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15〜6年前の独身時代、独身中年が独りで訪問しづらい場所というのが出て来て、やっぱり家族持ちに比べると行動半径が限られてくる、という考察をしたことがあった。最近、トライアスロンレース参加のために地方に独りで遠征した際、近くのリゾート地に宿泊して驚いたのが「おひとりさま」の宿泊客の多さであった。部屋の入り口に「〇〇様〇名ご一行」などと書かれた紙が貼られているのだが、私の部屋の並びはみな「〇〇様ご1名」なのである。食事会場にも中年女性や中年男性が1人でテーブルを占拠し無言で黙々と食事している。そしてその数は家族連れと同じかむしろ多いくらいだったのである。要するに、ここ15〜6年で、カップルや家族連れで賑わうような観光地に、中年のオッサンやオバサンが単独で訪れるのが「ふつう」になりつつあるということらしい。おひとりさまの勢力拡大によって、カップルや家族連れの前でも人数的に気後れしなくて済むようになってきたようだ。箱根みたいな観光地にも、観光目的ではなく、ランナーや自転車乗りがトレーニング目的で宿泊し、あの坂道を走ったり自転車を漕いで登ったりする様子が年々目立つようになってきた。15〜6年前であればそんなおひとりさま宿泊者は「変わり者」にしか見えなかったかも知れないが、今ではほぼ市民権を得た感じである。職場でも、立派な役職に就きそれなりの稼ぎがありながら、40代・50代独身という男女の比率はたぶん4割くらいに上りそうな気がする。あれだけの経済力があれば休日に自宅でゴロゴロしていないでリゾート地のホテルで優雅に過ごすとかいった選択も合理的かつ健康的に思われる。ましてや円安のせいでカンタンに海外旅行に行けなくなってしまった昨今、経済力のあるおひとりさまの休暇先が国内になってしまうのも仕方ない。まあ、こうして少子高齢化にともない「おひとりさま」が社会の主流へと化していき、やがて旅先などでもむしろ家族連れが肩身の狭い想いをする日も遠くないのかも知れない。
2026.07.31
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60歳になった記念にトライアスロンレースに出場しようとふと思い立ったのは、申し込み締め切りだった6月のこと。アイアンマントライアスリートだったカナダ在住の45歳当時から15年を経過し、日本では一度もトライアスロンレースに参加したことはなかった。40才の時に「アイアンマンに出たい!」と思った時と同様、ほんの思いつきであった。ただ、1ヶ月前に罹った風邪がレース当日まで長引くのは想定外であった。医者に診てもらって薬を服用しても咳はゲホゲホで、熱はないのだが走る元気もない。まあでも今回はアイアンマンではなくオリンピックディスタンスである。1週間前に本番の半分くらいの距離を泳いで、自転車を漕いで、走ってみてなんとかなったし、こんなコンディションでも完走は出来るだろうと楽観し、出走することにした。当日の最大の失敗はスイムであった。このレースではウェットスーツ着用が義務付けられているのだが、15年ぶりに着たウェットスーツは60歳の肥満体を締めつけ、呼吸が苦しいのであった。そもそもウェットスーツの着用方法が思い出せず、腕も脚もキツキツで、いざ泳ぎ始めると腕は上がらないは、胸が圧迫されるは、溺れそうになるのであった。背泳ぎの姿勢を取るとなんとか呼吸ができたので、スピードは半分くらいになるものの背泳ぎするしかなかった。湖から上がった時はもう私の後には数名しか残っていなかった。トランジションエリアまで歩くと、トップ選手がすでに自転車40kmを終えて最後のランに移行しつつあった。もはや周回遅れどころではない。20年前の最新モデルだった愛車にまたがってバイクコースに出る。8kmのコースを5周回するのだが、3周回、4周回と同じコースを回っているうちに、自分が今何周回めなのか分からなくなってくる。これが最後の5周回めであるという自信はないのだが、いずれにしてももう1周回走るような気力もないので、周回不足で失格になるのを覚悟してランに移る。トランジションエリアには、ボクと同じ60代以上の選手数名が自転車を降りてランの準備をしている。この大会では年齢順にビブ(ゼッケン)番号が振られているので、ボクより番号が大きい人はみな60歳以上である(少なくとも10人は参加していそうであった)。トランジションエリアに置いていたシューズや帽子はさきほど降った予期せぬ雨で湿っていて、お互いに文句を言い合う。10kmを走り終えた選手が次々とゴールする最中、ランのコースに出る。ランは湖の周りを2周である。2周回めに入った大量の選手たちに追い抜かれるが、スピードを上げる気力もない。1周めを終える直前、沿道の応援があと少しでゴールだ、頑張れといった声を掛けてくれるが、もう1周残っている自分にはその種の応援はあまりありがたくない。2周回めのコース上は選手たちもまばらで、沿道の応援やボランティアもそろそろ撤収準備に入っていたりお弁当を食べ始めたりしている(笑)。最後の補給テントではボランティアの人たちがあと何分でレース終了といった意味の話をしていた。もうそんな時刻か(笑)。3時間少々でゴールできるかと予測していたが、すでに4時間を経過していたのだ。たしか最終は4時間半であった。残りあと2kmなのでタイムオーバーで失格になることはなさそうだ。ゴールしたのは最終時刻の15分くらい前。あとで結果を見たら300人足らずの完走者中、289位であった。自分の後にはもはや数人しか残っていないのであった。最高齢の80歳はボクより前にゴールしていた。いずれにせよ、失格にならずに記録が掲載されているということは、ちゃんとバイクで5周回していたようである。よかったよかった。来年も出たいとは思わないが、もう1回くらい別のレースに出てもいいかな…とは思えた。
2026.07.26
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先日、スマホの待受画面にしている我が子の写真をチラ見した人から「お孫さんですか」と言われた。10年近く前に保育園のガキ(娘の同級生)からからかい半分に「おじいちゃん」と言われたことがあるのを例外とすれば、「お孫さん」発言をされたのはこれが初めてであった。言われてみると確かにここ1〜2年で白髪が目立つようになった。それまでは主にバリカンで最短にしている側頭部に白髪が集中していたため目立たなかったのだが、それがついに前髪の領域にまで侵攻し始めた。いくら頭頂がフサフサした黒髪でも、正面から見た時に顔の印象を作るのはやはり前髪なのである。前髪が白いだけで頭全体が白いイメージになる。47歳と49歳の時に生まれた娘たちから「お爺さんみたいで恥ずかしいから一緒に歩かないで」と言われない程度の若さをこれまで意識してきたつもりだが、第三者から「お孫さん」に見られたということは、娘たちに「ジジ臭い」と言われてしまうのも時間の問題であろう。実はここ数年、気力・体力の衰えの自覚症状が出始めていた。ワカイモンにナメられても張り合おういう気さえ無くなった。「そろそろ老いを受け入れろ」と囁く自分がいる。一方で、何かの窓口での手続きでスマホ操作に手間取ったりするたび「爺さん扱いされたくない」とは痛切に思う(笑)。それは「ワシはアイツら(爺さん)とは違う。」という自意識には堅いものがあるということだ(笑)。そんなにジジイ扱いされたくなければ白髪染めすればいいのだが、あれは麻薬やアル中と一緒で一度依存してしまうと、依存していない時の落差が怖ろしくて手が引けなくなってしまうので、「そこまでしてまで若作りしたくない」という自分も健在である。何かトラウマ的な出来事でも起きて「一念発起」する可能性はあるかもしれないが、ま、なんだかんだ言って、葛藤しながらも少しずつ妥協してズルズルとジジイ化していく予感はある。
2026.07.11
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私はたまに友人などではない市井の人とたまたま会話するハメになった時にしばしば感じさせられるのは、「そんなのどうでもいいじゃん。」という、やや呆れに似た感覚である。やれ夫がいくら言ってもトイレの水を流す時に蓋を閉めてくれない、やれ子供がゲームやYouTube を延々と見ている、やれ職場の誰々さんから何々と言われた、政府の経済対策は無策だ…「それがどうした」としか言いようがない。しかし本人たちは人生最大の問題であるかのように悩んでいる。いずれのケースも「夫は自分の言うとおりトイレの蓋をしてから流すべきだ」「子供は自分に言われたら即座にゲームをストップすべきだ」「職場の誰々さんは私に対して何々などと言うべきではない」「政府は私が正しいと思うような経済対策を打つべきだ」…要するに、自分が思ったとおりに、自分が正しいと思うとおりに、自分が当たり前だと思っているジョーシキに従って、動いてくれないことに対する苛立ちのオンパレードなのである。ま、相手が自分の子供などであれば、幼い頃は親の言うことをよく聞くイイコちゃんだった頃の経験があるので、それがいつの間にか「うるせえ」とか「黙れ」とか言い返すワルイ子に成長した現実を受け入れられずにイラつく気持ちは分からないでもない(笑)。しかし、基本的に、他人が自分の思ったとおりに動いてくれるなどという思い込みは傍メーワクで有害な考えである。そもそも自分が正しい、自分の考えこそがジョーシキであるという思い込みこそが、この世の諸悪の根源だと自覚すべきだ。相手には相手なりの正義やジョーシキがあるわけで、それを受け入れられない自分を反省すべきなのである。世界では、宗教派閥だかイデオロギーだか何だか知らないが、人々の考え方の衝突によって争いが起こり、近代兵器を使った市民への攻撃に巻き込まれ何万人もの罪の無い子供たちやその親が、住むところを追われて、所有物を略奪され破壊され、無一文となり、平穏な生活を、家族の命すら奪われ、苦悩や哀しみどころか、絶望の淵を彷徨って生きながらえている。たとえば海外出身の知人にそんな母国の惨状について淡々と聞かされた後、誰かが夫のトイレの蓋について延々と愚痴っているのを聞くと、本当にヘイワというか聞かされる方が死にたくなる。考えてみると、本人には決してそんな自覚はないであろうが、便所の蓋に関する信条の違いでいがみ合えるのは正にヘイワの所産であって、要するに暇なのだ。便所の蓋以上の問題がそういう人には存在しないのだ。衣食住に困らず子供の非行・犯罪や夫の賭博や浮気に困らず、大した仕事もしてないので便所の蓋くらいしか悩みが無いのだ。そんなわけで、会話をしているうちに死にたくなってしまうリスクがあるため、私は市井の人とはあまり親しくなりたくない。いくら市井の人が人口の99.9%を占めていたとしても。
2026.07.10
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私の間接的な親族はしばらく前に90歳前にして養護施設に入ったが、その前の荷物整理の際に、たぶん70年やそこら以前にお見合い用か何かに作った和服を「また着る機会がいつかあると思う」と言って処分を拒否したという話が彼女の直接の親族から苦笑話として共有された。彼女はずっと独身で兄一家が住むアパートの上階にそれまで一人暮らししていた。70年前に作ったその晴れ着はおそらく過去70年間使われる機会もほぼ無くタンスに眠っていたと推察される。それが90歳で養護施設に入る状態になった今になってどうして「着る機会」が発生するであろうか…というのがその直接の親族の苦笑が意図するところであろう。私がその話をふと思い出したのは、1週間後に60歳の誕生日を迎え、月末には定年退職するにあたって、彼女の「晴れ着」にあたる物に囲まれている自分に突如気付いたからである。「すべてのことはどうでもいい」みたいな達観したことを常に口にしている割には、「これはどう考えてももう使うこともないだろう」と思われる区民だよりだとか英字新聞だとかレシートだとか使用済みチケットだとか試供品だとか旧い規格のアダプターだとかケーブルだとかもう使っていない電化製品の(新品の)付属部品だとかコロナ禍以降一切着ていないスーツやネクタイだとか、(これはまだたまに使っているが)10年以上履いてるパンツだとかトレパンだとか、冷静に見積もると約70%の物は死ぬまでの向こう10〜20年(想定)の間使う可能性が極めて低い不要品なのであった。幸い私の場合、掃除の習慣があるため「ゴミ部屋」にはなっていないものの、モノは明らかにコンスタントに増えている。思うに、掃除のように「明らかなゴミ」だけを捨てている限り「まだ使えそう(だけど二度と使用しない)」なモノは溜まっていく一方なわけで、明らかなゴミではなくても「使う可能性が極めて低いモノ」も処分する習慣というか意識が必要なのだろう。そもそも「価値のない不要な物から処分しよう」という意識が「処分」という行為の足枷になっているのであって、むしろ処分の線引きは「これは売れるんじゃないか」とか「まだ使うかも」という可能性のあるものから優先して棄てていけば、断捨離が捗るだろう。冒頭の例に挙げた90歳で介護施設に入る彼女と間もなく60歳で定年を迎える私の間には大差ない。「いつか」はいつまで経ってもやってこない。私の場合、まずは晴れ着にあたるのはビジネススーツか。
2026.07.04
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アイデンティティ、すなわち「これが自分である」という自己意識は、簡単にいうと「ウソ」である。分かりやすい例が、自撮りした写真。オスマシしたり、眼を大きく見開いたりして撮った自身を「これが自分だ」と思っているんだろうが、あれは精一杯、理想に近づけた自分の姿であって、周りの人たちが自分をそんな姿で見ていないことは明らかである。カメラを意識していない普段の姿を誰かに全く抜き打ちで撮りまくってもらえば、それらが「周りの人が認知しているキミの本来の姿」である。もっと分かりやすいのは写真よりも動画。普段の姿を誰かに1日尾行してもらって撮影してもらうといい。「…え?自分はそんなことしてたっけ?」と思うような行動やしぐさや言動のオンパレードである。それがホントの自分の姿。「これが自分である」という自己意識と、客観的に観察された本当の自分の姿の間にいかに大きな乖離があるかを、直観的に理解できるよい方法である。私が中学2年生の時に、不定詞 how to の用法を問われた英語の試験で、“I know how to ski.” (私はスキーの仕方を知っています)と書くべきところを、当時の奈良林祥医師のベストセラー『How To Sex』が頭の中にあったためか、無意識に “I know how to sex.”と答案用紙に書いてしまい100点を逃したことは別の機会に書いたことがあるが、錯誤行為には意味があり、自意識以外にも自分が計り知れない意識の領域が存在し、自分の行動や言動を左右しているという事実を、私は比較的若い時期にこの痛烈なエピソードを通じて理解していた。その後私は人間心理というものへの関心が長じて心理学を大学で専攻するまでに至ったわけだが、私が一貫して体感していたのは「これが自分である」という領域を狭くすればするほど、抑圧した自分の観念・欲動etc.は自分でコントロールできなくなり、神経症や錯誤行為のような形で日常生活の中で突如発出して苦労することになる、ということであるI。すなわち、私の “I know how to s…”のエピソードで言うと、日頃はオトナの前で「セツクス?なんですかそれ?」みたいな顔をして「イノセントなイタズラ坊主」の自分を演じていた中学2年生の私には、抑圧されていた大人びた自分が深層意識に燻っており、全く予期せぬ場面で予期せぬ形で噴出したわけである。いずれにしても、「これは自分ではない!」として認めずに抑圧している自分の領域ーたとえば、狡猾でセコくて、淫らなことを妄想し、ウソをつく自分ーとは大人になる過程で折り合いをつけないと社会には適応出来ない。なぜなら自分の狡猾さ、セコさ、淫らな妄想etc.を開き直って日頃からそのまま表に出してしまえば明らかに社会から排除されるであろうが、一方で狡猾でセコくて淫らな妄想に満ちた自分の姿に完全に目をつぶり抑圧するにも限界があるからだ。そこで多くの場合、この葛藤を解決(?)するために「フィルターを通す」という手段を学ぶ。要するに自己検閲だ。普段の社会生活においては「こんなセコいことをしたら嫌われるな」とか「こんな淫らな妄想を実行に移したらタイホされるな」と思われる行動や言動を自己規制し、嫌われたりタイホされない行動や言動だけを表に出すようにするわけである。自分の狡猾さ、セコさ、淫らな妄想etc.は意識下にはあるものの、否認も容認もしない「曖昧な領域」に仮置きしておくような感じである。オトナはこの「曖昧な領域」に仮置きされた狡猾でセコくて、淫らなことを妄想し、ウソをつくなどの自分の要素を、例えばアルコールなどを使って自我を緩ませた時に定期的に解放する。昼間はフィルターを通して自己規制をかけた社会的に安全な「狭い」自己、夜はフィルターの網の目を大きくして自己規制を緩くした「広い」自己、というふうな二重生活というか二面性を体得した人間がオトナというわけである。むかしは「夜の街」のような、昼間の世界とは異なる「緩いルール」が適応された場がその「広い自己」の解放のためにもっぱら利用されていたが、最近は「インターネット」のようなバーチャル世界を「広い自己」や決して表に出せない「闇の自己」の解放に用いているケースが(特に若い世代に)多そうである。「夜の街」の場合は時間・空間的に隔離されているだけでなく、アルコールの影響下での行動・言動ということで翌朝には「無かったこと」にして意識を切り替えられるが、インターネットのバーチャル世界の場合はシラフであり、得てして日常と地続きであるだけに、その二面性の境界線が不明確なところが厄介である。要は、社会的には児童に尊敬される教師がインターネット世界では児童ポルノを交換する変態犯罪者であるようなケース。それは二面性というより、もはや変態犯罪者という「広い自己」が「主」になっていて、児童や同僚と接する時に限定して「狭い自己」を「演じている」感覚に近いのではないか。そもそも彼らは、幼児のパンちらや裸に性的に興奮する自分を「そんなのは自分ではない!」として抑圧するどころか、容認して同好の士まで見つけて画像や動画を交換さえしているのである。これは世間一般で「魔がさした」とされる、抑圧した欲望の突発・突出行為ではない。本来であれば抑圧され封印されているべき自分の暗い欲望が自我に取り込まれ、意識的かつコンスタントな行為として実行されているのだ。いわゆる闇堕ちだ。インターネットやITによって「バーチャル世界」が発生したことで、それまでであれば単純に意識下に抑圧するほかなかった自分の非社会的な要素というか部分を解放できるようになったことは「精神の統合と安定」という観点からは歓迎すべきことである一方、非社会的な領域だけでなく反社会的な領域までを「これは自分である。」と容認してしまい(笑)、単にヒジョーシキなだけでなく、極めて実害の大きい犯罪行為に及んでしまう(=闇堕ち)のはちょっとマズイと思っている。インターネット以前の時代であれば、「自分は闇の部分を背負った変態だ」と悩みながらも、その反社会的な性癖を文学や芸術に昇華させたりする方向性もあったのだろうが、現代はその「曖昧領域」がバーチャル世界で顕在化され日常化された人間が昼間は明るい顔で教師などの社会的に認められた仕事をしているという状況というか、そういう人間の精神状態が、ちょっとだけ怖い。
2026.07.04
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ワシらはえてして、起きている自分がベース(主)であり、睡眠はそのメンテナンス(従)くらいに思っている。たぶんそれは逆だ。長くなりそうなので途中をかなり端折って書こう。量子力学において、光には「粒子」と「波」の両方の性質がある。粒子は触(さわ)れるが波は触れない。粒子である限りは位置が特定でき、境界線があり、他と衝突する「物質」としての性質を持つ。しかし波としては、境界がなく、空間全体に広がって、互いに重なり合う「エネルギー」としての性質を持つ。人間は、自分を「物質」だと思っている。しかしそれは本当ではない。なぜなら、ワシの知り合いはちょっと前に死んだが、通夜で見た彼の肉体(死体)という物質は彼ではなかった。彼の「実体」は肉体ではなく、肉体に搭乗していたエネルギーだった、ということだ。境界がなく、空間全体に広がったエネルギーこそが彼の実体だったのだ。量子力学では、光をはじめとする「粒子」と「波」の両方の性質を持つ素粒子は、波の状態にある時がデフォルトであり、基底状態(ground state)と呼ばれている。そもそも人類が五感を元に再構成した3次元でいうところの「物質」が生まれる前の宇宙は、境界のないエネルギーの「波」だけであった。それをワシら人間が三次元の視点から「観察」した結果、粒子としての性質が浮かび上がった、ということなのだ、きっと。起きて、社会や他者から「観測」されているとき、ワシらは「肉体を持つ個人」という粒子になっている。そして、睡眠中など誰からも(自分自身の意識からさえも)観測されなくなったとき、物質の束縛を離れ、純粋なエネルギーの「波」へと戻っている。あまり意識していないと思うが、実はワシらは毎朝、目が覚めた瞬間、脳が猛スピードで「自分は誰で、ここはどこで、今日何をするべきか」という記憶のデータを読み込んでいる。これは、夜の間に宇宙の広大な波に溶けていたエネルギーが、無理やり「個人」という狭いアバター(肉体)にログインさせられるプロセスだと言える。ワシらが「現実」と呼んでいる社会生活、時間、空間、人間関係、「会社に急がねば」「結果を出さねば」「稼がねば」etc.といった焦りは、粒子化された人間同士が辻褄を合わせるために作り上げている共同幻想のバーチャルゲームだ。夜、眠りにつくことは、そのゲームからログアウトし、本来の静寂なリアル(波)へ帰還することなのだ。ワシらは、本来は心地よいはずの「波」の状態から、毎朝わざわざ「粒子」という制限だらけの不自由な状態へと戻る。それというのも、境界線もないすべてが溶け合った「波」の状態は「完全」だけど、変化がない「死」の静寂に限りなく近い。あえて「粒子」という不完全な個体になり、他者とぶつかり、涙を流し、喜びを分かち合って、「個としての経験」を味わいたいから、そうしているんだろう。時々いる朝に目覚めなかった人は、もうアバターにログインするのを拒否し、デフォルトとしての「波」、エネルギーの状態の留まる選択をしたのかも知れない。そう考えると、毎朝の目覚めは、単なる「昨日と同じ退屈な日常の再開」ではなく、本来は「大いなる波の源泉から、今日という一日の限定ゲームをプレイするために、フレッシュな状態で再度肉体へ戻された」と考えると、建設的に生きられそうな気がするんだなあ。だってみんな、明日の朝に目覚める保証なんて、ないんだぜ。
2026.07.02
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