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2011年07月02日
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カテゴリ: 考古学

「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」福本明 新泉社
私の考古学における最大の関心は弥生晩期の王権の移行であるし、そのために吉備の楯築遺跡には既に何十回となく散歩もかねて訪れているし( この前も松木教授から楯築の遺物の解説を受けたばかり )、遺跡の関連書も発掘者の近藤教授の著書含めて三冊は読破しているというのに、2007年に発行されたこの書物にはいろいろと学ぶところが多かった。

全カラー印刷で非常に分かりやすく書かれているということがひとつ。
専門的な話は横においておいて(それでも少し専門用語は入っているが)、最新の学説を良くまとめていることがひとつ。

以下、刺激を受けた部分をかく。

●カラーの「足守川流域の主な遺跡」をみると、同時期の弥生遺跡がたった四キロぐらいのところに本当に集中しているということが見て取れる。集落遺跡がざっと15、晩期弥生墳丘墓が三つ。急速な発展を可能にしたのは、この密集した遺跡があったからだろうし、何故急に発展したかといえば明らかに大陸との関係があるのだろう。

●写真に突出部の発見の糸口になった列石が載っている。今度行ったときに確かめてみよう。この突出部に気がつかなければ、この墳丘墓がこんなに大きなものだと気がつくのがだいぶ遅れたことは間違いない。

●意外にも楯築の象徴である立石は「地上部分が2-3mもある大きな花崗岩で、とくに加工を施した痕跡は認められない」とのこと。
→絶対何らかの加工をしていたのだと思っていた。

●「想定復元された楯築弥生墳丘墓」のカラー絵が載っている。きちんとした双形をとっていない。これも意外だ。

●楯築は他にはあまり類を見ない木棺木槨墓なのであるが、土葬の断面のほんの少しの違いからそれだと類推したらしい。気の遠くなるような作業だったようだ。

●歯が出土していた。「年齢は若年とするよりは熟年期を考えるのが妥当とし、性別は不明であるが、小ぶりな歯牙というかんじがもてる」とのこと。
→副葬品を考えると、老齢の女性なのではないか。とは私の推測。それが吉備で最も特異な王墓として祭られ、しかもその祭祀の最初であり、しかもその祭祀が100年後には大和王権の祭祀に連なるというほど、決定的なものだったということ。これは何を意味しているのか。

●副葬品は鉄剣一口と三連の玉類。鏡はもとより、大量の武器、農具といった品々もみられなかった。むしろ被葬者の愛用品が木棺に納められたという状態で、前方後円墳とは歴然とした違いが見られる。

●排水溝があった。弥生墳丘部としては初めて。ひとえに木棺の腐朽を防ぐことに異様なほどに注意が向けられていたということを示している。もちろん30キロにも及ぶ朱もその一環。

●中心主体の埋葬後に幾つかの埋葬があったことが確かめられている。
→時間を置いているので、殉葬ではない。しかし、誰なのか。


●楯築遺跡の特徴はほかに類を見ない特別な埋葬にある。立て石、弧帯文石、最古型式に属する特殊器台と特殊壺、他の追随を許さない墳丘規模と大量の朱の存在。

●木棺木槨墓の例は、楯築のほかに岡山市雲山鳥打一号墳丘墓や総社立坂弥生墳丘墓、また山陰の出雲市西谷三号弥生墳丘墓などが知られている。そのなかで、楯築が規模や構造の複雑さで卓越していることから、吉備を中心に採用された埋葬方法であるといえるだろう。しかし、独自に成立したのではなく、楽浪郡古墓の棺槨との類似が指摘されている。しかも大量の朱も良く精製された良質の水銀朱のみが使用されており、徳島阿南の若杉山遺跡の朱とは違うことが明らかになった。産地は現在特定できていないが、これだけ膨大な量と質を供給できる産地として、中国や朝鮮からの搬入を考える必要がある。
→私はひそかに楽浪郡の誰かが埋葬に先立ってプレゼントしたのではないか、と考える。

●近藤教授は「朱の役割は引き継ぐべき霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたものである」としている。

●割られて埋められていた人形土製品は首飾りや乳房のような表現が見られ、女性なのではないかという。武人ではなく、女性であるところが被葬者の気持ちが反映しているように思える。

●円礫堆の中の土は黒色から黒褐色をしており、多くの灰や炭が含まれていた。祭儀の中で盛大に焚き火が行われたであろうを示ことす。さらには小モモやクスノキの一種、カジノキなどの種子も含まれていた。その他祭祀に使われた有機物の道具やそなえものも合ったに違いないが、腐朽してしまって今となっては知る術は無い。

●土器類はほとんど穴が開けられており、飲食共食儀礼はあったろうが、象徴的な祭祀だったのだろう。人形や管玉勾玉、鉄製品、弧帯文石などは呪術具として穢れを祓う形代の使われ方をしたものと解されている。

●もともと弥生時代中期から後期にかけて直会といえる農耕儀礼は出てきていた。ところが、後期後半になると、集落遺跡からその器台が減少し、首長墓に特殊器台として登場する。そのことは、農耕儀礼が首長の葬送に際しての儀礼に取り込まれたことを意味する。





●特殊器台の胎土や施文に強い共通性が見られることから、備中のどこかの地で一括して作られていたのだろう。

●大和から出土する特殊器台は最終型の宮山型が箸墓、西殿塚、中山大塚、弁天塚の四基の前方後円墳から出土している。特殊器台は首長間の擬制的な同祖同族関係とその階層性を示すものであったことを考えると、大和と吉備にその関係があったのか。しかし、吉備においては宮山型は前方後円型をした全長三八メートルの宮山弥生墳丘墓の一箇所でしか確認されていない。なぜか。近藤教授は「吉備における備中の大首長がその絶大な呪術性によって諸族の中枢の地位に擁立され、大和に移動・進出した。そしてその死に際して奈良平野の南東の地に前方後円墳を造り、宮山型特殊器台と特殊壺を持って前方後円墳祭祀を創始したのではないか」という見解を提出している。
→私はこの説を支持する。よって、箸墓の主体は吉備からやってきたヒメミコである。

●出現期の前方後円墳を構成する様々な要素のうち、少なくとも埴輪や竪穴式石槨、葺き石、朱の使用など幾つかにおいては吉備の弥生墳丘墓を中心に発展してきたと考えられる。
⇒いずれにしても、ヤマト政権の祭祀の源流は吉備のしかも楯築墳丘墓にあったのである。





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最終更新日  2011年07月02日 23時49分33秒
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