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東に向かう。小京都なので、当然低い山が連なる。そこに、鴨川のように小川が流れている。一の坂川である。清流である。しかも、土を残して、蛍が住める様に気をつけている。このまま、街中を横断するこの川は、毎年蛍が飛ぶ。大学時代はその有り難さは分からなかったが、今はとても貴重な川であることが分かる。この様な小さな森も整備している。官軍の錦の御旗を作った工房跡もその辺りにあった。県庁所在地と言いながら、これといった産業もなく、まだ中心部も昔工法の家々が残っている。これは庶民の家。これは弁護士さんの家のようだ。明倫館跡に、赤レンガの観光拠点が作られていた。橋から玄関に入る家。唯一の商店街、道場門前にたどり着く。ひとつだけだったが、京都にあるクランクの様にZ字路なっている小径を見つけた。京都では辻子と呼んでいたが、元の意味は厨子だと言う説もある。単に人の流れをまっすぐ通れない様にして関心を持たせただけでなく、この通りに神様を祀っているのが特徴だ。ここにも西向き地蔵が祀られていた。この道場門前通り。かなり前からの歴史があるらしい。これも初めて知った。その西端の安部橋のたもと枕流亭跡があり、薩長同盟を相談したところらしい。この辺りを歩いたのは、ひとつのミッションがあったからだ。新聞会のゆかりの地を訪ねるのが今回の大きなテーマなのだが、この町の一角の何処かに、山大新聞を印刷していた印刷所、俗称「けんしん」(山口県新聞社の略だろうか)があったはずなのだ。当時としても、珍しい活版印刷で、ひとつひとつ文字を拾って作っていた。流石に今は無いはずだ。跡地だけでも特定したかった。住所はわからない。行けば思い出すのでは、と期待したが、ほとんど思い出せなかった。よく門前でトンカツを食べたのだが、当然その店もなくっていた。とうとう諦めた。もう2時前になっていたので、一の坂川沿いの一柳という食事処で定食を食べた。思いのほか、あら炊きや酢物が豪華で、これで千円弱は安かった。そのあと、県立博物館に車を取りに行っていると、市役所隣にもしかしてあるかな、と行くと本当にあった、昔初めて「辛いカレー」を食べて感激して数回通った「ぶるうべる」がまだあった。ご主人に聞くと、40年間やっているらしい。私が食べたのは、開店して間もなくだったのだ。ここは辛みで辛くしているのではなく、香辛料を煮詰めて行ったら、美味しく辛くなったという辛さなのだ。ルーを別に盛っているのも、薬味にらっきょを使っているのも、今では当たり前だけど、あの時は衝撃的だった。そうそう、こんな感じだった。ご飯の上にうずら卵が載っている。とってもおしゃれで、1食600円近くしたので、特別な時にしか食べなかった。今でも800円だ。信じられない。美味しい。あまり辛く無いが、辛い。定食を食べたあとだったので、食べきれるか不安なほどに腹一杯になった。県立美術館横にひっそりと説明立て看も立てずに「青春譜」の石碑かあった。明治32年建立と読める。この辺りにあった山大の寮歌だろう。これはもっと注目されていい石碑だ。コーヒーを飲んでホテルに帰る。夜は軽く、昨日の同窓会の二次会の場所「ROCCA」で、ワインと秋刀魚のアヒージョで終わらした。13620歩
2019年09月25日
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9月15日 晴れ 2日目朝の朝食。車でザビエル聖堂前まで行ってみる。今日はミサがあるということで、駐車場は満杯だった。91年の焼失によって、98年に再建されたというこの記念聖堂を観たのはこれが初めてだった。元のどっしりと構えた茶色い聖堂から一新してモダンな建築に変わっていた。洞穴の中のマリア像。外なので、焼失からは免れているはず。最近このような事情で鐘が寄贈されたらしい。打たせてもらった。余韻の残る見事な鐘だった。このザビエル聖堂がある亀山記念公園には、思い出がある。あれは80年の12月8日のことだった(と思う)。私たち新聞会は、忘年会を終えてたいていはこの公園に登ることが多い。酔い覚ましの運動である。その日、ジョンレノンが射殺されたという一報が入ってきた。私は、そんなに思い入れはなかったが、相当なショックを受けている先輩の影響もあり、その時のこの階段からの眺めが未だに頭に残っている。平和を願った世界的ミュージシャンの死を、世界的に有名な聖堂が悼んでいる。気がした。亀山記念公園の頂上からは、龍泉寺方向の市街などがよく見える。これは、県庁方向。かつて、新聞会で、60年安保の体験者の話を聞くために、私がインタビューをしに行った木造の県庁はもはやない。これは湯田温泉方面。ずっと向こうに山口大学があるはずだが、見えない。そのあと、山口市歴史民俗資料館に向かう。博物館フェチとしては、空いているところは一応チェックしておかないと、という気持ちだったのだが、実は今日最大の収穫だった。企画展は「信仰でたどる江戸時代」だったのだけど、常設の考古遺物がとても充実していたのである。県立博物館の比ではなかった。こういうことはよくある。私の関心事、弥生後期の遺跡は、ここにもあった。赤妻遺跡(山口市内付近)、上東遺跡、下東遺跡(湯田温泉東あたり)と、弥生から古墳時代にかけて、やはり住居などが発掘されていたのである。弥生終末期、山口県空白説は、これにより先ずは宙に浮いたと思う。しかも、この遺跡からは下関の綾羅木郷遺跡に特有な木の葉紋の土器も出土していた。自然模様のようで、幾何学模様のよう。この紋様の変遷はとても興味があるのだが、いま私はそこまで手が伸ばせない。誰かやってもらえないかしら。いちおう、県立博物館に行く。まあ、総合博物館なので、地学とか生物とか理系の展示が多い。秋吉台を形成している石灰石は、もともとはサンゴ礁だったかららしい。つまり、あの山は元々は海の底だったのだ。ところが、すぐそばにはジャングルもあり、それが積もって泥炭層になっていたりするから、数億年前の山口県は、海やら森やらあるグズグズの浅瀬だったわけだ。県立博物館なのに、あまり質のいい土器は置いていなかった。考古学コーナーは申し訳程度にしか無い。全ては下関市の考古学博物館にあると言う事なのだろう。しかし、県教育委員会の力の入れようの無さには呆れた。県立博物館に車を止めて長いお散歩。瑠璃光寺隣の洞春寺に行く。毛利元就の菩提寺。そこにある美術館に寄るためである。そこにある「のむら美術館」という小さな美術館。観覧料200円。割と良かった。なんでこんなものがここに、というものがたくさんあった。我が郷土備前国の江戸時代の画家、岡本豊彦の絵もあった。差し障りがあるので、絵は見せれない。なんと、伊藤若冲の絵もあった。鶏がビックリ顔をしている。ほとんどマンガである。この革新性は正に若冲!でも、なんでここに?間違いなくホンモノらしい。雪舟の絵もあったが、こちらは管理人の方は「多分」と歯切れは悪かった。一つの目玉として、桂小五郎(木戸孝允)が、桜田門外の変の時に、たまたま隣の長州藩屋敷に居て、(どの時点でかは不明だが)事の次第を見て、水戸藩士の「快挙」に共感して、各地の同志に決起の檄を飛ばした文章が昭和の時代に発見されて、(何故か)この美術館に展示されていた。桂小五郎の文章は達筆である。勢いは、そのまま桂小五郎の心情を表しているのかもしれない。それにしても、何故こんなものがここに?隣の瑠璃光寺五重塔に行く。近影。亀山公園から見た五重塔。そして近づいて見た近影。日本三大五重塔の一つらしい。全部で41基が作られて、現存している。(現在は67塔)瑠璃光寺資料館には、その全国の五重塔模型が全て展示されていた。この日は暑かった。久しぶりにかき氷を食べた。瑠璃光寺には、実は初めて来た(と思う)。もしかしたら、入学式の時に母親と来たかもしれない。どちらにせよ、山口市最大の観光地なのだが、大学時代一切興味がなかった。今回は湯田温泉といい、瑠璃光寺といい、40年経って、やっと山口を観光した。そうは言っても、普通の観光とは少し違う。五重塔を見た司馬遼太郎の碑があった。まぁ私もそう思う。小京都といいながら、都会には無い、優しさがある。ところが、田舎とも言えない。雅なところはある。面白い。若山牧水歌碑もあった。はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 古塔のもとに 立てる旅人明治40年6月に中国地方を旅した時にここに寄り詠んだらしい。岩越しに塔を見る。
2019年09月24日
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いつも大学前の長門館で夕食や夜食を取っていた。ないと思っていたが奇跡的にあった!なんか半分はジーンズ屋になっていたがやっていた。ところが、中は真っ黒。ジーンズ屋のいうには、いつもはやっているけど、お昼お休みかもしれないとのこと。ここでも昼食を食べれなかった。ここの中華丼がたまらなく安く大盛りで、野菜もとれてみんなの栄養素になっていた。今はどうなっているのか知りたかったが、仕方ない。前に書いた通り、新聞会の部屋は大学外のアパートにあった。今はなくっているが、その場所を確認した。こんなところだったっけ。なんか、あまり感慨が湧かなかった。一回一番左側の部屋だったはずだ。前に神社がある。それも思い出せない。この前の小川は、椹野川の支流で、毎年蛍が見えた。そのことだけはよく覚えている。その日のホテルに入って遅い昼食をとった。そのあとホテルに入り、大学入試の際に泊まった旅館で入って以来40年間、おそらく1-2回しか入っていない(大学時代には一度も入っていない)湯田温泉のお湯に入った。単純アルカリ泉。大学時代には、いつでも(外湯に)入れると思ってとうとう入らなかったのだ。お金がもったいなかった。同じ理由で、成人式にも行ってはいない。‥‥それはそうと、さっぱりしてホテルのすぐそばにあるとある磯くらという料理屋に向かうと、新聞会OB会と言いながら、私の先輩しかいなかった。総勢19名。同期も後輩もいなかった。ほとんどが連絡が取れない状態らしい。私も、先輩がFacebookで検索して連絡してきたのだ。ちょっと怯む。そうは言っても、私の先輩の4ー5年上までが上限までの先輩たちばかりなので、一度はお目にかかった方達が多い。しかも、席は1−2年先輩の人たちの所に紛らせてもらったので、なんとか楽しく過ごさせてもらった。ここでは紹介出来ないが、当時の写真や当時の思い出話に花が咲いた。新聞会は、私のすぐ後輩の代で消滅したようだが、誰一人としてその真相はわかっていない。「おまえは時間があるんだから、この連絡先の空白を埋めろ」と先輩が命令してきた。「いや、無理です。それに、最近は忙しい。手がかりもない」しかし、まるきりないことはない。僅かな手がかりは、久しぶりにもらった連絡先一覧に少しある。少しはやってみようとも思った。次回は2年後に決まった。しかし、東京在住の方も多いのに、よく集まったものだ。
2019年09月22日
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9月14日、おそらく20数年振、卒業して36年ぶりの新聞会同窓会で、山口に行きました。同窓会レポートをするつもりだったのですが、やはり何処に行っても遺跡めぐりはやめられません。どっちつかずのレポートになりました。3日分を3回で終わらそうと思ったけど、無理みたいなので、6回連載になります。前半4回は、古代レポートが含まれているけど、山大新聞会にカテゴリーさせます。新聞会メンバーの詳しい紹介は出来ないけど、例によって旅レポートだけはしておこうと思う。今回は軽四を飛ばして、4時間半かけて来た。小郡インターで降りて、先ずは向かったのは朝田遺跡(どうしても古代レポートになる)。ところが、住所を調べて地図アプリに入力しても一向に場所を示さない(どうやら遠に消滅した住所だったのかもしれない)。朝田のコンビニで、ダメ元でで朝田遺跡の場所を聴くと、なんと教えてくれた。これは遺跡巡らーにとってはとっても珍しいことです。どうやら維新公園の中にあるらしい。「20年前のことだから」とオーナーは詳しい場所は、わからないようだったが、それなりにこの遺跡の発掘は大きな出来事だったようだ。少し迷ってたどり着く。どうやら小山の上にあるらしい。国道9号線を作るにあたって、発掘された遺跡であり、国道のトンネルの上にあった。国指定になっている。道理で綺麗に復元されてあるわけだ。私はメインは古墳時代で、弥生がかすっているのかと思いきや、そうではなくて、弥生から古墳にかけてずっと続いていて、しかも大きくはないが、土壙墓や周溝墓、壺棺墓や石棺墓などあらゆる弥生墳墓が集合している、墳墓群だった。これだけ多くの墓がいっぺんに集まっているのは、珍しい。しかも、山口県には、後期弥生遺跡が無いと聞いていたので、「あるじゃないか!」と思った。そのあと、実は大学時代下宿していたところへあいさつに向かった。既に住所も名前も忘れていたので、たどり着くだろうかと心配していたが、もしおられた時のことを考えて倉敷名物「むらすずめ」の5個入り1番安いやつ(おられたら夫婦2人暮らしなのでそれで十分)は買っておいた。なんと一度も迷わずにたどり着いた。自分でもびっくり。25年ぐらい前に一度あいさつに伺ったことがあるのだが、よく考えたらあの時はバスで行ったのだ。家は空き家みたいになっていた。あの時は離れを利用して2部屋だけを下宿にしていた。四畳半一間一か月1万円という破格の下宿代だった。二人だけの共同でトイレ風呂が付いていた。これなしでは、奨学金5万、仕送り3万、アルバイトもせずの生活はできなかっただろう(食費は外食ばかりで4万、部屋代1万、あと3万円で本や諸経費を作っていた)。それなのに私は卒業時、軽く荷物をまとめて、掃除もせずに、バタバタと出て行った。確かまだまだ小さな荷物もあり、風呂やトイレはかなり汚かった筈だ。あとで、なんと失礼なことをしたのかと思った。25年前に一度詫びて許してもらっているのだが、思い出すたびに恥ずかしい。この一部屋から田んぼの風景がいつも見えた。冬は必ず雪で真っ白になった。盆地の山口は必ず雪が深く積もるのである。ここから見える風景は、なんと36年前と少しもかわっていない。ここは、町から遥か離れた郊外の下宿宿だったのである。最初の1年は自転車で通っていた筈だ。でも、高校の延長だから、なんとも思わなかったようだ。この日は離れに甥が一人で住んでいた。家の売れるまでの管理として住んでいるらしい。叔母夫婦は3年前に亡くなったらしい。手土産を置いてお礼を言って帰った。山口大学に行ってみた。教養学部、1番2番教室。ここで大学祭の講演をやった。この前で、いろんなチラシを撒いていた。今日は土曜日で人っ子ひとりいない。昔は土曜日は休みじゃなかった気がする。人文学部。そうだった。こんな建物だった。不思議なことに何一つ思い出がない。何処に自転車やカブを止めていたのか、一切思い出せない。それほどまでにここで学問をした覚えがない。新しく学生施設を立てるにあたって発掘したらしい。ここへ来た目的の一つは、ここの遺跡を見るためだ。山口大学埋蔵文化センター。その前に、遺跡から移設した墓石があった。ここも、遺跡跡。もう一つの目的は、ここの学食で昼食をとること。ところが、土曜日は休みだって?なんてこった。
2019年09月21日
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ひとつ、昔話です。初めて生で噺を聴いたのは、我々が主催した落語会だった。 大学時代、新聞会という自治組織に入って新聞をつくっていたというのは、以前書いたことがある。なぜ自治組織(自治会)か。入学当初、まだ右も左もわからない新入生に手紙が行くことになっている。大学には学生の自治組織がある。独立採算制なので、会費が必要だ。引いては、四年間の会費を振り込んでもらいたい。と。ホントは払っても払わなくてもいい。でも多くの学生は払ってしまう。数十年経ったいま、思うのは「完全に騙し討ちだった」。そうやって、文化会・体育会・新聞会・大学祭実行委員会・女子学生の会の「五自治会」は運営していた。もちろん、新聞会は義務として新聞を毎月発行していて全学部に無料で配っていたし、会計報告はしていた。他の自治組織はそんなことさえしていたとは思えない。 話がとんでもないところに行ってしまった。閑話休題、その自治会費還元の一環として毎年大学祭に企画を行う事になっていた。2年の時に、落語会を企画した。「何処かの大学でやったらしんだけど、笑福亭松鶴という落語家はものすごく安い出演料で、貧乏学生のために落語を聴かせてくれるそうだ」当時の大阪出身の先輩がそんなことを言ったのがキッカケだったと思う。 私は新聞会文化部だったので、企画のメンバーになった。上方落語(東京の落語に対してこういう言葉があることさえ、その時に初めて知った)の学習会のレジメをつくった覚えがある。大阪の戦災で、戦後上方落語は壊滅的な状況にあった。その時に、地域で落語会を開きながら上方落語を復興させたのが、若き六代目笑福亭松鶴含めた上方四天王の落語家だった。その経験があるからだろう、当時誰もが認める名人だった松鶴が、学生とは言え、わざわざ山口までやってきて上方落語を広めようとしたのだろう。とは、数十年経ったいま、やっと分かることである。ホントは山口市民に広く知らせて、大講義室に立ち見が出るほどの興行をすべきだったと、たった今、初めて思うところである。果たして、講義室が満員になったかどうかは覚えていない。お礼は、交通費込みで20万円だった覚えがある。チケットは確か500円だった。 私は山口県小郡の新幹線が着くプラットホームに松鶴師匠を待っていた。普通のお年寄りが降りて来た。お弟子さんらしき人が、浴衣で風呂敷包を持って一緒に降りて来たので、初めて師匠だと気がついた。タクシーで山口市の大学まで送ってゆく。世間話なんてできなかった。師匠からいろいろと聞いてきた。「山口の学生がよく飲んでいるお酒は何?」「いつもは角瓶です。でもたまにオールドになるとすげえな、となります」「郷土の日本酒は?」「やっぱり五橋(ごきょう)かなあ。今回は五橋なんだ、となると盛り上がりますね」五橋とは岩国錦帯橋に由来するお酒である。 大講義室の高台に座布団を敷いただけの簡単な高座である。師匠は先ず「饅頭こわい」を演った。私はお囃子を準備出来ていないことをうじうじ悩んでいたが、噺を聴き出して、そんなことを全て忘れて観て聴き入った。今さっきまでいたよぼよぼの爺さんが、いま、たった1人で長屋の人物群を苦もなく演じ分けて、しかも私はいつの間にか久しぶりに爆笑している。「生の落語ってすごいんだ」 そのあと、少し漫談に入る。少ない出演料をネタにしたり、五橋の話などを持ち出して、学生になんかメッセージを伝えていたと思うが、ほとんど覚えていない。 演題は一切お任せだった。だから、そのあと「試し酒」を演ると聞いて、二つも演ってくれるんだとビックリした。 実は先日、Eテレで「試し酒」を観て、この日のことを思い出したのである。前名人の跡を継いだのかな、観たこともない顔の桂文楽が演っていた。 ある日、ご隠居たちの世間話の中で付き人の田舎者の男が酒を五升は飲むだろうという話になる。2人は男を呼んでホントに五升飲めるか賭けをする。男は、負ければご主人が散財すると聞いて少し考えさせてくれと外に出て、帰ってきて決心が固まり、一升づつ飲み始める。遂には五升飲み終えて、賭けに勝つ。相手のご隠居が聞く。 「今さっき、外に出たときに、何かおまじないでもやったのかな。後学のために教えておくれ」 「あゝあれはなんでもねえだ。ワシは五升なんて、確かめて飲んだことねえから、外に出て飲み屋に入って、試しに五升飲んで来ただ」 桂文楽の男の飲みっぷりは、上品だった。しかも、五升飲みおわった時に下品に威張り散らした。ダメだ。私はこの30数年間、いろんな人の「試し酒」を観てきたけど、松鶴のそれほど面白かったことはない。 松鶴は、ホントに飲んでいるように飲んだ。しかも、ホントにお酒が好きで好きでたまらない、という風に飲んだ。しかも、あの酔いっぶりの動作のひとつひとつがどうしてあんなに面白いのか、未だに理由が掴めないほどにおもろかった。 もし、山口の学生ではなく、私が大阪の無職の若者だったら、その場で松鶴師匠への弟子入り志願をしていたかもしれない、と後に思うほど衝撃的だった。 六代目松鶴の高座は、出来不出来の差が激しいことで有名である、と私は学習レジメに書いた。その日のハコは、多く入っても300人ほどだったけど、間違いなく最高の出来だった。
2016年10月04日
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「美人コンクール発言事件」はいまや全学生の知るところとなる。その後何回か大学祭実行委員会が開かれたが、某サークルは欠席したまま。それがまた「糾弾」の対象となるであった。わが大学新聞は沈黙を守っていた。わたしは女性問題に疎く、付け焼刃の学習では到底歯が立たないことを感じていた。安易に記事にすると、われわれも「糾弾」の対象になってしまう。一回だけ、先輩がエッセイの装いを持って、この「現象」にコメントしてくれた。たぶんそのことを免罪符にして、わたしは編集長の仕事を果たした、と思ったのかもしれない。わたしはこの糾弾会がどのような決着を持ったのかを覚えていない。(おそらく某サークルは女子学生の会が望む総括文を嫌々ながら書かされたのだと思う)ということは、わたしは最後まで「関わらなかった」ということなのだろう。「それは賢明な判断だった」と誰かは言うかもしれない。しかし、今だから言うが、あれは間違っていた。新聞会は何の立場に立って書くのだろうか。自分たちの思想を広げるためか。違う。(広げる思想もないが)「当局」(大学経営者=文部省)か。もちろん違う。自治会である以上、大学の全学生のために、学生の立場に立った新聞つくりをしていかなければならなかった。今起こっている糾弾会は本当はどういうことなのか、学生たちは関心を持っていただろうし、新聞会はそのことに応える義務があっただろう。編集部に、編集長たる私に「勇気」と「覚悟」が足りなかった。理論的な未熟はあったかもしれないが、「足で書け」ば、少なくとも事実関係で後ろ指差されることはなかっただろう、と今になれば思う。そうはいっても、あらゆる記事には「主張」(事実を選択するものさし)があるのだから、そこを突かれたら、後は理論対決になる。あれは「糾弾」に値する発言ではなかった、と、誠実に言わなければならない。それはおそらく全学生の支持するところだっただろうと思う。理論の泥沼に入ることを避けて、世論対決にもっていくという戦略をとれば、何とかなったかもしれない。新聞会の「故意の無作為」にあのときの某サークルに対し、あのときの全学生に対し、いまさらながら「ごめんなさい」とわたしは謝るだろう。時機を逸せず、勇気をもって判断を下す、それは本当に難しい。そのとき大事なのは、やはりわれわれはどういう立場に立つか、ということなのだろう。もうひとつそのいい例がある。生協設立運動である。以下次号。(さすがになんか「総括文書」を書いたような疲れが(^^;)次号更新は果たしていつになるのか。)
2009年10月09日
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事件は、「祭り全体を象徴する企画について、何かないか」と大学祭実行委員会の議長が言ったときに起こった。ところで、この議長P氏は、どんぶり太って外見はどこかの土建屋のおっさんみたいではあるが、弁は立つ。5回生だとか、7回生だとかのうわさ。あるときは実行委員会の議長、ある時は三里塚の集会に行っていたといううわさもある、いわば、大学の主(ぬし)である。その議長の提案に対して、体育会系のどこかのスポーツサークルの男が、全く軽い調子で、「この大学祭はなんか暗いんだよね。もっと一般受けする企画が必要なんではないの。たとえば美人コンクールなんていいと思うけど。ミス早稲田とかよく話題になるじゃない。あれと同じように、優勝者は話題になるんじゃないかな」と提案した。最初に発言したのは議長P氏だったと思う。「つまり君は女性の外見を大学祭の宣伝媒体にしようというんだね。」体育会系の男は真面目な提案をまぜっかえされたと思ったのか、むきになって反論する。「難しいことは分かんないけど、そういう風に暗く考えるからいけないんじゃないのかな。」そのとき女性が発言を始めた。女子学生の会からの発言だった。今、女子学生の会がどのようなことをいったのかを思い出すことが出来ない。おそらく当時の私は女性差別のことについて、ほとんど知識を持ち合わせていなかったし、女子学生の会自体に対する反発もあったのだろう、彼女のいうことが心の中を素通りしていった。ただ最後のほうになって、彼女が泣き出したのだけはびっくりしたのを覚えている。自らの発言に感極まり、泣くとは。私は、理屈でなく、感情が会議を支配しだしたことに気がついた。「君たち○○サークルの発言は明白な差別発言である。きちんとした反省の言葉がない以上、この会議はこれ以上続けることが出来ない。これ以上の議題は次回に持ち越す。」P議長はそのように会議を打ち切った。私はその間、ずっと貝のように押し黙っていた。私は「たかだか」美人コンテストをしたいといっただけで、ここまで罵声を浴びるこの体育会系のサークルに同情をしていた。はたして私は援護の発言をしなくて良かったのだろうか。ただ、大学祭の教室が決まっていなかった。私は次の会議にも出席しなくてはならないことを知っていた。私は、編集長としてこの事態に判断を下さなくてはならなかったが、わたしは迷っていた。よって相談役になっていた、四回生の先輩に聞くと、彼もことは慎重に対処すべきだということだった。問題は三つ。一、体育系サークルの「美人コンクール」発言は、女性を外見だけで評価し、それを商品的価値にまで定着させてきた現代の女性差別構造に「つながる発言」として「感心できたものではない。」こと。一、しかしながら、大学祭を盛り上げようという善意から発言されたことで、「罵声を浴びるほどのことではない」ということ。一、しかしながら、新聞会として下手に反対などすると、今まで敵対関係にある大学祭実行委員会や女子学生の会から、「いちゃもん」をつけられる可能性が高いこと。わたしの態度は結局「事態を見守ろう」ということだった。しかし、事態はしだいと大きくなっていった。次の大学祭実行委員会はこの体育系サークルの「糾弾会」に性格が一変し、きちんとした「文書」で「総括文」を提出せよ、となり体育系サークルは多勢に無勢、前回の発言は撤回したにもかかわらず、許してもらえず、何も言えず帰っていったのである。次の日からは、ほぼ連日女子学生の会からのアジビラ、アジ演説、でこの某サークルはずーと「糾弾」されていった。わたしはこの事態を記事に出来なかった。はたしてそれでよかったのだろうか。以下次号。
2009年10月08日
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前回は、どういう立場に立つのか「選択」するのは、学習によってではなく「決意」によってであると書いた。少しかっこをつけすぎていたと反省している。決意というほど決意していなかったと思う。「感性」という言い方もあったかもしれない。要はこういう選択の場合、しばしば理屈では決めれないということを言いたかったのだ。最も適切な言い方をすると(分かりにくいが)その人個人の「倫理観」によって、選択するのである。どういう立場に立つのか、非常に難しい例がある。というか、人生ではそういうことのほうが多いのでは、とその後30年以上たってみて思う。そういう例の一つ「美人コンクール糾弾事件」について書こうと思う。そのとき私は三回生だった。(すみません、一挙に時間が飛びます)なんと編集長という位置にいた。世の中は、つい数年前に明らかになった連合赤軍の影響によって、「学生運動=こわいもの」という定式が根強くあった。「しらけ世代」という言葉は今はあまり聞かれない。いまはそれどころではないのである。けれどもそのころは、まだ始まらないバブルの初期、学生は売り手市場であって、大学新聞なんて「かかわらないほうがいい」という種類の「サークル」であった。よって、人材が不足していた。決定的に。ズルズルと居ついていた人間が編集長になるほどに。そのようなとき、事件が起きた。私はその場に居合わせたこと、は不幸であった。まだ相談できる先輩がいたこと、は救いであった。時は秋の入り口、教養学部○○番教室において、例年のごとく、大学祭実行委員会が開かれていた。各サークルが大学祭での企画を持ち寄り、使える教室などを調整したり、補助が必要なサークルはその申請をしたり、大学祭全体を象徴する企画を立てたりする会議なのである。私たち新聞会は過去において大学祭実行委員会やその他の組織に学外に追い出された経緯があるので、出来ることなら参加したくない会議なのではあるが、毎年、大学祭には記念講演をしているので大きな教室はぜひ確保しなければならない。お金はあるから補助の申請はしない、また立場上できない。まあとにかくしぶしぶ出て、早く終わればいいなという会議なのではあった。そのときは何の記念講演を企画していたのか、覚えていない。前年は鮮明に覚えている。なんと、先代松鶴を呼んだのである。講演と落語をしてもらった。学生ということで、破格の出演料だった。私は文化部部長ということで、駅まで迎えに行き、大学までの車中松鶴の隣に座った。むすっとしたしわくちゃの小太りのおじさんがシワガレ声で聞いてきた。「山口ではどんな酒を飲みますんや」「ぼくらは五橋という酒が大好きです」と答えた。じつはその酒しか飲んだことがなかった。そしたら、師匠は噺の中でその酒をしっかりと使っていた。単なるお爺さんが、人の前に出ると「芸人」に変わった。目の前で初めて落語を見た。「試し酒」である。親指を口につけただけなのに、ほんとにそれがお猪口となって、師匠が本当に旨そうに酒を飲む。落語が大好きになった瞬間だった。何が言いたいかというと、大学祭実行委員会に参加するのは嫌だけど、大学祭に「自治会」として企画を出すのは、学生に対する神聖な義務だった、ということを言いたかっただけ(^_^;)。さて、ここから本題。事件は、祭り全体を象徴する企画について、「何かないか」と実行委員会の議長が言ったときに起こった。以下次号。
2009年10月07日
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私は初めての記事を書いた。私の大学では1960年の5月から6月にかけて、学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。私は何度も書き直しを命じられたはずだ。しかしすでにインタビューは終わっている。新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、文章的な誤りは直しが何回も出たが、文化部のOKは出た。しかし、編集会議でのOKが必要である。編集長K氏や次期編集長H氏はやはり根本的なところを突いてきた。「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない」K氏は三回生経済学部の先輩。実に温厚な人だった。少しのミスにはこだわらない、親分型の人で、どれくらい助けられたか分らない。H氏は同じ人文学部でやがて研究室まで一緒になる二回生だった。非常に鋭い人で、この人だけが卒業後記者になった。「安保がどういうものかわからない」書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。しかし、それを地の文で説明しようとすると、半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、結局、強行採決をした政府に対し、「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、安保反対のデモの波が広がった、というような「歴史発掘」になったのである。私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。しかし「本質」はそれだけではなかったろう。安保自体が持つ危険性に対して、戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、それは歴史的な瞬間だったのではある。事実でもって本質を描く、それは取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、描き得ないものなのである。私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。この場合、「支配する側」に立つのか、「支配される側」に立つのか、それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、新入生には「難しい例」ではあったが、自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。決意、によってなされるのである。ちなみに記事の第二段はがらりと変わって吉田キャンパスのグランド隅になぜか建っている山口大学埋蔵文化財センターの取材になった。山口大学は遺跡の上に大学移転したのである。今の私が取材したならば、大好きな考古学のこと、非常に充実した記事になっただろうが、このころの私は何の関心も無かった。たんに「キャンパスは遺跡の上に建っている」ということを伝えただけの記事になった。これぞ「歴史発掘」だとO先輩は慰めてくれた。以下次号。
2009年09月28日
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「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」などというような口答えはしなかった。私は素直な新入生だった。私は県庁に赴いた。そのころ、山口県の県庁はまだ全体が木造の平屋であった。戦災を免れていたたためか、いくつもの建物が長い廊下で繋がれて、非常に広い迷いそうなところであった。反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、山口県はその役割は宇部市や徳山市にふられていた。なぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。伊藤博文や山県有朋、或いは岸信介を生んだ山口県、歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、受付でB氏を呼んでもらったのであるが、電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、今忙しいので後で連絡するといって、私たちの連絡先を聞いただけて会ってくれなかった。(今から考えると当然といえば当然であろう。)私はすごすごと戻っていったのであるが、やがて会ってもいいという連絡が来る。もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと聞いたのかかも知れない。20年前の学生で当時学生自治会委員長だったというB氏は、いまはスーツを着たただの中年のおじさんに見えた。私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、今ではほとんど覚えていない。ただ「なぜ60年安保闘争を始めたのか」と聞いたとき、次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、生涯忘れることの出来ないものでもあった。「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。けれどもあの国会の強行採決を知って、このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、デモもやっていったんだと思う。」突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)失われつつある言葉だったろう。私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問もしてみるべきだったかもしれない。「あの当時のことを思い出してみて、現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」過去の歴史から現代を照射する、そういう試みも面白かったかもしれない。しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。次は私の「初めての記事」である。
2009年09月27日
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初めての取材、そして記事を書いたときのことを書こうと思う。私は新聞会では最初文化部に所属した。文化部の企画会議でのこと。大学から五分ほど離れたところにあるアパートの部室での会議である。先輩は二人。新入生は私とあともう一人ほどいたか。先輩Оさん(♂)はは国文学二回生で、文学青年で、文章を書きたいということだけで、新聞会に入ってきていた。中原中也の生まれた湯田温泉に下宿していて、可愛い彼女がいた。ちゃらんぽらん青年のように見えて真面目に文学研究にいそしんでいる部分があった。「透徹」という言葉があることをこの先輩から初めて教わった(後に大学講師に)。先輩Sさん(♀)は国史三回生。非常にかわいらしい人で、入学式のときに新聞会の説明会があることを宣伝していたのが彼女である。この女性の存在がなかったら、私がこの妖しげな部屋に入っていったかどうか心許無い。「○○くぅん」と泣きそうな感じで人の名前をよぶのが特徴的であった。もっとも最初の新歓コンパの中で、すでに彼氏がいることが判明するのではあったが。(後にその人と結婚)S「くまくぅん、何かやりたい企画ある?」私「別にないです。」O「じゃあ、この前から始まった新企画「歴史発掘」をすればいい。」私「……」S「それがいいわ。くまくぅん、歴史好きだといっていたし」O「次はわが大学の60年安保をするのでよろしく」私「はあ。60年安保で何を取材するんですか」O「60年安保で、うちの大学ではどういう動きがあったか、当時の関係者から話を聞くんだよ」私「……」O「大丈夫。足で書けば何とかなるって。」まあ、だいたい企画会議というのはこんな風に強権的に決まっていくものなのであった。しかし、大学入りたての私にいくら文化的な記事とはいえ、「60年安保」とは。「足で書く」とはジャーナリズム用語である。今でもそうであるが、記者クラブで発表された情報をそのまま記事にする記者が多い。それに対して、真のジャーナリストは、自ら足を運び、たくさん事実を掴んで、その中からどれだけ本質に関係することを選び取って記事にするのかが「よい記事」の基準なのだと、私は一応「学習会」で学んでいたのではあった。記事は机の上で生まれるのではない。現場をどれだけ歩くか、にかかっている。しかし、はたして60年安保とは何か、その本質も知らないような男に、「よい記事」は書けるのであろうか。最初の取材だけはOさんがついて来てくれた。60年安保のころのことを知っている人でまだ大学に残っている人は限られている。私たちは経済学部の名物教授、A氏のところに赴いた。その取材の前に私は60年安保のことを少しは学習して行ったのであろうか。今思い出して、どうしても何か本を読んだという記憶がない。高校生のときに松本清張のノンフィクション『昭和史発掘』を読んだ記憶があった。その本の中では、安保条約を強行採決する国会議事録が採録してあった。それを読むと採決の瞬間は議場が騒然として、議事録にも載っていないのであった。果たしてこれで採決といえるのか、高校生の私は日本の最高議決機関である国会というものに初めて不信感を覚えたのではあった。しかしそれ以上のことを私は知らない。A教授はマルクス経済学の雄であった。A教授は、珍しくも60年安保を取材しに来た大学新聞の記者に対して、今から思うとアポなしの突撃取材だったのにもかかわらず、非常に丁寧に応じてくれた。おそらく、当時どれだけ学習会がどのくらいの頻度で開かれたか、デモ行進がどれくらい行われたか、特に強行採決のあとでは、学生と労働者が共同でデモを行って画期的であった、というようなことを話されたのだと思う。安保自体の危険性の説明もあったかもしれないが、私の頭を素通りしていっただろう。私は安保反対のデモ行進は国会周辺だけで行われていたと思っていた。こんな田舎(失礼)でも、そんな動きがあり、学生と大人が共同してそういうことをしていたということにまず驚いた。当時はまだ、浅間山荘事件や、内ゲバの記憶が生々しいときであった。学生運動というのは「怖く、世間から孤立している」というイメージが一般的であった。「当時の安保闘争は、本当に国民的な大闘争だった。」とA教授は言った。Oさんは「当時学生だった人で今もこの町に住んでいる人はいないか」教授に聞いた。今から思うと最も適切な人にその質問をしたのだろうと思う。A氏は明らかに当時の反対闘争にかかわっていた人なので、反対闘争の学生の中心人物の動向をちゃんと把握していた。「今県庁に勤めているB君は当時の学生自治会の委員長だった人で、当時のことを話せると思うよ。」私たちは教授に感謝して、研究室を離れた。O先輩は次は私だけで取材を命じた。以下次号。
2009年09月26日
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大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。本多勝一の「事実とは何か」の関連で興味深い話を聞いた。けれども誰が話したのかは覚えていない。先生すみません。教養学部、日本史の授業だったと思う。「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。ちなみに今日は映画「カムイ外伝」初日。楽しみだけど、こういう構造までは描けていないだろうなあ。以下次号。(しばらく連載は飛びます)
2009年09月19日
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続きを書く前に、なぜ大学新聞を作るところが、「新聞部」ではなくて、「新聞会」なのかを説明したいと思います。新聞会は自治組織だったのです。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが「一定の学生たち」の影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。これを書いて初めて分かったのですが、私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら最初の日にすでに「選択」していたみたいです。本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。私の大学生活四年間は「新聞」にどっぷり使った四年間でした。私がこの大学に入学したのは西の小京都といわれる山口市の町から吉田へ大学移転したすぐあとで、周りは田んぼだらけでした。私の交通手段は最初の一年間は自転車。その後はカブという安いバイクでした。カブで10分くらい走らせた更に田舎に私の下宿(下宿代一万円)はあり、その下宿と大学構内と新聞会部室と活版印刷所(この印刷所は今では文化遺跡とでもいえる活字を組んで印刷をするところでした。「銀河鉄道の夜」で放課後ジョバンニが活版所で活字拾いのアルバイトをしていたあれです)それと時々本屋と喫茶店。それの往復が私の四年間でした。しかし私はその中で、何かを選択し、何かを表現し、そして失敗していったのです。ジャーナリストとして、そして社会に生きるものとして大切なことは、その閉じられた世界でも充分に学んだはずです。そのことをもしかしたら振り返ることができるかもしれない。いまさっき「真実」という言葉を使いました。この「真実」という言葉を厳密に使ったのは、本多勝一でした。学習会のレポートの二編目のことを書いておきたいと思います。「事実と『真実』と心理と本質」真実とは何か。ベトナム戦争での例。取材中に記者が殺された。生き残った記者は解放戦線(北ベトナム)がやったのだという。ハノイ放送は「サイゴン政府軍(南ベトナム)がやった」のだという。こういうとき「真実はどちらか」という表現がとられることが多い。真実とは「正確な事実」に過ぎないのではないか。以下、いろんな辞典を調べてみて、真実は他国の言葉には存在しない。真理ならある。哲学辞典によると真理はそれぞれの立場により違う。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……。そうか!「真実」は必ず「事実」または「真理」に分解してしまうのだ。ただ、どういうときに真実を使うのだろうか。「真実」とは、事実または真理を、より情緒的に訴えるときに有効な単語なのである。ベトナムの事件はある記者が「正確な事実」を調べ上げた結果、解放戦線が記者を誤って(米兵と思って)攻撃したと分かったとする。この事実を、記者が「ベトコンの無差別攻撃」と書いた場合、この記者は「事実」を書いたとしても、大きな過ちを犯していることになる。一方で米軍が意図的な無差別攻撃を連日限りなく続けている事実との比重から考えても誤っているが、それ以上に、ベトナムの国土を米軍が侵略しているという「本質」の上に立った記事ではないから。真実という日本語はルポから避けたほうが良い。ルポに関しては次のように言うことができます。「事実によって本質を描く。」この文章は1969年のものですが、「ベトナム」を「イラク」に置き換えることも出来るでしょう。日本のジャーナリストは、日本の青年やジャーナリストがイラクで殺されたとき、果たして「事実によって本質を描いた」でしょうか。以下次号追記 ところで、今日無事に70万アクセスを超えることができました。踏んだ方はいつものように「名無しの権兵衛」さんだったようです。始めて四年と四ヶ月、こんなにも早くここまで来たのは、読者の皆さんのおかげです。なぜならば、これだけの読者がいなければ、めんどくさがり屋の私がこんなにもコンスタントに記事が書けている筈が無い。本当にありがとうございます。
2009年09月18日
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70万アクセス記念大型連載始まるついに明かされる「再出発日記」ブロガーの過去30年前の地方国立大学の実態三流雑誌並みのあおり見出しを作ってみました。明日ぐらいに70万アクセスを達成すると思いますが、今回は踏んだ方には別に「記念品」はありません。ご了承ください。その替わりと言ってはなんですが、めったに「自分のこと」を語らない私が赤裸々に過去を語りたいと思います。とはいっても、私の大学時代の思い出です。しかも四年前に書いた文章を加筆訂正して紹介するので、あまりすごいということでもないのですが‥‥‥。一部差しさわりのある人も出でくるかなと思い、あまり公にしていない文章なのですが、良く考えたら30年前のことです。大学名も、団体名も出してももういいでしょう、と思ったのです。もちろん文責は私にあります。まえに50万アクセスだったかな、記念に私の過去を書いたときに、大学時代に新聞会に入ったことが大きな転機だったこと、本多勝一「事実とはなにか」に大きく影響されたことを書きました。そのことを今回(おそらく)数回に分けて全面的に展開したいと思います。同時に私の過去の失敗に付いて懺悔と反省をしたい。飛び飛び連載になると思いますが、左のカテゴリー「山大新聞会」を設けますので、まとめて読むときはそこをクリックしてください。(出来るだけ集中連載にしたいと思います)‥‥‥と前置きが長くなりました。先ずは私が1979年春、第一回目の共通一時を終えて国立の山口大学に入学して、(今まで部活動は柔道ばかりだったので、今度こそは文科系のサークルに入ろう、一番候補は新聞部だ)と思って新聞会の説明会に顔を出したところから始めます。そのとき、教養学部の一室を借りた説明会に顔を出したのは、私を含めて初々しい顔が四人でした。編集長だと名乗った三回生のK氏は一通りの説明を終えた後、「実は部室はここから少し離れたところにあるんよ。今日はそこでちょうど新聞理論の学習会をしているんだけど、ちょっとだけ覗いてみないか」と言うわけです。もうまるきり学生だけで、立派な新聞を作っているというだけで興味しんしんだった私はいちもにも無く付いていったわけです。新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう30年前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。)大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。緑色の鉄製の扉を開けて入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていました。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。本多勝一著「事実とは何か」でした。この本はジャーナリスト論の短文を集めたものです。私が最初に接したのは未来社刊の単行本です。しかし、学習会のレポートに出てきたのはそのうちの二編だったと思う。この本と同名の「事実とは何か」(「読書の友」1968)と「事実と『真実』と心理と本質」(日本機関紙協会『機関紙と宣伝』1969)。話の筋上、この二編の内容をまず詳しく紹介します。「事実とは何か」新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。つまり戦場には、無限の事実がある。砲弾の飛ぶ様子、兵士の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木の土の色、土の粒子の大きさや層の様子、昆虫がいればその形態や生態、……私たちはこの中から選択をしなければならない。選択をすればすでに客観性は失われてしまいます。そして、そうした主観的選択はより大きな主観を出すために、狭い主観を越えてなされるべきです。米兵が何か「良いこと」をしたとする。それは書いてもいい。それは巨大な悪の中の小善に過ぎないこと。小善のばからしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは「無意味な事実」を並べることです。戦場で自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方よりも、嘆き叫ぶ民衆の声を記録するほうが意味ある事実の選択だと思う。そしてその主観的事実を選ぶ目を支えるものは、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観である。「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」この最後の言葉にジャーナリスト論の「ジ」の字もかじったこのない私は痺れました。その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのは無いんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。 なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。私はどういう立場に立てばいいのか。そのことが私の前に立ちはだかっていました。疾風怒濤の四年間が始まろうとしていました。以下次号。
2009年09月17日
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