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三日目(4)マイセンードレスデンー(プラハ)エルベ川をはさんで南側が旧市街、北側が新市街である。当然の事ながら、歴史的な見所は旧市街にある。 しかも、狭い範囲に集中しているので、徒歩で充分に回れる。先ず劇場広場に行く。 広場に面して建っているのがゼンパーオペラである。 オリジナルはゴットフリート・ゼンパーによる19世紀半ばの建築だが、現在まで火災や戦災で2度再建されている。 オペラ座としての設立は更に古く、ウエーバーが音楽監督として活躍し、ワグナーの「タンホイザー」の初演が行われた歴史をもっている。劇場広場から新広場にむかう小道に、ドレスデン城の外壁102mにわたって描かれた壁画「君主の行列」は見ものである。 1127~1873年のザクセン全君主が25,000枚のマイセン磁器製のタイルに描かれている。 旧市街であるにもかかわらず、奇跡的に戦災を免れたオリジナルである。小道から新広場に出ると、レモン搾り型の屋根が特徴の「アルベルティヌム」が望める。 ルネッサンス様式の16世紀の建築で、もと武器庫として使われていた建物である。 内部は博物館となっている。新広場のすぐそばに「フラウエン教会」がある。 残念ながら現在は工事の足場で完全に覆われている。 オリジナルは18世紀半ばに建てられた、巨大なドームをもった、バロック様式の教会である。 1945年連合軍の大爆撃で瓦礫となったが、反戦のシンボルとして50年近く放置されていた。 1994年より修復工事が始まった。 崩れた石を可能な限り、元あった場所に戻していくという、気が遠くなるような作業である。 費用の大半は寄付で賄われている。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ドイツ)ゼンパーオペラ(オペラ座)「君主の行列」アルベルティヌム(16世紀の建築でもと武器庫)フラウエン教会
2002年01月31日
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国立マイセン磁器製作所から外に出ると、なんと小雪が舞っている。 やはり初冬である。 12:00再びバスに乗り、約30分後にドレスデンに到着する。 観光は後まわしにして、先ずは昼食をとることにする。 エルベ川の堤防下にあるレストラン街に行く。 道の両側に、パネルヒータやガス暖房があり、通行人を暖めてくれるのがありがたい。 入るか入らないか分からない客達のための暖房である。 ドレスデンの人達のこころ意気が感じられて嬉しい。 13時近くになったが、ドイツ名物「ソーセージ」をメーンとした昼食である。 例によりビールかワインを頼む。 後の観光に差し支えない程度に飲む。14:00頃から徒歩で市内の主な所を観光する。 プロイセン、バイエルンと並び宮廷文化が栄えたザクセン王国。ドレスデンはその首都として栄華を極めた。 美しいバロックの街並みは「エルベ川のフィレンツェ」と呼ばれたが、第二次世界大戦の終わりに大爆撃をうけ、旧市街の殆どが崩壊した。 現在もあちこちが工事中で、2006年のドレスデン800年祭にむけて修復している。--つづく--ドレスデンの街並みエルベ川(ドレスデンを旧市街と新市街に分けている)
2002年01月30日
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三日目(2) ベルリン-マイセン-(ドレスデン-プラハ)国立マイセン磁器製作所前でバスを降りる。 東西ドイツ統一後州立となったが、正式名称は今でも「国立」である。見学用の建物は、1Fの見学工房と2F、3Fの展示室からなっている。 見学はツアー形式で、入り口で並んで待っている間に、各国語用のイヤホンセットを貸してくれる。勿論日本語を選ぶ。四つの部屋に分かれており、1)形成ー足踏み式のろくろを使って基本を形作る2)接合ー個々のパーツを組み立てて、全体像に仕上げる3)下絵付けー高度な技術が要求される4)上絵付けーマイセンらしい華やかな絵付けは殆ど上絵1)~4)の工程ごとに、詳しい説明を聞きながら、実際の作業を見ることができる。 各部屋に入れるのは30名位が限度である。 それぞれの作業は細部にわたり、まさに名人芸としかいいようのない見事さである。各作業を見終わったところで暫く休憩をとり、その後40分間2~3Fの美術館めぐりと買い物をする。 1916年にオープンした美術館は2万点を超える作品を所蔵し、常時約3000点を展示公開している。 そのコレクションは初期のベトガー時代の作品から、18~19世紀の巨匠の作品、さらに最近の新作に至るまでで、まさに世界最大の規模である。さて、最後は待望の買い物であるが、これには困った。というのも、コーヒー用の碗皿を買いたくても、とても5~6客用は予算の関係で無理である。 やむなく一輪挿しの小さな花瓶を買うことにした。 藍色の薔薇柄の下絵のものである。 集合時間ぎりぎりまで、迷いに迷っての買い物であった。--つづく-- 参考図書:JTBワ-ルドガイド(ドイツ)見学入り口付近(製作所の歴史)マイセン磁器花瓶(初期の作品)
2002年01月29日
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三日目(1) ベルリン-マイセン-(ドレスデン-プラハ)06:00 起床、朝食後 07:30 ホテルを出発。ベルリンを後にして、マイセンに向かう。 何分今日は長距離移動なので、早朝の出発となった。 バスはひたすらアウトバーンを南下する。 速度無制限で有名ではあるが、やはり橋の上とか、急勾配は60~130kmの速度制限がある。 09:00ガソリンスタンド兼レストランでトイレ休憩。 20分ご出発、マイセン到着は10:30頃であった。 中世をそのまま残したような、オトギの国といった感じの町である。ヨーロッパを代表する、高級磁器として世界的に有名なマイセン磁器の発祥は18世紀初頭に遡る。 当時ヨーロッパの王侯貴族の間では、繊細な形状と華やかな色彩の東洋の磁器が「白い金」ともいわれ珍重されていた。ザクセン選帝候アウグスト王も熱狂的な磁器コレクターの一人で、錬金術師ベドガーに磁器の発明を命じた。度重なる実験の末に彼はその技法を解明し、ヨーロッパ初の磁器の製造に成功したのは1708年のことである。3世紀の間に作られたマイセン磁器は、バロックからアールヌーボーそして現代にいたる芸術形式のすべてを網羅していることで、美術史上でも貴重といわれている。その特徴は(1)上質のカオリン(白色の陶土)使用(2)土を掘り起こすことから、形成、絵付けのすべての行程が今日でも手作業で行われている(3)競争倍率20数倍という養成学校で訓練をうけ、才能を認められた職人だけがその制作に携わることができる。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ドイツ)筆者註:陶器と磁器の違い 陶器は古く縄文土器にその原形が見られる。 磁器は 薄く硬くて、白く艶がある。 箸でたたくとチーンと ガラスを叩いたような、高く澄んだ音がする。 これ は原料と焼成温度の違いによる。 土器、陶器などの 土を原料としたものと違い、磁器は陶石と呼ばれる石 を原料としている。 焼成温度は1300~1400 度Cと高温(陶器は1000~1300度C)で焼く。 なお、我が国では、1616年有田の泉山石を用い、 朝鮮の陶工が伊万里と呼ぶ磁器を初めて完成した。マイセン・アルブレヒト城(技法が他国に漏れるのを恐 れ、発明者ベドガーはこの城に幽閉された。10年後 37歳の若さで死去する)マイセンらしい華やかな絵柄は殆どが上絵付け
2002年01月28日
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二日目(7) ベルリン17:00過ぎホテルに着く。 昨夜の就寝は12時過ぎ、今日の観光は盛りだくさんで、いささか疲れる。 早速部屋に戻り、約1時間仮眠をとる。夕食までまだ時間はあるので、家内は近くのデパートへ行って見たいと言う。 やむなく付いていくことにする。デパートというより、大型スーパーといった感じである。店内はまだ11月初旬というのに、もうクリスマスバージョンである。 私は1Fの食料品売場だけを見て一足先にホテルにかえる。 フロントに「いらっしゃいませ」と「歓迎」の看板があるのに気づく。 昨夜から日本人宿泊客は僅か7名なのに何か悪いような気がした。夕食の時間間近になっても家内が帰って来ないので、やきもきする。 迎えに行こうとしたところにやっと帰ってくる。 別に大した買い物をした訳でもないのにご機嫌である。 19:00ホテルのレストランで夕食会。 添乗員さんを含めて7名である。 彼女がいないと、ドイツ語で飲み物の注文もできない。 ビールかワインを注文する。一人だけミネラルウオーターを頼むが、なんと料金はワインと同額である。 もっとも、グラスが少し大きいが。料理は肉類(ラム?)を中心にジャガイモがついており、ボリューム満点である。 グラスワインであるが、結構美味しい。出発に先だち、今回の旅のテーマを私は「各国のビール、ワインを充分味わうこと」、そして家内は「世界遺産を巡ること」と決めていたが、最初からこのテーマが完全に満たされ、いうことなしである。ワインをいささか、のみ過ごしたが、今夜は22:00早いめに就寝する。--つづく--ベルリン・ホテルの近くのデパート入り口デパートの店内食料品売場(11月初旬なのに、もうクリスマスバージョン)ホテルのフロント(日本語の看板が目をひく)
2002年01月27日
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二日目(6) ポッダム-ベルリンサンスーシー宮殿の広い庭をまわっているうちに、生憎小雨が降ってくる。 雨の中では、広すぎて大変なので、少し早い目に見学をうち切り、16:00頃帰路につく。ベルリン市内に入り、ポッダム広場のそばを通る。1920-1930年代には、ここはヨーロッパ随一の繁華街であった。当時ベルリンはパリと並ぶ世界屈指の文化都市であり、特にこの広場のあたりはヨーロッパ一混雑する交差点といわれていた。 その頃すでに、一日に車が2万台と10万人の往来があったという。 しかし、第二次世界大戦の空爆で徹底的に破壊され、そのまま放置されていた。 本格的な再開発は「壁」崩壊後のことである。約7万平方米という広大な土地に、先ず1998年ダイムラークライスラー・アリアールがオープンした。 ショッピングやグルメは勿論、劇場、カジノそしてホテルなど、一大エリアを形成した。続いて、2000年6月にはソニーセンターがオープンした。 こちらのエリアはエンターテイメントが主体である。全天候型のガラスとファイバー製の天井屋根は「フジヤマ」とも呼ばれ、市内の各所展望台からも美しいシルエットが眺められる。 まことに「世界のソニー」そのものを実感した。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ドイツ)ソニーセンタービルフイルムハウス(ソニーセンタービルに併設) 映画史や映画作品を展示した博物館。 コレクションの目 玉は伝説の大女優、マレーネ・ディートリヒの遺品の展 示である。
2002年01月26日
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二日目(5) ポッダム-ベルリンポッダム会談場の次は、1km西の「サンスーシー宮殿」へ行く。 ここも世界遺産である。 フリードリヒ大王(1740-1786在位)が1745年に建てた宮殿である。 フランスのベルサイユ宮殿を模して建てたといわれ、ドイツのロココ建築の傑作である。ヨーロッパでは何処へ行っても、お城、王宮そして宮殿があるが、中世以降戦乱が続いたのによく残ったものだ。 多分古い遺産を大事にする気風が強いからだろうか。「サンスーシー」とはフランス語で「憂いのない」を意味するとか。 ポッダムの西に広がるこの公園は、生涯戦争に明け暮れたフリードリヒ大王が憂いのない場所を求めて、夏の離宮を建てたと言われている。 プロイセン王として、多くの大事業を成し遂げた彼だが、晩年は人間不信に陥り、犬だけを友とする日々を送った。 死後は愛犬と共に葬るよう遺言を残したが、死んだ直後は守られず、願いが叶ったのは死後200年以上たった1990年のことである。--つづく-- 参考図書:JTBワールド・ガイド(ドイツ)サンスーシー宮殿何処まで続くのか分からない位広大な庭園
2002年01月25日
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二日目(4) ベルリン-ポッダムペルガモン博物館での興奮がさめやらぬまま、マイクロバスで、南西に向かう。 約30分でブランデンブルク州の州都であるポッダムに着く。 先ずポッダム会談が開催された、ツェツィーリエンホーフ宮殿へ。 年輩者の方達なら、すぐ1945年敗戦時のポッダム会談を思い出されることでしょう。 残念ながら屋内は撮影禁止である。チャーチル(イギリス)、ルーズベルト(アメリカ)、そしてスターリン(ロシア)の座った椅子とテーブルが昔のまま残されている。当時ベルリンは焦土と化していたので、郊外のポッダムが選ばれたらしい。 その周辺の自然の景観を取り入れた庭園は軽井沢を思いださせる。 1685年以降周辺地方の住民の入植が奨励されたため、オランダ人街やロシア人入植地など、エキゾチックな街並みも残っている。近代的なベルリンと対照的に、自然の景観と調和したドイツ的な古都の風情を漂わせいる。--つづく-- 参考図書:JTBワールド・ガイド(ドイツ)ポッダム会談場軽井沢に似た外部庭園
2002年01月24日
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二日目(3) ベルリン-(ポッダム)「壁」の次はペルガモン博物館を訪れる。 ベルリンには現在なんと大小あわせて約170の博物館・美術館があるというが、ペルガモン博物館はドイツが世界に誇る一大考古博物館である。外観は古代ギリシャ神殿様式を模した建物となっている。中央の扉から入ると、左側が古代ローマ、ギリシャのコレクションで、右側が西アジアそして階上にはイスラム文化の展示がある。ここでの最大のみどころは、博物館の名称の由来でもあるPergamon-Altar(ゼウスの祭壇)である。古代ギリシャのペルガモン(現在はトルコ領内)から発掘された紀元前二世紀(BC180-160年)に建てられたという祭壇で、博物館の中央に復元されている。 高さ約10m、一辺が35mもあり、台座部分のオリンポスの神々と巨人達の戦いをモチーフにした彫刻も見応え十分である。新バビロニア王国のイシュタル門も貴重なコレクションである(BC600頃)。 これも実際の市壁の北門を再現した巨大な展示物である。 青を基調とした釉薬塗りの石を積み重ね建てたもので、ライオンの浮き彫りのあるデザインが特徴的である。--つづく-- 参考図書:JTBワールド・ガイド(ドイツ)ペルガモン博物館・ゼウスの祭壇ゼウスの祭壇の台座部分ライオンの浮き彫り
2002年01月23日
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二日目(2) ベルリン-(ポッダム)ブランデンブルク門をあとにして、「ベルリンの壁」に向かう。 ウンター・デン・リンデンとフリードリヒ通りを経由し、チェックポイント・チャーリー(旧検問所跡)へ。「壁」を目の前にして、しばし感慨にふける。 ベルリンの街は第二次世界大戦後東西の戦勝国によって分割され、西ベルリンは東ドイツ領内にある「西側」の飛び地の形で存在することになった。 しかし、東西冷戦時代に、西側への流失民が増大したため1961年に壁が築かれた。高さ約4m、総延長約155Kmといわれる壁がぐるりと西ベルリンを取り囲み、そのうち約43Kmがベルリンの街を二分した。 目の前の「壁」は意外に薄い。 厚さ15cm位だろうか。 聞くところによると、1m以上の厚さの所もあったようだが、厚いところから壊されたとか。壁を保存しようという話がでてきたのは、可成り時がたってからだという。このあと、ポッダムに向かう途中車窓から、もう一カ所壁を見ることができた。 シュプレー川に沿った1.3Kmの「壁」に、内外の111人のアーティストが作品を描いている。 野ざらしではあるが「世界最大のギャラリー」といえる。--つづく-- 参考図書:JTBワールド・ガイド(ドイツ)画像枚数制限があるので、画像のみ1ヶ月後に削除しますウンター・デン・リンデン通りベルリンの壁
2002年01月22日
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二日目(1) ベルリン-(ポッダム) (2001.11.08)早朝6時に目が覚める。 外はまだ暗い。 昨夜就寝したのは12時近かったので、6時間寝たことになる。 やはり、機内と違って熟睡できた。 家内は何回か目を覚まし、よく眠れなかったらしい。 食事までまだ時間があるので、もう一眠りする。 07:50食堂へ。 何分旧東ドイツのホテルなので、あまり期待していなかったが、朝食のなんと豪華なことか、びっくりする。 コンチネンタル+ホットミールである。 いつもの朝食の2倍は食べただろうか。 コーヒーも3杯飲む。 旅行太りが心配になる。09:00 ロビーに集合。 僅か6名なので点呼は極めて簡単。 直ちにマイクロバスに乗り、ホテルを出発する。先ずはブランデンブルク門へ。 下車して思い思いに写真を撮る。 残念ながら、現在修復中でビニールのカバーで覆われている。 この門はドイツの重要な歴史の舞台には必ず登場してくる、ベルリンのシンボル的な建造物である。 東西ベルリンの境界に位置していたため、この門の周りに真っ先に「ベルリンの壁」が造られ(1961.08.13)、長い間東西分断の悲劇の象徴であった。 1989.11.09この壁は、瞬く間に崩壊していき、12月22日この門が開くと、分断されたベルリンの時代は終わりを告げたのである。 --つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ドイツ)画像枚数制限があるので、画像のみ1月後に削除します。
2002年01月21日
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一日目(3) 成田-フランクフルト-ベルリン成田組の3名と挨拶を交わし、同時に添乗員のHさんとも挨拶する。 これで計6名が揃ったことになる。 機内を見渡したところ、日本人グループはもう一組いるだけで、80%は外国人である。 J○Lとしては珍しい。 勿論空席率50%で、がらがらである。 こうなると、ビジネスよりエコノミーのほうが楽な感じ。 9月の米同時多発テロがこんなにまで影響しているとは考えなかった。 私とて犠牲者の方々を悼む気持ちは強いが、結果として日本人旅行者が極端に海外旅行をノーとしたのには驚いた。ムードに左右されやすい国民性なのだろうか。国際線がらあきの経験は初めてであるが、もう一つ初めてのものがあった。 座席の目の前に10インチ位のTVがあり、映画は勿論、ゲーム、飛行経路等を気楽に楽しめたことである。 機内における二度の食事(ワインも共に)、TVそして3人分の座席を占有して楽々と睡眠をとることができた。 成田からの12時間のフライトをどうやって過ごすかが最初心配の種だったが、あっという間にフランクフルトに着いてしまった。 現地時間17:30である。実はフランクフルトへは今回で二度目である。 前回は夜7時過ぎに着いて、中央駅そばのホテルに泊まった。 二年前のことである。 翌朝早くロマンチック街道へと出発したので市内観光は殆どしていない。 古い建物と近代的なビルが奇妙に同居している都市としての印象が残っているだけだ。 今回も残念ながら空港内を移動したに過ぎない。 ○フトハンザ・ドイツ航空にて20:45離陸、ベルリンに向かう。 機内は満席である。 僅か1時間なのに軽い食事が出たのには驚いた。 しかも、ドリンク付きである。ワインを2杯飲んだら酔ってしまった。 食事が終わったと思ったら、もう到着である。 21:50 なんと、我が家を出てから24時間、丸一日の大移動である。 よく頑張ったと自分をほめてやりたい感じである。旧東ベルリンのホテルに着いたのは23:00近かった。 ご苦労様。 --つづく--画像枚数の制限があるので、画像のみ1月後に削除しますフランクフルト・○フトハンザ航空チェックインカウンター
2002年01月20日
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一日目(2) 成田-(フランクフルト-ベルリン)成田から次のフランクフルト行きの便まで、何と3時間半もある。 とりあえず、搭乗ゲートの確認をするべく、シャトルバスに乗る。 無人操縦の便利なものが出来た。ゲートを確かめ、再び第二ターミナルビル3Fに戻る。離陸予定時刻は13:30だから、昼食がでるとしても、早くて14:30頃になる。 ぼつぼつ腹は減ってきたがまだ10:30である。 時間つぶしに困って、レストランで軽いものを食べることにする。 しばらく食べられないものはということでラーメンを選ぶ。 しかし、家内はまだ食べたくないとのこと。 一人分だけ注文する。 セルフサービスで、飛行場が見渡せるいい場所に席をとる。どこもがら空きである。 普通ならとても考えられない光景だ。食事が終わっても、まだ一時間半は暇つぶしの必要がある。幸い、レストランを出たところにインタネットルームがあった。 早速申し込むがPCは3台しかなくて、満席である。 20分待ってなんとか着席できた。 30分300円は少し高いと思ったがやむを得ない。 コインを3枚入れて開始である。hotmailとかyahoomailを通してしか中に入れない。 幸いにして、私のMSNコミュニティに入ることができた。 そこから、メル友さん達に近況報告をする。 といっても昨夜から今日の午前中では、たいして報告するものもない。 30分はあっという間に過ぎた。 追加30分に迷ったが、待っている人がたので一応うち切った。近くのベンチで寝ていた家内を起こし、搭乗ゲートに向かう。 すこし早く着きすぎたが、まあ遅いよりはいい。12:40機内に入る。 早速成田組の3名と挨拶をかわす。 --つづく--画像枚数の制限があるので、画像のみ1月後に削除します成田空港内のシャトルバス
2002年01月19日
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一日目(1) 名古屋-成田-(フランクフルト-ベルリン) (2001.11.07)05:00 目覚まし時計のベルで起こされる。 簡単な朝食をすませ、05:50に家をでる。 地下鉄の一番に乗りK駅で下車、空港直行のMバスに乗り換える。名古屋空港国際線に06:50到着。集合時刻10分前である。3Fグループカウンターで手続きを済ませる。 名古屋からの参加者は、なんと僅か3名とか。15名のはずが8割が取りやめたようだ。 添乗員がつくか心配になり係員に聞いたところ、成田から3名で計6名、それに4日目からチェコで6名加わり総計12名でやっと成立したとのこと、安心する。08:20機内へ。 チケットは7A、7Bである。なんとそれはビジネスではないか。 間違ったと思い、後ろのエコノミーの方に行くが、当然のことながら数字は増えるばかりである。 やむなく元の場所にもどり、そのうちわかるだろうと席につく。 その時後ろの席から「Mさんですか」の声があり、同行のYさんとか。 座席は間違いではなく、Yさんの娘さんがマイレージが可成りあまっているので、せめて名古屋・成田間だけでもビジネスにというご配慮に、我々夫婦も便乗させて頂いたらしい。 有り難いやら、恐縮するやらである。機は予定通り、09:00離陸する。 成田までの一時間が快適だったのはいうまでもない。その上、成田到着15分位前に運良く、雲海に浮かぶ富士山を眺めることができた。慌ててデジカメを出し、何枚も写真を撮った。成田着10:05である。 --つづく--画像枚数の制限があるので、画像のみ1月後に削除します。
2002年01月18日
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- はじめに -この楽天広場が大いに気に入りました。 日記を人に読んで貰うなんて、初めての経験です。 あまり自慢にならないが私はどちらかというと理系の人間で、作文(昔は綴り方といった)は極めて苦手である。 であるのに、旅日記を書こうと思ったのは何故? 理由は色々あるが、先ず第一に4人の孫達に記録を残したかったからである。じいちゃん、ばあちゃんが人生の最終コーナーを楽しく過ごしていたことを、いつか分かって欲しいからである。第二に楽天広場の皆さんにも読んでもらいたい。 僅か一日いや一週間に一人でもいいから読んでもらえると嬉しい。やはり張り合いがあるから。 歳をとっても、健康でさえあれば、可成り高齢まで海外旅行が可能なことを知って欲しい。 という次第で、明日から何回かに分けて、昨年11月7日から10日間の旅の想い出を綴っていきます。 乞うご期待!
2002年01月17日
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名古屋は地下街が充実している。 どうやら気候と関係があるらしい。 夏は蒸し暑く、冬は風が強くて寒いため、商店街が地下に逃げたというか、地下に延びていったというのが実情らしい。名古屋駅周辺の地下と、栄地下が中心であるが、面積にして約14万平方米ある。 名古屋ドームのグラウンドの約10倍とのことである。日本で最初に出来たのは、約60年前に東京の地下鉄銀座線構内通路を店舗化したのにはじまるとか。 公共道路の下に商店街があるのは、どうやら世界では日本だけの特有な社会現象らしい。 地価が世界一高いということが原因ではなかろうか。さて、その名古屋の地下街の人の流れに変化が起きている。昨年JRセントラルタワーズが出来てからである。 名古屋人にとっては、今でも栄地下街が中心であるが、岐阜、三重そして静岡方面の人達にとっては名古屋駅地下街の方が便利である。 高○屋効果とあいまって人の流れが名古屋駅周辺に傾きつつあると思うのは私一人だけだろうか。
2002年01月16日
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3連休の惰性か、今日も雨模様の中を出かける。 近くを通りかかったので、鶴舞公園に立ち寄る。 今日は人影もまばらである。 いつもデジカメを持参しているので、なにか花でも撮影しようと思うが、残念ながら咲いているのはサザンカのみである。たしか冬にはロウ梅が咲いているはずと探すが、どこにあるのかよく分からない。 歩き回っている中に、なんと桜が咲いているではないか。 一瞬目を疑う。 3連休は暖かかったので、狂い咲いたのか。 名札を見ると、「こぶくざくら」とある。 いずれ調べてみるとして、なにか一足早い春を見つけた感じで、小雨の中をるんるん気分で帰宅の途につく。2002.01.15 名古屋・鶴舞公園で
2002年01月15日
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名古屋にガイドウエイバスが開業して約一年たつ。 これも基幹バス同様全国初の試みである。 ガイドウエイバスとは要するにモノレールのバス版と思えばよい。 一般道路に橋脚を立てて、もうひとつ道路を作ったわけだ。 高架部分はバス専用で一般車は通れない。 そこでは、ハンドルを握る必要はない。 アクセル操作だけである。大曽根駅(JR、地下鉄、名鉄)を起点として高蔵寺駅まで約20kmのうち、約半分が高架である。 名鉄と市バスが乗り入れている。 中間地点の竜泉寺で一般道路と合流する。 ただし、バスレーンがつくってある。 守山区志段味地区の人達にとっては朗報である。 典型的な渋滞道路であったが、これで大曽根まで約20分は短縮できる。基幹バスを「ミッキー」と愛称をつけたが、現在愛称で呼ぶ人は一人もいない。 これにこりたか、市交通局はこのバスを「ゆとりーとライン」とはじめから呼んでいる。これは定着したようだ。 何事もはじめが肝要である。 基幹バス同様早く黒字路線となって欲しいものだ。
2002年01月14日
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全国初の道路中央走行方式の基幹バスが開通して、早いもので既に17年になる。 交差点を挟んで、上り下り両方向にシェルター式の停留所が各一カ所ある。 他都市で同様な方式のバスが走っているとは聞いていないので、名古屋独自の方式だろうか。 もっとも、道路が相当広くないと実現は不可能である。敗戦後焦土と化した名古屋市に都市計画により広い道路を全国にさきがけて整備した。 その後の飛躍的な自動車数の増加を考えると、まさに先見の明があったといえる。しかし、その後の手の打ち方があまりにも遅すぎた。 東京、大阪が相次いで都市高速網を整備したのに対して、名古屋は10数年も遅れをとった。 つまり、まだ整備中である。基幹バスはそのような事情のもとにおける苦肉の策である。通勤時の都心部への超渋滞を避けるために、通勤時最優先の取り組みをしている。 朝7~9時と夕方5~7時はバス専用レーンとなる。 その他の時間帯は一般車も通行自由である。 紆余曲折はあったが、結論からいうと大成功である。 名鉄と市バスが乗り入れているが、通勤時は2~3分間隔で走っている。 バス利用者が増えたので、渋滞解消に役立ったのは間違いはない。 ただ、他府県から車で来た人達が信号の複雑さと不慣れのため、まごついたりしていることは事実である。
2002年01月13日
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岡崎市美術博物館で展示中のカラヴァッジョの絵画を見に行く。 名鉄・東岡崎駅から無料シャトルバスで会場に向かう。 約30分かかって会場に到着する。 だだっぴろい所に、シンプルな建物がぽつんとある感じである。 モネやルノアールなら超混雑が予想されるが、何分私自身カラヴァッジョは正直に言って知らなかった。 しかし、実際に彼の絵画に接し緊張してくる。説明文に・・・西洋美術史上に革新をもたらしたカラヴァッジョの深い精神性は、ルーベンス、ベラスケスそして、レンブラントら17世紀の画家達にも受け継がれ、バロック絵画として新たな展開を迎えることになる・・・とあったが、彼はいわばバロック絵画の先駆者ということになる。ルネッサンスそして宗教改革という流れの中で、カトリック教会がプロテスタントへの対抗策として、宗教画を一般市民に分かりやすいものにしようとして、バロック絵画が出現したようだが、カラヴァッジョはその最初の担い手のようで、感銘をうける。
2002年01月12日
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先日の新年会で、ひょんなことから虹の話題がでた。二重の虹は副虹は色の順序が逆とか、がやがや話しているうちに、丸い虹を見た人はとの質問がでた。 残念ながら見たことのある人は一人もいなかった。 科学に詳しい友人が虹は本来円形であって、たまたま地下線(地平線)の下半分が見られないだけだと。 うーん、説得力はあるがやはり、百聞は一見にしかずとか、是非写真で見たいものだということでお開きとなった。帰宅するなり早速Web検索したみた。 なるほど丸い虹は確実に存在するようだ。 しかし、肝心の写真はのっていない。 「丸い虹の写真が見たい」との依頼を、あちこちのサイトでお願いした。 翌日反応があった。 ○ASのスチュアデスの見聞記があり、写真ものっていると。つまり飛行機から見たということらしい。 そのURLをクリックしてみた。 確かに丸い虹が写っている。 飛行機の影が雲海に写り、その周りに丸い虹がかかっている。残念ながら少し小さいくて、かすかにわかる程度である。つまり、これはブロッケン現象で、登山家はよく経験するらしい。 富士山頂で太陽を背にして、自分の影が雲に写り、その周りを虹が囲むという夢想を抱いている。 初夢なら最高だ!
2002年01月11日
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名古屋の水は東京や大阪より美味しいと私は思っている。簡単に名古屋の水瓶の様子をお知らせしましょう。名古屋市に本格的な浄水場が建設されたのは1914年(大正3年)のことである。 場所は当時は名古屋市郊外といってもいい、千種区鍋屋上野町である。1960年頃までは田圃や畑に囲まれていたが、その後急に都市化が進み、現在ではビルや一般民家に囲まれて、その存在に気づく人は少ない。水の旨さは当然取水源と大いに関係がある。 名古屋の場合は遠く木曽川の上流から引き込んでいる。 その上この浄水場は昔ながらの、ゆっくりと砂と活性炭で濾す方法をとっている。 こうしたことが、水の旨さの元であろうか。 しかし、この浄水場だけではまかないきれなくなり、近辺の大治や春日井からも応援して貰っているようだ。 いつまで、この美味しさが保たれるのだろうか。 幸いにして伊勢湾台風以来40年近く断水を経験していないのは有り難い。
2002年01月10日
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「水道みち」とは浄水場から給水管を市内に向かって敷設する時、普通は幹線道路の下に埋設するが、名古屋の一部は本管(直径1.1mの鋳鉄管)を埋設した上を散歩道として市民に開放している。 どこの都市でも同じような道があってもおかしくないが、他の都市ではどうだろうか。人と自転車しか通れない。 子供達の通学路として最適である。 しかし、名古屋人でも「水道みち」の存在を知らない人が多いだろう。 その近辺の人達でないと気づかないような、地味な存在だから。今日の午後久しぶりにそこを散歩してきた。 歩道部分の道幅は約3~4mで両側に樹木や花が植えられている。ところどころに休憩所や小公園がある。 この時期には花は殆ど咲いていないが、今はサザンカが盛りである。 紅白の葉牡丹を見た時はお正月らしくて嬉しくなった。2Kmくらいで疲れたので、帰りはバスにしようかと迷ったが、なんとか頑張って往復4Kmを歩ききった。 お正月太りを多少でも抑えられたかと期待している。
2002年01月09日
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今朝目を覚ましたのが何と7時半だ。 目覚ましのセットを忘れていた。 8時までに「可燃ごみ」を出さねばならない。 名古屋地区はごみの分別収集が極めて厳しい。市指定のポリ袋しか利用できない。 年末年始の10日分だから、相当な量だ。 しかも、生ゴミを含んでいるのでベランダとか外にだしてある。 部屋の中では臭うから、やむを得ない。 悪いことに、先週土曜日に広島へ帰った長男一家に「じいちゃん、ゴミたのむね」と頼まれたのを、生返事でOKしたらしい。 我が家のごみをやっと袋に入れ終わって、まだあることに気づいた。 長男が言った場所で袋に入っているごみを出そうとして困った。 分別してないではないか。 時間との戦いとなった。 とにかくわけねばならない。 悪戦苦闘の末、やっと8時ぎりぎりに間に合った。まあ、今世紀の最大の課題は「環境問題」だろうから、やむを得ないが、なんともあわただしい朝の一時だった。
2002年01月08日
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一昨日(土曜日)に東京から来ていた義妹や広島から来ていた長男一家が新幹線で帰ってしまった時、私のお正月は終わってしまった。 日頃は義母と私達夫婦の3人の静かな暮らしが、年末年始にかけて8名と大世帯になり賑やかすぎる位であった。 急に淋しくなるのも辛いが、まあこれが普通の生活だから仕方がない。 日本ではクリスマスは12月25日の一日だけで、イブをいれてもせいぜい2日楽しむだけだが、海外ではアドベントといって1ケ月間クリスマスを楽しんでいる。 日本でもお正月は1月一杯楽しみたいものだ。
2002年01月07日
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不覚にも風邪を引いてしまった。 結構厚着をして注意していたのだが。 厚着のためかえって汗をかいたのが悪かったのかも知れない。 熱が出なかったのは幸運ではあったが、なんと急に声がでなくなった。 生まれて初めての経験である。 特別おしゃべりだったということはないが、話せないことの辛さがよくわかる。 筆談か手まねで相手に伝えるしかない。つい面倒なので「言わ猿」になってしまった。三猿「見猿、言わ猿、聞か猿」の気持ちの一部が分かったということだろうか。「言わ猿」になって気づいたことだが、たった一匹なにも言わなくなったおかげか、家庭内きわめて平和なお正月を迎えることができた。
2002年01月06日
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今日は曇り時々晴れ、時々霙という変なお天気であった。午前中に東京から来ていた義妹が、そして午後長男一家が広島へ帰っていった。 いつもは老人3人の静かな生活が年末からお正月にかけて8人という大世帯となり、毎日が大騒動の連続であった。 みんないなくなると急に淋しくなる。 しかし、ほっとする一面もある。 やはり一緒に生活する人が多いいということは気疲れもある。 これでやっと普通の生活に戻ったわけで、PCもマイペースで楽しめる。
2002年01月05日
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今日は快晴だが気温は低めでこ寒い。 雪は殆ど解けて日陰や駐車中の車に残っている程度となる。 あわてて今日も昨日に引き続いて雪見酒を楽しむ。なにしろ41年ぶりのことである。 例外として認めざるを得ない。明日広島から来ていた孫娘達一家が新幹線で帰ってしまう。 明日で私のお正月は終わりである。 次は春休みを待つしかない。
2002年01月04日
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今朝早く孫にたたき起こされた。 窓の外を見ると、なんと大雪ではないか。 あとで分かったことだが、名古屋で1月の積雪量として17cmを超すのは41ぶりとか。そういえば、若かかりし時近くの緩斜面でスキーをしたことを思いだす。 我が家で雪見酒が出来るとは思いもよらなかった。ホワイト正月に乾杯! 孫娘達は近所の友達と外で雪だるまを作ったり、雪投げ合戦をしている。 元気なものだ。
2002年01月03日
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残念初夢は見られなかった。 熟睡したわけではないが。昔は(1)富士(2)鷹)(3)なすび、といったものだが、現在ではどんなランクづけがなされているのだろうか。まあ、夢と現実は違う訳だから気にする必要はなさそうだ。それにしても、今日の現実の天候は最悪。 今冬一番の冷え込みで震え上がった。 冬だから当然のことだろうが、このところ暖冬に慣れていたので、外出は結構きつかった。
2002年01月02日
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一年の計は元旦にありとか。 今年の目標はなんとか日記を続けることである。 とりあえず一ヵ月頑張ろう。 去年義母を引き取ったので、実家の役割を果たすことになり、今日の夕方26名の大宴会となる。私は座って飲むのが係りだからいいが、家内と長男の嫁さんはてんてこ舞いのいそがしさだった。 先ほど一件落着。 ただし後かたづけがたいへんで、明日にする。
2002年01月01日
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