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あんまりガソリン代が高いんで、近所に住む同僚と交代でカープール(どっちか片方の自動車に同乗すること)して通勤することにしたんだけど、これが面倒くせーんだ、なかなかオレは犬だっちゅうの!…ていうか、オレ、オスだっての!独身生活が長いと、好きな時刻に勝手気ままに自分のやりたいことをやるという自由にすっかり慣れてしまっていて、他人と定刻に待ち合わせしたりするのの面倒なこと!ヘラジカさん、それ、彫像ですよ自動車に乗ってる間も屁がこきたくてもガマンしなきゃいけないし、いつも聴いてる変わった音楽とか掛けていつもみたいに伴唱するワケにもいかないし、当たり障りのない会話を延々と続けるのの苦痛なこと!別にそういう意味でそういう姿勢をとってるワケじゃないんですけど、山羊さん...しかも、スピード・メーターを横目で見ている同僚から「制限速度でトロトロ走ってんじゃね~よ!」という念波がビンビン飛んでくるもんで、仕方なく制限速度オーバーで走らなきゃならない(...といってもせいぜい時速3~4キロだけど)うーん、犬なんだけど…ちょっと気持ちいいからヤラしとくか…まあ相手もオレを乗せてるときは「ツマンない話ばっかりしやがって」とか「興奮して喋ってダッシュボードに唾液飛ばすの止めてくれない?」とか「この人、この前も同じ服着てなかったっけ」とか「運転の気が散るから、話に妙な反応するの、止めて欲しいんだけど」とか思ってるんだろうから、ガソリン代のためにお互いガマンしてるわけだろうなあ
2008.07.31
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土曜:自転車 42キロ(1時間30分) ランニング 6キロ(30分)日曜:水泳 2キロ(50分) ランニング 20キロ(1時間45分)月曜:水泳 1.5キロ(38分)次のハーフ・アイアンマンのレースまで2週間を切って毎日トレーニングに忙しいし、さいきん職場での配属部門も異動になって、ニュースを見たりネットを見て回るヒマもねーんだよな。何か日記に書こうと思ったことが2~3あったんだが、忘れちまったよ。カナダもトロントあたりはもう夏の盛りはとっくに終わって涼しいもんだよ。出張に来てる日本人の人たちは「暑い日本に帰りたくないんでもう少し出張を延ばしてくれないかな」なんて言ってるよ。せっかく訪問してくれたのに何の面白い話もなければウンコやチンコの画像もなくて申し訳ないんで、AOLのホームページに載ってたさいきんの「出産ニュース・ベスト10」でも見て感心してくれや。トップの「44歳で18人目出産」なんて大して驚かねえけど、10コ目の「ヒマゴが3人もいる62才の曾祖母さんが出産」ってのはちょっとすごくねえか?これはやっぱりバイアグラ効果なのか?アメリカではさいきん女性向けのが発売になったらしいけどさ。あと、万年筆サイズの「300グラムの超未熟児」ってのもスゴイよな。オレのチンコやウンコ1本より小さいゼ!…ってえか、日本で毎日のように堕胎されてる胎児って、多くは余裕で300グラムを超えてると思うんだけど(笑)、これって生かそうと思えば生かせる大きさに成長した胎児をあえて殺してるってことじゃん!そりゃ水子の霊にもなるだろ~どうですか、みなさん感心しましたか?...え、英語で書かれててよく分からない?分からない単語はスペース・アルクの英辞郎 on the Web ででも検索しようネ!
2008.07.28
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(昨日、おととい、一昨昨日からのつづき)で、もう1つ考えさせられたことというのは、「編集者」という種類の人間についてであった。『邪宗…』に登場する編集者たちの描写を読んでいて、この女子高生マンガ家とやり取りしていた頃の自分とが重なって見えてきたのである。『邪宗…』に出てくる編集者は、センスのない自分のアイデアを自分が担当するマンガ家に描かせようとしたり、もしちょっとでもそんなアイデアが受け入れられようものなら、いかにも「自分のアイデアをそのマンガ家に描かせている」ようなことを周りに吹聴しだす。調子に乗るとつい「あのマンガはあのマンガ家の創作物というより、編集者のオレさまの創作物も同然」みたいな隠されたホンネまで口にしてしまう。そこにはマンガ家に対する「自分の優越」をアピールしようとする編集者の屈折があらわれている。というのも、大手マンガ誌の編集者というのはたいてい有名大学卒なのだが、自分も多少はクリエイティブな世界に興味はあってもその世界で食うだけの才能も根性もないので、お勉強によって学歴の道を選択したような輩である。大手出版社に就職した後は、自分にはないそういった才能や根性を持ったマンガ家に寄生し、おだてたりなだめたり騙したりスカしたりしてマンガを描かせ、他人が描いた作品を世に出すことで代理満足を得ているような、もともと「スケールの小さい人種」なのである。ボクはこの編集者の描写を読んでいて、その女子高生マンガ家が発表する作品をいっぱしの編集者気取りで分析して解読してみせたり、彼女と同世代の少女マンガ家を引き合いに出して批評していた当時の自分というのは、まさにこれらのセコい「編集者」と同じような心理にあったと思ったのである。当時を思い起こすと、手紙のやり取りを通じて彼女がボクの意見を尊重するようになっていくうちに、実際ボクは「そのうち原作でも書いて彼女にマンガにしてもらおうか…」などという密かな野望さえ抱いたことがあった(10年くらい前に実家に帰ったときに発見した高校生当時の日記には、その「原作」のあらすじが書かれていた(笑))。それというのも、自分が読んで感心したような作品を描くような才能が自分にはないことを百も承知していながら、その作品を分析してみせることでいかにも自分が「史上最年少デビューの天才少女マンガ家」に優越しているかのようにカンペキに誤認し(笑)、しまいにはまるで自分が彼女の創作物に不可欠な影響を与えているような大きな錯覚にさえ陥っていたのである。昨日も日記に書いたが、ゲージュツ家・創作者(しかもその道のプロ)の自己表現というのは、呪われた者が陥った生き地獄のようなものだと思う。『邪宗…』の主人公である作者自身や、彼がデビュー前にアシスタントをしていた売れっ子マンガ家「雨木傘二」のマンガ家生活の描写を見ても分かるように、いかに本が売れて華々しく取り上げられていても、その生活は荒れ果て、精神状態も狂気と紙一重…というよりすでにアッチの世界に逝ってしまっている。創作というのはまさに身を削るような行為の上に成り立っているのである。つまるところ、感想を述べたり批評したり「分析」したりは誰にでもできるが、そのマンガはそのマンガ家にしか描けない。それが、たまたま作者が自分の感想や分析や提案を認めたり受け入れただけで、「編集者パーソナリティ」の持ち主は「自分がその作品に欠かせない影響を与えた」と思いたがる。所詮は、そんな生き地獄を生き抜くだけの根性もなければ才能・クリエイティビティもない人間が、離れ小島で孤軍奮闘している創作者に安全な場所から好き勝手なことを言って悦に入っているようなものではないかと思ったのだ。ボクは、そんな当時の自分を思い出し、その後音楽だのアートだのをマジメにやった時期もあったとはいえ、所詮自分みたいな「編集者」根性の小者がほんの思いつきでバンドをやったり絵を描いたりしようが、最初から成功するワケなかったんだよなあ…なーんて思ったのである。いずれしても、売れっ子マンガ家だろうがマンガ家予備軍だろうがマンガ誌編集者であろうが、とにかく自分がマンガの世界なんかに引き込まれなくてよかった、そしてその少女マンガ家の友人もマンガ界から引退して家庭に落ち着いてよかった…と『邪宗…』を読んでつくづく思ったのでした、とても長くなりましたが、おわり
2008.07.23
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(きのう・一昨日からのつづき)その後、復活した海を挟んでのレターのやり取りを通して知ったことは、彼女はなんとその後大学を中退していて、以来、専業の「プロの少女マンガ家」としてまさに生活していくために作品を描かねばならぬ立場になっていた…ということであった。女子高生マンガ家時代は「ホモの美形の殺人モノ」(笑)が描きたくて、でもそんなものを『○ぼん』に載せられるわけもないので(笑)、「いつかは発表してやろう」と書き温めているのだとボクに告白しつつ、編集部からはラブ・コメディばかり描かされるフラストレーションをこぼしていた彼女だったが、それでも、そんなラブコメ作品にも彼女らしいちょっとした“シュミ”をあちこちに忍ばせることで、自分も満足するとともに同世代を含む読者にもアピールしていた。しかしその道一本のプロとなってからは、かつての「女子高生マンガ家」という看板で売るわけにもいかず、もはや「売れなきゃ仕事が来ない、仕事が来なきゃ喰えない」という切実な境遇のなかで、自分のシュミや好き嫌いを断念してマンガを製作しつづけざるを得なくなったわけである。具体的にいえば、編集部からの仕事の依頼というのは「読者アンケート」の結果がストレートに反映されるため、彼女は『○ぼん』の読者層に合わせて一気に内容を低年齢化させなければならなかった。また、編集者から「こうしろ」と要求されれば自分のシュミ的な部分は素直に自主規制し、高校生マンガ家時代の衒いやトンガったところなんかも一切放棄せざるを得なかったのである。彼女はこれを「(編集者に)自分の個性を殺された」と表現していた。その結果が「ホモの美形の殺人モノ」(ちなみにこの高校時代から温めていた話は、その後別誌で発表された(笑))から「魔女モノ」という、当時からは想像もしえないような方向転換だったのである。ボクは彼女の連載作品の中で、アニメ化のオファーがあったというその魔女モノを読んでみたことがあるのだが、主人公が「ピンク、オーン!」とか叫んで変身するシーンなんかは、当時の彼女からはとても考えられなかった(笑)。そういえば彼女は高校生マンガ家時代の自分を「生活の苦労を知らない、世間知らずだった」と述懐する一方で、自分が妥協を重ねてオトナ(=プロ)になったことに言及して「あの頃の高校生の私は、今の自分を赦せないと思う」とも言っていたのはとても印象的であった。…で、高校時代は「このキャラクターは○○の象徴ですね」とかいって「分析」して喜んでいたボクも、さすがに「ピンク・オーン!」のマンガを批評するだけの衒いや厚顔さを失っていて(笑)、その後の彼女とのやりとりでは「あのマンガ家は今何をしているか」といったウワサ話こそすれ、二度と彼女の作品について分析や批評をすることもなく、その後また音信は途絶えたのであった。(ちなみに彼女はその後結婚・出産とともに「○ーガレッ○」での製作活動も停止し、その後「出産・育児マンガ」を出したらしいが、以降作品は発表していないようである。)…さて、ようやく本題なのであるが、中・高生時代の彼女にとってマンガは明らかに「自己表現」の手段だったと思う(親に食わせてもらっている中学生が「喰うため」にマンガを描き始めるわけはない)。いつまでも可愛いらしい子供として振舞うことを期待する親を尻目にどんどん頭だけ成長していった福岡の女子中学生は、そのギャップを埋めるために二階の自分の部屋にこもって「同棲モノ」などを描き上げ『○ぼん』に投稿し、その早熟ぶりで編集部の選者を震撼させていたのである。ボクは彼女がその後単行本を10何冊も出すような「売れっ子のベテラン」になったことは心からうれしいのだが、彼女自身「殺された」と言っていたあの頃の「個性」「彼女らしさ」が彼女のマンガから消え失せてしまったことを、当時はとても寂しく感じていた。セックスピストルズがどうしたとかランボーがどうだとか、アニマやアニムスや超自我がどうしたとかいった話を一緒にしながらマンガを描いていた女子高生のあの痛々しいまでのトガった作品は、もう見れないんだ、と思ったのだ。ボクがその後、せっかく音信が復活した彼女の作品を読む気がせず、やり取りが自然に途絶えてしまったのもそこが理由だったと思う。…しかし『邪宗まんが道』を読んでいてつくづく思ったのは、仮に彼女がこの『バクネヤング』の松永豊和のように妥協を赦さず自分が描きたいトンガった作品だけを描き続け、編集者の要求すなわち商業主義を拒み続けた結果仕事もこなくなり、印税でなんとか喰いつなぎながら売れそうもない「小説」を潜伏して書いているような立場になっていたとしたら、きっと全然うれしくなかったと思うし、ちょっと怖くて彼女に手紙を書こうとも思わなかったと思うのだ(笑)。『邪宗...』に描かれている彼自身の行動や独白が如実に物語っているように、ゲージュツ家・創作者としての自己表現の泥沼というのは、ボクのような根性なしの娑婆僧から見たら、呪われた者が陥った生き地獄のようなものではないかと思う。まだ元気&衒気があるうちに“若気の至り”として経験しておく分にはたいへん貴重な経験かもしれないが(笑)、その状態のまま年齢を重ねていくのはよほどの根性&狂気がないとひたすらツライことじゃないかと思う。つまりボクは、寂しいけど、彼女が「魔女モノ」やがて「育児・出産マンガ」なんて描くようになったことはホントウに幸せなことだし、ランボーやアニマ・アニムスの話は、居間ではしゃいでいる子供を「静かにしなさい!」とか叱りつけながら「あの頃はなつかしかったよねえ」とかいって遠い目でお互い述懐するための「あの頃の貴重な宝物」で十分じゃないか!…なーんて思ったわけである(笑)。あともう1つ考えさせられたのは、…あ、また長くなってきたのでまた後日だなこりゃ。
2008.07.22
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(昨日のつづき)このブログでも何度か書いたが、ボクは高校から大学時代にかけて、あるメジャー誌の少女マンガ家の友達がいた。どうして少女マンガ家などと知り合ったのかというと、だいたい以下のような経緯である。ボクは中学時代から月刊の少女マンガ誌『○ぼん』を購読していた。親が厳しいほうだったので、直接「ダメ」と言われたわけではなくとも、当時家には何となく「少年マンガ」などがあってはいけないような雰囲気があって、でも知人の家で読むマンガは大好きだったし、中学のとき妥協策として「少女マンガ」誌を購読することにしたのであった。『少年○ャンプ』を読むのはマズくとも『○ぼん』なら親もちょっと顔をしかめるだけで許してくれそうだったからである。やがて男子高に入学し応援団幹部になった後もボクは同誌を購読し続けた。『花の応援団』の世界の住人が『ときめきトゥナイト』を読んでいるようでは先輩後輩に示しがつかないのだが、それでも少女マンガを購読し続けたのは、このマンガ家とやりとりが始まったからなのであった。別にボクはマンガ家志望だったわけではないのだが、異性として少女マンガを読んでいたためか「少女マンガ製作」という裏の世界に興味を抱いていて、『○ぼん』の投稿マンガ・スクールのページなんかも毎月マメに見ていた。で、ある日、全国から投稿している「少女マンガ家志望者」の中にすごいマセたマンガを描いて編集部の審査員を震撼させている、ボクより1歳年下の中学生がいることを知った。(ちなみに同じ時期に○ぼんのマンガ・スクールに投稿していた同期には『ちびまる子ちゃん』のさくらももこなどがいる)その子はその後中3のときに第二作目の投稿作品が同マンガ誌の新人マンガ大賞を史上最年少で受賞し、同誌に「中学生デビュー」した。絵は雑なタッチなのだが、「ミュージシャンのシングルマザーとその娘の幼稚園児」という設定とか、そのマセた幼稚園児の主人公のセリフや行動がとても面白おかしく、「スゴイ中学女子がいるんだなあ」と感心していた。その子が高校1年になって発表した次作品は、なんと別冊の巻頭カラー作品になったのだが、絵や技術が数段に上達しているだけでなく、登場人物の高校生男女のセリフや関係がとても作者自身高校生とは思えないくらい客観的に突き放されていて、この「自分自身に距離を置く」という感覚にボクはとくに興味を持った。また、新人の巻頭作品ということで、この「福岡県の女子高1年生」のプロフィールがページの枠にいろいろ書かれていたのだが、これを読んだボクはこの子にさらに興味を深めた。聞いている音楽や好きな芸能人などに共通項が多かったからである。ボクはそのマンガを読んだ日の晩、この女子高生少女マンガ家に比較的長いレターを書いて編集部に送った。これは“ファンレター”などというたわけたものではない、自分は旧制の流れを汲む男子高校の応援団幹部であって、少女マンガを読んでときめいているような軟弱な男児ではない、日本にこんな早熟な作品をつくる女子高生がいることを知り、どんな人物か大きな興味を持ったので、手紙を書くことにしたのだ…などといったぶっきらぼうな書き出しのレターであった。…いや、実のところ、ボクは「どんな人物か興味を持った」などと書いたのではない。「あなたのプロフィールを読むと、きっとこんなバンドも聴いていて、こんな作家の小説なんかも読んでるのでは?」とか「このキャラは○○願望の表れで、もしかするとモデルは○○でしょ」…といった得意の「分析」を書いて送りつけたのであった(笑)。ボクはこんな奇矯で失礼な“ファンレター”になんてどうせ返信なんて来ないだろう…と思っていたが、応援団の練習から下駄履きで帰宅した数週間後のある日、玄関までやってきてきたニヤニヤ顔の母親から「女の子から手紙が来てるヨ~、誰?」といって封筒を渡された。差出人は…その少女マンガ家の名前である。しかも、これが厚い!社交辞令的な「ファンへのお礼」でないことは明らかであった。ボクは母親の手前、飛び上がって喜びたいのを抑え、自室に急いで封を開けた。手紙には、自分の作品をこんなにテツガク的に客観的に読んでくれている読者が広い日本にはいるんだということを知ってとても驚いた、「分析」もなかなか当たっている、これからも手紙を交換しましょう…といったことが、自宅の連絡先とともに、イラスト付きで書かれていた。ボクはその後も数年にわたって、彼女が発表する作品を分析したり彼女との同世代の少女マンガ家の作品を引き合いに出して批評したりと、いっぱしの編集者気分で言い放題を言い続け(笑)、一方では、日本列島の反対側に住むこの非常にシュミの似通った不思議な女子高生とマンガ以外の話でもお互いの理解を深め、ボクが関西の大学に進学する頃には電話やリアルの世界(ボクが福岡まで遊びに行った)でも会うようになっていた。しかし彼女が高校卒業後東京の大学に進学し、しばらく作品の発表が途絶えた頃から音信も途絶えがちになり、やがてボクも『○ぼん』の購読をやめ、彼女とも少女マンガの世界ともまったく縁のない世界の住人となっていった。彼女自身、きっと大学とマンガ家稼業との両立が困難になって、マンガを描かなくなったろうと勝手に思い込んでいた。それから約10年後、渡米しアメリカの大学を卒業してから日系運輸会社の現地法人で「国際引越課長」をしていたボクは、ある日駐在員の帰国引越し荷物の運び出しを終え、片付けをしている際処分品の中に、その日本人家庭の子供が読んでいたのであろう、『○ぼん』を発見した。懐かしくなって表紙を見ていたら、そこには彼女の名前があった。彼女はボクとの音信が途絶えた後もマンガを描き続けていただけでなく、『○ぼん』の売れっ子ベテランの1人になっていた。同誌には魔女モノを連載しているようである(笑)。ボクはすぐにペンをとり、またしても『○ぼん』編集部にエアメールで送った。1ヵ月後くらいに返信が来た。またしても厚い封筒で、10年前を思い出してうれしくなった。彼女はその魔女モノの連載を終えた後『○ぼん』を離れ、より年齢層の高い『○ーガレッ○』に移籍したそうで、もう少しシリアスな作品を描いているということであった。ボクの送ったエアメールも『○ぼん』の編集者が気を利かせて『○ーガレッ○』編集部に転送してくれたもので、タイミングがもう少し遅かったらゴミ箱行きになっているところだったらしい。...あ、前フリのはずなのに、なんだかまた長くなってきて、この日記のほうが「自伝小説」っぽくなってきちゃったなあ(笑)。また明日に続く。
2008.07.21
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今日は池で泳いだ。例の地元トライアスロンチームの週末練習会で、である。チームメンバーのご近所さんの牧場には25mプールを3つ分くらいの大きさの池があり、これがオープンウォーターの水泳の練習に打ってつけなのである。どうやら五大湖に挟まれた土地の内陸にはこういう池や湖が点在しているらしく、こういう土地で生まれ育つ人は海や川でなくこういった池で泳ぎを覚えるらしい。自動車の往来の少ない直線道路がつづくは、池はあるは、このあたりはトライアスリートが住むには理想的な土地だよなあ。夏は短いけどー。午前中いっぱい自然の中をひとしきり泳いで走って自転車こいで、地下室の自宅に帰宅してもまだお昼過ぎである。昼飯を食いながらEメールをチェックするついでに、たまたまネットで調べものをしていたところ、『バクネヤング』の作者、松永豊和が自分のウェブサイトに発表している自伝小説というのに行き当たった。『バクネヤング』というのは10年ちょっと前の長編マンガ作品で、頭はイマイチ弱そうだが不死身なまでの体力を持つ反社会的な青年がほんの思いつきで「地球征服」をたくらみ(笑)、ヤクザ界のドンを拉致し500兆円(笑)の身代金を要求して大阪城に立て籠り、警察と暴力団を相手に一人バトルを繰り広げた末、最後はドンの子分に刺されて植物人間状態に陥るが、やがてその肉体を離れた霊が今度は霊能力を持つそのヤクザのドンの娘を相手にさらにスケールアップした最終戦争を展開する…といったなかなか狂った筋書きを、大阪人らしいトボケたタッチで描いた問題作である。以前何かで鬼畜マンガとして一部から高く評価されていたので、昨年日本に出張した際に古本屋で見つけたのを買って読んだのだが、面白いけど40歳のオッサンが買って読むのも恥ずかしくなるようなおバカなバイオレンス・マンガで、出張から戻るときに捨ててしまったのだが、どうもその作品が訴える不思議な世界観には偏執狂特有のネットリした密度の濃い気持ち悪さがあり、「一体どんなオトコがこんな情念と怨念に満ち満ちたバイオレンス世界を描くのか」という点だけはすごく気になっていた。この作者自身のウェブサイトによると、どうやらこの人はその後2~3の作品を発表したものの商業的には成功せず(笑)、さいきんはマンガの代わりにこうした自伝的「小説」をいくつか書いて、小説家として復活を狙っていたらしい。…で、『邪宗まんが道』と題されたこのウェブ公開自伝小説なのだが、読むとやはり作者自身『バクネヤング』の主人公のような破天荒な人物らしく、自伝に書かれている作者の行動や言動はまさにおバカで猜疑心や偏執的妄想に満ち満ちていて、読んでいて恥ずかしくなってくるのだが、書かれていること自体はとても面白くて読むのを停められないのである。この自伝小説というのは、この作者が売れっ子漫画家のアシスタントとしてスタートし、新人賞を受賞して『バクネヤング』でメジャー誌にブレイクするも、編集者との確執によって執筆を何度も中断し、マンガ誌の「商業主義」と自分の「エゴ」との葛藤でなんどもスランプに陥りながらも結局は「エゴ」を貫き、発行部数の少ないマイナー誌に散発的に小作品を書き続けるだけの作家生活をつづけ、やがて仕事がすっかり来なくなってしまうまでの話を、登場人物の実名をほとんど特定できるようなきわどい仮名を用いて書いており、しかしこのテの偏執狂タイプにしてはなかなか客観的な筆致で淡々と綴っている。実はこのウェブ小説は、日本でテレビアニメ化された『金色のガッシュ』というマンガの作者が、自分の作品原稿を紛失した出版社に対し損害賠償を求めた事件に関連して、インターネット上で取り上げられていたのをたまたま見つけたものであった。『ガッシュ』の作者は、原稿を紛失されただけでなく「編集者がいかにマンガ家をないがしろにしているか」についてネットを介して暴露し始めたらしいのだが、これに煽られてほかのマンガ家までが「ワタシも編集者にこんなヒドイ目に遭った」というのを暴露し始めたのに関連し、『バクネヤング』の作者の自伝ウェブ小説もいわゆる「業界暴露小説」として取り上げられるようになったらしいのである。ただ、本人はけっして暴露小説を意図しているわけではないと思う。なぜなら、この小説の内容は編集者を糾弾するよりも、むしろ自分の赤恥をさらしている量の方がはるかに多い(笑)。「プロ予備軍」同士のせこいジェラシーとか、それを乗り越えてデビューした後は編集部との力関係、とくに自分の作品をマンガ誌に掲載してもらうために編集者の意向を呑んで作品を変えるだとか、それが発展して、自分の作品なんだか編集者の作品なんだか分からなくなってくるとか、しまいには自分は所詮「編集者の出世の道具」としていいようにコントロールされているのではないか…などといった、マンガ家自身の日々の不安や妥協や諦念や妄想もろもろを書き出すことが主眼ではないかとすら思われる。で、この作者個人への興味に加えて、どうしてボクがこんなごく個人的なウェブ小説に引き込まれたのかというと、作品を読み始めた途中から、ボクの高校&大学時代のある少女マンガ家とのつき合いのことを思い出したからである。(長くなりそうなので、明日につづく)
2008.07.20
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昨日の日記のつづきなのだが、「自分たちが毎日忙しく育児をしたり家事をしたり家や車のローンの話し合いなどをしている時に、コイツらはいったい何をしているのか!?」...と市井の健全な市民たちから不審を抱かれがちな独身野郎どもの話をしたが、これは独身男性だけの話ではなく、独身女性の場合も大きなヘンケンにさらされていると思うのである。ボクと同じくらいの年齢の独身女性を何人も知っているが、彼女たちの多くに共通しているのは何というか、「頑ななカンジ」である。目に見えない鎧を身にまとっているというか、他人との関係に甘えを交えない感じが共通している。たとえば、ワタシやトイモイさんのような、いちおうマトモな社会的ステイタスのある独身中年男性であれば、市井の健全な市民から「どうして結婚しないの?」と問われても「独身主義なんです」といえば、それで通りそうである。しかし一方で、中年にかかっても結婚をする様子もなく独身を通している女性が、市井の健全な市民からの「結婚はしないんですか?」という問いに対して「自分は独身主義ですから…」と言い切るのはかなり勇気のいることだと思う。これはどういうことかというと、独身主義を標榜する女性にはどうにも「社会を敵に回している」というニュアンスが付きまとい、市井の健全な市民たちも「独身主義だから」という回答には納得せず、たぶんそれを否定あるいは非難するような反応を暗にまたはあからさまに示すに違いないのだ。つまり、数年前の財務大臣の発言ではないが、女性は暗に「子供を産む機械」としての役割を世間から期待されていて、「生殖」という(社会にとって)“大事な”役割を果たそうとしない女性は社会的非難にさらされる覚悟が必要なのである。これはある意味、自分の子供の扶養義務を果たさない父親に対する社会的非難に匹敵するものがあるかもしれない。これが、別に主義主張で結婚しないわけではなく、たまたま「その機会を逸した」女性であっても、世間の非難にさらされるような感じにそれほどかわりはないであろう。ほんとは相手さえいれば結婚して子供も持ちたいのに、“大事な”役割を果たしていないというだけで、世間からの見えないプレッシャーに“申し訳ない”気分にさせられてしまう。さいわい欧米在住の場合、東洋人は若く見られるので、三十路を過ぎてもあまり前述のような「ヘンケン」を感じずに年を重ねていそうな独身女性は多い。30代の独身女性が「ビールを買おうとして(年齢確認のために)運転免許証を見せるように店員のお兄さんに言われた!」などと無邪気に喜んでいたりするのがよい例である。ただ女性の場合いわゆる「適齢期」には「結婚適齢期」と「出産適齢期」の2段階があって、前者は「前時代の遺物」だの「死語」だの言ってまだ笑って済ますことができるかも知れないが、後者は「産むヒト」としての“大事な”役割を果たすか果たさないかの瀬戸際にあたるわけで、笑って済ますわけにはいかない。だから、30代も半ばに入ってくると、いくら他人からは免許証を見せるように言われ続けても喜んでいる余裕も次第になくなってきて、そのまま後者の適齢期を過ぎる頃には例の「頑ななカンジ」を身にまとうようになるわけである。これの例外にあたるケースとしては、「キャリア・ウーマンとして成功している女性」がある。彼女たちは「生殖」などしなくとも、ビジネスなどの世界ですでに“男並みの”リッパな役割を果たしており、他方の女性としての“大事な”役割を果たすことを世間から問われないからである。さらに例外を挙げれば、「吉永小百合」型(...と言っても30代以前の人にはピンとこないかもしれんが...)の「天上人・聖女タイプ」もあるが、これはこのテの“永遠の”アイドルというかアイコンには「生殖」などという下界の卑俗な機能が最初から期待されていないからであろう。だから、女性の独身中年は「ザ・ブロガー>」として楽天ブログの人気者になっても、健康を絵に描いたような真っ黒に日に焼けたアイアンマンになったとしても“世間”からは甘んじて納得してもらえず、結局はキャリア・ウーマンとか聖女の道が拓かれてでもいなければ、世間と対峙して生きていくために頑なさを身にまとう必要があるのかなあ、などとボクは思ってしまうワケである。
2008.07.19
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連日の言及で申し訳ないのだが、トイモイ氏は「アブナイ人ではないか」と思う。…というか、ワタシをはじめとするトイモイ・ブログ・ファンにとってトイモイ氏は非常に興味深い人物であるが、同氏のご近所さんや同僚などは同氏を「得体の知れない人」として警戒しているのではないかと思うのである。40過ぎて独身で、ワンルーム・マンションには女をはじめ知人が出入りしている様子はなく、毎朝ちゃんと出勤して毎晩帰宅していて、仕事で各地に長期出張しているような様子もない。週末になると早起きしては外出して、飛行機に乗って日本中の僻地を訪問しているようだが、決して休暇目的ではなく、その証拠にどんな遠くに行っても(それが海外であっても!)毎度日帰りしているらしいのだ。会社では、会議のたびにコックリコックリと眠かけをしていて、しかも来客中にまで、そのお客様がエライ人だろうがハ ゚ンチラの女性客だろうが、打ち合わせ中にコックリコックリを舟をこぎ始めたりするのである。おまけに、先日は出先から会社に戻る途中の公園でトイモイ氏を発見し、声を掛けようとしたら、何だか公園の銅像と握手したり自分のカバンを持たせたりしてはいろんな角度で夢中になって写真を撮っているのに気づき、何だかすっかり声を掛けづらくなってしまい、別の道を通って会社に帰った同僚がいたりするのである。こんな人が隣近所や同僚にいたら、「いったいあの人は何者なのだろう!?」と話題になっていること、間違いないと思う。詮索好きの人なんかがいれば、「あの人、かなりアブナイよね!」「何かヤバイ組織にでも入っているんちゃうか」「オウムじゃないのか」…などとウワサされているに違いない。しかし、同氏は間違っても自分が「アブナイ人」だとは思っていないはずである。同氏は、会社や出先への道すがらに突如立ち止まってはカンバンだの池だの自動販売機だの建物だの浮浪者だのを激写したり、週末のたびに誰も行かないような辺鄙な土地をひとり訪問しては仏像とか墓石とか人形を激写している挙動不審な人物であるが、彼自身の中では「ブログにアップする」という崇高な目的があり、それらの不審行為は彼の中で正当化されているからである。逆に言えば、ブログにアップするというアウトプットがなかったとすれば、自分の行為が限りなく挙動不審な行為であるという自覚が彼自身にもうっすらとあるはずで、だから、自分がけっして「不審人物」「アブナイ人」ではなく「ザ・ブロガー・トイモイ」としてのパフォーマンスであり仕事をしているのだいう合理化のためにも、同氏にとってブログ更新は不可欠な手段、心の支えであるに違いないのだ。なぜワタシがこんな話をしているかというと、ワタシも同氏と似た境遇にあるからである。同氏と同年齢で独身であるワタシは、トロント近郊にある新興住宅地の一軒家の地下室を借りて住んでいるわけだが、近隣の人たちはみなワタシくらいの年齢の夫婦に、学童期の子供がいる核家族ばかりなのである。自分らと同じくらいの年の東洋人の中年男性が、いったい何の目的でこんな新興住宅地の一軒家の地下室を借りて1人で住んでいるのか…というのは、近隣住民の不審を買うに十分な条件である。これはTIME誌か何かの記事で読んだので信憑性の高い意見だと思うのだが、アメリカでもカナダでも、NYやLAのようなフリーのプロフェッショナルが多く住むような大都市でもない限り、30歳を過ぎて独身だったりすると、まずホモかレズを疑われるのが相場である。「健全な男女」であれば20代のうちに「結婚」するのが「当然」という、意外とコンサバティブな偏見が北米にはあるのだ。まあ、ホモやレズであればアメリカでもカナダでもある程度市民権を得ているからまだいいようなものの、どうやらホモでもなさそうということになると、ペドフィリアや猟奇系といったほかの変質者を疑われかねない恐れがある。有り体にいえば、自分たちが毎日忙しく育児をしたり家事をしたり家や車のローンの話し合いなどをしている時に、ガールフレンドや友人の出入りがあるわけでもなさそうなコイツら独身野郎はいったい何をしているのだろう!?...という素朴な疑問が彼ら健全な市民の心に湧いたとしても、それは当然だと思われるのだ。まあ、そういう独身野郎の中には、仕事が終わってから地下室で毎日コツコツと小説を書いているヤツもいるかもしれないし、パソコンで作曲をしていたり、インターネットでバーチャルな恋愛をしているヤツもいるであろう。しかし、それらはこれら新興住宅地の核家族にとってはやっぱり内向的な“不健全”な世界であり、いずれにしても何か仕出かしそうで、そんなヤツが隣人にいたら何となく気持ちが悪かったとしても無理もない。ワタシの場合、さいわいなことに、誰もが知っている日系企業に勤務していることが近所に知られているし(自動車のフロントガラスに駐車用のデカい社員証が貼られている)、帰宅すると毎日水泳の道具を持ったり自転車に乗ったり走る格好で爽やかにあいさつして外出していく様子を見られているために、「害のなさそうな健康マニアの日本人」くらいに思われていると考えてほぼ間違いない。逆に、ワタシが仮に勤務時間も不規則で、一般には誰も知らないような特殊産業に勤めていて、トライアスロンのような外向的なわかりやすいシュミを持っていなかったりしたら、今ごろ「隣の地下室に越してきたあの東洋人、いったい何者かしら」「あの顔、何人か判らないし、ちょっと気味が悪いわよね」などとウワサのタネになっていたに違いないのだ。斯様に、孤独な独身野郎というのは、ワタシのような常識人であったとしても、健全な一般市民社会の間では「不可解な少数派」であって、つねに「害のない健康な人間なんですよ」光線を発し続けなければならない宿命にあるんだなあ…と思うのである。(つづく)
2008.07.18
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先日トイモイ氏のブログへのコメントのレスを読んでいて驚いたのだが、トイモイ氏はブログを書く際「まず、いいたいことを書いて、そのあとで肉付け」するそうである。トイモイ氏のブログはえてして、誤字脱字や変換間違いだらけだったり、画像と本文が一致していないことで知られており、まるで何も考えずに思いつくままダラダラ書いてはそのままアップロードしているような印象を与えがちであるが、実際にはまず「言いたいこと」が“ちゃんと”あって、しかも言いたいことを書いて終わりではなく、睡魔と戦ってでもちゃんと「肉付け」して読者の興味と関心を引こうという努力があったのである。ついでに言うと、毎日欠かさずに何か「言いたいこと」があるという事実にもちょっと驚かされる。ボクの知る限り、トイモイ氏はブログ開設以来、1日もブログをサボったことがないからである。ボクもトイモイさんと同じように「何か言いたいこと」が発生し、「これはちょっとブログに書いて公にしておこう」という場合もあるが、ブログを開設して5年も経つと言いたいことをほぼ言い尽くしてしまい(笑)、「これは言っておきたい」ということが次第になくなってくるものである。会社でウンコをしている時とか、自動車を運転して帰宅する道すがらなんかに、何か面白いことを思いついて「これは郡山ハルジブログで問題提起しよう」などと思うことはあるのだが、ほとんどの場合すぐに忘れている。根本的に自分の考えていることなんて「どうでもいい」と思っているからである。じゃあ自分はどういう時に依然としてブログを書いているのか考えてみると、なんか最近はただの「記録」が増えてきているようである。「あとで参照できるように、その日あった比較的重要なことなどを記録として残しておく」とか、「何かをぼんやりと考えていて引っ掛かっていることを、実際に書いてみることで整理する」といった場合が多い。ボクのブログ・カテゴリーで「今日の出来事」が「マラソン/トライアスロン」を抜いてエントリーが最多になったのはそのせいであろう。事実、たとえばボクは年始に目標を立てたり年末に目標への達成度を振り返ったりするのにもこのブログを利用しているが、過去のエントリーを検索するのにブログはとても重宝している。「次はどの方向へ進むべきか」というのを模索する際にも、過去の関連エントリーを読んでいると進むべき方向が見えてきたりするのも便利だ。あとは、「デカいクソ」同様、何か面白い出来事があったりバカバカしい画像を発見したのを訪問者に見せてやろうというサービス精神に突き動かされてブログに公開する場合もある。これとちょっと似た例としては、なんとなく「クリエイティビティ」に突き動かされ、ブログ上で何か変わったことを試みたくなった場合などもある。どちらの場合も多くの訪問者からは「悪フザケ」としか思われないことが多いのはやや残念ではある。まあ、いずれにしても、こんな雑記ブログを何年も書き続けているのはひとえに「ヒマだから」だと言っていいと思う。公私共に多忙な働き盛りの仲間、このブログを開設した頃からお気に入りリンクを貼らせていただいていた心斎橋ワタル氏や鰻坂ヒカル氏をはじめ、マラソン仲間のMickey氏やらおじん氏、楽天ブログを通じて知り合ったpinkoyster氏やオダギリチガ氏のような蒼々たるメンバーのブログ更新が途絶えてから久しいが、いい年こいたマトモな社会人であればもはや「楽天ブログどころではない」のである。
2008.07.16
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世の中には自分の持ち物などをインターネットで自慢げに公開して評価してもらいたい人のためのウェブサイトがいっぱいあって、たとえばペットの犬自慢の人のサイトでは「Rate my puppy.com」、ネコ自慢のための「Rate my kitten.com」、ガールフレンド自慢のための「Rate my girlfriend.com」、イレズミ自慢の「Rate my tattoos.com」、珍しいところではターバン自慢(笑)の「Rate my turban.com」などがある。なにやら中2の姪が親の監視をかいくぐってこのウェブサイトを見ているらしいのでリンクは貼らないが、自分のチンポを自慢する人の「Rate my ○○○.com」というのもあるし、オッパイ自慢の「Rate my ○○○○○.org」というのももちろんある。「ワキ見せに自信!」とかいう不思議な広告画像をさいきん楽天広場で見かけるが、これもこのテの派生といえるかも知れない。まあ、これらはデジカメが一般的になる以前には考えられなかったサイトであることは言えよう。まさに自慢もイロイロである。ところでボクはかつて、すごく長ぁーいウンコをしたときや、ウンコが茶柱のように水中に直立して浮いたときなどに、「これは珍しい、世界に向けて公開すべきでは!?」と思いデジカメに収めてこのウェブサイトにアップしようと思ったが面倒臭くて思いとどまったことが何度かあるのだが、世の中にはやっぱり同じことを考える人がいるらしく、自分のウンコ画像を公開するウェブサイト「Rate my poo.com」がやはり存在する。長さや太さや量を自慢するオーソドックスな投稿者も多いし、珍しい形状や色のものを公開して訪問者を感嘆させる者も多い。きっとボクのように学術的な好奇心でこのサイトを訪問している医者や研究者もいるに違いない。ネコなどのペットを小道具に使って、ウンコのキュートさを演出するのは常套手段である。たとえばこんな感じである。しかし、中には「クリエイティビティ」に走る者がおり、これはクソ自慢というよりも、訪問者をあっと言わせるのが目的だと思われる。たとえばこんな感じである。洗面台でショウベンをしたことのある男性諸氏なら、この程度のものは理解できるであろう。しかし、水洗タンクを使うとか、洗濯機を使うというのは、ちょっと反則ワザっぽくて、感嘆するというより呆れてしまう。まだ「ジューサー」とか「炊飯器」というのはこのサイトでは見ていない。ところでボクは「ウンコ=汚い」とか「チンコ=下品」といったありきたりな偏見を持たない広い心の持ち主なので、「ウンコ画像」と聞くとロクに見もせずに「汚なぁーい!」とか言う“健全な”人の陳腐な固定観念には疑問を持っている。もしかするとこれらの画像は「ヤラセ」であって、味噌とかチリソースとかを使って人工的に作り上げた偽ウンコかも知れないし、ウンコだと思って見るから「汚い」のであって、最初から「チリソースです」と言って見せられれば、「おいしそう!」と思うに違いないからだ。それはそうと、このブログを見ているアナタも、世界に向けて公開したいようなスゴいクソをしたときは、ぜひデジカメに撮ってこのようなサイトにアップして、ボクのような訪問者たちをアッと言わせて欲しいものだ。もちろんワキ見せに自信がある人たちは、自信満々のワキ見せポーズの写真を撮って楽天ブログで公開し、ボクと張り合って欲しい。
2008.07.14
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昨年より大幅な記録更新でハーフ・アイアンマンを完走した今週は、疲労回復に集中するために、1日おきにゆっくり水泳する以外は運動をせずに過ごしている。ハーフ・アイアンマンの疲労度は、一概には比較困難だが、炎天下でフルマラソンを走ったらこんな感じかも…といったところである。もう5年も前に8時間以上掛かって完走した距離44キロ・標高差1100mの山岳マラソンに比べれば、まだハーフ・アイアンマンの方が身体的にずっとラクである。ましてや一昨年のキリマンジャロ登頂のときに比べれば、精神的にも肉体的にも楽勝のように思える。その手で飼い主に「お手」をしてやっておくれ(画像をクリックすると「クソ評価.com」 こんなスバラしいウェブサイトがこの世に存在したとは!) このように、比較可能な「もっとツライ体験」をしていると、マラソンやアイアンマンのような耐久レースではとても便利である。ツラくなるたびにその時の記憶を思い起こせば「こんなツラさなんて、あの時に比べれば!」と思えるからである。マラソンレースの際、若い人を除けば滅多に歩いている女性を見かけないのは、きっと出産の時のツラさと比較できるからではないかと思う。バター犬に飽きた貴女にドッグ・シャワーとはいえ、2キロ水泳、90キロ自転車の後に走るハーフ・マラソン、とくにその最後の5キロはとてもツラく、実は「こんなシンドイことなんてもうするもんか!」と思いながら走っている。休憩もなしで5~6時間も激しい運動を続け、しかも最後は炎天下のハーフ・マラソンである。気分は“苦行”である。他人も走っているから自分もガマンして走っているが、これを自分だけでやっていたらとっくにバカバカしくなって歩いていると思う。ゴールデン・シャワー好きの貴方にはこんな特製バスタブをハーフでさえこんなにツラいので、もうフルのアイアンマンなんて自分には到底無理じゃないか…とまで思ってしまうのだが、だいたい1日も経つとあのツラさを忘れていて、「どれ、今年はあともう1回くらいハーフ・アイアンマンに出ておくかな…」などと考え始めている。そういえば、ボクの日本の友人が、初産でよほどツライ思いをしたらしく「2人目なんてゼッタイ産まない、過保護呼ばわりされようが、この1人を溺愛してやる!」と言っていたのが、数年後にあっさり2人目を産んでいたが、似たような感じかも知れない(笑)。今年のハロウィンにこんな顰蹙コスチュームはいかが?フルマラソンを走っていた当時は、基本的にレースの翌日はフツウに出社していたし、徹夜や深夜残業でもない限り日常的な生活も翌日からフツウにこなしていた。ハーフ・アイアンマンも同様で、レース翌日は少し熱っぽいダルい感じがあるがちゃんと出社時刻には目が覚めるし、最初の3~4日は朝起きるのがややツライけれども、いったん出社すれば仕事に支障が生じる程の疲労ではない。1週間もすれば、「そろそろ軽い運動から始めるか…」といった感じである。これもハロウィンにいかが 母娘で「オッパイ・ミッキー」 ただ、これがフルのアイアンマンとなればこうはいかないだろう。ハーフ・アイアンマンが「風邪をおしての出社」といった疲労感だとすれば、フルは「病後にちょっとした手術をした」のと同じくらい消耗しているのではないか。少なくとも翌日1日は休暇が要るだろうなあ。今年は、4週間後に今年新設のハーフ・アイアンマンレースが予定されているので、これでもう一度ツラい思いをしておくとともに、あとは来年のフルのアイアンマンに備えて10月のトロント・マラソンで(3年ぶりに)フルマラソンを1回くらい走っておこうかと考えていた、この休養の1週間である。
2008.07.10
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今回のレース写真は笑ってないようである。けっこうマジで走ってたのと、本気で疲れていたのであろう。サラリーマンなので、レースの最中でもいちおう翌日の大事な仕事のことを慮って全力を使い果たすまで無理をすることはない。もう少し力を出そうと思えば出せる場面でも、「ここで無理をすると明日ビッコを引きながら出社することになるな…」とか「これ以上無理をすると疲労困憊して明日起きれないかも…」とか考えて、針がイエローゾーンに留まる範囲内で無理をするわけである。ただ今回のレースでは、「売られた挑戦」は買うようにした。ボクは基本的に、マラソンもトライアスロンも「自分自身と闘う」ためにやっていて、誰かと競争するようなことはまず念頭にない。しかし今回は、明らかにボクと「競おう」と必死になる人がいれば、こちらも礼儀として張り合うことにしたのである。水泳の最中に気づいてハッとしたのだが、終盤になって力を使い果たしスピードが落ちてくるスイマーを自然に追い抜く形になったとき、彼らがそれを阻もうとして進路を邪魔したり、必死でスピードを上げることに気づいた。こちとら水泳は苦手で誰かを「追い抜く」気などサラサラないのだが、相手はあくまで競争のつもりでトライアスロンに参加しているのである。こういう人に対してボクが手を抜くわけにはいかないよな…と思ったのである。自転車の90キロでは白人女性2人くらいに標的にされた。白人女性アスリートの中に、たまに「男には体力的に敵わないけど、“東洋人男性”なんかには負けないわよ」という態度が明らかな人と遭遇することがある(笑)。彼女たちがそのタイプなのかどうかは判らなかったが、1人は最後の5キロでボクが追い着くまで、85キロの間抜いたり抜かれたりを5回くらい繰り返した。最後のハーフマラソンでは、炎天下でバテてトロトロ走っている人を何人も追い抜いたのだが、出産時の妊婦のように激しく喘ぎながら必死でボクを追ってくる男性が5人くらいいた。うち1人は少しペースを上げたボクに、今にも死にそうな激しい息遣いで500m(2~3分)くらい着いてきたのでちょっと驚いた。こういう人は翌日「大事な仕事」が控えていないのだろうか?いずれにしても、「自分自身と闘う」持久レースもそれなりに愉しいが、競争を意識した場合には自分でも想像しないような力を発揮する点が面白いと思う。ところでレース後2日目の今日は、レース完走後当日やレース翌日よりも明らかに疲れを感じるが、これはフルマラソンのときと一緒である。外はまだやや明るいが今日は早く寝よう。
2008.07.08
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スイム:2キロを48分バイク:90キロを2時間52分ラン:21.1キロを1時間59分トランジション1: 3分トランジション2: 3分計: 5時間45分昨年のハーフ・アイアンマン(6時間15分)から一気に30分短縮である。スイムが100m長く、気温が30℃近いという不利な条件が重なった割には我ながらよく頑張ったと思う。スイムはほとんどクロールだけで泳ぎきった。100mを2分20~25秒で泳いでいるのは大したものである。やればできるじゃないか。バイクは今回、会場の出店でカーボン製の車輪のデモをやっていた業者が両輪で1600ドル(16万円!)もするハイグレードな車輪をタダで貸してくれたのをつけて走ったところ、絶好調。90キロ走って、1人に抜かされた程度か(その間50~100人は抜いたはず)。最後のラン(ハーフマラソン)は、正午に差し掛かり炎天下での持久戦となり、かなりつらかった。脚も、過去1週間以内に2回も自転車で100キロ以上走ってパンパンになっていたため、ちょっとでも力むとすぐ攣りそうになったし。たくさんのランナーがバテて歩き始める中、1度も歩かずにサブ・フォー・ペース(1キロ5分40秒ペース)で走りきったのはなかなかエライ。トランジション(スイムからバイク、バイクからランの着替えその他)をそれぞれ3分で済ませているのもよくやった。気を抜かずにレースに集中していたことが伺える。とりあえず今年の目標は達成したので、今日はゆっくり寝て今後のレース参加について考えようと思う。
2008.07.06
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自転車トレーニングの道すがら、写真を撮ったので紹介します。街の中心から5キロも自転車を走らせると、林か牧草地の連続です今日は風も弱くてサイクリングには最高の天気です見づらいですが、北海道とかで見かける干草のロールですね道端に見掛けた野草の花畑です馬牧場も牛牧場もあちこちに見かけます「乗馬者に注意」日も傾いてきたので家に帰りますついでにボクの地下室の居間 まだ開梱途中の段ボールだらけです(おわり)
2008.07.03
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さて、金髪、栗毛、赤毛、黒髪の話の余談なのであるが、日本では基本的にみんな黒い髪に黒い瞳であったが、西洋では同じ親から生まれてくる子供が金髪だったり黒髪だったり眼の色が違っていたりすることから、まるでネコのようだと昔の日本人は気味悪がっていたものである。日本人同士が結婚して紅毛碧眼の子供が生まれてきたら父親が日本人ではないことは一目瞭然であるが、西洋人同士の場合、遺伝子の組み合わせによって、栗毛同士の両親から金髪が生まれたり、赤毛と金髪のカップルから黒髪の子供が生まれたりと、なかなかカラフルで一見すると楽しそうである。ただ、実際には髪の色や眼の色に起因する兄弟姉妹(とくに姉妹の場合)の確執というのが西洋の家族内ではしばしばあるようである。つまり、異なる毛色の複数の仔猫が産まれたとして、白猫とか三毛猫はすぐにもらい手が見つかっても、トラ縞や黒猫が人気がなくて最後まで売れ残るのと同じように、2人姉妹のうち片方がブロンド(金髪)で他方が黒髪だったりすると、えてしてブロンドの方がチヤホヤされ、他方は「自分は姉(あるいは妹)みたいに皆から愛されない」と思い込み、グレたり勉学で挽回しようと試みたりといったコンプレックスを生みがちなのである。ハッキリ言って、西洋の“女性市場”には生来の外見による歴然とした序列があって、ブロンドが一番モテるのは否定のしようがない。本来、遺伝上発現の確率の低いはずなのに、女優やタレントが金髪ばかりなのは偶然ではない。赤毛や栗毛は「個性派女優」にはなれても一般ウケする女優になる例はそう多くない。ましてや黒髪だったりしたら、ゴシック系の映画やドラマでのダークな役柄しか回ってこないであろう。実際、地毛である栗毛ではまったく箸にも棒にも引っ掛からなかった女優が、金髪に染めてから大ブレイクしたケースがいくつもある。西洋でも(とくに女性の場合)金髪がモテるのは、「金」というゴージャスな連想だけではないと思う。金髪には「純粋無垢」といったイメージがあることも忘れてはならない。白人の多くは、産まれてきたばかりの頃は髪の毛がブロンドであることが多い。しかし、みな成長するに伴い毛の色が濃くなり、大多数は茶色系統の毛色になってしまう。これはちょうど、日本人でも生まれたばかりの赤ん坊の髪が赤っぽかったのが成長するにしたがい真っ黒になるのと同じである。つまり、「金髪=無垢な少女」、「茶髪=成長した(純粋さを失った)女性」という印象が西洋人の前意識にあると思われるのである。無垢な少女のイメージの保った女性が「経験を積んだオトナの女」よりモテるのは特にキリスト教圏では明白であろう。宗教画のマリア像がえてして金髪の女性として描かれているのは言うまでもなく、西洋の肖像画のモチーフとなっている女性がブロンドである確率は、遺伝上の金髪の発現率より何十倍も高いはずである。ところで、白人の髪の毛は細い。(男性は触った経験がないので断定できないが、少なくとも女性は)本当に絹糸のようである。これは、毛色の薄い金髪ばかりでなく、東洋人並みに真っ黒な白人女性の髪の毛も、触ってみると金髪と同様に細くて柔らかいのに驚かされる。だから、白人女性の髪を指で梳いていると、とても気持ちいい。あと、先日の日記にも書いたが、金髪でもインモウが茶色だったりするが、これは必ずしも髪の色をブロンドに染めているからではない。金髪でも短くて密集していると、茶色に見えることが多いからである。たとえば、髪の毛が金髪でも眉毛は茶色であることが多いが、この場合インモウの色は眉毛の色と一致していると考えていい。一方で、髪がブロンドで眉も金髪の場合(プラチナ・ブロンドの場合はたいていこれである)、インモウもほぼ間違いなく金髪であろう。(これに合致しないケースを知っている人はボクに報告ください)ま、いずれにせよ、日本は島国で優性遺伝を繰り返してきた結果、みんな黒髪&黒い瞳になってしまい、おかげで異民族との混血や、突然変異で産まれてきた赤い髪や緑の眼の持ち主がイジメに遭ったり自意識の強い偏屈な人間に成長してしまったりといった弊害があるのは残念なことです。「単一民族」だとか公言してヒンシュクを買っている日本ではあるが、もう少しバラエティがあるのもいいかも知れない。
2008.07.02
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