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地下鉄大安駅から台北駅に戻る。駅構内に、故宮の品が一部展示されていた。行くことはできなかったので、こんなものを見て楽しむ。これは清の乾隆帝の粉彩幡桃天球瓶である。 絵付けに技術があるのだと思う。 これは大福字軸。インドや清、ベトナムや日本などの美術品の模様を、文字の中にそれぞれ借りているらしい。金持ちの道楽ですね。 すっかり雨が止んだ。でも傘はなんか気に入って持って帰ってしまった。いつか捨てよう、として午前中一緒に歩いて、なんか情が移ったのかもしれない。ものすごく邪魔だった。さて、チェックアウトして、桃園飛行場行きのバス乗り場に行く。前回は、台北駅の西側だったけど、念のためにホテルスタッフに確認すると、なんと今は駅の東側に移っているという。確認して、ホントに良かった。 相変わらず、ものすごい行列になっていた。 バスに乗って感心したのは、事故の時の脱出の仕方を中のテレビで説明していたこと。窓ガラスを割るための「車衝撃波装置」や、天井から脱出するための脱出口を備えているのは、日本でも見習って欲しい。 チケット口は、やはり大きな行列。しかし案外すぐに順番が来た。 あと一時間少しあったので、昼食をとる。予約できないので、飛行機の中で食べれないからだ(と思ったら今回は食べれた。もう!こんなのは事前に知らせて欲しい!予定が立たない!)。美味しくはないけと、腹に入れる。 タピオカ入りのパパイヤミルクがあったので、食後の珈琲代わりに飲む。 その他、定番のお土産お菓子などを買っていたら、少し出発の10分前になった。 少し急いでいたら、放送がかかった。CAが待っていた。 「ラストですか?」「そうです」「えっ⁉まだ10分もあるのに‼」 ところが、タイガーエアラインはバスで移動だったのだ。皆さんをだいぶ待たしたようだ。ごめんなさい。 バタバタして、慌ただしく空を跳ぶ。比較的明るく窓側の出発は初めてなので、バチバチと写真を撮る。台湾の街並み。 こんな感じ。 因みに、この席は二列目でした。一人旅の者はいつも真ん中あたりに座らせると、ここに来る時に書いてごめんなさい。台湾の山並みも、少しだけ雲の上から顔を覗かせている。 二時間と少しで日本に着いた。これは見にくいかもしれないが、高知湾である。 四国の山並み。 遂に岡山空港に近づく。 これは私だからわかる、日本第四位造山古墳である。我が郷土は、やはり優しい。小さい空港なので、全てがコンパクト。荷物も手荷物だけなので、税関も最初の頃にすっと通って、空港の無料駐車場に着いたのが、到着してから約30分後だった。ともかく遅延もなく、無事に着いてホッとした。日本はやはりひんやりと寒いけど、思ったよりも凍れるほどではなかった。旅の間中、歩いている時はいつも少し暑かったが、それは荷物を少なくするために冬用の服と、時にはジャンバー付きで歩いたためである。日本に帰って、そのまま外に出てもそれ程寒くなかった。後で聞くと、暖冬の正月だったらしい。今年は、正月の雰囲気は一切感じないまま、年を越した気がする。タイムワープした気分。 台湾の旅で、掴んだことは三つ。 (1)台湾の古代文化は、ある時期までは日本を凌駕している。 (2)台湾人の日本に対する好感は、国民党政府への反発だけではなくて、ちゃんと歴史がある。 (3)台湾の食への理解は、まだまだ道半ばである。 また、来たい。台湾元も1200ほど残しちゃったし。 傘70 朝食110 お土産570 バス125 昼食245 お土産578 計 1698元 歩数 32822歩(←凄いでしょ?朝の散歩でこれだけ歩いたようです)
2017年02月05日
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中正区を永康街に向けて歩く。庶民の路地裏は、店が連なり、バイクや車がどんどん入ってくる。 保育園の玄関では「メリークリスマス」と「ハッピィ・ニュー・イヤー」が同時に飾られていた。 名前も知らない市場に突然入る。雨脚が強くなった。服や野菜や肉や魚が雑然と店を連ねる。地域の台所は、スーパーではなく、まだこのような市場が担っているのだろう。 実はそのあと、有名な永康街という夜市を通った。ところが、あとで見ると写真は一枚も撮ってなかった。あまりにも観光観光していて、興が削がれたのである。この地図の1番上が永康街。赤い点のところにこの地図があって、ここからは下に行くと、日本家屋を保存しているところがあるという。観光地化して居ないけど、地元の人が大事にしているのは、こういうところなのだ。 だから、路地もこんな楽しいペイントをする。近くに大きな図書館があるのである。 車が入っていこうとするところが、日式宿舎群である。 六軒保存している。 窓枠や意匠等に特徴があるらしい。 ちょっと手を入れただけで、材料含めてきちんと保存しているところに感心した。 しかも、人が住んでいる雰囲気がある。 雨が多く湿気が高い土地からか、基礎がかなり高いことに気がつく。 これはそこから向かいの大道を挟んだ現役のお店の木造家屋。昔の東京には、こんなタイプのお店はたくさんあったような気がする。 和平路の横断陸橋の上から撮影。台北でも、バイクと車の割合は、まだ7対3ぐらいではないか。あの狭い路地裏をみると、これ以上の車社会は無理なのではないか。 トイレを借りるために、大安森林公園に入る。そういえば、1番最初に台北を歩いた時も、何の拍子かこういう森林公園に迷い込んで、都会の中にこんな大きな森林公園があること、そしてリスが何匹もいたことに、大きく感動した覚えがある。あれはこの公園だったのだろうか。しかし、そういう大きな公園は、台北にも台南にもたくさんある。リスは今回出会わなかった。 その代わり、木にたくさんの鳥が止まっていた。 まるでスズメのような顔つきだった。 花も咲いている。 この公園から少し外れたところに、「歩き方」に「粥街」と書かれてあった。そろそろ朝食を食べて帰らないと、チェックアウト時間に間に合わない。人がたくさんいる店に入る。永和豆漿店。このメニューの右から三番目の豆漿を頼む。それと、この旅でまだ一回も食べていない小籠包を頼んだ。 小籠包は案外ボリュームがあった。さすが、80元もするだけはある。 豆漿は、1番右の10元安い豆漿を頼めば普通の豆乳になったということをこの時に気がつく。おぼろ豆腐みたいな汁になっていた。まあ、これはこれで初めて食したので、経験にはなった。豆乳よりも美味しくはない。 地下鉄大安駅から台北駅に戻る。
2017年02月04日
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1月3日(火) 台湾6日目(雨のち雲)最後の朝は雨だった(「七人の侍」の予告風に)。 6時半に外に出て、チェックアウトギリギリまで台北の街を、まったく当て所なく歩く。コンビニで急遽傘を買った。当て所はないけど、経験上「発見」があることは確信していた。ホテルを出て、駅の南側の道を東に向かって歩いてゆく。「青島東路」。 監察院。いかにも古そうな建物。 どうも「立ち退き反対運動」があるようだ。街と公園を壊して再開発するのではないか。感心したのは、右の文章。おそらく「市は商売の利益のために、市民の安全と健康を犠牲にしようとしている」と書いているように思える。どの時代、どの国でも、これは自治体と市民の関係の本質をついた言葉だ。 中正区の斎東街あたりをぶらぶら。ビルに囲まれてこんな木造家屋があった。幸福教室という文字に、この家の気概が見える。 廃屋になりそうな木造家屋があった。 しかし、よく見ると雨よけの屋根が作られている。 しかも、塀には再生計画の途中経過みたいなものが貼られてあった。もう少し歩くと判明するのだが、この辺りは日本人の役人が多く住んでいた高級住宅地だったようで、その関係で家屋を保存しようという動きが他の地域よりも多いようだ。 これは日本式の宿舎だったという。「大正及び昭和年間に築造」って、要はいつ建てたかよくわからないということ。 「斎東詩舎」という、修復家屋もあった。かつて有名な詩人が住んでいたらしい。 外からいくつか写真をとってみた。 この辺りが今でも高級住宅地なのは、こういうワインの瓶がたくさん並んでいる店を台湾で初めて観たことからもわかる。やれば出来るじゃないか。 これは1930年代築造。日本統治時代は、交通局の高級文官のお屋敷だったが、その後、李国鼎という有名な台湾政府の政治家が住んだ家だったらしい。開館時間ではないので、入れない。玄関の塀の上を花で飾るのは、金持ちの家のすることなのではないか。その証拠に隣の高級マンションも同じように塀に花があった。 そこから南側に歩いてゆく。少し高級住宅地から離れる。すると、こういう家が気取らずに残っている。 屋根をよく見ると、職人がきちんと仕事をしている。台風や地震があるので、ゆがんではいるが、風雪に耐えているのは、いい仕事をしているからに違いない。 その一方で、このように廃屋になって行く家もある。家は住む人が居なくなると、急速に崩れ始める。あれは不思議だ。どうしてなんだろう。 その廃屋のすぐ隣に公民館らしきものがあって、この辺りは「文化里」というらしく、様々な「公告」があった。 「寒冬送暖」というのは、お茶会なのだろうか。「農民暦・月暦」は地区民に無料で渡しているのだろうか。 桃園の角板山に遊び、小鳥の生態を見る会も企画している。 何かよくわからないけど、迎春準備の公告。 ここまでは、中流階級の家々だったが、ここからは更に庶民度が増して行く。金山南路と仁愛路の交差点。交差点の日本式の建物の店が廃屋になったあと、落書きで誤魔化している。
2017年02月03日
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台北駅に着く。前回泊まった駅前のNYSロフトホテルに予約して置いて良かった。直ぐに迷わずチェックイン出来たからだ。ただし、予約は12月に入ってからだったので、同じホテルでも部屋のグレードは変わらないのに、値段が約600円上がっていた。つまり、10月から12月にかけて、約10%以上円安が進んだということなのだろう。 台北に戻って来て、就寝前までの3時間で何をするか。腹は決めていた。最後の晩餐ということで、おそらく台南でも台東でも無理だった、ワインをのみながらの食事、中級レストランでの食事を「初めて」体験する。というのに、挑戦したい。 台北から悠悠カードを使って地下鉄で中山国小駅に行く。そこから歩いて10分ぐらいの所の「欣葉」(「地球の歩き方」所載)というレストランに入った。レストランは二階だけど、玄関前と入った所の直ぐに受付がある本格風のレストランである。 こんな雰囲気の店である。「歩き方」所載の店なので、日本人がひっきりなしにやってくる。日本人は全部ひとつ所にまとめていた。 ともかく目的はワインである。期待通り、八本ぐらいのワインリストがあった。本数は日本ではまったく不足しているが、これが台湾の限界だと思うので、がっかりしない。しかも私はフルボトルなんて、量的にも値段的にも無理。普通あるグラスワインはなかった。その代わり、ハーフが1番安い値段であった。と言っても550元(約2000円)なのだが、覚悟の上なので迷わずそれを頼む。 イタリアワイン・CHIANTI(DOCG)である。1番安いと言っても、とりあえず特級酒だ。 先ずは欣葉名物という豚バラの柔らか煮。とっても柔らかで、美味しい。ただし、1人で食べるのにはさすがに重すぎた。ほんの少し残す。私としては不本意。 1人なので、大きな料理は頼めない。100-200の間で頼む。次は牡蠣とイカすり身とニラの湯葉巻き揚げ。一見狐寿司に見えたけど、全然違っていた。でも日本人好みかもしれない。ニラが優っているけど、橙色のタレが台湾流。ワインも、チリワインと同じようにミディアムボディではあるけど、香りがこちらの方が豊か。食べ物と合わすと、特に肉と合わすと、ふわっと香りが広がった。でも、正直ワインも料理も、庶民の名店にあるような目が飛びでるような「驚き」はなかった。それを期待するのは、この2ー3倍の格の店に行かなくてはならないのかもしれない。やはり台湾は屋台や小さな店めぐりの方が私にはあっているのかもしれない。 このままで終わらしたくないので、この店の味を確かめるために、日本の一般料理の麻婆豆腐とハマグリスープを頼んだ。ハマグリスープは品切れで、店員が牡蠣スープ美味しいよ、と勧めるのでそれにしてみた。麻婆豆腐は、辛いだけだった。深い味わいはなかった。小さく豆腐を切るのが台湾風なのかな。ニラと肉が控えめ。牡蠣スープは、生姜風味だった。昨日食べた牡蠣よりも少しだけ大ぶりの牡蠣だったが、日本のそれよりはかなり小さい。ワインとの相性はなかった。 最後にサービスとして、きな粉餅が出てきた。とても上品なあまみ。こういうのもできるんだ。日本人好み。 請求はこのようになっていた。小さな店と違うのは、「茶資」25元がついていたこと。実際に美味しいお茶がポットでついていたのだけど、日本ならば請求しないタイプのもの。まあチャージ料みたいなものだろう。これに更に10%の消費税がかかる。外税だったのね。全部で約5000円。予想内に収まった。ワインは100mlほど残った。残念だけど、持って帰るには荷物になるし、部屋飲みするには、食べすぎた。泣く泣くそのままにして帰る。 帰りはその場で決めたのだけど、歩いて帰ることにした。地下鉄駅の四駅分ほど。12時まてあと1時間半ほどある。充分帰れるだろう。写真は明るい道ばかりのように思えるが、これはデジタルカメラのマジック。真っ暗じゃないけど、かなり暗い。男1人、台湾だから出来ることである。ともかく路地裏路地裏を選んで帰る。 露店商のおばさんと身内とは思えないおじさんが顔を付き合わせて深刻そうに話していた。目の前に教会があったので牧師さんなのだろうか。それとも単に店主と客の関係なのか。 地域の廟もシャッターを閉じていた。でも灯火はある。 地域の至る所に廟はある。といよりか、雰囲気のある道を選んで歩くと、廟に突き当たるといった方が正確かもしれない。 11時前なのに、まだここでは台東でテイクアウトしたような惣菜屋が営業してあって、お客さんが何人も来ていた。 路地裏の角。車が曲がり安いように角をとった家。それは日本でも見つけたが、この交通標識はよくわからない。 台湾の路地裏は、家と家との間が、顔を突き合わすとように狭く作られていて、実はその通りに狭い部屋の玄関があって、人々がたくさん住んでいるようだ。若者が深夜、自分の部屋に戻ってゆく。 この福進商行という雑貨屋さんがまだ開いていて、その横に「三郎の髪←」という看板がある。それを覗く。 すると、このようになっていた。台南でも見つけたが、台湾人は、狭いところ狭いところを好む習性があるようだ。 駅の近くだからなのか、この通りは機械屋さん通りみたいだ。 シャッターの前に蜜柑の皮らしきものを吊るしていた。何かの煎じ薬なのか、それとも魔除けなのか。 路地裏を夜の体力つくりをしていた。 わかりにくいけど、24時間営業の花屋さんがあった。近くには病院も飲み屋街もない。何の需要なのか。でも1人若い女性が利用していた。 この日は1月2日だけど、まだクリスマスツリーを飾っていた。 進成国民中学校。古そうな建物。 路地裏に刀削麺の看板。こんなところにも店を出しても成立するのだろう。 やっと台北駅まで歩いて来た。12時前。一時間近く歩いたことになる。そしたら、駅前に映画シアターがあるのに気がついた。まだ台湾の映画館に入ったことがない。明日午前中に早くモーニングショーをしていたら、見ることができるかも。ダメもとで覗きにいく。 ほとんどハリウッド映画。一本が日本の「続・深夜食堂」で、二本が台湾映画である。 「52H2 I love you」という映画が今かかっているみたいだ。台湾映画は、小津安二郎の影響を受けて、日常映画がよく作られる。 いつも思うのだが、台湾にしても、韓国にしても、日本よりもハリウッドから来る速度が早い。三ヶ月は早い気がする。 この辺りは台湾映画、中国映画のようだ。どうもモーニングショーは時間がなかった。でも映画館を見ることができて良かった。 駅には山形のこんな旅宣伝ようの大きな看板があった。雪とサクランボ、ふたつが台湾の「あこがれ」なのだろう。12時過ぎにホテルに戻る。共用のシャワーを浴びて爆睡する。 ホテル5760円 朝飯と珈琲2杯 290 お土産140 台東→台北763 車中食事127 夕食1304 計 2624元プラス5760円 歩数 10739歩
2017年01月31日
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出発。そしてやがてどうみても田んぼと思わしき棚田が続く。私はここで、この地方の棚田の堤がことごとく小さな川原石で出来ていることに気がつく。いったいどうやって整形しているのか、全然わからない。水はけはいいだろうけど崩れないのか。材料は周りにいくらでもある。石ころは重くないので、作るのは簡単かもしれない。崩れない秘密があるのか。なるほど、台東の鯉魚山の案内板の石ころは、ああいう補強の仕方がコンクリートよりも一般的だったのにすぎなったのだ、とガッテンする。 この地方は、背後の山がおそらく火山だったのだろう。そして山から急に平野になる土地になっている。その関係で、水が豊富でかつ、美味しいのに違いない。その関係で、美味しい米の産地になったのではないか。それが池上米と池上弁当という「ブランド」をつくったのだ。関山を通る。 ここの砂利は、それだけでコンクリートの材料や建築材料に使えそうだ。駅に専用貨物が止まっていた。 電車の中の広報誌にこんなのがあった。「おお!ベアー 微笑み観光列車」 台南で電車待ちをしていた時に通り過ぎたのを覚えている。 単なる思いつきではなくて、用意周到な台湾鉄道の宣伝キャラクターらしい。記事によると、台湾黒熊は、台湾の代表的な野生動物の一つ。6ヶ月の試用期間を経て、優秀な成績をとったので、2014年交通部観光局は「超級任務組」組長に任命。台湾の風景、美食、節慶、活動宣伝、並びに米日韓等の外国人が訪れた際にいろんな台湾体験を演出するのに、従事して来たらしい。外見だけではなく、中身もかなり凝っていたことが、この広報誌でわかった。 ちなみに「小辞典」として、こんな風にキャラクター設定もされていました。 台湾で最も美味しい弁当があるので有名な池上を過ぎる。ここで駅弁を売っているのではないかと期待したのだが、なかった。とってもがっくりとくる。 この辺りの堤は、やはり基礎は小石なのだけど、土を被せている。何故か、とか効果は、わからない。 この自強号のトイレを見る。前回のと比べてかなりシンプル。しかも鉄製ではない。 トイレの横に「充電コーナー」があった。台北駅にもあったが、日本でも気を使って欲しい。約5時間かけて、9時前(少し遅れた)に台北駅に着く。この時に最後の「失敗」。車内に私が二年間ほぼ毎日着用していた黒いキャップの帽子を置き忘れてきたことに、下りてすぐに気が付く。でも引き返せば、そのまま電車は出発して次の駅まで私を持ってゆく可能性が高かった。ほんの三秒考えあきらめた。愛用のあの帽子が、遠く台湾の地の台湾鉄道の忘れ物倉庫の奥にほんのしばらく残っていると思うだけでも、旅の思い出になると慰める。
2017年01月30日
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台東駅。ここで私は、この旅1番の失敗をした。時は10時。一時間半も待つけど、11時20分の台北行きの電車に乗ろうとしたら、もう売り切れているというのである。その次の電車も売り切れている。 「15時50分のならばある」という。5時間50分も待つ!あり得ない。 「ノーシートOKなんですけど‥」台南から台東までならば、みんなそんな形で乗っていたじゃないか。 しかしダメだという。「不買駅票。晩一点、再来、買」 バカなことを言いなさんな。こんなに困っているのは、今日中に着かないといけないからじゃないか。明日もう一度来い、なんてどういう考えをしたらそうなるのか! しかし、悩んでいるとさらにこう書く。 「晩一点再来、買看看、現在没有」 チケット売り場のお姉さんは、この外国人がこんなに困っていても冷たく見下ろすだけ、というのはわかった。これで着くのは、9時前になるという。あれもしようと思っていた計画がなくなる。でも仕方ない。せめて最悪の事態だという顔をして承諾した。 「15.50 OK」 割りと売り切れは多い。こういうことがあるのは知っていた。何しろ数時間に一本しか急行がないのだ。だから、台南行も、台東行も、前日に買ったのだ。しかし、あまりにもここまでスムーズに行ったので、「何も前日に買わなくても大丈夫なのではないか」と思ったのが間違いだった。昨日は博物館行がわからなくてイライラしていたのもあった。もしかしたら、私の事前調査が間違っていて、本数はもっとあるのではないかと思っていたのもあった。メロディホテルがまさかのWi-Fi不可なのもあった(ネットで予約する方法もあるのを調べてはいた)。ともかく失敗だった。 本来ならば、失敗も楽しんで、駅の周りを散歩するというのが、私の旅スタイルではある。ところが、台東駅周りは特殊な所で、近年旧市内からこちらに再開発しようとして急行駅を作ったのはいいものの、全然再開発されなかった所なのである。だから、歩いても何の面白みもない。ちょっと歩いてわかるけど、駅前にここまで食堂もホテルもない基幹駅も珍しいと思う。あるのは唯一レンタルカー屋さんだけなのである。これはどっかのコーヒーを提供している所を見つけて、時間を潰すしかないと思った。 考えれるのは、なんと駅前に一つしかない大きなホテル。ここに喫茶が無ければ諦めなくてはならない。 玄関にチラシがあった。良かった。しかも、食事も取れるようだ。日本語が出来るスタッフがいて、事情を説明して五時間以上ここに居座ってもいいと許可ももらった。やはり周りには昨日行った卑南文化公園以外には何も見るべきものはないようだ。 前のチラシの左側の原味風ナンチャラというのを頼んだ。原住民族風ランチとでもいうべきもの。ここの民族は卑南(プユマ)族なので、彼らの伝統食なのだろう。以下は昨日買った「順益台湾原住民博物館ガイドブック」より転載。 人口は約11000人あまり。男子集会所「バラカン」での厳しい訓練制度を有する。主に台東縦谷南方の平原に暮らしています。人口の多くは台東県に集中しており、 中でも台東市に住む人が最も高く、次がプユマ郷となっています。近隣のアミ族、ブヌン族、漢民族の影響を受けてはいますが、独特の文化を保ち続けています。17世紀、南王部落のプユマ人が朱一貫の残党の平定に功があったとし、清朝から「プユマ大王」に封せられました。プユマ族が強大な武力を持っているのは、男子集会所「バラカン」で厳しい訓練制度が実施されていることによるものです。プユマ族の文化の特色としては、男子集会所での厳しい訓練、精緻な刺繍工芸、レイ(花輪)を日常的につけていること、盛んな巫術などがあげられます。重要な祭典としては「猿祭」「大狩祭」「連合年祭」など一連の行事を含む「年祭」があります。(以上引用) つまり、卑南遺跡の中心民族は彼らである、ということがまず間違いないとわかる。清朝時に中国と密接な交流があったならば、漢時代に民間との密接な交流があったとしてもまったくおかしくはないだろう。ガイドブックによると、南島語族として台湾からフィリピン、イースター島、アフリカのマダガスカル島、ニュージーランドまで広く分布していて、台湾民族はその最古民族らしい。顔は台湾の原住民族はみんな同じ顔に見える。いわゆるフィリピン人の顔である。 これが頼んだ定食。 それぞれの料理の台湾読みの名前をホテルスタッフに聞いてみた。サツマイモのふかしは、地瓜。味は日本のそれよりも濃い。もしかしたらこれがタロイモというのだろうか。支那竹は名前を聞くの忘れたが、なんと生姜風味だった。枝豆は毛豆という。黒胡椒で炒めているのが独特だ。豚肉の炒めものは、鹸猪肉。肉はスモークされているように思った。 そしてこれは小米粽(小米のチマキ)という。これが最も有名な伝統食なのだろうと思えた。チマキを何か紫蘇のような薄い葉でくるんで、それをさらに南風色たっぷりの大きな葉でくるんでいる。考え方は柿寿司である。 びっくりしたのは、小米というのが実は米ではなかったことだ。アワかキビではないかと思う。中には味付け挽肉が入っていた。米が少しべちゃべちゃし過ぎる気はしたけど、全体的に美味しかった。 このホテルはこの地域では一流ホテルだと思う。でもトイレの機器をTOTOに発注しているのは、わかるけどあの「人がいない場合でも水が流れることがあります」説明を訳文もつけずにそのままつけるのは、如何なものか。利用するのは、ほとんど台湾人でしょう。流石に五時間以上いたので、私は三時間でも四時間でも滅多にしないのだけど、コーヒーのお代わりを頼みました。この間に旅日記を書いていたのだけど、日記はやはり当日の勢いで書くもので、全然進まなかった(今この時点の日記も帰国後に書いている)。最後の3日間は夜日記を書く間もなく疲れて寝たし、車中の日記は途中で気分が悪くなったりしてつづかなかったのです。それはともかく、電車の待合室ではなく、ここで時間を潰せたのは、リフレッシュ出来ていい所もあった。 台東駅に戻る。ホントはここで池上弁当が買えると思っていた。ここまで来て池上弁当がないのはウソでしょ?なかった。仕方ないので、コンビニでおにぎりを買って、よく見たら改札前に鉄道弁当売っていたので、それも買った。 電車が来た。昨日のよりも少しグレードが高い。 車中風景。あのチケット売り場のお姉さんの言うとおりだった。この北回帰線は、一人も予約以外の客はいなかった。後で思うのだけど、それならば余計に本数を増やすべきだ。そんなに採算が取れないのか? 台湾風おにぎり。43元。美味しいけど、高い。 台鉄弁当60元。昨日余ったワインをラッパ飲み。カッシーロ・del・ディアブロ。180cぐらいなので、すぐ空になった。 やはり、台湾料理にチリワインは合うと思う。煮汁がご飯に染みていなくて、弁当にはやはり不満が残った。あゝまた一度池上弁当食べに来たい。 さあ、出発だ。しばらく畑はトウモロコシ畑などが続く。
2017年01月29日
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1月2日(月) 台湾5日目(晴) 朝、ホテルの朝食も台南玉高ホテルよりは良かった。 でもその後の食事を考えて、軽く済ます。味もあまり特徴はなかった。サバがまるきり日本と同じでびっくり。 ただ、この卵焼きだけは提供の仕方が、トレーにピッシリだったのが珍しい。 朝のウオークに出る。やはり日本的な家屋は、塀で囲って見えないようにしている。注目されるからなのだろうか。鯉魚山へ向かう。山の前では市場が立っていた。野菜はだいたい安いと思う。 この写真は、案内板の後ろの補強の仕方が見たことないものだったので、撮った。コンクリートで固めればいいのに何故?(後で、そのわけは大体わかった) 一つ目の展望台。空を爆音。空軍が仕切りに訓練をしている。 さらに上に展望台があって、そこでやっとわかった。郊外に空軍訓練場があるのだ。写真に見えるのは一部だけで、一機が見事なタッチアンドゴーをしていた。 遂に捉えた。F1戦闘機かと思ったら違っていて、哨戒機みたいな形をしていた。詳しい方、教えて! 二個編隊の場合もあれば一個編隊の場合もある。 さて、ここからは台東市内が一望。古い街だと聞いたが、せい然と道が出来ている。古い家屋もあまり見えない。延長して散歩する必要もなさそうだ。 遠く緑島も良く見えた。降りると、日本統治時代に、神社があったところに出た。鯉魚山なので、街灯も鯉になっている、 正面から見ると、確かに鳥居があって上にはお社がのる神社形式になっている。 しかし今あるのは、忠烈祠である。柱の文字が、しかし英霊の字がある。 今日はお休みなのだろう、中学生が遊びのように階段をうさぎ跳びしていた。若いって素晴らしい。 ここで見た花のいろいろ。昨日の夜の祭は、このようなわりと長期にわたる冬まつりみたいだ。あんまり寒くはないのだが、台湾の人たちにとっては冬という意識があり、そして「雪」は憧れなのだろう。 もう帰ろう。ホテルを辞して9時30分のバスに乗る。20分ほどで台東駅に着いた。 ここで私は、この旅1番の失敗をした。
2017年01月28日
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国立台湾史前文化博物館の中庭には、こんなモニュメントがあった。 ちょっと順番が違うが、ここから一挙に旧石器時代に戻る。 一昨日に行って考古資料館で見ることかなわなかった鳥山頭遺跡(BC800-)の遺物があった。日常の煮物容器である。 この頃、縄文が流行っていたらしい。日本の縄文の模様とは違うが、時期的には日本と重なる。これも要研究なのではないか。 大きく扱っていた。鳥山頭遺跡の黒陶。 こんな風に土器を作っていたらしい。 さて、階が変わって、民族展示や地球の歴史展示に移る。あまり興味ないのでなおざり。 地下にこんな実物展示があった。どうも岩棺だったらしい。 台湾の古代観が一変する、新しく素晴らしい博物館だった。wikiの台湾、古代を検索するとわかるが、おそらく日本の研究者には、この台湾古代史は正式には紹介されていないと思う。戦前は確かに日本人研究者が台湾考古学を指導した。しかし、明らかに全く違った台湾古代史が始まっていると感じた。台北の国立台湾博物館にも、こういう視点で展示されていなかった気がするので、もしかしたらここの展示は、台湾全土の認識にさえなっていないのかもしれない。 博物館の人がなんと台東市内まで送ってくれるという。まるでパパイヤ鈴木みたい人でしたが、とっても有難かった。これで今日のイヤなことは全部チャラになった気がした。ホテルは台東市内真ん中あたりのメロディホテル。フロントが三人とも若い女性で、値段が約半額だったので台南の玉高ホテルより古いホテルを想像していたが、あれよりはるかに良かった。 室内も、Wi-Fiが使えないことだけが不満で後は満足。あ、後はカードが使えなかったところ。台東はカードが使えないところが多い。 夜の台東に繰り出す。鯉魚山の前ではこんな祭りをしていて、非常に多くの出店があった。 提灯はどう見ても地元の子供が書いたものだ。つまり地域挙げてのお祭りなのである。 いろいろ迷って、光瀬さんお勧めの客来吃薬の店で牡蠣と大腸の線麺と黒糖桂園緑豆算の各小を頼む。 ここでわかった。昨日のサバビーのお粥の中にあったのは、立派な牡蠣だったのだ。 これが緑豆。上にあるのはきな粉。食事とデザートを一緒に食べるのもどうかとは思ったけど、同じことをしている人は案外多かった。 夜店を冷やかす。パイナップルが一個30元(約120円)。 天后宮前にこんな日式家屋があった。 天后宮である。媽祖さんを祀っているらしい。 とっても派手。 1番目当てのワインが飲めるお店は、日曜日で休みだった。二番目にお目当てのこの店に入る。 タウナギ丼を頼む。流石に名店はことごとく、臭みがない。新鮮なモノを使っているのだ。まるで、小さな鰻のような歯ごたえ。酢豚のような味付け。美味しかった。 このまま帰ろうとしたら、隣に酒屋があった。ワインハーフがあるか、と聞いたら奥さんが張り切って日本語を話して来た。勉強したのかな?それでちょっと高いけど、チリワインを買ってしまった。チリワインを買ったら、つまみも買わなくちゃいけない。行列が出来ている屋台に並ぶ。鳥頭という屋台。この惣菜をたらいに自由に選んで、渡したら、全部をブツブツに切ってもう一度揚げて売ってくれるシステム。少しだけで悪かったけど、100元ほど買った。 ホテルに帰って部屋飲み。果物は途中で買った一袋30元のやつ。これがとんでもなく食べれなかった。甘くも酸っぱくもなく、種だらけ。そして鳥頭の惣菜の肉もまずかった。油だらけ。食べれるのは、うずら卵と練り物だけ。 でも、この味付けはとってもこのチリワイン(カッシーラ・ディアブロ・カベルネ・ソーヴィニヨン)に合うということがわかった。以前飲んだ台湾ワインは甘すぎたが、ホントはこれ位のミディアムボディの方がいいと思う。台湾は肉文化なのだから、もっとワインを飲むべきである。ということで、この日はすぐに死ぬように寝た。 朝食100 昼食120元 タクシー 1000 博物館110 ホテル1080 夕食70 夕食90 ワイン280 夜食130 博物館土産(珈琲カップセット、Tシャツ、お茶、図録二冊)2020 計 5000 歩数 28786歩
2017年01月26日
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分館の資料を観た後、卑南公園。ここでも30分で約束。 この広い広場がそのまま遺跡だった。この景色こそ見たかった。 後ろに険しい山を控え、小高い丘が広がるこの景色は、古代遺跡に特有の景色だろう。 住居の復元。(追記)と、最後まで思っていたが、後でパンフを見返すと、「現代の」卑南族青年会所とあった。 流石、亜熱帯地域。竹だけで住居をつくるとは! その組み合わせ方は、独特だ。 しかも高い。雨が多い地域の知恵か(しかし後で考えると台風はどうしたのだろう)。 これは遺跡ではない。地域のお祭り用の設置なのだろう。原住民に関係しているような。 広場に祭りの空間をつくる。そこに導く羨道をつくる。それは世界共通なのだろうか。 中国風俗に特徴的なブランコである。やはり子供だけでなく、恋人たちも好んで乗る。 周りに果物畑が広がっていた。後で、台東名物「釈迦」という果物だと知る。 そこから20分ほどタクシーで行く。ぐずぐす言っていたけど、ここで1000元(4000円)も払って彼とはおさらばする。念願の国立台湾史前文化博物館である。 地下一階がまるまる古代史コーナーになっている。これまでの古代史不足感を十分なくす出来栄えだった。卑南文化では、貝を加工してスプーンを作っていた。こういうのは、初めて見た。大きな貝が豊富に取れるこの地域独特のモノだろう(日本では、装飾品しかない)。 魚の骨を利用して、こんな装飾品も作っていた。かつて、沖縄県立博物館で見たジュゴンの骨を利用した細かい装飾を思い出す。 中国との大きな交流があったことを証明しているらしい。潮の流れにそえば、筏でもくることが出来るらしい。 驚くのは、こんな玉耳飾りが出土していることだ。日本には、こんな立派なモノはおそらくない。右は一切ない。 石棺の埋葬作業のジオラマ。びっくりするのは、足下に他の人の頭骨があること。骸骨なので、殉葬ではないと思うのだが。 これは石梯らしい。しかし、梯子(はしご)として利用したのか、養殖豚の餌入りとして利用したのか、説が分かれているらしい。 卑南遺跡の石器。武器やいろいろ。形が日本とは相当違う。そういう意味では、直接はこの人たちは日本には来ていないと思う。 土器のいろいろ。基本的に中国の文化の影響を多分に受けていると思う。 抜歯風俗があった。 石棺はこんなにも立派だ。一般的なモノとは思えない。 驚くのは、この「人獣型玉飾り」である。 十分に説明書を見ていないが、非常に独特であり、中国の輸入品であることは確かだろうが、どこの産出なのか。何となく三星遺跡の遺物に似ている。 この玉管も日本では産出しない非常に立派なモノだ。 この瑠璃の腕輪も唸った。 遺物がともかく素晴らしい。時代は弥生時代前期-中期なのである。 これは長光遺跡の岩棺の複製。実物ははるかに大きいみたい。 東海岸には巨石文化が栄えたらしい。これは人の形なのか、どうかはよくわからなかった。 石牌橋遺跡(BC1500-AC)出土、肩のある単石。 長光遺跡(BC1000年-)出土、双角杯。 長光遺跡出土、「陶偶」。これはサルか?サルなのか! 卑南遺跡出土、「有槽石棒」。このギザギザを何に使ったんだ!どうして日本では作られなかったんだ! 卑南遺跡出土、石刀や石鎌刀。四角なのは日本では見かけない。この曲線の刀も日本にはない。 巴○(Patu)。佳里遺跡出土。複製品。これも用途はなんだったのか。 花岡山遺跡出土。蛙形玉飾り。これも非常に独特だ。中国の三星遺跡の影響のような気がする。 蓋寮遺跡(BC1000-)出土。石子尖器。やはり日本では、見たことない。 これもびっくり。瑠璃腕輪。十三行遺跡出土。二つも展示されてあった。これと全く同じ形、大きさで、色だけは青と緑で違うモノが、伊丹の弥生晩期つまり少し早いだけの遺跡から見つかっている。日本では、四例しかない貴重なモノである。形が全く同じということは同じ中国の同じ地域で作られたのか。だとすると、日本のそれは中国との交流があったのか。これは少し質が悪い気がするが、日本のあれは最高級品だったのか。その辺りの研究はどうなってるのか。 これは鉄器時代を多分先駆けた遺物だったと思う。これから鉄器時代の遺物を見る。 十三行遺物。この特異な形は、中国の影響ではないか。しかも青銅刀の柄である。 鳶松文化。特殊な鳥の頭をした陶製品があるらしい。 亀山文化。紋飾が特徴的らしい。 静浦文化。阿美族と密接な関係があるらしい。 ここまで来ると、古代も終わる。黄金の胸飾りである。白桑安遺跡出土。
2017年01月25日
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台東行き自強号の中。席はとっていたのだが、他の人は次々と隣に座ってくる。ノーシトでも空いていれば座ってもいいという決まりだそうだ。 高雄の駅は台湾二番目の都市とは思えないほと、普通の駅だった。 その周りの衛生都市の方が、モダンな感じがした。 大きな河。 屏東駅。この駅が1番モダンだった。 広がるパパイヤ畑。 ここで、車内売りの弁当がやって来た。迷わず買う。 大きな豚の排骨(スペアリブ)と、豚の練り物、何かの揚げ物、支那竹、煮卵、野菜付け合わせ等々である。うまかったが、前回食べた素食弁当みたいなびっくりするような味ではなくて、普通の味だった。肉の汁がご飯に染みていないと、私はヤダ。 お茶も一緒に頼んだのだが、日本語に油断した。砂糖入のお茶だった。 車内トイレに行く。こんな所でお水が飲めるようになっている? お手洗い。手を詰める人がたくさんいるみたいだ。 自強号(特急)のトイレは、なかなか知られていないと思うので公開。当然拭いた紙は流してはいけない。 びっくりしたのはお手洗いがモダンだったこと。しかも自動で水が出てきた。 養殖池が延々と続く。肉料理と同じ規模で魚料理の店が多いのが、こういう仕組みだったのだろう。 海が見えた。台湾の東側に移ったのだ。 大武の駅。 海沿いに走る。コバルトブルーの海。やっと今は沖縄よりも南にいるのだと、実感。 しばらく畑ばかりだったけど、海沿いに街が見えてきた。茉莉や知本などを過ぎる。やっと台東についた。 ここで、今回二番目の大きなトラブルに会う。台東駅で卑南文化公園に向かい、それを急いで見た後に、今回旅の最大のお目当て国立台湾史前文化博物館に向かうというのが計画だった。駅前に案内板はなくて、わかりにくい地図があっただけ。よって迷ってしまって時間を気にした私は1番避けたかったタクシーにそのコースを行ってもらうことにした。乗る時にしっかり筆談で決めたはずなのに、タクシーはいいように解釈して、言葉がわからないので交番ですったもんだ、結局私のいいように行くと、最初約束した500元では済まなくて、四時間行ってくるのにかかるので、2000元(8000円)必要だという。台東駅に戻る必要はなくて、行くだけで2時間(実際は1時間半で着いた)1000元で折り合いをつけた。このすったもんだで、一時間以上無駄にしたのである。時間を返せと言いたい。それでもぼられた気がする。この後姿がそのタクシーの運ちゃんである。こういうのがあるので、私はタクシーは極力使わずに、バスか電車を使うようにしているのである。バスは時には待つのに一時間近く待ったり、結局歩くことになったりするのだけど。 そんなこんなで、先ずは史前文化博物館の分館に行く。よくわからない運ちゃんは、ここでも10分以上行ったり来たり無駄にした。てっきり正月なので閉館しているのかと思いきや大丈夫だという。わけのわからない男だ。行ってみるとびっくり。実際の遺跡が先ずは見学できるようになっている。卑南遺跡は、BC1500年からBC300ぐらいにかけての遺跡である。その意味では、弥生時代に重なる(縄文時代後期から弥生時代中期)。前回の旅では、台湾の古代史は貧者で、しかも地理的条件から日本にも大分劣っていると感じていたが、そうではなかった。日本のように、土器の編年が出来ていないので、どの遺物がどの年代かはよくわからないのだが(今気がついたのだが、それこそ博物館職員に確かめるべきだった)、ともかくこの竪穴式石棺は、集団であるところは中期弥生時代だが、石棺であることで前期古墳時代の質になるだろう。 いったい埋葬者はどういう人々だったのか。今書いていて、どんどん疑問が広がる。この時30分で出るとタクシーに約束しているので、何とかしようという発想さえ生まれなかった。 この図で、やっと台湾の古代年代史がわかった気がした。 こうやって見ると、鉄器時代は西暦と同時に始まる。ほぼ日本と同じだ。しかし、日本のその後の文化発展と、台湾のそれとを分けた要因は何だったのか?と、今また、疑問が出てきた。 遺物展示は、其れなりに充実していた。 卑南遺跡は、一時期は日本の弥生時代を凌駕していたと思う。 戦前の鳥居博士が見つけた、卑南遺跡最大の月形石柱も展示されていた。さて、この分館の下に卑南遺跡が広がる。
2017年01月24日
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台湾旅レポート再開します。1月1日(日) 台湾4日目(晴れ) 2017年新春の朝、6時過ぎに、朝の散歩開始。駅裏の(一青妙さんが絶賛していた)長栄牛肉湯を探しに、駅裏を歩く。 駅にはこんな心遣いもあった。日本にもある所はあるが、手作り感があっていい。 裏町には、時々こんな落書きが目に付く。韓国みたいに落書き村ではない。ゲリラ的にあるのである。こんな落書きは、隠れてでは書けない。おそらく家主の許可を得て書いているのだ。 ここまで来ると芸術だ。 台南の東門である。ここからは近いはずだ。でも、なかなか見つからなかった。 長栄路二段。やっと見つかりました。長栄牛肉湯。正月でも、陰暦じゃないからか、何の問題もなくやっていました。流石にもう遅いのか、人はまばら。すぐ食べれる。良かった。二回目の牛肉湯(小)。そして肉燥飯(小)。この肉燥飯の美味いこと!やはり昨日の丼が悪夢だったとしか思えない。とっても旨味のある牛肉の腹身と思える細切れに絶妙の甘辛タレがかけてある。牛肉湯も、肉がとっても柔らかく当然臭みはなく、旨味だけがある。前回しなかったが、この中について来たショウガのタレつきをいれると、さらに肉の旨味が増した気がした。美味しゅうごさいました。(後で気がついた。前回が焼き飯付きで200元、今回が合計100元、まるきり半額だった。前回のと美味しさは全く変わらない。前回の阿村牛肉湯が本来朝食のはずの牛肉湯を夜もやっていて、おかしいと思っていたが、あそこは観光用に変化していたのだ。こちらこそが、地元のソウルフードと言っていいだろう。) さらに散歩。この「茶の魔手」というテイクアウト用のお茶屋さんは、今回すべての街中、そして田舎でも見た。なんでこんなのがよく売れるのかわからない。このあと、シャングリラホテルという台南一の高層ビルに登れば、台南を一望できるのではないかと思い行ってみると、よそ者は見れない仕組みになっていた。地域のことを全く考えていないホテルだということがわかった。 成功大学の正門。この夏目漱石に似ている、びっくりするような銅像は、詩人の浦添生さんらしい。安心してください。ちゃんとバランスとって下とくっついています。 この大学の東側に古い塀の跡があるらしいと聞いてやって来た。 版築なのか? 台湾府城垣小東門の残遺らしい。そんなに古くはない。1723年。中国乾隆帝の53年(1783)に改築。 ここには歴史文物館もあって、庭には古い大砲も置いてあった。 乾隆元年の「鎮北門」の門額の一部も置いてあった。 この大学の庭は、市民に開放されていて、女の子が鴨を写真におさめようと追いかけていたり このようなガジュマルの老木を再生しようと頑張っていたり、 こんな見事な「百年ガジュマル」の木もあった。 説明には日本語訳の「詩」も添えられてあった。 なるほど、亜熱帯では、百年が大木なのだ。 さて、見るべきものは見た。台南駅前のホテルに戻って、台東に向かう。ずっと気になっていたのだが、駅前の銅像て、日本の武士のような格好をしている。誰?鄭成功?誰か教えて!どうしてこんな格好なの?
2017年01月23日
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台南駅に戻り、観光案内所で、ワインの美味しい店を聞いた。ワインバーみたいな店を想定していたが、案内所のお姉さんが即座に提案したのは、街中の「酒河豚」という居酒屋。「ホントにワインあるのでしょうね」と念を押したら「あります」と請け負う。若い女性なので、信用したのが悪かった。行くと、なかった。完全に「日本型居酒屋」。出るに出られずにずに、生ビールと冷奴などを頼む。 牛のたたき。これはうまかった。さすが牛肉を扱い慣れている国だ。タレは少し台湾かかっている。ワインと合わせてみたかった。280元。 鳥の唐揚げ。150元。約600円。普通に美味しかった。ビール二杯、締めて700元。約2800円。 これでもう腹一杯だったんだけど、トイレを探してまた、台湾文学博物館に行ってしまった。小便器の前のこんな表示。世界の表現はいろいろだ。 今日は大晦日だけど、正月を陰暦で祝う国では、まだクリスマス月間なのである。 孔子廟前のお店の連なり。トリが放し飼いされていた。来年の干支へのパフォーマンス? ここには草祭文庫という有名な古本屋がある。 奥に入ろうとしたら、メンバー制と言われて断れた。 この狭い道を好んで入る若者たちがいた。 その前の有名みたいな豚まんのお店。 つい買ってしまった。 もう足が痛い。帰りたい。その後、愛国婦人会の建物があるというので、探しに行ったら元ラジオ局だった1932年築造の建物があった。今も映画書院として使われているらしい。 台南の南大門(修復)があった。 婦人会を探してさらに歩く。これは明らかに戦前木造の建物だけど、家主は不在のようで荒らされないように高い塀で囲っている。 疲れた。という所で、行きすぎていることに気がつく。よく見ると、あの豚まんを買った所のすぐそばだった。 行ってみてがっかり。修復されて八田邸みたいになっていて、面影は見れなくなっていた。台湾できちんとした木造家屋は、庶民のボロボロの家しか残っていないのか。そういう意味では韓国の方がたくさん残っている。最もあそこは新しく立て直す財力がないということなのかもしれない。 仕方ないので、そのそばの茉莉水果店で、小豆の豆花を食べる。 美味しかったけど、びっくりしたのはそれに使われていた器。台南名所めぐりになっていた。豆花用だと思う。洒落ていた。 その後バスで帰ろうとして、歩けば20分ぐらいなのだけど、足が悲鳴をあげていたので、停留所で20分バスを待った。素通りされてしまった。確かに22時前でバスの運ちゃんも駅前で乗らせるのは嫌気がさしただろう。でも、これは堪えた。歩いて駅前ホテルに戻ると、カウントダウンコンサートを至る所ででテレビ中継していた。台北、嘉義、そして台南でも、新幹線口のそばでやっているようだ。紅白歌合戦みたいではなくて、一人の歌手が数曲歌う豪華無料歌謡ショーみたいなものではないかと思う。カウントダウンの前では台南市長も登場して(スポンサーだからか)長々と演説していた。 そうやって私の2016年が終わったのでした。 朝食150元 文学博物館図録など440 電車49 昼食70 鳥山頭80 電車39 明日の電車468 夕食700 豚まん30 豆花55 計 2071 歩数32536歩(←この日はよく歩いた!)
2017年01月12日
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台湾文学博物館を出てもう少し散歩してみる。 ちょっと前までは、子供はたくさん路地で遊んでいた、ということだろう。40年ぐらい前の日本の注意書きである。 夏のツルの日除けに子供のキャラクターを飾っているのが珍しくて。 ホテルに荷物を置いて駅で先ず隆田駅に行かねばならない。台南駅の一番線ホームは、古レールを用いて設けられた曲線屋根になって広く感じられるらしい。結局鳥山頭行きは完全午後になった。 電車来た。 永康駅で30分待ち合わせ。 熊列車。これだけじゃなく、キャラクター列車が次々に過ぎる(この熊列車については、3日後に詳細が判明)。 隆田駅に着いた。バスの時間まで一時間。先ずは飯を食べてそれから考えよう。 これを食べる。○前鶏柳井飯。1番高い70元のを頼んだが、おかずがまずい。しかも、私は滅多にこういうことはないのだが、鶏はいいとして四角い肉の塊が食べれない。とんでもなく不味い。とうとう残した。こんなことはホントに滅多にない。 駅前に考古資料館の案内版が。聞いてないぞ。言ってみると、土曜日休館だった。なんて惜しいことか。ずいぶん古い資料館だ。発掘は相当前なのだろう(後に鳥山頭遺跡は台湾を代表する史前遺跡と判明)。 タクシーを検討してみる。運ちゃんに聞くと、60分800元だそうだ。あり得ない。バスで30分のところだぞ。少し周りを歩いてみる。この辺りは、ちょっと前まで一面畠だったに違いない。それを急遽町にしたから、ほとんどの道路がまっすぐだ。面白味も何もないということがわかった。八田與一によって、灌漑用水が発達して、この平野が開発されて、こんな面白味のない町が出来たわけだ。 バスがやっと来た。800元ではない。39元で行けるバスが来た。バスについて走っていると、よくわかったのであるが、隆田の裏に巨大な工場団地が広がっていた。隆田が急速に町になったのは、灌漑用水だけでなく、そういう事情もあったのだ。 鳥山頭水庫(ダム)は、嘉南平野の農業灌漑を主目的にして、1930年に竣工された。当時は東南アジア1番、世界三番のダムだったらしい。これにより、農地面積9万ヘクタールの嘉南平野が台湾最大の穀倉地帯になった。 このダム公園は恐ろしく広くて、車でないと厳しいものがあるが、いかんせん私は徒歩。八田與一記念公園まで歩いて行く。そこには、ダムの設計をして、工事を指揮した八田與一の住居を復元している。まるきり新しく作ったみたいで、木の温もりがない。他の住居も修復復元の違いはあるけど、同様でがっかりした。 しかし、間取りや、気の質は違うが材料は日本家屋そのものだった。 所長の赤堀邸は、写真のボロボロだった邸宅を修理している。 八田邸と間取りはほとんど同じだが、書斎はない。 のちに八田のあとを継いで鳥山頭主張所所長になる阿部邸。離職後は招待所みたいなクラブとして使ったらしい。残っていたのは写真のようなボロボロ家だった。 中は様々な間取りがあり、全く日本家屋と代わりはない。 その横に八田と奥さんの人生をビデオで見せる資料館があった。 八田の遺品が置いている。 当時の工員たちが住んでいた住宅地図。八田は現地の人々と同じ所に住むことにこだわった。また、殉職碑も日本人と台湾人を同列に扱うなど、至る所で公正に扱うようにした。それは八田なりの人心掌握術だったかもしれないが、当時としては異色だったようだ。しかし、見たらわかるように、幹部の家の敷地(中間の数軒)は明らかに広く、格差はあった。 出てトボトボ歩いて行くと、子供の炭焼き体験場があった。有料である。 さらに坂を歩いて行くと、ダムに出る。これが当時世界三番のダムか。それ程大きくはない。 ダム用の土砂や重機を運んだ蒸気機関車。ベルギー製で、メンテナンスをして大切に保管されていた。 その隣、このダムの防堤の1番高い所に八田技師の像と八田夫妻の墓がある。 「地球の歩き方」によると、ダム完全直後の1931年に慕われていた近隣住民の寄付によって作られた 。しかも、戦中の金属供出の際に、住民はこの像を隠していたらしい。さらには敗戦後、中国政府は日本人の銅像を撤去するように命令していたらしいが、住民は拒否、密かに保存されていたらしい。この像が公になったのは、1990年代。花は毎日のように手向けられているらしい。 ぞの作者は、現地に行ってもわからなかったが、見れば八田おおらかで、思慮深い性格がよくわかる傑作だと思う。 戦後日本に引き上げずに、自殺した奥さんと一緒に墓に入っている。 ここからはダムもよく見える。 その後、トボトボ歩いて行く。こんな花があった。亜熱帯なのだ。 奥さんが身投げしたという旧放水口。 嘉義高校の甲子園出場を描いた映画「KANO」のロケもしたらしい。 今は水の勢いはあまりないが、当時は入ればひとたまりだったのだろう。 時間は一時間も余った。しかし、バス時間の関係で、ここを出たのは17時10分。この年最後のお日様は、ここ台湾の鳥山頭で見た。
2017年01月11日
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もう朝飯で、食べるべきものは終わった。早々に帰って早く鳥山頭に行くべきだ。しかし、ふとこの時間帯の街が見たくて、駅まで歩き出す。 台湾の街は、至る所に廟があり、そこが地域の広場になっているのが多いと思う。そういうところには、たいていガジュマルの大木もあるのである。わたしの感覚で普通に入った路地がちゃんと歴史道だった。永福路の道を歩いて行く。 こんな飾りつけをしているので、寄って見ると こんな風に作っていた。まさしく庶民の飾りである、 これは単に消防線が面白かったので、写してみました。 アート村ではなくて、この家一軒だけを飾り描いている。こんな家がわりと多い。ここは玄関のところは子供の落書きにしている。日本ならば勇気ある飾りつけだけど、台湾ならばどうなのか。 日本風の家屋。 永福里芸文康楽センターと書いている。どんなところかな。ちょっと入ってみる。 地域の公民館みたいなところだった。二階では、歌の練習をしていた。 あまり散歩に精を出すと、目的地に行けなくなるのでバスを待っていたら、尿意を催してきた。昨晩写真撮影だけをした国立台湾博物館に入った。 これは中の景色。元の構造を残しながら、全く違った建物になっているようだ。 序でに特別展を見てみた。これが思いのほか、良かった。台湾の人たちが、韓国と比べるとどうしてここまで好意的なのかを、わたしはとりあえず国民党政府の弾圧がひどかったので、日本のそれが薄まったのだ、という仮説を立てていた。どうもそれだけではないらしい、と最近思い出した。 文学史は、言わば「心の歴史」である。よって、思想史(私の大学時代の専攻は日本思想史だった)を扱う者は時々文学も対象に入れる。この展示の趣旨は、「展覧会の総説」に書いてあった。その一部を抜き出す。 一、「見てみる」では、両国は当初お互いのことを理解し合っていなかったが、どのようにお互いを認め合い、関係を築き上げていったか。 ニ、「考えてみる」では、台湾人と日本人が触れ合う際に起きた衝突や競争、そしてお互い高め合うようになるまでの変遷を見てみよう。 三、「恋して見る」では、庶民生活の文化の軌跡をたどることで、両国の日常生活での触れ合いや気持ちが溶け合う情景、ないし近年の日本ブームや台湾ブームを見てゆく。 主に最初の切り口の日本文解説のみを写真にとっている。それでも全ての展示を網羅するのは無理だ。 私が少し琴線に触れた解説のみを紹介する。 最初に一、「見てみる」より。 日本人が台湾人を皮肉るように、台湾人も陰では日本人を皮肉っていたのだという「当たり前」のことに気がつく。台湾人はゆっくり歩くが、日本人はせかせか歩く。台湾人は車に乗るが、日本人は箒のような人力車に乗る。なかなか面白い。 一方では、日本人の「仕事の勤労ぶりや、礼儀正しさ」は評価されたらしい。 戦後においても、政府の教育があったにもかかわらず、日本人の良い部分と悪い部分が残っていたのは、興味深い所ではある。 ここからはニ、「考えてみる」。基礎知識であるが、日本の台湾統治は日清戦争後の下関条約(1895年)より始まった。 それから20年後、台湾知識人は次第と民族的な「独立意識」を涵養してゆく。「台湾文化協会」の成立大会に、自由党の板垣退助が出席したということにびっくりする。その場所は、当時は台湾の首都だった台南であり、台南駅の二階「台湾鉄道ホテル」というのである。 1920年代から40年代にかけて、台湾でもプロレタリア運動が起こったらしい。ここで書かれている「糞リアリズム」とは、「この軟弱もの」という意味か、「資本主義の手先」という意味か、そのどちらもか。 1937年から1960年まで、日本統治下の日中戦争勃発から国民政府時代まで。まさに「幻の共栄、転回する台湾」である。 1945年の終戦から、1947年のニ•ニ八事件。邱永漢が、ニ•ニ八事件で亡命した人間とは、知らなかった。 三、「恋する」 台湾人には、「気がつかないうちに植え付けられた日本の生活習慣がある。」ことを時に自覚する。 それも、現代の日本ブームを生む原因になっているのかもしれない。 司馬遼太郎の「台湾紀行」は、「1990年代の台湾を観察し、史料の収集を通して、歴史の転換における台湾人の切なさと苦悶を描き、日本人が台湾を理解する際の初歩的な著書となっている」と評価されていた。また、昨年刊行されたばかりの「美麗島紀行」が展示されていたのにもびっくりした。 日本マニアはこんな風にいうのだそうだ。これは「おたく」と訳していいのだろうか。 台湾で生まれた日本人は「湾生」と言われているらしい。一青妙さんの「私の箱子」は、湾生と言っても戦後生まれなのだけど、キチンと台湾語訳して展示されていた。 台湾人たちの日本人観は、「憎しみながら愛する」というような激しいものではなく、かなり静かな関係だった。最終的には、一つ一つの作品を見て行かないとわからないと思うが、ちゃんと冷静に批判もするし、評価もしていることがわかって大きな収穫だった。
2017年01月10日
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12月31日(土) 台湾3日目(曇り) 朝7時に起きて、ホテルの朝食を食べて見る。こんなラインナップ。 味は予想通り全然だった。明日は無視しようか。それとも元旦で何か出るだろうか。 朝1番で鳥山頭水庫に行く予定だったけど変更して、台南朝食巡りをすることにした。バスで西門に向かう。他のバスも見たけど、一面ぬいぐるみで飾っている。会社の方針とは思えないのだけど。 西門ロータリーの辺りで爆竹が鳴らされ、小さい花火が飛んだ。旧正月じゃないのに、お祝いしているのか。まあ、都会だからね。交差点を異様な風体をした人々が次々と行進して行く。 見ると、いろんな団体の法被を着ている。廟や商店街の宣伝も兼ねているのかもしれない。媽祖(マーツ)信仰が盛んな台南だからこその祭なのかもしれない。 突然、空を爆音が走った。戦闘機だ。近くに基地があるのか。米軍じゃない。おそらく台湾軍だ。機種はわからなかった。約束通り二機続けて飛んで行ったが、わたしのデジタルカメラでは、到底追うことができなかった。今日は大晦日の土曜日なんだけど、軍は関係ないのか。 目当てのこのお店に来た。流石にすごい人出だ。 ウロウロすると、お店の人が見つけてくれて筆談で「40分待ち」という。あり得ないけど、このためにここに来たのだからOKする。なぜか「貴姓?」と聞いて来た。意味がわからなかったのと、一生懸命ボールペンを探していると、「日本人?」と聞いて納得していった。 頼むのは、綜合も考えたが、やはり台南名物、虱目(サバビー)粥にした。 持ち帰りは次々に渡しているし、お兄さんは掛け声かけながら、手際良く作っているので、もっと早く出来るかなと思ったらホントにやってこない。やはり40分以上かかった。席に座って待てるし、その間に日記を書いたから良しとしよう。 やっと来た。これがサバビーか!臭みは全くない。蛋白な白身だけど、汁に魚の旨味が全部流れたかのように、日本人好みの出汁になっている。ネギがいい薬味になっている。中に二つだけ、牡蠣と見紛うような小さなものが入っていたが、味はシジミだった。馬鹿でかいシジミか(←後に牡蠣だと判明)?待った甲斐がある記憶に残る味でした。 西門の通路にこんな宣伝張り紙があった。日本にはおそらく無許可だろう。しかし、目ざとい(←後に昨年末に「続・深夜食堂」が公開中と判明。日本とほぼ同時公開。台湾ではかなりの人気だったのだ)。 次は台南出身のアン・リー監督が愛したという小巻米粉の店で葉家小巻米粉に入る。直ぐに注文出来た。 米の麺にでっかいゲソのブツ切りが乗って薄味のスープで仕上げている。箸がプラスチック制ですべって食べにくい。麺がツルツルでコシがないので切れているのである。やがて食べ方に気がつく。これは麺を持ち上げて食べるのではないのだ。汁ごとかっ込むのである。アン・リー監督がソウルフードだと言っていた意味がわかった。小学生や中学生だった監督が、腹を空かせて熱いのをガマンしてぶっ込んで腹を満たしていた、その日々がソウルフードなのだろう。確かにいくらでも食べれそうな薄味。醤油で各自味付けをするようになっていた。 もう朝飯で、食べるべきものは終わった。早々に帰って早く鳥山頭に行くべきだ。しかし、ふとこの時間帯の街が見たくて、駅まで歩き出す。
2017年01月09日
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バスでいったん台南駅前のホテルに戻って、博物館で買った本を置いて、夜の台南に食べにゆく。一青妙さんのお勧め台南食べ物をメモしてきた。バスで西門あたりで降りて、ブラブラ歩く。なんと目当ての店が次々と営業終わっていることがわかった。台南名物は、ほとんど夜の料理ではなく、朝から昼にかけての料理なのだ。仕方ないので、さいしょは俗俗木瓜牛乳のパパイヤミルクを飲む。一青妙さんは大好きらしい。パパイヤというよりか、濃い牛乳。 あまりにも店がない。ずっと歩く。仕方ないので、蝦仁肉圓。しかし、彰化で食べたそれとはレベルが違っていた。やはりお勧めの店で食べるべきだと反省する。 誰もがお勧めする阿村牛肉湯。腹が膨れかけていたので、牛肉湯の小と、牛肉炒飯にした。 流石に美味しかった。 マクドナルドで、少し休みながら日記を書く。町をブラブラしながら、台南駅に戻る。中正路をまっすぐにゆく。林百貨店がライトアップされ、多くの若者が写真を撮っていた。1932年建立。 国立台湾文学館。1916年建立。旧台南州庁。あとで知ったのだが、午後9時までやっていたらしい。 気象博物館。1898年建立。元台南気象測候所。 中正路は、昔の建物がわりと残っているエリアなのかもしれない。夜ならではの怪しい雰囲気。 この右側の路地に入って見た。 行き止まりそうで行き止まらない。 まだまだ入る。女性は真似しないでね。 右手の家はレトロな喫茶店になっていた。 こんな木造家屋がまだまだ残っている。 その反対側は、カップルがいるような公園だった。 通りまで出てカリカリふわふわサクサクのメロンパンを買ってみた。 本屋に寄る。店頭に掲げる本の半分は日本の本だ。半分は米国だ。台南人の関心の方向がわかる。 コンビニでビールも買って見る。 オムレツ40、コンビニ98、鉄道15.悠悠カード300、昼食150、土産460、タクシー200、夕食50、40、200、45、30、99、 ホテル16576円 計 1707元プラス16576円 歩数 27700歩
2017年01月08日
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国立台湾歴史博物館をじっくり見た後、タクシーで「飛虎将軍廳」に向かった。200元で済んだのはラッキーだった。webの情報によると、縁起は以下の通り。第2次世界大戦中の1944年、海軍航空隊の杉浦茂峰少尉(当時は兵曹長)は、台湾南部が空襲を受けたため零戦に乗り出撃。米軍機との交戦の末撃墜されるも、必死に操縦かんを握り締め、人家の密集する集落を避けて畑や養殖池のある場所へ墜落したとされる。幸い地元住民への被害はなかったが、落下傘での脱出を試みた杉浦少尉は、その後死亡が確認された。 それならば村の恩人ということで、祀ったというのが、日本の文献やネットで広く書かれていることである。しかし、今日、地元の管理者発行のパンフを見ると少しニュアンスが違っていた(日台両方の説明書になっているので、よくわかる)。以下の通り。 終戦後何年かたち、部落の人が白い帽子をかぶり、白い服を着た人物が常に養殖池付近を徘徊するのを目撃した。最初は闇夜に紛れ、魚を盗みにきたと思い、追いかけてゆくが姿を消し、これは尋常じゃないと気がついた。その後この怪奇現象を見た者が増え、ある者は夢に出てきたと語るし、このような話がいたるところで起こり、人々は恐怖に慄いた。海尾朝皇宮の神「保生大帝」にお尋ねしたら、戦時中の戦死者の亡霊だということであった。その後、部落の人たちは、この亡霊は戦時中部落を戦火から救うために、自分の命を犠牲にした飛行士ではないかと判断し、部落の恩人に感謝の念を捧げる方式を討論し、台湾人が謝恩の最高な表現で、つまり祠を立て、永久に海軍航空隊杉浦成峰少尉の恩を顕彰することに決定した。1971年に祠が建てられた。その後もお参りする人が後を立たず、1993年に今の立派なお堂に建て替えられた。 これが主な縁起である。つまり、最初のきっかけは「恐怖」だったのである。それ以降信仰を集め、杉浦さんの神の格が上がったようだ。媽祖信仰も要は同じ過程で、普通の女性が台湾を代表する神格になったのではないか。つまり、普通の人間が神様になるのは、台湾ではよくあることなのだ。しかし、日本の軍人を憎む心が、村人の中に多く存在していたならば、このような現象は起こりえなかったということは言えるだろう。 新しく立て直した町廟は、四坪から五十坪に拡大し、朱色の屋根瓦、柱や壁は大理石、床もイタリア産の大理石。全て信者の奉献で担ったらしい。柱には詩が刻まれ、その中には「正義」「護国」「英雄」「忠義」「大義」らの言葉が入り、それは飛虎将軍に捧げられている。廟守は朝夕二回、煙草を三本点火して神像に捧げ、朝は「君が代」午後は「海ゆかば」を流す。それを毎日行っている。頭がさがる。お寺の僧侶ではないのである。ボランティアなのだ。 しかも年四回、記念行事をするらしい。生誕記念日、五営慰労日(賞兵の日)、お盆、五営慰労日(賞兵の日)なのだそうだ。 なんと日本語で、安慶国小学校の鄭紀明先生作のマンガまで置いてあった。地元小学校で地域教育をした成果らしい。「祠を建ててお祀りをしようか」「いいね」「賛成」「村は安泰」「畜産も順調」「多くの民が参拝」というように教育しているらしい。民間信仰が生活に根付いているのがよくわかる。 この将軍のためだけに、なんと二冊の本を上梓するのが被虐史観アレルギーの一定層の人たちである。おそらく中身はスカスカだろう。
2017年01月07日
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高鉄(台湾新幹線)台南駅から台鉄台南駅への連絡線が高鉄台南駅のとなりにある沙崙駅という名前とは知らなくて、ちょっと迷う。教えてもらってチケット販売機に行くと、コインしか受け付けないという。隣のお兄さんが優しく教えてくれた。そして持ち合わせがなんと一元だけ不足とわかると、自分の10元をおごってくれて、チケットを発券してくれ(^_^;)た。外国に来ると、どうしてみんなこんなに親切なんだろ。 台南駅につく。「台湾に生きている日本」でも取り上げたが、この駅舎はかなり古い。1936年竣工。赤煉瓦の西洋風ではなく、機能性や耐震性を重視したモダニズム建築風らしい。元は二階部分がホテルとして利用されていたらしい(台南鉄道ホテル)。レストランさえ併設されていた。今はどうなっているのか、と思って見ると、記念館の計画は頓挫してやはり倉庫のままになっていた。しかし、現役の駅舎である。設計は宇敷赳夫。今回の旅の1番の目的かもしれない博物館は台南歴史博物館である。その為に台北は無視して1番にここに来た。ホテルもわざわざ駅前の高めのものにした。一泊8000円以上、かなり思い切ったのだが、全然驚くほどすごい部屋ではなかった。どころか、あまりにも古くて普通でびっくりした。そして駅前の案内所でバス停の場所も教えてもらい万全の体制で望んだのに、台南駅前で待てど暮らせどバスが来ない。結局一時間待った。新幹線を使った意味がない。40分めにやっと次の時間がわかり、あと20分とわかったので、バス停前のくるくる寿司でともかくも腹を満たすことにした。昆布ものはたいへん美味しかった。キツネ寿司は普通。イカも普通だった。ただもう一つのお寿司は異様に甘かった。もう一つ貝類を頼む。これもタレが甘い。どうなんでしょうね。締めて150。一皿が30元だったらしい。日本よりも少し高め。やっとバスが来た。セブンイレブンで買った悠悠カードで先ずタッチして乗る。運転士さんは素晴らしく乱暴な運転してくれたので、予定よりも一時間かかるのに40分で着いたみたいだけど、降りそこねて結局同じになってしまった。やっと国立台湾歴史博物館につく。ものすごく贅沢な空間の使い方。さて、私のお目当ては何がなんでも古代である。私は最新の国立博物館なので、もっと全面的に詳しくやっているのだと思っていた。台北のそれとあまり変わらない展示だった。これは旧石器時代の長浜文化遺跡の礫石。しかし、ジオラマは素晴らしかった。上は長浜文化遺跡。下は農業革命を経た墾丁遺跡。あまりにも小さすぎて、服装などの細かいところはわからなかったが、台湾の古代が単なる原始人みたいな野蛮な生活をしていたのではない、ということを示すには十分な展示だったと思う。次は海外貿易を経た淇武蘭遺跡。大盆抗遺跡の縄文土器。と、卑南遺跡の変なところに穴があるなんと玉の矛。当然中国の貿易品だろうが、紀元前のものなのである。この時点ですでに日本の文化水準を凌駕している。この形の玉や石斧も日本からは出てこない。実はこの博物館の特色は、ここからなのである。ここは歴史博物館なのだ。だから、歴史の記録のあるものの展示が充実するのは当然だったのである。これは 17世紀の貿易船。豊臣時代の朱印船などが大きく取り上げられていた。 その他、私の意図に反するので割愛する。また、機会があれば取り上げてみたい。近代に移ると、そのジオラマは実物大になり、すごいものがあった。特にこの媽祖辺境のジオラマは凄かった。
2017年01月06日
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12月30日(金) 台湾2日目(曇り) 朝6時半に起きてホテルの周りを散歩。前回も行ったニニ八記念公園に来てみた。 国立台湾歴史博物館は、建物自体が日帝時代の貴重な歴史遺跡である。 そのそばで、予想通り集団でヨガをやっていた。 この公園には、このような中国風の建物もあって、そのそばの同じような建物には知らない人たちの銅像が何人も顕彰する「亭」もあった。そこには、日本にもいるが、やはりホームレスの人たちが寝床にしていた。台北の冬は寒く、みんな今はジャンバーを来ているけど、決して氷点下どころか5度ぐらいにも滅多にならないので、こういうところを寝床に出来るのだろう。 台大医大旧館。明らかに、古い建物である。 この辺りに、日本の戦前の設計者の臭いがぷんぷんする。あとで調べると、やはり戦前の建築物でした。 その医大の児童医院だ。現代的な建物なのだけど、児童が来やすい設計と、ロゴのデザインをしている。日本の医大には、このような柔軟な発想はないのではないか。 朝食を探してうろうろする。理髪が200元(800円)なのは、安い。しかも、既に刈ってもらっている人がいた。 その道をまだ行くと、行き止まりではなくて、他の道に通じる。台北駅前の商店街なのだけど、昔の雰囲気が残っている。 そこで、とりあえず行列ができかけているこの店で蛋餅(オムレツ)を買う。綜合が40元。 オムレツをもらって、自分でタレをつける。 ホテルに戻って食べると、ニラかネギの入った、柔らかいかまぼこ付きのオムレツだった。 朝食を軽くしたのは、新幹線で弁当を食べたかったからである。ところが駅で何処を探しても弁当を売っていない。やっと前回買った所を見つけて行って見ると、なんと置き台がカラだ。朝はやっていないのだ。 がっかり。セブンイレブンで、野菜巻サンドイッチとお茶を買う。これはこれで美味しかったが、びっくりするほどではなかった。 新幹線は、日本の技術を導入したらしく、瓜二つと評判だ。入ると、私の予約席の前でおばちゃん2人が喋っている。どうやら「予約席が離れて困ったわ、このお兄さんに代わってもらいましょう」と言っているらしい。その仕草が、完全に日本のおばちゃんと瓜二つなので、直ぐにわかった。当然代わりました。断った時の表情も目に浮かぶし(^_^;)。 外見よりも内装が瓜二つだった。 ただ、この新幹線に車内誌があるのが、日本とは違うところ。その中に、弁当の車内販売は10時半からと書いてあった。 台南につくのは、10時すぎなので、楽しみはあとになる。おばちゃんたちは、延々二時間喋っていた。 9時半すぎに台中をすぎる。これより南には行ったことがない。台風銀座らしく、コンクリ性の家が続くなかで、畑にポツンとお城みたいな中国風の大きな建物が建っている。 また、嘉義に近づくと、山が一切見えない。巨大な穀倉地帯の平野が続く。この巨大な平野にはビルは建たない。これが台湾なのだ。
2017年01月05日
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昨日帰りました。早速ですが、台湾旅レポートを始めます。 12月29日(木)曇り 台湾旅一日目 今日から、年末年始台湾一周旅が始まる。とは言っても、夕方岡山空港発なので、一日目はほぼ移動のみである。前回は関空まで一日かけて移動したが、今回は岡山便がちょうどスケジュールと合った。しかも10月の中頃予約して上手くゲットできた。韓国までならば往復6万円以上かかるのに、台湾ならばLCCだけど36000円と少しだ。これは大きい。ホテルは全部予約した。そんなこんなで、今回はお土産代を入れなければ、10万円前後で済ます目標である。円安の昨今、どうなるかわからないが、やって見る。 テーマは、古代と食と、昔日の日本との関係。である(^-^)/。 岡山空港は、なんと駐車場代がタダ。小さい空港なので、スムーズに夕方乗り込むことができた。 LCCタイガーエアラインの広報誌を見ると、岡山の紹介は定番の後楽園とお城とデミグラソースのカツ丼というおかしなフィーチャーをしていた。 席はなぜか翼の少し後ろ側の窓側。今回気がついたのは、なぜか一人旅の時は必ずこの席になる。どの飛行機でもそうだ。一人旅の場合はここに入れろ、という空港会社のマニュアルがあるのだろうか。 今回は有料の機内食を食べる気満々で来たのに、なんとタイガーエアラインは予約制らしい。食べれなかった。今日は夕食食べられるのか?不安になってきた。 台湾桃園飛行場に着いた。しかも予定より20分早い20時30分。余裕でホテルに着けるとおもいきや、入国審査があり得ない大行列で一時間以上かかった。 台湾レートは0.2693。4万円が10742元にしかならなかった。前回と全く同じだ。円安を恨む。 台北駅行きのバスがまた行列、そしてバス移動に一時間以上かかるとすれば、明日になるかもしれない。あり得ない。 バスの運転士は渋滞に巻き込まれそうになったけど、あり得ない割り込みで見事に切り抜ける。おかげで50分で駅に着いた。ありがとう、運転士さん。明日の高鉄の切符を駅で買っておく。 NYSロフトホテルを探して、深夜12時前、行商が終わったらしきおばさんに筆談で道を聞くと、連れて行ってくれた。まるきり反対方向を探していたので、たいへん助かった。 おかげで12時20分前にチェックインを済ませることができた。ここのホテルはなんとトイレとシャワーが共用らしい。確かに部屋は綺麗だけど、それだけ狭い。これで5000円以上とるのは台北のホテル事情は高騰しているということか。 12時すぎにやっと夕食にありつく。こういうお店。 大腸麺線の小、頁丸湯。腹が減っているので、なんでも美味しい。シャワーを浴びて明日の朝に備える。 飛行機代36013円 ホテル5198円、バス125元、夕食80元、コンビニ75元、高鉄1350元 計 1530元プラス41211円 歩数7200歩
2017年01月04日
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ブロガーは必ず経験していると思いますが、一生懸命書いた記事の消滅事件が二回起きました。私も過去の経験から、記事を必ずメモアプリで「下書き」してきたのですが、なんとこの間消えるはずのないメモアプリで作成した下書きが二回消えてしまいました。一回目は記事を訂正したら、コピーが二つできたので、一つを消したら2つとも消えてしまったのです。二回目は、記事作成中に年に一度の「承認タイム」になってしまい、IDを書いてパスワードを入れたら、あの「気を取り直して一生懸命書き直して、あと20分ぐらいでできるかな」と思っていた記事が見事に消えていました(涙)。 というわけで、今三回目を念のために違うメモアプリを使って書き直しています。で、なんの記事を書いているかというと、あの長い台湾旅レポートの最終日の記事です。旅レポートの最後のレポートがこういう書き出しになって申し訳ありません。で、当然旅の直後に書いていた写真の詳しい説明や数字的な記録は「無くなって」います。ご了承ください。 1月3日(土)晴れ 8日目(最終日) 朝の7時に漫歩旅店を出発。 朝食は黒胡麻饅頭。バスセンター前で元気なお兄さんから買った。 台湾桃園空港のピーチカウンターは、長い行列が起きていた。台湾の人は日本人なみに並ぶのが好きみたいだ。 ピーチの出発時刻は行きも帰りも30分ぐらい遅れた。タイムスケジュール通りにいかないというのは、今度乗る時には計算に入れておかなければならない。 飛行機内で、美味しいと噂の機内食を「買って」みた。お寿司弁当お茶つき800円。普通のコンビニ弁当と同じ。 日本に着いた。帰りの行程は行きも帰りも同じなので、省略。長い電車旅の間、久しぶりの日本のビールとツマミと龍山寺前の市場で買ったこのナンキンの種を夕食とした。龍山寺のおばちゃんがとても器用に食べていたので買ったのです。かなり技術が要ります。長い電車旅の良いお供になりました。先ずは歯で噛んでヒビを作る。それから薄い表皮を取ると、薄い実が取り出せます。一袋50元で買ったのですが、色んな人にあげたのに、まだ1/3ぐらい残っています。 台湾の旅を終えていろいろ思う処はあるのですが、いろいろ書いたのですが、記事が無くなったので、もう一つだけ。 台湾は若い国でした。文字記録があるという意味で「歴史時代」になって、まだ400年ぐらいしか経っていない。よって、現代史も考古学も、これから充実してくるでしょう。つまり、博物館の充実は、「これから」ということです。そういう意味でとっても愉しみな国です。 今度は、本格的な考古学博物館がある台東には行きたい。映画「KANO」のロケ地も回りたいと思います。 (会計と歩数は記録が消滅したので、省略)
2015年03月04日
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市場の路地に入り込む。トリの姿煮を吊るしている。 蚤市をしていた。 こんな石まで置いている。いいとは思わないんだけど。 押し合いへし合い。 公園ではおばさんが歌を気持ちよく歌っていた。プロではない。と思う。 龍山寺に着いた。 気がついたんだけど、ここの屋根の飾りはすごい。 これも。 今日は線香を買って、今年一年の健康を祈ることにした。 若い人が熱心に祈っているのが、日本と大きく違う処。 お守りを三つ買う。 寺の裏手は薬草街になっていた。 一帯の路地をウロウロしたが、何処にもバイクが停められていた。駐車場料金も要らなくて足になる、ということで、街人にはなくてはならないモノなのだろう。けれどもあの排気ガスは何とかすべきだ。絶対寿命が短くなると思う。因みに「茶館」は喫茶店ではない。春を売る所である。あ、もちろん覗くようなことはしません。倫理観もお金も時間もそんなことは許されません。 古山園旅店のWi-Fiが拾えた。suzuさんとやっと連絡がとれた。台湾在住の友人2人と食事をする約束をしていたのである。てっきり龍山寺あたりでやるのかと思ったら「今、どこ?饒河街観光夜市に、おいでよ( ^ ^ )/」との話。MRTの松山駅のすぐ近くだという。「駅に着いたら連絡して」とライン。今まで駅でフリーのラインが繋がったことが無いので、「繋がらない可能性がある」とラインすると、「繋がるよ」と云うので、もし繋がらなくても行けばお店で飲んでいるに違いないだろうから大丈夫だろうと、電車で行く。 着いた。駅で、ラインはどんなに試しても繋がらない。仕方ない。夜市に入る。人人人人人!立錐の余地もないと云うのはこういうことをいうのか。10mを歩くのに30分かかった。 全く見つからない。この松山慈祐宮が夜市の入り口にどーんとあるためか、新暦とはいえ正月だからなのか、ともかく人が多い。屋台らしきものは全部覗いた。人混みを歩くコツを覚えて少し速く歩けるようになったが、それでも見つからない。結局同じ所を一時間半歩き回って、3周ぐらいしたと思う。台湾の友人に、私の台湾の印象を聞いてもらいたかったのだけど、諦めざるを得ない。 疲れ果てる。西門に帰り、最後の夕食は適当な食堂で、簡単な肉飯と貢丸湯で済ませた。 漫歩旅店に帰ると、店のラインが繋がった。suzuさんからは「いま、台湾友人と別れて龍山寺で飲んでいるから来ない?」とライン。疲れていると言って断った。こうして最後の夜が終わった。 朝食50 カラスミ375 ステッカー90 梅ドライフルーツ65 ドライフルーツ50 油飯20 昼食100 お茶220 四仙湯屋100 コーヒー80 お菓子145 龍山寺お守り115 夕食60 お土産(スーパー)561 計 2031 歩数 28763
2015年03月02日
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そのあと、国軍博物館に行くと恐れていた通り、正月休みになっていた。孫文は立派なことを言っている。若い台湾の軍隊がどんなことをしてきたのか見たかったのだが、残念だ。 その道路の向かいに日本風の建物、樹心会館というのがあったので、入ってみる。1923年落成。どうやら、明治の軍人児玉源太郎の命名らしい。 子どもが自分の一族の族譜(血統)を調べて優秀者が発表されているらしい。おそらく漢人の催しだろう。 鐘つき堂があって、若者が何人も記念写真を撮っている。台湾では、珍しいのだろう。 龍山寺の方向に向かい、適当に歩いて行く。こんなオタクの店があった。 龍山寺近くに、郷土教育センターというのがあり、その一帯が歴史保存地区になっている。学生たちが現代美術の発表の場にしていて、人がたくさん来ていた。 昨日は映画のロケもあったらしい。 確かに使えそうな景色がたくさんあった。 この周りは、わりと古めの路地が多く残って面白い。 洗濯物も、わりと若い人のが目立つ。若い国なのではないかと思う。 按摩館なので、新しい家だけど古めの建て方をしてる。 そこを入って行くと 行き止りだった(^_^;)。 台湾では、路地に植物を置いているのだけど、流石に全部南洋の植物なのである。
2015年03月01日
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さらに小径を歩く。 整備されていないけど、何処かヨーロッパの雰囲気を持つ小径も多い。 レンガにモルタルを塗ってその上に化粧レンガを貼っているらしい。ずっと台湾の左官技術を注視して見たのだが、日本よりも丁寧だとは思わないが、基本的に韓国よりもはるかに丁寧な仕事をしていると思う。台湾と韓国、日本人の教え方が違っていたのか。それとも、台湾国民の資質の違いなのか。日本が来る前に中国人技術の下地があったのか。地震があるからなのか。非常に興味深い。 そんな何処かの民家が開いていたのです外から覗き見(「歓迎自由参観」と書いているし)。雑貨店と書いているが、中に雑貨はほとんどない。 土間と机とテレビと思い出写真。 また、別の家。洗濯物。子どもが多いのかな。 この貫禄についカメラをむけた。かなりぶすっとされました。 瓦の仕組みが分かると思い、写した。こういう伝統的瓦はあまりないが、薄い瓦を無数に貼り付けて屋根を作っているのが分かる。 ここも「台湾一周!安旨食堂の旅」に出ていた。このお店で最後の昼食。 肉綜(ちまき)と四神湯(小腸とハトムギのスープ)。もう腹が一杯。 電車で小南駅へ。若元薬店などの「日系企業」が深く根付いているということが分かる。 台北には至る所にレンタル自転車スポットがある。登録カードで管理していた。 歩くと、国家図書館という物々しい図書館が。 四階のコミック部屋にいくと、あんまり品揃えはよくないけど、なかなか楽しそう。 驚くほど、日本の原作ばかり。約9割が日本人作家。 コーヒー屋で一休み。 お土産の成果。三連発。お茶は送った人から「とっても良い茶だ」と評価をもらいました。春のステッカーは私の玄関口に貼りました(^-^)/。
2015年02月28日
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迪化街の中央市場があるこの建物は、昔は映画館が併設していたようだ。 現役郵便局も日本統治時代に出来ている(1915年)。 カラスミを買って見た。 この乾元という店。一応「百年老舗」らしい。筆談で、冷凍ならば半年間持つと保証してくれたが、冷蔵のまま、なかなか食べる機会がない。赤ワインに合わせようと思っているのだが(^_^;)。 ちょうど昨日の夜にこのワインに合わせて食べてみた。 ボルドーの地酒の赤ワインである(つまりAOCとかの一級ワインではない)。カベルネ・ソーヴィニヨン100%。なんと、カラスミの複雑な苦味に合った。こんなに上手く合わせることが出来たのは、年で数回しかない。つまり偶然。 このよくわからないドライフルーツも買って見た。名前は桂圓肉で、明らかに梅のドライフルーツ。甘酸っぱくて美味しかった。 これは梅茶の元かな(酸梅湯)。 迪化街。ここには「台湾一周!安旨食堂の旅」で紹介されている店が幾つもある。そのうちの一つ、油飯(おこわ)。光瀬憲子さんのように、本来1斤で量り売りなのだが20元ぶんだけもらう。 椎茸と豚肉が入っていて、米が立っていて、なおかつモチモチ。出汁もよく染みている。 これも憲子さんの紹介。市場の前の米粉屋(民楽旗米粉湯)で、ソーメンを頼む。 このソーメンがコシがある。驚き。 話のタネに、臭豆腐も頼んでみた。さほど臭くない。 迪化街から東方面を歩く。台北ではまだ商店街が元気な処が多い。しかし、日本のことを考えたら、これがやがてシャッター通りに変貌していかないと誰が言えよう。台湾の人には大規模店舗法に気をつけろ、と言いたい。 雑貨屋の硝子戸にちびまる子ちゃんやドラえもんが。 周りにお店がないこのお茶屋さんから日本人が出てきたので、何かの本に載っていたのだろうか。 ついでなので、高級そうな烏龍茶を買ってみる。 大型電気屋の前に張ってあったチラシ。この値段は決して安くない。
2015年02月27日
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1月2日(金)晴れ 7日目 ドミトリーの中を写そうとしたら暗すぎてこんな感じ。 今日は一日街歩きに費やす。台湾のマンホールは何の工夫もなし。自治体ごとに意匠を変えているのは日本だけでしょうね。 西門から北上し、中山駅方面へ行く。先ずは、通りかかったトウショウ(豆乳)店で。 卵とじ炒め(蛋餅)と豆乳。 頼んだのは1番左の小(25元)と右から3番目。 一挙に身体が温まった。テイクアウト文化が定着していて、ひっきりなしにお客がくる。1番右の黄色い取手が付いている機械は、豆乳がこぼれないようにカップに蓋をする機械のようだ。つまり、こんな小さな店でさえ、そんな専門機械を買わざるを得ないほどにテイクアウト客がいる。ということなのだろう。 コンビニでボールペンをみたら、そこまで卑屈になるのか、と思うくらいみんな日本製。しかも一本200円で高い。 迪化街に入る。この辺りは歴史保存地区らしい。台北一の問屋街らしい。 路地の奥に必らずといっていいほどあるお宮(?)さん。 映画にできるような景観になっている。 正月飾り専門店で幾つかステッカーを買った。 その周りの小径も雰囲気がある。
2015年02月26日
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士林駅前のイカリコーヒーでちょっと休憩。エスプレッソが1番安いので、それを頼んだら、ホントにエスプレッソだった(つまり、少量で甘くない)。台湾では珍しい。 龍山寺に戻り、suzuさんたちと飲み始める。鮮か(虫編に可)湯(カキスープ)。 貝のほじほじ(^_^;) 豚の蹄(豚足)。 ちなみにメニュー。全ては載ってはいません。 店を替えた(亀島山)。タカさんが買ってきてくれた胡椒餅。 中はこんな感じ 亀山島でおでん鍋。おでんタネがもちもちしていて、出汁も魚の出汁?でたいへん美味しい! コバちゃんが大吟醸と明太子を持ってきてくれていました。(ゴメン、美味しかったんだろうけど、既に食べて飲んで繊細な日本酒は受け付けない舌になっていましたね) 隣の老人センター(?)では、ホームレス?が宿にしていた。この日は寒かった。亀山島は昼間はこの施設の「玄関」なのである。夜な夜な屋台に変貌する。だから、われわの隣にホームレスが来たのではない。管理人の姿もあったから、このコンクリートの地面に寝るのが正式の宿なのか、見て見ぬふりをしているのかはわからない、しかし台湾といえども寒い冬には雨風を凌げるこういう施設は必要なのだろう。私もまさかこれほどまでに寒くなるとは思わなかったので、12時前に早々(?)に屋台から離脱していった。 昼食250 コーヒー50 夕食450 (電車バス代は悠々カードで払った) 計 750 歩数 13623
2015年02月25日
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久しぶりに台湾旅行記を再開します。今度はさいごまで行くかな。 1月1日(木)晴れ 6日目 漫歩青年旅店の一階。昨日は宿に帰ったのが4時過ぎ。起きたのが9時半頃。シャワーを浴びて身支度すると、宿を出たのが11時ころになってしまった。 単にフロントの辺りを撮ろうとしただけなのだが、宿のスタッフはVサインをしてくれた。つまりはそういう雰囲気の宿なのである。 西門で映画をみようと探すけど、台湾映画を全くやっていなかった。 諦める。映画館の値段は私のように全く割引を使わなければ1000円以内だったように記憶している。掛かっている作品は、(韓国もそうだったが)日本よりも公開が早いのが多い。 なんか知らないけど、500m以上は行列になっていた。有名人でも来るのだろうか。台湾人は、きちんと並ぶ。故宮博物館でもそうだった。 バスで故宮博物館に行くことにした。ところが、反対行きのバスに間違って乗ってしまった。幸いにもぐるっと回って乗せて行ってくれるらしい。ロス時間約40分。 1時半に故宮博物館に着いたけど、あまりにも腹が減ったので、手前にあった喫茶店で唯一の食事の牛肉麺を頼んだ。ある程度高いのは覚悟していたが、なんと250元(1000円)!高すぎる。結果、この旅で単品では1番高い料理になった。冷凍のうどんを温めて野菜いれて出来合いのスープをかけただけ。美味しいものではなかった。 二回目の故宮博物館。あの時はまだ考古学にあまり目覚めていなかった。今回はその視点で見ることにする。 しかし、中は撮影不可。よって周りの景色のみを写す。 ものすごい人出なので、おかしいと思っていたら、なんと今日は「新年を祝って入館無料」になっていた。嬉しいのが半分、あまりに人が多くて行列に何度か並んで疲れ果てたのが半分。 見応えあったのはやはり、中国陶磁発展史としての豊富な美術的陶磁の数々。そして青銅器の展示である。 戦国時代(日本の縄文時代)の薄くて細かい彫刻を彫り込んだ土器は、日本の弥生時代でも見かけたことがない見事なものだった。西晋の青磁器は、魚や鳩などの細かい細工をしている。多くが日本でもし発掘されれば、国宝になるような代物だと思った。 日本に知られている青銅器は、青銅器のほんの一部であり、実際は様々な種類が作られていたことを証明する。同時に様々な「文字の萌芽」も刻まれたり、「確立された文字」も刻まれたりしているので、重要な文字資料にもなっている。 等々たいへん面白かった。有料の大英博物館展もしていたのだが、280元もしたのでやめた(人混みで疲れ切ったということもあった)。 孔子像。なんか好々爺で、日本のイメージと違う。 ここの狛犬は左右どちらも口を開けている。そういう狛犬もあるんだ。 帰りのバスに意見箱がついていた。台中のホテルといい、台湾では意見箱が流行りなのかもしれない。これも民主化の影響か。この辺り、日本も真似して欲しい。
2015年02月24日
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しばらく(一週間ほど?)台湾旅レポートを休みます。この旅の決算をやっと計算しましたので、ご報告します。 台湾旅行決算(8日間) 飛行機代、日本国内移動、宿代、その他日本での食事など 98651円プラス2000元(2日分の宿代) 台湾での食事、交通費、お土産 10020元 合計 145770円(台湾12.27時でのレートで計算) (備考) 台湾内での行動を7日として計算すると、宿代を考えなければ 一日 1431元 交通費、食事だけで考えると 一日 約 1000元で旅をしたと思える。 宿代を考えると、一日2000元(8000円)で滞在・旅行出来る。あまり移動しなくて、食事も贅沢しなければもっと安いかもしれない。 食事だけで考えると、一日200元(800円)から800元(3200円)を考えれば、何とかなるということだ。 私の旅行ペースから言えば、今回の旅は、比較的贅沢だった。しかし、円安の中の旅としては、これからもこういうパターンを覚悟しなければならないのかもしれない。
2015年02月05日
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龍山寺のsuzuさん処で年越しの飲み会をする。西門のユースホステルから歩いて行くと、約20分だった。途中で夜市ソックスが五足100元(400円)で売っていた。新竹で買った下着(2足200元)は何だったんだ!思わず買ってしまった。 龍山寺は新年を迎える日なのに、普通と全く変わらない。 昨日の店で、suzuさんたちが待っていた。 Facebook、ライン仲間のTAKAさんに初めて会う。ともかく7時くらいから怒涛の飲み会に突入。 これは魯蛋(煮卵)と海帯絲(海藻)と乾麺。 皮蛋豆腐とピータン 茹で青菜 泡菜(白菜の酢締め) この青年はここの従業員。昨日も可愛い彼女に誕生日ケーキで祝ってもらっていて、今日は従業員から祝ってもらっていた。 拍手していたら、くれました(^-^)/ そのあと、魚料理の亀山島に移動。 こんな風に魚を選んで料理してもらう。メバル? 寡黙なお父様が寡黙に料理する。 こんな感じ。 そこにやっとコバちゃんが参加して、年越しメンバーが揃った。 焼き飯。素朴な味。 キスです(^-^)/カリカリで、美味しかった。 カニ(^-^)/この辺りで、年越し!爆竹がなった。さすが台湾!こんな場末の飲み屋でも爆竹を鳴らす人はいるのである。 お屠蘇で祝う。 もとの店に戻って、貢丸湯と魯肉飯。 美味しいと評判だったニラ餃子。 時は既に3時半頃。遂にお開き。 龍山寺も、門を閉めていた。 朝食40 コーヒー100 博物館30×2 お土産1160+450 本100 ソックス100 夕食800? 計 2810+10410円(宿代3日分インターネット払い) 歩数 20221
2015年02月04日
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中国古代のため息が出るような遺物展示があったその上の階には、最近発掘した島(軍事上の機密で発掘できなかったらしい)の、最新発掘報告を階全部使って贅沢にやっていた。がしかし、大した発掘品はなかった。これは島の歴史区分を発掘の仕方に応じて解説したもの。 どうやら旧石器時代から歴史時代(しかも200年前にやっと始まっている)までの発掘を系統的に発掘出来たのは、台湾考古学にとっては画期的なのかもしれない。 それと同時に、位置的には台湾と中国大陸の間の島である。どういう人々がいたのかは、大きな学術的な意味があるのかもしれない。人骨まで出てきたのは大きいのだろう。どちらにしても、ここまで大袈裟に展示しているのを見て、改めて台湾考古学の水準を知った。 そのあと、北の方に歩いていると、2日目に見かけた総統府に辿り着く。新年年越しのイベントの準備をしていた。 プロの歌手がマイクテストをしている。見る人がみれば誰か分かるのだろうか。ラップテイストで歌っていたが、国家的行事にそんな歌を歌うんだと思った。 2日目に入れなかった、2.28記念館に入る。映画「非情都市」では、その背景として出てくる台湾史上では外すことの出来ない事件。1947年の台湾の民主化が国民党政府によって潰された事件である。 先ずは戦前の台湾展示。徹底した皇民化教育がこのような日の丸も書かせるだろう。もちろん名前は日本化されている。「武運長久」「撃ちてし止まん」等々の日本のスローガンを進んで書いたのか、それとも書かされたのか。 戦後の民主化の熱はこんなチラシの山からも伺える。 そして、公営施設にここまで書かせた最近の台湾の運動は、すごいものがあったのだろう。 「人権を侵害するものは往々にして権力を握っているものであり、それゆえ公権力が人民に危害を加えた事に対しては、必ず、一層深く反省をしなければなりません」特にこの部分が凄い。日本の平和博物館(ピース大阪でさえ!)でもここまで書いた博物館はないと思う! 西門駅に行って、そこから今日の目当ての漫歩青年旅店に入った。若いスタッフが運営していて、ドミトリーだけど好感が持てる。 さて、これから怒濤の年越し飲み会に突入だ!
2015年02月03日
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国立歴史博物館につく。 入って見てがっかり。古代史は全くなく、台湾の歴史の系統的な展示は一切ない(と、二階だけを見て勘違いしていた)。何処からもってきたのか、古代中国の文物や文化有名人の展示などだった。仕方ないので、中にある高いカフェでゆっくりする。やっとまともな普通のコーヒーにありつけた。100元(400円)。 と、思って3階までたどり着くと、ここの本来の所蔵品、河南省博物館から戦前に抗日戦争のために持ってきたという中国の考古学的な所蔵品が素晴らしかった。学問的な説明はなく、美術品として展示しているのは、故宮博物館と 同じだが、ここは考古学的な発掘品がほとんどで、見応えあり。唯一の説明書がこの表示である。なんか学術的なことを書いていたならば、教えて欲しい。 しかし、である。美術品としではなく、3000-4000年前から人類が作り上げた文明遺物としてこれらのモノを虚心坦懐にみた時に、心を動かされない人がいるだろうか。 いやあ、中国の古代はすごい。しばらくそのすごさの一部のみをご堪能ください。 ここにある遺物のだった一つでも日本列島の土の中から出たと想像して欲しい。その年の考古学上のNo.1の大ニュースになる。 もちろんこれらの作成技術のほとんどが、日本の2000年前から1500年前の弥生後期から古墳時代にかけてやっと到達したモノばかりだからである。 よって、もし出土したならば、日本固有の発達はあり得ないので、そのルートが綿密に調査されなければならない。しかも、ほとんどが中国王室御用達の品々なので、そのルートの解明が教科書を塗り替える可能性もある。つまり、そんな想像を余儀なくされるほど凄いモノばかりがあるということなのである。 唐三彩に至れば、その技術はある意味現在の日本も持ってはいないのではないか。 ため息が出るばかりである。 しかし、である。日本の凄いところは、それら凄い中国文明の水準を平安時代から江戸時代にかけて、約1300年ほどの間に、多く(全てではない)を乗り越えたところにあるのである。特に絵画や陶器の一部に於いて、一部の建物や一部の衣料に於いて。 それらを踏まえた上で、日本と中国の全面的な「交流」は、歴史認識と言葉の壁のせいで歴史上まだ達成してはいないのではないか。
2015年02月02日
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12月31日(水)晴れ 5日目 午前は映画街で映画を観ようとしたら、目当ての作品の上映時間が変わっていて(水曜日に変わるか⁉)、予定変更、西門駅方面に歩く。西門駅前である。 西門前にある西門紅楼。建ってから100年以上経っていて、現在は複合ショッピングモールになっている。 駅前にはこんな銅像もあった。 駅前をスマホで写真に撮っているらしい。けれども、こんな景色も数年後には古臭くなるはず。そのとき、この銅像はどう映るのか。 しばらく歩いて、「歩き方」には載っていない国史館に入る。またの名前を総統副総統文物館。これが案外拾いモノの博物館だった。日本統治時代に台湾総監督府交通局逓信部として1924年に竣工。これは当時の建物を精巧に再現した模型。ちょうど関東大震災のあとだったので、耐震性を重視したらしい。細部の装飾は古典建築の影響あり。 竣工前、竣工直後、現代の地図があった。当時の町を一掃して、政治の建物を建築したことが分かる。現代はそれを踏襲しているわけだ。(赤い部分が国史館の場所) 総統に対する世界各国からの贈り物を展示していた。アジア館には当然日本からの贈り物が多い。(日本外務大臣藤山愛一郎より日本木彫人像) しかも政府筋だけでなく、鹿島建設からのこれとか、財界からの贈り物も多かった。(古伊賀壺) 2008年という最近では、平沼赳夫からこんな無粋な贈り物が(眼は入れていない、こんなん貰っても仕方ないと思ったのだろう)。でも、なかなか面白い博物館だった。 遅い朝食。哈利炸醤麺。煮凝りの醤油ベースの麺だった。
2015年02月01日
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光瀬さんのお勧めの鴨香飯の店はちょうど昼休み中で、店員全員が揃って昼食を食べていた。 注文は憚れたので、向かいにある古井下茶房に寄った。杏花湯を頼んだ。杏花がぱあとお茶に広がるイメージで頼んだ。 原住民族顔のお兄さんが「何処ら来た?」と聞くので「日本から」と言うと、「杏の花とピーナツ」と言って去っていった(写真のバイク)。まさにピーナツ豆がふんだんに入った杏汁だった。結局スィーツだったのね。 やっと鴨香飯を食べる。まさに鴨肉がご飯の上に乗っているだけのシンプル料理。けれども出汁には非常に気をつけているのがわかる。この店は看板に鴨香飯はこの店が元祖だと掲げている。それだけのヒットになったのだろう。 17時20分より新竹駅から台北まで自強号(特急)で帰る。 西門に着いた。若者で溢れかえっている。ここは台湾の明洞だ!そこの映画街の裏にあるチアーズホテルに入る。 複雑な裏通りに小さな看板、事前にネットで場所を抑えてなかったら、迷う処だった。部屋も迷路みたいな処にあった。そして穴ぐらのような部屋。繁華街の中で場所的には便利だが、お勧めではない。 そこから龍山寺のsuzuさんの処へタクシーで行き、さっそく今度は近くのお肉料理屋で乾杯。 まずは蒸餃子と団子入り卵スープ(頁丸湯(^_^;)。 花生猪脚は名前からして豚足だと想像はしたが花生の意味がわからないので、注文してみる。花生はピーナツ、つまり落花生だと判明。そうか!それで新竹の杏花湯の花がピーナツだったのだ。ヘレン・ケラーが水に打たれて「ウオーター!!」と理解したような感動を覚える。序でに他の食べ物の読み方も極めよう。 綜合豆腐鴨血は豆腐と鴨の血のおこごりの炒めものだと推測。結果、二つを混ぜたスープだった。血のお凝りの食文化は、日本ではあまり見られないが、韓国では時々あってsuzuさんは好きだという。私はそんなに好きではないが、食べれないことはない。韓国晋州では食べたことがある。 魯白菜・筍絲は魯の意味がわからない。魯肉飯もあるから、野菜肉炒めと推察。「・」で、二つの料理が来てしまった。結果は、「魯」は煮詰めるという意味だと判明。そうだよ、魯肉飯は角煮ご飯だった。そんなこんなで会計は2人で370元(1480円)ほどだった。安い。 終わりの「締め」でsuzuさんお勧めの「ぺったんこ麺」を食べに行く。駅に行く途中にあるこのお店。 魯肉が入った板状麺である。麺がモチモチしていて、美味しかった。45元(180円)。 ぺったんこ麺とは、この印をしている商品のことである。あくまでも板條を頼まなければならない。 ホテルに帰る。不覚にも倒れるように眠り、途中で4時ごろシャワーを浴びたために次の朝に起きたのは9時半だ。 蛤仔麺45 籤20 緑豆氷30 彰化→新竹183 ワンタンと水餃子50 下着600 杏花湯40 鴨香肉50 コインロッカー20 新竹→台北177 悠々カード300 タクシー75 夕食270? 夜食45 計 1915+5170円(ネット予約の宿代) 歩数 24508
2015年01月30日
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胡人民俗館も楽しみにしていたが、展示替みたいでお休み。 扇形車庫に向かう。晴れて暑い。その前のこの店でちょっと休憩。 緑豆かき氷(緑豆氷)。たっぷりの緑豆が入って30元(約120円)は安い。 私は鉄道オタクではないので、この施設の貴重さはわからない。しかし、岡山の津山の扇形車庫が既に現役を退いているのにもかかわらず観光資源になっているのを考えると、ここがまだ現役で動いているのが貴重だとは分かる。しかも、今日はお休みの日なのか、撮り放題になっていて、観光客が多い。 一目見てこういう車庫に電車がどうやって入るのかが分かる。だから、日本も台湾もこういう形なのか。 老若男女がカメラで熱心に撮っている。何か貴重なものを目にしている、という気持ちがそうさせるのだろう。 蒸気機関車も置いていた。保存修理作業中らしい。 彰化でみるべきものは見た。ホテルで荷物を受け取り、新竹に行く事にした。 台北に行く途中、光瀬憲子さんのお勧めの店を巡るためである。 新竹駅。日本統治時代に作られて、そのまま使われている。日本が作っては取り壊しを重ねて来た中で、この異国の地に至る所にこのような昭和遺産が残っている不思議。 まずは中央市場内のヌォミー水餃店を目指す。市場内のわかりにくい処にあると書いていたが、92番店を目指してぐるぐる回っていると、見かけた。 メニューが書いてないが、光瀬さんのアドバイス通りに水餃子とワンタンのミックスの綜合の小を頼む。噂に違わず、皮がどちらも餅!ワンタンにもきちんと肉具が入っていて、団子を食べているよう。汁も美味しかった。 この時、晴れて22度。どうりで暑いはずだ。チョッキを一枚脱いだ。市場前の店で、このあと4日間の下着を買う。この日に下着を買うのは予定通りなのだが、想定外は韓国と違ってとっても高かったこと。向こうが少し安くしたけど、それでも1番安い靴下が三足200(800円)、パンツが2つ400(1600円)だった。ずっと気をつけて見ていたけど、そもそも売っている店がなかった。台湾人は下着を何処で買っているのか?パンツはあと一つ欲しいのだけど、洗って乾かす時間はあるのだろうか。(その1日後、台北龍山寺のスーパーでとっても安い靴下とパンツを見つけた。とっても残念) 新竹に来た以上はここの1番の観光施設の城皇廟を見る。 おそらく台湾の信者の多くの願いは現世利益だと思う。それは寺に歴史がないのだから仕方ないのだろう。それでも、町や村に至る所にあるこれらの神様は、現世利益では解決出来ない悩みを、台湾人も持っていることを伺わせるだろう。
2015年01月29日
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12月30日(火)晴れ 4日目 今日も晴れた。嬉しい。カウンターで荷物を預かってくれると言ってくれた。これでコインロッカー代で一食分浮く。 彰化の名物朝のアサリ麺を食べに栄輝蛤仔麺に行く。なんと大原蒸餃大王の隣だった。 光瀬憲子さんの本の時よりも5元高くなって小が45元。肉圓も角煮ご飯も全て5元高くなっている。このたった約1年の間に!でもアサリ麺はアサリの出汁がとってもよく効いていて美味しかった。 本には写真で、ここの店が家族で切り盛りしていて、娘さんが働いているのが美しいと書いていた。写真も載っていて、実際に彼女がいた。どうやら四才くらいの男の子がいるらしい。本の写真を見せたら、初めて見たみたいでとても喜んでいた。写真通りの可愛らしいお嫁?さんだった。 人々の交通手段は、車とバイクが半々というところだろうか。結果、車とバイクの両方が街に溢れて収拾がつかない。そもそも側道や歩道は駐車スペースと考えているらしく、結果歩行者は車道を歩かなくてはならないから、私の経験上1番町歩きが危険な場所になっている。そしてバイクの排ガスはちょっと居ただけで喉を痛めるようなことになっている。台湾人の健康はどうなっているのだろうか。 八卦山の大仏を目指す。山に登る途中に文学散歩道があった。年表をみると、1703年から始まっている。その時までに台湾には「文学」がなかったということだ。つくづく「若い国」なのである。 いろんな詩碑があったのだが、これはなんとなく分かる。 大仏は奈良の大仏よりも少し大きいくらい。 当然中にも入れる。三階まで上がれた。 その一階でおみくじ?をひく。当たるも八卦のクジなので、果たしてどうなるやら。 ここの広場から彰化が一望できる。古い建物は隠れてほとんど見えない。彰化は中堅どころの街という雰囲気。 下に降りて抗日記念館に入る。今回彰化に来ようと決めたのは、光瀬憲子さんの本以外に、これを見たかったからでもある。 正しくは、抗日砲台史蹟館である。 日本語解説がなくて今ひとつよくわからなかったのだが、どうやら日清戦争の終わり、馬関条約で台湾が割譲された時に、抗日戦争が起きたらしい。「世の人は日清戦争のことはよく知っているけど、台湾で起きた乙未抗日之役についてはよくは知らない」とこのリード文にも(多分)述べている。 台北ではこのように城に立てこもって抗戦している。 彰化では大仏があった辺りに大砲を構えて戦ったらしい。しかし日本の教科書にも載らないくらいに一蹴している。昔の日本軍は強かったのである。「無差別殺」というような言葉もあった。 こういう抗道があったので、立てこもったのかとおもったが、どうやら戦後の蒋介石が作ったらしい。 台湾に来て、異様に犬の放し飼い(野良犬化?)が多い。暖かいのか、道路の真ん中で我が物顔に寝ている。
2015年01月28日
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駅前の適当なホテルに飛び込みで入った。富皇大飯。1000元だという。今のレートだと高い気がするが、空いていてラッキーと思おう 台湾一周!安旨食堂の旅 [ 光瀬憲子 ] 駅に戻って観光地図をもらい、紀行作家・鄭銀淑 が絶賛する光瀬憲子の「台湾一周!安旨食堂の旅」に沿って観光と食べ歩きをしようと決める。(^-^)/ 扇形車庫というのが、駅の裏側にある。彼女も15分くらい歩いていって感動していたので、いってみるとなんと16時に閉まっていた。5分遅れ。明日に来ようと誓う。 そのあと、街中をぶらぶら。こんな日本家屋の変形版。 新しい茶房だけど、明確に日本家屋を意識しているもの。 古い寂れた商店街に残る昭和初期の名残り。 そしてこんな伝統家屋が今にも崩れそうに残っていた。 今日の目当て第一弾。映画「あの頃、君を追いかけた」に登場したという「阿樟肉圓」。肉圓一つと龍骨髄湯(ロングスイタン)というスープを頼んだ。 こんな感じ。 しかし、中身はかなりいろんなものが。髄湯には豚の脊髄を卵で包み、クコの実や椎茸なども入っている。あまりグロテスクでもなく、いいスープになっています。 注文して、自分で商品を運ぶのだが、食べる場所は、何というか「オシャレ!」。 次は永楽観光夜市の外れにある「大原蒸餃大王」。台湾人や中国人は基本的に焼き餃子というものを食べない。その中で、ここは珍しくエビ焼き餃子(鮮蝦鍋貼)を置いている。それと小松菜の卵スープ(蛋花湯)も頼んだ。 モチモチとした食感と肉汁が多い貴重な焼き餃子でした。スープも美味しかった。 次は肉圓と並ぶ彰化名物の豚の角煮ご飯(爌肉飯)。光瀬憲子さんの紹介は夜の運転手がよく訪れる阿章爌肉飯。 思ったより大きな丼でなくて良かった。それでも見事な角煮がご飯の上に乗っている。柔らかくしっかりした歯ごたえの肉に、よく染み込んだ出汁が美味しい。素食弁当でも思ったが、台湾の丼の出汁はどうしてこんなにも美味しいのか。 椰子の汁を小分けに売っていた。後ろ髪引かれたけど、処理し切れないと思い、諦める。 商店街に戻ると学生服をこんな感じで売っていた。シャツの模様かと思ったが、よくみると学校の名前なのだ。この小さな町にこんなにも学校があることに驚くと同時に、全ての学校に独自の学生服があることに驚く。夜はまだ続いていたが、ホテルに戻った。 台中→埔里135×2 埔里→霧社89×2 コーヒー50 肉粕飯35 コインロッカー70 台中→彰化27 宿代1000 肉圓 80 餃子80 爌肉飯50 計 1840 歩数 20227歩 読んだ本が数冊溜まったので、旅レポートは数日休みます。
2015年01月22日
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霧社は小さな村なので、住宅密集地は10分もあれば横断出来る。警察事務所のある処には、事件当初も駐在所があったらしい。 当時の古い家がないかな、と思い探していると、徳龍宮のそばに建ち朽ちている空き家を発見。戦前の造っぽい。モダンな家。 壁は当然板造り。その内側は竹を組んで土を塗っているのも日本風の造りではある。しかし、竹は縦に組んでいるだけで小舞(竹製の格子)を組んではいない。それだと土が直ぐに剥がれるのは自明の理。こういう左官の専門技術までは、この山地までには来ていなかったと思える。 かつて神社だった徳龍宮の赤い鳥居。上の神社はさすがに取り壊されて中国風の宮が建てられている。結局、昔の現存する面影のある建物は、この鳥居のみになっている。 そこから霧社村の約半分が一望できる。碧湖を下に称えた静かな高山村である。 この写真のみなのですが、台湾固有の植物を撮ってみました(^-^)/ さらに下ってしばらく歩くと、抗日記念碑がある。 「霧社原住民抗日群像」も。中華民国86年(1997年)に建てられたようだ。つまり、二二八記念館と同じ時期に建てられた。それまで霧社事件は歴史に埋れていたということなのか。 年寄りも子どもも犬までも決起した戦いだったのだろうか。 首謀のモーナルーダオの墓。かなりのイケメン。 墓は戦後ずいぶん経ってから(1974年)やっと整備されたようだ。 ここが事件のあった小学校の跡地。思ったよりも狭い敷地。 さらに下って、殺された日本人の墓があったという処。立派な石造の献花台のみが寒々と取り残され、あとは草茫々の空地である。ルーダオの墓があった処との対比が全てを語っている。日本人としては、寂しい。日本人の犠牲者は女性も子どももいたのだ。それを全て取り壊している。 しかし、いくら親日台湾でも、植民地支配の末はこういうことなのである。つまり、現代も、霧社住民は当時の日本人を決して許してはいないのだ。 遠くに他の山岳高地村を眺める。3000m級の山々が連なる。こういう処に原住民族は長い間自分の民俗を守りながら暮らしていたのだろう。 昼食に肉粕飯を食べる。簡単な丼だけど、案外美味しい。 バスで、埔里へ。すぐに台中へ。 台中駅でコインロッカーから荷物を取る。なぜか40元を請求された。50元コインでお釣りが出ない仕組み。合計70元取られた。3時間ごとの課金らしい。高い。 電車で彰化へ。
2015年01月21日
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霧社行き89元。チケットがよく見えませんが、バックが埔里のバスステーションです。 待合室には原住民族顔の人たちの割合が一挙に高まる。 バスはさすがに小型バスだ。しかし満員である。こんな小型にも電光掲示板がついていて安心。バスはさらに山の奥へ。霧が立ち込める。途中箱根温泉という温泉場があった。 霧社はずいぶん山の上にあった。高度が高くなり、鼓膜が痛くなった。現在こそ、いい道が着いているが、霧社事件が起きた時は陸の孤島だったのではないか。「霧社行?」と確認しておいた乗り合わせたおじさん(前の写真の手前のハゲ始めの人)が、霧社バス停留所前に「霧社だよ。降りるんだよ」と教えてくれた。霧社は最終停留所と思っていたので、大変助かった。 しかしついてみると、普通の田舎道。セブンイレブンもあればファミリーマートもある。 ここには霧社事件記念館はない。観光用のペーパーも一切なかった。役所にも何もなかった。こういう時には図書館に寄る。仁愛郷土図書館。 自分たちの民族をきちんと学習しようという意欲が見られる。 本の冊数は少ないが、学習環境は抜群の図書館だった。「有霧社事件資料?」と聞くと三階にあると教えてくれた。筆談で聞くのは日本人ぐらいだと思うのだが、図書館職員に「日本人かな?」という関心の目の色は一切なかった。 いくつかの写真展示があった。 これはセディック族の農業生活の写真だろう。 これは霧社事件において、捕里で殺害されたセディック族の人々の首。の「記念写真」(あとで述べるように蜂起に直接参加した人々ではない)。 この写真はおそらくセディック族が狩猟の「成果」として捧げていた「首」の置場だと思う。セディック族はいわゆる「首狩族」だった。 さて、霧社事件は1930年(昭和5年)10月27日未明に起きる。台湾最後にして最大の、戦前における台湾原住民族の一大抵抗蜂起である。モーナルーダオ率いるセディック族の蜂起部隊(霧社11集落、約2200名のうち6集落の約300名)は、運動会をしていた霧社集落を襲う。既に日本が台湾植民地化を始めて35年が過ぎていた。抵抗運動は武力で鎮圧し、霧社も25年前に「帰順」していた。私がここに来たいと思ったのは、映画「セディック・バレ」を観たからだ。そこには、狩猟民族としての、首狩も行うので一見野蛮とも思えるが、宗教的に統一の取れた誇り高い民族としての生活が先ず描かれ、それが日本の入植者によって惨めに否定され、搾取され、圧政に甘んじなければならない生活が描かれていた。映画では、彼らは戦う前から日本軍に敗れることは最初から覚悟していた。しかし、彼らの裡では、死んだのちに祖先の仲間に入れるか入れないかが、大きな意味を持っていたのである。 結果的に蜂起した160名が戦死、主導者を含めた140名が自殺。ほかに400名が行方不明、500名が投降したと言われている。ところがのちに投降者の168名が殺害され、のちにさらに38名が秘密裡に処刑された。つまり、蜂起に参加したセディック族はほぼ根絶された。 郷土史を紐解く。小学校では徹底した日本化教育が行われた。 これは霧社事件での「処罰」の写真なのだろうか。それとも、それ以前の日本軍人による原住民族圧政の写真なのだろうか。 これは霧社事件の様子の一コマのようだ。上が日本軍により「味方蛮(味方として協力させられたセディック族)」となった人々。下が日本によって各部族が集まって「和解式」をさせられた処。 2010年の台湾歴史博物館発行の「日文資料翻訳霧社事件」なるものから。日本軍が非常に緻密にこの一帯の民族を追い詰めて殲滅していったのが垣間見れる。 図書館の窓から。こういう山の中の狩猟民族だったのだ。まるで鹿のように山を駆け回る体力と智慧を持っていただろう。それを無理やりに日本化させたのである。確かに134名もの日本人のおんなこどを含む村人を惨殺したのは酷い。蜂起した300名が亡くなるのは仕方ない。しかし、それでセディック民族をほとんど絶滅させた日本軍の暴力は歴史的にきちんと総括されるべきである。 仁愛郷土図書館は三階建の小さな図書館だったが、日本書コーナーもあった。京極夏彦、石田衣良、司馬遼太郎、三浦綾子もあれば、なんと「永遠の0」まであった。 さて、村の中を散策しよう。
2015年01月20日
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12月29日(月)晴れ 3日目 ホテルの給水機のお湯が出なかった。 部屋に意見箱があるのは初めて見た。せっかくなので意見を書いてみる。「給水機的湯是不温!」通じただろうか。 ホテルに朝食がついていた。バイキング方式。 朝はあまり食欲がない。タロイモの入ったお粥、イカの入ったブロッコリーサラダは初めて。茶色の塊は何かと思えば味噌だった。完食。 朝の台中駅。コインロッカーに荷物を預ける。 駅前のバスステーションで、埔里(プーリィ)行きのチケットを買う。8時に出発。 なぜ地方行きのバスが20分おきに多発しているのかといえば、途中で停留所が多くあるからなのだと気がつく。それにしても運転手がひっきりなしに誰かと話をしている。よくみると無線通信しているらしい。飲み食いもしている。韓国も、ここまでではないが、馴染みの客とよく世間話をしていた。思うにこれが世界標準で、日本の方がストイック過ぎるのかもしれない。人の目を気にしすぎるのか。(のちに街中の運転士でこういう人はいなかった) 3日目だが、時々ここは本当に台湾なのか、日本ではないか、と思うことがある。本当に沖縄より南の国なのか。ジャンバーを着ないと寒いし、外の景色も建物的な特徴が日本とあまり変わらない。むしろ、沖縄には「これが沖縄建築だ」という主張が随所にあって、どこを切っても沖縄なのに、台湾は驚くほど日本の現代建築に似ているのである。 そう油断していると、山の上に大きな布袋の大仏がいたり、ヤシの実畑があったりする。 埔里に着いた。小さいバスステーション。でも、コーヒー売り場にこんなスローガンが!署名も募金も集めてないけどうれしかった。 嬉しいので、お店の若いお兄さんからコーヒーを買う。様々な種類のコーヒーを売っているのだが、全然わからない。本格ブラックを期待して「原味」云々と書いているのを頼んだ。アラビア方式で粉をかき混ぜて抽出、なんと濃いクリームがなみなみと入った。今のうち、台湾の飲み物で甘くない飲み物には出会っていない。
2015年01月19日
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バス停留所からかなり歩いて国立自然科学博物館へ。着いたら4時。一時間しか時間がない。 人類文化展示に1番期待して来た。ここに古代遺物があるのでは?と踏んで来たのだが、当てが外れて、中国文明の科学がいかに凄いかの展示だった。しかし、まるで中国に旅して博物館に入ったようで、大変勉強になった。やっぱり中国文明は偉大です。少なくとも江戸時代のころまでは、日本文化は中国文化に水準的に多くは劣っていると思う。 秦の始皇帝の時代の二号銅車馬。ローマの時代に、ローマよりも優秀な馬車を作っていたことに驚く。 漢代で紙を発明。こんな風にして作ったらしい。 北宋で虹橋なるものが流行したらしい。なるほどいろんな技術革新があったぽい。 仏宮寺釈迦塔。西元の時代、1056年。日本にも五重塔はあるが、八角形の高層建築に近い作り方は、やはりびっくり。 医学も、BC10世紀以上から医学の発達していた「証拠」があるのが凄い。これは漢代の薬を作る道具。 遺物の展示はほんの少ししかなかった。 恐竜展示は子供たちに大人気。 かなり骨格標本があった。出土するのかな。5時。追い出されるように博物館を出る。 博物館の近くの豆花の専門店で台湾の代表的スィーツ、綜合豆花をいただく。豆腐といろんな豆をトッピング。美味しかったのだが、大きな丼で出てきたのは予想外。夕食分はこれでいいかも。 バスで駅前に帰る。本屋を覗く。日本とほぼ同じ品揃え。日本書の翻訳がかなりあった(「告白」「渇き」「昨夜のカレー、明日のパン」等々)。しかし一つ違うのは、文庫や新書がない。台湾経済では、それを作るとやっていけないのかもしれない。(のちに、ライトノベルや漫画で新書を発見。反対に言うと、それぐらいの分野でしか量をはけないのだろう) 駅前の宮原眼科にいってみる。医院ではない。高級スィーツの店である。 日本統治時代の医院を改造して、おしゃれな店に作り変え、若者がひっきりなしに来ていた。 まるで本棚のような商品パッケージ。ここまで凝ると、いくら高くても若者がやって来るのだ。ちょっとしたお菓子は300-600元(1200-2400円)以上するので、とても手が出なかったけど、話のネタに買っておけば良かったとあとで思った。 ともかく、コーヒー屋を探してウロウロ。駅裏の台中肉圓まで歩いていったが、ちょうど8時過ぎで閉まったあとだった。 食指が動く店を探してかなりウロウロしたが、結局コンビニでビールとつまみを買って部屋飲みで今日は終わった。今日はよく歩いた。 朝食65 博物館30 台北→台中375 昼食90 バス40 博物館120 スィーツ35 コーヒー50 夜食58 宿代 4830円(ネットで予約) 計893元+4830円 歩数 26608歩
2015年01月18日
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公園内の台湾博物館に行く。1915年完成。以後、一貫して博物館としての建物として機能して来た。 展示物は大したことなかったが、中の建物は(こけおどし的に)すごい。 戦前において、博物館は国の威信を見せる文字通りの「博物館」だったのかもしれない。 まるでローマの貴族の家のような造だ。実際ギリシャ神殿的建築様式と書いていた。大理石も惜しげもなく使っている。 原住民族の展示物が中心。私の目当ては古代遺物なのだ。 しかし、民族衣装などを見ていると、その技術の細やかなところは驚くばかりだ。 やっと古代遺物展示があった。かなりアバウトな展示だった。初めて知るのだが、日本でいう弥生時代後期の頃から台湾は新石器時代から鉄器時代に移ったらしい。鉄器時代は基本的に日本の弥生時代の生活水準。驚くべきことに、それが1600年代まで続いているのである。それ以降は歴史時代になっているので、漢民族が移住してからの時代のことなのだろう。つまり、原住民族はつい最近まで鉄器時代だったのだ。 新石器時代の石器や土器は、ほとんど縄文時代の日本と同じだ。 つまり、朝鮮半島などを通じて中国文化が入るか入らないかで、日本と台湾の運命は大きく変わったということなのか。 これは鉄器時代の川べりの村のジオラマらしい。ともかくも、もう少し別の博物館も見る必要がある(結果的に、台北ではこの博物館が台湾の古代展示では1番充実していた。つまりまだまだ台湾の古代研究は進んでいないということなのか?)。 台北駅に着いた。台鉄の切符を筆談で買う。一時間あとの12時出発になってしまった。 自強号。新幹線並みに広い席だ。 鉄道に乗るならばと、駅弁を買う。素食弁当。素食のわりには大きな肉かなと思いきや、油揚げだった。しかし、美味しい!この油揚げの旨さ!出汁がご飯まで染みてご飯もバカ旨!今まで食べた中で1番美味しい弁当だった。 台中駅に着いた。この駅もかなり古く1917年建造。 この駅の周りに音楽を奏でている老年の人が少なくとも4人はいた。どうやらストリートミュージシャンではなく、これで活計(たつき)を得ているらしい。 少し迷って今日の宿のハニーデューホテル(哈蜜瓜時尚旅店)に入る。まあまあ。 風呂も合格。今晩はゆっくりできそう。 国立自然科学博物館へバスで行こうとしたら、なかなか来なかった。運賃がいくらなのか、最後までわからなかった。20元で何も言わなかったので、それで良しと判断する。ここのバスは次の停留所が電光掲示板に出る。漢字なのでわかりやすい。
2015年01月17日
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12月28日(日)小雨 2日目 古山園旅店の小窓から台湾の初めての朝を見る。9時前に宿を出る。 直ぐ近くに龍山寺がある。1738年に建てられた台北で最も古い寺らしい。 老いも若きもみんな熱心に拝んでいる。 この熱気はどこからくるのか。 郷土教育センター前の通りが古めかしくて良い。 そのまま歩いていると、総統府に着く。日本統治時代には、台湾総督府。1919年完成。軍人が監視していた。 本物の銃を持っていた。 バリケードも近くの車の中にあった。つい最近までこの国は戒厳令下にあったことを思い出す。 どうして台湾が中華民国104年をお祝いするのか、とつらつら考えると蒋介石は中華民国の正当後継者だと名乗っていたので、当然か。 その隣にニニ八和平公園がある。男性が小鳥に餌付けをしていた。リスも寄って来ていた。 ニニ八記念碑。 その説明文。この碑文が民国86年(1997年)に彫られたことに注目すべきだと、気がついたのは旅の終わりごろになる。 記念館はまだ開館前だった。もう一度ここには来ることにしよう。 そうだ朝飯を食べよう。ウロウロして、初めての食堂体験。ともかく安いものを食べれば、なんとかなるだろう。原味蛋餅(オムレツ)20元を先ず注文。 次に草苺○(女へんに乃)油15元(単なるトーストとは思わなかった)を頼んだら、朝の薬を飲むために飲み物がいることに気づく。コーヒー(30元)を頼んだら多すぎて不本意ながら残す。しかも甘過ぎる。 さて、台湾博物館を見て、そのあとに台中へ出発だ。
2015年01月16日
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龍山寺のそばの華西観光夜市。その通りのこういうわかりにくい路地に入っていくと、 ありました。古山園旅店。 近くのお店に行く。suzuさんと出会い、先ずは台湾ビールで乾杯! お店の店頭にある魚を選んで料理して貰う。直ぐにスープで出てきた。白身の蛋白な味。 チャーハン。懐かしい味。 店のマスコット犬(だったのか?)。 最近はsuzuさんはこれをもっぱらウーロン茶割りにしているらしい。これは店への持ち込みなのである。ほとんどの屋台が持ち込みOKだという。何というおおらかさ。 私も真似して、近くのコンビニで1番安いワインを買ってきた。ものすごく甘かった。ジュースとしても甘すぎる。今から考えると、成分表示をきちんと見ておけばよかった。まさか砂糖は使ってないと思うけど、どう作ればあんなに甘くなるのか。 野菜をいれて貰う。 これで会計は700(約2800円)元だったと思う。 コンビニで煮卵をこんな感じで売っていた。煮卵と菓子を買って部屋に戻り残りのワインを開けた。 部屋はこんな感じ。年末年始価格で1000元(約4000円)だった。 飛行機(往復)66900 バス350 電車4510 コーヒー100 コーヒー421 (ここから元) バス 90 電車20 宿代1000 夕食350 ワイン175 夜食61 計72281円+1596元 歩数 17207歩
2015年01月15日
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昨年12月27日から今年1月3日までの台湾旅行のレポートを始めます。時々お休みするかもしれませんが、出来るだけ短期集中連載で行きたいと思います。1-1というのは、1日目のPart1ということです。1日目はPart2までですが、その後は何回に分けるかはまだ確定していません。 12月27日(土)晴れのち雨 一日目 朝の8時半に家を出発。今回は青春切符で早朝1番の電車に乗るという無理はしない。しかし、一日移動だけでほとんどが潰れる。 倉敷駅で30分ほど時間があったので、マクドで少し休憩。バタバタした年末進行は、ここを境に全て忘れてしまおう。 倉敷~関西空港 9:47 - 13:52 4時間 5分 乗換4回 4,510円 -------------------- 9:47発 倉敷 山陽本線(相生行) 乗車:1時間31分 運賃:3,350円 11:18着 相生 ▼乗換2分 11:20発 相生 山陽本線(姫路行) 乗車:19分 11:39着 姫路 ▼乗換3分 11:42発 姫路 6番線発 JR神戸線新快速(野洲行) 乗車:1時間 1分 12:43着 大阪 ▼乗換7分 12:50発 梅田 1番線発 大阪市営御堂筋線(天王寺行) 乗車:8分 運賃:240円 12:58着 なんば 夏の青春切符大阪行きと同じような乗り換え鈍行。昼食食べる時間は、年末電車の混み具合を考えると相生駅の手前しか考えられない。11時前だけど、用意した昼食にする。二日前に夜のスーパーの40%引きで買った惣菜と昨日の野菜炒め。なんとか冷蔵庫をこれで空にした。見た目は悪いが一晩かけて味は良くしみて美味い。けれども台湾ではこれ以上の味がないと行った甲斐がない。 (13:17)発 なんば 徒歩 6分 (13:23)着 南海難波 13:23発 南海難波 南海本線空港急行(関西空港行) 乗車:34分 運賃:920円 13:57着 泉佐野 ▼直通停車1分 13:58発 泉佐野 南海空港線(関西空港行) 乗車:9分 14:07着 関西空港 やっぱり大阪駅の乗り換えで、乗り遅れる。土地勘ない者に7分で御堂筋線に乗り換えるのは無理があるんじゃない?予定より15分遅れで関西空港に着いた。 ターミナルをずいぶん歩いてカウンターが見つからない。ピーチは第二ターミナルとは知らなかった。なんと、バスで移動なんですね。 こういうので、各自発券作業を行う。徹底した経費削減。 日本コインを削減したくて、コーヒーを頼む。まさか消費税を表示していないと思わなくて、かえって一円玉が増えた。 ピーチ飛行機。 もちろん機内食は出ない。テレビみたいなのもない。それでも満席だった。 台北桃園空港に着いた。レートは脅威の0.2551。ほとんど4倍である。10年前にきた時はほとんど3倍だったのに。 suzuさんの指示の通りに、空港内で無料Wi-Fiの設定をしてもらってバスで台北駅へ。車窓から日本にもある雑貨屋を見て思わずパチリ。日本と違うのは、店主が若い男子で、客も若い女性だったこと。 ヨーロッパを思わせる広い台北駅構内。若者が点々と座っている。日本ではこういうのを「地べたに座る」と言って、行儀が悪いと見なす。(そういえば、日本では花見の時でも必ず敷物を用意して座る。たとえ、下が乾いていてもそうする。あれは「自分空間の創生儀式」であり、他国では見られない景色なのかもしれない。という仮説を思いついた。ヨーロッパのピクニックはどうしているのか、ちょっと興味が湧いて来た) 閑話休題!MRT(地下鉄)で龍山寺駅に行き、華西夜市へ。
2015年01月14日
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