全60件 (60件中 1-50件目)
【金太郎飴素数】はどの桁で切っても右側が素数になる素数。左切り捨て可能素数と類似。原則1から10までの数字として取り扱う。1と9は素数ではないので、1桁目が1及び9であるような素数(24564271、10969109など)は厳密には左切り捨て可能素数に成り得ない。【切り捨て可能素数】はどの桁も 0 ではないものをいう。しかし便宜上、1桁目に関しては【素数大富豪】👈リンク の常識に従って奇数であり且つ上記の条件を満たしていれば断りなく【金太郎飴素数】と呼ぶ。例えば、454547は金太郎飴素数】、54547、4547、547、47,7も素数。10962971は【金太郎飴素数】、962971、62971,2971,971,71も素数。最初の10は数字10として取り扱う。【ペア金太郎飴素数】とは構成数が同じ【金太郎飴素数】のことである。例えば●638971・983617●275641・564271・627541●192347・342179・429137・739241●357829・579283・872953・987523●379397・739397・933797・979337●566947・659467・665479・965647●683911・968311・986113・986131●279613・291367・623719・629137・632971 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.30
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は9月12日(月)、平塚に用事があり向かったが、時間み余裕があったので、茅ヶ崎市内にある「松下政経塾」の建物を訪ねた。今年の6月28日で「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」を完了したとアップしましたが、寺社ではありませんが未訪問の場所がまだあったので追加アップいたします。「松下政経塾」は1979年6月21日に設立され、翌年4月に開塾した。神奈川県茅ケ崎市の2万平米という広大な土地に、本館・研修棟・寮棟・茶室・体育館が建っている。松下幸之助塾主の「民主主義発祥の地」のイメージでという希望に基づき、白亜の壁と茶色の屋根にも象徴されるように、ギリシャ・エーゲ海といった地中海風の建物で統一されている。正門から入り、車を駐車場に駐める。神奈川県茅ヶ崎市汐見台5-25。公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾は、松下電器産業の創業者である松下幸之助が、設立した政治塾である。国会議員・地方首長・地方議員などの政治家を中心に、経営者・大学教員・マスコミ関係者など、各界に人材を輩出している。ヨーロッパの城壁の如き門。壁面には大きなブロンズの彫刻が。アーチ門レリーフ「明日の太陽」と。ここ松下政経塾のシンボルでもある「アーチ門」のレリーフのタイトルは「明日の太陽」。左に「力と正義」を表すひまわりを手にする男性像、右に「愛と平和」を表す鳩と女性像、その下に「困難」を表す雲を配し、この門をくぐる者はどの様な困難があろうとも「真理」に迫ろうとする構図になっているのだと。彫刻家・加藤昭男氏の作品。アーチ門中央のブロンズには「政経」の文字が。写真を撮っていると、男性ガードマンが来られて、敷地内への入場は事前の申込みが必要と。よって、この後の写真は以前に訪ねた旅友の写真を転載させて頂きました。アーチ門をくぐると正面に本館が。卒塾生の43%が政治の道に進んでおり、現職の政治家である卒塾生は2010年8月30日の時点で衆議院議員31名・参議院議員7名・地方首長10名・地方議員24名の計72名に上るとネットから。右手奥に研修棟。研修棟は主に塾生の研修を行う施設であり、円卓室、教室、講堂等がある。第44期生(2023年4月入塾)募集応募年齢 【年齢】 22歳 ~ 38歳(2023年4月1日時点) ※ 性別・学歴・国籍 不問研修期間 原則4年 ※ 2年目終了以降、審査を経たうえで、卒塾の時期を自身で選択できる。「松下幸之助氏像彫刻家・平櫛田中氏監修、愛弟子である浜田泰三氏制作。1989年7月、塾設立より10年後に建立された と。そして慌ただしく、「松下政経塾」を後にし、次の目的地の「藤沢土木事務所汐見台庁舎」に向かう。藤沢土木事務所は、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市及び寒川町を所管エリアとして、道路、河川、急傾斜地、海岸、港湾、公園等土木施設の維持、改良工事等の土木事業を実施しているほか、これらの施設にかかる許認可事務等を行っている施設である。神奈川県茅ヶ崎市汐見台1−7。日本国旗、神奈川県旗、青のシンボルカラー旗がはためいていた。駐車場に車を駐め、「藤沢土木事務所汐見台庁舎」内にある「なぎさギャラリー」に向かう。「なぎさギャラリー」は「藤沢土木事務所汐見台庁舎」の中に常設されている展示施設。茅ヶ崎に関連する自然科学に関するものを展示している。主な展示物として、津波の被害について学び考える「TSUNAMI」のコーナー、昭和初期に茅ヶ崎にあった別荘「松籟荘」のコーナー、海岸美化について考えるビーチクリーンのコーナーなどがあった。「藤沢土木事務所汐見台庁舎」入口。「藤沢土木事務所汐見台庁舎」入口正面。館内に入ると、「なぎさギャラリー」案内板が。「なぎさギャラリー」案内板。こちらは「藤沢土木事務所汐見台庁舎」案内。無人の「藤沢土木事務所汐見台庁舎」受付。正面には様々なパネルが展示?されていた。「ビーチクリーン((公益財団法人)かながわ海岸美化財団)」のコーナー。公益財団法人かながわ美化財団は、相模湾の自然海岸等の美化を目的として、海岸清掃や美化啓発、ボランティア団体の支援、海岸ゴミに関する調査研究などを実施している財団。海岸に漂着する様々なごみ、台風による被害、ごみはどこから来るのか等の展示を通して海岸美化について考えていくコーナーであった。管理している場所の写真。こちらも同様。「清掃区域図」。そして「TSUNAMI」コーナーへ。神奈川県は、津波浸水予測図を公開し、津波災害の啓発に取り組んでいます。世界共通語の「TSUNAMI」をタイトルとして、TSUNAMI被害の軽減を目指し、津波に備え、学び、考えるエリアである と。「湘南海岸の津波被害(1) 関東大震災(1923年)江の島周辺で150人不明関東大震災による津波は、湘南海岸で多くの犠牲者を出した。「鎌倉郡内材木座・由比ヶ浜・長谷・坂ノ下及び腰越・片瀬・江ノ島方面は高さ三丈の海しょう(津波)襲来し、為めに一家全滅したものも少なからず、おりから、由比ヶ浜海水浴場に来遊せる者約100名及び江ノ島桟橋を通行中であった者約50名は、何れも行方不明となった」(大正震災志)。写真上:津波に襲われた稲村ヶ崎と七里ヶ浜写真下:現在の湘南海岸」。「湘南海岸の津波被害(2) 関東大震災(1923年)写真(左):流出した江の島桟橋 ➡ 現在の江の島写真(右):津波に襲われた由比ヶ浜 ➡ 現在の由比ヶ浜左(下):地震被害を受けた鎌倉の名所 <有隣堂発行『神奈川の写真誌』から』> 大仏の台座がずれた。」「国内の津波被害 北海道南西沖地震(1993年)1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した。マグニチュードは 7.8 で、日本海側で発生した地震としては最大規模。地震に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者201名、行方不明者29名を出した。写真(上):破壊された家屋写真(下):破壊したまち (写真提供:神奈川県温泉地学研究所)」「海外の津波被害 スマトラ沖地震(2004年)2004年12月26日、午前8時(インドネシア西部時間:日本時間午前10時)ごろ、スマトラ島沖でマグニチュード 9 程度の巨大地震が発生。この地震により大規模な津波が発生。平均で高さ10mに達する津波が数回、インド洋沿岸に押し寄せた。インドネシアやインド、スリランカ、タイなどで約22万人の死者・行方不明者を出す大災害となった。写真(上):津波の爪痕写真(下):救済支援の様子 (写真提供:株式会社建設技術研究所)」「阪神・淡路大震災地震土木施設被害 阪神・淡路大震災(1995年)写真提供:神奈川県温泉地学研究所・神奈川県横須賀土木事務所図面出典:神奈川県県土整備部地震時行動マニュアル(案)」「阪神・淡路大震災地震被害 阪神・淡路大震災(1995年)写真(上):座屈した高速道路の橋脚 高架橋から転落直前のバス写真提供:神奈川県温泉地学研究所」「朝日新聞 阪神大震災 1ヶ月特集 戦後最悪の被害 復興めざす街」「阪神大震災 惨状」。「朝日新聞 私は負けない」。次も「TRUNAMI」コーナー。巨大なTSUNAMIの写真の上にパネル展示が。「津波の基礎知識● 津波の発生メカニズム 津波は、海底で発生する地震に伴う海底地盤の隆起・沈降や海底における地滑りなどにより、 その周辺の海水が上下に変動することによって引き起こされます。● 津波のスピード 津波は海の水深が深いほど、速く進みます。水深2000mでは時速約500km、水深10mでは 時速約36km。陸上に遡上した津波は人が全速力で走る程の速さともいわれています。● 高波、高潮と津波の違い ~ 津波のほかに、海岸を襲う大きな波には、高波、高潮などがあります ~ 高波:台風や発達した低気圧の強い風により、海水があおられ海岸に押し寄せるのが高波。 高潮:台風や発達した低気圧に伴う気圧の降下と暴風のため、海面が異常に上昇し、防波堤を 乗り越え浸水被害を生じさせるのが高潮。 津波:強風や気圧の降下などにより発生する高波、高潮とは異なり、海底の地盤が破壊されて 発生する津波は、高波、高潮とは比べものにならない破壊力があります。」「津波に関する統一標識● 津波注意 図記号の意味:地震が起きた場合、津波が来襲する危険のある地域を示します。 図記号の目的:当該地域が津波による被害を被る危険がある地域であることを認識させ、 地震発生時には直ちに当該地域から内陸部、高台に避難させます。● 津波避難場所 図記号の意味:津波に対して安全な避難場所・高台を示します。 図記号の目的:津波からの避難先となる安全な場所や高台を示すとともに、地震発生時には、 そうした避難場所へ向かわせるものです。● 津波避難ビル 図記号の意味:津波に対して安全な避難ビルを示します。 図記号の目的:津波からの避難に際し、近くに高台がない場合、津波からの避難が可能な 鉄筋コンクリート造3階建のビルを示すとともに、地震発生時には避難ビルへ 向かわせるものです。」「神奈川県津波浸水予想図の見方(1)● 津波浸水予想図とは 津波浸水予想図とは、対象とする地震による津波が陸上に遡上した場合を予想し、浸水する 陸域の範囲、浸水深さ等を示した図です。 浸水予測図の作成範囲は、静岡県境~横須賀港海岸野比地区沿岸域です。● 図の見方 浸水深:津波による浸水が発生する際に、陸上のある地点で水面が最も高い位置にきたときの、 地面から水面までの高さです」「神奈川県津波浸水予想図の見方(2) 浸水深と危険度 2mの津波で木造家屋は全壊 津波は、高波や高潮とは比べものにならない破壊力があります。 浸水深が膝ぐらいまでになると、自由が奪われ歩く速さが遅くなり、避難に影響が出ます。 日本海中部地震(1983年)では、約70cmの深さでも死者が出ており、浸水深が小さい 場合でも十分な注意が必要です。また、2mの津波で木造家屋は全壊します。」「茅ヶ崎市津波ハザードマップ」そしてこちらが「松籟荘(しょうらいそう)」。旧・原安三郎氏別荘の部分復元。監修は吉田鋼一(横浜国立大学助教授)と。松籟とは、松の間を吹き抜ける風を意味しているのだ と。「湘南と別荘1887(明治20)年、東海道線横浜ー国府津が開通しました。湘南は京浜の保養地として脚光を浴び、海水浴場として人気が高まっていた大磯には、山縣有朋、伊藤博文など政界人、三井・三菱など財界人がこぞって別荘を建てました。大磯、平塚、藤沢に続き茅ヶ崎、辻堂などにも駅ができると、湘南全域で別荘が増えました。恵まれた温暖な気候、海水浴場、湘南遊歩道などとともに、別荘は湘南のイメージを形作ってきたものです。写真・図:松籟荘(しょうらいそう)北立面図」回り込むと「玄関先の復元」。「松籟荘は1919(大正8)年、実業家原安三郎氏が、新派俳優川上音二郎邸の敷地を購入し、母親の保養のために建設されたのが最初です。後に関東大震災で倒れたため、石井義弘氏設計により、1931(昭和6)年再建されました。建築主と建築家の思い入れがこもった湘南らしい別荘ということができます。別荘は取り壊され、敷地は現在茅ケ崎市高砂緑地として市民に親しまれています。別荘の一部を 85%に縮小し、特徴的な部分を集め復元しました。」と。「松籟荘」内に入る。「湘南の文化と歴史」。「田山花袋・小栗風葉・沼波瓊音・小杉未醒著「東海道線旅行圖會 1907(明治40)年 修文館刊」挿絵と簡明な文章による鉄道旅行の楽しさを説くユニークな旅行案内。」明治 22 年(1889)に東海道線の新橋-神戸間が全通し、草津にも鉄道が通ることとなりました。やがて国内の鉄道網が整備されていくと、人々の旅行手段は徒歩から鉄道へと変化 します。 本書はそのはしがきに「鉄道による旅は早くて便利ではあるが、歩き旅の風情には劣る ため、鉄道沿いの両側の視界車窓の展望、山水、田圃、市街村落、名所古跡、其他公私の 建築物より風俗習慣の異に至るまで、 悉(ことごと)く絵画をもって実写したものである。」という趣旨が記されていたように、全体で200 ページにおよぶ内容は紀行文と沿線風景を連続的に描いた絵で埋め尽くされた一冊である。こちらは「国木田独歩著 真山青果編病牀録 1908(明治41)年 新潮社刊入院中の独歩を真山青果が毎日のように訪ねて口述をまとめたもの」「戦後の新人たち」。「戦後の新人たち・・・・・・」「暖炉」と絵画。「萬 鐵五郎作 水着姿 複製」。「萬 鐵五郎 1926(大正15)年 油彩 水着姿 複製 岩手県立博物館所蔵萬 鐵五郎は、1885(明治18)年、岩手県に生まれました。1912(明治45)年東京美術学校西洋画科を卒業、新進の画家として活躍しましたが、1919(大正8)年療養のため茅ヶ崎市南湖に移り住みました。「水着姿」は1926(大正15)年夏に制作され、翌1927(昭和2)年の第5回春陽会展に出品されました。」「香朝楼 筆 禱龍館繁榮之図」。「香朝楼 筆 1891(明治24)年 錦絵(三枚組)「禱龍館繁榮之図」複製 大磯町郷土資料館所蔵1885(明治18)年、軍医総監であった松本順は大磯に湘南初の海水浴場を開きました。海水浴場宣伝のため、大勢の歌舞伎役者を大磯に呼び海水浴をさせ、これを錦絵にして配布しました。旅館禱龍館(とうりゅうかん)は、1887(明治20)年にできた客室が50以上もある大型の旅館で、海水浴客、保養客に利用され繁盛していました。」写真「国木田独歩を南湖院に見舞う人々」。【国木田独歩を南湖院に見舞う人々】の氏名が補足されていた。「ギャラリー来館者の方から、この写真の中の誰がどの位置にいるのかよくわからないとのご指摘がありましたので、このような形でわかるようにして見ました。11.3.25 湘南なぎさ事務所」と。「【国木田独歩を南湖院に見舞う人々】 1908(明治41)年明治自然主義文学の一人として著名な国木田独歩は、1908(明治11)年南湖院に入院した。多くの友人が、彼を励まそうと南湖院に見舞った。前列左から、正宗白鳥、中村星湖、小栗風葉、相馬柳風、中列左から、前田晃、国木田独歩、田山花袋、後列左から、小杉末醍、岩野泡鳴、真山青果、吉江喬松」ここにも写真が。「大磯、自宅での島崎藤村夫妻」。「大磯、自宅での島崎藤村夫妻 1943(昭和18)年明治自然主義文学の先駆者島崎藤村は、編集「若菜集」でロマン主義的詩風を示し、小説「破戒」で作家の地位を確立した。晩年大磯に家を構え「東方の門」を執筆中に倒れ、急逝した。」「旅館東屋に集う白樺派の人々」。「旅館東屋に集う白樺派の人々 1911(明治44)年ステンドグラス風の装飾の明かり窓を外から。屋内から。天上の照明も過美な装飾ではなく。ステンドグラス風の装飾の明かり窓をズームして。JR茅ヶ崎駅から南へ約200メートルの場所に「高砂緑地(たかさごりょくち)」👈リンクがあり、この場所は大正時代からは実業家・原安三郎の別荘「松籟荘」があった場所で、園内に残る日本庭園は「松籟荘」(旧原別荘)の時代に作庭された近代の日本庭園なのであった。茅ヶ崎市は、何故この高砂緑地に茶室・書院だけではなく住居「松籟荘」を復元しなかったのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.30
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【右切り捨て可能素数】【右切り捨て可能素数】を小さい順に列挙すると2, 3, 5, 7, 23, 29, 31, 37, 53, 59, 71, 73, 79, 233, 239, 293, 311, …であり、最大のものは8桁の数 73939133 である。この数自身および右から順に数字を切り捨てた数 7393913, 739391, 73939, 7393, 739, 73, 7 は、確かに全て素数である。桁ごとの右切り捨て可能素数の個数は4, 9, 14, 16, 15, 12, 8, 5であり、合計で83個である。左切り捨て可能素数かつ右切り捨て可能素数であるものは、2, 3, 5, 7, 23, 37, 53, 73, 313, 317, 373, 797, 3137, 3797, 739397の15個のみである。【右切り捨て可能素数】は、数字は左から右に読むので、途中、数字の最後に「0,2,4,6,8」などの偶数があっては素数にならないので、「左切り捨て可能素数」の方がバリエーションが豊富なことは明らかなのであるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.29
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ーーがこの日・(その45)の散策ルート。「中華街」の「玄武門」を後にして「中区役所前」交差点を渡る。そして「横浜公園」の「中華街側出入口」を入って行った。「横浜公園」。「横浜公園」案内図。現在地はココ。左奥には池があった。「造園技術伝承研修会を実施しました平成2 9年より、毎年開催している「造園技術伝承研修第会」も今年で6回目を迎えました。一般社団法人横浜市造園協会と横浜市との協働で、ここ彼我庭園を題材にして、造園の「横浜マイスター」※1 大胡周一郎氏を、講師に招き、竹垣製作実習、実演見学を行いました。※1横浜マイスター事業貴重な技能・技術の継承及び普及活動などを通して、技能職の振興を図ることを目的に、市民の生活、文化に寄与する優れた技能織者を「横浜マイスター」として選定する本市事業。」日本庭園風の池と流れが。飛石を渡る。「蹲踞(つくばい)と水琴窟」。「蹲踞(つくばい)」と水琴窟茶席へ入る前に手とロの中を清潔にするための場所を蹲踞と言います。蹲踞は、清水をためる手水鉢・寒い季節には水で手を洗うと冷たくなるので、湯で洗うため、湯を入れた桶を置く湯桶石・暗くなった時のランプを置く・手燭石・手を洗う時に乗る石を前石と言います。水琴窟は、洗った水が地下へ排水される時に発生する音を楽しむ装置です。日本庭園において滝の音・松風の音とともに日本庭園における音を楽しむ最高の趣味となっています。」「水琴窟の楽しみ方」。この棒を網の所に立てて聞いてください(水を流してから)。「岩亀桜の石灯籠」。「岩亀楼の石灯籠横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政三年(一八五六年)に理立てられ太田屋新田といった。横浜開港にともない、新田の沼地約一万五十坪が更に埋立てられ、港﨑町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。港﨑町一帯は慶應ニ年(一八六六年)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することにきまり、明治九年(一八七六年)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。当初、彼我公圏(ひがこうえん)と俗称され、明治三十ニ年(一八九九年)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開され今日に至った。この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることがわかる。岩亀楼は、はじめ港﨑町に建てられ、慶應ニ年の大火て類焼、以後ニ転三転して明治十六年(一八八三年)永楽町に移り、明治十七年に廃業した。この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかは判明していない。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。」「彼我庭園」入口。明治9年(1876)に開園した横浜公園は日本最古の公園で、外国人「彼(ひ)」と日本人「我(が)」の双方が利用できたことから「彼我庭園」と呼ばれていた。「彼我庭園横浜公園は我が国初の洋式公園である山手公園に次いで古い公園で、横浜の発展と共に歩んできました。開港当時、在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭や沼地の跡地に整備され、1876年(明治9年)に開園しました。広く一般にも公開され、外国人(彼)と日本人(我)の双方が利用できたことから、当時は「彼我公園(ひがこうえん)」といわれていました。日本庭園は、1909年(明治42年)に横浜市に公園の管理が移管され、「横浜公園」と改称された頃に作られました。接収によりー度は取リ壊されましたが、1978年(昭和53年)の横浜スタジアム建設と同時期に再び整備されたものです。この庭園門は、横浜公園の日本庭園にふさわしい名称として、「第33回全国都市緑化よこはまフェア」を記念し、彼我の友好と平和が深まるようにとの願いを込め、「彼我庭園」に定めて銘板を付したものです。屋根には、横浜発祥のフランス瓦である「ジェラール瓦※」の複製(レプリカ)を葺さ、足元には「煉瓦」を配置しています。明治の開港期に外国文化をいち早く取り入れた、横浜の国際交流の歴史と文化への思いを表現しました。※ジェラール瓦:明治初期に、フランス実業家のA.ジェラールが現在の元町公園一帯に工場を 建てて製造した。日本で初めて本格製造されたフランス瓦と言われています。」「横濱公園起工碑」。「横濱公園起工碑横濱公園は明治九年を以って創建せる我国最古の公園なり 初は神奈川縣の所管なりしか同三十二年來横濱市の管理に歸し同四十二年に至り改造に着手し漸く整美を得たり斯くて大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たる今次復興事業として新公園を起工するに方り裏面鐫刻の有志惣那惟次郎外諸氏は發起して特に樹栽を資け以て美化の一助に供し併せて再生謝恩の意を表せんとするや忽にして曾て避難したる人々の賛同一和を得て計畫の遂行を告けたるは今にして之か美擧たるや論を俟たす殊に幾百星霜の後其の鬱蒼繁茂の状を観んか必すや回想の念の禁せさるものあるへ志仍て茲に由来を禄して之を他日に傳ふと云爾昭和四年三月 横濱市長正三位勲二等 有吉忠一」。横浜DeNAベイスターズが本拠地を置く「横浜スタジアム」。「横浜スタジアム」の東ゲート広場にあった「噴水」。人工芝、両翼94m、センター118m、35,384人(プロ野球開催時最大34,046人)の収容人数、令和2年増築・改修工事竣工の横浜スタジアム。メインスコアボードと照明塔。屋外の「BAY BEER HOUSE」。売店は準備中。2015年3月に誕生した「DREAM GATE」は、バックスクリーン下の横浜公園側に位置。“BE A STAR”☆“DREAM GATE”と。この日は中日戦がナイターで行われるとのこと。コロナ禍の影響か「水の広場」には水はなく。「ベイスター通りの「すず風舗装」」「ベイスター通りの「すず風舗装」都市では、道路舗装やコンクリート建築物の蓄熱、冷房機の廃棄熱等により、気温が郊外に較べて高くなるヒートアイランド現象が発生しており、横浜市では「温暖化防止の取組」を積極的に進めております。ここべイスターズ通りでは「すす風舗装事業」として、車道舗装面に保水した水分の気化熱で舗装表面の温度を低下させる保水性舗装や保水機能のあるプロックを歩道に実施しました。」。そして「横浜スタジアム」を後にして「みなと大通り」を横断し、「常盤町通り」に入り前回も訪ねた「神奈川県電気発祥の地」を再び。「明治23年10月(1890年)横濱共同電燈會社が、この地に火力発電所を建設し、神奈川県の初めての電力供給も開始いたしました。当時の発電所は出力100キロワットの石炭火力で、お客さまは約700軒でした。」隣にあった「横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント 煌(きらめき)」も再び。「横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント 煌(きらめき)このモニュメント「煌」(きらめき)は、ベイスターズが横浜の球団となって始めての1998年シーズンリーグ優勝・日本一を記念して、ファンの皆さんから寄せられた基金により完成しました。権藤博監督の胴上げシーンの銅板レリーフを中心に、優勝メンバー全員のブロンズ製手形が並び、横浜スタジアムに向かって打席に立つ石井啄朗選手会長の足形が床に埋め込まれています。「煌」の再来を期待しつつ、ファンの皆さんと横浜の元気を願ってつくられました。 2000年3月吉日」。「煌 KIRAMEKI」。「打席に立つ石井琢朗選手会長の足形」であると。2022年からは横浜DeNAベイスターズの一軍野手総合コーチを務める。今年のベイスターズは? 私はヤクルトファン!!1998年(平成10年)10月26日、球団としては38年ぶり、横浜ベイスターズとなってからは初めて日本シリーズを制した。この優勝を記念して、建てられたのが、「横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント「煌」」当時の選手の手形が並んでいた。優勝当時の監督、コーチ、選手全員40名分の手形。権堂博監督を胴上げする姿が。右から監督:背番号72 権藤博、投手コーチ:77 斎藤明夫の手形。右から打撃コーチ:背番号78 高木由一、ヘッドコーチ:80 山下大輔の手形。投手:22 佐々木主浩の手形。主将・遊撃手:5 石井琢朗の手形。一塁手:10 駒田徳広の手形。投手:49 阿波野秀幸の手形。巨石。この意味は?「寄贈 松村千賀雄 殿」と。反対側から。そして、横浜市営地下鉄「関内駅」に向かったが、地下鉄の駅はJR関内駅の近くにあると勘違していたのであった。よって再び横浜スタジアムを見る。メインスコアボード。中央に日本国旗、右には日本野球機構(NPB)旗、中日ドラゴンズ旗そして反対側にはセ・リーグ旗、横浜DeNAベイスターズ旗が既にはためいていた。そしてなんとか尾上町の1番入口から地下鉄関内駅の改札口へ。そして湘南台駅に到着。地下鉄のホームから地下のコンコースに登ったところにはモニュメントが。一見チェロのように見えたが、「コンポジション 交通と街」という標題で望月直登氏の制作によるもの。宝くじの普及宣伝事業として整備されたものと。そして小田急線に乗り換え、帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.29
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【左切り捨て可能素数】(ひだりきりすてかのうそすう、英: left-truncatable prime)あるいは単に【切り捨て可能素数】とは、それ自身が素数であるとともに、左から数字を順に取り除いたものが全て素数であり、さらにどの桁も 0 ではないものをいう。同様に、【右切り捨て可能素数】も定義できる。【左切り捨て可能素数】例えば 4632647 は、それ自身が素数であって、左から順に数字を切り捨てた数 632647, 32647, 2647, 647, 47, 7 が全て素数であり、どの桁も 0 ではないので、【左切り捨て可能素数】である。0 を含まないという条件は、10^60+7 のようなつまらない例(切り捨てた数が全て 7 となってしまう)を排除するためである。【左切り捨て可能素数】を小さい順に列挙すると2, 3, 5, 7, 13, 17, 23, 37, 43, 47, 53, 67, 73, 83, 97, 113, 137, 167, 173, 197, 223, 283, 313, …となる。左切り捨て可能素数は有限個しか存在しない。実際、1桁のものは 2, 3, 5, 7 しかなく、2桁のものはこれらの左に数字を付け足したもののみが候補なので、計算機を利用すれば容易に桁数の小さい方から列挙することができ、最大のものは24桁の数357686312646216567629137である。語呂合わせとして「巫女(みこ)南無野郎さ いじろうよ ムニ色五浪 なろ憎い皆」と。桁ごとの左切り捨て可能素数の個数は4, 11, 39, 99, 192, 326, 429, 521, 545, 517, 448, 354, 276, 212, 117, 72, 42, 24, 13, 6, 5, 4, 3, 1であり、合計で4260個である。下図にも現れていますが、左切り捨て可能素数には最大値があるのです。最大値が出来る理由は、私は理解できていませんが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.28
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ーーがこの日・(その44)の散策ルート。さらに「横浜中華街」の「中華街大通り」を西に進む。左手にあったのが「横浜博覧館」の2階にある「ベビスターランド」。ベビースターラーメンができあがる様子や日本ではここだけしか食べられない「できたてベビースターラーメン」や横浜中華街限定のオリジナルグッズを販売しているスペース。その先には「横浜百貨店」。その上に「横浜開運水族館(フォーチュンアクアリウム)」の案内板があった。「横浜開運水族館(フォーチュンアクアリウム)」への路地。正面に「善隣門」が姿を現した。初代の「善隣門」が建てられたのは昭和30年2月で、それまで中華街は「南京町」と呼ばれていました。この「善隣門」に「中華街」と記されたことにより、中華街の呼び名が定着したのだと。建設当初は「牌楼門」と呼ばれていたが、昭和64年に現在の姿にリニューアルされ、平和を願い隣国や隣人と仲良くするという「親仁善隣」という言葉を掲げられたことから、以来、善隣門と呼ばれていると。中国・春秋時代の歴史書『春秋左氏伝』の一節「親仁善鄰、國之寶也」(「仁に親しみ隣に善(よ)くするは、国の宝なり」)に由来するもの。この言葉は、横浜中華街の大陸(中国)系と台湾系の華僑同士の対立から協調へ、さらには新華僑と老舗店舗との対立から連携へという歴史を背景に、中華街の合言葉のようにもなっているのだと ネットから。「車両進入禁止」の中国語の案内板。「不准」とは「禁止」のことであろう。「善隣門」を潜って振り返る。再び「中山路」まで戻り、南下すると「長城飯店」の向かい右手にあったのが、「横浜関帝廟重建記念碑文」の両脇にあった「石版彫刻」(右)。「石版彫刻」(左)。「関帝廟通り」を進むと右手にあったのが「横浜中華学院」。「横浜中華学院」。煉瓦塀に掲げられた写真:「中華街大通り 1910年頃」、「1933年頃」。写真:「現関帝廟通りを行く関帝誕の行列 1910年頃」。「日本国新聞発祥之地」碑。神奈川県横浜市中区山下町166−6。「日本における新聞誕生の地ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四(元治元)年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発刊した居館の跡である。彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、創世記の日本の新聞界に植えつけた新聞の父・彦の功は大きい。さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など多くの人びとに民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。一九九四(平成六)年六月二十八日「海外新聞」発刊130年記念日に ジョセフ彦記念会」。「ジョセフ彦」。写真:「現関帝廟通り沿いにあった大同学校 1911年頃」。写真:「横濱中華學院の歩み」。その先にあった「地久門」。商売の神様「横浜中華街關帝廟」がある通りを象徴する門。東側が「天長門」 西側がここ「地久門」。ズームして。反対側には「中華街」ではなく「關帝廟道」と。「関帝廟通り」を引き返すと右手にあったのが「横濱バザール」。「Antique Garage(アンティークガレージ)」と。アンティーク、セレクト雑貨、アクセサリーショップ、占い、ブックカフェなど、個性的なテナントが沢山あり、チョットごちゃごちゃとした感じが正にバザールといった感じ。左手に「横濱鈍宅之圖」。安政6年(1859)に開港した横浜の外国人居留地近くの東波止場付近を行進する楽隊風景。色とりどりの服装で行進する異人の掲げる旗は、仏、蘭、米、英、露の5カ国である。鈍宅とはオランダ語でZondag日曜日のことで、休日を楽しむ異人達を描いている。 本図の原拠は、長崎版画の「紅毛人、道中ハヤシ方行列之図」。そして「善隣門」までもどり、「西門通り」を進むと左手にあったのが「九龍陳列窓(きゅうりゅうちんれつそう)」。展示スペース「九龍陳列窓」は横浜中華街の西側にある街づくりの一環として建てられた。長さ約12m、高さ2m。「横濱中華街九龍陳列窗」。この日は、子供たちの絵画が展示されていた。両側にあった装飾紋?。道路を渡って全景を。その先にあった石柱一対。校章だろうか?「登録有形文化財 第14-0028号 市立港中学校門柱(旧花園橋親柱)」と。「花園橋の親柱この門柱はかつての花園橋の親柱である。昭和四十八年、派大岡川が高速道路横浜羽田空港線の建設により埋立てられ、花園橋が廃橋となった際、当地に移築した親柱で、震災復興当時のものである。花園橋は明治九年、現在の横浜スタジアム南側の派大岡川に架けられた木橋であったが、明治二十一年には鉄橋に改められた。これが大正十二年の関東大震災により損壊したため、大正十五年から昭和三年にかけて再び架替えられ、その後四十五年間にわたり、震災復興橋梁の一つとして、人々に愛され親しまれた。 昭和五十八年五月 記」。 全体の高さは約3.8m。石柱と鋳鉄製照明部から構成されていて、全体的にアールデコ調の意匠が施されていると。横浜における震災復興橋梁中の親柱としては、最大規模だと。花園橋の親柱(左)。花園橋の親柱(右)。そしてその先にあったのが「西門通り」入口の「延平門」。ズームして。平和と平安のやすらぎが末永く続くことを願う。守護神は白虎神。色は白。JR石川町駅から来ると2つ目の門になる。「関帝誕のパレード」案内板。横浜中華街では幕末に関帝廟が開かれ、関帝誕(関羽誕生祭)も古くから営まれてきました。1910年7月に関帝廟の改修25周年を祝して、大規模な関帝誕が営まれ、山下町一体を華やかな行列が練り歩きました。その際の様子を写した一枚です。撮影場所は現在の延平門の前のバス通りと考えられます。当時は通り沿いに外国商館や倉庫が建ち並んでいました。辮髪や洋装などの大勢のひとびとが、山車、幟、龍舞などが続く賑やかな行列を見つめています。写真右奧に見えるのは山手の丘でしよう。パレードの写真。「横浜中華街 延平門」。初代の西牌樓は1970年に建てられ、二代目の牌樓は1994年2月に完成し、延平門として生まれ変わりました。規模:幅11.50メートル、高さ12.00メートル構造:鉄骨鉄筋コンクリート造様式:清朝時代の建築様式 二柱単樓冲天式樓(天に突き抜ける二本の桂で一つの屋根を支える樓)仕上材科:瑠璃瓦、桧木、陶器、金箔、銅、油漆この牌樓は中国の険陽五行説による風水思想に基づいて設計されています。五行 季節 方角 色彩 聖獣木(もく) 春 東 青 青龍(せいりゅう)火(か) 夏 南 赤 朱雀(すざく)土(ど) 長夏 中 黃 〔黃帝〕(こうてい) 金(きん) 秋 西 白 白虎(びやっこ)水(すい) 冬 北 黒 玄武(げんぶ)南に位置するこの牌樓は、南を守る朱雀神を配し赤色を主体とした配色が施され、この地から災厄を除き大いなる福を招くとされ、朱雀門と命名されました。「延平門」にあやかり更に足を延ばし、「西陽門」を訪ねた。神奈川県横浜市中区吉浜町。この牌樓は白虎神を祭った中華街延平門より更に西端に位置しており、まさに西の太陽に一番近いところから「西陽門」と名付けられました。JR石川町駅から来ると、まずここをくぐり中華街へ。そして「中華街」巡りの最後に訪ねたのが「玄武門」。神奈川県横浜市中区山下町195。ズームして。子孫の繁栄をもたらす。守護神は玄武神。色は黒。横浜スタジアムへの行き来はここからが便利。「横浜外国人居留地火災保険地図現在の山下町と日本大通り一帯は、横浜が開港された1859年から1899年まで横浜外国人居留地(山下居留地)がありました。そこには、欧米系・中国系・インド系なとの商社・銀行・ホテルなどが建ちならび、貿易を通して世界と日本をつなぐ経済の拠点であり、外交の舞台であり、文化往来の窓口でもありました。横浜中街はこの山下に留地の一角に形成されました。この地図には道路や建築物の位置が記されているだけでなく、外壁の材質などの違いにより建築物が色分けされています。赤は石、青は煉瓦、黄色は漆喰、緑はトタン板、グレーは物置などの付属棟を示します。この頃の街並みは1923年の関東大震災で瓦解しますが、道路の位置は現在とあまり変わっていません。右の現在の地図とくらべてみてください。」。現在の建物の所在地1⃣玄武門(北門) :現在地同2⃣善隣門3⃣延平門(西門)4⃣朱雀門(南門)5⃣朝陽門(東門)6⃣Chinatown807⃣横浜関帝廟8⃣横浜媽祖廟9⃣横浜公園(横浜スタジアム)「横浜中華街 玄武門」。初代の北牌樓は1977年に建てられ、二代目の牌樓は1995年3月に完成し、玄武門として生まれ変わりました。規模:幅11.80メートル、高さ12.90メートル構造:鉄骨鉄筋コンクリート造様式:清朝時代の建築様式 二柱単樓冲天式樓(天に突き抜ける二本の桂で一つの屋根を支える樓)仕上材科:瑠璃瓦、桧木、陶器、金箔、銅、油漆この牌樓は中国の険陽五行説による風水思想に基づいて設計されています。五行 季節 方角 色彩 聖獣木(もく) 春 東 青 青龍(せいりゅう)火(か) 夏 南 赤 朱雀(すざく)土(ど) 長夏 中 黃 〔黃帝〕(こうてい) 金(きん) 秋 西 白 白虎(びやっこ)水(すい) 冬 北 黒 玄武(げんぶ)南に位置するこの牌樓は、南を守る朱雀神を配し赤色を主体とした配色が施され、この地から災厄を除き大いなる福を招くとされ、朱雀門と命名されました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.28
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【エマープ】(emirp)とは、素数でありかつ10進数表記で逆から数字を読むと元の数とは異なる素数になる自然数のことである。例えば 1097 は素数で、かつ 7901 も素数であるためこの2つの数はエマープである。語源は prime(素数)の逆さ綴り。『素数大百科』では、数素(すうそ)という訳を当てている。【エマープ】👈リンクを小さい順に列記すると、13, 17, 31, 37, 71, 73, 79, 97, 107, 113, 149, 157, 167, 179, 199, 311, 337, 347, 359, 389, … となる。また、【エマープ】と【回文素数】を合わせたもの(つまり、逆から読んでも元の数字と同一の素数である素数全体)を【回文素数】ということもある(多くの場合、回文素数は回文数になっている素数のみを指す)。【エマープ】は無限に存在するかは分かっていないが、2010年3月現在、知られている最も大きなエマープは、2007年10月に Jens Kruse Andersen が発見した10^10006 + 941992101 × 10^4999 + 1 である。生物学者の福岡伸一さんもコラムで下記のごとく書いていると。『エマープは不思議な力のある数字と意味づけられていて、災害や事故などとの関連も指摘されている。東日本大震災の3月11日(311と113)、旅客機の事故が多い10月31日(1031と1301)は【エマープ】だが、こうした関連づけをさせてしまうのも、【エマープ】の持っている魔力なのかもしれない。』と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.27
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ーーがこの日・(その43)の散策ルート。次に訪ねたのが「媽祖」をまつる「橫濱媽祖廟(よこはままそびょう)」。「媽祖」は、北宋時代に実在した福建省・林氏の娘であり、生まれて1か月も泣き声をあげなかったため、『林黙娘』と名付けられたが、小さいころから才知に長け、10歳のころには朝晩の念仏を唱えるようになるなどした。28歳のときの9月9日、修行を終えて天に召され神になり、海上を舞い難民を救助する姿が見られたとされ、人々は媽祖祖廟を始めとする様々な媽祖廟を建て護国救民の神として祀るようになり、その神通力は国中に知られることとなって歴代の皇帝も諡号で敬意を表するようになった。その後、航海を守る海の神のみならず、自然災害や疫病・戦争・盗賊などから護る神として中華民国・台湾のほか華僑が住む世界各地で信仰されている。「横濱媽祖廟」の「山門」・「牌楼(はいぼう)」。2006年(平成18年)3月17日に、横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新名所として横浜中華街に落慶開廟した。明治時代の清国領事館の跡地である山下町公園に隣接している。台湾最初の官建の台南市大天后宮(中国語:大天后宮)より分霊された。よって「天后宮」の扁額が。「天后宮」の扁額の下の見事な彫刻。「橫濱媽祖廟道教、儒教、佛教において最高位の女神『媽祖』様をお祀りしております。媽祖様は『天上聖母』と呼ばれ、霊験あらたかな海の守り神として、篤い民間信仰を集めております。家内安全 開運厄除健康祈願 旅の安全」横濱媽祖廟の御利益は「家内安全」「開運厄除」「健康祈願」「旅の安全」。さらに、子宝の神様「註生娘娘」・安産の神様「臨水夫人」・縁結びの神様「月下老人」、学問の神様「文昌帝君」が神殿内に祀られていると。その横には「通霊女神 湄洲分身 扶桑金港 廟宇此新 天行海路 浪静風匂 恩惠千載 保護萬民丁亥冬月 石川忠久 謹作」と。 意味は?なんとなく!横浜媽祖廟は、中国で「天后」「天上聖母」とも呼ばれる女神、「媽祖様」を祀る寺院。日本ではあまり馴染みがありませんが、「媽祖」とは、北宋時代に(960〜1127年)、福建省に実在した女性「林黙娘」。横浜関帝廟が明治生まれ(1871年)であるのに対し、横浜媽祖廟は平成生まれ(2006年)。横浜港開港150年記念で作られた比較的新しい横浜中華街の名所であると。また、2019年11月に改修工事が終わり、装飾物が一新されている中央に蝋燭をお供えする「開運蝋燭」。右の石獅(狛犬)。左の石獅(狛犬)。金紙を焚き上げる「金亭」(右)。金紙を焚き上げる「金亭」(左)。これは?なんとなく座りにくい中国風のベンチ。「横濱媽祖廟」の「山門」・「牌楼(はいぼう)を振り返る。横濱媽祖廟を背に立つと門の裏に「恩澤四海」と掲げられていた。これは媽祖様の恩澤(ご利益)が四海(世界中)に及ぶという意味合いだと。「媽祖の由来”天上の聖母”は一般的に”媽祖”と呼ばれています。 中国の歴史上、実際に存在した人であり、「林氏族譜」によれば、媽祖は宗の太祖の建隆元年(九六〇年)三月二十三日に生まれ、一ヶ月たっても泣き声をあげないので、<林黙娘>と名づけられました。その家系は、唐代の<田九牧>(一族九人の地方長官)の六番目にあたる邵州刺史林蘊の七代目の子孫であって、福建における林氏の始祖である林禄公二十三代目の子孫に当たります。 小さいときから才知に長け、一〇歳で朝晩欠かさず念仏を唱え始めました。十六歳の時、神からの教えと銅製の札を授かり(井戸をのぞいて神様から護符の書き方を授けられたという記述もあり、諸説あるものと思われます。)、神通力を得、変化の術に通じるようになりました。札の力をもって邪を払い、悪をしりぞけ、災いを消し去り、人々の病を治し、世のために力を尽くしました。よく神通力を示し、むしろに乗って海を渡り、雲に乗って島を巡回するので、みんなから敬意をこめて<通玄の霊女>と呼ばれるようになりました。 宗の太祖の雍煕四年(九八七年)九月九日、修行を終え、ある晴れた日に天にのぼった。二十八才の時のことです。亡くなってから、彼女が紅い衣装をつけ、海上を飛んで、難民を救助している姿が目撃されるようになりました。霊験あらたかに護国救民を行ってきたので、郷民は廟を建てて祀るようになった。その神通力が広まるに従って、歴代の皇帝がそれぞれ贈り名を贈るようになりました。宗の微宗は<順済婦人>、宗の光栄は<霊恵妃>、元の世祖は<天妃>、清の康煕<天后>、また清の道光は<天上聖母>という名前を贈りました。 媽祖は人間から神様となり、海の神様として祀られています。船主は船の中に神棚を設けて祀っていました。のちには海や航海の安全だけでなく、自然災害やコレラ等の疫病の発生や、盗賊戦争の不安にも、彼女を祈り、安寧を祈願するようになりました。 媽祖の信仰は、華僑の出国にしたがって世界各地へ伝わりました。華僑のいる多くの地域には、媽祖廟は、二十六か国千五百余か所の地区に及んでおり、媽祖さまを祀る人々は千五百万人、日々参拝する人々が絶えることはありません。 媽祖は千里眼と順風耳の二神を脇に付き従えています。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となりました。千里眼は周囲を監視し、あらゆる災害から媽祖を護る役割を担い、順風耳は大きな耳であらゆる悪巧みを聞き分け、媽祖に知らせる役をします。横濱媽祖廟では千里眼と順風耳を一緒に祀っております。」「媽祖廟」の「本堂」を正面から。「横濱媽祖廟」と。こちらにも「横濱媽祖廟」と。「OLIVESPA 横浜元町中華街店」前にあった「石灯籠」にも龍の姿が。「ぱんだや」。黄色い壁と赤い幌が目印のぱんだ雑貨専門店。遠目でも目立つ店舗上の特大ぱんだが目印。そしてその先にあったのが「朱雀門」中華街の元町・山手側に位置するのが朱雀門。朱雀は、中国の伝説上の四神(四獣・四象)・五獣のひとつで、南方を守護する神獣(神鳥)。朱は赤であり、五行説では南方の色とされるため、南の入口を護るのが朱雀門ということに。朱雀は、邪を焼き尽くす炎をまとっているため、厄災を祓い、大いなる福を招く神獣(神鳥)とされている。朱雀門は、まさに縁起のいい門ということに。ズームして。「1920年頃の中華街(現南門シルクロード)」案内板。「1920年頃の中華街(現南門シルクロード)大正期の中華街の情景。ちょうどこの案内版の位置から、中華街の中心方向を眺めた様子です。左手にはピアノ店、ソーセージ店、籐椅子店、右手には理髪店などの英語の看板が見えます。ここは山手に住む西洋人が勤め先のある山下町への行きかえりに通る道だったので、西洋人向けの店舗が多くありました。ピアノ店は周興華楽器店で中国沿海部の寧波出身の周筱生が開き、ピアノを製造販売していました。また、この通りには日本人が経営するカバン店や洋菓子店もあり、国際色に富んだ通りでした。」。「横浜中華街 朱雀門」。初代の南牌樓は1976年に建てられ、二代目の牌樓は1995年3月に完成し、朱雀門として生まれ変わりました。規模:幅8.00メートル、高さ13.00メートル構造:鉄骨鉄筋コンクリート造様式:清朝時代の建築様式 二柱単樓冲天式樓(天に突き抜ける二本の桂で一つの屋根を支える樓)仕上材科:瑠璃瓦、桧木、陶器、金箔、銅、油漆この牌樓は中国の険陽五行説による風水思想に基づいて設計されています。五行 季節 方角 色彩 聖獣木(もく) 春 東 青 青龍(せいりゅう)火(か) 夏 南 赤 朱雀(すざく)土(ど) 長夏 中 黃 〔黃帝〕(こうてい) 金(きん) 秋 西 白 白虎(びやっこ)水(すい) 冬 北 黒 玄武(げんぶ)南に位置するこの牌樓は、南を守る朱雀神を配し赤色を主体とした配色が施され、この地から災厄を除き大いなる福を招くとされ、朱雀門と命名されました。」「前田橋」交差点の先には「首都高速神奈川3号狩場線」が。「朱雀門」を振り返る。「太平道」、「中山道」を利用して、次の目的地「横浜関帝廟」に向かう。「横浜関帝廟(よこはまかんていびょう)」は、神奈川県横浜市中区の横浜中華街にある関帝廟。関帝(神格化された関羽)を祀っており、主に商売人の守り神として崇敬を集めている。「横浜関帝廟」の「山門」・「牌楼(はいぼう)」。神奈川県横浜市中区山下町140。牌楼の見事な装飾。「関帝廟」と。その奥に「本堂」初代の関帝廟は1923年の関東大震災で倒壊した。まもなく2代目の関帝廟が再建されたが、第二次世界大戦末期の1945年6月に空襲で焼失し、次に建設された3代目の廟も1986年に原因不明の火災で失われた。現在の関帝廟の建物は、1990年8月14日に開廟式が行われた4代目ものである。」。屋根の大きな曲線。屋根の上に鎮座している極彩色の龍(右)。屋根の上に鎮座している極彩色の龍(左)。狛犬(右)。狛犬(左)。下の屋根にも龍の姿(右)が。下の屋根にも龍の姿(左)が。様々な極彩色の装飾をカメラで追う。再び「横浜関帝廟」の「山門」・「牌楼(はいぼう)」を。「関聖帝君の略歴横浜関帝廟の主神は関聖帝君である。関聖帝君は三国志で有名な武将関羽(字真長)を神格化したものである。関羽は西暦百六十年旧暦六月二十四日河東郡解良県常平村(現在の山西省解県)に生まれ幼児から祖父石盤公の薫陶で「周経と春秋」を学び成人後も両書を片時も手離す事なく愛読していたと云う。関羽は十八才の時、横暴な豪族を切りすてて遂県に亡命し、やがて劉備と張飛に出会い意気投合した。三人は例え違った年月に生まれても、同じ日に死を望む義兄弟の契りを挑園で結び劉備を長兄に張飛を弟として国家の安定に努力する志を誓い合い、後漢下朝の自滅から蜀帝国の建国を画策し後漢王朝の血筋を引いた劉備を蜀帝国の皇帝として擁立しその基礎固めを行った。西暦二百十九年曹操と孫権の連合軍に敗れ処刑された。享年五に八才没後、蜀帝国は関羽の功績と精忠に感謝して廟を建立したのが関帝廟の始まりであり以後の晋、唐、明、清の各朝廷も関羽の精忠、守義に感動し帝位の諡を授け護国の神として祭った。商売の神様としての由来関羽は、武将として兵站に精通し記帳にもたけて昔の中国社会で使われていた簿記法(大福帳)を発明した。関羽の誠を尽くし約東事を守る精神が商人にとって最も大事であることから商売の神様として祭られることになった。尚、初代関帝朝は一八七一年(明治四年)に建立され一九二三年(大正十二年)関東大震災で第二代は一九四五年(昭和二十年)戦災で第三代は一九八六年(昭和六十一年)不審火でともに焼失された。現関帝廟は第四代で一九九十年八月十四日落慶至現在 以上 横第帝廟」。「横浜関亭廟重建記念碑文桃園三結義 忠名留芳千吉以下 省略」記載内容は、上記と同様か?「中山道」を北に進む。「中華街大通り」まで戻ると、路地の角にあったのが「華龍飯店」。向かいにあった「パンダまん」が人気商品の「老維新(ローイシン)」。多くの若者が購入の順番を待っていた。その西側にあったのが「横浜博覧館」。1階には横浜みやげのセレクトショップ「横浜博覧館マーケット」と本格中華のテイクアウト専門店「開華楼」、2階には日本初の「ベビースターランド」があり、ベビースターラーメンができあがる様子を見ることができる。3階では足湯が併設された緑あふれる「ガーデンテラスカフェ」で一息つきながらタピオカミルクティーやスイーツをゆったり楽しめる店であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.27
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【回分素数】(かいぶんそすう、英: palindromic prime)とは、位取り記数法(N進法)による表記が(通常は十進法で)回文数になっている素数のことである。【エマープ】を回文素数に含める場合もあるが、以下では含めないものとする。「しんぶんし」のようにさかさに読んでも同じ文になる文を回分といいますが、12321のように逆さから読んでも同じ数になる数を回文数といいます。1桁の数から回文数を調べてみましょう。1桁の数は0、1、2、3、4、5、6、7、8、9の10個はすべて回文数になるのは当たり前です。2桁の数は11、22、33、44、55、66、77、88、99の9個です。3桁の数は101、111、121、131、141、151、161、171、181、191、202、212、222、 232、242、252、262、272、282、292、…、909、919、929、939、949、 959、969、979、989、999です。100の位から900の位までそれぞれ10個ずつ あるので90個です。4桁の数は1001、1111、1221、1331、1441、1551、1661、1771、1881、1991という ように1000から2000までの中に10個あります。3桁の数の場合と同じです。 よって、9999までの中に10×9=90個あることになります。 【回文数】の中で素数であるものを【回分素数】と呼びます。回文数の中から回文素数を探してみましょう。1桁の回文素数は2、3、5、7です。2桁の回文素数は11だけです。3桁の回文素数は101、131、151、181、191、313、353、373、727、757、787、797、 919,929の14個です。このような回文素数には次の基本的性質があります。偶数個の数字からなる回文素数は2個の数字からなる11が唯一である。それは、偶数個の数字からなる回文数はすべて11で割り切れるからです。2個の数字からなる回文数11、22、33、44、55、66、77、88、99は11で割り切れますし、4個の数字からなる回文数1001、1111、1221、1331、1441、1551、1661、1771、1881、1991、…も確かにすべて11で割り切れます。【回分素数】が無数に存在するかどうかは分かっていない。2021年8月時点で知られている最大の【回分素数】は 10^490000 + 3 · (10^7383 - 1)/9 · 10^241309 + 1である全ての整数が高々3つの回文数の和で表せることがアルゴリズムとともに示されています。0も回文数に含んでいるので自明な組は多いのですが、例えば23805であれば 21012 2662+ 131----------- 23805のように3つの回文数の和で表せます。「リクレル数」と「196問題」ある整数に対して各位の数字を反転させてできる数を「逆順数」と呼ぶことにします。ただしこれは一般的な名称ではないので注意して下さい。ある整数に対して、自身とその逆順数との和を求める操作のことを「リクレルプロセス」と呼びます。例えば、56なら56+65=121となり、125なら125+521=646となります。これが1回のリクレルプロセスに相当します。多くの数はリクレルプロセスを繰り返し適用すると、いずれは回文数になります。特に、1桁と2桁の数字は全て、リクレルプロセスを繰り返すと最終的に回文数になることが知られています。「89」が回文数になるまでは、24回の操作が必要である。実際に、演算結果のみ示すと、ここで、何回リクレルプロセスを繰り返しても回文数にならない整数のことを「リクレル数」と呼びます。しかしこれはあくまでも定義でしかなく、十進数におけるリクレル数の存在は証明されていません。つまり「十進数のリクレル数は存在するのか?」という問いは数学の未解決問題なのです。十進数の場合は証明ができていないだけで、リクレル数の候補は幾つか知られています。例えば、196などはリクレル数であると予想されています。196,295,394,493,592,689,691,788,790,879,887,978,986十進数におけるは最小のリクレル数の候補であるため、リクレル数か否かについて特に注目されています。196がリクレル数か否かを判断する問題には「196問題」と特別に名前が付けられています。数十億回の反復後でも未だに回文は得られていないようです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.26
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ーーがこの日・(その42)の散策ルート。「山下公園」を後にして「中華街」に向かう。「神奈川県民ホール」を右に見ながら進み「本町通り」を左折。左手のマンションにあった「昭和の初めに使われていた回転扉」に立ち寄る。束の間の陽光が。神奈川県横浜市中区山下町58−1803。溝彫りのある二本の円柱の奥に。「昭和の初めに使われていた回転扉ここに保存されている回転扉は、かつてこの地にあり、 後に昭和シェル石油となるライジングサン石 油の本社ビル玄関に使われていたものです。この本社ビルは関東大震災後の 1929 年 (昭和4年)に建築家 のA・レーモンドとB・フォイエルシュタインの協働による設計で 建てられたもので、 当時の日本における最もモダンなオフィスビル の一つでした。1990年にこのビルは解体されましたが、回転扉は 日本最初期のものでありデザインも斬新だったため、 横浜市により 保管されていました。その後、2001年にエクステ山下公園の竣工に合わせ当初の場所に戻りました。なお建物正面には元のビルの造形的特徴であった溝彫りのある二本の円柱も再現されています。」「中華街(東門)」の道路標識。「中華街東門」交差点の角には「ヨコハマ観光はシーバスのご利用が便利です!!」と。シーバスの「クルージングルート」。そして右手に中華街の「東門」が姿を現した。神奈川県横浜市、横浜中華街の東門にあたるのが「朝陽門(ちょうようもん)」。横浜中華街には現在、大小10基の牌楼(ぱいろう=門)があるが、そのひとつが朝陽門。東西南北には「春夏秋冬」、「朝昼暮夜」という陰陽五行に基づく色である「青赤白黒」が当てられ、朝陽門は青色の門柱、屋根が付いていた。東西南北を守護する守護神は五方で、東=青龍、南=朱雀(すざく)、西=白虎(びゃっこ)、北=玄武(げんぶ)、中央=黄竜または麒麟となっており、東方の霊気は青龍神が見張っている。朝陽門は、その名の通り、朝日が中華街に差し込み、繁栄をもたらすという象徴に。平成15年2月1日に完成した朝陽門は、高さ13.5m、幅12mで中華街で最大の門。中華街の牌楼は、45度傾いて道路が走る中華街の道標(みちしるべ)の役割をも果たしている。みなとみらい線元町・中華街駅からは、この朝陽門を通って中華街に入ることになるのだ。「中華街」と。「朝陽門」と。その上には扇型の青龍の彫刻も。観光スポット周遊バス「あかいくつ」は、桜木町駅を起点に、明治期以降の近代建築や港などに代表される『古き良きヨコハマ』を巡るバス。左手に「Information Center」。「Information Center」で「横浜中華街ガイドマップ」を頂く。「横浜中華街ガイドマップ」。拡げるとA1サイズにもなる大きなガイドマップ。正面が「中華街大通り」、右手が「開港道」。「中華街大通り」に向かって進む。「中華街大通り」入口・交番前小広場ににあったモニュメント。デザインをしたのは中国のアーティスト劉旭光氏。モニュメントの設置は、中華街大通りの電線の地中化や段差の解消などのバリアフリー化とともに「ライブタウン整備事業」としておこなわれたとのこと。「繼往開來(けいおうかいらい)~過去を継承し未来を開く~このモニュメントは未来を切り開く【斧】をデザインしたものです。1859年横浜が開港し、ここ旧外国人居留地に欧・米・アジアの人々が集い、日本の近代化と国際化の種子がまかれました。中国人は貿易の場で「買弁」などの仕事に携わり、中華街を築いてきました。居留地の志を受け継ぎ、善隣友好・温故知新を胸に中華街は横浜の発展とともに歩んていきます。」正面に「加賀町警察署 山下町交番」。交番出入り口の上に中国の山寺を題材にしたレリーフが設置されていた。訪れた人の目を惹きつけるほど鮮やかなものでこの場所が判りやすいのであった。「中華街大通り」を進む。3年?ぶりであろうか?この時は若い方々でかなり混んでいたが。中華街名物!! 「いちご飴」、500円と。真っ赤でツヤツヤキラキラとしているいちご飴のビジュアルは人気と。右手に「倭物や カヤ」。浮世絵を描いた様々な種類の商品が並んでいた。「鵬天閣」の店頭には「上海小籠包」を求める若者が順番を待っていた。「華正樓 新館」。「王府井(ワンフーチン)」。そして左手に「市場通り門(北)」が姿を現した。昔から「市場通り」は “中華街の市場”として大通りと並び、中華街のにぎやかさを象徴した門であると。ズームして。「市場通り門(北)」とは反対側の「北京小路」には「横濱中華街射的場」があった。内部をズームして。「市場通り」を南に進む。中華街唯一の北京ダック専門店「北京烤鴨店(ぺきんかぉやーてん)」。たくさんの吊るされた北京ダック!迫力あり!!同時に、ふわっと香ばしい木の香りも漂ってきて食欲をそそったのであったが。北京ダックを最後に食べたのは何時のことであっただろうか?「市場通り門(南)」が見えて来た。振り返って。ズームして。前方にファッション アクセサリー店「凸凹堂 横濱」。天然石・アクセサリ・パワーストーンを取り扱う店。横浜市中区山下町133-1。屋根には巨大な龍の姿が。左に折れ「関帝廟通り」を進む。右手にあったのが「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地 横浜」記念碑。「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地 横浜1 8 6 6年1月2 6日、日本で最初のフットボール(ラグビー)クラブである横浜フットボールクラブ(YFBC)が、ここからほど近い山下町1 2 7番地でイギリス人を中心とする横浜在住の西洋人たちによって設立されました。ラグビー発祥の地、イングランドのラグビー・ミュージアムは、このクラブを日本だけでなくアジアで最初のラグビークラブであるとも認定しました。イラストは、イギリスの雑誌に掲載された横浜のフットボール(ラグビー)の試合の様子です。1 8 7 3年1 2月に造成中の横浜公園でイギリス人たちがおこなった試合だと考えられます。当時のフットボールはラグビーとサッカーとが未分化のスポーツでしたが、このイラストや記録から現在のラグビーに近い試合だったことがわかります。その後、1 9 0 1年1 2月7日、横浜公園で慶応義塾のラグビークラブと横浜クリケット&アスレチッククラブ(YC&AC、横浜在住外国人のスポーツ社交クラブ)がラグビーの試合をおこないました。慶応義塾の学生たちはともにイギリス留学経験をもつ英語教師E・B・クラーク(横浜出身)と、田中銀之助にラグビーの指導を受けており、国内で初めてラグビーの試合をおこなった日本人は慶応義塾の学生たちだと考えられます。このように1 8 5 9年の横浜開港後にやって来た西洋人たちが横浜外国人居留地(現在の山下町・中華街や山手町)で楽しんでいたラグビーやサッカー、クリケット、テニス、競馬、野球などの西洋のスポーツは、やがて日本人の間にも広まっていきました。神奈川県と横浜市の両ラグビーフットボール協会は皆様のご協力をいただき、ラグビーワールドカップ2 0 1 9の日本開催を記念して、この碑を建立しました。」そしてその先にあったのが山下町公園の「會芳亭(かいほうてい)」。神奈川県横浜市中区山下町135。「山下町公園」入口の狛犬。「會芳亭」は山下町公園内の憩いの場。-まちの広場"と-子供の遊び場"からなる魅力ある公園になっていた。。東屋「會芳亭」正面から。「會芳帝」。「會芳帝の歴史」。1870年前頃、居留地に『会芳楼(かいほうろう)』という劇場と料理屋を兼ねた総合娯楽施設が誕生した。居留地の劇場といえば、68番地にあった日本初の本格的演劇場『ゲーテ座』が有名だが、ゲーテ座の完成は1870年。会芳楼はそれに先んじてできた、貴重な娯楽施設。“135番地”は、街の活気の中心地になったと。1883年、『清国領事館』が置かれた。はじめは145番地に開設された清国領事館でしたが、新館を建てる場所として選ばれたのが“135番地”。辛亥革命が起こる1911年までの28年間は清国総領事館、その後は中華民国総領事館となり、横浜をはじめ、築地、函館居留地に暮らす中国人たちの外交代表機関として、およそ半世紀、その歴史を重ねたのだと。さらに「関帝廟通り」を進むと正面には「横浜大世界」の看板が見えた。「横浜大世界」は、食べる、買う、体験するがまるごと詰まった「横浜中華街」最大級の複合型エンターテイメント施設。南門シルクロード・天長門の正面に位置する8階建ての総合エンターテイメント施設。肉ニラまんじゅうなどを味わえる点心屋台やマッサージの他、衣装レンタルや写真館、そして大人気のトリックアートなど、1階から8階まで楽しく過ごせるスポットが満載 と。「横浜大世界」の中にある「アートリックミュージアム」。「横浜大世界」の4階〜8階にある「アートリックミュージアム」。4階〜8階すべてで錯覚を利用したトリックアートを展示。室内施設のため、雨など天候に左右されることなく遊べる点も魅力で、恐竜やサメに襲われたりと見て・体感して・楽しめる作品を展示していると。黄金の狛犬が鎮座。入口にパンダがお出迎え。2Fカフェは随所にパンダ柄が描かれパンダグッズが飾られており不思議な空間である と。そして「横浜大世界」の手前には「天長門」。商売の神様「横浜中華街關帝廟」がある通りを象徴する門。東側がここ「天長門」 西側が「地久門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.26
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【プロス数】(プロスすう、英: Proth number)とは、以下の制約を満たす式で表される自然数Nのことである。【プロス数】の名は、19世紀フランスの数学者 フランソワ・プロスにちなんで付けられた。 N=k2^n + 1制約1: kは正の奇数。制約2: nは正の整数。制約3: 2^n>k}である。※ 制約3が無い場合、1より大きなあらゆる奇数がこの式から生まれてしまう。【プロス数】👈リンクの最初の数項は3, 5, 9, 13, 17, 25, 33, 41, 49, 57, 65, 81, 97, 113, 129, 145, 161, 177, 193, 209, 225, 241,… である。カレン数 (n·2^n +1) や フェルマー数 (2^2^n +1) は、【プロス数】の特殊なケースと考えることもできる。【プロス素数】【プロス素数】(ぷろすそすう、Proth prime)とは、素数であるプロス数のことである。【プロス素数】の最初の数項は3, 5, 13, 17, 41, 97, 113, 193, 241, 257, 353, 449, 577, 641, 673, 769, 929, 1153,1217, 1409, 1601, 2113, 2689, 2753, 3137, 3329, 3457, 4481, 4993,6529, 7297,7681, 7937, 9473, 9601, 9857, …である。プロス素数は無数にあると予想されているが、証明されていない。2016年現在、発見済みである最大の【プロス素数】は 10223×2^31172165 + 1 であり、9,383,761桁の大きさを持つ。これが素数であることは PrimeGrid プロジェクトのPéter Szabolcs によって導き出された事が2016年11月6日に発表された。この数は、メルセンヌ素数でないような既知の最大の素数でもある。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.25
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ーーがこの日・(その41)の散策ルート。「シルク通り」を進むと左手の植栽の中に案内碑が。「ストラチャン商会(山下居留地71番館)」。「現在の山下町一帯は、かっては多くの外国商館カならぶ外国人居留地でした。旧山下居留地71番地にあたるこの場所には、汽船会社や保険会社の代理店業務を手がけるイギリス系貿易商社のストラチャン商会( Strachan & Co .)の建物が建っていました。明治22(1889 )年頃にこの場所に移転してきた同商会は、明治24 (1891)年8月、イギリス人建築家ジョン・ダイアック( John Diack )の設計、清水組(現・清水建設株式会社)の施工で、煉瓦造の新社屋を完成させています。2階建ての社屋は本町通りに面して建っており、裏手にあたるこの場所には同商会の煉瓦造倉庫が建っていました。大正12 (1923)年の関東大震災によって、山下町一帯の建物はほとんどが倒壊・焼失しましたが現在でも、地中から当時の建物基礎などが発見されることがあります。展示されている煉瓦は、この建物の建設工事中に発見されたもので、震災前のストラチャン商会倉庫の基礎の一部と考えられます。」「竣工当初のストラチャン商会提供:清水建設株式会社」。マンションビルの前には「居留地90番地の大砲」が。明治期に製造された鋳鉄製の大砲。今までに「歴史資料館の大砲」、「開港広場の大砲」を見てきたが3基目?の大砲なのであった。神奈川県横浜市中区山下町90−1。「開港広場の大砲」にも「旧居留地90番地の大砲」との説明文があった。「大砲の由来」。「大砲の由来この大砲は、以前の倉庫会社から三門当社に譲り受けた物の一つで、残り一つは歴史資料館、一つは開港記念館に置いてあります。以前の倉庫会社が新築工事中にこの地より発掘されたもので、横浜開港に由緒ある貴重な史物で、歴史をたどれば嘉永七年米国使節ペリーは、艦船数隻を率いて日本に開国通商を迫り幕府は、会見の場所を横浜に設け使節と交渉せしむるに当り松代、小倉の二藩に警衛を命じた。松代藩佐久間象山は軍議役として和蘭新式野戦砲二門、牛角砲二門、木込銃の外槍刀兵等の装備にて威風堂々と出陣し幕府を驚愕させたが、遅命遂に黙止しがたく断腸の思いにてこの地に埋没したものです。以上が前所有者倉庫会社からの伝言です。」。次に訪ねたのが「本町通り」に面した「NHK横浜放送局」。手前にあったホテル「ハイアット リージェンシー 横浜」を振り返る。」「NHK横浜放送局」の向かいにあった黄金色のビルは「大和地所ビル」。「NHK横浜放送局」入口。入口には「神奈川芸術劇場」、「NHK横浜放送会館」の文字が。『横浜DeNAベイスターズ』の球団マスコットキャラクター「DB.スターマン」のぬいぐるみの「横浜水兵バージョン」。DBは「DeNA BayStars」の略であり、名前はハム「スター」とベイ「スター」ズで掛けている模様(もしくはハ「ム」スターとハ「マ」スター)。「鎌倉殿の13人」ポスター。こちらには「NHK連続テレビ小説『ちむどんどん」のポスターも。引き返して「海岸教会通り」に向かって進むと右手にあったのが「旧横浜居留地48番館」。道路側から「旧横浜居留地 48番館」北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされる「キーストーン」が。「旧横浜居留地 48番館横浜最古の洋風建築物。創建から大正15年までモリソン商会の建物として用いられていた。関東大震災で、当初の2階建てが平屋となり、平面規模も6割に縮小されている。石灰製の目地を持つフランス積で、設計尺度はメートル法が用いられている。北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされるキーストーンが置かれている。所在地:中区山下町54構造・規模:煉瓦造建築年代:明治16年(1883)指定・認定:神奈川県指定重要文化財 平成13年(2001) 2月設計・施工:不明」内部に陳列されている「小屋組トラス」。「小屋組トラスこの小屋組トラス(屋根を支える骨組)は、関東大震災後の改修時(昭和初期)のもので、平成13年の保存工事まで利用されていました。建物の変遷を示すものとして、展示をしています。」。「旧横浜居留地の48番館」案内板。「旧横浜居留地の48番館この建物は、日本で紅茶やダイナマイトなどの取引を行っていた商人J・P・モリソンの事務所兼住宅として、明治16年に建てられたといわれている。大正12年に横浜を襲った関東大震災で2階部分を損壊し、またその復興事業の道路整備によって建物の西側部分が除却された。その後、大正15年から昭和53年までヘルム兄弟商会が所有し、補修が繰り返されていたが、神奈川県は、平成13年2月に県指定重要文化財に指定し、平成13年度に保存工事を実施した。横浜居留地時代唯一のレンガ造りの遺構といわれており、煉瓦は同じ段に小口面と長手面が交互に現れる「フランス積み」と呼ばれる手法が使われている。」。外壁は建築当初煉瓦積みの上にしっくい塗りと想定されますが、保存工事ではモルタル塗りで仕上げています。「枠内が現存部分(明治9年6月出阪「日本繪人商人録より)」。「水町通り」を渡り「山下公園通り」に向かって進む。右手にあったのが「神奈川県民ホール」。神奈川県横浜市中区山下町3−1。反対側の「横浜産貿ホール(マリネリア)」への石段の先にあった石碑。「HSBC Memorial Plate 2006」と。「銀行業務 発祥の地英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は、創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移転した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず、日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。香港上海銀行は現在日本で営業を行っている最も古い銀行です。」前方に見えたのが「山下公園通り」の「産業貿易センター前」交差点。「神奈川県民ホール」全景。神奈川県民ホール(かながわけんみんホール、Kanagawa Kenmin Hall)とKAAT神奈川芸術劇場(かーとかながわげいじゅつげきじょう、KAnagawa Arts Theatre)の二棟から構成され、大小5つの劇場で約4,600名の収容人数を誇る大型複合文化施設である。野外彫刻 大成浩作「風の標識」。黒い石で創られたU字形、風に響く音叉をイメージしています。風や時間はこのU字形の谷間を通り過ぎます。「山下公園通り」のイチョウの緑が美しかった。赤煉瓦の擁壁に「神奈川県立県民ホール」と。イチョウ並木をカメラで追う。「県民ホール前」交差点が前方に。前方に「氷川丸」の姿が垣間見えた。「県民ホール前」交差点を渡る。山下公園内に入ると左側にあったのが「西洋理髪発祥の地 」碑。「西洋理髪発祥の地 横浜市長 細郷道一 書――ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする ――安政の開港とともに, 生活様式の洋風化が進むなか, 政府の「断髪令」に先がけ, 明治2年(1869年)横浜に我が国初の 「西洋理髪店」が開業され, 欧米風「ザンギリ頭」 は文明開化の一翼を担うこととなった。 平成元年11月彫刻名 「ザンギリ」彫刻制作 木村 賢太郎寄贈 神奈川県理容環境衛生同業組合 全国理容環境衛生同業組合連合会」「山下公園」から「横浜港大さん橋」方向を見る。「飛鳥Ⅱ」にズームして。反対側には「日本郵船氷川丸」。人出は比較的少なかった。「横浜マリンタワー」。「横浜ベイブリッジ」。「花壇」も手入れがされて。「HOTEL NEW GRAND」と「横浜マリンタワー」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.25
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1をひたすら並べてみましょう.1, 11, 111, 1111, 11111, 111111, 11111111, 111111111, 1111111111, …このように 1を n 個並べてできる自然数 Rnは【 Repunit 数 (レピュニット数) 】👈リンクと呼ばれています。つまり,R1=1R2=11,R3=111,R4=1111,R5=11111,………といった具合。極めてシンプルな定義の 【 Repunit 数 (レピュニット数) 】ですが, 実はいくつかの不思議な性質を持っています。レピュニットの素因数を計算してみましょう。R(2)=11=11R(3)=111=3×37R(4)=1111=11×101R(5)=11111=41×271R(6)=111111=3×37×7×11×13R(7)=1111111=239×4649上で挙げた5つのレピュニットにおいて、素因数として3,7,11,13,37,101,239,271,4649という数が登場しました。これ以外の素数は今の所まだ登場しませんが、R(8),R(9),R(10),… と続けていけば、いつかは必ず登場するというのが上の定理の主張です。とても面白いです! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.24
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ーーがこの日・(その40)の散策ルート。「開港広場公園」と「旧英国領事館」との塀の前にあったのが「旧居留地90番地の大砲」。近づいて。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲 と。「旧居留地90番地の大砲 口径11.5cm、全長252.5cm、重量1480kg。外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戌辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。」隣にあった「時計塔」。「時計塔についてこの時計灯は、右図のポールをデザインしたものです。1891年(明治24年)頃、このポールは大桟橋付近に設置されており、暴風雨の際に旗を掲げて港近くの船に信号を送っていたものです。」。「大日本五港之内横浜(日本大通りより波止場) 明治24年 神奈川県立文化資料館所蔵」。更に左側にはハナミズキの「記念植樹」碑が。「日米交流150周年記念植樹 2004年4月3日」。植樹してから18年、ハナミズキは成長が遅いようだ。そして人工の滝のようであったが。そして南側にあったのが「日本基督教会 横浜海岸教会」。「日本キリスト教会 横浜海岸教会」「横浜市認定歴史的建造物 横浜海岸教会」。日本基督教会(にほんキリストきょうかい、英語:The Church of Christ in Japan)は、慶応3年(1868年)11月に、横浜外国人居留地167番にJ.H.バラの依頼によって横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、石造りの小会堂が建設されたのが始まりという歴史ある教会・横浜海岸教会。明治5年2月2日(1872年3月10日)、横浜公会として設立した日本で最初のプロテスタント教会。明治8年7月10日に日本基督横浜海岸教会として大会堂が建てられたが、関東大震災で倒壊。現在の建物は、昭和8年、雪野元吉の設計。雪野元吉は、名古屋生まれの横浜育ちで、宮内省内匠寮勤務の後、独立し、新京忠霊塔などを設計している。終戦直後に外地で病没しているため、現存する唯一の雪野元吉設計の建物がこの横浜海岸教会となっている と。「大桟橋通り」の歩道を南に進むと左手にあったのが「近代のパン発祥の地碑」。「近代のパン発祥の地碑一八五九年、欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は日本大通り五番地の横浜港郵便局を中心とするこの地区に、外国人の日用食品街「お貸し長屋」を建てた。その一角で、内海兵吉は一八六〇年、フランス人にパンの製法を習って「パン屋」をはじめた。当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづくパン食文化の始めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。その後、イギリス人クラークのパン屋「ヨコハマベーカリー」が、登場する。ここで修行し、受けつぎ発展したのが内木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山型食パンである。現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」が始まったこの地区に、横浜市中区制九〇周年を記念し「近代のパン 発祥の地」を設置する 二〇一六年十一月 設置者 横浜市綜合パン協同組合 全国パン協同組合連合会」その先にも石碑が。「電話交換 創始之地」。昭和15年に逓信省が立てたもの。明治23年に電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、4月に東京、6月に横浜の電話交換局が設置。明治23年12月16日、横浜電話交換局と東京電話交換局(現・日本工業倶楽部会館/千代田区丸の内1-4-6)の間で、電話交換業務が開始された。東京市の加入者は155人、横浜市の加入者はわずかに42人で、電話所(公衆電話)数16。市内通話の料金は年間45円の定額制であった。米1升(1.4kg)が7銭〜8銭の時代ですからかなりの高額!!。「本町通り」を右手に進むと、「港郵便局前」交差点の角にあったのが「横浜港郵便局」。1871年4月20日(明治4年3月1日)、日本の近代郵便制度の創設とともに、横浜郵便取扱所として開設。かつては、「よこはまこうゆうびんきょく」と読んでいたが、今は、「よこはまみなとゆうびんきょく」に変更されている。神奈川県横浜市中区日本大通5-3。「本町大通り」沿いの「横浜港郵便局」の建物の壁にあった「2017(平成27)年用年賀はがき神奈川県版デザイン」の原画のようであった。1875年(明治8年)に外国郵便を日本で初めて開始したところとされており、「外国郵便創業の局」の記念碑が。「横浜郵便局開業之図(郵便報知新聞第557号) 木版画 / 明治 / 日本歌川広重(三代目)明治8年/1875年 木版画」をネットから。交差点角には2階に上がるエレベータがあり、その横に郵便ポストがある。郵便ポストといえば赤いボックスか昔からの円筒形に決まっているが、ここ横浜港郵便局前にあるポストには、「キューピットの銅像」が乗った大理石製であり、青字で「郵便は世界を結ぶ」、赤字で「POST」と刻まれていた。これは、外国郵便開始80年記念に作られたポストで、赤には塗られてはおらず、大理石の目地のままである。古いものであり、ポストの取り出し口のトビラには、昭和42年(1967年)に局名変更する前の「横浜郵便局」という名が刻まれていた。地球儀に載り、ラッパを吹くキューピット像。「港郵便局前」交差点の角にあったのが「横浜法務合同庁舎」。横断歩道を渡り「本町通り」を引き返すと右手にあったのが「横浜都市発展記念館 横浜ユーラシア文化財 旧横浜市外電話局前逓信省営繕組織の設計による建物の貴重な現存例。当初表現主義の色彩の濃い設計で建設が進められていたが、関東大震災に遭ったため現在の設計になった。外観はタイル張りと一部石張りによるシンプルな造形だが、1階のアーチの窓列やコーニスなどが特徴的である。所在地:中区日本大通12構造・規模: RC造4階、地下1階建築年代:昭和4年(1929)指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(2000) 11月設計:逓信省営繕課(担当 中山広吉)施工:安藤組」「横浜都市発展記念館 横浜ユーラシア文化財 旧横浜市外電話局」を振り返る。「大さん橋入口」交差点を右折して進むと「旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構」と「消防救急発祥之地」の石碑があった。幕末期、豚屋料理屋鉄五郎から出火、瞬く間に火は関内に広がり、外国人居留地と日本人街の大半が焼失した。通称豚屋火事。そのときすでに外国人居留地消防隊はあったがこの事件をきっかけにより防火対策、消防隊を強化。外国人居留地と日本人居留地を隔て、防火対策として建物と建物が隣接しないように区画整理された。そのため、今でも関内は道幅は広く、建物が隣接しないような街並にしたのだと「旧居留地消防隊 地下貯水槽」「消防救急発祥之地」。「昭和8年(1933)2月、日本で初めてこの地(当時の山下町消防署)に救急車が配置運用開始されました。」そして「旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構」。奥正面には旧中消防署日本大通消防出張所のメダリオンも。「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構建造年:明治26(1893)年(推定)構造:煉瓦造(イギリス積)規模:底面3.19m×3.17m・高さ4.50m・貯水量28㎡この貯水槽は、明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。構造物としての特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の間仕切りにより4室に分かれていることで、役割を終えた現在でも地下水の流入により常時貯水されています。またここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本初の消防車(大正3(1914)年)救急車(昭和8(1933)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえます。横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜市消防局本部が置かれ、平成6(1994)年まで日本大通消防出張所として100年以上の消防の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。」ガラス越しに覗き込むと貯水槽部分を見ることができるのであった。「中消防署開設の地一九一九年(犬正八年)当地に特設消防署として第二消防署(現在の中消防署)が開設され、同年九月一日より事務を開始す」。向かいにあった建物は緑の蔦に前面は囲まれて。1階には「かをり」という喫茶店が。店先に「ホテル発祥の地」のプレートが掲示されていた。高さ1.7mのフレームに 3枚の銅版が張られていて, 「ヨコハマ・ホテル」の由来 などが記されていた。「ホテル発祥の地」。「ホテル発祥の地1860年(万延元年)、開港直後2月、横浜のホテルの元祖がこの地(居留地70番)で生誕した。この「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人が造ったもので, 内部に 食堂, ビリヤード室, 酒場を設け,数年後には, フランス人シェフの レストランや洋酒, 洋菓子の売店, ボーリング室も付設した。宿泊客のハイネは, ここで美味な料理をとれると称賛し, 他にシーボールト・ワーグマン, クラーク等の著名文化人も多数, 宿泊し 滞在した。これらの人たちを通じて最新の外国文化の受入れ窓口として 我が国の近代化に果たした役割はまことに大きい。 撰文・草間 俊郎」。横の道が「シルク通りもとの居留地内で、開港以来生糸貿易の内外商社が軒を並べていたことから、この通りを特にシルク通りと呼称されたものである。発生時期は不明。」再び横断歩道を渡り「大さん橋通り」を戻ると左手奥にあったのが「近代横浜の土木遺構この屋外展示では、横浜市域で発掘されたさまざまな土木遺構を紹介しています。1923 (大正12 )年の関東大震災によって、横浜の都心部は大きな被害を受けますが、地震で倒壊した建物の基礎や明治時代に埋設されたライフラインなどが、現在でも地中から発見されています。これらの遺構は当時の建築・土木技術の水準を伝えるものであり、近代横浜のまちづくりの歴史を物語る貴重な歴史資料といえます。*この屋外展示スペースは、株式会社三陽物産からの寄付金をもとに整備したものです。整備にあたっては、株式会社栄光より神奈川台場の石をご提供いただきました。」「当館周辺に残る歴史的建造物」MAP。「神奈川台場の石」。「神奈川台場の石神奈川台場は、勝海舟の設計により湾岸警備のための砲台として築造されましたが、1860 (万延元)年の完成後も実戦に使用されることはなく、外交使節の来航時に祝砲などを放つ砲台として利用されてきました。展示している石は2011 (平成23 )年7月の発掘調査で出土したもので、神奈川台場の東海面側石垣に用いられていた間知石(四角錐形の石)です。発見された石垣は現地で保存され、「ヒストリアレジデンス海舟」(神奈川区星野町)内の資料室で見ることができます。」「卵形下水管」。「卵形下水管2001 (平成13)年10月に、県庁前の日本大通りで発見された煉瓦造の卵形下水管です。現在の山下町一帯はかっての外国人居留地にあたり、煉瓦造の下水道網が広がっていました。下水管は明治10年代半ばに設置きれたもので、大中小3種類あるうちの「中下水」に相当し、煉瓦造のマンホール(4F常設展示室に原寸大再現模型を展示)に接続していました。一定の流速を確保するため管の断面は卵形をしており、枕木を敷きならべた上にコンクリートを巻いて敷設されていました。」「横浜市瓦斯局のガスタンク基礎」。「横浜市瓦斯局のガスタンク基礎2013年(平成25)年7月に、市立本町小学校の発掘調査で発見された煉瓦積み基礎の一部です。1872 (明治5)年に操業を開始した横浜瓦斯会社では、製造したガスを蓄えておくためのガタンク(正式名称:ガスホルダー)が4基建設されますが、この基礎は、横浜市瓦斯局時代の1906 (明治39)年に完成した4号タンクのものと思われます。円筒形のタンクを支えるため、基礎も二重の円形となっていました。」。「国内最古のガス管」。「国内最古のガス管この鋳鉄管は、2002(平成14)年1月に、市立本町小学校(中区花咲町)の校庭から出土したものです。同校の敷地は、日本で最初にガス事業を興した横浜瓦斯会社(のちに横浜瓦斯局と改称)の施設が建っていたところで、ここで製造されたガスは、地中に埋められた鋳鉄管を通って街なかのガス灯に送られていました。管の接合部分には、瓦斯会社の創業時に資材を購入したイギリスのレイドロー社(R.Laidlaw&Son)のイニシャルがあり、この管が国内最古のガス管であることを裏づけるものです。」。「近代横浜の土木遺構」。「シルク通り」を進む。前方左にあったのが「KN日本大通ビル(旧横浜三井物産ビル)(歴史的建造物)」。1911年(明治44年)竣工、1927年(昭和2年)に増築。設計は日本人初の独立設計事務所を山下町に構えたといわれる遠藤於菟による。同ビルは遠藤のモダニズム時代の総決算といえる建物であり、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルである。関東大震災で横浜の建物群が壊滅的な打撃を受けた際にも、当建物は倒壊を免れ、鉄筋コンクリート造の地震に対する有効性を印象付けたのだ と。この後「KN日本大通ビル(旧横浜三井物産ビル)(歴史的建造物)」の正面に廻り込んで。「KN日本大通りビル概要所在:横浜市中区日本大通14建築年:(竣工)明治44年(1911年)8月設計:遠藤於菟、酒井裕之助旧ビル名称:横浜三井物産ビル構造:鉄筋コンクリート造地上4階地下1階屋根付規模:1階733.02m2 2~4階756.60m2(1号倉庫連絡部含む) 屋階141.90m2 地下753.80m2 合計3,898.52m2建物の特徴戦前を代表するオフィスビル。日本で最初の全鉄筋コンクリト造の建第物です。(屋根)緩勾配寄練亜鉛引き鉄板瓦葺き、屋階塔屋部分は陸屋根 アスファルト防水コンクリート押さえ(外壁)化粧煉瓦タイル張り、腰部花崗岩張り、庇・窓周り人造石洗い出し仕上げ(基礎)フーチング基礎そして右側にあったのが「横浜情報文化センター」。「旧・横浜商工奨励館」を再利用した4階建ての旧館部分と新たに造られた12階建ての新館部分から構成される。旧館部分は、横浜らしい建築を創り出している近代建築として1999年(平成11年)2月に「横浜市認定歴史的建造物」に認定されている。「新聞少年の像」。「新聞少年の像本会は創立五十周年にあたり、新聞と新聞の個別配達網がおおくの少年を含む先人の努力によって支えられた歴史を深くかえりみ、今日の新聞販売人が明日の社会と活字文化のさらなる発展に向け、心あらたに歩む象徴としてこの像を新聞博物館の地に寄贈する。 平成十六年六月五日 社団法人 日本新聞販売協会」「横浜情報文化センター」入口。道路の向かいにあったのが「横浜地方裁判所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.24
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定義(メルセンヌ数・メルセンヌ素数)正の整数 に対し,の形の数をメルセンヌ数 (Mersenne number) という。メルセンヌ数が素数であるとき,【メルセンヌ素数】 (Mersenne prime) という。メルセンヌ数・メルセンヌ素数の具体例を挙げてみると、は偶数になる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.23
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ーーがこの日・(その39)の散策ルート。「神奈川県庁」を後にして、「海岸通り」に向かって進む。歩道タイルには「横浜三塔」の姿が。そして「横浜開港資料館」交差点を右折する。右側にあったのが「旧英国総領事館この建物は昭和6年(1931)に英国総事館として建てられ、昭和56年(1981)から横浜開港資料館として使われている。英国工務局によって設計され、18世紀のジョージアン・スタイルの都市邸宅を思わせるデザインである。その特色は玄関周りによく現れている。敷地はかって日米和親条約が結ばれた由緒ある土地である。所在地 :中区日本大通3設計 :英国工務局構造・規模:RC造3階、地下1階建築年代 :昭和6年(1931)指定・認定:横浜市指定有形文化財 平成12年(2000) 11月施工 :昭和土木建築」。「横浜開港資料館」案内。神奈川県横浜市中区日本大通。「横濱海岸通之圖」。制作年代 明治3年(1870)サイズ (大判3枚続)作者名/落款 歌川広重(三代)活発な交易の作業が行われている横浜の港の情景を描く。この頃は桟橋が完備されておらず、船舶は沖に停泊しており、はしけによる荷役が行われていた様子が描かれている。荷揚場うしろの三つの塔を持つ建物は英国領事館で、日の丸が見える建物は外交と税関の事務を取り扱う運上所である。こちらにも「横浜開港資料館 YOKOHAMA ARCHIVES OF HISTORY」。東側の入口に廻ると奥にあったのが「旧館(旧英国領事館)」。「旧館」の裏から。東門の右側にあった「横浜市地域史跡 日米和親条約締結の地」碑。こちらにも「横浜開港資料館」案内。「ペリー提督・横浜上陸の図」が描かれていた。正面に「玉楠」が。横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「玉楠(たまくす)」と呼ばれています。「玉楠(たまくす)」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」(3)などに描かれた木がそれにあたると考えられています。1859(安政6)年、横浜は開港場となり、外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある「玉楠」は、浮世絵にも登場しています。しかし、関内地区に大きな被害をもたらした1866(慶応2)年の大火によって、「玉楠」は樹形が変わるほど焼失してしまいました。大火に先立ち、水神の森周辺は領事館用地に指定されていましたので、被害をうけた「玉楠」は、イギリス領事館の庭で新たな芽をふくことになりました。 そして、明治・大正期をつうじて横浜を代表する名木に成長します。資料には「開港の当時ペルリ提督初めて上陸せしハ此玉楠の下なり、今は英国領事館構内にあり、横浜市の記念名木として市の保存に係る、数百年を経たる大樹なり」と記録されています。1923(大正12)年9月1日、関東大震災で、「玉楠」はふたたび大きな被害をうけますが、その生命は絶えることはありませんでした。イギリス領事館が再建されるに先立ち、1930(昭和5)年6月、「玉楠」は領事館の敷地内に約10メートル、現在ある位置に移植されますが、震災の被害をうけてなお豊かな葉を繁らせていることがわかります。二度の大きな被害をくぐり抜けた「玉楠」は、1981(昭和56)年日米和親条約締結の地に開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、そして近代横浜の生き証人として、今日もうるおいのある光景を与えてくれています。「玉楠」の前には多くの案内板が置かれていた。再び「ペリー提齧横浜上陸」。「ペリー提督横浜上陸」案内。① 東インド艦隊の船 左からサラトカ号、ンプトン号、ウアンダリア号、ミシシッヒ号、⑨ マセドニアン号、ポーハタン号、サスケハナ号、レキンントン号。ペリーがこの時 乗っていたのは青い旗のついたポーハタン号てす。⑨ 短艇 隊員を乗せ行き来する小船。カッターやバッテラとも呼ばれます。⑩ 同上⑪ マシュー・ペリー 東インド艦隊を率いて鎖国をしていた日木へ来航、開国を要求し、 交渉しました。⑫ アメリカの海軍旗⑬ アメリカの国旗⑭ 犬 尾が短くされているのて、艦隊とともに来た犬という説があります。⑮ 幕府の船 御座船「天地丸」。当時の日本にはアメリカのような軍艦はありませんでした。⑯ 応接所 浦賀から急ぎ連んて移築した応接所。ここて交渉がおこなわれました。⑰ 三つの笠の家紋 浦賀奉行の印てす。⑱ 旗 白地に赤く染め抜かれた三階菱の家紋は警固にあたっていた小笠原藩を示します。⑲ 水神社 横浜市中区羽衣町の厳島神社に移転し現存しています。⑳ たまくすの木 大火ての焼失などを経て移植され、現在の横浜開港資料館の中庭に あります。「ペリーの来航と「たまくす」の木」。日本人絵師が描いたペリー艦隊の乗組員乗組員は、横浜村にたびたび上陸し.日本人と交流しました.(横浜開港資料館載「黒船来航画巻」)「ここは、1854年にアメリカ合衆国のペリー提督が幕府とのあいだで日米和親条約を結んだ場所で。左の絵(「ペリー提督横浜上陸」)は一緒に来た画家のハイネが描いたもので、絵の右手の木は、中庭に枝を広ける「たまくす」の木の先祖であると言われています。この木は1866年の慶応の大火と1923年の関東大震災で火災にあいましたが、また芽を出し大木に成長しました。」「横浜地域史跡 玉楠(日米和親条約の地に残るタブノキ)」。「吉田新田はどこにあったの?新田が出来る前の海(左)と完成後の吉田新田(右)右の絵図の下の方、石垣のあたリが現在のJR関内駅、上の方は南区南太田付近にあたリます。(横浜開港資料館蔵「吉田新田開墾図」)1667年、江戸の商人吉田勘兵衛によって、横浜市中区から南区にかけての大きな内海が埋め立てられ、約115万5000平方メートル(横浜スタジアム44個分)もの新しい田畑が完成しました。ここは吉田新田と名付けられ、多くの農民が住む村になりました。横浜開港後は、新田の北側(神奈川県庁方面)が開港場で働く人たちの住む町に変わってゆき、横浜は日本最大の国際都市に成長しました。」「関東大震災と横浜大空襲を乗り越えて復興記念横濱大博覧會鳥瞰圖」。「中華街に行ってみよう」。祭りの日の中華街大通り(1910年頃)現在、中区山下町にある中華街には多くの中国系の人々が暮らし、関帝廟の祭りや春節(旧正月)などの伝統文化を伝えています。(横浜開港資料館蔵)横浜が開港すると、香港や上海の外国商館で働いていた中国人もやって来ました。中国人は日本人と漢字を使って意志を通わすことができたので、西洋人と日本人との間で売り買いの仲立ちをしました。やがて、中国人は開港場の一角に集まり、貿易・会社・洋裁店・料理店などを開き、現在にもつながる関帝廟や学校を建てて横浜で暮らしてきました。」。「横浜開港資料館」碑。横浜の歴史に関する資料が一般公開されている「横浜開港資料館」に入る。入館料一般200円、館内はいずれも撮影不可。よって下記の写真は頂いたパンフレットから転載。展示室1は「横浜開港への道」「地球儀」19世紀中頃の世界情勢を示す地球儀大西洋とインド洋には、ペリー艦隊、太平洋には咸臨丸の航跡が刻まれている。来航した黒船。・[模型]ポーハタン号(左) 嘉永6年(1853),ペリー艦隊が最初に来航したときの旗艦。蒸気外輪船で船長、 257フィート(約78メートル)。・[模型]サスケハナ号(右) ペリー艦隊再来時の旗艦。蒸気外輪船で船長、252フィート(約77メートル)。 この艦上で日米修好通商を締結。批准書交換のための遣米使節を乗せて太平洋を横断。[絵図]ペリー提督・将兵の横浜上陸図。安政5年(1854)2月、ペリーは約500人の武装水兵を率いて横浜に上陸し、画面左手の横浜応接所で第1回日米会談が行われた。右端は水神社の祠。背後の大木が当館中庭に繁るたまくすの木の前身と伝えられる。「大正調査番地入横濱市全圖」。「開港直後の横浜港のにぎわいを描いた五雲亭貞秀の錦絵(文久元(1861)年)」慶応元年(1865)年フランス人技師・クリペが作成した横浜実測図。赤色は日本人街、黄色は外国人居留地、青色はそのうちフランス人居住地を示す。展示室2キリスト教の伝道、医療、教育などで多大な功績を残したヘボン夫妻。ヘボン式ローマ字や和英辞典で有名。伊勢佐木町本町通り。「横浜開港資料館」を出て「旧館」入口を斜めから。「旧館」の前にあった「館内ご案内」。「旧館」前から「玉楠」を見る。奥にあった「獅子頭共用栓とブラフ溝」。「獅子頭共用栓とブラフ溝この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18~20年)創設時市内各所に配置されていたものである。当時家屋内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側講に使用されていた石材を再利用した。」「獅子頭共用栓」に近づいて。「旧館」入口を正面から。「旧館」の建物は、1階と2階の天井は高く、2階と3階の間にエンタブラチュア(張り出しや帯飾り)が入っていて、3階は天井が低い。これは、1階と2階を主要階として、3階は屋根裏階であることを示したもの。総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居にあてる計画でこうした設計がされていたのだと。この建物で一番ドラマティックなのは、正面玄関。左右に立つ大きな柱はキャピタル(柱上部)にアカンサス(葉薊/ハアザミ)の葉と蔓が彫刻されているコリント式で、その奥に玄関ドア、2階窓、そして3階の半円窓までを吹き抜けとした印象的なデザイン。「旧館」内部に入る。「旧浜から広がった西洋文化日本大通りと横浜税関近くを通る日本大通りには西洋風の建物が建ち並ぶようになり、1885年に建てられた横浜税関も、赤レンガづくりでした。(損浜開港資料館蔵)横浜にやって来た西洋人(イギリス人やアメリカ人など)は、西洋の知識や文化を日本人に伝えました。アイスクリームやビールなどの食品、せっけんやマッチなどの日用品、汽車や汽船などの乗り物、テニスや野球などのスポーツ、いろいろなものが横浜を通して全国に広まっていきました。この中庭に展示してあるガス灯や近代的な水道も西洋から伝わったものです。」「記念ホール」を見る。昭和6年(1931)に建てられたもので、1階中央の記念ホールは旧英国総領事館時代には待合室だったところです。現在は来館者の休憩室として使われています。「パネル展「横浜海岸教会 誕生から150年」~現在の会堂が建設されるまで~今から150年前の1872 (明治5)年3月10日、改革派の宣教師バラから受洗した11人の信徒によって日本最初のプロテスタント教会である日本基督公会、現在の横浜海岸教会が創設されました。日本基督公会は、居留地167番地(現在の教会所在地)に建てられた小さな会堂を拠点に、その後のプロテスタント伝道の中心となる人物を名く輩出しました。1875 (明治8)年には、居留地建築家スメドレ一の設計による、大会堂か落成しましたか、これらの会堂は1923 (大正12)年9月1日に発生した関東大震災で倒壊してしまいます。震災後、教会の活動は木造の仮会堂で続けられよすが、1933(昭和8)年に、横浜出身の建築家雪野本吉の設計で、鉄筋コンクリート造の会堂が完成しました。会堂は1945(昭和20)年の横浜大空襲を乗り越え、1989 (平成元)年には、横浜市認定歴史的建造物となりました。本パネル展示では、関東大震災による被災から現在の会堂が再建される1933(昭和8)年までを、横浜海岸教会所蔵の写真資料、および雪野本吉によるスケッチや図面をもとにたどります。」「関東大震災の会堂(日本基督教会第36回大会)1922年(大正11)年10月 横浜海岸教会所蔵」(上)「関東大震災の被災状況 1922年(大正11)年10月 横浜開港資料館所蔵」(中)「教会焼跡の整理 1923年(大正12)年 横浜海岸教会所蔵」(下)「建設中の仮会堂 1924年(大正13)年9月25日」(上)「完成した木造会堂 1925年(大正14)年」(中)「笹倉牧師満25周年感謝礼拝 1931年(昭和6)年9月27日」(下)「Y.Wadaによる設計案 1931(昭和5)年”Y.Wada1931”のサインが記された彩色図。平面図・立面図・断面図・詳細図など、あわせて6点が残されている。塔屋の上部を切妻屋根とすること、開口部を大きな尖頭アーチとすることなどが、実施案となる。」「雪野元吉による設計 1931 (昭和6 )年頃 横浜海岸教会所蔵・横浜開港資料館保管当時宮内省に勤めていた建築家雪野元吉による設計案。クリスチャンであった横浜を住の雪野は、新会堂の設計を無償で引き受けた。塔屋の形状を尖塔とし、開口部を三葉形アーチの窓に分割することで、視覚的に引き締まった印象を与える。この雪野案をもとに、教会復興にあたっての募金活動がおこなわれた。」「新会堂2階平面図 1931(昭和6)年頃」(上)「新会堂立面図 1931(昭和6)年頃」(下)「新会堂の鍬入れ式 1932 (昭和7)年3月10日 横浜海岸教会所蔵新会堂の建設は、雪野元吉の設計、宮内初太郎の施工で進められた。前列中央のシャベルを持った人物の左に雪野が立ち、右に宮内が立つ。宮内建築事務所の法被を着た職人の姿もある。」「新会堂定礎式 1932 (昭和7)年5月22日 横浜海岸教会所蔵」「歴代の会堂 1935 (昭和10)年発行 横浜海岸教会蔵・横浜聞港資料館保管1935(昭和10)年に開催された復興記念横浜大博覧会にあわせて発行された記念絵葉書。左から順に石の食堂、震災前の会堂、現在の会堂。」慶応元年(1865)の横浜の街並み地図。下側にも半立体の「横浜絵図面」。このころは桜木町駅(初代横浜駅)周辺はまだ海上(入り江)であり鉄道敷設のための築堤はなされていない。「関東大震災の犠牲者銘板」。「関東大震災の犠牲者銘板この銘板は、大正12年( 1923 ) 9月一日の関東大震災において、横浜のイギリス総領事館建物(地震で倒壊)で死亡したイギリス人犠牲者4名を記念して作られたものである(作成年代不明)。」「旧館(旧英国領事館)」を東側斜めから見る。「開港広場公園」の南側には人工の滝があったが、水の流れはなく。「開港広場公園」の中央には噴水が。神奈川県横浜市中区日本大通。噴水。「日米和親条約締結の地」(1854年)の記念碑。「旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホール」。煉瓦造りのマンホールと下水道の遺構がガラス越しに見学できる とのことであったが。「明治10年代に製造されたレンガ造りマンホールと下水道明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改造工事が実施され、卵形レンガ管と陶管の下水道が整備されました。その下水幹線 7本とマンホール37カ所はレンガ造りで、材料のレンガは、東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して製造されたものです。設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田善太郎で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでしょう。このマンホールは明治15年頃製造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、当時のままの状態で保存されています。平成10年9月に下水道施設ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。 横浜市下水道局 平成10年9月」「明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改造工事が実施され、卵形レンガ管と陶管の下水道が整備されました。その下水幹線 7本とマンホール37カ所はレンガ造りで、材料のレンガは、東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して製造されたものです。設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田善太郎で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでしょう。このマンホールは明治15年頃製造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、当時のままの状態で保存されています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.23
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【スーパー素数】(スーパーそすう、英:super prime)または【超素数】は、素数の数列における素数番目の素数のことである。例えば11は5番目の素数であり、5は素数であることから、11は【スーパー素数】となる。最も小さい【スーパー素数】は、最小の素数は2であることから、2番目の素数3が当てはまる。また、1は素数でないことから、1番目の素数2は【スーパー素数】ではない。【スーパー素数】は無限に存在する。【素数】を順番に並べると2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83,89, 97これから2番めの素数:33番めの素数:57番目の素数:1711番目の素数:3113番めの素数:4117番目の素数:5919番目の素数:67・・・・・・:・・・よって上記のごとく3から順に【スーパー素数】を並べると3, 5, 11, 17, 31, 41, 59, 67, 83, 109, 127, 157, 179, 191, 211, 241, 277, 283, 331,353, 367, 401, 431, 461, 509, … 数列の素数番目の要素を繰り返し取り出すことで、再帰的に数列を生み出すことができる。【スーパー素数】番目の素数は3番めの素数:55番目の素数:1111番目の素数:3117番目の素数:59よって【スーパー素数番目の素数】は5, 11, 31, 59, 127, 179, 277, 331, 431, 599, 709, 919, 1063, 1153, 1297, 1523, 1787, 1847, 2221, 2381, … ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.22
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「神奈川県庁本庁舎」の「歴史展示室」の見学を続ける。展示室の中央の床に「横浜関内地区の歴史建造物MAP」そして中央に現在の庁舎の模型、周囲の壁には初代からの庁舎の写真が飾られていた。第二次世界大戦後、ほとんど建物が残っていない横浜にぽつんと残った現庁舎の写真。「神奈川県庁」の「本庁舎」と「新庁舎」の模型を追う。「神奈川県庁本庁舎・新庁舎模型制作年不詳神奈川県庁所蔵県庁本庁舎に隣接する地上12階(一部13階)建ての新庁舎は、坂倉準三建築研究所の設計で昭和41 ( 1966 )年に完成しました。この模型には渡リ廊下で接続した本庁舎と新庁舎の両建物が配置されています。」「本庁舎」を正面から。近づいて。「本庁舎」と「新庁舎」を南側から。「本庁舎」と「新庁舎」を繋ぐ「連絡橋」も確認できた。北側から。「神奈川県庁舎新築工事写真 定礎式」。「神奈川県庁舎新築工事写真 定礎式昭和3 (1928 )年5月4日県立公文書館所蔵定礎式とはコンクリート工事終了後に玄関付近などに定礎箱と建物建設の経緯を刻んだ定礎銘板ほかの収納品を納める儀式のことです。県庁舎では正面玄関左側の壁面内部に据えつけられています。」。「神奈川県庁舎建築工事概要と定礎銘板」の拓本。「神奈川県庁舎 定礎銘板の拓本」昭和3 (1928)年県立公文館所蔵」。「神奈川県庁舎竣工写真 貴賓室」。「神奈川県庁舎竣工写真 貴賓室昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵」。「神奈川県庁舎竣工写真 知事室」。「神奈川県庁舎竣工写真 知事室昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵」「神奈川県庁本庁舎 知事室現況」「神奈川県庁本庁舎知事室現況平成24 ( 2012 )年撮影創建当時から知事室として使われています。壁紙や照明は取り換えられていますが、天井の装飾は当時のままです。梁の下端には社寺建築に見られる木鼻のような持送りがつき、ここにも和洋折衷の趣きが感じられます。」。「県庁本庁の内装に見られる「宝相華県庁本庁舎内部では、各種の装飾として極楽にく花とされる「宝相華」の文様が使われています。ここではその一部をご紹介します。」「横浜関内地区の歴史的建造物」。「歴代神奈川県庁舎の歴史と変遷」。「歴代神奈川県庁舎の歴史と変遷行政組織としての神奈川県は、明治維新直後の慶応4 ( 1868 )年3月に、幕府の神奈川奉行所を引き継いで新政府が設置した横浜裁判所がその起源です。同裁判所は慶応2年の大火の翌慶応3年に建てられた同奉行所の機関である横浜役所の建物に設置されました。現在の横浜地方検察庁と横浜地方裁判所の位置にあったこの初代県庁舎は、明治15 ( 1882 )年に火災で焼失するまで県庁舎として使われました。本庁舎所在地に横浜税関の庁舎として建てられたもので、火災で庁舎を失った本県がその建物を譲り受けて、明治16年から県庁舎として使用しました。二代目の県庁舎は、明治6 (1873)年に現在の県庁本庁舎所在地に横浜税関の庁舎として建てられたもので、火災で庁舎を失った本県がその建物を譲り受けて、明治16年から県庁として使用しました。つづく三代目の県庁舎は、手狭になった二代目庁舎を取り壊した跡地に、大正2 (1913)年に完成しました。ネオ・バロック様式の壮麗な庁舎でしたが、わずか10年後の大正12年9月1日の関東大震災で内部を全焼し取り壊されました。現在の県庁本庁舎以前の三代の庁舎の建築とその歴史をたどってみます。」。「初代神奈川県庁舎外観」初代神奈川県庁舎外観(『ファー・イーストー1巻18号掲載)慶応3 (1867)年竣工設計者不詳木骨石造2階積浜開港資料館所蔵慶応2年の大火の翌慶応3 ( 1867 )年に、幕府の神奈川奉行所の機関である横浜役所として建てられた建物です。外壁は石積みで2階にべランダを持つ幕府が手がけた初めての洋風建築ですが、その中央部にはなまこ壁の塔があり、正面に入母屋、東面に唐破風造りの玄関が設けられた和洋折衷の「擬洋風建築」でした。明治維新後の慶応4年3月に本県の前身である横浜裁判所となり、明治15 (1882)年12月に火災で焼失するまで県庁舎として使用されました。」。「横浜繁栄本町通 時計台神奈川県全図」。「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図明治7 ( 1874 )年県立歴史博物館所蔵なまこ壁の塔を持つ初代県庁舎と時計塔がシンボルの横浜町会所を描いた浮世絵です。県庁は実際は寄楝であった屋根が入母屋で描かれていますが、べランダを内部空間に取り込む改修が行われたことがわかります。」「横浜名所一覧」。「横浜名所一覧明治9 (1876)年県立歴史博物館所蔵横浜のメインストリートである本町通りと日本大通りの交差点から居留地の日本人街を眺める構図で、初代県庁舎と明治16 (1883)年からニ代目の県庁舎となる横浜税関が同時に描かれた珍しい浮世絵です。」。「重要文化財 旧新潟税関庁舎 外観現況」。「重要文化財 旧新潟税関庁舎 外観現況平成20 (2008)年撮影安政五カ国条約に基づき開港した五港のうち、唯一現存する開港当時の運上所(税関)です。新潟の大工たちが東京や横浜の洋風建築を参考に明治2 (1869)年に施工しておリ、なまこ壁の塔は初代県庁舎との類似性が感じられます。」。「二代目 県庁舎」。「ニ代目神奈川県庁舎外観明治6 (1873)年竣工R・P.ブリジェンス設計木骨石造3階横浜開港資料館所蔵幕末維新期に東京・横浜で数多くの洋風建築を手がけた居留地建築家のアメリカ人プリジェンスが、初代の横浜税関庁舎として現在の県庁本庁舎の敷地に設計した建物です。構造は木骨石造で左右両翼を張り出した構成とし、3階中央部にはバルコニーが設けられていました。税関が横浜港寄リに移転することにともない、庁舎を火災で失った本県がこの税関庁舎を約8万円で譲リ受けて、明治16(1883)年から県庁舎として使用しました。」。「ニ代目神奈川県庁舎 外観」。「ニ代目神奈川県庁舎 外観明治時代横浜開港資料館所蔵」。「RAILWAY STATION AT YOKOHAMA」。「RAILWAY STATION AT YOKOHAMA明治時代県立歴史博物館所蔵モノクロ写真に職人が彩色した横浜駅の写真です( 3-6も同様の技法です)。ブリジェンスはのちにニ代目県庁舎となった初代横浜税関のほかにも、横浜駅・横浜町会所といった当時の横浜の主要な建物を設計しています。」「三代目県庁舎」「三代目神奈川県庁舎外観」。「三代目神奈川県庁舎 外観(『神奈川県写真帖』掲載)大正2 ( 1913 )年6月竣工片山東熊・木子幸三郎設計煉瓦造3階地下1階県立歴史博物館所蔵辰野金吾・妻木頼黄と並ぶ明治期を代表する日本人建築家・片山東熊の作品です。フランス風の壮麗なバロック様式で、外観は煉瓦と石材からなり、腰壁には岡山県北木島産花崗岩、その他の壁石には伊豆の月出石が使われ、正面には和風の車寄せと2 ~ 3階部分にイオニア式の円柱が配されています。屋根は大ぶりに造られ、中央部の大屋根の上には尖塔も乗っています。関東大震災では倒壊は免れたものの、内部は全焼し取り壊されました。」。「三代目神奈川県庁舎 正庁」。「三代目神奈川県庁舎 正庁 (『神奈川県写真帖』掲載)大正2 ( 1913 )年県立歴史博物館所蔵老朽化し手狭になったニ代目県庁舎を建て替えた三代目県庁舎は、全国の府県庁舎の歴史上もっとも壮麗な建築とも評されておリ、その一端は外観や正庁・貴賓室など主要室の写真と建築概要からうかがうことができます。」「三代目神奈川県庁舎 議場」。「三代目神奈川県庁舎議場 (『神奈川県写真帖』掲載)大正2 (1913)年県立歴史博物館所蔵」。「三代目神奈川県庁舎 貴賓室」。「三代目神奈川県庁舎 貴賓室(『神奈川県写真帖』掲載)大正2 (1913)年県立歴史博物館所蔵」。「三代目神奈川県庁舎 彩色立面図」。「三代目神奈川県庁舎 彩色立面図平成21 ( 2009 )年制作個人所蔵建築家の岡義男氏が図面や写真等の資料をもとに創建当時のプランを忠実に再現して描いた精細な立面図です。本展示室床面の県庁本庁舎周辺の歴史的建造物マップで使われている立面図も岡氏が制作したものです。」「国宝 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮) 外観現況」。「国宝 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮) 外観現況平成21 (2009)年撮影迎賓館提供三代目県庁舎を設計した片山東熊は、宮内省内匠寮で東宮御所や帝国奈良博物館などの良室建築を担った宮廷建築家でした。三代目県庁舎の壮麗な造りは、片山のこうしたキャリアが遺憾なく発揮されたものと言えます。」。「神奈川県立歴史博物館紹介」。「神奈川県立歴史博物館紹介県立歴史博物館旧館は、明治37 (1904 )年に、明治期を代表する建築家のひとりである妻木頼黄の設計により横浜正金銀行本店として建てられたもので、国の重要文化財・史跡に指定されている歴史的建造物です。関東大震災では地階を除く内装と屋上のドームを焼失する大きな被害を受けました。昭和42 (1967)年にドームを復元して県立博物館となり、平成7 (1995)年には県立歴史博物館にリニューアルされました。常設展示ではかながわの歴史と文化を旧石器時代から現代まで通史的にご紹介しています。」「神奈川県立歴史博物館紹介」。「重要文化財の道府県庁舎と知事が執務する他府県のレトロ庁舎神奈川県斤本庁舎は、現在も知事が執務する都道県庁含のなかで、大坂府庁舎本館に次いで二番目に古い建物てす。ここでは国指定重要文化財の道府県庁舎(すでに庁舎として使用されていない建物を含む)と、現在も知事が執務する神奈川県庁本庁舎以外の戦前創建になる府県のレトロ庁含をご紹介します。」「関東大震災で被災した三代目県庁舎」「関東大震災で被災した三代目県庁舎大正12 (1923)年個人所蔵大正12 (1923)年9月1日に発生した関東大震災で、県庁舎は地震に対しては大きな被害がなかったものの、その後の大火災に巻き込まれ内部を全焼しました。屋根も焼け落ちた惨状が被害の大きさを物語っています。」。「竣工時の主要室と現況」。「歴史展示室」を見学中は独り占めし、ゆっくりと大いに楽しみ、カメラで追うことが出来たのであった。そして室内の照明をOFFにし、1階に戻ったのであった。1階の正面階段を。玄関ホールの中央階段両脇に、「装飾灯」が。「装飾灯」に近づいて。玄関ホールの中央階段両脇に、唐草文のひとつで極楽浄土に咲くといわれる幻の花「宝相華(ほうそうげ)」をモチーフにした装飾。丸い陶製の装飾灯下の案内板によれば、「フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルのものと類似している装飾灯ですが、模様には宝相華があしらわれいます。宝相華とは、極楽に咲く卯の花で、宇治平等院のものによく似ているといわれています。」と。石段の横には「宝相華」をあしらった階段のグリル?が。廊下壁面には大きな陶製装飾タイルがあり、中央上下にも「宝相華」があしらわれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.22
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【安全素数】(あんぜんそすう、safe prime)は、p と 2p + 1 がともに素数である場合における 2p + 1 である。このとき、p のほうは「ソフィー・ジェルマン素数」👈リンク と呼ばれる。例えば11と 2 × 11 + 1 = 23はともに素数であるので 11 はソフィー・ジェルマン素数、23は【安全素数】である。【安全素数】が無数に存在するかどうかは分かっていない。最も小さいものは5である。【安全素数】を小さい順に列記すると5, 7, 11, 23, 47, 59, 83, 107, 167, 179, 227, 263, 347, 359, 383, 467, 479, …簡単に確かめられることであるが、5 以外の【安全素数】は4で割ると3余る。また7以外の【安全素数】は3で割ると2余る。よって、7より大きな【安全素数】は12で割ると11余る。5と11を除く安全素数の一の位は 3, 7, 9 のいずれかである。ソフィー・ジェルマン素数かつ安全素数である素数は5, 11, 23, 83, 179, 359, 719, 1019, 1439, 2039, 2063, 2459, 2819, 2903, 2963,…【安全素数】という名前は暗号理論に由来しているが、詳しくは難しすぎて説明出来ません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.21
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ーーがこの日・(その37)の散策ルート。「本町通り」を進み左側から「神奈川県庁」の建物の左側を見る。神奈川県横浜市中区日本大通1。銘板「神奈川県廳」。英文銘板「KANAGAWA PREFECTURAL」。「港郵便局前」交差点を左折。角にあったのが「史跡 神奈川運上所跡」。「閲港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。」。「神奈川県庁」の正門に向かって進む。屋上展望台の姿が見えた。「神奈川県庁 本庁舎外観の全体構成はクラシックであるが、細部は幾何学的な独自の意匠が用いられ、後の帝冠様式の先駆けでもある。スクラッチタイル貼りの外壁と中央の高塔が特徴的で、その塔は「キング」の愛称で親しまれている。所在地:中区日本大通1構造・規模: SRC造5階、地下1階、塔屋付建築年代:昭和3年(1928)指定・認定:国登録有形文化財 平成8年(1996) 12月設計:小尾嘉郎施工:大林組」。正面から。守衛さんに訪ねると、6F屋上から展望できるとのことなので向かうことに。館内にあった母子像。「作品名:神奈川非核兵器県宣言記念碑作者:井上信道 1988」。エレベーターにて6Fへ。左手にあったのが「神奈川県町本庁舎歴史展示室」。エレベーターの前にあった「鉄骨階段」。「鉄骨階段この塔屋6階から9階の鉄骨階段は、昭和3年竣工当時のままの姿です。(ただし、木製手摺りについては後に改修されました。)建物の骨組みである鉄骨鉄筋コンクリート構造の鉄骨部分がこうしたもので出来ています。」。先ずは6F屋上へ。曲線状の「象の鼻防波堤」の先に「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」の姿が。停泊する豪華客船「飛鳥Ⅱ」。左側には「横浜赤レンガ倉庫」が。その手前に「横浜税関」。1934年(昭和9年)に完成した本関庁舎は緑青色のドームがシンボルで、「クイーンの塔」として親しまれているのだ。「横浜ベイブリッジ」。屋上展望塔を見る。塔の一番上のとこには、伊勢山皇大神宮の分霊が祀られている と。港の反対方向にあった「ライト様式のテラコッタ」。「ライト様式のテラコッタ昭和3年に建築されたこの建物(県庁本庁舎)の軒先を飾った荒い縦溝でデザインされた外装用の焼き物で、昭和38年に取り外し、ここに復元したものです,現在も、塔屋の一部に使われており、「キングの塔」の厳めしい印象を造り上げています。ライト様式 近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、スクラッチ・タイルと 大谷石を用いた幾何学的な装飾模様が特徴です。 昭和初期に大流行し、代表的な建物に旧首相官邸があります。テラコッタ イタリア語で、テラは土、コッタは焼いたという意味で、片手では持てない大きさの外装用の 焼き物で、造形され、彩色されでることもあります。」。横浜三塔のひとつ、キング(神奈川県庁本庁舎)からクイーン(横浜税関)とジャック(横浜市開港記念会館)が見渡せる、贅沢なスポット。「横浜市開港記念会館」を見る。時計塔の高さは約36mで、「ジャックの塔」の愛称で親しまれているのだ。そして「横浜マリンタワー」の姿も。「日の丸」、「神」の字を図案化した県章の「神奈川県旗」、カモメを描いた青字の「シンボルカラー旗」がはためいていた。そして最後に「神奈川県町本庁舎歴史展示室」を訪ねた。「「キング」と呼ばれる県庁本庁舎建築の魅力や歴代県庁舎の歴史、横浜三塔をはじめとする周辺の歴史的建造物などを写真パネルでご紹介しています。」。「重要文化財 神奈川県庁舎 保存修理工事(災害復旧)」案内書。「重要文化財 神奈川県庁 舎保存修理工事(災害復旧)■建物概要令和元年12月27日指定・鉄骨鉄筋コンクリート造、5階建て、地下1階、塔屋付神奈川県庁舎は、小尾嘉郎の案を基に佐野利器を顧問とする神奈川県内務部県庁舎建築事務所に所属する建築技師らが実施設計を行い、施工は大林組が担当、昭和3年5月4日に定礎式を実施し、同年10月31日に竣工した。その後昭和41年に新庁舎と接続する跨道橋が増築され、平成29年から31年にかけて耐震補強工事等が行われ、現在に至る。塔屋は6階から9階まで4層に区画し、9階から上を細身にして、逓減の見切に4本の出梁を付して装飾とする。外壁はテラコッタで縦線を強調した付柱を用いて垂直性を表現する。塔頂部には階段状の宝形屋根を載せ、その上の「相輪」部分を含め和風の意匠を施し、地上からの高さは、48.6メートルに達する。鉄骨鉄筋コンクリート造を採用し、シンボルとして塔を中央に配する先進的な手法は、後世の庁舎建築にも影響を与えた。今回の保存修理工事対象となるのは、塔屋の「相輪部」及び「小屋裏」部分である。■破損状況概要令和元年9月9日の台風15号、同10月12日の台風19号の影響により、相輪の銅板が剥落し飛散しました。また、塔屋小屋裏に漏水があり、内壁を濡らし、一部の内壁が剥落して木床を汚損した。相輪相輪の銅板が剥落したことで下地の鉄骨が錆びている。また、経年により銅板の接合部の半田が劣化しており、剥落していない銅板も飛散の可能性があることが分かった。露盤台の西側にある銅板包みの開き戸には、銅板の捲れ、アングル枠の腐食、木板の雨染みなどが見られ補修が必要であることが分かった。明かり窓小屋裏の明かり窓のガラスプロック廻りからの漏水が見られ、室内の壁や床を汚損していた。塔屋小屋裏内壁漏水による雨染みの汚損やクラック、下地鉄部の錆による浮きが発生していた。■修理内容工事種別 部分修理(災害復旧)事業期間 令和3年9月1日から令和4年3月31日 6ヶ月塔屋及び相輸の外周部に仮設足場を建設し、破損した相輪銅板の補修と取替を行う。また建具は下枠の取替、木板の矧木補修、銅板包み直しを行う。内壁はクラック補修と上塗り直し、床板は破損箇所のみ取替や矧木補修を行う。」。災害復旧の写真。「横浜関内地区の歴史建造物MAP」。「歴史建造物名称」。MAPをズームして。⑩が現在地・「神奈川県庁本庁舎」。「神奈川県庁本庁舎歴史展示室について幕末の開港と同時に外国文化摂取の窓口となった横浜や、避暑地・観光地として発展した湘南・箱根など、本県には明治・大正・昭和戦前期に建てられた歴史的建造物が現在も数多く残されています。昭和3 (1928)年に建てられた神奈川県庁本庁舎もこうした歴史的建造物のひとつです。神奈川県庁本庁舎歴史展示室は、横浜三塔のひとつ「キングの塔」として親しまれている県庁本庁舎の歴史と魅力をご紹介するとともに、歴代の県庁舎や県庁本庁舎周辺に現存する歴史的建造物に関わるパネルなどを展示しております。本展示室で、神奈川県庁舎の歴史散歩と横浜関内地区の建築散歩をお楽しみいただき、歴史的建造物への関心を深めていただければ幸いです。」。「神奈川県庁本庁舎外観現況平成21 ( 2009 )年撮影」。「神奈川県庁本庁舎外観現況平成21 ( 2009 )年撮影外観は表面に溝を刻んだスクラッチタイルと、独自の幾何学的な装飾で構成されたアール・デコ様式の建物です。また「キングの塔」は、和風のデザインを強調した帝冠様式建築の先駆的事例とも言われています。」。「神奈川県庁舎竣工写真正面外観昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵」。「神奈川県庁舎竣工写真正面外観昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵建物の外観は竣工時と現在でほとんど変わっていませんが、現在銅板で覆われている軒先に、当時は粘土を焼いて作ったテラコッタの装飾があり、塔の最頂部にある相輪状の飾りも現在の形状と異なっています。」。「小尾嘉郎(おびかろう)の一等当選案透視図(『神奈川県庁舎競技設計図集』掲載)大正15 ( 1926 )年県立公文書館所蔵」。「小尾嘉郎の一等当選案透視図(『神奈川県庁舎競技設計図集』掲載)大正15 ( 1926 )年県立公文書館所蔵堀切善次郎知事はそれまでの建築計画を破棄して、大正15 ( 1926 )年に県庁舎の設計競技(コンペ)を実施し、当時東京市の技手であった小尾嘉郎の案が一等に当選しました。小尾が設計した塔は実施設計よリ高いものでした。」。「神奈川県庁設計観技の入選作とおもな応募作設計競技(コンペ)には約400件の応募があり一等当選の小尾嘉郎ほか二等・三等・等外佳作まで当選者に賞金が出されました。応募作の多くは塔を備えたものでしたが、塔のない応募作もあり、デザインもバリエーシュンに富んで、大変興味深いものがあります。」。「ー等当選の当選状と当選を報じた新聞記事のスクラップほか大正15 ( 1926 )年6月県立公文書館所蔵」。「神奈川県庁舎実施設計図正面立面図大正15 ( 1926 )年頃神奈川県庁所蔵」。「神奈川県庁舎実施設計図正面立面図大正15 ( 1926 )年頃神奈川県庁所蔵県庁舎の実施設計は、成富又三ら県庁舎建築事務所のスタッフが行いました。塔の最頂部に観音像を据えた小尾嘉郎案は、実施設計では五重塔に見られる相輪状の装飾に変更されましたが、この図面から形状をうかがうことはできません。」。「神奈川県庁舎新築工事写真鉄骨および鉄筋コンクリート工事昭和2 ( 1927 )年頃県立公文書館所蔵」。「神奈川県庁舎新築工事写真鉄骨および鉄筋コンクリート工事昭和2 ( 1927 )年頃県立公文書館所蔵塔も含めて鉄骨が組み上がり、鉄筋コンクリート工事も始まっています。県の建築顧問で耐震構造学の第一人者であった東京帝国大学教授佐野利器の意向で、建物は鉄骨鉄筋コンクリート構造で建設されました。」。「ー等当選の当選状と当選を報じた新聞記事のスクラップ他」。「ー等当選の当選状と当選を報じた新聞記事のスクラップほか大正15 ( 1926 )年6月県立公文書館所蔵堀切善次郎知事から小尾嘉郎あての当選状、県の内務部長からの当選賞金受け取リに関する通知と、小尾の一等当選を報じた新聞記事です。これらは小尾がスクラップブックに貼りつけて、大切に保管してきたものです。」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.21
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【平衡素数】とは 、素数 p が前の素数と次の素数の平均である素数のことを指す。代数的に言えば、小さい順に並べたときの n 番目の素数を Pnとすると、Pn が平衡素数であるとは次が成り立つことである。Pn=(Pn-1+Pn+1)/2例えば素数 53 は前の素数 47 と 次の素数59 の平均であるため、53は平衡素数である。一方、素数 13 は前の素数 11 と次の素数 17 の平均である 14 と異なるため、平衡素数ではない。平衡素数を小さい順にいくつか列挙すると、5, 53, 157, 173, 211, 257, 263, 373, 563, 593, 607, 653, 733, 947, 977, 1103 ・・・実は、1000以下だと15個しかありません。10000以下でも65個しかないのです。(※1000以下の素数は168個、10000以下の素数は1229個)。それぞれ、どれぐらいずつ増えているかというと実は、(3, 5, 7)以外はすべて6の倍数ずつ増加しているのです。「+6」のケースが圧倒的に多く、「+12」だと10000以下では6パターンのみです。真ん中の太字が平衡素数。平衡素数は、無限に存在すると予想されています。ただし、証明はされていません。未だに謎です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.20
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ーーがこの日・(その36)の散策ルート。「吉田橋関門跡」を後にして、JR根岸線のガードに向かって進む。右に行くと「JR関内駅」。先程訪ねた「吉田橋関門」にて「関内」の名前の由来を初めて知ったのであった。「馬車道」の入口に向かって進む。「関内ホール」、「県立歴史博物館」への案内板。歴史を感じさせる案内板なのであった。「馬車道」の入口の「馬車道」交差点を進む。関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの一つとしてこの道は1868年に開通した。 外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになった と。こちらは「現代の」案内板。現在地はココ!!そして100mほど進むと、外装工事中の「関内ホール」が右手に。前回は、館内に入らなかったが、この日は覗いて見た。敬老の日・9/19に落語家・林家たい平の独演会がここ「関内ホール」で行われると。壁に掛けられたディスプレイでは、馬車道周辺の観光場所が錦絵をメインに紹介されていた。画面をカメラで追う。「1867年(慶応3年) 60フイートの道幅を持つ三本の「馬車道」を整備。現在の馬車道通りは、その名を残す唯一のストリート・・・」「二代歌川国輝《横浜吉田橋通繁昌之図幷本町通弁天通外国館遠景》」「この界隈には、新しい文化が花開き国の内外から多くの人々が集まり、活気溢れる賑わいが生まれた。」「横濱吉田橋 馬車道之真景 1871 広重Ⅲ 横浜開化絵」明治4年11月( 1871 )出版。「1904 (明治37年)馬車道のランドマークである横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)が竣工。」明治末期の「横浜正金銀行」界隈。「明治時代後期には、商店の中にいくつもの銀行が混在する個性的な街並を築いた。」「馬車道界隈」。「関東大震災からの復興の後、1935年(昭和10年)関内ホールの原点となる横浜宝塚劇場が誕生。この地で映画や演劇、音楽など、エンターテイメントの新たな歴史が始まった。」「横浜宝塚劇場 昭和10年開業当時の横浜宝塚劇場」。「横浜大空襲でも被災せず、終戦後の米軍による接収も受けなかったため、いち早く、劇場は再開し、市民の娯楽の場が復活した。」「「横浜大空襲」後の街並み」「戦後の復興を経て、現在の横浜関内・馬車道には時代をくぐり抜けてきた歴史的建造物が大事に遺されている。」「横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)」。 「横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)ドーム」。「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」。「この地の歴史を偲ぶモニュメントも多数点在し街の記憶が、いたるところにとどめられている。」「ガス燈」。「太陽の母子」。「牛馬飲水」。そして「関内ホール」の中央階段。「「三美神 ( Les Trois Belles)」1953年 オッシプ・ザッキン(Ossip Zadkine)」そして外に出て進むと左手にあったのが「神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館)」。明治建築界の巨頭妻木頼黄(つまきよりなか)が設計し、外壁に石材を使用した煉瓦造りで地上3階地下1階建ての建物は、コリント式の重厚な石造彫刻の柱頭飾りをもつ大オーダー。正面に据えられた巨大なドームが特徴で、ネオ・バロック様式とされる威厳ある外観を構成している。その先、右手にあったのが「旧東京海上火災保険ビル」。神奈川県横浜市中区南仲通4丁目43。「旧東京海上火災保険ビルシンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。所在地:中区南仲通4-43構造・規模: R C造4階地下1階建築年代:昭和11年(1936)指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(2000) 11月設計:木下益治郎施工:大林組」「馬車道大津ビル」と。一見シンプルなファサードであるが、装飾タイルが巧みに張られ、ゴシック建築のような雰囲気を醸し出している。保存状態は良好で、建物の内部・外部とも建築当時の状態が維持されている。地上4階・地下1階建で、地上階の貸オフィスのほか、地下はギャラリーとして利用されている。2000年度に、横浜市認定歴史的建造物に認定された。設計者の木下益治郎(木下益次郎とも)は、東京・丸の内の東京海上ビルディング旧館や、神戸市の神港ビルなども手掛けた。そして「本町通り」の「本町四丁目」交差点を直進した。最初の路地を右手に折れ「北仲通り」を進む。最初の路地の角にあったのが「財布をくわえた犬」。神奈川県横浜市中区北仲通4丁目40 商工中金横浜ビル。製作者の藤原吉志子は、物語性のある具象彫刻の作風で造形作家として活躍し、都市景観の彫刻として全国各地のパブリックアートを製作してきた作家であると。「「財布をくわえた犬(どうしようかな) 藤原吉志子 作」。その先には「獅子頭共用栓」が。「獅子頭共用栓ライオン(獅子)の頭の形をした蛇ロ(共用栓)であることから、『獅子頭共用栓(ししがしらきようようせん)』と呼ばれています。獅子頭共用栓は、横浜水道が出来た明治20年(1887年)に、生みの親であるパーマーさんが、イギリスから約600基取寄せました。その一つは、現在も勝烈庵馬車道総本店に飾られています。こに立つ獅子共用栓は、横浜の歴史の保存・文化の継承に力を注がれた、株式会社勝烈厩の故本多正道氏が総本店の獅子頭共用栓から制作されたレプリカの一つであり、現代表取締役の本多初穂氏より株式会社キクシマに譲って頂いたものになります。」上部に近づいて。ライオン(獅子)の頭の形をした蛇ロ。「本町通り」に出て「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」を振り返る。屋上のこの鉄骨構造物の目的は?再び「北仲通り」に戻り東に進むと正面に「神奈川県庁」が姿を現した。「神奈川県議会」との連絡橋には「ねんりんピックかながわ2022」の横断幕が。全国健康福祉祭(愛称:ねんりんピック)は、スポーツや文化種目の交流大会をはじめ、健康や福祉に関する多彩なイベントを通じ、主に60歳以上の高齢者を中心とする国民の健康保持・増進、社会参加、生きがいの高揚等を図り、ふれあいと活力ある長寿社会の形成に寄与するため、昭和63年(1988)年から毎年開催されていると。令和4年(2022)年の第34回全国健康福祉祭は、神奈川県、横浜市、川崎市、相模原市等の主催で、神奈川県内で初めて開催するのだ と。路地の南側にあったのが「開通合名会社の煉瓦遺構」。「開通合名会社の煉瓦遺構この煉瓦遺構は、明治時代に建てられたと推定される「開通合名会社」の社屋の一部であると考えられている。建物は、大正12 年(1923 年)9 月1 日に起きた関東大震災で大部分が倒壊したが、その 一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていた。その建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を伝える歴史的遺産として現地に保存されることになった。開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社で、大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10 年(1877 年)1 月に創立された「開通社」の社名を明治24 年(1891 年)「開通合名会社」に改名。社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側面にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は写真赤枠の部分1 階中央の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられている。写真は明治38 年(1905 年)頃のものと推定される。「明治38年( 1905年)頃の開通合名会社の姿」。「関東大震災直後の周辺の様子(青枠内に倒壊した煉瓦建築が見える)」「大正時代末期の周辺の様子(青枠部分に煉瓦遺構の一部が見える)」「青枠部分」。「県庁前」交差点を渡る。正面にあったのが「神奈川県加賀町警察署 本町交番」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.20
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【フェルマー数】(フェルマーすう、英: Fermat number)とは、『2^2^n 』+ 1(n は非負整数)で表される自然数のことである。n 番目のフェルマー数はしばしば Fn と記される。その名の由来であるピエール・ド・フェルマーは、この式の n に非負整数を代入したとき常に素数を生成すると主張(予測)したが、1732年にレオンハルト・オイラーが n = 5 の場合に素数でないことを示し、フェルマーの主張は誤りと確認された。素数であるフェルマー数はフェルマー素数と呼ばれる。実際にフェルマー数の値の最初の方をいくつか計算してみると、F0 = 21 + 1 = 3F1 = 22 + 1 = 5F2 = 24 + 1 = 17F3 = 28 + 1 = 257F4 = 216 + 1 = 65537n ≧ 5 の時、フェルマー数 F(n) が素数となる場合は発見されていないようです。F5 = 232 + 1 = 4294967297 (641☓6700417)F6 = 264 + 1 = 18446744073709551617(274177☓67280421310721)F7 = 2128 + 1 = 34028236692093846346337460743176821145 (59649589127497217☓5704680200680200685129054721)F8 = 2256 + 1 =115792089237316195423570985008687907853269984665640564039457584 007913129639937 (1238926361552897☓9346163971535797776916355819960689658405123754 1638188580280321) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.19
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ーーがこの日・(その35)の散策ルート。「日本丸」周辺のパブリックアート、展示遺跡、記念碑等をカメラで追う。「天女散花」。「天女散花この石像は、横浜港と大連港の友好港提携5周年を記念して、大連港より寄贈されたものです。一九九五年九月」「狛犬」が一対。右側。「上海ー横浜港友好10周年紀念 1983ー1992」。左側。「上海ー横浜港友好10周年紀念 1983ー1992」。こちらは「上海港ー横浜港 友好港五周年紀年 一九九八年九月」碑前方に換気口。巨大船の排気口の如くに。「汽車道」を見る。「日本丸」を振り返って。パノラマ撮影にて。「汽車道」の「港一号橋梁」そして「港二号橋梁」を見る。「帆船日本丸のスクリュー・プロペラ」。「帆船日本丸のスクリュー・プロペラ帆船日本丸はディーゼル主機関を右舷と左舷に備えています。このプロべラは左舷機用の予備プロペラです。回転方向は右舷・左舷、互いに外回りで前進力を出します。」「(財)帆船日本丸記念財団 訓練センター」入口はまだ閉まっていた。入口からズームして。材質:マンガン青銅直径:2.286m重量:901.23kg次回の「日本丸の帆をひろげる日」は9月11日(日)と。以前に訪ねた時の写真です。「汽車道」入口。「汽車道」は、桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡(臨港線)を利用して1997年に開通した遊歩道。この臨港線は当初貨物輸送目的で作られたもので、新港埠頭内の横浜港荷扱所(後に横浜港駅へ昇格)を経由して岸壁や倉庫の前、さらに横浜税関構内の荷扱所まで結んでいた。一方、1920年(大正9年)からはサンフランシスコ航路の出航日に限り、旅客列車(ボートトレイン)の運行が行われるようになった。戦後は米軍により一時接収されたが、1952年(昭和27年)に返還され、以降1961年(昭和35年)の氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。その後、貨物支線としては1986年(昭和61年)に廃止となったが、1989年(平成元年)の横浜博覧会開催時にはこの路線を利用して会場ゲートがあった桜木町駅近辺(日本丸駅を設置)から山下公園の氷川丸付近(山下公園駅を設置)まで旅客列車(気動車)の運行を行い、博覧会終了とともにこの区間も廃線となった後、1997年(平成9年)に汽車道として整備されるに至った。汽車道は日本丸側と新港地区を2つの人工島ならびに3本の橋梁で結ぶ構造となっている。また、開通当時に架設されたアメリカ製とイギリス製のトラス橋を改修・保存しており、新港地区からの列車が頻繁に行き来していた頃の、かつての面影を残している。周辺案内板。現在地はここ。「汽車道」と「ヨコハマエアキャビン」を見る。夜間は「ゴンドラ(キャビン)」は駅構内に格納されていることに気がついたのであった。「一号橋梁」を見る。1907年(明治40年)に、港二号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作された30フィートの鈑桁橋2連と100フィートのトラス橋からなる鋼トラス橋で、明治42年に当時の鉄道院が架橋。「横浜市会議事堂」、「横浜市役所」を見る。「YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅」は運転開始前。「辨天橋いまも橋桁に書かれている旧字体は、この周辺に関わっていた人たちのプラードを象徴しているようです。しかも橋の四隅にある親柱のデザインは一般的に同一ですが、すべて違うというのも多様性を大事にすることを教えてくれている気がします。名前の由来となった江戸時代からの名所である州干辯天社も、開港により整備された横浜道の近道として1871年(明治4年)に誕生したことも忘れてはなりません。そんな横浜開港からのうつり変わりを感じながら、2020年に完成した横浜市庁舎を眺めるとすぐ近くに育ってよかったと思います。(T.F)」。「シドモア桜」案内板。「シドモア桜ポトマック河畔からの里帰り1912年、日本からワシントンへ桜の苗木3千本が贈られました。その桜はポトマック河畔一帯に植えられ、日米友好のシンポルとして親しまれています。今では世界的な桜の名所となり、全米桜祭りが毎年開催されています。桜の植樹にあたり、大きく貢献したのが紀行作家であり、『日本・人力車旅情』の著者であるアメリカ人女性工リザ・R・シドモア女史です。シドモア女史は今、横浜の山手外国人墓地に兄と母と共に眠っています。そのポトマック河畔の桜が、1991年に里帰りし、シドモア桜の会によって、シドモア家墓前に植えられました。そしてシドモア女史と桜のエピソードを伝えるため、その桜から接ぎ木により、さらに苗木が作られました。ここに植えられた桜は、その苗木から育った桜(ソメイヨシノ)です。2021年3月、シドモア家墓前の里帰り桜が植樹30周年を迎えたことから、それを記念してここに植樹されました。」「大岡川」の右岸を上って行き、左折して国道16号に入ると、右手奥にあったのが「横浜指路教会(よこはましろきょうかい)」。横浜指路教会は、日本基督教団の教会。1988年(昭和63年)に横浜市認定歴史的建造物に認定された。1859年(安政6年)10月、ジェームス・カーティス・ヘボンは、アメリカ長老教会から宣教医として日本に派遣された。夫人を伴っての来日だった。当教会は、1874年(明治7年)にヘボンにより、ヘンリー・ルーミスを初代牧師として関内居留地に設立された。「指路」とは旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)であり、ヘボンの出身教会名でもある。その後、何度か移転した後に現在地に移ったが、当時の教会堂は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で倒壊した。現在の教会堂は1926年(大正15年)に再建されたものである。そして次に訪ねたのが「近代街路樹 発祥之地」碑。神奈川県横浜市中区尾上町5丁目71。根岸線 関内駅 北側から万国橋附近までの約1kmの「馬車道」。この最も関内駅に近い地点に赤い大理石の発祥碑が建っていた。幕末の横浜開港にともなって、ここ関内地区は外国人の居留地になった。慶応3年(1867)居留地の住民の要請で道幅が拡張され、外国人の乗った馬車が往き来するようになった。この通りは「馬車道」と呼ばれるようになり、沿道の商店街が競って柳や松を植えたのが街路樹の始まりと言われている と。石碑裏の碑文には「馬車道の街路樹街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的魅力 を向上させる為に発達したものであり、(中略)1867年(慶応3年)横浜・馬車道では、各々の 商店が競って柳と松を連植した。これが日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872年(明治5年)になって 馬車道に日本最初のガス灯が点火されると、その街路樹はさらに美しく映え、夜の涼を楽しむ人々で賑わった。」と。その近くにあったのが「ガス灯」。「イギリスからやってきたガス灯たち」。「イギリスからやってきたガス灯たち「トラファルガー広場のガス灯」1805年、ナポレオン率いるフランス・スペイン艦隊を、スペインのトラファルガー沖で撃沈してイギリスを救った英雄、イギリス海軍ネルソン提督の活躍と栄誉を称えてつくられたのが、「トラファルガー広場」👈リンク。高さ55mもの円柱(コラムから町を見守るネルソン提督の像の台座には、彼の活躍した4つの海戦場所(トラファルガー・ナイル川・セントビンセント岬・コペンハーゲン沖)が描かれています。このガス灯は、このロンドンの中心的存在であるトラファルガー広場のガス灯と同じものです。872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。」そしてJR根岸線のガード下を進むと右手に二基の石碑があったのが「鉄の橋碑」。神奈川県横浜市中区港町5丁目。「ブラントンと横浜明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。横浜居留地測量 1868 ~ 70 築港計画 1870、73、74 電信敷設 1869 新埋立居留地造成設計・施工 1871新橋・横浜間の鉄道意見書 1869 中村川拡幅等設計・施工 1871吉田橋(鉄の橋)架設 1869 日本大通り設計・施工 1871居留地下水道整備・マカタム式道路鋪装 修技校開設 1871街路照明計画 1869 ~ 71 横浜公園設計・施工 1871、72 水道計画 1870」「横浜居留地地図 プラントン実測 1870年」「鉄の橋明治2年(1869年)、英国人土木技師R. H.プラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです」。「横浜鉄橋之図 貞秀画 1870年」次に訪ねたのが「吉田橋」上にあった「吉田橋関門跡」。廻り込んで。「史跡 吉田橋関門跡」。「昭和二十九年4月建 開国百年祭記念」。「横浜市地域史跡吉田橋関門安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより、「吉田橋」と呼ばれました。吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。」「明治150年 馬車道 歴史散策ガイド」のQRコード案内。この先の「伊勢崎町通り」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.19
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【半素数】(はんそすう、英: semiprime, biprime)とは、2 つの素数(2 つは同じでもよい)の積で表される自然数(合成数)である。例えば 21 は 3と 7 の積で表される (21=3×7)ので【半素数】です。(※ 4=2×2 のように同じ2つの素数の積で表される整数も含む。)定義自然数nが半素数であるとは、n = pq を満たす素数 p と q が存在することである。 このとき、素数p,q≧2であるからn≧4となる。●200までの半素数を小さい順に列記すると 4, 6, 9, 10, 14, 15, 21, 22, 25, 26, 33, 34, 35, 38, 39, 46, 49, 51, 55, 57, 58, 62, 65,69, 74, 77, 82, 85, 86, 87, 91, 93, 94, 95, 106, 111, 115, 118, 119, 121, 122, 123,129, 133, 134, 141, 142, 143, 145, 146, 155, 158, 159, 161, 166, 169, 177, 178, 183,185, 187, 194●連続で半素数が表れる小さい方の数は 9, 14, 21, 25, 33, 34, 38, 57, 85, 86, 93, 94, …●異なる素因数からなる半素数は 6, 10, 14, 15, 21, 22, 26, 33, 34, 35, 38, 39, 46, 51, 55, 57, 58, 62, …●素数の2乗となる半素数は 4, 9, 25, 49, 121, 169, 289, 361, 529, 841, 961, 1369, 1681, 1849, 2209, …◎「驚異の「半素数生成半素数」28222149!」👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.18
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ーーがこの日・(その34)の散策ルート。「日本丸」の見学を続ける。「日本丸について」。「日本丸について昭和2年3月、練習帆船霧島丸999総トンか千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗組員及び学生全員か船と運命を共にしました。この惨事をきっかけに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻当91万円か認められました。当時我か国の一般会計予算は、軍事費、国債費を除くと8億7千万円程度に過ぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨費でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第一船を「日本丸」、2月14日に進水した第ニ船を「海王丸」と命名しました。日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のボナベ島へ初の遠洋に出帆しました。昭和18年には第ニ次世界大戦激化のため残念ながら帆装を撤去し、戦争中の緊急物資輸送や戦後の引揚者25,423人の輸送などにも従事しました。その後昭和27年に帆装を復旧し、現在の姿に戻ることができました。建造以来昭和59年9月16日の退役までの半世紀余のあいだに地球45.5周に相当する約183万キロメートルを航海し、約11,500人の海の男を育てました。また、主機関ディーゼルエンジンの稼働年数54年半は舶用機関として現在世界最長記録です。退役後の誘致運動は全国10都市に及び、その中で保存、公開、活用の計画に優れていた横浜市に払い下げか決まり、公開のための整備をした後、昭和60年4月28日より、ここで公開されています。」 運輸省時代 | 現在----------------------------------------------------------------------------用途 練習船 | 練習船航行区域 遠洋区域 | 平水区域定員 196名 | 138名全長 97.05m 幅 12.95m深さ 7.85m満載喫水 6.41m 総トン数 2279.69トン | 2278.25トン マストの高さ 最高のメインマスト5L07m (水面より)約46m横帆 18枚 1435. 0m(最大約95畳)縦帆 (建造時17枚) 11枚 615.0m2主機関 池貝4サイクル 無気噴油式 ディーゼル機関 600馬力x2基 国産1号・国産2号 稼働年数世界一 現在は作動しない「半世紀にわたり活躍した練習船帆船日本丸」QRコード ガイドの案内。「上皇后陛下 御歌」碑。「上皇后陛下 御歌うみ風を 求め旅行く 若きらを 帆船は待つ 月の港に横浜市長 林文子 謹書」。「うみ風を 求め旅行く 若きらを 帆船は待つ 月の港に上皇上皇皇后陛下は、皇太子同妃殿下でいらした昭和五十九年二月、この地に保存されている練習帆船初代日本丸の後継となる新日本丸の進水式にご臨席になり、更に同年九月、東京湾で新日本丸の実習生による展帆訓練などをご覧になりました。この夜、上皇后さまは、胸躍る若い実習生を乗せて間もなく航海に出ようとする新日本丸を歌にお詠みになりました。若い人たちの海への関心を高め、海洋国日本国の次代を担う海の人材育成の大切さに目を向ける機会となることを祈念して御歌碑を建立します。」「上皇上皇后両陛下 行幸啓記念碑」。「上皇上皇后両陛下 行幸啓記念碑帆船日本丸(初代)は昭和五年に建造された文部省航海練習所(当時)の練習帆船です。昭和五十九年までの五十四年間に、延べ百八十三万kmを航海し、一万一千五百人もの船員を育ててきました。公益財団法人 帆船日本丸記念財団では昭和六十年より当地において帆船日本丸を現役当時の姿で保存し、一般公開しています。また、船の生活や訓練を体験する海洋教室やすべての帆を広げる総帆展帆を行うなど、帆船のすばらしさを伝え、海洋への関心を高める事業を行っています。平成二十九年九月にわが国の海運の発展に貢献したことや、希少な戦前期建造の帆船であることなどから国の重要文化財に指定されました。平成二十九年七月十七日(海の日)に上皇上皇后両陛下(当時天皇皇后両陛下)は海の日を祝う帆船日本丸の登しょう礼、総帆展帆、登舷礼や横浜みなと博物館の企画展「国重要文化財指定記念 帆船日本丸の航海」をご覧になりました。また、事業を支えているボランティアの代表らとご懇談になり励ましのお言葉をいただきました。このことを後世に伝えるために、多くの方々からの募金やご協力により記念碑を建立します。」「横浜みなと博物館」。「日本丸メモリアルパーク」。「帆船日本丸」、「横浜みなと博物館 柳原良平アートミュージアム」TICKETS売り場。「帆船日本丸」案内碑。「帆船日本丸帆船日本丸は、全国の商船学校の練習船として、1930 (昭和5)年に建造されました。外航商船の船長を目指す若者の訓練に、太平洋を中心に航海してきました。1984 (昭和59)年、新日本丸の建造を機に現役を退くまでの54年間に、地球を45.4周する距離(延べ183万km )を航海し、約11,500人の実習生を育てました。練習船としての使命を終えた日本丸は横浜市が管理することになり、1985 (昭和60)年4月から旧横浜船渠第一号ドック(国指定重要文化財)で現役当時のまま保存されています。現在は、平水区域の練習帆船として整備・維持されながら、船内公開をはじめ、帆船の訓練・生活を体験する海洋教室やボランティアの協力で29枚すべての帆を広げる総帆展帆などを行っています。(ドックサイド左舷側の案内板もあわせてご覧ください)」。総帆展帆の「日本丸」。「日本丸」船首の「バウスプリット」と「船首飾り」を振り返る。「ジガーマスト(Jigger-mast)」と「横浜ランドマークタワー」。「舵輪」。「原油タンカー麻里布丸の舵輪1959 (昭和34)年麻里布丸は1959 (昭和34 )年建造の原油タンカー(載貨重量48,657トン)。1979 (昭和54)年、船体は本牧ふ頭D突堤の護岸建設に使われた。この舵輪は護岸工事完成記念として、施工した三菱重工業横浜造船所から横浜市へ寄贈された。」「横浜みなと博物館 2022.6.28 リニューアルオープン!」「日本丸」見学コースの下船口。角度を変えて。「タワー棟A&B」を見る。このタワー棟はどの様に使われているのであろうか?「日本丸の係留方法」案内板。「日本丸の係留方法」案内板。NO.1ドックの説明図。「日本丸の係留方法日本丸の左舷と右舷から42mm径のチェーンを4本ずつ(計8本)出し、ちょうど八の字形になるようにして岸へつないでいます。(風速60mの台風にも耐えられます)」。「船がよごれたときや船体に異状があったときには、ドックの水をぬいてそうじをしたり、ペンキを塗ったりします。このとき船は、ドックの底にある盤木にささえられています。(注)実際にドックに入るときは、帆をたたみます。」「日本丸」の船尾を見る。「船尾飾り」をズームして。そして日の丸。「扉船」をズームして。このドックは、船が入ったら排水して修繕や検査などを行うドライ・ドック。ドックの後方にある「扉船」を開けて船を入れ、「扉船」を閉めてドック内の海水を抜き、検査や船体の水面下部分の修理、外板・船底の清掃や塗装など船の手入れを行ったのだ。「ドックゲート(扉船)について」。「ドックゲート(扉船)についてこのゲートは、ドック開設以来使われてきた先代に代わって、昭和32年に造られたものを日本丸保存のために昭和59年9月に改修したものです。また、構造的には船と同じ形態をとっていて日本丸を出し入れするときは、扉船内の水を排出して浮上させ移動できるようにつくられています。さらに、修理の難しさや潮汐の影響を考えて鉄鈑を厚くしたり、左右対称にし両面を使えるように工夫しています。」「主要寸法長さ 上部甲板にて 29.70m 下部戸当りにて 23.48m幅 上部甲板張出を含む 5.14m 中部甲板 1.80m 防水甲板 5.50m 下部戸当り 1.00m 深さ 基線より上部甲板まで 11.30m 基線より防水甲板まで 5.80m吃水 軽荷状態 5.58 m」船尾の後方にも彫刻像があった。峯田義郎作「海鳥達の風」。「1937(昭和12)年山形県生まれ。 太陽を背にして、作品が逆光の中にシルエットとして浮かぶ時間を、作家は意識しました。少女の前にとまった海鳥は、停止した時間ではなく過ぎ行く時間を表現しています。人間の気持ちが、ふわっとゆるみ、時間が止まってしまうような「一瞬」の表現を目指す作家にとって、場所は重要な意味を持っています。港ヨコハマの存在は、都市空間の中でどのような意味を持っているのでしょうか」 と。 「みなとみらい21彫刻展 ヨコハマビエンナーレ'86 受賞作品」と。船尾正面から「日本丸」を見る。「船扉」の先にあったのが「新宮 晋作「白い花」」。風を受けると各ジョイント部分が回るようになっていて、風の強弱のより不思議なリズムで回る。風という目に見えない空気の流れを形で表現した作品。1986年ヨコハマ・ビエンナーレで大賞を受賞した作品 と。「空から見た埋立前(1984)の現在地「目の前は海でした」この解説板の左側には、みなとみらい21埋立事業の礎石が保存されています。1984 (昭和59)年2月14日の埋立の起工式で、礎石は工事の安全祈願と本格的な着工を記念して埋立地の海中に沈められました。その後引き上げられ、埋立地であるここに記念として設置されました。」「みなとみらい21埋立事業が始まったころの造船所跡地1984 (昭和59)年」。「垣内治雄作「青少年の像」」。「1931(昭和6)年横浜市生まれ。 「港が見える海の近くに、元気で明るく友達と仲良く伸びていく、自分達のシンボルが欲しい」という気持ちを生かし、小学校4年生の男女を対象に創られた作品です。海の彼方に描いた理想の実現に向かって若い力を発揮しようと意欲を高める青少年。若者が心身共に健やかに伸びて欲しいという願いを持つ大人達。両者を象徴した像を作家は求めました。台座は、船のイメージと波を形どっています。」と。「横浜市政百周年・開港百三十周年を記念し。青少年の「港が見える海の近くに、元気で明るく友達と仲良く伸びていく自分たちのシンボルをつくろう」という気持ちと、多くの市民の方々のご協力によりこの像を設立しました。 平成元年 五月吉日」。ブロンズ像、像高さ1.5m 1989(平成元)年制作。「第一号・第二号ドック用排水ポンプカバー」。「横浜船渠株式会社第一号・第二号・ドック用排水ポンプ・カバー1896年 アレン社製(イギリス)横浜船渠株式会社が第一号と第ニ号の2基のドック内の水を排水するために、創業期(1899年開業)にイギリスから購入しました。修理を重ねながら約85年間にわたってドックの排水機能を担ってきました。当初は蒸気機関で運転されました。そのためポンプと一緒にホイラー(蒸気を発生させる装置)も導入し、その購入価格は37,114円29銭でした。ポンプは第一号ドックと第ニ号ドックの間の海寄り(渠ロ部)に造られた地下ポンプ室に2基第殳置されていました。横浜船渠株式会社の修繕部門を象徴する設備です。第一号ドックの付属として、2000 (平成12 )年12月4日、国の重要文化財に指定されました。」「錨のオブジェ」。「ハンブルグ港から横浜港への贈呈ハンブルグ港と横浜港の姉妹港関係10周年を記念して1992 --- 2002」「この錨は姉妹港提携10周年の記念してドイツのハンブルグ港から贈られました。およそ100年前まで実際に使用されていました。2003年3月」「トーテムポール」。「このトーテムボールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し、両港の友好の印として寄贈されたものです。制作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれています。」英文の銘板も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.18
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【セクシー素数】(セクシーそすう、英: sexy primes)とは、差が 6 の素数の組 (p, p + 6) である。セクシー素数は無数に存在するかどうかは2016年10月現在、未解決である。最小のセクシー素数は (5, 11) である。もし p + 2 または p + 4 も素数であれば、そのセクシー素数は三つ子素数の一部となる。なおこの用語は、ラテン語で 6 が sex であることに由来するものである。セクシー素数の組500 までのセクシー素数は次の通りである。(5, 11), (7, 13), (11, 17), (13, 19), (17, 23), (23, 29), (31, 37), (37, 43), (41, 47),(47, 53), (53, 59), (61, 67), (67, 73), (73, 79), (83, 89), (97, 103), (101, 107), (103, 109), (107, 113), (131, 137), (151, 157), (157, 163), (167, 173), (173, 179), (191, 197), (193, 199), (223, 229), (227, 233), (233, 239), (251, 257), (257, 263),(263, 269), (271, 277), (277, 283), (307, 313), (311, 317), (331, 337), (347, 353), (353, 359), (367, 373), (373, 379), (383, 389), (433, 439), (443, 449), (457, 463), (461, 467), …2022年9月現在発見されている最も大きいセクシー素数は、Ken Davis によって発見された11,593桁の数である。そのセクシー素数を (p, p + 6) とすると、p はp = (117924851 × 587502 × 9001# × (587502 × 9001# + 1) + 210) ×(587502 × 9001# − 1) / 35 + 5で与えられる。ここで 9001# は素数階乗(そすうかいじょう、英: Primorial)である。素数階乗とは、2 以上の自然数に対してそれ以下の素数全ての総乗のことである。自然数 n の素数階乗は、記号では n# で表す。例えば2# = 23# = 3 × 2 = 64# = 3# = 65# = 5 × 3# = 306# = 5# = 30【セクシー素数】には、「セクシー素数の3つ子(sexy prime triplets)」、「セクシー素数の4つ子(sexy prime quadruplets)」、も存在します。3つ子には、(17, 23, 29)や、(67, 73, 79)などがあります。4つ子には、(5, 11, 17, 23)や、(61, 67, 73, 79)などがあります。ちなみに、5つ子(sexy prime quintuplets)も存在しますが、(5, 11, 17, 23, 29)しか、ありません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.17
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ーーがこの日・(その33)の散策ルート。再び「けやき通り」まで戻る。ここにも彫像があった。富田眞州(とみたまさくに)作「人々への讃歌」。人間・家族をモチーフとして「愛」をテーマにつくられら作品。「けやき通り」の向こう側にあった「三菱重工横浜ビル」を見る。その前庭の植栽の中にあった彫像。冨永直樹作「美しき広場」。会社を支えるのが社員で、社員を支えるのが家族であるという意味を込めて設置された と。「美しき広場」。そして「三菱重工業株式会社 横浜造船所跡」碑。神奈川県横浜市西区みなとみらい3丁目3。「「みなとみらい21」地区と横浜造船所跡地」。「三菱重工業株式會社 横浜造船所跡横浜造船所は明治二十四年(一八九一) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和十年(一九三五)三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。昭和五十八年(一九八三)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 平成六年三月 」般若純一郎(はんにゃじゅんいちろう)作「友情」。「1931(昭和6)年富山県生まれ。 高岡工芸高校卒業後、米治一氏に師事。少年と少女が寄り添っていますが、ふたりは一体何をしているのでしょうか。少女は空に向かって何かを指さしています。希望の象徴なのか、もしかしたら、鳥が飛んでいるのを一緒に見ているのかもしれませんね。作家は、鎌倉建長寺の大天狗、小天狗の制作や、西脇市の源頼政の<<鵺(ぬえ)退治>>の像なども手がけています」 と。清川宗翠作「なかよし」。「1947(昭和22)年富山県生まれ。 「友情」の像の近くに置かれた、もっと幼い男の子と女の子です。とても小さく、控えめに置かれている作品は、うっかりすると見落としてしまうかもしれません。二人のひそひそ話が聞こえてくるような気がしませんか。作家は、1968(昭和43)年に中尊寺金色堂建立の箔師のスタッフとして参加しています。」と。可愛らしい顔に近づいて。「三菱みなとみらい技術館」入口。館内は次回に。そして「横浜銀行本店営業部」の前庭にも赤いモニュメントが確認できた。高田洋一作「水面の鳥」。「1956(昭和31)年大阪府生まれ。 「役に立つ物ばかりでは人間は生きていけないのではないか?」「役に立つものに囲まれた街の中に、何の役にも立たない彫刻を置くことで、私達は救われるのではないか?」という作者の願いが込められた作品です。風でゆっくり回転するこの作品は、強風でも、ある一定速度より速くは回らないように仕掛けもされています。1998(平成10)年に完成した横浜国際総合競技場の<<呼吸する色彩>>も手がけた作家です。」「横浜ランドマークタワー」を正面から見上げる。神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目2−1。「横浜ランドマークタワー」の正面入口。「みなとみらい動く歩道」まで歩き「みなとみらい21」地区を。「日本丸メモリアルパーク」案内板。「日本丸」。日本丸メモリアルパーク内の「タワー棟(展望棟)A&B」。「日本丸」の後方には「タワー棟(展望棟)C&D」。「みなとみらい動く歩道」の横を歩く。「日本丸」への石段を下る。見学者の数は少なく。時間はまだ8:24。方位表示と都市名が。「日本丸」のチケット売り場が前方に。石の置物が並ぶ「長谷川伸文学碑」。神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1−8。「先生の本名は長谷川伸二郎、明治十七年(一八八四年)横浜日の出町で生れた。八歳のとき家業の土建業が倒産し、それからは自力で働き続け小学校も三年で退学した。二十歳のころ横浜のジャパン・ガゼット紙の記者になり二十七歳のとき東京の都新聞の伊原青々園氏へ手紙を送って入社、筆名で短編を発表するうち、菊池寛氏に認められた。大正十四年、四十一歳で退社し作家として出発した。以来、小説と劇作の双方で華々しい活躍が始った。先生は生涯を通じて、文学の師は持たなかった。該博な知識はすべて独学で得たものであった。股旅物の始祖といわれたが先生の作品の真骨頂は歴史小説、それも歴史の隅に葬り去られた真実や無名の人々を掘り起こした紙碑と自ら呼んだ一連の作品であった。先生を慕って集る後進の育成に当り劇作研究の二十六日会、小説研究の新鷹会を主宰した。昭和三十八年六月十一日七十九歳で他界するまで、おびただしい数の長篇、短篇、百篇を越える戯曲それに紙碑と唱える著作がある。「生きるとは、生きる価値を見つけることだ」最後の病床で、先生は言い残された。少年のころ先生が働いていた横浜の旧ドック跡に一生を人のために費し、無私を貫き通した先生を記念して、多くの人々の助力の下にこの文学碑を建てた。 昭和六十年十月十七日 門弟代表 村上元三」作家の長谷川伸の幼き頃の思い出として、生誕100年を記念して建立された石碑。「長谷川伸」と刻まれているのであろう。その先にあったのが「旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー」神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1−1。廻り込んで。高い圧力の空気を送り出すアメリカ製の機械で、1983年に造船所が移転するまで使われていたものと。「旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサーこの工アー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほほ中央にあった動力室に4基設置され、1983 (昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リべット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。」「日本丸」の雄姿。船首、そして右舷を見る。真っ白な船体に長く伸びた「バウスプリット」と「船首飾り」が美しかった。欧米では伝統的にバウスプリットという前へ突き出た捧の下に船首像を取り付ける伝統がありました。帆船の船首像は航海の安全を願って取り付けられますが、そもそも日本には船首像を取り付ける伝統がありませんでした。そのため、初代日本丸には船首像と呼べるものはついておらず、唐草模様と羅針盤を模した金色の船首飾りがつけられているだけ。姉妹船でもある海王丸(初代)も当初は船首像はなく、日本丸( 2代目)に船首像を取り付けた際に同時に制作され取り付けられた と。たしかに船首像はいかにもヨーロッパの文化の番りがするのだが。「日本丸 NIPPON MARU」と。この初代「日本丸」の後継船として建造された二代目「日本丸」は我が卒業会社が建造したのである。2022年現在でも現役の航海練習船として運用されているのだ。右舷を見る。船首まで廻り込んで。「船首飾り」をズームして。廻り込んで左舷側を進むと前方に見えて来たのが「横浜みなと博物館」。「帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト」。「案内板」。「帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト日本丸の4本のマストの下から約5分の3は鋼製ですが、残りの上部約5分の2はトップ・ケルンマストといい、檜材が使われています。このトップ・ケルンマストは、日本丸のメインマストで使用されていたものです。1952 (昭和27)年の帆装復帰工事の時、三重県北牟婁郡長島町産の樹齡約200年と推定される檜の一本材を自然乾燥後、加工して取り付けられました。以来約40年間使用されてきましたが、根元部分の腐食かはげしくなったため、1990 (平成2)年11月から翌年3月にかけて行われた定期検査工事で、吉野産檜のマスト材に取り替えました。」「メインマストの主要寸法■材質 檜(ヒノキ)■全長 18.412メートル■重量 約700キログラム■最大径(最下部) 約50センチメートル■最小径(最上部) 約17センチメートル」マストは船首からファアマスト(Fore-mast) 、メインマスト(Main-mast)、ミズンマスト(Mizzen-mast)、ジガーマスト(Jigger-mast)と呼ぶのだ と。「日本丸」の船首と左舷を見る。近づいて。後方には「横浜ランドマークタワー」。「横浜ランドマークタワー」とのコラボ。美しい花壇とのコラボ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.17
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【五つ子素数】、【六つ子素数】は四つ子素数 (p, p + 2, p + 6, p + 8) について、p − 4 または p + 12 がさらに素数であれば、それらを加えた5つ組を五つ子素数】(いつつごそすう、prime quintuplet)という。特に p − 4 と p + 12 の両方が素数であれば、その6つ組を【六つ子素数】(むつごそすう、prime sextuplet)という。【五つ子素数】、【六つ子素数】が無数に存在するかどうかはわかっていない。【五つ子素数】の例・p + 12 型{5, 7, 11, 13, 17}, {11, 13, 17, 19, 23}, {101, 103, 107, 109, 113}, {1481, 1483, 1487, 1489, 1493}, {16061, 16063, 16067, 16069, 16073}, {19421, 19423, 19427, 19429, 19433}, {21011, 21013, 21017, 21019, 21023}, {22271, 22273, 22277, 22279, 22283}, {43781, 43783, 43787, 43789, 43793},...・p − 4 型{7, 11, 13, 17, 19}, {97, 101, 103, 107, 109}, {1867, 1871, 1873, 1877, 1879},{3457, 3461, 3463, 3467, 3469}, {5647, 5651, 5653, 5657, 5659}, {15727, 15731, 15733, 15737, 15739}, {16057, 16061, 16063, 16067, 16069}, {19417, 19421, 19423, 19427, 19429}, {43777, 43781, 43783, 43787, 43789},...【六つ子素数】の例{7, 11, 13, 17, 19, 23}, {97, 101, 103, 107, 109, 113}, {16057, 16061, 16063, 16067, 16069, 16073},{19417, 19421, 19423, 19427, 19429, 19433}, {43777, 43781, 43783, 43787, 43789, 43793},{1091257, 1091261, 1091263, 1091267, 1091269, 1091273}, {1615837, 1615841, 1615843, 1615847, 1615849, 1615853},{1954357, 1954361, 1954363, 1954367, 1954369, 1954373}, {2822707, 2822711, 2822713, 2822717, 2822719, 2822723},...その他の形と「七つ子素数」以上p − 2 および p + 10 は必ず 3 の倍数であるため、これらを含んだ【五つ子素数】は(p − 2, p, p + 2, p + 6, p + 8) の形の (3, 5, 7, 11, 13) しか存在しない。また、p − 6, p + 14 はいずれも 5 の倍数になるため、双子素数3つからなる (p, p + 2, p + 6, p + 8, p + 12, p + 14) の形の【六つ子素数】は、(5, 7, 11, 13, 17, 19)しか存在しない。さらに p − 8, p + 16 はいずれも 3 の倍数になるため、【六つ子素数】の両端±4の範囲には素数はない。(3, 5, 7, 11, 13, 17, 19), (5, 7, 11, 13, 17, 19, 23) の【七つ子素数】、(3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23) の【八つ子素数】を除いて、差が4以内で連なる【七つ子素数】以上の素数の組は存在しない。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.16
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「首都高速神奈川1号横羽線」の「みなとみらい出口」への高架道路の下にあったのが「西区の埋め立ての変遷」案内板があった。 神奈川県横浜市西区みなとみらい1。「西区の埋立の変遷江戸時代、現在の桜木町やみなとみらい21地区、横浜駅周辺はすべて海でした。安政6 (1859 )年東海道と開港場をつなぐ横浜道が野毛の山を切リ開いて築かれ、戸部の高台には神奈川奉行所が設けられるなど戸部・野毛の丘は開港期の横浜の発展を担う日本人の拠点となりました。開港後、文明開化が急速に進む中、明治5 (1872)年には、日本初の鉄道が品川一横浜間で仮営業を開始します(本営業は新橋ー横浜間)。鉄道敷設にあたリ、現在の高島町、桜木町周辺の土地が埋め立てられました。輸入した鉄道資機材は横浜港で陸揚げされ、横浜から建設が進められました。その後、貿易の発展に合わせ港の機能充実を図るため、英国人技師のH. S. パーマーの計画をもとに、明治29 (1896)年には船舶錨地150万坪という欧米諸国に遜色ない港が完成しました。築港に並行し京浜有志ー同の発起によりドック建設計画が進められ、明治24( 1891 )年には工場予定地の埋立が許可され、横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)が設立されました。明治30 (1897)年第ニ号ドックが竣工し、本格的に船舶修繕事業が開始されます。横浜船渠会社は倉庫事業、造船事業とその規模を拡大し、関東大震災や戦災、高度経済成長期に至る激動の時代を越えていきます。昭和40 (1965)年、当時の飛鳥田市長が6大事業の一つとして、関内駅、横浜駅周辺のニつの都心をつなぐ新市街地を創る計画を発表します。地区の埋立は昭和53 (1978)年に始まり、それにともない、横浜造船所は昭和57 (1982)年に移転し、昭和62(1987)年には埋立地はほぼ現在の形となり、みなとみらい21地区となりました。」「西区埋立変遷図」。「安政6(1859)年頃」。「明治13 (1880)ー明治19 (1886)年頃」。「明治41(1908)年頃」。「昭和38(1963)年一昭和40(1965)年頃」。「平成20(2008)年頃の航空写真」。「伊能図(大日本沿海輿地全図第93図「武蔵・相模」)」。「温故知新のみち」とは安政6年の開港以来、横浜の成長と共に大きく変貌してきた西区のまち。立ち止まってよく見てみると、積み重ねられてきた様々な西区の魅力が見えてきます。「温故知新のみち」はそんな西区の歴史資源を楽しむことができる散策ルートです。横浜開港に尽力した偉人たち、みなとまちの発展を支えた地域、西区の歴史に思いをはせながら、少しゆっくり歩いてみてください。きっと新たな発見があリます。」現在地はここ。JR根岸線のガードに向かって進む。手前に単線線路があり、踏切となっていた。この単線路は横浜市内を走る「JR高島線」であると。通る列車はほとんどが貨物列車。湾岸を突っ切るこの短絡線があることで、東海道本線の横浜駅周辺の過密ダイヤを乱すこともなく、貨物列車が旅客ホームを通過する危険性が避けられている。たぶん私と同様に多くの方が知らないと思われる路線ながら、有効に活かされているのだと。この踏切の名前は「三菱ドック踏切」。このあたりには、かつて三菱重工業横浜工場が広がっていたと。この踏切名は、この工場内にあった造船用のドック名が付けられたもの。踏切の名前が、いまはなきドック名のままというのが、横浜らしくおもしろい。JR根岸線のガード下に案内板が姿をあらわした。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門」案内板。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門かってこの付近には「ハマのドック」の名で親しまれた横浜船渠(せんきよ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)の正門があり、数多くの人がこの場所を行き来しました。貨物線の「みつびしどっく踏切」という踏切名称にその名残を見ることができます。みなとみらい21地区には横浜船渠会社の遺構として、日本丸メモリアルバーク(第一号ドック)、ドックヤードガーデン(第ニ号ドック)などが残されています。現在JR根岸線が走る上部の高架は、大正7 (1918)年にニ代目横浜駅(大正4 (1915)年に現高島町駅付近に建設)と桜木町駅(初代横浜駅)の間に建設されました。昭和7(1932)年には高架を海側に増築し、空いた山側の単線は東京横浜電鉄線(東横線の前身)になりました。昭和31(1956)年には、歩道の上に高架を張り出して東京横浜電鉄線が複線化し、現在の高架の形になりました。高架に沿って走る道路は国道16号です。ここには昭和45 (1970)年まで市電が走っており、近くには電停の花咲橋や雪見橋がありました。国道を渡って行くと、戦災復興期に埋め立てられた運河である桜川(現在、桜川新道)、そして横浜船渠会社で働いた多くの人たちが利用した商店街、料亭街として賑わった歴史のある岩亀横丁へとたどり着きます。」「横浜船渠会社全景(大正11年撮影)」。「横浜実測図 明治14(1881)年」「「温故知新のみち」とは上記に同じ。」引き返して、再び「三菱ドック踏切」を渡りながら、桜木町駅方面を見る。この先で高架に合流するのであろうか。この後「みなとみらい大通り」まで戻り、「けやき通り西」交差点まで進む。左手にあったのが名知富太郎作「無限(飛翔)」。名知富太郎氏は1924(大正13)年横浜市生まれ。 作家は、航空機のエンジニアをしていた時、光と動きが現代美術に欠けていることを意識し、ドイツに渡り制作活動に入りました。作品は、リヒト・キネティック(光と動きの彫刻)と呼ばれ、ステンレスの表面が光を反射することで、動きを意識しています。また、周囲の風景をも反射させることによって、実際の色よりも美しい色を出現させています。「みなとみらい21彫刻展ヨコハマビエンナーレ'86」受賞作品。その近くにあった彫刻作品。「愛の変容」工藤健 と。ステンレス・スチールで3.6m高の作品。工藤健氏は1937(昭和12)年秋田市生まれ。 手、胸、眼、胴体、どこまでが男のもので、どれが女のものか分かりますか? 作家は、アブストラクトやキュービズムの思考と技法をもとに、人の体を再構成することで新しい人体象を作り出しています。像のまわりをゆっくり廻って鑑賞して欲しい作品です と。名知富太郎作「無限(飛翔)」越しに「横浜銀行本店営業部」を見る。ランドマークプラザ1Fの中央通路を利用して次に訪ねたのが「旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック)」。「横浜ランドマークタワー」を見上げる。「第二号船渠(ドック)」に架かる橋から「第二号船渠(ドック)」の北東側を見る。右手巨大なギターがぶら下がっていた。「Hard Rock Cafe」の看板。その奥に見えたのはヨーヨー広場にあるモニュメント「モクモクワクワクヨコハマヨーヨー」。「渠」の文字を中央にデザインした社章入りの係留ロー プを巻き上げるキャプスタン。ロープやチェーンを巻き込むのに用いる巻取り装置(係船装置)の一つ。一般に船舶の船首や船尾部に設けられる。台座の上に垂直に立てた綱巻き胴(バレル)が、中心軸とともに回転するようになっている と。英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年設立の「横浜船渠会社」が建設した施設で、現存最古の民営石造乾船渠。石材は、真鶴・伊豆産の小松石を用いている。ランドマークタワーの建設にあわせて、保存改修を行い、イベントスペースとして活用されている。真鶴・伊豆産の小松石を用いた「第二号船渠(ドック)」の美しい石積みの横壁。写真右側には資材運搬用に使用した と推測されるスロープも見えた。復元された2号ドックと海を仕切る「船扉」の 内側を見る。再びビル3階分に相当する9mの深さの「第二号船渠(ドック)」の最奥を見る。「さくら通り」沿いに案内板が。「横浜船渠会社と検浜市」案内板。「横浜船渠会社と横浜市横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、舶来品などを取リ扱う外国貿易により発展しました。明治5 (1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は海面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29 (1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41 (1908)年完成)、第三号ドック(明治43 (1910)年完成)の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24 (1891)年ですが、その2年前の明治22 (1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われます。それは横浜市の徽章「ハママーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の近代工業発展を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。」。「海から臨む横浜船渠会社の様子(明治期撮影)」。「横浜市平面図(明治41(1908)年)」「「温故知新のみち」とは上記に同じ」。現在地はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.16
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【四つ子素数】(よつごそすう、英: prime quadruplet)とは、4個の素数の組で、(p, p + 2, p + 6, p + 8) のタイプのもののことをいう。ここで、(p, p + 2) および (p + 6, p + 8) はいずれも双子素数であり、(p + 2, p + 6) はいとこ素数であり、(p, p + 6) および (p + 2, p + 8) はいずれもセクシー素数であり、(p, p + 2, p + 6) および (p + 2, p + 6, p + 8) はいずれも三つ子素数である。四つ子素数を小さい順に並べると、{5, 7, 11, 13}, {11, 13, 17, 19}, {101, 103, 107, 109}, {191, 193, 197, 199}, {821, 823, 827, 829}, {1481, 1483, 1487, 1489}, {1871, 1873, 1877, 1879}, {2081, 2083, 2087, 2089}, {3251, 3253, 3257, 3259}, {3461, 3463, 3467, 3469}, {5651, 5653, 5657, 5659}, {9431, 9433, 9437, 9439}, {13001, 13003, 13007, 13009}, {15641, 15643, 15647, 15649}, {15731, 15733, 15737, 15739}, {16061, 16063, 16067, 16069}, {18041, 18043, 18047, 18049}, {18911, 18913, 18917, 18919}, {19421, 19423, 19427, 19429}, {21011, 21013, 21017, 21019}, {22271, 22273, 22277, 22279},{25301, 25303, 25307, 25309},{31721, 31723, 31727, 31729},{34841, 34843, 34847, 34849}, {43781, 43783, 43787, 43789}, {51341, 51343, 51347, 51349}, {55331, 55333, 55337, 55339}, {62981, 62983, 62987, 62989}, {67211, 67213, 67217, 67219}, {69491, 69493, 69497, 69499}, {72221, 72223, 72227, 72229}, {77261, 77263, 77267, 77269}, {79691, 79693, 79697, 79699}, {81041, 81043, 81047, 81049}, {82721, 82723, 82727, 82729}, {88811, 88813, 88817, 88819}, {97841, 97843, 97847, 97849}, {99131, 99133, 99137, 99139},...となると。最小のもの以外は、(30n + 11, 30n + 13, 30n + 17, 30n + 19)(n は 0 以上の整数)の形になる。したがって最小のものを除き、四つ子素数の一の位の数は小さい順に (1, 3, 7, 9) となり、十の位以上の桁の数字は全て共通となる。そんなに頻繁には存在せず、10万以下では38組しかありません。また、双子素数と同じように、【四つ子素数】が無数に存在するのかどうかは2016年9月現在未解決である。【四つ子素数】の逆数和は収束し、である。2019年2月現在発見されている四つ子素数 (p, p + 2, p + 6, p + 8) で最大の p は、10132桁の 667674063382677 × (2^33608) − 1 である.。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.15
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この日は8月29日(木)、『港・ヨコハマ』を巡るの3回目に向かう。この日も早朝出発し、小田急線で湘南台駅に。この日は湘南台駅から相鉄線で横浜駅へ。湘南台駅の改札に入ると「そうにゃん」がお出迎え。乗換なしで26分ほどで横浜駅に到着。利用車輌は折り返しで急行・海老名行きになるようだ。JR横浜駅中央南改札出てすぐの、通路中央にあった「「赤い靴」人形像」。「赤い靴」(野口雨情作詞、本居長世作曲)の歌詞に横浜の埠頭が歌われていることから、市民団体「赤い靴を愛する市民の会」が同駅に寄贈し、1982年8月から横浜駅に設置されているのだ。「赤い靴」👈リンク 野口雨情 作詞 本居長世 作曲赤い靴 はいてた 女の子異人さんに つれられて 行っちゃった横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って異人さんに つれられて 行っちゃった今では 青い目に なっちゃって異人さんの お国に いるんだろう赤い靴 見るたび 考える異人さんに 逢(あ)うたび 考える「赤い靴はいてた女の子大正十年、詩人野口雨情は美しい横浜の情景に魅せられてこの詩を詠み、本居長世の曲によって人々の感動を呼び起こし今に歌いつがれております。私たちはこれを横浜の心として形にとどめ大人にはありし日の郷愁を、そして青少年には夢と希望を与えたいと願い、市民運動を展開しました。幸い日本全国はもとより、海外からも多くの方々が参加され、直接協力者は四二、九九二名にも及び、昭和五十四年十一月十一日、彫刻家山本正道によりこの永遠の小さな恋人は誕生し、いま横浜の新しい顔として山下公園での人気を一身に集め、語らずしてロマンを伝えております。私たちはこの像を、コペンハーゲンの人魚姫の像やブリュッセルの小便小僧とともに世界三大メルヘン像として、不朽の名詩名曲をいつまでも称え続けて行きたいと思います。」残念な落書き部はネットから。時間は7:03。そして、ポルタ地下街の階段上には、長さが17mもある陶板画のレリーフが。横浜のロマンは黒船が初めて渡来して騒然たる中に、次第に洋式の服装や馬車などが馬車道を走り西洋的文明が定着して横浜から日本の文明開化が始ったことであり、これがこの陶板画のテーマであると。「よこはまの詩 1981年6月10日」。原画・監修:井手宣通氏と。左手に「黒船」、右の海近くにはパラソルをさした異国風俗も印象的な開化時代の情景が。パラソルをさした女性の姿。二頭立ての馬車に礼装の男女が乗りこんでいる。前の馬車をズームして。後ろの馬車をズームして。そしてエスカレータ前には「PORTA横濱三塔物語」。左側の2塔。「横浜三塔」とは、神奈川県庁(通称キング)、横浜税関(通称クイーン)、横浜市開港記念会館(通称ジャック)の事で、この3つの横浜の歴史的建造物を1日で巡ると願いが叶うという伝説があり、「横浜三塔物語」と呼ばれています。三塔のガラスのオブジェは、鉄ででできたアーチ状の飾りで繋がれていた。内部にLEDライトが備え付けられてライトアップもされるのだと。左側の塔。右側の塔。そしてエスカレーターで下り、横浜駅東口地下街『ポルタ』の通路を出口Gに向かって進む。G出口の階段を上る。ーーがこの日・(その31)の散策ルート。高架は「首都高速神奈川1号横羽線」下は国道1号、この先で右に大きくカーブし保土ケ谷方面へ。「帷子川」に架かる「築地橋」を渡る。左手に見えたのが「はまみらいウォーク」。神奈川県横浜市西区の横浜駅東口とみなとみらい地区の間の帷子川に架かる人道橋(ペデストリアンデッキ)である。2009年7月21日に開通したと。前回訪ねた場所の写真が一部ピンボケであったので、再び訪ねることに。「はまみらいウォーク」の下を通過し、振り返る。こちらは「みなとみらい大通り」にかかる「みなとみらい大橋」。ところが、この日はこの先で完全通行止めになっていた。前回は辛うじて歩けたのであったが・・・。現在地はここ。やむなく「とちの木通り」に出て「東海道」に向かって引き返す。右手にあったのが「京急グループ本社」ビル。このビルの1階には「京急ミュージアム」があるが時間が早過ぎて・・・。左手に多くの「電動キックボード」が置かれていた。株式会社Luup(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長兼CEO:岡井大輝、以下「Luup」)は、2021年10月21日(木)13時より、神奈川県横浜市みなとみらい21地区にて、電動キックボードのシェアリングサービス「LUUP」の提供を開始したとのこと。「LUUP 電動キックボードの乗り方 2022」👈リンク。ノーヘルで乗っているが、安全上問題はないのであろうか?もちろん、現在は普通自動車免許が必要だが、数年先には道交法が改正され不要となるようだが。「新高島駅」近くを「すずかけ通り」に向かって進む。「すずかけ通り西」交差点を渡る。横断歩道を渡り、「KTビル」前へ。「KTビル」は、三菱地所が横浜市西区の「みなとみらい21中央地区47街区」に新設したオフィス、ホテル、ライブハウス型ホールで構成する複合施設。 規模は地上15階、地下1階、高さ81.41m、延べ36,713㎡。 設計は三菱地所設計、施工は清水建設。 2020年1月に竣工し、コーエーテクモゲームスがオフィス及びホール部分を取得。 3月にコーエーテクモゲームスの本社が稼働。 「横浜東急REIホテル」は、2020年6月5日に開業した と。現在地はここ。ビル前のモニュメント。赤と黒のジャングルジムを二つ割りにした様な一対のオブジェ。「すずかけ通り西」交差点まで戻り「KTビル」を振り返る。左側の低層の建物が「KT Zepp Yokohama」。その先には高層ビルが。「Mulabo!ムラーボ!」と。1Fのガラスには、「みなとみらい21」の街並みが。「驚きをつくる 喜びをつくる 未来をつくる」と。そして「muRata 村田製作所」と。「村田製作所 みなとみらいイノベーションセンター」で2020年12月16日に開館した子ども向け科学体験施設「Mulabo!」👈リンク があると。本施設はエレクトロニクスを通じて科学の面白さを伝える一般公開施設である と。その先、「みなとみらい四丁目」交差点の先にも高層ビルが。「神奈川大学 みなとみらいキャンパス」。神奈川県横浜市西区みなとみらい4丁目5−3。「神奈川大学」案内板。ここ「みなとみらいキャンパス案内図」。2021(令和3)年4月に開設した地上21階、地下1階、高さ約100mのキャンパス。設置学部は経営学部 / 外国語学部 / 国際日本学部 と。「横浜キャンパス」案内。「湘南ひらつかキャンパス」案内。2023年の理学部の横浜キャンパス移転に伴って神奈川大学は湘南ひらつかキャンパスを閉鎖する予定であると聞いた事があるが真相は?茅ヶ崎市内にあった「文教大学」も昨年から都内への移転を進めているのであった。学生達の都心回帰の進行による競争力の低下、文科省の規制強化による学生定員の抑制、また学生の自宅からの通学志向の上昇などを背景に、学部学科見直しの必要性が強まって来ていると以前にテレビのニュースで。「中山キャンパス」そして付属中学、高校もあるようだ。地上21階、地下1階、高さ約100mのキャンパスを見上げる。そしてJR根岸線に向かって進むと右手にあったのが「横浜美術館別館 PLOT48」。以前「ヨコハマトリエンナーレ2020」👈リンク で訪ねた場所であった。そして「首都高速神奈川1号横羽線」&「JR根岸線」に沿って北方面に向かって進む。「いちょう通り」交差点から「横浜ランドマークタワー」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.15
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【三つ子素数(みつごそすう、prime triplet)】もしくは三つ組素数とは、3個の素数の組で、(p, p + 2, p + 6) または (p, p + 4, p + 6) のタイプのもののことである。三つ子素数を小さい順に並べると、次のようになる。(5, 7, 11), (7, 11, 13), (11, 13, 17), (13, 17, 19), (17, 19, 23), (37, 41, 43), (41, 43, 47), (67, 71, 73), (97, 101, 103), …なぜ(p, p+2, p+4)という形ではないかというと、この組で素数になるのは(3, 5, 7)しかないから他のどんな組においても、必ず1つは3の倍数が含まれてしまうため、一方は差が4になっているのだ。双子素数と同様、【三つ子素数】は無限に存在するかわかっていません。三つ組の中で最小の素数のみを並べると、5, 7, 11, 13, 17, 37, 41, 67, 97, 101, 103, 107, 191, 193, 223, 227, 277, 307, 311, 347, 457, 461, 613, 641, 821, 823, 853, 857, 877, 881, 1087, …である。このうち、(p, p + 2, p + 6) のタイプのものは5, 11, 17, 41, 101, 107, 191, 227, 311, 347, 461, 641, 821, 857, 881, …(p, p + 4, p + 6) のタイプのものは7, 13, 37, 67, 97, 103, 193, 223, 277, 307, 457, 613, 823, 853, 877, 1087, … となる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.14
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以前から地球儀が一つ欲しいと思っていましたが、先日、地球儀・『ほぼ日のアースボール「ジャーニー」』を購入しました。本体/直径20cm(縮尺/6,380万分の1) 材質:再生紙、ABS台座/材質:天然木。「スマホをかざせばとびだす地球儀」と。スマホやタブレットをかざすことでAR地球儀として使えるのだ。専用アプリ「」をスマホやタブレットにダウンロードし、起動しスマホやタブレットをかざすと「飛び出す地球」を楽しむことが出来るのです。[ほぼ日のアースポールアプリ(無料)のダウンロード]アースポールアプリの対応OSはiOS、Androidです。動作環境や対応機種など、詳しくは、以下のサイトにアクセスの上ご確認くださhttps://earthball.1101.com/download/残念がら、私の持つIPhone6sは対応していないのであったが。箱に収まった『ほぼ日のアースボール「ジャーニー」』。『ほぼ日のアースボール「ジャーニー」』を箱から取り出す。直径20cmの地球儀。各国が色分けされ、経線は30度、緯線は20度間隔で表示。各国の首都は二重丸(内側赤色)で位置を、そして都市名は太字で表示されていた。地球儀の木製の台座です。そして楽しめる「アプリ」👈リンク の種類は合計24種類。まずは「世界の国々」。地球儀にかざすと、各国の国旗が表示されます。もちろんタブレットを近づければ、表示は大きくなります。そして手で地球儀を回してヨーロッパにアクセスして見ました。国が集中している場所の国旗は3ヵ国が一つの円の中に表示されています。この円をタップすると、下部に国名と国旗が表示されます。左から、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク。地球儀を回転させ、南米へ。次のアプリは「1週間の地球」。日本周辺の雲の動きを動画のごとく確認できるのであった。台風11号の雲の動きが確認できたのであった。勿論、地球儀を回せば、その国周辺の雲の動きが解るのであった。次は「ポプラ社世界遺産」。ポプラ社の『総合百科事典ポプラディア 第三版』より、50の世界遺産が地球の上に登場します。文化遺産、自然遺産、複合遺産と分類ごとに切り替えて見ることもできます。このコロナ禍の下でも、世界を旅して、人類の歴史や自然を感じることが出来るのです。簡単な説明文も。「ポプラ社動物図鑑」。「ポプラ社恐竜図鑑」50種の恐竜が地球のうえに登場します!三畳紀、ジュラ紀、白亜紀とその恐竜が生きていた時代ごとに切り替えて見ることもできます。「月」アースボールがまるい月に変わります。普段は見られない月の裏側や、月の地名や地形、「うさぎ」の形を見たり、月と地球の大きさくらべもできます。月の裏面も。そして、アポロ計画の着陸地点に立つ宇宙飛行士の姿をタップすると、人類が目にした月面の風景を見ることができます。地球儀に近づいて。。「クラシック地球儀」。国の形や大きさがわかりやすい、国ごとに色分けされた地球儀。標高ごとに色分けされた地球儀。「夜の地球」宇宙から見た、夜の地球の姿を見ることができます。夜の大地に光るのは、世界の都市の光。夜の海に光っているのは‥‥漁船の光!昼の地球と切り替えたり、都市の名前や国境線も重ねたりしながら、夜の地球の姿を楽しめるのだ。「おはよう!世界の朝ごはん」世界各国の朝ごはんを、「おはよう!」というあいさつとともに紹介し。「でこぼこ地球」。地上の地形を実際の100倍程度に強調して立体的に表現。標高8,000m超の山々が連なるヒマラヤ山脈や、厚さ3,000mもの氷に覆われた南極大陸などについての解説もある。 ・・・END・・・
2022.09.14
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2以上の整数の中で1とそれ自身でしか割り切れない数字「素数」の組み合わせのうち、「3と5」や「11と13」のように、隣り合っており、その間隔が2となっているペアのこと。【双子素数】の最初の20組を小さい順に並べた列は、次のとおりである。(3, 5), (5, 7), (11, 13), (17, 19), (29, 31), (41, 43), (59, 61), (71, 73), (101, 103), (107, 109), (137, 139), (149, 151), (179, 181), (191, 193), (197, 199),(227, 229), (239, 241), (269,271), (281, 283), (311, 313), …★知られている最大の双子素数2020年7月現在で知られている最大の双子素数は、388,342 桁の 2996863034895 × 2^1290000 ± 1 である。これは、2016年9月に分散コンピューティングプロジェクトの一つである PrimeGrid により発見された。★双子素数に関する諸結果・(3, 5) を除く全ての双子素数は (6n − 1, 6n + 1)(n は特定の自然数)の形であり、 これは(3, 5) を除く双子素数同士の和が、常に12の倍数であることを意味する。・最初の2組を除き、双子素数の一の位は(十進法で)(1, 3), (7, 9), (9, 1) のいずれかである。・双子素数が無限個あるか,有限個しかないのかは未解決問題・双子素数の逆数和は収束する・双子素数の逆数和は収束することは証明されています。 1.9 ぐらいで、ヴィーゴ・ブルンによって証明されたので ブルン定数 と よばれています。素数の逆数和は発散するので、双子素数は素数に比べて少ないことに なりますが、無限級数が収束することもあるので、これだけで一概に双子素数が無限個あるとは 断言できません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.13
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更に「江ノ島弁天橋」を進み島内へ。前方に「江の島神社 瑞心門」の姿が確認できた。「江の島神社 瑞心門」をズームして。西の空もだんだんと輝きが薄れて。「江の島シーキャンドル」をズームして。ここにも多くのカメラマンがいたのであろう。この時は満潮のようであった。青銅の鳥居は見えて来た。江の島弁財天信仰の象徴であるこの青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめている。両柱には再建に協力した寄進者の名前が記され、信仰の厚さを物語っている。鳥居をくぐると江島神社へと続く参道で、土産物屋がずらりと並んでいる。市指定重要文化財である。「青銅の鳥居江の島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の島居でしたが、1 8 2 1年に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており信存の篤さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。鎌倉時代、我が国にモンゴル軍が襲来した戦い(文永の役)で敵側が退散した事への神恩感謝として、第91の後宇多天皇が奉納したとされる勅額(天皇から賜った額)を写したものです。1997年に藤沢市の指定文化財に登録されました。」右手にあったのが「創作ちりめん「布遊舎」江ノ島店」。布遊舎は、日本伝統の優しく美しいちりめん生地を使用した四季折々の飾り物をはじめ、和小物・風呂敷・手拭い・はんかち・のれんなど布ものを中心とした和雑貨を扱う店。妻の案内に従い、シーフード・海鮮料理店「江の島ハルミ」の角の狭い路地を右折。狭い路地を暫く進むと石段の下、正面に海が現われた。ここは「富士見浜」と呼ばれていると。ココにもカメラを持った多くの人の姿が。ここ、「富士見浜」からの「ダイヤモンド富士」をネットから。 【http://shonanbb.net/shonan-enohima-diamondfuji2014/】より残念ながらこの日は黒い雲が海面の上一面に。そして帰路に。正面に「江島神社 大鳥居」が見えた。ここが「岩本楼本館」への入口。将軍や大名たちも宿泊した、鎌倉時代からある旅館。ステンドグラスランプ。美味しそうな海鮮どんぶりが並ぶ。左奥にあったのが「江の島アイランドスパENOSPA」。「青海波(せいがいは)」模様のランプ。この柄の発祥は古代ペルシャとされています。シルクロードを経て日本に伝わったのは飛鳥時代、平安時代に書かれた源氏物語の中に『青海波』という雅楽を舞う若き光源氏の姿が描かれています。この神楽を舞う舞人の衣装の柄が青海波で、青海波の名はこの神楽に由来すると言われています。「湘南港灯台」方向を見る。月も輝きを増して。国道134号下り線は渋滞が始まっているようであった。緑の灯の入った「湘南港灯台」をズームして。「江の島シーキャンドル」。西の空は淡いピンク色に染まって。弁天橋から「江の島」を振り返る。そしてライトアップされた「片瀬江ノ島駅」。屋根をズームして。脇の黄金の龍の姿も輝きを更に増して。残念ながら、「ダイヤモンド富士」の姿は楽しめなかったが、久しぶりの江の島からの夕景を楽しんで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.09.13
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【素数】とは、正の約数が1とその数自身である約数で、1でない自然数のことをいいます。簡単にいうと、「1」と「その数自身」でしか割りきれない数を指します。すなわち【素数】は「1とその数自身でしか割れない数」です。これを言い換えると、素数は「2個の数で割ることができる数」ということになります。1は自分自身でしか割ることができない=1個の数でしか割ることのできない数なので、素数ではありません。1~100までの素数は「 2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97」となり、全部で25個あります。★【素数】の見分け方たとえば、私の誕生日「716」のような大きな数。パッと見ただけでは素数かどうかわからない方もいるでしょう。しかし、716の一の位は6なので偶数だとわかります。偶数は2で割れるので、716は素数ではないと見分けることができます。偶数以外にも素数かどうかを短時間で見分けるポイントは・偶数(2以外)・一の位に0や5がつく数(5以外)・九九の数(1の段以外)これらは、【素数】ではありません。そしてすべての桁を足して3で割り切れる数が出たら、元の数は3で割り切れるという法則があるのです。例えば1437➡1+4+3+7➡15は3で割り切れるので、元の数1437は3で割り切れるため、【素数】ではありません。更に7で割ることも近道(100以下の場合)です。→7で割れれば合成数、割りきれなければ【素数】なのです。現在放送されているNHK番組「笑わない数学」。パンサー尾形貴弘が数学の難問を大真面目に解説する「笑わない数学」。この回は「素数」の不思議な魅力に迫ったのです。天才数学者たちを悩ませてきた、素数の“大いなる謎”とは。 「1と自分自身でしか割り切れない数・素数」。どんな数も素数の掛け算で表されることから、「数の原子」ともいわれている。最も基本的な数にもかかわらず、素数は謎だらけ。中でも数学者たちを悩ませてきたのが、「素数はどんなタイミングで出現するのか」という問題。素数は気まぐれに出現し、規則性が全く見当たらないのだ。この素数の並びには、一体どんな意味が隠されているのか?パンサー尾形が「創造主の暗号」に迫ったのです。「素数階段」は、素数が見つかると1段上がって行く階段。頻繁にステップアップするところがあったかと思うと、 ずっと真っ平らな部分もある。その段は当然ながら、 気まぐれに現れるランダムな階段であるように見える。 ところがこの階段は登れば登るほど、高くなればなるほど、 その高さが自然対数eをもとにする数に近似していく。 これを「ガウス」👈リンクが示したのだった。そして【素数】👈リンクにはまだまだ「未解決問題」👈リンク が多々あると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.12
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この日は、9月6日(火)、この日は江の島から「ダイヤモンド富士」が見えると妻から。「ダイヤモンド富士」とは、富士山頂に太陽が重なる瞬間、ダイヤモンドのように輝く現象のこと。富士山頂に太陽が重なるのは日の出と日没時になりますが、江の島で見られるダイヤモンド富士は日没時。テレビで湘南海岸のLIVE映像が流れ、富士山の姿が見えた。そして我が家からも、半分程度、富士山の頂上方向が見えた。しかしその下、裾野には雲があったが取り敢えず向かうことにしたのであった。小田急線、藤沢駅で江の島行きの電車の入線を待つ。しかし、途中、東海道線に架かる小田急線の鉄橋上からは富士山の姿が見えなくなっていたのであったが・・・・。江ノ島駅に到着。改札口近くには「新江ノ島水族館」と書かれた円形水槽が。2020年に新駅舎が完成し、このクラゲ水族館がスタートしたのであった。水槽の中には小さなクラゲの姿が。このクラゲの名は?改札を出た駅舎の天上には神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳いでいた。こちらにも。2020年の5月に新装なった小田急・片瀬江の島駅。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。新駅舎の外観は、神社仏閣の技法である”竜宮造り”を採り入れた本格的で品格のある造り真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く龍や、屋根の上には鯱ならぬイルカが。中央に黄金に輝く龍。更にズームして。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。そして江の島に向かって進む。前方には「境川」に架かる「弁天橋」が。「弁天橋」から「江の島」を見る。雲ひとつない青空であったが。小田急・片瀬江の島駅を振り返る。路面に埋め込まれていた絵画?「境川」の上流側を見る。海岸沿いのマンションには西日が射し込んで。弁天橋の中央真ん中には、寝そべる姿の如き像が。「雲の形」作者:山本正道氏竣工年:1987年作品材質:ブロンズ。寝そべる女性のような姿に見えるが「雲の形」。「藤沢警察署 片瀬江の島交番」。地下道入口近くから西方向の夕日を見る。地下道の観光案内板。そして「江の島弁天橋」に向かって進む。龍が彫られた巨大石灯籠が迎えてくれた。巨大石灯籠・「龍燈」(右)。巨大石灯籠・「龍燈」(左)。彫刻に近づいて。「龍燈建立之記「江島縁起」によれば欣明天皇十三年(五五二)四月に海底より塊砂を噴き出し天地が鳴動すること二十一日、忽ちに海上に一つの島が成せりとあり、これが島の起りとされる。 この島上に天女が降居し湖水の五頭龍は天女の麗質を見て善行を施すに至り、 以降天女は江島明神として祀られることとなった。 役行者を始め弘法、慈覚等高僧が岩窟にて参籠修行をいたし、各々が神感を受け御神威を仰いだとされる。 鎌倉時代には源頼朝を始め鎌倉将軍家、北条氏歴代、更に秀吉、家康等その時代の名立たる武将の信仰は極めて篤く、 殊に江戸時代には江の島詣が盛んとなり、天下衆人の敬仰を集めるに至った。 又景勝の地江の島は紀行文、人情本、謡曲、長唄、常磐津、歌舞伎等に表現され、 北斎、広重等浮世絵師により秀れた錦絵が数多残され、 島内には社殿をはじめ多くの石碑が往時の信仰の深さを物語っている。然るに豊かな自然環境と歴史的文化遺産を持つ江の島が折しも江島神社御鎮座千四百五十年を迎えるに際し、当地永々の繁栄を祈念いたし、奉祝記念事業として関係各位の御高配と多くの御奉賛者の御浄財を以て、史蹟名勝地に相応しき石燈籠一対を建立いたす所以である。 平成十三年巳歳七月 江の島振興連絡協議会、江島神社」片瀬漁港越しの夕景。しかし海面近くには一面に雲が。「江の島周辺トイレマップ」。津波避難のモニュメントの波頭下に陽光が射し込んで。弁天橋入口にある石碑・「名勝及史跡江ノ島」。その下には「江の島名勝図」。現在地はココ。「江の島まちづくり憲章1、前文江の島はの海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的なは地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たせねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S. 63.4.7江の島一丁目ニ丁卩住民一同]」石碑・「名勝及史跡江ノ島」。更に近づいて。「潮音」「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子氏の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものであるとのこと。東の空には月が姿を現していた。江の島の「江の島シーキャンドル」を見る。「西遊歩道」の方向、夕日が雲の中に沈んで行ったのであった。「白灯台」の近くには多くのカメラマンの姿が。その先に、茅ヶ崎沖の烏帽子岩の姿が見えたのであった。残念ながら雲の中に夕日が落ちて行ったのであった。海面には一筋の光の帯が。「ダイヤモンド富士」ならぬ「ダイヤモンド雲」をカメラで追う。「ダイヤモンド富士」の時間が近づいていたのであったが。太陽の姿が雲に隠れて。山の端ならぬ雲の端が輝く。上空には飛行機雲が。残照をしばしカメラで追う。「ダイヤモンド富士」が見られル場所を事前にネットで調べておいたのだが。2014年の江の島からのダイヤモンド富士をネットから。この光景を見たかったのだが。 【http://shonanbb.net/shonan-enohima-diamondfuji2014/】 ・・・つづく・・・
2022.09.12
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【分割数】(英: partition function) は『自然数 n の分割(n をその順番の違いを除いて自然数の和として表す方法)の総数を表す数論的函数である。ただし、規約 p(0) = 1 および負の整数に対して p(n) = 0 と定める。分割数の値分割数の値について、p(1) = 1p(2) = 2p(3) = 3p(4) = 5p(5) = 7p(6) = 11p(7) = 15p(8) = 22p(9) = 30p(10)= 42p(100) = 190,569,292p(200) = 3,972,999,029,388p(1000) = 24,061,467,864,032,622,473,692,149,727,991例えば『5をいくつかの正の整数の和で表す方法』は、 54+13+23+1+12+2+12+1+1+11+1+1+1+1の 7 通りなので p(5)=7 である。★下図の如く「奇数のみで分割する方法」の数と「異なる数で分割する方法」の数は常に一致します。この事実は1748年にかの有名なレオンハルト・オイラーによって最初に証明されました。すなわち【奇数のみで表す分割方法】の総数=【異なる数で表す分割方法】の総数★分割数に関してはその他にも様々な性質が見つかっています。例えば、ラマヌジャンによって【「5で割って4余る数」の分割数は5で割り切れる】ということが発見され、続けて【「7で割って5余る数」の分割数は7で割り切れる】【「11で割って6余る数」の分割数は11で割り切れる】といった衝撃の事実も発見します。確かにp(4)=5,p(9)=30なので、どちらも5で割れます。またp(5)=7,p(12)=77なので、確かに7で割り切れます。さらにp(6)=11、p(17)=297=11×33なので11で割り切れます…。恐るべき、分割数、そしてラマヌジャン…!
2022.09.11
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昨日9月10日(土)は『中秋の名月』であった。そして今年・2022年の十五夜は満月の『中秋の名月』なのであった。『中秋の名月』とは、太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月のこと。日本では、サトイモの水炊きを供えされてきたことから、「芋名月」と呼ばれることもあると。太陰太陽暦では、満月が毎月15日頃になるのだが、特に中秋の名月が特に美しく見えることから、代表的な存在ということもあり「十五夜」といわれることもある。2021年、2022年と連続して中秋の名月は満月となったが、中秋の名月≠満月なのだと。2011年~2030年の中秋の名月の日の月の姿です。2024年の中秋の名月が9月17日、満月が9月18日と日付がずれていることでもわかるように、中秋の名月が必ずしも満月とはかぎりません。中秋の名月は太陰太陽暦で決められていますが、1日の基準は新月にあることから満月が15日の夜とは限らないからです。満月は、太陽と地球と月の位置関係で決まります。しかし、月の公転軌道は楕円形であることもあってぴったり満月になるまでの期間は15日とは限らないと。新月から満月までにかかる日数は13.9日から15.6日なっているので、年によっては中秋の名月の日と満月の日にズレが生じることがあるのです。更に太陰太陽暦ではこの太陰暦の12か月に、約3年に一度、1か月を加え13か月とし、季節とのずれをなるべく少なくする調整をする。この挿入された月を「閏月」という。これが日にちが大きく変わる理由のようです。昔は我が実家でも、十五夜の夜には縁側に団子を供えたのであったが。18:50の中秋の名月です。やや赤みがかって東の空に。電線が写ってしまいました。それから数分後です。そしてしばらくしてから南東の空を5分間隔で。「月々に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」詠み人知らずではありますが、昔からこの中秋の名月を愛でる日本人の心は変わっていないようです。南東の空、月の左側に輝いている『木星』の姿も。9月下旬にはちょうど太陽-地球-木星がほぼ一直線に並ぶ時期で、地球との距離が最も近く明るく輝いている時期。明るさはマイナス2.9等。1等星のおよそ40倍の明るさ。昨夜の10日はまだ十五夜の月は木星から離れているため、月の左側に木星を確認することが出来たのでした。しかし、明日11日には十六夜(いざよい)の月が木星のすぐそばまで近づきます。月のそばで負けじと輝く木星は見えるでしょうか。実際に見えるかどうか、二晩続けて試してみるのも面白いかも。 ・・・END・・・
2022.09.11
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【カプレカ数(Ⅱ)】とは、次に定義される自然数である。『2乗して上位の半分と下位の半分とに分けて和を取ったとき、元の値に等しくなる自然数。』すなわち正の整数を2乗し、上位と下位のゼロでない数桁ずつ、2つに分けて、それらの和を取る。この操作によって元の値に等しくなる数をカプレカー数と呼ぶ。例えば、297 はカプレカー数である。297^2 = 88209 であり、これを上位の2桁 88 と下位の3桁 209 とに分けて足すと 88 + 209 = 297 となる。この定義でのカプレカー数を小さな順に並べると、下記の如くに。1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292, …正の整数の2乗を、上位と下位との桁数をほぼ等しく(桁数が等しいか、上位の桁数より下位の桁数が1だけ大きく)分けるという定義もある。つまり、2乗が偶数桁(2n 桁)である場合は上位の n 桁と下位の n 桁とに分け、奇数桁(2n+1 桁)である場合は上位の n 桁と下位の n+1 桁とに分けて、上位と下位との和を取る。例外として、4879 と 5292 は、この定義のクラスには含まれない。4879^2 = 23804641 であり、238 + 04641 = 4879。5292^2 = 28005264 であり、28 + 005264 = 5292。上記の定義のカプレカー数は無数ある。例えば、9, 99, 999, 9999, 99999, … のように"9"のぞろ目の数は全てこの定義のカプレカ数である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.10
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ーーがこの日・(その30)の散策ルート。次に訪ねたのが「日本ブラジル修好百周年記念の虹 モチーフオブジェ」。「日本ブラジル修好100周年記念歴史と未来への讃歌--虹空間 ’95ESPACO・ARCO--IRIS ’951995年10月31日、マルコ・アントニオ・デ・オリヴェイラ・マシエルブラジル連邦共和国大統領ご列席の下に除幕式が開催されました。また、同型の記念碑がブラジル。サンパウロ市のパンアメリカン広場にも設置されています。」「日本人ペルー移住100周年記念像「リマちゃん」」 「リマちゃんと握手IHOLA AMICOS こんにちわ アミーゴス」私も、「オーラ!アミーゴス!」と笑顔でリマちゃんと握手したのであった。「日本人ペルー移住100周年記念像「リマちゃん1899年2月27日第一次航海船佐倉丸は日本人790名の夢を乗せて横浜を出航し同年4月3日ペルーの首都リマ市の外港カヤオヘ到着、移住第一歩を刻みました。以来、日本とペルーの友好関係は両国の人々の心で深く結ばれています。1989年には移住90周年記念像「さくらちゃん」が両国のこども達をはじめ”こんにちわ・アミーゴス募金”の活動によって、リマ市の日秘文化会館内に建立されました。「さくらちゃん」の小さな手はたくさんの人々と握手をしてきましたが、その妹像「リマちゃん」も太平洋へ向かって手を差し出し小さな手と手の100年目の握手が夢の架け橋となるよう願っています。移住先駆者の鎮魂を祈り、21世紀へとつづく日本とペルーの友好を願ってみなさまもオーラ!アミーゴス!と笑顔でリマちゃんと握手をしてください。「リマちゃん」像周囲の丸石は、日本人入植地カニュテ海岸の自然石です」そしてこちらは「フルーツ・ツリー」。「チエ・ジョンフアChoi,Jeong Hwa (1961年韓国生まれ)この作品は、横浜ふじライオンズクラブが、設立30周年を記念して協賛し、「横浜トリエンナーレ2001」に出品されました。その後、2002FIFAワールド・カップ日韓共催を記念し、横浜市に寄贈されました。」高さと横幅が約6メートルの大きさで、強化プラスチックで製作されたモニュメント作品のテーマは「作品に『多様性』が含まれているため、幅広い年齢層の人に愛され、テーマを感じ取ってくれればなと思います。また純粋にカラフルで綺麗な作品ですので、横浜に来た時には、是非ご覧になっていただければ!」と。別の場所から。しかし、夜に観たらチョット不気味か?「横浜ベイブリッジ」1989年(平成元年)9月27日に開通した長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋。しかし、近年、横浜ベイブリッジの下を通過できない大型外国クルーズ客船が続々と登場している。ベイブリッジの海面からの高さ(クリアランス)は約55メートルで、パナマックスの最大高57.91メートルを下回っており、くぐれなければ横浜港「大さん橋」を活用できず、クルーズ客船の誘致合戦で後れをとっており、外国船寄港数は九州地方の港を下回っているのだと。再び「横浜市風力発電所 ハマウィング」と「JERA 横浜火力発電所」。「JERA」は東京電力グループ、中部電力グループの合弁会社。「日本からグローバルへ。日本(JAPAN)のエネルギー(ENERGY)を新しい時代(ERA)へ」と。「横浜港 ハンマーヘッドクレーン」とその後方、「横浜大さん橋」に停泊する「飛鳥Ⅱ」と「ぱしふぃっくびいなす」。前方に「アーチ橋」が現われた。下の流れは「潮入りの池」への入口。潮が満ちると、海水が入り子供たちが遊べるようだが、この時は干潮か?正面から。「潮入りの池」に海水はなく。満潮になると(ネットより)。昔の写真のようだが。「アーチ橋」を渡りながら「臨港パーク」方向を振り返る。「横浜ベイブリッジ」の全景。「アーチ橋」には名前がないのか?そして「みなとみらい臨時ヘリポート」へ。ここから、横浜スカイクルーズ・夜景飛行が出来るとのこと。貸し切り(max3名)で5分、30800円とネットから。この時はヘリコプターの姿はなく。横浜市の上水道のソフトシール弁マンホールの蓋日本丸の船をデザイン 、上部に上水道の噴水のマーク。 そして総ガラス張りの巨大な建物が左手に。「横浜ベイコート倶楽部 ホテル&スパリゾート」。2020年9月にカハラホテルと同時開業した会員制リゾートホテル。横浜港に向かって曲面が配置された独創的外観デザインが美しかった。横浜市が実施する「横浜・人・まち・デザイン賞」において、リゾートトラスト株式会社の「横浜ベイコート倶楽部 ホテル&スパリゾート」と「ザ・カハラ・ホテル&リゾート 横浜」が、『まちなみ景観部門』で表彰された と。「THE KAHALA HOTEL」。高級マンション群・ザ・ヨコハマタワーズ タワーウエストが後方に。右に緩やかにカーブする「みなとみらい橋」。「臨港パーク入口」交差点を通過。「とちの木通り」を西に進む。「高島中央公園北」交差点から「横浜メディアタワー」を見る。「横浜メディアタワー」は横浜MM21地区の中央に建てられたNTTグループのインテリジェントビルで、地上高約100mの超高層ビルの上に、高さ約150mの通信用タワーを搭載。サルスベリの花を楽しむ。青空に濃いピンク色が映えて。前方右にアンパンマンの顔が。「横浜アンパンマンこどもミュージアム(YOKOHAMA Anpanman Children 's Museum )」。右から「アンパンマン」、「バイキンマン」、「ドキンチャン」。オジイチャンはちゃんと覚えていますよ!!正面エントランスでは大きな「アンパンマン」がお出迎え。約4mのビッグサイズなアンパンマン。更にズームして。そして右に折れ、「帷子川」の川岸まで歩を進める。「車輪モニュメント」。「車輪モニュメントこの車輪は、「みなとみらい21中央地区土地区画整理事業」の造成工事のに発見されたのです。高島操車場の名残をとどめるモニュメントとして再利用し、展示しています。」さらに「帷子川」を上って行くと石垣が遺る遺跡があった。「横浜港導水堤復元モニュメント」。石垣をズームして。「横浜港導水堤(よこはまこう どうすいていこのモニュメントは、横浜港導水堤の名残を残すモニュメントです。明治時代の後期、この場所に導水堤が築造され、「みなとみらい21中央地区土地区画整理事業」の造成工時の際に、その遺構が発見されました。本公園では、皆さんに横浜の歴史を感じて楽しんで頂けるよう、発見した袋詰めコンクリートをモニュメントとして活用し、展示しています。横浜港導水堤の役割導水堤とは、土砂の堆積を防ぎ、流路や流速を一定に保つため、河口付近に築かれる堤防です。横浜港導水堤は、帷子川から流入する土砂が港内に堆積するのを防いでいました。明治後期の横浜港導水堤は、明治24~25年の間に設けられ、北水堤、東水堤と共に当時の横浜港を構成する主要施設の一つでした。その後、土地需要の増加に伴い埋立が進み、現在は右図の赤線の範囲がみなとみらい21地区となっています。横浜港導入堤の特徴我が国の港湾工時で初めてセメントが用いられたのは、横浜港導水堤であるとされています。それまでは、盛った土のうえを大石で覆うという工法が採用されてきましたが、横浜港導水堤では、大石に代えて、コンクリートが用いられました。また、コンクリートを麻袋に入れた非常に珍しい「袋詰めコンクリート」が使われていました。これは、コンクリートの施工性、耐久性を高める優れた手法です。)」「帷子川」に架かる「みなとみらい大橋」。その先に「はまみらいウォーク」。横浜市西区の横浜駅東口とみなとみらい地区の間の帷子川に架かる人道橋(ペデストリアンデッキ)である。2009年7月21日に開通。そして「とちのき通り西」交差点まで戻る。その先にあったのが「日産自動車 グローバル本社」。1階は「日産グローバル本社ギャラリー (NISSAN GALLERY)」として、新型車や日産自動車の歴史に関する展示が行われている(帷子川側に屋外展示スペースもあり)。ルノーの日本法人であるルノー・ジャポン株式会社は同社隣にある。(所在地は横浜市西区高島1-1-2)。なお、日産自動車の商業登記上の本店は、この本社ビルではなく、横浜工場のある神奈川区宝町2番地である。その先、右手にあったのが「横浜三井ビルディング」。このビルの2階に「原鉄道模型博物館(はらてつどうもけいはくぶつかん)」がある。当館は、コクヨ元専務で世界的に著名な鉄道模型製作・収集家の原信太郎(はら のぶたろう、1919年4月4日 - 2014年7月5日)の世界一ともいわれる量の鉄道模型コレクションの一部にあたる約2,500両を収蔵し、このうち約1,000両と鉄道関連資料を展示する、延床面積約1,700平方メートルの博物館である。館内には1番ゲージの室内ジオラマとしては世界最大級の面積となる約310平方メートルの「いちばんテツモパークジオラマ」が設置され、この上をコレクションの鉄道模型が走行している。2012年(平成24年)7月10日に開館。同日に天賞堂みなとみらい店がミュージアムショップとして当館階下の1階に開店したと。予約制のようで、諦めたのであった。像「Grow」。作家名:ラム・カツィール「1969(昭和44)年イスラエル生まれ、オランダ・アムステルダム在住。 ビルを訪れる人は、空を見上げる大きなブロンズ像を目にします。この作品は、火・水・土・風・金属といった自然界のさまざまな要素がまざりあってできています。いわば、自然と一体化した存在であり、自然の一部であり、自然を反映しています。自由で自然な空気を生み出し、明日の未来を見つめる彫刻です。彫刻の正面は黄金色で太陽を、背面は磨きをおさえて静けさを表現しています。自然界のあらゆる要素を吸収してできた彫刻であり、希望にむかい成長(grow)する人です。この温かさと、静けさを持ち合わせた彫刻に、たくさんの人が集まり、そしてその輪がひろがってほしいという願いが込められています。」後ろから。背面は磨きをおさえて静けさを表現しているのだと。材質 ブロンズサイズ 3600mm制作年 2012(平成24)年国道1号の「築地橋」を渡る。橋長:35.4m幅員:27.5m 架設年:1926(大正15)年(1970(昭和45)年拡幅)「帷子川」の下流方向を見る。「横浜三井ビルディング」そして「日産自動車 グローバル本社」を振り返る。ここから「横浜駅東口地下街ポルタ」へ。横浜駅中央通路に向かって進む。JR改札口に向かってエスカレーターを上る。そして帰路は、JR東海道線、小田急線を利用して帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.10
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【カプレカ数Ⅰ(カプレカー定数)】とは『ある数字の桁を並び替えて最大にしたものから、最小にしたものの差を取ったとき(カプレカ操作)、元の値に等しくなる数をいう。』例えば180 810(最大)-018(最小)=792 ×372 732-237=495 ×495 954-459=495 ◯ ➡【カプレカ数】593 953-359=594 ×716 761-167=594 ×★3桁のカプレカ数が495のみであることの証明3桁のカプレカ数の数字を大きい順に並べたものを abcとする。0≤c≤b≤a≤9である。このとき,(100a+10b+c)-(100c+10b+a)=99(a-c) 99の倍数である。あとは99の倍数を1つずつ調べればよい。198 → 981-189=792 ×297 → 972-279=693 ×396 → 963-369=594 ×495 → 954-459=495 ◯ ➡【カプレカ数】594 → 954-459=495 ×693 → 963-369=594 ×792 → 972-279=693 ×891 → 981-189=792 ×990 → 990-099=891 ×★カプレカ数について、必ず押さえておきたいポイントは以下の 3 つ。・カプレカ操作とは、「桁を並び替えてできる最大の数から最小の数を引く」という操作のこと。・3 桁の数であればすべて 495に帰着し、4桁の数であればすべて6174に帰着する。・5桁のカプレカ数は存在しない。★4桁のカプレカ数が「6174」のみであることの証明したがって、0≦a−d≦9 の 10通りと 0≦b−c≦9の 10通りが存在するので、候補が10×10=100 通りに絞り込める。あとは 100個の候補に対して実験すると、6174 がカプレカ数であることが示せます。★5桁のカプレカ数が存在しないことの証明★6桁以降のカプレカ数の一覧6 桁の場合、少し面白くて549945→ 995544−445599=549945631764→ 766431−134667=631764とカプレカ数が2つ見つかります。7桁になると再び【カプレカ数】は存在しない。しかし8桁になると63317664→ 76664331−13346667=6331766497508421→ 98754210−01245789=97508421と、またまたカプレカ数が2 つ見つかります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.09
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ーーがこの日・(その29)の散策ルート。新港ふ頭の西側の突堤にある「横浜港 ハンマーヘッドクレーン」を見る。大正初期、イギリスから導入し設置したコ―ワンス・シェルドン社製の大型クレーンで最大50トンまでの鋼材や重量物を運ぶことができ、金づちに似た形状から「ハンマーヘッドクレーン」と呼ばれ親しまれて来た。日本に3基のみ現存するクレーンの一つであり、関東大震災にも耐えた歴史的に貴重な電動式クレーンである。他に現存するクレーンは三菱長崎造船所の200トン吊り(大正元年(1912)竣工)、佐世保電工株式会社の250トン吊り(大正2年(1913)竣工)で、世界でも17基しか現存していないと言われていると。「新港ふ頭客船ターミナル」方向に戻ると正面に見えたのが「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」。ヨットの帆をイメージしたユニークな外観は、この街のシンボルにもなっているのだ。海上保安庁の巡視船「いず」と「横浜市風力発電所 ハマウィング」。「新港ふ頭客船ターミナル」前まで戻る。神奈川県横浜市中区新港2丁目5−1。「新港ふ頭客船ターミナル」1階を覗いてみた。客船ターミナル(新港ふ頭客船ターミナル)を中核に、商業施設(ハンマーヘッド SHOP&RESTAURANT)、ホテル(インターコンチネンタル横浜Pier 8)からなる。2019年10月31日に開業したFLOOR MAP。客船到着時に税関や入出国審査、検疫などの業務を行なうスペースとなる「CIQホール」を隔てた1階と2階の一部が、食をテーマとした体験型の商業施設ゾーン「ハンマーヘッド SHOP&RESTAURANT」となっていた。こちらには、地元横浜をはじめとした神奈川県の企業の店舗をはじめ、初出店や新業態店舗など全25店舗が入っていると。1階のレストランゾーン。右側には「RAMEN FOOD HALL」が。ある店のメニュー。そして外に出るとあったのが「ペット専用水栓」。暑い日が続き、路面の照り返しなどで水分を奪われがちな愛犬の水分補給が出来る場所 と。神奈川県横浜市中区新港2丁目14−1。「横浜港新港ふ頭9号岸壁」入口からの光景。東神奈川方面を望む。左手奥に「CUPNOODLES MUSEUM(カップヌードルミュージアム) 横浜」の建物が見えた。そして右手前方には、緑の屋根、時計塔のある客船ターミナルが見えたのでズームして。そして「カップヌードルパーク入口」交差点に向かうと、右方向に「よこはまコスモワールド」の大観覧車「コスモクロック21」の姿が現われた。手前にはピンクのジェットコースター「バニッシュ」も見えた。神奈川県横浜市中区新港2丁目8−1 よこはまコスモワールド。「CUPNOODLES MUSEUM(カップヌードルミュージアム) 横浜」を訪ねたが。「「全国小学生陸上競技交流大会」貸切見学のため、特別休館いたします。」と。再び岸壁まで戻ると前方に運河に架かる橋が。案内板。「女神橋(めがみばし)」と。横浜みなとみらいの臨港パークと新港パーク(カップヌードルミュージアムパーク)を繋ぐ、歩行者デッキ「女神橋(めがみばし)」が2021年3月31日(水)に全面開通した と。「内港をのぞむ橋みなとみらい21中央地区から新港地区につながる水際線のゆるやかなカーブは、横浜べイブリッジを中心としたインナーハーバーの景色をどこからでも眺められることが特徴です。女神橋もこのカーブと連続させて、橋の中央部を最も高くすることで、横浜らしい港の景色を感じながら、海沿いを連続して散策できる歩行者空間を創出しています。」全長約75m、幅員は約6mの「女神橋」の先に「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」。臨海部に建つ建物群の中で、ひときわユニークな形状を誇るのが、パシフィコ横浜内に建つこの「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」。ヨットの帆をモチーフにした半円形の外観と白さが映える、横浜のシンボル的な存在。ホテルの上部には、「女神像」が。身長 4m、重さ 1.3Tonと。この像は、ほぼ東南東の方向、大さん橋の先端を望むかのように設置されていた。横浜の飛翔、航海の平穏、世界の平和への願いが込められていると。ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルの1Fロビーには、原型が展示されていると。株式会社横浜銀行より寄贈されたのだと。横浜市西区と中区を分ける運河に架かる「国際橋」とその先に「横浜ランドマークタワー」と「コスモクロック21」が。「女神橋」を渡りながら、運河の先にある「パシフィコ横浜 会議センター」を見る。再び「コスモクロック21」。そして「横浜ぷかりさん橋」が近づいて来た。「横浜ぷかりさん橋(ぷかりさんばし、ぷかり桟橋とも表記)は、神奈川県横浜市西区みなとみらいにある横浜港の客船ターミナル(浮桟橋)。正式名称は「みなとみらい桟橋・海上旅客ターミナル」で、みなとみらいさん橋とも呼称される。客船、プレジャーボートの発着場であるとともに、みなとみらい地区のシンボル的な存在であり、観光地スポットとしても知られている。また、2018年には「よこはま・みなとみらい海の駅」として海の駅に認定されている。客船ターミナルは時計台のある西洋風・2階建ての建物で、1階が切符売り場と待合室、2階がヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル直営の海上レストラン「ピア21」となっている とのこと。「横浜ぷかりさん橋」手前から「横浜港 ハンマーヘッドクレーン」とその先の「横浜ベイブリッジ」を振り返る。「女神橋」を潜り降車場所に向かう「水陸両用バス「スカイダック横浜」」の姿が。「パシフィコ横浜 国際交流ゾーン プラザ広場」方面への入口が左側に。中央には、階段状の水の流れが。涼しさに暫し立ち止まる。現在地はここ。「横浜ぷかりさん橋」には人の姿はほとんどなし。「横浜市風力発電所 ハマウィング」と「JERA 横浜火力発電所」の煙突を遠望する。その右手方向には「横浜ベイブリッジ」。更に進むとあったのが「パシフィコ横浜 国立大ホール」。東日本唯一の「国立」の会議場は二枚貝をイメージした外観が特徴的な、パシフィコ横浜を代表とするメイン施設。更に「臨港パーク」沿いに北に向かって進む。神奈川県横浜市西区みなとみらい1丁目1−先。現在地はここ。右手奥に「鶴見つばさ橋」の姿が。その手前に「首都高速神奈川5号大黒線」。「鶴見つばさ橋」は中央径間長(510m)は多々羅大橋、名港中央大橋に次いで斜張橋として日本国内3位、また全長(1020m)は一面吊りの斜張橋としては世界一の長さである。将来は国道357号が同じ形式で併設され、双子の並列斜張橋となる予定 と。「御製の碑」。「御製魚の住む 海保ちたる 横浜の 港につどひ 真鯛放てり」。「平成17年11月20日、横浜みなとみらいにおいて、海の再生と魚の食文化の創造を基本理念として第25回全国豊かな海づくり大会が開催されました。この御歌は、大会にご臨席された天皇陛下が詠まれたものです。」緩く弧を描く、臨港パークの水際。こちらも階段護岸になっていた。「YOKOHAMA WIND ENERGY(横浜市風力発電事業)」案内板。右手の対岸(瑞穂ふ頭)に見える大きな風車は、私たち横浜市民がつくった風力発電所です。地球温暖化の原因となるニ酸化炭素(C02)や、大気汚染の原因となる有害物質を出さない、安全でクリーンな”風”がそのエネルギー源です。(機種説明)・機種 V80-2. OMW・メーカー ヴェスタス社(デンマーク)・定格出力 1 , 980kW (最大の出力)・カットイン風速 4m/s (発電を開始する風速)・カットアウト風速 25m/s (強風時に安全のため発電を停止させる風速)・定格風速 15m/s (風力発電機の定格出力が得られる風速)・ハプ高さ 78m (最高到達点118m)・ローター直径 80m・ローター回転数 9 ~ 19rpm」その「YOKOHAMA WIND ENERGY(横浜市風力発電事業)」をズームで見る。みなとみらい最大の緑地、臨港パーク。臨港パークの先行オープンは平成元年(1989)。横浜博覧会(YES'89)が開催された年であり、気が付くともう三十三年。その先、左斜め方向にユニークな形状の建物が現われた。「横浜ベイブリッジ」をこれでもかと。「錨のオブジェ」。案内板はみつからなかった。みなとみらい21埋立地の造成の際に出てきたのだろうか。中央地区の陸地寄りは、かつて三菱重工横浜造船所(旧横浜船渠会社)そして高島埠頭だったのだが。花壇には、潮風に負けずに美しい花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.09
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【ベル数】(英: Bell number)は、『n個のものを分割(もしくはグループ化)する方法の総数にあたる数である。』n番目のベル数を Bn とし、B0 = B1 = 1 と定義する。Eric Temple Bell にちなんで名付けられた。例えば 3個のものをグループ化する方法の総数は5通り(後述)であるので 3番目のベル数 B3は5である。ベル数を1から小さい順に列記すると1, 1, 2, 5, 15, 52, 203, 877, 4140, 21147, 115975, 678570, 4213597, 27644437, 190899322, 1382958545, 10480142147, 82864869804, 682076806159, 5832742205057, 51724158235372, 474869816156751, 4506715738447323, 44152005855084346,・・・・・。★計算例と性質a, bの2つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}{a, b}の2通りであり、よってB2 = 2。a, b, c の3つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}, {c}{a}, {b, c}{b}, {a, c}{c}, {a, b}{a ,b, c}の5通りである。よって B3 = 5 となる。同様に B1 = 1 であり、B0 は空集合(0個の要素)をグループ化すると考えて B0 = 1 とする。a, b, c ,d 4つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}, {c}, {d}{a}, {b, c, d}{b}, {a, c, d}{c}, {a, b, d}{d}, {a, b, c}{a,b},{c,d}{a,c},{b,d}{a,d},{b,c}{a},{b},{c,d}{a},{c},{b,d}{a},{d},{b,c}{b},{c},{a,d}{b},{d},{a,c}{c},{d},{a,b}{a ,b, c, d}の15通りである。よって B4 = 15 となる。したがって、ベル数B(n)も順次求められる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.08
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ーーがこの日・(その28)の散策ルート。「YOKOHAMA AIR CABIN 運河パーク駅」。約30m間隔でキャビン(ゴンドラ)が動いていた。1分間隔で出発、約5分で桜木町駅に到着すると。キャビン(ゴンドラ)は世界的に知られたスイスの「CWA社」製を採用。横浜ナイトビュークルージング発着所近くから「横浜みなとみらい21」地区の高層建物群を見る。1993年:「横浜ランドマークタワー」開業。1997年:「クイーンズスクエア横浜」(24街区)開業。1999年 「よこはまコスモワールド」(15・23街区)正式開業 (観覧車コスモクロック21も移転)。次々と来る「YOKOHAMA AIR CABIN」のキャビン(ゴンドラ)を見上げる。汽車道に架かる「港3号橋梁」が手前に。汽車道に3つ連続するかつての鉄道橋のうち、旧横浜駅(現・桜木町駅側)から3番目にあり、もっとも小さな橋が港三号橋梁。明治39年に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィート鈑桁橋(鋼ワーレントラス橋)で昭和3年、横浜生糸検査所引込線の大岡橋梁として転用されたもの。左に「汽車道」の線路、右に「港3号橋梁」汽車道は、ここがかつての軌道敷きを利用して作られた道なのである。ここは1998年に整備され、桜木町駅前から三基のトラス橋を渡り、新港地区の横浜ワールドポーターズ前へと通じている。さらに、その先の山下臨港線プロムナードへと続き、桜木町から港の見える丘公園に通じる「開港の道」の一部となっている。「高島貨物線」の桜木町駅の手前から左に枝分かれした「横浜臨港線」は3つの鉄橋を渡り、横浜港駅へと向かった。この線の開業は古く、1920(大正9)年。今から102年も前である。現在、横浜港駅までの廃線跡は「汽車道」として、歩道化されている。高島貨物線(横浜臨港線・山下埠頭線)軌間 1067mm開業横浜臨港線 高島駅(0.0km) - 東横浜駅(1.8km) - 横浜港駅(4.3km) 1915(大正4)年12月30日 貨物支線 程ヶ谷 - 高島 - 東横浜間(5.31km)が開業。 (貨)高島駅、(貨)東横浜駅が開業。1920(大正9)年7月23日 東横浜 - 横浜港間(2.57km)延伸開業。横浜港駅が開業。 山下埠頭線 横浜港駅(0.0km) - 山下埠頭駅 (2.0km) 1965(昭和40)年7月1日 貨物支線 横浜港 - 山下埠頭間 (2.0km) が開業。 (貨)山下埠頭駅が開業。 廃止 1986(昭和61)年11月1日 横浜港 - 山下埠頭間 廃線。高島 - 横浜港間の貨物営業を廃止し、 旅客営業路線として存続。 1987(昭和62)年3月31日 高島 - 横浜港間 (4.3km) 廃線。※Wikipediaより海の中には「YOKOHAMA AIR CABIN」の3本の支柱が。左に見えたのが「万国橋」、「神奈川県警察本部」、「横浜税関」、「横浜マリンタワー」頂上部。「汽車道」を「ナビオス横浜(NAVIOS YOKOHAMA)」方面に戻る。汽車道をまたぐ「ナビオス横浜」、開口部の先の赤レンガ倉庫を遠望する。「横浜エアキャビン(YOKOHAMA AIR CABIN)運河パーク駅」を振り返る。「万国橋」交差点には電動アシスト自転車タクシー「シクロポリタン」が走っていた。シクロ (三輪車)+メトロポリタン (市民) の名前の通り、市民の新しい交通手段となるため、フランスで2003年から運行していると。横浜では2012年9月から、小さなお子様からお年寄りまで幅広い年齢の方々の気軽な足として利用されていると。「新港サークルウォーク」「新港サークルウォーク」は、国際大通りと万国橋通りの交差点に架けられた楕円形の歩道橋。1999年(平成11年)の竣工。橋長は、約225m。「新港サークルウォーク」は、我が国の近代港湾発祥地である新港地区赤レンガパーク前に建設されていた。赤レンガパークは、明治~大正当時の建築技術を結集して建設された赤レンガ倉庫を中心に、港の賑わいと文化を創造する空間として、市民が憩い、楽しむ賑わいの場となっている。本「新港サークルウォーク」は、主構が楕円形のダブルワーレントラスとなっており外側に張り出し床版を設けるという、世界に類例がない構造を採用している。曲線トラスの外側に路面を設置することで、眺望性を確保し、周囲の建物と直接アクセスする機能性の高い歩道橋となっています。外装材を設けず、構造デザインを直接見せることで、鋼構造らしい機能美とコスト縮減の両立を図り、赤レンガ倉庫の残る歴史的景観との調和を図っているのだと。「赤レンガ倉庫」が見えた。現在地はここ。「横浜赤レンガ倉庫1号館」も見えた。「横浜ベイブリッジ」も。そして「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」に停泊する巨大豪華客船の姿が。連絡橋から「新港サークルウォーク」へ「新港サークルウォーク」での現在地はここ。「赤レンガ倉庫」案内板。「20世紀を迎える頃、横浜港は国際貿易の要衝として急速に拡大を続けており、保管、保税に対応できる倉庫の整備が求められていました。それを受けて、新港ふ頭には、2棟の画期的な倉庫が建設されることになり、その1棟目が1907年に着工し、1911年に2号倉庫(2棟のうち大きい方)が、次いで1913年に1号倉庫が竣工しました。当時は横浜税関新港埠頭倉庫と呼ばれていましたが、やがて赤レンガ倉庫の名で知られるようになりました。防火対策として、レンガの他にも防火戸や避雷針、消火水栓などの設備が備えられたほか、耐震性の向上のため、レンガの中に鉄材を埋め込むという当時の技術としては最新の手法が取り入れられました。関東大震災などの難局をくぐり抜けてきたこのレンガ造りの建物は、横浜港の貴重な歴史、そして常に発展し続けてきた姿を後世まで伝える存在となっています。」歩道用の床板が内側のトラス桁橋げたから張り出し、外側に取り付けられた形になっていたのであった。構造的にもデザイン的にも非常にユニークな歩道橋。平成11年度の土木学会田中賞を受賞したと。歩きながら、周囲の風景を楽しむには、トラスの鉄骨が邪魔にならない設計。そして「新港サークルウォーク」を降りると前方に見えたのが「新港ふ頭客船ターミナル」。「新港サークルウォーク」を振り返る。「客船ターミナル入口」交差点を渡る。「シーバス ハンマーヘッド (新港ふ頭さん橋) のりば」を見る。「横浜港新港ふ頭」を東に進む。サルスベリの花が開花。赤い花にズームして。前方左に見えて来たのが「横浜海上保安部」。「横浜港新港ふ頭5号岸壁」には「横浜海上保安部」の巡視船艇「いず PL31」が停泊していた。白い花にもズームして。そして左側にあったのが「ララ物資の記念碑」。1946(昭和21)年、戦災により何もかもが足りなかった時、横浜新港ふ頭に、ララ物資を積んだ米国船が到着。積み込まれた食品や衣類などの物資は横浜市内の倉庫、通称「ララ倉庫」にいったん移され、そこから政府へ引き渡された後、全国の施設等約1700ヶ所余りに配られたのだと。ララ倉庫と呼ばれていたのは、旧三井物産横浜支店倉庫。1910(明治43)年竣工のレンガ造りの倉庫で、横浜に現存する最も古い倉庫建築だった。2014(平成26)年取り壊しが決まり、貴重な歴史建築として保存運動がさかんに行われたが、2015(平成27)年解体されてしまったと。『ララ物資の記念碑』には香淳皇后 御歌が2首。「ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしつ」「あた>かき とつ国人の心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも 」左側の石碑のパネルには「ララ」についての詳しい説明があった。「第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大なご尽力もあったと伝えられる。この救済物資は、『アジア救援公認団体』の英語名“Licensed Agencies for Relief in Asia”の頭文字から『ララ』物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に『ララ』物資を積んだ第1船ハワード・スタンズベリー号が、ここ横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月まで送られ続けた。記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の『ララ』倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである。」。この碑は2001(平成13)年、地元横浜の有志によって建てられたものだと。「旧横浜港駅プラットホーム」。生糸の輸出全盛時代に、新港埠頭と当時の横浜駅(現在の桜木町駅)を結ぶ横浜臨港線として、明治43年8月15日に開通し、明治44年9月1日に横浜港荷扱所として開業したのが横浜港駅。大正9年7月23日付で正式に横浜港駅(よこはまみなとえき)となったプラットホームが横浜赤レンガ倉庫横に、旧横浜港駅プラットホームとして現存。その先には以前に訪ねた「海上保安資料館 横浜館」👈リンクが。2001年12月22日に発生した、九州南西海域工作船事件。我が国周辺海域を武装した工作船が徘徊しているという事実を白日のもとにさらし、日本中を驚愕させに。工作船に相対峙した海上保安庁の対応から自爆・沈没しに工作船の引き上げまての状況、次々と明らかになった工作船の実態など、工作船の一般公開を実施しているのであった。右手奥に「赤煉瓦倉庫1号館」(奥)、「赤煉瓦倉庫2号館」(手前)が見えた。新港埠頭建設の一環として、明治政府によって横浜税関新港埠頭(保税)倉庫として建設され、2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工した。そして巨大豪華客船「飛鳥Ⅱ」の全貌を見る。「飛鳥Ⅱ」は、日本郵船の関係会社である郵船クルーズが所有・運航している外航クルーズ客船。2006年2月に売却された「飛鳥」の後継船にあたる。1990年6月、同じく日本郵船の関連会社であるクリスタル・クルーズのクルーズ客船「クリスタル・ハーモニー(Crystal Harmony)」(バハマ船籍)として三菱重工業長崎造船所で竣工した。その後2006年1月、郵船クルーズが本船を買い取り日本市場向けの改装を施し、2月末よりの習熟航海を兼ねた日本各地でのお披露目を経て、3月17日に正式デビューした。「飛鳥II」の船籍港はここ横浜港であり、郵船クルーズの本社所在地もここ横浜市である。「飛鳥Ⅱ」の右手に「横浜マリンタワー」が見えた。「飛鳥Ⅱ」の主要仕様は・就航 - 1990年・全長 - 241m・全幅 - 29.6m・船客定員 - 960人・乗組員数 - 545人大型化のデメリットの最たるものは、喫水が深くなることにより、寄港できる港が制限されることであると。例えば屋久島は、「飛鳥」では特に秋口には毎週のように寄港するほどの人気の寄港地であったが、「飛鳥II」では喫水オーバーにより、岸壁に接岸することができなくなった。2006年以降の「飛鳥II」のスケジュールには屋久島が組み込まれていないのだと。船首をズーム。9月、10月の就航予定をネットから。「横浜ベイブリッジ」。写真右の「横浜ベイブリッジ」の手前には「大さん橋ターミナル」の先端部が。「海上保安資料館横浜館」横の岸壁には「海上保安庁のヘリコプター2機搭載型巡視船「あきつしま」PLH32」が停泊中。「赤レンガパーク」を見る。「旧税関事務所遺構」が左手奥に。「旧税関事務所遺構(右突堤中央寺務所)これは大正3年(1914) 5月に建設された税関の事務所遣構です。レンガ造りスレートぶき、3階建のゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923) 9月1日、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事のさいに発見され、現在、花壇として利用しています。しゅん工時、1階には「ガラス張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務室や応接室、外航船や荷役のための貸事務所がありました。ガス暖房や電気照明も完備されていました。」そして「ララ物資の記念碑」の手前まで戻る。現在地はここ。「港湾局管理の雨水管マンホールの蓋」 「港湾局 PORT OF YOKOHAMA 1859 雨」の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.08
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【タクシー数】(taxicab number、Ta(n)もしくはTaxicab(n)と表記される)とは、【2つの立方数の和として n 通りに表される最小の正の整数】と定義される。1954年にゴッドフレイ・ハロルド・ハーディとエドワード・メートランド・ライト(英語版)が全ての正の整数n に対し、Ta(n)が存在することを示した。その証明を利用すれば「2つの立方数の和として n 通りに表される正の整数」を見つけることはできる。ただしそれが最小の数であるかは保証されていないため、Ta(n)であるとは限らない。【ラマヌジャンのタクシー数】といわれる.その由来は次のような逸話である.ラマヌジャンはインドの生んだ天才数学者であり,イギリスに来て1918年2月ごろ療養所に入っていた.見舞いに来たハーディ(彼がラマヌジャンをイギリスによんだ)は「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった.さして特徴のない,つまらない数字だったよ.」と言った.これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った.「そんなことはありません.とても興味深い数字です.それは2つの立方数の和で2通りに表せる最小の数なのです」と。★既知の【タクシー数】👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.07
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ーーがこの日・(その27)の散策ルート。「神奈川県立歴史博物館」を後にして、本町通りから再び「旧第一銀行 横浜支店」を見る。本町通り「本町四丁目」交差点手前から「旧富士銀行横浜支店」を交差点越しに見る。神奈川県横浜市中区本町4丁目44。「本町四丁目」交差点を渡り、「旧富士銀行横浜支店」前まで来る。現在地はここ。「旧富士銀行横浜支店ルスティカ積みの外壁に、ドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。」所在地:中区本町4-45構造・規模:RC造り2階建築年代:昭和4年(1929)設計:安田銀行営繕課施工:昭和土木建築トスカナ式の列柱に大理石、アーチ窓、雷紋等の重厚な建物とレトロなデザインが見ごたえ十分。入口の上部には「東京芸術大学」の銘板が嵌め込まれていた。現在は東京芸術大学 大学院映像研究科 馬車道校舎の施設として利用されているようだ。扉の彫刻が、重厚感たっぷり。「横浜市認定歴史的建造物 旧富士銀行横浜支店元安田銀行 横浜支店」。建築年 1929(昭和4)年1953(昭和28)年増築設計者 安田銀行営繕課」本町通りを進むと右にあったのが「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」。後ろに建つ高層ビルは「D’ グラフォート横浜クルージングタワー」という高層マンション。神奈川県横浜市中区本町4-41イオニア式オーダーが銀行らしい重厚な印象を与える建物で横浜市認定歴史的建造物だが、いわゆるファサード保存した、日本興亜馬車道ビルと同じく「かざぶた建築」の物件。新築の高層ビルに昔のレトロな外壁を貼りつけるこの方式は、「かざぶた建築」ともいわれる。設計は日本興亜馬車道ビルを設計した矢部又吉。横浜市認定歴史的建造物の鉄筋コンクリート造り、2階建て。重厚な黒の入口。「横浜市認定歴史的建造物旧東京三菱銀行横浜中央支店(元第百銀行横浜支店)復元:2004(平成16)年旧建物建築年:1934(昭和9)年旧建物設計者 :矢部又吉その先、みずほ銀行横浜支店横にあったのが「横浜為替会社」設立の碑。明治3年(1870年)の火災で焼失後明、この地に明治4年(1871年)に再築された横浜為替会社の建物。(写真は、明治38年(1905年)発行の横浜商業会議所月報に掲載された第二銀行時代のもの)明治2年(1869年)、本町三丁目に横浜為替会社が設立された。「為替会社」は、「BANK(銀行)」の訳語であり、わが国近代銀行のはじまりとされ、全国に8社(東京、横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀)設立された。横浜為替会社は、全国の為替会社の中で唯一、洋銀券(ドル紙幣)を発行したほか、金券・銀銭札という紙幣を発行するとともに、生糸売込商等の横浜商人の資金需要に応じた。横浜以外の為替会社7社は、数年で解散に至ったが、横浜為替会社は、開港間もない明治初期の横浜に不可欠な金融機関となっていった。このため、横浜為替会社は、国立銀行条例公布に際し、横浜商人からの請願により、明治7年(1871年)、解散することなく、第三国立銀行に組織変更することになる。第二国立銀行は、主に横浜商人の出資により設立された銀行として、引き続き洋銀券を発行するとともに、資金面で横浜の生糸等の産業を支えた。なお、第二国立銀行は、その後、国立銀行の営業満期により第二銀行となり、昭和3年(1928年)、横浜興信銀行(昭和32年(1957年)横浜銀行に名称変更)に営業を譲渡した。平成22年12月 財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー」「横浜為替会社」。そして道路の反対側にあった結婚式場「カサ・デ・アンジェラ」を見る。その先、「本町三丁目」交差点の角にあったのが「旧横浜銀行集会所」&「(社)横浜銀行協会」正面から。戦前は横浜正金銀行本店を始め、 三井・住友・安田・第一・三菱の、当時で言うところの五大銀行が店舗を構えていた一帯だった。そのような横浜の金融の中心街である本町通りに、銀行員の親睦・保養を目的として昭和11年に建てられたのが、この「横浜銀行協会」だったと。アールデコ調の直線的なデザインで纏められている。横断歩道を渡って。「社団法人 横浜銀行協会」、「横浜銀行倶楽部」のそれぞれの銘板。玄関ポーチの屋根に施されたチョコレート色の装飾と一本足の白い8角形の柱に施されたアールヌーヴォー調な花模様のレリーフ装飾がエレガント。「横浜銀行協会」前から先程訪ねた「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」を見る。「みずほ銀行横浜支店」を見る。さらに「本町通り」を「日本大通り」方面い進み「本庁二丁目」交差点を渡り右に折れた場所に案内板があった。「生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡」中居屋重兵衛は、上野国吾妻郡中居村(現在群馬県吾妻郡嬬恋村三原)の出身で、横浜が開港した安政6年(1859)に横浜に進出し、黎明期の生糸貿易を担った貿易商です。その取引量は全輸出生糸の過半を超え、幕末の生糸貿易は中居屋によって支えられました。彼の店には全国各地の商人が生糸を持ち込み、多くの外国商人が生糸買付けに訪れたと伝えられます。文久2年(1862)に刊行された「横浜開港見聞誌」は、中居屋の店の様子について、商談に訪れる外国人の目を楽しませるために、金網を張った中庭に小鳥を放ち、座敷の廻りにはガラス張りの大きな水槽を置き、金魚を泳がせていたと記しています。豪商中居屋の隆盛を伝える記述です。中居屋は横浜発展の礎を築いた人物であり、明治時代になると、その事業は多くの生糸貿易商に引き継がれました。そして、横浜は日本最大の貿易都市に成長していきました。現在、中居屋の活躍は遠い過去のものになってしまいましたが、この地が中居屋重兵衛の店があった場所として永く後世に伝えられることを願っています。平成15年(2003)10月26日群馬県吾妻郡嬬恋村 中居屋重兵衛顕彰会」ここから引き返して「本町三丁目」方向に進む。左前方に「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」を見ながら進む。現在地はここ。再び結婚式場「カサ・デ・アンジェラ」を見る。「カサ・デ・アンジェラ(Casa d' Angela)」。1階内部の階段。結婚式場のステンドグラスをネットから。「本町4丁目」交差点まで戻る。交差点角の横浜第一ビルディングの前にあったモニュメント。「本町四丁目」交差点を右折して「万国橋通り」を進む。左にあったのが「横浜第2合同庁舎」。神奈川県横浜市中区北仲通5丁目57。竣工年:1993年高さ:23階延べ床面積:74,048㎡建築主:建設省関東地方建設局設計:関東地方建設局営繕部施工:大林組など国の出先機関が入る高層合同庁舎。万国橋通りと本町通りが交わる馬車道の交差点に面しており高い視認性をもつ。 農林水産省、厚生労働省、国土交通省などの関連団体が入居、 関東一円をカバーする第三管区海上保安本部も置かれている。完成当時は全国で最も大きな合同庁舎だった。低層の赤レンガの建物は旧・横浜生糸検査所(のちに横浜農林水産総合庁舎)。 1926年の竣工で横浜市認定歴史的建造物に認定されている。」元は1926年(大正15年)に再建された横浜生糸検査所で、横浜市認定歴史的建造物として認定されている。赤煉瓦の壁面・柱と白いセメント部、そして規則的に並んだ縦長窓がリズミカル。正面玄関上部には、モスラのような蚕の成虫をモチーフにした紋章が設けられていて、マユからパカッと菊の紋章が出てきているデザインがユニーク。奥の高層棟から独立して立っており外観は忠実に復元されているのだ と。次の交差点から「ランドマークタワー」が見えた・・・が、ややお疲れ気味の私であった。そして手前にはこの日の運転を開始した「ヨコハマエアーキャビン」の8人乗りキャビンの姿が。神奈川県横浜市中区海岸通5丁目25−3。その先にあったのが「アパホテル&リゾート横浜ベイタワー」。地上35階、地下2階、高さ135.04m、客室2311室の超高層ホテル。 1棟の建物としては日本最大の客室数と。 設計は久米設計と新居千秋都市建築設計、施工は大林組。 2019年9月20日に開業。右手入江には屋方船の係留場所かつ居酒屋になっているようであった。「万国橋」手前から「みなとみらい」の高層ビル群を見る。「クイーンズスクエア横浜」と「キャビン」。「横浜ランドマークタワー」を入れて。右手には横浜税関の緑青色のシンボルドーム「クイーンの塔」と「横浜マリンタワー」の先端が見えた。再び296mの「横浜ランドマークタワー」。「ばんこくばし(万国橋)」。「万国橋」の奥に「汽車道」の「港二号橋梁」が確認できた。「万国橋」交差点の先にはショッピングモール「横浜ワールドポーターズ」が。右手には「赤煉瓦倉庫」の屋根が。「ナビオス横浜(横浜国際船員センター)」。「横浜国際船員センター」とも呼ばれ、一般財団法人日本船員厚生協会が運営する船員・海事関係者のための福利厚生施設であるが、一般の人も利用可能であるとのこと。ホテルの下部には吹き抜けがあり、遊歩道として汽車道が整備されている。この吹き抜けは「絵画の額」をモチーフとしており、運河パーク側からは横浜赤レンガ倉庫など「古き良き横浜」の景色が、反対の新港中央広場側からは横浜ランドマークタワーなど「新しい横浜」の景色が絵画のように見える設計となっている。「大型原油輸送船「高岡丸」の錨」この錨は(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック横浜工場の寄贈によるもので、石川島播磨重工業(株)横浜工場で1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量215,850K/T)に備え付けられていたものと同型のものです。錨の重量は18.27K/Tで長さは4.8m、幅2.9mあります。我々日本人は、1トンは1,000キログラムであると教わって来たが、欧米では異なったトンが存在したのです。即ち、日本人の考えるトンは正式にはメトリック・トンと呼ばれるもので、次ぎの通りとなります。M/T = M/Ton = Metric Ton = K/T = K/Ton = Kilo Ton = 1,000kgs.= 1,000 kilo grams = about 2,204.62 lbs (lbs = pound)。よって18.27K/Tは18.27TONのこと。裏側から。ホテルの下部の吹き抜けを抜けて、レールが遺っている「汽車道」を歩く。そして「ヨコハマエアキャビン」の「キャビン」を見上げる。全長 : 約1260m(片道630m)最高高さ : 約40mキャビン数: 36台定員 : 8人乗り(×36台=288人)大観覧車「コスモクロック21」を背景に。全高 :112.5m回転輪直径 :100.0m1回転所要時間 :約15分乗員数 :8人×60台定員 :480人 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.07
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【ピタゴラス数】は、『 a^2 + b^2 = c^2を成り立たせる3つの自然数a 、 b 、cの組』である。この数の組は一般的に(a, b, c)と書かれ、その一例は(3, 4, 5)である。 (a, b, c)がピタゴラス数の場合、任意の正の整数kに対して(ka, kb, kc)も同様である。原始ピタゴラス数は、 a 、 b 、 cが互いに素である三つの数の組である。 (3, 4, 5)は原始ピタゴラス数であるが、 (6, 8, 10)はそうではない。例(3、4、5)(5、12、13)(8、15、17)(7、24、25)(20、21、29)(12、35、37)(9、40、41)(28、45、53)(11、60、61)(16、63、65)(33、56、65)(48、55、73)(13、84、85)(36、77、85)(39、80、89)(65、72、97)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おぼえておきたいピタゴラス数【ピタゴラス数をすべて求めることができる公式】例えばm=2,n=1を代入するとa=4-1=3b=4c=4+1=5 となり (3,4,5)となる。m=3,n=2を代入するとa=9-4=5b=12c=9+4=13となり (5,12,13)となる。m と nに様々な値を代入するだけで、無限にピタゴラス数を作り出せるのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.06
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2章 地図を作る地図印刷技術者 岩橋教章と岩橋章山【前期】人類は、自らが住まう世界を深く理解するため、地図作りに情熱を注いできた。明治時代の銅版印刷による地図には驚くほどの精緻さで地上の様子が描写され、作り手の尋常ではない姿勢が見て取れる。とりわけ注目すべきは、親子2代で地図作りに携わった印刷技術者の岩橋教章と章山である。父の教章は、1873(明治6)年のウィーン万博へ派遣され西洋の技術を習得すると、帰国後は主に内務省地理局で地図の印刷事業に取組んだ。息子の章山は、日本と台湾を行き来しながら印刷技術の開発にあたり、父の業績を後世へ語り継いだ。当時の最新技術によって作られた地図を通じて、最前線で活躍した人たちの動向に迫る。「鳥の視線で上空から地表面を斜めに見下ろすようにして描かれた地図を鳥瞰図と呼ぶ。大正から昭和にかけて各地て鳥瞰図を描き、一世を風靡した人物が吉田初三郎である。神奈川県内では、早くは1917 (大正6)年頃から鎌倉や箱根で鳥瞰図を手がけ、1932 (昭和7)年には全長約4mの神奈川県鳥瞰図を描いた。その鳥瞰図を丹念に読み込めば、交通網が展開する様子や、関東大震災から復興を遂げようとする状況など、描かれた当時の最前線の姿が浮かび上がってくる。吉田初三郎の弟子であり、戦後に横須賀を拠点にして多くの鳥瞰図を描いた中村慈郎にも注目して、鳥の目で眺めた地域の様子を紹介する。」「吉田初三郎吉田初三郎(1884 ~ 1955年)は、大正から昭和にかけて各地で鳥瞰図を描いた人物である。鳥瞰図とは、鳥の目で地表面を斜めに見下ろしたようにして表現した図を指す。1884 (明治17)年に京都で生まれた吉田初三郎は、洋画家の鹿子木孟郎に絵画を学び師の勧めで商業美術の道を歩んだ。1913(大正2)年に発行された京阪電鉄の沿線案内図が皇太子(後の昭和天皇)の目に留まり、1921 (大正10)年には鉄道省の「鉄道旅行案内」が好評となって一躍その名が知られるようになった。「大正の広重」を名乗った吉田初三郎が残した鳥瞰図は1600点以上ともいい、本展では主に神奈川県域を対象として紹介する。神奈川県内では、早くは1917 (大正6)年から鎌倉や箱根で鳥瞰図を手掛けている。鎌倉では江之島名所図絵[2-56〕のほか大正期のものが複数ある。また、箱根では湯本の老舗温泉旅館である萬翠楼福住に肉筆の鳥瞰図〔2-62〕があリ、早い時期の作品として貴重である。さらに、神奈川県内では大正期に川崎大師〔2-79〕や清浄光寺(遊行寺)〔2-80〕、大雄山最乗寺〔2-81〕といった寺院を対象とした鳥瞰図が出版されている。1923 (大正12)年の関東大震災後には数多く描かれるようになり、なかでもコロムビアレコード川崎工場図〔2-88〕は肉筆のものとして貴重である。日本畜音器商会(現日本コロムビア株式会社)の川崎工場屋上にコロムビアマークのネオン塔が完成したことを記念して描かれたもので、オレンジ色の大きな丸と音符のネオンサインが一際目立っている。」「コロムビアレコード川崎工場図」。「コロムビアレコード川崎工場図吉田初三郎 (昭和6)年 日本コロムビア株式会社」「創立70周年記念 「流行歌のあゆみ」」。「レコード「コロムビアレコード川崎工場図(「創立70周年記念 流行歌のあゆみ」)1980(昭和55)年5月日本コロンビア株式会社 根岸調査局」「上段:川崎大師平間寺図絵 吉田初三郎/大正名所図絵社 1916(大正7)年9月25日 根岸調査局中段:時宗総本山清浄光寺全景 吉田初三郎 1920年代 当館下段:相模鉄道沿線案内 金子常光/相模鉄道 1920~1930年代 神奈川県立図書館」「上段:道了大菩薩鎮座大雄山名所図絵 吉田初三郎/大雄山最乗寺 1922(大正11)年12月5日」富士山、伊豆半島をズームして。「関東震災全地域鳥瞰図絵 1924(大正13)年9月15日」「関東震災全地域鳥瞰図絵 吉田初三郎/大阪朝日新聞社 1924(大正13)年9月15日」「上段:ポスター「南武鉄道開通」」。「神奈川県鳥瞰図」。箱根、富士山をズームして。「神奈川県鳥瞰図1923(大正12)年9月1日の関東大震災で神奈川県域は大きな被害を受けたが、復興の過程で現在に都市の骨格も形作られた。神奈川県鳥瞰図〔2-91〕は吉田初三郎が1932(昭和7)年に神奈川県観光連合会から依頼を受けて描いたもので、復興の様子が概観できる。神奈川県観光連合会は観光の振興を目的とした半官半民の団体で、県内の観光名所を宣伝するために鳥瞰図を作った。神奈川県鳥瞰図には県域を東西に貫く東海道本線や東京と神奈川を結ぶ私鉄網が描かれ、関東大震災から復興する過程で観光を支える交通網が整備された様子が分かる。同図が描かれた1932(昭和7)年までに開通した主な鉄道として、小田原急行鉄道や東京横浜電鉄(1927年)、小田急藤沢線や南武鉄道(1929年)、湘南電鉄(1930年)などがある。吉田初三郎は鉄道沿線の案内図を数多く手掛けたことが知られていて、南武鉄道〔2-84・85〕や小田原急行〔2-86・87〕では大型のポスターと印刷パンフレットが揃って作られた。神奈川県鳥瞰図が完成した翌年の1933(昭和8)年には、同図をもとにした印刷パンフレットの神奈川県観光図絵〔2-92〕が発行された。部数は1万2千部に及び業者を通じて販売されたり、博覧会の来場者に配されたりして世間に神奈川県の魅力を広めた。また、県の道路課や河港課等によって視察団体に対し配布されていた。つまり、神奈川県鳥瞰図や神奈川県観光図絵は、観光に留まらず、県による施策の最新状況を広報する最前線の地図として使われていた。」「上段:湘南電鉄沿線名所図絵下段:横浜市鳥瞰図」「平面図を美化シタル熱海温泉實寫案内圖」「妹尾春太郎鳥瞰図が並ぶ。「箱根山鳥瞰図」。「箱根名所図絵」コーナー。「日本郵船航路図」。「横浜市観光鳥瞰図」。「絵葉書「小田原景勝」原図」。「二宮神社」。「中村治郎(慈郎)中村治郎は1908 (明治41 )年に静岡県下田町(現下田市)で生まれ、1926伏正15 )年頃に吉田初三郎の門下生となった。戦後、独立した中村治郎は1949 (昭和24 )年頃から横須賀市に住み、神奈川県内の各都市をはじめとして数多くの烏瞰図を描いた。作品の落款には「慈郎」の字か新いられる場合がある。ロ際観光都鎌倉市観光烏瞰図[ 2-112〕は横幅約1.5mの画面に肉筆で描かれた作品で、関連する印刷バンフレットに1949 (昭和24 )年の鎌意江之島名勝案内〔2-113 ]がある。同図は鎌市役所観光課が編集し後藤邦栄堂が発行したもので、表紙に「慈郎」の署名がある。後ている〔2-114〕。発行者の後藤邦栄堂は鎌倉の雪の下に店を構えた書店で、絵葉書や名所案内等を出版した。また、相模原市構想鳥瞰図[ 2-118〕は、1951 (昭和26 )年5月に相模原町(当時)の町制10周年を記念して描かれた鳥瞰図である。額をきめて横幅約3.6mの大画面を使い、左手の相模湖から右手の相模湾に向けて大きく湾曲するように相模川が流れ、その内側に町域が丸く描かれている。地形を大きくデフォルメして画面に納める描き方は、師の吉田初三郎から引き継いだ技術である。中村治郎は、このはかに三崎〔2-116〕や横須賀〔2-117〕等の鳥瞰図を手掛け、1966 (昭和41)年に没した。」「相模原市構想鳥瞰図」。「相模原市構想鳥瞰図中村慈郎1951 (昭和26)年5月相模原市立博物館」「国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図」。「国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図中村治郎 1950(昭和25)年頃鎌倉市中央図書館」「鎌倉江之島名勝案内」。「鎌倉江之島名勝案内中村慈郎/後藤宝栄堂 1950(昭和25)年銀倉市中央図書館」「鎌倉」。「鎌倉と江之島」。「3章"homo Mapiens”たち」人類はまた、自らが住まう世界を深く理解するため、地図を使ってきた。ときに、地図を作る人たちと同様の情熱をもって地図を使う人たちがいる。例えば、郷土の歴史を知るため、現在の横浜市域を描いた最も古い地図として知られる武蔵国鶴見寺尾郷絵図を模写した人たちがいた。また、芝浦製作所の電気技術者である岸敬ニ郎は、水力発電の適地を探すために日本各地の地図を座右に置いて愛用した。1950年代に導入された製図技術であるスクライプ法や、地図のデジタルデータを記録した平成はじめのフロッビーディスクなど、技術の移りかわりを物語る資料とともに、"Homo mapiens"たちの諸相を眺める。」「岸敬二郎岸敬二郎は1869 (明治2)年3月に和歌山城下(現和歌山市)で生まれると、1895 (明治28)年7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業した後、芝浦製作所(現東芝)に入った。自身の卒業論文に基づいて開発した二相式誘導電動機は、日本における誘導電動機(モーター)製作の発端として知られている。また、海外視察で得た知見を広く国内に伝えて新たな国産技術を展開させた。例えば、1904 (明治37)年7月から翌年1月にかけて視察のためアメリカへ派遣された際、トーマス社製の碍子を入手し、帰国後に日本陶器合名会社社長の大倉和親にその製造を勧めた。岸敬二郎が後年に王子製紙の嘱託技師としアメリカ等を視察した際の手帳〔3-20〕には、碍子のスケッチが数多く描かれている。電気技術者の岸敬ニ郎は一見すると地図とは何の縁もないように思えるが、両者を結ぶのが水力発電である。岸敬二郎は、発電施設の立地条件を検討するために地図を常に座右に備えていて、これに基づいて河川の流域や落差、雨量等を概算したうえで実地調査を実施した。また、隣家に火事があった際、岸敬二郎は子どもたちを避難させたあとで「一日も身辺を離さなかった参課本部の地図」を持ち出すよう知人に頼んだという逸話がある[ 3-8〕。この岸敬二郎が愛用した地図や関連資料は、2019(令和元)年と翌年にこ子孫から当館と東芝未来科学館へ寄贈された。本展では、これらの資料を初めて公開する。」「陸地測量部地図帳」。「岸敬ニ郎旧蔵陸地測量部地図帳1884 ~ 1908(明治17~41年)」「農商務省地図帳」。「岸敬ニ郎旧蔵農商務省地図帳1898 ~ 1910(明治31~43)年」「日本郵便航路図」。「日本郵便航路図1935(昭和10)年」「移りかわる最前線」。「東京中心部」地図。「1万分1地形図東京中心部1990(平成2)年11月12日」。「数値地図フロッピーディスク」。「数値地図 フロッピーディスク1994 (平成6)年一部修正」「スマートフォンアプリ「東京時層地図」」。「ウイルド T3 経緯儀 ウイルド社」。「土地被覆図 箱根」。「土地被覆図 箱根県立生命の星・地球博物館が衛星画像や数値地図のデータをもとに製作・解析した地図。アメリカの地球観測衛星ランドサットのデータを解析し、数値地図25000 (地図画像)の地形図上に重ね合わせたもので、箱根町周辺の林地や耕作地、市街地といった土地利用の状況を色別に示している。数値地図25000 (地図画像)は2万5千分1地形図の原図を数値化した画像データで、1997 (平成9)年からCDで刊行。2008 (平成20)年にはオンライン提供が開始された。」「海図 JPN1 日本及近海」。「海図 JPN1 日本及近海2021 (今和3 )年8月19日」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
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