全30件 (30件中 1-30件目)
1

ウィシング FL、1985作出、イギリス・ディクソン。 花色は中央 部が淡く、周辺が少し濃いピンクでツートンの感じ。 半剣 弁高芯咲き、大輪、四季咲き性、微香。 初代ディクソンは1836年北アイルランドに育種農場を設 立し、現在は4代目である。 ウィシングとは、「願い事」であろうか。 I wish you a Happy New Year!ウィシングへジャンプ
2006年12月31日
コメント(7)

ウィー・クラッカー FL、1996年作出、イギリス・Cocker。花色は朱色で あるが、裏弁が淡いピンクなので、ツートンの感じである。 八重、盃状咲き、中輪、四季咲き性。 花弁が縮れており、何と も変わった花姿である。 花名の由来は分からないが、祝福のクラッカーをイメー ジしたものであろうか。ウィー・クラッカーへジャンプ
2006年12月30日
コメント(3)

イントゥリーグ FL、1984年作出、アメリカ・J&P。 花色はワイン レッドで、半剣弁高芯咲き、花径は約10cmで中輪、房咲 き、四季咲き性、フロリバンダ種としては例外的なほど、鮮 烈に香る。 樹高1m、半横張り性。 1984年AARS受賞。 ドイツ・コルデスのイントゥリーグもあり、非常に間違いや すいので、こちらは「J&P・イントゥリーグ」と呼ばれる こともある。 因みにイントゥリーグとは、「陰謀」といった意味である。イントゥリーグへジャンプ
2006年12月29日
コメント(7)

インターナショナル・ヘラルド・トリビューン FL(フロリバンダ・ローズ)、1984年作出、イギリス・ ハークネス。 とても美しい、バイオレット系のバラで、別名 は「ビオレッタ」。 一茎に複数の花が房になって咲き、一年 中絶えることなく咲き続ける、連続開花に優れた品種。 花径は5~6cmと中輪ではあるが、やや小ぶり。 香りは爽 やかでフルーティである。病害虫の抵抗力も強く、日本の土壌・ 気候にも良く適応する。 春夏の花保ちは、花弁が少ないだけに悪く、すぐ散ってしま うが、晩秋はゆっくり開き、夕方花を閉じ、花色も深まって なかなかのものである。 名前は、フランスのパリに本部を置き、世界各地で発行され る英字新聞に由来する。 日本ではヘラルド朝○である。インターナショナル・ヘラルド・トリビューンへジャンプ
2006年12月28日
コメント(6)

イングリッド・バーグマン HT、1984年作出、デンマーク・Olesen。スエーデン 出身の大女優イングリッド・バーグマン(1915~1982) に、その没後捧げられたバラである。 20世紀を代表する10名花のひとつである。 鮮明で輝くよう な純赤色の花は弁質が厚く、剣弁高芯咲き、花径約12cmで大 輪、四季咲き性、僅かにスパイシーな香りがする。花保ちが良い、 強健種。 樹高は90~150cm程の、中位の立ち性のブッシュとなる。 3年に一度開かれる、世界バラ協会(World Fedration of Roses)の 会議で、2000年(第10回)に「名声の間」(Hall of Fame) への殿堂入りを果たした。イングリッド・バーグマンへジャンプ
2006年12月27日
コメント(6)

イングリッド・ウェイブル FL、1983年作出、ドイツ・タンタウ。 花色は赤で、中央 部が多少淡くなっている。 丸弁平咲き、中輪、四季咲き性、微 香。 春は特に多花性で、絶え間なく次々と花が咲く。 花名は、スエーデンの人名である。 イングリッドといえば、ス エーデン出身の名女優、イングリッド・バーグマンが有名である。 樹高は1メートル足らずと大きくならないので、手前の方に植え てもよい。 耐寒性、病気耐性に優れている。 別名Showbiz(ショウビズ)、1985年にAARS(オール・アメ リカン・ローズセレクション)賞を受賞。イングリッド・ウエイブルへジャンプ
2006年12月26日
コメント(10)

イレーヌ・ワッツ Old.R(チャイナローズ系)、1896年作出、フランス・ Guillot。 花色は少しオレンジの入ったピンクで、丸 弁抱え咲き、中輪、四季咲き性。 チャイナローズとしては耐 寒性があるが、一方で耐暑性が弱い。 フロリバンダ・ローズの名花・グルス・アン・アーヘンの枝変 わりと考えられている。 ピンク・グルス・アンアーヘンの名 で出ていることがある。 樹高は60cm程度と矮性、樹形は半横張り性。 ブッシュ状 で葉がよく茂るので、鉢植えにも適している。 春の早い時期に咲き始め、秋遅くまで咲いている。 やさしい ティーの香りがする。 ※イレーヌ・ワッツとして流通していたのは、実は「ピンク・ グルス・アン・アーヘン」であったとアメリカバラ会から近 年発表があったと云う。イレーヌ・ワッツへジャンプ
2006年12月25日
コメント(5)

イマジンHT、1999年作出、広島バラ園。 花色は白で、半剣弁高芯咲き、花径は13cmで大輪、四季咲き性、微香。樹高は約1mぐらい、直立性。作出地が広島ということから、花名のイマジンは、ジョン・レノンの「イマジン」をイメージし、平和を祈念したことは間違いないと思う。イマジンへジャンプ。
2006年12月24日
コメント(8)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(23)メトロポリタン美術館1Fのレストランで昼食をとる。 絵画や彫刻に囲まれて、ワインを傾けながらの食事も悪くない。13:30 メトロポリタン美術館を後にして、「フリック・コレクション」に向かう。 同じ5番街にあるので、徒歩5~6分位南下すれば良い。フリック・コレクション 19世紀鉄鋼王として財をなしたヘンリー・クレイ・フリック(1849- 1919)が、生涯にわたって収集した絵画、彫刻、装飾美術品の数々が華 やかに展示されている個人美術館。 メトロポリタン美術館と比べると、こじんまりとしているが、大変充 実したコレクションと、それを見せるゴージャズなムードで訪れる者 を魅了してくれる。 特にフェルメールの3作品が有名である。 館外貸し出しはされていないので、有名絵画も、ここでしか見ること は出来ない。 残念ながら写真撮影は出来なかったが、本物を目の当 たりにし、十分堪能することが出来た。「兵士と笑う女」・フェルメール(1658) ワインを飲む女性と男性というテーマの作品は他に2点ある。女性に 比べ、手前の男性が不釣り合いに大きく描かれている。 これは、作 画に「カメラ・オブスクーラ(ピンホール・カメラの一種)」を利用 したため、正確な遠近法を可能にしたという。 背景は、1620年に出版されたホラント州と西フリースラントの地 図である。「稽古の中断」(1660) 中断された音楽の稽古で、音楽は恋愛と関連の深いモチーフである。 写真では暗くてよく見えないが、背景の画中画は片手にカードを持っ たキューピッドの像で、「真実の愛はただ一人のためにある」という 寓意を表すとされる。 全体に画面の損傷が大きい。「婦人と召使」(1667) 女主人と女中、そして手紙というモチーフは他の作品「恋文」、「手 紙を書く婦人と召使」にも共通するものだが、本作品は背景を黒く塗 りつぶしている点が他と異なっている。 婦人はアーミン柄の毛皮の縁のついた黄色い上着をまとい、指をあご にあてて、幾分怪訝そうな顔つきでいるのが気になる。体中に光を浴 びているのとは、対照的な戸惑い気味の顔つきと仕草である。(アー ミンは、テンの白い毛皮に尻尾が付いている様子を図案化したもの)他にも、レンブラント、ベラスケス、ゴヤ、グレコ、アングル、ドガといった西洋美術史上おなじみの絵画がずらっと並んでおり圧倒された。今回のニューヨーク旅行の主目的は、「フェルメールを尋ねて」であったので、計8点も鑑賞することが出来大満足である。 来春は本場のオランダに、是非とも行きたい思いを強くする。 ニューヨーク旅行 <完>ニューヨーク旅行(23)へジャンプ
2006年12月23日
コメント(7)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(22)メトロポリタン美術館1F「20世紀美術コーナー」を大体見終わったのは、すでに正午近くであった。 レストランを探して歩いているうちに、素敵な中庭に出た。 ここのベンチに腰掛け、暫く休憩する。周りを見渡していると、回廊の一角に素敵なステンドグラスが望めた。 早速近づいて見る。 どうやら、ルイス・C・ティファニーの作品のようだ。ルイス・C(カムフォート)・ティファニー(1848-1933) アメリカのガラス工芸・宝飾デザイナー。 アール・ヌー ヴォーを代表する芸術家の一人。 1848年、宝石商ティファニー商会の設立者チャールズ・ L・ティファニーの長男としてニューヨークに生まれる。 父は家業を継ぐことを望んだが、画家を志し、渡欧して絵画 を学ぶ。 帰国後にガラス工芸を始める。 果物や植物、昆虫や鳥など をモチーフにしたステンド・グラスやランプなどで名声を得 た。 1900年、パリ万博でグランプリを獲得した。 1902年、父の死により、ティファニー社の美術ディレク ターを務める。「Autum Landscape (秋景)」(1923) まさに、光の芸術である。 素晴らしいの一言しかいいよう がない。 ガラスの生成から一貫して手掛けたと云うが、流石表現力が 違う感じである。その左隣にあるのは、「View of Oyster Bay」である。「View of Oyster Bay (オイスター湾の風景)」(1905) オイスター湾は名の通り牡蠣の漁獲で有名であり、ロングア イランド・NY州にある。 この湾に、メイフラワー号が停泊していたこともある。 ーつづくーニューヨーク旅行(22)へジャンプ
2006年12月22日
コメント(8)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(21)メトロポリタン美術館1F「20世紀美術コーナー」に、ピカソの絵画が展示されている。 パブロ・ピカソ(1881-1973) 彼のフルネーム(洗礼名)は聖人や縁者の名前を並べた長いもの で、長い名前の例によく引き合いにだされる。 ピカソ自身は、フル ネームに無関心で、はじめはパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある 時期から父の名のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになっ た。 ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名である。 彼の 作風が変化した理由は、幼少の頃から絵の才能に恵まれた為に、自分 が上手なのは当たり前と考えるようになった。 その後、普通がつま らないと思い、絵に変化をもたらしたと云う。作風の変化は、主に次 の6つに分けられている。 「青の時代」(1901-1904) : 親友カサヘマスの自殺にショックを受け、 貧困や孤独、絶望をテーマにした、冷たい青色を多く使った絵画を 制作するようになった。 「ばら色の時代」(1904-1907):暗い色調から抜け出すきっかけとなっ たのは恋愛である。1904年にオリビアという女性に出会い、付 き合い始める。 「アフリカ彫刻の時代」(1907-1908) : アフリカの部族の仮面をつけ た女性も描かれていて、アフリカ彫刻に興味を持っていたことが分 かる。 この時代の作品が、キュビズムの基礎となった。 「キュビズムの時代」(1909-1917) : ピカソの絵画と聞くと、この時 代の変形した絵を思い浮かべる人が多い。 キュビズムは決して抽 象画ではなく、概念として世界を描いたものである。 「新古典主義の時代」(1918-1925) : この時代は、ゆったりとした人 物を、イキイキと描いている。 人物たちの形も、丸くなっている のが特徴である。 「シュルレアリズムの時代」: (1925-1973) この時代から晩年にかけてのピカソの作品は、シュルレアリズムの 手法だけではなく、様々な手法を取り入れている。キュビズムの流 れもあり、独自の絵画をうみだしていった。「The Actor (男優)」(1904-05) 青の時代の最後の作品である。右下隅には赤も用いられ、暗さから脱 出しようとするあがきが感じられる。「ガートルード・スタインの肖像」(1906) アメリカの女流文学者だったこのモデルは、兄と共にパリに住み、前 衛芸術家の庇護者としても知られていた。 ピカソは、彼女におよそ90回もポーズさせたが、頭部がどうしても 描けないため、その部分を塗りつぶしたまま旅に出、パリに戻って来 て一気に描き上げた。 仮面のような表情は、キュビズムを生み出す 契機の一つとなった。「Nude in Armchair (肘掛け椅子に座ったヌード)」(1909-10) キュビズムの時代の初期の作品。 ピカソと聞くと、このような絵を 先ず思い浮かべる。「The Dreamer (夢見る人)」(1932) シュルレアリズムの時代の作品であるが、新古典主義の流れもあり、 人物が丸っこい。 色合いも素敵で、私の好きな作品の一つである。 「ゲルニカ」作成5年前で、平和なよき時代を思わせる。※括弧内のタイトルは、私が勝っ手に訳したもので、正式名称ではない。 ーつづくーニューヨーク旅行(21)へジャンプ
2006年12月21日
コメント(6)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(20)メトロポリタン美術館1F「20世紀美術コーナー」の一角に、モディリアーニ作の石像「婦人の頭部」が台上に置かれている。アメデオ・モディリアーニ(1884-1920) 20世紀初頭に活躍した画家・彫刻家で、イタリア出身であ るが、主にパリで制作活動を行った。 最初は彫刻家を志し、1915年頃までは、アフリカの民族 美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。 1915 年頃から絵画に専念し始める。 1917年には、ペルト・ヴァイル画廊で、生涯唯一の個展 を開催した。同じ年、後に妻となり、裸婦像などのモデルを 努めたジャンヌ・ユビュテルヌと知り合っている。1918 年一女をもうけるも、貧困と持病の肺結核に苦しみ、大量の 飲酒、薬物使用などの不摂生の末、36歳で没した。妻のジ ャンヌも後を追って亡くなった。「婦人の頭部」(1912) 石灰岩を使用した彫刻品で、当時の美術界が発見したアフリ カの仮面の強い影響が見て取れる。「モディリアーニが肖像 画を描いたような」と云えば、説明抜きで「面長」の形容詞 として通用するが、その原点がここにある。「横たわる裸婦」(1917) キャンバス一杯に横たわる裸婦、彼は古典的な画題を独特の フォルムで描ききった。 挑むような官能と、柔らかい肉体。 その体温が伝わるような、杏色を帯びた肌。 モディリアーニとしては、隅々まで丁寧に仕上げられた力作 である。 描かれた対象に対する親愛の情を、観るものに一 目で抱かせてしまう、天才的表現力を彼は備えていたようだ。「花売り人」(1919) モディリアーニの絵画の殆どは肖像画で、顔と首が異様に長 く、目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現を とっているが、それが不自然さを感じさせないのは不思議で ある。 着衣が黒く、バックの壁面も暗いので、写真にすると冷たい 感じがするが、現物を目の前にすると、暖かい、優しさに包 まれる感じとなる。 ーつづくーニューヨーク旅行(20)へジャンプ
2006年12月20日
コメント(8)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(19)メトロポリタン美術館2Fのヨーロッパ絵画コーナーを見終わって、1F「20世紀美術コーナー」へ移動する。先ずは、マティスの絵画を鑑賞する。アンリ・マティス(1869-1954) フランスの画家で、野獣派(フォーヴィスム)のリーダー的存在 であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表 する芸術家の一人として活動を続けた。 はじめ法律家を志すが、1890年盲腸炎の療養中に絵画に興味 を持ち、画家に転向、ギュスターヴ・モローに師事した。 マティスの初期の作風は写実的なものだったが、ゴッホ、ゴーギ ャンの影響を強く受け、自由な色彩による絵画表現を追求するよ うになる。 1905年から肖像画を、1909年から一連の「ダンス」など、 大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表した。 1908年、ロシアの有名な絵画コレクター・シチューキンに認 められ、彼の絵画数点を購入してもらう。 これを境に、経済的 苦境から解放され、絵画制作に専念出来るようになった。その後、 1911年にモスクワを訪れて、ロシア芸術にふれ、彼の後々の 創作の源としている。「Nono Lebasque」(1908) Lebasqueは、マティスの画家仲間で、彼の2人の娘のう ち、妹のNonoをモデルとしたらしい。 1回目の素描きの後、1~2日おいて、その間に起こる「無意識 の発酵」を待ち、2回目以降は単純な線で構成されていく経過を たどったとか。 他の肖像画には見られない、何か訴えかけてくるものがあるよう な気がするのは、私だけだろうか。「金蓮花とダンス」(1912) 有名なダンス・シリーズ第一作は、1909年に完成したが、こ の絵は彼のアトリエの光景で、背後の壁をその第一作が占めてい る。 画家はしばしば、自作を画中画として取り込んだ。 因みに、金蓮花とはナスタチウムのことである。 なお、ダンス・ シリーズ最大の作品はエルミタージュ美術館に所蔵されている。 上記シチューキンとマティスとの関係を如実に表している。何と、 その大きさは縦3.5mx横5mはあろうかという大作である。「グレイのズボンをはいたオダリスク」(1927) 1916年からマティスは、冬をニース、夏をパリで過ごすことが 多くなり、この頃から「オダリスク」の主題を好んでとりあげるよ うになった。 オダリスクはトルコ後宮のことで、後宮に仕える女性を、踏みにじ られ搾取されたものとしてではなく、匂い立つような色香を持った、 優美な存在として描いている。 ーつづくーニューヨーク旅行(19)へジャンプ
2006年12月19日
コメント(5)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(18)メトロポリタン美術館2Fのゴッホの「糸杉」近くの壁に、ゴーギャンの「イア・オラナ・マリア(マリア賛歌)」が展示されている。ポール・ゴーギャン(1848-1903) フランスのポスト印象派の、最も重要かつ独創的な画家の 一人である。 1848年、二月革命の年にパリで生まれた。 一家は革 命後の新政府の弾圧を恐れ、南米ペルーへ亡命した。しか し父が間もなく死亡したため、1855年フランスへ帰国 した。 1880年の第5回印象派展に出品しているものの、この 頃は一介の日曜画家に過ぎなかった。 勤めをやめ、画家 として専念するのは1883年以後のことである。 1888年には南仏アルルで、ゴッホとの共同生活を試み るが、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳 切り事件」をもってこの共同生活は破綻した。 西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋に あるタヒチに渡ったのは1891年4月のことである。2 年間滞在するが、このタヒチでさえ、彼が夢に描いた楽園 ではなかった。 1893年パリへ戻る。 パリにアトリエを構えるが、繪 は売れなかった。 同棲していた女性にも逃げられ、居場 所を失った彼は、1895年に再びタヒチに渡航した。 タヒチに戻って来たものの、相変わらず貧困と病苦に加え、 妻との文通も途絶えた彼は希望を失い、1899年死を決 意した。 しかし、自殺は未遂に終わった。 最晩年の1901年には、更に辺鄙なマルキーズ諸島に渡 り、1903年に死去した。 彼の死後、西洋と西洋絵画に深い問いかけを投げかける彼 の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようにな った。「イア・オラナ・マリア(マリア賛歌)」(1891) 43歳で初めてタヒチを訪れた時に描いた作品。現地のポ リネシア語で付けられた題名は、『新約聖書』の受胎告知 の場面に因む。 タヒチに楽園を求めたゴーギャンは、聖 母子も天使もタヒチ人として描いた。「シェスタ(昼寝)」(1892) 彼がタヒチを楽園と信じていた時分の作品。 ゆったりと した時の流れを感じる。「赤い花と乳房」(1899) ゴーギャンのタヒチ時代末期を飾る傑作。 彼は自殺に失 敗した後、元気を回復して、再び絵を描きだした。 この作品は一点の曇りもなく透明で、少女の豊かな美しさ、 清らかさをたたえている。肉感性は消え去り、見るものに 音楽のような陶酔を与える階調が画面を支配している。 左側の女性は、ゴーギャンの子供を二人生んだバフラと云 われている。 ーつづくーニューヨーク旅行(18)へジャンプ
2006年12月18日
コメント(7)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(17)メトロポリタン美術館2Fのセザンヌの隣の部屋の壁にゴッホの「糸杉」が展示されている。 「麦藁帽子を被った肖像画」は壁 面でなくて、何故か台の上に無造作に置かれている。 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890) ポスト印象派の代表的な画家である。 様式的には印象派に負 うところが多いが、表現主義・象徴主義的側面も多分にある。 現在でこそ、極めて高い評価を得ているが、不遇の生活を送っ ており、生前に売れた絵は僅か1枚だけだった。 それでも、 生活していけたのは弟テオドールの援助があったからである。 印象派は自然主義を基本とするが、ゴッホの絵画は単なる現象 の写しを離れ、しばしば象徴主義的である。 この傾向は特に 後期に著しい。 印象派が太陽の照らす戸外を描くのに対し、 彼は夜をも描く。また、憂鬱な人間と社会、更には精神的な世 界をも描いたが、この態度は印象派と決定的に異なる。「糸杉」(1889) ゴッホが精神を病み、サンレミの精神病院へ入院して間もない 頃に描かれた。 濃い緑の糸杉が、炎のように天に伸びてゆく 力強さが感じられる。 晩年の作品によく見られる、渦のようにうねる筆のタッチが、 画面全体を覆っている。「麦藁帽子を被った自画像」(1887-88) ゴッホは1886~88年、パリで印象派、新印象派及び日本 の浮世絵の影響を受けている。 彼は35~40点の肖像画を残していると伝えられるが、パリ 滞在中「麦藁帽子を被った自画像」を7枚描いた。 展示のも のはその中の1枚で、アムステルダムのゴッホ美術館の自画像 とよく似ているが、こちらの方が帽子がやや大きい。 ゴッホが描いたのは、単なる自身の外見ではなく、その奥の奥 にある得体の知れない「業(ごう)」のようなものだろうか。 「ゴッホの繪を見ていると、こちらが鑑賞しているのではなく、 向こうがこっちを見つめているようだ」(by小林秀雄) ーつづくーニューヨーク旅行(17)へジャンプ
2006年12月17日
コメント(7)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(16)メトロポリタン美術館2Fのモネの「睡蓮」の近くに、セザンヌの「リンゴと鉢植えの桜草」が展示されている。ポール・セザンヌ(1839-1906) 後期印象派の時期に活躍し、「近代絵画の父」として知られるフ ランスの画家。 後進への手紙の中で、「自然を円筒、球、円錐 として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビズムに大き な影響を与えた。 初めてサロンに入選したのは43歳の時で(「画家の父」-1882)、 世に知られるようになったのは、同年代のモネ、ルノワールに比 し可成り遅い。 セザンヌは、時間とともに移ろう光を追いかけている印象派に不 満であった。 彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべ きである」と云う考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を 与えた。「リンゴと鉢植えの桜草」(1890) 「私はリンゴでパリをあっと云わせたいのだ」、と語ったセザン ヌは、事物(もの)を事物(もの)として描き、無秩序に置かれ た物体どうしの関連性を見いだすことを狙いとしていた。 この静物画は、かってセザンヌの友人であったモネが所蔵してい た作品として有名である。「温室のセザンヌ夫人」(1891) この作品は、妻オルタンスの肖像画27点のうちの1点である。 画家52歳の頃の作品で、淡い背景の中、優しそうな妻の人柄が 表現されている。 しかし、セザンヌが目指したものは、人物をもとにした幾何学的 な造形であった。 楕円形の顔、円筒形の胴などにその試みが見 られる。 ーつづくーニューヨーク旅行(16)へジャンプ
2006年12月16日
コメント(5)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(15)メトロポリタン美術館2Fのルノワールの「横たわる裸婦」の近くに、クロード・モネの初期の作品である、「ラ・グルヌイエール」が展示してある。クロード・モネ(1840-1926) 印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、 時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求 した画家であった。 モネは1860年にパリに出て、ピサロらと知り合う。1862 年、グレールのアトリエに入り、ここではシスレー、ルノワール らと知り合っている。 「印象・日の出」(1872)が彼の出世作で、この作品が「印象派」 という名称の由来となる。 モネは1870年頃から浮世絵のコレクションを始めている。浮 世絵は、モネをはじめゴッホ、ドガ、ミレーなど多くの印象派の 画家達にインスピレーションを与えた。 晩年彼は、セーヌ河を更に下ったジヴェルニーの自宅の庭にある 睡蓮の池をモチーフに、1926年に亡くなるまで200点以上 制作したという。 晩年は白内障を患い、失明寸前にあったこと もあり、画面は限りなく抽象に近づいている。「ラ・グルヌイエール(蛙の池)」(1869) 友人ルノワールと一緒に、この池へ絵を描きに行っている。2人 共まだ無名の時代である。 同じような作品が出来あがったが、モネの方が遠近感があり、水 面が瑞々しい。「アルジャントゥイュのひなげし」(1875) 第一回印象派展に「ひなげし」(1873)が出品されたが、その後同 様の作品を何点も描いている。 場所はアルジャントゥイュ近郊。 画中の人物はモネの妻である。「エトルタのマンヌポルト」(1883) 1883年、43歳の時、彼の故郷に近いノルマンディーのエト ルタ海岸を訪れた。 白い断崖が聳えている場所である。 巨岩 が刳り貫かれて「ポルト=門」のようになっているのが面白い。 まさに奇岩である。 水平線は朦朧として海と溶け合っている。 モネは、光を含んで 輝く大気の動きすら描きとめようとしていた。「睡蓮」(1893) 睡蓮シリーズの初期の作品である。 モネは日常の生活や自然の 一瞬をとらえた浮世絵に、自分自身が追い求めた、変わりゆく光 の表情を見つけたという。「睡蓮の池に架かる太鼓橋」(1899) 浮世絵を参考に、彼のスイレン池に、この太鼓橋を架けたたとい う。 1昨年、浜松花博会場に「スイレン池と太鼓橋」が原寸大に作ら れていたのを思いだし、興味深かった。 ーつづくーニューヨーク旅行(15)へジャンプ
2006年12月15日
コメント(10)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(14)メトロポリタン美術館2Fのルノワールのコーナーに、彼のすべての作品が展示されているわけでなく、他の部屋にも展示されている。これは多分コレクションの差異、または寄贈時期の違いによるものだろう。 隣の部屋に、彼の初期の作品、「庭にいるニニ」が展示されていた。「庭にいるニニ」(1875-76) ルノワールが有名になる前の作品である。 印象派展の第三回目に 出品したものであろう。 モデルのニニ・ロぺス嬢は、彼の初期の作品、「モデルの肖像」な どに度々登場してくる。 彼女の横顔の素晴らしさに魅せられたの であろうか。一つおいた右側に、「横たわる裸婦」が展示されている。「横たわる裸婦」(1883) 前述したように1883年といえば、新古典派の巨匠アングルの影 響を強く受けた時代である。 裸婦というより、少女のあどけなさ が残っているが、つややかな肌色と全体の柔らかい色調は、晩年の 「豊満な裸婦像」に至るさきがけをなしたものである。少し離れた壁面に展示されているのは、「ピアノの前のカテュール・マンデスの娘達」である。「ピアノの前のカテュール・マンデスの娘達」(1888) ルノワール晩年の「真珠の輝きの時代」初期の作品である。ピアノ をテーマにしたものは、更に有名な「ピアノを弾く少女達」(1892)が あるが、残念ながら見落としてしまった。 両者共、雰囲気が似通っていて、名札を見なくてもルノワールの作 品であることはすぐ分かる。 19世紀のフランスの女性作曲家・オーギュスタ・オルメス(1847- 1903)は結婚しなかったが、妻子持ちの詩人カテュール・マンデスと 同棲し、5人の子供をもうけた。 オルメスは熱狂的なワグネリア ン(ワグナー崇拝者)で、彼女の3人の娘達は、同じくワグネリア ンであったルノワールのモデルを勤めた。 ーつづくーニューヨーク旅行(14)へジャンプ
2006年12月14日
コメント(8)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(13)メトロポリタン美術館2Fのドガのコーナーの隣の部屋はルノワールのコーナーである。 有名な絵を目の前にして、心躍る感じである。ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919) フランス印象派の画家であり、その作品は日本でも広く知られてい る。 彼は印象派展には1874年の第一回展から出品している。 他の印象派の画家達と同様、風景画も制作したが、特に人物を好ん で描き、裸婦像、少女像などを得意とした。 1880年代前半頃から、光の効果におぼれ、形態を見失った印象 派の技法に疑問を持ち始める。 1883年頃からの作品には新古 典主義の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、 冷たい色調が目立つ。 1890年代から晩年にかけてが、「真珠の輝きの時代」である。 ルノワールが最も描きたかった、女性の豊満なヌードを描くために たどり着いた境地であろうか。 日本には早くから紹介され、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・ 間接に影響を与えている。「シャルパンティエ夫人と子供たち」(1878) 柔らかいタッチの人物画で人気を誇るルノワールであるが、20代 後半からの印象派時代は殆ど評価されなかった。 ある日、34歳 のルノワールは、パリ有数の出版社主シャルパンティエとその夫人 に出会う。 夫人は彼の才能に魅せられ、家族の肖像画を次々に注 文する。 それらの中の1枚が「シャルパンティエ夫人と子供たち」 で、この作品は、その年の官展一の注目作となった。 ルノワールが芸術の都パリにおいて、社会的に認知され、名声を決 定づけた、まさに記念すべき一枚の絵である。「海辺に座る女」(1883) 上述のアングルの影響を受けた作品。 画面に描かれた人物の眼は、 知性のきらめきと夢見がちな内面をのぞかせているが、力強い視線 で、観るものの眼を捉える。 ともすれば、綺麗な絵で終わってし まうルノアールの描く人物像が、驚くほどの存在感をみなぎらせて いる。 画集では絶対に味わえない感覚に浸ることが出来た。「ひな菊と少女」(1889) 「真珠の輝きの時代」最初の作品である。 「少女イレーヌ」を始 め、ルノワールの描く少女像はすべて素晴らしいが、本作品は少女 から女性へと脱皮していく端境期のふくよかさを、見事に表現して いる。 ーつづくーニューヨーク旅行(13)へジャンプ
2006年12月13日
コメント(8)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(12)メトロポリタン美術館2Fの中世コーナーは素通りして、印象派のコーナーへ急ぐ。 先ずはドガの「14歳の小さな踊り子」のブロンズ像が部屋の中央にあり、人目を惹きつけている。エドガー・ドガ(1834-1917年) ドガは通常印象派の画家の一員と見なされている。 確かに彼は 印象派展には度々出品している。 しかし、光と影の変化をキャ ンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家達 と異なり、彼の制作の基盤はあくまでも、ルネッサンスの巨匠達 の画風にあった。 古典的手法で、現代の都会生活を描き出すこ とからドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。 印象派の画家は、主に1840年前後に生まれている。モネとロ ダンが1840年生まれ、セザンヌとシスレーは1839年生ま れ、ルノアールは1841年生まれである。 これらの若手に対 し、ドガは1834年生まれで、彼らの先輩にあたる。 ドガの画風はクラシックを大変重んじる、強情な程古くさい一面 があるが、色彩や構図は日本の浮世絵などから学び、造形性とい う点では最も進歩的な画家だった。 晩年は視力が衰えたためも あり、「14歳の小さな踊り子」などの彫刻作品も残している。 浮世絵の思い切った構図を採用したと考えられるのは、「バーで 練習する二人の踊り子」である。「バーで練習する二人の踊り子」(1876-77年) この画面では、「中心をずらした構図」がとられている。二人 の人物を画面の隅に押しやって、中央に大きな空間を据えてい る。 まさに、ドガが独自の領域を開拓した作品である。「ダンス教室」(1874) バレーの踊り子の絵画で有名なドガであるが、これは伝統的な 遠近法的空間を基礎にして描かれている。 上記の作品より2 年位前に制作された。 ドガは、これらの絵画のように柔らかい、心優しい人物だった ような気がする。 ーつづくーニューヨーク旅行(12)へジャンプ
2006年12月12日
コメント(10)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(11)メトロポリタン美術館2F・フェルメール・コーナーの「信仰の寓意」のすぐ右隣に、「レンブラントの自画像」がかかっていた。レンブラント・ファン・レイン(1606-1669年) 彼は生涯に5~60枚とも云われる自画像を描いている。 肖像画に 対象の精神性を込めることをテーマにしていたレンブラントにとって 自画像は、自分への問いかけ、自己の確認だったのかも知れない。こ の絵が特別なのは、彼の晩年の作だからである。 1642年最愛の妻サスキアが亡くなる(享年30、レンブラント36歳)。 この年、有名な「夜警」を完成させるが、これ以降顧客が喜ぶ絵に満 足せず、彼自身が納得のいく制作に固執するようになり、次第に注文 も減り始めた。 折からオランダは第一次英蘭戦争(1652-54)で破れ、海上貿易の主導権 をイギリスに奪われ、未曾有の不況に見舞われ、またしても注文は激減 し、1656年ついには破産に追い込まれた。 失意の彼を支えたのは、愛人ヘンドリッキェと息子のティトゥスであっ たが、1663年に大流行したペストにより、若くしてヘンドリッキェ は亡くなり、1668年には息子にまで先立たれてしまった。 そのような不遇のどん底で描かれたこの絵には、彼の執念が感じられ、 身震いを覚える程である。緊張感を漂わせながら、部屋を出たすぐの所の壁面に、大きな絵があった。 ゴヤの「バルコニーのマハたち」である。フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) ベラスケスと共に、スペイン最大の画家。 ベラスケス同様宮廷画家 として、重きをなした。「バルコニーのマハたち」(1800-14年) きらびやかに着飾ってバルコニーにもたれかかり、何やらささやき合 っているマハたちの美しさが際立った作品である。 マハは「おしゃ れな、小粋な」という意味があり、プラド美術館の「裸のマハ」、 「着衣のマハ」が有名。 しかし、後ろに立つ男たちは貧相で悲しげで、この二組が恋人同士に はとても見えない。 これは、スペイン文学の古典的なテーマの一つ である、売春婦とやり手婆が発想のベースとなった作品である。 舞台劇を思わせるこの作品の背景には、妻のホセファの死と、その後 すぐ当時24歳のレオカディアを家政婦として迎えたことがあるので はないかと云われている。 この時、ゴヤはすでに65歳を越えており、若いレオカディア側には 問題がなくても、主席宮廷画家となっていたゴヤにとって、この内縁 関係は、決して居心地の良いものではなかったようだ。 ーつづくーニューヨーク旅行(11)へジャンプ
2006年12月11日
コメント(9)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(10)ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 印象派以前の西洋美術鑑賞には、いくつかのハードルがあるが、 その最たるものはキリスト教に対する理解力ではなかろうか。 フェルメールの絵の大部分は宗教画ではない。その点が日本人 に近づきやすい大きな要因だろう。さて、昨日紹介した彼の作品3枚とは、同じ部屋ではあるが別の壁面に、フェルメールとしては珍しい宗教画・「信仰の寓意」が展示してある。「信仰の寓意」(1671-1674頃) 彼としては珍しく大作(114.3 x 88.9cm)である。 この作品は、 何気ない日常を描いた風俗画ではない。 1644年にオランダ語で出版された、イタリア人チェーザレ・ リーバの『イコノロジア』における「信仰」の記述に基づいて 構想された作品である。 元々プロテスタントであった彼は、妻カタリーナとの結婚の際に カトリックに改宗している。 この作品もイエズス会の注文によ るものらしい。 その為、『イコノロジア』に基づきつつも、フェルメールらしさ も貫いている渾身の1枚と考えてよい。 寓意は比喩に近いが、イソップ寓話に代表される置き換えられた 象徴である。 信仰とあるが、カトリック信仰を意味することは 間違いない。メトロポリタン美術館には、もう1点フェルメールの絵がある筈であるが、この部屋には見あたらない。 やむを得ず1Fインフォメーション・センターで問い合わせる。 同じ2Fであるが2部屋離れた所にあることが分かった。ということで、目出度く「眠る女」に会うことが出来た。「眠る女」(1657年頃) 室内の女性を描いた作品のうち、最も初期のものである。画中に あるライオンの頭部の飾りのついた椅子、東洋風の絨毯、白いワ イン入れなどは、以後のフェルメールの作品にしばしば登場する。 女が酒に酔って眠り、家庭の主婦としての勤めをおろそかにして いることを暗示している。 女の開けっ放しのドアの向こうには 隣の部屋が見える。 エックス線写真によると、絵のこの部分に は犬(性的なものを示唆する)と、一人の男が描かれていたが、 後に画家によって塗りつぶされたことが明らかになっている。 「眠る女」は、1696年のアムステルダムのディシウス競売の ときには「酩酊してテーブルで眠る女」の絵と形容されており、 当時はその存在が確認されていたが、その後行方不明になった。 そして、19世紀末になってパリで再び姿を現し、やがて画商の 手に渡った。 1908年にニューヨークのデパート経営者・ベ ンジャミン・アルトマンがそれを購入し、1913年にメトロポ リタン美術館に遺贈された。 遺贈の条件として、館外貸し出し をしないよう言い残しているので、「眠る女」はここでしか見る ことは出来ない。 この絵だけ別の部屋にあったのも納得である。 ーつづくーニューヨーク旅行(10)へジャンプ
2006年12月10日
コメント(7)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(9)メトロポリタン美術館・2Fの「フェルメール・コーナー」でフェルメールの絵画を観ることが、今回のニューヨーク旅行のメイン・テーマであった。ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 17世紀にオランダで活躍した画家である。レンブラントと並び17世紀 のオランダ美術を代表する画家とされる。 生涯の殆どを故郷デルフトで 過ごした。 彼の作品は、完璧な静けさと平和な空気が満ち、優しい光が全体を覆って いる。 精神的な癒しを求める、多くの現代人に訴えかけるためか、近年 フェルメール人気が日本を含め世界中に広まっている。「窓辺で水差しを持つ女」(1662-65) オランダの伝統的な風俗画では、この絵のように身繕い(水差しの水を水 盤に注いで、手や顔を洗ったり、身繕いする)の構図は、女性の清さを象 徴するための伝統的な構図である。 しかし、この絵でフェルメールが表現しようとしたのは光と色のバランス や調和であろうか。 窓を開ける動作は、それによって光を招き入れると 云う意味がある。 衣服の鮮やかなブルーは、「フェルメール・ブルー」とも呼ばれる。この 青はラピスラズリという非常に高価な鉱石を原材料とした絵の具を使用し ている。 フェルメールが亡くなった時、多額の借金があったといわれて いるが、このような高価な画材を躊躇なく使ったのが、その一因かもしれ ない。「少女」(1666-1667) 「真珠の耳飾りの少女」同様、無地の暗い背景に少女の上半身のみが描か れているが、耳飾りの少女ほどの華やかさがない。 この絵を肖像画だと する見解もあり、その根拠は「真珠の耳飾りの少女」がフェルメールのも つ古典主義的傾向を理想化したものであるの対し、「少女」の方は額が広 く、鼻がペタンコで唇も薄いという、より現実的な顔立ちだから。 これらの2つの絵は、対かも知れないとか。 画集では、この2枚は並ん で印刷されていることが多いが、実際に並んで展示されたことはない。た だ一度、1982年にメトロポリタン美術館で行われたマウリッツハイス 展の際、閉館後関係者だけが観る機会があったという。「窓辺でリュートをひく女」(1664) 本作品は保存状態が悪く、画面の傷みが甚だしい。「窓辺でリュートをひ く女」とされているが、ひいているのではなく、調弦しているところであ る。 女性は窓の外を見つめ、誰か(おそらく恋人)のやってくるのを、心待ち している風情である。 ーつづくーニューヨーク旅行(9)へジャンプ
2006年12月09日
コメント(9)
※お知らせ12月7日(木)から2日間広島へ出かけます。 従いまして、次回花紀行(1466)の掲載は9日(土)となります。お越しの節は、足跡を残しておいて下さい。9日にそちらにお伺いいたします。では、行ってまいります。
2006年12月07日
コメント(3)
2006年11月22日(水) ニューヨーク旅行(8)06:30 起床。07:30 ホテル1Fのレストランへ。 サンドイッチとコーヒーで簡単な朝食を済ませる。一旦部屋に戻り、08:50ホテルを出て「メトロポリタン美術館」に向かう。 地下鉄はレキシントン街・86丁目で下車する。 適当な出口から地上へ出たものの、セントラル・パーク方向がよく分からない。人通りも少なく、5分くらい近くをうろうろして、やっと聞くことが出来た。方向さえ分かれば、後は簡単である。 五番街に出て、4ブロック分バックすれば、82丁目にある美術館へ到着する筈である。昨日バスで通っているので、間違えることはない。09:30開館なので、時間は十分ある。 のんびりと歩いて行く。それでも開館10分前には着いてしまった。 暫く近辺を撮影して、短い行列の後ろに着く。 特別展の招待者はもう入館していた。定刻に開館。 真っ先に2Fの「フェルメール・コーナー」を目指す。 実は、今回のNY旅行の主目的は「フェルメールをたずねて」なので、下調べは十分してあり、簡単に目的の場所に着く。メトロポリタン美術館 世界5大美術館の一つで、1870年に創立、現在のゴシック 建築に移転したのは1880年。 6,000点の古美術から 始まり、現在は330万点を所蔵しているという。 その中で 展示されているのは約1/4である。 とりわけ古代エジプトに関する展示は、ロンドンの大英博物館 と双璧をなすと云われるほど素晴らしいコレクションである。因みに、世界5大美術館はパリのルーブル、ロンドンの大英、マドリッドのプラド、サンクトペテルブルグのエルミタージュ、そして当館である。 今回で、5大美術館すべてを訪れることが出来、本当に嬉しかった。 ーつづくーニューヨーク旅行(8)へジャンプ※お知らせ 12/7(木)から2日間広島へ行って来ます。 従いまして、 次回花紀行(1466)は12/9(土)の予定です。次回は フェルメールの絵画を中心に掲載いたします。 お越しの節は、足跡を残しておいて下さい。 12/9にそち らにお伺いいたします。
2006年12月06日
コメント(12)
2006年11月21日(火) ニューヨーク旅行(7)聖ヨハネ大聖堂を後にして、バスは再び北上する。 コロンビア大学を過ぎた少し先から、「ハーレム」に入る。ハーレム 1920年代、黒人文化が花開いたが、また犯罪と貧困に喘ぐ地域 であった。 1990年代に入り、徹底的な治安改善政策により、 環境が著しく改善された。バスはセントラル・パークの北端を一周りする感じで、五番街に入り、今度はダウンタンに向け南下する。 バス右手に「メトロポリタン美術館」が見えてきた。 数名の人達が、ここで下車した。 我々は明日単独で来る予定なので、そのまま乗車を続ける。 15:30過ぎ、6番街53丁目のヒルトンホテルに到着し、解散となる。バスの中で家内と相談し、割安のチケットが入手出来ればブロードウエイでミュージカルを観ることにしていたので、早速地下鉄でタイムズ・スクエアへ行く。 苦労して、ガイドさんに聞いたディカウント・チケット店を見つける。 なんと大勢の人達が行列してチケットを求めている。 20分後に、やっと「美女と野獣」をゲット出来た。通常価格の半値なのは有り難かった。 開演は19時である。夕食の時間は十分あるので、再び地下鉄を利用して、グランド・セントラル・ステーションに行く。 地下1階に有名な「オイスター・バー」がある。 ここが勿論本店で、2号店を東京・品川にオープンしたという。 昨夕下見をした時は行列が出来ていたが、まだ17時ということもあって、すぐ入ることが出来た。超大型のカキから小型のものまで、カキ一色である。 面倒なので、適当にアソートされたものを選んだ。 勿論生ガキで、白ワインとの相性も抜群、あまりの美味しさに撮影するのを忘れ、ひたすら食べかつ飲んだ。 まだ観劇が残っているので、あまり飲み過ぎないよう注意されたほどである。さて、18:20フォンタナ劇場に行く。 外で待つのは寒いなと思っていたら、チケットを持っていれば中に入れた。 中二階にはショップがあり、ワインを楽しんでいる人達もいたが、まあ辛抱して土産物を買い求める。18:30には着席することが出来た。 「美女と野獣」を、心ゆくばかり堪能することが出来た。NY旅行のいい思いでとして残ることだろう。 ーつづくーニューヨーク旅行(7)へジャンプ
2006年12月05日
コメント(12)
2006年11月21日(火) ニューヨーク旅行(6)再びバスに乗車する。更に北上を続けコロンビア大学近くの「聖ヨハネ大聖堂」前で下車する。聖ヨハネ大聖堂 1873年に建設が開始され、現在も工事が続けられてい る。 ゴシック様式の教会では世界最大といわれている。 1990年代、この教会は女性キリスト像を作ったことで 論議を巻き起こした。 両性の平等という時代の要請に対 し、宗教家の立場からその姿勢を示したものとして注目さ れている。実は、ガイドブックによると「カトリック寺院」となっていた。 殆どプロテスタントの教会である筈のアメリカで、何故こんなに立派なカトリックの大聖堂があるのか不思議だったので、帰国後検索を重ねたところ、聖ヨハネ教会はエピスコパル(聖公会)系であることが判明した。1517年、免罪符(正確には贖宥状)販売問題に端を発した、マルティン・ルター(1483-1546)による宗教改革によりプロテスタントは発足したが、教義の捉えた方の違いにより多くの教派が出来た。聖公会(英国国教会)は通常プロテスタントに分類されるが、他のプロテスタントとは異なり、教義的な問題ではなく、政治的な問題から、エリザベス一世(在位1558-1603)の時代にローマ教皇庁から離れ独立した。 そのため、建造物をはじめ、典礼的にもカトリックとの共通点が多い。 ーつづくーニューヨーク旅行(6)へジャンプ
2006年12月04日
コメント(9)
2006年11月21日(火) ニューヨーク旅行(5)国連本部を出たところで、アフリカの要人らしき人達が記念撮影をしていた。 撮影後、黒塗りのリムジンに乗り込んで去って行った。目の前に、一際高いビルが聳えていた。 世界一高層の居住専用のビルとか。再びバスに乗車する。 五番街を北上し、ティファニーの所で左折する。 七番街のカーネギー・ホールを右折して、更に北上する。アッパー・ウエストサイドにある、「ダコタ・ハウス」前で下車する。ダコタ・ハウス(1884年築造) ジョン・レノンの住まいだったところで有名。 1980年12 月8日に、この建物の玄関を出たところで彼は射殺された。この ビルが完成当時は、付近は殆ど開発されておらず、(西部の僻地 にある)ダコタのようだと云われたことに由来する。 現在彼の妻、オノ・ヨーコが住んでいる。 付近のセントラル・ パークの一角に、ジョン・レノンを追悼して作られたストロベリ ー・フィールズがあり、公園を散策する人達の憩いの場となって いて、野バラが目を楽しませてくれる。 ーつづくーニューヨーク旅行(5)へジャンプ
2006年12月03日
コメント(8)
2006年11月21日(火) ニューヨーク旅行(4)ピア17の1・2Fには約50店舗のショップがあり、3Fはレストラン・カフェが並んでいる。 一日観光旅行といっても、食事は各自負担となる。ファースト・フード形式の店が多いので、さて何を選ぶか迷った揚げ句「すし」らしきものを選んだ。飲み物はビールをバーからテーク・アウトである。イースト・リバーを眺めながらの食事も悪くない。13:00 桟橋の一隅に集合し、バスに乗車。 イースト・リバー沿いに北上する。 15分位で「国連本部」前に到着する。 TVでよくみる建物を目の前にして、何故か緊張する。 広場に球形のモニュメントが置いてある。世界平和を祈念して制作されたとか。国連本部内に入って驚いた。 1Fはまるで美術館である。 正面入り口を入ってすぐの右手に、「シャガールのステンドグラス」が特に人目を引きつけている。 これは、1961年に飛行機事故で亡くなった第二代国連事務総長・ハマーショールド氏と、彼と共に事故にあった15人の人々を偲んで1964年に贈られたものである。国連本部 ガラスと大理石から出来た39階建ての事務局タワーと、低いドーム型の 総会ビルなど4つの建造物群からなる。 1945年に発足した国連は、当初加盟国は51ヶ国で、現在は今年6月 加盟したモンテネグロを含めて192ヶ国となった。 2002年加盟の 東ティモール以来3年9ヶ月ぶりのことである。 ーつづくーニューヨーク旅行(4)へジャンプ
2006年12月02日
コメント(9)
2006年11月21日(火) ニューヨーク旅行(3)重い気持ちを胸に、再び観光バスに乗り込む。 バスはすぐ近くの「ピア17」へ。 ここで、半日観光の人たちは解散し、一日観光の人達は1時間休憩後、午後の観光が引き続いてある。 全員一旦モール・ピア17の3Fベランダに上がり、そこで約半数の人達と分かれる。 イースト・リバーに架かるブルックリン橋をバックにそれぞれ記念撮影をする。ピア17 イースト・リバーに面した、17番目のピア(桟橋)である。古 きよき時代の桟橋を1985年に復元し、併せてモールもオープ ンした。 いわば、ニューヨークの新名所である。 ロウアー・ マンハッタン(南部マンハッタン)には、このようなモールはあ まりないので、観光客に特に重宝されている。 17世紀初めから19世紀にかけては、マンハッタン島の東岸が 港町として栄えたが、19世紀半ば以降蒸気船の出現により、海 運の中心は水深の深い西のハドソン川沿いへ移っていった。 ーつづくーニューヨーク旅行(3)へジャンプ
2006年12月01日
コメント(12)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


