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「古代蓮会館」の「展望タワー」を降りて、駐車場方向に進む。左手にあったのがフードコート「ゼリーフライむらまつ」と「古代蓮うどん店」そして「古代蓮の里 売店」。「行田ゼリーフライ 名前の由来ゼリーフライは100年以上の歴史があります。形が小判型で銭(ゼニ)に似ていることからゼニフライがゼリーフライに訛ったと言われていますが、詳しくは分かっていません。行田では長く市民に愛されていて、小中学校の給食に登場しています。オカラはヘルシータンパク質・食物繊維・ミネラル・レシチン・リノール酸を豊富に含み、低カロリー高蛋白で生活習慣病を引き起こす原因となる肥満を防ぐのに最適な食品です。ゼリーフライのレシピ材料:じゃがいも・おから・にんじんじゃがいもを茹でて、おから、ねぎ、にんじんのみじん切りを混ぜ合わせ、小判型に整え油で揚げてソースに潜らせ出来上がり!」そして東側の「世界の蓮」を最後に訪ねた。花が見つからなかった「千弁蓮」。写真をネットから。全体的にピンク色の花弁で、中央部は濃い紅。花弁の枚数がなんと1000枚を超えると言われます。綺麗に開花するには、人が花弁を開いてあげる手助けが必要な蓮とのこと。それにしても花びらの数が凄い!!「千弁蓮花弁数2000 ~ 3500枚。千弁咲、花径24 ~26cm。花色は桃色から紫紅色。」 。「青菱紅蓮(あおびしこうれん)」。「青菱紅蓮花弁数15 ~ 17枚の一重咲種。花色は紫紅色。」「カスピカム」。「カスピカム花弁数23 ~ 25枚、一重咲種。花径は24~ 26cmと大型。花色はやや濃い紅色。ロシアの蓮。」プーチンに見せたい花!!「ヴァージニア蓮」。蕾も。「ヴァージニア蓮花弁数22 ~ 26枚、花径14 ~ 20cmの中・小型のキバナバス系の一重咲種。花色は濃い黄色。」「小舞妃蓮(しょうまいひれん)」。「小舞妃蓮花弁数16 ~ 18枚、花径18 ~ 20cmの一重咲種。花色は淡黄色で弁先は紫紅色。」「西湖蓮(さいこれん)」。「西湖蓮花弁数100 ~ 120枚前後の白の八重咲種。外弁は幅が広く少し帯緑色。花径は18 ~ 20cm。」「輪王蓮(りんのうれん)」。「輪王蓮花弁数16 ~ 20枚。花色は、全般に白が優先し、そこに淡黄色が入る。花弁の基部は黄色。」「紅万々(こうまんまん)」。「紅万々花弁数100 ~ 120枚、花径27 ~ 30cmの大型の八重咲種。花色は鮮やかな赤色。」「剣舞蓮(けんまいれん)」。「剣舞蓮花弁数18 ~ 20枚の一重咲種。花径は大型で、花色は白に近い黄白色。」「漢蓮(かんれん)」。「漢蓮花弁数50 ~ 100枚の白の八重咲種。花径3 ~ 8cmと小さく、わが国最小の品種」展望タワー。東側の「世界の花蓮」案内板。「中国古代蓮(ちゅうごくこだいはす)」。「中国古代蓮花弁数24 ~ 26枚の一重咲種。花弁はやや細く、花色はピンクで、条線は不鮮明。」「世界の蓮園」の北側には歌碑が。「蓮の故郷👈リンク作詞 作曲 小林亜星歌 ダークダックス一、水の故郷行田の池に 夏が来たよと告げるように 夏が来たよと告げるように 朝の光に誘われて 神秘の蓮が開きます 二千年もの刻を越えて 尊い生命が今甦る あでやかに 気高く 美しくニ、古代の蓮が咲く瞬間に 心の耳に花の開く 幽(かす)かな音を聴くと言う ほら聞こえたね またひとつ 遠い昔の夢の記憶 永遠に変わらない愛の造形 華やかに 優しく 活き活きと三、たとえこの世に憂いがあって 雨に瞼が濡れていても 何時か咲かそう大輪の 華を見事に1人づつ 何故か知ってるはるか昔 恋する二人が歌った歌は 今ここに 咲いてる 蓮の歌」「歌碑の由来このうた「蓮の故郷」はダークダックスの「ゲタさん」こと喜早 哲(きそう てつ)さんが平成12年7月古代蓮の里を訪れた際、行田蓮の美しさに感動し、友人であり作曲家の小林亜星さんに作詞作曲を依頼して作られたものです。平成14年7月吉日」さらに「世界の蓮園」をカメラで追う。「白万々(はくまんまん)」。「白万々花弁数100 ~ 120枚の八重咲種。花色は蕾から開花直前頃までは緑色を帯びているが、開花後は純白となる。」「西光寺白蓮(さいこうじびゃくれん)」「西光寺白蓮花弁数20~26枚の一重咲種。花色は純白で外弁はわずかに緑色を帯びている。」大阪府和泉市の西光寺に伝えられている白蓮であると。「真如蓮(しんにょれん)」「真如蓮花弁数18~24枚の一重咲種。花色は白で外弁は常緑色を呈する。」花容は気品があり白蓮の貴公子と呼ばれている。江戸時代から伝わる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.07.31
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「10万株の行田蓮」を楽しんだ後にさらに進む。左手にあった売店。「はすの実 甘納豆」や「蓮の実」が販売されていた。「蓮の実」がサクサク美味しいスナック菓子に大変身!そしてその先にあったのが「蓮シャワー」。「古代蓮会館」に入館すると「蓮シャワーつくり体験」が出来ると。蓮の葉の3茎を途中で切り取り、そこに水道のホースをつないで下から水を送っていた。葉は、そのままでは水が噴き出さないので、周辺を数センチ切り取って血管のような葉脈を露出させ、そこから放射状に水が噴射するようにしていたのであった。葉の周囲と中央から。葉脈をあまり露出させない(葉っぱをあまり切らない)と何もしなくても中央からのミスト仕様にすることができるようであった。葉の裏側の葉脈の末端付近の薄皮が膨らんだ場所も。「日本遺産 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち 行田行田市の日本遺産ストーリー平成29年4月28日、埼玉古境群、忍城跡、行田足袋、足袋蔵など行田市の歴史・文化の魅力をまとめたストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が、埼玉県内初の日本遺産に認定されました。そのストーリーの概要は、次の通りです。忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時析ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等史的建集物が残り、趣きある景観を形づくっている。」更に東方向に進んで行くと、巨大な「田んぼアート」が姿を現した。「古代蓮の里」の東側敷地沿いの道路の先に拡がった「田んぼアート」。地上からは、何が描かれているのかは???ズームして。そして引き返して「古代蓮会館」の「50m展望タワー」に向かう。「古代蓮会館(展望タワー)入口」案内板。「古代蓮会館(展望タワー)入口」。エレベーターで展望台に上って。今年の田んぼアートは映画『翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜』のコラボレーションデザインとのこと。『翔んで埼玉』は『パタリロ』の魔夜峰央氏が1982年に発表した同名漫画を実写映画化したもの。原作は、2015年に『このマンガがすごい!comics 翔んで埼玉』(宝島社)として30年ぶりに単行本として復刊されたことをきっかけに、テレビ番組、SNS、インターネットなどのメディアで多数取り上げられ、反響を呼んだのだと。GACKT(麻実 麗 役)。『翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜』二階堂ふみ(壇ノ浦百美 役)そして「水生植物園」を見下ろす。「水生植物園」の先、北側には「オニバスの池」が見えた。「オニバスの池」に咲く「オニバス」(鬼蓮?)は「スイレン科」1属1種の一年草の珍しい植物で、数百年万前の第三世紀(「鮮新世」と言われる時期?)頃はヨーロッパ大陸から」アジア大陸に分布していたようですが、その後ほとんど見られなくなってしまい(絶滅に近い状態?)、残っているものは長い歴史を生き延びてきた貴重な「遺存植物」で環境省レッドデータの「絶滅危惧1A類」となっているとのこと。「オニバス」の写真をネットから。8月上旬にここ行田市「古代蓮の里」で咲く珍しい花「オニバス」の写真をこれもネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.07.30
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更に、「水生植物園」の池の奥の道を古代蓮を楽しみながら散策する。前の翅の先端だけが透明、そして金属光沢の強い緑青色の幅広い翅であることから「チョウトンボ(蝶蜻蛉)」であっただろうか。「チョウトンボ」は飛行の際の飛び方が通常のトンボようにキビキビとしたものでなく、まるで蝶のようにヒラヒラと飛ぶという特徴を持つ事から「蝶蜻蛉(チョウトンボ)」と名付けられたのだと。チョウトンボは蝶のような特徴的な飛行の他にも、美しく輝く翅も特徴のひとつとなっており、多くの蝶のようなほぼ透明とは言えないハッキリと色のついた翅を持つ。また、後ろ翅の方がかなり広いという事も特徴のひとつで後ろ翅の方がより広範囲に色がついているのであった。再び「甲斐姫」。ここにも「甲斐姫(かいひめ)」案内板。更に「行田蓮・古代蓮」を追う。絶滅したと考えられていた植物がこのような土木工事をきっかけに発芽したという例は、埼玉県加須市(旧北川辺町)のオニバスがある と。古代蓮の里は24時間入園可能で、花の時期には早朝から多くの人が訪れるのだ。早起きは三文の(徳)!!、美しいハスの花を楽しむことが出来たのであった。再び「古代蓮会館」の「50m展望タワー」を。「50m展望タワー」と「古代蓮」のコラボ。少しずつズームして。青空に浮かぶ古代蓮。真っ青な快晴よりも雲が出ている青空のほうが面白い!?こちらは開花前と開花後のコラボ。6月中旬から8月上旬の約2ヶ月の間、公園の蓮池には42種類、約12万株の花蓮が一面咲き誇る光景は圧巻!!水面から1.5~2mに咲く古代蓮。花言葉は「清らかな心」「神聖」「沈着」「雄弁」。堂々と咲き誇る蓮の花にぴったりな花言葉。この蓮の葉が丸まっている理由は?水分が不足していると、葉の乾燥が進んでしまい葉が丸まくなる現象が発生すると聞いたことがあるが・・・。葉を丸めることで日に当たる面積をなるべく狭め、ダメージを軽減するためとされているが・・、植物から発せられる重要なSOSのサインなのだと・・・。水の豊富な場所に生きる蓮の葉も同様なのか?それとも、夜は丸まる?そして寝坊している?観光客・カメラマンの数も多かったが、被写体が多いので、さほど混雑しているとは感じなかったのであった。水面の映る古代蓮。古代の浪漫と美しさをゆっくりと感じることが出来たのであった。「古代蓮」と「水滴」のコラボ。少しずつズームして。一番低いであろう葉の中心ではなく、手前に留まっている水滴の不思議!!「行田蓮(古代蓮)」案内板がここにも。これは、オオスズメバチの嬢王蜂の捕獲トラップであろう。小川の清き流れ。キノコも。キノコの名前は(多分)オオシロカラカサタケ。 食べると嘔吐、下痢、腹痛などの症状が出るそうで、毒素が強く本当にアブナイキノコだと!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・パークホテルさかい
2023.07.29
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西側の「古代蓮池」を後にして、「水生植物園」に向かう。「古代蓮の里この植物園で見られる水生植物」ここにも「古代蓮の里」案内図が。5700m2を有する水生植物園内の「行田蓮・古代蓮」。「甲斐姫」は、平成22年に追加したと。蕾のうちは「古代蓮」に似た色合いであるが。開花すると花色は、中間の黄紅色。甲斐姫の蓮は行田蓮と米国産のアメリカ黄蓮の2種類を掛け合わせた新品種。花びらは18~22枚の一重咲きで、花茎は22~25cmの大型の蓮。葉の緑の波は行田蓮に、花柄はアメリカ黄蓮の特徴がでている と。「甲斐姫」とは、行田市内に構えた城「忍城」の城主、成田氏長(なりたうじなが)の娘。1590年に石田三成軍が忍城に攻め入った際は、城を守るため奮闘したという勇ましい姫 と。その姫にちなんで蓮にこの名前がつけられた と。「甲斐姫(かいひめ)【特徴】花色は、行田蓮の紅色とアメリカ黃蓮(きばす)の中間の黃紅色(おうこうしょく)、それぞれの品種の特徴が表れている。葉の縁の波は行田蓮(母親)に似ており、葉色も緑が濃く生育も旺盛である。花弁数は、18~22枚の一重咲き、花径は22~25cmの大花型。花柄と葉柄のとげは、黒の斑点で黄連の特徴がでている。また、開花前の蕾はは外弁の縁に濃い紅色があり、開花すると色が薄れ、薄い黄色になる。」小さな魚の姿を発見。そして「スイレン・睡蓮」の花も。赤のスイレン。水面に映るスイレンの姿。白のスイレンも可憐に。「スイレンスイレンは英名でWater lilyと呼ばれ、温帯地帯から熱帯地方まで広く分布している。スイレン科は7属から構成される。品種としては約100種類くらい。まら浮き葉はさほど水面を高く出る事はなく、花は水面で咲く。」そして「コウホネ」。鮮やかな黄色の花。「コウホネ池や沼、溝や小川等の比較的浅い場所に生える。深い沼では浮葉植物となる場合があり、流水域では沈水葉だけの群落も見られる。根は水底の泥の中を横にはい、海綿質で太い。これが骨の様にみえるのでこの名がある。」そしてこの花が「アサザ」。この日は花が見つからなかったのでネットから。現地の「案内板」「アサザ6 ~ 8月の間に美しい黄花をつける。名前の由来は、水深の浅い所に生えるという意味の「浅々菜」が転じたものという。ジュンサイと同様に茎と新芽を食用とするため、花ジュンサイとも呼ばれる。」再び「行田蓮・古代蓮」を追う。「行田蓮(古代蓮)古代蓮は、昭和46年に公共施設工事の際、地中の種子が自然発芽、開花したものです。花弁数が1 3 ~ 1 8枚で一重咲種。原始的な形態を持つ1 4 0 0年~ 3 0 0 0年前の蓮といわれています。」雄しべには虫が。行田蓮(古代蓮)の葉の上の水滴。以前にも書いたがハスの葉に水がかかると、水は葉の上で丸い水滴となりコロコロと流れて行く。これはハスの葉の表面に超微細な突起物があるから。そのサイズは数マイクロメートル程度。1マイクロメートルは、およそ0.001ミリメートル。日本人の髪の毛の太さは0.08ミリメートルなので、とても小さいことが分かる。この突起物がクッションとなって水滴を支え、撥水効果を生んでいるのだ。さらに、ハスの突起物の先端には水に溶けにくいワックスがついている。突起物の凹凸とワックス、この2つの相乗効果で、泥水が気孔に侵入するのを防ぎ、高い撥水性を実現しているのだ。こうした撥水効果を、ハスの英語名称(Lotus)から「ロータス効果」と呼ぶのだと。そして再び展望タワーを見る。「ホタルの川」。5月に古代蓮の里園内にあるホタルの川に放流したホタルの幼虫が成長し、6月中旬頃には飛び交うのだと。ホタルは風のない夜、20:00の前後30分くらいに飛ぶといわれていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.28
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西側の「世界の蓮園」を一旦後にして、「見晴らしの丘」の東側を「古代蓮池」に向かって進む。林道横には、小川が流れていた。林の先に蓮池が姿を現した。そして正面に「古代蓮池」。「古代蓮池」の手前西側にあったのが花の終わった「ぼたん園」。「花の交流このぼたん園に植えられているぼたんは、東松山市の「ぼたん」と本市の「行田蓮」との「花の交流」として平成24年度東松山市より寄贈されたものです。ぼたんの”花言葉”は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」「壮麗」」。花の終わった「ぼたん園」を見る。「古代蓮池」に架かる木道上から「行田蓮」を楽しむ。6月中旬から8月上旬にかけ42種類12万株の花蓮が蓮池一面に咲くのだ。花弁の数が少ない原始的な形態を持つ行田蓮(古代蓮)は、約1400〜3000年前の蓮であると言われている。花蓮はもちろん午前中が見頃。高さ50mの「展望タワー」を背景に。蓮池の水面から花茎が立ち上がっている様子をイメージした形なのであろう。展望室からは古代蓮の里の蓮池や田んぼアートの他、富士山や関東平野を取り囲む山並みを一望できると。蓮の花は開花時に「ポン」と音がするというが、未だ聞いたことがないが・・・・??行田市指定天然記念物 行田蓮(古代蓮)。古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見された。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれていた。古代蓮の里では、自生地から移植した古代蓮を育てており、可憐な古えの花を大いに楽しめるのだ。奇跡の再生今から約2000年前、「古代蓮の里」一帯は、たくさんの水生植物が茂る湿地帯であった。そこには、蓮の花も咲いていた。そのとき咲いていた蓮の実が地中深くもぐり、ふたたびあたたかい陽射しをあびるまでの長い長い眠りについていたのた。1971年(昭和46年)市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事を始めた。掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのだ。1973年(昭和48年)池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見された。その後、葉の数も増え続け、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのだ。5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。6月23日 花柄が1本見つかる。7月13日 開花7月19日 花の数は合計52本となる。市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。1974年(昭和49年)3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼したが、期待したような結果を得ることはできなかった。1975年(昭和50年)4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行った。2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果であった。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定している とのこと。よって、原始的な形態を持つ1400年~3000年前の蓮(ハス)・「古代蓮・行田蓮」。展望タワーをズームして。既に役割を終えて花托に。古代蓮池(東) 3,200m2古代蓮池(西) 1,800m2「行田蓮・古代蓮」は、他の蓮に比べると花びらの数が少なく(17~18枚前後)、花びらの色はやや濃い紅色をしている。花径(花の大きさ)は25~28cm程度。原始的な形態を今に残す蓮。ズームして。■花托 花の中央にある薄緑色の部分は、すこしふわふわっとしていて花托(かたく)と 呼ばれているところ。 花托とは花床(かしょう)ともいいます。■雌しべ 花托の表面に見える丸いぽちぽちが、ハスの花の雌しべです。■雄しべ 外側のオレンジ色のひらひらとしているのが、ハスの花の雄しべです。 特に花托と雌しべの形はユニークでおもしろいです。 また、雄しべが短かく雌しべに届かないので、自家受粉ができないようです。 なので、虫たちにお願いしているのです」。 受粉が成功したら、雌しべの黄色のところは、茶色へと変わっていきます。さらに古代蓮をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.27
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「一天四海(いってんしかい)」。斑蓮系統大型 一重花弁の表と裏では紋の形が異なる。一天四海とは、全世界を意味する。「一天四海花弁数は15枚~18枚の一重咲種。花色はやや黄色味のある白色の縁に紫紅色の不規則な帯状の紋が入る斑蓮。」「舞妃蓮(まいひれん)」黄蓮系統の王子蓮と大賀蓮との交雑品種。1966年阪本祐二氏作出。黄紅蓮系統大型 一重花托(かたく)。蜂の巣のような部分を花托という。花托ごとに蓮の実の数は違うのだが、これは24個。「舞妃蓮(まいひれん)花弁数は20~25枚の一重咲種。花色は淡黄色のボカシに淡紅色が入る。「碧台蓮(へきだいれん)」。白蓮系統普通 八重「碧」の字は「みどり」とも読める通り、花弁に緑色が入る。「碧台蓮花弁数は100枚~120枚の八重咲種花色は白色でやや緑色を帯びている。」「瑞光蓮(ずいこうれん)」。爪紅蓮系統普通 一重江戸時代後期、老中を引退した松平定信自ら描いた「池のにしき」に図版と解説があり、当時観賞されていた古今の銘品。「瑞光蓮花弁数は14~18枚の一重咲種。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初日はピンク色が比較的濃く、その後後退し白粉の様な白さとなる。」「酔妃蓮(すいひれん)」爪紅蓮系統大型 一重酒で酔って、頬を染めている妃から名前が来ている と。「酔妃蓮花弁数20枚前後の一重咲種。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初期は全体にピンク色をしているが次第に白となり、先端だけピンク色が残る。」「白万々(はくまんまん)」。白蓮系統大型 八重江戸時代から伝わる。蕾。「白万々花弁数は100~120枚の八重咲種。花弁は蕾から開花直前頃までは緑色を帯びているが、開花後は純白となる。」「毎葉蓮(まいようれん)」。各立葉毎に花をつけるほど花つきが良いことからこの名がつけられた。江戸時代から伝わる。条線が鮮明。「毎葉蓮花弁数20枚前後の一重咲種。花色は濃いピンク色で条線は鮮明。」「瑞光蓮(ずいこうれん)」。爪紅蓮系統普通 一重「瑞光蓮花弁数は14~18枚の一重八重咲。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初日はピンク色が比較的濃く、その後後退し白粉の様な白さとなる。「原始蓮(げんしはす)」。紅蓮系統大型 一重大賀一郎博士が原始的な蓮として命名した。大阪府指定天然記念物。「原始蓮花弁数は25枚前後一重咲種。花色は濃いピンクで退色が早く花弁基部近くは白くなり条線は鮮明。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.26
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この日は7月7日(金)、テレビのニュースで埼玉県行田市にある「古代蓮の里」で蓮の花が満開を迎え、多くの来園者で賑わっていることを知り、下の姉夫婦を誘って我が愛車で訪ねたのであった。蓮の花の鑑賞は、朝早くが良いとのことで、自宅を早朝6時に出発。姉夫婦を乗せ、ひたすら「圏央道」を走り、「狭山PA」でトイレ休憩。八王子JCTからに鶴ヶ島JCT向かって最初で唯一のPA。周辺で栽培される狭山茶商品が充実。弓削多醤油などの地元特産品を豊富に取りそろえているのであった。駐車場には大型トラックが駐車場を争うが如くに所狭しと停まっていた。「圏央道」は都心をただ通過するだけの、大型運送トラックを中心とした交通を排除し、また、都心近郊の交通を適切に分散化することにより、首都圏の交通混雑を緩和するために設置された有料高速道路なのであるが。そして「圏央道」の「桶川加納IC」から一般道国道17号を進む。そして、埼玉県道148号線、364号線を利用して、「古代蓮の里」駐車場に到着。時間は8:40。 埼玉県行田市小針2375。「行田市 古代蓮の里」の2023年のポスター。「開花期間 6月24日(土)~8月6日(日)」と。「花はいつ咲くの?花蓮の開花は4日間です。日の出と共に花が咲きはじめ、午前中には花が閉じてしまいます.当園では午前7時から午前9時の問のこ観賞をおすすめしております。」「古代蓮会館 案内展示室 行田の自然や古代蓮を中心に、ジオラマや映像などの展示を通じて 楽しみながら学習できます。 ・行田の自然ジオラマ展示室 ・蓮の観察コーナー ・古代運のレプリカ展示 ・蓮の文化誌コーナー ・大画面映像コーナー展望室 高さ50mの展望室は、行田の自然環境や関東平野を取り国む山並み などの大パノラマを楽しむことができます。天気がよい時は東京都内まで 見渡すことができます。」古代蓮会館入館料 大人(高校生以上) 400円/人 小人(小・中学生) 200円/人」「行田蓮(古代蓮)行田の地で眠りから覚めた「行田蓮』花ひとつひとつの神秘的な美しさと、潔さに感動行田市の天然記念物に指定されている「行田蓮」(古代蓮)は原始的な形熊を持つ1400年~3000年前の蓮であると言われています。古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されました。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれています。古代蓮の里では、行田市のシンボルともなっている古代蓮を育てており、可憐な古えの花をお楽しみいただいております。6月中旬から8月上旬にかけて濃いピンクの花が、蓮池一面に咲きます。蓮の花は午前中が見頃です。」「蓮の花の命( 4日間)①1日目 開花初日は午前6時頃から花弁が開きはじめ、3 ~ 40crnほど 開いたのち、8時頃にはつぼみの状態に戻ります。②2日目 午前7 ~ 9時頃には満開になります。花は最も美しい時を迎え、 優しい香りが漂います。そしてまた、つぼみの状態に戻ります。③3日目 2日目と同じ経過をたどり、最大に開きます。受粉しためしべは 黒っぽく変化し、花の色が退色します。 昼頃には閉じ始め、閉じかけたまま夜を迎えます。④4日目 7時頃には完全に開きます。早いものでは8時頃から散り始め、 昼には全ての花弁が散っています。パンフの右側には「~42種 花蓮一覧~」の写真が紹介されていた。「園内のご案内公園の面積は14ヘクタール。樹木や水生植物、草花など自然がいつぱいです。大人から子どもまで、1日楽しく週ごせる「古代蓮の里」は、蓮の花のシーズンはもちろん、四季を通して楽しめる見どころ満載の公園です。」周囲が護岸された整形な池になっている「世界の蓮園」。名称の通りハスの種類がとても多く、開花時期のこの日は、はかなりの見ごたえであった。その奥には、古代蓮会館の50mの展望タワーが聳えていた。手前の「世界の蓮園」を巡る。最初に「姫蓮(ひめはす)」。紅蓮系統一重 比較的小型。花つきが良い。この花びらに縦に入った赤い線は「条線」とよばれるもので、これは、蓮によって、あるものとないものがあるが、この蓮は特に条線のきれいな蓮で、濃いピンク色。日によっては白い地にはなびらの先が赤く染まり、綺麗な条線がくっきり見えることもあり、さわやかな咲き方をする蓮である と。「姫蓮花弁数は14~18枚の一重咲き種。花色は濃いピンクで条線は鮮明。」そして「即非蓮(そくひれん)」。即非は隠元の高弟で、隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺の中興開山となり、黄檗山萬福寺で、隠元をたすけ、さらに小倉藩主の小笠原忠真の依頼で福聚寺(ふくじゅじ)を開創しました。そして 遂に故国に帰ることなく、日本に骨を埋めました。即非が伝えた蓮が即非蓮です。条線もはっきり見える品種。「即非蓮花弁数20枚前後の一重咲き種花色は桃色で条線は鮮明。」「魚山紅蓮(ぎょざんこうれん)」条線が鮮明。「魚山紅蓮(ぎょざんこうれん)花弁数は 15枚前後で花色は桃色で条線は鮮明。漁山は声明(しょうみょう 僧が仏の徳をたたえて節をつけて唱える)の起源地として伝説に残る中国の地。」白い花は「王子蓮(おうじばす)」黄紅蓮系統大型 一重アメリカ産の王子蓮(黄蓮系統)と東洋産の紅蓮系統との交雑品種。「王子蓮花弁数24~26枚の一重咲種。花色は淡黄のクリーム色」「明光蓮(めいこうれん)」。1971年阪本祐二氏作出。紅蓮系統普通 一重。蜀紅蓮と舞妃蓮の交雑品種。「明光蓮花弁数は16~20枚の一重咲種花色は濃いピンクで、花弁基部にわずかに黄色が見られ退色は遅く、3~4日目に淡いピンク色となる。」そして「大賀蓮(おおがはす)」。大賀一郎博士が発掘した実より咲いた花。千葉県指定天然記念物。昭和26(1951)年3月30日に1個、4月6日に2個のハスの実が、千葉県検見川の東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)だった泥炭地で、大賀一郎博士と地元小中学生らによって発掘されました。なんとこの実は約2000年前(縄文時代)のものと鑑定された。そして、このうちの1個の実が、翌年の昭和27(1952)年7月18日に見事に花を咲かせ、2000年の眠りから目を覚ましたのだ と。紅蓮系統大型 一重「大賀蓮花弁数14~20枚の一重咲種。花色は鮮やかなピンク色。」「世界の花蓮」案内板。正面から。 ・・・つづく・・・
2023.07.25
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「友愛数」(ゆうあいすう、英: amicable numbers)とは、異なる 2 つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数(しんわすう)とも呼ばれる。最小の友愛数の組は (220, 284) である。220 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 で、和は 284 となる。一方、284 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 71, 142 で、和は 220 である。友愛数はピタゴラス学派の時代にはすでに知られていた(ダンブリクス Damblichus)。現在まで知られる友愛数の組は、すべて偶数同士または奇数同士の組である。(220, 284) の次に求められた友愛数は (17296, 18416) である。この友愛数はそれ以前にも求められていたが、フェルマーにより再発見された。その後、オイラーにより 60 余りの友愛数が求められている。なお、自分自身を除いた約数の和が元の数と等しい場合には、完全数と呼ばれる。自分自身を除いた約数の和を次の数として同じように計算していき元の数に戻る場合には、その組を社交数という。■友愛数の組を小さい順に列記すると (220, 284), (1184, 1210), (2620, 2924), (5020, 5564), (6232, 6368), (10744, 10856), (12285, 14595), (17296, 18416), (63020, 76084), (66928, 66992), … これらの例は、いずれも、偶数同士又は奇数同士の組み合わせである。■友愛数を生み出す公式 nを2以上の整数とする。 p=3×2^(n-1)-1 q=3×2^n-1 r=9×2^(2n-1)-1 に対してp,q,rがすべて素数なら(2^n×pq、2^×r)は友愛数である。 例えば n=2とするとp=5,q=11,r=71となりすべて素数です! このとき,2^n×pq=220,2^n×r=284になります。 これはさきほどの例で見たように友愛数です。 n=3の場合はr=287=7×41となり素数ではないので友愛数は得られません。 n=4の場合は(17296,18416) という友愛数が得られます■未解決問題・108個の友愛数が存在することが確認されているが、友愛数の組は無数に存在するか?・偶数と奇数からなる友愛数の組は存在するか? ・・・END・・・
2023.07.24
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さらに「石上神社」の散策を続ける。正面に「社殿」。「石上神社」碑。扁額「奉納 石上神社」。隣接する「鵠沼石上町内会会館・石上会館」。藤沢市鵠沼石上2−3−7。「此の石上神社は別名、砥上明神(とがみみょうじん)と言われました。鵠沼を中心とした此の辺り一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡(後に高座郡に)土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると砥上地蔵尊が(一六五五)建立されました。石上神社は此の辺り開発の祖、鎌倉時代の武士を祀った神社で、藤沢橋から江の島道の、当時は湾曲していた境川沿いにあった「渡しの舟場」の北側に有り、往来する人たちの守護神として村民は、大明神と崇めていました。しかし、水難で度々水に浸り、一九三四年(昭和九年)に現在地の石上通り沿い(鵠沼石上ニ丁目三番)に遷座され、町の守護神となりました。戦後の宗教法により、藤沢諏訪神社の分社と位置付けられました昭和五十ニ年十一月氏子崇敬者の御芳志により、石上神社と隣の石上会館と共に改築されました。」この後、訪ねた「石上公園(砥上公園)」にもあった「江の島弁財天道標」案内。江の島弁財天道標 市指定重要文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定この石柱は、江の島 への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう)が寄進したと伝えられています。現在、市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に建設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(二〇一五)十一月 藤沢市教育委員会」「石上」の案内。内容は上記に同じ。「石上神社」を後にして、鵠沼石上2丁目を北に進む。前方に「石上公園」が見えて来た。先程「石上神社」にあった案内書の中の写真の石碑はここにあった。「石上鵠沼を中心とした一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。此の辺りの開発の祖の鎌倉時代の武士を祀ったといわれる石上神社は、度々水に浸り昭和九年に現在の地に移されました。」江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。「江の島弁財天道標」。正面に弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」。藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(杉山和一、一六一〇~一六九四)が、寄進したものと伝えられています。現在、市内外に、十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部の尖った角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と彫られています。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(ニ〇十五)十一月 藤沢市教育委員会」右側面に「一切衆生」。左側面に「ニ世安楽」。この上記二つの文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められているとのこと。「江ノ島道 ルート図」。その右奥にあった石碑群。近づいて。右側の4基。右から「青面金剛像」 宝永6(1709)五月吉日6手合掌型 弓、輪、矢、三又切り絵にしてみました。「青面金剛像」 正徳6(1716)丙申(ひのえ さる)二月吉日 6手合掌型 弓、輪、矢、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。「道祖神」 文久三年(1863) 癸(みずのと)正月吉日。近づいて。「青面金剛像」 享保1(1716) 9月吉日6手合掌型 輪、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。その左に「文字庚申塔」等が4基。「文字型庚申供養塔」 文化10年(1813)癸酉(みずのととり)天6月吉日近づいて。「文字型庚申供養塔」明和8年(1771)願主の名前が刻まれていた。「明和八年卯(う)歳」と。文化3(1806) 丙寅(ひのえとら)。近づいて。「馬頭観世音」「万延元年(1860)三月十八日」。そして、さらに藤沢駅方面に進む。江ノ電の線路下の道に出ると、右手にあったのが「カトリック教会」。藤沢市鵠沼石上1丁目1−17。「藤沢カトリック教会 藤沢カトリックセンター」。「聖霊来てください 私の心を温めてください 来て私に祈りを 御父と御子を仰ぎ見るすべを 教えてください信仰の道を指し示して下さい 愛することを そしてとりわけ希望を抱く心構えを教えてください」と。入口門のない珍しい八角形の聖堂。「藤沢教会は、昭和30年(1955年)4月に片瀬教会に続いて藤沢市で二つ目のカトリック教会として生まれました。教会の守護の聖人は使徒聖シモンと聖ユダです。」と。聖堂の内部の写真をネットから。信者さんたちが運営している教会の売店「がらりや」。キリスト教関連の本や聖書、ロザリオ、メダイなどの聖品やカード類、ステーショナリーなどを揃えている と。可愛らしい陶器?の人形。藤沢駅南口の道を駅方向に進む。高架の連絡通路から。江ノ電藤沢駅改札口手前の土産物屋。そしてJR藤沢駅への連絡通路から南口ロータリーを見る。「小田急百貨店ふじさわ」を振り返る。ブロンズ像「地」 高田博厚さんによる作品。高田氏は1900年石川県生まれの彫刻家、文筆家。1931年よりフランスに渡り、多くの芸術家と交流し活発な制作活動を行った。晩年は鎌倉の稲村ヶ崎に住み作品を制作した と。JR藤沢駅 改札外コンコース正面 1980年6月完成陶板レリーフ「湘南讃歌」 原画・監修:ルイ・フランセン。「東海道五十三次 藤澤 遊行寺」。「現在の神奈川県藤沢市にあたる。手前を流れる川は境川、架かる橋は遊行寺橋と見られる。奥の山中にひっそりと佇む遊行寺と、その門前町として栄えた藤沢宿の様子が描かれる。眼前に鳥居を置いた構図は斬新で、広重特有の感性を垣間みることができる。この鳥居は江の島弁財天のもので、江の島を目指す4人の座頭が今まさに通り抜けようとしている。広重はこの鳥居をよほど気に入ったのか、別のシリーズでも違う角度から描いている。」と。「旧東海道・藤沢宿」案内図。名所・旧跡案内。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言都市」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言わが国は世界で唯一の核被爆国であり,核兵器廃絶と恒久平 和の実現は全国民共通の願いである。しかし、すでに地球上には多くの核兵器が貯えられ、人類の 生存に深刻な脅威を与えている。藤沢市は、日本国憲法の精神に基づく国の平和と安全こそが、地方自治の根本的条件であることにかんがみ、非核三原則が完 全に実施されることを願い、核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、この人類共通の大義に向かつて不断の努力を続ける核兵器廃絶の平和都市であることを宣言する。」もちろん平和の象徴「鳩」をイメージしたもの。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」からJR藤沢駅北口方向を見る。ペデストリアン(pedestrian)とは「徒歩の」、「歩行者の」、「歩行者専用の」の意味。そして6月2日にオープンした「ヤマダ電機LABI藤沢店」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.24
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496は「完全数」と呼ばれている。「完全数」とは自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は 6(= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496(= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) 、8128 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064)。「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、N が完全数であるとは、約数関数σ に対してσ(N) = 2Nが成り立つことであると表現できる。■2022年時点で発見されている完全数 は51個。 51番目のメルセンヌ素数 2^82589933 − 1 であり、十進法で表記したときの桁数は 2486万2048桁に及ぶ。■完全数については、「偶数の完全数は、全て2^(n-1)×(2^n-1)の形である」ことが 知られている。 より詳しくは、2^(n-1)が素数であるような正の整数nに対して、 2^(n-1)×(2n-1)は完全数となるが、逆に、偶数の完全数は2n-1が素数であるような 正の整数nを用いて、2^(n-1)×(2^n-1)という形で表される。 2^n-1という形の数を「メルセンヌ数」といい、素数のメルセンヌ数を「メルセンヌ素数」と よんでいる。 メルセンヌ数を小さい順に列挙すると 1, 3, 7, 15, 31, 63, 127, 255, 511, 1023, 2047, 4095, 8191, ... 従って、上記は、「メルセンヌ素数と偶数の完全数が1対1に対応している」 ことを示している。この定理の後半は、オイラー(Euler)によって証明されている。 ■完全数は、2^(n-1)(2^n-1)の形で表すことができる。 n=2 6=2×(2^2-1) n=3 28=2^2×(2^3-1) n=5 496=2^4× (2^5-1) n=7 8128=2^6×(2^7-1) n=13 33550336=2^12×(2^13-1) ■ 6以外の完全数は、奇数の立法和で表される。 28=13+33 496=13+33+53+73 8128=13+33+53+73+93+113+133+153 33550336=13+33+53+73+93+113+133+153+ ・・・・・ +1233 +1253+1273■6以外の完全数は4の倍数となっている。■6 以外の偶数の完全数の下二桁は 16、28、36、56、76 のいずれかである■完全数は、連続した自然数の和で示される。 6=1+2+3 28=1+2+3+4+5+6+7 496=1+2+3+ ・・・・・ +31 8128=1+2+3+ ・・・・・ +127 33550336==1+2+3+ ・・・・・ +8191■完全数は無数に存在するのか?奇数の完全数は存在するのか? は解決されていない。 ・・・END・・・
2023.07.23
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鵠沼・蓮池の花を楽しんだ後は、帰路に。2月に惜しまれつつも閉店してしまった藤沢駅北口さいか屋のニトリの跡地に、『ヤマダデンキLABI LIFE SELECT』が6月2日にオープンしているので立ち寄ることに。しかし開店時間には早いので藤沢駅まで、未だ訪ねていない鵠沼・片瀬の史跡を藤沢駅まで徒歩で巡ることとした。右手に「鵠沼高等学校」の裏門が。創立以来80年余の歴史の中で一貫して女子教育に貢献し、約1万5千人の卒業生を世に送り出して来たが、平成16年(2004)より校名を鵠沼高等学校に改名し、自己と社会をより良く変えていく資質の育成、社会に貢献する人材の育成を目標とした人間教育をより充実させるため男女共学校にしたのであった。踏切を渡り、江ノ島電鉄線沿いを北に向かって進む。藤沢市鵠沼の住宅地を東に向かって進む。民家の庭の「トランペットフラワー」。石上の袋小路にある民家の前庭に祀られていたのが「石上地蔵」。正面から。鉄骨、プラスチック波板で造られた祠の中に鎮座。近づいて。蓮弁上の立像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製。左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。「鵠沼最古の石仏「石上地蔵」についてこの辺りは片瀬川(古くは固瀬川と書かれた)の「川袋」と呼ばれる曲流が始まるところにあたり、古くから渡船場が設けられていました。鎌倉時代には石上郷と呼ばれ、源頼朝の霊を祀る鎌倉二階堂の法華堂が支配していました。渡船場は「祗上渡し」と呼ぱれていましたが、天正年間から「石上渡し」と呼ばれるようになったと『皇国地誌』にあります。江戸時代初期には幕府の右筆(書記)を務めた旗本大橋家の知行地(所領)となり、うち九石分は鵠沼神明の空乗寺領に寄進されました。その時代、一六五四(承応四)年にこの地蔵が造立されました。鵠沼の現存最古の石仏です。」像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製です。右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」中央上部に地蔵菩薩の種子(梵字)である◯(カ)が彫り込まれ、蓮弁上の地蔵菩薩立像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」と彫られています。石上が大橋家知行地だったのは一六七ニ(寛文一ニ)年までで、以後は空乗寺領以外は上知されて幕府領になりました。一八〇〇年頃作られた『江嶋道見取繪圖』に、石上渡しのそばの大山道の路傍に「地蔵」が描かれているのがこの「石上地蔵」と思われます。一八三〇(文政一三)年、小川泰ニ編輯になる『我棲里』巻の中の石神大明神の解説に「渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像となり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る」とあります。」赤い帽子、涎掛け、大きなマスクで、お顔の表情は判らなかった。この印は?右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」。手前の物は何が供えられていたのであろうか?そして次に訪ねたのが「大源太(おおげんた)公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。「大源太公園」内には「江の島弁財天道標」があった。正面に梵字「ソ」と「ゑのしま道」。右側面に「一切衆生(いっさいしゅじょう)」と。この世に生を受けたすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間を中心にしていう場合が多いと。左側面に「ニ世安楽(にせあんらく)」と。現世の安穏と来世の極楽往生。現世と来世に安楽を得ること。真新しい案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、藤沢宿から江の島へ向かう参詣路である「江の島道」沿いに建てられていた江の島弁財天道標の一つです。江の島弁財天道標は、江戸時代初期の鍼灸師であり管鍼法(かんしんほう)を考案したことで知られる杉山検校(杉山和一、慶長十五年(一六一〇)~元禄七年(一六九四)〕が、参詣者の道しるべのために寄進したものと伝えられています。現在、市内で所在が確認されているもののうち、十ニ基(うち一基は杉山検校による建立ではない)が藤沢市の重要文化財に指定されています。その特徴として、頂部の尖った角柱型で、正面には弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と刻されており、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。片瀬市民センター敷地内に設置されていましたが、平成ニ十九年(ニ〇一七)に片瀬地区地域まちづくり事業「江の島道の整備事業」として、かっての江の島道沿いにあたるこの地に移設したものです。令和五年(ニ〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会 片瀬市民センター」「藤沢市大源太公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。片瀬地区は境川左岸地区と思っていたが、ここは片瀬であるようだ。「藤沢市大源太公園」内から「江の島弁財天道標」を見る。そして再び江の島電鉄線に向かって進む。右前方に「石上駅」のホーム裏側を見る。「えのでん駅アート」には「波」の姿と「ISHIGAMI STATION ENOSHIMA海道・・」と描かれていた。「南橘町内会掲示板」。「南橘町内会便り 56号」。2019年度以来4年ぶりとなる「南橘町内会総会」が開催されたと。前方に現れたのが「藤沢市立橘公園」。藤沢市鵠沼橘1丁目23。タコの形の巨大なすべり台が。地元の子たちからはそのまんま、「タコ公園」と呼んでいると。公園の先の角に石碑が見えた。民家の角にあったのが「佐川英三詩碑」。奈良県吉野郡出身の佐川英三(1913-1992)の詩碑。佐川英三は1945年池田克己、高見順等と詩雑誌「花」を創刊、1946年に同じく「日本未来派」を創刊、長い間その発行責任者を務めた。「戦場歌」「佐川英三詩集」等の詩集の他、「高村光太郎詩がたみ」などの編著がある と。日本現代詩人会の先達の一人である と。藤沢市鵠沼橘1丁目11。「鈍重にしずかにしかも激しくくろがねの独楽がまわっているにぶく光りかすかに唸りながら永遠にまわりつづけようとする孤独な生よ 佐 川 英 三」。「佐川英三(さがわ えいぞう)一九一三年九月四日奈良県吉野郡国栖に生れる 本名大田行雄 一九四五年池田克巳、上田猷夫、高見順らと詩雑誌「花」、一九四六年同じく「日本未来派」を創刊 今日に及ぶ 長くその発行責任者詩集に「戦場歌」「佐川英三詩集など多数編著「高村光太郎詩がたみ」。一九九〇年日本現代詩人会より「先達詩人」の顕彰を受ける同会々員、日本文芸家協会々員一九九二年九月四日建之」。民家の門に「喃(なん)の風」と。元海軍将校の邸宅、フリースペースに、ここ鵠沼橘に住む映画監督の谷光章さん(76)が、自宅の空き室を音楽演奏や美術展示ができる場所として一般開放を始めたのだと。かつて文化人が多く住んだ土地柄から、新たな地域の文化拠点の創出を目指しているとのこと。そして「石上駅」のホームを見る。「藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々を現代のアレンジで表現しました。21世紀の今にレトロやアンティークの良さを取り入れ、それをおしゃれに変換させている江ノ電の良さをアピールできるように考え、ホームで待っている人がこのミックスされた世界に入り込めるように人物を等身大で描きました。同様に外側の壁面にはアンティークな書体で江ノ島海道という標識をタイポグラフィでアートを描き、中からも外からも楽しめるよう駅をまるっとアートで覆っています。」と江ノ島電鉄のページから。藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々そして松並木。Pizzaを運ぶ飛脚の姿や、自転車に乗っている旅人の姿が。再び踏切を渡り、江の島方向を見る。再び「えのでん駅アート」を。そして次に訪ねたのが「石上神社」。横には「石上会館」があった。藤沢市鵠沼石上2丁目3-7。「石鳥居」、「社殿」を正面から見る。「社殿」に近づいて。右手に「石上神社 明治二十九年四月」と刻まれた石碑。左手の掲示板には様々な案内が掲載されていた。「藤沢付近の歴史と年表先土器時代2万~ 3万年前、最後の氷河期で、現在より7 ~ 8度気温が低く、海面は百数十メートル下がり、日本列島は北と南で大陸と陸続きに成り、人間が大陸から日本へ渡ったとされています。約1万年前頃は富士山の火山活動が盛んで、相模の国の土は、上の上1mの厚さで黒土、その下に赤土が堆積していた(関東ローム層) =洪積世。古墳は1つの遺骸の墓で、藤沢でも先土器時代の物も発掘されています(層としては赤土の中に埋もれている文化)東京螺子(ミネべア)敷地内にスクモ塚古墳(九十九塚)跡が有り、遺物は長谷寺に保存されているが、発掘にあたった人夫達が、多くの刀剣類を持ち去ったとされている。片瀬丘陵の横穴墓墳は複数人の基(家族)で、7世紀前後のものと思われる、片瀬丘陵で約2 0 0発見された。相模の国八郷の1 3処1,300戸、鈴鹿王、上甘郷50戸(鵠沼)長屋王の弟で壬申の乱の英雄、高市皇子の第2子が鈴鹿王(745年没)ー天武天皇の時代1180年 源義朝の遺児、源頼朝は伊豆の石橋山の合戦から始まり鎌倉幕府を開く (兄)大庭景義と豊田景俊は源頼朝の味方 大庭景親と(弟)俣野景久は平家側に付き、身内同士で敵、味方に。1333年 (元弘3年) 5月、新田義貞軍は藤沢、片瀬などを焼きっくし鎌倉へ侵攻、 北条高時の自害で鎌倉幕府は150年間の幕を閉じた。 大源太の辻(ミネべア前)は新田義貞鎌倉攻めの戦場であった。1338年 足利尊氏、室町幕府を開く1590年 (天正18年)北条氏、豊臣秀吉に降伏、秀吉、全国統一 徳川家康が関東に国替、藤沢御殿は大名や家康、秀忠、家光らが泊まった処1598年 秀吉死去1603年 (慶長8年)徳川家康、江戸幕府開く 藤沢代官として服部惣左衛門が務めた 幕末の旗本領主、鎌倉郡高谷村には、井上左大夫がいた1707年 (宝永4年) 富士山宝永火山噴火 藤沢付近も火山灰で農作被害が出た1887年 (明治20年) 東海道、横浜~国府津間開通1889年 (〃22年) 横須賀線開業1897年 (〃30年) 江の島桟橋完成1902年 (〃35年) 江ノ電開通(江の島まで)1910年 (〃43年) 〃 鎌倉まで開通 〃 (〃 〃 ) 龍ロ寺五重塔完成 1916年 (大正5年) 辻堂堂駅開業1923年 (大正12年) 関東大震災1929年 (昭和4年) 小田急線長後~江の島間開通 1937年 (昭和12年) 白百合片瀬乃木小学校開校1938年 ( 〃 13年) 〃 乃木高校開校 ( 〃 〃 ) 藤沢第4小学校開校(本町)1940年 ( 〃 15年) 藤沢市制執行10月1日を記念日とする、令和2年は80周年 藤沢市の木ークロマツ、藤沢市の花ーフジ、藤沢市の鳥ーかわせみ2011年 (平成23年) 3月11日東日本大震災 (死者、行方不明約2万人)江の島神社ー女の神大山神社 ー男の神石上神社は鴿沼石上町内会、皆さんの神です。」「明治十五年測量 神奈川縣下相模國高座郡鵠沼村(後 藤沢町大字鵠沼)」「「江の島」「江ノ島」正解どっち?表記の違いを記者が追う藤沢担当の記者として以前から気になっていた。江ノ島・江の島・江島。社名や観光施設、団体、様々な表記がある。地元生まれの記者に聞いても「地名は平仮名だけど、駅名はノだったような・・」と歯切れ悪い。別の記者は「サザンの歌詞では『江ノ島』でしたね」。なぜ表記が分かれるのか、夏の自由研究に挑んだ。【中面に関連記事】向かった先は炎天下の江の島。開始早々、島の入口、弁天橋で3つの表記が並ぶ標識を発見した。神社・駅・ヨットハーバー。それぞれどんなな使い分けをしているのか、早くも謎が深まる。汗を拭きつつ石段を昇り降りし島をぐるっと一周。一見、島内の看板には「江の島」が比較的多いが、やはり様々な表記が散見される。「表記が混在する大きな理由は、1966年に住所表記が変更されたことが理由のようです。ただ現在は『江の島』の表記に統一しています」。そう話すのは(公社)藤沢市観光協会の担当者。同担当によると、1962年の「住所表示に関する法律」の施行に伴いそれまでの「江之島」から「江の島」に変更。その後観光促進に向けてイメージを統一するため、69年に島で話し合いが持たれ、住所表示以外の表記も「江の島」にすることに決定。以後名称を使用する場合は江の島とするよう市外にも協力を呼ぶ掛けたという。地元商店からなる江ノ島観光会も江の島に名称変更。同協会では観光施設や書面などでは「江の島」表記に統一している。「ノ」でなく「の」が採用された正確な理由は不明だが、戦後教育でカタカナ表記よりひらがな表記が推奨されていたことも影響すると考えられている。島外にも足を運ぶと、66年以前から存在する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。「現在は「江の島」に統一されています。」「石上神社(諏訪神社藤澤)の分霊社」1955(昭和30)年頃、石上の渡し(上山本橋の付近)の北にあって、村民は大明神とたたえている。昭和9年に現在地(石上2-3)に移され町の守護神。「鵠沼鵠沼は天平時代(七三五年頃)には「高座郡土甘郷(たかくらごおりとがみごう)」(砥上)と呼ばれていました。又、この地に多くの「クグヒ」(白鳥古名)が飛来したことがこの地名の由来といわれ、平安時代(一一四四年頃)には「鵠沼郷(くくひぬまごう)」、江戸時代(一八四一年頃)には「鵠沼村(くくひぬまむら) 久々比奴末牟良と呼ばれていたのが訛って現在の「くげぬま」に成ったとされています。」「藤沢市保存樹木」案内。先程訪ねた「石上地蔵」、「大源太公園」、「江の島弁財天道標」案内。そして「石上神社735年頃(天平時代)当時境川沿いの砥上渡しの舟場の北に有り、守護神で有り村民は大明神と崇めた。」石碑が境内に並んでいた。右から「石上会館建設記念碑」、「土地寄贈記念碑」、「記念碑」。「石上会館建設記念碑此の会館は、藤沢市南部土地区画整理事業を機に、石上町内会員並に有志の寄付金により、石神神社及び鳥居と神輿の新造に併せて当地に建設した。」「記念碑」。碑の裏には「本町ノ守護神石上神ハ 従来町最南端低地ニ鎮座セラレシ 其ノ位置極メテ参詣ニ不便且ツ出水ノ都度社殿碑石共ニ浸水スルノ不敬ヲ憂慮シ 昭和九年八月七日部落ノ 中央現地ニ遷座安置シ奉ル依テ之ヲ永遠ニ記念スル為メ 建設委員一同自費ヲ投ジ茲ニ此ノ碑ヲ建設ス 昭和九年拾壱月弐拾日建之」移転の碑を建設したのが昭和九年。移転は明治29年。さらに、昭和52年、区画整理事業で現在地に移ったようだ。そして「時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)境内案内」👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.23
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第1蓮池の北西100m程の場所にあるのが第2蓮池。第2蓮池には紅色の蓮の花「誠蓮(まことばす)」が咲くのであるが、この日は未だ1~2部咲き程度であった。「誠蓮(まことはす)」は福岡県の佐藤誠氏が食用蓮「備中」から作った品種であると。開花している花にズーム。大型の八重咲き種。花弁数が多く100枚を超えるとも。色合いが華やかで、とても愛らしい花。お盆用の切り花としても栽培されている品種であると。ズームして。花粉球を持った西洋ミツバチを発見。そして第2蓮池には亀の姿も。この6月から「条件付特定外来生物」に指定された「アカミミガメ」か?「条件付特定外来生物」は、外来生物法に基づき特定外来生物に指定された生物のうち、通常の特定外来生物の規制の一部を、当分の間、適用除外とする(規制の一部がかからない)生物の通称。この第1蓮池にも野鳥の止り木が。「アメンボ」👈リンク の姿も。ハスの葉のように水滴をコロコロとした球体のまま弾く性質を「超撥水」と呼びます。じつは、水面をスイスイと歩くことができるこのアメンボも、足の毛が凹凸のような構造に」なっており、ハスと同じ「超撥水」に分類されるのです。「ミソハギ(禊萩)」であろうか?ミソハギは日本各地の湿原や小川、用水路の縁などに見られる多年草。濃いマゼンタピンクの花が、茎の先端に穂になって咲きます。1輪の花の大きさは1cm弱。明朝は完全開花か?花びらが水面に。水面に浮かぶひとひらの花びら。中心の黄色い部分が「花托(かたく)」または「花床(かしょう)」と呼ばれる部分。そして、花托の表面に見える丸いぽちぽちが、ハスの花の「雌しべ」。外側の黄色のひらひらとしているのが、ハスの花の「雄しべ」。花びら全体がピンクに染まって。大きな蕾。第1蓮池の近くには「ハンゲショウ(半夏生)」。上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなるのがおもしろい。花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要から、このように進化したのではないか、といわれている(白くて目立つ)。花が咲き終わって夏の盛りの頃になると、白い葉の白い部分は色落ちして、ふつうの緑色っぽくなる。「半夏生」、 「半化粧」、「片白草(かたしろぐさ)」 など、いろいろな呼び名がある。「半夏生」:夏至から数えて11日目頃(もしくはその日からの5日間)を「半夏生」と呼ぶが、その頃に花が咲くことから。「半化粧」、「片白草」(かたしろぐさ):葉の半分ほどが 白くなることから。花托が覗いて。再び葉の上の水玉を。微妙に真ん中にはない水玉。この日の「誠蓮」も見納め。「カルガモ」。たくさんの種類がいるカモの仲間のうち、クチバシの先だけ黄色いのは「カルガモ」だけ。ペアであろうか。緑色の首をした「マガモ」と同じくらいの大きさですが、マガモより軽いので「軽鴨」の名がついたという説もあるとか。カルガモは雌雄同色であると。こちらが雌?こちらが雄?そして第1蓮池まで戻り、白の「舞妃蓮(マイヒレン)」を再び楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.22
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1、2、3、4、5、6、7、8、9、10のすべての数字で割ることができる最小の数は2520。実際に電卓で割って確かめてみると、2520÷1 = 25202520÷2 = 12602520÷3 = 8402520÷4 = 6302520÷5 = 5042520÷6 = 4202520÷7 = 3602520÷8 = 3152520÷9 = 2802520÷10= 2520とすべての数で割ることができました。■つまりつまり1から10までの数の最小公倍数を求めるということ。1と2の最小公倍数は 2,2と3 〃 6,6と4 〃 12,12と5 〃 60,60と6 〃 60,60と7 〃 420,420と8 〃 840,840と9 〃 2520,2520と10 〃 2520というわけで2520■または1〜10までの素数は2,3,5,7。1〜10に2の三乗=8、3の二乗=9があるので、2^3×3^2×5×7=2520というわけで2520■さらに2つ前の8までは840、次の11と2つ先の12までは277203つ先の13までは360360因みに 1~20までの全ての数の最小公倍数 232792560 ・・・END・・・
2023.07.21
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この日は6月30日(金)、今年も市内鵠沼(くげぬま)にある蓮池を6月30日の早朝に訪ねました。7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日も7月。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを以前知ったのです。小田急線で藤沢まで行き、江ノ電藤沢駅へ。江ノ電の改札口。時間は6:55。正面に花時計。江の島の美しい夕景が。江の島と富士山のコラボ。7:00発の電車の入線を学生たちが待つ。丸窓のある降車ホームの壁。「藤沢駅の外観が円窓に白壁という宇宙船のドックのように見えることから電車を宇宙船に見立てて、窓枠を使った文字がGOという言葉と電車が発射しているような噴射状のスプラッシュを表現しました。また、ホームの端に旅人を見送る町娘を描くことで乗客の旅行気分を高め、降車ホームの壁面には宿場町を描くことで和の要素を取り入れ外国人観光客にも楽しめるような意図を込めています。乗車時の待ち時間に、旅の記念写真を撮れるスポットとしてトイレの周りにランドマークの江ノ島と江ノ電ロゴを描き、降車の際には江ノ電がいつもとは違う日常を味わえる路線ということを示せるように、改札を出る手前でタイポグラフィのアートをお楽しみいただけます。」と。ズームして。電車が入線。そして藤沢駅7:00発の電車が「柳小路」駅に7:03に到着。鵠沼(くげぬま)・蓮池に向かって住宅街を進む。鵠沼藤が谷のここ第1蓮池の蓮は、「舞妃蓮(まいひれん)」という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮。昭和43年の春には、蓮根が現在の天皇皇后両陛下に献上され、その年の夏に東宮御所で開花。そして昭和44年、花の開閉があたかも女性の舞い姿のようであることから阪本祐二氏によって『舞妃蓮』と名付けられたと。時間は7:08。花色は初日は淡い黄色で、全体に淡い紅色が乗り、赤、黄とも日を追うごとに退色していき、二日目以降、淡い黄色の爪紅状になります。屈光性のため、花弁がやや捩れる傾向があり、風に舞うように見える事から舞妃蓮の名が付いたと言われています。ピンクの蕾。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化すると。そして花が開くと花片下部は薄い黄色に。蓮の花の花心部分に濃い黄色の姿が。そしてエピローグに向かって。第1蓮池の花の姿をカメラで追ったのであった。野鳥が留るポールも設置されていた。池の水面に浮かぶ蓮の葉。丸いかたちをした葉にはほかの植物と同様、気孔と呼ばれる空気や水分の出入り口を持っている。ハスの生息地は沼地。水に含まれた泥が、葉の気孔をふさいでしまう恐れがある。そんな泥水のなかでも生息できるのはなぜか? それは、ハスの葉が高い撥水性を備えているから。ハスの葉に水がかかると、水は葉の上で丸い水滴となりコロコロと流れて行く。これはハスの葉の表面に超微細な突起物があるから。そのサイズは数マイクロメートル程度。1マイクロメートルは、およそ0.001ミリメートル。日本人の髪の毛の太さは0.08ミリメートルなので、とても小さいことが分かる。この突起物がクッションとなって水滴を支え、撥水効果を生んでいるのだ。さらに、ハスの突起物の先端には水に溶けにくいワックスがついている。突起物の凹凸とワックス、この2つの相乗効果で、泥水が気孔に侵入するのを防ぎ、高い撥水性を実現しているのだ。こうした撥水効果を、ハスの英語名称(Lotus)から「ロータス効果」と呼ぶのだと。再び蓮の葉の水玉を追う。中心に集まらず、様々な大きさで葉の表面に留まっているのが不思議!!「ショウジョウトンボ」であろうか?そして一羽・が小魚?を咥えて留まっているのを発見しズームして。カワセミ(翡翠)。カワセミは小さな体に長いくちばし、鮮やかなコバルトブルーの背とオレンジの腹が特徴の水辺に住む鳥。その美しさから「飛ぶ宝石」ともいわれている。一斉にシャッターの音が、そしてその音に驚いたかアッという間に姿を消してしまったのであった。しばらく待ったが、再びカワセミの姿を見ることは出来なかった。再び「舞妃蓮(まいひれん)」を追う。「メロカリス」?との共演。花菖蒲とも。 ・・・つづく・・・
2023.07.21
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不思議なふるまいを見せる6桁の数字があります。「142857」という何気ない自然数が、単純なかけ算で、面白い現象を見せてくれるのです。■142857に、1、2、3、4、5、6を順にかけてみます。142857 × 1 = 142857142857 × 2 = 285714142857 × 3 = 428571142857 × 4 = 571428142857 × 5 = 714285142857 × 6 = 857142この計算で、どのようなことが起こっているでしょうか。それぞれの積には1、4、2、8、5、7の6つの数字しか出て来ないのです。かけ算をする順序を変えて、142857 × 1 = 142857 142857 × 3 = 428571 142857 × 2 = 285714 142857 × 6 = 857142 142857 × 4 = 571428 142857 × 5 = 714285掛け算の結果の数値は1、4、2、8、5、7の6つの数字が、上の如くに、数字がどんどん右下にずれていっているのがわかります、これを「巡回数」👈リンクと呼びます。■そして142857 × 7 = 999999 になります。8倍以上では崩れてしまうように思えるが、先頭の数を移動して末尾(一の位)に加えると保たれる。142857 × 8 = 1142856 → 先頭の1を末尾の6に加える → 142857142857 × 9 = 1285713 → 先頭の1を末尾の3に加える → 285714142857 × 10 = 1428570 → 先頭の1を末尾の0に加える → 428571142857 × 11 = 1571427 → 先頭の1を末尾の7に加える → 571428142857 × 12 = 1714284 → 先頭の1を末尾の4に加える → 714285142857 × 13 = 1857141 → 先頭の1を末尾の1に加える → 857142142857 × 14 = 1999998 → 先頭の1を末尾の8に加える → 999999142857 × 15 = 2142855 → 先頭の2を末尾の5に加える → 142857142857 × 16 = 2285712 → 先頭の2を末尾の2に加える → 285714となる。このように、一番左の桁の数を一番右の桁の数に加えるという操作を行うと、また 142857 の順序が現れる。これは、より大きい数でも成り立つ。142857 × 71 = 10142847 → 左2桁の 10 を残りの 142847 に加える → 142857142857 × 52989018 = 7569852144426 → 右から6桁ずつ 7、569852、144426 と 区切ってそれぞれを足す → 714285■142857には、さらに不思議な性質が。こんどは、142857を142と857に2等分して足してみましょう。142 + 857 = 999 と答えに9が並びます。285 + 714 = 999428 + 571 = 999571 + 428 = 999714 + 285 = 999857 + 142 = 999と、すべて和が 999 になっています。■こんどは、142857を14と28と57に3等分して足してみましょう。14 + 28 + 57 = 99 と和に9が並びます。さらに、142857を1、4、2、8、5、7に6等分して足してみましょう。9になるでしょうか。1 + 4 + 2 + 8 + 5 + 7 = 27となって、残念ながら9にはなりません。自然数を6個も足すのですから、9にならないのは自然なことかもしれません。しかし、この足し算をもう1回繰り返し、27の各位の数を足すと、2 + 7 = 9となります。142857の6等分も9に関係しています。■1/7を小数で表すと、1/7 = 0.142857142857142857…となり、142857 が繰り返し現れます。このように、同じ数字が繰り返し現れる小数を循環小数と言います。1/7 を小数で表す計算から、3/7 = 0.428571428571… = 428571/999999このことを用いると、142857 を3倍すると 428571 になる理由は、次のように説明できます。3/7 = 1/7×3 0.428571428571… = 0.142857142857…×3 428571/999999 =142857/999999×3 428571 = 142857×3 142857 の本質は1/7の循環する部分だったのです。■142857と自然数÷71÷7= 0.14285714285714・・・2÷7 = 0.28571428571428・・・3÷7 = O. 42857142857142・・・4÷7 = O. 57142857142857・・・5÷7 = 0.7142857142857・・・6÷7 = 0.85714285714285・・・7÷7 = 18÷7 = 1 . 142857142857■14287の2乗142857^2=20408122449(【^】これは「キャレット」または「ハット」という記号で【^2】は2乗を表す)最初に0を付けて桁数を合わせ2分割して加算すると020408+122449=142857 さらに2分割して加算すると999このように「2乗した数の前の部分と後ろの部分を分けて和を取ったとき、元の値に等しくなる」ような数のことも“カプレカ数”と呼びます。例えば、297 は“カプレカ数”である。297^2 = 88209 であり、これを上位の2桁 88 と下位の3桁 209 とに分けて足すと 88 + 209 = 297 となる。 この定義でのカプレカー数を小さな順に並べると、下記の如し1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292, …■まとめ“142857”に1~6までの数を掛けると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”に7を掛けると、答えは999999となる1~6までの数を7で割ると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”は色々な方法で連続した9を作り出すことができる ・・・END・・・
2023.07.20
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「リサイクルプラザ藤沢」を後にして、この日の最後の訪問場所の「亀井神社」に向かって県道403号線・菖蒲沢戸塚線を進む。「円行新橋」交差点の手前左側にあったのが「徳本上人名号供養塔」。「徳本上人は宝暦8(1758)年紀州で生まれ、文政元(1818)年に61歳で亡くなった念仏行者です。天明4 (1784)年に出家得度し、寛政10(1798)年、4 0歳のときに高野山に登ります。文化11(1814)年5 7歳のとき、京都を発ち増上寺住職典海大僧正の招きで関東に下向し、典海大僧正に出迎えを命じられた鸞洲和尚と藤沢で落ち合います。徳本上人は鸞洲和尚とともに、鎌倉光明寺・英勝寺を経由して、6月12日に江戸に到着し、伝通院内の清浄心院に入られました。・徳本上人名号供養塔(重頭角柱型)安政6 (1859)年7月15日 全高158cm 供養塔のある場所の隣地で旧円行571番地にある町内会館敷地は、昔、曹洞宗の青雲寺の跡地と いわれています。青雲寺は円行山と号し、亀井野村雲昌寺の末寺でした。本尊正観音で 開山浄清は本寺の住僧で正保元(1644)年に本寺を隠居寺として開創しました。 なお、亀井野の雲昌寺には青雲寺から持ち出された相模国準四国8 8ヶ所のうち、4 6番 弘法大師像が移動されています。 鏝頭形円頭 方柱型、塔身高1m、幅37.5㎝、厚35㎝ 銘(塔身正面)南無阿弥陀仏 徳本 花押 (塔身背面)維時 安政六舎己未之天七月十有五日造立(1859年) (台石向って 右面)世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村 (台石前面)講中 (台石向って左面)元世話人 石川村 下土棚村 下和田村 遠藤村 (台石背面)長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村 徳本上人の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号碑」藤沢市湘南台3-17-17・旧円行字中丸 青雲寺跡。塔身正面:「南無阿弥陀仏 徳本 花押」と。台座:「講中」。台石向って 右面:世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村塔身背面:維時 安政六舎己未之天 七月十有五日造立(1859年)台石背面:長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村「徳本上人名号供養塔」の裏にあったのが「藤沢市消防団 第十七分団」。「円行新橋」交差点の先「カメラのキタムラ」の角にも小さな石碑があった。雑草の中に隠れるように。「南無妙法蓮華経 征清戦士忠魂供養塔」。日清戦争(一八九四~一八九五)の戦没者の供養塔。藤沢市湘南台3丁目18−1。「発起人 青木綱治郎」と。そしてこの日の最後に「亀井神社」に到着。藤沢市亀井野553-5(大字亀井野字不動上)。石鳥居手前の左側に社号標石「亀井神社」。境内を見る。亀井野の鎮守亀井神社の祭神は天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)です。古くは源義経の家臣である亀井六郎重清により崇敬されました。天正18 (1590)の年に再建され、宝永の頃(1704ー11)この地を知行していた旗本岡部和泉守の崇敬が厚く社殿を改築しました。明治初期の神仏分離までは不動明王を本尊と祀る不動堂もありました。なお、神社周辺は旧小字「不動上」、「不動前」といわれていました。「御由緒」碑が見えた。「御由緒不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)。明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかぐつちのみこと、火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。 平成五年六月之建」右手に社務所と御神木。「身代り不動尊」と両側には真っ赤な「幟」が並ぶ参道を見上げる参道、石段の上に社殿。手前右手に手水舎。龍の吐水口からは清水が。右手池のほとりのに石鳥居は「身代わり不動尊社」の石鳥居か?「玉垣奉賛者御芳名」碑。社殿を斜めから。扁額「亀井神社」。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。知っている方の父親の名前も。社殿の「唐破風」を見上げる。破風とは屋根の裏側に山形に取り付けられた板部およびその付属品の総称。唐破風は破風の一つで破風板の中央部を高く、左右両端に曲線状に反っているもの。主としては玄関、門、向拝などに取り付けられる。唐破風下は白鳥の懸魚であろうか。社殿、本殿を斜めから。「絵馬のいわれ絵馬は本來神の乗り物と考えられた生き馬の代わりに神前に捧げられたものです。のちに祈願文は願い事がかなったお礼として絵馬に画いた板額を奉納する風習が現在に残った物です。」奥にあった石碑。「大震災復興記念碑」。当地は震災当時は高座郡六会(むつあい)村字亀井野でした。1942年(昭和17年)に藤沢市に編入。六会村の死者数は15名でしたが、石碑の記載によると亀井野で14名が亡くなっており、六会村の死者のほとんどは亀井野が占めていたようです。「大震災復興記念碑噫(ああ)大正十ニ年九月一日午前十一時五十八分旻天(びんてん)何ノ□情ゾ此日此時有史未曾有ノ大震火災ニ遭遇ス 天地鳴動□震源地ハ伊豆大島ノ東方四十五里ノ海底ニシテ帝都ヲ囲む東京神奈川静岡千葉埼玉ノ一府四縣ニ及ビ其死者三十萬傷者百余萬家屋被害五十萬戸損害額実ニ一日十五億人類史上凄絶空前ノ大惨事タリ當時摂政デアラセラレタ今上陛下ニハ畏(かしこく)モ御内帑金(ごないどきん)一千萬円ヲ御下賜ニ相成リ山本新内閣を非常徴発令を布キ金九百三十億円ヲ救護費ニ宛テ戒厳令忙裡暴利取締令等三大緊急勅令ヲ布キ罹災民ヲ護セリ 當時亀井野ハ総戸数百八十戸全憒家屋百十三戸半憒家屋六十七戸死者十四名傷者百余名神社佛閣ヲ始メ殆ド全減ス 茲ニ於テ百七十四ノ氏子協力ニヨリ大正十四年十月神社再築ニ着手シ本殿奥行九尺間口九尺拝殿奥行ニ間間ロ三間其他鳥居石垣等総工費五千三百円ヲ以テ大正十五年四月落成ス 爾来辛苦粒々十有余年茲ニ漸ク復興ス 斯ノ苦シキ試線ハ人ヲ偉大ナラシメ大災ノ人生ニ與フル教訓ノ深甚測リ難キモノ存ス 是ヲ永久後世ニ傳フ昭和十年四月建之 長」「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」見事な唐破風下の懸魚の彫刻がここにも。角度を変えて。こちらの虹梁周辺の彫刻も見事。扁額「不動明王」。境内の池を見下ろす。不動明王と六地蔵尊。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「身代わり不動尊社」の石鳥居を振り返る。そして、この日の行程を全て完了し、ここ「亀井神社」で解散したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.20
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発泡スチロールの箱が並ぶ。軽くて保温性や保冷性に優れる発泡スチロールは、体積の大半が空気である省資源な素材。安価でクッション性、耐水性が高く、加工が容易で、強度があるといった特徴がある。そのため肉や魚などの食品トレー、食品の輸送箱、家電やOA機器の緩衝材から建築資材といった様々な用途に使用されている。そして、発泡スチロールは合成樹脂の一種であるプラスチック加工品のため、リサイクルして再びプラスチック製品として使用することが可能。発泡スチロール減容機にて火や溶剤を用いることなく、搭載された熱源によって発泡スチロールを溶かし元の容積を減らします。炎や溶剤を使わずに発泡スチロールを溶解するので、不完全燃焼した際の一酸化炭素や溶剤から発生する有害なガスが発生しないので安全に発泡スチロールを溶かすことができます。また、高温の熱処理や溶剤などで発泡スチロールを溶解すると熱・溶剤による劣化のためにリサイクルしにくくなりますが、発砲スチロール減容機であればそういった劣化がほとんどないのでリサイクル利用することが可能になります。「爆発火災事故が発生しています!」 家庭用小型ガスボンベは「穴を開けられたら」➡カンの収集日に 「穴が開けられなかったら」➡「プラ・油・特定品目」の収集日に様々な「乾電池」が並ぶ。特定処理品目の収集日に透明・半透明袋に入れてお出しください。「使用済み小型充電式電池の再資源化行程」&「小型充電式電池のリサイクル」説明ボード。充電式・ボタン式、小型充電式の電池はプラス極とマイナス極の金属部分に、それぞれセロハンテープ等で絶縁してください。「ニッケル水素電池」、「リチウムイオン電池」。ニッケル&リチウムイオン電池等の電池類を不燃ごみなどで収集してしまうと、ごみ収集車やごみ処理施設で火災や爆発が発生するおそれがあります。絶対に他のごみと一緒に捨てることはせず、決められた方法で廃棄してください。これは?屋上緑化の植物を片付けたものか?屋上に出る。「太陽光採光システム Himawari」。太陽光採光システム「ひまわり」は3つの仕組みから構成されています。屋外に設置した集光機で太陽の光を集め専用の石英ガラス製光ファイバケーブルを使って照射希望の場所まで運び、専用の照射器具から太陽の光を照射するシステムです。日の出から日の入まで太陽を自動追尾しますので、天窓や鏡を利用するシステムのように部屋の位置や窓の方位、太陽高度による影響がなく、一日中安定した採光が可能になります。「Himawari ひまわり」集光機の機能。近づいて。「太陽光採光システム ひまわり」仕様。こちらは風力発電装置。屋上から遠く南方向にもう一つの「石名坂環境事業所」の焼却炉の煙突が見えたのでズームして。市内駒寄小学校の4年生が、見学後にゴミ収集車・パッカー車のボディにお礼を書いたものが展示されていた。「藤沢市のごみ関連施設」案内。「現在のプラットホームの様子」が大型ディスプレイに映し出されていた。「①プラットホーム収集車で集めらられた資源やごみは、計量機で重さを量った後、プラットホーム内の種類ごとに決められたヤード(一時保管場所)に運び込まれます。」「プラットホーム」を窓越しに見下ろす。説明くださった方もユーモアを交えて。重機にてゴミを移動している作業員の姿も。入口前の駐車場を見る。様々な「表彰状」が掲げられていた。手選別ラインの紹介パネルは手書きにて。「プラスチック製容器包装破袋機」にてビニール袋を破り、手選別ラインで異物、未破袋品不燃ごみ等を手選別していると。「手選別」の作業員の方々。紹介ビデオコーナー。屋上に設置されたの太陽光パネルを窓越しに見る。別の場所から。そして「中央操作室」を窓越しに。手書きの設備フローシート。ゴミピットのゴミクレーンの運転員の姿。「太陽光発電装置廃棄物処理施設には、太陽光発電装置としてソーラーパネルが3基設置されています。屋上緑化屋上緑化として、乾燥に強い多肉植物のセダム(メキシコマンネングサ)を使用し、建物に直射日があたるのを防き、建物全体の温度を卞げる効果があリます。」「スチール缶磁選機」。「スチール缶磁選機異物を取リ除かれた缶は、コンべアてスチール缶磁選機に運はれてきます。スチール缶磁選機では磁石のカてスチール缶を吸い付けることて選別し、スチール缶だけを効率よく回収しています。」「サイクロン」と「バグフィルター」。ちりやほこりを空気から吸い込み、きれいな空気にしてから排出する装置。ペットボトル、プラスチック製容器包装も作業員の手によって異物を取り除いていた。多くの人の手によって、ごみが処理されていくことを実感!!藤沢市ではペットボトルのキャップ・ラベルは剥がし、プラスチック製容器包装に出すことになっているが、そのまま出している人が多いのだと。瓶の出し方中身を出して水で軽くゆすいでください。ビンの中に異物を入れないでください。栓・キャップ・ふたは不燃ごみへ出してください。手選別したものが箱別に。手選別は重労働であることを実感したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.19
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整数の桁を並べ替えて、最大にしたものと最小にしたものとの差を取る。この操作によって元の値に等しくなる数を『カプレカ数』と呼ぶ。(カプレカ数とは裄を並ひ替えて、最大にしたものから最小にしたものの差を取った時元の値に等しくなる数をカプレカ数と言う)例えば2023 2023−0223=1800・・・・・・ダメ 8100−0018=8082・・・・・・ダメ 8820−0288=8532・・・・・・ダメ 8532−2358=6174・・・・・・ダメ 7641−1467=6174・・・・・・ ◯となり、この後は 6174 が繰り返される。どのような4桁の数でも最終的に 0 または 6174 になることが確かめられるよって 6174は「カプレカ数」。カプレカ数を小さな順に並べると、下記のごとくに。0, 495, 6174, 549945, 631764, 63317664, 97508421, 554999445, 864197532, 6333176664,・・・・・・「0」も含めてこれまでに全部で20個のカプレカ数が見つかっているとのこと。■3桁のカプレカ数が495のみであることの証明証明3桁のカプレカ数nの各桁の数字を大きい順に並べたものをabcとする。0≤c≤b≤a≤9である。このとき,(100a+10b+c)−(100c+10b+a)=99(a−c)より nは 99の倍数である。したがって99の倍数かつ 3桁の自然数は9個しか存在しないため、すべて実験して確かめてみると、カプレカ数495が導けます。99 の倍数を1つずつ調べる。198 →981−189=792 ダメ297 →972−279=693 ダメ396 →963−369=594 ダメ495 →954−459=495 OK594 →954−459=495 ダメ693 →963−369=594 ダメ792 →972−279=693 ダメ891 →981−189=792 ダメ 990 →990− 99=891 ダメ■2桁の場合はどうだろうか。例えば 28 から始めて最大-最小のカプレカ操作を繰り返すと、28: 82-28=54:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27 :72-27=45: 54-45=9 となり9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする.73の場合は73:73-37=36:63-36=27:72-27=45:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27:72-27=45:54-45=9となりこれも、9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする。したがって、数が 2 桁の場合は、ある範囲の数を循環するが 2 つの混循環小数の形に似ている。よって、2桁のカプレカ数は存在しない。■3桁の他の数字、例えば「523」で引き算操作を行ってみましょう。532-235=297972-279=693963-369=594954-459=495右端の答えの部分、十の位の数字が全部「9」で、百の位の数字は上から順に「6」⇒「5」⇒「4」とひとつずつ小さくなっており、一の位の数字は上から順に「3」⇒「4」⇒「5」とひとつずつ大きくなっています。また、ここに並ぶ3桁の数字は、一の位と百の位の数字を足すと9になるというも特徴かもしれません。■4桁の場合 4桁なので、0≦d≦c≦b≦a≦90≦d≦c≦b≦a≦9を満たす自然数 a、b、c、d<を使って、N(大)=1000a+100b+10c+dN(小)=1000d+100c+10b+aと表すことができる。よって、カプレカ操作を 1回行った数 N′はN′=N大−N小=(1000a+100b+10c+d − (1000d+100c+10b+a)=999a+90b−90c−999d=999(a−d)+90(b−c)となる。さて、a-dは 1 と 9 の間の数値をとり、b- cは 0 と 9 の間の任意の値をとり得るから、上記の形の数は全部で 90 個ある。そこで、確認のため数の表を作成した(表2)。この表で,(a − d) ≧ (b − c)であるから,左下の 36 個(網がけ)については意味のない数である.次に、第 2 回引き算を実行するために、表2の数を大きい順に並べ変えると表 3 になる.この表で残るのは、網がけの重複を除くと 30個の数である。30個の数がどのようにして6,174に到達するのかを系統図で示したのが図 1である。これで、すべての 4桁の自然数が6,174に到達することが一目にしてわかるであろう。最大 7 回で到達することもわかる.それにしても不思議なものだ。■5桁の場合53,955→95,553-35,559=59,99459,994→99,954-45,999=53,955(53,955 59,994)2つの数でグルグルと循環します。よって、カプレカ数は存在しないということ。■6桁の場合 549,945 → 995,544−445,599=549,945631,764 → 766,431−134,667=631,764とカプレカ数が2個見つかっています。■7桁の場合 存在しません。■8桁の場合 2個見つかっています。 63,317,664→76,664,331−13,346,667 =63,317,66497,508,421→98,754,210−01,245,789 = 97,508,421■全部で20個のカプレカ数が見つかっている・・・この先には??1桁のカプレカ数 03桁のカプレカ数 4954桁のカプレカ数 6,1746桁のカプレカ数 549,945 631,7648桁のカプレカ数 63,317,664 97,508,4219桁のカプレカ数 554,999,445 864,197,53210桁のカプレカ数 6,333,176,664 9,753,086,421 9,975,084,20111桁のカプレカ数 86,431,976,53212桁のカプレカ数 555,499,994,445 633,331,766,664 975,330,866,421 997,530,864,201 999,750,842,00113桁のカプレカ数 8,643,319,766,53214桁のカプレカ数 63,333,317,666,66415桁のカプレカ数 ???,???,???,???,??? ・・・END・・・
2023.07.18
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「円行公園」を後にして、高倉遠藤線に合流し「上河内」交差点を左折して藤沢北警察署方面に歩く。「藤沢北警察署」前を通過。左手に「いすゞロジスティクス(株)藤沢物流センター」。入口。日本最古の自動車メーカー「いすゞ自動車」グループの物流会社として、 自動車部品の国内外からの調達から、工場への納入、完成車両やノックダウン部品の出荷・輸出・納車、アフターサービス部品のお届けまで、サプライチェーンの物流をトータルに担う会社。反対側・右手には「いすゞ自動車藤沢工場」の「第4工場」。そして「円行」交差点の先に、「協同組合藤沢市建設資源リサイクルセンター」が姿を現した。アスファルトコンクリート、セメントコンクリート(無筋・有筋)、コンクリート2次製品、自然石(大谷石・鎌倉石を含む)、路盤廃材、砂質廃材を再生処理をし、用途に応じた品質規格の再生砕石へ再資源処理しているのだ。さらに信号をわたり直進。右手にあったのが「藤沢市 北部環境事業所」。可燃ごみの焼却処理、不燃ごみ及び大型ごみの破砕処理、し尿の処理及び汚泥の処分を行っている事業所。2023年3月31日に同施設「藤沢市北部環境事業所新2号炉」の建設工事が完了し、同年4月より20年間の運営事業を開始したのであった。現在、我が家の可燃ごみ、不燃ごみは4月からここに運ばれ処理されているのである。そして次の目的場所の「リサイクルプラザ藤沢」に到着。神奈川県藤沢市桐原町23番1。「リサイクルプラザ藤沢 廃棄物処理施設」は、不燃ごみや不燃系大型ごみの破砕処理、ビン・缶・ペットボトルなどの再資源化処理を行う施設。最初に「湘南台地区の発展」の説明が館内に入る前に行われた。そして「リサイクルプラザ藤沢」の案内が。・リサイクルプラザ藤沢・環境啓発施設は、「環境にやさしい行動・くらし」について、 見たり、聞いたり、具体的に体験しながら学べる施設です。3R(リデュース・リユース・ リサイクル)の取り組みや再生可能エネルギーの活用、地球温暖化防止などについて、 楽しく学ぶことができます。・太陽光発電、風力発電、屋上緑化・壁面緑化など、省エネルギー型の設備を導入しており、 建物自体がエコに関する展示となっています。・施設内の「市民体験教室」では、古紙を使った紙すき・廃ビンを使ったガラス細工など、 リサイクル等に関する体験型ワークショップ(申込制)や、おもちゃ病院などの催しを 随時開催しています。・併設する廃棄物処理施設の見学コースでは、不燃ごみや大型ごみ、資源を処理する様子を、 自由に見学することもできます。そして館内に。「リサイクルプラザの発電量と消費電力をみてみよう」「リサイクルプラザ藤沢」の「鳥瞰図模型・CGパース」。斜めから。「リサイクルプラザの風力発電量の平均は? 3Wだよ」「私たちができること--うちエコ!アクション①--現在、国民1人あたりが家庭から排出する二酸化炭素は1日平均で約6kg、自分にできることからひとつひとつ、取組を積み重ねて二酸化炭素の排出量を減らしましょう」「私たちができること--エコドライブをしよう--車は発進する時に多くの燃料を消費します。普通の発進より少し緩やかに発進するだけで燃費が10 %程度改善をします.やさしいアクセル操作は安全運転にもつながります。時間に余裕を持ってゆったりした気分て運転しましょう。この他にもできることをやってみよう・加速度の少ない運転をしよう 車間距離は余裕をもって交通状況に応じた安全な定速走行に努めましょう。・道路交通情報を活用しよう 出かける前に計画・準備をして、渋滞や道路障害等の情報をチェック。・駐車場所に注意しよう 渋滞などをまねくことから、違法駐車はやめましよう。・アイドリングストップは5秒以上! 工ンジンを始動するときに心要な燃料はアイドリング約5秒分。5秒以上のアイドリング ストップをすれば省エネになります。「私たちができること--自然を感じる家へ--心地よく暮らせて省エネもできる。そんな贅沢な住まいを作る。そのヒントは昔から日本の風土に根づいてきた、風に親しみ光を感じる暮らし。ムリに何かを削るのではなく、自然の持つ力を最大限に生かす工夫を加えてもっと豊かに住みこなしていく。人に心地よく、地球にもやさしい「エコ・リュクス」なアイディアをわが家にもぜひ採り入れてみよう。」「病気やケガ」の野生の鳥との関わりかた」。「ふじさわECOかるた」。「ふじさわECOかるたで遊ぼう♪藤沢市では、COOL CHOICE(クールチョイス)の取り組みを遊びながら楽しく学べる「ふじさわECO(工コ)かるた」を作成しました。子どもから大人まで幅広く楽しんでいただける内容となっています。COOL BIZ (クールビズ)やWARM BIZ (ウォームビズ)、省エネ機器への買い替えなど、さまざまなエコについてふじキュン♡と一緒に学ぶことができます。」緑色の空き瓶でクリスマスツリー?「選別するもの」。「強力な磁石でスチール缶を選別する機械」スチール缶が磁石で移動しやすいように缶ビール等の空き缶は潰さずに出してほしいと。多くの潰された空き缶が下部に。分離されたスチール缶は「スチール缶プレス機」で圧縮される。スチール缶のリサイクル率は92.9%(2015年度)で、資源ごみでトップクラスのリサイクル率。「アルミ缶プレス機」。アルミ缶のリサイクル率は90.1%(2015年度)、そのうち6~7割がアルミ缶に再利用されている。原料のボーキサイトからアルミ缶を作るには、たくさんの電気を使うんだ。アルミf缶をリサイクルすれば、元の3 %の電気で缶を作ることができ、アルミ缶1缶で液晶テレビがが2 ~ 3時間見られる電気が節約できる と。これは何であっただろうか?横型ハンマーミルか?アルミ缶にはPETボトルやスチール缶、ビニールなどの異物が 混入されていることがあるため、圧縮されたものを改めて バラしてからそれらの異物を手選別する。 さらに、缶についている塗料やコーテイングをキルンで加熱して 除去。それを、回転するハンマーで叩いて、一定の大きさの 粒状、比重に整えて、フレコンに入れて出来上がりとのこと。「回転するハンマー」の使用前、使用後の姿。懐かしき昭和時代の居間の姿が。「ペットボトルの商品化の流れ」。「梱包品フィルム包装機」と「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトルのメカニカルリサイクルフロー」。「PETボトル再商品化の流れ」。瓶(ビン)のリサイクルコーナー。様々な「リターナブルびん」。返却、詰め替えをすることによって、何度も使用できるガラス容器。店や市町村から回収されたリターナブルびんは、洗びん工場できれいに洗浄され、びん詰め工場で再び中身を詰めて、再使用(リユース)されているのだ。「選別品」白、黒、緑、茶の4種類に選別回収。「地球によく効く「3R」のびん詰びんの3Rにより、天然資源やエネルギーの使用量が節約でき、ごみやCO2の排出量を減らすことができます。リデュース Reduce びんの厚みを薄くしてダイエットします。リユース Reuse 使用後は洗って繰り返し使います。リサイクル Recycle 使用後に砕いて資源にします。」「ガラス瓶の主な原料」。「廃食用油」のリサイクルコーナー。回収された廃食用油は精製して触媒などを混じって、バイオディーゼル(BDF)を製造・燃料としてリサイクルされている。2023年度から使用済み食用油を回収する区市町村1自治体につき200万円まで補助する。回収した油はジェット燃料の代替となる再生航空燃料(SAF)の原料としての活用する と。リサイクルできない瓶を手選別。「古着類」のリサイクルコーナー。リサイクルできないプラスチック類も大量に。リサイクルできない種類のダンボールも大量に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.18
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「円行公園」に着く前に本来訪ねる予定であったが、時間不足で訪ねることが出来なかった「円行八幡宮」に翌日訪ねたので、ここにアップする。写真の一部は以前に訪ねた時のものも含んでいます。藤沢市 湘南台3丁目10−5。「社殿」ここ円行八幡宮の、藤沢駅近くにある鵠沼皇大神宮の兼務社になっているのだ と。「八幡宮(ハチマングウ)祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と素戔嗚命(すさのおのみこと)が合祀されており例祭は九月十四日です。慶長十九年(一六一四)桐ヶ谷大膳及び全村が一致して円行東南の地字芳荒に再建しましたが、その後、天明年間の水害にあい、青木伊右衛門氏の畑地を買請け現在地に造営したものです。毎年秋の例祭には神輿渡御が行われます。」「円行八幡宮 改築寄進者御芳名」碑。「大東亜戦争戦没者慰霊碑」。この地区から出征して、戦死した方々の名と戦没地・日付が刻まれているのであった。「御神木」。「御神木 クロガネモチ」。秋になると、赤い実を付けますが、この時期には小さな花が咲きます。これがミツバチにとってはこの時期の大好きな蜜源となります。十三重石塔。廻り込んで。「絵馬掛け」。左右非対称の屋根。♡が中央に。左手に「手水舎」。龍の吐水口(とすいこう)に近づいて。横から。「社務所」&「神輿殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。正面に「社殿」。唐破風の下の懸魚の彫刻。ズームして。さらに。鳳凰の姿か?その奥の彫刻。下部の彫刻をズームして。上部の彫刻をズームして。木鼻の彫刻(右)。木鼻の彫刻(左)。黄金色に縁取られた扁額。「八幡宮」。「脇障子」の彫刻(右)。裏側は!!「脇障子」の彫刻(左)。「境内社」の「豊川荼枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。近づいて。昔、順徳天皇第三皇太子である寒巖禅師(かんがんせんじ)が感得された、霊験あらたかな仏法守護の善神です。 豊川荼枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っている と。社殿に向かって左側にあった庚申塔、「軍人戦死碑」。「軍人戦死碑」。「明治十三年?二月建 相州高座郡圓行村」と。 その左隣には、庚申塔が埋め込まれた台座のようなものが!その左隣にも、2基の石碑が並んでいた。「庚申塔」。「庚申塔」。社殿の横から海老虹梁を見る。右側から。左から。柱下部・段木端部の装飾。社殿の四方柱上部の彫刻。中間の柱上部にも。ズームして。賽銭箱の社紋は「左三つ巴紋」。「本年度例大祭宵宮 九月九日 午後五時より式典 九月十日 午前十時 斎行渡御 修祓 午前 十一時 宮出し(雨天決行)」七五三祈願祭日時十一月 十二日十二時より斎行」石鳥居と手水舎を振り返る。そして社殿を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.17
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「今田鯖神社」を後にして、向かいの神奈川県立境川遊水地公園内にあった「今田監理センター」を訪ねた。ここがこの日の昼食会場。昼食は各自持参。ここ、今田管理センター学習室は、境川流域等の河川環境の向上、境川遊水地公園の利用促進、総合学習および生 涯学習、地域におけるコミュニティーづくり及び地域文化の振興に資するために利用する、地域の自治会、文化サークル及び河川環境の向上に資する活動等を行う団体等が利用できるとのこと。内部には既に七夕飾りが置かれていた。「今田遊水池」に飛来する「オオバン」の姿であろうか。管理センター内に展示されていたパネルを追う。「境川遊水地公園の位置神奈川県立境川遊水地公園は、横浜市戸塚区、泉区、藤沢市の境に位置する、広さ26.1ha(東京ドーム約6個分)の都市公園です。河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。境川下流部の洪水被害を軽減させるための遊水地を平常時には公園として有効利用し、河川事業と連携して整備を行っています。公園内は境川の水辺空間を活かし、様々な生き物が生息できるビオトープが整備され、一年を通じてさまざまな生物の観察や水辺の風景を楽しむことができます。また、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートなどレクリエーションの場も提供しています。」と。【境川について】県北部の城山湖付近を源として、都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ二級河川です。流路延長:約52km流域面積:約211km2流域市:相模原市、町田市、大和市、横浜市、鎌倉市、藤沢市の6市。【藤沢大和自転車道】引地川及ひ境川に沿って北上し、主に河川敷を利用しながら大和市下鶴間に至る自転車道です。距離: 24.5km時間:約2時間30分最大標高差: 66m始点・終点:大和市国道246号~引地川河口【境川遊水地公園】河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。名称:県立境川遊水地公園開園面積:約18ha公園種別:総合公園開園:平成19年年間来園者数:約24.5千人(平成24年度)「境川の洪水境川流域は市街化が進み、雨水を地中にしみ込ませたり、貯めたりする機能が低くなってきました。そのため水害が起こる危険が高まっています。境川流域では、これまでも台風や集中豪雨による洪水の被害がありました。」近年の主な洪水被害。「遊水地の役割大雨が降ると、雨水が短時間に多量に河川に流れ込みます。このため、遊水地をつくり、その中に洪水を-時的に貯めることで下流に洪水が一気に流れ出すことを防いでいます」「境川の遊水地の概要境川遊水地は3つの遊水池があって、合わせると約30haの広さがあり、約90m3 /秒の洪水調節を行ないます。平成2年度から事業に着手しました。」遊水池配置。「境川遊水地の効果」境川境川遊水地(俣野・下飯田・今田)の効果(平成30年3月豪雨)◯平成30年3月9日の豪雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、 時間最大雨量が48mm、連続量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約890,000m3を貯留しました。(小学校25mプール 約2,400杯分に相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約114cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田の効果(令和元年10月 台風19号)◯令和元年10月の台風19号に伴う降雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所及び 泉消防署雨量観測所において、時間最大雨量が32mm、相模大野観測所において、連続雨量 323mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約960,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約2560杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約24cmの水位を低減させる効果があったものと推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田)の効果(令和3年9月 台風14号)◯令和3年9月の台風14号では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、時間最大 雨量が62mm、連続雨量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約653,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約1741杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約136cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。大雨が降ると、3遊水地のうち最も上流にある今田遊水地から水門を閉め、水を貯め始めます。川の水は越流堤から流れ込み、施設全体に水が入ります。雨が止み、川の水位が下がってから貯まった水を放流します。今田遊水地に水を貯める事で下飯田・俣野遊水地への流入が軽減しています。「境川遊水地の鳥」「境川遊水地周辺の魚」アユも紹介されていた。「境川湧水地の植物」そして管理センター内の緑地のベンチで購入しておいたシュウマイ弁当で昼食を楽しんだ。「今田管理センター」前の配置図。ベンチから「芝生広場」を見る。ここが、1次遊水地(ビオトープ)の溢流水の2次遊水地となる。2次遊水地の「芝生広場」の奥に、左に大きくカーブする「横浜市営地下鉄ブルーライン」の高架橋。その奥が「相鉄いずみの線」。そして昼食を済ませ、次に訪ねたのが、「湘南台公園」の北側の住宅地の間にあった石造物群。藤沢市湘南台7-2-13(大字今田字西原)。正面から。入口の左側にあった「地蔵菩薩立像 亨保2(1717)年6月 122cm」。その先にあった三基の「庚申供養塔」。右側:庚申供養塔(尖塔角柱型)、明和元(1764)年11月 124cm左側面には人名が。右側面。高座郡今田村、三名の名前が刻まれていた。中央:庚申供養塔(尖塔角柱型)、天保12(1841)年11月 124cm 南 藤澤道(右側)、北 八王寺道(左側)道標付き北 八王寺道(左側)南 藤澤道(右側)左側:庚申供養塔(重頭角柱塔)、文政13(1830)3月 97cm「庚申供養塔」、「文政十三年」、「寅三月」の文字が刻まれていた。「国道467号」に出て「湘南台文化センター 市民シアター」を見る。湘南台文化センターの象徴とも言える巨大な地球儀。その中にあるのが、この広大なドームスクリーンを有する宇宙劇場。その直径はなんと20メートル。傾斜した床には全160席の全てのお客様が楽しめるように座席が配置されているのだ。そして、次に「円行公園」に向かって湘南台275号線を進むと、カーブ右手にも石碑群があった。藤沢市湘南台3-1-12(大字円行字東谷)。右側に「石廟」と「五輪塔」が。「五輪塔」の残欠集石、52cm高とのこと。「石廟」は切妻・流造で68cm高と。「堅牢地神塔」:文久3(1863)年8月 97cm堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教の「地天」に由来する。天部の神々の中で梵天が天を象徴するのに対し、地天は地を象徴する神とされる。日本の民間信仰では地を堅固に守る神との考えから農村の守護神として信仰されたのだ。右側面に「癸文久三年(1863) 亥八月社日」と。台座には「圓行村」と。左側面には「右婦ち澤(藤澤)道、左八王子みち」と刻まれていた。手前は双体道祖神塔:宝暦12(1762)1月 58cm後ろは庚申橋供養石塔:宝暦5(1755)年3月 76cmそして「円行公園」に到着。藤沢市湘南台3丁目3−6。「湘南台駅から引地川に向かって坂道を下りていくと、緑豊かな円行公園がみえてきます。遊び場としての要素だけでなく、斜面地形を利用した竹林、梅を楽しめる庭園的要素を取り入れたこの公園は、引地川沿いの桜並木と共に、季節に彩りを添えています。」とネットから。「竹林」の中を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ そして今日は私の【♡73歳お誕生日おめでとう♡いつも、見守っていてくれてありがとう。これからも、元気で長生きしてね!!また一緒にお風呂にはいろうね♪大好き!じいじ~♪♪♪】と。
2023.07.16
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今年も我が家の庭のグラジオラスが開花しています。グラジオラスは花色が豊富で、あらゆる花色が楽しめ、花弁もフリンジ咲き、平弁咲き、反転弁咲き、受け咲きなどがあります。グラジオラスの名の由来はラテン語の「剣」という意味のグラディウスで、葉の形からきていると。日本へは江戸時代の末期に一度渡来しましたが、栽培がうまくいかずに明治になって再渡来し、その後に栽培が普及し、現在では切り花として年間を通じて作られていると特に植え替え等はしていませんが、毎年花をつけて楽しませてくれます。グラジオラスの花言葉は「密会」、「用心」、「忘却」、「勝利」、「思い出」。むらさきの色のグラジオラス。夏の花壇を華やかに彩ってくれるグラジオラス。鮮やかな花色の2色咲きタイプ。華やかな色の競演を楽しめるのです。うす緑のグラジオラス。そしてホオズキ(鬼灯)。鮮やかなオレンジ色の果実を提灯に見立て、お盆に飾ることでも有名。 古くに中国から薬草として渡来したと考えられていますが、現在では観賞用として鉢植えや切り花で流通している。7月9日・10日、浅草寺境内を彩るほおずきの屋台は、浅草の夏の風物詩である。この両日は四万六千日の縁日であり、縁日にともなってほおずき市が催されたとテレビのニュースで。そしてカサブランカ。菜園にはノアザミの花が。どこからか種が飛んで来ました。この花の周りの草むしりは、葉の棘が痛いのです。そして我が趣味の養蜂場のヒマワリ(向日葵)の花。今年は多花性・枝咲きのヒマワリをタネから育てました。ズームして。ミツバチのようなポリネーター(花粉媒介者)は、より温度が高い花に飛んでいく傾向があるそうです。さらに、温度が上昇すればするほどたくさんの花粉が放出されると。ヒマワリは、主たるポリネーターであるミツバチが活発に活動する午前中に自身の温度が上がるよう太陽の方を向くようです。つまり、それが東側というわけです。ミツバチが活発に活動する時間帯に温度を上げることが、最も効率よくたくさんの花粉をミツバチに運んでもらうことができる術を知っているのでしょう。そしてこちらも養蜂場で咲くアーティチョーク。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。形態的には大型アザミ。若いつぼみを食用とするヨーロッパの春野菜(花菜類)とのことですが、未だ食べたことはありません。そして我が家の裏の農家の温室前の水タンクに咲く蓮の花。鮮やかなピンク!!そして淡い黄色で。 ・・・END・・・
2023.07.15
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「下和泉鯖神社」を後にして、「和泉川」沿いの水田地帯を進む。珍しい色彩のアジサイの花。「ハルシャギク(波斯菊)」であっただろうか。キク科ハルシャギク属の一年草。空き地や道端などに生える雑草であるが。和名の由来となっている「ハルシャ(波斯)」はペルシャのこと。別名はジャノメソウ(蛇目草)。花期は春〜この時期・初夏。花の色は、中心が濃紅色で、周辺は黄色の蛇の目模様であり、別名のジャノメソウ(蛇目草)の由来となっている。花は外側が黄色で、真ん中が濃紅色となっており、上記の如く「蛇の目模様」を連想させます。そもそも「蛇の目模様」とは、大小2つの太い輪からなる模様のことを指します。その名の通り、蛇の目に似ていることに由来しており、おちょこだけでなくさまざまなものにデザインされている。昔の番傘などにもよく用いられた模様であり、通称「蛇の目傘」と呼ばれていたのだ。花色は変化が大きく、黄色と赤茶色の部分の割合は株によってずいぶん異なり、どちらか一色だけになってしまったものもたまに見られます。また八重咲きになることもあるとのこと。「境川遊水地公園テニスコート」が左下に。神奈川県横浜市泉区下飯田町664。「神奈川県立境川遊水地公園」内にある「鷺舞橋(さぎまいばし)」が見えて来た。「境川遊水地公園テニスコート」の先に「横浜薬科大学」の「図書館棟」を見る。「図書館棟」をズームして。「境川」に架かる「鷺舞橋」を渡る。「鷺舞橋」。「境川」の下流側を見る。前回訪ねた「境川遊水池情報センター」の姿が確認できた。「境川遊水池情報センター」をズームして。「鷺舞橋」。「境川遊水地公園」のシンボルとなる国内初の片面吊り曲線吊橋の設計デザイン。2008年12月に開通。自転車・歩行者用の橋。吊橋が片側だけで斜めになっているのが特徴で印象強い。周りは散歩やランニング、サイクリングされている方が多いのであった。国内初の片面吊り形式の曲線吊り橋となる橋長129mのPC(Prestressed Concrete)2径間連続吊り橋。橋脚から斜め外側に鋼製主塔を構築し、頂上から橋台部のアンカーに向けて張ったケーブルで桁を吊っている。ドイツのヨルグ・シュライヒ博士が考案した一面吊り曲線吊り橋の考え方を参考にしたのだと。平成21年度PC技術協会賞受賞作品 と。橋の片側だけをワイヤーロープで釣る世界的にもめずらしい橋。歩行者専用というのがもったいない!!実際にこの地区は白鷺などが飛来するところでもあり、この橋の設計が、鷺が羽を広げて飛び立つ姿に似ていることから「鷺舞橋」と名付けられた と。そして「境川」に架かる「今飯橋」を渡り、次の目的地の「今田鯖神社」に向かって「下根広町線」を西に進む。「県立境川遊水地公園」案内板。案内に従い、右折して進むと右手にあったのが「県立境川遊水地公園」の入口。「県立境川遊水地公園」。「県立境川遊水地公園」案内板。「県立境川遊水地公園」は、境川遊水地の上部空間を県立公園として整備したもので、平成16年(2004)度に事業着手し、令和元年(2019)7月に全面開園した。公園内には、境川の自然豊かな水辺空間を活かし、様々な生きものが生息できるビオトープがあり、環境学習などが体験できる場を提供している。また、レクリエーションの場として、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートの有料施設と、噴水広場や芝生広場などの施設がある。境川遊水地では、上部空間を県立公園として有効利用するため、池の中に中央越流堤を設置し、「ビオトープなどの自然創出ゾーン(一次池)」と「多目的利用ができる広場ゾーン(二次池)」にエリアを分離しているのであった。民家のフェンスには「木イチゴ」が。近づいて。黄色の「ハイビスカス」の花。近づいて。そして前方に「今田鯖神社」の石鳥居が姿を現した。神奈川県藤沢市湘南台7丁目201。「石鳥居」明神鳥居。昭和35年8月杉山憲氏奉納 と。扁額「鯖神社」。「今田鯖神社掲示板」には多くの「今田鯖神社」関連の資料が掲示されていた。平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。ネットから。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鯖神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下諏訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしょう。しかし、そもそもどういういわれで鯖神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」と。「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。美浜町野間法山寺 源義朝公之像をネットから。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」「お神札(ふだ) それはお家(うち) の感謝する時、願う時自然と手のひらをあわせるように私達は祈りのある暮らしの中に生きています。お家(うち) にも、祈りの場としてまずお伊勢さまと氏神さまをおまつりください。」境内参道を進む。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。その先にも石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納。石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納。「鯖神社 由来」。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 当地住人井上瀬兵衛により造立される。祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」。「神楽殿」・大正8年建築 と「社務所」。社務所は平成15年7月改築、神楽殿に増築。正面に「社殿」。祭神:源義朝公。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。左手に「手水鉢(漱水盥・そうすいかん)」。嘉永4年(1851)10月奉納。平成18年9月台座新設。その横に4基の石碑がならぶ。左から用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「道路改修記念」碑。昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「鯖神社 新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年(1702)の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年(1995)八月十一日の放火により、昭和八年(1933)建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年(1997)三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三(2001)年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(2006)十月吉日 氏子中」「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。裏側には「序文昭和八年に新築された社殿の六十余年に亘る歴史が平成七年八月惜しくも無宿人の火気の不始末が原因で全焼するに至った幸にも源義朝公の御神体が無事に搬出された爲有志による試験委員会を設立し計画を進めた結果数多くの人達の心温かい 御支援と再建委員各位の御努力により二年余を経て再建を果たした昭和四十年初めより藤沢市北部開発事業が進み三十余戸の地域の戸数や人口が急激に増加したが当地に居を構えた方をはじめ 関係在る方々がこぞって再建に御協力頂いた事は大変喜ばしい事です 戦後の混乱から高度成長期を経て生活環境が備わった 反面環境破壊やゴミ対策更には人の心のあり方が問題化して来た 今後益々環境の悪化が見込まれ百年先の状況を想像する事は 困難であるが人々が当神社を地域の護り神として敬愛し豊かな心を持ち続け健康で明るい地域を持続する爲にも鯖神社の存在が 大きな役割を果たすことを期待すると同時に末永く存続する様祈るものである 平成九年十月吉日 再建委員長 井上保次謹書」社殿の右側にあった「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。社殿に向かって左側にあった「荒神様」。元禄5年(1963)9月作井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「三面六臂荒神石像」。「鯖神社」の「社殿」を手前から。扁額「鯖神社」。「軒唐破風」。「内陣」。「本殿」を斜めから。社殿の裏には小さな「五輪塔」が反対側にも小さな「宝篋印塔残欠」。「本殿」の屋根。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作令和五年・癸卯(みずのとう)絵馬」そして社殿を振り返る。参道の坂道を下って行った。再び振り返って。右手に「神楽殿」・大正8年建築。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.15
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以前から我が藤沢市には各会社の電車の駅が多いことは解かっていたが、今日、その詳細を調べてみた。鉄道路線図から我が藤沢市の駅を赤線ーで囲んで見ました。各路線の詳細駅名は■JR 2駅:藤沢、辻堂 東海道線■小田急線 9駅:長後、湘南台、六会日大前、善行、藤沢本町、藤沢、 本鵠沼、鵠沼海岸、片瀬江ノ島■江ノ電 6駅:藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江ノ島■モノレール2駅:湘南江の島、目白山下■相鉄線 1駅:湘南台■横浜市営 1駅:湘南台 地下鉄 合計 21駅(6社)因みに、我が藤沢市周辺の市についてその数を調べてみた。鎌倉市: 18駅(JR3駅、江ノ電9駅、モノレール6駅)茅ヶ崎市:3駅(JR3駅)平塚市 :1駅(JR1駅)大磯町 :1駅(JR1駅)二宮町 :1駅(JR1駅)小田原市:18駅(JR4駅、小田急5駅、大雄山5駅、箱根登山4駅)大和市 :10駅(小田急6駅、東急田園都市2駅、相鉄2駅)綾瀬市 :0駅(新幹線が市内を通過するのみ)※JR各線の駅は1駅とした。人口40万~50万の市町村で、これほど多くの電車駅がある市町村は全国にどれくらいあるのだろうか。因みに藤沢市の人口は、6月1日現在44.4万人である。藤沢市の面積は69.75km2。平塚駅の面積は67.83km2とほぼ面積は同じなのである。しかし電車の駅数は藤沢市21駅(6社)、平塚市はJR平塚駅1駅のみである。さらに、藤沢市では、相鉄いずみ野線が、二俣川-湘南台を結ぶ鉄道路線で、平塚方面まで延伸する計画がある。湘南台-慶應SFC(湘南藤沢キャンパス)間に単線を敷き、途中駅を1つ設ける構想が具体化しつつあるのだ。将来的には、茅ヶ崎市倉見➡平塚というルートが有力になっている。さらに、JR東海道線の藤沢―大船駅間に新駅「村岡新駅」(仮称、藤沢市)を設けると下記の如く発表した。都市計画や詳細設計などの手続きに着手し、開業は早くて2032年ごろとなる見通しだ。よってこれらが全て具体化すると現在の21駅+2駅+1駅=24駅となるのである。それにしても、我が藤沢市の電車駅の数が多いことを今更ながら知ったのである。交通インフラには恵まれていることは、否定しないが人口の高齢化が進む中、このインフラを有機的に活用し、市内の東西方向、隣市への移動に対する循環バス、ミニバス等によるバスルートの新設・充実、その他の移動手段の必要性を感じているのである。 ・・・END・・・
2023.07.14
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「下飯田佐馬神社」を後にして、再び「ゆめがおか駅」方向に戻る。横浜市の雨水用マンホール蓋は「横浜ベイブリッジ」のデザイン。相鉄いずみの線「ゆめが丘」駅東口~横浜市営地下鉄ブルーライン「下飯田」駅北口の再開発・大規模商業施設建設現場を見る。地下鉄 下飯田駅方向に向かって進む。地下鉄 下飯田駅前を通過。「和泉川」に沿って歩く。「草木橋」を渡る。「草木橋」。「和泉川」の下流側・ビオトープを見る。ビオトープは、動物や植物が安定して生活できる生息空間(生物生息空間)のこと。ドイツで生まれた概念で、「bio(命)」と「topos(場所)」というギリシア語を組み合わせた造語だ。川やアマゾンの雨林などの大きな空間から、池や小鉢などの小さな空間まで、魚や虫、多様な微生物が住まうところはビオトープと呼ばれる。「和泉川」。「和泉川・ビオトープ」を右に見ながら下流方向に進む。次に訪ねたのが「四ツ谷湧水」。和泉川側道沿いに、案内の標柱も設置されていた。「四ツ谷湧水」の流れに沿って遡る。ここが「湧水」の現場。近づいて。泉区は地下水脈に恵まれ、湧水の数は市内有数であると。四ツ谷湧水は、和泉川の下流、中和泉から下和泉にかかる辺りの一段高くなっている畑の下のくぼみにあり、にじみ出るように水が湧いていた。ほとんど枯れたことがないといわれる湧水であると。和泉川の下流域、中和泉から下和泉に広がる一段高くなった畑の下に水の湧(わ)き出るくぼみがある。長年、畑の水遣(みずや)りに使われてきたが、最近は区の花・アヤメも植えられるなどきれいに整備され、澄んだ水溜(みずたま)りにはオタマジャクシやザリガニの姿も。「四ッ谷湧水」石柱。アジサイの花。そして「和泉川」に沿って南に進むと、「和泉川」の右岸に「稲荷神社」があった。神奈川県横浜市泉区和泉町1032。前方に「赤坂橋」。「赤坂橋」の下を通過。ブルーベリーの苗の栽培であっただろうか?そしてこちらはユーカリの苗。「環状4号線」の地下道の壁には富士見ヶ丘連合一同の絵画が描かれていた。見事な白のアジサイの花。「鍋屋」交差点を渡る。次の目的地の「下和泉鯖神社」に向かって進む。左手にあった長い石段が「密蔵院」👈リンク への参道。途中左手を見上げると、参道の途中を「環状4号線」が横切っているのである。そして「下和泉鯖神社」に到着。神奈川県横浜市泉区和泉町705。一の鳥居を潜り、石段を上って行った。正面に「社殿」。扁額は「鯖大明神」。「下和泉 鯖神社祭神は 贈従二位大将軍佐馬頭源満仲 甲冑帯剣乗竜馬神勧進社は官名をとりたて左馬神社と言う後に国制改革により鯖神社に改名する 相模の国に左馬神社七社ありこれを相模七左馬と言う他の六社同様に古い歴史を有し建立期は慶長年間【西暦一五九六~】で四〇〇年以上経ています社殿に掲示されている【鯖大明神】の額は 天保七年五月に 時の神祇管領卜部朝臣良長が参向の際に奉納したもので 昔からかなり格式の高い神社であった事が分かります。例大祭は毎年九月九日 近年では前後の土日に催行しています。参考文献 泉区の歴史」社殿の内陣。「本殿」を斜めから。その脇の奥にあったのが「境内社」。近づいて。「境内社」の社殿。「下和泉 鯖神社」の奥にあっ民家の墓地。反対側からも「本殿」を見る。説明員の方の話を聞く旅友。社殿前から境内を見る。石灯籠。石灯籠のデザインもいろいろで、神様の使いでもある「鹿(シカ)」がデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.14
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我が菜園の「花オクラ」が花を付け出しました。オクラとよく似た美しいレモンイエローの花を咲かせる「花オクラ」。実ではなく花を食べるのが特徴です。花オクラはアオイ科トロロアオイ属に属する一年草。「トロロアオイ」や「黄蜀葵(オウショッキ)」とも呼ばれている。花オクラは中国原産の植物で、花や根の部分が食品や漢方薬として活用されて来たとのこと。日本へも古くから伝わっていて、根と果実の粘液が和紙ののりとして使われていたとのこと。花を5個ほど摘んで来ました。花オクラは実ではなく花の部分を食べるのです。花オクラの花は花弁が5枚で、オクラの花とよく似た淡いレモンイエロー色をしており、中心部と雄しべの柱頭が濃いワインレッドをしています。朝に咲いて夕方にしぼんでしまう一日花。旬は6~8月で、最近では道の駅や農家の直売所などで販売されているようです。花オクラの花は10~20cmほどの大きさで、オクラの花の2倍ほどのサイズ。花オクラも実をつけますが、かたく短い実でオクラのような長いさやにはなりません。食べてもふさふさとした毛が口に残ってしまうため、食用には向かず、食べられることはほとんどないのです。指で根元を切り落とし、雌花やがくを取り除いて花びらだけにします。そして沸騰したお湯でさっと湯通しします。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいのです。そして直ぐに冷水に浸します。冷水には、花オクラの黄色い色が溶け出して。そして寿司酢を加えて出来上がり。氷を入れて、ビール片手に楽しんだのでした。特有のぬるぬる食感と美しい色合いが魅力的なのです。淡白な味わいなのでどんな調理法でもアレンジしやすいのです。今まで花オクラを使ったことがなかったという方も、ぜひ花オクラを活用して夏らしい食卓にしてみてください!!花オクラは淡白な味わいなので、さまざまな料理に活用しやすい食材。おすすめの調理法をいくつかネットからご紹介します。「■サラダ新鮮な花オクラが手に入ったら、生のままサラダにしてシャキシャキした食感を味わいましょう。下処理をした花びらにドレッシングをかけてそのまま食べると、花オクラ特有の味わいと歯ごたえを堪能できますよ!花びらを刻んでサラダに入れたり、花びらで生ハムなどをくるんだりするのもおすすめです。■おひたし美しい色合いを活かしておひたしにするのも定番です。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいですよ。加熱するととろりとした粘り気が強くなるので、オクラに似た食感も楽しめます!できたてを食べるのはもちろん、冷やして食べてもおいしいですよ。■天ぷら花オクラの天ぷらもぜひ味わってみてほしい一品。花に薄く衣をつけさっと揚げましょう。花びらを一枚ずつ揚げてもよいですし、つぼみをそのまま揚げても大丈夫です。サクサクの衣と粘り気のある花オクラのもっちりとした食感の違いが楽しいですよ。ほんのりと苦味があり、オクラ特有の香りや風味がたまりません!素材の味を感じられるようシンプルに塩でいただくのがおすすめです。■寿司鮮やかなレモンイエローの色合いを活かして寿司にするのも人気です。さっと洗った生の花びらの上に寿司飯とお好みの刺し身や野菜を盛り付ければ華やかなメニューが完成します。小さく握った寿司飯の上に花びらを巻いた手巻き寿司にしてもとても可愛いですよ!」と。次回は「天ぷら」で楽しみたいと思っています。 ・・・END・・・
2023.07.13
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そして「左馬神社」の「一の鳥居」前に。「鯖社境内払下記念碑」。背面には次の如く刻まれていた。「当神社境内地ハ官有地ナリシガ昭和二十二年五月三日布告ノ新憲法ニ依リ当神社払下ヲ受ケ之ガ申請ニ際シ実地測量セシ○旧来ヨリ二間巾ノ参道ヲ三間巾ニ拡張スルニ当リ小菅一雄氏ヨリ地所約四十坪奉納セラル之ニ依リ昭和二十五年一月二十五日付払下許可ヲ受領シ之ヲ永遠ニ記念ス 昭和二十五年四月十八日 氏子中」参道の左側には「下飯田会館」。「二の鳥居」に向かって参道を進む。「二の鳥居」手前の左側には石碑が並んでいた。「供養塔」と「不動明王」。近づいて。「供養塔」。「不動明王」。その左にも石碑が並んでいた。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」群。石造りの「二の鳥居」。扁額は「左馬神社」。「奉納大鳥居特志寄附者 小菅長作昭和五十三年七月三十日石工 浅見勝三」。前方に「社殿」。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。「左馬神社 氏子中参道改修記念昭和五十七年十二月吉日」「石灯籠」。ユニークな形状。載っているだけ??「社殿」創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。石橋山・富士川の合戦の働きを源頼朝に激賞された飯田五郎家義(飯田三郎家能と同一人物とも)が創建したとも伝えられる。【開創時期は社伝によれば、鎌倉時代初期との伝承を残しているが不明です。文禄年中(1592~95)に境川辺の僧が勧請し、現在地に移って東泉寺持として受け継がれたのではないかと見られます(川戸清氏説)。東泉寺は巨木山と号し、曹洞宗の植木村龍峰寺の末寺でした。下飯田村の鎮守です。】とこの日に頂いた資料から。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。神奈川県横浜市泉区 下飯田町1389。近づいて。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われています。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復しました。境内のイチョウは市指定の名木古木です。他に堅牢地神塔(けんろうじじんとう)・庚申塔などがあった。さらに。扁額は「左馬神社」。内陣。社殿の右側奥に「境内社」。朱の色の祠は、「筧(かけい)稲荷社」。平成二十八年に社殿修復された。「筧稲荷社」に向って右手に堅牢地神塔、青面金剛が形取られた庚申塔(寛延二年(1749))があった。ここにも石碑が。「堅牢地神塔」と六手・合掌型の「青面金剛像」。持ち物は三叉劇、宝輪、弓矢、中2手は金剛鈴と金剛鈷であろうか?「本殿」を右側から。社殿左側の「境内社」。内陣。境内の大銀杏。「第六十一回 平成二十二年五月二十三日全国植樹記念樹神奈川県神社庁」。再び「社殿」を正面から。「サバ神社」とは・・・・頂いたこの日の資料から転記させていただきます(以下同様)。・境川・和泉川の沿岸や引地川沿岸には12社の「サバ神社」と称する神社が現存します。一部は近世になって合祀などにより名称変更されて例えば「飯田神社」、「七つ木神社」となった社もありますが、それらを含む多くの神社がこの周辺地域に存在するのはなぜでしようか。今回はそれらのうち、境川沿岸の左馬神社(下飯田)、鯖神社(今田)ろ和泉川沿岸の鯖神社(下和泉)の3社を巡り、「サバ神社」の由緒は石塚勝氏の説を中心に紹介します。(1)「サバ神社」の謎①なぜ「サバ」という社号の神社が境川流域を中心に、東西3km、南北10kmの狭い範囲に集中して いるのか。(地域の謎)②なぜ当地にだけ、全国的には類例がない源義朝を祭神とする神社があるのか。和泉川流域三社が 源満仲を祭神とするのは何故か。(祭神の謎)③「サバ」の社号が「鯖、佐波、左馬、佐婆、佐馬(現在は無し)」と多岐にわたるのだろ うか。(社号の謎)④引地川沿いの石川地域に一社だけ、「サバ神社」が存在するのはなぜだろうか。(引地川の謎)⑤御霊神社が存在する村落には「サバ神社」は存在しないのはなぜだろうか。(御霊神社との 関係性の謎)《地域の謎》 ・分布域の地理的な特性として水害・湛水地帯であったことがあります。上流から急こう配 で流れた境川が横浜市瀬谷区瀬谷あたりから緩勾配となり、藤沢市西富辺りまでの約16km はほぼ平坦になり、暴れ川の異名に叶った悪水となります。「サバ神社」はいずれも川沿い の小高い場所に鎮座しており、現存の社殿は8社が流路に平行に、4社が川に直面していて います。こうした実状から、水田耕作に苦労する地域に水を鎮める「沢の小祠」として祀られ たのが、同社の始まりといわれています。《祭神の謎》 ・義朝は鎌倉時代を開いた頼朝の父ですが、源氏の元祖でも、中興の祖でも無く神社の分布域に 限っての特別な関りも判然としません。このような状況から推測すると義朝を祭神とする 「サバ神社」は天正19 (1591)年に瀬谷村の領主となった旗本長田(おさだ)忠勝により初めて 祀られたとされます。義朝は平治元(1159)年の平治の乱で敗れて東国に向かう途中、従者 鎌田正清の義父であった尾張知多郡内海荘司長田忠致(ただむね)を頼りましたが、裏切られ 惨殺されました。忠勝は逆臣の一族とされ、江戸初期に境川左岸の古宮を旧社地から300m 北東の高台に社殿を建立し、社名も義朝の最高官位であった左馬頭(さまのかみ)から採って、 義朝の霊を鎮めるとともに、「沢の小祠」を合祀して暴れ川鎮めを図り、これが住民に受け 入れられたと推測されます。 源満仲を祭神とする和泉川沿いの3社は、和泉村を知行した能見松平氏にとって、本源は満仲で 義朝は傍系となるので、祭神を付会させたのではないかと見られています、領主の泉氏が信濃 源氏であり、祖は満仲の弟満快であるが、満快が祭神では頼朝に憚りあり、源氏一門にとって 異論のない満仲にしたと元藤沢地名の会会員植松晴男氏説もあります。」《社号の謎》 ・義朝は勇壮な武将であったので、疫病からの守り神として崇められました。他方、鯖に整腸 作用がなどの薬効があるという知識が江戸時代中期以降に一般化しましたが、鯖の漁獲は 20世紀半ばまでは西国が中心でした。そのため、病を癒すとされた貴重な鯖にちなんで社名 にその字が使われるようになり、19世紀後半から20世紀初めに至り、厄除けのため7つの サバ神社を参拝する七サバ参りが盛んになったといわれます。基本的には沢=「佐波」から 義朝=「左馬」へ、さらに「鯖」へという流れですが、流れの実情は一様ではありません。 ・七サバ参りは年寄りが子供を背負って、正月一日に七社を巡ると子供が流行病に罹らないと いう幕末頃から流行した民族信仰で、大正中期まで盛んだったといわれます。 七サバ社は特定の神社に固定したものではなく、いずれのサバ神社でも七社を巡拝すれば 良いとされます。七サバ参りの巡拝例を下記します。《引地川の謎》 ・石川の「サバ神社」は「佐波」と表記する唯一の神社ですが、昔は引地川の水害で別の場所 から今の高台に移動したこと、西俣野同様、義朝による侵攻を受けた大庭御厨の領域で あったことから、「サバ神社」を建立し、「鯖神社」から「佐波神社」と社号も変えています。 この説は東俣野の郷上史家川戸清氏が示されています。《御霊神社との関係性の謎》 サバ神社周辺の村落には権五郎景正を祀る御霊神社がいくつか存在します。非業の最期を 遂げた義朝の霊が祟りをもたらし、霊を鎮めるために祭神として祀ったサバ神社は、御霊神社が 鎌倉郡内の各地に勧請される過程で、郡境の境川流域に派生し出現した御霊神社の一種と みることができます。そのため、同一地域に神明社・天王社・山王社等の様々な社が混在する なかで、サバ・御霊両社のみは並存せず、地域分けして分布しています。サバ神社のある俣野内 には御霊神社が無く、御霊神社のある深沢・深谷等にはサバ神社はありません。(2)サバ神社一覧 現存する「サバ神社」は12社ありますが、廃絶された東俣野を加えると13社となります。 先の川戸氏は現東俣野(戸塚区東俣野1 7 2 8ー2 )にはもうーっ「大明神」と呼ばれていた ていた石祠が、現在も元の上俣野村域にあり、これは境川の氾濫による流路変更のため、 現東俣野村域に2つの「サバ神社」があると主張されています。西俣野の小宮を含め、保野郷の 3村には西俣野村、上俣野村、東俣野村の3つの「サバ神社」が社殿へ発展前の小宮・石司形態で 存在したとの説です。・「サバ神社新旧対照一覧」を表1に、「サバ神社十二社配置図」を図4に示します。「表1 サバ神社新旧対照一覧表」「サバ神社十二社位置図」屋根に二つあった社紋は「左三つ巴紋(ひだりみつどもえもん)」。「横浜市泉消防団」と。「観世音」碑。「不動明王」と「ニの石鳥居」を振り返って「左馬神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.13
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この日は6月20日(火)、藤沢地名の会・第267回例会・地名探索である「境川、和泉川沿いのサバ神社と新たなまちづくり湘南台地区」に参加して来ました。集合場所・時間は相鉄線ゆめが丘駅改札・9:30であった。小田急線の湘南台駅から相鉄線に乗り換え「ゆめが丘」駅に到着。自宅から30分弱。相模鉄道(相鉄線)は2023年3月に、東急との相互直通運転を開始。2019年開業の相鉄新横浜線羽沢横浜国大駅から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅に直通。東京メトロ南北線・副都心線、都営三田線、埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線、東武東上線とも直通運転が開始され、神奈川県から渋谷・目黒、さらに埼玉県に至るまで、首都圏の広域鉄道ネットワークに繋がったのであった。また、JR南武線や東急東横線と接続する武蔵小杉駅に続き、西大井、恵比寿、渋谷の各駅に停車終点はJR新宿駅。 JR線内は湘南新宿ラインと同じルート。 相鉄やJRは相鉄海老名~JR新宿間を相鉄・JR直通線と呼ぶのだ。「ゆめが丘」駅のホームはリニューアル工事中。そして「ゆめが丘駅」の西側は泉ゆめが丘地区土地区画整理事業が行われていた。駅舎を見上げて(二俣川方向)。駅舎を見上げて(湘南台方向)。アーチ型の青い鉄骨に囲まれたゆめが丘駅。関東の駅百選にも選ばれているのだ。「ゆめが丘駅周辺案内図」。ズームして。「ゆめが丘まちづくり 完成イメージ」をネットから。「ゆめが丘駅」改札口。この日の参加者が改札口前に集まっていた。そして集合時間の9:30になり、案内役からこの日の散策ルートの案内が。参加者は約40名、2Grに分かれて散策開始。まずは、「下飯田」地区にある「左馬神社」に向かって進む。リニューアル工事中の「ゆめが丘駅」を振り返る。「境川沿いのサバ神社一覧」。境川両岸の上飯田、下飯田を初め、藤沢市、大和市のサバ神社が源義朝を祭神としているのに、なぜか和泉の三社だけが源満仲を祭神としている。義朝も満仲も源氏の祖として後世崇められ、官名も共に左馬頭であるから、源満仲が左馬神社の祭神とされても不思議ではない。しかしこの狭い地域で、なぜ和泉だけが源満仲を祭神としたのだろうか と。北条義時の首を狙った泉小次郎親衡。信濃国を本拠とする親衡ですが、関東の居館とされる場所が横浜市泉区にあるのだ。それが、「泉小次郎親衡館」。中和田城とも呼ばれる城跡。といっても建物が残っているわけではなく、小高い台地があるのみ。そこは現在「泉中央公園」となっている。信濃国出身の泉小次郎親衡という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、戦略的にも決して有利な地と思えない和泉に出城を築いたこと、また木曽義仲の愛妾であった巴御前を、木曽に無事帰還させる道として立場を通る間道を確保したという伝承、また宝心寺の寺伝など、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうとのこと。民家横の畑の隅には美しく色付いたアジサイの花が。ユリの花も。白の「カサブランカ」であろうか。様々な色のアジサイを楽しみながら進む。そして「左馬神社」境内への石段を上って行った。そして正面に「左馬神社」の「一の鳥居」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2023.07.12
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30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」を楽しんだ後は、この日最後の目的地の大月市にある日本酒醸造所「笹一酒造」に向かって進む。山梨県甲州市塩山下萩原404付近。静岡県道218号線・大菩薩初鹿野線の左手前方にJR中央本線が見えた。「景徳院」交差点から国道20号・甲州街道に入る。「日川渓谷竜門峡 湯の沢峠 大菩薩峠 方面」案内板があった。「日川(ひかわ/ にっかわ)」に架かる「丸林橋」を渡る。「日川」は、山梨県の甲州市などを流れる一級河川。笛吹川の支流。大菩薩嶺(だいぼさつれい)付近に源流をもち、断層線に沿って花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)地帯を南に流れ、JR中央本線甲斐大和(かいやまと)付近に達し、西に流れを転じ、日川扇状地を形成、笛吹市一宮(いちのみや)町田中付近で笛吹川に合流する。流域は甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区をはじめとするブドウの産地である。中流の田野(たの)から天目(てんもく)山にかけては武田勝頼(かつより)終焉(しゅうえん)の地として知られる。また嵯峨塩(さがしお)温泉、田野温泉などもあり、ハイキングコースとしても知られている。流路延長27.0km、流域面積108.3km2。「道の駅 甲斐大和」前を通過。山梨県甲州市大和町初鹿野2248。「ふれあい広場」周辺。そして国道20号・甲州街道の「新笹子トンネル」を通過。笹子峠を通る道路トンネルは、1938年に開通した山梨県道の笹子トンネル(笹子隧道、延長239m)、1958年に開通した国道20号の新笹子トンネル(2953m)、1977年に開通した中央道の笹子トンネル(下り4717m・上り4784m)がある。このうち国道の新笹子トンネルは、中央道とともに、クルマで笹子峠を通過する場合のルートとして機能している。中央自動車道・笹子トンネル事故2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしたのであった。そして国道20号・甲州街道沿いにあった日本酒醸造所「笹一酒造」に到着。山梨県大月市笹子町吉久保26番地。日本酒醸造所「笹一酒造」の係員の方がバスに乗り込み「笹一酒造」の説明を。笹一の笹は酒を意味し、一は酒の日本一を目指すという思いを込めて命名された。大正八年(一九一九年)から現在まで、笹一酒造の顔として使われ続けているマークは、『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。古来より神聖なものとされている八咫の鏡と酒を掛け合わせ、そして 大正八年の縁起の良い末広がりの〝八〟に因み、八咫の鏡をモチーフとして使用したとのこと。それは、草創期における酒の日本一たる笹一のこころを、八咫を後世に伝えたいという願いでもあるのだと。そして店内に。『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。「笹一」。「樽酒 笹一」。「笹一の祝酒」の「樽酒価格表」。「特選純米大吟醸 笹一」。純米大吟醸酒は、精米歩合50%以下の米を使用。「笹一 山廃純米大吟醸 甲州山田錦35山梨県産の特上認定された「純米の王様」山田錦を100%使用し、精米歩合35%まで磨き上げた、最上級の日本酒です。山梨県産山田錦を35%まで精米した米は、極上の透明感と、米の旨味、コクと酸味の絶妙なバランスをもたらします。「山梨の豊かな自然を日本酒として残したい」そんな想いが繋がって生まれた特別な日本酒です。山梨の雄大な自然から生み出される最高級の味わいをぜひ、体感してみてください。▶テイスティングコメント特上の山田錦で造った純米大吟醸酒は、繊細でありながらスッキリとした上品な味わいに仕上がっております。そして、上品な果実のような吟醸香も存分に楽しむことができます。山廃仕込みでじっくりと低温発酵で醸しておりますので、香りだけでなく、ふくらみある米の旨味長い余韻をバランスよく味わえます」。「にごりわいん笹一酒造が、1982年に販売スタートした“元祖”果実酒シリーズで、ブドウの果汁を発酵させる酵母をワインの中に残した“にごり”を愉しむワインです。アルコール度数も6%以下ながら濃厚な味わいで果実そのものを食べているかのような飲み口を味わえます。フルーティーで爽やかな甘味とフレッシュな酸味を感じられ、そのままはもちろん、氷を入れたり炭酸で割っても美味しくお召し上がりいただけます。」。2001年(平成13)、ギネスに認定される直径4.8mの世界最大の太鼓が置かれている建物のようであったがこの日は世界最大の太鼓の姿は無く・・。ネットから。ギネスに認定された直径4.8mの世界最大の太鼓。「笹一酒造」の店頭を振り返る。横の建物の脇にも歴史を感じさせる品々が展示されていた。「御前水」。「御前水ここにあふれ出ている水は昔から笹子峠に湧き出ているそのままの水です。江戸時代には多くの茶人たちが茶会のためにわざわざここまで水飛脚を立ててとり寄せたといわれる名水です。明治天皇が東京から京都へ行幸された際に道中で召しあがる「御前水」の水質調査が為され山梨県内の一つに選ばれた選ばれたことに由来して笹一酒造ではこの水を「御前水」と名付けました。現在でもこの天然水のミネラル成分を豊富に含んだおいしい水をお酒の仕込水として使用しています。どうぞ皆様方もこの昔ながらの笹子峠のおいしい湧き水をご賞味下さい。」巨大な釜と杉玉。「酒林(さかばやし)(杉玉)の由来元来は酒造りの神として知られる奈良の三輪神社の御神木である杉に由来したもので単に杉の葉を束ねた丈のものでした。後に球状にしつらえた杉玉となり造り酒屋の軒下に掲げられる様になりました。軒下の酒林が真新しい緑色のものに替る時が新酒が出来上がった証しです。良質の酒造りと神の御加護への祈りが込められた造り酒屋のお護りでもある神聖なものです。」「菰樽酒 笹一」。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。店の前を走るのが甲州街道・国道20号。そして店内での試飲も楽しみ、バスに戻り帰路へ。下を流れる「笹子川」を見ながら「甲州街道」を西に進む。若い頃、排水からの超純水製造プラントの納入でお世話になった現・「NECプラットフォームズ 大月事業所」を懐かしく見る。ズームして。NECは、昭和61年(1986)に光通信システム用デバイス専用工場であるNEC大月工場の操業を開始したのであった。私が現年齢の半分の歳であったのだ。「大月IC」から「中央自動車道」へ。「八王子JCT」に向けて進む。「上野原」を通過。「八王子JCT」で「圏央道」へ。「相模川」に架かる「新相模大橋」と「海老名」の街並みを見る。「圏央相模川橋」を渡る。車窓から「海老名運動公園」。そして東名高速道路に入り「海老名SA」でトイレ休憩。雨も止んで。SA内を散策。駐車場も満車に近く。多くの観光バスも並ぶ。そして予定時間より30分ほど早く到着できたののであった。今回も、富士山周辺にあった「東口本宮富士浅間神社」を訪ねたが、その他の富士山周辺の浅間神社を訪ねたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.11
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河口湖湖畔にあった「ふなつや」で昼食を済ませ、バスに戻る。バスは河口湖を左に見ながら、国道137号・御坂みちを反時計方向に進む。左手奥に「河口湖大橋」。再び雨がポツポツと。天気が良ければ、富士山の勇姿が見えてくる場所であったが。山梨県南都留郡富士河口湖町浅川127付近。「河口湖大橋」が近づいて来た。この付近が富士山のビューポイント。「河口湖大橋」からの静岡県道707号線と合流し、「河口湖大橋北」交差点を右折する。信号のポール上部には富士山の姿が。「追坂トンネル」、「谷坂トンネル」、「山宮トンネル」そして「新御坂トンネル」を通過。「新御坂トンネル」(延長2778m)は、甲府都市圏と富士北麓地域を連絡する国道137号にあり、昭和39年(1964年)工事に着手し、昭和42年(1967年)有料道路(平成6年11月から無料化)として整備されたもの。「新御坂トンネル」を過ぎると「河口湖町」から「笛吹市」へ。雨の下で新緑が美しかった。静岡県道34号線・白井甲州線に入る。笛吹市一宮町に入ると、車窓には「ぶどう畑」、「もも畑」が拡がっていた。左手に「見晴らし園」。桃の花が咲く時期は斜面一面がピンク色に染まる桃源郷として知られる笛吹市一宮町にある大規模な観光農園。6月下旬~8月中旬はもも狩り、7月下旬~11月下旬はぶどう狩り、10月中旬~11月下旬はりんご狩り、12月~5月はいちご狩りと1年を通してフルーツ狩りが楽しめる県内でも唯一の農園 と。シート屋根設置のための、巨大な鉄塔とワイヤーが設置されていた。北の「山梨市」方向の山々は雨雲に隠されて。「ぶどう畑」が広がる。「小沢葡萄園」。国道20号・勝沼バイパスからの山の斜面は一面のぶどう棚。「勝沼大橋」を渡り県道38号線・塩山勝沼線(旧甲州街道)に入る。そして「フルーツライン(東山東部広域農道)」を走る。左手奥に見えたのが「JR中央温泉 勝沼ぶどう郷駅」。山梨県甲州市勝沼町菱山。この付近から、大きなビニール屋根が施された果樹園が増えて来た。「さくらんぼ果樹園」であろう。甲府市塩山の街並みを見下ろす。「牛奥みはらしの丘」の見晴台にはベンチが。円山市内にはポツンと孤立した山の姿が。これが「塩ノ山」。「塩ノ山」はJR塩山駅北口から登山口まで徒歩で約15分、甲府盆地の東端にポツンと佇む低山で、甲州市のシンボルとして市民に親しまれているのだと。標高553m(山麓が標高約400mなので、山としての比高は約153m)、周囲約3.5km、周りが山などに囲まれていない平地にあり、ぐるっと一周まわることができる珍しい山。そのため「四方からよく見える山」「しほうのやま」から、「しおのやま」と名付けられた。地元の人は「えんざんやま」とも呼んでいると。“塩”の山ということで、「塩が取れるのでは!?」と思われているが、実際はとれないとのこと。また、山の南側にある向嶽寺の山号「塩山」として、「しお」に「塩」の字が充てられている。「塩山」という地名は、実は向嶽寺を指すものだったのであるとのこと。そして目的地の「さくらんぼ園」が近づいて来た。「歓迎 さくらんぼ」の幟も増えて来た。白いビニール屋根の下は全てさくらんぼ園。そしてバスを降り「さくらんぼ園」に向かう。説明を聞き、30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」のスタート。「さくらんぼ狩り」園では、サクランボ産地で有名な山形県で最高級品種とされている佐藤錦(さとうにしき)をはじめ、香夏錦(こうかにしき)、天香錦(てんこうにしき)、」高砂(たかさご)、そして南陽(なんよう)等々を栽培していた。こちらは「佐藤錦」。旅友の皆さんは会話もなく、ひたすらさくらんぼを口の中に。やはり、佐藤錦が一番の人気。100個を目標としたが、さすがに・・・・・。そして佐藤錦をお土産に2箱購入しバスに戻る。ブドウも収穫が間近か?「さくらんぼ狩り」、「ちぇり~ふぁ~む」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.10
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「冨士浅間神社」を後にして、「須走IC」から「東富士五湖道路」に入る。天気が良ければ、車窓から見事な富士山の勇姿が・・・。バスガイドさんが、「世界遺産になった富士山てどんな山なの?」を説明してくれた。「富士山はどのようにできたの?実は富士山は4つの火山から成っているといわれています。今から10万年以上前に小御岳火山が誕生し、その後、古富士火山、新富士火山の2世代にわたる噴火活動で、美しい円錐形をした現在の富士山ができあがりました。※最近の調査で、小御岳火山の地下に、より古い先小御岳火山があることが分かりました。」こちらはネットから。上の写真と異なり右側が北方向であるが。「富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。」白樺林の中を走る。そして「道の駅 富士吉田」に立ち寄った。名物の「吉田のうどん」の看板。富士吉田市が誇る郷土料理・「吉田のうどん」の最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。力一杯練られた「吉田のうどん」は、噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がりとのことだが私には・・・・・・。「富士山レーダードーム館」が見えた。「道の駅 富士吉田」の「農産物直売所」。道の駅「富士吉田」の正面。その右側。店内に入る。山梨県内の道の駅でも最大規模の野菜売り場で新鮮で安価な野菜が売られていた。そして手作りのお菓子類も。隣の部屋は「観光案内所・富士吉田織物コーナー」。多くの観光パンフレットが置かれていた。「山梨100選 選定証 吉田のうどん」、「山梨100選 選定証 吉田の火祭り」。「富士登山 7/1山開き」。そして再び「富士山レーダードーム館」を。「富士山レーダードーム館」は、富士山レーダーの歴史や気象観測について楽しく学べる施設として2004年に開館。1964年に富士山頂へと設置され、1999年まで日本中の気象を観測してきた富士山レーダードームの実物を展示しているのだ。2022年に展示内容をフルリニューアルし、従来の富士山レーダーの歴史や気象観測に加えて、新たに気象観測をより身近に感じていただけるよう防災の内容を追加。ご来光やブリザードを体感できる「富士山頂寒さ体験」は風×映像×音で臨場感がアップした。富士山のふもとで富士山レーダーの歴史、気象観測・防災の世界を十分に楽しめる と。「道の駅「富士吉田」市の紹介富士吉田市を含も富士北麓地域は、富士山の大自然と富士五湖なと優れた観光資源の調和が図れ、地域全体では2,100万人以上もの観光客か訪れる日本有数の観光地となっています。富士吉田市は河口湖と山中湖とを結ぶ中間に位置し、富士北麓地域の観光拠点であり、富主山の登山口、富士山信仰の北ロ本宮富士浅間神社、富士山から市内を一望できるビューポイントで有名な新倉山浅間公園などの数々の観光名所があります。富士吉田市ホームページアドレスhttp://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/」道の駅について道の駅「富士吉田」は、富士吉田市の申請に基づき、国土交通省より、県内第12番目の「道の駅」として登録されました。(平成14年8月13日)「道の駅」は、一般道路て安心して利用できる道路利用者のための休憩施設て、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ個性豊かなサービスを提供するものてす。道の駅「富士吉田」は、富士吉田市が、トイレ・休憩所・食堂・売店・駐車場、を整備し、国土交通省が道路情報施設を整備しており、地域の特色を生かした休憩施設を形成しています。」「富士山のめぐみ」碑。この水は、富士山に降った雨や雪が、数十年の年月と大自然のしくみによって浄化され、伏流水となったものを地下百メートルからくみ上げたものです。尚、溶岩層によってろ過されたこの水は、多量のミネラル分等を含み、特に「バナジウム」の含有量が高く、まさに富士山のめぐみです。オートキャンプ場「オートキャンプFUJICHU」も道の駅の裏側にあった。「道の駅 富士吉田」を後にして、「スマートIC入口」交差点を左折する。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居を左側車窓から。「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地の「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。これに従い大塚丘に鳥居が建てられ、加えて後の景行天皇50年には祠を建て浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。」とHPから。「造営の歴史」をHPから。機会があれば、ここも訪ねてみたいのである。「横町バイパス」を走り、右手に「富士急ハイランド」を見ながら走る。「スバルライン入口」交差点を右折し県道707号線・富士河口湖富士線に入り河口湖方面へ。走ってきた「横町バイパス」を下に見る。そして河口湖湖畔の駐車場に到着。残念ながら、雲が湖面近くまで降りて。そして昼食会場の「ふなつや」に向かう。 山梨県南都留郡富士河口湖町船津4041。1階が土産店、2~4階が団体客用の食事処になっていた。3階に案内され着席。この日の昼食は「すきやき御膳」。牛肉のすきやきであったが、他の一皿一皿の量がややこぶり。ビールを追加注文し、すきやきを楽しむ。昼食後は1階の土産物店を散策。精算する旅友が順番を待つ。駐車場に戻り湖岸から河口湖遊覧船乗り場を見る。駐車場には大型観光バスが並んでいた。「河口湖大橋」。「河口湖大橋」は湖畔の温泉街の渋滞解消を目的に1968年10月から工事が始まり、2年半後の1971年3月に完成し4月から利用が開始された。当時から2005年6月まで通行は有料で、南側の入口に料金所が設置されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。バスに向かって戻る。左手前方に「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈リンク が見えた。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。我が観光バス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.09
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「東口本宮 冨士浅間神社」の参道を「楼門」に向かって進む。「富士講狛犬」(右)。楼門前の前には、「富士塚」を模した岩の上に「狛犬」乗っていた。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬で、非常に珍しいもの。「東京 麻布 三元講社」と。「富士講狛犬」(右)をズームして。「富士講狛犬」(左)。「富士講狛犬」(左)をズームして。谷底へ落とした我が子。試練を与えて這い上がってきた強者だけを育てる。父獅子「強くなりたくばココまで這い上がってくるのだ!」子獅子「とうちゃん…!」と。「楼門ニ階建ての随神門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付きの縁を回らしている。御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随神として配神されている。貞享ニ(一六八五)年、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。しかし、宝永の大噴火(一七〇七年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。現在の楼門は、明和四(一七六七)年随神が寄進された当時のものと考えられる。」御門の神様である随神・櫛岩窓神(向かって右)随神・豊岩窓神(向かって左)。楼門の扁額「東口 本宮」。さらに「本殿」に向かって進む。右手に「神馬舎」。御神馬の白馬。「休憩所」。絵馬書き処と。内部。更に「本殿」に向かって進む。「末社・恵比須大国社」。境内末社の一社。御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、旧10月20に斎行する。「境内社祭神 事代主命(恵比寿さま) 大国主命(大黒さま)祭神は、七福神でおなじみの恵比寿・大黒様の2神で、福徳の神様です。社殿は、富士紡績株式会社(元・富士瓦斯紡績株式会社)小山工場の第1~第3工場の鎮守として、明治31年より、当神社の御分霊をお祭りされておりましたが、このたび諸種の事情により、当神社に寄進されたものです。」「内陣」。「本殿」前左側の池。「長壽亀石」。「長壽亀石古来、長壽の象徴とされる亀の形をした石。この亀石は当社氏子の家屋工事中に土中より発見されたもの。亀の甲羅によく似た形をしており、大変な吉兆物であるとし、当社に奉納された。以来、長壽亀石と名付けられ、健康長寿に肖ろう(あやかろう)との敬拝を受けている。」「末社・社護神社」当社の境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として境内に点在・御鎮座されていたが、現在は社護神社として合祀されている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。例祭は、毎年十五夜の日に斎行。 その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地域の高尾講により毎年12月1日に斎行する。そして「本殿」。扁額「冨士山東宮」。「境内末社この神社には、境内社として次の神社(神様)が祀られている。日枝神社 大山咋命 金山彦命 素戔鳴命 奥津彦命 奥津姫命山神社 大山祗命 火産霊命琴平神社 大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命霧島神社 邇邇杵命高尾神社 穂見命社護神社 大己貴命 月讀命く由緒〉古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社かそれそれ祀られてきた。そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。その中て、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃこつぁん」と称えられ、親しまれていた。毎年仲秋名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。」「小山町指定文化財(有形文化財・建造物)冨士浅間神社社殿」 平成十八年八月二十四日指定 所有者 東口本宮冨士浅間神社 静岡県駿東郡小山町須走一二六番地構造 木造・平屋・権現造り及び入り母屋造り 平面積 本殿 三二.一八一m2 幣殿 三五.八一九m2 拝殿 九五.七二八m2 寸法 奥行 二〇.一九六m 間口 一四.五八七m 高さ 九.五三三m特徴 冨士浅間神社は富士山登山道の浅間神社の一社であり、創建は大同ニ年(八〇七年)と伝えられています。宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火では当社は三メートル以上の降砂に埋もれ、大被客を受けました。その後亨保三年(一七一八年)に再建された社殿が一部現在まで残存しています。通常、神社の社殿は本殿・幣殿・拝殿の三棟に分けられますが、本社ではこれらが一体化した権現造り様式となっています。手前から拝殿、奥が本殿、そしてこのニつを幣殿が繋いでこの社を形成しております。 平成十八年十二月 小山町教育委員会」御神木の根本には那智黒石の黒玉砂利が敷き詰められていた。木彫りの干支の動物が並んでいた。牛の彫刻には「コロナ アッカンベー」と。こちらにも。そして「本殿」脇を駐車場に向けて進む。ここにも様々な石碑が並んでいた。御神木。2本のご神木が並んでいた。「子授け夫婦杉と貫通岩」。「子授け夫婦杉と貫通岩貫通石奉納 中日本高速道路株式会社根が連なる杉は夫婦杉と呼ばれ、良縁・夫婦和合のご利益があるとされる。当社の夫婦杉は御祭神・木花咲耶姫命の御神徳・子授けと安産を象ったが如き膨らみがあり、これに肖る祈りの場として根本に祠を設ける。祠は貫通石から成り、この石は新東名高速道路・谷ケ山トンネル工事にて生じたもの。貫通石は、神話の一幕・神功皇后の段より安産を導く縁起物とされる。」権現造りの拝殿・幣殿・本殿を横から。本殿をズームして。本殿屋根の破風拝飾(はふおがみかざり)をズームして。新緑溢れる空間。御神木の間から。冨士山登頂「記念碑」。「明治天皇御製萬代の 國乃鎮めと 大空に あふ久は 冨士の 高嶺なりけり」様々な石碑がここにも。中央の石碑。和歌山県にある講社は八百九十九度も富士登山されたと。切りのいい九百回にしないところに深い意味がありそうな感じがするのであった。そして駐車場まで戻り再び「麻布山三元講 講碑群」の前から。数え切れないほどの石碑が並んでいた。幹が養生された樹の姿も。そしてバスに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.08
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そしてバスを下りて散策開始。雨がポツポツと落ちていた。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東口本宮 須走口登山道 冨士浅間神社 境内案内図」。「境内案内図」に近づいて。別の「境内案内図」をネットから。「浅間神社」内の史跡名一覧。「冨士浅間神社鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走一二六御祭神 主祭神 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 相殿神 大己貴命(オオナムチノミコト) 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)御由緒 平安時代初頭、桓武天皇の時代・廷歴ニ十一(八〇ニ)年富士山東脚が噴火した。当時の朝廷は 逃げ惑う住人のため冨士山面に位置するこの須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。 すると、同年四月初申の日に噴火が収まった。 この御神威を畏み、報賽するべく、平城天皇の時代大同ニ(八〇七)年に鎮火祭の跡地・現在の 御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。 江戸時代・宝永の噴火では、神社と街は約三メートルの降灰の被害を受けるが、冨士登山と 交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めた灰の上に街を復興させ、神社は村民に より灰が除去されて現在に至る。 明治時杙、逸早く自動車化が進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護と しても一層の崇敬を集める。 平成十九(ニ〇〇七)年には、御鎮座一ニ〇〇年を迎え、記念式典大祭を斎行。 平成二十五(ニ〇一三)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして 登録された。富士山信仰 霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も 尊崇する山の一つてある。富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には 約一三〇〇社の浅間神社が鎮座する。 当社は、天正年間開道と伝えられる、かっての東ロ・いまの須走ロ登山道の起点として、 東ロ本宮と尊称される。 須走ロは、富士山項より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝する ことが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽て染まった縁起物の赤富士が見られる。境内末社(六社合祀) 日枝神社 高尾神社 山神社 霧島神社 琴平神社 社護神社 恵比須大国社(別祀)境外末社 須走ロ九合目鎮座・迎久須志之神社 須走ロ本六合目鎮座・胎内神社 須走ロ五合目鎮座・古御嶽神社 (御室浅間神社・雲霧神社合祀) 東富士演習場内鎮座・野中神社 (旧大日堂)祭礼神事 例大祭 五月五日 開山祭 七月一日 閉山祭 八月三十一日 紅葉祭 十一月上旬 「祈年祭・新嘗祭等の恒例祭」」「鎌倉往還」碑。「鎌倉往還(かまくらおうかん)鎌倉往還は、かつては 鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたことが明らかにされています。かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。当地の鎌倉往還は、まっすくに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。」「鎌倉往還」ルート図をネットから。「富士山付近の「鎌倉往還」は、鎌倉から相模(神奈川県)を通り足柄峠を越え、駿河(静岡県)に入って竹之下(小山町)に下り古沢(御殿場市)を通過して、須走(小山町)を登って籠坂峠を越えて甲斐(山梨県)に至る。名称に「鎌倉」と付いているため鎌倉時代に誕生した道のように思われがちだが、ルートそのものは古代から存在していた。人が自分の足で歩くしかなかった時代には、人の移動ルートつまり道は、地形によって制限されることが多かった。富士山周辺で見れば、(1)富士山とそれに連なる丹沢山地、(2)愛鷹山、(3)箱根の3つ山地は、移動するうえで制約になった。しかし、交易などのために内陸部と海(沿岸部)の間を移動する必要はあったため、困難な山越え(峠越え)を伴う移動がおこなわれてきた。甲斐から海に向かう道は古くから富士山と丹沢の山を越え、(現在の)小山町や御殿場市北部を通り、箱根北部の足柄峠を越えて相模に至るルートをとっていた。鎌倉往還のルートと重なる。つまり富士山周辺の鎌倉往還は、本質的には内陸と海を結ぶための道と言える」 と。「麻布山三元講 講碑群」。「麻布山三元講 講碑群江戸・麻布の町に栄えた山三元講は、江戸期の享和三年(一八〇三)山口左門が山吉講から分離独立させた富士講である。富士登拝には吉田口(北口)から登り、須走口(東口)へと下山し、須走を定宿とした。神門前の火山岩によって築かれた塚と一対の狛犬は昭和の初頭に山三元講の人々が築造し、奉納したものである。このように近年まで講と当社・須走との関わりは深い。同じ頃麻布永坂には富士塚か造られ頂上には当社より勧請された浅間社が祀られた。この富士塚は自然の傾斜地を利用して造られ、頂上部は富士山のクロボク(火山石)によって築かれている、浅間社の周囲には記念碑が次々と移され、また新たに造られた。この永坂富士塚も講の解散と共に解体され、昭和六十二年、大半の記念碑がこの地に移設された。これら講碑群は往時、栄えた講の姿を今に伝えている。※永坂富士塚の模型は当社、記念資料館に展示されている。」「麻布山三元講 講碑群」を見る。「裏鳥居」の石鳥居。他の神社では見られない「不二山」の扁額。二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山という意味 であると。写真右手に「富士浅間神社の根上りモミ」。近づいて。「小山町指定文化財 天然記念物 冨士浅間神社の根上りモミ一、所在地 駿東郡小山町須走一二七番地一、所有者 駿東郡小山町須走一二七番地 冨士浅間神社一、指定年月日 平成三年5月一日一、概要 根上り 四.六m 目通り 三.一m 樹高 二十七m 樹齢 約三〇〇年このモミは約一〇〇年間の降雨による火山灰土の流亡により根上りになったものと考えられます。国内でもとても希少であり、学術上価値が高いと言われています。また、モミの根上り群に寄生するブナ、イヌシデ等の樹木は、樹齢約一五〇年と伝わっています。 平成二十八年八月一日 小山町教育委員会」「冨士浅間神社の根上りモミ」を振り返る。「浅間縁結びの木宿り木(やどりぎ)というのは、普通他の樹木に寄生する木をいう。この結び木は、宿ったというよりもむしろ根がらみの状態で、もみの大木にぶな・かしがしっかりと結び合っている。その様は、男と女の結びつきを表象しているようである。当社の啣祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)様のご加護により、縁結び・安産・子育てのご幸運に恵まれるといわれている。」「東京 廿六夜」碑。「二十六夜講」とは、旧暦の1月と7月の26日の夜に月待をする講で、江戸時代に盛んに行われていたようです。「講」とは同一の信仰を持つグループのことで、ここでは「富士講」を指しています。「月待」とは、月の出を待ち、拝みながら酒を飲み交わすこと と。「富士講講碑群ここには、明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、三十三度、六十六度など数多く富士登山が成就された事を感謝し、先進や講名を高く揚げ信仰の証とした。」江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社の登拝記念の石碑が並ぶ。記念として建立されたものや、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもある。尚、富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。当社の位置や当時の東海道本線(現・JR御殿場線)の交通の便から、東京・神奈川にかけての講から崇敬を集めていた。「浅間の杜 はるにれの木」境内西側・浅間の杜の中に繁るハルニレの木。ハルニレの木は境内に数本が繁るが、もともとは北海道や寒冷地に繁る樹木であり、温暖な気候にある静岡県には珍しい樹木である。推定樹齢400年の大木であることから、昭和38年に静岡県天然記念物に指定された。境内西側隣に接して通る鎌倉往還道からは背面を見ることが出来、半分近くが根上がりしている様子が伺える。「ハルニレ(春楡)」の木を見上げて。「伊藤? 四谷講社」と。都内四谷にあった富士講・四谷丸参伊藤講社か?「新進講記念碑 男爵若槻禮次郞書」と。「富士講と講社碑富士山は、昔から信仰の山として登拝され、修行の場であった。人穴て修行を重ねた長谷川角行(かくぎょう)は江戸に出て、富士の信仰を説いた。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)がさらに教えを広め、富士山七合五勺に入滅の後、江戸では「八百八講」といわれる程、富士講が盛んになった。須走は富士信仰登山の登山口として、古くから栄えてきた。須走浅間神社には、講の人達によって奉納された石碑や石燈寵が多く、その一つ一つから登山する道者(行者)達の息づかいが聞こえてくる。」「三十五回 登山記念 権大教正 金澤徳行翁」と。台座の岩には「安産講社」と。「浅間教會一世 贈大教正 川口源次郎之碑」。緑溢れる「浅間の杜」が続く。石燈籠の先にも石碑が。ズームして。そして「東口本宮 冨士浅間大社」の社務所へ。銘板「東口本宮 冨士浅間神社社務所 御鎮座千二百年 記念資料館」と。御朱印帳も販売されていた。御朱印を頂きました。「浅間神社」案内書も頂きました。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東ロ本宮・須走ロ登山道冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町須走一ニ六番地 鎮座)御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)・ 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)由緒 大同ニ(八〇七)年、富士山の延暦ニ十一(八〇ニ)年の噴火に於ける鎮火祭跡地 (現在の社地)に創建。旧県社。 富士山登山道・東ロ=須走ロの本宮であり、起点となる。 須走ロ五合目・古御岳神社、六合目・胎内神社、九合目・迎久須志之神社は、 当社の境外末社である。 平成十九年には御鎮座千ニ百年の佳節を迎えた。 平成ニ十五年、世界文化遺産「富士山」構成資産に登録。主祭事 五月五日 例大祭 本殿祭・神幸祭(パレード) 七月一日~九月上旬 富士山須走ロ登山道開山等 関連祭典【不ニ山】・・・表烏居の不ニ山は、富士講の先達から寄贈された文字で、二つとない 素晴らしい山・富士山を意味する。」「太鼓橋」とその先右側には「道祖神」が。その先の参道には新緑のトンネルが。社号標石「縣社 冨士淺間神社」。左側にあったのが「信しげの滝」境内南、太鼓橋の左に位置する滝で、浅間の杜を走る水流が流れ出て滝となっている。名前の信しげの由来は不明。かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ないものである と。四季折々に違った景色を見ることが出来るとのこと。とくに冬場では、滝が凍り巨大な氷柱(つらら)を見れることがあるのだ と。再び太鼓橋を斜めから見る。石鳥居の扁額は「不二山」。「奉雷の杉」。見上げて。「奉雷の杉推定樹齢三五〇年で、境内の樹木で最も長寿の杉の一つ。平成三十年夏、この木か落雷を引き受けてくれた御蔭て、神社や地域に大きな被害を与えなかった。落雷による枯れか少ないことから、雷という圧倒的な偉力に抗ったのではなく、雷を奉り遵った=柔和に協和したと考えられ、奉雷の杉と呼ばれる。以来、その偉大さ・懐の深古に肖ろうと足を運ばれる方か多く見えられる。」鳥居のそばには、富士山噴火の際に飛んできた「火山弾」が。「富士山火山弾」。「富士山火山弾この火山弾は地中の岩奬(熔岩)が噴火のために空中へ吹き上げられ、落下の際に酸化・冷却して出来たものです。右の巨大なもの、左の形が整って大きいもの、いずれも大変貴重なものと言われています。」左手に「手水舎」。「龍口」を見る。「楼門」に向かって進む。ここにも「冨士浅間神社」案内板が。さらに「楼門」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.07
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この日は6月12日(月)、実兄に誘われて、「老人会」の懇親旅行に参加した。参加人数不足のために動員がかかったのであった。総勢44人で各地区の集合場所に集まった参加者を、バスが移動して拾って行ったのであった。これぞ「老人会」の旅行なのであった。参加者全員をバスに乗せ「秋葉台文化体育館前」を通過。そしてこの日も、小雨の降る中、「東名・綾瀬スマートIC」から「東名高速道路」へ。そして早くも「海老名SA(下り)」で最初のトイレ休憩。日本一混雑すると言われていた「海老名SA」。現在もそうなのであろうか? 下り方面では東名で最初のSAで、休日の利用者数は上下合わせて10万人を超えるとのこと。 それ自体が目的地となるSA・PAの先駆けともいえる「海老名SA(下り)」。「海老名SA(下り)」案内図。やはり、多くの観光バスが駐車していた。から揚げや肉巻きおにぎり、肉まんなど8店舗の屋台が並ぶテイクアウトコーナー「うまいもの横丁」。内部に入って見た。「レストラン・フードコート」。そして再び御殿場に向かって進む。神奈川県足柄上郡山北町谷ケの街並みを左手に見る。天気が良ければ、車窓左手前方に「富士山」の山頂下が見えるのであったがこの日は雨の為に・・・。左にカーブしながら「酒匂川」に架かる「酒匂川橋」を渡る。下を走る線路は「JR御殿場線」。「馬伏川橋」を渡り「東名足柄橋」を左手に見る。静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっている。よって、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっているのであった。「足柄SA」まで3kmと。左手奥の斜面には「HOTEL CLAD ホテル クラッド」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD』。アウトレットでのショッピング、富士山の絶景、自家源泉の温泉と、休日を心ゆくまで楽しめるリゾートホテルとのこと。そして「御殿場IC」で東名高速道路を下りる。「御殿場バイパス」に入り「山中湖」方面に向かって進む。「御殿場市役所」が左手に。横壁には「市章」が掲げられていた。御殿場市の「市章」をネットから。GOTEMBAの頭文字Gを図案化。中央に富士山を、外枠に箱根外輪山を表現し、美しい自然に囲まれた御殿場の伸びゆく市勢と市民の協和を表現している と。「須走道路」を進む。左手に「加藤学園 御殿場キャンパス」。現在はキャンパスとしては使用されていないようだ。「富士ざくらホテル」。「須走道路」を走る。「道の駅 すばしり 2km」と。「道の駅 すばしり 500m」と。ズームして。 ・・・つづく・・・
2023.07.06
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「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を渡り「昭和通り」の反対側に向かう。階段を降りると、ここにも「汐留遺跡」の礎石が展示されていた。「間知石(けんちいし)と切り石(汐留遺跡)四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものです。 東京都第一建設事務所」「間知石(けんちいし)」。「間知石」とは、土留めや石垣のような擁壁(ようへき)に使われる土木建築材料。花崗岩などの石材を約30cmの大きさで四角錐状に加工したもので、壁面が崩れないように横長になっています。ちなみに、間知石の名前の由来は6個並べるとちょうど1間(けん)分の180cmになるからと言われています。1間を知ることができる石ということ。「間知石」が放射線状に置かれていた。「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったもの。これは寛永年間(1624年~1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえるのだ。反対側にあったのが「手水鉢」(汐留遺跡)。「手水鉢」(汐留遺跡)龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土した手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」など、当時の屋敷内が偲ばれます。 東京都第一建設事務所」手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」「現在地」はここ。銀座8丁目の花椿通りと昭和通りが交差する「銀座東七丁目」交差点角の「銀座三井ビルディング」の前。 東京都中央区銀座8丁目13。「東銀座」方面に「昭和通り」に沿って進む。アジサイの街路樹が美しかった。近づいて。「銀座東五丁目」交差点を右折。「J-POWER 電源開発 本店」。先程訪ね忘れた「佐久間象山塾跡」前にあった「狩野画塾跡」に再び。「狩野画塾跡所在地 中央区銀座五丁目十三番付近江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれもいずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代典信(合は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も億、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。 令和三年七月 中央区教育委員会」「安永年中之形」『幕府内沿革図書』そして次に訪ねたのが「森田座跡」。「日本橋芝浦大森線」を進むと自転車のある場所に「案内板」。東京都中央区銀座6丁目14。「森田座跡江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。森田座は、万治3年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政5年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治5年(1872)、現中央区の新富に移り、同8年に「新富座」と改称しました。以後、明治12年の興行失敗から、同30年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治30年新富座に復名、同42年には松竹合名会社に買収され、大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。平成13年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成17年4月に中央区民文化財として登録されています。平成25年3月 中央区教育委員会」「森田座跡」(中央区立郷上天文館所蔵)木挽町「森田座」の様子(寛政年間)。そして「中京430号線」を進む。「花椿通り」沿いにあった「熊谷稲荷神社」。中央区銀座7丁目12−9。正面から。熊谷稲荷神社は、中央区銀座にある稲荷神社。熊谷稲荷神社は、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実が熊谷へ帰郷する際、当地の里人に請われて護符を授与、里人が祀ったといいます。江戸期には当地(木挽町6丁目)の鎮守として信仰を受け、現在は崇敬会で護持しているそうです。扁額「熊谷稲荷神社」。そしてこの日の、高校時代の友人との食事会開場のあるビル・「大栄会館ビル」に到着。「スペインクラブ銀座」入口。スペイン全土を巡り、スペインワインはじめ、生ハムイベリコ豚の精肉、オリーブオイル、ナバラ産アスパラガスなど選りすぐりのスペイングルメを取り揃えていると。直径50cmの大鍋で炊く特大パエリアはお店の名物メニューとして大人気 と。5人で、久しぶりに近況、体調、同級生の近況等をワイン片手に大いに語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.05
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「采女橋公園」交差点の角にあった「中央区立築地川采女橋公園」に立ち寄る。「中央区立築地川采女橋公園」碑。采女橋と新橋演舞場の間にある公園で、色々な形の無数の置石がランダム?に配置されていた。道路沿いには石碑が。「采女橋」の碑。「采女橋このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。橋梁の諸元形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋橋長 42.0m有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)着工 昭和4年9月竣工 昭和5年10月施行者 東京市 平成3年3月 東京都中央区」。 「采女橋」を歩く。高欄部分の模様は、”築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治五年に焼失)と”銀座の柳”を題材にしたデザインとのこと。ズームして。”銀座の柳”と”築地ホテル館”。日本の本格的ホテルの第一号「築地ホテル館」の写真をネットから。横浜で洋風建築の技術を学んだ二代清水喜助が、江戸で最初に手がけた大事業が、外国人のための宿泊および交易場として築地居留地に建てられた本格的洋風ホテル、築地ホテル館でした。二代喜助は施主の幕府に願い出て、資金調達と建設、竣工後の経営までを請け負いました。建設中、明治維新による施主交代がありながらも、延床面積約1600坪の大建築を約13ヶ月の短期間で施工し、慶應4(1868)年に完成させたのだと。子供用の遊具などはなく、ちょっと不思議な雰囲気の公園。「築地川采女橋公園」の手前のビル「銀座六丁目スクェアー」の植栽にあった石碑。東京都中央区銀座6丁目17(元日産自動車本社・現読売新聞社)。近づいて。「東京商工会議所発祥の地明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。 東京商工会議所会頭 永野重雄」「30m先に新橋演舞場」と。そして「銀中通り」を進むと角には「新橋演舞場」と。「新橋演舞場」の前の道路は「演舞場通り」。「新橋演舞場」。新橋演舞場の新築開場は1925(大正14)年4月のこと。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(新橋花柳界の重鎮で、置屋森川家主人)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源。東京都中央区銀座6丁目18−2。「新橋演舞場」。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。1940(昭和15)年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。 そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのだと。「新橋演舞場公演のご案内」。新橋演舞場シリーズ第9弾!!「東京喜劇熱海五郎一座~クセ強オンナと時をかけない男たち~」日程 2023年5月31日(水)~6月25日(日)ネットから。作:吉高寿男 出演・構成・演出:三宅裕司出演:渡辺正行 ラサール石井 小食久寛 春風亭昇太 東 貴博・(交互出演) 深沢邦之(交互出演) 劇団スーパー・エキセントリック・シアター 檀れい 玉井詩織(ももいろクローバーZ)新作歌舞伎 「刀剣乱舞」月刀剣縁桐2023年7月2日(日)~27日(木)三日月宗近 :尾上 松也足利義輝/小狐丸 :尾上 右近第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。1948(昭和23)年に復興されたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなった。そこで1982(昭和57)年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場なのである。銀座の柳と新橋演舞場。「銀座の柳昭和初期、震災復興事業の一環として、銀座に柳が植えられました。信州安曇野から運ばれた若木は、すくすくと生長し、銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになりました。しかし、震災や近年の道路整備などで、その姿も消え、今では往時を偲ぶよすがもありません。中央区では、柳を「区の木」に制定し、区内各所に植えていますが、この度、長野県穂高町の御好意により、当時と同じ安曇野地方産出の柳を寄付していただきました。そこで緑美しい銀座の再現を願ってこの地に植栽するものであります。 昭和62年10月5日 中央区役所」右手奥の駐車場入り口の脇に設置された「2つの石碑」。沢田正二郎歌碑「藝即魂何処かで 囃子の声す 耳の患」と。「曾我廼家五郎句碑大阪の喜劇役者で東京に進出したときの感慨を歌にしたもの。帝都進出三十周年記念 「むさし野や 三十年は 泣き笑ひ」。そして「演舞場稲荷大明神江戸時代享保年間、松平周防守の下屋敷跡で歌舞伎名狂言「鏡山旧錦絵」で有名な「尾上の井戸」と並びー名「お初稲荷」と称されている。」「演舞場稲荷大明神」を正面から。扁額「演舞場稲荷大明神」。社殿に近づいて。幟「奉納 演舞場稲荷大明神」と。「新橋演舞場」を後にして次に訪ねたのが「みゆき通り」沿いにあった「佐久間象山塾跡所在地 中央区銀座六丁目十五番地域この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。平成二十二年三月 中央区教育委員会」道を引き返し「銀座中学校入口」交差点を通過。「銀中通り」を進むと左手にあったのが「中央区立銀座中学校」。昭和59年4月に中央区立第一中学校と第二中学校の統合により開校しました。 校章は、東京都の象徴「いちょう」と銀座の象徴「柳」を組み合わせたものです。三枚の葉は生徒・教職員・保護者を表し、三者の協力でより良い学校を築く意気込みを表しています と。「都道316号線・昭和通り」を東銀座方面に歩く。前方に「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」が現れた。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」の下にあったのが「汐留遺跡(建物の礎石)」。「建物の礎石(汐留遺跡)丸い礎石は、仙台藩(宮城県)伊達家上家敷御殿の土台として使われていたもので、当時の御殿の大きさが偲ばれます。 東京都第一建設事務所」。「中央市場通り」方向を見る。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を見上げて。昭和通りの銀座7・8丁目に架かる「銀座歩道橋」。道路を単純に横切るだけでなく対面へ斜めに渡ることもできるX字型の便利な歩道橋。明治期に新橋と花柳街をつなぐ男女逢瀬の橋として賑わったゆかりの地にちなんで、「ときめき橋」とも名付けられていてエレベータは元よりエスカレータも付いていた。「建物の礎石(汐留遺跡)平らに加工された礎石は江戸時代上屋敷の柱の土台として使われ、正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴です。 東京都第一建設事務所」正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴。小さな礎石も並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.04
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「三吉橋」上から「首都高速都心環状線」の「銀座料金所」方向を見る。横断歩道の先に石碑が確認できた。「三吉橋」の碑。東京都中央区銀座1丁目28−11。近づいて。「三吉橋この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三叉の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。区では、平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立の姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。 平成5年8月 東京都中央区橋梁の諸元形式 三股型単純銅板桁橋橋長 23.98 × 3有効幅員 15m(車道9.0m・歩道3.0m ×2)建設年次 昭和4年12月 復興局施行」当時の「築地川」に架かる橋。『四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街燈のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。鈴蘭燈のひとつひとつが、四つの燈火を吊しているのに、その凡てが灯っているわけではない。月に照らされて灯っていない灯の丸い磨硝子の覆いが、まっ白に見える。そして灯のまわりには、あまたの羽虫が音もなく群がっている。川水は月のために擾されている。』 (三島由紀夫「橋づくし」)」次に訪ねたのが「当時の「築地川」に架かる橋」にもあった「築地橋」そしてさらに南下すると右手にあったのが「築地小劇場跡」。現在はみずほ銀行の敷地の一部、水道ポンプのレンガ積みの建物の壁面にレリーフと解説版が飾られていた。東京都中央区築地2丁目12−3。「築地小劇場跡1924~1945「 碑文 里見弴 筆 大正末から昭和にかけ、新劇の本據として 大いにその發展に寄與した。戦災で焼失。」と刻まれていた。「築地小劇場所在地 東京都中央区築地二丁目十一番十七号演劇研究のためヨーロッパに留学中の土方與志は、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災の知らせを聞いて、急きょ帰国、小山内薫に計り、日本新劇の実験劇場をつくることを決意しました。そして、劇団「築地小劇場」を結成し、大正十三六月十三日、築地の地に私財を投じて、劇場「築地小劇場」を開場しました。建物は一階建、ゴチック・ロマネスク様式で、定員四六八名の照明・音響に工夫をこらした劇場でした。初演はゲーリング作「海戦(演出・上方與志、装置・吉田謙吉)で、開場初期には西洋演劇を精力的に上演、やがて日本人作家の演目も加え、日本新劇の基礎を築くとともに、多くの名優を輩出しました。劇団「築地小劇場」は昭和四年(一九二九)に分裂しましたが、劇場はその後さまざまな劇団によって活用されました。昭和十六年には劇場名を「国民新劇場」と改称するにいたりましたが、昭和二十年三月十日の東京大空襲で損失するまで新劇の灯をともし続けました。「当時の築地小劇場 前景写真の建物は昭和3年(1928)に区画整理のため西側に移動し改築されたもの」「中央区立京橋築地小学校」前を通過。カラフルな「WILLER TOKYO Restaurant Bus」1階に料理が作れるキッチンが配備された2階建てバスで本格的な食事を楽しみながら、点在する観光スポットや魅力的な風景をつなぐバス。天井が開閉式の透明の屋根になっている2階は、25人が着席できる座席とテーブルを用意。暖かな天気の良い日にはオープントップで開放的な景色を楽しめるのだと。バスの上階から見る特別な景色と、地域や季節ごとに変わる旬の食事を堪能出来るのだと。「東京都立京橋築地小学校」の小学生の像。作者、タイトルなどは不詳。東京都中央区築地2丁目12−15。横断歩道の先の築地えとビルの角にも彫刻作品?が。「カリヨンと干支方位盤(かりよんとせんしほういばん)」と。内部にベルが9個仕込んであったので、カリヨン。東京都中央区築地1丁目12−6 築地えとビル。近づいて。築地えとビルの壁面はビル名のとおり、干支のレリーフで飾られていた。これは籔内佐斗司によるものとのこと。「干支の方位盤」もあり、卯がちょうど東(E)の方向にあたることを再確認。時刻だったら卯は午前6時に相当するということで、少しばかり江戸時代を生きたような気分に浸ったのであった。平成通りを進むと左手にあったのが「桂川甫周(かつらがわほしゅう)屋敷跡」案内板。東京都中央区築地1丁目10−3。「桂川甫周屋敷跡所在地 中央区築地一丁目一〇番地域蘭方医桂川家は、初代甫築(一六六一~一七四七)が六代将軍徳川家宣に仕えて以来、代々幕府の奥医師をつとめ、多くが法眼(ほうげん)に叙せられています。この地域には、甫築が正徳元年(一七一一年)に拝領して以降、幕末まで桂川家の屋敷がありました。四代甫周(一七五四?~一八〇九)は、名を国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代のなかでも特に広く知られています。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして『解体新書』の翻訳事業に参加しました。また、寛政六年(一七九四年)には幕府医学館教授となるなど、幕府にも重んじられていました。西洋事情にも造詣が深く、安永元年(一七七二年)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、その海外知識を大いに広めました。また、ロシア使節ラクスマンが送還してきた漂民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを尋問し、『漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)』や『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などを著しています。この他にも、多くの翻訳・著作があり、江戸蘭学の興隆に大きく寄与しました。 平成十七年三月 中央区教育委員会」尾張屋清七板「京橋南築地鉄炮洲絵図」(部分)。ザイマックスアルファ前にあった「波除獅子」。流政之の作品。名称は、築地を守護する波除稲荷神社に由来するものだとか。東京都中央区築地1丁目13−10。「コンワビル」手前右側にも石碑があった。「活字發祥の碑」。東京都中央区築地1丁目12−22。「活字發祥の碑👈リンク明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった」昭和四十六年(一九七一)六月 建設されたものと。そして「万年橋東」交差点を渡る。右手に「萬年橋」。東京都中央区築地4丁目1。左側には「中央区立築地川銀座公園」。道路脇にあり、真下には首都高速都心環状線が通っているという、ちょっと不思議な立地にあるこの公園。かつて公園の下には「築地川」という川が流れていた。1964年の東京オリンピック開催を契機に、築地川は埋め立てられ首都高が整備され、その際にこの「築地川銀座公園」も設けられた。今も架かる「万年橋」、そしてこの公園の名称が、その名残を伝えているのであった。引き返して、「万年橋東」交差点を渡ると目の前にあったのが「東劇」。東京都中央区築地4丁目1−1 東劇ビル 3階。2023年10月、11月に、全国の映画館で上映される「坂東玉三郎 泉鏡花抄4作品」のポスター。ネットから。「METライブビューイング 2022-23」ポスター。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(通称:MET)で上演される世界最高峰のオペラを、日本全国の映画館で上映し、ここ東劇でもと。「萬年橋」の反対側の「築地川銀座公園」に向かう。「萬年橋」。「中央区立築地川銀座公園」碑がここにも。入口にあったのが「名犬チロリ記念碑」、製作:堤 直美。東京都中央区築地1丁目13。「名誉セラピードッグ認定1号犬名犬チロリ記念碑捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラビードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらせました。 ありがとうチロリ.......2006.3.16永眠 国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D」チロリとそれを取り囲む子犬達4匹の像。台座の裏側「名犬チロリ記念碑」。その奥にあったのが「月を呼ぶ」。「月を呼ぶ 佛子泰夫作」と。「中央区立築地川銀座公園」の奥には様々な花の植栽が案内板付きで。「名犬チロリ記念碑」、「月を呼ぶ」を振り返って。そして再び「万年橋東」交差点を渡る。「東劇ビル」を振り返る。「銀中通り」を進むと左手前方に現れたのが「采女橋」。「采女橋公園前」交差点。右手が「みゆき通り」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.03
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そして次に「木挽町通り」沿いにあった「宝珠稲荷神社」。東京都中央区銀座3丁目14−15。左側が「社務所」であっただろうか?社号標石「宝珠稲荷神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。朱の鳥居の先に社殿が。「宝珠稲荷神社の由来宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝(ふこうず)の領主板倉内膳匠(ないぜんのかみ:内膳正とも)重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり。内膳匠重昌は京都所司代及び江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇(ごようぜいてんのう:第107代)の御代天正13年の頃の生れである。重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍令として鎭台を務めたるも不幸にして島原の乱に於いて年令50才にして戦死したるものなり。時の将軍は家光であり第110代後光明天皇(ごこうみょうてんのう)の御代である。内膳匠の兄周防の守重宗は下総の国関宿の城主なり。年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり。明治の維新に於ける亀井滋玄の功績は大鼓稲荷と共に有名なり。更に大正7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町(こびきちょう)3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及び社務所を建設して今日に至るものなり。 一九七二年五月 宗教法人 宝珠稲荷神社 東京都中央区銀座3丁目東町会」。社殿に近づいて。「疫病退散祈願」と。コロナ禍で新たに設置されたものか?スリムなお狐さん(右)は鍵を咥えて。商売繁盛の稲荷は蔵の鍵を咥えていることが多いのだ。お狐さん(左)は珠を咥えて。稲荷の神(宇迦之御魂神)の魂だと云われ、限りなく財宝を生み出すとされる。扁額「寶珠稲荷神社」。「木挽町通り」を更に進むと左手にあったのが「地ビール 八蛮(はちばん) 銀座本店」。銀座生まれの八蛮クラフトビールが飲める店と。東京都中央区銀座2-14-9 GFビル1階。「銀座 麦酒醸造所」と。その先にあったのが「塩パン屋 pain・maison(パン・メゾン)」。ネットには「TVで取り上げられて更に並びが長くなりました」と。東京都中央区銀座2丁目14−5 Twg銀座イースト 1階突き当りを右に折れ、その先を左に入ると右側にあったのが「安平神社」。ほっそりした真っ赤な鳥居の脇には狛犬があり、その奥に小さな社殿が。両サイドには木々が植えられており参道も狭く、無意識にかがみこんで参拝するようなミニチュアサイズの造り。朱の鳥居に扁額「安平神社」。ビルの隙間にひっそりと残る神社であった。江戸時代に、新庄美濃守(しんじょうみののかみ)の屋敷があり、屋敷神として祀られた稲荷神社。明治時代には、万安樓(まんやすろう)という料亭が創業し、その敷地内で安平神社として祀られたと。現在は、万安樓があった敷地に「銀座タワー」が竣工し、その片隅に「安平神社」が残されていた。境内に由緒は無く、ご利益等詳細は不明であったが。狭いながらも砂利を敷いた境内を持つ「安平神社」。社殿に近づいて。小さいながら、見事な彫刻が施されていた。石灯籠と狛犬(右)。石灯籠と狛犬(左)。後方に「銀座タワー」。25階地下2階建の高層マンション。東京都中央区銀座1丁目22−1。「公開空地この広場及び通路は、建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地で、歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです。 平成15年8月」敷地内に公開空地を設けることなどによって「市街地の環境の整備改善に資する」と認められる場合に、容積率制限や各種の高さ制限(道路斜線、隣地斜線、北側斜線、絶対高さ)を緩和する規定である。公開空地の先駆けとされるのが、1970年代に日本初の超高層ビル街として東京・西新宿エリアで建設されたそれぞれのビルに取り入れられたものだ。1974年に竣工した地上55階建ての「新宿三井ビルディング」には「55HIROBA(55広場)」と名付けられた空間があり、普段はテーブルやベンチが置かれているほか、定期的にコンサートや地域の催しなどが開かれていたのであった。別の角度から「銀座タワー」を見上げて。次に訪ねたのが「中央区立京橋公園」。東京都中央区銀座1丁目25−2。緑豊かな園内には人の姿はなし。「くつをぬいでご使用ください」と。「健康こみち踏んで歩いて、イキイキ健康!歩く前に必ずお読みください。」「足ツボ刺激の道」!!そして「蜊河岸(あさりかし)」の案内板を見つけた。現在日本で「あさり・アサリ」の漢字として利用されるのは魚へんの「鯏」が一般的。ネットで調べてみると、「鯏」の前に使われていたのは「蜊」であったとのこと。『本朝食鑑』(江戸時代)にはすでに浅蜊という漢字表記が記されているのだと。基本的に貝類の漢字は虫偏で作られることが多い。「蛤」(はまぐり)「蜆」(しじみ)「蚫」(あわひ) など有名な貝類にもよく虫偏がつけられている。あさりの場合は食感のはきれがよいということで虫へんに利の漢字がつけられた。「食感のはきれがよいということで虫へん」・・・・???別のネットには「現在「虫」と言っているものは本来は「蟲」と書いていました。これは、昆虫類などは、石をめくったり、木の皮をはいだりすると、その下に無数に集まっていることから、「虫」という字を3つ重ねて書かれるようになりました。現在の「虫」は「蟲」の略字体です。さて、「はまぐり(蛤)」は現在では「貝」類に分類されますが、古代中国では、「人でもけものでも鳥でも魚でもない」ことから「虫」に分類されていました。そのため、「虫」偏を用いて書かれているのです。」こちらの方が解りやすいのであった。「蜊河岸(あさりかし)所在地 中央区銀座一丁目二五~二七番地域かつて、この地より北側の新富一丁目一番・銀座一丁目二六番付近では、北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差していました。それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の里俗名でしたが、明治十三年(一八八〇)に公布された東京府達によって、三十間堀に架かる真福寺橋から月慈方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。江戸時代後期には、江戸三代道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井春蔵 の「士学館」がおかれ、嘉永六年(一八五三)再版の『近江屋板切絵図』には、蜊河岸の南端に、「桃井春蔵」の名を確認することができます。平成二十年三月 中央区教育委員会」北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差。園内には銀杏の樹が多かった。「京橋公園のすべり台京橋公園は震災復興 のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして、長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。しかし、このコンクリート製すべり台は、すべり面の側壁が低いなど現在の「遊具の安全に関する基準」をみたしておらず、またコンクリートの老朽化が進んでいたことから、撤去することとなりました。 平成23年8月 中央区 環境土木部 水とみどりの課」これが、以前のコンクリートすべり台(ネットから)。現在のすべり台はプラスチック製になっていたが、なぜか使用禁止になっていた。そして公園の東側にあった「新富橋(しんとみはし)」を渡る。「ばし」と濁らず「はし」?橋名板に濁点がないのにはある願いが込められているとのこと。「川が濁らないよう濁点をつけないという通説がある」のだと。県によっては橋名板は「○○はし」に統一すると文書で決められていると。全国の橋名板の中には「○○ばし」となっている所もあり、地域で運用は違うようではあるが。橋の下の道路は「首都高速都心環状線」と「京橋料金所」。「新富橋」を渡り終えた左側にあった五重塔。「新富橋」交差点。その角にも小さな神社が鎮座。東京都中央区新富1丁目4−8。「新富復興稲荷社」。颯川新富橋公園近く、新富橋のたもとにひっそりと建てられていた。新しいように見えますが、以前は数メートル北側にあり、小さいながら鳥居もあったと。昭和7 ~ 11年の火保図にはそれらしき神社があることからも、関東大震災の復興に伴って建てられたのだと。交差点の向かいには和装雑貨の老舗「大野屋総本店」もあった。「三吉橋」に向かって南に進む。横断歩道を渡る。「三吉橋」と。関東大震災の復興事業の一環として、1929年(昭和4年) 12月に架橋されている。当時ここには築地川が流れ、川筋を荷を運ふ船や屋形船が行く交い、川を中心に人々の生活が営まれる情緒ある風景があった。高度成長とともに川は埋立てられ高速道路が通り、今では陸橋となっている。Y字型の三又橋。東京都中央区1。「三吉橋」の特徴の一つは、橋を上空から見るとY字型の三つ又になっていることで、銀座方面から、「三吉橋」を渡ると、中央付近から左右に分かれ、左は新富町へ、右へ進むと中央区役所前を通り築地へと繋がっている。そして橋の袂にあったのが「東京都中央区役所」。女性像の「平和像 「ニコラ」」。平和都市宣言を記念して、平和を願う区民のシンボルとして制作した と。近づいて。「壁面緑化 温度測定中」と。「壁面緑化による効果を「見える化」するため、温度センサーを設置しています。測定場所は図のA.Bで壁面の温度をリアルタイムで表しています。」この時は23.4℃と29.1℃と5.7℃の効果を示していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.02
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この日は6月10日(土)、高校時代のクラス仲間から久しぶりに都内で会って昼飯を食おうという事になり参加することに。早めに行き、東銀座周辺の散策を決意し早めに家を出る。小田急線、千代田線、日比谷線を乗り継いで東銀座駅に到着。まずは「歌舞伎座」を訪ねることにした。最初に歌舞伎座の地下2Fにある「木挽町広場(こびきちょうひろば)」を訪ねた。「木挽町広場」には、まるで縁日の時の露店さながらに歌舞伎座の土産屋、茶屋、弁当屋などがひしめき合っていた。江戸情緒感じるグッズ、歌舞伎公演中生写真、東京土産、和雑貨品、江戸時代地図、歌舞伎座ポスターなどが豊富に揃っていた。巨大な「歌舞伎座」と書かれた提灯。珍しい商品を探しながら見て廻るのが楽しかったのであった。歌舞伎座雰囲気を肌で感じる事ができ、提灯が連なっているので和の雰囲気を味わうことができたのであった。天正18 年創業 歴史深い扇子の老舗「伊場仙」。「歌舞伎座切符売り場」。営業時間は10:00~と。時間は9:30。歌舞伎座の6月、7月、8月公演のポスター。「歌舞伎座6月公演」。夜の部の「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」主演・「いがみの権太」役の「片岡仁左衛門」。「六月大歌舞伎昼の部 近松門左衛門 作 石川耕士 監修 市川猿翁 補綴・演出 三代猿之助四十八撰の内 一、傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居 浮世又平住家 「戯場花名画彩色」(かぶきのはなめいがのいろどり) 〈土佐将監閑居〉 浮世又平後に土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 狩野雅楽之助 歌昇 土佐修理之助 團子 女中お百 寿猿 土佐将監光信 歌六 〈浮世又平住家〉 土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 大津絵の鯰 新悟 銀杏の前 米吉 饗庭太郎 男寅 小幡次郎 中村福之助 醍醐三郎 玉太郎 蒲生四郎 歌之助 大津絵の奴 青虎 大津絵の藤娘 笑也 大津絵の座頭 猿弥 不破伴左衛門 男女蔵※市川猿之助休演につき、配役変更にて上演いたします」 河竹黙阿弥 作二、児雷也(じらいや) 児雷也実は尾形弘行 芝翫 山賊夜叉五郎 松緑 高砂勇美之助 橋之助 仙素道人 松江 妖婦越路実は綱手 孝太郎三、扇獅子(おうぎじし) 芸者 福助 同 壱太郎 同 新悟 同 種之助 同 米吉 同 児太郎夜の部 義経千本桜」 エスカレータに乘り地上へ。「歌舞伎座」を見るのは、何十年ぶりであろうか?「歌舞伎座新開場十周年六月大歌舞伎令和5年6月3日(土)初日 25日(日)千穐楽昼の部 三代猿之助四十八撰の内傾城反魂香昼の部二、児雷也昼の部三、扇獅子」「歌舞伎座」正面を見る。歌舞伎座の外観は意匠設計・隈研吾低層で和風桃山様式を採用。4階建て全1,964席で通常の1等席~3等席以外に桟敷席と一幕見席を配置。高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て)と地下広場「木挽町広場」を併設。歌舞伎座タワーは5階のみ一般に開放。タワー5階と木挽町広場は劇場外という扱いなので、チケットなしで出入りできる。タワー5階には歌舞伎に使用する衣装や小道具等が展示されている歌舞伎座ギャラリー(有料)、第4期歌舞伎座の瓦や河竹黙阿弥の石燈籠等が展示されている屋上庭園(無料)等がある。ダイナミックな玄関の唐破風(からはふ)を見る。唐破風の装飾に用いられている金色の飾り金物は第四期の建物で使われていたものを再利用。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。「鳳凰丸」は歌舞伎座の創設者の一人、福地桜痴が、新築した自宅の釘かくしに用いたこの紋をいたく気に入り歌舞伎座の紋に採用したのだと。 「鳳凰丸」の原形となったのは法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた紋様。正面玄関の紫の幕に白く染め抜かれ、いつもお客様を出迎えてくれるのだと。この他歌舞伎座内には提灯・座席・瓦などいたるところに「鳳凰丸」が描かれているとのこと。 左右対称の破風大屋根を見上げて。唐破風(からはふ)の右側。唐破風(からはふ)の左側。「昼の部 開場 午前10時20分」と。ここにも「六月大歌舞伎」ポスター。「六月大歌舞伎」の出演者の写真。昼の部・夜の部の配役の写真昼の部 一、傾城反魂香 二、児雷也 三、扇獅子夜の部 義経千本桜再び反対側に移動して。「晴海通り」を渡り正面から。ズームして。再び「晴海通り」を渡り戻る。「地下2階 木挽町広場 ご案内図」。「歌舞伎座の軌跡」。「第一期 明治22(1889)年11月~明治44年(1911)年7月第一期歌舞使座は、明治の演劇改良運動の中、江戸時代に芝居町のひとっとして賑わった木挽町に開場した。外観は洋風三層の煉瓦造り、内観は純和風の造りで、歌舞伎ならではの舞台機構である廻り舞台や花道を生かしたうえで、西欧の劇場建築を参照し設計され、灯光も電気式になり場内に設置されたシャンデリアも評判となった。開場初期は興行界の駟け引きや日清戦争による一時休場など波乱の幕開けだったが、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次らを中心として、多くの優れた舞台を生み出した。第二期 明治44(1911)年10月~大正10(1911)年10月外観が洋風だった第一期歌舞伎座から、外観、内観ともに純然たる日本風の劇場へと改築され、第二期歌舞伎座は落成した。明治四十四年に開場した帝国劇場との差別化が図られ、外観は純日本式の奈良朝宮殿風の檜造りに改められた。客席天井は金箔置二重打上げの格天井となり、二個のアーク灯を設置したのをはじめ、無数の電灯を備えた。開場初の興行は「五代目中村歌石衛門襲名披露」。大正二年に松竹の創業者大谷竹次郎が経営を任され、当時の松竹合名会社が一手に興行を担うようになる。第三期 大正13(1924)年12月~昭和20(1945)年5月火災で焼失した第二期歌舞伎座の跡地に再建された第三期歌舞伎座。外観は奈良朝の典雅、桃山朝の豪壮な様式を取り入れたもので、建物全体は鉄筋コンクリート造。桟敷席などを除いて、座席から椅子席に改められるなど、より近代的な劇場に生まれ変わった。十五世羽左衛門、六世菊五郎、初世吉右衛門などの名優が活躍し、日本を代表する劇場としての地位を揺るぎないものとした。第二次世界大戦の戦況の悪化にともない昭和十九年二月興行を最後に休場。翌年の空襲で戦火に包まれる。第四期 昭和25(1950)年12月~平成22(2010)年4月終戦後、GHQの占領政策で封建的な内容の演目が上演禁止となるが、理解者の尽力により徐々に上演が解禁。歌舞伎座の再建工事も昭和二十四年に開始される。物資が乏しい時代であったため、焼け残った第三期歌舞伎座の資材を再利用するなど難工事の連続だったが、昭和二十五年十二月に第四期歌舞伎座竣工。高度経済成長期の歌舞伎プームを巻き起こし、昭和三十九年の東京オリンピックでは「ナイト・カプキ」公演も行う。平成二年から一年を通して歌舞伎興行が行われるようになった。」「第五期 平成25(2013)年4月~現在の第五期歌舞伎座は、オフィスビル歌舞伎座タワーとの複合施設[GINZAKABUKIZA」として平成二十五年に開場した。設計は隈研吾。外観の唐破風など、第四期歌舞伎座デザインを踏襲しつつ、細かな改善によって現代的な建築物として生まれ変わっている。新開場式には歌舞伎俳優が勢揃いし、華々しく歌舞伎座は新たな歴史を刻み始めた。以降も、世界唯ーの歌舞伎専門劇場、芸の継承と革新を行う歌舞伎の殿堂として、良質な舞台を生み出し続けている。」「歌舞伎座」の建物の右側に鎮座していたのが「歌舞伎座神社」。歌舞伎座が新たな姿として2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていた。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのだが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっているのであった。扁額「歌舞伎稲荷大明神」。社殿に近づいて。さらに。歌舞伎稲荷神社でも、2017年11月1日から御朱印(一種類、書き置きのみ、初穂料300円)をいただくことができるようになった。また、歌舞伎座の舞台檜板を再利用した木札(初穂料1800円)も2020年より頒布されている。どちらも歌舞伎座タワーの5階にある「お土産処 楽座」、地下2階木挽町広場内にある「かおみせ」にて受けることができたのであった。「歌舞伎座タワー」。第五期歌舞伎座と共にそびえ立ち、基準階500坪を超える、銀座で最高の高さを誇るタワーオフィス。地下4階・地上29階。横のガラス窓にも歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。近づいて。「銀座やまう平成29年(2017年)に竣工した建物の外観には、江戸時代から続く伝統工芸品、組子細工を模したモザイク模様を配し、日本の様式美を演出いたしました。店頭に並ぶおよそ50品目のお漬物は季節で品揃えが変わり、すべてご試食しながらお買い求めいただけます。旬ならではの限定品や生産数が限られたお漬物もございますので、ぜひ一度足をお運びください。」とネットから。「木挽町通り」を北東に向かって進む。道路脇の青のアジサイ。近づいて。突き当りの「松屋通り」沿いにあった石碑。「専修大学発祥の地」碑。「専修大学発祥の地専修大学は明治13年9月16日ここ東京市京橋区木挽町2丁目14番地に 経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる。創立者は 相馬水胤, 田尻稲次郎, 目賀田種太郎, 駒井重格の諸先達で 建学の精神は社会に対する報恩奉仕であり 質実剛健, 誠実力行は学風である。」その左側にも案内板が立っていた。「明治会堂跡」。「明治会堂跡所在地 中央区銀座三丁目十四番明治会堂は、明治十四年(一八八一)、福沢諭吉 の発案により建設された演説会場です。瓦葺き木造二階建て、建坪約六ニ〇平方メートルの擬洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉 により設計されました。当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。これらに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は三千人を容れ、食堂には二百人の席を設くべし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」とあり、当時としては、会食もできる東京随一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。明治十五年に立憲改進党の結党式がここで行われたほか、明治十六年には鹿鳴館に先駆けて日本初の西洋舞踏会が行われました。明治十五年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治二十三年(一八九〇)に民間に払い下げられた後、大正十二年(一九ニ三)の関東大震災で焼失しました。 平成二十四年三月 中央区教育委員会」。 ・・・つづく・・・
2023.07.01
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