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タイム:1時間47分(222人の完走者中69位、40代の男性20人中9位)ハーフマラソンは過去に5回しか走ったことがないのだが、これまでで一番遅いタイムだなあ。2003年に生まれてはじめて走ったハーフマラソンが1時間46分だったが、それより遅い。まあトレーニングの一環としてリラックスして走ったとはいえ、これより速く走ろうと思っても大して速く走れなかっただろう。まあマラソンのためにトレーニングしていた頃は月間250~300キロ走ってたけど、今は100キロやそこらに過ぎないので仕方ないけど。これまでも雨に祟られたレースを走った経験はある(2003年のバンクーバーマラソンとか)のでそれほどツラくは感じなかったが、それでもレースの最初から最後までほとんどずっと雨というのは気が滅入るものだ。かじかむ手、グチュグチュと音を立てるシューズ、濡れたシャツで冷える腹、あれは何度経験しても慣れるというものではない。まあ本番のレースに雨が降らないとも限らないので、こういう経験をしておくのもムダではない。それにしても、日増しに感じるのは加齢に伴う瞬発力の衰えである。かつてはレースの途中や終盤でペースを上げるのは雑作もなかったのが、この年齢になるともう筋肉が反応しない。持久力は40歳になろうが50歳になろうがトレーニングに比例して向上するが、瞬発力は若い筋肉繊維が成しうるワザなので、40歳を過ぎるとある程度維持は出来ても向上は難しい。それなりのトレーニングをしないと落ちる一方だ。まあオレの現在の目標はタイムではなく、アイアンマンという莫大な距離を制限時間内に完泳・完走することなので、スピード・トレーニングは基本的に不要だしハーフマラソンのタイムが落ちたところで何んら支障はない。ただ、フルマラソンの25キロ地点やハーフマラソンの最後の5キロ地点で前の走者をゴボウ抜きにするあの爽快さはもう味わえないんだなあ、とは思う。それにしてもゴール直前の100mで50歳前後のオヤジに煽られ、ムキになって競走してしまった結果であろうか、たかがハーフマラソンを走っただけでちゃんと筋肉痛がしている。8時間後は仕事で早出なので、そろそろ寝ることにする。
2009.04.26
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明日は今シーズンの幕開けとなるハーフマラソンのレースにトライアスロン・チームの仲間と出るのだが、なにせ連日の大量のトレーニングのせいで身体はつねに疲労しており、レースを迎えるような体調ではない。まあもともと記録や競走を目的に参加するわけではなく、今の時期から長い距離を走るのに慣れておくのが目的なので、多少疲労しているくらいの方がトレーニングになってよいのだ。さいきん気づいたのだが、毎日こうして莫大な量のトレーニングをしているのは単純に「体力をつけるため」だと思いがちだが、本来の意味はむしろ「疲労に慣れること」にあるのではないかとふと思った。長時間にわたって激しい運動をすれば誰でも疲れるわけだが、普通の人なら休養をとるところを、疲労をおして運動を続ける能力や根性を身につけることが日々の持久トレーニングの意味ではないかという気がしてきたのである。今日の買い物:カーボン製の車輪(10数万円也。)(写真を撮るのが面倒なのでネットで見つけた他人のものを借用)運動すると、筋肉の中に乳酸という疲労物質がたまる。この物質が身体に「疲れた」「だるい」という感覚を与える。マラソンではしばしば乳酸トレーニングといって、わざと脚が疲れている状態のときに長距離を走るトレーニングを組み入れているが、これは「疲れた→休もう」という本能的な反応に逆らって、乳酸でパンパンになっても走るという感覚を脚と身体に覚えこませるのが目的である。42キロという距離を走ればどんなに頑健な身体の持ち主でも脚が疲れるのは避けられないからである。アイアンマンのトレーニングもきっと同様で、4キロ泳いだり180キロ自転車をこぎ続けたり42キロ走ったりすれば身体中がこの疲労物質だらけになるのは道理なのだから、あとはいかに疲労しても停まらずに走り(泳ぎ)続けられるかを身体(と脳)に覚えこませるかがきっとカギになるのではないかと思うのである。要するに、毎日のトレーニングは、明日になっても回復しないようなレベルの疲労をわざと身体に与えて、それでも休まずにさらに長い距離を走ったり泳ぐことを習慣づけることにその意図があるに違いない。空気抵抗を極限まで減らすために表面に多数のディンプル(くぼみ)がついている言い換えれば、体力のあるヤツというのは一概に「すぐれた持久力の持ち主」というだけではなく、ほかの人と同様に疲労しても「休まずに運動を続ける能力(及び根性)の持ち主」だと言えるのではないか。「疲れた→休みたい」ではなく「疲れた→それがどうした」と言える根性を心身に養う、それがアイアンマン・トレーニングの究極の意味なんだなあ。...などと言いつつ、レースまであと9時間と迫ったので、そろそろ寝るのである。
2009.04.25
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先日、過去に書いた楽天日記をたまたま読んでいて思ったのだが、さいきん自分が書いてる日記はぜんぜん面白くない。更新頻度が低い上、たまにしか書かない割に内容がツマンない。2004年や2005年頃の日記は読み返していると、「バカだなー」と思いつつも、自分で感心してしまう(笑)。それに比べてさいきんの日記、とくにトライアスロンを始めて以降の日記を読み返すと、読んでいて「それがどうした」「だから何やねん?」と思ってしまうものが多い。理由は、自分でもそう書いているとおり、アイアンマンに向けてトレーニングで忙しくて日記を書くこと自体が疎かになっている上に、トライアスロンを始めてから「それ以外のいろんなこと」がどうでもよくなって、身の周りの出来事についてイロイロ考えなくなったことが大きい。しかし、今日ふと気づいたのは、特にここ数ヶ月の日記が一層ツマンナくなったのは、日本との接触が乏しくなったことと関係があるのではないか、ということである。実は2007年11月に日本に出張してから、もう1年半も日本に帰っていない。思い返してみると、過去10数年で日本を1年以上離れたのはこれが初めてである。あと、不景気のせいで会社が日本の新聞の衛星版の購読を止めてから数ヶ月になる。毎日楽しみにしていた新聞が読めなくなり、おまけに此の頃は夜も帰宅してからもすぐトレーニングに外出してしまうのでTVニュースも見れず、日本をはじめとする世の中で何が起きているのかよく分からないまま生活しているのである。日本や世の中で起きていることに関心がなくなっているから、何かを見聞きして面白いとか思う機会が極端に少なくなっている。また、日本語メディアとの接触が少なくなったため、日本語の語彙とか語呂とかノリといったものを忘れてしまい、同じことを表現するにも彩りに乏しいストレートな表現しかできない。…まー主な原因はそんなとこだろう。とは言っても、じゃあ日記を面白くするためにもう少し日本語メディアとの接触を増やそうとか日本に一時帰国しようなどといったつもりもなく、郡山ハルジなどといた偽名を使ってチンコやウンコのことを嬉々として書いているヒマがあったらトレーニングするなり積極休養するようでなければ、アイアンマンなどという一生一度モノの一大イベントの完走など覚束ない。目先のウンコ、一生のアイアンマンである。さいきんではかつての楽天ブログ仲間の大多数が楽天ブログを去ったり更新が滞りがちになり、今ではオイラのリンク先もホウロウ達人さんとトイモイさん(あとたまにプーニンさん)の独壇場となりつつあるが、彼らにはオイラに代わって今後クソやチンコや規制物質の話にいっそう力を入れて欲しいと思うのだが、どうか。
2009.04.20
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先週末:(金) 自転車 70キロ (2時間30分)(土) ランニング 16キロ (1時間30分) 水泳 4キロ (1時間30分)(日) 休養今週末:(金) 自転車 43キロ (1時間30分)(土) ランニング 18キロ (1時間45分) 水泳 3キロ (1時間)(日) 自転車 55キロ (2時間)(予定) もうすぐ4月も終わるのだが、カナダのトロント周辺はようやくこれから春というところである。日本ではもう桜が散っている時期だそうだが、このあたりではようやくネコヤナギが芽(というか、アレは花か?)を出し始めたところである。来週はまだ雪がちらつくとの予報だが、もう明日あたりスノータイヤをレギュラーに替えようと思っている。季節のせいかどうか知らないが、オレはいま体調がすこぶるいい。連日とてもマトモな社会人とは思えない量のトレーニングをこなしているが、さいわい体調を崩すこともなく、むしろコンディションは上向きである。おかげで、オレがトレーニング・ログをつけている「スポーツダイアリー」では、スイミング(5位)も自転車(17位)もランニング(28位)もすべてトレーニング距離上位30位ランキングにランクインするという快挙を成し遂げている。実は先週、クソのし過ぎのせいかケツの穴がヒリヒリするなあと思っていたら、ケツの穴のひだの間にポコンと痔核ができているのに気づいた。先週末にジョギングの最中に便意を催し野グソをした際、紙がなかったので地面の残雪でケツを拭いたのだが、あれで後門周りの血流を悪くしてしまったのが原因かも知れない。4年ぶりの痔の再発に、一時ちょっぴりユーウツな気分だったのだが、それから数日なるべく日頃からケツの穴に力を入れて緩ませないように気をつけていたところ、3~4日で痔核が消滅してしまった。毎日盛んに自転車に乗ったり走ったりしているのに、である。こんなに早く痔が治ってしまうなんて4年前には考えられなかった。仕事はそこそこ忙しく、若干の残業もあり、平日の睡眠時間は6時間を切っている。平日の晩に10何キロ走ってからプールで2キロも泳ぐとさすがに翌朝睡眠5時間半で起きるのはツライが、基本的に疲労からは一晩で快復している。それからちゃんと1日の忙しい仕事をこなし、帰宅してゆっくりする代わりにすぐに着替えて自転車に乗って外出し、1時間半で40数キロを走破して帰ってくる。とうぜん疲労しているが、気力は充実していて、毎晩赤ん坊のように眠れる(笑)。アイアンマンが完走できなくても、もうこれだけでもモウケモンかと思ってしまいそうである(笑)。単にひたすら距離を積むだけでなく、パフォーマンス向上のためにさまざまなバリエーションのトレーニングを組み合わせているので(実際はただコーチの指示に従っているだけだが(笑))、タイムも日ごとに向上している。ランニングは、何週間か前と同じ主観的強度で走って、1キロあたり5秒以上速くなっている。10キロ換算で1分、ハーフマラソンで2分タイムが向上する計算になるので、5秒もバカにならない。自転車もツラいインターバルや片足漕ぎを週2回こなしているので、山あり谷ありの屋外での実走でも実にラクに感じる。今日は1500mクロールのタイムを計ってみたところ、実に31分(100m2分4秒平均)で泳げた。これはもはやオリンピック・ディスタンスのトライアスロンでも人並みのタイムである(笑)。思えば2年前に初めて1500mを泳いだ時のタイムは43分だった。…というか、当時はクロールで連続して泳げる距離は数百mがせいぜいだったので、1500mの半分以上は平泳ぎと背泳ぎで泳がざるを得なかったのだ。2年でようやくここまで来たか…というちょっとした感慨に今日は浸ってしまった。あこがれの鰹のたたき日本式ベントウ運動した後はメシも美味いぜ。…ああ、なんだかポジティブ過ぎて、美都サンの登山日記みたいじゃん。
2009.04.18
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使い捨てコンタクトレンズが切れたので、インターネットで注文したコンタクトが到着するまでの間、先月レーシック手術のために検査を受けた際にもらった度の強い試供品コンタクトを入れた。オレはかつて絵を描いていた関係で、コンタクトもメガネもワザと度の弱いものを入れている。どうして絵を描く上で度を弱くする必要があるのかは長くなるので説明を割愛するが、とにかく、両目とも(日本の基準でいうところの)2.0の状態になったのは中学以来のことであった。自動車を運転していて、たまたま眼に入る道端の樹々の細い枝先までがクッキリ見える。小体育館くらいの広さのある工場事務所の向こう端の壁に貼られているポスターに書かれた字が、目を細めなくとも読める。それほど感動があるわけでもないが、まあ、それまでボヤケていた世界が突然クッキリしたなあ、という新鮮な印象はある。ただ、仕事でコンピュータのモニターを見ていて、やたらと肩が凝るようになった。後頭部から左肩にかけて、肉の奥の方を掴まれているような感じである。最初は水泳のし過ぎで腕や肩が疲れているのだろうかと思ったが、休養週にトレーニング強度や距離を落としても症状は緩和されない。やがて、眼の奥の方が凝った感じと肩の痛みが微妙につながっているような感覚があることに気づき、これが度の強いコンタクトを入れたせいではないか、とオイラはふと思ったのである。先日ようやく注文していたコンタクトレンズが届いたので、度の強いのを棄てて、昔ながらの度数のコンタクトを入れた。案の定、何週間も続いていた肩の凝りが、数日で消えた。コンピュータのモニターを何時間見ていても、眼の奥のほうが凝るような感じもない。度数が弱いということは、眼の焦点がより近くに結ばれるということだから、目先のモニターを見つめる分には眼に負担が掛からないのだろう。ただ、壁に貼られたポスターの字は、よほど眼を凝らさないと読めなくなった。自動車の運転席から見る道端の樹々の枝ももう見えない。木は、ただの木、背景の一部である。何せ、数週間のあいだ「すべてがクッキリ見える」状態に慣れていたので、それまで見えていたものが見えなくなって不便に感じるかと思ったが、それほどでもなかった。何というか、世界は「背景(地)」と「図」に分かれている。すべてがクッキリ見える状態というのは、目に入るものすべてが図になり、背景が極端に少なくなる状態である。たとえば、自動車を運転している時、道端の樹々は背景に過ぎず、木の1本1本ましてや枝先には意味はない。言い換えれば、運転者にとって枝先まで見える必要性はないどころか、そんなものまで見えるのは却って邪魔なのである。簡単にいえば、視力2.0の世界というのは「図」だらけの世界で、情報が多過ぎて疲れるのである。自分が注意を払わなくとも、目に入ったものがいちいち意味をなしてしまうのは、眼球の動きも増えるし脳内での情報処理量も増加するので、目にも脳にも負担を掛ける。だから、「すべてがクッキリ見える」状態が理想的かというと決してそういうわけではなく、自分が注視しないものがある程度ボヤケて背景(地)に退いてくれるからこそ、人間は安楽に健康に暮らせるのであろう。まあこれは、視覚に限らず、人生一般に言えることではあろうが(笑)。先月はレーシック手術を受けようと一度は決心した自分であったが、要するにオイラのような繊細な人間にとって「視力2.0」の世界というのはもともと耐え難い世界だったということだろう。矯正視力で仮性近視手前の0.8くらいの現在の世界像が、自分にはちょうど合っているのだなあ、と改めて感じている次第である。
2009.04.17
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先日の日記に書いた「第三の性」(「男女どっちも」あるいは「男女どっちでもない」)について、オレがお気に入りに入れているX51.orgに多数の写真入りの非常に具体的な記事(及び訪問者の書き込み)があるのを発見したので、ぜひ見ておこう!ところで、このウェブサイトを訪問されるほとんどの人にとって関心ないことであるが、オレのアイアンマン・トレーニング24週間プログラムは4週間でひと区切りになっていて、4週目が休養週である。1週間目→2週間目→3週間目とトレーニングの強度を上げていって、4週間目にトレーニングの量と強度を減らし、3週間で溜まった疲労から心身を回復させるのである。そうすることで、リフレッシュした心身で(さらにトレーニング強度の高い)次の4週間を迎えるのである。そして、この4週間を6回繰り返した24週目にはアイアンマンを完走できる体力がついている、という目論見である。今週はオレがこの24週間プログラムを開始して初めての休養週であった。過去3週間はなかなかシンドかった。まさに疲労が「蓄積する」という感じなのである。とくに、この年齢になると筋肉痛などの症状がトレーニングの2日後くらいにならないと出てこないので、自分が無理をし過ぎたことに気づかないまま無理を重ねてしまいがちである。3週目の最後の方は走っても脚が上がらず、まさにマラソンの最後の5~10キロといった気分であった。ようやく4週目に入ったときは、ダウン寸前のボクサーがゴングに救われた感じであった。ところで、強度の強いトレーニングを始めると、明らかに体調が変わってくる。まずはクソの頻度である。エネルギーを補給したそばから消費されるので、食ったものはあっという間に消化され、排泄される。メシもクソも1日3回といった感じである。ちなみにこれはマラソンをしていた頃にも経験した。あと、毎日走ったり泳いだりで全身まんべんなく疲労しているので、腹にも力が入らなくなるのか、複式ではなく肺式呼吸になり、声のピッチが高くなってくる。これが4週目になるとようやく身体がリラックスして複式呼吸になり、しかし元気はないので(笑)、無愛想な低い声になる。あと、これは長時間水泳をしているせいかも知れないが、耳が常に冷たい。あんまり冷たいので、自宅にいる時は耳掛けをしているくらいだ。体力がつくのはたしかに実感する。いちばん判りやすいのは心臓だ。寝る前とかに手首に指をあてて脈拍を測ってみると、異常に遅くなっている。いわゆる「スポーツマン心臓」である。キツいトレーニングの翌日などに階段なんかを登って脚がクタクタでも、脈拍は平常のままだったりする。もちろん持久力も目に見えてついてくる。1時間やそこら走ったり自転車を漕いだりしても疲労を感じない。1時間半くらい続けて運動するとようやく疲労を感じるが、その峠を越えると、また疲労を感じる前の調子に戻る感じ。しかし、その程度の持久力ではアイアンマンはおろか、ハーフ・アイアンマンの距離(水泳2キロ、自転車90キロ、ハーフマラソン21キロ)でも覚束ないのである。なにせ、ハーフ・アイアンマンで6時間、アイアンマンとなるとゴールまで(オレのレベルのトライアスリートでは)13時間連続で運動し続けなければならないのである。まあ、4週間でこれだけ明らかな違いを感じるのだから、次の4週間、さらに次の4週間…とトレーニングを積み重ねていけば、オレのようなレベルのアスリートでも20週間後にはきっと13時間連続で運動を続けられるレベルに到達するのであろう。言い換えれば、毎日平均2時間以上もの時間を費やせば、オレのようにもともと人並み以下の体力の持ち主でも半年でアイアンマンを完走するだけの持久力を身につけることができる、ということでもある。(まあ、どこかで身体を壊す可能性も大いにあるが...(笑))それにしても、オレが1日平均2時間以上をトレーニングに費やすような生活ができるのも、出張もなければ残業も極めて少ない契約社員の立場だからにほかならない。前の仕事を続けていたり、オレに育ち盛りの子供がいたりしたら、どこかの時点でアイアンマンを断念するか、あるいはアイアンマン完走のために仕事を辞めるなり妻子を棄てる決断をしていたことであろう。かつて放浪の達人氏も評していたが、アイアンマンになるということは鉄のような身体を身につけるのみならず、立身出世や妻子を顧みない鉄のような心を養うことなのである。
2009.04.10
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昨日の日記で、1) 男女2つの性が対(つい)になっているというのは文化が仕組んだ幻想であって、2) 実は女性だけが人類の基本形(mankind)で「唯一の性」であり、3) いわゆる「男性」と呼ばれている種類の人間は、テストステロン(男性ホルモンという名の変異誘発ホルモン)のせいで女性のような妊娠・出産能力を失い、代わりに個体保存能力を発達させた奇形というかあだ花のような種であり、4) しかも男性は、一個の独立した性というより、テストステロンの分泌の程度によって、より女性に近い者から、女性的な特徴をほとんど喪失した者まで、1つの性で括るには無理があるほどの限りないバリエーションがある…という仮説を述べた。昨日の日記の冒頭で触れた『The Third Sex』というドキュメンタリーには、ゲイやレズのような性的志向上の逸脱ではなく、クラインフェルター症候群のような解剖学的に男性とも女性ともつかない人たちが多数登場したのだが、彼らの一部は「男」とか「女」とか自分で意志的に性別を選択した人もいる一方で、多くは(文化の押し付けである)男女の性別を拒否し「第三の性」を自称して生きている事実が興味深かった。問題は、彼らがいくら「第三の性」を自称したところで、社会が認知しない点であった。昨日の日記にも書いたとおり、世の中は「男と女の2種類しかいない」という幻想で成り立っており、社会には「第三の性」の居場所がないからである。たとえばトイレ。よほど狭い飲食店でもない限り、トイレは男女別だ。風呂場や着替え用のロッカーもそうだ。「第三の性」の人はどっちに入ればいいのか。男女用のどちらに入ってもきっと誰からも怪訝な表情でジロジロ見られるに違いない。たとえばスポーツ競技。ほとんどどんなスポーツ競技も男女は別になっている。身体能力はテストステロンを分泌している男性の方が高いので、男女一緒に競技したら不公平だからだ。「第三の性」の人はどちらに参加したらいいのか。かつてスポーツ選手で世界記録を樹立したり金メダルを獲得した女性選手が、後になって両性具有すなわち「男女どっちも」の人だったことが判明し、その記録だかメダルが取り消しになった例があった。仮に「どっちも」の人が社会的に女性として生活していても、スポーツ界は女性として認めてくれないのだ。かといって完全に男性化していない「第三の性」の人が、男性と対等に競えるとも思えない。衣類だってユニセックスのものは限られている。サイズだって男性用と女性用のSMLは違う。っていうか、衣類はえてして異性へのセックスアピールを意識して男性性・女性性を強調したデザインになっているので、衣類を選択する時点で男女の性別を無理やり選択させられかねない。文化が仕組んだ“性別”なんて幻想を放棄してしまえば、「第三の性」どころか「無限の数の性」になって、こういう少数派の人たちも生きていくのに困らなくない社会になることだろう。しかし、そんな無性別社会やユニセックス社会は当面は到来しないと思われる。というのは、人類の性欲を支えているものこそ「陰・陽」や「凹・凸」といった対幻想であって、この幻想がなくなっては生殖すなわち人類の存続が危ぶまれるからである。たとえば、異性のチンコやマんコや、筋骨や乳・尻etc.の魅力を支えているものこそ、この「陰・陽」「凹・凸」の対幻想なのである。実はチンコとはマんコが変異したものに過ぎないとか、女性の胸と肉付きのいい男性の胸に根本的な差異はないとかいう事実が世間の常識になったら、「異性の身体的魅力」なんて無くなってしまうだろう。ましてや髪型とか衣類で無理やり女性性や男性性を強調しないユニセックスな社会になってしまったら、現代人なんてほとんど(異性に対して)発情しなくなるのではないか。だから、社会は男女2つの性の対幻想をゼッタイ放棄しないし、「第三の性」あるいは「n個の性」はきっと永遠に世間には認められないのだ。レズやゲイが、男女2性の枠内に留まりむしろ対幻想を強化する結果になっていることで、社会的に認知されるに至った一方で、「男女どっちでもない」人たちは潜在的な「破壊分子」「人類の敵」としての側面を有することで、当面は「おばけ」扱いされる境遇にあるということか。だからせめて、「n個の性」やユニセックス社会への過渡的段階として、「女性だけが唯一の性」で「それ以外は変異」というボクの考え方が浸透すれば、トイレも「女性用」と「その他用」、スポーツ競技も「女性(mankind) の部」と「それ以外(変異者)の部」といった分類になって、こういう少数派の人も生きていきやすくなると思うのである。…どうでっしゃろ?
2009.04.04
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先日テレビで放映していたドキュメンタリー『The Third Sex』はとても興味深かった。ちなみにthird sexというのは3回目の性 交のことではなく、「第三の性別」のことである。世間ではしばしば「男女は仲良くしなければいけない」とかいった意味で「世の中には男と女の2つの性別しかない」とか、「世界の半分は男(あるいは女)」とかいうのだが、厳密にはそれは事実ではない。中学の生物の授業に習ったとおり、卵子はX染色体を持っていて、一方で精子はX染色体を持っているものとY染色体を持っているものと2種類あって、X染色体を持った精子が受精すればXXで女児になり、Y染色体を持った精子が受精すればXYで男児になる。一方、高校の保健の授業に習ったとおり、たまにXY両方の染色体を持った精子がいたり、あるいはXの染色体を持った精子とYを持った精子が同時に受精してしまったりした場合などに受精卵はXXYとなる。これが、男性と女性の両方の染色体の組み合わせを持ったクラインフェルター症候群である。この染色体異常の胎児は、いちおうチンコを持って生まれてくるので男として育てられるのが普通だが、思春期になっても声変わりしなかったり、チンコが成長せず精子が作られなかったり、乳房が膨らんだりという症状を示し、中性的な印象を与える人物に成長することが多いよらしい。卵子がない上に精子も作られないので通常は生殖能力もない。ほかに、染色体はXYで、遺伝子学上はまったくの男性なのだが、胎内にいた際に何らかの原因で男性ホルモン(テストステロン)が分泌されなかったために男性的な身体的特徴が形成されず、外見的にはほぼ女性として生まれてきたために、親も自身も女性であると信じきって成長してしまうケースもある。不妊症で産婦人科を訪れ、染色体検査で初めて自分が「遺伝子学的に男性」であることを知る...というのがよくあるパターンのようだ。同様に、胎内にいた際のテストステロンの分泌の具合によって、男女両方の特徴を備えたまま生まれてきて、とりあげた産婦人科医による「男」とか「女」とかいった性別の判断をそのまま真に受けて成長し、思春期になって異変に気づくケースもあるらしい。ワタシはどっち? このような染色体異常などによる「男女どっちでもない」あるいは「男女どちらもある」という人は1000人に1人(0.1%)くらいいるそうで、要するに日本国内だけでも10万人はいるわけだから、10人に1人と言われるゲイやレズに比べればずっと少ないとはいえ、ないがしろに出来ない存在である。一般に男女というと、まるで磁石の正と負の極のように、正反対の性質を持った両極がお互いを求め合うものだとか、あるいはボルト(ネジ)とナット(ネジ穴)のように、2つが合わさって完全なものになる補完的な存在だとかいった「二極」「補完」の幻想が根強い。言うまでもなくそれは文化が強制した幻想に過ぎない。現実は、もともと人間は胎児の初期はみんな「女性」形で、正も負も、陰も陽もない。XYの遺伝子を持った「男性」の胎児もXXの「女児」の胎児も、みんなマんコ(の原型のようなもの)がついている。それが、受精後1~2ヶ月目くらいにXYの遺伝子を持った胎児にのみテストステロンが分泌され始めると、陰核の部分が肥大しチンコになり、陰唇の部分に睾丸が下りてきて陰嚢になる。要するにマんコとチンコは「陰・陽」や「-・+」の関係なんかではなく、「同じ仲間」なのである(笑)。 クリックすると、どの部位が何になるか分かるアニメにジャンプだから、上記の例のように、胎内でのホルモン分泌の加減によって、マんコとチンコの中間の状態で生まれてくるヤツや、マんコもチンコもどっちも発達した状態で生まれてくるヤツが出てくるのは生物学的な必然だということなのだろう。こうして考えると、男女という対極的な2つの性が存在するというよりも、女性こそが人類の基本形(mankind)であり「唯一の性」であって、人によってテストステロンという“変異誘発物質”の分泌の度合いに個人差があるだけの話で、この分泌量が多いほど本来の人類の形から逸脱していく…と考えたほうが実際的なような気もする。 まだ話が終わっていないのだが、長くなってきたので後日につづく。
2009.04.03
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