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毎度、変わらず滑らかないい湯。春がきた。加熱掛け流し、低張性アルカリ性低鉱泉、源泉28.1℃、pH9.4、ラドン18.6×10⁻10CI(三朝温泉株湯48.1)、ナトリウムイオン72.5mg/kg(与一温泉148.1、鷺の巣温泉57.08)
Mar 28, 2021
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ダム便覧によると重力式コンクリートダムで1992年着工、2004年竣工と。 戦後まもなく計画されるも、住民の理解と協力の獲得に年月を要したらしい。公益に尽くすことになった多くの住民の苦悩があったようだ。 21世紀にできあがった多目的ダムは、設計、工法、資材とも工夫を凝らしたもののようだ。下から眺めると、威容さはなく、簡潔な機能表現を感じる姿だった。 設計には長い年月を費やし、威圧感のないダム空間のトータルデザインを実現したダムだそうだ。機能的には、重力式コンクリートダムとして、国内初のラビリンス型自由越流頂を備え、工事もゼロエミッションで完成させたそうだ。 見飽きることのないきれいなダムだ。2022.4 車中ランチ、Comfort break
Mar 25, 2021
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単純弱放射能泉で、低張性、中性、高温泉。源泉51℃、利用施設44℃、pH7.2と。源泉掛け流し、シャワー付きの新しいカランが5。床も浴槽もきれいで気持ちよい。土地の年配者が絶えず。珍しく彫り物のある威勢のよい輩もいたが、熱湯に呻く様は皆に同じで、年寄りには叶わず。駐車場15台。表通りから入る道は狭いが、ロールスロイスも駐車できてた。隣接して足湯と持ち帰りのスタンドがあり、タンクに入れる人もあり。昼下がりに浴後、夜まで体がほてってるようで、ラドンの威力かも。すごい湯。
Mar 24, 2021
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院庄の北の水田地帯の真ん中にある工場に併設された施設。低張性アルカリ性冷鉱泉、泉湯18.2℃、無色透明、無臭、pH9.1と。内湯は加熱循環、露天は掛け流しらしい。温度計は、内湯、露天ともに43℃を指していた。滑らかな肌触りはともに素晴らしい。午前中から廃材で焚きつけ、午後二時から営業で月水金休業。火曜日の開いてまもなく訪れたが、人が絶えず、県外ナンバーもちらほら。人気がある。
Mar 24, 2021
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奥出雲の斐乃上温泉の湯は、滑らかで心地よかった。雪は日陰に残っている程度で春が近づいているが、寒さが残り、宿のストーブと囲炉裏には火が入っていた。 宿のHPによると「例年より多少早足で雪解けが進んでいます。今年は春分の日の3/20より土日限定で露天風呂の営業を開始します。」とのこと。 「単純アルカリ泉:無色透明 無味無臭 pH9.2」「源泉温度:源泉による 約18・26°」とのことで、浴室の温泉分析表には、源泉は26.4℃で、加水加熱の源泉掛け流しと。 滑らかな肌触りの湯で心地よく、加水の分、さらりとしているが、浸かったとたん、つるつるとした肌ざわりが楽しめた。外を眺めながら、内湯で身も心もほぐせた。
Mar 12, 2021
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案内板によると、もともとは、15世紀後半からあった城らしいが、16世紀後半に宇喜多勢の伊賀久隆が城主となったときに拡充されたらしい。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 伊賀久隆は、金川城の松田氏の家臣であったが、宇喜多直家に調略されて、堅固な山城の金川城を攻撃して陥落し、松田氏は滅んだと。宇喜多勢の中では力の大きい存在となったらしい。 1580年の虎倉合戦では、毛利方が竹の荘に進出した後、備前福山城をおとし、虎倉城をめざして進軍するも、下加茂で伊賀勢が襲撃し、敗走させたらしい。ところが、その翌年、伊賀久隆は謎の死をとげたと。死期の迫った宇喜多直家による謀との説があるらしい。 伊賀久隆を継いだ家久は、宇喜多から離反し、毛利方につき、宇喜多勢と戦ったらしい。備中高松城の戦いで毛利が秀吉と和睦したため、伊賀家久は、秀吉方の宇喜多領にある虎倉城をでて、毛利領へ転出したと。 なんともめまぐるしい下克上で、宇喜多勢による父親の暗殺に抗して、備中兵乱で途絶えた三村氏と似たような因縁話だ。 蛇行する宇甘川を眼下に見下ろす虎倉城跡は険しい山容で、その姿がますます厳しいものに思えた。24吋別窓表示。右の山の頂の後ろに出丸がある。麓の市場集落の宇甘川対岸より。本丸本丸の下の曲輪出丸にほんブログ村
Mar 9, 2021
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御津金川は、旭川に宇甘川が合流する地点で、交通の要衝であったようだ。宇甘川を遡ると川の右岸山上には松田氏家臣であった伊賀氏の虎倉城があった。 備前松田氏は、もともと相模の松田にあったが、軍功により備前に領地を得て後、金川城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)を設け、以来、城主として治めていたそうだ。北の丸、二の丸の他に、道林寺丸、出丸があり、幾重にも曲輪が連なり、各尾根沿いには、堀切がいくつもしつらえられ、斜面は急で、堅固な規模の大きい山城であったらしいが、1568年、宇喜多直家に調略された虎倉城の伊賀久隆に滅ぼされたと。 松田氏は日蓮宗に厚く、寺が設けられた道林寺丸跡もあった。北の丸、本丸、二の丸には、深い井戸がそれぞれあり、特に本丸の北面直下にある天守の井戸は、深さ10.8m、径8mだそうだ。井戸の規模と曲輪の数からすると大勢が詰めたと思われ、城は統治と信仰と武芸の場であったのだろう。 24吋別枠表示 山上に金川城のある臥龍山と旭川日蓮宗の信仰が厚かったらしい。吉備高原をさらに西に行くと西身延と呼ばれる寺もある。道林寺丸から宇甘川上流を望む。伊賀勢の侵攻を眼下にみたのだろうか。24吋別窓表示 北の丸東側 旭川を眼下に。北の丸と本丸の間の東斜面にある白水の井戸。深く、底が見えなかった。本丸の北の直下にある大きな井戸。直径8m、深さ10.8mと。本丸跡。石の様子から石囲いや館を思った。誰かが拾い上げた瓦の破片もいくつか。二の丸の杉の木の井戸。出丸から旭川の下流と御津金川の街を眼下に。にほんブログ村
Mar 7, 2021
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一年十ヶ月振りの再訪。Ph9.8の低張性アルカリ性冷鉱泉の泉質は変わらず、滑らか。熱した湯がほどよく注ぎ、心地よく、長湯に。今回は貸し切りの小さい湯船の方。 中共ウイルス対策がまじめにとられていたが、誰もおらず、日帰りながらのんびりと温泉旅館の風情をのぞけた。 旅館のある竹荘の田園風景は穏やかで、裏を流れる宇甘川から二羽の大きな白鷺が羽ばたき、隣の田の畦に降りてたたずんでいた。そこらに鷺の巣があるのだろう。 竹荘は、古い土地で大和朝廷の時代の鬼伝説もあるが、平安時代は荘園として栄え、戦国時代の虎倉合戦の時には、毛利軍が本陣をおき、備中松山城から毛利輝元が出陣してきたらしい。 今では田が豊かに広がる穏やかな盆地で、旅館の北では、廃校となった中学校を譲り受けた農業法人が農業従事者育成の取り組みをしているらしい。 こじんまりとした田園のいい湯だった。
Mar 6, 2021
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