺」。歴代住職の墓石が並ぶ。無縫塔ではなく五輪塔。「墓誌」「子育地蔵尊」。「寄進 大子堂一宇 子育地蔵尊」碑。「子育地蔵尊」と「大師像」。境内の「稲荷社」。「安霊塔」。ズームして。「聖観音像」であろうか。「阿字の子が 阿字のふるさと 立ちいでて またたちかえる 阿字のふるさと」「【阿字】とは大日如来という仏様を表し、【阿字のふるさと】は大日如来のおられる清らかな世界、いわゆる『あの世』のことをいいます。これは、「私たちの誰もが元々は阿字の世界にいて、修行のためにこの世界へ生まれ、そして再び阿字の世界に戻るのだ。」ということを詠んだ歌です。一般的には人が亡くなると「あの世へ行く」と言いますが、この歌では「あの世に帰る」と表現されているのです。つまり、亡くなった人とは再びあの世(=阿字のふるさと)で再会することができるということです。愛する人とのお別れは悲しみの極みです。しかしあの世は愛する人と再会できる場所なのです。また会えるその日まで、私たちは今をしっかりと生きていかなければいけません。」と。「安霊塔建立の由来四国八十八ヶ所札所を巡拝した川辺義治氏夫妻は深く弘法大師に帰依しこの世に生をうけた人はみな有縁であるとの信念から安霊塔の建立を発願された。浅岡光雄氏はこの趣旨に賛同協力されて平成六年八月完成同月十一日施餓鬼会当日開眼法要を修行 長福寺第二十九世隆興」「六地蔵」。こちらは「水子地蔵尊」。小高い芝生の丘の上に石碑。山を上る僧侶の姿?が描かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.04
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝積寺」を後にして「赤羽根通り」に向かって東に進むと右手に農家の無人販売所があった。「ゴールデンオレンジ」が袋に入って売られていた。「皮が、しわしわになってくると甘くなります! と。すっぱさを感じながら食べるも良し甘くなるまで楽しみながら待ってもよし!。「黄金柑の来歴は不明ですが、明治時代には鹿児島県日置郡で「黄蜜柑(きみかん)」として食べられていたようです。のちに「黄金柑(おうごんかん)」という名前が付けられ、この名前で流通。「ゴールデンオレンジ」とも呼ばれます。黄金柑は果皮が黄色く、扁球形で重さは60~80gくらいと小さめ。さわやかな香りで果汁が多く、酸味は控えめです。見た目は酸っぱそうですが、酸味の少ない」とネットから。「赤羽根通り」に出て南に進むと、右手に注連縄付きの建物があった。これが「赤羽根八雲大神」。正面に八坂神社の神紋「木瓜(もっこう)紋」が。「木瓜紋」は、鳥の巣を真上から見た形を図案化したもので、子孫繁栄の意から縁起の良い紋様とされているのだ と。建物の手前右手に石碑があった。「上赤羽根八雲大神神輿由緒沿革」碑「御祭神八雲大神の御祭神は神仏混淆(しんぶつこんこう)時代は『牛頭天王』と呼称され明治政府の神仏分離令施行の際に『スサノオノミコト』となられました。又、天王社という呼称も八坂神社・八雲大神・氷川神社等と改称されました。神輿明治二十九年愛甲郡愛川村半原の木匠 家内右兵衛藤原高光は、江戸城将軍作事方及び小田原城主大久保佐渡守に仕え、宮大工として名主を申し付けられ帯刀御免を許された名工である。市内では鶴嶺八幡宮『文化三年制作』とは、兄弟神輿です。明治三十四年八月、寒川町一之宮八幡大神の氏子西町地区より譲受される。神輿の屋根に取り付けられている神紋は『木瓜』(八幡神社の神紋)子供神輿昭和二十五年七月吉日 茅ヶ崎市菱沼 太田松太郎作」「赤羽根八雲大神」の社を反対側から見る。道路脇には小さな社があり、地蔵様が。近づいて。手前にはシラン(紫蘭)の花が。その隣には小さな石祠があった。そして「赤羽根通り」の直ぐ先には「六地蔵堂」の「六地蔵尊」のお姿も。何か書かれていたようであるが・・・・。正面から。足下にも江戸時代の古い墓石が2基立っていた。『新編相模国風土記稿』赤羽根村の項に「阿弥陀堂 像は恵心作、専求比丘<寛文七年(1667)十二月寂す>の造立する所と云ふ、西光寺持ち」とありますが、今は阿弥陀堂はありません。恵心作といわれるこの庵の本尊は西光寺に運ばれているのかも知れません。その横の右側の墓石は「寛文七天 當庵開基稱誉専求比丘 十ニ月八日」と。墓石は固い石材の板碑型で、当地に庶民の墓石が出現する頃のもので貴重と。左側の墓石は「正徳三癸巳 往詣樂譽専▢大徳 十月十一日」と刻まれていた。「正徳三年」銘で、江戸中期の1713年。そして新湘南バイパス高架下を潜る。新湘南バイパス手前の丘の上には歴史を感じさせる墓地・墓石が。新湘南バイパスを潜り県道44号線・伊勢原藤沢線に向かって住宅街を進む。茅ヶ崎市菱沼1丁目の住宅街を西に進む。民家の庭にはジャスミンの花が。豊かな香りが。バビアナの花であろうか。こちらは赤紫の花。菱沼1丁目をさらに進む。そして「菱沼 八王子神社」に到着。神奈川県茅ヶ崎市菱沼1丁目11−64。社号標石「菱沼鎮守 八王子神社」。石鳥居の扁額「八王子神社」。「手水舎」。境内には数多くの鯉のぼりの鯉が泳ぐ。「八王子神社」境内の菱沼自治会館に飾られた「五月人形」・「武者人形」。舞台上全面に4段飾りで。両脇まで溢れ出て。最上段には「兜飾り」が所狭しと。「ここに飾られている武者人形は地元有志の方々から寄贈されたものを陳列しております。平成ニ十一年から飾っております。それぞれの武者人形に男の子の健康と成長を願う親心の表れです。今はすでに立派な社会人として成功され第一線で活曜中です。端午の節句の由来「端」は初めの意、もと中国で月の初めの午の日、(午)は(五)に通じ、五月初めの五日の意五節句の一つで五月五日の節句。古来邪気を払う為、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)な軒に挿して粽(ちまき)や柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通もあって近世以降は男子の節句とされ、甲冑、武者人形などを飾り庭前に幟旗や鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝す。第ニ次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日の一つ。あやめの節句。菖蒲の節句。重五(ちょうご)。端陽。季夏のせち(端午の節)伝統文化の会」正面に「拝殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「拝殿」に近づく。御祭神:天忍穂命、天穂日命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多岐理比売命、市杵島比売命、湍津比女命、宇迦之御魂命、大山咋命、品陀分命「拝殿」手前には「力石」(左)と「蛇石」(右)。唐破風下の彫刻。頭貫の彫刻。「住吉大明神、八幡皇大神、天照皇太神、春日大明神、玉津島大明神」碑。左に先代の石鳥居の扁額「八王子神社」、中央に「神輿修復 神輿殿鳥居建立記念碑」そして「神輿修復 手洗舎屋根建設記念碑」。「菱沼八王子神社口大鳥居社号額献納者 内田友蔵 殿大正十一年 吉祥日再建立者 内田 智光 殿 佐藤 国男 殿平成十七年十一月ニ十七日社号額由来この額は市内松が丘ニ丁目四のニ十八にご在住する内田智光氏のご祖父友蔵氏が大正十一年一月に寄進献納されましたが翌大正十ニ年十九月一日の関東大震災〔午前十一時五十八分〕により神殿建屋大鳥居共に倒壊したものです。幸いにして一人の怪我人もなくこの鳥居が身代わりになったと言い傳えられております。ここにご献納されました、故友蔵翁のご遺徳を偲び爾来八十三年ぶりに子孫の智光氏により再建立され、永久に地元文化財として残すことになりました。」「神輿殿」。「菱沼 八王子神社」の「神輿」👈リンク境内には鯉のぼりの下で遊ぶ園児の姿が。ズームして。境内には巨大な「タブノキ」が鎮座。「菱沼八王子神社のタブノキ指定理由 市内の代表的な植生であるタブノキが大木となり、地域の鎮守の目印となっている。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第2号 平成22年3月26日 茅ヶ崎市指定」「タブノキ」に近寄って。中には空洞部分も。「八王子神社玉垣竣工記念碑」。風に力強く泳ぐ鯉のぼりを再び。「護國の碑」。菱沼地区の西南戦争から太平洋戦争までの戦病没者の慰霊碑で、39柱(西南戦争1柱、日露戦争1柱、満州事変2柱、太平洋戦争35柱)の英霊が合祀されている。昭和26年5月に有志らによって建立された。合祀者の内、西南戦争戦死者島﨑瀧藏さんの個人慰霊碑が八王子神社に建立されている。 碑高240㎝、幅128㎝、厚さ28㎝、台石75㎝。碑正面:「護國之碑 内閣総理大臣吉田茂書」碑裏面:「戰歿合祀者(篆額)・・・数多くの戰歿者の名前、命日が刻まれていた・・・昭和二十六年五月建之 菱沼 發起者 有志者 一同 石工 鍛代忠義發起人 髙橋義正 太田正太郎 石山辰五郎 大八木米吉 太田文雄 太田大蔵 太田邦光」。「菱沼ふれあい神輿百年祭記念碑」。掲示板。「避難所 避難場所案内」。「住居表示街区案内図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.03
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「西光寺」を後にして山の下を巡る道を進む。「中赤羽根 自然環境保全地域この自然は、県民共通の貴重な財産とし子孫に伝えるかけかえのない宝物てす。草や木や、野生の動物を大切に。ゴミは必す持ち帰りましよう。」山道を上って行った。イノシシが出て来そうな山道を一人で。スマホの案内に従い進む。そして到着したのが「妙覚院 (日興門流 正信会)」。1977年(昭和52年)に、日蓮正宗(宗門)の信徒団体であった創価学会の言動を批判し続けた為、1980年に日蓮正宗(総本山・大石寺)から擯斥処分を受けて分離独立した宗教団体である。2022年(令和4年)現在は、宗教法人「正信会」と任意団体の「日蓮正宗 正信会」と「冨士大石寺正信会」の3つの団体に別れているとのこと。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3081−70。「日蓮正宗 妙覺院」とあったが、建物の外見は民家そのものであった。「妙覺院」を後にして、進むと左手奥にあったのが医療法人社団湘南健友会が運営する「介護老人保健施設 湘南の丘」。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3685。山道を下っていくと、竹林の中に。タケノコは成長し既に1m以上になっていた。山道を出ると正面にあったのが貸し市民農園「富士見ファーム赤羽根」。多くの方が菜園作業をされていた。次に足を延ばし(株)都実業グリーンリサイクル茅ヶ崎営業所を訪ねた。茅ヶ崎市では、ごみの減量を推進するため、庭木などの手入れを行った際に出る剪定枝について、令和3年4月からリサイクルを開始しているのだ。現役時代の仕事の関係上、気になる施設なのであった。「茅ヶ崎バイオマス発電所」案内板。「バイオマス」とは、生物資源(bio)の量(mass)を表す言葉で、再生可能な生物由来の有機性資源(化石燃料は除く)の総称。なかでも木材由来のバイオマスのことを「木質バイオマス」と呼びます。 発電方法は、端材や木質チップを直接燃焼させて発電する「蒸気タービン方式」と、木質バイオマスをガス化して燃焼させる「ガス化-エンジン(ガスタービン)方式」に分かれる。都実業と利久ではこのうち「蒸気タービン方式」を採用し設備化したのであった。木質バイオマスを裁断しチップ化しこれを燃焼させ、ボイラーにて蒸気を発生させ発電して、余剰電力を売電して収入を得る仕組み。この事業所施設の名称は「利久株式会社 茅ヶ崎バイオマス発電所」。「茅ヶ崎バイオマス発電所」。2021年8月1日より稼働開始と。場内に山積みされた木質チップを搬送車に載せ、焼却炉へ移送。木質バイオマスの木質チップをズームして。発電機仕様ボイラー型式:N-500 型、自然循環式水管ボイラー 使用燃料:木質チップ蒸気タービン型式:抽気復水タービン 発電出力:1,990kW / h少し移動してズーム。上空からの写真をネットから。 【http://miyako-jitsugyo.com/info/】よりそしてひたすら歩いて次の目的地の「宝積寺」の入口に到着。奥に「宝積寺」の山門が見えた。大きな駐車場の角には石碑が。左に「馬頭観世音」碑。その隣に「禅宗 宝積寺」碑。その先にも石碑が。「庚申供養塔」。寛政12年(1800)9月山伏角柱日月・「庚申供養塔」・三猿(台石)正面右側「寛政十二庚申」 〃左側「九月吉祥日」左側面「赤羽根上村中」「身代地蔵尊」。そして「宝積寺」の「山門」を正面から。駐車場の奥にあった石仏群。左の「招福布袋」像。笑顔の「布袋様」に近づいて。石仏が三体左:六十六部三千人・・の文字が。中央:高座郡・・・赤羽根村中右:明和ニ乙酉年(1765) 観音供養・・・「双体道祖神」であろうか。肩に手を置いて頬よせて。「山門」。寺号標石「曹洞宗 宝積寺」。「不許葷酒入山門」と。「山門」に近づいて。扁額「稲荷山」。「縁起宝積寺創建 慶長ニ年 西暦一五九七年本尊 観世音菩薩開山 冷室長厳大和尚 慶長五年十月廿日示寂伽藍倒壊 関東大地震 大正十二年九月一日 一九ニ三年本堂再建 昭和四十五年 一九七〇年薬師堂創建 慶安元年 一六四八年 再建 昭和五十三年 一九七八年」「山門再建成就碑」。庫裡であろうか。「宝積寺」の文字が。「薬師堂」。「薬師堂再建記念碑」。扁額「薬師堂」。「寶樹殿庫裡建設記念碑」。扁額「寶樹殿」。境内の見事な松。右から左へ10m以上もあっただろうか。根元を見る。石碑の文字は「雲外松」であろうと学友から。根元方向から。樹齢は100年以上か?廻り込んで。根元をズームして。本堂の扁額「寶積寺」。「妙染一貞法尼顕彰碑」。「かながわの100人」に選ばれたときに建てられた顕彰碑とのこと。「村野もと子」と現代風の名前であるが江戸時代に生きた女性。「長閑なる 雨の名残りの 露なるに おりてかざらん 山桜花」 「空に立つ うき名を何に つつままし おほふ計(ばかり)の 袖しなければ」裏面には野村もと子幼名直(生年不詳~天保八年九月一日 一八三七年没)は上赤羽根村名主小沢家の娘であって 歌の師加藤千蔭の門下に入り春夏秋冬恋歌六十九首の短歌一首の長歌を編した。「もと子家集(編者注 歌集か)」を天保六年(一八三五年)四月刊行当時の女流歌人として豊かな教養知識をもって歌才を認められる。昭和五十五年(一九八〇年)「かながわの一〇〇人」に女流歌人として選せられる昭和五十七年十一月吉日 小沢家十八代 小沢卓一 長男 雄市 建立 宝積寺四十世 大活俊雄 雲外良憲 敬書「寶積寺本堂再建記念碑」。「宝篋印塔」。祠の中に石仏が。近づいて。そして再び「本堂」を振り返り「宝積寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.02
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「西光寺」の山門前に到着した。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3222。「山門」は昭和56年10月建立。寺号標石「浄土宗 西光寺」。掲示板には「いつもにこにこ笑って 苦しいつらい時もあるけど 力いっぱい生きて行こうどうにもならない時もある 努力して無心に生きる こんなにしているのにと思っている時にはまだまだ成長していない ほほえみ忘れないで つらい時こそやさしく出来る人 心強い人小林良正」「「五と五の力」親と子も五と五 夫と妻も五と五 嫁と姑も五と五 友人と自分も五と五 患者と医師も五と五その五とは 自分のやる気 あとの五は 相手の助け 人間どんな間柄も 五と五の関係こそ最良の良されば 五と五が合して十となり その十がやがて百となり 百の力が万の力を生む殿村 進」「南無阿弥陀佛」碑。山門左側に立つ「山門建立之碑」「為 小池家先祖菩提 昭和五十六年十月吉日 施主・・」。「山門」には院号『乗蓮院(じょうれんいん)』の扁額が掲っていた。ズームして。石仏。「庚申塔元文5年(1740)12月唐破風笠付角柱月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・六臂)・三猿右側面「奉納庚申供羪(養)」左側面「元文五庚申天十二月吉日 中赤羽根村 講中」」「涅槃堂」。平成25年5月建立。骨壺ごと納める個々のロッカー式永代供養納骨堂。涅槃像が祀られている為、涅槃堂と言うのだと。涅槃像のお姿が確認できた。そして「本堂」「迎接山(こうしょうざん) 乗蓮院(じょうれんいん) 西光寺(さいこうじ) 第三十七世住職 三浦康志。当山は徳治二年、西暦千三百七年に開創されました。茅ヶ崎市内では小和田にあります浄土真宗上正寺に次いで二番目に古い寺院です。開山は念蓮社専譽唯称大和尚(ねんれんじゃせんよゆいしょうだいかしょう)で、鎌倉岩瀬の大長寺の末寺です。当山第十世光蓮社念譽岌道上人(こうれんじゃねんよぎゅうどうしょうにん)は茅ヶ崎南湖にある西運寺、また寒川小動にある念宗寺それぞれの開山上人になっております。本堂内宮殿に子の年と午の年にのみ開帳する十一面観世音菩薩が安置されています。寄木造玉眼入の立像で、厄難よけ守り観音として江戸期には参詣者も多かったようです。本堂回廊にあります鐘は戦争の時に供出しましたが、終戦後奇跡的に鉄砲の玉にならずに、赤羽根西光寺と書かれていたことから戻ってきましたので、市内最古の喚鐘と言われております。またこの寺は三回本堂が全壊しております。一度目は今から約四百年前、第十一世住職の代に火災、二度目は約百九十年前、第二十五世住職の代に火災、三度目は約九十年前、第三十三世住職の代に関東大震災によってです。現在の本堂は檀信徒の皆様のご協力によって平成二十五年三月に落慶いたしました。」「鐘楼堂」。昭和46年6月建立。除夜の鐘を自由に撞けるのだと。「鐘楼」。鐘の銘は次のとおり。赤羽根/西光寺奉寄進半鐘相州高座郡赤羽根村/迎接山西光寺十三世/浄蓮社欣誉單信上人為菩提江戸同行寄進元禄二己巳年二月日武州江戸住御鑄物師/田中丹波藤原/重行作茅ヶ崎では最も古い「元禄2年」(1689)の年銘を持つところから重要文化財に指定されている。また、銘に「江戸の同行の菩提のために寄進」とあり、作った鋳物師も江戸の人物であるところから、この鐘の造立に、大山道を使っていた江戸の講中が関係していると考えられるとのこと。太平洋戦争中に供出させられたが、西光寺と書いてあったために寺に戻ることができたのだと。墓石の裏にも古い石仏が。ズームして。「鐘楼堂」の前から「本堂」を見る。寺務所・客殿であろうか。「十三重石塔」。「本堂」前の樹の下には石碑が。「除厄招福 十一面観世音 子育水子地蔵尊 法譽」と。その下には小さな石像が。開山の念蓮社専譽唯称大和尚(ねんれんじゃせんよゆいしょうだいかしょう)のお姿であろうか。それとも歴代の住職の方の像か。「本堂」は平成25年3月落慶。木造銅葺平屋建で、堂内には阿弥陀三尊が祀られ、裏堂には位牌壇があった。山号「迎接山」の扁額が掲っていた。内陣。ズームして。更に、しかし・・・。「六地蔵」。墓地内を歩く。「南無阿弥陀佛」碑。宝篋印塔。歴史を感じさせる墓石群。ここにも「庚申塔」が。寛文5年(1665)2月3日板碑型梵字28字・三猿(龍前院型)正面右側「干時寛文五年」 〃左側「乙巳二月五日」 〃中央「施主 敬白」 〃下側 7人の名これも「庚申塔」元禄3年(1690)3月29日駒型光明真言23梵字・三猿正面右側「元禄三庚午天」 〃左側「三月廿九日」 〃下側「施主 法印頼宥」 4人の名 「敬白」これも「庚申塔」宝永7年(1710)11月舟形光背型梵字ウーン・月日・「奉勧請青面金剛尊」・三猿正面右側「宝永七庚寅年」 〃左側「十一月吉日」 〃下側 10人の名これも「南無阿弥陀佛」碑。「永代供養合祀墓」平成29年9月建立。阿弥陀如来座像の下へお骨を布袋に入れ埋葬する永代供養合祀墓。阿弥陀如来座像。お顔をズームして。横から。浄土宗 宗紋 「月影杏葉 (つきかげぎょうよう)」。そして「本堂」の裏の高台には、この後に訪ねた「伊勢宮神社」が確認できた。山の斜面に大きな墓地が拡がっていた。再び「本堂」と「涅槃堂」を見る。「山門」と「涅槃堂」。再び「本堂」を斜めから。そして墓地の脇の坂道を上り「伊勢宮神社」に向かって進む。「西光寺」の「本堂」を見下ろす。右手に、古い五輪塔群。高台に「伊勢宮神社」の石段が現れた。神奈川県茅ケ崎市赤羽根(3297)付近。茅ヶ崎のお伊勢さんと呼ばれていると。千木や鰹木などの構造からは伊勢のお伊勢さんが祀られているようであった。「伊勢宮神社」の下の奥にあったのが「法然上人二十五霊場」。昭和62年7月建立。当寺開創680年を記念して、「西光寺」裏山に円光大師法然上人の二十五霊場が造成された と。「元祖 円光大師 法然上人二十五霊場」碑。「法然上人二十五霊場」👈リンク は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院が25箇所のほかに、番外である「縁故本山」と「特別霊場」が1箇所ずつあり、計27箇所となるとのこと。「法然上人像」。近寄って。帰路は山の斜面の墓地内の参拝路を下っていくと「西光寺」の「開山歴代上人墓」があった。そして「西光寺」を後にすると、「西光寺」の東側には、新しい「動物供養塔」が建っていた。令和2年2月建立。ペットのお骨を骨壺ごと納める永代動物供養塔であるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.01
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