全58件 (58件中 1-50件目)
今日は2022年の大晦日、今年1年を振り帰ってみたいと。キャプション・写真等の前半部分はネットから転載させていただきました。読売新聞の2022年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】安倍元首相撃たれ死亡安倍晋三・元首相が7月8日、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で参院選の街頭演説中、背後から近づいた無職の男に銃撃され、死亡。男の母親は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に1億円以上を献金して破産しており、男は「つながりがあると思った安倍氏を狙った」と供述。事件は世界中に衝撃を与え、各国から弔意が寄せられた。警察庁は8月、現場の不手際と計画段階の不備が重なったとする警護の検証結果を公表した。同庁の中村 格 (いたる)長官と、奈良県警の鬼塚友章本部長が辞任し、要人警護の全面的な見直しが行われた。9月27日には東京・日本武道館で安倍氏の国葬が営まれ、岸田首相ら「三権の長」や皇族方、海外要人を含む4183人が参列した。岸田首相は、歴代最長政権を築いた安倍氏の功績や経済再生、外交での実績などを踏まえて国葬を行うことを早々に決めたが、実施を巡って世論が二分し、内閣支持率下落の一因にもなった。逮捕された男は殺人容疑で送検され、刑事責任能力を調べるため鑑定留置となった。【2位】W杯日本代表16強サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会で、森保一監督率いる日本代表は、強豪のドイツ、スペインを撃破し、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。初の8強入りはならなかったが、世界に日本サッカーの進化を示した。7大会連続7度目の出場となった日本は、11月23日のグループリーグE組初戦でドイツから堂安律、浅野拓磨が得点し、2―1で逆転勝ちした。27日の第2戦はコスタリカに0―1で敗れたが、12月1日の第3戦でスペインを相手に堂安と田中碧がゴールを決め、2―1で逆転勝ち。E組首位で2大会連続4度目の決勝トーナメント進出を決めた。5日の決勝トーナメント1回戦では、前回大会準優勝のクロアチアと対戦。前田大然が先制点を決めたが同点に追いつかれ、1―1のまま延長戦でも決着がつかず、PK戦で惜敗した。スペイン戦では、三笘薫のゴールライン際からのアシストを巡り、ボールの端がわずかにライン上に残っていたことが、ビデオ・アシスタントレフェリー(VAR)による判定で認められ、話題を集めた。また、観客席の清掃を行う日本サポーターの姿に称賛の声が寄せられ、大会組織委員会から表彰された。【3位】知床観光船 沈没事故北海道・知床半島の沖合を航行していた観光船「KAZU I(カズワン)」が4月23日、「船首が沈んでいる」との通報を最後に消息を絶ち、6日後に水深約120メートルの海底で船体が見つかった。沈没事故により、乗客乗員のうち20人が死亡し、6人の行方がわかっていない。運輸安全委員会は今月、経過報告書を公表。船首甲板のハッチに不具合があり、高波の揺れで開いたハッチから海水が流入し、沈没に至ったとする分析を示した。カズワンが航行していたのは、半島西側の約80キロをめぐる所要3時間のコース。出航当日は強風・波浪注意報が出されていて、天候の悪化が予想されたが、船長は同業者からの助言を無視して出航に踏み切っていた。運輸安全委は、カズワンの運航会社「知床遊覧船」(北海道斜里町)の社長らが中止の判断をしなかったことも事故の一因と判断。第1管区海上保安本部が社長らを業務上過失致死容疑で捜査している。この事故では、同社のずさんな安全管理が次々と判明しており、国土交通省は6月、同社の旅客船事業許可を取り消した。【4位】大谷 2桁勝利2桁本塁打米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平が、8月9日のアスレチックス戦に先発投手兼2番指名打者で出場して10勝目を挙げ、「野球の神様」と呼ばれたベーブ・ルース以来、104年ぶりとなる「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した。10月5日の試合では、現在の大リーグ史上で初めて、規定投球回(162)と規定打席(502)の両方に到達した。メジャー5季目の大谷は、投手として15勝を挙げ、防御率2・33で219奪三振。打者としては打率2割7分3厘、34本塁打、95打点をマークし、投打ともにア・リーグトップクラスの成績を収めた。最優秀選手(MVP)への選出が期待されたが、ア・リーグ最多記録の62本塁打を放ったアーロン・ジャッジ(ヤンキース)が選ばれ、大谷の2季連続受賞はならなかった。【5位】村上 56本塁打・三冠王プロ野球・東京ヤクルトスワローズの村上宗隆が10月3日、横浜DeNAベイスターズ戦で、シーズン56号となる本塁打を放ち、1964年の王貞治(読売巨人軍)の55号を超え、日本選手の最多本塁打を更新した。村上は打率3割1分8厘、56本塁打、134打点と、全てリーグトップの成績を残し、史上最年少(22歳)の三冠王に輝いた。8月にはプロ野球新記録となる5打席連続本塁打も達成した。その活躍ぶりから「村神様」の呼び名がインターネットなどで広まり、「2022ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)の年間大賞に選ばれた。【6位】円安1ドル150円突破日米の金利差拡大を背景にドルを買って円を売る動きが優勢となり、10月20日の東京外国為替市場で円相場が一時、1ドル=150円台まで下落した。バブル期の1990年8月以来、約32年ぶりの円安水準を更新した。政府・日本銀行は急激な円安を食い止めるため、円買い・ドル売りの為替介入を実施。9月下旬から10月末にかけて、総額で約9兆円を投じた。【7位】北京五輪 冬季最多メダル2月4日に開幕した第24回冬季五輪北京大会で、日本選手団は、冬季大会で最多となる計18個(金3個、銀6個、銅9個)のメダルを獲得した。2018年平昌大会の13個を上回った。スピードスケート女子の高木美帆は金1個と銀3個、スキージャンプ男子の小林陵侑は金1個と銀1個、スノーボード男子ハーフパイプの平野歩夢も金に輝いた。同女子ビッグエアで、17歳で銅を獲得した村瀬心椛は、冬季大会で日本女子最年少メダリストとなった。【8位】旧統一教会 政治問題化安倍晋三・元首相の銃撃事件をきっかけに、「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)による高額寄付被害が明らかになった。選挙などを通した政治家と旧統一教会との接点も相次いで浮上し、政治問題に発展した。9月に自民党が公表した調査結果では、所属国会議員179人と旧統一教会との接点が判明。国会でも連日、この問題が取り上げられ、岸田首相は10月、相次いで発覚した関係について曖昧な答弁を繰り返した山際大志郎経済再生相を更迭した。11月22日には永岡文部科学相が宗教法人法に基づく質問権を初めて行使。国会では12月10日、高額寄付被害救済・防止法が成立した。【9位】藤井竜王 最年少五冠将棋の藤井聡太竜王が2月12日、王将戦七番勝負で、渡辺明名人に4連勝してタイトルを奪取した。19歳6か月で、史上初となる10代での五冠を成し遂げた。10~12月に行われた竜王戦七番勝負では初防衛に成功。王位、叡王、王将、棋聖とあわせ、五冠を堅持した。来年1月から羽生善治九段と王将戦七番勝負を戦うほか、今期の棋王戦や名人戦でもタイトル挑戦の可能性が残っており、史上初の八冠への期待が高まっている【10位】コロナ感染 1日10万人新型コロナウイルスの「オミクロン株」が年明けから流行し、感染拡大の第6波のピークを迎えた2月5日、国内の1日の感染者数が初めて10万人を超えた。夏には、感染力の強い同株の新系統「BA・5」が猛威を振るった。7月14日には感染者の累計が1000万人を突破し、同23日に1日の感染者数が初めて20万人を超えた。一方で、ワクチン接種が進んだことなどで重症化リスクや致死率は大きく低下した。政府は9月、全ての新型コロナ感染者を把握する「全数把握」を見直した。10月には水際対策も大幅に緩和された11位以下は次の通りと。11位 物価高騰、商品値上げ相次ぐ 8,761(32.9%)12位 改正民法施行、成人年齢18歳に 8,411(31.6%)13位 五輪汚職、組織委元理事ら逮捕 8,220(30.9%)14位 3歳女児、通園バスに取り残され死亡 7,413(27.9%)15位 ロッテ・佐々木朗希が完全試合 6,773(25.5%)16位 北ミサイル発射相次ぐ 6,215(23.4%)17位 山口・阿武町が4630万円誤給付 4,754(17.9%)18位 夏の甲子園で仙台育英優勝、東北勢初 4,308(16.2%)19位 アントニオ猪木さん死去 4,241(15.9%)20位 宮城・福島で震度6強、新幹線脱線 3,498(13.1%)21位 オリックス26年ぶり日本一 3,348(12.6%)22位 作家・元都知事の石原慎太郎さん死去 3,335(12.5%)23位 沖縄本土復帰50年 3,313(12.5%)24位 大学入学共通テスト、問題流出 3,032(11.4%)25位 辞任ドミノ、閣僚更迭相次ぐ 2,976(11.2%)26位 羽生結弦、プロ転向を表明 2,867(10.8%)27位 iPS細胞で慶大が世界初の脊髄治療 2,648(10.0%)28位 KDDI、全国で通信障害 2,636(9.9%)29位 「ドライブ・マイ・カー」が米アカデミー賞 2,548(9.6%)30位 北京パラ、日本勢メダル7個 2,323(8.7%)【その他】 2022年「今年の漢字」は「戦」2022年の世相を表す「今年の漢字」に「戦」が選ばれ、世界遺産・清水寺(京都市東山区)で12日、森 清範貫主が揮毫 した。「戦」が選ばれるのは、米同時テロがあった2001年以来、2度目。公益財団法人「日本漢字能力検定協会」(同)が公募し、応募総数22万3768票のうち「戦」が最多の1万804票を集めた。ロシアのウクライナ侵略や、北朝鮮のミサイル発射など、戦争の恐怖や不安のほか、新型コロナや物価高など生活に身近な戦い、サッカーのワールドカップ日本代表の熱戦などを理由に挙げる人が目立った。2位は安倍晋三・元首相に対する銃撃事件などを受けた「安」、3位は「楽」だった。そして個人的には順不同であるが★市民病院に2回の手術入院8月には、【耳下腺腫瘍】の切除手術で8日間の市民病院での入院、12月末には【大腸ポリープ】の切除手術で1泊2日の入院であった。★4泊5日の沖縄格安旅行。全行程を車でそして旅友の巧みなハンドリングで沖縄本島をほぼ一周したのであった。青い空に白い砂浜、エメラルドグリーンの海をこれでもかと楽しむことが出来たのであった。しかしながら、遠くない昔、悲惨な戦争があったことに目を背けることは出来ない「沖縄戦を学び、平和を考える旅」でもあったのだ。★今年もコロナで始まりコロナで終わった1年 そしてマスク着用で始まりマスク着用で終わった1年「新型コロナウイルス感染症の現在の状況 2022年12月30日現在」今後の感染状況については、全国及び大都市の短期的な予測では、地域差や不確実性はあるものの、横ばいから増加傾向が見込まれるとのこと。年末・年始に向けて社会経済活動の活発化による接触機会の増加等が、地域の感染者数の推移に影響すると考えられるため注視が必要とテレビでは。全国的には、病床使用率は上昇傾向にあり、ほとんどの地域で3割を上回り、感染者数が多い地域などでは5割を上回っている。限りある医療資源の中でも高齢者・重症化リスクの高い方に適切な医療を提供するための保健医療体制の強化・重点化を進めることが必要。また、国民一人ひとりの自主的な感染予防行動の徹底が必要であり、高齢者等重症化リスクの高い方を守るとともに、通常医療を確保する必要に迫られているのだ。★1万世帯以上の自治会連合会の役員として、今年も参加今年は3年ぶりの【ふるさと祭り】、【イルミネーション2022】開催。【ふるさと祭り】【イルミネーション2022】★我がブログも今年も皆勤にて600万回アクセスを通過。 去る10月18日(火)夕方に、我がブログアクセス数も600万回を超えました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。1 そして今日・大晦日2022.12.31の13:00過ぎのカウンターは『6134129』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。★隣接市内の寺社旧蹟巡りを全て完了私の住む神奈川県藤沢市と市境を接している6市1町鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、茅ヶ崎市、寒川町、の寺社旧蹟巡りを全て完了したのであった。★旅友の運転で『続日本100名城』巡りを行う。沖縄県:座喜味城、勝連城栃木県:唐沢山城群馬県: 沼田城、名胡桃城、岩櫃城9月に沖縄県:「座喜味城」👈リンク御城印。沖縄県:「勝連城」👈リンク御城印。11月に1泊2日で栃木、群馬巡り栃木県:「唐沢山城」👈リンク御城印。群馬県:「沼田城」👈リンク御城印。群馬県:「名胡桃城(なぐるみじょう)」👈リンク御城印。群馬県:「岩櫃城(いわびつじょう)」👈リンク御城印。★今年も都内・市内の秋の紅葉を楽しむ。「等々力渓谷」「等々力不動尊」「浄真寺」「豪徳寺」「天嶽院」そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱等で寝込むことも全くなく、大晦日の今日の日を 迎えられた事に感謝。 唯一私の2回の良性腫瘍切除の手術入院があったが、術前の違和感や痛みもなく、術後も 全く痛みもなく順調に快復し、早期発見・切除に感謝しているのある。 唯一シンドかったのは、大腸ポリープ手術前の「2L+追加1L」の下剤服用なのであった。 そして私は6回目の『年男』を無事乗り越えたのである。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、毎週末は趣味を楽しむために、横浜に張り切って行く 日々であった。 独立している子供たち家族もコロナにかかったものの元気に越年、来年も1月9日に長男、 長女家族が我が家に来ると。久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入し組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。橙(だいだい)、裏白(うらじろ)、ゆずり葉のセットも。裏白は長寿、ゆずり葉は子孫の繁栄、橙は家系の繁栄を願ったもの。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。そして門飾り。松と輪飾りを。短かかった?2022年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、コロナに打ち勝ったことを確実に実感できる新たな年2023年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして元旦は!! 2022年 完了
2022.12.31
コメント(0)
「招福殿」前にあった「招福猫児」像。「招福猫児の由来東京都世田谷区豪徳寺二丁目所在の豪徳寺は幕末の大老井伊掃部頭直弼公の墓所として世に高く寺域広く老樹爵蒼として堂宇荘厳を極め賓者日におおく誠に東京西郊の名刹なり、されど昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向かい「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言いい聞かせたるが其後幾月日が過ぎし夏の日の午さがり俄に門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫く休息致させよ」とありければ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内天忽ち雲り夕立振り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是偏に仏の因果ならん以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにして此寺一つに猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇ろに其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。 曹洞宗 大谿山 豪徳寺」訳は「東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある豪徳寺は幕末の大老井伊直弼の墓所として名高く、寺の所有地は広く古木に囲まれ荘厳な伽藍は東京西部の名刹である しかし以前は二、三人の雲水が修行する事でようやく暮らしが成り立つ貧乏寺でした。寛永年間の和尚は猫好きで自分の食事を減らしてでも猫に与え、わが子のように可愛がっていました。ある日和尚さんはこの猫に向かって「おまえを愛でる私の気持ちがわかるなら何か良い事を招いてはくれないか」と言っ聞かせました、そんな事があってから数ヶ月たった夏の昼下がり山門の外で人が寄っているようでなにやら騒がしい、和尚はどうした事かと外に出て様子を見ると、鷹狩りから帰りと思われる装束の騎馬武者が五、六人門前で下馬している、そのうち一人の武士が話すには「この寺の前を通り過ぎようとした際に門前に猫が一匹うずくまり私たちの様子を伺って手をあげてしきりに手招きするではないか、不審に思ったがすこしの間、休息させてくれないか」といっているそれはそれはと和尚がお茶の用意をして堂に上がらせると、にわかにかき曇り夕立が降り出して雷まで鳴り始めた、一息いれるつもりが雨宿りとなり和尚が仏教の説話をしているとその武士は大層喜んでこの寺が気に入った、やがて「自分は彦根藩二代目藩主井伊直孝です、猫に招かれるままこちらの寺に雨宿りをさせて頂いた上、和尚から結構な法話を聞かせて貰ったのは、仏さまの導きである、今後はこの寺で色々お世話になりたい」と残して帰られたこれが豪徳寺に運が向いてきた、事の起こりです、やがて彦根藩井伊家の菩提寺として、所領地の寄付をうけ名刹となる事は、猫が和尚への恩返しとして福を招き入れた不思議な出来事であり、巷では此の寺を猫寺と呼ぶようになった。和尚はこの猫が亡くなった後墓をつくり、ねんごろに冥福を祈った 後世、この猫の形を模した招き猫をまつると家内安全、商売繁昌、心願成就のご利益があると言われるようになった。」とネットより。「招福殿」の「山門」。扁額「招福殿」。「庚申塔」が鎮座する社。三面八臂の青面金剛像。地蔵尊であろうか。「招福殿」を正面から。提燈「招福観音」。内陣。「招福殿」前、境内にあった「井戸」。「招福殿」横の紅葉も見事であった。「招福殿」の周囲には無数の「招き猫」が奉納されていた。招福殿横に所狭しとばかりに並べられている大量の招き猫。びっくりするくらいの沢山の招き猫は圧倒的であり、一見の価値ある風景であったのだ。招き猫の基本手:右手を挙げたら「お金招き」、左手を挙げたら「人招き」、両手は「お手上げ」と 敬遠する人も。目:大きな目の常滑系からリアリティーのある瀬戸系まで目の大きさもさまざま。前掛け:赤い首輪と鈴のついた前掛けが主流。九谷焼の招き猫のように鈴が肩のところに のっているものも。持ち物:大事に抱えた小判は、千万両、億万両と時代とともにインフレ傾向!?色もいろいろ青:学業成就、金:金運満足、赤:健康長寿、黒:厄除安全、グリーン:家内安全、ピンク:恋愛成就招き猫の大きさと志納料・豆(約2cm) : 300円・豆(ケース付き): 500円・2号(約6cm): 500円・3号(約9cm): 800円・5号(約12cm ): 1,000円・6号(約15cm ): 1,800円・7号(約18cm ): 2,300円・8号(約25cm ): 3,500円・尺(約30cm ): 5,000円「菩薩」石像。半跏思惟像に似た姿で。両肩の上には「如是畜生 發善提心(にょぜちくしょう ほつぼだいしん)」と刻まれていた。「是(か)くの如く畜生、菩提心を発(おこ)す」.畜生に対して、おまえは畜生であるが菩提心を起こせと教える言葉であると。古いものなのか、苔むして、鼻ももげているが、なんともゆったりした笑みに、思わず近寄ってしまったのであった。再び「招き猫」を追う。大小さまざまな招福猫児は圧巻! ここは招福猫児の奉納所で、願いが成就したあとに返納すると、さらに御利益がいただけるといわれている。つまり、ひしめき合っている招福猫児の数だけ願いが叶っているわけなので、それだけでも縁起のいいスポットといえそう。招き猫といえば、小判を持っている姿をイメージする人も多いのではないでしょうか。ここ豪徳寺の招福猫児は小判を持たず、右前足をすっと上げた上品でかわいらしい佇まい。「招福観世音菩薩」とその前に「招き猫」。「赤門」。通称「赤門」と呼ばれ、明治18年(1885年)井伊家より江戸屋敷の新中雀門が寄進され、現在の東門の場所に建てられた後、現在の場所に移築された。そして「本堂・法堂」前の青銅「八角燈籠」。美しい装飾が施されている外観をよく見ると、8つの面を持つ燈籠の火を灯す空間を覆う「火袋」と呼ばれる部分には、東西南北4面には獅子の透かし彫りが、また北西・南西・北東・南東側の4面にはそれぞれ「音声菩薩」が彫られており、北西側のものは尺八を吹き、南西側のものは横笛を、北東側のものは銅鈸子(どうばつし)と呼ばれるシンバルのような楽器を、南東側のものは竽(う)と呼ばれる細い竹の部材を集めて作った楽器を奏でる姿が描かれていたのであった。北東側のものは銅鈸子(どうばつし)と呼ばれるシンバルのような楽器を。東西南北4面には獅子の透かし彫りが。東側。南東側のものは竽(う)と呼ばれる細い竹の部材を集めて作った楽器・笙を奏でる。南側。南西側のものは横笛を。西側。北西側のものは尺八を吹き。北側。再び紅葉の下の「招き猫」を追う。そして「本堂・法堂」。天水桶には、井伊家の旗印である「井桁(いげた)」が。扁額「豪徳禅寺」と。内陣。世田谷区文化財の木造仏像が5体安置されているとのこと。左手にあったのが「納骨堂」。この先は工事中であり、立入禁止になっていた。八角形、白い漆喰壁の「納骨堂」。見事な「相輪」。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。扁額「◯◯◯」か?「納骨堂」近くの石庭廻りは工事中であった。「寺務所」、「庫裡」、「書院」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.31
コメント(0)
「出流原弁天池(いずるはらべんてんいけ)」とその周辺の散策を続ける。「涌釜神社(わっかまじんじゃ)」を振り返る。池の近くの石積みの小高い所に「松尾芭蕪の句碑」が立っていた。「芭蕉翁このあたり 目に見ゆるもの 皆涼し」貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。この句碑は寛政五年に建てられたもので、当時の文人数名の名が刻まれているとのことだが判読出来なかった。隣にあった石祠。「ふるさと佐野100選」碑。「ふるさと佐野100選出流原弁天池とその周辺昭和31年天然記念物として県文化財の指定を受ける古生層の石灰岩を地下水が溶解し洞穴が造られ水が湧出している昭和30年3月周囲を含め磯山公園として開設された池の周囲 約138m環境庁選定の日本名水百選の1つである◎ふるさと佐野100選は、平成元年ふるさと意識の高揚と市のイメージアップを図るために選定した。」どこまでもエメラルドグリーンに澄みきった「出流原弁天池」。野鳥のツガイであろうか。のんびりと泳ぐ、多くの鯉の姿が。池底がはっきりと見えるのであった。「涌釜神社」の石鳥居を見る。参道には石造りの太鼓橋・「翠泉橋」が架けられていた。「一の池」と「二の池」を繋ぐ水路に架かる橋。「翠泉橋」を渡り、歩いて来た「涌釜神社」の参道を振り返る。「出流原弁天池」の岸の岩場にも石灯籠が立つ。「日本名水百選」碑。「出流原弁天池湧水昭和60年7月22日環境庁認定」と。「県指定 天然記念物 出流原弁天池」碑。一の鳥居を潜り、道路側から参道を見る。「環境省指定 天然記念物出流原辯天池」碑。「日本名水百選出流原弁天池栃木県指定天然記念物出流原弁天池は昔からその名の通り神の池とも言われ地元住民の命の池とも敬れ、豊富なその水量は、農地の灌漑は勿論、水車の動力源となって貢献し、年間を通して摂氏十六度の水温を保存し、清水となって湧出し、磯山を背景として、山紫水明の仙境となっている。芭蕉の作にちなむ「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」とある様に避暑地として、また憩いの場として親しまれて来たもので、地下に洞窟の存在する事を暗示している。中国済南の趵突泉(ほうとつせん)と同じく規模は小さいが我が国では唯一のものとされている。昭和十三年に文部省の特別天然記念物に指定された。当時毎秒一、五トンの湧出量は落差による水泡にて魚影を求むる事も困難にて太鼓橋の翠泉橋の名も当時が偲ばれる。当地は、北関東の最南端の山に位し、沢水に恵まれず、地下水が殆どないが自然の造影は良くしたもの、豊富なる彦間川の伏流水が磯山の裏側に有る元涌釜神社の涌釜井戸の地下に集水され石灰岩の地下の亀裂が自然の暗渠となっている。水と緑のうるおいのある人類文化の発祥の地として栄えて来た所である。かってはこの地域を涌釜が原郷と称してアイヌ民族の言語らしく涌釜と言う文字は他所には見られぬと言う。伏流水によって立登る水蒸気と温度差のために起る特殊な自然環境となり、他には生存しない植物が自生して居り、標高五十七メートルに自生する植物としては珍しい植物の宝庫として貴重な地である。」道路の反対側には老舗旅館「ホテル 一乃館」があった。ホテル入口には、「磯山弁財天」の「弁天様」の顔出しパネルが置かれていた。1920年開業の「観光ホテル 一乃館」。仏の銅像が玄関脇に。近づいて。大正時代の一乃館の写真をネットから。大正初期に先々代の尾花英司が、弁天池の涼しさを利用して避暑地として開業したとのこと。石鳥居や太鼓橋も確認できるのであった。ホテルの玄関の右脇には「日本名水百選」が湧水しており、ペットボトル等で自由に持ち帰ることが出来るようであった。ホテルの前は「磯山公園」になっており紅葉も美しかった。再び「出流原弁天池」の池岸に戻る。水面を覗き込むように紅葉したモミジの老木の姿が絵になるのであった。「みちの駅名水「弁天池」の駅」・「福寿荘売店」で一休みすることに。「佐野名物 いもフライ」の幟が店頭に立つ。「ご案内 磯山弁財天・出流原弁天池」。手書きの力作であり解りやすい地図になっていた。店内には、懐かしい昭和のお菓子、玩具が並んでいた。名物「いもフライ」を楽しむ。「佐野市はじゃがいもが多く栽培されている地域でした。その収穫されたじゃがいもをふかして、衣をつけてあげたのがいもフライです。そのいもフライをリヤカーに積んで、足利や群馬県の方まで売り歩いていたそうです。それが広がって、佐野だけではなく、足利や群馬県などでも食べられていました。地元の人にとっては、子どもの頃からのなじみの味。B級グルメと言われていますが、わざわざ出かけて食べたくなるぐらい、おいしいのです。」とネットには。「三宅裕司」さんも今年の5月に「三宅裕司のふるさと探訪」にて訪れたのだ。「涌釜神社」の御朱印を頂きました。「磯山辨財天」の御朱印も頂きました。「磯山公園」の紅葉を追う。「磯山公園」の前の道路を歩く。「涌釜神社(わっかまじんじゃ)」の石鳥居、参道。ここには『朝日長者の伝説』があるのだと。「昔、このあたりに朝日長者が何不自由なく暮らしていましたが、ただ一つ子宝に恵まれていませんでした。 そこで長者夫婦が出流原弁天に子授けの願をかけると美しい女の子が生まれ、鶴姫と名付け大事に育てました。姫が18歳の時、山に遊びに入ったまま不帰の人となりました。掌中の玉を失った長者夫婦に、ある時神が霊示したことは、 姫は弁天池の鯉となっており、竜神となって昇天するためには莫大な財宝がいるということです。 そこで長者は娘のためにと後山に財宝を埋め「朝日さす夕日輝く木の下に、うるし千ばい黄金億々」 というような宝のありかをよんだ歌を残しています。」と。和風レストラン「公園荘」の前庭にも朱の太鼓橋が。そして水車が回っていた。こちらにも別の水車が。「出流原弁天池 公衆トイレ」の先にあった大きな石鳥居。その先にも口から清水が流れ落ちる蛇の姿が。「白蛇弁天」と刻まれた石柱をトグロを巻き抱きかかえているが如き姿で。近づいて。歯、口の中が赤く不気味!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.31
コメント(0)
「浄真寺」を後にして、次の目的地の「豪徳寺」に向かう。東急大井町線の「二子玉川」駅まで戻り、東急田園都市線で「三軒茶屋」まで行き東急世田谷線を利用して「宮の坂駅」駅で下車。「宮の坂駅」横の踏切を渡って「豪徳寺」方向に進む。東京都世田谷区宮坂1丁目24。そして徒歩で5分ほどで「豪徳寺」の「山門(総門)」前に到着。「都史跡 井伊直弼墓」碑。寛永10年(1633年)に、世田谷が彦根藩の所領地となり、文明12年(1480年)に建立されていた「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めました。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至ります。江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、周辺では最大規模の国指定史跡となっています。井伊直弼を始めとする彦根藩主や井伊家ゆかりの墓地があり、文化財が数多く所蔵。「山門」越しに「仏殿」を見る。明治17年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建された。「山門」の扁額には「碧雲關(へきうんかん)」と。この扁額、室町時代にはこの豪徳寺のあたりに、世田谷城という城郭があり、それが青い雲のような建物と呼ばれたそうで、そこからこの名前になったという説があるようだ。「大谿山 豪徳寺(曹洞宗)寛永10年(1633年)にここ世田谷が彦根藩 の所領地となり、既にそこにあった文明12年(1480 年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家 は江戸菩提寺と定めた。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。それは、江戸時代 の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。また、この寺には、2代藩主井伊直孝が鷹狩り の折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫 」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万m2)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。」かつて東京には滋賀県の飛び地があったのだと。1633年(寛永10年)に、江戸屋敷賄料として井伊家の「彦根藩世田谷領」となった現在の東京都世田谷区の一部。1871年(明治4年)の廃藩置県の時に「彦根県」となり、その後「長浜県」に統合された後、1872年(明治5年)に、東京府と神奈川県に移管され、その後、神奈川県に移管された土地も東京になることになり、その飛び地は、完全に消滅しましたのだが、一時的にでも東京に滋賀の飛び地があったということに驚きなのです。「山門」を潜って参道を進むと、正面に見えて来たのが「仏殿」。「仏殿」前にあった「豪徳寺境内案内図」。「境内配置図」をズームして。豪徳寺の広大な境内(1万5千坪、約5万m2)には多くの建築物や構築物があります。それらを、ぜひ鑑賞願います。参考までにその配置図と主なものについて概要を記します。1⃣山門 明治17年( 1884年) 1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建 された。掲げられた額には「碧雲関」(へきうんかん)とある。2⃣三重塔 平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、 阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に 「招き猫」が飾られている。3⃣仏殿 仏殿の正面に篆額「弍世佛」があり、それは現在・過去・未来の三世を意味している。 それを表す釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像の外、多くの諸怫が安置 されている。4⃣招福殿 井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れた「招き猫」 という伝説があり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、 心願成就を願う参詣者が絶えない。堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。5⃣井伊家墓所 井伊家墓所募所には幕末の大老13代直弼募、豪徳寺中興開基2代直孝の墓をはじめ、 歴代藩主や正室らの墓が整然と並んでいる。平成20年(2008年)に国史跡に 指定された。6⃣ 法堂 昭和42年(1967年)に落慶、法堂には聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩 座像、地蔵菩薩立像が安置され、さらに寺宝の「井伊直弼肖像画」(井伊直安作)が 飾られている。7⃣開祖堂 平成11年(1999年) 11月落慶、門菴宗関椅像(当寺開山)、天極秀道椅像(当寺 中興開山四世)、承陽大師(道元)椅像、常済大師(瑩山)椅像、聖徳太子椅像、 そして歴代住職、藩主の位牌や檀家の位牌が安置されている。8⃣赤門 通称「赤門」と呼ばれ、明治18年(1885年)井伊家より江戸屋敷の新中雀門が 寄進され、現在の東門の場所に建てられた後、現在の場所に移築された。9⃣梵鐘 鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、 美術的にも高い評価がある。平成12年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となる。⑩地蔵堂 令和2年( 2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。⑪種月園・ 枯れ山水の庭園で、その中に井伊直弼遺愛の茶室「無二庵」がある。(非公開) 茶室□境内の石碑 境内や墓所に多くの顕彰碑がある。それは「忠正公神道碑」、「遠城謙道師遺跡碑」、 「鶴日下部先生碑銘」、「高橋瑞子彰功之碑」、「首塚碑」、「当山旧開基碑銘」 などの外、山門入口の右に「結界石」がある。「大谿山豪徳寺(曹洞宗)豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。 寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩提像、石灯籠ニ基、梵鐘な井伊家ゆかりの文化財のほか、同寺の草創を物語る同春院(吉良政忠)と高徳院の宝篋印塔も残されている。平成ニ十年三月境内西側にある井伊家代々の墓所が国史跡に指定された。ここには二代藩主井伊直孝を初め、桜田門外の変で落命した直弼など、江戸で亡くなった歴代藩主とその家族の墓がある。ほかにも、直弼の死後、墓守として一生を終えた遠城謙道や桜田殉難八士之碑等の石碑もある。 令和ニ年三月 世田谷区教育委員会」「せたがや百景 ㉑招き猫の豪徳寺」案内板がその下に。紅葉の参道を歩く。参道左側の紅葉。右奥にあったのが八角形の屋根を持つ「地蔵堂」。令和2年(2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。そしてその先に「鐘楼」。鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、美術的にも高い評価がある。平成12年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となる。「山門」を振り返る。紅葉のモミジの先にあったのが「三重塔」。 平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に「招き猫」が飾られている。「三重塔」を別角度から。「常香炉」、「仏殿」を正面から。再び「三重塔」。2006年に落慶した木造の三重塔。高さ22.5mの立派な建築。正面から。ズームして。「忠正公神道碑」。碑主の忠正公は井伊直弼の次男井伊忠正(直憲)。近江国彦根藩最後(第14代)の藩主であるようだ。碑は、逝去の翌年明治38年(1905)12月に建てられ、井伊直安篆額、谷鐵臣謹撰、日下部東作書、井亀泉刻字とある。 力強い楷書である。角度を変えて。正面に巨大な「香炉」。真っ黒で大きな「香炉」。とても存在感のある「香炉」。足元をよく見ると「香炉」を3体の鬼?が持ち上げて支えていた。線香の煙をあびることのできる「香閣(こうかく)」とも呼ばれるものであろう。彦根藩の井伊家の菩提寺でもあるので、寺紋も橘紋の中でも「彦根橘」と呼ばれるもの。狛犬が黄金の手毬に手をかけていた。大きな香炉に献香した後、香炉やこの獅子が手を置いている手毬を撫でるとご利益があるとのことで勿論私も。角度を変えて。狛犬を正面から。球には「星七宝(ほししっぽう)」の模様が。「七宝繋ぎ」の部品のつなぎ目に、小さい円を重ねた連続模様。「星」の名称は、日本では古来から星を丸で表すことによるとのこと。「焼香偈戒香定香解脱香 光明雲臺遍法界 供養十方無量佛 偏満普薫証菩提豪徳鐵禪袖 維持平成元年十一月三日」法要などで、焼香を行う場合などに唱える偈文(げもん)であると。偈文とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「豪徳寺仏殿附(つけたり) 棟札一枚 石灯篭ニ基指定年月日 平成ニ年ニ月十五日規模 桁行(間ロ)五間(実長十七・七六メートル) 梁行(奥行)六間(実長十五・八ニメートル)豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間(一六六一~一六八〇)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物である。棟札によると延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝公長女)の弟で藩主直澄が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道、エ匠星野市左物門尉積則らが当たった。仏殿には江戸時代期から日本にもたらされた黄檗宗の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に正画と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。吹き放ちの裳階(もこし、下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、特に紙状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鮮の建築には良く使われるものであり、日本ではあまり一般的でない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものであることから、区有形文化財に指定された。」。「豪徳寺仏殿像 五軀木造大権修利菩薩倚像 総高 百一 センチメートル木造弥勒菩薩坐像 像高 八十 センチメートル木造釈迦如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造阿弥陀如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造達磨大師坐像 像高 六十四・八センチメートル本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五軀一具として造らせたものであることがわかる。祥雲は黄檗宗の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(一六四八~一七一〇)のことである。当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲は推挙されたものと考えられる。本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。」「鐘楼」を見上げる。正面から。「梵鐘」。「制作者の太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は 江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師の名跡(みょうせき)。出身は近江国(おうみのくに)栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川(ふかがわ:東京都江東区)で梵鐘や天水桶、鍋、釜などを鋳造(ちゅうぞう)した。江戸町民からは「釜屋六右衛門」や「釜六」の俗称(ぞくしょう)で知られ、江戸の長者番付にも名を連ねた。「太田近江大掾」の称号を受領し、享保2(1717)年からは将軍家の「御成(おなり)先御用釜師」を勤めた。代表作に、台東区浅草寺の梵鐘や、墨田区回向院(えこういん:浄土宗の寺院)の銅造「阿弥陀如来坐像」がある。」とネットから。「世田谷区指定有形文化財(工芸品) 豪徳寺の梵鐘所在地 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号所有者 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号指定 平成十ニ年十一月二十八日制作年代 延宝七年(一六七丸)作者 近江大藤原正次材質・構造 鋼鋳造総高 一四七・五センチ本梵鐘は、延宝七(一六七九)年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾(ゆうこん)な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座(つきざ)の意匠(いしょう)も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。制作者の藤原正次(ふじわらのまさつぐ)は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。」「鐘楼」脇のモミジ葉が真っ赤に輝く。別の角度から。「地蔵堂」に近づいて。さらに。扁額は青い文字で「地蔵堂」。地蔵堂には二体の立派な「地蔵菩薩像」が納められており、奥の大きな仏像の上にはきらびやかな天蓋が飾られていた。「地蔵菩薩像」は左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ。そして「仏殿」に近づいて。扁額「弐世佛」。内陣。ここにも境内と同様な香炉が置かれていた。「豪徳寺仏殿像」をネットから。小さな社。その中にも石仏・三面六臂像が。再び「三重塔」を見上げて。「絵馬掛け」干支の動物と一緒に必ず招き猫が描かれているようであった。「招福観世音菩薩絵馬」には観音様と一緒に招き猫が描かれていた。平成18年竣工の「三重塔」一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。しかも、子(ねずみ)と一緒。設定を変えてズームして。子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも見えるのであった。こちらはイノシシ。至る所に招猫の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.30
コメント(0)
遊歩道を引き返して、石段を上って行くと右側にあったのが「鐘撞き堂」。梵鐘。「満州事変 支那事変 大東亜戦争 戦没者慰霊碑」。石段横には、屋根が苔むした石燈籠。石段に戻って「鐘撞き堂」を振り返る。こちらの石燈籠の屋根は全面苔生して。京都・清水寺の舞台の如く、山の斜面にへばりつくように建てられた、「懸造り(かけづくり)」の社殿が大きく見えて来た。千葉にあった「笠森観音」も同じ様な構造であったが。「手水場」まで来ると三叉路に。ここにも蛇の像が。弁財天は七福神の一人でもあり、蛇や龍の化身ともいわれているのだ。ここにも地蔵尊が。前方に「銭あらい弁天」。「銭あらい弁天いわれこの銭あらい弁天は北海道蛇紋石として、己巳の年に見つけられた二匹の大蛇に抱かれたタマリ石として作りあげられました。どなた様も鉢の清水で財布の中の銭を洗い清め同額を浄財として、残りをフトコロに託したへしたならば、キット思いが叶えられると信じます。」と。小さな祠の内部には白蛇が2匹刻まれた石碑・タマリ石があった。私も下記のごとく、黒光りしている「頭」の部分を撫で撫でしたのであったが・・・その御利益は未だ・・・・!?。「御参拝の皆様へ当磯山弁財天は八本手を有し頂上に白蛇に巻かれた宇賀神像を拝し、地球上のあらゆる物を司る菩薩様方が十六人の童子になぞられてそれぞれのお支度で一団となり辨財天の御指示をお待ちするかの様なお姿で御厨子に安置されて居り、あらゆるお願い事が可能とされ、特に五穀豊穣、家内安全、商売繁昌の神様として灼かです。当地域におきましては蛇は辨天様のお使いとされ、昔から大切に保護されてまいりました。良く長い蛇の夢を見ると幸先がよく縁起が良いとされて居り、野山に行き突然蛇に出合うと、一瞬怖さを感じますが後で明るい希望や期待に胸さわぎをおぼえたもので御座居ました。辨天様を信仰される皆様、辨天様と共にやさしく皆様をお守りしている白蛇に感謝と労りのお気持ちでお希望の所を何回かさすって上げて下さい。益々幸運に巡り合れます事と信じます。 合掌」そして石段の上に目的の「磯山弁財天」の「本殿」の姿が現れた。「磯山弁財天」は鎌倉時代に再建されたと。そしてこの「本殿」の建物は釘を1本も使っていないのだと。「本殿」に入ると「阿呍(あうん)の大蛇」と書かれた白蛇の像が出迎えてくれた。台座には「奉納 阿呍の大蛇」と。阿呍という名が付けられているが、口を開けた「阿(あ)」の像が見当たらない。「何故?」と言いたいところだが、大蛇の口が「呍(うん)」と閉じている「呍(うん)」の像しか無いことから、「運(うん)がある」と言われ、縁起物とされていると。ダジャレ的に受け止めればよいのかも。見事な極彩色の透かし彫り。修復の際に奉納されたもののようであった。「弁財天の由来音楽、弁才、福智、延寿、除災、得勝を司る天、妙音天、美音天、大弁才、功徳天とも称する。もと河川を神格化したもので我国にては七福神の一」」扁額は「磯山宮」と。内陣。この時、「本殿」にいたのは私達2人のみ。よって「本殿」を二人占め。「本殿」の建物内には狭〜いハシゴのような階段があり・・・さらに上に上る事が出来るようであったが・・・。佐野市出流原町の南東方向の街並みを見る。「本殿」の西側。絵の姿は・・・。下の絵馬にある緑の龍が描かれていたのであろうか?「開運 絵馬」。「過日、佐野警察署に賽銭泥棒が境内で複数現行犯逮捕されました。御参拝の皆様には安心してお詣りが出来る事と思います」と意味深長!?な言葉が書かれていた。「赤見温泉 フィッシングフラワーパーク」の奥にある池を望む。後ほど訪ねた池の中の島の木々も紅葉していた。「本殿」の裏側にも大きな岩の割れ目があった。人が入り込めるような空洞が奥深くまで続いているようであった。先程の「風穴洞」と繋がっているのであろうか?帰りにも「阿呍(あうん)の大蛇」をみて「じゃぁ(蛇)またね!!」と。物価上昇の折、賽銭笊には1円玉が多かったが。そして石段を下りながら「鐘撞き堂」を見下ろす。再び「懸造り部」を振り返る「木造 朱塗り 桁行五間 梁間四間 貫五段 懸崖型 内側階段あり(木製)」と。そして「楼閣」が下方に見えて来た。再び「磯山の大蛇」を横から。今にも動き出しそうに!!旅友はこの前を何故か足速に!!楼門の中には太鼓橋風の朱の橋が渡っていた。小さな石仏も所々に鎮座。南天の実も楼門の朱に負けじと。「抜け道」を進み「涌釜(わっかま)神社」へ。扁額「涌釜神社」。正面から。大正2年に旧地より現在地に造営遷宮し、名水百選にも指定されている「弁天池」の辺りに鎮座している。水の神ならびに子守りの神として子連れの参拝者が多い と。内陣。御祭神:天児屋根命、別雷命、菅原道真朝臣命御利益:水、子供の守護例大祭日:10月第2日曜日創建:不詳斜面に立つ石祠。「関東ふれあいの道」案内板。「涌釜神社」の階段、左手前あたりに境内社である「西宮神社」があった。青く透き通った湧き水を貯める「出流原弁天池」を見る。「出流原弁天池(いずるはらべんてんいけ)出流原弁天池(県指定天然記念物)は、地下水が古生層石灰岩の亀裂から湧き出してできたもので、国の名水百選に選はれています。周囲138mの丸い池で、池底は地下洞窟の存在を思わせる地形・地質となっています。また、出流原(磯山)弁財天は、藤原秀郷が創建したといわれており、三層楼の舞台造りの弁天堂に祭られています。本殿からは佐野市街を一望でき、風穴洞からは、四季を通して冷風が感しられます。」自然石の台座の上には石碑が。「辨天池テレビ放映記念碑昭和六十三年六月二十二日午後一時二十五分よりNHK関東甲信越ネットワークの時間帯に於いて、テーマ水風土と題して弁天池並びに磯山公園一帯の風物が広く関東甲信越地区に照会放映された事を記念すると共に、新たに弁天池が我々の生命の源であり人間はもとより地上の生きとし生けるものにとって欠く事のできない貴重なる環境資源であり、幾世代にもわたって大切に保全してきた多くの先人の努力を思い起し現在其の恩恵に浴して、我々は此の美しい弁天池の自然の水環境を次の世代の人達に大切に守り申し送る事が我々の任務と信じ記念として左の事業を行い記念碑を建立する。」。「奉納 緋鯉 千キロ 昭和五十九年十月十日」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.30
コメント(0)
「天嶽院」の南側高台には大きな墓地が拡がっていた。この日は徒歩にて、境内から-----のルートにて石段を上って行った。「境内・霊園案内図」境内の周囲に大きな霊園が囲んでいることが判ったのであった。ズームして。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「永代供養塔・地蔵菩薩」を正面から。お顔をズームして。「○地蔵」。お顔をズームして。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」👈リンク地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。霊園の隅から藤沢市の本庁舎を見る。江の島の姿は片瀬山で隠れていた。そして「富士山」の姿が見えた。山頂をズームして。そして来た道を引き返す。石段の上から「天嶽院」の境内を見下ろす。そして再び「山門」からのモミジのトンネルを歩く。「参道」の脇に廻って「山門」近くのモミジを追う。そして再び「山門」、「金剛力士像・仁王像」を振り返る。「金剛力士像・吽形像」と「山門」そしてその先の紅葉を。安政二年火災では、大伽藍はことごとく焼失。焼失を免れたのが、現存するこの「山門」と。白壁に松の影が映って。そして道路脇の巨大な「六地蔵」を訪ねた。「温顔和楽」と刻まれた碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいたのであった。右から、「ほかほか地蔵」と名前が刻まれていた。「らくらく地蔵」。「ふくふく地蔵」。「にこにこ地蔵」。「すくすく地蔵」。「いきいき地蔵」。塀の角にあった石碑。これも前回、訪ねた際のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。(下の写真は以前のもの)ドウダンツツジの紅葉もエピローグへ。古そうな石灯籠。この先にも石碑が。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると師匠から。道路沿いのフェンスの影が地面に映り込んで。こちらは近くにある「藤沢市立藤ヶ岡中学校」。城のような水色の三角屋根が印象的な校舎は、創立40周年を翌年に控えた2000(平成12)年に完成したと。「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶を持つ。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。ズームして。左手は、親指と人差し指を合わせて輪を作る「来迎印(らいごういん)」と呼ばれる印相で。「山門」を見る。再び「金剛力士像・仁王像」を。こちらは墓地への坂道にあった「曹洞禅寺 天嶽院」と大きく書かれた柱。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.29
コメント(0)
「唐沢山レストハウス」前にあった「 唐沢山城跡 駐車場」に駐めてあった車に戻り来た道・唐沢山公園線を少し下り「鏡岩」前で車を止める。「唐沢山県立自然公園ハイキングコース案内」板。先程訪ねた「唐沢山神社」までは0.4kmと。そして「鏡岩」の周囲を巡る。鏡岩は山頂に程近く、レストハウスのすぐ下にあった。名前の由来には『校正続撰佐野記』に「ここに城を修理して築かんとせらるる時よりして、此石光輝く事おびただし。…細密之事までもよくうつり明らかなるゆゑに鏡石と名付たり」と。「鏡岩上杉謙信が唐沢山城をせめたとき西日が反射してせめることが困難であったという物語から名付けられた」と。唐沢山城の戦いは、永禄3(1560)年に始まり元亀年間にかけて、ここ下野国唐沢山城において、越後の上杉謙信と下野の佐野昌綱の間で約10度にわたって繰り広げられた戦い。この日の「鏡岩」は雨に濡れて光っていたが・・・。崖の直上の「鏡石」。かつては「鏡石」からの岩脈がレストハウス側まで延び、直進を遮っていたものと。ここから城内へ進入するには右手に折れ、レストハウス側に向っていった。進行する者に対しては上方の天狗岩、正面の鏡岩、進行方向のレストハウス側から見張ることができた。状況によっては容易に、そして効果的に攻撃を加えることもできた。自然の地形を巧みに利用し、このような構造をつくりだしていると。この場所は城内への重要な入口の一つになるため、非常に手の込んだ構造になっているのだと。崖の直上の「鏡石」まで恐る恐る行き、「栃本町」の街並みを見るが見透しは悪かった。奥まで進んで「鏡岩」を振り返る。この「鏡岩」の向こう側が道路。そして、来た道を引き返し、北に向かって坂道を再び登る。そして県道115号線・田沼唐沢山公園線で栃本町方面に向って坂道を下る。坂道を下り終わった場所にあった「佐野市営 無料駐車場」で車を止めた。駐車場にあった「国指定唐沢山城跡案内図」。「唐沢山周辺案内図」。駐車場の前には大きな石鳥居、石灯籠が立っていた。「関東ふれあいの道 唐澤山神社➡」と。石燈籠の左横にあったのは歌碑であっただろうか。「むかで退治」伝説や天慶の乱の英雄として有名な藤原秀郷公を歌ったものか?こちらが「唐澤山神社」へと繋がる「栃本町」側からの参道であり、一の鳥居であることが理解できたのであった。「東京農業大学フィールミュージアム唐沢山管理事務所」の案内板もあった。東京農工大学農学部附属演習林は、1939年に東京高等農林学校附属演習林として設置されてから83年となる。群馬県、栃木県、埼玉県にある4つの演習林は、首都100 km圏に位置しており、地形や植生、森林施業において異なる特徴を有している。現在、演習林は、農場と合わせて屋根のない博物館としてフィールドミュージアム(FM)と呼ばれ、野外での実験実習や研究の基盤として活用されているのだと。森林保護・樹木医学実習や自動枝打ち機の操作等の学習もこのFMで行われているとのこと。そして次の目的地の「磯山弁財天」に向かって「国道293号」で「田沼町」を進む。そして「磯山弁財天」下にあった「まちの駅 無料駐車場」に到着し散策開始。駐車場入口にあった銀杏の黄葉も見事であった。隣にあった旧養魚池?の水面に映る「逆さ紅葉」が美しかった。何を養魚していたのであろうか?イワナ、ニジマス?透明度の高い水質、紅葉のこの時期になるとより一層鮮やかに彩られているのであろう。まるで水彩画の中のような景色を楽しめたのであった。ズームして。水が美しい理由は、池の底にある古生層の石灰岩から湧き出ている清流のようであった。厚い土の層がフィルターとなり、湧き水はろ過されているのだ。その美しい水は、付近の料亭やここ旧養魚場などにも使用されているようであった。道路の反対側の水路にいた小さな魚を発見し、シャッターを押したが・・・。道路の先に「磯山弁財天」への参道が見えて来た。棚からは数え切れない風車(かざぐるま)がぶら下がっていた。久しぶりに見る風車(かざぐるま)、風が欲しかったのであったが・・・。右手にあった掲示板には「佐野市出流原の磯山の中腹に建つ『磯山弁財天』。その麓に湧き出る名水は現在は『弁天池』と呼ばれ、日本名水百選の一つに選ばれていて、一帯は『赤見温泉』としても知られている。その弁財天と弁天池を描いた120年以上前の絵図がこのほど発見され、磯山弁財天観光協会の尾花栄さん(一乃館社長)や地元の歴史を研究している須藤三三夫さんらの尽力によって復刻された。この原版の発行は明治32年。銅版画で印刷されたもので、もとはモノクロ。今回復刻された絵図は須藤さんによって水彩色鉛筆で彩色されている。絵図の最上段には『下野國安蘇郡出流原磯山辨財天眞景全圖』とあり、右上には『避暑案内』として、弁財天、弁天池や周辺の紹介があり、文末には幕末から明治後半まで活躍した元彦根藩家老を務めた岡本黄石が、明治25年に此の道を訪れた際に書かれたと言われている漢詩が記されている。復刻された冊子には原本の絵図に書かれた紹介文の現代訳と英文訳が、須藤さんの解説で添えられている。また大正初期から昭和初期に運行されていたという「赤見軽便鉄道」についても触れているのが、興味味い。」「下野國安蘇郡出流原磯山辨財天眞景全圖磯山弁財天とその周辺の歴史 復刻版 2021 磯山弁財天観光協会作成」須藤三三夫さんによって水彩色鉛筆で彩色されているのだと。原版の発行は明治32年。銅版画で印刷されたもので、モノクロ。「赤見温泉フォトコンテスト2021入賞作品」と。日本名水100選の弁天池湧水を引くのが「赤見温泉」。石灰岩に湧く湧水は、炭酸水素カルシウムを含んだ硬水。温泉法に規定する温泉には該当しないが、人気の名水風呂と。「赤見温泉『磯山弁財天』の古絵図発見、復刻版発行興味津々「赤見の話題」そう、百年前、足利が『足利市』になった時にはあったのだ。『赤見軽便鉄道』が。『軽便鉄道』とは、我々が知っている鉄道「蒸気機関車」よりも企画が簡便、軌間も狭軌が多く、建設費や維持費が安く押さえられるため、その多くが限定的な輸送力しか望めない地域に建設されたようだ。『赤見軽便鉄道』が開業したのは、1915年(大正4年)4月28日。その目的は出流原(現在の赤見温泉のある場所)で採掘される石灰を輸送するためのものだったが、旅客も運んだという。富田駅から終点出流原駅まで全6駅。沿線地域の人に親しまれ利用されたが、1927年(昭和2年)10月20日に廃線。13年間の営業であったが、毎年の赤字が続いていたそうだ。さて、そんな『赤見軽便鉄道』だが、現在は、どこにもその線跡が見当たらない。ならば沿線住民のかすかな記憶をたよりに、起点の富田駅から終点の出流原(現在の赤見温泉)を目指してみよう。」『赤見軽便鉄道』の路線。そして正面に見えて来たのが「磯山弁財天」の見事な朱色の「楼門」。「千と千尋の神隠し」の中で描かれていた、赤い楼門の雰囲気に似ていることから、参拝に訪れるファンもいると。「磯山弁財天」には、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神様として知られる白蛇様が祀られていた。ちなみに、「磯山弁財天」と「出流原弁天池」は藤原秀郷(ひでさと)が948年に創設したと言われているのだ。手前左手の石仏が迎えてくれた。脇の参道には金網に保護された石灯籠の姿が。転倒防止、それとも鳥避けか?(左)石灯籠(右)。右手に「磯山弁財天 丁巳本開帳紀念碑」。「磯山弁財天」は、十二年に一度の巳年に御開帳の年となる。昭和五十二年(1977年)丁巳には御開帳を記念して社殿拝殿の大改修及び復元がなされた。最近では平成二十五年(2013年)の巳年に御開帳され、祭典では稚児行列が行われた と。この石碑は昭和五十二年(1977年)の時に建立したもの。その先に「磯山地蔵尊」。花に囲まれて。「平成元年四月吉日 磯山弁財天本開帳奉賛者」碑。再び斜めから「楼門」を見上げる。地蔵尊。「御巡拝のお客様納経帳や御朱印はホテル一の館フロントにご用竟してあります」と。「楼門」を潜り、急な階段を登ってい行った。丘の上にある社殿までは130段と。ここにも石仏が。磯山弁財天の「絵馬」であっただろうか。左手の角塔婆とその先に石の五重塔そしてその先に「本殿」が姿を現した。佐野七福神の「弁財天」像お顔をズームして。「風穴洞」。「磯山の大蛇この大蛇は信者の皆様が辨財天に御祈願なされる度に辨天様より御指示を受けて皆様の大願成就達成の為に活躍する幸福を招く日本一の大蛇です」。「磯山の大蛇」をズームして。その奥に「磯山弁財天」の「本殿」が大きく見えて来た。更に「佐野七福神」の幟の立つ石段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.29
コメント(0)
「参道」の右手にあったのが「不動殿」。「参道」には「狛犬」、その手前に「八角青銅燈籠」が。狛犬(右)。狛犬(左)。「不動殿」を正面から。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動殿。身舎正面に庇を設けた向拝。「内陣」を見る。不動殿には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。「天蓋」。中央に「不動明王像」。火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の「不動明王像」。「愛染明王像」。「大黒尊天像」。この美しい線刻の如き絵画が描かれていたのは、これも燈籠であろうか。「不動殿」前には、石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」が。巨大な手水鉢なのであろうか。龍の吐水口(とすいこう)。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。ズームして。鉢に「感応」の文字が刻まれていた。仏教の語で「感応」とは 「信心が神仏に通じること」であると。二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する「聖観音菩薩像」。「聖観音菩薩像」をズームして。二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印。「葛龍池不動尊」碑とこれも師匠より。「本堂」の北側、「鶴夢堂」の東側に「葛龍(ヶ)池」があるようだが、許可なしでは入れないようであった。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異字体』であると師匠より。「山門」方向を振り返る。「道元禅師御道詠の碑」「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我釈迦牟尼の 聲と姿と」。【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】とネットには。石庭。左手に「庫裡」。花頭窓の格子模様が美しかった。右手に入母屋造銅板葺で妻入の「淨聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。扁額「淨聖殿」。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院」と。扁額は「湘中早雲禅寺」。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。「法堂」をパンフレットより。法堂の前は基本的に白砂で構成するのも、昔の儀式用の礼の場という名残であると。「本堂・法堂」の内陣をパンフレットから。佛師松久宗琳謹作 一佛両祖を奉安する。(釈迦牟尼佛、道元禅師、螢山禅師)。「相中留恩記略所載」もパンフレットより。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が上の写真「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した と。「本堂・法堂」の右手に入母屋造桟瓦葺の僧堂(座禅堂)があった。寺号の早雲禅寺から扁額の書は「雲堂」であろうか。「不論上智下愚、莫簡利人鈍者」の文字が。「上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。」と。道元禅師が、正しい坐禅をあまねくすべての人々に勧めるために記した「普勧坐禅儀.」の一文であると 。(ふつう世間では思い(アタマ)の智愚ばかりを問題にしているわけだが)坐禅するということにおいては、まるきり人間的智慧・才能の世界ではないのだから,人間の利口・馬鹿、学問のあるなしは問題ではない。)と。中雀門の前、淨聖殿の対面に建つ入母屋造銅板葺の「寺務所」があった。参道側入口玄関前には「掃除小僧」の姿が。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。「木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。」とネットには。「参禅会」、「写経会」が毎月行われているようであった。御朱印の案内はこの日はなかった。これは、2020年に訪ねた時の写真です。御朱印を頂くために「庫裡」の玄関の内部に。そして寺の奥様?から御朱印・「浄聖殿」を頂きました。記念スタンプも。御朱印を入れて下さった袋の中には、山号の「功徳山」そして「三つ鱗」が焼き付けられたお煎餅が2袋入っていました。御朱印を入れて下さった袋の中には、「天嶽院の歴史」👈リンク も。「開山堂」をパンフレットから。「葛籠ヶ池と鶴夢楼」をパンフレットから。「参道」を戻ると右手にあったのが「相生松」。「相生松」碑。「事務所」の白壁には格子付きの「火灯窓」が並んでいた。そして寺の上、南側にある墓地を訪ねることにする。墓地への急な階段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.28
コメント(0)
「唐澤山城跡」の「本丸」を後にして石段を下り、社務所手前の小路を左・北方向に進む。「車井戸」はここ。前方にあったのが「車井戸」。「車井戸深さ25 m余ともいわれ、本丸下に位置していることからも、城内の重要な水であった。別名「がんがん井戸」ともいう。掘り井戸から水を汲(く)みあげるのに車(滑車)を使うことによって名づけられた井戸で、釣瓶(つるべ)井戸の一種。本丸下に位置し茶の湯に使用された井戸で、龍宮迄つづくとも言われている と。金網の蓋越しに「車井戸」の中を覗いて。更に落ち葉の中を進む。この辺の黄葉もエピローグへ。「長門丸」に向かって進む。「長門丸・局曲輪の間の虎口本丸の搦め手にあたる東側の守りを固める長門丸と、北側の局曲輪(つぼねくるわ)(引局(ひきつぼね))との間に造られた虎ロ(出人口)。現状ではわかりにくくなっているが、その両脇の土塁はくい違いに築かれている。」「弓削長門」が直番したとされ、城で使用する薬草などを育てていた事から「お花畑」とも呼ばれていると。左手奥には弓道の練習場があった。左手が「中の丸」。前方に見えて来たのが「金の丸」。 「⬅お花畑 金の丸➡東・北・西には上塁をめぐらしてあり、 宝蔵のあったところから金の丸と東側には堀、西側には井戸に通ずる堀底道と 呼ばれています。 東・西南には堀、思われるものがあります 東側には土塁が現在も残っています。城に於いて使用される薬草等を作た事から 東側堀は、昭和38年青年の家建設の際お花畑と呼ばれています」。 埋められました。 更に進むと前方に「杉曲輪」。落ち葉で敷き詰められた「杉曲輪」。この場所に、以前は唐沢青年自然の家があったが、平成19年3月に閉館し整地されていると。何もない空き地となっていたが、北側の一部で開口する土塁跡が残っていた。「杉曲輪から見た平城(ひらじょう)杉曲輪は本丸の東側に連なる曲輪の一つで、かつては御仏殿があったとされる。曲輪の東側には土塁や虎口(出入口)が残り、また、東隣りの平とや丸(北の丸)や西隣りの平城(宝蔵曲輪)とはそれぞれ堀切で区切られている。」更に前方に進むと「関東ふれあいの道 京路戸峠」へ。振り返ると「金の丸」に建つ「金の丸ロッジ」の屋根が見えた。「二重の堀切」案内板。「二重の堀切平とや丸(北の丸)の北東側に連続して備えられたニ重の堀切て、北や南の急斜面にまで延びて竪堀状に落らている。本丸を中心とする城郭の主郭部と、北東に位置す鳩の峰方面を大きく分断している。」「鳩の峰」方面と「北城」以南を分断する大規模な堀切跡。「二重の堀切」の北側を見る。「二重の堀切」の南側を見る。ここを進むと「関東ふれあいの道 京路戸峠」へ。ここまでとし、引き返す。ここが「北城」。平鳥屋丸ともいい、北側と南側に低い土塁が認められます。大沢方面から登山道が西側に接続しています。「金の丸」。別名「平城」とも呼ばれ当時金蔵があった場所で、現在では「金の丸ロッジ」として唐沢子供会が使用しているが土塁等も残っていた。。さらに引き返して、「大手道」を下って行った。奉納幟には「舟木一夫」と。ベテラン歌手の舟木一夫であろうか?この地の出身ではなさそうだが、経緯は?「唐澤山神社 由緒」案内板。「唐澤山神社 由緒祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷)神階 贈正二位 元別格官弊社秀郷公は天児屋根命二十二世の孫藤原鎌足を祖とし、数代を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け 幼少の頃近江國(今の滋賀県)と山城國(京都府)の境にある宇治の田原という所に住んで弓馬の器量優れ 人々より田原藤太と慕われた。その頃近江は三上山に大むかで出没し人々を苦しめている事を聞き得意の弓術にてこれを打つ、琵琶湖の 神・龍王はこの功を賞賛し公はこの時神縁を受く。時の朝廷よりは従五位下に叙され下野國押領使に補される(延長 五年四月 927)よって居城を唐澤山に築く。第六十一代朱雀天皇の御代天慶二年十二月(940)平将門下野を始め関東各地を侵略 す。公平貞盛と共に下総國・幸島の北にて迎撃し将門を滅す。時に天慶三年二月十四日(世に之を天慶の乱と云う)朝廷其の功を賞し従四位に叙し、武蔵・下野両國守に任じ鎮守府将軍とす。以来六百七十年間子孫善政をしいたが慶長七年(1602)三十代佐野信吉公の時廃城となった。明治十六年八月六日特旨を 以て正三位を追贈されるに及び後裔一族旧臣等、公の御遺徳を偲ぶ人々により明治十六年九月に本殿及拝殿を創建し 御鎮座申し上げた。更に明治二十三年十一月二十九日別格官幣社に列せられる。大正七年十一月十八日特旨を以て贈正二位とされる。例祭日 四月二十五日(春の大祭) 十月二十五日(秋の大祭)」さらに「大手道」を下る。「大手道くい違い虎口(出入口)から続く神社の参道が、かつての大手道にあたると考えられる。この道筋は、手前の三つ目堀を過ぎて、奥の二つ目堀の直前で左手へ鋭角に折れて急な坂道となり、ニの丸の虎口に至る。」「さくらの馬場昔 武士が馬を訓練した所でさくらが多いところからこの名がある。」桜の馬場には芭蕉の句碑があった。「初さくら 折しも今日は よい日なり」貞亨5年(1688年)春、『笈の小文』の旅の途中、伊賀上野の薬師寺月次初会で詠まれた句。さらに「大手道」を下る。「西城」にある住宅の庭は「水琴窟」の場所までで、その先は立入禁止となっていた。「蓬莱矢廟」を訪ねることとする。「避来矢廟」は「避来矢山」の頂上にあり、「唐沢山」に功績のあった人を祀っているのだと。右手に見えたのが「四つ目堀」。「蓬莱矢山(ひらいしやま)」への坂道を進む。正面に見えて来たのが比較的小さな「社」。頂上は東西約26m、南北約33mの削った平地になっていて、露垂根大明神、盛綱築城後避来矢権現を祀っていた。「社」に近づいて。「盛綱」は佐野家の当主で、「唐沢山城」を整備した人物だと。「避来矢(ひらいし)」とはなかなか読めないが、「百足(むかで)退治」で有名な「佐野氏」の先祖、「藤原秀郷」(「俵藤太」)が三上山の大百足を退治した際に、竜神から贈られた大鎧の名だと。これを身に付けていると矢に当たらなかったとか。実は江戸時代まで本物と言われる鎧が残っていたようだ。火災にあったのだが、現在も一部が残されているとのこと。「蓬莱矢山霊廟」案内板。「唐澤山神社の創建以来、功績のあった方々をお祀りしています。秀郷公が百足を退治した時に、龍神様より贈られた鎧 (避来矢の鎧) の銘に由来している。」この後、祭事が行われるようであった。太鼓も準備されていた。そして「避来矢廟」を後にして、来た小路を下って行った。この辺りの紅葉はピークを迎えていた。斜面は糸杉?の枯れ葉に覆われて。そして紅葉に囲まれた「大炊の井」を見下ろす。井戸の水面に映る紅葉も時間によって見事なのでろうが。そしてレストハウス「蔵屋敷」まで戻り、車に乗り込んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.28
コメント(0)
この日は12月16日(金)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、今年も訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。所在地:神奈川県藤沢市渡内(わたうち)1丁目1-1頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「嶽」の字について学びました。 【https://okjiten.jp/kanji342.html】より「---北条早雲公開基の古刹--- 天嶽院」文明年間(1469年 - 1487年)に「虚堂玄白」が草庵を営んだ。この草庵を「玉縄城主、北条綱成」が「北条早雲」を弔うために寺院として創建。虚堂を開山、早雲を開基とした。 天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印地30石を賜る。パンフレットより。「功徳山早雲禅寺 天嶽院」。パンフレットより。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、一昨年?我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。長い金剛杵(こんごうしょ)。この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを用いて仏敵や業魔を粉砕するのだと。お顔をズームして。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。短い金剛杵(こんごうしょ)。お顔をズームして。「掲示板」。「利に群がるな 心で集え 目先の欲は 分裂のもと」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。そして「山門」を額縁にして、モミジの参道を。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉はいらない!!そして苔生した参道を進み、石段の上から「山門」を振り返る。午後3時の逆光にモモジ葉が輝く。「山門」をズームして。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が一枚(ひとひら)。正面に「中雀門」を見る。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。右の小さな2体の石仏。左の大きな石仏。「鐘楼」。梵鐘をズームして。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。「鐘楼」の先、右手にあった「六地蔵」。「庫裡」を横から。この奥に「鶴夢楼」があった。「早雲閣」。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ) 以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。休憩所「黄楳亭」。そして引き返して再び「鐘楼」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.27
コメント(0)
「南城館」「南城跡南城といわれるこの第所には、かって蔵屋敷や武者詰めがあったとされ、周囲に石垣がめぐり、特に東南の石垣は見応えがある。」南城館西側にある展望台。石庭の如くに巨石が並ぶ。展望台からは深い霧の中、ほとんど見えなかった。万葉集東歌の歌碑。「万葉集東歌(下野二首の一首)下毛野(しもつけの) 美可母(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま麓(ぐは)し兒(こ)ろは誰(た(か))が筒(け)か持たむ」≪左前方の山・三毳山を詠み≫(栃木県史より)コナラの葉のようにみずみずしく美しい乙女は誰の食器を持つのだろう。」・「下つ毛野」は、今の栃木県。「みかもの山」は栃木県佐野市と岩舟町の堺にある山。 かつては大田和山(おおだわやま)とも呼ばれていた。・「笥(け)」は食器。「笥(け)を持つ」というのは、お嫁さんになること。「ひでさと君のいちごいちえ・ぬり絵コンテスト」作品が並ぶ。入賞作品。「南城跡について本丸より南方向にある所から南城と呼ばれる。城はいくつかの曲輪(一定の地域を限り、その周囲と区別する為に設けた囲い)により構成されています。その呼び名には一般的に人名、方向等によって呼ばれることが多い。この南城跡は南北18メートル東西3 6メートルあり、周囲は石垣をめぐらし東側には堀を設けてあります。天気のよい時には、こから東京の高層ビルが眺められます。 環境省・栃木県」真っ赤に染まったカエデ?の紅葉。「南城館碑」。そして「本丸」、「唐澤山神社」への石段を上って行った。石段の上に「唐澤山神社」の石鳥居が立つ。その先に大きな石灯籠。石灯籠(右)、獻塔(けんとう)と。石灯籠(左)、獻塔(けんとう)と。この傾いたように見えた石碑は?「明治十六年御鎮座 御祭神 贈正二位 藤原秀郷公元別格官幣社 唐澤山神社例祭 春 四月二十五日 秋 十月二十五日」「山門」に向かって進む。「山門」。山門下には樽酒が並ぶ。左手には「古札納所」。そして正面に「唐澤山神社」の「拝殿」。「拝殿」手前に狛犬(右)。狛犬(左)。今年の虎の絵馬。「唐澤山神社参拝記念」撮影用の顔出しパネル。「拝殿」前から、上って来た参道を振り返る。そして「本丸跡現在は藤原秀郷公を祀る唐澤山神社の社殿が所在するこの場所には、かつては奥御殿が建ち、西側が大手虎ロであった。」この建物は?石鳥居の先に「二の丸」を見下ろす。奥には「神楽殿」が見えた。「神楽殿」をズームして。その脇には大きな石碑があった。「二の丸」からはこの様に見えたのであろう。こちらは虎口(こぐち)といわれていた出入口で、二の丸から本丸へのぼる通路。この写真の左側の石垣が修復工事中のため「二の丸」へは立入禁止になっていたのであった。「拝殿」横から「唐澤山神社」の「本殿」を」見る。「拝殿」の右側から。柵に近づいて。「本殿」入口。「拝殿」右側からも「本殿」を見る。ズームして。「唐澤山神社」の拝殿手前・左側の野面積みの石垣。南城へ戻る石段の手前にあった案内板。「南局跡古地図によっては「二の丸」とも記されている場所で、かつては奥女中の詰め所であったともいう。」そして「南城」への石段を下って行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.27
コメント(0)
「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「本堂・龍御殿」を後にして、「山門・仁王門」に向かって進む。左手にあったのが「仏足石」。天保年間(1830~1844)造立の仏足石。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」植松壽樹(ひさき)歌碑。「掃きよせて 落葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を 壽樹」大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。裏面には、短歌一首が冒頭に。『雷鳥は いろ(色)まぎらはし 指さして をし(教)ふる方(かた)に さ霧のうごく 壽樹』歌碑銘植松壽樹 明治二十三年二月十六日東京四谷に生れ長じて慶應義塾大学理財科を卒業実業界に入り 後に芝中学校(現芝学園)に職を転じ 爾来歿するまで教職にたずさわる 歿年 昭和三十九年三月二十六日明治三十八年窪田空穂の十月会に参加 若くしてすでに歌人としての風格を備え 大正三年「国民文学」創刊と同時に参画したが 昭和二十一年自ら「沃野」を創刊し主催する 著書のうち 歌集には碑面の一首を含む「庭燎」(大正十年八月)を始め 「光化門」「枯山水」「渦若葉」「白玉の木」など 研究には「近世万葉調短歌集成」其他 近世歌人の研究書数冊がある また能書家であった父千春に学び 若きより壽樹もまた書をよくした ここに頭刻の一首をのこして永くとどめることとする 碑面の一首は「庭燎」所収のもので 当時好んでこの地を逍遥した折の所産である 昭和四十五年六月吉日 植松壽樹歌碑建設委員会 編」と。上記の植松壽樹氏の歌は、我が学友が地元の市民図書館から、「植松壽樹全歌集」の本をレンタルして、第四歌集「渦若葉」所収の歌であることを、見つけて下さいました。彼女の調査力に驚愕、敬意、感謝です。「都天然記念物 九品仏のイチョウ」碑。総ての葉を落として冬の到来を待つ「都天然記念物 九品仏のイチョウ」。枯山水の庭を再び。奥には「山門・仁王門」の屋根が見えた。本堂前の「さぎ草絵馬」を振り返る。「白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に結ぶことが。皆さまも常盤姫にあやかり、お願い事を白鷺に結んで下さい。」と。「山門・仁王門」に向かって進む。境内側には、以前は風神雷神像が鎮座していた記憶がある。2018年の写真。2018年の写真。これらの像は何処に?「山門・仁王門」から「東門」方向を見る。「もみじ回廊」をどこまでも楽しむ。左手前方に「開山堂」の「中門・薬医門」。山門越しに振り返って。総門への参道。赤のカオス。立ち去り難い空間。そして「東門」へ。「九品佛浄真寺東門」。東横線・自由が丘駅から来るとこちらの門に辿り着くようだ。東門の扁額。『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と。これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意と。また、この額は箕の形をしており、塵取りのように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しているのだと。「東門」越しに「山門・仁王門」を。「山門・仁王門」をズームで。ズームして。さらに。赤・黃葉が輝き続けていた。「総門」に向かって進む。「焔魔堂」を再び。総門手前。石仏群周辺。「焔魔堂」前の「三途の川」とも、しばし!?の別れ。そして「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「寺粧う」「照紅葉(てりもみじ)」を堪能して、「九品仏駅」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.26
コメント(0)
「神橋」の手前右側にあったのが「西域」。天徳寺丸ともいい、涼やかな音色の水琴窟を楽しめます。南方に堀切等が続きます。これが「水琴窟」・「天慶夢」。日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。ツワブキ(石蕗)の花。「四つ目堀」に架かる「神橋」を横から。「神橋」手前の「四つ目堀」に沿った「避来矢(ひらいし)山」に向かう小路。右手にあった「明治天皇御製(ぎょせい)」「あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きを おのが 心ともがな」(浅緑色に晴れて澄み渡った大空のように、清らかな心、大らかで、広い心で日々の生活に励みたいものだ)」と。「唐沢山城跡案内図」。「神橋」を渡る。「四つ目堀」の北側。「四つ目堀」の南側。「四つ目堀西城域と帯曲輪以東とを大きく分断する堀切。かつては曳橋で、いざという時には、橋を引き払って通行を遮断することができた。」石段を上って行った。左手にあったのが「和合稲荷神社」。朱の鳥居の扁額も「和合稲荷神社」。「和合稲荷神社」の社殿。宇迦之御魂(うかのみたま)が祀られている境内社(穀物・食物の神様)。参道への山の法面には石碑が。「献燈 唐澤山神社創建壱百年 敬神婦人会創立二十周年 記念」碑。更に落葉の石段を「三の丸」に向かって上って行った。三の丸・四つ目堀の間にある「帯曲輪」が前方下に見えた。。急な切岸と土塁が残るこの地形は、本丸側における最前線の防御拠点だったと。そして石段の先に「三の丸」が現れた。「三の丸」。奥にはモニュメントが設置されていた。「佐野人形協会」の「人形供養塔」。近づいて。ひな人形や五月人形といった節句品を供養する「佐野人形感謝祭(人形供養)」の催しは、毎年10月の第2日曜日に開かれている。「この人形供養塔は、昭和、六十一年より佐野節句品製作組合の事業として9年間実施された「佐野人形まつり」において皆様より供養のご芳志としていただいた浄財にて建立いたしました。阪神淡路大震災に寄せて一度は、中止といたしました人形供養事業ですが、平成十六年よりこの唐沢山神社の地て佐野人形協会主催の「佐野人形感謝祭」と名称を変更し実施しております。かねてよりの懸案でありました供養塔建立につきまして、唐沢山神社様のこ厚意より、お許しをいただきましたので、佐野在住の陶芸家和田真紀氏に制作を依頼、ここに除幕式を迎えました。 平成二十年九月二十七日 佐野人形協会」「三の丸」からの紅葉。下に「大手道」を見る。「本丸」下の「高石垣」が姿を現した。右側にあった案内板。長さ40m・高さ8mのド迫力な石垣。この石垣は関東では珍しいもので、佐野氏と豊臣秀吉が深い関係にあったことから、西日本の技術の導入によって築かれたものだと。「二の丸」への道はその先の「石垣積直し工事」のため全面通行止めとなっていた。「二の丸」跡の奥に「神楽殿」が見えた。「大手道」を「南城」に向かって進む。石垣の下に石碑があった。「櫻記」と。近くの山も雲海に霞んで。「唐沢山神社 手水舎」。正面から「唐沢山神社 手水舎」。幟の立つ「大手道」を見る。「唐澤山神社 授与所 社務所」。「授与所」。「唐澤山神社当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治16(1883 )年、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐澤山を建てました。」。「社務所」と「南城館」を見る。「唐澤山神社社務所」と。「続日本百名城」スタンプの押印場所が「社務所」前にあった。「続日本100名城」の「114 唐沢山城」のスタンプをいただきました。そして御城印「唐沢山城」も。築城主・藤原秀郷公の家紋「揚羽蝶紋」が中央に大きくあしらわれたデザインに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.26
コメント(0)
そして「九品山 唯在念佛院 淨眞寺」の「本堂・龍御殿」を正面から。「九品仏」の名で親しまれているが正式名称は「九品山唯在念佛院淨眞寺」と号し、浄土宗に属する寺院である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝六年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典「観無量寿経」の説相によって諸堂宇を配置し、九躰(九品)の阿弥陀佛像を安置し創建された。諸堂宇は「江戸名所図絵」(1836発行)に描かれている配置とほとんど変わりなく現在に至っている と。「御朱印 縁起 御守 御祈願随時 受付」案内。「常香炉」九品仏浄真寺の寺紋は源頼朝の紋で知られる 「竜胆車(りんどうぐるま)」「本堂本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂憶上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「おめんかぶり・来迎会」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。」扁額「龍護殿」。「向拝」の見事な彫刻。正面五間で中央間は両折両開で格狭間を入れた桟唐戸、内側に明障子。正面に「御本尊」の「釈迦牟尼仏」が。内陣に鎮座する法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」をズームして。左側から。ズームして。反対側から。御本尊の左側の部屋。扁額は「霊瑞(れいずい)」と。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」「病が治ります。自分の患部と賓頭盧尊者の同じ所をくり返し撫でて下さい」と。私も頭をしっかりと撫でて。三体の仏様が御鎮座。中央に世田谷区指定有形文化財・「五劫思惟像」。左に「三尊仏像」。右に「地蔵菩薩像」。右側に「宗祖 法然上人像」祈りの姿で。左には多くの「位牌」が祀られていた。そして「本堂」北側の回廊からの景色。「五社殿」も見えた。大正2年に建造された奥沢神社の前代の本殿も五社殿として浄真寺に移築されているが、覆屋内に納められており見ることはできないのだと。淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮、住吉大社、熊野大社の五社の御分身をお祀りしている と。本堂内の欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。鳳凰の姿。「天蓋」。下から見上げて。再び「御本尊」を正面から。「本堂」の右側の部屋。牡丹の花、龍の見事な彫刻。扁額「松露斎」と。開山の「珂碩上人」の遷化法名が「大蓮社超譽珂碩松露大和尚」ということから来ているのであろう。「開山 珂碩上人倚像」。ズームして。位牌には「開山大蓮社超譽上人珂碩松露大和尚 位」と。右手には「阿弥陀仏像」が奥に。左側には「高祖 善導大師像」。そして「本堂」の南側回廊から「枯山水の庭」を見る。波紋も美しく。写真右の銀杏の落葉時であれば、波紋に浮かぶ黄色の銀杏の葉が・・・と。再び欄間の彫刻を。この先で御朱印を頂きました。「御朱印」を頂きました。中央に九品仏のお姿が。こちらは、平成三十年(2018)九月十四日に頂いた御朱印。御本尊の「釈迦牟尼仏」を再び。欄間の彫刻とその上の観音様像。「観音様」をズームして。再び「天蓋」を。「風鐸」を銀杏の木を背景に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.25
コメント(0)
「栃木県道141号線」・「唐沢山公園線」の坂を上り、「唐沢山レストハウス」前の「唐沢山城跡 駐車場」に到着。時間は9:06。栃木県佐野市富士町1409駐車場奥にあった「関東ふれあいの道」案内板。「「関東ふれあいの道」は関東地方の1都6県をめぐる160コース、総延長約1,800 kmの長距離自然歩道です。松風のみちこのコースは田沼駅から栃木市岩舟町の村檜(むらひ)神社まで7.3kmあります。ここ唐沢山は、「むかで退治」の伝説や、天慶(てんぎょう)の乱(939年)で、平将門滅ぼしたことで有名な藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏の居城跡で、アカマツにおおわれ、断崖と深い谷にかこまれた自然の要塞となっています。山城跡として非常に歴史的価値が高く、平成26 (2014)年に国指定史跡に指定されました。周辺は唐沢山県立自然公園にも指定されており、桜やつつじ、紅葉や梅など、四季折々の景色や、見事な眺望が楽しめます。」「松風のみち」。「田沼駅を出発し市街地をぬけ、秋山川に架かる橋を渡ると山道にさしかかります。山道を登ると、藤原秀郷公の居城跡である唐沢山があります。ここからアカマッ林の尾根道を進み、京路戸(きようろど)峠を越え、まで下ると村檜神社、大慈寺に到着します。山間に開ける田団風景や遠く日光連山を望むことのできる眺望の良いコースです。」と。最初に「足尾山神社」を訪ねた。レストハウスのトイレ裏の坂道を下って行った。石段の奥に朱の鳥居が現れた。「足と腰の神様 足尾山神社御祭神猿田毘古神(さるたひこのかみ)於母陀流神( おもだるのかみ)国常主命(くにのとこたちのかみ)」朱の鳥居の扁額「足尾山神社」。積み上げられた石の上に社殿が。「足尾山神社」社殿。そして来た道を引き返し、「唐澤山城跡」の散策に。石垣の前に石碑が2基。左は「唐沢山県立自然公園」碑。右側は「国指定史蹟 唐沢山城跡」碑。「史蹟「唐沢山城」沿革」案内板。「史蹟「唐沢山城」沿革唐沢山城は、佐野市の北、高さ二四〇メートルの山全体をいゝ、往時の広さ五五〇町歩と云われ、周囲を急崖に囲まれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まこと自然の要塞である。当社御祭神 藤原秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功ををたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで 威勢を張られた。その後、七〇〇年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として十六世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかゞわれる。江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換えとなって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。一日 一日祭三日 文化の日祭十五日 避来矢山霊廟大祭ニ十三日 新穀感謝祭ニ十五日 月次祭」「ふるさと佐野 100選」碑。「ふるさと佐野 100選唐沢山藤原秀郷一千年の昔の山城跡で、全山赤松におおわれている。山頂には唐沢山神社があり、春は桜・つつじ・新緑、夏は納涼・ぶどう狩り、秋は松茸狩り、冬は雪景色と、いつきても自然と味覚が楽しめる展望が良く、晴れた日は副都心新宿の高層ビル群が眺望できる。」「国指定史跡・唐沢山城跡案内図」をネットから。詳細図。頂いたパンフレットから。そして正面にあったのが「くい違い虎口(くいちがいこぐち)」。「くい違い虎口」とは土塁や石垣を平行でなく、くい違いにすることによって開口部を側面に設けたもの。これにより、寄せ手が城内を直接見られないようにし、直線的に進入できないようにする。また、城内側面からの攻撃が効果的になる。ここ唐沢山城跡では山頂レストハウスから城内に向うところに、石垣を伴った見事な土塁で構築された「くい違い虎口」があった。「くい違い虎口」の左右には避来矢山と天狗岩がそびえ、両側から側面の防備をしっかり固めていたのであった。更に、『諸国古城之図』の唐沢山城絵図には虎口の内側に「武者詰」の文字が読み取れると。この虎口は土塁の規模や入念な構造から、城内への表玄関とも言えるのだと。なお、現在観察できるこの付近の石垣は明治期のものと判断されるが、一部には古い時代の石積みも残されているとのこと。「くい違い虎口敵が直進できないように、鍵の手に折れて「くい違い」に造られている。さらに内側は「ます形」となる。」と。いわゆる「クランク構造」。枡形とは「四角い形」。枡形虎口は「四角い形の出入口」ということになる。城攻めの時に敵兵が殺到する虎口は、守りの最重要ポイント。まともに敵の圧力を受け、簡単に門を突破されては困るのだ。なるべくここで敵の勢いを削ぎ、食い止め、弱点である側面を突き、そしてできれば、確実に仕留めたいのだ。仮に門を突破されても敵が城内へと直進できないようにするため、「一文字土居(いちもんじどい)」や「喰違虎口(くいちがいこぐち)」といった工夫がされて来たが、最終的にたどり着いたのが、虎口に四角い空間を設ける「枡形虎口」であった。枡形に敵を誘い込んで身動きが取れないように封じ込め、そこに三方から集中攻撃をかけて仕留める構造。」。ただし、この規模の城にしては「枡形虎口」の大きさが小振りと感じたのであったが・・・。こちらが「くい違い虎口」の城内への入口。右側には「天狗岩」があった。「天狗岩「大険山」とも例えられる岩山で、頂上からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張る役割を果たしていたと考えられる。」岩肌を上って行った。根っこが露わに。ゴツゴツした岩が剥きだしになった巨岩の横を上って行った。文字が刻まれているようでもあったが。展望の良い場所を目指して。「唐沢山天狗岩展望案内」。残念がら雲に隠れて。天気が良ければ・・・ネットから。ここには物見櫓のあったとのこと。条件がよければ正面方向に都心の高層ビルがみえることもあると。かつて唐沢山城から江戸の大火を見た城主・佐野信吉が早馬で江戸に駆けつけたところ、『江戸を見下ろすとはけしからん』と却って家康の不興を買い、廃城を命じられ麓の佐野城に移ったというエピソードがあるとか。石祠が岩の上に鎮座。台石には多くの奉納者の名前が刻まれていた。紅葉も始まっていたが、この日は青空、陽光がなく。進んでいくと右手にあったのが「唐澤山荘」。和食店であったようだが、現在は閉鎖中のようであった。「武者詰と大井の間の虎口かっては武者詰があったとされる枡形の奥側に築かれた虎口(出入口)で、この内側には城内の重要な水源である大井が位置するほか、さらに東方の本丸方面まで続く大手町への通行を遮断している。」ここが枡形の奥側に築かれた虎口(出入口)。再び案内図。「唐沢山城跡を再発見しよう!上空からの精密な3次元測量によって出来上がった唐沢山城跡中央部の「地形起伏図」です。これを見ると、拠点としての堅固な城を築くため、山の広範囲にわたって尾根筋を削平し堀や土塁(土手)などを設けていたことがよくわかります。本丸周辺口には、安土挑山時代の貴重な高石垣が今日まで残り、唐沢山城跡のシンポル的存在といえますが、194haにも及ぶ広大な史跡の中には、いたる所に敵からの攻撃を防いだ城造り跡が残っています。この図には、城跡のおもだったところに説明を加えてありますが、それ以外のところもよく見てみると、曲輸(くるわ)などの平坦面や堀跡、古い道筋などを各所に見つけることができると思います。ぜひ、新たな発見を楽しんでください。なお、山内は危険な場所があります。貴重な植生にも悪影響を及ぼしすので、参道や遊歩道からはずれないでください。」ズームして。左手にあった「龍神宮」。苔むした岩にも紙垂の付いた注連縄が。ここに「八大龍王神」が祀られているのだと。「龍神宮」の朱の鳥居。「八大龍王神縁起唐澤山の御祭神であらせられます藤原秀郷公が、京に架かる瀬田大橋を渡る時、橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、京の人々は恐れ慄き只遠巻きに見ているだけでしたが、公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。それを見ていた従者が此の人こそ真の勇者と公を呼び止め助けを請いました。大蛇は百足の毒にやられた龍神様の化身でした。ぜひ敵を討って欲しいと公を龍宮城へと招きました。夜になると黒き山が動き多くの松明をかざしこちらに向かってくるのが見え、よく見ると大きな邪悪な目がらんらんと輝き、龍宮城へと襲いかかって来たのは大百足(おおむかで)の化け物でした。公は弓矢の名手でしたので3本の鋼矢を取り、一の矢を番え敵の眉間の中央に的を絞り放ちましたが、矢はカチンと跳ね返りました。急いで二の矢を撃ちましたが同じように跳ね返されました。公は最後の三本目の矢を「神よ、御照覧あれ」と矢じりにつばきを塗り全く同じ場所を狙い放ったところ矢は眉間より奥深く射抜きムカデはどうと崩れ落ち息絶えました。これ以降龍神様は公の傍らに仕え数々の瑞象を表し今日に至り唐澤山に鎮座まします。龍神様は家族で行動する処から、家族思いであり、家族愛に溢れ、敬愛と恋人同士の深い愛の成就の神です。また登竜門と言われるように入学、入社は元より出世をかなえます。秀郷公の弓矢の名人の誉から狙った的を外さない事から本命の恋人の心を射たり将来の夢と希望を當的出来る神様であります。この龍神様と秀郷公の鎮座される本殿にお参りされ、二柱の神様のお力を得て素晴らしい日々をお過ごしください。」「龍神宮」の社。御祭神は「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」。左手にあったのが「大炊の井(おおいのい)」。城造りの際、深い堀や高い土塁・石垣を築くなど、防御の機能を高めて城の構造を堅牢にしようとするばかりでなく、水の確保にも意を注いだことでしょう。水は生活に欠く事のできないものであり、特に戦の際には飲用水の有無が重要でした。籠城(ろうじょう)する場合にはなおさらです。唐沢山の山頂には築城に際して厳島大明神に祈請したとされる井戸があります。名を大炊井戸と言い、くい違い虎口から少し進んだ左手にあります。山の上にあって井戸を掘るため水脈を見極めることは難しかったことでしょうが、『校正続撰佐野記』には「手を以て土中を探りけれバ、たちまち清水湧出て一つの大井出現せり。(略)大井之水かるるいう事なし。」とあり、現在も豊かな水を蓄えています。なお、井戸の内側には整然と石が組まれていますが、古写真から現在の石組は明治時代になってからのものと考えられます。「大炊の井」の奥の紅葉も美しかった。中央にぶら下がっているものは?「大井直径9m、深さ8m以上の大きな井戸で、現在まて凅れずに豊かな水をたたえている。明治期の井戸浚いの際に、底部に八角形の松材の木枠が3段積まれていることや、中央がさらに掘リ込まれているこどが確認されている。」別の場所から。「大炊の井築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ九米直径八米あり今日まで水がかれたことがない」芭蕉の句碑。「城跡や古井の清水先問む」貞亨5年(1688年)夏、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の稲葉山で詠まれた句であると。安政3年(1856年)、句碑建立。その先に「唐沢山神社」の石鳥居。石鳥居を潜るとその先に太鼓橋が。「神橋」と。「神橋かっては曵橋であったとされ、いざという時に橋を引き払い通行を遮断したとも伝えられています。大正十五年皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として地元の高齢者より寄与されました」「引き橋がかかる四つ目堀城の山頂部を東西に大きく分断する四ツ目堀は重要な防衛地点であり、かっては曳橋がかけられていたとされる。いざどいう時には橋を引き払い、城の中心部への敵の侵入を防いだど考えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.25
コメント(0)
「三仏堂」を後にしてその奥の墓地の中にある「開山歴代上人御廟」に向かって「中品堂」の先を左に折れてて進む。「中品堂」の北側の墓地への参道を進む。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。突き当りの左側にあった石碑・石仏。「本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」(左)、右の石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟?元水居士」他多くの戒名が刻まれていた。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。「延命地蔵尊」であろう。「延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。「先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。「南無阿弥陀仏」碑。横には「文化十酉年七月二十日」と。正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。墓石・「無縫塔(むほうとう)」に近づいて。ここにも「南無阿弥陀仏」。その横にも大きな「無縫塔」が。「歴代上人の墓石」が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」が並んでいた。「兼齋大人之塚」。歴史を感じる多くの墓石が並ぶ。こちらの無縫塔墓石は?こちらは比較的新しかったが。墓誌碑には「中興十五世、中興十六世」 と。歴代上人の墓石を反対側から。こちらにも無縫塔が並ぶ。墓地を望む。「中品堂」裏の墓地には「名木百選 イヌシデ」の老木が。そして墓地入口に向かって引き返す。この場所には火灯窓・花頭窓(かとうまど)の建物が建っていたが。これが、以前の建物の写真であるが。「中品堂」前から「本堂」への参道を進む。これぞ紅葉のトンネル。「本堂」の北側の林も紅葉のカオスが拡がっていた。角にあったのが「河口慧海師碑」。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰 日本芸術院会員 桂月松林篤書」塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。「和」と刻まれた球状の石碑。「平和の塔(へいわのとう)」であると。台座には「超世無倫」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。昭和四十年(1965)建立と。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。石仏をズームして。左前方に「本堂(龍護殿)」が見えて来た。輝く紅葉を見上げて。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世」と刻まれた石碑。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「本堂(龍護殿)」前から「三仏堂」の「上品堂」を見る。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。歩いて来た、「本堂」前の参道を振り返る。「本堂」前に「金千五百圓」と刻まれた大きな石碑が鎮座。再び「河口慧海師碑」の方向を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.24
コメント(0)
この日は11月15日(火)。今年の紅葉狩りとして、いつもの旅友と栃木、群馬県にある続日本百名城そしてその途中にある寺社・そして紅葉めぐりに1泊2日の予定で、車で向かったのであった。茅ヶ崎の旅友の家を、早朝6時に出発し、新湘南バイパス・茅ヶ崎西ICから圏央道に向かう。そして圏央道をひたすら北上し埼玉県内を進む。白岡菖蒲ICを通過する。久喜白岡JCTから東北自動車道に。羽生PAにてトイレ休憩と朝食用のオニギリを購入。羽生PAの上りには江戸の町が広がっているが、下りには何があるかと言えば、「洗練された粋な和風モダン」をコンセプトにした商業施設「Pasar(パサール)羽生」があったが、先を急ぐ。そして利根川に架かる「利根川橋」を渡る。下路平行弦ワーレントラス橋(8スパン)、全長640m 建設年:昭和47年(1972)。垂直材なしの溶接構造は珍しいのでは。そして佐野藤岡ICに向かって進む。佐野藤岡ICのETC専用出口から出て栃木県道75→270号線を進み、県道141号線・唐沢山公園線を北上する。時間は8:44。正面に標高242mの「唐沢山」が姿を現した。唐澤山登山口に立つ石鳥居が正面に。その右側には「露垂根神社(つゆしねじんじゃ)」の石鳥居も姿を現した。車を駐め、この日の最初の散策。雨はほとんど止み、傘無しで動き始めた。「唐沢山県立自然公園」案内板。「唐沢山県立自然公園は、唐沢山を中心とした自然公園です。断崖と深い谷に囲まれた唐沢山は、関東の七名城の一つとして有名な藤原秀郷の居城跡で、今も当時の面影を残す遺跡や伝説が数多く残されています。また、周囲が平地であるため眺望が良く、サクラやツツジの名所でもあります。公園を利用するときは自然環境を壊さないように注意しましよう。景観を変える行為をする場合は、栃木市または佐野市の許可や届出が必要です。」唐沢山城の登り口に鎮座する石鳥居を再び。石鳥居の横にあったのが「別格官幣 唐澤山神社」碑。その右横にあった「露垂根神社」の参道入口。石灯籠(右)。石灯籠(左)。社号標石・「露垂根神社」。石鳥居。注連縄は緩め。扁額「露垂根神社」。「石鳥居建設碑」。石段の先に拝殿。狛犬(右)。狛犬(左)。右手に「手水舎」。正面に「露垂根神社」の「拝殿」。天慶五年(942)藤原秀郷が安芸国厳島神社を勧請。慶長年間(1596−1615)現在地に遷座御祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。明治40年 落成記念 と。藤原秀郷の姿であろうか?天慶の乱で平将門を滅ぼした武将。藤原秀郷はこの功績を認められ、下野国の守護を任されるようになり、唐澤山城は700年に渡って子孫の居城であったのだ。こちらにも。「拝殿」の右側には苔が生えて。胴羽目は三面合わせて「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」。中国晋(しん)の時代に、俗世間をさけて山中に隠遁し、礼節を捨てて竹林に会し、清談に明け暮れたといわれる隠士七人の総称。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戎(おうじゅう)のこと。ひなびた場所の神社にふさわしくない?ほどの色彩なのであった。ズームして。「拝殿」の裏側。俗世間を避け竹林の中で清談した7人の隠者たちの姿であると。脇障子は「竹林の虎」。ズームして。「三国志」で知られる三国時代に世の中の不条理を嘆いた七人の賢人たちが竹林で酒を飲み交わし、琴を弾き、浮世を離れて清談にふけったといわれています。古来、「竹林の七賢人」の故事は、画や彫刻のモチーフとして多く用いられているのだ「拝殿」の左側。ズームして。「拝殿」の右側の石祠群。無名の石祠には注連縄と紙垂(しで)が。ここにも小さな社が。「拝殿」前のピンクの山茶花(サザンカ)の花。雨に打たれて「山茶花」の花びらは落ちて。「露垂根(つゆしね)神社由緒」案内板。「露垂根神社由緒(明神様)社紋 揚羽蝶主祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)配神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)例祭 四月第三日曜日旧社格 村社「由緒沿革」 天慶五年(九四二)藤原秀郷唐沢山城に際し大炊きの井の守り神として安芸国厳島大明神を 唐沢山上に勧請。 以後代々城主が崇敬し数度再建修復された。大永年間に笠松山中腹に奉移し、数度の修復 再建を経て慶長元年(一五九六)城主佐野信吉の時現在の地に遷座した。唐沢山城破却後も 多くの尊崇を集め、寛永十二年(一六三五)徳川家光の折この地方を収めた井伊直孝が 再建立した。寛保三年(一七四三)氏子一同で拝殿を建立し露垂根大明神として崇拝した。 明治の神仏分離令により明治五年露垂根神社と改称し村社に加えられた。明治四十一年 氏子一同で茅葺屋根の拝殿を瓦葺に改修し、大正八年指定村社に列せられる。 平成元年四月御大典記念として上富士町・下富士町氏子一同の奉賛により整備事業を 行う。本殿の東・北・西の三壁に大変珍しい「竹林の七賢」の彫り物がある。」「竹林の七賢について」 中国晋の時代に、洛陽の竹林に集まった七人の隠者。名前は、阮籍(げんせき)・ 嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(こうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・ 阮咸(げんかん)・王戎(おおじゅう)の七賢人で彼等は俗世間を離れ、心の赴くままに酒を 飲み、詩を作り、老子・荘子の思想に浸って清談するという日々を送ったといわれる。 彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その 意図の韜晦(人々の目をくらます事)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と 賞される。 露垂根神社」境内の桜の老木の先にも白き建物があった。境内社であっただろうか?近づいて。南京錠がかかっていた。藤原秀郷公の家紋「揚羽蝶紋」であろう。この後、唐沢山城の御城印をいただいたが、それにも同じ家紋印が押されていた。平安末期の平氏の一門がこの紋をよく用いたとのことだが。図案としては、左右対称に羽を広げたものや、羽を閉じて上に上げている様を横からみたものがあるとのこと。右側には石祠、石碑がそれぞれ2基。左側にも石祠が。すべて境内社なのであろうか。鞘堂に覆われた「四十九膳神社」。扁額「四十九膳神社」。脇の石に「青面金剛」と刻まれていたが、初めて見る神社の名前であったが詳細は?こちらの石碑の正面には「明治三十七八年戰役紀念碑 公爵 大山巌書」と。日露戦争の戦役紀念碑。左手は「石橋架設記念碑」。「露垂根神社玉垣等建設寄附者」碑。「神楽殿」。「露垂根神社 慶五(九四ニ)年、藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐沢山に勧請。大永時に笠松山の中に 奉移し、慶長時に現在の所に遷座れさた。 明治五年、露垂根大明神を露垂根神社と改称し、村社に加えられた。 大正八年、神饌幤帛料指定村社となった。 本殿の東・北・西の三襞に「竹の七賢」の影刻がある。 主祭神 市杵島姫命 配神 天照皇大神 素戔鳴命」通常、神社では複数の神を祀っている。その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)・配祀神(はいししん)・相殿神(あいどのしん)などというのだ と。「唐沢山県立自然公園ハイキングコース案内」板。栃木県立自然公園となっている「唐沢山県立自然公園」内の唐沢山にある山城跡が「唐沢山城跡」と呼ばれているのであった。戦国時代佐野氏が居城し、慶長7年に佐野城(現城山公園)への移転に伴い廃城になった。現在、唐澤山神社本殿がある本丸を中心に山全体に遺構が広がっているのであった。そして、車に戻り「唐澤山城跡」を目指したのであった。 ・・・つづく・・・
2022.12.24
コメント(0)
九品仏浄真寺 中央の「三仏堂(阿弥陀堂)」本堂の対面に3つの「三仏堂(阿弥陀堂)」があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年に大修復工事が行われ、創建当時の姿を取り戻した。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。まずは左から「下品堂(げぼんどう)・下品阿弥陀堂(げぼんあみだどう)」に向かって進む。下品上生、下品中生、下品下生と書かれたそれぞれの扁額が。3棟とも同じつくりで、内部に阿弥陀如来像を3体ずつ安置する全国的にも珍しい形式である と。このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかないとのこと。正面にある「三仏堂」の「下品堂」に向って進む。斜めから「下品堂」を見る。「三仏堂」は真東に向いて建っている。という事は、浄土、彼岸に当たる区域という事なのであろう。彼岸の地においては全て生前の行いにより三つの品階に区別され、それが又それぞれ三ランク、計九ランクに分類されるのだと。そしてそれぞれ専任の阿弥陀如来が付き、上のランクに引き上げて呉れるのだと。最終的には全員が上品上生に達するそうですが、子孫の供養の仕方、行いによりスピードが異なると。境内の「三仏堂」の配置図。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指「下品堂(げぼんどう)」。「東京都有形文化財 下品阿弥陀如来像 三體」。正面の扁額は「下品上生」。しかし、仏様のお姿はなし。「下品上生佛像 御遷座中令和四年からニヶ年間」と。向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)。お顔をズームして。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。「新補化佛は化佛の背面に寄進者芳名等を墨書した後に後背に奉祀いたします。」「祝 下品中生佛大修繕完了 下品堂本座還着」と。お顔をズームして。「九品仏と三仏道珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」「下品 阿弥陀如来像 三體」大勧進 案内。「下品堂」前の黄葉も輝く。手摺には「紫雲」が施されていた。「三仏堂」前の広場の紅葉。「上品堂」に向って進む。「三仏堂」の前の参道沿いには、モミジが陽光を浴びて黄金の「九品仏」の如くに輝いていた。こちらは紅葉のプロローグの黄葉。こちらはエピローグへと。「上品堂」が前方に。桜の時期も美しいのである。右手への参道の先に有るのが「本堂・龍護殿」。次に訪ねたのが、「三仏堂」の中央にあった「上品堂(じょうぼんどう)」。上品堂の中央の扁額は「上品上生」。「上品 阿弥陀如来像 三體」。「上品上生」仏。両手を膝の上で組み合わせ親指と人差指で輪を。「上品上生 手印」阿弥陀様が組んでいることでも有名な「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」は、九品往生(くほんおうじょう)と呼ばれている9つの印相の1つ。九品、また3つある上品往生(じょうひんおうじょう)の中でも最上級に値している。印の組み方は、親指と人差し指で輪を作るようにして合わせ、他の指は伸ばして重ね合わせる。そのまま胡座(あぐら)をかいた上に置けば完成。「上品上生」は、「人々の中でももっとも早く極楽浄土へ行きたい」と願うこと。慈悲の心・真の心を持ち、経典を読破し理解して仏を信じる人が上品上生を組み祈りを捧げることで、極楽浄土への道が開かれるのだと。両脇には献花が。名前があるのか?花纏?花万灯にも似て。お顔をズームして。そして「上品中生」仏。お顔をズームして。「上品下生」仏。お顔をズームして。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来ニ十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏業者が臨終の夕ベに、阿弥陀さまがニ十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください」「上品堂」前の紅葉。ここにも「大勧進」の案内が。加藤楸邨の句碑。「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(ばった)とぶ」「人の気配を感じてか、草むらにじっと動かない螇蚸がいる。こちらも動かずに息をひそめ目を凝らしている。動かないのは力が抜けているのではなく、全身に力を漲らせているのだ。と、次の瞬間、螇蚸は勢いよく跳躍、飛翔したのだった。昆虫の思いがけない力強い飛翔に、作者は心を打たれたのではなかったろうか。内への充実と外への飛躍、静と動の鮮やかな対比が螇蚸の命の輝きを捉えている」とネットから。石碑の裏面には「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸とぶ「螇蚸(はたはた)」は昆虫のバッタの異称 と。しかし、虫偏の漢字、“虫”のある漢字って意外と多いので調べて見た。以下、ネットから「手元の歳時記で、秋の季語/動物編に出てくる虫偏の漢字または“虫”のある漢字を含む季語を拾い上げてみましょう。・秋の蛇(へび)・秋の蛍(ほたる)・秋の蠅(はえ)・秋の蚊(か)・秋の蜂(はち)・秋の蝶(てふ、ちょう)・秋の蝉(せみ)・蜩(ひぐらし)・法師蝉(ほふしぜみ:ツクツクボウシのこと)・蜻蛉(とんぼ)・蜉蝣(かげろふ、かげろう)・虫(むし:秋鳴く虫の総称)・蟋蟀(こほろぎ、こおろぎ)・蛬(こほろぎ、こおろぎ)・蛼(こほろぎ、こおろぎ)・螽蟖(きりぎりす)・螇蚸(ばった)・飛蝗(ばった)・蟿螽(はたはた:バッタのこと)・蝗(いなご)・螽(いなご)・蟷螂(かまきり)・螻蛄(けら)・蚯蚓鳴く(みみずなく:ケラの鳴き声のこと)・秋蚕(あきご:秋に飼い育てるカイコのこと)」と。以上25件、30種類の漢字があるのだと。その奥にあったのが「阿育王塔(あしょかおうとう)」。「阿育王塔」は、分骨した釈迦(シャカ)の遺骨を納めるために作られた仏塔。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの。「上品堂」前の広場の紅葉。「上品堂」の前の参道を振り返る。そして「中品堂」に向って進む。「中品堂」。「中品上生」の扁額。「中品 阿弥陀如来像 三體」。「中品三仏」を見る。中央に「中品上生」仏。両手を前向き上方に。親指と人差指で輪を。お顔をズームして。「中品下生」仏。親指と薬指で輪を。お顔をズームして。「中品中生」仏。親指と中指で輪を。お顔をズームして。「三仏堂修覆元禄11年~ 12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財)」「中品堂」前から「本堂」への参道。紅葉に溢れて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.23
コメント(0)
豪雨の中、糸満市真壁にあった「真壁公園」を後にして県道7号線、県道250号線を国道331号まで戻ると、左手にあったのが「糸満市役所」。南面は全面にPC柱と太陽光発電モジュール、さらに屋上にも太陽光発電モジュールを装着し水平ルーバーで巨大な日よけスクリーンを構築、さらに外装に強い日差しを遮るルーバーや有孔パネルを取り付け、沖繩ならではの構造となっていた。糸満市潮崎町1丁目1。国道331号を暫く北上する。那覇市金白にあった「YUI BLD」が右手に。「明治橋」を渡って進む。左折すると「那覇ふ頭」へ、右手には「ゆいレール」が現れた。ゆいレール・旭橋駅の手前を右折する。この後、第一牧志公設市場を訪ねたが、一方通行が多々有り、道に迷い諦めて引き返す。再び旭橋駅まで戻り、先程と反対方向に進む。「沖縄セルラースタジアム那覇」を左に見る。奥武山公園内にある、沖縄唯一のプロ野球ナイター公式戦の開催可能な本格的な野球場。両翼100m、センター122m、スタンド席は15,000席で最大3万人収容可能と県内最大級の収容数を誇る。そしてレンタカーの返却の為に「昭和シェル小禄金城SS」にて満タン給油し「ABCレンタカー那覇空港営業所」に無事到着。時間は16:40。最終日の走行距離は110km。そして頑張ってくれた車を返却し、送迎車で送ってもらい、「那覇空港 国内線ターミナル」に到着。那覇空港ではジェットスターカウンターにて係員のいるチェックインを完了し、荷物検査を無事通過し、待合室に向かう。途中レストランで夕食を楽しむ。ロイヤル那覇空港店。タコライスと沖繩そばのセットを楽しむ。タコライス。タコライスとは「タコ(蛸)めし」と勘違いされている人もいるようであった。タコスで使う具材とサルサ(ソース)を、皿に盛ったご飯の上に乗せて食べるのがタコライスであり、タコス+ライスと言うことでタコライスと名付けられた。 ちなみにタコ(taco)はスペイン語で、軽食を意味すること等を知ったのは、2008年にスペインに旅行した時であったことを懐かしく想い出したのであった。沖繩そば。そば粉を使わず小麦粉だけを使い、かん水で練って作る太めの麺と、豚骨やかつお節からとった濃厚なだしで仕上げたこってりとした汁が特徴。麺の上に乗せる具は、豚の三枚肉の煮つけ、棒かまぼこ、ネギ、紅生姜が定番。この後、土産として購入する。そしてモズク。白身魚の春巻きであっただろうか。「沖繩のシンボル 首里城再建」案内の横断幕。首里城が火災により正殿をはじめ9棟が焼失したのを知ったのは、4年前の2019(令和元)年の10月31日(現地時間)のカタールのドーハ空港のテレビ放送であったのだ。それは「秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間の旅」の帰路。焼失から約3年が経過し、復元作業は着々と進んでいるとのこと。今秋には正殿の本体工事が始まり、4年後の令和8年秋に完成する見込であると。そして成田空港までの帰路便・ジェットスター。そして搭乗時間になり機内へと向かう。定刻の19:34過ぎに那覇空港を離陸。那覇の街ともしばし?の別れ。そして機窓からの夜景を見ながらしばしの眠りについたのであった。そして順調に飛行し成田空港に定刻通り到着。「WELCOM TO CHIBA」と。手荷物ターンテーブルに向かって進む。そして無事に荷物も受け取り、第二ターミナルへの連絡バス乗り場に向かって進む。パーキングの送迎車で成田空港駐車場 USAパーキングに到着し、旅友の愛車に乗り換え帰路に。成田料金所を通過。時間は22:55。左手に見えたのが東京ディズニーランドホテル。時間は23:29。この料金所は?そして横浜新道戸塚料金所を通過。時間は0:01。そして旅友に自宅まで送ってもらい無事帰宅。時間は0:15。幸いにも、台風一過の時に重なり、全行程を車でそして旅友の巧みなハンドリングで沖縄本島をほぼ一周したのであった。青い空に白い砂浜、エメラルドグリーンの海をこれでもかと楽しむことが出来たのであった。しかしながら、遠くない昔、悲惨な戦争があったことに目を背けることは出来ない「沖縄戦を学び、平和を考える旅」でもあったのだ。日本で最大の地上戦が行われ、日米双方およそ20万人が命を落とす凄惨な舞台となった沖縄には、今なお様々な戦跡が沖繩県内各地に遺されているのであった。至るところで沖縄戦で亡くなった人々の魂を祀った慰霊碑に出逢ったのであった。きれいに手入れされたものだけでなく、ハブが出そうな草むらの中、今にも朽ち落ちそうなものまで、その姿も実に様々なのであった。この旅行の最終日には糸満市真栄里にあった「白梅之塔」を訪ねたのであった。国道54号からはずれてひっそりと佇む「白梅之塔」。左奥には「納骨堂」、塔の手前には無名の戦没者の遺骨が収められた「萬魂之塔」があった。映画化され全国的にその名が知られることとなったひめゆりの少女たちばかりが昔から取り上げられて来たが、沖縄戦での学徒少女たちの悲劇はひめゆりだけではないことを知ったのであった。同じように学徒として前線にかり出された県立第二高等女学校の白梅部隊の少女たちもまた、多くは非業の最期を迎えたのだ。白梅部隊の最も多くの犠牲者が出た真栄里の地に慰霊塔が建てられていた。慰霊塔の横には白梅の少女たちが最期自決をした壕もあった。ひめゆりと白梅部隊の他にも、なごらん、でいご、すいせん、せきとくの学徒部隊があり、実に多くの少女たちが犠牲になったことをこのブログを書きながら知ったのであった。沖縄本島はもちろんのこと、離島を含めて沖縄はその全部が戦争の傷跡と言っても過言ではないのであった。戦後の歩みの中で、戦争の処理がなされぬまま、かつて戦場であった地やかつて多くの人々が命を落とした地の上に、コンクリートが流しこまれ、町や基地が整備されているのだと。一方、何の保存も受けないまま自然の力の中で朽ち落ちていく戦跡も数知れず。米軍基地の中のものは触ることができない、さらに私有地にあり許可なく立ち入りできないものや、戦後70年近くも経つ中で亜熱帯の自然の力の前に人間の存在はあまりにも微力。そして下の地図は、中国、韓国から日本を南方向に見た地図なのである。いわゆるこの「逆さ地図」は、大陸の中国人の目に、日本列島がどのように映っているのかを明解に説明しているのである。まず気づくのは、日本列島が中国の沖合に壁のように鎮座し、中国の「太平洋」への進出を阻んでいる事実である。そして、白い部分が日本の「排他的経済水域(EEZ:Exclusive Economic Zone)」。「排他的経済水域」とは漁業をしたり、石油などの天然資源を掘ほったり、科学的な調査を行ったりという活動を、他の国に邪魔されずに自由に行うことができる水域。海に面している国は、自分の海(領海)の外側に決められた幅を超こえない範囲で「排他的経済水域」を設定することができるのだ。1990年代以降、中国は海の権益を核心的利益だとして、海軍力の強化に取り組んできた。めざすのは太平洋、インド洋など外洋への進出である。黄海に面した中国山東省の青島には、中国人民解放軍の北海艦隊の司令部があり、ここを拠点に日本近海の東シナ海や西太平洋で活動している。とりわけ、太平洋への進出は外洋型の海軍をめざす中国にとっては最も重要であり、そのためには次の4つのルートを通って、太平洋に抜けなくてはならない。すなわち、 ①日本海からオホーツク海を経由して太平洋に抜けるルート ②日本海から津軽海峡を抜けて、太平洋に出るルート ③沖縄県の宮古島と沖縄本島の間の広い海域を抜けるルート ④台湾海峡を抜け、南シナ海を経由して、太平洋に抜けるルート以上の4つである。このうち、中国にとって、沿岸国を刺激せず、迂回せずに太平洋に出られるのは③の沖縄本島と宮古島の間を抜けて行くルートである。そして、そのルートの入り口近くに尖閣諸島があるのだ。つまり、中国が沖縄県の一部の領有を主張する背景には太平洋進出の拠点を確保しようとする軍事的思惑があることは間違いない。しかし、③の沖縄ルートには沖縄米軍基地が、②の津軽海峡ルートには三沢米軍基地があり絶えず中国・北朝鮮・韓国・ロシア等の船の通過を見張っているのである。今回、巡った戦跡は沖縄のごく一部のものであったが、機会があればぜひ再び足を運び沖繩で起きた戦争にさらに向き合ってみたいと感じているのである。そして、ロシア政府のウクライナへの武力侵攻を決して許すことはできない。戦争は、かけがえのない命と人々の平穏な生活を、無残にも一瞬にして奪う。幼い子どもたちまでもが命を奪われ、多くの尊い命が犠牲となる惨状を目の当たりにし、世界は依然として深い悲しみに包まれているのだ。ロシアの侵攻が続くウクライナにも、クリスマスの季節が訪れた と先程のテレビのニュースで。首都キーウ(キエフ)では至る所にクリスマスツリーが立ち始めたが、ロシア軍のインフラ攻撃による電力不足が影響し、きらびやかな電飾はなし。戦闘が続き、祝賀ムードには程遠い。避難生活を送る人々や、前線で戦う兵士の帰りを待つ家族は、それぞれの無事を祈り、静かにクリスマスを迎えるしか選択肢がないのだと。いや、停電による深い闇の中で凍えているのである。一刻も早い停戦を求め、そして平和な日常を取り戻すため両国の平和的解決が行われることを心から願うのだ。そして今年2022年の「今年の漢字」は【戦】。ロシアのウクライナ侵攻により、「戦」争の恐ろしさを目の当たりにした一年であり、円安・物価高による生活面での「戦」い、スポーツでの熱「戦」・挑「戦」も注目されたことが、総じて応募者の選定理由だという。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.12.23
コメント(0)
「本堂」脇の枯山水の庭の先の「銀杏」の老木は、既に完全に葉を落としていた。紅葉も、陽光が射さない場所は・・・・。この方向は陽光を浴びて輝く。参道の左側には大小の石が配置されていた。陽光を浴びたモミジ葉を追う。銀杏の葉の黄色の絨毯の上でモミジ葉が光る。これぞ「紅葉&黄葉」のカオス。「本堂」の参道の突き当り。右に進むと「本堂」へ。これぞ「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」。与謝野晶子の歌「金色の ちいさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に」を想い出したのであった。銀杏の黄落。明るく散り敷いた銀杏落葉は、路上や寺社の境内などを美しく染め上げる。葉の形も独特で、古くから日本人の好む意匠なのである。こちらの銀杏は未だ上部には多くの葉を纏って。しかし根本には「銀杏落葉」が拡がる。小さな銀杏も混じっていた。以前訪ねた時は、オバチャンがこの銀杏を拾っていたが。五重石塔。陽光に輝くモミジ葉を追う。陽光を浴びて美しく垂れ下がる紅葉のモミジ葉そしてもみじ葉。この場所は、これぞ「秋光」溢れる「もみじ回廊」。ここ「もみじ回廊」では木々の色づくタイミングに微妙な差があり、赤のほかに黄色や緑も交じっている。様々な色が織りなす紅葉は、いつまでも佇んでいたい空間なのであった。ここにも「大勧進」案内板。この寺の「人気の猫」の姿が。人の姿にもマイペースで境内の紅葉見物を。裸になった銀杏の大木越しに「本堂」を見る。俳句の世界では「銀杏(いちょう)散る」は秋、「銀杏落葉(おちば)」は冬の季語となる と。「本堂」参拝は帰路にとする。正面に「下品堂」が姿を現した。正面に「阿弥陀仏」の姿はなく。この時のこの場所は独り占めの空間。そして右側には小さな舞台が。「華蔵菩薩」の文字があったが・・・。「二十五菩薩」の一体であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.22
コメント(0)
次に訪ねたのが「真壁公園」内にあった「萬華之塔(まんげのとう)」。戦後にここ真壁地区の住民が共同作業で遺骨収集を行い、1951年に集落の北側に納骨堂を建立し、遺骨を安置した。「萬華之塔」のある広場の奥には「砲兵山吹之塔」や「萬華之塔」をはじめ、「独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑」、「山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑」、そして戦没者個々人の墓標や慰霊碑建立されていた。正面にあった「納骨堂」の中には現在も無名の戦没者が眠ると。「納骨堂」の屋根には巨石が置かれ「萬華之塔」と刻まれていた。「萬華之塔所在地 糸満市真壁設置 1951年(昭和26)年8月合祀者数 19,207柱設置者 真壁自治会」道路沿いにもあった「萬華之塔」の石碑。その後方には十数基の慰霊塔が、広場を囲うように建立されていた。「珊瑚礁を朱(あけ)にそめて」碑。「珊瑚礁を朱(あけ)にそめて 👈リンク 臨時海軍砲大隊長 陸軍砲兵少佐 仁位顕 昭和十九年六月独立重砲兵第一〇〇 大隊指揮隊長として沖縄本島に出征。同年十二月砲兵第四十二連隊付となり二十年二月陸海軍砲兵大隊長として沖縄戦に突入す。九六式十五糎榴弾砲を以って平良方面の敵に自ら対空警戒に当り同場所にて千三百発余発射した事は敵の肝胆を寒からしめアメリカにもその実績を認めた史料が残されているとの事。」覘つた目標は必ず私止め旅団長として「海軍砲頼むぞ」と頼りにされ海軍砲大隊は友好適切な射撃を以て長をして屢々旅団を救いその功績は極めて顕著であるとの賞詞を受け又敵の砲三門仲西付近の街道に現れた折我が砲弾四発を以て確実に敵の砲を破壊した事は高く評価された事実である。奇しくも生還する事を得てその一生を護国神社にて沖縄英霊の慰霊につとめた。」「珊瑚礁を朱(あけ)に染めて」の石碑の左隣には「沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑」が。台座には「沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱」。「山三四八〇部隊戦没者氏名(五十音順)」碑。表側だけでなく、裏側にも多くの戦没者の氏名が記されていた。「鎮魂碑。山3480部隊(野砲兵第42聠隊) 終焉之地」裏面には「碑文山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志」「野砲兵第42連隊鎮魂碑所在地 糸満市真壁設置 1987(昭和62)3月合祀社数 設置者 野砲第42連隊戦友会・同遺族会」「馬魂碑」。碑文にあったように、人間だけではなく、多くの馬たちも犠牲となったことから、「山3480部隊」の「鎮魂碑」の右隣には「馬魂碑」が建立されていた。左下には「愛馬よ安らかに眠れ」とも刻まれていた。「顕頌碑」。「我等野戦重砲兵第一联隊は遠く明治二十三年創設せられたる要塞砲兵第一联隊を始祖に後東京湾要塞砲兵联隊と改称せられ日露戦役には野戦重砲兵联隊を編成し鴨緑江旅順奉天の諸海戦に参加赫々たる武勲を奏す。これ実に国軍における野戦重砲兵の濫觞であり明治四十年に至り改編された重砲兵第一联隊こそ我が联隊の母体であって大正七年発祥之地千葉縣市川国府台に転榮し始めて野戦重砲兵第一联隊と呼称す。昭和十四年三月ソ満国国境ノモンハン事件勃発するや勇躍聖征途につき優勢なるソ联機械化兵団に対し勇戦奮斗よく国軍砲兵の威力を発揮し全軍の期待に應えたるも仝年八月联隊本部及第一大隊は守勢地區にありて敵戦車群団の大攻勢に遭遇激戦を展開し我が将兵の壮烈鬼神も哭く奮戦は敵に甚大なる損害を與えその攻撃破摧に寄興せる戦果多大なりしも遂に衆寡敵せず火砲と運命を供にす。爾後联隊は関東軍隷下の満州第八一六部隊と呼称し満州国黒河省神武屯に駐屯しソ満国境警備の任につく。昭和十六年十二月太平洋戰争海戰劈頭第十四年隷下の比島派遣軍垣六五五三部隊と呼称しマニラ、バターン半島コレヒドール要塞攻略戦に参加疾風電撃よく機械化砲兵の威力を発揮し殊勲を奏す。爾後再び神武屯に皈還し北辺の護りにつきたり。斯くして昭和十九年六月二十日我が聯隊は沖繩第三十二軍に転出仝年七月十二日沖繩到着第五砲兵團長和田孝助中将(元联隊長)庵下の球第四四〇一部隊と呼称し联隊上部及第二大隊を沖縄本島に第一大隊を宮古島に配備し沖繩防戦に参加す。昭和二十年四月米軍沖繩本島に上陸を開始するや熾烈なる敵の艦砲射撃と間断なき砲爆撃下よく全軍の骨幹となり勇武を誇る联隊の名誉と光輝ある伝統を遺憾なく発揮し勇戦敢斗せるも遂に衆寡敵せず仝年六月二十二日联隊長山根忠大佐以下七三九柱の将兵は祖国日本の永遠の平和と繁榮を祈念しつつ護国悠久の大義に殉じこの地南溟の島に火砲と運命を供にし玉砕せり。この秋我等戦友遺族相志し今は亡き戦友の御霊を弔いこの遺勲を永久に顯彰すべく野戰重砲兵第一联隊終焉の地に慰霊碑を建立しかつて亡き戰友と我等共々高らかに唱い親しんだ砲兵歌の一節を捧ぐ。「襟には映ゆる 山吹色の 軍の骨幹 誇りも高き 我等は砲兵 御国の護り」 昭和四十一年六月二十二日 野戰重砲兵第一联隊 山吹会 有志 一同」「砲兵山吹之塔」山根忠大佐を連隊長とする野戦重砲兵第1連隊は昭和19年、南方各地を転戦したのち沖縄戦に参加したが、昭和20年6月に真壁で将兵の大半を失った。昭和41年6月、連隊の生存者によって塔は建立され、山根大佐ら将兵739柱を祀っている。山根忠大佐を連隊長とする野戦重砲兵第1連隊は昭和19年、南方各地を転戦したのち沖縄戦に参加したが、昭和20年6月にここ真壁で将兵の大半を失った。昭和41年6月、連隊の生存者によって塔は建立され、山根大佐ら将兵739柱を祀っている。慰霊碑には明治天皇の忠霊と題する御製(ぎょせい:天皇が詠んだ和歌のこと)が刻まれていた。「末とほく かゝげさせてむ 國のため いのちをすてし 人のすかたは」。野戦重砲兵第一联隊終焉の地に球第四四〇一部隊七三九柱の霊を弔ふ 東久邇盛厚 と。下記の如く宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるのだと。「砲兵山吹之塔所在地 糸満市真壁建立年月日 昭和41年6月敷地面積 739柱管理団体 生存者 山吹会「野戦重砲兵第一聯隊 沖縄戰球第四四〇一部隊戦没者 砲兵山吹之塔 墓誌」。墓誌の冒頭に鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者氏名が記載されているのだ と。「萬華之塔」の左側に「萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と小さな文字で綿々と書かれた碑が。「萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。諸霊よ安らかに平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主 石原正一郎 合掌 文責建立」戦いで亡くなった方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる熱き文面なのであった。「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものだが、その寄付一覧名簿がこれも綿々と。時は昭和26年。昭和26年といえば、ここ沖縄ではまだまだ食べるものにも事欠く時代であっただろう。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっとこれらの慰霊塔を守り続けて来ているのであった。ズームして。十円、二十円と昭和26年当時の金額が書かれていたが、現在の金額ではいくらぐらいなのか??沖縄では米国占領時代「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があったと。「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票とのこと。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった とウィキペディアから。そして三弗(ドル)の文字も。米軍占領下の時代を深く感じたのであった。「独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑」。「鎮魂碑」「鎮魂碑独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊)昭和19年 6月中旬マリアナ戦線の変化に伴い、突如陸軍重砲兵学校に89式15糧加農砲一個大隊の動員が下令された。教導連隊は大隊長河村秀人中佐以下 350有余名を第3中隊第4中隊を主幹として、富士分教所の教官及び職員を加え横須賀重砲兵連隊に転属した。当隊は独立重砲兵第百大隊として同年 7月21日沖縄那覇港に上陸第32軍に編入、主力は第5砲兵司令官和田孝助中将の隷下に入り、北中飛行場制圧の任に就き、一部は国頭支隊に配属された。翌20年 4月 1日米軍は古今未曾有の艦砲射撃及び爆撃に援護され上陸を開始した。棚原陣地の当隊は沈着冷静に対処し両飛行場制圧に偉大な戦果を収めた。総攻撃に際しては機動的集中射撃を実施し砲兵の本領を如何なく発揮したが、間断なき砲爆撃により死傷者続出、火砲車両の損壊も甚だしく司令部命令により、喜屋武陣地に後退真壁付近に集結し、戦闘続行敵の進出阻止に当たった。6月20日の最後の軍命令により機を失せず果敢な斬り込みを決行、全員悠久の大儀に生き靖国の華と散った。本決戦に於ける当隊の戦没者は河村大隊長以下734 名であるが、当隊に配属された防衛隊員学徒隊員はじめ看炊事等に献身的に尽くし、当隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることは出来ない。祖国に今日の平和と繁栄をもたらすため、礎石となられたこれ等の方々の御霊の安らかならんことを祈願し、当隊終焉のこの地に碑を建立する。 平成五年五月 全国重砲会 重砲校友好会 独立重砲兵第百大隊遺族会」「独立重砲兵第百大隊鎮魂碑所在地 糸満市真壁設置 1993年(平成5)年5月合祀者数 134柱設置者 全国重砲会重砲交友好会 独立重砲兵第百大隊遺族会」多くの石碑、石柱がここにも。「山三四七四部隊(元満州第八八部隊)慰霊之碑」。「碑誌山三四七四部隊の慰霊碑は、1981年(昭和26.11.5)に字真壁の個人所有地タヂリガマに建立し22年間慰霊祭を開催。ところが地盤損傷と永代供養も考慮し、地元字真壁区長金城一男様外役員の別格のご高配を賜り2003年(平成5.11.3)に萬華之塔敷地内に移設しました。慰霊碑を守る会 奥田武志・新垣純子・小林良男・小西正二」 「独立重砲兵第百大隊 戦没者氏名」。砲弾が雨に濡れて横たわっていた。根本が腐って倒れたのか?そして突然のスコールの如き豪雨の下、車に避難し暫し止むのを待つが、勢いは弱まらなかった為、諦めて車で近くまで行き、シャッターを押す。車窓から「真壁宮」を。17世紀末に、臨海寺頼久(らいきゅう)和尚が熊野権現を合祀、真壁村人が社殿を寄贈した と。航海安全、安産の神として、琉球諸島各地から参拝者があるとのこと。この場所が「真壁グスク」の「二ノ郭」に当たる場所。「真壁宮由緒略記一、御祭神 市杵島姫神 十五王子一、祭日 旧 九月一日より月末まで一、市杵島姫神は伊勢神宮に本宗を仰ぎ 奉る天照大神の御子神であらせらる一、御神徳は海上安全、災難除け、産業発展の守護神で特に渡航者、漁業者の信仰が深い 当宮の創立は詳かではないが沖縄一千年史によれば金福王の時代(一四五二年)項から 波上宮を始め島内各地に琉球八社が建立され真壁宮はその八社の内の沖宮(奥武山公園鎮座) の末社(分社)と伝えられている。 当宮の神前にかけられた鰐ロの銘から推察すると今から四百年前井戸の西側に建てられて いたが大戦の爆風により倒壊したので仮宮で建てたが昭和五十四年十ニ月に氏子、崇敬者の 奉仕によってこの地に改築されたのである。一、祭主は字真壁兼元の新垣家が代々奉仕している。 ニ〇一九年八月 以上」「真壁公園」内にあった「田里朝直生誕三百年記念顕彰碑」沖縄の歌舞劇『組踊』の作者である「田里朝直(たさとちょうちょく)」の「生誕三百年記念顕彰碑」であると。「組踊 義臣物語・月の豊多・大城崩・地山崩・万歳敵討・身替忠女・未生の縁」七番を創作し崩れ物という新しいジャンルを創出した組踊御三人の一人」とも刻まれていた。顕彰碑の裏側には、碑文が記されていたので引用させて頂きます。これも車窓から。ちなみに「組踊御三家」とは田里朝直のほか玉城朝薫と平敷屋朝敏を指すらしい。そして「真和の塔」。碑文には「昭和二十年五月下旬新垣 与座岳真壁の線に放列陣地をしいた第五砲兵司令官和田考助中将指揮下の野砲兵第二十四連隊及び野戦高射砲第八十一大隊等の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲全部を破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最後を遂げたり。ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う。昭和四十一年三月 財団法人 沖縄遺族連合会」と。「真和の塔所在地 糸満市真壁設置 1966 (昭和41)年3月合祀者数 150柱管理団体 (ー財)沖縄県遺族連合会」そして「真壁公園」の最後に「史跡 真壁グスク真壁グスクは三つの郭から成る三山分立時代に南山城の出城として築かれたといわれています。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入口近くには真壁神宮寺が建っています。伝承によると、「真壁按司は白馬を飼っていた。その馬をめぐって国頭按司との間に争いが起こり、真壁按司は戦いに敗れた。忠義心の厚い白馬も主人の後を追ってしんでしまったという。のちに、真壁按司の子孫が按司の倒れた場所で霊石を見つけ、それを祀るために建てたのが真壁神宮寺の始まり」と伝えられています(「球陽外巻--遺老説伝--」1745年)本グスクは1995年8月~9月にかけての市教育委員会によって発掘調査が行われました。調査は展望台のある一の郭を中心に行われ、堀建柱の建物跡が確認されています。出土遺物にグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭、炭化米、獣魚骨などがあり、14~16世紀に栄えたグスクであることがわかりました。城壁は一部に切石積みが用いられていますが、ほとんどは野面積みで仕上げられています。」「真壁グスク概略図」をネットから。岩山の展望台がある高い所が一ノ郭でその下がニノ郭となっている。三ノ郭は真壁神宮寺のある広場で、二の郭の城門も真壁神宮寺の背後にあるとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.22
コメント(0)
そして銀杏のモミジの「紅葉」、銀杏も「黄葉」の先に巨大な「仁王門」が。私のカメラでは逆光時の太陽の放射状の光を捉えるのは難しい。再び燈籠の窓に描かれた可憐な純白のサギソウを。ズームして。巨大な「仁王門」が目の前に。楼門形式ということで、 ニ階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たない門。ニ階部分には高欄が配置されていて二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(4.2メートル)、入母屋造、銅板葺。石段中央の手摺は「金剛杖」を表していると。扁額は「紫雲楼」と。「紫雲楼」脇の樹々の合間から、「本堂」の巨大な屋根が見えた。「金剛力士像(右・阿形像)」。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにして。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表わしているのだと。「阿」には「物事の始まり」、「吽」には「物事の終わり」という意味がある。そのため、阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現していると。「金剛力士像(左・吽形像)」。吽形像は怒りを内に秘めた表情。吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現していると。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「紫雲桜(仁王門)楼上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」「おめんかぶり 二十五菩薩来迎会」案内板。三年に一度行われる九品仏の二十五菩薩来迎会、通称「おめんかぶり」👈リンクは5月5日に開催。来世に見立てた本堂と、浄土に見立てた上品堂との間に橋を架け、浄土から二十五菩薩が迎えに来る様と、西方極楽浄土へと往生人を救う(連れていく)様を表しているのだと。「楼門」を潜り、左手奥の「鐘楼」を見る。入母屋造銅板葺の鐘楼....宝永五年(1708)の建立。ズームして。軒廻は二軒扇垂木、組物は三手先で中備は台輪上の中央に詰組と両側に蟇股。「梵鐘」。梵鐘は深沢村の谷岡重頼が父母の菩提のために寄進したもの と。鐘楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。木鼻と飛貫に獅子・龍・兎・虎・鳥・花などの精緻な彫刻が施されていた。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」して「鐘楼」の手前、左手にあったのが「奥沢城跡」碑。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる と。陽光の中で、紅葉、黄葉の波が。仁王門(楼門)の北側(右手)に4基の「庚申塔」が並んでいた。この石碑には「玻璃魔権現」と刻まれていたが、左の庚申塔との関係は?一番右の「青面金剛像」は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていなかった と。 造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入る。青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものである。左から3番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。左から二番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。一番左の庚申塔は、青面金剛像に三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものであるとのこと。そして本堂への境内の参道を更に進む。「境内境内周囲の土手はこの地がかって奥沢城であたときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ社三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるいう願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失なわれてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。」「本堂」を「枯山水庭園」越しに見る。「世田谷区立鷺草園」碑。右手奥に「手水場」と句碑。「手水場」。どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。沈んでしまっていたが。紅葉のモミジ葉とともに。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の「句碑」があった。『天碧き 日は鷺草の 天に翔つ』。「楼門」が右手前方に。その奥、本堂の裏手に「鷺草園」が。池には菖蒲や水草も植栽されているのだと。「サギソウ(鷺草)」案内板。「花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。」ズームして。背がく片側花弁がフード状となります。唇弁は3裂して側裂片は大きく縁が細裂します。唇弁の基部に3 ~ 4cmの距があります。「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。「鷺草園」に繋がっている枯山水の池。この写真は5年以上?前に、この場所で撮った「サギソウ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.21
コメント(0)
「豊見城グスク」を後にして次に訪ねたのが「沖縄戦史跡 潮平(しおひら)権現壕」。案内板に従い、ここを左折。両側にサトウキビ畑を見ながら、狭い農道を進むと、再び「潮平権現壕」の案内が。駐車場がなかったので、道路脇になんとか駐めて散策開始。糸満市潮平。「潮平権現壕」の入口には石鳥居があった。鳥居は、壕にいた住民を守ってくれた神様に感謝するため、戦後、建てられたのだと。それが「潮平権現壕」と呼ばれるようになった由来であると。鳥居の扁額も「潮平権現」と。「糸満市戦争遺構」案内板。「糸満市戦争遺構潮平権現壕は、沖縄戦において、住民の命を救ったガマです。潮平の住民が避難していたこのガマでも、一度は日本軍の追い出しに遭い、危うく多くの住民が犠牲になるところでした。1945 (昭和20 )年6月14日(旧暦の5月5日)、「デテコイ、デテコイ」との外からの米兵の呼びかけに、一人の区民の「住民は殺さないはずだ」との言葉で、住民はガマを出ていくことを決め、年長者を先頭に女性と子供たちが続き、大勢の住民が米軍に保護されました。戦後潮平住民は、このガマのお蔭で多くの命が救われたことに感謝し、ガマの入口に「潮平権現之碑」と「鳥居」を建立し、ガマを潮平権現壕と呼ぶようになりました。そして米軍に保護されたこの日を記念し、毎年旧暦の5月5日に字の年中行事として、人々がこの場所に集まり、ガマへの感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和の祈願を行いこの体験を語り継いでいます。」「潮平権現之碑」。そしてひと月後の6月14日、壕のまわりにやってきたアメリカ兵の投降に応じて、全員が生き延びたのだと。「壕入口」2。入口上部に屋根のような残痕も確認できた。「壕入口」。この「壕」が避難場所になったのは、昭和19年の10・10空襲がきっかけであった。住民全員が生活できる壕を探している最中に、偶然見つけた自然の洞窟であった。壕の奥行きは200m余り、560人もの住民は、人1人がようやく通れる狭い空間で、暗闇のなか、大人も子どもも、ひしめきあうように暮らしていたといいます。昭和20年5月中旬、南部に撤退してきた日本軍が、突然壕にやってきて、住民に立ち退くよう命じました。何百人もの人たちが、この壕を追い出されました。結局、「どうせ死ぬなら潮平で」と、住民のほとんどが壕に戻りました。そこに退去を命じた日本軍の姿はなく、住民の避難生活は再開されました。「潮平権現壕」の内部案内。それにしても、壕が全長240mあるとはいえ、600人近くが避難したとは、信じられないほどだ。それも、凄惨な戦場となった糸満市で、ここでは1人も死傷せず、全員助けられたことは、奇跡的。だからこそ、住民は、感謝の念から、潮平権現として、お祭りまで催しているのだろうが。なんといっても、壕の中に日本軍が一緒にいなかったことが大きいのでは。いれば様々な悲劇が起きたことは確かである。さらに同じ地域で暮らす住民だったので、お互いに支え合っただろう。今回も、壕をいくつか見て来たが、一人も死傷者を出さずに助かったと聞くと、なにか救われる思いがするのであった。次に訪ねたのが「白梅之塔」。左側にあった「萬魂之塔」。この塔は、糸満市国吉の住民の方々が建立したと。台座部分の納骨堂には同市国吉一帯で戦没された無名の兵士約4000余柱が祀られている と。沖縄戦後に、国吉区の人々が区内に散らばった遺骨を収集し、こちらの納骨堂へ納めたのだと。合掌!!石碑。「陸軍大尉 中村巌之碑」と。中村巌大尉は、『歩兵第32聯隊第1大隊』に編成された『独立機関銃第17大隊第2中隊』の隊長だったと。「萬魂之塔」の左後方にも、小さな石碑が二柱。向かって右側の石碑には、「陸軍軍曹 矢野次郎」・「海軍二等軍曹 矢野大三郎」と。そして、左側の小さな石碑には「南無阿弥院・・」と記されていた。そして右側中央奥にあったのが「白梅之塔」。「白梅之塔」を見上げて。「白梅之塔」の手前には、献花台や戦没者の芳名が刻まれた石板、そして、「白梅之塔」の説明が刻まれた石板が設置されていた。「白梅之塔沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。平成十年六月二十三日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会」千羽鶴、そして塔婆も奉納されていた。塔婆には「祈 沖縄戦の慰霊とは基地をなくすこと」と。大きな「白梅之塔」のすぐ隣には、「納骨堂」があった。その手前には風雪いや風雨に耐えた小さな「白梅之塔」と白く刻まれた碑があった。「白梅之塔」の前から、敷地内の東側に目をやると、林の奥に石碑と赤瓦屋根の建物が見えた。林の中の石碑には「白梅学徒看護隊 自決之壕」と刻まれていた。台座部分には「沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 昭和56年6月28日建立」と。「自決之壕」は、この石碑のある場所ではなく、下記の赤瓦屋根の建物のすぐ隣りにあった。赤瓦屋根の建物は、「南禅廣寺」、寺子屋であったと正面から。内陣には真っ赤な社が。「南禅廣寺」の左側に隣接して「自決之壕」の洞口があった。「マチドーヌティラ」案内板。「マチドーヌティラ字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が 鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーという伝統行事が国吉自 治会によって行われています。 また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた 壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を 命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の 部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」 の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されてい ました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡しました。 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之 塔」が建立されています。参道途中の脇には石碑と「弥勒親子地蔵尊」が。この小さな石碑と『弥勒親子地蔵尊』の参道を挟んで向かい側に、先程の「萬魂之塔」と「陸軍大尉 中村巌之碑」が建立されていたのであった。「弥勒親子地蔵尊」の台座には、小さな粘土細工らしきものが置かれていた。この石碑には???「白梅之塔」を後にして西に進むと、100mほどのところにあったのが「山形の塔」。道路脇にあった「観音堂」。案内板によると、お堂の中には観音像が二体安置されているのだと。後方の林の中に「山形の塔」があった。「山形の塔」の参道から見た壕。かなり深そうなのであったが立入禁止。「ウフ壕(田原屋取(たばるや-どぅい)の壕、三十二連隊の壕)」と呼ばれていると。元々は,真栄里の住民が整備した避難壕であったが,陸軍(第24師団歩兵第32連隊)が接収・使用した。第24師団とは山部隊のことで、山が付くのは「山形県」出身者で構成されていたためと。地下壕の概要・規 模:全長約100m・形 態:鍾乳洞・使用者:地域住民,陸軍(第24師団歩兵第32連隊)・遺 品:・土 質:琉球石灰岩そして「山形の塔」。「山形の塔この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。 山形県 一九八二年十月(再記)」「山形の塔」への石段の前を通過して行くと「眞山之塔(みやまのとう)」という慰霊塔が建立されていた。「眞山之塔所在地 糸満市真栄里設置 1967(昭和42)年5月合祀者数 100柱設置者 (一財)沖縄県遺族連合会「眞山之塔」の右側には碑文が記された石板が設置されていた。「怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。昭和四二年二月 財団法人 沖縄遺族連合会」「山形の塔」の前の道路の反対側にあったのが「我が興亡の史碑 歩兵第三十二聯隊(呼名 霞城聯隊 満州八〇三部隊 山三四七五部隊)終焉の地」碑。糸満市真栄里1789。石碑の裏面には「聯隊は明治三十一年三月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和二十年六月二十三日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の八月二十八日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる。」そして右側面には「ここより西北西四百七十米の低地で軍旗を奉焼した」と。「歩兵第32連隊碑所在地 糸満市真栄里設置 2005(平成17)年8月設置者 歩兵第32連隊会所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団(2006年5月寄贈)」「歩兵第三十二聯隊終焉の地」碑の左側奥にあった石造りの場所。「墓地」のようであったが案内板等は見当たらなかった。前日に訪ねた「護佐丸公之御墓」と似た造りなのであったが。そして次に訪ねたのが「栄里之塔」。「栄里之塔所在地 糸満市真栄里設置 1952(昭和27)年3月改修 1968(昭和43)年3月合祀者数 12,000柱設置者 (一財)沖縄県遺族連合会」「栄里之塔」を見上げて。昭和20年6月24日歩兵第22連隊(山3474部隊)の連隊旗を託された本田昇少尉(愛媛県上浮穴出身)は、24師団司令部(クラガー)に後送のうえ奉焼した。軍旗の最後は、24師団司令部の白石直之准尉(愛媛県松山出身)が見届けた。歩兵第22連隊軍旗奉焼を見届けた後も勇猛果敢に戦い、昭和20年10月に漸く終戦を迎えている。22連隊本部が玉砕した後も、糸満南方の防御に就いていた22連隊の兵士達は、最後の一兵まで手榴弾を投げ続け、徹底抗戦をしていたという。22連隊玉砕の地には、戦後、慰霊碑「栄里の塔」が建立されたのだと。「歩兵第二二連隊は第三二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和二十年六月十七日玉砕し悠久の大義に生く。終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨一二、〇〇〇柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。 昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会」そして「栄里之塔」があった五叉路から西側へと伸びる道へ進み、約70mほど進んでいくと道路沿い左側にあった「バクナー慰霊碑」を訪ねた。糸満市真栄里615。「バクナー中将慰霊碑」の入口。道路から慰霊碑のある丘の上へと続く石段を上がって行った。「バックナー中将戦死之跡所在地 糸満市真栄里設置 1975(昭和50)年6月設置者 (公財)沖縄県平和祈念財団所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団」「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」。その慰霊碑には、日本語と英語で碑文が刻まれていた。「追悼碑米国陸軍准将クローディアス エム イーズリー1891年---1945年1945年6月19日この地に於いて戦死す」この米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリーも、バクナー中将が戦死した翌日の6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死したのだと。英文にて「IN MEMORIAM CLAUDIUS M.EASLEY 1891-1945BRIG.GEN.U.S.ARMY KILLED ON THIS SPOT 19 JUNE 1945HIS DISREGARD OF PERSONAL SAFETY-INSPIREDTHE MEN OF THE 96THTO HOLD THEIR OWN LIVES LIGHTLY IN PERFORMANCE OFTHEIR DUTY-FOR HIS EXAMPLE HE PAID THE SUPREME PRICE」と。クローディアス・M・イーズリー追悼碑と同じ台座には、陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊の「連隊長エドウィン・T・メイの慰霊碑」も建立されていた。「EDWIN T. MAY1896-1945COLONEL 383RD INF. REGT.KILLED ON THIS SPOT 5 JUNE 1945A GREAT SOLDIER FOUGHT AND DIED HERE.HIS BRAVERY-COURAGE AND LEADERSHIP WILL NEVER BE FORGOTTEN!96TH INF. DIV. ASSN.」と。これが「バックナー中将戦死之跡」碑。米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中、この地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が建立された と。碑文は「IM MEMORIAL THE OKINAWAN,AMERICAN,JAPANESE VICTIMS OF THE BATTLE FOR OKINAWA MAY THEIR SOULS REST IN PEACE!THE SOCIETY OF THE FIRST HEAVY FIELD ARTILLERY REGIMENT, JAPANJun. 18. 1985」と書かれていた。「沖縄戦における沖縄の人、アメリカ人、日本人の被害者のご冥福をお祈り致します」と。上記の十字架の御墓のすぐ後ろには大きな岩があり、岩の側面には英語が刻まれたプレートが、そして上部には石板が設置されていた。『米國第十軍司令官 シモンBバクナー中将戦死之跡』と刻まれた石碑が。その側面のプレートには、「LIEUTTENANT GENERAL SIMON BOLIVAR BUCKNER JR KILLED ON THIS SPOT 18 JUNE 1945 BATTLE OF OKINAWA」と。上部の石板には、日本語で「一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す」と刻まれていた。そして、この十字架の御墓や大きな岩の左側には、立派な慰霊塔が建立されていた。この慰霊碑にも「諸霊よ安らかに」との文字が刻まれており、こちらの台座部分にも「IN MEMORY OF THE OKINAWAN, AMERICAN AND JAPANESE VICTIMS OFTHE BATTLE FOR OKINAWA1 APR ~ 23 JUN1945MAY THEY REST IN PEACEERECTED 18 JUNE 1985BYAMERICAN・OKINAWAN・JAPANESE VOLUNTEERS」と刻まれていた。こちらの慰霊碑は、アメリカと沖縄、そして日本のボランティアの団体が建立した慰霊碑のようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.21
コメント(0)
「閻魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。手前には三途の川に架かる朱の太鼓橋。そして「六地蔵」への小径へ。近づいて。六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様たち。左側の三地蔵。左側の三地蔵。「六地蔵」への小径を引き返して右側を見る。この「六地蔵」の前方の場所が「賽の河原」を表しているのだと。「六地蔵」への小径の角の地蔵像・「三つ子地蔵」。「総門」方向を見る。「賽の河原」を右手に見ながら「総門」からの道を進む。前方、左側に石碑が。「愛心講 講元 鳥海はま先生 頌徳碑十六世 正阿順碩」。「鳥海はま先生 頌徳碑」を振り返って。両脇に並ぶ燈籠には、白い「サギソウの花」が。別の燈籠。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」。「三界万霊塔」とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。「延命地蔵」をズームして。「総門」方向を振り返って。参道は、丁字になっており、正面に「2014年~ 2034年 浄真寺「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」と。九品佛像(上品上生仏より下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。ー躯ずっ修理所に搬出し、一躯当たり一年半からニ年の修繕となります。この稀代の「平成九品佛大修繕事業」広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。浄財を喜捨された方の芳名は、結縁高名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安されます。何卒この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。詳しくは、寺務所、龍護殿にございます勧進趣意書をご覧項ければ幸甚てす。浄真寺」 と「未来に残す『貴方の化佛』2881軀の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」左側の「仁王門」を見る。赤いモミジと黄色の銀杏のコラボ。陽光に輝いて。「十三重石塔」。右手に「開山堂」への「中門・薬医門」が。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む 九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る 師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり 堂宇荘嚴志有って遂げず老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく修立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀の宝号を唱し寂す珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内王手山にて切り舩にて下し、元禄十一年十月十五日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修理と称しいさゝか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以って記念とす 乞ふ来山の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を 昭和四十一年五月七日佛歓喜日 九品山唯在念佛院浄眞寺第十六世 心譽順碩」「開山堂」への「中門」を正面から。「珂碩上人 安産厄除開運」(右)と「九品山事務所」(右)「御霊燈」と書かれた提灯。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」「開山堂」。「開山堂」には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。「開山堂」の内陣。「開山堂」の屋根の「宝珠」。「宝珠」とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?「開山堂」の「手水舎」。「手水鉢」には寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が刻まれていた。「サギソウ(鷺草)」。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだと。純白のさぎが翼を広げているかのような可憐で繊細な花、さぎ草。この花が世田谷区の花となったのは1968(昭和43)年で、区民から公募して決まったと。実は世田谷区には、さぎ草にまつわるこんな伝説があります。ときは16世紀後半。世田谷城主・吉良頼康(きら よりやす)は家臣にして奥沢城主である大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘・常盤姫(ときわひめ)を側室にしていました。その美しさゆえ、頼康に寵愛された常盤姫でしたが、妬む者がいました。頼康の側室たちです。彼女たちは常盤姫を陥れるため、姫が不義を犯したかのような話をでっちあげ、頼康に告げます。最初は気に留めていなかった頼康でしたが、何度も聞かされるうちに姫を疑い、遠ざけるようになります。死を決意した常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白さぎの足に身の潔白を記した遺書を結び、実家の奥沢城へと放します。飛び立った白さぎはやがて、奥沢城近くで狩りをしていた頼康の矢で射落とされてしまいました(一説には足に結ばれた遺書の重みで力尽きてしまったとも)。白さぎの足に結ばれていた遺書を読んだ頼康は、常盤姫の無実を知り、急いで世田谷城に戻りますが、時すでに遅し。姫は息を引き取っていました。後に白さぎを奥沢城の近くに埋めて供養したところ、なんと翼を広げた白さぎに似た花が咲きました。白さぎに似ている花…。「鷺草(サギソウ)」です。常盤姫が放った白さぎが射落とされた場所といわれるのが、この「九品仏 浄真寺」。姫の実家である奥沢城址に建てられ、今も境内の鐘楼の後方にある土塁跡が奥沢城の微かな面影を伝えます。裏側には蕾も。「開山堂」への参道の右側の紅葉。「水子(子育)地蔵尊」。稚児と花に囲まれて。お顔をズームして。「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。「九品佛幼稚園を創立してより満三十年の星霜を閲した。この間仏教保育の網領である。一、慈心不殺(生命尊重の保育)一、仏道成就(正しきを見て絶えず進む保育)一、正業精進(よき社会人をつくる保育)の三網領に則り、園の関係者一同力を戮せて保育の聖業に精勤して今日に至っている。近時世相の変移は、身籠れる胎児の扱いにつき真に遺憾の念を禁じ得ない。嬉々として遊ぶ園児に接する毎に生れるべくして、その小さな尊い命の絆を絶たれた闇冥に叫ぶ水子に思いを致し、憐憫の情、転、切なるものがある。茲に、多くの水子の菩提を薦め、併せて、可憐なる幼児の健全な成育を祈念しつつ、本地蔵尊像建立、発願の趣意を述ぶと云爾。維時昭和五十五年十二月七日 九品佛浄真寺第16世 心譽順碵 合掌」「浄大供養 地蔵」。お顔をズームして。「開山堂」を振り返る。正面に「観音堂」。「西國三拾三番札所供養塔」。西国三十三所は、観音巡礼の一つ。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。文化庁の令和元年度「日本遺産」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された とのこと。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。左側の「三十三観音」。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。右側の「三十三観音」。この石仏の名は?「千手観音像」。「如意輪観音像」。「観音堂」。扁額「観音堂」。「仁王門」方向を見る。「中門」に向かって戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.20
コメント(0)
「具志川城跡」を後にして、「喜屋武(きやん)の浜」を訪ねた。沖縄本島最南の先端に近いので、右が東シナ海、左が太平洋に当たる場所。沖合には、貨物船の姿が。「RKK LINE」の文字が。略称「RKK LINE」は「琉球海運株式会社」で、沖縄県那覇市西に本社を置く海運会社。第二次世界大戦終了直後、米軍統治下の沖縄において官民共同出資により設立された経緯から、主要株主には沖縄県および複数の自治体のほか、沖縄の代表的な企業が多く名を連ねている とウィキペディアより。右手に「喜屋武漁港」。糸満市喜屋武5534。エメラルドブルーの海に白い海鳥が飛ぶ。「アジサシ」の姿に似ていたが・・・。そして次に訪ねたのが北側に続いていた「北名城(きたなしろ)ビーチ」。遠くに「慶良間諸島」の姿がかすかに見えた。糸満市名城960。左手の岬。その先に見えたのが「琉球ホテル&リゾート 名城ビーチ」。ズームすると岬の最先端の砂浜に人の姿が。結婚式の「前撮り」の様であった。右手には、干潮時は歩いて渡れるという「エージナ島」が奥に。勿論小さな無人島。Googleマップから切り取って。那覇空港方面を見る。白き高層の建物は「ホテルグランビューガーデン沖縄」であっただろうか。そして白き砂浜には、一筋の黒き帯が。白き建物をズームして。9階建てのリゾートホテル。令和3年8月に発生した小笠原諸島・福徳岡ノ場の海底火山噴火に由来するとみられる軽石が沖縄周辺に押し寄せた跡なのであろう。那覇空港に着陸するANA機の姿。そして「国道331号・名城バイパス」を北に向かって進む。「名城バイパス」を進む。糸満市真栄里地区にある各都道府県沖縄戦関係慰霊塔の建つ「県営 平和祈念公園」内の様々な慰霊塔の案内板が。訪ねたかったが、時間的に無理と考え諦めたのあった。左手に見えたのが「那覇市役所」。この時は比較的交通量が少なかった「名城バイパス」。左手奥に「美々ビーチいとまん」。「サザンビーチホテル&リゾート沖縄」の姿も。10階建て、客室数448室のジャンボリゾートホテル。運河を渡る度に上下を繰り返す国道331号。左手のサッカーボールの如きものは航空測量大手・「パスコ空間情報処理センター」の受信アンテナとのこと。「パスコ」は人工衛星15基から地上画像情報を受信。地震や豪雨などの災害発生時に、3時間程度で被災状況が把握できる画像情報を自治体や企業など顧客に提供しているとのこと。豊見城市豊崎の運河を渡る。「国道331号・豊見城道路」の高架は大きく右にカーブ。左手前方に見えたのが次の目的地の「瀬長島」。「瀬長」交差点を左折して「瀬長島海中道路」を進み「瀬長島」へ。「瀬長島 ウミカジテラス」の沿岸の道路脇に車を駐め暫しの散策。「瀬長島47ST〇RE (せながじまよんななすとあ)沖縄初!全国47都道府県から1 500種類をこえる選りすぐりの”うまいもの"を集め、47坪にきゅっと凝縮した食のセレクトショップです。沖縄ではここでしか買えない、日本全国の食に出会える場所。普段使いの珍しい調味料や、食べ歩きにピッタリなカットフルーツ、お土産に最適な御当地の箱菓子まで、幅広く取り揃えております。」とネットから。沖繩方言「ウミカジ(うみかじ)」とは『海風』のこと」と これもネットから。「瀬長島 ウミカジテラス」の上空からの写真もネットから。左手の青い海の奥に「那覇空港 管制塔」を見る。離陸する飛行機。ウインドサーフィンを楽しむ若者。「MRO Japan株式会社」の航空機整備用の「格納庫」。MROとは、Maintenance(整備)、Repair(修理)、Overhaul(オーバーホール)の略で、航空機の整備及び修理に関わる事業のこと。MRO Japanは日本で唯一のMRO専門会社として2015年に設立。ここでは、多くの航空会社の機体のMROを行っているのであろう。着陸する自衛隊機。カレーパン専門店「もとむのカレーパン」で離着陸する飛行機を見ながらしばしの休憩。人気の「もとむのカレーパン」と「ちゅらソーダ」のセットを楽しんだ。様々な航空会社の機体が次々と滑走路へ。今回の旅行で往復利用したジェットスター(Jetstar)機。再び管制塔と格納庫を。「瀬長島」を後にして、再び「瀬長島海中道路」を引き返す。国道331号に戻り進むと左手に「豊見城警察署」。次の目的地「豊見城グスク」に向かって「沖縄県道256号線」を進む。近くに「旧海軍司令部壕」👈リンク があったが、既に訪ねた場所であったので今回はパス。そしてIphoneナビを「豊見城グスク」にセットして進む。「豊見城グスク」域内に入って進むと下記の案内板の先で通行止めとなっており、車を空き地に駐め散策を開始する。右手奥にあったのが「豊見瀬御嶽(とみせうたき)」。祠の屋根は赤瓦で葺かれ白い漆喰で固められていた。壁は淡いベージュ色に塗装され、落ち着いた雰囲気で、緑の中に映える佇まいであった。豊見城市豊見城。案内柱「豊見瀬ウタキ」。拝殿の内部。拝殿の内部の扉の奥の壁には「豊見瀬御嶽」と刻され、香炉が1つ置かれていた。床には拝殿内に向かって左側から火神大トングヮ、按司殿内火神、御調添、ノロウコール、按司ウコール、龍宮鎮護、嶽根神と刻された香炉が置かれていた。5月、6月のウマチーには拝殿正面の香炉を拝んだ後、扉を開けて中にある7つの香炉を拝み、次に拝殿内の扉を開けて奥の香炉を拝むのだ と。拝所の脇にある祠。御嶽に所縁のある門中ごとに分かれていた。・・・「七原人込御」、「布織女姫御」、「瀬名按司久志間切 按司添墓」、「長峰按司小前墓」、「・・・ガマ御墓」・・・と。「豊見瀬嶽及び周辺御願所御嶽は日本本土の神社に相当するもので、古い沖縄の村落(部落)には、必ずーつ以上あって村落共同体は神を祀る御嶽を設けてこの卸嶽への信仰を中心として一切の社会的活動がなされ宗教的支配者である神が住み給うと考えられ、部落住民の守護神である神を祀る神聖な場所であります。豊見城城址内豊見瀬嶽は城址北西側にあった西原村の御嶽であると同時に字豊見部落の御嶽であり、豊見城城址の守り御嶽てあったことから豊見城按司(城主)をはじめ、按司の生活に関係のあった人々の霊も祀られているところであります。この御嶽周辺には城址内にあった井戸郡を集めると共に雨乞いの神及び農耕の神でウガン山にあったホバナ嶽又、知念森にあるヒララス嶽へのお通しも行い字豊見城集落7腹子(新地小、前ン村渠門中、呑殿内、西原門中 赤平門中、並里門中、瀬長)の各按司神も祀ってあります。毎年、旧暦五月四日に、那覇、久米、泊のハーリー三隻は豊見瀬嶽へ向かって参拝したと伝わっています。 平成18年4月 字豊見城自治会」「ハーリー発祥の地」碑。沖縄では旧暦の5月4日にハーリー(爬龍船)による競漕行事が行われるが、沖縄で最大規模の那覇ハーリーでは、関係者が豊見瀬御嶽に集い、神事に則り、行事の安全祈願を行っている。ただ、那覇ハーリーは旧暦ではなく、観光シーズンに合わせ、今では5月3日から5月5日に行われている。競漕に用いられる船は舳先に竜頭の彫り物を飾っている。伝来については諸説あるものの、14世紀後半、南山王の甥で後に豊見城城主になった汪応祖(ワンオウソ)が、中国に留学した際に龍船による競漕(きょうそう)を見て感動し、それを沖縄に伝えたのが始まりとされる とネットから。石碑の裏側。「ハーリー由来まつり実行委員会」と。「ハーリー」👈 リンク「豊見城グスク」の復元イラストをネットから。奥に向かって進んで行くと踏切が。この場所には以前は、お猿の電車の如きものが走っていたようであった。更に進むと右手にあったのが「山部隊野戦病院 患者合祀碑」。「山部隊野戦病院 患者合祀碑」は、豊見城グスク内にあった第24師団第2野戦病院壕内に負傷兵として収容され、治療の甲斐なく壕内で息を引き取った人々の御霊を慰めるため、1982年野戦病院関係者及び私立積徳高等女学校の生存者らによって豊見城城址公園内に建立された と。ズームして。第24師団第2野戦病院壕では軍医、看護婦、学徒隊(積徳高女)らが配属され、前線から送られてくる負傷兵らの治療看護にあたっていた。多いときは約600人の負傷兵が患者として収容されていたのだと。その他に「豊見城グスク」に関する案内板や石碑は見つけることが出来なかったので車に戻り「豊見城グスク」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.20
コメント(0)
この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年もいつものように。『等々力渓谷』、『等々力不動尊』を訪ねた後に、徒歩で20分強でここ東京・世田谷区奥沢にある『浄真寺』の参道の入口に到着しました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。最寄り駅は東急大井町線・九品仏駅。「浄真寺参道」碑。「九品佛参道界隈」案内碑。「九品佛参道界隈」案内図。文字がハッキリ見えるように、2枚の写真を繋げています。「浄真寺」のHPより。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より九品仏淨眞寺 境内図<昔> 参照:江戸名所図會。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より案内図にあった切絵図。「総門」の切絵図。「せたがや界隈賞世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。」絵の右下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。「おもいはせの路おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。」五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館 と。「ニ〇一四~ニ〇三四年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内。「浄眞寺」のHPには「昭和三十八年(1963)に九躰の阿弥陀佛像と釈迦牟尼佛像の計十躰が東京都重要文化財に指定されました。保存状態として、各十躰の漆箔の浮き上がり、矧ぎ目の損傷や化佛の脱落割損が多く認められ、東京都と世田谷区の文化財関係者が綿密なる協議の上、平成二十六年(2014)より一躰ずつ、計十躰の修繕を公益財団法人「美術院」国宝修理所に遷座し二十年以上に亘る大修繕を実施する運びとなりました。つきましては、この仏縁により未来に引き継ぐ希代の大修繕事業(大勧進)の趣意をお汲みとり下さり、絶大なる御協力と御支援を賜りますよう懇願申し上げる次第でございます。」と。参道の入口右側にあったのが「玉川警察署 九品仏交番」。世田谷区奥沢7丁目34−1。「総門」に向かって参道を進む。右手には「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていたのであった。ここにも「2014年~2034年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内が。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄眞寺は、上品上生仏より下品下生の九品阿弥陀仏が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは、稀代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨(きしゃ)された芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の臺座内に永久保存します。詳しくは事務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 九品佛浄眞寺 住所 清水英碩」「総門」が前方に大きく見えて来た。約200mの長さの参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先左手には、三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石塔・石仏が並んでいた。紅葉の樹の下に大小の石塔が並ぶ。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。「三界萬霊」と刻まれた石塔。文政五年(1822)造立の笠付三界萬霊塔。「お地蔵様」(左)と板状駒型庚申塔「・青面金剛像」(右)で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文十二年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代のものである。その先にも石碑が並んでいた。寛文十二年(1672)の「青面金剛像」の右は明和六年(1769)造立の角柱供養塔で正面に「信濃善光寺四十八願〇」の刻。中央は文化十一年(1814)造立の笠付供養塔で正面に「善光寺百番供養」の刻。その右は文化八年(1811)造立の「文字庚申塔」 であると。そして「浄眞寺 総門」前に到着。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門前の石段の中央の手摺には「舟の櫓」を表した手摺が。「掲示板」。「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。「筋塀(すじべい)」という種類の塀があり、そこには定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い線が5本引かれていた。もともとは門跡寺院(もんぜきじいん)の証として5本の線を引いたのが始まりと。定規筋の数が寺の格式を表すようになり、3本、4本、5本のうち5本が最高ランクとされていると。門跡寺院とは、皇室一門や公家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、古くより皇室と関わりのある格式高い寺院とされているのだ。「新東京名勝 選外十六景 奥沢 九品仏」と刻まれた石碑。「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧、仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「九品佛浄眞寺総門」と。書体は新篆書体か?「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2 ( 3万6十坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年( 1678 )に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺きを銅板葺に改修した。」そして「総門」下から、紅葉に輝く境内を。左手にあったのが「焔魔堂」。足元近くにも「浄真寺」碑。紅葉のモミジの下には石仏が並ぶ。石仏は. 落ち葉の絨毯にも囲まれて。「焔魔堂」を正面から見る。入り口の両側に「うそはつくな」「わるいことはするな」の真っ赤なノボリが立っていた。閻魔様はやる気十分なのであった。「焔魔堂」の前には「三途の川」が。向かって左が急流、右が深い淵、中央が橋で深い淵には「亀」がいた。「三途の川」。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」「三瀬川(みつせかわ)」、「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになるそうです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだとスピーカーから「閻魔様の声」☚リンク が聞こえて来た。「知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのが人間じゃそれは、貪り、怒り、愚かさによる心 事は態度から生じておる包み隠さず罪を悔い改めよ」と。どうやら、お祈りしている人に向かって音声が流れているのだ。お賽銭を入れると、閻魔大王からのお告げがある仕組みとなっていた。幟「わるいことはするな!一月十六日 八月十六日 地獄の釜蓋開放 閻魔大王の斎日」と。1月16日と、7月16日は閻魔大王や地獄の鬼もお休みで、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのであろう。幟「うそはつくな!」。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔(えんま)大王」。「閻魔大王」は、仏教の地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。閻王ともいう。インドにおける死者の主であるヤマが仏教に入ったものである。お顔をズームして。閻魔王は、地獄などのいわゆる冥界をつかさどる鬼神の王で、「地蔵菩薩発心因縁十王経」には、冥界で亡者の罪を裁くとされ、十人の王の裁判を受け、残忍な獄卒(地獄で亡者を苦しめるという鬼)を使って、すべての亡者を審判します。閻魔王の法廷には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録(閻魔帳)し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。それでもなお亡者が嘘をつき続けると、閻魔王によって舌を抜かれてしまうのだ。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐しているのだと。さらに。地獄の閻魔大王と言えば、死後に、生前犯した罪を裁く番人としてよく知られているが、実は、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるのだと。そもそも、地蔵菩薩は六道の世界「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六世界に現れて、人々を救済する仏様として信仰されている。地蔵菩薩は、時には閻魔大王に姿を変えて私たちに、救いの手を差し伸べているのだと。地獄の十王一覧。十王は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。亡者は初七日を終えた後、死出の山を越え、賽の河原、三途の川に辿り着きます。三途の川には水が急流をなしている所を渡る、入江が深い淵をなしている所を渡る、橋を渡る、の三つの方法があり、生前の罪に応じて渡る方法が異なるとされます。左手にいたのが「奪衣婆(だつえば)」三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。右手にいたのが「懸衣翁(けんねおう)」。「奪衣婆(だつえば)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゅ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓る(しなる)のであろうか?カメラを持つ手が震えて・・・・。「極楽浄土」絵。「等活地獄」絵。八熱地獄の第一。南瞻部洲の下、千または五千由旬の所にあるという。獄卒により身を裂かれ骨を砕かれて殺されるが、涼風が吹くと生きかえってまた同じ責め苦を受け、これを繰り返すので、その名がある。殺生などの罪を犯した者がここに堕ちるという。「極楽浄土」絵。「大叫喚地獄」絵。叫喚地獄の下で、叫喚地獄までの四地獄の苦を一〇倍にした苦しみを受けるところ。五戒(ごかい)を破ったものがおちるとされる。五戒とは不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の仏教徒が守るべき基本となる5つの戒めのこと。各戒めはそれぞれ不殺生戒:殺生(生き物を殺すこと)してはならない。不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。不邪淫戒:不貞行為(不倫)を行ってはいけない。不妄語戒:妄言(嘘)をついけはいけない。不飲酒戒:飲酒(お酒)をしてはいけない。という意味を持っている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.19
コメント(0)
そして以前訪ねた「喜屋武岬」👈リンク のすぐ西の海岸にあった「史跡 具志川城跡」に到着。糸満市喜屋武1730−1。「史跡 具志川城跡 昭和47年5月15日 国指定この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。二の丸には穴(俗に(火ふき穴))があって海に通じています。久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれます。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。」「史跡 具志川城跡」碑。「史跡 具志川城跡」案内板。「史跡 具志川城跡具志川城跡は、沖縄本島最南端に位置するグスクです。海に突出した標高17mの海食崖に築かれており、城門付近以外は三方が断崖となっている特異な立地となっています。城内には地元で「ヒーフチミー」と呼ばれる穴があって海へ通しています。本城跡は発掘調で得られた遺物により、12世紀後半から15世紀中ごろまで利用されていたことがわかりました。本城跡の周辺には「佐慶グスク」「上里グスク」「山城グスク」「東辺名グスク」「当間グスク」「喜屋武古グスク」が位置し、「具志川城跡」を含めて、沖縄のグスク時代、それぞれが縄張り機能を活かしたい広大な「グスク」を形成していたと考えられます。」「具志川城跡沖縄本島最南端、字喜屋武の海岸崖上に築かれたグスク。陸続きの東側城門は切石積みで、他は崖に沿って野面積みの石積みで築かれている。海に通じる潮を吹き上げる穴があり、久米島から逃れて来た久米島具志川城の按司が築いたと言われている。東側城門付近以外は三方が海に面しており、太平洋を一望する絶景スポットである。」「具志川グスク」概略図をネットから。「具志川グスク」は、うるま市の具志川集落の東側、海岸にせり出した独立石灰岩丘陵上に築かれたグスク。 北側・東側・西側の三方は険しい崖になっており、南側の低くなった所に城門跡がある。標柱の建つグスク入口を入り 大きく湾曲した細い崖道を上ると視界が開け正面に「ナームイヌ御嶽」がみえる、ここは神聖な場所で草木一本でも持ち出せ ば神罰が下ると言われた地。このグスクは、初代安慶名大川按司が二男天願按司を派遣し築かせたともいわれるが、二代目安慶名按司が三男を具志川グスク に配したとも言われている と。標柱の建つグスク入口を入り海に向かって進んで行った。「ハブに注意」と。海上からの「具志川グスク」の航空写真をネットから。正面に「城門跡」が姿を現した。案内板には「垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。」と。「城門」左側の野面積みの石垣。「城門」右側の野面積みの石垣。城壁は、かなりの厚さがあり、立派な城門そして櫓が築かれていた事が想像できたのであった。「城門跡」を通過し、中に入って行った。太平洋と東シナ海が交わる地点が前方に。二の丸は、野面積み城壁に囲まれている。二の丸の右側の石垣。「12世紀後半から15世紀中ごろ」の記載があったが12世紀後半とは、日本はまだ鎌倉時代の入口。この様な石垣の城がここ琉球には既に存在していたのあった。二の丸の中央、城門正面寄りには幅1.5m、長さ3mほどの穴がぽっかり口を開いており、そこから縄梯子などを使えば海に降りることが可能である と。「ヒーフチミー(火ふき穴)地元で「ヒーフチミー(火ふき穴)」と呼ばれている穴です。内部は石灰岩の空洞になっており、海へ通じます。伝承によるとグスク当時、荷物の上げ下ろしや有事の時の避難に使われていたと伝えられています。」野面積みの石垣。「石積技術崖の地形に合わせて「U」字型に野面の石垣が積まれています。現在の石工の話では、「石垣外面の噛み合わせがきれいだ。外から積んだに違いない」とのことです。当時、崖に足場を組んで積み上げたのでしょうか。」「QR ITOMAN-NAVI」。糸満市ホームページでは携帯電話とスマートフォン向けのページも公開しているのであった。「基壇と虎口」。「基壇と虎口物見の郭をつくる基壇と虎ロ(階段入口)です。階段は、露呈していた基壇の中から検出されており、基壇と階段には時代差があります。ある時期、物見の郭を広げるため、階段を埋めて新たに基壇を築いたと思われます。」ここにも「QR ITOMAN-NAVI」。本島最南端のグスク。城壁の上から撮影。この先が「本丸」か。なんといっても海との融合が非常に美しく、これまで訪ねて来た森の中にあるグスクとはまるっきり異なる雰囲気があるのであった。「本丸」の石垣の上に当たる場所から東側の断崖を見る。なお、「本丸」の下の海岸には自然の岩陰などがあって沖戦の際の戦争遺跡になっている と。ズームして。「喜屋武岬」方向を見た景色。断崖の下の海岸に巨大な岩が並び、雄大な景色なのであった。西側。石垣の厚みは1.2~1.3mであったか?「本丸」の沖の海には貨物船が。太平洋がすぐ眼の前に広がり海上を航行する船の動静を伺うのに最適の場所であることが理解できたのであった。したがってこのグスクは海上交易権の確保を目的とした海上貿易の中継拠占の城と考えて良いのであろう。「本丸」の最先端部。この先は絶壁が。前方に「石段」跡が。「確認された古い石段岬の郭へ誘導する石段と基壇です。確認された基壇は工事による時代差があって、古い石段を埋戻し二段の基壇にしました。見える石段は古い時代のものです。本地区は、城内でも比較的高い位置にあり、見張りのため、現在よりも高く石垣が積まれていたと思われます。」「QR ITOMAN-NAVI」。「拝所」跡なのであろう。中央にはコンクリートでお供えを置くための台?が設けられていた。向って左には「久米門中 具志川アンジ」、向って右には「久米門中 女ノ子」と刻まれていたのであった。石垣の石は、周辺の断崖と同じサンゴ質の石灰岩のようであり、石材の調達にはあまり苦労しなかったのであろう。「石垣の高さ岬の郭を囲んだ石垣は、東側の石垣は狭く低く、西側の石垣では広く高く築かれ、上には見張りのための武者走りが見られます。西側石垣は、崖下に大岩と城の裏口があるたあ、見張りを強固するために石垣を高く広く築いたと思われます。」「QR ITOMAN-NAVI」。遠浅の海岸が拡がっていた。これもサンゴ礁のリーフエッジ(外礁の縁)で発生する白波であろうか?「本丸」跡から引き返し、木製の階段を渡り「二の丸跡」へ。前方正面にも「拝所」があった。中央の石には「久米門ミチム」と刻まれているようであったが・・?再び「二の丸」の石垣を見る。野面積みで築かれてた城壁。柵で囲ってあるところは「ヒーフチミー」といわれてる場所。二の丸(一の郭)の石垣を再び。前方に琉球石灰岩が積まれたスロープがあった。「階段と武者走り海岸線崖下を見張るために階段が設けられ、石垣上面に広場を造りだしています。」上部から崩れ落ちた琉球石灰岩の山もあった。「城門」前から二の丸(一の郭)の石垣を振り返る。廻り込んで城門方向を見る。そして「具志川城跡」を後にし、車に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.19
コメント(0)
再び舞台(展望台)を見る。「舞台(展望台)」を歩く。この時は「舞台(展望台)」を独り占め。「等々力渓谷」からの参道にある「手水場」が眼下に。エピローグを迎えた銀杏の老木。しかし、青空に映えて、銀杏の広葉が輝く。再び「舞台(展望台)」前から。紅葉が「御護摩受付所」のガラスに映る。「御護摩受付所」前には「等々力不動尊」のジオラマが置かれていた。境内の「休憩所」。飲み物が買えるようであった。そして「等々力不動尊」の「山門」前へ。屋根には銀杏の葉が落ちて。「等々力渓谷」案内板がここにもあった。「等々力渓谷等々カ渓谷は谷沢川によってできた谷で今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動堂本尊は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。」山門の扁額も「瀧轟山」。「御礼トンガ王国緊急募金に澤山の御援助有難うございます。ウクライナ緊急募金始めました。」「弘法大師 空海 ご誕生 1250年令和5年(1923年)弘法大師空海様がお生まれになって1250年にあたる記念の年です。」と。空海は宝亀5年(774年)7月27日、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘で名は不詳。幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日と云われているが、正確には不詳である と。「山門」を外・都道332号線側から。ここにも「幸 先を 善く」と。石灯籠。「等々力不動尊」の紅葉を堪能して後にする、都道332号線を横断して。その先、「等々力不動尊」の向かいにあったのが「御岳山古墳」。「東京都指定史跡 御岳山古墳」碑。「東京都指定史跡 御岳山古墳(みたけさんこふん)所在地:世田谷区等々力1-18 指定:昭和55年2月21日御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯には、連なるように50数基から成る荏原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡)があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。学習院大学の調査によって、埋葬施設である内部主体は。木棺を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。平成22年3月建設 東京都教育委員会」入口の扉は閉じられ、この日も中には入れなかった。古墳の斜面には多くの石碑が。「童女」の文字が。墳丘の参道沿いに並ぶ数々の石仏の1基。人の名前と日付が書いてあるので、墓標のようだ。しかも、童子、童女と書かれたものが多いのであった。宝永、正徳、亨保と18世紀初めのものが多いようだが、この頃この地域では災害か飢饉で子供が多く亡くなったのだろうか。「等々力村石◯之碑」と。そして次の目的地の九品仏駅近くにある「浄真寺」に歩いて向かう。環状8号線の「尾山台」交差点を通過。ここを進むと東急大井町線の「尾山台駅」に突き当たるのだ。「尾山台一丁目」交差点を左折して進む。世田谷区立九品仏小学校横を通過。東急大井町線の九品仏1号踏切を渡る。そしてその先を右折して、「等々力通り」を進む。「浄真寺」参道入口手前にあった黄金のポスト。東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局は、日本郵便株式会社と協力し、東京2020大会において、金メダルを獲得した日本代表選手等にゆかりある地域の郵便ポストを金色に塗り替えることにより、選手等の栄光を称えるとともに、選手等を輩出した地域を盛り上げるプロジェクト「ゴールドポストプロジェクト」を推進していたのだと。 フェンシング エペ団体 青木雄介監督を称え、今年2022年2月17日に設置されたのだ と。 ・・・もどる ・・・つづく・・・
2022.12.18
コメント(0)
「ジョン万次郎 上陸の地記念碑」の奥から西の方向を振り返ると、荒崎の手前、糸満市束里にある「南部広域行政組合 糸豊環境美化センター」の白い建物そして煙突が見えた。「大度浜海岸」沖の白波を見る。サンゴ礁のリーフエッジ( 外礁の縁)で発生する白波であろうか?「ジョン万次郎上陸地記念碑」の先の「小渡浜」の断崖を見る。「mother」。「mother 福長香織 (岡山県)「mother」は石のベッドです。寝ころんで空を見たり座って風を石の温度を感じてください。普段過ごしている日々の中で自然を含め私達を包むあたりまえにあるものこそかけがえのない大切なものだと思います。糸満市市制施行3 0周年記念特別事業糸満市国際石彫シンポジウム 2 0 0 1年1 1月2日」「ジョン万次郎上陸地記念碑」を後にして、石灰岩の砂の敷き詰められた遊歩道を引き返す。沖縄の三大名花のひとつ「サンダンカ」。「大度浜海岸駐車場」まで戻り、「大度浜海岸(ジョン万ビーチ)」の遊歩道を歩く。どこまでも青い海と青い空そして白い砂浜。これぞ碧海と碧空。沖縄本島の最南端「糸満市」にある、「手つかずの海」を楽しめるシュノーケリングスポット。遊歩道脇のウミガメの石像。「かぁみぐゎー大きくふっくらしたこのかめは生命の豊かさを表現しています。生命の喜びを感じることのできる子どもたちがたくさん育っていってほしいと願っています」「かぁみぐゎー」とは「亀ちゃん」の意か?「大度浜海岸(ジョン万ビーチ)」「大度の用之助港1904 (明治37)年の大干ばつの際、当時、島尻郡長だった齋藤用之助(佐賀県出身)ほ、政府から割り当てられた救助金をそのまま人々に分配するのではなく、公共事業によって地域の雇用を創出しようと、半農半漁であった住民の生活の安定と漁業振興を図る目的で、小渡浜(現在の大度浜)の沖の珊瑚礁を開削して、港ロ(ンナトゥグチ)を設ける工事に着手しました。港は1907 (明治40)年12月に竣工し、住民はこれを、齋藤用之助に因んで「用之助港」と呼びました。また、小渡浜を摩文仁村長の宮里蒲助に因んで「蒲助浜」と呼ぶようになリました。用之助港の完成により干潮時にも船の出入港ができるようになり、後年、砂糖樽の海上輸送や漁民の避難港として利用され、地域に大きな利益をもたらしました。「大渡の用之助港」は「珊瑚礁に囲まれた沖縄特有の土木遺産として価値が高い」として、2009年に土木学会推奨土木遺産に認定されました。 平成31年3月糸満市」現在の「大度浜海岸(ジョン万ビーチ)」。銘板「土木學會選奨土木遺産 2009 大渡の用之助港」。「沖縄戦跡国定公園」。「大度浜海岸」は沖縄戦跡国定公園「大度園地」に隣接するスポット。このビーチはウミガメの産卵場所と。「用之助港の水路」方向を見る。「ジョン万次郎上陸地記念碑」の方向の断崖を振り返る。再び「ジョン万ビーチ」沖の「サンゴ礁のリーフエッジ」の白波を。「ジョン万ビーチ」を後にして、次の目的地の「具志川城跡」に向かって進む。道路脇にあった果実栽培の棚。下に落ちている赤い実から「アセロラ」であっただろうか?「アセロラ」は他の果樹苗の果実に比べ、ビタミンCがずば抜けて高いことから、近年、健康 美容食材としても人気の果物。サクランボに似た赤色の果実1個で、レモン 3個分のビタミンCが含まれていると。主にジュースやジャムなどにされているようだ。「国道331号」・糸満市米須を西に進む。「平和創造の森公園」に向けて走ると、サトウキビ畑が拡がっていた。「平和創造の森公園」内の陸橋を潜る。沖縄県平和創造の森公園は、第44回全国植樹祭の開催意義である「平和で緑豊かな環境を創り、次の世代へ引き継ぐこと」を目的に、平成10年4月に開園したと。石垣の如き陸橋。「サトウキビ畑」👈リンク を進む。「ザワワ、ザワワ」と。「喜屋武岬 具志川城跡」案内板に従って進む。再びサトウキビ畑の中を。サトウキビは気温が低下することで、成長が緩やかになり茎中の糖分が増加する。収穫は12月頃とのこと。収穫したサトウキビは、時間の経過とともに含まれる糖分が減っていくため長期の保管は不適。そこで、刈り取ったサトウキビは現地の工場ですぐに汁をしぼり、ろ過をした後、煮つめ濃縮し、結晶を作ります。これがサトウキビ畑のすぐ近くで作られる「原料糖」。 こうしてできた原料糖には、まだ不純物が多く残っているため、消費地近くの精製糖工場に船で運んで砂糖(精製糖)を作ります。精製糖工場では衛生的に管理された環境で、届いた原料糖を溶かし、さまざまなろ過を繰り返して不純物を取り除き、無色で透明なほぼ純度100%の砂糖液を作ります。この糖液を煮つめると糖液の中に砂糖の結晶ができてきます。それを遠心分離機で結晶と蜜に分けて、取り出した結晶を乾燥させて冷やします。こうして上白糖やグラニュ糖などの砂糖ができあがります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.18
コメント(0)
「平和祈念公園」を後にして次に訪ねたのが「ジョン万次郎 上陸之地記念碑」。やや道に迷いグルグル廻ったが、国道331号を南下し途中左折し、農道を経て到着。駐車場に車を駐め散策開始。芝生の広場にあった彫刻群。「FLYING FISH ージョン万次郎が与えた希望ー」ジョン万次郎は、アメリカで身に付けた知識を提供し、日本の開国に多大なる影響を与えました。外敵から身を立るため胸ビレや尾ビレの進化を達げたトビウオは、ジョン万次郎の人生を表現するのにぴったりな魚だと思い石彫で表現しました。制作者伊藤銀、玉城紀、野田竜也、前原優香(グループ制作)「波 ー静けさー」。「波 ー静けさー広くどこまでも続く海。生まれ故郷から離れ、遠くの見知らぬ土地へ海を渡り、たどり着いたジョン万次郎はこの船旅をどう思ったか。晴れて穏やかな海だけではない、天気などで容易に海は荒れてしまう。荒れ狂う海の力強さと、広くたおやかな海の表情をこの作品で表現した。制作者 小林真理子」「羅針盤」。「羅針盤ジョン万次郎は14歳で遭難し、143日後に米国捕鯨船に救助される。アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、21歳のとき一等航海士、副船長になっている。24歳で琉球に上陸し、土佐に帰国後も造船技術や航海術、測量、捕鯨船などの指導のため国中を駆け回った。多感な時期に日本とは全く違う異文化に揉まれ、その中でも果敢に生き抜き、帰国後も新たな文化を教授していく姿はとても素晴らしい。異国という未知の場所で一心不乱に学問を学び続ける姿勢と羅針盤と重ね合わせた。現代を生きる我々も、目標を失わず、前を向き続けていたい。制作者 中島聖二郎NIO法人琉球万次郎会」「Onda agitada」。「Onda agitadaジョン万次郎が辿った、波乱万丈な人生をテーマとし、荒波をモチーフにして制作した。形を留めることが出来ない大きな『荒波』のような試練を乗り越え、新たな環境へと自分のカで押し進むようなイメージを抽象的に表現した。Ondaとは波という意味でありOnda agitadaとは大きな波という意味で、その人生は波のように落ち着きがなく波乱万丈であるといえる。制作者 伊藤銀法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会」そして「ジョン万次郎上陸地記念碑」👈リンク。アメリカ帰りの万次郎はカウボーイハットをかぶり、ベストやジーンズを着用。右手は生誕の地・土佐清水市の方向を指差しており、左手はジョージ・ワシントン伝記とボーディッチ航海術書を携えているのだと。六角柱の台座には、万次郎の物語を伝えるイラスト板を設置。銅像、台座ともに1.8メートルで、記念碑は3.6メートルの高さ。 万次郎は、帰国に際してハワイで捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号(Adventurer)と名付けた。喜屋武岬の沖合で船からアドベンチャラー号を降ろし、ここ大度浜海岸に上陸した と。顔が影になっているので、ネットの写真を加工して。右手は生誕の地・土佐清水市の方向を指差している と。反対側から。左手は「ジョージ・ワシントン伝記」と「ボーディッチ航海術書」を携えているのだ と。顔を見上げて。更にズームして。記念碑のそばには、アドベンチャラー号に関する説明板が。「万次郎、アドベンチャラー号で琉球・小渡浜(おどはま)に上陸万次郎はハワイに到着後、帰国に際しサクラメントで得た資金で捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号(Adventurer)と名付けました。アドベンチャラー号は、長さ約8メートル、幅約1 . 8メートルで、帆1本、オール2本が備えられていました。また、万次郎の帰国に協力したハワイのデーモン牧師は、自らが発行する新聞・フレンド紙において、「彼が故国への帰還に無事成功すれば、日本と外国との国交樹立に大いに貢献するであろう。日本人と英国人、そしてアメリカ人との間の意思疎通をもたらす優秀な通訳になることは間違いない。ジョン・マンのアドベンチャラー号の成功を祈る。」と記しています。」「(イメージ)万次郎が小渡浜に上陸した様子」。「ジョン万次郎上陸地 建立日:2018年2月18日◎上陸日 1851年2月3日(旧暦1月3日) 朝8時頃」 と。「ジョン万次郎上陸」パンフレット(1)。「ジョン万次郎上陸」パンフレット(2)。ジョン万次郎の足跡。ジョン万次郎は、近代日本の夜明けともいえる時代に、日米の懸け橋となる幾多の業績を残しました。アメリカの第30代大統領・クーリッジは、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」と話しました。坂本龍馬の外国に対する開眼も、万次郎の体験を伝え聞いたことによるものだといわれています。また、板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などにも多大な影響を与えたといわれており、万次郎の評価は国際化時代を迎えた今、いっそう高まりつつあります。 大度浜海岸に整備した記念碑の台座には、万次郎の物語を6枚のイラスト板と解説板で紹介しており、波乱万丈の生涯と不屈のジョン万スピリットを知ることができます。・Story1 万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流 太平洋の孤島で捕鯨船に救助される・Story2 万次郎、アメリカ本土に上陸 日本人留学生第1号の誕生・Story3 日本帰国への第一歩 いざ琉球・小渡浜に上陸・Story4 万次郎、摩文仁間切番所で取り調べ 荷物には本、地図、ピストルも・Story5 万次郎、宿道を歩き、翁長村の高安家へ 「いちゃりばちょーでー」に触れる・Story6 万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える 国際人として活躍 そして開国へ・Story1 万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流 太平洋の孤島で捕鯨船に救助される「万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流 太平洋の孤島で捕鯨船に救助される万次郎は、中ノ浜(高知県上佐清水市)で生まれました。1841年、漁師になった15歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁に出ました。この舟には、船頭の筆之丞(36歳、後に伝蔵と改名)、重助(25歳)、五右衛門(16歳)の3兄弟と、近所の漁師・寅右衛門(26歳)、そして幡多の中ノ浜(現・土佐清水市中浜)から来ていた万次郎の5人が、宇佐浦の住人・徳右衛門の持ち船を借りて、乗り込みました。正月の五日の巳の刻(午前十時頃)、長さ四間あまり(約七m)という小船に出漁期問の食料として米をニ斗五升とそれに見合う薪と水を積みこみ、土佐湾に続く宇佐浦を出港した。ところが、漁に出て3日後に足摺沖で嵐に遭い、漂流しました。その後、太平洋の孤島・鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助されました。ジョン・ハウランド号のウィリアム・H・ホイットフィールド船長は、5人を安全なハワイへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、そのころに「ジョン・マン」という愛称が付けられたといわれています。」万次郎の漂流経路をネットから(以下同様)暴風のために櫓を折り航行が困難になった舟は足摺岬沖から漂流し、一晩で室戸沖まで流された。さらに強風にあおられて紀州沖を過ぎ、黒潮に乗って、ようやく鳥島にたどりついた。難破船が鳥島をはじめとする小笠原諸島に漂着することはよくあった。万次郎たちが漂着した鳥島は、八丈島を中心とする伊豆諸島南部の小島である。鳥島は東京から南へ580kmの海上に浮かぶ活火山島で、東西2.7km、ほぼ円形、海岸線の長さ8.5km、面積4.54平方Km、島の南端のわずかな草むらが、アホウドリの生息地として知られている。火山活動の活発な無人島である。万次郎など鳥島への漂着者が、生命を永らえることができたのは、アホウドリのおかげである。それは、海草、魚貝類とともに、かけがえのない栄養源となった。現在の鳥島の姿。万次郎ら5人は太平洋の孤島・鳥島で過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助された。万次郎たちを助けたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号。・Story2 万次郎、アメリカ本土に上陸 日本人留学生第1号の誕生遭難して漂着した鳥島でジョン・ハウランド号に救助された後、ホノルルで仲間と別れてから再び鳥島付近までの航路。そしてジョン万次郎の鳥島付近からフェアヘーブンに到るまでの航路。無人島で救助されてから5ヶ月後、船はようやくハワイに入港するのである。ここで船長のホイットフィールドは「我が国アメリカでしっかりとした教育を受けてみないか」と万次郎に思いもよらない提案をした。帰国することしか頭になかった万次郎だが、更なる冒険を誘い、新たな世界を見たい!という好奇心から万次郎はアメリカ行きを決めたのであった。漂流民のうち、万次郎は他の四人と別れ、無人島から救出してくれた捕鯨船の船長ホイットフィールドに従ってその船の乗組員となり、天保十二年二月にオアフを出港。その後、キンシミン(キングスミル)島を経由して天保十三年壬寅歳(一八四二)三月にグアム島に入港、さらに無人島から日本近海を航海、そして八月にオアフ近海まで戻ってきたものの風によってオアフに人港することはできなかった。十一月にはエミオに寄港、天保十四年癸卯歳(一八四三)四月に南アメリカ南端をまわって大西洋を北上、北アメリカ東部・母港のマサチューセッツ州のニューベッドフォードに人港した。上記の航路を示したのが、赤の線である。「万次郎、アメリカ本土に上陸 日本人留学生第1号の誕生1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として初めてアメリカ本土に上陸しました。万次郎の訪れたアメリカは、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアへープンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が誕生しました。学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベットフォードに帰港した万次郎は、カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金山に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。」万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。学校を卒業後、捕鯨船・フランクリン号に乗船した時のニューベッドフォードからマニラまでの航路。【1】ニューベッドフォード→【2】ボストン→【3】ファイアル(アゾレス諸島)→【4】ケープベルデ諸島→【5】ニューアムステルダム島→【6】クーパン→【7】セーラム→【8】ニューアイルランド→【9】グアム→【10】父島→【11】琉球→【12】マニラ・Story3 日本帰国への第一歩 いざ琉球・小渡浜に上陸「日本帰国への第一歩 いざ琉球・小渡浜に上陸ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小舟にて渡れば便利なり」と考え、捕鯨ポートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かう商船サラボイド号へ乗船しました。1850年12月17日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港しました。翌年1851年2月2日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと干潮だったため浜には行けす、仕方なく岩礁にいかりを下し、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港ロ:フルンナトウグチ)に上陸することができました。万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港ロ:フルンナトウグチ)に上陸。・Story4 万次郎、摩文仁間切番所で取り調べ 荷物には本、地図、ピストルも「万次郎、摩文仁間切番所で取り調べを受ける 荷物には本、地図、ピストルも上陸した小渡浜で万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、浜に集まってきた小渡の村人たちから、温かいふかしイモをごちそうされました。万次郎たちは、親切な村人たちのもてなしに感謝の気持ちで胸がいつばいになったといいます。また、万次郎たちは、持ってきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場で食して見ませした。万次郎たちの荷物はすべて、摩文仁間切番所(米須集落内)の役人によって没収され、番所に運ばれました。荷物には、航海術書、数学書、ジョージ・ワシントン伝記、地図、八分儀、コンパス、ピストルなどがありました。取り調べをした役人たちにとっては、見たことのない品物ばかりでした。また、役人からご飯とお箸を渡され、3人とも上手に使いこなしたことから、日本人であることが認められました。」上陸した小渡浜で万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、浜に集まってきた小渡の村人たちから、温かいふかしイモをごちそうされました。・Story5 万次郎、宿道を歩き、翁長村の高安家へ 「いちゃりばちょーでー」に触れる「万次郎、宿道を歩き、翁長村の高安家へ 「いちゃりばちょーでー」に触れる万次郎たちは、取り調べ後に那覇へ護送されることになっていました。摩文仁間切から真壁、高嶺、兼城、豊見城間切の宿道を歩き向かいましたが、那覇でイギリス人宣教師べッテルハイムに会うことを心配した薩摩藩と琉球王府の役人は、「豊見城間切りに戻せ」との伝令を出し、豊見城間切翁長村へ戻り、親雲上(ペーチン)の高安家(屋号:徳門)で幽閉されました。万次郎たちは、半年間に及ふ捕らわれの身ではありましたが、村の綱引きや毛あしびーに参加するなど、村人たちと自由に交流することができました。また、かって琉球の進貢船が難破した際、上佐藩の人たちに助けられたことがありました。琉球国王は、上佐藩の人たちへの恩返しとして、万次郎たちへの手厚い保護のほか、豚、鳥、魚、泡盛、衣服などを贈りました。万次郎たちは、多くの人たちの「いちやりばちょーで一」精神に触れることができました。」※「いちゃりばちょーでー」とは英文「meaning, once we meet we are brothers」から「一度出逢ったら皆兄弟」という意味。万次郎たちは、半年間に及ふ捕らわれの身ではありましたが、村の綱引きや毛あしびーに参加するなど、村人たちと自由に交流することができました。・Story6 万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える 国際人として活躍 そして開国へ「万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える 国際人として活躍 そして開国へ幽閉されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。伝記には、アメリカの民主主義社会の制度や人権尊重について書かれていました。そのようなことから、万次郎が封建社会の日本に持ち帰りたかったのは、アメリカで体験した民主主義の思想だったとも考えられています。その後、万次郎は11年ぶりにふるさとの上佐に帰りました。ペリー提督が黒船を率いて現れた際、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せました。万次郎は、開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話しました。その後の万次郎は、翻訳、測量、捕鯨などを主な仕事としていました。明治新政府になっても、普仏戦争の視察として海外出張を命ぜられたほか、東京大学の前身「開成学校」の英語教授に就任するなど、国際人として活躍しました。」幽閉されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。そして昔ゝに訪ねた故郷の足摺岬にあった「中浜万次郎(ジョン・万次郎)像」の写真。最後にジョン・万次郎の実写真を。そして、現在、市民図書館から借りた・ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂・漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく) 全現代語訳(河田小龍・記、ジョン万次郎・述)を無料購読中なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.17
コメント(0)
石段を上り、「等々力不動尊」に向かって進む。石段の先に「舞台(展望台)」が姿を現した。石段の途中、左横にも小さな社が。お顔のない石仏、いや両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは「ガマカエル」のようであった。「神變(変)窟 」と刻まれた石碑。神変大菩薩は役の行者のおくり名であると。舒明天皇の六年(六三四)年、大和の国生まれ深く仏教に帰依。御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊・不動明王は当初役の行者が彫(きざ)んだと伝えられる と。石碑の横に小さな洞窟があった。洞窟の内部は石でしっかり構築されて、線香の煙がただよっていた。「等々力不動尊」の本尊不動明王は当初、役の行者が彫んだと伝えられると。手前には多くの「松ぼっくり」が奉納されていたが。「ぼっくり」とはたしか「ふぐり」の事。ぶくっと卵型に膨らんだ袋、垂れ下がっているような袋を指す言葉。松の場合はよく見られるのが、2つ並んでぶら下がっている姿。よって、子宝にも御利益があるのだろうか??「神変窟」の上部にも小さなお堂が立っていた。真っ赤な炎、これも「不動明王」。「不動明王」の持物である羂索(けんさく・けんじゃく)は煩悩や魔物を縛り上げる武器としての面もある一方で、苦しみから救い上げるための慈悲の綱ともされているのだと。 もう一方の「利剣(三鈷剣)」についても、煩悩や苦しみを切り裂く武器であると共に、「知恵の象徴」とも言われているのだ。つまり、「羂索で捕らえた悪を宝剣で断ち切る」と。そして石段を上りきると、右側にが一面紅葉の世界が拡がっていた。正面に「手水場」。「吐水龍」に近づいて。これぞ「錦秋」!!。朱の燈籠とコラボも見事な光景。「御護摩受付」所。御朱印を頂きました。「等々力不動尊」の本殿。「等々力不動尊」は東京都世田谷区等々力にある満願寺(まんがんじ)の別院。宗派:真言宗智山派山号:瀧轟山(ろうごうさん)院号:明王院(みょうおういん)寺格:等々力満願寺別院寺紋:御本尊:不動明王像ご利益:子育て・学業成就札所:・関東三十六不動霊場17番・玉川八十八ヶ所霊場33番花ごよみ:紅葉、桜住所:東京都世田谷区等々力1丁目22-47「祝祷 七五三」と。「瀧轟山(ろうごうさん)」と書かれた扁額。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築された。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していた と。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。紫はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。絵馬掛(左)。五色で彩られている幕(五色幕)も。赤=火黄=土緑(青の場合もある)=木紫(黒の場合もある)=水白=金 を表すと。中国の陰陽五行説から来ていると。絵馬掛(右)。本殿から「三門」方向を見る。紅白の吹き流しが風に舞う。これが寺紋なのであろうか。「稚児大師」の絵馬。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」を見る。「舞台(展望台)」越しの見事な紅葉。境内には句碑も。「恋ほたる 風のふし目に 光りけり」喜寿 白雲 と。世田谷区在住の岡 白雲さんの句。紅葉に負けじと、燈籠も陽光を浴びて。常香炉越しに境内を見る。近づいて。廻り込んで。常香炉の脚は般若の顔の如し。「山門」に向かって進むと右側にあったのが「草木供養碑」。その横の社。内陣には六臂の青面金剛像が鎮座。神楽殿か。こちらが表参道の手水場。吐水龍。境内の小さな祠は玉川八十八ヶ所 等々力不動尊第十三番 「厄除大師堂(明王院大師堂)」真言宗・御詠歌 「わけのぼる はなのあらしの こずえより おむろのやまに 月ぞかがやく」内陣には石仏が。「弘法大師像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.17
コメント(0)
「日本庭園」の中の竹林の中を歩く。飯田十基という作庭家による、竹林や池などが造られた庭園。前方下に見えて来た「冠木門」。「冠木門」を出て振り返る。「等々力渓谷」案内板。「日本庭園 周辺案内図」。「冠木門」そしてその奥の竹林を外から見る。「冠木門」右前にあった「東京都指定 名勝 等々力渓谷」碑。再び日本庭園内に入り反対側から「冠木門」を見る。ズームして。先程の石碑が見えた。日本庭園の奥にはみかん林もあった。「甘夏」に似ていたが。再び「冠木門」に向かって進む。屋根には落ち葉が積もって。「冠木門」を潜り、「谷沢川」に沿って進む。竹林が左手に。前方に「不動の滝」への橋が見えて来た。橋の名は「利剣の橋(りけんのはし)」と。「利剣」とは、鋭利なつるぎ。よく切れる刀剣。仏語では煩悩(ぼんのう)や邪悪なものを打ち破る仏法や智慧のこと。「弥陀の利剣」と。ここを渡り、煩悩や邪悪なものを捨て、「不動の滝」や「等々力不動尊」に詣でるべし と?。「利剣の橋」の先、左手にあったの「不動の滝」。その手前に石仏が2体。「観音様」像。近づいてお顔を。「弘法大師」像。近づいてお顔を。正面に2本の滝が。二つの龍の口から湧水が流れ落ちていた。そして壁面からも水がにじむように出て、壁が濡れていたのであった。左の瀧は湧水量が多く。平安時代からこの場所は霊場として関東一円に知れ渡り、各地から修行者も多く訪れていたと。すぐ近くに都の史跡となっている野毛大塚古墳などの大きな古墳がある地域なので、古くからこの地域が開け、またこの滝が広く世間に知れ渡っていたのであろう。また、戦国時代には吉良氏の戦勝祈願所になっていたとも言われているとのことだが、吉良氏は戦をした記録が一度しか残っていなく、戦争をしない大名だったのでは??・・・と。この日の右の瀧は湧水量は少なかった。瀧の上の斜面には「不動明王」像が。その下の両脇にも仏像が。別の場所から。「不動明王」像をズームして。滝の上の番人といった感じで滝を見守っていたのであった。そしてその先にも社が鎮座。「南無不動明王」と書かれた幟。一番右に祀られていたのは石仏?石?中央に「不動明王」。近づいて。その左隣に「正一位稲荷大明神」。「奉納 正一位稲荷大明神」と書かれた幟。社の横には「狐様」が3体。「正一位稲荷大明神」から「不動の滝」方向を振り返る。「利剣の橋」を振り返る。橋の袂にも石碑が。こちらにも。いずれも解読不能。「利剣の橋」を渡って右手にあったのが「甘味処 雪月花」。深い緑の中で、不動の瀧の音を聞きながら休憩できる「甘味処 雪月花」。お菓子付きの抹茶をはじめ、おしるこ、甘酒、くずもち等が楽しめるようであった。以前に訪ねた夏には、ところてんやかき氷にラムネも用意されていたと記憶しているが。「雪月花」👈リンク は、白居易が長安にいた時、部下に送った詩に含まれていた「言葉」であると。外のベンチは無料で利用できる??いや!!赤の「野点傘(のだてがさ)」はこの場所に溶け込んで。「甘味処 雪月花」の店内には畳の部屋が。「さいさきをよく 初めを善く を大切にしましょう幸先を善く」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.16
コメント(0)
「岐阜県の塔」岐阜県の塔(岐阜県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年3月25日敷地面積 2,039㎡合祀者数 26,831 柱(沖縄戦戦没者 907柱、南方諸地域戦没者 25,924柱)管理団体 岐阜県手を合わせた姿、合掌を表している。合掌は、人が祈るときの最も敬虔な姿である。第1にご英霊の冥福を祈り、第2に遺芳がいつまでも語り伝えられることを祈り、第3にご遺族の幸福を祈り、第4に沖縄との一体化を祈り、第5に世界の平和を祈る、という願いが込められている。「三重の塔」。三重の塔(三重県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年6月26日敷地面積 1,950㎡合祀者数 53,000柱(沖縄戦戦没者 2,600柱、南方諸地域戦没者 31,300柱、その他地域戦没者 19,100柱)管理団体 三重県三重の塔慰霊塔のデザインについては、三重県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会が定め郷土色豊かな塔を建立。碑文鳴呼 国破れて山河あり。人は逝いてその名をのこす。すぐる第二次世界大戦において、ここ本土内激戦終焉の地沖縄に祖国の発展を祈りつつ草むす屍と化せられし勇士は申すに及ばず、広く異国の山野にまた南海の孤島に玉の緒絶え給いし本県出身戦没者五万有余の勇士は、三重の男の子の誇りを胸に秘めて祖国日本の守り神世界平和の礎となり給う。その高く尊き勲は鈴鹿の山の嶺より高く五十鈴の川の流れ尽きざる如く末永く称えられん。この諸霊を祀らんと沖縄戦没者友の会の提唱により、県に三重県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会を設置し、広く県民の浄財を集め市町村はじめ各種団体等の協力のもと、一五〇万県民の尽きぬ平和への祈りを郷土の山の仙石に刻みて、ゆかりの地摩文仁の丘にこの碑を建立す。ここに謹みて慰霊のまことを永く後世に伝うると共に、沖縄と三重県との親善友好に寄与することを願う。 昭和四十年六月 三重県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会 会長 三重県知事 田中 覚沖縄 三重之塔 霊域碑「岩手の塔」慰霊塔建立期成会常任理事会において、名称を「岩手の塔」と決め、県民性を表す「岩のようにどっしりした」県内産の自然石を使うこととなった。形状は岩手県の地形を意図したものである。岩手の塔(岩手県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年10月20日敷地面積 825㎡合祀者数 34,860柱(沖縄戦戦没者 653柱、南方諸地域戦没者 20,697柱、その他 13,510柱)管理団体 岩手県第六十二師團慰霊碑 北白川祥子書第62師団慰霊碑所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年6月管理団体 石部隊戦友会第62師団慰霊碑の全景。第62師団慰霊碑第62師団は昭和18年6月、中国北部の太原で結成されたが、昭和19年8月首里北方戦線に配備された。昭和20年5月下旬、第32軍司令部が摩文仁へ後退したのに伴い、同師団も旧三和村の山城福地地区に移動したが、6月18日までの戦闘で師団はほとんど全滅し、6月22日には師団長の藤岡武雄中将もこの地で自決した。昭和39年、藤岡夫人から沖縄県戦没者慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)に贈られた7万2000円をもとに慰霊碑が建立された。左かわ * 第62師団慰霊碑 * 第62師団長藤岡武雄中将、第63旅団長中島徳太郎中将 両閣下自刃の地 碑 * 歌碑「福岡の塔」建設にあたっては、用地(児島氏)、庭石(粕屋郡志免町)、県章の梅花石(西日本新聞社民生事業団梅花石顕章会)、ツツジ(西日本植木農業協同組合)、国旗掲揚塔(沖縄福岡県人会)などの寄付を受けるとともに、沖縄県遺族連合会や沖縄県戦没者慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)の協力を得て建立された。福岡の塔(福岡県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年12月10日敷地面積 736㎡合祀者数 4,015柱(沖縄戦戦没者)管理団体 福岡県福岡の慰霊の塔碑。福岡の慰霊の塔太平洋戦争において祖国日本の防衛のために福岡出身の2,400余名の尊いいのちをささげた ここ摩文仁丘に県民の感謝と追悼のまごころを結集してこの慰霊の塔を建立する みたまよ安らかに鎮まりませ「なにわの塔」なにわの塔(大阪府)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年4月26日(平成6年3月改修)敷地面積 2,495㎡合祀者数 35,000余柱(沖縄戦戦没者 2,430余柱、南方諸地域戦没者 32,600余柱)管理団体 (一財)大阪府遺族連合会終戦20周年記念事業の一つとして太平洋戦争終焉の地、沖縄で戦没した大阪府関係者を追悼するため、慰霊塔「なにわの塔」を沖縄島の最南端摩文仁に昭和40年4月26日建立した。昭和44年、なにわの塔建立5周年にあたり、南方諸地域戦没者を新たに合祀し、あわせて当施設を整備するため、奉安所、休憩所、周囲の石積み工事などが昭和44年4月から進められ同年10月24日完成した。昭和60年、終戦40周年を記念して施設内の整備工事をするとともに常夜燈を設置した。平成4年、外壁の改修工事及び休憩所敷地のタイル敷き工事を実施した。平成6年、なにわの塔建立30周年にあたり、塔本体の基礎部分、休憩所、奉安所、正面階段などを大改修しスロープを設置した。太平洋戦争最后の激戦地たるこの沖縄に勇戦力闘して、悲壮の戦死を遂げられた大阪府出身の英霊2,400有余柱。ねがわくは奇蹟的復興を遂げえた郷土の現状を見そなわせ。これひとえに最期まで祈り続けられた諸霊が在天御加護の賜にほかならない。思えば個人の生命は短く、民族の歴史は永い。終戦20年に当り最も犠牲の多かりし摩文仁の丘に「なにわの塔」を建立して、恭しく諸霊の御遺徳を顕彰し、あわせて人類恒久の平和を祈る。御証悟安からんことを。昭和40年4月26日大阪沖縄戦没者慰霊塔建立委員会代表大阪府知事 左藤義詮大阪市長 中馬 馨大阪府遺族会長 栗井岩吉合祀碑祖国防衛の御楯として 南方諸地域に散華したまいし 英霊 3万 5千有余柱をこの摩文仁の丘なるわが「なにわの塔」に 恭々しく斎祀し奉る アジアではじめての万国博覧会が諸霊の郷土で開かるるにあたり 願わくば 三世通達の智眼を開いてとこしえに「人類の進歩と調和」を守護したまわんことを 昭和44年10月24日大阪府知事 左藤義詮大阪市長 中馬 馨大阪府遺族会長 栗井岩吉「徳島の塔」徳島県名西郡神山町産出の青石(約8トン)を使用し、知事の直筆で「徳島の塔」と刻んだ。塔の周囲は県内各市町村名の入った飾り石で囲んでいる。徳島の塔(徳島県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年12月5日敷地面積 604㎡合祀者数 1,597柱(沖縄戦戦没者 941柱 南方諸地域戦没者 656柱)管理団体 (一財)徳島県遺族会鎮魂長崎の碑太平洋戦争において、沖縄をはじめ南方諸地域で戦没された3万5000余柱の御霊を祭るため、昭和40年10月15日長崎県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会が結成され、ここゆかりの地摩文仁の丘を選び、遺族から寄せられた霊石を礎とし、慰霊碑は郷土の名石蛇紋石で建立された。慰霊塔は、本道から約40m奥のアワ石コンクリートを敷きつめた一段高まったところに配置され、参道はガジュマルやソテツなど現地の樹花でおおわれ、碑は現地産の礎石のうえに幅2.6m、厚さ1.2m、重さ6トンの蛇紋石を置き、碑の下には3万5000個余りの霊石を埋め、蛇紋石は本土の方向にやや斜め上向きの角度をもたせ、故郷への思慕を表現した。鎮魂長崎の碑(長崎県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年9月吉日敷地面積 693㎡合祀者数 35,000柱(沖縄戦戦没者1,800柱、南方諸地域戦没者33,200柱)管理団体 長崎県戦没者慰霊奉賛会「はぐくれの塔」はがくれの塔所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年10月17日敷地面積 727㎡合祀者数 約28,000柱(沖縄戦戦没者914柱、南方諸地域戦没者27,000柱)管理団体 (一財)佐賀県遺族会はがくれの塔建立の記第2次世界大戦中、太平洋方面の戦場における本県出身者の戦死者は実に2万8000余柱の多きに及んだ。今これらの英霊をなぐさめるために最後の決戦場であったこの摩文仁の丘にはるかに郷土の貞石を運んではがくれの塔を建てながくその忠勇を顕彰する。昭和41年10月佐賀県戦没者沖縄慰霊塔建設期成会会長佐賀県知事 池田 直「防長英霊の塔」日本古来の千木・勝男木(神社の屋根に設けられる部材)のイメージに、奈良朝時代の校倉造りの手法を合わせることで、清らかにして優雅な構造を持ち、御霊のよりどころと県民の心の象徴にふさわしい塔になっている。郷土の石材や花木を持ち寄って造られ、塔の中には遺族から託された霊石や遺品が収められている。「防長英霊の塔(山口県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年11月6日敷地面積 628㎡合祀者数 24,447柱(沖縄戦戦没者 1,043柱、南方諸地域戦没者 23,404柱)管理団体 山口県南方地域戦没者慰霊奉賛会防長英霊の塔について この防長英霊の塔は、今次大戦中沖縄を始め南方諸地域に於いて祖国のため散華された山口県出身戦没者24,447柱の御霊に深く慰霊の誠を捧げるとともに御冥福を祈って県民あげての協力と浄財をもって最後の激戦地となったこの摩文仁の丘に郷土の石材や花木をもちよって昭和41年秋建立したものです。この塔には、御遺族から託された愛情のこもった霊石や遺品が納めてあります。また、この塔の発想は、日本古来の千木勝男木のイメージを残し、さらに、奈良時代の校倉造りの手法をあわせ聖なる御霊のよりどころとしたものであり、清らかにして優雅な構造形式で県民ひとしく心の象徴としてふさわしい塔であります。慰霊式典は、毎年11月 6日厳粛に執り行っております。 昭和53年 8月10日 山口県南方地域戦没者慰霊奉賛会「ふくしまの塔」春山建築設計事務所長の春山新三氏が、福島県戦没者沖縄慰霊塔建設期成同盟会から慰霊塔の設計デザインの依頼を受けた。春山氏は、冥福・合掌・祈り、さらに平和への願いなどを具現化するスケッチを試み、沖縄摩文仁の丘の地も踏んだ。その試案の中で、県の中央にそびえ親しまれている磐梯山を象徴した塔こそ、沖縄の地に建立して英霊を慰めるのにふさわしいものとして採用した。「ふくしまの塔(福島県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年10月26日(昭和62年改修)敷地面積 1,231㎡合祀者数 66,304柱(沖縄戦戦没者 942柱、南方諸地域戦没者 23,947柱、 その他地域戦没者 41,415柱)管理団体 (一財)福島県遺族会「ふくしまの塔」は昭和41年10月この場所 建立されたのであったが、敷地が狭隘で年々の祭祀にも不便であったばかりでなく、近年塔の一部に破損箇所もできるにいたった。これがため本会において慎重に協議を重ねた結果敷地を拡張し全面的整備を図ることとした。これに要する経費金三千万円については各界からの協賛と会員の浄財に據ることとしたが、県知事松平勇雄殿の御英断により金一千万円の県費助成をいただいた。敷地については沖縄県御当局の御配慮により従来の面積の約2倍に当たる 830㎡を無償で借受けることができた。今この事業の竣工に当たり福島県御当局は勿論のこと沖縄県御当局、沖縄県福島県人会の御後援に対し厚く感謝の意を表する。昭和62年11月 6日 財団法人福島県遺族会「信濃の塔」。信濃の塔(長野県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年4月1日敷地面積 1,332㎡合祀者数 55,405柱(沖縄戦戦没者1,294柱、中部南太平洋諸地域戦没者21,811柱、 その他諸地域戦没者32,300柱)管理団体 長野県県歌 信濃の国一.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき二.四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅聞は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり三.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を 繋ぐなり四.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ嬢捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる五.旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず六.吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隆道二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い 「平成八年三月」信濃の塔碑文昭和12年7月勃発した支那事変は遂に大東亜戦争に発展し、戦域は遠く東南アジアを蔽い、沖縄は死命を制する要衝として一大決戦場となったが、昭和20年8月戦いは史上最大の犠牲を払って終末を告げた。その間、本県出身の将兵、文民の逝いて帰らざるものまた数を知らない。顧みれば、諸霊は遠く祖国を離れ、北漠に北斗を仰ぎ、南溟は十字の星陰のもと、東は太平洋の海原の崖、西は印度洋の波打つ限りの諸地域において、陸海空の苛烈なる死闘に、はたまた言語に絶する気象風土等の悪条件下、非運にも異郷に没して、再び家郷に帰らず、祖国のため、貴い犠牲となられたのである。爾来この犠牲を礎として、世界恒久平和樹立の願い澎湃として高まり、ここに終戦後18年を迎えるに当り、200万県民は諸霊の崇高なる死に対して報謝以って慰霊の誠を捧げるとともに天地永遠の平和を祈念するべく、長野県、同議会を始め各種団体の協賛により、厳かに信濃の塔を最終激戦地として記念すべき沖縄島摩文仁の聖地に建てる。諸霊よ、遥かなる信濃の故山清流より選ばれた銘石に想いを寄せられ、ここ摩文仁の景勝において、波の楽音に守られながら共にふるさとを語り合われんことを希う。心をしずめ、はるかなる彼方を望み、なつかしくもまた哀しき諸霊の冥福を祈る。昭和39年3月長野県出身戦没者慰霊平和塔建設期成会長長野県議会議長 西沢寛志謹誌「沖縄放送局戦歿職員 慰霊碑」日本放送協会は昭和17年1月、首里市観音堂に放送局を開設し同年3月から放送を始めたが、昭和20年、戦火のためにすべての施設が崩壊し職員30人余りのうち8人が死亡した。戦後、戦没職員の冥福を祈り慰霊碑を建立した。終戦50周年を記念し平成7年2月、全面改修した沖縄放送局戦歿職員慰霊碑所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年5月(平成7年2月改修)合祀者数 8柱管理団体 日本放送協会「熊本県 火乃国之塔」「火乃国之塔(熊本県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和38年5月5日敷地面積 397㎡合祀者数 2,009柱管理団体 (一財)熊本県遺族連合会火乃国之塔塔上段に平和を象徴する球体を配し、正面には「火乃国之塔」の題字を刻んでいる。また、題字の下に、安永蕗子女史の弔歌「花きよき列島まもり逝きたりと嘆けば炎ゆる緋の仏桑華」を記している。台座には、熊本県を代表する銀杏の葉型があり、塔の両側面には熊本県出身の英霊2009人の氏名が焼きこまれている。「黒百合の塔」「黒百合の塔(石川県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和37年11月7日敷地面積 340㎡合祀者数 1,069柱(沖縄戦戦没者 901柱、南方諸地域戦没者 168柱)管理団体 石川県黒百合之塔1962年11月建立され石川県出身沖縄戦没者 978柱の御霊を祀る 石川県下に在る国立公園白山に咲く黒百合の名をとり命名されたものである1963年 5月 財団法人沖縄戦没者慰霊奉賛会塔建立の記 戦史に比類のない沖縄決戦は我が郷土部隊が台湾に転戦した直後ではあったがなお石川県出身将兵で本島並びにこの近海の激戦に参加し悲壮の最後を遂げられた英霊は実に 978柱の多きに達しました。 戦後十有七年たまたま石川県町村議長会一行の沖縄視察を機として県出身戦没者の慰霊塔建設の議が起こりここ摩文仁の霊域に塔を建立するに決し広く県民の温い真心によって昭和37年 9月に起工し同年11月俊成を見ました塔の名は国立公園白山の高峰に咲く花より選んで「黒百合之塔」と命名し戦没将兵の冥福を祈り永くその勲をたたえることと致しました 願わくは英魂永く安らかに茲に鎮まりまして新日本建設の御光となり世界平和の守護神として深き御加護を垂れ給いますよう祈るものであります 黒百合之塔が今後ながく沖縄と石川を結ぶきずなとなりますことを願って止みませんなおこの塔の建立にあたり沖縄市町村会並びに市町村議長会が格別の御厚情を寄せられましたことを特に付記して感謝の意を表します昭和37年11月 7日石川県黒百合之塔建設委員会 「しずたまの碑」太平洋戦争で沖縄は祖国防衛の決戦場となり、その戦闘は熾烈を極めた。一家全員が戦禍でなくなった家は約380所帯、犠牲者は1500人余りに及んでいる。沖縄県遺族連合会ではこれらの御霊の慰霊顕彰に深く心を砕いてきたが、昭和44年沖縄協会の寄進を得て那覇市のくろしお会館内に建立したのが、しづたま(鎮魂)の碑である。その後、同地域が都市計画によって整理されることになったため、昭和63年に現在地へ移設された。しずたまの碑所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和44年6月(昭和63年移設)合祀者数 1,500 柱管理団体 (一財)沖縄県遺族連合会慰霊の塔「しづたまの碑」の語らい先の大戦に於いて、沖縄県は国土防衛決戦場として、未曽有の激烈な戦闘が展開されました。その為に現地や外地で戦死した戦没者の留守家族も戦火の犠牲になりました。その一家全滅家族は、約380世帯1,500余柱に及んでおります。この塔「しづたまの碑」には、その方々の御霊をお祀りしてあります。本会は、一家を挙げて祖国に殉じた悲壮な歴史的事実を後世に伝える為に、全滅家族の霊を永続的に慰霊顕彰し、世界恒久平和希求への礎とすべく、昭和44年6月17日那覇市壷川292-2、くろしお会館敷地内に建立しました。ところが、その「しづたまの碑」が建立されている一帯は、那覇広域都市計画事業壷川土地区画整理事業施行区内に設定されて、仮換地の指定処分を受け、移転を余儀なくされました。そこで、ここ摩文仁ケ丘の霊域地に「しづたまの碑」を移築、建立したのであります。 昭和63年3年 財団法人 沖縄県遺族連合会「安らかに」主碑は「人をもって城となす」という鹿児島の古い言葉のとおり何の飾りもない質実剛健の気風を具現している。高千穂峰の霊石を埋めることで、「安らかに」と祈る気持ちも表している。正面後ろの副碑は、碑を割ってつないだ形をしている。戦争の惨禍によってお互いがずたずたに切り離されてしまったが、肉親や故郷を渇望しつつ沖縄で散りはてられた人々と私たちの間には断つことのできない永遠の「きずな」があることを意味している。「安らかに(鹿児島県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年11月21日敷地面積 506㎡合祀者数 2,582柱(沖縄戦戦没者)管理団体 鹿児島県御案内 沖縄戦没者鹿児島県慰霊塔「安らかに」は太平洋戦争末期、沖縄決戦に散華した南西諸島防衛第32軍司令官牛島満大将以下、郷党の軍人軍属ら2,582 柱の御霊を慰霊するため、昭和39年11月21日、県民から寄せられた浄財と県、市町村の助成金をもって沖縄戦没鹿児島県慰霊塔建立期成会により建立されました「安らかに」は、芸術院会員中村晋也氏の作になり、苛烈な戦争に身命を捧げた戦没者と郷里との永遠のきずなを刻み、平和への祈りを訪れる人に訴えています。摩文仁城本丸石垣を背に紺碧の大海原を望むこの地を、以来、鹿児島霊園と称し、昭和47年には慰霊塔及び土地( 現在506.10㎡) 全てを鹿児島県が承継し今日に至っています。 この間、昭和52年、58年の二回にわたり保全に必要な補修を行ったものの、建立以来既に26星霜を経て老朽著しく、時恰も太平洋戦争開戦から満50年の節目の年にあたり、霊園の全面的な改修を実施致しました。ここに、平和への誓い新たに、祖国の繁栄と世界平和の尊い礎となられた御霊の永遠に安らかなるを、県民の皆様方とともに願ってやみません。 平成 3年 1月 7日「ダバオ之塔」太平洋戦争中、フィリピン・ミンダナオ島ダバオにおいて戦没したりダバオ開拓途上犠牲になったりした同胞2万余柱の御霊に対し、限りなき思慕の情を寄せ供養するため、全国のダバオ関係者によって建立された。ダバオ之塔所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和47年3月28日合祀者数 20,000余柱管理団体 ダバオ会「義烈空挺隊の碑」「義烈」の文字は奥山隊長の筆跡碑石は義烈空挺隊発進の地 熊本縣金峰山の産昭和51年5月24日全日本空挺同志会建立義烈空挺隊の碑所在地 糸満市摩文仁設置 1976(昭和51)年5月設置者 全日本空挺同志会義烈空挺隊讃 秋 ソレ昭和20年 5月24日夜、敗色既に濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ突如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ 該機ヨリ躍リ出タル決死ノ 将兵ハ飛行場ニ在リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ混乱ノ巷ト化セシメタリ 為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト3日間ニ及ビソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ至大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリコレ我ガ挺進第一連隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊及ビ第三飛行隊ノ壮挙ニシテ両隊将兵113 名全員ココニ悠久の大義ニ殉ゼリ 後ニ續ク者ヲ信ジ日本民族守護ノ礎石トナリシ将兵ノ霊ニ我等何ヲモッテ応ゼンとスルヤ 昭和51年 5月24日 全日本空挺同志会まだまだ、訪ねたい場所が残っていたが、急ぎ足で旅友の待つ駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.16
コメント(0)
「渓谷の水、湧水」案内板。「渓谷の水、湧水等々カ渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々カ駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川と流れていきます。この谷沢川には、平成6年( 1994年)より仙川浄化施設からの導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。また、等々カ渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々カ渓谷の湧水は、東京都により平成15年(2003年)に「東京の名湧水57選」に選定されています。」「等々力渓谷 案内図」。「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)「おもいはせの路」は、国分を川線周辺を歩いて楽しむ散策ルートです。季節や時の流れとともに表情を変え、古代から現代までの様々な顔を見せる路で、歴史に「おもいをはせる」ということから名付けられました。「等々カ渓谷公園」のみどころは、全長約1キロの23区内唯一の渓谷で、都指定名勝として文化財指定されており、途中には8世紀ごろのものと言われる横穴古墳があります。さらに川下へ降りて歩いて行くと、「不動の滝」がとどろいています。等々力不動の本尊の不動明王は役の行者の作といわれ、様々な願い事にご利益があると言われています。」更に遊歩道を進む。前方に工事現場らしき場所が見えて来た。崖崩れの復旧工事のようであった。そして「稚児大師御影堂」が前方に見えて来た。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂 慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。境内に入ると御影堂の中に稚児大師像が見えた。「稚児大師像」。近づいて。以前に訪ねた時の写真。「稚児大師さま」小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときのお姿です。弘法大師の時代は、大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して、庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました。綜芸とは総ゆる学芸を統合すること、種智とは、智恵を植えることです。その智恵はやがて大きく成長し、色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます。智恵とは密教では決断力のことです。知識だけでは物事の判断は出来ません。その智恵を養うのがあらゆる学問 技術 文学 芸術 書思想を広く学び総合することです。弘法大師の創った大学は、月謝もなく教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした。弘法大師は幼いとき、土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました。この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました。」「稚児大師御影堂」近くのモミジも赤く染まっていた。「手水場」には柄杓はなく、これも新型コロナの影響であろう。湧水を引いているのであろう。陽光を浴びて輝くモミジの樹、葉をカメラで追う。「東京都指定名勝 等々力渓谷所在地:世田谷区等々力2丁目外指定:平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。等々力不動の滝右手の露頭では、武蔵野台地の武蔵野台地の基盤を形成する地層を観察することが出来る。地層は上から黒土層、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫(れき)層、東京層の順で、武蔵野ローム層の中には東京軽石層が白くベルト状に認められる。国分寺崖線の湧水である。不動の滝は、武蔵野礫層と東京層との境から湧き出した地下水によるものである。稲荷不動の右手の石段下には、この滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西本町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」この橋を渡ると等々力「不動の滝」があったが、後ほどとして、「等々力渓谷内日本庭園・書院」に向かって進む。こちらの石段を上って「等々力渓谷内日本庭園・書院」の正門方向へと進む。「日本庭園入口(正門)」と。石段途中の北門から「日本庭園」に入る。「日本庭園」案内図。モミジの黄葉。別の場所から見上げて。モミジの紅葉。更に庭園の路を書院に向かって上って行く。ズームして。枯れモミジ葉と山茶花の花びらが。そして「書院」が前方に姿を現した。「書院」に到着。昭和36年に建築された書院建物であると。「書院」の内部。床の間の掛け軸。四季折々の「等々力渓谷」の写真も展示されていた。再び書院前の紅葉を追う。これぞ「紅落」そして「黃落」。日本庭園の石庭の中の紅葉を楽しみながら「書院」を後にした。日本庭園の池には水は殆どなく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.15
コメント(0)
次に平和祈念公園内の南側・摩文仁の丘の上にある「都道府県、団体の慰霊塔」を訪ねた。「平和祈念公園案内図」。「都道府県、団体の慰霊塔」の配置案内図をネットから。最初に「岡山の塔」。岡山の塔(岡山県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年10月21日(昭和61年3月25日改修)敷地面積 995m2合祀者数 34 , 059柱(沖縄戦戦没者1 , 838柱、南方諸地域戦没者32 , 221柱)管理団体 岡山県太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した岡山県出身者33,799名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,578名。塔は岡山県産の銘石北木島の御影石製。合掌式の上屋が塔を覆っている。これは激しい風雨から「みたま」を護り。安らかな眠りを誘うという形を表している と。第2次世界大戦の戦火が沖縄におよぶや、沖縄の人たちとともに祖国防衛に散華された岡山県出身者は、1570余の多きを数えまことにいたましく、悲しいかぎりである。ふたたび戦争の悲劇をくりかえさぬよう平和への願いをこめて、御霊をなぐさめ、安らかに眠られんことを祈り、170万県民はこぞって浄財を寄進し、この地に県産の石材をもって「岡山の塔」を建立す。昭和40年秋岡山県戦没者沖縄慰霊塔建設委員長岡山県知事 加藤武徳すぐる第2次世界大戦において、南方諸地域で異郷に散華し、祖国に殉ぜられた郷土出身 3万余柱のみたまを、ここ「岡山の塔」に合祀します。 はるかなる海路をこえ来て、安らかに安らかに、おしずまりあらんことを祈ります。思えば祖国の平和と繁栄は、みたまのいさおしに負うところきわめて多く岡山県民とこしえにこれをたたえつきない追慕の誠をささげます。昭和47年秋沖縄本土復帰の秋岡山県知事 加藤武徳「みちのくの塔(青森県)」みちのくの塔(青森県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年11月11日敷地面積 1,827㎡合祀者数 19,847柱(沖縄戦戦没者 544柱、南方諸地域戦没者 19,303柱)管理団体 (公社)青森県遺族連合会碑文本県南方戦没者1万9847人の慰霊のため、遥か郷土の秀峰岩木山の原石を船で運び、6地区遥拝のために副碑を配置して、昭和39年11月、県民の誠心を込めて「みちのくの塔」が建立された。以来、数回の補修工事や環境の整備を行い、碑前においては、毎年県人多数の参加の下、盛大に慰霊祭を挙行し今日に至る。時移り人変わりて、今後詣でる人々のために歴史的事業である「塔の由来」を碑文に残す重要性を思い、ここに青森県遺族連合会創立50周年記念事業として、木村知事謹作の和歌を献じ「みちのくの塔の由来」の碑を建立する。平成9年11月11日青森県知事 木村守男青森県議会議長 高橋弘一青森県遺族連合会会長 藤田美栄歌碑宇つり香の きゆるが惜しと 年ごろを 洗はですぎし 吾子が衣よ 山本いしとこしえに 安らけくあれ 吾が友よ 遙か潮路の はてにありとも 三上 正征きしままと なりはてしかと わが胸に かへりきまさぬ ひと日とてなし 泉山 れつ 横山武夫謹書摩文仁の丘から「沖縄平和祈念堂」方向を見る。戦場となった六地区遥拝のため六個の青森県産の石でできた副碑が塔を取り囲んでいた。碑文太平洋戦争において日本近海をはじめ中国本土、南方諸戦線に参じ、祖国に殉じた県人19,840有柱のみ霊のため、最後の戦場となった摩文仁の丘に塔碑を建立する。 碑石を故山より運び、遙かに、みちのくを望んで立たしめ、文を刻し、和歌を献じて慰霊のまごころを捧げる。時に昭和39年11月11日 青森県戦没者沖縄慰霊塔建立期成同盟会マレイ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ方面青森県戦没者慰霊碑「房総之塔(千葉県)」房総之塔(千葉県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年12月3日改修 平成8年10月敷地面積 663㎡合祀者数 35,693柱(沖縄戦没者 1,608柱、南方諸地域戦没者 34,085柱)管理団体 千葉県建立当初は塔中央に魂の拠り所として、戦没者の遺品(陶器)をちりばめていたが、平成5年9月の台風により破損したため、同年12月3日に、県花である「菜の花」と千葉県を波の形であしらった現在の玉魂に改修した(旧玉魂は塔の後方に埋納)。歌碑 房総にまたかえるなきみ霊らよ海坂とおきここに鎮みて建立の記 この塔は さきの大戦においてひたすら祖国の安泰を願い 戦陣に駆け 沖縄 中国及び南方諸地域で散華された千葉県出身戦没者35693 柱の御霊を合祀したものであります 建設にあたっては 千葉県南方戦没者慰霊塔建設委員会が県民各層からの協賛と浄財を仰ぎ史上類例のない激戦の地であるここ摩文仁の丘に 昭和40年12月 3日建立しました また 塔の形は 合掌を組み現世の平和と子孫の繁栄を祈る姿を象徴したものであり中央には戦没者の遺品をちりばめた玉魂を安置してあります名称は公募により「房総之塔」と命名されました愛媛之塔(愛媛県)愛媛之塔(愛媛県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和37年10月17日敷地面積 1601㎡合祀者数 2,077柱(沖縄戦戦没者)管理団体 (一財)愛媛県遺族会沖縄戦で戦没した愛媛県出身者2,076名を祀る。塔石は愛媛県産の青石。塔には県民が戦って犠牲となった地域42カ所の霊石が納められている。銘過ぐる太平洋戦争最終の激戦場ここ沖縄の地に県人2,076名が壮烈な戦死をとげられた この遺烈をたたえ冥福を祈って郷党相はかりはるかに故山の石を運び慰霊の塔を建てる 昭和37年10月逓魂(ていこん)之塔所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年6月23日合祀者数 505柱管理団体 (一財)逓魂之塔奉賛会沖縄戦でなくなった逓信職員(現在の郵政事業、NTT、KDDIなど電気通信関係職員)505人の御霊を祀っている。塔は日本本土と沖縄の逓信関係者から寄せられた資金をもとに建設され、昭和40年6月23日に除幕式と慰霊祭が行われ、その後毎年6月23日に慰霊祭を行っている。福井之塔(福井県)。福井之塔(福井県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年10月17日敷地面積 824㎡合祀者数 24,507柱(沖縄戦戦没者1,182柱、南方諸地域23,325柱)管理団体 (一財)福井県遺族連合会福井県所縁の将兵の御霊を祀る慰霊塔。「人生の恒久の平和を誓い 御霊のいよ安らかなるを祈る福井県知事 栗田幸雄」沖縄ならびに南方全地域において大東亜戦争の大義に殉じた福井県出身者2万4507柱の英霊をこの聖地に奉祀しそのとこしえの冥福を祈る。ここに全県民の赤誠をこめてこれを建立する。南溟にたとひこの身は果つるともいくとせのちの春をおもへば遺詠 永嶺 肇昭和41年10月17日福井県戦没者沖縄慰霊塔建設期成同盟会会長福井県知事 北 栄造「近江之塔」「近江の塔(滋賀県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年11月25日(平成3年10月22日改修)敷地面積 1,671㎡合祀者数 1,697柱(南方諸地域戦没者を含む)管理団体 近江の塔維持管理会塔壇部分を高く重厚な味わいを持たせ、風格ある慰霊の空間を与えると同時に、前面左右に配された灯篭とのバランスを取り、リズムある構成にしている。背面の霊名碑は、「近江の塔」と調和する形をとる。塔体は上昇のイメージをより強める台座の意匠と相まって敬虔な祈りを象徴的に表現する。のじぎくの塔(兵庫県)兵庫県出身の戦没者3073柱の御霊を慰霊するため、昭和38年12月7日「兵庫県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会」が設立され、広く県民から浄財を得て、昭和39年6月13日に沖縄戦最終の地、摩文仁の丘に慰霊塔を建立した。塔名も公募によって「のじぎくの塔」と命名された。※「のじぎく」は兵庫県花として指定されている。のじぎくの塔(兵庫県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年6月13日(平成8年3月改修)敷地面積 1,560㎡合祀者数 3,073柱(沖縄戦戦没者)管理団体 (一財)兵庫県遺族会一般的な塔のイメージとは趣を異にし、塔基壇の中央にある主碑の「みたま石」(球状)は戦没者を、それをはさむ2枚の石板「合掌石」は、それぞれ遺族と県民の温かい手を象徴するとともに、後背の壁は自然の厳しさから「みたま石」を永遠に守り続けることを意味している。背後壁には戦没者3073人の氏名が刻み込まれている。もし沖縄戦が筆舌に尽くしがたい持久と玉砕がなければ太平洋戦争も別の経過をたどり本土も上陸作戦による深刻な戦禍を受けることなしには終戦をみなかったでしょう。そうなれば、兵庫県民のいまの生活も保障されなかったに違いありません。とくに沖縄における兵庫県出身の戦没者は3,073 柱に達し、北海道に次ぎ全国都道府県で第2位になっております。どうしてこの戦没者の霊をこの遠隔の地にそのままとしておけましょう。期せずして、この点に 400余万県民の気持ちが一致し県民運動としてせめて慰霊塔を建ててお慰めしようということになりました。わたしたちの微意をお受けください。そして永遠に安らかに眠ってください。 昭和39年 6月13日 兵庫県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会基壇のうえに設けられた主碑のみたま石は戦没者の霊を、またこれをはさむ2 枚の合掌石は遺族と県民のあたたかい手を象徴して、それを主碑のうしろの後背が、自然のきびしさから永遠に守り続けようとしております。基壇のなかには、遺族からよせられた霊石が安置されています。塔名ののじぎくは、ひろく県民からつのって命名しました。のじぎくは兵庫県の県花です。 「茨城の塔(茨城県)」茨城の塔(茨城県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和39年11月20日敷地面積 1,324㎡合祀者数 38,810余柱(沖縄戦戦没者 610柱、南方諸地域戦没者 38,200柱)管理団体 (一財)茨城県遺族連合会「茨城の塔」整備記念碑この塔は、昭和39年11月沖縄をはじめ南方全戦域の戦没者の慰霊と茨城県民の平和への祈りにより建立された。かねてから敷地の整備をはじめとする全体整備が念願であったことから本年、終戦五十年を記念し、整地、慰霊塔の移設、柵の改築、方位盤の新設を茨城県の御協力をいただき整備したものである。平成七年十一月 財団法人 茨城県遺族連合会会長 狩野 安 この塔の敷地は1324平方メートルで庭園式になっており、塔は3.72平方メートル、高さ30センチメートルの台の上に、2.7平方メートル、高さ60センチメートルの塔石をのせ、さらにその上に平和を象徴する直径1.3メートルの球が置かれている。塔は、すべて郷土産の稲田の御影石が使われ、台石、塔身、球ともすべて本磨きである。塔身の中はくりぬかれて、中に45センチメートル四方の銅板製の二つの箱に、沖縄をはじめ南方諸地域で戦没した3万8000人余りの英霊の名簿や多くの遺品および遺族・県民から寄せられた香華料の名入れの封筒が密封されて納められている。「茨城の塔」の文字は、当時の岩上二郎知事が謹書した。茨城の塔碑文この塔は太平洋戦争において本土防衛の防波堤となって沖縄の戦をはじめ遠く南方戦線に死闘を重ね異郷にその尊い生命を国家の栄光の前に捧げた茨城県出身戦没者3万8000余柱の勇魂をこの地に招き200万県民が平和の祈りをこめて建立したものである。諸霊の愛国の至情は仰いで範とすべく耿々として後進を鼓舞することを信ずる。冀くは雄魂、永くこの霊地に鎮まり国家永遠の隆昌と遺族の繁栄に加護を垂れ給え昭和39年11月財団法人 茨城県遺族連合会理事長 遠山 勇「神奈川の塔」。神奈川の塔(神奈川県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年11月26日敷地面積 1,534㎡合祀者数 40,680柱(沖縄戦戦没者 1,678柱、南方諸地域戦没者 39,002柱)管理団体 神奈川県「神奈川の塔」は、南方諸地域で戦没した本県関係4万680人の戦没者を追悼し平和を祈念するため、終戦20周年にあたる昭和40年11月26日に、激戦地の沖縄本島摩文仁の丘に建立された。建立にむけて、「神奈川県南方諸地域戦没者慰霊碑建設委員会」が設置され、県民400万人から寄せられた募金は、700万円余りに達した。塔の完成を記念する除幕追悼式には、遺族をはじめ700人余りが参列のうえ盛大に挙行され、以来この日を記念して、毎年11月26日に追悼式が行われている。異郷の地に眠る御霊よ安らかにとの願いをこめ、慰霊碑には県内産出の銘石が用いられた。先の大戦において、沖縄をはじめ南方諸地域て戦歿された4万余諸霊のご冥福を心から祈ります。「神奈川の塔」建立25周年にあたり、苑地を改修し、ふたたび戦争がくり返されることのないよう800万県民とともに永遠の平和への誓いを新たにします。平成2年11月26日神奈川県知事 長洲一二神奈川の塔われわれ神奈川県民は大東亜戦争終戦ここに20年を迎えるにあたり、南方諸地域において祖国の興隆を信じて参戦し、惜しくも異郷に散華せられた、み霊のご冥福を祈るため、ここ摩文仁の丘にふるさとの銘石を運びつきぬ平和への願いをこめて「神奈川の塔」を建立しました。4万余諸霊が永遠に安らかに眠られますよう祈ります。神奈川県南方諸地域戦没者慰霊碑建設委員会会長神奈川県知事 内山岩太郎。「神奈川の塔」建立50年を迎えるにあたり、県民の力を結集して改修を行い、戦争の悲惨さと平和の尊さを、未来を担う次の世代へとしっかりと継承します。戦没者の皆様の永久の安らぎを心よりお祈りします。平成26年11月26日神奈川県知事 黒岩祐治「群馬之塔」群馬之塔(群馬県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和38年2月1日敷地面積 1,183㎡合祀者数 30,771柱(沖縄戦戦没者850柱、南方諸地域戦没者29,921柱)管理団体 (一財)群馬県遺族の会「群馬之塔」の素材は、すべて郷土産の銘石とし、中央主柱石は三波石を郷土に向かって合わせ、祈りをこめた合掌型となっている。台石の表面には、沖縄戦没者の故陸軍中佐・町田一朗命ほか849人の遺族から贈られた霊石を配置してある。前石には浅間石を、碑文石には赤城山小松と、勢多・沢入御影が使用されている。「群馬の塔」の揮毫は当時の神田知事が謹書し、碑文は飯塚会長(当時の県議会議長)の謹書による。群馬の塔ご案内 ご参拝の皆様誠に有り難うございます。 群馬の塔には太平洋戦争における群馬出身者のうち沖縄戦没者 800有余名と遠く南方の各戦線で戦没された 3万余名を一体として合祀されてあります。 主柱の三波石は平和への祈りをこめた合掌型で、遙か群馬に向かっていますから、郷里に在っても常に遙拝することが出来ます。また、南方諸地域における戦没者のため各戦場を6方面に区分し、それぞれ郷土の名石をもって方向を示してありますから、遠く南方諸戦場をしのび拝礼することができます。「静岡の塔(静岡県)」所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和41年4月30日敷地面積 1,674㎡合祀者数 40,409柱(沖縄戦戦没者 1,607柱、南方諸地域戦没者 38,802柱)〈建立時〉管理団体 (公財)静霊奉賛会富士山の姿が。「終戦50周年平和祈念事業「静岡の塔改修記念碑平和への誓い平成7年11月 静岡県知事 石川嘉延 謹書」静岡の塔この塔は遙かに祖国の安泰と繁栄を願いつつ沖縄をはじめ南方諸地域においてその任に倒れその職に殉じた静岡県出身の将兵文民の不滅の偉勲をたたえその霊を慰めるため県民の総意により建立したものである昭和41年5月静岡県立山の塔(富山県)塔は、10メートルの高さがあり、先のとがった五角形の斜塔になっている。そのデザインは、故郷と肉親を偲び南海で戦死した将兵の悲しみを表している。斜塔の名称は、広く県民から募集して名づけられたもので、「立山」の言葉に県民の強靱、不屈の精神と御霊の悲痛な心情を表現し、全県民の哀悼と平和希求の一念が込められている。なお、塔前面には、常願寺川の油石と、県産の万成石がはめ込まれ、他の資材もすべて郷土産の石材が使用されている。立山の塔(富山県)所在地 糸満市摩文仁建立年月日 昭和40年11月5日敷地面積 2,237㎡合祀者数 14,872柱(沖縄戦戦没者 876柱、南方諸地域戦没者 13,996柱)管理団体 富山県南方戦没者沖縄慰霊塔奉賛会英霊に水を捧げる記念碑「慰霊塔配置名称」案内板。沖縄戦没者墓苑沖縄戦没者墓苑は、先の大戦で沖縄において戦没された方々のご遺骨をお納めしてある国立の墓苑であります。本墓苑では、これらの方々を永く追悼するため、ここ摩文仁の丘に昭和54年2月25日に創建されました。 厚生労働省戦没者の遺骨収集は、地域住民により実施され、各地に納骨堂を急造し 収集した遺骨を納められた。昭和32年には、政府(琉球政府に委託)が那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設・納骨してきたが、狭隘となってきた。新しい墓苑が昭和54年に創建され 中央納骨所から本墓苑に転骨された。昭和60年に後方に納骨堂が増設された。参拝所の屋根は沖縄の伝統赤瓦を使い 紋には桜の花を用いている。納骨堂は。沖縄産の石灰岩トラバーチン1千個を使い、琉球王家の墓を模した技法で積み上げられている。納骨堂は、戦没者を温かく抱擁する意味で、コの字形となっている。正面に黒御影石の献花台・納骨堂が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.15
コメント(0)
石橋を渡ると、案内板があった。進行方向、下段の案内板を確認して進む。前方上部に橋の姿が。「玉沢橋」。次の目的の「等々力渓谷 横穴墓群」まで230mと。環状八号線・「玉沢橋」。橋の下には岩がゴロゴロと積まれて?いた。「谷沢川」の水面に触れられるようにウッドデッキが設置されていた。1998年より25年続く、等々力渓谷沿いにあるカジュアルなイタリアンレストラン「199 OTTO」の看板。「野毛大塚古墳」👈リンク に行くにはこの石段を上って行くのだ。急な石段を見上げて。「谷沢川」にある仮設の如き木橋があった。そして前方に目的の「等々力渓谷 横穴墓群」への石橋が見えて来た。石橋を渡って1段高い場所に向かって進む。周囲の樹々の黄葉が始まっていた。「野毛大塚古墳(東京都指定史蹟)」👈リンク 案内板。「等々カ渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなリ、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあリます。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部) の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。等々力渓谷とその周辺には、等々カ渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々カ1-18 )、狐塚古墳(尾山台2-17 )、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分市しています。」広場の時計は11:05過ぎ。「等々カ渓谷、武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の優食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷として知られています。『等々カ』の地名は、渓谷内の『不動の滝』の音が響き渡り『轟いた』ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の場とされた等々力不動尊があり、かってはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。渓谷内には、『等々カ渓谷第3号横穴古墳』があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。この渓谷は、昭和8年(1933年)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年(1974年)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。等々カ渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。」「皆様からお預かりしました「郵便貯金」と「簡易保険」の資金が、この等々カ溪谷公園の建設、整備に役立てられています。 世田谷区 あなたのまちの郵局」こちらの紅葉はピークに向かって。陽光を浴びて紅葉の葉が輝く。「等々力不動尊」案内板。「瀧轟山明王院等々力不動尊は平安時代の末(1100年頃)に、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人が開かれた霊場で等々力の「お不動様」として親しまれています。戦国時代には世田谷城主の蒔田吉良氏が戦勝析願を祈り、村人は厄難招福を祈りました。「お不動さま」から渓谷に降りると開創由来の「お瀧」(不動の滝)があり、古来から今日まで瀧に打たれ行をする人が各地から訪れています。この瀧の轟く音が、「等々力」の地名の由来という言い伝えもあります。境内は数多くの桜や紅葉も美しく、等々カ渓谷を代表する自然豊かな樹林地となうています。」「日本庭園・書院」案内板。「等々カ渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年(1961年)に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年(1973年)に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。また、庭園周辺には、竹林やみかん畑があり、子どもたちによるたけのこ掘り体験やみかん狩り体験が、地域の等々カ渓谷保存会によって行われています。日本庭園・書院は夜間、年末年始は休園です。」広場にはトイレもあった。ここにも「等々力渓谷」案内板があった。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京2 3区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。」「等々力渓谷」案内地図。「等々力渓谷3号横穴(東京都指定史蹟)」案内板。「渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見れています。中でも昭和48年(1973年)に発見された3号横穴は、典型的な横穴基の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられました。横穴墓は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしています。玄室(遺体の安置場所)と羨道からなる墓室と、これに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画しています。横穴墓からは、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金銅製耳環、などが出土しました。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々カ周辺を治めていた有力者であると推定されています。」「等々力渓谷公園で見られる野鳥」。ハシプトガラス、キジバト、コゲラ、アオジ、メジロ、ウグイス、スズメ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、キセキレイ、ムクドリ。そして「等々力渓谷横穴墓群」に向かって進む。「等々力渓谷横穴墓群」案内板。そして石段の先にあったのが「等々力渓谷3号横穴」。等々力渓谷横穴(墓)群は、等々力渓谷6基以上からなる横穴墓群のひとつで、昭和48年に発掘された。横穴墓は全長が13メートルで、崖に横穴を掘った墓室=玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)の部分とそこに至る通路である前庭部(ぜんていぶ)にわかれ、横穴部は羨門で区画されていた。墓室内には3体以上の人骨が埋葬され、静岡県湖西地方産の須恵器(すえき)や土師器(はじき)、耳環(じかん)=イヤリング、ガラス小玉などが副葬されていたと。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのはこの第3号のみ。「都史蹟 等々力渓谷3号横穴」案内板。「都史跡 等々カ溪谷3号横穴等々カ溪谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7 ~ 8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々カ溪谷横穴群は野毛地域の有カな農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには、土器が備えられたり、火を炊いた跡があり、墓前祭が行なわれたことがわかります 1989年3月」等々カ溪谷3号横穴のイラスト図。石段を上って行った。ガラスの中の墓をカメラで覗く。次に「等々力渓谷1号・2号横穴跡」を訪ねた。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのは上の写真の第3号のみ。こちらが「等々力渓谷1号横穴跡」。「等々力渓谷1号横穴跡」碑。こちらが「等々力渓谷2号横穴跡」。2号横穴から出土した土師器は、当時都であった大和(奈良県)で使われていたもので、この横穴に葬られた人物が、都(みやこ)に遥役(ようえき)で働きに行ったことが推定される貴重な資料であると。「等々力渓谷2号横穴跡」碑。「等々力渓谷1号・2号横穴跡」前の真っ赤なモミジを見る。日光を浴びて輝く。紅葉と黄葉の競演。そして来た遊歩道を戻る。再び谷沢川に架かる橋が前方に。橋を渡りながら谷沢川を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.14
コメント(0)
次に訪ねたのが摩文仁の丘にある「平和祈念公園」。糸満市摩文仁444。道路標識も歴史を感じる姿なのであった。駐車場に車を駐め、散策開始。ここ「平和祈念公園」👈リンク は既に数回訪ねているのである。「平和祈念公園」案内図。平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある。公園整備は琉球政府時代に着手、復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備を進めた。公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されている。国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっている。「沖縄平和祈念堂」を見る。悲惨な戦争は二度と繰り返すまじ-沖縄県民のこの悲痛な願いを結集して、「沖縄平和祈念堂」は昭和53年10月1日開堂した。戦争の無益さ、平和の尊さ。その証しの地・摩文仁の丘にそびえたつ祈念堂。人種や国家、思想や宗教のすべてを超越して、世界に平和を訴える壮大なモニュメント と。ュメン正七面体角錐型の堂宇は、7つの海と合掌の形を表し、人種や国家、思想や宗教のすべてを超越して、世界平和を訴える沖縄平和祈念堂。堂内には18余年の歳月をかけて原型が制作された「沖縄平和祈念像」が安置され、壁面には20点連作絵画「戦争と平和」が展示されているほか、日本画壇の第一線で活躍する画家から贈られた作品を展示する「美術館」も設置されている。また、敷地内にはブロンズ製の「少年」の像や「清ら蝶園」も併設しているのだった。そして、こちらは、10年前であろうか、親戚の告別式に参列した際に、終了後に一人で訪ねた時の写真。「沖縄平和祈念堂」の入口。「沖縄平和祈念堂」には沖縄出身の芸術家・山田真山氏が18年もの歳月をかけて原型を制作した、高さ12mの「沖縄平和祈念像」が安置されていた。また、壁面には西村計雄画伯が平和への思いを込めて制作した連作絵画『戦争と平和』をはじめ、祈念堂の理念に賛同した著名な画家から贈られた大作の数々が展示されていたのであった。「沖縄平和祈念像」に近づいて。そしてさらに「平和祈念公園の奥に向かって進む。正面に「平和の丘彫像」。黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置し、下層部はガマ(自然壕)をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっている と。デザインは福岡県北九州市の藤波耕司氏。設置年月日 2001(平成13年)年6月23日 除幕。アーチ中央に沖縄の大理石トラバーチンをモザイク状に配置。アーチの高さは7.5m、幅10.6m。「沖縄平和祈念堂」を振り返る。「式典広場」には乗用型芝刈り機に颯爽と乗り込み、作業中のオバちゃんの姿が。「平和の丘彫像」を振り返る。再び「沖縄平和祈念堂」を美しく刈り込まれた芝生広場越しに。右側の石段の上にも大きな石碑が。「島守の塔」。この地は、沖縄戦で住民とともに南下を続けた島田知事、荒井警察部長らが摩文仁岳を最後の地と定め、随行の部下に退去・避難を命じ、この山に構築した壕で自らの生命に終止符を打ったゆかりの地である。生き残った小渡信一、徳田安全、新垣徳助、當眞嗣盛の各氏を中心に生存した県庁職員約10人が探索し、さらに金城増太郎三和村長や摩文仁区長らによって確認された。「戦歿 沖縄縣知事島田叡(シマダアキラ) 沖縄縣軄員 慰霊塔」と。そして「平和の火」に向かって「メイン園路」の歩を進める。右手にあったのが「全学徒隊の碑」。「戦前、沖縄には21の師範学校・中学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての学校の生徒たちが戦場に動員されました。男子学徒は主に14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。女子学徒は主に、15歳から19歳で、陸軍病院や野戦病院などで負傷兵の看護活動にあたりました。激しい戦火の中、多くの生徒が犠牲になりました。このことを広く伝え世界の恒久平和を願い、ここに全学徒隊の碑を建立します。2017年3月 沖縄県学校名(学徒隊の通称)以下 21の学校名が記載されていた。」「沖縄戦当時の学校の位置」。「沖縄戦における学徒の戦没者数旧制師範学校・中等学校の男女学徒隊及び同校で学ぶ生徒たちは、郷土を背負って立っという高邁な使命と高遠な夢を胸に学業に励んでいましたが、多くの生徒たちは青春を謳歌することなく、戦争によって無念にも尊い若い命、かけがえのない大切な10代の命を失いました。このような悲惨な戦争の実相を後世に伝えるために、「元全学徒の会」の調査(2018年11月)に基づき学徒の戦没者数を記し、恒久平和を祈念します。学校名(戦没者数)沖縄師範学校男子部(290名) 沖縄師範学校安子部(108名)沖縄県立第一中学校(290名) 沖縄県立第一高等女学校(103名) 沖縄県立第二中学校(185名) 沖縄県立第二高等女学校(58名)沖縄県立第三中学校(88名) 沖縄県立第三高等女学校(10名)沖縄県立農林学校(124名) 沖縄県立首里高等女学校(63名)沖縄県立水産学校(58名) 沖縄積徳高等女学校(34名)沖縄県立工業学校(158名) 昭和高等女学校(56名) 那覇市立商工学校(157名) 沖縄県立宮古高等女学校(1名)開南中学校(190名) 沖縄県立八重山高等女学校(1名)沖縄県立宮古中学校(不明)沖縄県立八重山中学校(1名) 戦没者数総計 1984名沖縄県立八重山農学校(9名)」さらに「メイン園路」を進む。メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されているのであった。右手には池が。左手に四阿。「平和の礎」検索コーナー と。「平和の礎」案内図。近づいて。刻銘の対象「平和の礎」には、沖縄戦で亡くなられた一人一人の氏名を刻銘します。沖細戦の期間は、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から降伏文書に調印した同年9月7日までとし、戦没場所は沖縄県の区域内とします。ただし、次に揚げる戦没者についても刻銘の対象としています.(1)沖細県出身の戦没者 ア 満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した イ 1945年9月7日後、県内外において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者 (ただし、原爆被爆者については、その限りではない。)(2)他都道府県及び外国出身の戦没者 ア 沖細守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、 南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者 イ 1945年3月26日から同年9月7日までの間に、沖縄県の区域を除く南西諸島周辺において、 沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者 ウ 1945年9月7日後、沖縄の区域内において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者刻銘位置の案内。「平和の礎」の概要。1.刻銘の対象 「平和の礎」には、国、軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなられた一人ひとりの氏名が 刻銘されている。 なお、次の戦者についても対銘の対象としている。 沖縄県出身者については昭和6年(1931年) 9月の満州事変から、昭和20年(1945年)9月までに 亡くなられた方(空襲や徴用船、疎開船、引揚げ船の遭難、退去命令や疎開によりマラリア又は 栄養夫調などにより亡くなられた方を含む。)も刻銘の対象となっている。 また、県外及び外国出身者については、沖縄守備軍(第32軍)創設の昭和19年(1944年)3月から 終戦概ね1年以内において、沖縄戦に関する戦闘等が原因で亡くなられた方も刻銘の対象と している。2.刻銘の方法 戦歿者は母国語で、国別、県別に表記する。なお、沖縄県については市町村別、字別とする。3.刻銘者数(2022年6月現在) 出身地 刻銘者数(人)日本 沖縄県 149,611 県外 77,485外国 米国( U S A ) 14,010 英国(U K) 82 台湾 34 朝鮮民主主義人民共和国 82 大韓民国 382 合 計 241,6864.主な戦時遭難船船名 赤城丸 朝日丸 亜米利加丸 近江丸 開城丸 嘉義丸 神島丸 広順丸 広善丸 湖南丸 栄丸 ジョクジャ丸 第一千早丸 第五千早丸 台中丸 千鳥丸 千代丸 対馬丸 照国丸 波上丸 白山丸 宮古丸 美山丸 八重丸 タ映丸 横山丸[沖縄県出身海上遭難関係刻銘者数4,203人 2022年6月現在]5.「平和の火」について平和の広場中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年(平成3年)から灯し続けた火を1995年(平成7年) 6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものです。「沖縄戦を中心とした15年戦争に関する主な出来事昭和6年 9月18日 柳条湖事件起こる(満州事変勃発)昭和12年 7月7日 盧溝橋事件起こる(日中戦争全面化)昭和13年 4月1日 「国家総動員法」公布昭和15年 5月26日 国民精神総動員沖縄県本部の設立昭和16年 12月8日 日本軍、真珠湾攻撃(太平洋戦争始まる)昭和18年 2月1日 日本軍、ガダルカナル島撤退開始昭和19年 3月22日 南西諸島に第32軍創設 7月7日 サイバン島陥落 南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定 8月22日 対馬丸、悪石島付近で撃沈される 10月10日 米機動部隊、沖縄大空襲(十・十空襲)昭和20年 1月31日 第32軍、現地第2次防衛招集 2月19日 米軍、硫黄島上陸 3月1日 米機動部隊、沖縄県内各地を爆撃 3月6日 「国民勤労動員令」公布 3月24日 米艦隊、沖縄本島に艦砲射撃開始 3月26日 米軍、慶良間列島上陸 英太平洋艦隊、先島空襲開始(~5月2 5日) 4月1日 米軍、沖縄本島中部西海岸上陸 4月16日 米軍、伊江島上陸 5月27日 第32軍司令部が首里撤退 6月13日 大田海軍司令官自決 6月18日 米軍司令官のバックナー中将、旧高嶺村真栄里で戦死 6月22日 米軍、第1 0軍本部で沖縄島占領式典 6月23日 牛島司令官、長参謀長、摩文仁で自決(日本側の記録による) 6月26日 米軍、久米島上陸 7月2日 米軍、沖縄作戦終結宣言 8月6日 米軍、広島に原爆投下 8月9日 米軍、長崎に原爆投下 8月15日 天皇の終戦詔書ラジオ放送 9月2日 日本政府、米艦ミズリー号上で降伏文書に調印 9月7日 琉球列島守備軍、嘉手納の米第10軍司令部で 降伏文書に調印」通路の左右に「平和の礎」。2022年追加刻銘。広島県として多くの名前が刻まれていた。多くの沖縄出身の広島原爆被災者なのであろう。「平和の礎」(右側)が並ぶ。刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもって配置されていた。これらは屏風状に並び、5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘板は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能であると。「平和の礎」(左側)が並ぶ。正面に「平和の広場」そしてその中央に「平和の火」が見えて来た。多くの小学生の姿が。社会見学なのであろう。この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したもの。炎は確認できなかったが。「沖縄県平和祈念資料館」を見る。「平和の広場」は、断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できる位置に設置されていた。断崖の下の海はあくまでも青く白波が。小学生が移動した後に。池底には、沖縄のこの場所を中心とした地図が。わかり難いので、上からの写真をネットから。左側に日本列島、その左手に中国が。「平和の広場」から「メイン園路」、その両側の「平和の礎」を振り返る。「平和の礎」碑。沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑(沖縄県出身者:満州事変に始まる15年戦争の期間中の戦没者を対象)「平和の礎」建設主旨私たち沖縄県民は、去る沖縄戦などで貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表し、悲惨な戦争の教訓を後生に正しく継承するとともに、沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して、ここに「平和の礎」を建立する。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.14
コメント(0)
この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年も!!小田急線を利用して「中央林間駅へ」。乗り換えて「田園都市線」で「二子玉川駅」に。そして「東急大井町線」で「等々力駅」で下車。「等々力」の名は、等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説などがあり、いずれが正しいのかは詳らかではない とのこと。「等々力駅」。等々力駅(とどろきえき)は東急大井町線沿線の駅。東京23区の中で唯一の渓谷である「等々力渓谷」や「等々力渓谷公園」の最寄り駅となっており、自然豊かで落ち着ける環境が魅力で、休日も家族連れなど多くの人々で賑わう駅。「現在のロゴは1973年から使用されており、創立50周年を記念して東急グループの統一マークとして制定されたました。マーク中央の楕円は「グローバルな企業集団を目指す東急グループ」という意味を込め、地球を表現しているそうです。さらに「TOKYUU」の頭文字「T」を図案化したものが内部の白抜きの部分です。交通・開発・流通・健康産業の4事業部門それぞれが拡大・発展するようにという願いが下の曲線に表れているように見えます。」とネットより。「等々力駅」周辺案内図。東京都世田谷区を流れる多摩川水系の一級河川である谷沢川(やざわがわ)にある「等々力渓谷」を訪ねたのであった。環八通りが渓谷を横断していることが解るのであった、「➡等々力渓谷」と。その先には「等々力渓谷への道順」。歩道上にも「ゴルフ橋 等々力渓谷」案内石板が埋め込まれていた。 「東京都 世田谷区 汚水 マンホール蓋」マンホール蓋のデザインは「桜(都の花)、イチョウ(都の木)」そして右手にあった民家の庭には紅葉した欅の木が。「目黒通り」。「成城石井等々力店」の駐車場の隅にあった茅葺き屋根の古民家。世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。東京都世田谷区等々力2丁目39番。「世田谷区指定有形文化財(建造物)鈴木家住宅穀倉 一棟指定年月日 平成二十一年十一月十六日構造及び形式 木造平屋建 寄棟造 茅葺 扠首組構造規模 桁行 四・五四五m(一五尺) 梁間 四・八四八m(一六尺)建築年代 明治八年(一八七五年) (内壁に「明治八年 亥年」墨書銘)鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋染を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。 世田谷区教育委員会」奥には「木造穀倉」もあった。斜めから。「成城石井等々力店」の店頭にあった黄色の巨大な果物。税込みで1個1070円と。「ショーンさんのオレンジシュガーメロン」と。表面が明るい黄色で網目状の模様がない、一風変わったビジュアルのメロン。サイズは縦 20cmほど。正式な品種名は『オレンジキャンディ』と。調べてみると2018年新品種としてオーストラリアの一般市場に出回るようになり、同時に日本でも輸入解禁。まだまだ知名度は高くない品種ですが、評判は上々である と。皮が明るいイエローなら熟していると。ネットから断面を。特徴は・網目がなく滑らかな皮・鮮やかな黄色をした皮・濃い味・控えめな甘さで少し酸味あり・香りが良く色は薄め・シャキッとした食感 と。そして角に大きな欅のある路地を右に曲がる。正面に『ゴルフ橋』が。大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にあるこの橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれている。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来している と。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場。「等々力渓谷公園入口」の看板と反対側には階段があった。東京都世田谷区の閑静な住宅街の一角に、ひっそりたたずむ等々力渓谷。豊かな緑と清らかな水に恵まれ、東京であることを忘れそうな、まさに都会のオアシス。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場の「案内板」に近づいて。「等々力渓谷と周辺のご案内」。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴基である「等々カ渓谷3号横穴」があリます。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります」。「等々力渓谷」案内地図。この時の気温はこの場所が9.9℃、渓谷内が8.6℃との表示が。「等々力渓谷」の「名勝」に関する「指定書」。平成十一年三月三日 東京都教育委員会 の文字が。「東京都指定名勝等々力渓谷所在地 世田谷区等々力二丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約一〇メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。また、等々力渓谷には谷間の崖地に横に穴を掘って造られてた野毛地区の有力な農民の墓である横穴があり、これまでの調査で三基の横穴が発見され、現在は三号横穴が完全な形で残っています。等々力渓谷は、東京二十三区内で唯一の渓谷として知られています。ここはかつて、九品仏川とぶつかった谷沢川が河川の争奪現象により水量を増し、その激しい浸食作用によって形成された渓谷で、深い谷地形は現在も概ね自然の状態で残されています。そのため、武蔵野台地の地形や地質を学ぶ上では大変貴重な場所となっており、斜面地に数多く分布する湧水地は、「東京の名湧水五十七選」にも選定されています。渓谷の急峻な斜面には近年の開発から難を逃れた樹林が広がり、東京区部とは思えない幽邃な景観を呈しています。これらの植生は過去に農業の営みの中で利用されていましたが、その利用がなくなった現在では遷移が進んで自然の植生が回復してきています。一方、渓谷と人々のつながりは横穴古墳の築造に始まり、その後神聖な滝によって多<の人の信仰を集め、村の雨乞いのための水取り場となるなど、暮らしの中に深<関わる場所でもありました。これら優れた自然環境と歴史的背景を持つ等々力渓谷は、等々力不動尊とともに人々の知るところとなり、今では東京の名所として数多くの人が訪れる場所になっています。そして、平成十一年三月、風致景観・名所・学術の面で高く評価された等々力渓谷は、東京都指定名勝として文化財の指定を受けました。世田谷区は、「等々力渓谷名勝区域保存管理計画」を策定し、等々力渓谷公園の整備をはじめ、渓谷の環境を将来にわたり守り伝える取り組みを進めています。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷公園」碑の下に「等々力渓谷」への階段が。「等々力渓谷公園」碑。ここが「等々力渓谷」の入口の石段。石段を下る。「等々力渓谷」の「谷沢川」が姿を現した。「谷沢川」は、世田谷区桜丘付近に源を発し、上用賀、等々力など世田谷区南東部を南へ流下し多摩川左岸に合流する流域面積5.30km2、河川延長3.70kmの一級河川。 中下流部には区部で唯一 の自然の渓谷であるここ「等々力渓谷」があり、多くの人々に親しまれているのだ。真っ赤な「ゴルフ橋」が前方に。階段をおりれば、たちまち木に囲まれた小さいくて幅も狭い谷沢川が。階段の上と下とでは別の世界。都心とは思えない空気感が。更に進んで「ゴルフ橋」下を進む。。「ゴルフ橋東急大井町線の等々カ駅近く、等々カ渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和36年( 1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。」「等々力渓谷案内図」。「等々力渓谷の地層(右の地層模式図を参照)渓谷の入り口にあたる、このゴルフ橋下から、谷測りに沿った遊歩道をいくと、高さ約10mの切れ込んだ渓谷地形や武蔵野台地を形づくっている地層の様子を観察することができます。等々カ渓谷は、この地層を観察する場所としても良く知られています。等々カ渓谷の崖に見られる表層地質は、基盤に泥岩(でいがん)層があり、上総層群(かずさそうぐん)の「高津互層(たかつごそう)」と呼ばれる硬い地層です。(三浦層群)とも呼ばれます。)この上に「渋谷粘土層」、「武蔵野粘土層」、「東京軽石層」、「関東ローム層」、「表土」の順で地層が重なっています。高津互層は、都内では地下深くに伏在しているめ、実際に見ることが難しい地層ですが、等々カ渓谷のゴルフ橋がら約90mの区間で、遊歩道の対岸(右岸)にこの地層を見ることができます。現在地の対岸、シラカシ大木の根本近くに、高津互層の上に武蔵野れき層が堆積し、湧永がにじみ出だしている様子が観察でます。」「等々力渓谷」に沿って遊歩道を進む。「地形・地質」案内板。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには、武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があります。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野礫層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層(武蔵野口一ム層、立川口一ム層)の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野礫層の間からは、湧水が多く見られます。」再び「等々力渓谷と周辺のご案内」。都会の中に居るとは思えない景色が続く。近場の人達が羨ましい限り。途中、白き流れも。更に進む。川にはカルガモの姿が。別の場所にも。くちばしの先が黄色いのが特徴。前方に遊歩道の石橋が現れた。この石橋を渡り、左岸から右岸の遊歩道になる。「植生等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生とおの工なの当在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であリ、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面には、セキショウ草地が見られ、湧水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.13
コメント(0)
次に訪ねたのが「具志頭(ぐしちゃん)城跡公園(具志頭グスク跡)」。公園の周囲をめぐる道を海側に回り込んだ先に、石段があった。近づいて。この石段の先にあるのが「暗御門(くらしんうじょう)」。「暗御門」は尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われ、具志頭城跡の真下にある。沖縄戦では米軍の港川上陸に備えて自然洞穴を拡張して構築された陣地壕である。しかし案内板には「クラシンウジョウのご利用に関してこの壕は地権者と具志頭区の同意のもと自然体験学校が管理することとなりました。壕の見学に関しては有料となりましたので人壕のご希望の際は下記までご連絡ください、'無断での入場に関しましては固くお断りいたします。ただし、拝所等の利用については除きます」と。よって「暗御門」👈リンク を訪ねることは諦めたのであった。よって公園の周囲をめぐる道を廻り込んで「具志頭城跡公園」に到着。案内板によればこのグスクが築城されたのは十四世紀初頭とされ、英祖王統第二代大成王の三男である具志頭按司によるものだといわれているようです。しかしグスクの跡はほとんど残っていなかった。その代わり、広々とした公園内は戦跡公園として整備されており公園内には「甲斐の塔」、「土佐の塔」、「具志頭村の慰霊碑」があったのだ。最初に「甲斐の塔」へ。「甲斐之塔」(山梨県)。所在地 八重瀬町具志頭設置 1966 (昭和41 )年11月8日面積 761m2合祀者数 22,048柱 (沖縄戦戦没者524柱、 その他諸地域戦没者21,524柱)設置社 山梨県清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団 ☎098-997-2765 Mail:heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp「山梨県 甲斐の塔」。「甲斐の塔所在地 沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭建立年月日 昭和41年11月8日敷地面積 761m2合祀者数 22,063柱(平成29年8月現在) (沖縄戦戦没者551柱、その他諸地域戦没者21,512柱)塔建立の経緯「甲斐の塔」は、先の大戦における山梨県関係戦没者を慰霊するため、昭和41年11月8日に「山梨県出身大東亜戦争戦没者慰霊塔建設委員会」が山梨県産の原石を用いて建立したものです。以来、甲斐の塔維持管理委員会(山梨県、山梨県議会、山梨県市長会、山梨県町村会、山梨県市議会議長会、山梨県町村議会議長会、一般財団法人山梨県遺族会の7団体で構成)が維持管理にあたり、毎年11月8日を「甲斐の塔」慰霊巡拝の日と定め、遺族代表者と関係者により碑前で慰霊祭を行ています。当地選定の経緯八重瀬町(旧具志頭村)は山梨県出身の戦没者が多かったところです。そこで、山梨県南巨摩郡身延町(旧中富町)中山出身の山中幸作氏が、私費を投じ、昭和28年6月1 5日、当時の天野久山梨県知事の筆になる石碑を当地に建立し、沖縄戦で戦死した山梨県出身者の慰霊祭を行いました。こうした経緯から当地が選定されたもので、この石碑は現在も「甲斐の塔」の敷地内にあります。同氏は建設会社の社員として沖縄に滞在中、慰霊のため、この石碑を含む5基の供養塔を各地に建立しました。その後、同氏は昭和33年に御逝去されましたが、山梨県では、その功嘖を讃え昭和3 9年に感謝状を贈呈しています。」「慰霊顕彰碑」と「戦没者名簿刻銘板」。反対側。「慰霊顕彰碑」。「碑文この慰霊塔は過ぐる大戦に於いて、本土防衛の第一線として百万県民が肉親を失うという多大な犠牲を強いられ無念の最後を遂げられた戦没者の鎮魂と恒久平和の願いを込めて七千余村民の総意で建立されたものである。その霊域に具志頭村遺族会、創立40周年記念事業として新たに慰霊顕彰碑と戦役者御芳名を建立し平和の礎となられた犠牲者の遺徳を忍び感謝の誠を捧げ末永く後世に語りつげられること祈念申し上げます。 平成五年六月吉日建立 具志頭村遺族会」「慰霊顕彰碑」の隣に建立されていた「忠魂碑」。「陸軍大尉中山忠之」の文字が。「魄粋之塔(はくすいのとう)」。昭和28(1953)年6月、旧具志頭村によって建立された納骨堂と慰霊碑。「魄粋之塔」。「魄粋之塔所在地 八重瀬町具志頭設置 1953 (昭和28)年6月合祀者数 10,150柱設置者 八重瀬町清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団 ☎098-997-2765 Mail: heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp」「慰霊塔」。そして「甲斐之塔」。太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した山梨県出身者22,048名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は524名である と。近づいて。「この塔は山梨県中富町山中幸作氏が昭和26年6月本土他府県にさきがけて建てた慰霊塔の第1号である。当時氏は某建設会社の社員として渡沖し、業務のかたわら苛烈な戦蹟を訪ねまわり郷土山梨県人の散華の地と聞いては各所に私費を投じて塔を建て、英霊に供養したが、その5基中の1基である。碑面の「慰霊塔」の文字は山梨県知事天野久氏の書であるが、之等一切の経費は自身の月給をさいてまかなったのである。今回全県民の熱意によって「甲斐之塔」が見事落成したのも、正に氏の遺業がもたらしたものと信じ、本会は氏の遺徳をたたえ顕彰状を贈呈して茲にこれを記したのである。」と。太平洋に臨む。光る海。港川漁港方向を見る。海に突き出たザ・サザンリンクスゴルフクラブ。「高知県所有地」と。「香南市 八重瀬町 姉妹都市」柱。ここ八重瀬町の姉妹都市は高知県香南市。「英霊が結ぶ交流高知県・八重瀬町交流会土佐の塔(高知県)◆昭和41年11月22日建立◆南方地域戦没者 17,713柱◆沖縄戦での戦没者 832柱」「第三回土佐の塔参拝記念」碑。そして「土佐の塔」。「土佐之塔(高知県)所在地 八重瀬町具志頭設置 1966 (昭和41)年11月22月面積 3,312m2合祀者数 18,545柱 (沖縄戦戦没者832柱、 南方諸地域戦没者17,713柱)設置者 高知県清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団 ☎098-997-2765 Mail: heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp」「土佐の塔」。「塔の由来ここ具志頭の丘は第2次世界大戦の戦跡であり、吾が郷土出身戦没者にゆかりの深い土地として、また隣接地はかつて津村久茂氏が慰霊塔を建立したところでもあり、今次大戦に散華された勇士の霊を弔うに相応しい処として、英霊の遺された崇高な御精神を讃えるため全県民の浄財と郷土産の石材をもって土佐の塔を建てます。この塔が世界悠久の平和につながり、民族永遠の繁栄をもたらすことを希ってやみません。茫洋たる大洋、紺碧の空、そして孤島に散華せられた英霊よ、安らかに鎮まりませと祈りつつこの塔の由来を記します。昭和四十一年十一月高知県知事 溝渕増巳高知県戦没者慰霊土佐の塔建立期成同盟会会長高知県議会議長 宮本迪」断崖とその先の平らな場所はザ・サザンリンクスゴルフクラブ。ズームして。断崖絶壁の海岸が何キロも続く景勝地。南端には四阿が。そして、駐車場の近くにあった「具志頭城内之御嶽」。「具志頭城(ぐしちゃんじょう)」案内板。「具志頭城具志頭城は、十四世紀の中期頃に(英祖王統)第ニ代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城であった。その規模は、およそニ万五千七百平方メートルもあり、沖縄の古城跡の中でも大きい方で、自然の断崖上に構えられた山城形式にして、連郭式の城である。この具志頭城の北方すぐ近くには、この城の出城としてのミドリ城がある。ミドリ城は、玉城城なとの城主からの攻擘に対しての見張所であったと伝えられている。南側には、高ヤツクヮと呼ばれる見張りヤグラの石垣遺構がある。高ヤツクヮは、南山城や多々名城なとに対する構えとしての見張台であったと言われている。代々の具志頭按司は、盛んに海外貿易を行った。その貿易港は、城下を流れている白水川の下流に広がる内海であったと伝えられている。 八重瀬町教育委員会」次に「慶座絶壁(ギーザバンタ)」に向かって「国道331号」を進む。そして「慶座絶壁(ギーザバンタ)」に到着。「慶座絶壁(ギーザバンタ)」は、沖縄県南部の八重瀬町に位置する標高40数メートルある断崖絶壁。太平洋に面した海が一望できる絶景スポットで、まだ雑誌やメディアにあまり紹介されたことがないので人も少なくゆっくりと観光スポット。海に落ちる滝が有名な場所でもあり、潮が引いている時には整備されている道路を下り、下から滝を見上げることもできる。滝と海のコラボは、なかなか他の場所では経験できない貴重な場所。美しい絶景が見られるギーザバンタは、悲しい歴史がある場所でもあり太平洋戦争末期の沖縄戦・南部戦線で米軍に追い詰められた多くの人々が身を投げた悲劇の地とも言われているのだ。よって沖縄戦の際に米軍からスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺絶壁)と呼ばれた場所。石畳の坂道を下って行った。北方向の絶壁。南方向の絶壁。しかし途中からは、道がなく急峻な崖が続いたいたので下に降りるのを諦めた。前方の水平な場所はゴルフ場・「ザ・サザンリンクスゴルフクラブ」。ゴルフを楽しむ方の姿も見えた。この場所もスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺絶壁)であったのだろうか。巨岩がゴロゴロと。「慶座の滝」。見下ろすが、雑草が生い茂って。滝の上から少し内陸にいったところには、農業用の地下ダム(慶座地下ダム)がある。地下水を貯めて周囲の農家が利用している。この貯水容積が小さいので、雨が降ったり地下水が貯まりすぎて溢れると、滝として海に流れ出ることに。 それがこの「慶座の滝」。下から見上げた「慶座の滝」をネットから。水量の多い時のものであろう。そして近くにあった「慶座井(ギーザガー)」を見る。「慶座井」案内柱。「史跡 慶座井(ギーザガー)慶座井は、八重瀬町字安里(旧具志頭村)に位置する古井戸です。文久年間(1861~1863年)、首里王府の農村施策に基づき具志頭間切(現在でいう行政区)でも慶座原を開拓し、新村落の建設を図りました。しかし、慶座原は琉球石灰岩丘陵部台地上にあることから、水の便が悪く、飲料水や生活用水の確保が開拓の問題でした。近くにある慶座バンタには、海に面した断崖の中腹から吹き出す滝があり、豊富な水量で海に流れ落ちていたことから、この水脈を台地上で掘り当て、井戸として利用するために大規模な慶座井建設工事を行いました。工事は首里王府の監督下で行われ、各村の16歳以上60歳までの男性が工事の労役に従事しましたが、結局水脈をつきとめることはできず、工事はほぼ失敗に終わりました。慶座井は、半円形状に垂直に掘り下げられ、三段構造になっており、内側を「 あいかた積み」の技法を使って築造しています。規模・形状は、上部で東西の長さ約35メートル、南北の長さ約15メートル、下部の直径は約7.5メートル、深さ約10メートルの円錐形を成しています。」「史跡 慶座井(ギーザガー)」写真をこれもネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.13
コメント(0)
『山形大の研究グループは8日、世界遺産「ナスカの地上絵」で知られる南米ペルーのナスカ台地とその周辺で、新たに168点の地上絵を発見したと。研究グループが発見した地上絵は、今回の発表分を含め、計358点に上る。』とのニュース報道一昨日・12月10日(土)のテレビで見ました。以下の写真はテレビ画面をカメラで撮影したものです。同大ナスカ研究所副所長の坂井正人教授らの研究グループが2019~20年にドローンを活用して現地調査を行い、168点の地上絵を確認した。16~18年の調査でも142点の地上絵を発見しており、分布の傾向がある程度明らかになっていたことから、ドローンを用いて計画的に調査した。今回見つかった地上絵は、人間や鳥、ヘビなどの動物が描かれており、絵柄の特徴から紀元前100年~紀元300年頃に作られたと考えられる。最も大きいもので全長50メートル以上あったが、ほとんどが10メートル以下の小型のものだという。下の写真は分かりやすくするため線を加えたもの(山形大学提供)とのこと。新発見のナスカの地上絵は『かわいい人型』。『人形』。『人形』。『人と首』と。『鳥』。20m以上の大きさと。『ネコ』。10mほどの大きさと。『ヘビ』。これも10mほどの大きさ。『ナスカの地上絵』の配置図。以下の写真は、私が2009年にペルーの『ナスカの地上絵』👈リンク を訪ね、『遊覧飛行』にて撮影したものです。『ハチドリ』。『コンドル』。『犬』。『猿』。ナスカの地上絵が描かれた年代は今からおよそ2000年前、パルパの地上絵は更に古く今から3000年ほど前に描かれたものと言われている。地上絵にはサル、リャマ、シャチ、魚、爬虫類、海鳥類が描かれ、ナスカ式土器の文様との類似点が指摘されてきた。ナスカの地上絵は何のために描かれたのか?下記の如き説があると『ネット』👈リンク には。 1.「カレンダー説」 2.「雨乞い儀式説」 3.「巡礼に関する役割説」 4.「水のありかを示していに説」 5.「権力者の埋葬説」 6.「UFOの発着場説」 1.「カレンダー説」 ナスカの地上絵を構成する直線には、意図的に太陽と星の動きを表しているものが あり、農業用のカレンダーとして描かれたという説。 この説だと、他の地上絵の線はいらないですし、何のためにあれほどまでに 大きな絵を描いたのかも謎 と。2.「雨乞い儀式説」 ナスカは地球上で有数の乾燥地帯なので、雨乞いのために描かれたという説。 地上絵の中にクモを描いたものがあり、クモは雨を象徴するものだったと言われている。 また、古代ナスカ人が雨乞いの儀式に使っていた貝殻(エクアドル産)が地上絵周辺で 多数発見されている。 ナスカの地上絵には「水源を確保する」といった実用的な機能はないので、古代の人たちが 宗教的な意味合いで地上絵を描いた可能性はあると。 ただし、この説だと雨とは関係のない植物や動物などの地上絵をなぜ描いたのか? という 謎は残る と。3.「巡礼に関する役割説」 古代の人々はナスカの地上絵を歩いて渡り、聖なる場所に向かったという説。 もしかしたら、巡礼地に向かうための目印としてや途中で儀式を行うポイントと して地上絵が機能していたのかもしれない と。4.「水のありかを示している説」 ほとんど雨が降らないナスカでは、地下水に頼って生活する必要がありました。 そのため、水脈や水源を示す目印としてナスカの地上絵を描いたという説もあります。5.「権力者の埋葬説」 ナスカ文化では権力者が埋葬された際、地上絵をひとつ描いたという説。 ナスカ文化では死者は太陽に帰るとされていて、太陽に向けて地上絵を描いた のだとか。6.「UFOの発着場説」 ナスカの地上絵は宇宙人によって描かれ、UFOの発着場になっていたのでは? という説。 ナスカの地上絵のひとつに宇宙飛行士(もしくは宇宙人)を描いたような絵もあります。 確かにこの説なら、たやすく200メートルを超える地上絵を描くことができたでしょう。 地球を訪れることができるほどの科学技術を持った宇宙人 と。現時点では、有力な説はあれど、決定的にこの説が正しいと証明されたものはない。おそらく、ナスカの地上絵はひとつの目的でつくられたのではなく、複数の目的でつくられたのだと。また、時代の移り変わりや気候変動によって、ナスカの地上絵を描く目的が変わった可能性もあるのでは と。
2022.12.12
コメント(0)
そして次に訪ねたのがすぐ近くにあった「港川遺跡公園」。島尻郡八重瀬町長毛293−2。「港川遺跡」とは、2万2千年前の人骨化石の「港川人」の出土地のほか、縄文時代から、近代まで連綿と人々の生業の地として利用されていた複合遺跡です。1970年、大山盛保氏により、当時、琉球石灰岩(粟石)採石場の一画にあったフィッシャー(岩の割れ目)内の堆積土中から、2万2千年前の人骨や動物化石が発見されました。それ以降本格的な発掘が行われ、1974年に、完全に近い全身骨を5~9体発見しました。発見された人骨は港川人と称されました。なお、港川人が発見された粟石は、粟おこしに形状が似ていることから粟石と称され、沖縄県内でも八重瀬町のほか、浦添市、うるま市でしか採石できない貴重な石です。粟石の採掘は1800年代末期頃から行われ、切り出された石材は県下に広く流通し、近代沖縄の産業発展に大きく貢献しました。「港川遺跡公園」碑と案内板。「港川遺跡」案内板。「港川遺跡は、八重瀬町字長毛の雄樋川河口に位置します。もともとは標高約20mの平坦な石灰岩丘陵が雄樋川に向かって緩やかに傾斜していたと考えられていますが、現在は採石によって断崖状になっています。はじめて遺跡が確認されたのは、1955年、多和田真淳氏が、石灰岩丘陵上から約3千~ 2千年前の土器を採集し「港川貝塚」と命名しました。その後、1970年、大山盛保氏により当時採石場となっていた石灰岩層に形成されたフィッシャー(岩の割れ目のこと)下部の堆積物から旧石器時代の人骨をはじめ多種多様な動物化石を発見。さらに、1998年、具志頭村(現八重瀬町)による再調査では、同フィッシャー上部から類例のない約9千年前の土器が発見されました。また、この地の石灰岩層で産出するアワ石(あるいは港川石)と呼ばれる石の採石が1900年頃から行われ、切り出された石材は、県下に広く流通し近代沖縄の産業発展に大きく貢献しました。このことから、遺跡を含めた採石場跡一帯は現在「港川遺跡」として史跡に指定されています。」フィッシャーとは地層の裂け目のこと。「公園案内図 」案内図には「土器出土地」、「採石跡」、「港川人出土地」が記入されていた。また、【 八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館の案内 】もあった。 沖縄県島尻郡八重瀬町字具志頭352番地 ■ 午前9時~午後5時(ただし入館は午後4時30分まで) ■ 休館日 毎週月曜日(祝日、振替休日にあたるときは火曜日)と祝日の翌日、 慰霊の日(6月23日)、年末年始(12月29日 ~ 1月3日) ■ 入館料/有料」「港川遺跡」の正面西側。その左側。正面に案内板が2枚。「地形と自然環境」案内板。「地形正面の大きなフィッシャーは、地殻変動により土地が隆起するとき石灰岩層に形成されたもので、幅約lm、上端からの深さ約20m。東西方向に長く延びていたものが石灰岩の採石により、今日みるような垂直な断面になって残ったものです。このフィッシャーに地表面から流れ込んだ腐植土や表層の赤土、石灰岩や鍾乳石などの破片が混ざる全体的に固結度の弱い堆積物中から、人骨や動物化石が発見されました。」「自然環境港川人が活動していた約2万年前は最後の氷河期でした。現在より気候は涼しく、年平均気温は7℃ほど下回り、海水面は90 ~120mほど低く陸地の面積は広がっていました。また、遺跡からは現在、沖縄島北部の森林地帯(ャンバル)にしが生息していないケナガネズミヤンバルクイナ、ナミエガ工ルなどの動物化石も見つかっています。このことから約2万年前の沖縄島には、こうした動物が生息する豊かな森林環境が島全体に広がっていたと考えられています。」「見つかった動物化石絶滅種の「リュウキュウシカ」、「リュウキュウムカシキョン」、「オオヤマシギ」、「オオヤマリクガメ」も発見されていると。「港川人の発見」案内板。「1967年11月、大山盛保氏(那覇市在住)は、庭石として手に入れた石材の中からイノシシ化石を見つけました。化石に関心をもった大山氏は、石材の出所を探して当時採石場だったこの場所にたどり着き、採石場の一画のフィッシャー(岩の割れ目)からイノシシ化石を発見。大山氏はその後も仕事の合間を縫って採石場に通い続け、たくさんの化石を見つけたことから、「動物を追った人間もいたに違いない」と人骨が出土することを確信し発掘を続けました。1968年3月、大山氏は来沖していた東京大学教授の鈴木尚氏に発掘した化石骨の鑑定を依頼し、断片的な人骨の存在が確認されました。これを受け、同年12月から翌年にかけ、同教授を団長とする「沖縄洪積世人類遺跡調査団」の組織的な調査が実施されましたが、保存状態の良い人骨は見つかりませんでした。その後も大山氏は調査を続け、1970年8月10日、ついに保存状態の良い頭骨などまとまった人骨を発見し、最終的には4体分の全身骨格を含む人骨群が発見されました。人骨は、発見場所の地名(正式な地名は長毛)にちなみ「港川人」と名づけられ、放射性炭素年代測定の結果、今から2万2千年前( 160,000 ~ 18,000年BP )の旧石器時代(更新世)のものであることが明らかになりました。港川人は骨の特徴から「新人(ホモ・サピエンス)」に分類されています。また、2016年、日本地質学会は、大地の性質や成り立ちに関心を持ってもらうことを目的に全国の「県の石」を選定し、「港川人」は沖縄県の化石に選ばれています。」「港川人(1号)復元像」をネットから。男性の推定身長は150~155㎝と小柄で、特に細い上半身に対して下半身は比較的発達していた。食べ物をかみ砕く咀嚼のための顔面構造は頑丈で、粗末な食べ物をよく噛んで食べる放浪性の生活を送っていたと考えられる。港川人は、当初、インドネシアで発見されたワジャク人と似ていることから、東南アジア地域から島伝いに海を渡って琉球列島を経由して本土に渡り、縄文人になったという説がありました。しかし、最近の研究によると、港川人のあごの骨が華奢で、縄文人とは異なり、オーストラリアの先住民族アボリジニと特徴が似ていることが分かってきており、アボリジニがオーストラリアに住み、北上し、沖縄に住み着いて港川人になったという説もあります。また、研究により、港川人の復元図も変わってきているのだ と。「発見された港川人の骨」(ネットより)。人骨やイノシシ化石を発見した採石場の一画の「フィッシャー(岩の割れ目)」。調査当初(1968年頃)は採石が行われていた と。発掘状況の写真。「港川人の発見者 大山盛保氏」。「港川遺跡位置図」。南側のフエンス下には石祠が2基。「布袋様」であろうか。以前は「フィッシャー(岩の割れ目)」に置かれていたが、ここに移されたのであろう。こちらには?公園内のパパイアには実が鈴なり。ズームして。階段を上り上の段へ新しく整備された歩道を進む。右手には「石切場跡」があった。「拝所」であっただろうか。「石切(採石)場跡」案内板。「八重瀬町字港川及び字長毛周辺では1900年代頃からこの地で産出する石灰岩の石切(採石)事業がはじまり、当時各地を往来する馬車や商船である山原船により県内各地へと供給されました。産出する石は琉球石灰岩の一種で「牧港石灰岩」と呼ばれるものですが、岩肌が粗く、見た目が粟おこしと呼ばれるお菓子に似ていることから地元では「粟石」(または港川石)という名で呼ばれています(以下粟石)。切り出された粟石は比較的加工が容易なため、家畜小屋や屋敷の石垣、墓などの建築資材として広く用いられ現在でも民家の石垣などに使用されている粟石をみることができます。この地では石切場を「イシアナ」と呼び、石切場で働く人は「イシアナー」と呼ばれました。イシアナーは地元のみならず県内各地から移住した人々が多く、昭和15年以前には300人~ 500人のイシアナーがいたとされます。当時、石切により活気に溢れた長毛集落には歯科医院や料亭、銭湯など様々な商業施設が立ち並び大きな賑わいをみせていました。しかし、盛んに行われた石切事業ですが、沖縄戦後は機械化による硬質の石灰岩の加工技術の確立やコンクリートの普及などにより次第にこの地の石切は下火となりました。現在、公園内でみられる石切の痕跡は人力によリ道具を用いた際にできたもので、これら岩に残された痕から石切の方法や切り出した石のサイズなど、当時の作業のようすを窺い知ることができます。なお、石切の痕跡は公園のみならず周辺地域のさまざまな場所で露頭する岩盤面や、満潮時に水没する港川漁港南側の海岸部などでも見ることができ、往時の活況を示す産業遺構として存在しています。」「対岸の堀川の石切り場のようす(沖縄県公文書館所蔵)」。「石切場とイシアナーたち」。芝生広場と遊歩道が。「波状文土器出土地」案内板。「1998年に具志頭村(現八重瀬町)教育委員会により港川遺跡西側の崖上部で発掘調査が行われ、石灰岩の割れ目内に堆積した礫混じリの赤土の地層約2メートル下から1個体の土器がっぷれた状態で出土しました。出土した土器はロ縁部の外側に波のような複数の文様(波状文)を横方向に施す特徴から「波状文土器」と呼ばれ、ロ縁部の直径が約32センチ、器の高さが約40センチで底部が尖る大型の深鉢形土器であることがわかりました。また、土器が出土した際にすぐ側で見つかった貝類イモガイを使用して放射性炭素年代測定を行ったところ、約9千年前(縄文時代早期)の年代値が得られました。港川遺跡出土の波状文土器は器の全体像(器形)を復元することができる貴重な資料であり、沖縄の土器文化を研究するうえでもとても重要な遺物となっています。」「上広場」を見る。「下広場」にもあった「港川遺跡」案内板がここにも。「公園案内図」木製階段を下って再び「下広場」へ。「アサヒカズラ」の花であっただろうか?近づいて。そして車に戻り、次の目的地の「具志頭城址公園」に向かうと道の両脇にあったのが「白水車海老養殖場」。車海老は平均15cmほどでメスは30㎝近く大きくなるものもいるんだとか。体を丸めたときの縞模様が車輪のように見えることから車エビと呼ばれたそうで、昼間は砂に潜っていて夜になると活発に動き回る夜行性。昭和38年に山口県秋穂町で初めて車エビの養殖が始まり、そこから徐々に車エビの養殖技術が広がり、今や沖縄県が車エビ生産量日本一である と。潜水の準備をする人の姿が。養殖日本一のここ沖縄県八重瀬町で、長年に渡り車エビ養殖一筋の白水養殖さんでは、与える餌は国内産にこだわり、活きが良く、身が締り、特徴でもある縞模様が美しいエビは沖縄県内は勿論、全国へ生きたまま発送しているのだ と。池の深さは1.5mほどで浮遊式の曝気器で酸素を供給しているようであった。「車海老」。「車海老」は「淡水」で養殖されていることを初めて知ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.12
コメント(0)
今日の我が家の裏からの夕陽です。時間は16:19。「秋の日はつるべ落とし」 は、他の季節に比べて秋は急速に日が暮れるということを表すことわざ。つるべ(釣瓶)とは、井戸で水を汲み上げるために使われる道具のことで、桶を縄の先にとりつけたものを滑車に掛けて使用する。このつるべが、井戸の中に素早く落ちる様子を秋の日暮れに例えて「秋の日はつるべ落とし」と言われていたのであった。秋になると、日没の時刻が早まるだけでなく、その後の薄明の時間も短くなり、日が沈んで間もなく真っ暗になりるのです。東京の今月の日の出、日の入り時間の推移です。今日12月11日(日)の日の出は6:40、日没は16:28。先本日以降も日の出の時間はさらに遅くなって行きますが、日の入り時刻は既に先週の中からは遅くなっています。冬至前後の日の入り時刻と日の出時刻の関係を表した模式図。日の入りが最も早いのは冬至よりも前の時期で、ちょうど今頃が一年の中で最も日の入りが早い時期となります。一方、日の出が最も遅くなるのは冬至よりも後の時期で、ちょうど正月の頃にあたります。その中間頃に当たる冬至が、昼間の長さが(日の出から日の入りまで)が最も短い日なのです。これは、地球が太陽のまわりを回る面(公転面)に対して自転の軸が傾いていることや、太陽のまわりを回る軌道(公転軌道)が真円形でないことなどが理由です。なお、一年の中で日の入りが最も早い日や、一年の中で日の出が最も遅い日は、国内でも南北で差があります。東京の1番早い日の入りの日は12月7日(水)でした。2022年の冬至は、12月22日(木)で昼の時間が最短です。日の出が最も遅い日は来年1月7日(土)です。いつものことですが、電柱&電線が・・・・。時間は16:22。
2022.12.11
コメント(0)
「奥武島観音堂」を後にして島の南東方向にある「龍宮神」に向かって進む。早朝の光る海・太平洋を見る。前方に案内板があったのでその先で車を駐める。下りの石段の場所に「竜宮神(りゅうぐうしん)」。石段を下って行った。石段の下の岩場に辿り着くと、前方には逆三角形の岩が。こちらが「龍座」と呼ばれる岩。大きな龍が天から降りて来て休む場所と言われているとのこと。そして、その手前にあったのが、石灰岩上にいくつかの霊石が積まれた拝所・「竜宮神」。海の神様を祀った拝所で、旧暦3月3日等に航海安全と豊漁等を祈願する場所。海に接し周辺は巨岩に囲まれ、神秘的な雰囲気が。近づいて。右側にも似たような形の大きい岩が2つあり、「母岩」と「子岩」と言われていると。蟹の姿が。しかし動きはなかったが。「竜神宮」の周囲は、自然が作り出した変わった形の岩、そして沢山の海の生物がいるやはり神秘的な場所なのであった。「母岩」と「子岩」を別の場所から。「龍座」岩と「光る海」。そして石段に向かって引き返す。次に訪ねたのが「天仁子乙女王御神」。手前の道路沿いには石獅子・シーサーが(右)。シーサー(左)。石碑と案内柱そして中央の頂にも石柱があった。左側に「天川神(てんかわしん) 天仁子乙女王(てんじんしおとめおお) 中龍宮母神(ちゅうりゅうぐうぼしん)』碑のある拝所(うがんじゅ)。右側に「ヒータチー(灯台)」柱。そして雑木に覆われていたが、尖った石垣の頂部にある「ヒータチー(灯台)」。夜間の航海安全のために石油ランプを灯していた場所。周辺は「火立て毛(ヒータチモー)」という原野でモーアシビー(毛遊び)の場であった。1912(明治45)年以前には既にあったと。かつては村落祭祀が行われていたが、現在はなくなっており、手前にある石碑は島外の人が建てたとのこと。現在は、周辺に民家が建ち、石積みにその名残を留めていた。「奥武島」を一周して戻る事にし、「奥武海道」を時計廻りに進む。海の向こうに「沖縄平和祈念堂」が見えた。奥武島の南西部にある岩場「オーガマー」を車窓から。この場所にあるという「海上遭難者慰霊之塔」をネットから。そしてほぼ一周すると前方に「奥武橋」が姿を現した。「奥武橋」の袂の駐車場に車を停める。橋を渡った所には、石碑が三つあった。「奥武區」と刻まれた石碑。「玉城村奥武区 姉妹部落 米海軍警備隊第四」と刻まれた石碑。特別な石碑ではないのだが、この真中の石碑は米海軍第四警備隊から贈られたもので「姉妹部落」とある。この地に駐屯していたのだろうか?石碑には "Okutake Village Tamasiro" とある。沖縄本土復帰前には「おう」「たまぐすく」ではなく、「Okutake (おくたけ)」「Tamasiro(たましろ)」と呼ばれていたのだろうか?現在でも奥武島と米軍の交流は続いており、ハーリーの際には米軍も参加しているとのこと。「新沖縄観光名所 奥武島 1964年1月 琉球新報社」碑。正面に「奥武島」で「沖縄てんぷら」の行列ができる人気の店・「中本鮮魚店」があった。「沖縄のてんぷらは衣が厚いのが特長。何もつけずに食べるのがおいしい。沖縄ではお菓子代わりに食べたりします。奥武島のきれいな海を見ながらてんぷらを食べるのがおすすめ。てんぷらの種類:さかな、もずく、アーサー、イカ、その他」と。「奥武橋」を渡り引き返す。橋の欄干にあったサバニ(鱶舟)のオブジェ。「サバニとは、海人が使っていた舟のことを指します。沖縄県の言葉で「舟・ふね」のことは「ンニ」「ブニ」と発音されますが、「サバニ」の語源としては「サバ(沖縄でサメのこと)漁に使うンニ(舟)」が「サバンニ」「サバニ」になったとされるのが有力な説。帆を掛けて風を利用し、ウェークと呼ばれる櫂(かい)で水をかき進む「帆掛サバニ」で、かつて海人たちは漁に出ていました」 とネットから。その先の欄干には「離れ奥武の島や 観音堂崇め 互に肝合わち 栄ていかな 中村一男」と。南城市玉城方向を見る。「奥武橋」は1936年に木造の橋が架けられて以来、架け替え工事が何度か行われていると。最近では2010年12月に6代目として架けられ、「100年耐久する」と言われていると。全長約93m、幅10.5mの片側1車線。渡り終えると「奥武海道」は左にカーブ。さらに進み「雄樋川(ゆうひがわ)」を渡る。左手に見えたのが「国道331号」の「雄樋川橋」。「雄樋川」の堤防近くにあった「唐の船御嶽(とうのふにうたき)」を訪ねた。島尻郡八重瀬町長毛290−13。かつての長毛(ながも)集落の中心地に建てられている航海・漁業の守護神。かつてこの地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖(まそ)がまつられている。媽祖は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神だが、日本在来の船玉信仰や神火霊験譚と結び付くなどして、各地で信仰されるようになった と。「唐の船御嶽昔、中国の貿易船が難破し、船が使用不能になったのて、船員はこの地に上陸し仮小屋を建てて住んていた。彼等は食糧に窮し、附近の甘藷、野菜はもちろん、にわとり、豚等まても盗んで食べるようになった。住民は、これを公事(間切の番所)に訴え出た。公事では遭難した不運の船員に深く同情し、間切の公費てもって食糧を供給した。当地滞在中彼等中国の船員は、この地に祠を設け中国に於いて深く崇信している、航海の安全を守護する「媽祖(まそ)」と称する女神を祀り、故郷中国へ帰る航海の安全と、健康を祈願した。願いがかなって中国へ帰ることが出来た。帰るに際し、彼等はこの地の住民に、ここに祀られている神様は、海上安泰、豊漁、豊穰、子孫繁昌、健康を御守りする守護神である。ひとしくこの神の庇護を受けるようにと伝えた。人々はこの神を崇信し、この祠を「唐の船御嶽」と呼ぶようになった。当時、沖縄の人々は中国のことを「唐」と呼ぶ習であった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.11
コメント(0)
しばらく、「沖縄本島一周の旅」の最終日のアップを中断し、平塚の散策、イルミネーション等をアップして来ましたが、今日から「沖縄本島一周の旅」の最終日をアップいたします。この日・9月29日(木)は今回の「沖縄本島一周の旅」の最終日。この日も早朝6:30にホテルをチェックアウトして駐車場に向かう。5日間お世話になった「Times」駐車場。1日の最大料金は500円の「タイムズ沖縄西町」駐車場。そしてこの日の最初の目的地「奥武島」にカーナビをセットして駐車場をスタートする。時間は6:45。「明治橋」を渡ると「ゆいレール」の2両連結の車両がやって来た。「ゆいレール」の路線図。沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2022年3月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である。前日も通った「壺川駅」をこの朝も逆方向に。「NHK・OTVデジタルテレビ・NHK-FM那覇 88.1MHz 豊見城高安送信所」。豊見城市高安。「県道329号線」の「仲井真」交差点を通過。「国道507号」から「県道48号線」に左折して南城市方面に向かう。「レストラン稲穂」が左手に。いのぶたとあぐーの交配種・いのあぐー豚専門店南城市大里稲嶺1981。「いのあぐー豚」。「そもそも、あぐー豚って何?一説では、約6 0 0年前に中国から渡来し、その後沖繩で飼い続けられてきた小型の豚のことです。その肉質は、新降り肉で脂にはみと味があり、一般的な豚肉と比較して、肉質が優れているといわれております。流通しているアグープランドの豚肉は、アグーの雄と西洋豚の雌と交配させたもの、アグー同士を掛けあわせたものなどがあり、掛け合わせる内容については農場によって異なります。先述の通り、肉質は優れていますが小型で肉量が少ないことからアグーの肉質を維持しつつ、肉量の多い豚と掛け合わせるなど工夫を凝らした生産が求められているんですね。」と。そして「沖縄本島」と「奥武島(おうじま)」の間に架かる「奥武橋(おうはし)」を渡る。「奥武島」の航空写真をネットから。沖縄には数々の奥武島がある。(名護市、久米島、慶良間座間味村など) かつての沖縄では、人が死ぬと海岸のすぐ沖の小さな島に船で遺体を運んで、洞窟へと安置する葬送の習慣があった。いずれも、かつて死者を弔った場所であったと云われており崇められている。洞窟の中が黄色い光に満たされていたことから、この島を「青 (オウ) の島」(黄色のことを「青」とよぶ場合があったそうだ)とよんでいたとされ、そこから「奥武 (オウ) の島」と書かれるようになったとされる。最初に訪ねたのが「奥武島観音堂」。十七・十八世紀の頃、遭難した中国船が「奥武島」に漂着。これを島民たちが救助をし、手厚く介抱した。そのお礼として唐から琉球王朝を介して、「奥武島」の人々に黄金の観音像1体と仏具一式が贈られた。これを安置したのが奥武島の観音堂。以降、代々島民の深い信仰を集めていたが、戦争で建物も観音像も失われてしまったため、戦後再建され現在は陶製の観音像が大切に安置されている と。南城市玉城奥武108。「奥武島拝所案内図」。「奥武島」には20ヶ所以上の拝所があると。「奥武観音堂(おうかんのんどう)」が正面に。「奥武観音堂(おうかんのんどう)」。「奥武観音堂の由来」案内板。「奥武観音堂の由来十七・十八世紀の頃、一艘の唐船が嵐に遭い奥武島に漂着した。乗組員達は、見知らぬこの島に上陸をためらっていたところ、島の山の上に白衣の美女が現れて、「案ずることはない。」と言わんばかりに手招きをしたので、「これは天の助け」と喜んで上陸した。 すると島民達が集まってきて、着物を与え、焚き火で冷えた体を温めたり、お粥を炊いて手厚く介抱した。乗組員達は島民の心からの支援に深く感謝し、島民の支援を得て船を小港(クンナト)の岩に繋いだ。(この岩を『ミシラギ』といい、旧暦の五月四日に行われるハーリー(爬龍船競漕)の時は、最初に観音堂に一年間の航海安全と豊漁、島民の健康と融和、島の繁栄を祈願し、次にミシラギ拝所に同様な祈願を行い、御願バーリーを始める。)船の修理を終えた乗組員達は故郷へ帰ることになり、以前白衣の美女が現れた山に入って「我等一行これより帰国せんと思う。願わくば吾等に幸運を与えたまえ、無事帰国できるよう神様は我々をお守り下さい。願望が叶ったならば、仏様をこの地に祀って浄土としよう。」と祈願、無事帰郷することができた。 その後、乗組員から琉球王朝を通して、奥武島に黄金の観音様一体と仏具一式を贈ってきた。しかし琉球王朝では、はじめ同名の他の奥武に安置したが穏やかならず、八方手を尽くした結果、玉城間切の奥武島がその地であることがわかり、間切役場を通じて奥武島に観音像が届けられたので、一宇の堂を建立して観音像を安置することになった。旧藩時代は王府が供え物一式を司り、その代行を奥武村出身の大城南掟(へぇーうっち)が行っていた。その後、間切持ちとなり、後に奥武の村持ちとなったため、司は奥武の旧家大屋が行っている。ここに鎮座される観音像は、代々島民の深い信仰を集めて現在に至っているが、この堂は昔三回(観音堂三興之記)にわたり改築されている。観音堂に関する記録は残念ながら残っていない。観音像は今次大戦まで無事安置されていたが、現在は陶製の観音像を安置している。又この堂も昭和四十年九月の観音堂三百五十年祭にちなみ、那覇市の渡辺健次氏が改築寄贈され、老朽化した鳥居も昭和六十年観音堂三百七十年祭の際、当区出身の安次富剛氏が改築寄贈された。境内の石灯籠には嘉慶十七年秋分吉日嶺井親雲上、与那嶺筑登之親雲上、比嘉筑登之の名前があり、同吉日に比嘉仁屋、当山仁屋、城間仁屋、同じく吉日に玉城親方盛林、嘉慶二十五年には玉城按司から寄進されたのが現在も残っている。観音堂に掲げられている表札の意味は、次のとおり。○「普濟」(ふさい)・・広く仏のみちによって人民を救う。○「南海蓮花満部洲」・・南海に蓮の花が満ちあふれている島。○「徳本慈悲被皆化」・・孝徳の根本は仏の慈しみ、哀れみを皆に教え導き人を善に移らせる。 平成十九年十二月吉日作制 南城市玉城字奥武区」以前の写真を見ると、現在は青字の部分が白く塗られていたのであるがその経緯は・・・???。「観音堂」に近づいて。扁額「觀音堂」と。内陣。「奥武観音堂」の西側には「殿(とぅん)」と呼ばれる拝所が建立されていた。「奥武観音堂と並ぶ重要な拝所で、東之御嶽、中之御嶽、西之御嶽、竜宮神への遥拝所である。歴史は古く、元々は東川門(あがりかーじょう)(現・達也屋)の屋敷内にあったが、観世音泉や共同売店の建設工事により現在地に移した。周辺には多くの拝所があり、厳粛で神秘的な雰囲気がある。」「奥武島ヌ殿(おうぬとぅん)」。「殿」は「奥武観音堂」と同じように赤瓦屋根で造られていた。内陣には正面と右側の祭壇に丸い大きな香炉が2基置かれており、その後方の一段高くなったところには霊石1基と方形の香炉3基が置かれていた。左から「龍宮神」、「東ヌ御嶽」、「中ヌ御嶽」、「西ヌ御嶽」と。そして「奥武島観音堂」の左にある石段を上って行った。先程の「奥武島拝所案内図」によると、この奥には『今帰仁の御嶽と崎城』と『奥武城』が御嶽(うたき)への入口のようであった。両側には像、石碑が安置されていた。右側の像(オブジェ)。右側の石碑。石碑には「・井藤正・・・」と。森の中は、あちらこちらに石灰岩の岩が点在しており、その間を獣道が伸びていた。その奥にも。「御嶽」だけあって、怪しい空間なのであった。ガジュマルの大木。「中之御嶽」と。横から。岩の表面にガジュマルの根が絡みつき。小さな祭壇のようなものが置かれていた。そして最後に「大城幸之一先生銅像」を訪ねた。銅像の台座部分には『顕彰の記』と題された碑文が記されており、「偉大なる政治家、医者としての御功績を讃え、慈悲深く高潔な線瀬映の人柄を慕いかつ、永遠に範となすべくここに顕彰する。 昭和五十七年十月九日 大城幸之一先生銅像建立委員会」と。銅像の右側にあった「大城幸之一先生顕彰の碑」。「一八七九年(明治十二年) 玉城間切奥武村で出生一八九六年(明治二十九年) 沖縄県病院付属医生教習所に入所一八九九年(明治三十二年) 医術開業前期試験(国家試験)に合格一九○○年(明治三十三年) 沖縄県病院付属医生教習所を卒業 医術開業後期試験(国家試験)に合格 沖縄県病院の医員を拝命一九〇〇年 (明治三十三年) 沖縄県病院の医員を拝命一九〇一年 (明治三十四年) 沖縄県病院を辞し玉城間切富里村にて医院を開業一九〇七年 (明治四十年) 無限責任玉城村信用組合理事、奥武漁業組合長一九〇九年 (明治四十ニ年) 玉城村議会議員に当選一九一七年 (大正六年) 沖縄実業・沖縄共立両銀行の合併に活躍一九ニ一年 (大正十年) 県議会議員に当選 議長となる一九ニ四年 (大正十三年) 県営軽便鉄道稲嶺経由の実現を図る 一九二五年(大正十四年) 衆議院議員に当選一九二七年(昭和 ニ年) 水に恵まれない奥武島の不自由さを解消するため 観世音泉(くゎんぬんがー)と上原泉を掘削し完成一九二八年(昭和 三年) 玉城村禁酒会を結成一九三二年(昭和 七年) 玉城小学校給水タンク(丸タンク)を設計し完成 病没 村葬 享年五十四歳偉大なる政治家 医者としての御功績を讃え慈悲深く高潔な 先生の人柄を慕い かつ 永遠に範となすべく一九八ニ年(昭和五十七年)十月九日 ここに先生の胸像が 建立されたニ〇一四年(平成ニ十六年)十ニ月五日作成 南城市玉城字奥武区」と。「大城幸之一は「沖縄県島尻郡玉城村(現在の南城市)出身。沖縄県病院附属医生教習所に入学し、在学中に医術開業試験試験に合格した。1900年(明治33年)に教習所を卒業し、県病院に勤務。翌年には郷里に医院を開業し、後に沖縄県医師会代議員、島尻郡医師会副会長を務めた。1909年(明治42年)に玉城村会議員に選ばれ、さらに沖縄県会議員、同議長に選ばれた。1925年(大正14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。その他、玉城村中部信用販売購買組合長、奥武漁業組合長を務めた。」とウィキペディアより。銅像が建立されている場所の奥には「奥武橋架橋記念碑」と「松島橋架橋記念碑」も建立されていた。「松島橋」は何処にあるのかを調べて見た。すると下記の如き文章がネットにあった。「奥武集落では昔より、橋が架設されるまで農耕や所用にも、また生徒の通学にも渡し舟で相当の不便を感じていた。1937年 (昭和12年) 木材橋が初代橋として竣工したものの、翌年の台風で流失、1940年 (昭和15年) に至って日本政府の補助によってコンクリート造りの立派な橋が架設されたが、今時大戦により米軍の上陸と共に爆破された。住民は第二次大戦中は本島の各所に避難していた。終戦直後北東の屋敷は全部敷き均らされ、米軍の野球場となり、住民は島に帰ることもできず、百名や知念村志喜屋、山里、具志堅知念方面に収容されていた。 玉城区創設 と共に富里、当山に移動、1946年 (昭和21年)、ようやく島への移動が許可になり、米軍の協力により崩れた橋を雑石で埋め陸続きとしたが、暴風のため橋の土石は潮と共に流失、またもや孤島となった。その後一時電柱をつなぎ合わせて浮橋を造り、後、ピーヤ (橋脚 Pier) 利用による仮橋で急場をしのいでいたが、1948年 (昭和23年)、政府補助によって着工、1951年 (昭和26年) に松島橋が竣工したが、 これもまた台風によって流失された。1952 (昭和27年)、政府補助と自己財源で奥武橋を着工、 翌28年堅固な現在の橋 (全長約93m、幅10.5m) ができあがり、陸続き同様部落内にも車輌が出入するようになった。現在の奥武橋は六代目だそうだ。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.10
コメント(0)
この日は11月19日(土)、我が町の自治会の研修旅行で新潟県柏崎市の北条地区を訪ね、交流を深め、柏崎駅前のホテルに入る。そして近くにあった「松雲山荘(しょううんさんそう)の紅葉ライトアップ」に4人でタクシーで向かう。10分足らずで「松雲山荘」案内所前に到着。 新潟県柏崎市緑町3。「松雲山荘」は大正15年に建設に着手し、赤松やつつじ、もみじなどの多数の樹木が植えられた情緒あふれる日本庭園。光に照らされ暗闇に浮かび上がる紅葉は、庭園全体に奥行きを生み出し、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気を醸し出しているのであった。10月下旬から11月下旬は紅葉のライトアップが行われ無料で楽しめる事を事前に調べていたのであった。松雲山荘(しょううんさんそう)は、大正15(1926)年以降、柏崎市東本町の蓮池庭師二代の手によって造園された回遊式の日本庭園。昭和46(1971)年、庭園の所有者であった飯塚謙三氏(柏崎ガス会社創設者)から柏崎市へ移譲された。情緒あふれる日本庭園は、赤松やツツジ、モミジなど多数の樹木に覆われ、灯籠、太鼓橋、東屋、池などを配している。5月から6月にかけて美しい新緑を楽しむことができ、10月から11月にかけてモミジやドウダンツツジの垣根が色づき、訪れる人の目を奪うのだ。紅葉の時期はライトアップも行われ、昼間とは違った幻想的な雰囲気を楽しむことができる。また、園内にある「木村茶道美術館」では、収蔵品である国宝級の茶碗でお茶を味わいながら、庭園の美しさを存分に楽しむことができるとのこと。入口の紅葉。一部で落葉が始まっているものの、まだ見頃なのであった。数日前には・・・ネットから。「松雲山荘」の開園時間は午前9時~午後5時。しかし、ライトアップ期間のみ午後9時まで延長していると。なお、12月1日~翌年3月31日は冬季休園とのこと。色づいた木々がライトアップされ、幻想的で美しく、ロマンチックな空間をしばし4人で楽しんだのであった。園内にはドウダンツツジ350本、ツツジ1,650本、モミジ300本、赤松450本あると。折り重なるように生い茂って。真っ赤なもみじ。朱色の太鼓橋と。素朴な地蔵尊。別の場所から太鼓橋を。松雲稲荷神社。狛狐(右)。狛狐(左)。燈籠それとも五重塔。そして燈籠とモミジ。この辺りは落ち葉が一面に。ポテトフライの出店には列が。白いたい焼きを購入。30分ほど滞在し、紅葉のライトアップを楽しんだのであった。今回の研修旅行の行程のブログアップは後日とさせていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.09
コメント(0)
砂浜を「相模川河口」に向かって歩く。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク」案内板。広いそして長いウッドデッキが前方に拡がっていた。「湘南ひらつかビーチパーク 津波避難展望台」を再び。2020年9月に完成した津波避難展望台は、ビーチセンター西側に立地。鉄骨造2階建て。避難部分は標高12・12mで、「元禄関東地震と国府津-松田断層帯の連動地震」がもたらすとされている最大津波高9・6mを想定して設計。建築面積は約66平方メートル、津波発生時には約360人を収容できる。総事業費は約1億6000万円 とネットから。「湘南ベルマーレひらつかビーチパークby shonanzoen」にはビーチバレー用のコートが10面ほど設置されていた。しかし練習している人の姿は少なく。「ビーチバレーボールコート利用時のお願い」が。無料で利用できるようであった。前方に「ひらつかタマ三郎漁港」の防波堤が見えてきた。ズームして。海岸には白波が。休憩所が前方に。「浜辺のさんぽ道 ビューポイント」案内板。紫外線劣化して色褪せてしまっていたが。再び箱根の山々を振り返る。残念ながら右の方に見えるはずの富士山の姿は雲に隠れていた。防波堤上の釣り人の姿は少なくなっていた。再び相模湾・光る海を。車を駐めている「ひらつかタマ三郎漁港」の駐車場が近づいて来た。「須賀さんぽ!」案内板。寺社の案内。地図が詳細に。そして駐車場の車に戻り、訪ね漏らしていた事に気がついた「西町稲荷神社」に車で向かう。平塚市高浜台21−21。社号標石「正一位 稲荷山神社」。西町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大同年間(806-810)に弘法大師が相模国を巡錫、当地に滞在際に勧請したと伝えられ、文治元年(1185)頃には、僧鎮海が海詠山長楽寺を創建した際に稲荷大明神を再建し「稲荷山」と称したと。石造りの「一の鳥居」には「西町稲荷神社」と。「正一位 稲荷山神社御由緒社殿によると、今よりおよそ千二百年前、「僧空海(弘法大師)」が伊豆の国より布教のため須賀湊に上陸され、此の地に留まりし時に勧請せし」と言われ、よって当社の創建はこの時代と思われる。御祭神は、京都伏見稲荷大社と同じ「宇賀御魂命」で五穀を司る神である。その後真言宗僧鎮海師、大師の足跡を慕ってこの地に草庵を結び「邑中鎮護のため稲荷大明神再建ありし由、稲荷山と申し候」と言う記録があり、平塚市最古の稲荷社でもある。昭和二十年七月の戦災以前は、現在の所が小山の頂きにて、お稲荷様の社殿が建ち、形の良い磯馴松が点在する中に真赤な鳥居が五、六十基立ち並び参道を形作り、周囲の麦畑と調和して一幅の絵の様な美観であった。古老の話によれば、海上の漁船より稲荷山の松の木が展望され、陸地の目印とされていたと言う。古きより稲荷山のお稲荷さんと親しまれ、家内安全、海上安全、商売繁昌を祈願する善男善女の参拝者が後を絶たず、毎年四月二十九日に例大祭が行なわれる。」「二の鳥居」。その先に朱の鳥居が「社殿」に向かって15基以上並ぶ。「勲六等單光旭日章 記念植樹 敬神功労賞 記念植樹 金子長太」と後ろの建物が「神楽殿」。勾玉の石碑。「正一位西町稲荷神社」と。「神楽殿」を斜めから。「正一位 稲荷山神社」の「社殿」。扁額「稲荷山神社」。「社殿」を斜めから。社務所であろうか。反対側にあった「神楽殿」。扁額「神楽殿」。左に「昭和三十五年二月十一日 建之 二百二十一坪寄附者 米善本店 杉山茂殿」右に「御造営記念詩昭和五十六年四月吉日 御社殿一宇造営昭和五十七年十一月吉日 大鳥居建設昭和六十二年十二月吉日 社務所建設昭和六十三年十月吉日 神楽殿造営昭和六十三年十月吉日 おきつね像一対造営」と。ここにもどこからか移設されたような庚申塔他の石碑が。さらに、次に訪ねたのが「北向観世音菩薩」。平塚市札場町35−5。「百番 北向観世音菩薩」と。「百番観世音」碑。昭和二十一年四月建之とあり、4人の建立者名が刻まれていた。内陣には多くの千羽鶴が。百番観音というのは、須賀ではこれだけだが、平塚市内には何ヵ所かに石塔を見ることができると。百番というのは霊場めぐりの百ヵ所ということで、通常は西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所と秩父三十四ヵ所を合わせていう。3つの霊場巡りを含わせるとちょうど百になる。百番観音を建立することは、百ヵ所の霊場を廻ったのと同じ御利益があるとのこと。そしてこの日の最後の予定の「真福寺」にも向かう。途中、馬入本町五丁目の五丁目の旧家の横・「馬入の一里塚」の裏側の道沿いにも小さな神社があった。社殿。これも稲荷神社であろうか。そして、「真福寺」に到着。大きな「真福寺」の「山門」。両脇には白い3本の水平線が引かれた「築地塀」・「筋塀」が。平塚市馬入本町14−10。寺号標石「真宗 歸命山 真福寺」。歸命山無量院と号す。真福寺は、釈善秀(永禄2年1559年寂)が開山となり大永5年(1525)に創建。「馬入小学校創設之地」碑。「真福寺」は大永5年(1525) に開かれた 浄土真宗 東本願寺の寺。江戸時代に真福寺に寺小屋が開かれていたが、明治15年(1882) に本堂のうしろに馬入小学校が建てられた。後に松原小学校となり、現在はここから600mほど北に移転している。なお、相模川はかつて「馬入川」と呼ばれていた。東海道が相模川を渡る地点は 「馬入の渡し」と呼ばれており、現在でも 国道1号線に「馬入橋」という名前が残っている。平塚市内には「馬入」、「馬入本町」の地名も残っているのだ。石碑の裏側には、「昭和五十七年十月 松原小学校創設百周年 記念事業実行委員会第十八世 釈 秀雄」と。「平塚市指定重要文化財 絹本着色 親鸞聖人像 絹本着色 聖徳太子像 絹本着色 浄土七高僧像 絹本着色 蓮如上人像 四幅 平成七年一〇月二五日指定真福寺は、大永五年 (一五二五) に諸国行脚の僧釈善秀(しゃくぜんしゅう)が開いたと伝える市内唯一の浄土真宗の寺院です。同寺に伝来するこれらの画像は、その作風から善秀の在世期に遡る室町時代後期の作と推定されます。浄土真宗では、室町時代中期以降、本山の本願寺が中央集権的な勢力を強め、本堂に祀るものとして、浄土真宗の開祖である親鸞像や聖徳太子像・浄土七高僧像のほか、蓮如をはじめとする歴代門主像などの尊像を、本末の証として下付する方式を確立しました。このため浄土真宗の地方寺院には、中世までに下付されたこの種の尊像が残されている例が多く、真福寺が所蔵する四幅もその例といえるでしょう。 神奈川県内では真宗系のこの種の画像は数少なく、戦国期における真宗教団の実態を物語る資料的価値をも有しています。 平成九年三月 平塚市教育委員会」「山門」を正面から。「山門」には「真宗大谷派 真福寺」と。「東京教区 報恩講」開催案内。「本堂」。歸命院無量山真福寺と号す。本尊は阿弥陀如来像。関東大震災で本堂が全壊、昭和3年に再建、現本堂は平成12年に落成した。本堂内陣のご絵像は、平成7年に市の文化財に指定されている。見事な龍の彫刻。「木鼻」。本堂内陣。ズームして。「本堂」の「海老虹梁(えびこうりょう)」を横から。「木鼻」、「海老虹梁(えびこうりょう)」をズームして。先代の「本堂」の「主棟鬼飾り」が「本堂」の右手手前に。「帰命山」と。「寺務所・庫裡」。「五重石塔」。境内から「山門」を見る。駐車場の奥にあった「法楽殿」。客殿であろう。扁額「法楽殿」。「ネリネ」であろうか。南アフリカ原産 ヒガンバナ科。日光に当たるとキラキラと反射し、輝くような花弁から、別名「ダイヤモンド・リリー」の名前も有る と。そしてこの日の散策予定の、「東海道線」より南にあったを相模川沿いの寺社、遺蹟等の散策を終了し、国道1号に戻るが、「馬入橋」手前で大渋滞!!よって急遽、国道129号を戻り、海岸線の国道134号で帰路に。こちらは空いていたので、国道1号は直前の事故渋滞であったのだろうか。「トラスコ湘南大橋」に向かう。「トラスコ湘南大橋」を渡る。そして「柳島」交差点を左折。「新湘南バイパス」へ。「茅ヶ崎海岸料金所」を通過。そして「湘南ベルブリッジ」を通過。この先を左に行けば「圏央道」へ。私は直進して横浜方面へ。そして「茅ヶ崎料金所」を通過。前方に我市の「石名坂環境事業所」の煙突が姿を現した。「清掃事務所入口」交差点を左折し、進み帰宅したのであった。因みに、この日の歩数は22,314歩、久しぶりの2万歩超えであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.08
コメント(0)
この日は、12月6日(火)、山梨県内にある民間食品工場に、仕事で行って来ました。事務棟の受付にて、入室する前に「新型コロナウィルスCOVID-19抗原検査」を行ってくださいとのことで「新型コロナウィルスCOVID-19抗原検査」キットを渡され小部屋に入りました。「ALL TEST」と書かれたキット。袋の中には・テストプレート・唾液採取セット(紙パック、スポイト)・バッファ・説明書・廃棄用袋が入っていました。「抗原」:病原性のウイルスや細菌、花粉、卵、小麦などの生体に免疫応答を引き起こす物質。「抗体」:体内に入った抗原を体外へ排除するために作られる免疫グロブリンというタンパク質の 総称。「抗原定性検査の特徴」唾液試料を試料パッドに滴下すると、試料はパッド中の抗体やペプチドと共に判定部まで毛細管現象によって移動します。パッドには抗体およびペプチドが含まれます。試料中に抗原が存在する場合、抗体と抗原が反応して免疫複合体を形成します。この免疫複合体がラインTに含まれる抗SARS-CoV-2抗体に捕捉され、赤紫色のラインが現れ、陽性であることを示します。また、ペプチドはラインCの抗ペプチド抗体に捕捉されて赤紫色のラインを現し、試験が正常に行われたことを示します。「PCR検査、抗原検査、抗体検査」の違いは? 以下ネットから。PCR検査検査したいウイルスの遺伝子を専用の薬液を用いて増幅させ検出させる検査方法です。鼻や咽頭を拭って細胞を採取し、検査を行います。感染してから発症する数日前より検出可能とされています。主に体内にウイルスが検査時点で存在するかを調べるときに用います。感度は約70%程度と言われており、検体採取をした場所にウイルスが存在しなかった場合などは感染していた場合でも陰性となってしまう場合があります。そのため検査機関によってはウイルスを検出できなかったケースを「陰性」とはせず「検出せず」と表現する場合もあります。抗原検査検査したいウイルスの抗体を用いてウイルスが持つ特有のタンパク質(抗原)を検出する検査方法。PCR検査に比べ検出率は劣りますが、少ない時間で結果が出る、特別な検査機器を必要としないことから速やかに判断が必要な場合等に用いられることが多いです。みなさんが病院でインフルエンザの検査をするときはこの抗原検査を行っていることが多いです。抗原検査の中でも定性検査と定量検査という種類があります。抗体検査過去にそのウイルスに感染していたかを調べる検査です。ウイルスに感染すると形成されるタンパク質(抗体)が血液中に存在するかを調べます。体内に抗体ができるまでには時間がかかり、現在そのウイルスに感染していないことの検査に用いることは難しいとされています。ウイルスに感染した場合だけでなく、ワクチンを打ったことによって抗体ができた場合にも陽性となります。コチラの検査は自治体の公表する新型コロナウイルスの検査実施数にカウントされません。抗体検査の中でもIgMとIgGという検査があります。こちらがこの日に行った「抗原検査」の「テストプレート」。左のS部に検体の唾液をいれると、右側の表示部に検査結果が現われて来た。こちらが、抗体の入った「バッファ」容器。まずは説明書を読み、検査のスタート。まずは、1.唾液サンプルの採取。早朝に強いをしてから液の収集をお勧めです。紙パックに唾液を人れてください。スポイトでメモリラインまて採取してください。もし必要な量が足りないとき、1の採取手順を何回か繰り返して、唾液を採取してください.使用済みの紙パックを破棄専用の袋に人れてください。唾液量が少ないと、スポイトに空気が入り込み、上手く指定量が採取できないので、多めの唾液を紙パックに入れる必要があった。2.バッファの中に唾液を入れて、10秒間軽く振ってください。3.測定 テストトプ一トを出してから1時間以内に使用してくださ。出してからすぐに使用することに より検査精度が上がります。 テストプレートの検査窓に2滴のサンプルを垂らし、時間を計ってください。 15分経たったら、結果の確認をしてください。20分を超える場合は、検査結果が無効になります。そして私の検査結果。「T」の場所には赤紫色のラインは無く、「C」のラインにのみ赤紫色のラインが出て来ました。よって「この時点」では「陰性」であることが判明しました。少し、時間が経ち、乾燥してからの撮影となってしまったので、色が褪せてしまっていました。直後には、下記の様な感じでした。「ペイント」にて色を付けてみました。そして客先の担当の方に検査結果を示し、その後廃棄用袋に総てを入れて、客先担当者にお渡ししたのでした。そして、無事会議室に入れて頂き、この日の会議がスタートしたのです。5回のコロナワクチン接種完了の私ですが、初めての「新型コロナウィルスCOVID-19抗原検査」を経験しました。そして「抗原検査」について、いろいろと学んだのでした。この夏の市民病院での手術入院の前日にも、病院に唾液を届けたのですが、この時も上記の如き事前検査が行われていたことを理解したのでした。そして1日でも早く!!この日が来ることを!!いや、『after』は無理、『with』!! 【https://markezine.jp/article/detail/33333】より ・・・END・・・
2022.12.08
コメント(0)
この日は12月1日(木)、今年も我が地元の【六会イルミネーション2022】が開催されました。点灯式が17~18時に行われるとのことで、17時前に駅前のロータリーに到着。主催者の「六会地区郷土づくり推進会議」の皆様が、ろうそくに灯かりをともす『あかりびと』になり、約600本のキャンドルに点灯中であった。私も、チャッカマンをお借りし、点灯・『あかりびと』を手伝わせていただきました。コップの中の本物のロウソクに点灯するのですが、ロウソクの芯が立っておらず横に倒れているものもあり、一発での点灯はなかなか難しく、時間をかけると表面のロウソクが溶け出し芯を沈めてしまうようで私も苦戦。次回は芯を立ててコップ内に。しかし、皆様の懸命な『あかりびと』作業により何とか点灯式開始の17時には見事準備完了。この日の【六会イルミネーション2022】の案内書。バンブーキャンドル(竹灯籠)や絵をコップに巻きつけたキャンドホルダーにもロウソクが灯り準備完了。六会中学校の美術部の生徒の作品と。こちらは、亀井野保育園園児の作品であっただろうか。スイマセン、ややピンボケで。バンブーキャンドル(竹灯籠)に近づいて。二重のハート型の赤いキャンドルも時間とともに明るさを増して。近づいて。『キャンドルナイト 12月1日~3日、12月21日~23日』と。白と赤のキャンドルのコラボも美しかった。赤いキャンドルの炎が風に揺れて。そしてロータリー内の『六会イルミネーション』もカウントダウンにて見事に点灯。青と白のツリー型のイルミネーション。頂には星が輝く。藤沢市長もご来場下さり、ご挨拶を頂きました。そしてアンサンブルシャロームの皆さんのハンドベル演奏が。コロナの影響で2年間中止となっていたコンサート。赤のハートキャンドルも音楽に合わせて炎が踊っているが如し。廻り込んで。皆様マスク姿で演奏を。ズームして。これぞ『和の灯り』。デザインそして竹の伐採、ドリルによる穴あけ作業等のご苦労が偲ばれるのであった。そして感謝も!!近づいて。更に。大小の穴が、灯りの強弱を造り出し幻想的に。こちらはキャンドルホルダー作品。1個1個をズームして。我が部屋にも欲しい作品が並ぶ。これも。『ひまわり団』のピアノ・リコーダー演奏を横から。そしてデュオ・『おととき?』のフルート演奏。左のOさんの多芸に感動。これぞお血筋か。そして六会ウクレレバンドの演奏も。若い!!ウクレレバンドメンバー。そして藤沢工科高校制作によるロボット演奏のハンドベル演奏も順調に。ズームして。まだまだ、演奏や踊りが続くのであったが、この辺で引き上げることに。最後に、赤い二重ハートの灯り、そしてそこから拡がる赤と白の灯りのウェーブを観る。4時間程度は灯りを灯すことが可能なローソクなのであろうか。音楽が奏でられる中でのイルミネーション、手作りの灯り、この空間には地区の子供たちそしてご家族の笑顔の華が咲き、温もりと炎のゆらめきが拡がっていたのであった。この『六会イルミネーション2022』👈リンク の開催がここ六会に暮す人々に、故郷の「誇り」を抱いていただくこと。ここ六会に暮す人々の「希望の灯り」となること。この六会の地に暮す責任とこの地六会の豊かさに貢献する、「暮らし人」と なること。の一助になることを願い、そして主催者の『六会地区郷土作り推進会議』の皆様、関係者の『熱きハート』に感謝し、帰路についたのであった。 END
2022.12.07
コメント(0)
「須賀公園」の南側の出入口近くにあったのが「河井酔茗(かわい すいめい)文学碑」。平塚市夕陽ケ丘21。「平塚は新しい町だ。間違った伝統を重んじたり旧いものに因われたりしていない河井酔茗 「平塚たより」の一節」。「河井酔茗文学碑河井酔茗は、本名を又平とし、明治七年(一八七四)堺に生れる。幼時に両親・弟を失い、一六歳まで祖母に育てられ、一七歳の時、山田美妙に詩を認められ、以後一貫して近代詩の発展に尽くした。同三三年上京し、のち詩草社を起して自由詩運動のロ火を切る。大正二年(一九二二)家族の罹病を憂い、平塚に移る。平塚町の文学青年が発行する『湘南文芸』に毎号寄稿し、発展に寄与した。震災後、上京し、昭和三七年に芸術院会員となり、同四〇年病没。享年九二歳。昭和五三年に酔茗が居住した近くのこの地に「平塚たより」の一節を刻んだ文学碑が建立された。 平塚市観光協会」その先、左側にあったのが「平塚市立太洋中学校」。平塚市高浜台7−1。部活動の活躍実績が横断幕で報告されていた。「湘南 ひらつか たなばた 合流下水 マンホール蓋 高浜台」。こちらが「平塚市立太洋中学校」の正門。平塚市高浜台7−1。こちらにも、卒業生、現役生の活躍が。左手にあったのが「高浜公園」。平塚市高浜台1。「クロマツニ葉のマツの仲間で、名は幹が黒っぽいことから。オマツは雄マツでメマツ(アカマツ)とくらべて荒々しい感じがする意味。海岸地帯にはえます。(マツ科)」「クロマツ」を見上げる。高浜台地区周辺の「広域避難場所案内板」。現在位置。「高浜公園前」交差点の角にあったのが「有島武郎由縁(ゆえん)の地」碑。平塚市高浜台1−1。「有島武郎由縁の地」碑。「有島武郎夫妻由縁の家有島武郎の著作集を見ると、夫人安子が大正四年(一九一五)か五年にかけて杏雲堂平塚病院の別棟病室に在ったことが載っている。その間武郎は病妻のために、愛情を傾けつつ詩作品を書きつづけた。「平凡人の手紙」「死とその前後」をはじめ感想、日記、書翰などかなりの量である。また、病床の夫人には「松蟲」に著がある。「召し給ふ星のまたたく遠方へ いざわれ行かん君と別れて」は夫人が武郎に贈った絶詠である。 平塚市観光協会」「松蟲」とは現在の「鈴虫」とのこと。「高浜公園」内にあったオブジェ。1993年に開催された「湘南ひらつか野外彫刻展」に出品された作品とのこと。「ナミトカゼノオトコ 島田憲一」と。高浜公園内には「高山樗牛碑」も立っていた。「HOPE高山樗牛碑、八十三翁 河合亀太郎謹書。明治三十五年十月廿五日 樗牛 高山林次郎博士は平塚海岸 杏雲堂に入院した。病室には姉崎嘲風氏がロンドンから送ってきた、G. F. wattsの作画"希望"の写真が飾られていた。額縁は薬局長河合亀太郎氏が特に贈ったものである。それには樗牛の自筆でHOPEの文字がしたためられていた。この年十二月二十四日樗牛は三十二才で ここに終った。昭和三十四年春 平塚市長 戸川貞雄 識」「高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は林次郎といい 山形縣鶴岡の人でした。ゆたかな学識とすぐれた思想と 美しい文章とをもって 明治文壇に不滅の足跡を印し 随筆わが袖の記 小説瀧口入道は いまなお 多くの人たちに愛讀されています。樗牛は 明治丗三年 文部省から美學の研究のため ヨーロッパに遊學を命ぜられましたが病にかかり たびたび平塚海岸の杏雲堂に 診察をもとめ 渡欧の日を夢みつつ 療養に専念しました。院長佐々木政吉副院長佐々木森男両氏は 樗牛のために 懇篤な治療の方法を講じ彼もまた 再起を期しつつあったのです 明治三十五年もおしつまった十二月廿四日 平塚の浜にうちよせる 波の音に耳かたむけながら 砂浜の病棟で 不帰の人となりました。」」「扇松海岸通り」を海岸に向かってさらに進む。右手にあったのが「高山樗牛遺蹟」碑。平塚市袖ケ浜17−17。「高山樗牛遺蹟」碑。築180年の古民家を改装した店。高山樗牛が一時平塚の旅館に間借りして住んでいたこともあるようで、その旅館がここと。店の名は??「扇松海岸通り」から見る。その先にあったのが「扇の松」。平塚市袖ケ浜12−29。「扇松海岸通り」を歩いていると、突然と現れる大きな大きな黒松。商店街を突き破るように、豪快にただ1本生えているその姿はなかなかの迫力が。通りの端から端までを覆うような立派な枝ぶりで、この通りを通る人は自然とこの松をくぐって進むこととなり、思わず仰いでしまうほど。「平塚市保全樹木●くろまつ●指定第十四号●昭十一年七月一日 平塚市扇松の由来明治の著名人後藤象次郎平塚海岸に住み舍をニ扇庵と称し戯れて歌を作して言くわが庵は扇の松にほどちかく富士の高嶺を軒端にぞ見るこのこと剪燈雑誌といへるに載れりと云。明治ニ十年頃のことなり。扇松のことその頃すでに言い伝えしものの如し平塚名物松ぼっくり本舗小清水 嘉」更に海岸に向かって進むと左にあったのが「袖ヶ浜児童広場」。平塚市袖ケ浜8−8。そして前方に「国道134号」が見えて来た。交通量は比較的少なく。防砂林の管理ナンバー「平塚市袖ケ浜 N-59」。そして国道134号を渡り砂浜・「袖ヶ浜」に出る。沖には「平塚沖総合実験タワー(平塚タワー)」が見えた。ズームして。「平塚総合海洋実験場の設備」。●平塚沖総合実験タワー及び観測設備 ・海象観測:波浪、水位、水温、流れ、音響 ・気象観測:風、気圧、気温,湿度,雨量 ・ライブカメラ●通信設備 ・海底ケーブル(電力,通信) ・無線LAN●陸上設備(神奈川県平塚市虹ヶ浜9-1) ・観測データの管理及び解析装置 ・研究室、会議室●通船(ひらつかタマ三郎漁港)「虹ケ浜海岸」越しに「大磯港」方面を見る。反対側には三浦半島の姿が。大磯方面に少し歩くと休憩所の近くにあった石碑には「平塚八景 平塚砂丘の夕映え」と。近づいて。「平塚八景 平塚砂丘の夕映え相模湾の中央に位置する平塚市の海岸は、東の相模川から西の花水川まで、4キロメートルほどである。相模湾の沿岸に発達した湘南砂丘は、相模川以西から平塚砂丘となっている。海岸線を東西に走る平塚砂丘に立つと、三浦半島、伊豆半島そして大島が眺められる。ことに雄大な箱根連山に沈む夕日に映しだされた海岸の美しさは、昔から絶景とされている。」この周辺は、平塚砂丘の夕映えのスポットになっているのだ。この場所からの夕焼けと富士山の姿をネットの写真から。 【https://www.hiratsuka-kankou.com/spot/sakyu.html】ここまでとし、引き返しながら三浦半島方向をズームして。この時は比較的、波は荒く。砂山は雨の流れで崩れて。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク海水浴場」の沖の防波堤には波が打ち付けて。「湘南ベルマーレひらつかビーチパーク海水浴場」には人の姿は少なかった。伊豆半島の山々の姿も見えた。雲間から射す陽光に相模湾の水面が輝く。前方に見えて来たのが「湘南ひらつかビーチパーク 津波避難展望台」。この施設は、地震時に発生する津波から一時避難するための鉄骨造2階建て建物であり、避難階の高さは海抜12.12m、収容人数は約360人を想定していると。平塚市高浜台33。2千年から3千年若しくはそれ以上と発生頻度は極めて低い「元禄関東地震と国府津-松田断層帯の連動地震」がもたらせると想定されている最大津波(標高9.6m)を対象に設計を行っているとのこと。再び相模湾・「光る海」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.07
コメント(0)
「テラスモール湘南」の1階を見る。2014年のノーベル物理学賞は、高効率青色発光ダイオード(LED)を発明した赤﨑勇終身教授、天野浩教授、中村修二教授の3氏に贈られた。LEDは、1960年代に赤色や黄緑色が開発されたが、青色は実用化が困難で「20世紀中の実現は不可能」とさえ言われていた。そうした中、赤﨑教授、天野教授、中村教授は1980年代から90年代にかけ、世界中の研究者が諦めていた窒化ガリウム(GaN)の高品質単結晶化やp型化などに取り組み、青色LEDの開発・実用化に成功したのだ。青色LEDが発明されたことによって実現できるようになった色の代表は「白」です。光の三原色、赤、青、緑を混ぜることでできる「白」の実現に青は必須の色です。よって現在、広く使われるようになった白い光のLEDも、青色LEDの発明なしには実現できなかったと言えます。LED照明は、従来の白熱灯に比べて消費電力は格段に小さく、寿命も長いです。こうした特徴から、現代の生活には欠かせないスマートフォンなど携帯電話のバックライトにも使用されています。現在のスマホの小型・軽量化は、青色LEDの発明があったからこそ可能となったものです。また、街中で見かける信号や道路交通表示板、屋外ビジョンなどにもLEDは使用されています。以下は説明文無しで、青い世界をお楽しみ下さい。エスカレーターであがり2Fデッキから。そして2階デッキから辻堂駅方面に向かい、振り返って。青の世界を十二分に堪能し、茅ヶ崎駅に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.06
コメント(0)
全58件 (58件中 1-50件目)