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さて、オー、マイクルな話のついでにぜひ問題提起しておきたいのが、家族間の問題である。子供の頃に親がやっているのを見たり聞いたりした、あるいは自分たち夫婦がやっているのを子供に見られた…といった問題は、子供の心理や家族関係にかなり大きな影響を及ぼしているはずなのだが、あまりおおっぴらに話題にされることがない。フロイトの精神分析に原光景という概念があるが、これはひとことで言えば、幼い頃に見てしまった“親が真っ最中”の光景のことを言い、子供の精神発達上、えてしてトラウマの種になるらしい。なぜかというと、子供はそれが何なのか理解できず、なんだか親が夢中になってやっているのに、自分だけがまったく無視され疎外されているようなショックを受けたり、あるいは父親が母親に暴力を振るっているような印象を抱き、成長してからも交接という行為に歪んだイメージを持ち続けたりすることがあるかららしい。ぼくは学生時代にインポテンツの友人がいたのだが、彼もやはり幼い頃に“原光景”を見たそうである。彼はまだ4~5才くらいだったそうだが、そのときのことをハッキリ覚えていると言っていた。彼の場合、親の激しい声に目を覚ましただけでなく、実際に起きてしまったそうで、それに気づいた母親は慌てて(笑)、亡くなったおじいちゃんのことを思い出して泣いていた自分を今お父さんが慰めて介抱してくれていたところなのよ、と説明したそうだ(笑)。その場でとっさに思いついたにしてはかなり上出来な言い訳だと思うが、彼はその不可解な光景や親のその慌てぶり、親の説明のしっくり来ない部分などが、ずっと記憶にくすぶり続けていたそうである。彼はインポテンツの原因がソレだという自覚はなかったが、ぼくがフロイトの原光景の話をしたらかなり驚いていたので、なんらかの関連に思い当たったのかも知れない。必ずしも親がやっているのを見てしまったことがインポテンツのような解りやすい結果になって顕れるわけではないと思うが、子供の側の感受性やそのタイミングによってはこんなトラウマになることがあるのは確かなようである。ぼく自身は親がやっているのを見たことはない。でも、ビデオや隣人とかのあの時のむせび泣くような声を聞いたときに、どこか遠い記憶に引っ掛かるような妙な気分になるときがあった。そして、あれは母親のあの時の声が潜在意識に残っているのではないかと気づいた。ぼくは、その友人のように起きてしまったりということはなかったものの、子供の頃に真っ最中の親の声にたぶん何度か目を覚ましかけ、半覚醒状態で親の行為の声を何度も聞いていたような気がするのだ。そして、ときには親もぼくが目を覚ましかけていることを察し、ぼくが寝息を立てることを確認するまで行為を中断したりしたことが何度もあったに違いない。そのことを考えるとぼくはいつも思うのだが、はっきり言って、寝つきの悪い子供は寝つきのよい子供に比べ、親に好かれないと思う。なぜかと言うと、いつ目を覚ますか分からないような子供と寝ていたら、行為に没頭できないからだ。目を覚ましかけた子供のせいで何度もいいところで行為を中断させられる親は、きっとその子供に対し無意識のうちに悪意を抱くに違いないと思うのだ。場合によっては子供の表情をうかがって「この子、昨夜のこと、気づいているんじゃないかしら…」といった不要な疑念さえ抱くようになりかねない。一方、寝つきがよくて、どんなに激しい営みの際でも決して目を覚ますことなく、可愛い寝息を立てている子供は、子供らしいいい子供だと親に愛されるはずだ(笑)。夫婦の円満を援ける寝つきのよい子供、他方で、夫婦の愛の営みを邪魔する眠りの浅い子供、どちらがより親に愛されるかは明白だと思う。いずれにしても、子供にとって「ヤっている親の姿」というのは想像するのもおぞましいものがある。とくに、思春期を過ぎた子供であれば、いい年をとってから親がヤっているだなんてゼッタイ信じたくないと思う(笑)。定年を過ぎたパパととっくに更年期を過ぎたママが、「おぉー、お父さんッ!」「美津子ォォーーー!」なんて叫びながらやっている様子くらい醜悪なものはないと思わないか。こうして考えると、西洋で子供が親と寝室をともにしないのは、やっぱり大声を出すことが前提になっているのかなあ、と思う。日本でも、子供が思春期になるタイミングで個室が与えられることが多いが、その年になると親もさすがにもう大声を上げるような熱情は失っているのが普通である。もちろん何歳になろうが、子供と寝室を別にしたのを機に「あぁァー、お父さ~んッ!」「アヲタキョウコぉぉーーー!」という愛の営みの声を上げて夫婦愛を確かめてみるのもよいかも知れないが、それを聞いた子供がグレる危険性はあるだろう。
2008.01.31
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昨日の日記を書いているうちに、日本に住んでいた頃に経験した「オーマイクル」な話をいくつか思い出したので、この際せっかくだから書き留めておくことにする。学生時代ワタシはコンビニの深夜勤のバイトをしていたので昼間に仮眠していたのだが、その日、部屋が揺れ始めたので目が覚めた。しかし地震でないことはすぐに分かった。震源が上階の部屋だったからである。ワタシが当時住んでいたのはいわゆる文化住宅と呼ばれる木造モルタル2階建てのアパートで、窓はサッシではなく木枠にすりガラスが入ったような、おそらく昭和30年代に建てられたようなところであった。上階からは激しくギス、ギス、ギス…という家具がきしむ音が聞こえ、ときどきその家具が壁に当たり建物を揺らしているらしかった。上階の住人はワタシと同じくらいの年の地味でおとなしい感じのブスだったが、いったいどんな男性が相手をしているものか。いずれにしても、建物の老朽度を考慮して欲しいものである。ノイズと部屋の揺れはまもなく止み、ワタシは再び眠りに就こうとしたが、すぐに第2ラウンドが始まった。最初は1秒に1回くらいのペースでギシ、…ギシ、…ギシ、という往復運動に合わせた軋みが聞こえてくるのだが、それが次第に速さを増し、住人の女性の声が聞こえてくる頃には1秒間に3.5回くらいの超高速運動になり、部屋が揺れ始めた。まるでプロレスごっこのような激しさ、天井が抜けるかと思ったくらいである。さいわい、行為は5~6分で終了し上階はまた静かになった。これでようやく眠れると思ったが、甘かった。しばらくして第3ラウンドが始まったのである(笑)。…ギス、ギス、ギス。またか!オマエら、昼間っからいい加減にしろや。切れたワタシはベッドを出て、ほうきか何かで天井を激しく突いた。ワタシのメッセージが伝わったらしく、ギスギス音は静かになり、しかし控えめながらもしばらく細々と続き(笑)、やがて完全に静かになった。その日以来、上の階からギスギス音が聞こえてくることは二度となかった。もう1つ思い出したのが、当時バイト先のコンビニの同僚にいた、ヤマネ君というモグラをイメージさせる風貌のズングリした男のことである。彼はワタシの通っていた大学よりやや偏差値の低い大学に通っていて、彼に言わせると、ワタシの大学を受験してギリギリで落ちたと言う。どうしてギリギリで落ちたのか分かるのか聞いたら、その大学に合格した友人が調べて教えてくれたのだそうである。ワタシは同級生に、卒業後大学事務局にそのまま就職したヤツがいるのだが、学生が合格順位を知ることなどありえない、と言っていた。大学当局に勤める彼でさえ合否順位などといった情報を目にする機会がないのに、学生が調べて判るようなことではない、というのである。…まあ今思えば、その友人というのが、志望校に落ちたヤマネ君を慰めるためにそのようなことを言ったのであろう。…で、このヤマネ君が言うには、彼は隣人の女子大生のせいで浪人時代を棒に振ったという。福井だか京都府の日本海側だかの田舎の出身の彼は、京都市内にワンルームマンションを借りてもらって浪人時代を過ごしていたらしいのだが、隣の女子大生というのが夜な夜な男を引き込んで行為に及び、それがうるさくて勉強に集中できなかった…というのである(笑)。彼はある日、意を決して、自分は浪人中の身なのだが、あの声がうるさくて勉強に集中できないので、もう少し静かにやって欲しい…といった旨の手紙を書き、隣人のポストに投函したそうである。しかし、彼の懇願もむなしく、隣の女子大生の声はその後も止むことがなかったらしい(笑)。彼は、志望校に落ちたのはいかにもその女子大生のせいだ、と言わんばかりの口調であった。しかし、だ。いくらなんでも「隣の女子大生」は毎晩一晩中やりまくっていたわけでもあるまい。ワタシの経験では、バイトやレポートに追われる学生がボーイフレンドの訪問を受けて行為に及ぶのはどんなに多くたってせいぜい週に2~3回、しかもワンルームマンションの壁を通り抜けて聞こえるような大声になるのはクライマックスの数分ではないか。仮に、若さに任せて3ラウンドまで致したとしても、音を発しているのは延べ1時間に満たないだろうし、「勉強の邪魔」になったのは合計しても週3時間程度だったと思われるのだ。…そこで思い出したもう1つの話が、当時のバンド関係の女友達の話である。彼女は当時、浪人生のボーイフレンドと半同棲状態だったのだが、そのボーイフレンドの下宿というのが隣部屋とベニヤ板で仕切られたようなボロい部屋で、テレビの音やら生活の音が筒抜けな上、壁の隙間から灯りが漏れてくるようなところだったらしい。彼氏の隣人は京大かどこかの学生だったらしいが、彼女が彼氏と例の行為に突入するたび、なぜかいつも隣の部屋からは灯りが消え(笑)、物音が一切しなくなるのだ…と笑いながら彼女は話していた。どうやら隣人は灯りを消して完全な鑑賞体制を整えてまで、お隣さんの営みの音声に集中していたらしい。…思うに、ヤマネ君が勉強に集中できなかったのは、行為の音がうるさいからというより、つい隣の部屋の音に聞き入るクセがついてしまっていたのではないか。女性経験のない彼はちょっとした物音にも妄想を膨らませ、歴史年表や試験に出る英単語なんかより「隣の女子大生」のことが気になって仕方がない状態に陥っていたのではないかと思うのだ。隣人がボーイフレンド付きの女子大生だったのは確かに浪人生にとって不運だったかも知れないが(笑)、ヤマネ君の敵は隣の女子大生ではなく、自分の妄想というか劣情だったのだろう。あれから20余年、きっと今ごろみんな子供もいたりして、大声を出したり部屋を揺らしたり電気を消したりしたのもみんな若気の至り、いい思い出ですね。
2008.01.30
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突然目が覚めた。時計を見ると午前4時くらいである。どうしてこんな時間に目が覚めたのだろう…とうつろな頭で考えたが、2.5秒後には答えが出た。上の階の住人の声である。女性の叫び声が聞こえる。悶え声などというカワイイものではない。絶叫しているのである。擬音語を使って表現すれば、ギョァエーとかヒギィィイーとかフングゥァアアーそんな感じなのである。間に400m全力疾走直後のような、ハァ、ハァ、ハァ…という有声音の喘ぐ声も聞こえる。擬音語以外に、たとえで表現するなら、出産時の悶絶の声に非常に近いかも知れない(テレビでしか見たことないけど)。たまにギシギシといった軋み音が聞こえるが、断続的なので、標準的な交接ではなく、何か特殊なことをしているらしい(笑)。隣からこのような声が聞こえたことは一度もないのだが、上の階からはたまに聞こえてくる。壁はしっかりしているのに、床と天井が薄いのか?いずれにせよ、これほど激しい声を聞くのは初めてである。聞いていてもぜんぜん興奮しない。かつて、激しい喧嘩をしている声を何度か聞いたことがあるのだが、声や喋り方から判断するに、熟年の、しかもあまり教養のなさそうなカップルである。想像するのも忌まわしい。バトルが静まったからか、眠気のほうが勝ったのか、その晩はいつの間にか寝ていた。翌日、昼寝をしていたところ、また目が覚めた。時計を見ると午後1時半である。また一瞬どうして急に目が覚めたのか考えたが、またすぐ理由が判明した。昨日にもまして激しい声が天井から聞こえてきたのである。オマエら、週末とはいえ、昼間からか!隣人のことが気にならないのだろうか?それとも、隣人が外出したのを確認してから開始しているのか?昨晩は聞こえてこなかったが、今日は男の声も聞こえてきた。喘ぎ声ではなく、何か言っている。注意して聞いてみたら、「Do you want it!? Ah?」と言っている。女は、フグゥゥゥー!とか絶叫で答えている。規則的なギシギシ音が聞こえないので、たぶん大人のおもちゃか単なる異物を使用しているのだろう。すぐに、ヒギィィーとかフングゥァアーとかいう叫び声が聞こえてきた。声を抑えようという努力どころか、魂の限り叫んでいる感じである。たとえて言えば、猛獣の咆哮に非常に近い。女はたまに何かセリフも言っているのだが、喘ぎながら言っているのでよく聞き取れない。口調から察すると、おそらく「Give it to me」みたいなセリフだと思われる。たしかにここ1週間、最高気温マイナス10℃くらいの日が続き、連日室内にこもって退屈していたのは分かる。彼らにしてみれば、娯楽だけでなくスポーツやセラピーも兼ねているのだろう。それにしても、一部の西洋人のあの時の声というのはほんとうにカルチャーショックを感じる。日本に住んでいたときも似たような経験はあるが、抑えようとした声が仕方なく漏れてくるような感じである。叫ぶとすれば最後のほうだけである(笑)。しかも声はキャーといった高音だ。あんな野獣の咆哮を東洋人女性に聞かされたことはまだない(笑)。あれはどう考えても、盛り上げようとして意識的に声を上げているのだろう?倦怠期の夫婦とかが、単調になってきた営みに刺激を与えるために、特に女性の側が勢いを失った男を励ますために(笑)、非日常的な声を上げて狂気の世界を演出しているんだよな?それとも自然にあんな叫び声が出るくらいにスゴイのか、西洋人の男は!?オイラと交接した白人女性たちが誰も絶叫しなかったのはオイラの力量不足のせいなのか(笑) !?今日は、在宅で仕事をしてたら、上階からまた女の声が聞こえてきた。専業主婦なのか欠勤なのか在宅勤務なのか知らないが、今日は昼間っから独りでやっているらしい(笑)。週末のほてりがなかなか冷めないのだろうか。でも今日は絶叫せずに、遠慮がちにフゥーン、アァーンといった声しか聞こえてこなかった(笑)。独りでやるときには絶叫しないということは、やっぱりあの野生の叫びは相手を意識した演出なんだよね、ね。備考:今日の日記のタイトルは、かつてトイモイ氏がタイかどこかのホテルで、夜に隣の部屋から「オー、マイクル!」という女性の熱情の叫び声が聞こえてきて、知りたくもないのに隣の西洋人男性の名前がマイクルであることを知ったという話を日記に書いていたのに由来するということは、書いた本人であるトイモイ氏はもちろん、その日記にエライ興奮して数日の間「オー、マイクル」と他人のブログにまで書き込みをしていたアヲタキヨウコさんには説明不要ですね、ところでトイモイさん、あの日記を探しましたが見つかりませんでした、見つかったらリンクを貼るので日付を教えてください
2008.01.29
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在宅勤務になって1ヶ月、通勤時間や残業がなくなったおかげでトライアスロンのトレーニングに掛ける時間が一気に増加。ちなみに1月の通算はスイミングが30キロ、自転車が450キロ、ランニングが125キロ。ハーフ・アイアンマンくらいであれば、ちょっと調整した程度ですぐにでも参加できそうな勢い。新しい仕事が見つかったらもうこうはいかないだろうが。ところで先日の日記にも書いたとおり、2008年内にアメリカ・カナダで開催されるすべてのアイアンマンのレースがすでに定員(1500~2000人)に達しているため、この週末に代替レースをインターネットで検索したところ、「アイアンマン」と銘打っていないだけで、アイアンマンと同等の距離のトライアスロン・レースというのが存在する事実を発見。「アイアンマン」という名称は登録商標なので、距離が同じでも勝手にアイアンマンと呼ぶわけにはいかないらしい。だから、「アイアンマンの距離(Ironman-distance)のレース」と記述した、異なる名称のレースが複数存在するのであった。たとえばカナダのフランス語圏であるケベック州で7月に同時開催されるトライアスロン・レースは、「ハーフ・アイアンマン」「アイアンマン」に加えて、なんと「ダブル・アイアンマン」の距離まで揃えているらしい。そう、すべての距離がアイアンマンの倍、スイミング7.6キロ、自転車360キロ、最後のランニング84.4キロの超人的レースである。ちなみに制限時間は30時間(笑)。ただ、このテの小規模レースのイヤなところは、短めの周回コースをぐるぐる周らなければいけないことである。ダブル・アイアンマンでいえば、水泳はセント・ローレンス川の630mのコースを12周、自転車は4キロ弱のコース92周、ランニングは2キロのコースを42周。「あと何周」というのを意識しながら同じところを泳いだり走ったりするのは精神的にかなりツライものである。あと、目に入る景色が同じなのも気が紛れずツラいに違いない。あと、このテのレースのイヤなのは、参加人数が極端に少ないことだ。アイアンマンであれば1700人に囲まれたお祭り騒ぎなのだが、ローカルのイベントだとせいぜい参加者は2~300人くらい、ダブル・アイアンマンともなると数10人程度しか参加しないのではないかと思われる。レースが進行するにつれて人がバラけて周りに誰もいなくなり、1人で走り続けるツラさは倍増である。いちばん気がかりなのは、「距離が正確ではない可能性がある」点ではないだろうか。正式なアイアンマンの大会であれば、たぶんコースの距離を計測した上で「アイアンマン」レースとして認定しているに違いないが、任意のレースだとこの距離測定が大雑把なことがあるものだ。せっかく「完走した!」と思って充実感に浸っていたのに、「あのコースは正式なアイアンマンと違って距離が不正確だから、アイアンマンを完走したとは認められない」などと言われたら、かなりイヤじゃないか?なので、今考えているのは、この7月のケベック州のレースあたりを「前哨戦」に位置づけ、あとはまだ定員に達していない欧州の正式なアイアンマン、たとえばイギリスで9月に開催されるアイアンマンUKあたりを本番にしようかと考えているところである。追記:さっきアイアンマンUKのウエブサイトを見たら、おととい定員に達したらしい。トホホ
2008.01.28
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さて、昨日の日記で触れたとおり、「だって、もっと、ずっと遊んでいたいんだもーん…という子供の頃のあの気持ちは、大人になってもちっとも私の中から消えていかない」という紅牡蠣さんの日記と、オバQに15年ぶりに再会したサラリーマンの正太くんが「自分の可能性を限界まで試したいんだ!!そのためには、たとえ失敗しても後悔しないぞ!」などと言って脱サラを決意したかと思ったのも束の間、妻の妊娠の話を聞き翌日やる気満々で会社に出勤するのを見て、寂しくオバケの国に帰ってしまう『劇画・オバQ』の話を読んで、オトナになることについてぼくが考えたことの続きを書きます。ぼくは、もう40歳を過ぎているクセに、オトナに会うと緊張します。なぜかというと、たとえばぼくと同じくらいの年の人は、もう中学や高校生の子供がいて、家のローンだとか子供の進学資金だとか親の介護だとかいって、とてもたいへんな年齢です。だのに、ぼくときたらまるで20代の青年みたいに、あいかわらずアイアンマンだのキリマンジャロだの、現実とは何かとか狂気がどうだとか、クソとか小便とか南京虫とか、楽天日記に書いているような呑気なことばかり毎日考えて暮らしているからです。心斎橋さんみたいに「人生、そんなことでいいんですか?」…と責められるような気がして、緊張してしまうのです。実際には心斎橋さんはぼくのよき理解者なので、こんなぼくに対して「人生、そんなことでいいんですか?」などと言うことは決してありません。でも、紅牡蠣さんが言うように、「もうハタチになったから」「もう学生じゃないから」「もう社会人3年目だから」「もう三十路だから」「もう管理職だから」「もう子供もいるから」「もう親も年だから」…と、良識をモノサシに自らの生きる態度姿勢を改め、キチンとした服装で、キチンとした言葉使いで、会社や事業で生活費を稼ぎ、肉親や家族の面倒を見て、円満な社会生活を営んでいる「善良で勤勉な一般市民」はエライと思うし、だからいい年こいて子供のような行動や言動をとるバカボンパパや岡本太郎や劇画オバQのような場違いでグロテスクなガキオヤジにはなりたくないと思うわけです。いわば、ぼくがオトナとあって緊張するのは、その人から見てぼくが「バカボンパパ」や「オバQ」みたいに見えているんじゃないかという懸念がどうしても頭をよぎってしまうからじゃないかと思うのです。しかし、ぼくがオトナに対して緊張するのには、もう1つ思い当たる理由があります。それは、ぼくが心の中で「オトナってダっせーよナー」と一方では思っているからではないかと思うのです(笑)。記憶をたどってみると、ぼくは中学に進学する頃にはもう「オトナはダサい」と思っていました。たとえば教師の説教を聞きながら「あんなにエラそうなこと言ってるけど、内心は13歳やそこらのガキどもにビビりまくってるの見え見エ~」とか「スゲエー、いい年こいて、本気であんなこと言ってんのか?しょせん教師にしかなれなかったわけだよな~」とか、同級生と陰で笑っていました。教師の場合、学業成績を評価される弱い立場にあったのと、親の場合は経済面で全面的に依存していたので、イチオウ言うことは聞いて「オトナのメンツ」を立ててやるために表面的には話を合わせていました。でも、どんなに社会的にエライとされるオトナでも、裏に回れば、自宅では酔って暴力を振るう暴君だったり、子供にあたる欲求不満の母親だったり、夜になればキャバレーでホステスの太ももをなでながら鼻の下を伸ばしているスケベオヤジだったり…というネガティブなオトナの一面がすぐ頭に浮かんでくるのです。しかも、その発想は自分がその年齢になっても基本的にはいっしょなのです。たとえば、今から3~40年前には「国家権力打倒」とか「安保闘争」とか「自己批判せよ」言って警官にゲバ棒を振るっていた団塊の世代が、ある日「もう学生じゃないから」と良識をモノサシに生きる態度姿勢を180度転換して大企業とかに就職し、重役や教頭とかにまで登りつめた定年の直前になってツマラない横領やノゾキで捕まったりするニュースを毎日のように耳にするにつけ、あんなに理想に燃えていた青年がどこでどう間違ってあんなオトナに成り果てたのかと思うわけです。何だか長くなってポイントもボヤけてきたのでそろそろ切り上げますが、要するに、ぼくはオトナはダサいと思うけど、オバQやバカボンパパもダサいと思うし、結局のところ、先日41歳になった鰻坂ヒカルの指摘のとおり、デカンショ、デカンショで人生の半分を暮らし、残りの人生を寝て暮らしている旧制高校生なんだなあ...ということにして、このオトナ論の話を終わりにしたいと思います、ご清聴ありがとうございました
2008.01.26
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pinkoysterさんお元気ですか、ぼくは元気です。ぼくは昨日楽天日記を書くのに自分が学生時代を送った80年代のことを思い出した後、今日は紅牡蠣さんの日記を読んで、オトナになることについていろいろ考えさせられました。いろいろ考えながらネットサーフィンしているうちに、あの『オバケのQ太郎』のオトナ編である『劇画・オバQ』という藤子F不二夫の作品があることを知りました。主人公の正太くんが劇画調のオトナになった後で15年ぶりにオバQに再会するという、自分の作品をパロディ化したようなスゴイ筋立てです。上のひとコマに貼ったリンクはそのマンガのあらすじを紹介したサイトですが、ちょっぴりオバQの姿が自分と重なって、ぼくはちょっとドキっとなって、そして悲しくなりました(笑)。劇画の世界ではオバQはとことんみっともなくて、マンガの愛嬌がちっともありません。でも、正太くんの「ぼくは卑怯者だった!」というセリフもなかなかステキです。正太くんは正太くんで、オトナになる過程でオバQを裏切ったような罪悪感を抱えていたようです(笑)。こんなのを楽天ブログで紅牡蠣さんに紹介してどうするつもりかと聞かれても、単に面白いから紹介しただけで、とくに深い意味はありません。ただ、ぼくはこの『劇画・オバQ』を見てからずっと心の中で「自分はオバQじゃないぞ!」と必死で否認しようとしている自分を感じます(笑)。それだけです。(終)
2008.01.25
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この正月に中米を旅していたトイモイ氏が今日の日記にチェ・ゲバラの語録を載せていていたのを読んでいて、学生時代のある遠い記憶が蘇ってきた。大学1年次、オイラは革命的共産主義者同盟すなわち中核派にしつこく勧誘されたことがあったのだ。といってもオイラの学生時代は80年代の後半、いわゆるバブルの時期だ。学生運動なんてもう流行っていなかった。世間はおニャン子クラブだのオールナイトフジだのボディコンだのイケイケだのマハラジャだのブランド物だの言って急速に軽薄化の道をたどっていた。体制だの革命だの造反有理だの言っている連中はもはや新興宗教にハマってるヤツと同じ扱いをされていた。なぜオイラが中核派に勧誘されることになったのかよく覚えていない。たしかその中核派のお兄さんは、大学の名簿を見ていきなりオイラの下宿を訪ねてきたとか言っていた。名簿には出身高校名が書いてあるので、「地方出身者」を狙ってオルグ活動をしていたのだ。オマケにオイラは当時「中核派だった頃の糸井重里」に異様に似ていた(笑)。当時、「佐世保エンタープライズ入港反対デモの先頭に立つ法政大学在学中の糸井重里」の写真が『フォーカス』に載ったのだが、そのページをオイラに突きつけて「似てるなあ!」と言ってくる学友や先輩が3人くらいいた。その中核派のお兄さんがその『フォーカス』を見たかどうかは知らないが(笑)、まあ、オイラのルックスに「反体制」のバイブレーションを感じ取った可能性はある。1983年 NHK教育『You』の司会をしてた当時の糸井オイラは当時、中核派に限らず、そういった政治組織とか宗教組織にやたら勧誘とされた。なにせ1年前まで「質実剛健」「文武両道」とか本気で言っているような地方の男子高の応援団幹部長だったのだ。チャラチャラした私立のボンボン大学で、1人だけ地方の国立大学の学生が混じったようなカッコをしていたのだ。「チャラチャラした大学生活に適応できず、孤独な学生生活を送っています」と書いてあるような顔をしていつも1人でキャンパスを歩いていたのだから、そういう組織の連中にとっては格好のターゲットだったに違いない。オイラは心が広いので、マヒカリ教を名乗る学生などから「アナタの幸せをお祈りさせてください」と言われれば、ベンチに座って手をかざさせてやったし、その中核派の先輩がいきなり訪問してきても門前払いすることなく、毎回コタツに招いて話を聞いてやっていた。ただ、この人の場合ヤバかったのは、当時中核派がゲリラ活動と称してJRや新幹線のケーブルを切断し交通機関をマヒさせた事件があったのだが、彼はその直後に「戦果」を報告しにオイラの下宿に来たことだ(笑)。何せ、「ゲリラ活動」によって「体制側」をマヒさせ混乱に陥らせたことや、この下宿に来るまでに公安らしき男の尾行を振り切ってきたとかいった話を、自慢げにオイラに語るのである。しかしオイラは、その人からいくらそんな自慢話や「体制の矛盾」とか「正義」とか「闘争」とか聞かされても、エライともカッコいいとも思わなかった。それはたぶん、政治だの宗教だのにカブレるより先に心理学とか精神分析にカブレていたので、そういうリクツに対し斜に構えるのに慣れていたのだろう。たとえば、その先輩の「理論」を聞きながらオイラはいつも、「ああ、この人を突き動かしているのは強いエディプス・コンプレックスであって、『権力』に『父親』を重ね合わせて反発しているんだなあ」とか、「いかにもそれが“真理”だからその思想を信じているような話をしてるけど、ホントは自分のやりたいことを正当化するのに都合のいい思想を見つけてきて、それを“真理”と呼んでるんだよなあ」とか思っていたのである。...なわけで、ついにオイラは学生時代中核派にもマヒカリにも統一教会にも入ることなく、かと言ってブランド物を身につけてマハラジャで踊る気もなく、気がつくと美術サークルに入ってバンドを始めていたのであった。だから、トイモイさんの日記のゲバラ語録もなんかを読んでいても、その熱いセリフを「カッコイイ!」と思う前に、つい「あー、これって典型的なエディプス・コンプレックスじゃん!」とか「主義思想を借りたロマンチシズムなんだよなあ~」という冷めた発想が先立ってしまうわけである。それにしても、あの中核派のお兄さんはどうなったのかなあ。家業でも継いだのか、糸井重里みたいに広告代理店で大手企業の宣伝でもしているのか、はたまたその後中米に渡ってゲリラ活動を支援しているのか…
2008.01.23
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今日、1月の第3月曜日は、欧米でいちばん自殺率が高い日だそうである。クリスマスや年末年始のホリデー・シーズンが終わり、1月分の請求書などが舞い込むこの時期は、浮かれた気分から一気に現実に引き戻される。おまけに曇天が続く冬のいちばん寒いこの時期は屋内に引きこもりがちになり、我知らず鬱な気分になっていたりするものである。ああ、週末も終わりだ、今日からまた仕事だ、ユウウツだ、でも稼がないと請求書が払えない、こんなツライ人生もうイヤだ、サヨウナラ…といった感じだろうか。これは、日本でいう「五月病」の時期にちょっと似ているのかも知れない。新年度を向かえ希望に燃えていたのがちょっと疲れてきた頃にゴールデン・ウィークに救われ、でも連休が明けて仕事に戻る頃には一気に現実に引き戻され、ああもうすぐ1年も半分近く経つんだよなあ、でもなんだか今年度も昨年とかわりばえのしない毎日だなあ、などと感じ始めた頃にはすっかり希望を失っている…といった感じだろうか。案の定、Googleで検索してみると、日本で自殺が多いのは4月5月だそうだ。5月は「五月病」の影響だろうけど、4月は何かといえば、要するに年度初めというのは「年度の月曜日」のようなもので、また新しい1年がはじまるというカッタルさがあるような気がする。あと、この自殺統計によると、4月5月の自殺の多さは、年度末には倒産や解雇が急増するので、経済的に困窮した失業者の自殺増加が貢献しているらしい。面白いのは「自殺率と他殺率の相関」の話で、日本って自殺率が他殺率より圧倒的に高いんだよなあ。経済的に困っても、他人を殺してカネを奪うより自殺するというこの美意識(笑)。だいたいアジア諸国と欧州はどこも自殺率の方が高いみたい。一方、中南米とアフリカは他殺率の方が高い。「自分が生きるためなら、まず他人の命を奪うことを考える」国なわけか(笑)。ちなみにアメリカは他殺率と自殺率はちょうど同じくらい(笑)。…ということは、中南米やアフリカではブルーマンデーの代わりにブラッディ・マンデーがあったりするわけか。誰かGoogleで中南米やアフリカの殺人統計を調べて、やはり月曜が多いかどうか調べてボクに教えてください。いずれにしても、「困ったら、まず他人の命を奪おう!」という発想のこれら国が繁栄していない国ばかりなのは明白である。それを考えると、これらの「他殺の文化」の国に対し、日本のような「自殺の文化」は大事にすべきだと思います。ビバ、ブルーマンデー
2008.01.21
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今日の北米は寒波に見舞われボクの住んでいるところは最高気温が氷点下10℃でした。最低気温は氷点下15℃くらいでしょうか。風が吹いているので体感温度は氷点下20℃以下です。寒いけど、ちゃんと早起きしてプールで1時間ちょっと泳ぎました。寒くて眠くても起きたのは、1日おきに泳ぐのを規則として自分に課しているからです。寒いけど、午後には徒歩で韓国系食料品店まで買い物に行きました。ふつうのスーパーマーケットではここ2週間くらい豆腐が品切れで売ってなかったのと、買い置きしていたスナック菓子やうどんを食い尽くしてしまったからです。ボクの住んでいる町には日本人がいないので日系食料品などありません。日本の食品に近いものが食べたければ韓国系か中国系の食料品店に行くほかありません。それに今年から在宅勤務になり3食全部自宅で食べるため、ふつうのスーパーマーケットで入手できるものだけではバリエーションに限界があります。ところで、ボクは今日この韓国系食料品店で納豆を発見しました。日本で100円くらいで売っている3パックのヤツが3ドル(330円)で売っていました。3倍の価値があるかちょっとだけ考えましたが、これまでカナダで納豆を食べたことがないことを考えたら1パック100円の価値があると簡単に結論が出ました。川向こうのアメリカに住んでいれば、すぐに腐る生もの以外、日本で売っている食べ物は大概手に入りますが、カナダだとトロントとかバンクーバーなどの大都市に行かないと納豆や味噌は手に入りません。ちなみにこの韓国系食料品店が開店したのはほんの2~3年前なので、それまでボクは白米もうどんも食べられない生活をしていたのです。納豆以外に発見した意外なものは韓国製の「あずき缶」です。やはり3ドルちょっとしましたが、これはあまり迷わずに買いました。なぜなら、昨年日本に出張したときに買った切り餅をまだ食べていなかったので、「これであんこ餅と納豆餅が食える」と思ったのです。家に帰ってこれらのものを棚にしまいながらボクは、ボクのキッチンには食品に限らず、普通の海外在住の日本人の家なら必ず置いていそうないろいろなものが存在しないことに気づきました。まず、ボクの家には箸がありません。飯類はもちろん、麺類もフォークで食べているからです。茶碗もお椀もありません。白飯を食べるときは、どんぶりと茶碗の中間くらいの大きさのボールに入れて食べているし、味噌汁やスープの類は片手なべから直接食べているからです。調味料類の少なさはイギリス人家庭並みです。考えてみたら、ボクの家には砂糖がありません。塩胡椒と醤油くらいはありますが、味噌は韓国の味噌で、あとは3年前に買った「ほんだし」と、カレーを辛くするときに使う韓国製の唐辛子味噌があるくらいでしょうか。「みりん」だとか「酢」などといった気取ったものはもちろんありません。炒め物を作らないので食用油もありません。考えてみたらボクは「煮る」以外の調理をしていないみたいです。ほかにもないものがいろいろあると思うのですが、普通の人のキッチンにあと何があるのがよくわからないので、書こうにも書けません。ちなみに「ママレモンがあるのか?」と思った人は、いいところに気が付きました(笑)。あることはあるのですが、北米に転属になった6年半前に買ったものがまだ半分ちかく余ってます。年間使用量30cc.か(笑)。油を使わないので、いつも水洗いしかしないからですね。雨風を凌げて食べるものさえあえば基本的に満足できるボクの、質素で清く正しい生活は、独身男性の模範のようですね(笑)。でも、いくら抹殺しても顔を出す南京虫だけは、早くいなくなって欲しいものです。(終)
2008.01.20
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今日のCBC(カナダのBBCにあたるテレビ局)の科学番組『Nature of Things』は面白かった。われわれが自明のものと思いがちが「五感」の本来の意味を探るというこのシリーズ、人間が“同じもの”を見聞きしていても、頭の中ではみんなそれぞれ異なる体験をしているのだということをあらためて思い知らせてくれる。たとえば、ぼくが面白いと思ったのは、人間の中には「音楽が聞けない」という“障害”を持つ人が存在するということだ。この種の人は、聴覚にはなんら異常がないのに、音楽を情緒的経験として知覚できないそうだ。フツウの人が“音楽”と認識する音のアンサンブルが、単なる「規則的なノイズの重なり」にしか聞こえないそうなのだ。どうも脳には、本来「単なる規則的なノイズの重なり」に過ぎないものを情緒的な体験すなわち“音楽”として認識させる部位が存在するらしい。この部位が人並みに発達しなかった人にとっては、ほかの人が“音楽”と呼んでいるものが何なのか一生分からないわけである。むかし読んだ三島由紀夫先生の作品に『音楽』という中編小説があって、これには「音楽が聞こえない」と訴えて精神分析医の元を訪れる女性が登場する。この小説では精神分析医が「音楽」を「オーガズム」の暗示と解釈し、この女性が暗に冷感症を訴えているものと理解して治療を進めていくという筋なのだが、だからぼくは「音楽が聞こえない」というのはこの登場人物特有の暗喩くらいにしか思っていなかった。しかしこの番組を見て、ヒステリーか何かで一時的に脳のある部位の活動が鈍ったり停止すれば、それが「音楽が聞こえない」という症状として現れることがほんとうにありうるんだなあ…などとこの番組を見ながらふと思ったわけである。話がそれたが、要するに人は“音楽”というものが客観的に存在する自明のものと思いがちだが、実はそれは主観的な体験、いわば「解釈」の結果に過ぎないということなのである。たとえばぼくは若い頃「ノイズ」とか「インダストリアル」というジャンルの“音楽”を聴いていた時期がある。これは楽器の代わりにドリルやチェーンソーの音とか工場の騒音などを主な素材として、それに合わせてボーカルがつぶやいたり叫んだりしているような世界である。マトモな人が聞けばまさにただの騒音に過ぎず、実際ぼくの学生時代の下宿の隣人とかは、隣の部屋から聞こえてくるガガガガガァーとかキィィィーとかガンガンガンガンガンという音にあわせて人が叫んでいるテープを毎日のように壁越しに聞かされて、かなり脅えていたそうである。それはさておき、何が言いたいかというと、ぼくにとってそれは紛れもなく“音楽”だったのである。金属の擦れる悲鳴のような高音とか、鉄板にハンマーが振り下ろされるクラッシュ音とかを聞いて感じるカタルシスは、エレキギターやシンセサイザーのような既存の楽器が奏でる音では絶対に感じられなかった。つまり、「ノイズ」を聴いて得られるその情緒的な体験は、既存の「音楽」を聴いて得られるものと同質だったのである。“音楽”がただのノイズといっしょの人もいれば、ノイズを音楽と同じように聴いている人もいるというこの卑近な例は、西洋人にとってはノイズに過ぎない虫の声や風鈴の音を、日本人は音楽と同じ脳の部位で“鑑賞”しているというあの話をも想起させる。この番組でもう1つ面白かった話は、最近の医学と技術の発達によって蝸牛部の移植が可能になり、聾者が音の世界を体験できるようになった…という話である。…ただ、生まれてから一度も「音」を知らずに成長し完全な無音の世界の住人となった人がいきなり「音」を体験しても、それは「さまざまな振動の洪水」が脳に直接響くだけに過ぎず、何が何だか分からずかなり戸惑うらしい。もちろん“音楽”も理解できない。これは、生来の盲人に網膜を移植したり視神経をつなげて物理的に健常者と同じ状態にしても、漠とした「光」が見えるだけで、なんら像を結ぶことがない…というよく知られた現象と同じである。面白いのは、ある程度成長してから聴覚を失った人に蝸牛部を移植した場合である。彼らに言わせると、移植手術直後は、非日常的な低音から高音まで広範な“音”がつねに耳に入ってきていて、たとえば誰かに声を掛けられても、その人の喋る声と同時にずっと滝の音のようなノイズが聞こえているらしいのである。しかし、2~3週間ほど経つにしたがい、それらの“非日常的”な音域がカットされるようになり(笑)、自分が聞きたい「知人の喋る声」だの「音楽」だのに集中できるようになったという。この人は、いわばいったん聴覚を失ったあとで移植手術によって「赤ちゃんの耳」を得たようなものである。そして、それから数週間で、かつて聴覚を失うまでに身につけていたはずの“意味のある音”の取捨選択という能力を急速に再学習したわけである。この手の話はマジックマッシュルームや大麻やある種の規制物質の経験者の多くには理解できると思うが、われわれは、実は本来カオスに過ぎないノイズや視覚情報の洪水の中に生きている。しかし、乳児の頃から親など周囲の人間と時間・空間を共有して成長することで、その洪水の中から“意味のある”ものだけを自動的にピックアップして知覚することを身につける(=構造化)ことで、「健常者」となっていく。だから、生まれてこのかた「音」とか「視覚」といった概念を抜きで成長して世界を構造化してしまった人にとっては、二次元の住人に三次元の概念を理解させるのが不可能なように、物理的に「聴覚」や「視覚」の能力を与えてもカオスを既存の構造の中に組み入れることができず、結局は何も「聞こえ」なければ「見え」ないわけである。この番組の後半に登場した、10代前半で聴力を失った人で、当初は補聴器に頼って「健常者」の世界に何とか適合しようとしていたのが、やがて聴覚に頼らずに皮膚感覚や視覚で“音声”の世界を「再構成」することを学び、いまでは完全に補聴器を捨てて「耳の聞こえないパーカッショニスト」として成功するに至った話も、なかなかシビレた。世界が先にあるのではなく、人が世界を恣意的に再構成しているのだということと、われわれはかつて見えたり聞こえていたものを放棄することによって「健常者」に成長するのだ…ということなどを、規制物質にも構造主義にもゲシュタルト心理学にも縁のない良識的な市民にでも分かりやすく理解させてくれる、とってもよい番組だと思いました(笑)。
2008.01.19
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昨日、一昨日、一昨昨日とイッてる人たち(主にシロウト)の作品を紹介したが、ゴッホを引き合いに出すまでもなく、プロの芸術家の多くも実は「イッてしまっている人」たちだと思う。岡本太郎だって、両親が有名人だったりフランスに留学したりといった“箔”のない、単なる地方在住の一介のオッサンだったなら、アレを芸術と認めてもらえることもなく、「アブナイ人」として施設に隔離されていた可能性があると思う。ひとことで言えば、それが周囲に「ゲージュツ」として認めてもらえるか否かの違いではないのか。キチガイが衝動的に製作した“症状”としての作品と、アーチストが創作した芸術作品の間に、必ずしも本質的な差異はないのではないか、ということである。ちなみにオイラがいちばんイッてると思うコンテンポラリーのアーチストはアメリカの写真家Joel-Peter Witkin先生である。この人は知的に優れているし喋ることも実に理路整然としていて、一見して“健常者”である。しかし、この人の撮る写真の世界を見て欲しい。下のYouTubeのビデオでは、どこから入手したのか知らないが、胎児の首を猫の死骸に紐でくくり付けて、「ゴージャス!ゴージャス!」と1人ご満悦である(笑)。こんなことをして許されるのか!? …とマトモな人なら思うのではないかと思うが(笑)、どうも許されるらしい。この人は死体を扱うための法医学関係の免許を持っているらしいのだ(笑)。犬の死骸の胸部をくり抜き、果物や野菜を詰めて静物画にしたり(笑)、解剖室から入手したらしい、縦に真っ2つ割られた人間の頭部を向かい合わせてキスさせたように見せて『交接』とかいうタイトルをつけたり、やりたい放題である。しかし、ウィトキン先生の作品は、被写体が奇形であろうが死体であろうが、死ぬほど美しい。そのグロテスクな被写体と、それが作り出す美しい世界とのギャップ。健常で明晰な意識を持っていなければこのような美しい世界は構成できないだろうが、ふつう健常な人は死体を弄んで写真に撮ろうとは思わないだろう。この精神の危ういバランス感覚。自分の隣人に、毎日馬の首をチェーンソーで切っては目玉をくり抜いたり、不具者や奇形を連れてきては裸にして妙なポーズで写真を撮っている人がいたら、マトモな人ならすぐケーサツに通報しているに違いない。しかし、彼は世に認められた「ゲージュツ家」「アーチスト」であり、アメリカのアルバカーキにあるアトリエできょうも「ゴージャス!」「ビューティフル!」とか歓声を上げながら、奇形や死体を弄びゲージュツ写真を撮り続けているのである。余談:ウィトキン先生の作品の一部は青山の「ときの忘れもの」ギャラリーで売ってるらしいです。富豪のトイモイ氏や放浪の達人師匠にぜひモノホンを買って見せて欲しいオイラです。
2008.01.18
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昨日、おとといに引き続き、イッてる人たちの絵を紹介します。ただ、きょう紹介する作品は、一見してイッてるのが分かるような通好みの作品ではなく、パッと見ただけならアートとして通用しそうないわば“ボーダーライン”のキチガイの作品です。クリックして拡大して見てくださいね。⇒このヘンだと、鬱かノイローゼかも知れないけど、作者はかろうじて一般の社会生活を営んでいそうなカンジがしますね⇒一見するとプロのアーチストによる作為的なデフォルメのようですが、首のないところとか、シロウトが見ても病的なものを感じますよね⇒作者は病的な衝動に突き動かされて強迫的にこの種の絵を描いてるみたいですけど、このヘンだと装飾芸術として十分に認められそうです⇒これなんかも一見するとシロウトが書いた装飾的な肖像画ですが、表情の危うさとか、小さい顔の強迫的な反復とか、やっぱり病的なものをビンビン感じますよね⇒これは強迫神経症患者が描いた絵画なのですが、これがオブジェだったらもう立派なモダンアートですよねこうしてイッてる人たちの作品を見ていると、アートとキチガイの間にハッキリした線引きなんて出来ないし、極論するとアートという営み自体がキチガイ的行為のような気がしてきますね。(終)
2008.01.17
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土曜: 水泳 1900m (50分) 自転車 73km (2時間30分)日曜: ランニング 20キロ(2時間)月曜: 水泳 2200m (1時間) 自転車 26km (50分)宮古島トライアスロンの選考に漏れ当面の目標を失った後もマジメにトレーニングしているのである。真冬の曇り空の下を何時間も1人黙々と走っていると、寒いし疲れてきて「もう止めたい」と何度も思うのだが、その気持ちを押し殺してただひたすら前進しているうちに修行をしている気分になってくる。あるベトナム戦争の帰還兵のランナーは、1マイル走るごとに「これは戦場で死んでいった誰々への弔いだ」と思いながら、何百マイルも走り続けるのだそうだ。オイラの場合は「これはオイラがこれまでしてきた悪事への償いだ」とか思いながら走ると、苦痛を感じながらもなんとなく微笑が浮かんでくる(笑)。ヘロヘロになって白目を剥きながらも微笑を浮かべて走っているオイラは、傍から見たら絶対アブナイ人だと思うが、「ドラッグと同じで、一度完走するとクセになる」とか言いながら、4キロ水泳・180キロ自転車・42キロフルマラソンのレースに出走し続ける何千人ものアイアンマン連中というのも、エライけど、やっぱりアブナイ人たちなのではなかろうか。さて、見掛けによらず中身は至って常識人なオイラは、自分にないものを持ったアブナイ人たちが大好きなのだが、今日は昨日に引き続き、アブナイ人たちが描いた絵画作品を紹介して訪問者の感動を誘いたい。ポーランドの分裂病者の作品⇒ペンで紙に一日中こんな細かいのを書いてるらしいけど、人物のようなものが描かれているという以外、何なのかは誰にも分かりませんイギリスの入院患者の作品⇒こんな暗鬱な世界像に支配されてる人生なんて、ボクだったらとっくに自殺してるなあ分裂病の女性の自画像⇒この作者は皮膚の下を虫が這っているような幻覚に子供の頃から悩まされているそうですが、その感じがよーく表れています精神病質の“自称詩人”の作品⇒このヘンなら「フツウのアート」としてまだ認められるギリギリのセンでしょうか。でもキテますネ!精神病質の“自称シャーマン”女性の作品⇒作者はユダヤ系トルコ人で欧州やアメリカを転々としているそうですが、経歴のグチャグチャさと同様、絵(人物画と風景画がゴッチャになっている)もベロベロのグチョグチョでステキです
2008.01.14
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昨年父と別居して以来ぼくの妹の家族と同居している母親(推定67歳)に用があって電話をしたところ、たいへんショックなことを聞かされた。ぼくが実家に保管してもらっていた書籍から絵画からアルバムからドラムセットからレコードのコレクションに至るまで、ぼくの持ち物が一切合切、棄てられたというのである。なんでも実家を改築することになったために、父は家に自分しか住んでいないことをいいことに、施設に預けられた祖母の持ち物から、実家をないがしろにして海外に住んでいる長男の持ち物まで、すべて自分の判断で廃棄したらしい。母が別居していなければ、せめてぼくが宝物のように大切にしていた学生時代の絵画作品やアルバムくらいは廃棄せずに母がキープしてくれたと思う。しかし、農村に生まれ育ち、絵画とか音楽とか文学とかを理解しないだけでなく、むしろそういう実用性のない“高尚な”世界を毛嫌いしている傾向のある父は、何が書いてあるか分からないようなぼくの絵や単に邪魔なだけのドラムセットをゴミに出すことに、何の迷いもないはずだ。ああ、どうせ棄てられるくらいだったら、あの絵を気に入ってくれてた心斎橋さんとかにあげておけばよかったなあ(奥さんに捨てられていた可能性はあるけど…(笑)) 。レコードも、せめてフランスのL’invitation Au Suicideからリリースされたデルヴィルのジャケットのクリスチャン・デスのLPだけは棄てないで欲しかった(涙)。中に入っている世紀末派の挿絵入りの詩集がスゴかったんだよなあ。せめて、ゴミ収集の人がゴミの中に発見したあの絵を気に入ってくれて、家に飾ってくれてたり…しないだろうな、やっぱり(笑)。今日はあまりにショックなので、ゴミとして誰にも顧みられなかったものを専門家に見出された、ぼくの絵なんかより10倍はイッている作品を紹介して終わる。これらに比べればぼくの作品がゴミに出されても少しはガマンできるかも知れない。19歳で脳に外傷を負ったアメリカ人の作品⇒イッてるよなあ、脳をやられた人の脳内世界だもんなあポーランド出身の知恵遅れの人の作品⇒この人物画の表情といいポーズといい、キテルなあ精神病のイギリス人男性の作品⇒狂ってるよなあ、毎日一日中コレを描いてるんだろうなあ“自称詩人”のイギリス人男性の作品⇒スゲエ、異次元のビジョンだろコレは!文盲の偏執狂のイギリス人の作品⇒魚だか葉っぱだか何だか分かんねえけど異常に精密なんですけど
2008.01.13
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今朝はプールの帰りに床屋に行った。いまや在宅勤務だし人と会わないのでヘアスタイルなど気にしないのだが、後ろ髪が首に掛かるのが我慢できなくなったのである。耳が隠れるくらいまで伸びればもう気にならなくなるのだが、それまでガマンするつもりもないし。オイラが行きつけの床屋は75歳のギリシャ人の爺さんが1人でやっている。さいきん値上げしてカットのみで15ドル。自分の腕には誇りを持っているらしく、バリカンを使わずハサミだけで刈り上げたうなじをいちいち「どうだ!」とばかりに鏡で見せてくれるのだが、日本出張時に床屋に行くたびに「お客さん、お友達か誰かに切ってもらったんですか?」と言われる(笑)。最近客が少ないような気がするが、やっぱり老齢のために腕が落ちたからなのか。それとも「スタイル」とか「流行り」にこだわらないその職人気質がマーケットに受け入れられなくなってきたのか(笑)。さいきん立て続けに値上げしたのも、オイラのようにスタイルや流行りにこだわらない客だけで営業を維持していくためには仕方のない選択だったのか。床屋に行くと爺さんはいつもテレビで「ヒストリー・チャンネル」を見ている。偶然なのか何なのか、オイラが行くといつもやっているのは第二次世界大戦の話ばかりだ。髪を切りながら、いつも戦時中の日本や日本人の話をしてくる。爺さんは終戦時まだ15歳くらいだし、ギリシャは激しい戦火を免れたので、あまり直接的な戦争体験はないらしいのだが。オイラ以外に日本人の客はいないはずなのだが、少しボケが入ってきたのか、イタリアを空爆した日系アメリカ人部隊の話を聞かされるのは今日で3回目だ。ホラ、自分が白人・黒人と同じように「アメリカ人」であることを示したくてアメリカ空軍に志願し、さすがに親族の住む日本は攻撃させられないので、イタリアを攻める部隊に加えられた、当時の日系アメリカ人たちの話である。戦闘機を操縦しているのが東洋人なので、日本軍の味方かと思っていたら、いきなり銃撃してくるのでイタリア兵たちがぶったまげた…というあの話を笑いながらしてくる。「そうなんだよね、自分もアメリカ人なんだ!というのを認めさせたくて、殊更勇敢に戦おうとしたんだよね。」…などと適当に相づちを打つが、オイラにかつて同じ話をしたことに気づいただろうか。まあ、当時のイタリアはギリシャの敵国だったし、日系人が母国の味方をした話は、オイラに対する友好の表現なのか、いちおう。カナダの平均寿命は77歳なのだが、爺さんは老化防止のためにも隠居するつもりはないらしい。オイラがトライアスロンを始めた話をすると、自分も夏場は自転車に乗ると自慢げに言っていた。ランニングはヒザ関節や筋肉を傷めるからやらない。水泳は背が立つプールの半分くらいまで泳ぐのが、精一杯。子供の頃に習わないと、年をとってから上達するのは難しいという。いちおう自分の若さには自信があるらしく、40歳のオイラに張り合うようなことを言う。アイアンマン完走の最高齢が82歳だという話をしようと思ったが、止めておいた。今日はあとで洗車するのに小銭が要るので、チップは標準20%の3ドルね。じゃあまた2ヵ月後…と思ったが、転職先が決まればもうこの爺さんに髪を切ってもらうこともないのか。
2008.01.12
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ブログやアクセス記録を見ていると、実にバラエティに富んだハンドルネーム(楽天広場では「ニックネーム」と呼んでいるようだが)がある。人の氏名と違って「なんでもあり」の世界なので、実在する人の名前(私のHNがそうだ)を使うような反則ワザもあれば、ブログの閉鎖を楽天広場のみんなに惜しまれた、「男現れバイブで朝河蘭ちゃんのお○んこをトロトロに…そしてスーツでスカートもエッチな染」のような、常識を打ち破った非常に独創的なハンドルネームもある。今日は、これらのハンドルネームを分類した上で、分析を試みたい。(以下、出展はぼくの「お気に入りブログ」の「お気に入り一覧」。敬称略&リンク略)まず、もっとも多いと思われるのは、(1)「(本名の)ファーストネーム(+数字)」派である。ぼくのリンク先の「お気に入り」をざっと見ただけでも、「たくろう69」「TAKA38」「madoka7301」「かつ7416」のように、枚挙に暇がない。これはインターネットが「パソコン通信」と呼ばれていた頃からの名残だろうか。まあ、無難を好む保守的な常識派が多そうだよね。ブログは基本的に日常のホントの出来事を書いてそう。次に、(1)によく似ていて実に多いのが、(2)「(本名の)ファーストネームをもじったあだ名」派である。「はるる」「ミノルトト」「ナッチ」「miko_nin」「千代丸~」「ようちゃん」といったところか。まあナッチさんやチヨマルさんが本名かどうかホントは知らないけど(実は苗字だったりして(笑))。でも圧倒的に女性が多そう。(1)と同様、ブログには架空性がほとんどなさそうだよね。次は、(2)の仲間であるが、不思議と少ないのが、(3)「(本名の)苗字をもじったあだ名」派である。「トイモイ」「おぎーの」「らおじん」といったところか。女性より男性が多いかも。こだわりのない、肩の力の抜けた、投げやりな感じはちょっとあるよね(笑)。ただ、(1)や(2)よりはブログの論説的な側面が強そうな気がする。次は、本名と仮名の狭間にあるHNだが、(4)「横文字名」派である。これらは、実名をローマ字表記したものではなく、あくまで「西洋の名前」である。リンク先で目についたところでは「Alex」「Mickey」「carmen」「eugene」「kelly」といったところか。バリエーションとしては、ひらがな表記で「びびあん」みたいのもあるね。まあ、海外在住の頃に実際にそう呼ばれていた「アメリカンネーム」のような場合もあれば、自分の脳内でのオルターエゴが西洋人だったりする場合もあるかも知れない。ブログの中身も純和風じゃなさそう。あと、これはボクにリンク先に多いのだが(笑)、(5)「仮名フルネーム」派である。「心斎橋ワタル」「鰻坂ヒカル」「オダギリチガ」「アオタキョウコ」といった具合。ブログの内容は基本的に「日記」なのだが、「もう1つの仮の人格」になって文を書いているところがあり、本人と微妙にイコールでないところが人格の複雑さというか、まあ端的に言って分裂気質的なところが感じられるのが特徴かも。なお、マレに本名をそのままHNにした「本名フルネーム」派が存在するようだが(笑)、ここでは取り上げない。(6)は「即物的あだ名」系である。「りんご」「紺桔梗」「オレンジ」「うさうさぎ」のような動植物のイメージに由来するもの、「アザラシ」「原始人」「タコ星人」のように風貌に由来すると思われるもの(「pinkoyster」もこれに分類されるのか?(笑))、いずれのHNの場合もくどい感じがなく、ブログの内容も比較的素直であっさりしていそうな気はする。次は(6)に類似しているが、(7)「記述的あだ名」系である。「ノー天気おじさん」「なーんちゃってベジ」「蘇る金狼」「おばけうさぎ」のように、名詞の前に「形容詞(句)」が付いて修飾している。イメージに限定が加えられ、(6)に比べるとHNにもブログにもやや自己主張が感じられないだろうか。ちなみに「放浪の達人」などは、(7)と(2)の混合型といえる。あと、必ずしも多くはないが、一定数存在するのが(8)「ID・記号」系 である。「g-3」とか「nak1」とか「eba35」のような、ロボットのモデル番号のようなHNである。実際には単なる記号ではなく、本人だけに分かるなんらかの意味があるのだろう。一見(6)のようにあっさりしていて(3)のように投げやりな感じがありながら、秘かなこだわりを感じる。まあ、40代以降の人にはあんまりいそうもないよね(笑)。ほかにも「職業系」(「雪風教授」「鍛冶屋の息子」「さすらいの物書き」「スーパーOL」「ぐうたら弁護士」)や「商売系」(「幻泉館主人」「地域産業プロデューサー」「旅人の聖地カオサンの日本料理店「竹亭」」)や、「そりゃ長過ぎだろ 系」(「もっと勉強しないと、ずる賢い人たちに騙されちゃいますよ、ふふふふっ」「SONY信者様 (ソニーが一番です。ソニーを買わない人の気が知れません。)」「ちょっとした工夫で売上が10倍になりました。確定成果2万ポイントに届きそうです。」)などのカテゴリーもあるが、分析が面倒になってきたので、今日はこれで終わりにする。
2008.01.10
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在宅勤務になって3週間以上経ちましたが、通勤時間がなくなり、残業も実質的になくなったので、自分の時間が増えました。おかげで、トライアスロンのトレーニングに費やす時間が増えました。これまでは平日朝は出勤前にせいぜい30分(1000m)程度しか泳げなかったのが、今では1時間(2000m)泳げます。毎日ランニングか自転車(冬場は主に室内エアロバイクだが)に1時間(ランニング10キロ又は自転車30キロ)割くことができるようになりました。時間が増えたといえば、夜にこうして楽天ブログを書いたり、ほかの人のサイトを訪問する余裕もできました。これまではお気に入りリンク先のブログを訪問するのも毎日というわけにはいかなかったのが、今はお気に入りブログはもちろん、そこからさらにリンクされたブログを訪問できる余裕もできました。アクセス記録にボクのハンドルネームを発見してギクっとしたり気味悪く思う人もいるかも知れませんが、我慢してください。関係ないけど、このところブログなどを読んでいてしばしば目にする流行りの日本語表現で、いつまで経っても抵抗感が消えない表現があることに気づきました。それは、「…をゲットする」というのと、「…からパワー(元気)をもらった」という表現です。定かではありませんが、主に海外に住んでいるボクがこれらを耳にするようになったのはここ3~4年のような気がします。学生がこんな表現を使っていてもまだカワイイのですが、30代の同僚とかに「○○をゲットしてきました。」などと言われると、小突いてやろうかと思うことがあります。また、「ハルジさんから元気をもらいました」とか言われようものなら、「うるせー、オイラの元気は他人に譲渡したり貸与するようなものじゃねーヨー」とか言いたくなります。たかが表現の問題だし、ゲットだろうが入手だろうがどっちでもいいようなものですが、なんとなく見聞きして落ち着かないのです。これはたぶん、「ゲット」についてはその英語の中途半端さ加減と、ふつうに入手しただけのものをいかにも「苦労して手に入れた」ような、不要に強調されたニュアンスが相俟って、アレルギーを起こさせるのかと思います。要するに、「入手した」というなんでもない行為を、無理に言葉で劇化しているようなクサさが鼻に付くのでしょう。「元気をもらう」のほうは、ポケモンか何かから派生していそうなそのアニメっぽい発想と、他人の元気やパワーに一方的に「感化された」というだけの話を、いかにもその人が自分に何かをしてくれたかのような、“恩”のニュアンスを感じて不愉快なのだと思います。要するに、本来一方通行の事象や行為を、「あげる⇔もらう」のようなあたかも双方向の関係に表現されているのが不快なのです。別にアンタのことを意識してやってるワケじゃないのに、それを「もらった」と表現されることで、要りもしない“相手”の存在を意識させられてしまうところにアリガタ迷惑さを感じるのだと思います。それにしても、他人のブログにウンコだのチンポだのいったコメントを残していくボクのような下劣な野郎に「ゲット」くらいでエラそうなこと言われたくないと思ったアナタ、まったくごもっともで反論の余地がありません。
2008.01.09
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アヲタ キヨウコさんワタシの体毛に関するコメントをありがとうございました。そう、ワタシは男性にしては著しく体毛が少ないです。胸毛も背毛も皆無です。乳輪の周りに2~3本生えてきますが、いつも抜いています。腕なんてうぶ毛みたいのしか生えてないので、ほとんどツルツルです。よく指や手の甲に毛が生えている人がいますが、ワタシの場合まったく生えていません。ワキ毛や陰部にはちゃんと生えていますが、まあ女性並みの濃さですね。ヘソ毛はありません。あと、マラソンを始めて脚に筋肉がついたせいか、30歳も後半になってから脚に多少毛が生えてきましたが、それまでは太ももはツルツル、スネはゴボウ程度の毛がチョロチョロ生えているだけでした。たしかにワタシの家系は父母とも体毛が薄かったです。母親は陰部以外ツルツルだったし、父親もゴボウのスネ毛でした。寝たきりの祖母も、オムツを交換するときにチラっと見ましたが、陰部はほとんど不毛でした。要するに、ワタシの体毛の薄いのは遺伝に負うところが大きいようです。まあ、進化の歴史は体毛を喪失する過程でもありますから、ワタシは一段と進化した人類の兆候を示していると言ってもいいでしょう。しかし、ワタシの体毛が薄いのには、もう1つ大きな理由があるように思われます。それは、ワタシが小学校2年生だったときに遡ります。小学校2年生のとき、プールの時間、プールサイドに並んで体操座りをしていました。ワタシの前には佐々木賢一君が座っていましたが、彼の肩から背中にかけて、カビのような黒い毛が覆っていました。ワタシは家族に毛の濃い人がいなかったので、この毛を見てすごく汚いと思いました。ワタシはその日自宅に帰るなり、父親のヒゲ剃り用T字カミソリを使って、腕から脚から全身のうぶ毛を剃りました。自分にあんな毛が生えていたらイヤだと思ったからです。…以来、毛が生えてこなくなりました。中学2年生になって陰部の毛が、高校1年になってワキ毛が生えてきましたが、スネも腕もずっとツルツルのままでした。もしかして、小学校2年生の夏に全身の体毛を丹念に剃ったとき、毛根とか毛母細胞の一部まで剃り取ってしまったのかも…と考えたことがありました。しかし、そこまで深く剃っていたらきっとケガをしていたはずなので、まあ単に、自ら体毛の生長を抑制してしまうくらい体毛がイヤだったということなのだと思います。ちなみに、アメリカ人女性には、体毛のない肌を愛されたこともあれば、「ちょっとくらい胸毛があった方がワイルドでいい」と言われたこともあります。まあ、体毛がないと体表を清潔に保ちやすいし、体臭も体表に残らないので、その点はよろこばれることが多かったかも知れません。たとえば、ワタシの場合、ワキにかいた汗さえ無臭なのです。でも、「ちょっとくらい男クサい方がいい」と言う人も中にはいたかも知れませんね。あと、体毛がないと便利なのは、裸で寝ても毛が落ちないので、ベッドのシーツなどを清潔に保ちやすいということでしょうか。あと、腹筋とかの筋肉の割れ目が目立つので、見栄えがいいというのもあるかも知れません。「半ズボンをはいても似合う」というのもありますね(笑)。いずれにしても、ワタシは自分の体に体毛が薄いのを、とても気に入っていることは確かです。以上で今日の体毛の話を終わります。
2008.01.08
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さいきん他人のブログを見ていると、書込み禁止ワードというのがあるようで、エログロ関係の単語を使った日記や記事やコメントがアップできなくなる現象が起きているらしい。この禁止ワードというのは、ブログの主が自分で設定できるもののほかに、どうやら楽天ブログ管理者(いわゆる楽天当局)が自主的に設定している禁止ワードというのがあるらしく、しかもその禁止ワードというのが何なのか公開されていないため、話をややこしくしている。何らエロやグロなことを書いたわけでもないのに、その言葉がたまたま楽天当局が禁止ワードに指定した単語であったために書き込みがブロックされるだけでなく、どの単語が「禁止ワード」なのか不明なため、どの単語を削れば書き込みできるか特定するために、禁止指定されているとおぼしき単語を1個ずつ消してはアップするという面倒な作業を繰り返さないと、いつまでも書き込みができないのである。自称鬼畜のワタシのブログでは、あいかわらずウンコやチンコや小便や体臭やたまに規制物質といった話ばかりしているのだが、これまで書き込みを拒否されたことがなかった(←ちょっとだけ自慢)(←勘違い)。しかし今日、太ももにできた発疹の画像(昨日の日記)に対してトイモイさんから『きたないですね。あかん、あかん、みたらあかん・・・ウエップ。』というコメントをいただいたので、それはトイモイさんがワタシの太ももだと思ってみるから気持ち悪いのであって、『アダルト・ビデオ(AV)女優の流出プライベートエロ画像だと思って見てみたら、むしろドキドキすると思います』と書いたら、初めて書き込みを拒否された。「エロ」が引っ掛かったのかなあ、と思って削除してみたが、まだ書き込みを拒否される。結局、「アダルト・ビデオ(AV)女優」というのが引っ掛かるらしいことが判った。「アダルト・ビデオ」はOK。「AV」も問題ない。しかし「AV」と「女優」をつなげて使うと、禁止ワードに引っ掛かるらしいのである(笑)。これには本気で笑ってしまった。この単語が使えないと、黒木香や小林かおる(古いなあ)とかについて語れないではないか。…まあ、自由を愛し検閲というものを嫌うワタシも、「社長夫人」とか「濃厚人妻」とかを名乗る知能指数の低そうな野郎によるツマラない書き込みにはウンザリしており、こういう偏執的かつ粘着質なヤツのしつこい書き込みはブロックしてやりたいとつねづね考えている。たとえば、更新が途絶えて久しい心斎橋ワタル氏のブログを見て欲しい。『ようこそいらっしゃいました。思う存分書いて書いて、書きまくってください。』という彼のブログの掲示板には、「ドリームラバー」だの「解消請負係」だの「人気ホステス」だのを自称するアホがしょーもないコメントを書いて書いて書きまくり、荒らし放題になっていて見るも無残である。何が「はっきり言って社長令嬢の愛人なるだけで月20万もらえる俺って勝ち組www」だ(笑)。面白くもなんともない、パセティックなコメントをあっちこっちのブログを訪問してはコピペしまくっている時点で、オマエの人生は(勝ち負け以前に)終わってるだろ(笑)。それはさておき、そういうバカの書き込みを阻止するのと、「A・V女優」とかいった「単語」をブロックするのとは、問題が違うだろ!とワタシは思う。それを証拠に、いくらそのテのエロ系の単語を禁止したところでドリームラバーや人気ホステスはこうして書き込みを続けているではないか。まだ「A・V女優」くらいだったらワタシもさして困らないが、仮にこのまま禁止ワードが増殖して、ウンコやチンコや小便といった単語まで禁止されるような日がきたら最後、ワタシはこのブログに書くことの大半を喪失してしまうではないか(笑)。これは深刻な問題である。まあ、解決策は「AかBか」という二者択一の問題ではないのは承知の上で、たかだか「A・V女優」という単語を使えないくらいなら、ワタシは濃厚人妻や解消請負係の書き込みを甘んじて受け、地道にブログから削除するほうを選択したい。以上。
2008.01.07
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今日は久々に気温が氷点上になりました。冬に屋外で自転車に乗れる滅多にないチャンスです。しかし、雨が降っているわけでもないのに、道路は1週間以上前に降った雪が解けてビショビショです。おかげで自転車はドロドロになってしまいました。ところで、見てのとおりトライアスロン自転車には泥除けがついていません。だから、跳ね上がる泥で背中もドロドロです。泥の重さが背中で分かるくらいです。お尻もドロドロです。泥は頭部にまで跳ね上がります。あ、これは自転車とは関係ありません。昨年末に発生した原因不明の発疹の画像がデジカメに保存されていたので、ついでにアップロードすることにしました。上半身に始まって、下半身に広がりました。痒くはありませんでしたが、この時期は身体がだるかったです。1週間くらいでおさまりましたが、原因は今でも不明です。(今日の画像おわり)
2008.01.06
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ぼくは「お気に入りブログ」に10件ほどリンク先を入れているが、そのうち4件はずっと「新着記事がありません」の状態が続いている。夏にインドから帰国してから意味深な日記を1、2回書いたまま音信を絶っている心斎橋ワタル氏をはじめ、おととしまでは月1、2回は更新していたのに、この半年ではたった2回しか記事を更新していないロンドン在住の鰻坂ヒカルクン、50歳間近になって第一子の妊娠が判明し、出産準備のためもはやマラソンもブログ更新もままならない、元マラソン仲間のMickey先輩、そしてここ1ヶ月不可解な「メンテナンス中」状態が続いているオダギリチガ氏である 。お気に入りリンク先で、雨の日も風の日も、会社をサボろうが部屋が荒れ放題になろうが毎日必ずブログ更新だけは欠かすことがないのはトイモイ先生くらいではないか。たしかにぼくのリンク先の人たちは年齢的にもぼくと近いし、公私ともに大きな責任を負う立場にある40代の皆さんばかりなので、はっきり言って「ブログどころじゃない」といった多忙な毎日を送られているのだろう。粘着質のクソがどうしたとか、ガンジーを見てどう思ったとか書いてネット上に公開している自分のヒマさ加減をちょっと恥ずかしく思うべきなのかも知れないなあ(笑)。ところで、かつての楽天広場のマラソン仲間の1人で、マラソンを離れると同時にブログを閉じてしまっていた人が、今度は自転車野郎に転向して楽天ブログを復活しているようなので、また“お気に入り”リンクを貼らせてもらうことにした。転向とはいえ、ぼく同様、今でも少しは走っているらしい。で、さっきこの人のブログの過去の記事を見ていたら、「マイブー」というブログ解析サイトが紹介されていた。このサイトの説明文によると、マイブーとは、『指定されたブログのURLを入力すると、ブログ全体を解析し、「どんな気持ち」で「どんな話題」が主なのかを解析結果として表示するサイト』だそうである。ものは試しにさっそくマイブーにアクセスし、郡山ハルジウェブサイトのURLを入力してみた。以下はその解析結果のコピペである。「おいでやす。郡山ハルジ ウェブサイトヤな思いをしている感じ がブログににじみ出てます。話題に関しては 仕事 について多く書かれているみたいです。」「ヤな思いをしている感じ」 判定ワード: 臭い、 大晦日、 食う、 終わる、 つける...「仕事」 判定ワード: 元日、 大晦日、 仕事、 カウントダウン、 職場...…だそうである。もっと「クソ」だの「死」だの「鬼畜」だのいったキイワードのほうが登場頻度が高いと思うのだが(笑)、このようなタブー・ワードは検索に引っ掛からないのか、「辛気臭くて鬼畜な感じ がブログににじみ出ています。話題に関しては 糞尿 について多く書かれているみたいです」...という分析結果は出てこないらしい。このサイトを訪問したヒマな皆さんも、ためしに上記のリンクからマイブーにアクセスしてみて、自分のブログの解析結果を教えてくださいネ。
2008.01.04
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おお、オバマが大統領指名党集会でヒラリー・クリントンを引き離して勝ちましたな。共和党のほうはハッカビーか。ロン・ポールは5位ですね。ところで、昨年に引き続き、今年も年賀状のたぐいは1通も届かなかったのですが、日本からこんなハガキが届いていました。エアメール用の切手の追加もなく、しかも住所はみんな小文字でコンマもスペースもなしで記入されており、おまけに「n」が「h」になっていたり宛名はメチャクチャである。カナダの「オンタリオ」州くらい聞いたことないのかなあ。よくぞ海と大陸を越えてここまで届いたものだ。差出人を見ると、4月の宮古島のトライアスロン実行委員会からのハガキのようである。裏の文面に『熱意あるご応募をいただきましたが、前年ながら選考もれとなりました』とある。選考漏れ通知か。何か月か前の日記にも書いたが、このトライアスロンレースは、申し込み時に、履歴書並みのプロフィールを記入した上、3枚のカラー写真の添付が要求されていた。選考のために「肖像写真」が要求されるのである。ほかの申し込みの際の条件としては、これまで1500mを泳ぎ切ったことのある証拠(スイミングクラブの証明書とか、過去のトライアスロンレースの結果の証拠)の提出が義務付けられている。ぼくは昨年8月のハーフアイアンマンで1.9キロを完泳した記録を添付しているので、この条件は十分満たしているはずである。ということは、やっぱりぼくのルックスが選考基準に達していなかったということなのか?ビザかパスポート申請の際に撮ったけっこうマトモな写真を添付したはずなのだが。まあ、楽天広場の唯一のトライアスリートの知り合いも、はじめて宮古島に申し込んだときは選考から漏れたと言っていたし、トライアスロン歴1年足らずというのが引っ掛かったかもなあ。困ったことに、宮古島に代わるアイアンマン前哨戦のレースを検索してみたところ、北米のアイアンマン・レースはすでにどれも申し込みが締め切られているではないか。4月のアリゾナをはじめ、バンクーバー、フロリダ、NYのレイク・プラシッド、ケンタッキーのルイビル、9月のウィスコンシンまで、全部締め切り。年明け早々どのレースも1500人枠が全部埋まっているというのはどういうことだ。アイアンマンは(ハワイの世界選手権を除けば)宮古島と違って「早い者勝ち」なので、「本命レースは宮古島の選考結果が出てから決めよう」と悠長に構えていたらこのザマである。まあ、それくらいトライアスロン人口が急増しているわけだろう。6月末には長崎でアイアンマンレースがあるのだが、参加料が5万円もするんだよなあ(宮古島は3万円)。あとは、ヨーロッパでまだ申し込みを受け付けていそうなのが、難コースで知られる5月のカナリー島(スペイン領)か6月のフランスのニース、ほかには5月のブラジルくらいか。ニュージーランドとかオーストラリアとか南アフリカはあまりに遠すぎるもんなあ。(つづく)
2008.01.03
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シャレではないのですが、元日は『ガンジー』を見ました。テレビをつけたらケーブルチャンネルで放映していたのです。見たのはたぶんこれで3回目です。たしか最初に見たのは高校時代(名画座で400円)、2回目はよく覚えてませんが、10年くらい前にテレビかビデオで見たと思います。いやあ、何度見てもいいですね。まさに元日にふさわしい番組でした。高校時代は歴史も地理も苦手だったのでストーリーを追うのが精一杯だったと思いますが、映画の舞台となったインドもアフリカも経験した今では、同じ映画を見ても理解や感動の深みが違います。大晦日にはキッズ・ネーションを見て「他人と折り合う」ことについて考えさせられたばかりでしたが、『ガンジー』は「力に力で対抗しない」ことについて改めて考えされられました。『「目には目を」は世界中を盲目にしてしまう』というガンジーが貫いた非暴力主義のメッセージを、3回目にしてようやく了解できたような気がします。思えば、ぼくは「目には目を」は長い間実践してきたなあと思います。20歳の頃には殴られたらその相手をボコボコに殴り返したし、30代になっても皮肉には皮肉で返すのがほとんど当然の習慣になっていました。この背景には、「自分を攻撃する者より、自分は強くなければならない」という、マッチョ的な強迫観念があったと思います。自分から攻撃しなくとも、攻撃者に負けてはいけないという考えです。もし攻撃されたら、他人より力があることを相手に示さなければいけないのです。そうすることで、誰も自分に手を出さなくなるわけです。いわば「自衛のための抑止力」としての腕力ですね。「自分を守るためには、自分を攻撃する者より強くなければならない」というこの考えは、言うまでもなく、アメリカ的な考え方です。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」などというキリスト教の的考え方は彼らにとってナンセンスです。むしろ、相手が無防備でも、自分の思うとおりにならない他人を殴って言うことを聞かすのを正当化するためには、相手にけし掛けて先に手を出させ、何10倍もの腕力で叩きのめすのが彼らの常套手段です。さいきんでは、殴りたくて仕方がない相手がどうしても手を出してこないので、「このまま放っておくと、相手は自分を殴ってきかねない」などと因縁をつけて(笑)、ケンカする気のない相手をボコボコに叩きのめしては「大勝利」とか言ってひとりで悦に入っていましたね(笑)。いうまでもなく相手というのはイラクのことですが。思えば、元応援団長&空手部野郎を父に持つぼく自身、理屈ではなく腕力や大声で物事を解決する世界に慣れ親しんできました。「目には目を」どころか、思うとおりにならないときは力に訴えるという、「力や大声こそ正義」みたいな論理ですね。ただ、ぼくの場合、実際この「目には目を」的な価値観の根底には、「自衛のため」というよりも、「殴られっぱなし、言われっぱなしでは損だ」というセコい考えがあったと思います(笑)。やり返さないと、なんとなく相手が得して自分が損した気がするわけです。ガンジーは、殴られても決して殴り返してはいけない、すなわち非暴力主義を貫きます。「やられたらやり返す」「力に力で対抗する」を繰り返せば、暴力を無限にエスカレートさせるだけでなく、やり返した時点で自分も殴る者と同じレベルに堕してしまうと説くのです。これは、先日のキッズ・ネーションで言えば、なんだかんだ言い訳をしては労働をサボろうとする女子に腹を立て、力ずくで労働をさせようと発想してしまったぼくは、その女子と同じレベルだったということになります。ほかの人が労働をサボっているのを見て、労働している自分が損をしたような気になっているのをぼくだとすれば、ゲームに勝っても、負けたチームの労働を積極的に手伝っていたあの少年は、いわばガンジーと同じ境地にいたわけですね。ぼくも40歳になって、最近ようやく「やられたらやり返す」代わりに「やられても、笑って済ませ」られるようになってきたところです。これは、ぼくが精神的に成長したからというよりも、単に男性ホルモンの分泌が衰えてきただけからかも知れませんが(笑)。いずれにしても、今年はガンジーやキッズ・ネーションの少年たちを見習って、力や大声に訴えない非暴力主義の100匹目のサルになりたいものです。
2008.01.01
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