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松尾大神から南下、今日も国道一号沿いのかつやで遅い昼食をとることに。11月3日(水) 14:10かつや茅ヶ崎今宿店海鮮フライ定食牡蠣とエビが各2個で値段が安いだけに、豚汁は美味しかった14:31国道一号の南にある「史跡 旧相模川橋脚」、「天然記念物 旧相模川橋脚」現在の相模川はこの場所より500メートル以上西側を流れているJR東海道本線の松尾踏切14:53高野山真言宗善福寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1丁目3-28善福寺は、10月29日(金)にも訪れており11月3日(水)との2日間の合作です。柳島山 善福寺(りゅうどうざんぜんぷくじ) 御本尊 阿弥陀如来 宗 派 高野山真言宗 総本山 高野山金剛峯寺 宗 祖 弘法大師(空海)御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわしてい るのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するた めに、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしてい る社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されてい ます。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務めで あり喜びです。山門前に立つ、石造の真新しい仁王像寺号標石「高野山真言宗 善福寺」。右の石碑には、「子育地蔵尊」と。山門前から仁王像(左)仁王像(右)仁王像山門を入り石畳の先に本堂山門を入ると右側に、「大師堂」と「石柱」が2本大師堂大師堂の小さな堂内には、2体の大師像が安置されている向かって右は第38番の善福寺大師像、左が第39番の大師像大師堂の右側に、黒い石柱には、「生かせいのち 同行二人」手前は、「四国八十八ヶ所霊場順〇記念」奥の黒い石柱には、四国八十八ヶ所巡拝 昭和五十八年五月十五日成満裏面には巡拝者の氏名が彫られている手前の石柱の側面には、一年目: 平成四年五月二十五日ヨリ二十八日マデ 一番札所カラ二十八番札所へ順拝二年目: 平成五年五月二十五日ヨリ二十八日マデ 二十九番札所カラ五十一番札所へ順拝三年目: 平成六年五月二十日ヨリ二十四日マデ 五十二番札所カラ八十八番札所へ順拝 結願 高野山へ参詣背面には、巡拝者の氏名が彫られている大師堂の左側に建つ石碑は、関東大震災の慰霊碑大正十二年九月一日関東の地大 震〇當地方最〇・・・・・・・・・・・・・ 昭和七年三月 ・・・・・この字はなかなか読めない本 堂本堂前には、香炉、石灯籠が建つ本堂の扁額、「善福寺」第二次世界戦「戦歿者之碑」 前神奈川縣會議長 添田良信謹書十三重塔と弘法大師の修行像本堂の南側手水舎鎮座する左から、千手観世音菩薩:子年生まれの御守本尊、 虚空蔵菩薩:丑・年生まれの御守本尊、文珠菩薩:卯年生まれの御守本尊、 普賢菩薩:辰・巳年生まれの御守本尊、勢至菩薩:牛年生まれの御守本尊、 大日如来:未・申年生まれの御守本尊、不動明王:酉年生まれの御守本尊、 阿弥陀如来:戌・亥年生まれの御守本尊、枝を切られた大イチョウ、マキの木が聳える観音菩薩像と子供六地蔵下から見上げる客 殿15:00境内への駐車場入口(南側)の門柱には、「高野山 真言宗」、「柳島山 善福寺」真言宗善福寺の裏(東側)に建つ、「救世」この日は花が供えられていた側面に、「地蔵菩薩以大慈悲、若〇名號不陥闇黒」文久元年 霜月 導師 善福寺金海昭和卅七年神無月修復 小川巧二 藤間由五郎別の方角から15:06海岸への途中に立つ地蔵地元の方に信仰されているのか、花が供えられている15:17国道134号の浜見平入口交差点からサイクリングロードへ。夏には、ハマヒルガオが咲き乱れていた場所。今日は富士山は見えず茅ヶ崎漁港、左奥に江の島ズームアップこの日は祭日で、海岸には多くの人が上空を大型ヘリ15:19この日は気温が高く箱根の山も霞がかかる END
2021.11.30
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三島大神から萩園通りを南下、次に訪れたのが松尾大神。10月29日(金)にも訪れており二日間の合作です。11月3日(水) 13:51松尾大神(まつおおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿586国道1号の今宿交差点から萩園通りを北上。ご祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)、総本社は松尾大社(京都市西京区)です鳥居の前に建つ二本の石柱左:祇園天満両社、右:松尾大神鳥居の手前に、樹齢1200年くらいの雌雄同体の大イチョウイチョウの樹の生命力を感じる鳥居の扁額、「松尾大神」参道左側に、手水舎、鐘楼手水舎、鐘楼手水舎鐘 楼梵鐘には「奉納 祇園社」と鋳込まれている反対側には、「奉納 松尾大神」「奉納 天満宮」梵鐘に、「銘曰」前鐘は昭和十八年大東亜戦争のため供出されしが永遠の平和を願い家運栄昌を祈念して再鋳されたものなり 昭和五十七年七月吉日参道の右側、道路沿いに建つ石碑石碑は、「氏子人名」氏子約50名の名前が刻まれている。裏面に廻りこみ、大正十二年九月一日・・・・・ 字は風化して読めず本来はこちらの面が通路側になるのではなかろうか。震災記念碑境内の石燈籠、石碑に掲示されている。萩園通り沿いに建つ、道祖神社殿の前にタブノキが聳える。また、右奥には今宿自治会館が建つ松尾大神社殿拝殿前に石灯籠拝 殿ご祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと)ご利益:家内安全、地域安全、事業成功拝殿の彫り物拝殿の扁額、「松尾社」拝殿に貼られた、「祇園天満両社」 学業成就・合格祈願拝殿前から鳥居、鐘楼社殿の左側に建つ、「天満宮」天満宮の前に、右に「天満宮」、左に「祇園社」の石碑が立つ「祇園社」の石碑天満宮の左側に、「慰霊碑」表面には、人名、死亡年月、享年何歳、場所が刻まれている。昭和13年9月 29歳 北支 ~ 昭和22年6月 17歳 ソ連 の英霊23柱を合祀した慰霊碑。北支、中支、ミッドウエー、青島、ビルマ、南方洋上、マーシャル群島、等々。先程訪れた三島大神にも同じような石碑が建っていたが、こちらは今宿地区の慰霊碑裏面には、建碑のことば平和で豊かに生活できる現在の私たちは過去苛烈たる戦争に於て尊い一命をささげられた勇士のあったことを忘れることはできません。ここに日中事変太平洋戦争における殉国諸士の遺勲を仰ぐため自治会員の浄財を集めて慰霊の碑を建立しその英名を刻して感謝の意を表し後世に伝えて永く祭祀の誠をつくそうとするものであります。 昭和四十九年三月 今宿自治会 渡辺三郎 謹書移設された石塔延寶八庚申年と読めるが天満宮横から境内拝殿、本殿社殿の裏に建つ神輿殿境内奥に建つ今宿自治会館今宿自治会館の右前に建つ石碑石碑には、「臺小学校跡」石碑の裏側裏面には「沿革」明治のはじめ越後の藩士の川清茂なる人 今宿に居を構え私塾を開き附近の子弟に読み書きなど教える。明治五年五月 学制頒布により今宿村に成誦学舎萩園村に詳恭学舎が創立される。明治十年十月 前記ニ学舎は統合され校名を臺小学と称す。明治廿四年四月 校名を尋常臺小学校と改称。明治四二年三月 本校と円蔵村の尋常懐島小学校及び浜之郷の高等鶴嶺小学校が合併。 尋常高等鶴嶺小学校となる。 謹書 渡邉三郎 石工 鍛代忠義常顕寺にも「萩園学校跡」の石碑があった 社殿を右側から拝殿横に掲げられていた絵今宿自治会館前から境内を望む 14:03萩園通りから振り返り、イチョウの樹を見上げる道路脇にあった「避難所・避難場所案内」 — 続く ー
2021.11.29
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萩園の満福寺、常顕寺から愛車のリンちゃんで萩園通りを南下、次に訪れたのは三島大神。11月3日(水) 13:16萩園通りの前方に大樹が聳える、三島大神前交差点三島大神(みしまおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719萩園通り沿いにある神社である常顕寺から萩園通りを南下神奈川縣指定村社 三島大神石灯籠と、朱色の鳥居鳥居の扁額、「三島宮」鳥居の右側に建つ石碑石碑には、「山宮藤吉翁〇碑」山宮藤吉は明治から昭和時代初期の政治家で、萩園村に生れる。衆議院議員(3期)三島大神の前を走る、萩園通り魯文の碑裏面には、昭和三十九年十一月吉祥日 主催 萩園区有志 後援 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎市郷土会魯文の碑本名を野崎文蔵といい、文政十二年(1829)魚屋、佐吉の長男として江戸・京橋に生まれる。父・佐吉は、萩園野崎一族の生まれであったので、魯文は幼少の頃、父の生家、野崎作右ェ門方で育てられ、寺の小僧や農家の手伝いにやられた。性来、本を読むことが好きで、百姓仕事など身が入らず、何処も長続きはしなかった。江戸へ戻ってからも丁稚奉公などに出されたが、相変わらず本ばかり読んでいた。十五歳の時、英魯文という筆名で戯作を始め、次々と新作を発表、明治八年横浜にて、「仮名読新聞」を創刊、大衆新聞の始めで好評を博した。その頃から、仮名垣魯文と改め、その名を知られようになった。ある時、和田久徳氏の祖祖父が、その居を訪ねた折 訪ふ人もあらしの庭の秋去り 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末仮名垣魯文との一首を贈った。碑文はその直筆である。広い境内に、社殿、右側に鐘楼。三島大神の創建年は不詳だが、源頼朝が伊豆の三嶋大社を勧請したと伝えられる。約40基の神輿が終結する7月の浜降祭に参加する神社の一つである鐘 楼橋 石橋 石この巨石は、小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって村人に親しまれていた。大正十二年九月一日・関東大震災にあい、堤防と共に、ことごとく崩壊した。間もなく河川改修が行われ、現在の萩園橋として装いを新たにした。江戸時代中期に建造されたものと推定されるが、川巾四間・橋巾一間にこの巨石を使用した。当時としては、相当な大工事であって、村人には大きな負担が課せられたであろう。それ故に、此処が如何に重要な街道であったが想起される。小さい方の石は、側面に「元禄十四年三月」の記念銘があり、貴重な橋に使用されたものと推定されるので、村の中央を貫いている八王子街道の石橋の十字路にあったものと思われる。何れも萩園の歴史を物語る重要なもので、後世に残すべくここに保存する。 昭和五十六年七月十五日 萩園郷土会有志 萩園自治会 茅ヶ崎境内の隅に風化した石碑が置かれている境内の南西隅に多くの石碑が建つ石碑には、「鎮守の杜に心のふるさと」慰霊之碑西南戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争における萩園地区出身戦没者の英霊41柱(西南役1柱、日露戦役5柱、支那事変2柱、大東亜戦役33柱)を祀る慰霊碑。 地元自治会によって昭和42年4月に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日及び享年が刻まれている。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝慰霊之碑の裏面この碑は、過去数次の大戦において祖国の繁栄を念じつつ、尊い一命をささげた英霊の偉勲をたたえてその霊を慰めるため、市民の浄財によって建立されたものです。 昭和四十二年四月 萩園自治会この石碑は、大正十二年九月一日関東之地大震・・・・・字が刻まれているが判読できず、関東とあるので地震関係の碑であろうこの文字は「〇島○○○○○○」、地震に関係?この石碑もわからず。明治十年西南之役相模高座郡萩園村・・・・・・・・・・・明治十一年戊寅十月本郡羽鳥耕餘塾師小笠原東陽造并書又〇境内にはケヤキ、タブノキの大木が聳える三島大神拝殿祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと) 菅原道真(すがわらみちざね)御利益 海上安全、家内安全、厄災除け、学業・受験合格社殿横のタブノキ拝殿の屋根には落ち葉が積もり市指定重要文化財 第四一号 東川斎桂山筆 源為朝図東川斎桂山筆(とうせんさいけいざんひつ) 源為朝図は、三島大神の社殿に保管されている絵馬である。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードを取材したものであこと、画風や款記から、狩野派に師事した町絵師の東川斎桂山による制作であること、また、奉納者や奉納年が天保七年(1836)であることが明らかになっている。本絵馬の奉納理由を直接伝える資料は残されていないが、源為朝が疱瘡などの疫病除けのモチーフとされる例があることから、図柄を広義の魔除けと捉えることができるほか、奉納された天保年間は飢饉や水害をはじめとする不安定な世相に対する意識を反映したものと考えられる。なお、東川斎桂山は、「金指桂山」「藤原美信」とも名乗り、江戸時代末期、没する弘化三年(1846)までの間、相模国各地で活動し、本市をはじめ、海老名市、相模原市、平塚市でその作品が確認されている。以上のことから、本絵馬は、江戸時代末期の茅ヶ崎における庶民の生活文化を伺うことができ、また、当時の相模地域の民間における芸術文化の受容を知るうえで重要な資料であると考えられる。 令和三年(2021)三月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物会 社殿前から神楽殿神輿殿東側から神輿殿、社殿境内の北側、社殿の裏側に建つ石碑、「萩園東土地改良完成記念碑」このような碑があるが、現在では住宅街になっている萩園東土地改良完成記念碑本東地区面積は十四ヘクタールの耕地であり古来より未整理の耕地の為、現在の大型化した農機具の使用に大変不便を感じ再三土地改良の計画がありましたが、実現されず今日に至り今回、相鉄興産㈱、相模興業㈱二社の土地改良を前提とした砂利採取の契約が地権者全員の同意のもと成立し昭和六十三年十月県の認可を受けて以来五年の歳月をかけて無事採取が終了し、平成六年十一月土地改良区を設立し県・市・土地改良連合会等関係機関のご指導を頂き県・市の補助により片側の側溝も整備することが出来ました。地権者の皆様には長い間一致団結され理解あるご協力を頂き約十年の歳月を費やして事業は完成致しました。以上で土地改良事業が完成したことを記して記念するものです。 平成九年十二年 萩園東土地改良区右側の建物は、社殿、神輿殿の裏にある萩園自治会館萩園自治会館社殿の西側の杜境内の北側に廻り境内に生える樹齢400年のケヤキの大木が素晴らしい紅葉が始まったケヤキこれからは落ち葉の清掃が大変だ境内には子供たちが木の実を拾いに三島大神の境内には大樹が多く聳える13:42三島大神の南側にある、市立萩園中学校所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園2425グランドの北側の杜は、三島大神 — 続く ー
2021.11.28
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萩園でざる菊、コキア、ひまわりを見たあと愛車のリンちゃんで、萩園通りを南下。11月3日(水) 12:55高野山真言宗 大鼓山 満福寺(まんぷくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1632萩園通り沿いの西側に建つ、「真言宗 満福寺」の寺標、右側に鉄枠で囲まれた「地蔵」参道にあり、何故移設されていないのか参道を進み山門を入ると右側に、地蔵堂と石像地蔵堂の中に鎮座する大師石碑には、 「鉦の音 六つの巷に 栄えなば みの入相を 思いしるべし」 新編相模風土記稿萩園の条に 地蔵堂満福寺持木造にて腹籠の 〇あり相州二十四輩札所第八番なりの記あり 昭和五十七年三月彼岸 施主 野崎薫十王堂内陣を覗き見る境内に立つ観音菩薩左の石碑には「屋根修理記念」 享保九年六月建立以来二百七十年の歳月を得たる本堂〇葺屋根も時代の推移・・・・・ 昭和三十六年三月吉日銅板葺の本堂開山は、鎮海、創建は、伝・文治年間・鎌倉期、本尊は阿弥陀如来歴代住職の墓地境内の隅に、移設集められた石像群の無縁仏塚字が刻まれていたが風化して判読できず石碑の字は汚れていて判読できず 菊池翁碑菊池翁碑銘 前宮内大臣正二位勲一等伯爵土方久元○○○○菊池翁〇逝既三年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後略大正三年八月 神奈川縣立小田原中學校長正七位阿部宗孝撰 雨降山大山寺法主前學頭〇中僧正高木快雅書裏面には「寄附連名」金五拾圓から金壱圓 発起人は5名でそれぞれ金五拾圓 大正六年八月建設満福寺の南に隣接する塀に囲まれた寺日蓮宗 常顕寺(じょうけんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1441日蓮宗の寺院で山号を本立山という。大乗阿闍梨日澄の旧跡。旧本山は鎌倉の比企谷妙本寺、脱師法縁。常顕寺の木造日蓮坐像大永七年(1527)在銘 平成八年十一月茅ヶ崎市指定重要文化財 写真は残念ながら外されていた室町時代の年号銘のある日蓮像です。市内の仏像彫刻の古いものの一つであり、全国に数多い日蓮像のうちでも早い時期に造立されたものとして重要です。本堂にまつられています。像高二九センチ、袖張三七・五センチの大きさです。寄木造りで玉眼嵌入、彩色はほとんど剥落しています。像が敷いている上げ畳台座の天板裏に、向かって右から「敬白 願主/大永七年丁宛(亥)四月十八日/小田原 徳乗房/日盛(花押)」と墨書銘があります。 茅ヶ崎市教育委員会境内の駐車場に駐輪して参拝萩園通りに面して建つ山門大きな石碑の「南無妙法蓮華経」左側、「日蓮聖人 法孫 九老僧 日澄聖人 旧跡」山門の扁額「本立山」山門を入り、右側には広い駐車場石畳の参道を進み本堂へと垣根越しに先程訪れた満福寺。ハスの水鉢が境内に置かれ、右奥に「永代供養墓」本堂前に、「日蓮大聖人像」が立つ本堂の扁額「常顕寺」本堂前右側には、「日蓮大菩薩」本堂北側から山門を望む永代供養墓参道を進むと、「子ノ権現」子之権現本立山 常顕寺日蓮宗 鎌倉妙本寺末元応元年(1319年)宗祖日蓮大聖人九老僧行善院日澄聖人によって開かれた。境内に祀る子之権現は日澄聖人の開眼になり諸願成就の神霊として古くより世に知られる。寺宝として日蓮大聖人の直筆を所蔵している。子ノ権現への参道子ノ権現への参道に手水舎手水舎の水受けに、「子太権現」と右側の本堂から渡り廊下を渡り、「子ノ権現」へ石碑に字が刻まれていたが判読できず子ノ権現前から、境内は綺麗に整備されており枝垂れ桜も植えられていた子ノ権現「子ノ権現」の扁額ツワブキが咲いていた住職が栽培されたキクであろうか客殿入口にきれいに咲いていた本堂を望む、右の木は綺麗にカットされた金木犀?萩園学校跡明治五年八月学制布告される。明治七年(1874)常顕寺に詳恭学舎設立後萩園学校と改称萩園新田を通学一区域とす。明治十年六月萩園学校と今宿学校合併、今宿に台小学校設立される境内の南側にある「淨行菩薩」淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま因縁淨行菩薩さまは法華経涌出品第十五に説かれ、上行等四菩薩のお一人で久遠実成のお釈迦さま、成道の最初のお弟子です。毎に垢穢を淨めることを行とされ、諸人この淨行像を淨めれば、その功徳によって病は即ち消滅の霊験たちまちに至り、御経文の「其身甚清淨 如彼淨瑠璃」の御利益を得られることと存じます。何卒遍く参拝されて淨行徐病の慈恵を受けられるよう念じます。 昭和六十二年十月吉祥 子之権現 常顕寺常顕寺歴代上人の墓地市の指定樹木であろう、樹齢400年の「マキ」。白の標柱の字が消えていたマキの木を見上げる大樹のマキが聳える境内の駐車場13:15常顕寺の山門 — 続く ー
2021.11.27
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前回10月23日(土)に、茅ヶ崎の西地区の寺社史蹟巡りを行ったが、これを機会に茅ヶ崎市内の寺社史蹟巡りを定期的に行いブログアップすることにした。この日は、萩園のざる菊、ひまわりも見頃であろうと愛車のリンちゃんで出かけた。11月3日(水) 12:03小出川に架かる萩園橋からの北西方向北側には、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架橋が横切る農地の一角にひまわり畑10月23日(土)に訪れた時は咲き始めであったが満開になっていた。手前の畑には、葉野菜キクも満開にひまわり畑の隅には管理の人のテント茅ヶ崎小出川桜祭り会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園127番 付近小出川沿いにある、3~4アール程度の花壇にコキアとざる菊を植えているが今年はひまわりも茅ケ崎市の小出川沿いには、、約70本の河津桜が植えられている。春先には、河津桜、菜の花が咲き、紫陽花、秋には彼岸花が咲き四季折々楽しませてくれる高架橋は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、新湘南バイパスの茅ヶ崎JCT辺り掲示板の裏には、11月7日(日) 10:00~14:00ひまわりの花 5本 200円で販売します ひまわりの会ざる菊も咲き、コキアも色づく畑の中には観賞用のテーブルもセットされている東方向この日は雲に隠れ富士山は見えず今年はざる菊の栽培に失敗したとかズームアップざる菊はまだ満開前か綺麗な花を見るためには日ごろから除草等の管理が大変だと。会員の方が第2、4日曜日の午前中に活動しているざる菊をズームアップざる菊エリアの南側にひまわり畑コキアは風にあおられてひまわり畑へひまわり畑黄色い幟には「ひまわりの里へ」会の方に聞くと、今年の9月15日頃 2,500本ほど種を蒔いたと。また、ひまわりもいろんな種類があると今年は約2,000本植えたと満開のひまわりをズームアップ北側のざる菊畑背丈が1メートルも満たないひまわりちょうど昼時で昼食中先程の掲示板に、11月7日(日) 10:00~14:00に、ひまわりの花 5本 200円で販売するとあったが既に満開になっておりその日まで花持ちするか?北側のざる菊畑、木は河津桜カメラを右に振り、後方の高架橋は茅ヶ崎JCTズームアップ萩園にはひまわりの会場は二箇所ある。こちらは、県道44号線田端南交差点から萩園通りを南下、50メートル程で東側へ入る何か販売しているのかひまわり、ざる菊、コキアが咲くが、ざる菊は病気になったとひまわりは満開に12:50左手前にも、異種のひまわりが植えられていたが成長が遅い — 続く ー
2021.11.26
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前回10月23日(土)に、茅ヶ崎の西地区の寺社史蹟巡りを行ったが、これを機会に茅ヶ崎市内の寺社史蹟巡りを定期的に行いブログアップすることにした。この日は、萩園のざる菊、ひまわりも見頃であろうと愛車のリンちゃんで出かけた。11月3日(水) 11:40JR相模線、北茅ヶ崎駅北茅ヶ崎駅南東側に建つ石碑には、「忠烈」。碑には「故海軍航空兵曹長・勲七等功六級 管〇平吉墓」と刻まれており一人の碑である碑のトップをズームアップ、「忠烈」駅の東側に居酒屋が数件並ぶがコロナ禍で営業は?下りの橋本行き電車。JR相模線は一部開業から100年、全線開業から90年、電化開業から30年。2021年11月18日から新型車両E131系500番台の運転が開始されている。この車両は、205系500番台JR相模線鶴田第一踏切。ここを左折(西方面)し、住宅街を進むスマホの地図に、「無縁塔(オチョバンバの慰霊碑)」の案内。鶴田第1踏切の南の工場の塀に沿って西方向へ進む無縁塔(オチョバンバの慰霊碑)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵277-2スマホが「目的地はここです」と案内するがそれらしきものがなく。心霊スポットで以前は塀に囲まれて石碑があったようだが更地になり移設されたのか無縁塔のあった場所から狭い住宅街の道を西へ進むと、山王社(日枝神社)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2228山王社(日枝神社)御祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)(山末之大主神)全国の日吉神社、日枝神社、松尾神社の主祭神で、古来日吉山王権現、江戸山王権現、山王権現、山王社などと称したものを明治元年(1868)に日枝神社と改められた。しかし今でも山王さんと親しまれている。圓蔵神明大神宮奥宮にある古器物に、紀元弐千五百三十二年(明治五壬申年秋九月) 天照皇大神 日枝大神 合社記されており、当地より神明大神宮に遷され祀られていたが町内守護神として昭和十九年七月鐘楼堂の建物と共にこの地に遷宮された。昭和四十七年二月竜巻により鐘楼堂は全壊し立替られ現在に至る。御祭神山王権現は安産子育縁結び等に霊験が深く、又酒を造ることが上手な神であった為、酒造業、酒店、酒飲業者から酒の神と敬われている。特に土木の知識にもすぐれているので、土木建築業者からも厚い信仰を受けている神です。尚、申(猿)を神使とすることで知られている。 元旦祭 一月一日 町内祭礼 三月三日 浜降祭 七月十五日 大 祭 九月十七日 昭和六十三年九月吉日三叉路の角に位置しており、狭い境内にサクラの木が一本聳える山王社前から住宅街の道路を振り返る北側に廻り込む10×10メートル以下の狭い敷地に建つ山王社境内にはサクラの木が一本聳える摂社 山王社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵字御屋敷2228番地 御祭神 大山昨命(山末之大主神) 境内地 23.5坪(神明大神宮飛地境内) 元旦祭 一月一日 例 祭 三月第一日曜日 神幸祭 九月第三日曜日山王さまの祭神大山昨命は、農業生産に欠かすことのできない山の自然と山につきものの水〇とを司り給う神、ひいては万物を化育するムスビの霊徳を有せられる神である。山王社の神の使いは猿と云われ夫婦円満、殖産繁栄のご利益がある。特に女猿は安産、子育てに霊験があらたかだといわれている。当社の神猿像は東京都千代田区永田町田官弊大社日枝神社の許可を得て模造する。当社の創建は江戸時代で、本宮は田官弊大社日吉大社東本宮懐島の御屋敷の辰巳(東南)に鎮座と安政六年(1859)の圓蔵村絵図に記されている。明治五年九月政府の一村一社令により圓蔵鎮守神明大神宮に合祀。昭和十九年七月神明大神宮の鐘楼堂を移設、社殿として再鎮座。昭和四十七年二月竜巻により倒壊、同年辻町氏子により再建。平成十八年十一月神明大神宮総氏子により、社殿新造、境内整備事業竣工。 奉納 土垣・社号碑・神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平成十八年十一月吉日 宗教法人神明大神宮社殿前に神猿像左側の神猿像右側の愛嬌ある神猿像左側に、鳥居があり石碑に、「総本宮 日吉大社」と刻まれている石で囲われた中に、石碑の総本宮 日吉大社、道祖神、子育石が並ぶ子育石社入口には、「摂社 山王社」道路脇に、「道祖神」と左に「歌碑」円蔵稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵住宅街の路地に建つ稲荷神社である説明板がなく、廻りは新しい住宅が多いので由緒が言い伝えられないのでは高野山真言宗 天慶山輪光寺(りんこうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵タウンニュースの情報で今年の6月4日(金)に訪れたが再度の参拝である。前回のブログは「真言宗輪光寺」👈 をクリック願います本殿前から境内を。秋になり、松の手入れに植木屋さんが訪れていた前回訪れた時、「山王塚」が解らず再度訪れた。今回もこの看板だけでわからず境内にいた方に教わる。山王権現社當寺三世法印隆善大和尚之墓源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔山王塚墓地の西側に位置し、先程の案内板の左前方5メートルほどにある山王塚由来※ 輪光寺出土の蔵骨器(平安時代末期) 當寺本堂裏手に鍵の手に連なる竹藪があり、本堂に近い約五米の個所は、古くから立入 れば崇りを受けると言われていた。墓地の拡張の為、この薮を取払う事となり一端から 伐除して前記の個所に及んだところ、蔵骨器を発見し作業は中止されるに至った。恐ら くかつての墓域を限った記憶だけは、禁忌の場所だけは禁忌の場所として、失われなか ったものであろう。 発見の際は正位に埋納された蔵骨器の周囲を礎石で固めてあったと云う。 本蔵骨器は備前焼系の素焼土器で、須恵質の蓋を伴っている。蔵骨器の底の方に十糎ほ ど土砂まじりの骨粉があったと云う。火葬骨は現位置に埋納する。※ 源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔 承元四年(1210)四月九日卆※ 五輪塔 空輪・風輪・火輪(鎌倉時代) 水輪・地輪 (平成時代)※ 無縫塔當寺三世 法印隆善大和尚之墓 永正元年(1504)十月※ 山王権現社 祭神 大山昨命 山王総本宮日吉大社東本宮(滋賀県大津市坂本) 千時寛文十二年(1672)敬白王子三月吉祥日朝宥※ 神使一猿像 寛文十二年五輪塔、懐嶋平権守景能入道供養塔山王塚を案内していただいた方から、「住職が製作した漆塗りがある」とのことで客殿へ。住職は漆塗りの不動明王座像を約5年の歳月をかけて完成した住職が約30年前から製作していると輪光寺から西方向へ進み、茅ヶ中央通り(県道45号線)へ出て北上ここ円蔵北交差点を左折して西方向へ11:55住宅街の中に遺跡発掘現場建売住宅地であろうか何が発掘されたのか発掘調査現場は、「特定開発事業の概要のお知らせ」場所:茅ヶ崎市矢畑字明王ケ谷169番2外 5筆12:03小出川に架かる萩園橋から北西方向を見る ー 続く ー
2021.11.25
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久しぶりの弘法山公園から下り帰路につく。10月28日(木) 15:58県道62号線(平塚秦野線)を平塚方面へ走り土屋橋交差点。水無川は室川橋辺りで金目川に合流、金目川は県道62号線に沿って流れ河口近くで花水川となって相模湾へと流れる県道62号線(平塚秦野線)の、平塚東インター入口交差点を左折、県道63号線(相模原大磯線)へ右方向は有料道路小田原厚木道路の平塚料金所途中道路脇に駐車して富士山を望む県道63号線(相模原大磯線)は小田原厚木道路沿いを厚木方面へと走る。道路脇にある、以前取引を行った近藤鋼材の看板。以前は違う社名であったが・・・・・小田原厚木道路(国道271号)の両側を、県道63号線(相模原大磯線)が走るが信号が少ないのでスピード違反には注意が必要平塚市から伊勢原市に入り再度平塚市に入る。カーナビはこの先を右折指示県道44号線(伊勢原藤沢線)の下谷交差点を右折。県道605号線(下糟屋平塚線)を直進すると伊勢原市に下谷交差点に立つ地蔵、地蔵の台座には「祈交通安全」と。次回はこの交差点は愛車のリンちゃんで、大山街道を進む予定帰宅途中、陽の入り近くになり夕焼けを期待して最近知った「富士見の丘」へ立ち寄ることにハンドルを切る。16:43藤沢の「富士見の丘」所在地:神奈川県藤沢市打戻2668陽の入りにギリギリ間に合う、先着の人が数人待機して撮影陽が沈む金時山をズームアップ右側に矢倉岳もクッキリと16:44富士山の麓に雲が広がる手前にはざる菊が咲いていたが暗くなり陽が沈んだ時間を楽しむ標高1212メートルの金時山をズームアップ16:47茜色に染まる金時山16:56富士山をズームアップ17:00陽の入り後約20分が経つ撮影中の人から「今の時期山中湖辺りからはダイヤモンド富士」と言われたがいつかダイヤモンド富士を撮影したいが17:0817:15住宅街に灯が灯るビルがないので変化がないが17:19カメラを丹沢方向へ向け17:20この日は三脚を忘れ手振れになりましたこの日は車での移動であったが、県立秦野戸川公園を歩き回ったので歩行数は約9,000歩であった。 END
2021.11.24
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弘法山公園の権現山には、数年前に鳥撮りで妻と何回か訪れた。浅間山(せんげんやま)、権現山(ごんげんやま)、弘法山(こうぼうやま)の3つの山一帯を弘法山公園と呼び、県立自然公園にも指定されています。10月28日(木) 14:50標高243mの頂上に立つ展望台弘法山公園は、春には園内にある1400本以上の桜が咲き誇り、桜の名所としても有名で、平成6年度(1994)には「かながわの花の名所100選」に選ばれています。他にも夏のアジサイ、ヤマユリ、秋の紅葉など、四季折々の美しさがあり、ハイキングや散策に最適である。この日も数人のグループが弁当持ちで訪れていた。広場に建つ塔は「平和塔」公園内には権現山山頂に野鳥の観察施設であるバードサンクチュアリがあり、今回は訪れなかったが弘法山の山頂には鐘つき堂、乳の井戸、大師堂などがある。関東ふれあいの道関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、一都六県を巡る自然歩道です。沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里をみなおしてみませんか。弘法大師と桜のみち このみちは、県内17コースのうちの9番目です。 ここから南平橋バス停へは展望台横の階段を下り集落内の道を進みます。 ここから坪ノ内バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進んでさらに弘法山へ登ります。一度 国道246号へ出て新善波隧道をくぐり旧矢倉沢街道を通って吾妻山へ登ります。下り坂を進 んで鶴巻温泉駅方面との分岐を左に曲がり、集落を経て終点坪ノ内バス停に至ります。弘法大師と丹沢へのみち このみちは、県内17コースのうちの15番目です。 ここから蓑毛バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進み、駐車場にでたら市道を下ります。 途中消防団車庫を左折し国道246号名古木交差点に出ます。県道秦野清川線に入って少し先 を左に入り、さらに集落や田園の中を歩いて再び県道秦野清川線に戻ると小蓑毛バス停です。 小蓑毛バス停から県道を1.4km上ると終点蓑毛バス停に至ります。権現山の歴史通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。最近の城郭調査によると山頂の西北端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が取り巻き大小十四箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西(秦野方面)に対する備えを目的としているようです。築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。この山頂では毎年八月十四日、十五日両日の弘法山の百八松明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が二メートル前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。午後七時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。そして銘々がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向って下山する。麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある。前田夕暮 解説本名洋造。明治十六年七月二十七日神奈川県大住郡大根村大字南矢名小南(現秦野市南矢名)に生まれる。大根村小学校入学、同校高等科を卒業し、明治三十一年隣村の金目村にあった「中郡共立学校」(現神奈川県立秦野高等学校)に入学。病のため中退。二十二歳(明治三十七年)若山牧水と相前後して、尾上柴舟の門を叩く。・・・中略・・・昭和二十五年十月、県立秦野高校創立二十五周年(草創から八十年)の記念事業の一つとして、国語教諭で歌人である杉山茂夫(長風)が、郷土の一大歌人、夕暮を永く語り継ぐべく、歌碑の建立を生徒集会で訴える。秦野市観光協会の建設費支援と、延べ百五十余名に及ふ在校生・教職員・有志による、台石・礎石とりや、山頂への運搬などの労力奉仕によって、夕暮のふる里ゆかりの弘法山、菜の花畑と秦野市内を見降ろす権現山山頂の富士に真向かう、この地に建立された。自由律短歌による三歌碑に続き、郷里母校の在校生の手によって建立された、史上希有なる定型短歌を刻んだ第四歌碑である。因みに、夕暮は歌碑の完成を待たず、昭和二十六年四月二十日六十九歳で永眠。枕辺のノートには、「ふるさとの高校生 夕暮の歌碑」と書き記して筆を絶つ。同年七月二十九日 除幕。ここに夕暮及び 歌碑建立の経緯をも記し、永く顕彰する。 「生くることかなしとおもふ山峡ははだら雪ふり月照りにけり」 神奈川県立秦野高等学校同窓会 秦野市 観光協会展望台今朝秦野へ来るとき富士が綺麗に見えていたので期待するが定 礎弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等伝統行事の舞台にもなっています。眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催により「神奈川県新八景」に当選したことを記念して建てられた見晴台があります。建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。 2001年(平成13年)1月1日 秦野市長 二宮忠夫この方向に富士山が見えるのだが、残念ながら気温が上がり霞んで見える角膜移植に関する碑と少女像裏面に、あなたのランプの光を もう少し高くかゝげて下さい見えない人々の 行く手を照らすために ヘレン・ケラー少女像の台座の裏側に刻まれた、角膜移植記念像平成10年3月29日「愛の光」揮毫 秦野市長 二宮忠夫 彫刻・副碑 制作 彫刻家 土屋〇健展望台の下から、相模湾、平塚市街地、江の島。手前のビルは東海大学平塚市街地、江の島をズームアップ展望台の上に上ることに廻階段を上り展望台には各方向の写真が掲げられていた。権現山展望台から南西(箱根方面)富士山は頂上がかすかに見えていたズームアップ秦野市街地右方向から中央部に水無川が流れる。中央左には小田急線が小田原方面から下ってくる小田急線をズームアップ左に金時山(1212m)、右に矢倉岳(870m)権現山展望台から西(西丹沢方面)西方向をズームアップ新東名高速道路の白く伸びる高架橋が見える南方向の遠くに大磯丘陵地、相模湾手前は東名高速道路の高架橋小田急線を見下ろす展望台から東方向赤い実がついているが遠く、横浜ランドマークタワーがかすかに見える。冬場には気温も下がりよく見えるのだが権現山展望台から西北北方向には大山。手前は権現山の広場、廻りにはサクラの木展望台から下り、「かながわの探鳥地50選・権現山公園」 この付近で見られる主な野鳥メジロ、シジュウカラ、コジュウケイ、コゲラ、エナガ、イカル、エゾビタキ、ホオジロ、アオジ、キジバト権現山展望台の北側に、バードサンクチュアリ、公衆トイレがある広場から少し下ると、バードサンクチュアリこの時期でも数人の人が待機していた権現山で見られる野鳥これからはいろんな野鳥が訪れる!1月 ~ 3月4月 ~ 8月9月 ~ 10月11月 ~ 12月 ルリビタキ(♂ ♀)、シロハラ、アカハラ、アカゲラ、アオゲラ、ビンズイ、エナガ、 ジョウビタキ(♂ ♀)、イカル、モズ野鳥のための水飲み場しばし待機するが飛来せず野鳥が水浴びをするバードサンクチュアリから広場を見上げる権現山展望台ここからの夜景も良さそうだが、帰ることに時季外れのツツジの開花カラス瓜が色づいていたこちらは食用のウリかながわの景勝50選「弘法山」第一駐車場に戻り15:34弘法山公園 第1駐車場前にある「ジンギスカン レストランの木里館」所在地:神奈川県秦野市曽屋5896-2席は店内とテラス席がありリーズナブルな価格で美味しいとカーナビを自宅にセットして帰路につく。 — 続く ー
2021.11.23
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県立秦野戸川公園から坂を下り、途中道路脇の寺社に立ち寄る。まだ時間が早いので、以前鳥撮りで訪れた弘法山公園へ行くことにし国道246号を戻る。10月28日(木) 13:36国道246号を走っていて、とんかつ「かつ庵」の看板を見つけ昼も過ぎていたので立ち寄ることに。スマホの案内で、この堀川入口交差点を左折。13:38とんかつ「かつ庵 秦野平沢店」所在地:神奈川県秦野市平沢308-4店前の道路は、県立秦野戸川公園へ行く、「はだの桜みち」。はだの桜みちは、県道62号線の西大竹交差点から県道706号線の新橋交差点まで約6.2kmに約540本のソメイヨシノが咲く。店内への入店は、消毒、マスク装着入店しても、店員は来ずオーダーはタブレットからとんかつ定食をオーダー14:09いつも、「かつや」を訪れているが値段は少し高かった。はだの桜みちから国道246号へ国道246号を東へ進む、道路脇に、「全国名水百選の地 秦野市」の看板14:27国道246号の名古木宮前交差点を右折して弘法山公園へ。弘法山公園 第1駐車場所在地:神奈川県秦野市曽屋ここの駐車場に車を止め、歩いて弘法山公園の権現山展望台へ向かうことに。第1駐車場から北西方向を望む新東名高速道路の高架橋が見える登山道に建つ道案内関東ふれあいの道 「 ← 蓑毛」、「弘法山・権現山 → 」権現山への遊歩道から、めんようの里、第1駐車場を見下ろすここまで歩いてきたが、ここにも数台車が駐車していた弘法山公園現在地は、東に弘法山、西に権現山。弘法大師がこの山で修行をしたという故事から来ている弘法山公園。浅間山、権現山、弘法山の3つの連続した尾根山一帯が神奈川県立自然公園にも指定されています。富士山・相模湾の眺望にすぐれ、きれいに整備されたハイキングコースになっています。しかし、この山でもクマが出没、ヤマビルに注意の看板が目立つ。「弘法の里湯」「富士見の湯」などの温泉もある同場所から、左は、第1駐車場ヘ下る、右は、弘法山へ石碑には、「かながわの景勝50選 弘法山」この辺りは、ヤマユリが咲くようで看板には、「ヤマユリ採取厳禁!」 ヤマユリは神奈川県自然公園条例により許可なく採取してはならない植物です。 秦野市 観光課顕彰碑顕彰碑の先に石柱石柱には、「弘法の乳の水、左へ五〇米」。昔お乳が出るよう願いを込めて、この弘法山山頂まで井戸の水を汲みにきたとこの顕彰碑は、秦野出身の南画家「大津雲山」(1885~1971)の画業を後世に伝えるため、1970年(昭和45)に地元の有志の手により建立されました。南画とは、中国の南宋画を祖に、江戸期以降発展した日本独自の文人画であります。明治、大正、昭和にわたり、「山水」「花鳥」「道釈人物画」など多岐にわたるジャンルの作品を発表し続けた雲山は、中央画壇で研鑽を重ね、帝展にも入選を重ねました。雲山の出生から修業時代、大正天皇御前揮毫、帝展出品、中国外遊など、故人の足跡をたどる本碑文は、市域を一望できるこの景勝地に、生誕地の東田原に面し建てられています。西に向かう、馬場道(ばばみち)昔、草競馬を楽しんだという真っすぐな馬場道馬場道に立つ、「百八松明」百八松明(ひゃくはつたい)秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。旧盆の八月十四日の夕刻、麦わらで作った直径30~40センチメートル、長さ1.0~2.5メートルのたいまつ約70本を権現山に運び午後七時過ぎに点火、参加者がかついで麓の龍法寺の山門付近までおろします。暗い山の斜面をえんえんと動くたいまつは火の帯となってたいへん壮観です。 昭和六〇年二月 秦野市観光協会坂を下ると、麓の龍法寺の山門、東海大学前駅馬場道の北側に「女坂(おんなざか)」このモニュメントは?台座に、「森に生きる」とふくろうに、こども?馬場道にある公衆トイレ、使用料は、一人50円と男坂(おとこざか)下ると、秦野駅 2.5km、名水はだの富士見の湯、権現山まで、0.3km、戻ると弘法山、0.5km馬場道から相模湾、平塚市街地を望む遠く平塚市街地、左奥に江の島、下を東名高速道路が走る弘法山公園には約2,000本の桜があり、満開になると山頂付近が、ふんわりと桜色に染まる石碑には、「秦野とたばこの歴史」が刻まれている「秦野たばこ」の一生たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどになりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野からたばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の農家があったことを付記します。 平成8年3月吉日 昭和59年度 廃作者一同1 ~ 3月 (苗床期)4 ~ 6月 (本畑期)7 ~ 8月 (収穫、乾燥期)9 ~ 10月 (葉のし、調理)11 ~ 12月 (葉たばこの納付)14:45馬場道を西へ向かい、ここから階段、スロープを登り権現山へ石柱には、「関東ふれあいの道」スロープを登り振り返る。両側にサクラが植えられており開花時はトンネルに休憩用のテーブルも設置14:50権現山に登り振り返る権現山展望台 — 続く ー
2021.11.22
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曹洞宗蔵林寺から更に坂道を下り、戸川公園へ行くとき見かけた堀之郷正八幡宮へ立ち寄る。10月28日(木) 12:58堀之郷正八幡宮(ほりのごうしょうはちまんぐう)所在地:神奈川県秦野市堀山下988境内の狭い駐車場に止め神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)から振り返る堀之郷正八幡宮御祭神 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) (応神天皇) 息長足姫命 ( おきなたらしひめのみこと ) (神功皇后) 高良玉多礼命 ( こうらたまだれのみめい ) (竹内宿弥)由 緒 天安二年(西暦858年)九州宇佐八幡宮から分霊を勧請してこの地に祀り当初は金光山正八 幡宮と号し武門では立身出世・氏族繁栄・行路安全・災難消除の神様として、他に民間では 安産・子育ての神様として信仰された。何れも御祭神の歴史的事蹟によるものである。 天正年間には小田原北條氏が堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)の神官として 祭禮奉串の儀を行ない、その後徳川氏の時代には社領五石の朱印状を受けている。また堀山 下村の領主米倉氏からは守護神として手厚い保護を受けた。明治維新後は郷社に列せられ堀 四ヶ村の鎮守として崇敬護持とされ今日に至っている。特筆事項 例祭日 四月十八日(現在は前後の日曜日)神輿の渡御は白丁・烏帽子姿の氏子が奉仕す る古儀を今に伝える。社頭の用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の 物と言われている。社頭に、「堀之郷正八幡宮」の石柱が建つこの用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の物と言われている鋼製の鳥居の扁額は、「堀之郷正八幡宮」鳥居をくぐると右側に手水舎石段下左側に建つ「震災復舊記念」碑。碑の正面には、「震災復舊記念」の題字の下に、字名別に寄付金額と氏名が刻まれており、その数は全部で389名です。背面には、大正十五年二月吉祥日に続いて、社司、総代、大世話人、世話人、復興委員などの氏名が刻まれています。この復舊記念碑は表裏ともに氏名を中心としており、具体的な復旧内容は記載されていません。寄付者の属する字名や背面は社司・総代と続くことから考えて、氏子による堀之郷正八幡宮の復旧であると思われます。復旧碑には、字名として堀山下・堀川・堀西森戸・堀西波多川・堀西黒木欠畑等が刻まれています。明治22年の町村制に際し、堀西村・堀川村・堀山下村・千村・渋沢村が合併して西秦野村が生まれました。なお、その前の明治20年には堀斎藤村と堀沼代村が合併して堀西村になっています。復旧碑にある字名は、現在の堀山下・堀川・堀西に相当し、さらに細かい小字も含まれているようです。これらの字名には頭に「堀」が付き、いわゆる「堀之郷」の鎮守が堀之郷正八幡宮に当たります。堀之郷正八幡宮の案内板にある「堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)」とは、西秦野村が生まれる以前の堀山下村・堀斎藤村・堀川村・堀沼代村を指すものと思われます。階段を上り、石灯籠、狛犬、社殿神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)を見下ろす真新しい銅葺き屋根の社殿平成二十九年(2017)三月二十五日に竣工した社殿。新社殿の設計はサイトウアーキデザイン、改築工事は諸星建築が請け負った。諸星建築の諸星文男棟梁によると、社殿の彫刻や枡組は以前のものを使っており、塗り直しなどをして違和感なく仕上げたという。また、狛犬と賽銭箱も新たに氏子から奉納された拝殿の扁額「正八幡宮」左側からの社殿左奥に「金刀比羅神社」金刀比羅神社の扁額、「金刀比羅神社」金刀比羅神社前から、境内を見下ろす平成29年(2017)3月25日、拝殿で行われた竣工祭には関係者が参列。境内には地域住民らが詰めかけた。神事後、建設委員会の村上茂委員長は「この日を目標に熱い想いで取り組んでいただいた皆様に敬意と感謝を述べたい」と挨拶。村上宮司は「新しく生まれ変わった八幡宮をお守りしていきたい」と話した。氏子総代代表の北村瑞徳さんは「この八幡宮は昔から地域のよりどころ。これから200年先も、同じ気持ちで地域の人たちが集ってもらえたら嬉しい」と完成を喜んだと。(ネット情報)堀之郷正八幡宮改築記念碑当社は、平安時代に大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎えたのが始まりと伝えられている。応神(おうじん)天皇・神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちすくね)の三柱をご祭神とし、堀之郷四ヶ村の鎮守として人々から親しまれてきた。同八幡宮の本殿は17世紀後期に、拝殿は1840年に建立されており、かつては茅葺き屋根だったという。1965年に本殿横にあったご神木の杉が雷に打たれ、伐採したご神木を売って茅葺き屋根から瓦屋根に改築。しかし土台は170年余り変わっておらず、老朽化が進んでいたという。平成20年(2008)から氏子や自治会を含め、改築に向けた話し合いが行われ、平成23年(2011)7月に建設委員会を設立。奉賛金8,000万円を目標に掲げて、64人の委員らが地元住民らに熱心な呼びかけを行ってきた。積立金などが一切ないなか、一から呼びかけを行い個人や企業など644人から目標を上回る8,430万1,000円の奉賛金が集まった。2015年12月には境内の假(かり)殿へ御遷座(ごせんざ)の神事が行われ、16年1月から改築工事を開始。5月の上棟式を経て、12月に本殿へ御遷座が行われ、今回の竣工式を迎えたと13:05社殿東側の駐車場から社務所堀之郷正八幡宮から坂を下り前方は国道246号。左側の石碑には、「御嶽神社」秦野市のマンホール蓋秦野市が1987年に採用したデザインです。 丹沢の美しい自然と澄んだ空気をいつまでも大切に守り、次代へと引き継ぎ快適な市民生活環境の保全を願い定めた市の花「なでしこ」を幾何学的に13箇所、そして中央に市章を配置したものを図案化しました。 この鉄蓋は汚水のマンホール蓋に使用されています。カラーも見てみたいが13:18御嶽神社(みたけじんじゃ)所在地:神奈川県秦野市堀西653道路から見上げると鳥居、車を道路脇に駐車して参拝することに石段を十数段上り鋼製の鳥居鳥居の扁額は、「御嶽神社」鳥居から参道の左側に、「この土地に 日本武尊 立ち寄りて 民は喜び後世に祀る」 昭和六十三年九月八日 石原移幹 書 秦野市自治会連合会 会長 谷 好文杉林の参道の先に社殿社殿をズームアップ参道左側に建つ、「聖徳神社」『神社誌』には境内社として「菅原神社」一社が記載されているが、その後「秦野西建築組合の方が太子講を開き」聖徳神社を勧請したとある(社頭掲示)。聖徳太子は宮大工の祖として木地師・木工建築業の人々に祀られる。多く「太子堂」として境内社にあるものと同じである境内社:天神社(菅原神社)菅原神社の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。御嶽神社の社殿御祭神 日本武命 ( やまとたけるのみこと ) 宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )御嶽神社御由緒創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば貞観九年(867)に蔵王権現として創建されたと言う説や、さらに室町時代当初の正平二十年(1365)頃創建されたと言う説もある。又、地頭須田家より永正年間(1504~1520)不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治六年村社に列すと言う文書もある。又、江戸時代の寛文十一年(1671)宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山桂林寺の持ち分となり「蔵王宮」と呼称される様になり、明治元年神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治六年より御嶽神社と改称されたようです。新編相模風土記・中郡勢誌等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は、堀四ヶ村の鎮守なり、ご神体は木像、例祭は八月八日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は毎年四月四日と固定されてきたが、近年児童数の激減の為御神輿の渡御が休日で無いと困難になり四月四日以降の土曜日と変更された。堀四ヶ村とは、堀山下村・堀川村・堀斎藤村・堀沼城(沼代)村のことで、尚堀斎藤村と堀沼城村が明治二十年頃から堀西村となった。従って、例大祭には、堀山下の堀之郷正八幡宮の・堀川の八坂神社・森戸の神明神社・黒木の須賀神社・波多川の天津神社・学校前の浅間神社・新生町八幡神社の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列されている。その他に、千村の白山神社・神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。◎御祭神 御嶽神社の御祭神は日本武尊で、「古事記」や「日本書紀」によれば景行天皇の皇子で天皇の 命令を受けて、九州の熊襲や、東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中伊勢の国で亡くなられた。 昔から武勇の優れた神様で、又、愛情のある歌人としても崇められ、多くの人から信仰されて いる。※大森稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命で五穀豊穣の神様で元亀元年(1570年)「織田信長の頃」 大森式部吉正(大森宮司の先祖)が自宅に創建されておられたが明治末年に県庁の指示によっ て御嶽神社の合祀された。◎境内社※菅原神社(天神様)の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、 子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。※山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信 じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。※天社神 春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで地神講を開き農家 の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。※聖徳神社の祭神は聖徳太子で秦野西建築組合の方が太子講を開き、毎年一月と七月の二十二日 に例大祭が執行され、工事の安全祈願をされます。 平成十五年(2003年)四月之建社殿の前に、狛犬、石灯籠が建つ拝殿の扁額、「御嶽神社」社殿の左側から境内社:石祠の「山神社」山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。13:24車を道路脇に駐車していたので、急いで参拝 — 続く ー
2021.11.21
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県立秦野戸川公園の散策を終え、丹沢公園松原町線(県道706号線)を下る。10月28日(木) 12:30戸川公園から丹沢公園松原町線を下り直ぐにある、曹洞宗蔵林寺の門前に「米倉丹後守一族の墓地」の標柱を見つける山門前に並ぶ、六地蔵蔵林寺の南側で、新東名高速道路の工事現場。秦野丹沢サービスエリアへの高架橋と、水無川橋秦野丹沢サービスエリアの工事現場、東京方面。左の高架を登り左奥に「秦野丹沢SA(上り)」、右奥に「秦野丹沢SA(下り)」本線の「水無川橋」、上り:70.5m、下り:70.5m。横断橋は、一般道であろうか秦野丹沢サービスエリアの完成予想図左が東京方面、右が静岡方面新東名高速道路に架かる「堀山下橋」から、静岡方面この辺りの車線は、4車線(暫定形)、設計速度120km/hいつの完成になるのか楽しみだが。パンフレットには2021年完成とあったが工期遅れ!新秦野インターチェンジ完成予想図将来は、圏央道の「圏央厚木IC」から新しい厚木秦野道路で接続される計画になっている曹洞宗蔵林寺(ぞうりんじ)所在地:神奈川県秦野市堀山下1153道路脇の白い標柱で興味津々立ち寄ってみる山門を入り参道を進むと右手に駐車場がある蔵林寺は享徳年間(1452~1455年)に開山された。その後、文明年間(1469~1487年)に現在地に移転した。江戸時代、当地は旗本米倉氏の所領となった。その米倉家当主の米倉昌尹によって中興され、菩提寺となった。昌尹は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の下で頭角を現し、ついに大名に昇格し六浦藩を立藩した。その六浦藩主米倉家一族の墓が境内墓地にある本堂右前に建つ、「慈悲恵観音」本堂左手前に、水子地蔵尊、一対の狛犬本堂の扁額、「蔵林寺」本堂左に建つ、水子地蔵尊本堂手前左に、十三重塔、赤いマスクを付けた導地蔵尊こちらは白いマスクを付けた「導地蔵尊」導地蔵尊をズームアップ米倉丹後守一族の墓地の案内※ 米倉丹後守(よねくらたんごのかみ) 米倉丹後守は名を昌尹(まさただ)といい、父昌純は徳川四代将軍家綱、五大将軍綱吉に仕え、 江戸城大番組頭として重きをなしました。昌尹は元禄3年、丹後守(今の京都府の北部)に任 じられ初めて大名に取り立てられました。 とくに将軍綱吉には信任厚く、国中の犬の取り 締りを命じられ一世を風靡しました。領地だった堀山下に先祖供養のため蔵林寺を建立、 ここに昌尹のほか、米倉一族の男女合わせて50余名の霊が眠っています。米倉丹後守一族の墓地は一段高い所にある米倉一族の男女合わせて50余名の霊が眠り、墓石が建っている。墓石の字は風化して読み取れない秦野市指定重要文化財 米倉丹後守一族の墓地 昭和四十三年三月二十八日指定米倉氏は、甲斐国(山梨県)の出身で、八代郡米倉郷(笛吹市)の地名から米倉姓を名乗ったとされる。戦国時代、甲斐武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後、徳川家康に召し抱えられた。天正十八年(1590)家康の関東入国の際、米倉清継は堀山下村(秦野市堀山下)に二百石の領地を賜っている。清継の孫、昌尹は、将軍綱吉の時代に幕府の要職を務め、元禄三年(1690)従五位下丹後守に任ぜられた。元禄九年(1696)には若年寄になり、武蔵国、上野国などに領地を賜り、旗本から一万石の大名となった。さらに元禄十二年(1699)相模国や武蔵国、下野国などに領地を賜り、下野皆川藩一万五千石の領主となった。この時の秦野市内の領地は、堀山下、菩提、羽根、渋沢村などであった。その後、米倉氏は陣屋を武蔵国久良岐郡(横浜市金沢区)に移し、金沢藩(六浦藩に改称)藩主となる。蔵林寺は、享徳年間(1452~1455)に瑞秀祥禎和尚によって四十八瀬川上流の堀山下村寺屋敷の地に開かれ、文明年間(1469~1487)に現在地に移ったと伝えられる。昌尹は、祖父から受け継いだ天正十八年以来の領地である堀山下村の同寺を菩提寺とし、寛文十三年(1673)に本堂庫裡を再建、元禄五年(1692)に先祖の墓石を建立した。この墓所には、昌尹とその父昌純が埋葬され、初代重継から十五代昌寿までの当主一族の墓石(埋葬は他寺)などが建立されており、現在も米倉氏墓石二十基、家老塚一基、石灯籠二十三基が残されている。 平成三〇年三月 秦野市教育委員会南方向から墓石群を見る苔むした墓石が立ち並ぶ墓石群の一番奥に、石囲いされた「米倉昌尹(蔵林院)の墓」中央に立つ墓石には、「元禄十二年・・・・」と刻まれている。背面の塔婆には、「秋季彼岸會為米倉・・・」、「大乗妙典為米倉家先・・・」とこの墓所には、昌尹とその父昌純が埋葬され、初代重継から十五代昌寿までの当主一族の墓石があるようだが、せめて配置図、また墓石の前に、「人名」が欲しいものだが一族の墓地は高台にあり眺望を見ながらの休憩用ベンチを設置秦野丹沢サービスエリアの上り線が見える場所である境内を西側から見渡す参道から「米倉丹後守一族の墓地」を望むススキの穂が風に揺られ鐘楼は工事中であった蔵林寺の参道に立つ小僧12:53参道にはアジサイが植えられ、秦野市内ではちょっとした紫陽花スポットとして有名なお寺 — 続く ー
2021.11.20
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県立秦野戸川公園の散策を続ける。10月28日(木) 11:35県立秦野戸川公園は、季節ごとにさまざまな種類の花を観賞できるスポットである。表丹沢の山々や秦野盆地に囲まれた、子どもから大人まで楽しめる。丹沢登山口としても知られており、多くの登山客やキャンパーも訪れるスポットです。コスモスが綺麗に咲いていたが、11月1日には来年のチューリップのために引き抜いたとイングリッシュガーデンイングリッシュガーデンとは、英国で発展した庭園の様式です。自然の地形を生かして作られた庭に、さまざまな種類の草花を取り混ぜて植え、季節を追って次々と花を咲かせるのが特徴です。歴史は古く、18世紀前半に形づくられました。それまで全盛だったフランス式の直線的、幾何学的、整形的な様式に代わるものとして、曲線を用い、植物を自然な状態で植え、まわりの風景と調和する庭園を目指しました。アクセントをつけるために、アーチやトレリスに絡ませたり、ハーブを模様花壇に植えたりもします。一見、無造作に植えてあるように見えますが、花の咲く時期や、咲いたときの色の調和などが考慮されています。このイングリッシュガーデンには、四季を追ってさまざまなハーブの花が咲きます。ハーブは花を楽しむだけでなく、料理や香料などに使える有用な植物です。ここの南側には農体験場があり、春先には7万本のチューリップが一面に咲くイングリッシュガーデン、ビジターセンター小さな庭の見本園西方向の、小さな庭の見本園地球儀には、県立秦野戸川公園の北緯・東経が記されている。 北緯 35° .23 東経 139° .11兵庫県明石市との経度差 +4.11コスモス畑を東方向から小さな庭の見本園の後方には農体験場があり、植え付け準備をしていた。昼時で、持参のおにぎりがあれば最高だが!公園内には丹沢の山々を源流とする水無川が流れ、チューリップやアジサイ、ヒマワリ、コスモス、サクラなど1年を通して美しい花が楽しめます。ゆっくり散策し、移ろいゆく花々で季節の変化を感じながら、お気に入りのスポットを見つけてみるのも楽しいものです自然を身近に感じることで、心身ともにリフレッシュできる。子供向け遊具も充実しています。園内の向かい側には「はだの丹沢クライミングパーク」があり、話題のボルダリングウォールもありますキバナコスモスと一緒に咲くコスモスをバックに愛犬を撮影長さ20数メートルのふじ棚ふじの時期も楽しみざる菊はこのエリアだけで500本は植えられているかざる菊、コキア、コスモスと楽しませてくれた県立秦野戸川公園パークセンター風の吊り橋を渡り対岸へ吊り橋だが揺れを感じなかった南方向に、新東名の秦野丹沢サービスエリアを建設中。遠くに秦野の市街地を望む水無川の上流側を望む。下にバーベキュー場水無川の下流には秦野戸川公園の多目的グランドA、少年野球場がある風の吊り橋を渡り西側を望むこちら側には「はだの丹沢クライミングパーク」があり、話題のボルダリングウォールがある散策路脇に立札、ここに咲いているのは幻の野草「おきな草」です。当公園の「おきな草」は、「おきな草愛護会」(当時の会長:大森五男氏)のご提供により2,000株を植えて頂きました。その後愛護会の方々のボランティアでの手入れにより、毎年可憐な花を咲かせています。花は天気の良い日中しか開きません。現在では希少となった山野草ですので大切に見守りたいと思います。 ・花の見ごろ: 3月中旬 ~ 5月中旬 ・株数:2,000株【オキナグサ】(キンポウゲ科)日当たりの良い原野や草原に生える多年草。高さは15~20センチ、茎と葉に白い毛が密生しています。暗赤紫色の花に見えるのはガクで下向きに咲きます。綿毛の実が白髪のおじいさんのように見えることから名づけられました。環境省、神奈川県のレッドデータブックでは「絶滅危惧種」に指定されています。ポプラが聳える下の柵内は、「おきな草」エリア吊り橋の下から見上げる休憩所・茶室 「おおすみ山居」谿風(けいふう)の庭ご案内この庭園は水無川左岸の段丘にあって、丹沢の山々が秦野盆地に移るところに位置しています。茶室「おおすみ山居」を付属する休憩所を中心に、優れた自然をゆっくり楽しむための和風の庭園として、平成十年九月十五日開園いたしました。この庭園をご利用される方は、次のことをお守りくださるようお願い申し上げます。 一、ペットなどを連れての入園は御遠慮ください。 一、たばこは、指定の場所以外では吸わないでください。 一、庭園内は、自転車を乗り入れないでください。 一、庭園内での一般の飲食は、御遠慮ください。 一、庭園内の草木や植物を取らないでください。 一、建物、庭園の使用し営業写真の撮影はあらかじめ許可が必要です。パークセンターに ご連絡下さい。◎ 貸切で利用を希望される方は利用日の六ヶ月前から七日前までに御申し込みください。 秦野戸川公園パークセンター開園時間は午前九時から午後四時迄です。尚、ご不明な点が御座いましたら、茶室職員にお尋ねください。おおすみ山居 おしながき 営業時間 午前九時 ~ 午後四時 ラストオーダー 3時30分 茶室 おおすみ山居入口の上には「おおすみ山居」おおすみ山居の玄関先抹茶、珈琲等で食事ができないので今回はスルー林の中に「絶対さわらないで!!」 猛毒きのこ『カエンタケ』『カエンタケ』に触れるだけでも、皮膚がただれるなどの炎症を起こします。また、誤って食べると発熱、悪寒、嘔吐、下痢、腹痛、手足のしびれなどの症状が現れ、脳神経障害により死に至ることもあります。 【お問合せ】 秦野市環境共生課水無川の河辺から、沢の橋がある。吊り橋の上流側にバーベキュー場(有料・要予約)があり、駐車場から荷物を運ぶカートを無料で貸してくれるので荷物の運搬に便利とまた、公園の中央を流れる水無川は丹沢の山から湧き出た水で、透き通ったとてもキレイな水で夏には水遊びが楽しめる高さ35m、長さ267mの風の吊り橋を見上げる橋のたもとから急斜面を登りショートパス戸川公園は紫陽花スポットとしても有名で、5,000株の紫陽花が咲き誇るとのこと秦野ビジターセンターレストハウス出店店舗を応募しているようだがレストハウスの入口に登山情報発信中ここ大倉の標高は 290m です。登山者の皆様へ事故防止のため、登山者カードは必ず記入し、投函しましょう。体力と経験に応じた安全な登山に心がけましょう室内には、新東名高速道路事業 工事進捗状況のお知らせ神奈川県秦野市では現在、新東名高速道路の建設事業が全盛期です。ドローンで撮影した航空写真で、刻一刻と変化する工事現場を定期的にお伝えします!【葛葉川橋】 【秦野サービスエリア】 【秦野インターチェンジ】 上記場所の【完成予想図】、【進捗状況】 10月更新12:27この日は、平日で駐車料金は2時間まで100円と趙安!戸川公園に1時間半滞在したが、四季折々の花が楽しめるビュースポットである。来年の春の開花が楽しみだ — 続く ー
2021.11.19
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ある日、我がスマホに「県立秦野戸川公園のざる菊、コキアが綺麗」と案内があったため、秋空のこの日愛車のリンちゃんも考えたが車で出かけた。公園は我が家から片道27kmに位置する。10月28日(木) 11:00左側は県道706号線(丹沢公園松原町線)。バス停の「大倉」、奥にレストハウスがあり、丹沢登山の受付、休憩室がある神奈川県立秦野戸川公園は、神奈川県西部に位置する広さ36.1haの都市公園です。公園は、表丹沢の山々と秦野盆地に囲まれ、公園の中心には、丹沢の山から湧き出る水無川(みずなしがわ)が流れています。高さ35m、長さ267mの公園のランドマーク「風の吊り橋」でつながれた水無川の両岸には、「子供の広場」「バーベキュー場」「お茶室」 「自然観察の森」「多目的グラウンド」などがあり、美しい丹沢の山並みを背景に一日中楽しめます。県立秦野戸川公園パークセンター・秦野ビジターセンター所在地:神奈川県秦野市堀山下1513パークセンターでは、みなさまに公園を気持ちよく利用していただけるよう公園のご案内をしています。バーベーキュー場や多目的グラウンド、少年野球場等、公園施設の利用当日の受付もこちらです。また、施設内には、県立秦野ビジターセンターが併設されているほか、和室休憩室や多目的会議室、赤ちゃんコーナー、多目的トイレなどがあります。お気軽にお立ち寄りください。開館時間:9:00~16:30 休館日:年末年始(12/29~1/3)入口で、消毒・検温をして入る。県立 秦野ビジターセンター丹沢大山国定公園丹沢山地は南北20km、東西40kmにおよび、神奈川県の面積の約 1/6を占めています。神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1673m)をはじめ標高1500m以上の山が9座あり、多くの登山者に親しまれています。 ・・・身近な大自然・・・低山では、里山で燃料などとして利用してきたクヌギやコナラなどの林、標高800m以上では、ブナやウラジオモミの自生する自然林など、標高により植生の移り変わりがみられます。また、急峻な斜面、沢や岩場、崩壊地など立地環境もさまざまであり、その多様な自然環境から、ツキノワグマやニホンカモシカなどの大型哺乳類も生息しています。動植物や景観などを保全するため、丹沢山地の中心部は丹沢大山国定公園、周辺部は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されています。神奈川県内で使われている水の多くは、丹沢の森林がはぐくんでいます。水源地である丹沢は、県民の生活に欠かせない大切な山といえます。丹沢山系のジオラマアカゲラながーい舌で虫をつかまえます!丹沢に生息する動物いろんな巣を展示戸川公園のランドマークである、高さ35m、長さ267mの「風の吊り橋」県立秦野戸川公園鳥獣保護区区域図この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。鳥獣の保護に、ご協力をお願いします。 神奈川縣ズームアップ公園に建つ、「県立秦野戸川公園 総合案内板」水無川の両岸には、「子供の広場」「バーベキュー場」「お茶室」 「自然観察の森」「多目的グラウンド」などがあり、美しい丹沢の山並みを背景に一日中楽しめる右はペット用の撮影ステージ、右は人間様用高さ35m、長さ267mの「風の吊り橋」県立秦野戸川公園パークセンター。屋根には太陽光パネルが載っている風の吊り橋は県立秦野戸川公園に設置された歩道橋である。センタースパン160mの重厚なその容姿は、来園者の目を引きつける。”風の吊り橋”の命名は、ここ丹沢山麓の水無川上流の扇状部に架かり、丹沢から吹き下ろす風の通り道となっていることから由来している。風の吊り橋の主要構造諸元は、橋長267m、高さ35m、幅4mであり、吊り橋形式の長大人道専用橋であると同時に、景観が重視されたデザインといえる。”渡るも良し、遠目にも下から見上げるも良しの風の吊り橋は、秦野戸川公園のランドマークであり、土木構造物がその本来の機能(歩道橋としての機能)に、観光資源としての魅力と価値が付加されていると橋のたもとに「丹沢賛歌」の歌碑丹沢賛歌作詞:森 一歩、作曲:加藤 正三春春は浅く 山里けむり雪とけて 大地は明ける幸せの 木の芽ふくらみ鳥は歌い 人は目覚める夏は燃えて 山あい深く丹沢の水清く 緑かがやく幸せの 光はてなく川は流れ 人はともに働く秋はひそかに 文化を語りくれないに 心をそめる幸せの みのり豊かに鹿は鳴き 人は相寄る冬の陽に 山はだ白く霧氷咲き 大地をのぞむ幸せの 生命あたため鳥は帰り 人は生きぬくああ 丹沢おおらかに天をつき 道を教える丹沢永遠に讃えん東側のエリアにも、諏訪丸駐車場がある。クライミングウォール、はだの丹沢クライミングパークがある2010年頃までは土日のみ「風の吊橋」がライトアップされていたが、現在では夏の短い期間と12月のみの限定ライトアップとなっています。(2017年の夏は8月26日から5日間、2016年は12月は1ヶ月間連続ライトアップ)園内には四季折々、チューリップ、アジサイ、ヒマワリ、コスモス、サクラが咲く。ヒマワリの見頃は例年8月上旬から中旬頃で、約一万本が咲き「ヒマワリフェア」が開催される手前はアジサイざる菊の後方にサクラ開花は黄色が早いようだ方向を変えてズームアップ広場の周りには、桜並木、ふじ棚コキアは終盤になっていたサクラ越しに風の吊り橋こんな時間に女子高校生がと思いきや、コスプレの女性?東屋では弁当持ちの熟女が自撮りでポーズをとり、手持ちのバッグも持参していたが花壇にはコスモスが満開風に揺られて左右にコキアはこのエリアのみであった11:34このコスモスは11月1日(月)には全て刈り取りなくなったと(来春に咲かせるチューリップの植付け準備のため) — 続く ー
2021.11.18
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スマホに「県立秦野戸川公園のざる菊、コキアが綺麗」と案内があったため、秋空のこの日車で出かけた。スマホで検索すると片道27kmであったので、愛車のリンちゃんも考えたが所在地が、丹沢の裾野であるため車とした。10月28日(木) 9:33カーナビを「県立秦野戸川公園」にセットすると、片道27km、所要時間は約1時間。県道44号線(伊勢原藤沢線)を走り西方向へ。圏央道の高架橋の先に富士山が顔を出していたズームアップ、富士山には積雪寒川町に入る田端二本松交差点を右折、産業道路(県道46号線)を北上。イチョウ並木が色づき始めていたこの先の一之宮小入口交差点を左折して、藤沢平塚線(県道47号線)へ藤沢平塚線(県道47号線)は、大山街道県道44号線の神川橋上から神川橋東側からの富士山もビューポイント年に二度ダイヤモンド富士が撮れると国道129号の田村十字路交差点を横切り、伊勢原藤沢線(県道44号線)を伊勢原方面へ進む平塚市消防本部神田出張所小学生の社会見学か9:55田園風景の先に富士山が綺麗に顔を出していたので、伊勢原藤沢線(県道44号線)から農道へコンバインで刈取り即脱穀したのか、陰干しはしていないようだ送電線の鉄塔、電柱が林立した先に富士山稲刈り前の稲穂、穂が軽そうだが。今年の稲作は、東日本を中心に「平年並み」以上となった産地では、出穂期まで総じて天気に恵まれた。一方、「やや不良」は東海や中国、九州が中心で6月下旬から7月上旬の日照不足や8月上中旬の台風、大雨の影響が出たと伊勢原藤沢線(県道44号線)を進み伊勢原市へ、前方に大山。道路脇に大山街道の道祖神が建っていたが、これは後日愛車のリンちゃんで訪れることに10:10カーナビはこの先の国道246号の市役所前交差点を左折する指示であったが、直進しこの先にある「寿卵」を購入することに。この市役所前交差点はいつも渋滞しかし、寿卵の駐車場が混んでおり諦め、国道246号へ戻る。国道246号を西へ進み、道路脇にキロポスト。国道1号の東海道は「日本橋から」であったが、国道246号は「三宅坂から 57km」と標示。この辺りは、伊勢原市白根上り線の国道246号は渋滞。街路樹はサクラであろうか。国道246号は、東京都千代田区から神奈川県県央地域を経由して、静岡県沼津市に至る一般国道であり、総距離は 125.3km。起点:千代田区三宅坂交差点=国道20号交点、終点:沼津市上石田交差点=国道1号交点、国道414号終点ガソリンの値段は、レギュラーが167円/リットルと高騰国道246号の歴史江戸時代に五街道の一つである東海道が徳川初代将軍家康によって整備されると、ほぼ足柄道に沿う形で新たに矢倉沢往還が整備され、東海道の脇往還として利用されるようになる。東海道同様、江戸と東海道沿道各地を結び、人や物資が往来し発展した。この矢倉沢往還は、現在の国道246号の原形となる経路をたどっている。享保年間になると大山講が盛んになり、江戸から山岳信仰のある大山に詣でるための街道としても賑わった。丹沢山地南端に位置する大山阿夫利神社への参詣のため、多くの庶民から人気を集め利用されるようになり、この頃より大山道(大山街道)とも呼ばれるようになる。その名は、現在も神奈川県内の通称名や同県内および、東京都内の旧道などに残っている。国道246号の新善波隧道(しんぜんば)。この隧道を抜けると伊勢原市から秦野市に入るトンネルを出るとその先には富士山。秦野市内ではいたるところで富士が眺望できるとトンネルの前後は上下線ともに渋滞秦野盆地を見下ろす。秦野といえば「落花生」「たばこ」「名水」が頭に浮かぶ秦野市は、神奈川県の中西部に位置する市で、人口は約16.2万人山並みの左側には金時山。秦野市は神奈川県の行政区域としては湘南に含まれているが、海には面していない。北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野と秦野盆地に挟んでいる大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。また、秦野盆地は県内唯一の盆地である国道246号の堀川入口交差点を右折して県道706号線を山側へ、両側にサクラがあり「はだの桜みち」と呼ばれているはだの桜みちの突き当りの新橋交差点を右折。道路標識に、大倉「県立秦野戸川公園」と右折してすぐに、大倉入口交差点。ここを左折して、秦野戸川公園へ。交差点角に「鮨市場春」があり、リーズナブルな価格だと。所在地:神奈川県秦野市堀山下730県道706号線(丹沢公園松原町線)を上る10:57県道706号線(丹沢公園松原町線)を上り、「県立秦野戸川公園」。大倉駐車場 利用時間:8:00 ~ 21:00 (夜間の駐車はできません)大倉駐車場入口駐車場利用の皆様へ今日は木曜日で平日料金普通車:30分以内 無料、30分~2時間未満 100円、2時間~10時間未満 200円、 10時間以上 410円二輪車:無料少し遠回りをしたが、自宅から約30km、1時間半で到着した。愛車のリンちゃんでの行動範囲であるが、国道246号を走るのは少々危険だが — 続く ー
2021.11.17
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藤沢市の御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。旧藤間家住宅の見学後、更に南下。10月23日(土) 15:46柳島厳島神社(やなぎしまいつくしまじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸13-40住宅街を抜け、国道134号に近いところに鎮座しており、鶴嶺八幡宮が兼務する神職不在の神社で海岸に近い柳島厳島神社の社殿祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。厳島神社は弁天さんと通称されている拝殿の扁額、「嚴嶋大神」境内の南東隅に建つ境内社と石祠、石塔群境内社の鳥居はステンレス製石祠と石塔群境内社、石祠、左側に、山状角柱型の「道祖神」境内社境内社の扁額「○○坊」境内の東側にはトイレもある移設された、石塔群右側は、「川﨑大明神」石碑。表面には、川﨑大明神、白龍大明神、青龍大明神、蛇を彫っている。明治31年にこの蛇が出現して何らかの霊験を現したのだろうか石塔の裏には、「八大龍王」側面には、明治三十一年四月廿七日午前三時ノ出現。八大龍王とは仏法を守る八体の龍王のことで、海上の守護神・漁業の神として漁業関係者に祀られています拝殿疫病退散祈願の幟境内に建つ集会所境内を振り返る15:54集会所の入口茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りは、今後も定期的にアップ予定です。柳島厳島神社の後、日没も近くなったので、湘南大橋東岸へ向かう。16:05湘南大橋東岸西の空には富士山が薄く見えていた江の島をのぞむこの日は土曜日で多くの人が釣りを楽しんでいた相模川に架かる、トラスコ湘南大橋16:30太陽が箱根の山に沈むこの日は波が穏やかであった富士山の裾野には雲があるが頂上はくっきりと赤焼けを期待したが思うほどには焼けず伊豆大島伊豆半島平塚の平塚新港箱根の山には雲が厚い17:06湘南平(高麗山)越しに富士山が見える富士山をズームアップ頂上付近には積雪しているようだこれ以降は、10月29日(金)の夕日撮影。16:35湘南大橋東岸からの夕日今日は波が荒い箱根の山には雲がないズームアップ富士山には雲がかかる日没後の夕焼けを楽しむ 駒ケ岳に陽が沈む富士山をズームアップ16:54日没後、15分経ち湘南大橋東岸から引き上げることに17:19サイクリングロードを東に走り、茅ヶ崎漁港を通り抜け茅ヶ崎ヘッドランドへ。砂浜に降り立ち、三脚をセットして撮影サザンビーチをズームアップ砂浜には夜釣りを楽しむ人も金時山から富士山へと雲がつながるサザンビーチをズームアップ17:35日没後約1時間を過ぎ帰宅することに END
2021.11.16
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藤沢市の御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。10月23日(土) 15:00旧藤間家住宅所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目6-30スマホの案内で柳島八幡宮の南側に位置する、旧藤間家の北側の駐車場へたどり着く。運よくこの日は「開館中」お知らせ民俗資料館旧藤間家住宅の開館時間変更について令和3年4月2日より、当分の間、本館の開館時間を下記のとおり変更させていただきます。ご理解、ご協力をお願い申し上げます。なお、開館日は今までどおり金曜日と土曜日(令和3年度は 12月31日と1月1日は休館)です。 開館時間(臨時)・・ 9:30 ~ 15:30 茅ヶ崎市教育委員会市指定史跡である「近世商家屋敷跡」および国の登録有形文化財である「藤間家住宅主屋」を含む屋敷の敷地を保存し、平成30年4月13日から敷地のみを公開している。入口には、いろんな説明が掲示されていた茅ヶ崎市指定史跡 藤間家(近世商家)屋敷跡藤間家は代々柳島村の名主を勤めた家柄であり、近世(江戸時代)では廻船業を営む商家として、所有する四百石船を駆使し、江戸を主体に広範な商いを行いました。敷地の南縁と西縁に現存する石垣をはじめ、新たに発見された土蔵跡などの近世遺構が敷地内にそのまま包含されていることが発掘調査で判明しました。また幕末の文人名主として高く評価され「かながわの百人」にも選ばれた藤間柳庵翁(善五郎)をはじめとする代々の御当主が残した数多くの民俗資料や書画などからも、市内では他にない近世商家の歴史状況を窺うことができる貴重な遺跡です。鎌倉時代の二階堂氏文書(1271年)に初めて「柳島」の地名が見えるものの、これまでほとんど知られていなかった海岸地域の歴史を明らかにする糸口にもなる遺跡であることから、近世商家の痕跡を埋蔵している当屋敷地を保護・調査し後世に伝えていくために、茅ヶ崎市は平成二十五年三月、史跡として文化財指定(第37号)しました。 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 国登録有形文化財「藤間家住宅主屋」旧藤間家の主屋は昭和7年の建築で、建物は敷地の中央に建ち東面を洋風に設えています。洋間を玄関南脇のみに配していますが、北脇の和室を含む東側立面全体を下見板張りの洋風意匠で統一させています。その他は、簓子(ささらこ)下見板張りとして和・洋の意匠を対比的に採用しています。内部は中廊下の前後に居室を並べています。日本の建築に洋風文化を取り込むなど大正・昭和を代表する建築家でもあった西村伊作の作風の一端を示す近代住宅です。建築当初の姿をほぼそのまま残す数少ない建物であることから、平成27年3月26日に国の登録有形文化財に登録されました。民俗資料館 旧藤間家住宅開館日 金曜日と土曜日(12月27日 ~ 1月4日は休館)時 間 9:30~15:30(令和3年度用時間)災害時で臨時休館する場合もあります。見 学 庭の自然および縁側から主屋をご覧ください(室内は一般公開していません) (主屋の玄関前にパンフレット等を置いています)北側の駐車場から邸内へ藤間家主屋(玄関を中心にした東面)昭和7年の建築で、建物は敷地の中央に東面します。洋間を玄関南脇のみに配しますが、北脇の和室を含む東立面全体を下見板張の洋風意匠で統一されています。その他は、簓子下見板張りとして和洋の意匠を対比的に採用しています。平面は中廊下の前後に居室を並べています。設計者西村伊作の作風の一端を示す近代住宅です。なお、藤間家は江戸中期から名主を務めた豪農で、廻船業も手がけました。建築年代は棟札から分かっています。設計は西村建築株式会社、棟梁は石井兼吉が務めました。建築とともに建設時の図面や書類が残っています。登録有形文化財に指定されており、茅ヶ崎市では藤間家主屋は2番目だと。因みに、茅ヶ崎市では1番目 茅ヶ崎館、3番目 南湖院、4番目 氷室家の4つの建物。登録有形文化財 第14-0192号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁玄関先から中を望む、敷地のみ公開で、建築物の中には立ち入りできないのが残念主屋の玄関先にある「枯れたキャラボク」地域の名木「藤間家のキャラボク」を偲んでキャラボクは、もともと山形県の鳥海山から鳥取県の大山にかけての日本側の山々に点々と自然分布がみとめられるといわれていますが、横に広がって小枝を多数出す特徴から庭園樹として用いられることが多い樹木です。藤間家のキャラボクは、樹高は5m、幹は7本に分かれ、枝は地面を這うように10m四方に広がり、緑豊かな見事な樹容を見せていました。海岸に近く暖かい土地にこれほど成長した例が少ないことから、昭和59年(1984年)に「かながわの名木100選」に選ばれ、61年には市の天然記念物に指定されました。選定当時でも樹齢は100年を越すものといわれ、名木というにふさわしい趣を感じさせていました。(「『かながわの名木100選』1987年神奈川県教育委員会」より一部抜粋、写真も同紙より転載)。そうした、人々に親しまれた古木ですが、近年、環境の変化により樹勢が衰えはじめ、根回りの養生などの努力も追いつかず、残念ながら枯死するにいたりました。そして平成28年(2016年)に市の天然記念物指定を解除することになりました。藤間家では、現状のままで残されるお考えであることから、ここに選定当時の緑豊かな樹姿をとどめ、これからも市内散策のスポットとして活用させていただきたいと考えています。 平成29年(2017年)3月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 史跡藤間家 近世土蔵跡の石組み史跡藤間家 近世土蔵跡の発見〇 確認調査への経緯 庭木の手入れをしているときに、地中から石垣のような石の並びが見つかったというご 連絡をいただいたことから、市教育委員会(社会教育課)が現地確認を行い、改めて正式 な確認調査を実施したものです。〇 調査期間 平成23年7月12日 ~ 7月15日〇 調査区の設定と方法 五当主が発見した4個の石垣部分を精査し、明らかに地中に遺構が広がって存在すること を確認しました。その際にご当主が示された藤間家に伝わる古文書(家相図)に見える土蔵 跡の可能性が考えられました。これをTP1(テストピット1)として、想定される建物の 四隅を図のとおりTP4まで調査区を設定し、手掘りにより発掘調査を行いました。〇 調査の概要 今回の四か所の調査では、予想していた建物基礎の四隅が明瞭に現れ、南北約4.8m、東 西約6.7mの規模に石組みを施した何らかの建物の基礎の存在が明らかになりました。 ・・・・・後略〇 調査の成果 今回発見された基礎周りを石組みにしたこの建物跡は、藤間家に伝えられている明治五年 の家相図に記された土蔵に合致することが考えられました。家相図では旧宅の北側端に「 二間三間三階建」の「土蔵」が組み込まれた配置となっており、今回の調査結果は、その 家相図に記された当時の屋敷配置を証明するとともに、石組みの基礎は江戸時代では極め て珍しい三階建て建物ゆえに強固な基礎固めをおこなっていたことを物語っているといえ ます。〇 調査から見えてきた当時の景観 江戸時代の終り頃に二間三間三階建ての白壁の土蔵を抱えた大きな廻船問屋の職場兼住宅 がたたずんでいた景観が浮かび上がってきます。 現在、藤間家の西側及び南側に存在している石垣は、・・・・・後略 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (平成二十六年三月)土蔵跡2間3間3階建て土蔵の土台となった石垣が発掘調査で明らかになりました。本来は3段組の石垣の土台のうえに立つ3階建の土蔵だったと考えられます。3階部分は「柳庵」という名の書斎でもあり、物見やぐら、火の見やぐらのような役割をもっていた可能性があります。途中から、市の係員の方に説明願う家訓碑確認が困難だが家訓柳庵居士歳五十有七為令誦子孫書於石上 身代は預りものと こゝろえて 冨やすより先 へらさぬかよし旹安政四丁巳稔夏六月上浣之吉庭先の石碑は、「藤間柳庵 生誕・終焉の地」と主屋玄関先の北側から主屋北側の部屋に掲示、「藤間家が所有した400石船」藤間家は江戸時代以前から帆船を所有して物資を輸送する回船問屋であったと考えられます。航海の安全を願った掛け軸に描かれた「観音丸」と「不動丸」の絵です。船窓に人の姿が見え、舳先には4本爪の錨が掛けられています。観音丸(かんのんまる)この絵図の船員の身長を1.6mとすると、船の大きさは長さ21m強、帆の高さは15m程度であったことが考えられます。船体の後半部には船窓(開ノ口)から覗く人の姿も見られます。400石船であれば大きさでは112立米、重さでは60トンの荷物を運ぶことが出来たと思われます。江戸時代後半。不動丸(ふどうまる)観音丸の弟船として嘉永2年(1849)に建造されました。柳島湊を出てまもなくペリーの黒船群に遭遇し湊へ逃げ帰ったことが柳庵により記されています(太平年表録)。藤間柳庵が所有した400石船江戸時代に名主をつとめた藤間家は、幕末の柳庵の時代には「観音丸」「不動丸」という帆船を所有して江戸や伊豆などと行き来して回船商を営んでいました。回船商とは船を使った搬送業であり、その大きさは絵の中の船員とみられる人から知ることができますが、400石積ともいわれ、現在では 112立米(縦・横・高さ1mの箱112個)の大きさの荷を運んでいたと思われます。年貢や相模川上流から集積した木材などを江戸に送り、江戸の物資をいち早く相模地域にもたらしました。馬入川(相模川)の河口を利用した、柳島湊を拠点にして、東西の物資や文化が入り交じるにぎやかな光景が思い浮かばれます。海濵眺望図江戸時代の終わり頃の馬入川河口明治15年作成の地図(陸軍による迅速図)相模川(馬入川)の当時の河口の様子がわかります。江戸時代の柳島湊は、ゆるやかな流れのある入江を利用していました藤間柳庵「太平年表録」「太平年表録」は、ペリーが来航する嘉永六年(1853)に始まって、徳川幕府が崩壊して間もない明治五年(1872)の間に生起した政治、外交、社会の出来事について、柳庵が入手した情報資料、あるいは柳庵自身が執筆した文章を、年代順に書き記したものである。その内容は、①ペリー来航の情報を筆頭とする対外関係の記事、②国内各地の社会や政治の動き伝える外部からの情報、③社会の動きともに・・・後略● 各編の主な内容 一編 ペリーが来日する嘉永六年から、翌年条約調印を求めてペリーが・・・・。 二編 嘉永七年にペリーが幕府の返答を求めて再度来日した記事から、・・・・。 三編 安政三年十二月のハリス応接記録の続きに始まって、文久元年・・・・・。 四編 文久元年十二月に和宮が江戸へ下る情報から、元治元年に天狗党・・・・。係員の方の説明で南側へまわりこみ。洋と和の調和がみえる南面庭から住宅を観察 ・・みどころ・・〇 従来の和の住宅に洋室(応接間)と玄関(ホール)が増改築されている。〇 そのほかは和の造りとなっており、八畳と六畳間には1間幅の縁側があり、屋根が幅の広い ヒサシまで一体的に作られている。〇 座敷は高い天井と部屋の仕切り壁に欄間(らんま)を施している。〇 八畳間の東壁には床の間と違い棚が設えられている。〇 八畳間の北壁上段には柳庵の著作物、中段には書の師であった秦星池(はたせいち)の篆書(て んしょ)の額、右側には柳庵作成の竹の聯(れん)4点。〇 六畳間には絵文字版画とその版木(左)を展示しています。村人思いの柳庵が天保の飢饉や安 政の大地震で不安がる村人のために、江戸で流行していた「宝尽くし」のデザインで文字化 し、自ら作成して配布しました。庭先から居間を望む珍しいテーブルの上に火鉢六畳間には絵文字版画、左側にその版木絵文字の意味は、「家内安全火乃用心」玄関への縁側左上にある2点は広重の作「小倉擬 百人一首」別の部屋には多くの浮世絵版画を陳列。左側壁には、「階段箪笥」階段箪笥(たんす)据え置き型の階段であり、下部は引き出しや戸棚に仕上げられています。江戸時代に建てられた3階建の土蔵に設置されていた可能性があります。〇 浮世絵版画 この家に保管されていた439枚221点(3枚組のものを1点として)の一部です。江戸時代末 (1840~1850前後)に活躍した歌川広重や豊国をはじめとする歌川一門の作品です。 柳庵のコレクション。 ● 縁側の右上にある2点は広重の作「小倉擬 百人一首」 ● 縁側左上の右側は「江の島遠見」左側は「大磯(馬入川渡し)」 ● 9畳間奥の3枚組4点 (左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」 1846~1849年 (左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」 1862年 (右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」 1844~46年 (右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」 1862年 ● 9畳間左 四代目歌川豊国「里見八犬傳狗草子之内芳流閣上圖」 1854年これらの絵はレプリカで本物は市の美術館で保存、柳庵は約400枚の絵を購入していると 縁側左上の左側は「大磯(馬入川渡し)」、右側は「江の島遠見」右側の「江の島遠見」左側の「大磯(馬入川渡し)」9畳間奥の3枚組4点(左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」(左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」(右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」(右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」西側にある倉庫の中には古きものが整理されていた。懐かしい練炭、炭団もハイカラな乳母車農機具も整理されナンバーが一番左側は大正時代に増築したものだと南側の庭に赤松噴上井(ふきあげい)(掘抜井戸)噴上井(ふきあげい)(掘抜井戸)と藤間温泉江戸時代の終わり頃、柳島村の名主を務めていた藤間柳庵(善五郎)は、幼い頃から書道や学問に親しみ豊富な知識を持つ人でした。その中で、地中深くにある水脈に達すればその水圧で水が吹き上がることを知っていました。掘り抜いた木の筒を継ぎ足しながら掘り下げる方法で一年七ヶ月かけて深さ二十間(約36m)に達すると人の身長をはるかに超える高さまで水が噴上がりました。明治時代初めに描かれた図には、この井戸から南側の敷地端に「水車、槝場(粉挽き場)」があることから、いかに水量があったかを想像することができます。柳庵翁は、さらに有り余る水を有効利用しようと屋敷の南東端に湯屋をつくり村人に風呂の提供をはじめました。後の藤間温泉のはじまりです。その後近くでも同じ掘抜井戸で大南温泉(山口屋)が誕生し、年貢事務を行う幕府の役人の宿舎にも利用されました。柳庵翁は所有する四百石船を使い、熱海や湯河原の温泉水を買い付けて柳島に運び、柳島の井戸水に混ぜて良質を高めていました。また明治時代中頃には藤間家の東方で藪下温泉も開設し、村の人だけではなく海遊びや川遊びなどの行楽者たちの憩いの場ともなっていました。しかし大正十二年の関東大震災の影響により水量が減少するようになり、また第二次世界大戦の開始などにより昭和二十年前後には廃業していったようです。 (平成二年 柳島自治会・五三会編「柳島うつりかわり」より)ニッケイ(肉桂)ニッケイは、クスノキ科ニッケイ属の1種の常緑高木である。ニッキ、ニッケとも呼ばれる。かつては、中国南部・台湾原産とされていたが、自生種の存在も確認されている。日本へは享保年間 に中国から輸入され、盛んに栽培された一月頃には「カンザクラ」が綺麗に咲くと15:38敷地の南側のこちらが表門。民俗資料館 旧藤間家住宅 茅ヶ崎市教育委員会 ー 続く ー
2021.11.15
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御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎の萩園経由、茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。10月23日(土) 14:00昼時も過ぎ、かつやで久しぶりにカツ丼を食べることに国道1号沿いに建つ、「かつや 今宿店」所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿1667-1カツ丼+トン汁を食べる。次回の割引券 100円を頂く昼食後、次の目的地「柳島八幡宮」をスマホで検索。かつや前の国道1号を東へ進み、直ぐにある小出川に架かる下町屋橋を渡り右折すると、旧相模川橋脚跡がある。14:35史跡 旧相模川橋脚跡天然記念物 旧相模川橋脚 所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目4-2地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、平成24年度(2012)、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、平成19年2月6日に追加指定を受けています耕地整備記念碑 神奈川縣知縣 松村光磨書碑の裏には、 大正十四年十二月二日着工 昭和十五年十一月十日竣工 高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合当時の地形図橋脚に用いられている橋杭はいずれもヒノキ材で、直径は48cm〜69cmという太さで、現存する長さで最大のものは3m65cmでした。確認されている橋杭は10本で、実際には3m65cm以上の高さがあったと推測されています。現在の相模川の流路は、旧相模川橋脚の西側1.5kmですが、鎌倉時代には相模川橋脚の位置を流れていたのか、あるいは支流がここを流れていたと考えられます。『吾妻鏡』によれば、建久9年(1198年)12月27日、源頼朝はこの橋の竣工式に出席した帰りに、馬から落ちてしまい、それがきっかけで体調を崩し、翌年1月13日に死去したとされています。JR東海道本線松尾踏切60K675M 茅ヶ崎市下町屋1-1茅ヶ崎駅、東京方面いつも鉄撮りが待機しているが今日は不在スマホの案内で迷いながら、住宅街を進み「柳島八幡宮」へ。前方に社の杜が見えてくる14:47柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島2丁目3-10石鳥居の扁額「八幡宮」柳島八幡宮入口に建つ、境内図柳島八幡宮の外から、「折れた鳥居」左側の石柱には「文政五年」と刻まれている。文政五年は、今から200年前の1822年である境内に建つ、柳島自治会館八幡宮復興記念碑と手水舎手水舎は何となく違和感を感じさせる、柱はステンレス製のパイプ。屋根は銅板葺で柱だけを修復したのか社殿と鐘楼鐘楼の前に並ぶ、道祖神など御神木の「椎(しい)」と、折れた鳥居折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十二年九月一日(1923年)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数161戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは3戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります。折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内では数少ない貴重なものの一つです。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮御神木 椎(しい)鳥居の左奥に建つ、「藤間柳庵の碑」藤間柳庵とは?と思いながら、碑の裏には、昭和五十八年十一月吉日建之 柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店柳島八幡宮入口に聳える御神木正面に拝殿、左に神輿殿神輿殿前のイチョウの樹は枝を切り落とされている拝殿、一対の狛犬七五三の幟が立つ拝殿の扁額、「八幡宮」拝殿の彫り物柳島八幡宮現在の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天王)である。● 文政五年(1822) 鳥居が造られる。(鳥居の年銘による)● 天保十二年(1841年) 『新編相模国風土記稿』に「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ) 鎮守なり」とある。 (十羅刹女社とは、鬼子母神と共に法華経の信仰者を擁護する十人の鬼神女のこと)● 嘉永元年(1848年) 柳島の鎮守の社殿建築を、鎌倉郡村岡郷高谷村(現在の藤沢市内)の大工文蔵が総工費29両 で受け、同年十一月十五日に竣工する。(藤間家資料による)● 大正十二年(1923年)九月一日 関東大震災のため鳥居を含め全壊する。● 大正十五年(1926年) 当時の区長の片野荘太郎は神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決め る。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡愛川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿 に竣工する。● 昭和二十年(1945年)七月十六日 太平洋戦争の平塚空襲の際に、全焼する。● 昭和二十四年(1949年) 千葉県行徳(現在の市川市内)の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調する。● 昭和三十二年(1957年)十一月二十三日 氏子をはじめ多くの方々から寄付を得て、社殿を建立する。 大工は石井幸三郎・府川篤、木彫師は江口裕康。● 昭和五十年(1975年)五月四日 本殿を再建する。大工は石井幸三郎・府川篤、鳶職は山口道雄。現在に至る。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮境内の裏側に建つ、庚申塔など庚申塔庚申塔は、庚申信仰をともにする人たちによって建てられた石仏の一つです。昔、庚申の日の夜は、人々は集まって眠らないで過ごしました。この夜に眠ると悪いことがあると信じられていたのです。このような信仰を持つ人々は、その後、自分たちの死後の安楽を願って庚申塔を建てるようになりました。庚申塔は現在、市内に百基近く見つかっています。ここには三基ありますが、一番大きな塔は、江戸時代初期の万治三年(1660年)に作られたもので、市内では八番目に古く重要なものです。どれにも「見ざる(猿)」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が彫ってあります。また、その一つには六本の腕を持った青面金剛も見られます。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮右側は、江戸時代初期の万治三年(1660年)に作られたもので、市内では八番目に古い左の石碑には、「道了大菩薩」と境内の北側から、本殿、拝殿現在の本殿は三代目で、養生されている本殿の西側に「子宝の木」説明板等があったが古い銘板には、この金精さまは縁結び 子孫繁栄 長生不老五穀豊穣 町内安全を祈願して建立されたものです。 平成二十三年 元旦 柳島八幡宮本殿、拝殿を神輿殿横から14:57鳥居横に聳える御神木の椎。次に訪れるのは、「藤間柳庵の碑」に関連する「旧藤間家住宅」 ー 続く ー
2021.11.14
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御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、まだ時間が早いので小出川を南下して茅ヶ崎市の萩園地区へざる菊の開花状況を確認に。10月23日(土) 12:44子聖神社から南下、農耕地脇に石塔、左側面には「大正七年・・・・・」と文化財ハイキングコース案内板御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森愛車のリンちゃんで全てを巡った12:53藤沢市から寒川町に入り、住宅街の道路脇に咲くコスモス立ち止まりしばしコスモス撮影に青空に映えるコスモス13:07小出川に架かる寺尾橋。橋のたもとに工事看板。川に溜まった土砂を取り除いています工事期間:令和4年2月28日まで 時間帯:8:00 ~ 17:00週休2日制モデル工事に取り組んでいます この工事は、建設産業の労働環境を改善するため、週休2日の確保に取り組む工事です。以下7枚の写真は後日通りがかった時撮影したものです。西方貝塚(にしかたかいづか)所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾この場所は、大岡越前通りの小出川近くにある西方貝塚、下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落西方貝塚貝塚の時代:縄文時代前期(6 ~ 7000年前頃)立 地:相模野台地南西端の平坦部北側 海抜約12m所 在 地:茅ヶ崎市下寺尾601付近貝 の 種 類:ヤマトシジミ(主体)、チョウセンハマグリ、カキ、サザエなど伴 出 遺 物:縄文土器(関山式、黒浜式を主に上坊式を含む) 石器(石鏃、打製石斧、削器など)この時期は、地球温暖化による海面上昇で、眼下まで海が寄せていました。小出川、駒寄川の河口には海水と淡水が混ざり合うラグーン(潟湖)が形成されてヤマトシジミが生息していました。縄文時代前期頃の人々の活動やその頃の自然環境を知ることができる貴重な遺跡です。 平成28年3月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落下寺尾官衙遺跡群は、相模野台地南西端のこの地に7世紀終わり頃に営まれた高座郡衙(郡の役所)と南側の低位部に存在した古代寺院(七堂伽藍跡)、及び小出川に築かれた津(船着き場)、河川を利用した祭祀場などからなる古代の公的機関を包括しています。この辺りには遺跡が多く、某高校の敷地内にも遺跡があり新築工事が保留になっている弥生時代環濠集落は、空堀(巾3m、深さ2m程度)で囲まれたムラで、関東では最大級の規模といわれています(弥生時代中期:2000年前)小出川に架かる寺尾橋東側相模線の電車をズームアップ小出川の河川敷を見下ろすとスズメの集団水浴びをしているのかJR相模線左は、茅ヶ崎駅方向相模線の列車は年内に新しくなる香川駅、寒川駅の間13:35茅ヶ崎小出川桜祭り会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園127番 付近小出川沿いに、3~4アール程度の花壇にコキアとざる菊を植えているコキアの色づきはいまいちで、ざる菊の開花には早かったようだコキアの先には富士山ざる菊は黄色が最初に咲くようだコキアは風にあおられて赤はこれから見頃にこの辺りの小出川沿いには河津桜を植えており春先には桜祭り。ここを管理している会長さんから以前会員に誘われたがコキアの蕾会員になると定期的に雑草の除去に応援文化の日辺りには満開になるのかまだ開花前のざる菊、この色は?雑草もあり管理が大変ダリアが満開に小出川の土手に咲く、オシロイバナオシロイバナ(白粉花)は種子の中から「おしろい」に似た白い粉が出るのでつけられた名前です。種子は1花に1つでき、割ると胚乳が粉上に出てくるので子どもたちがこの粉をおしろいのように顔に塗って遊んだことからついた名前です。別名夕化粧とも呼ばれます。オシロイバナの花びらに見える部分はがくで、赤、ピンク、白、黄色の単色の他に絞り咲きや染め分けがあり、1枝の枝から異なった色の花が咲きます。オシロイバナは草丈70cmほど、株張りが50cmを超える大型の草姿で、花は夏から秋の午後4時ごろから咲くため英名では開花時刻を示すfour-o’clockと呼ばれています。夕方から翌朝10時ごろまで咲いています。隣接して、ヒマワリも植え付けられていた一部咲いていた11月初旬ごろには見頃か13:50一週間後の11月に再度訪問したい ー 続く ー
2021.11.13
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御所見南部・遠藤文化財を巡りで、「盛岩寺」から「子聖神社」へ。10月23日(土) 12:12盛岩寺から南方向へ進む。道路脇の畑の隅に小さな祠信仰心のある方が建てられたのか次の目的地は、「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」大庭獺郷線の打戻堂の前交差点。この交差点を右方向へ進む交差点の片隅に石塔が四基並ぶ。剣の如き形の二十三夜塔には、「右一之宮 左ふじさわ」と刻まれた道標。右は、「猿田彦大神」で、文化十癸酉年十一月、1813年の造立。交差点の先に、うなぎ・ふぐ専門店の「一幸」所在地:神奈川県藤沢市打戻686昼時でいい香りが漂っていた、いつか食べに来たいものだが打戻堂の前交差点から大庭獺郷線を外れ南方向へ進む。この辺りには豚舎があり風下でいい香りが漂っていたが、子供たちは慣れているのかバースプレイス「みのり台」平安の昔、このあたりでょ養蚕をやって暮らす人々が住んでいて、宇都母知神社をまつったといわれています。「打戻」という地名はこの「宇都母知」がなまったものといわれ、以来今日までこのあたりの集落は豊かな自然に囲まれた環境を生かして江戸時代には一番高い石高を収める恵まれた農村でした。ゆるやかな台地、穀物の実る窪地、そしてカワウソが遊んでいたという小川など、この辺は民話のふるさとのようであったと思われます。春は勢い良く咲く花々、秋は豊かな実りを満喫できる新しい住まいを明るく軽やかにイメージして「みのり台」と名付けました。大庭獺郷線へ戻り西へ進み、「獺郷(おそごう)公民館前」交差点12:25獺郷子聖神社(おそごうねのひじりじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市獺郷799獺郷子聖神社は獺郷地区の鎮守で、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。出雲神話の最大のヒーロー、大国主の別名石柱には赤く刻まれた、『獺郷 子聖神社』裏面には、子聖神社旌旗之銘 福・・・・・・・・・ 特・・・・・・・・・ 昭和六十三年二月吉日建之 氏子中 宮司 石腰茂謹書石畳の参道が北方向へ境内の道路に面して建つ、風化した石塔獺郷(オソゴウ)昔、各所に沼地があり獺(かわうそ)が多く生息していたことから獺郷と名付けられたという。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また、小字大道の畑のくぼ地にある水田はその沼地の名残りともいわれている。 藤沢市境内に入り、参道から鳥居、社殿へと、左側に獺郷公民館。右手に神楽殿、神輿殿鳥居の扁額、「子聖神社」手水舎と獺郷公民館境内右側には、社殿、神輿殿、神楽殿正面に、狛犬、社殿拝殿の扁額、「子聖宮」社殿の左側に「子聖神社の由緒」碑。祭 神 大己貴命(おおなむちのみこと)境内地 獺郷雷(いかづち)七九九番地三 二五二平方米明治六年十二月村社列格昭和六年三月指定村社旧神社は獺郷中谷一五五ニ番地にあり当時は境内の樹木うっそうとして繁茂し昼尚暗き様相を呈し見るから数百年を経たる神域であったと伝えられる。明治元年九月大暴風雨により神殿倒壊のため現在地に遷座、同時に八幡社、大六天社、山王社の下宮三社を合祀、社命を子聖神社となった。・・・・・・因みに享保十八年(1733)前社の名を誌した棟札が残存している。大正十二年関東大震災のため社殿が倒壊したるも氏子の協力により復興尚、其の後、再度、屋根の修復等を行って今日に至る。又鐘楼には、文政六年鋳造の古鐘が、第二次世界大戦の際、供出して長く空楼となっていた。このため久しく鐘声を聞くことのなかった氏子は寂寥を感じこゝに梵鐘鋳造の機運高まり再三協議の結果、後に昭和五十六年新規鐘楼を鋳造した以来氏子は氣々と鳴り響く鐘声を聞いて心に安詳を得、朝夕神徳に禅えまつる。 行 事 一、元旦祭(交通安全) 一月一日 一、建国記念日 二月十一日 一、例 祭 九月十五日 一、七五三祝 十一月吉日 一、勤労感謝の日 十一月二十三日 平成四年十一月吉日建立 氏子中拝殿の左側絵馬の由来祈願の際や祈願成就のお礼の証として、上部が山形の木製額を「絵馬」といい、願い事やお礼を書いて奉納します。元々、馬は神様の乗り物という神聖かつ大事な役割をあわせ持つものとして扱われ、大願の祈願の際は生きた馬を奉納する習わしがありました。以後、生きた馬の代わりに土偶の馬や木製の馬が使用され、いつしか馬を描いた絵馬に変化してきました。昨今では描かれる図案も神社特有のものが多く、当神社ではその年の十二支を描いた絵馬を、新年の元旦祭において神殿で祈祷をおこない、提供をしています。祈願する内容を書き込んで奉納して下さい。 子聖神社社殿左側に、鐘楼。境内の梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと鐘楼の南側に、獺郷公民館この辺りの農家は温室栽培で社殿右側には神輿殿と境内社道祖神やお地蔵を祀った小さな境内社社の中に青面金剛庚申塔が2体石塔が並ぶ、左は、獺郷雷馬場町739-1より移設された道祖神 道祖神の裏には、昭和十二年五月建之 西北馬場講中他の石塔には、湯殿 月山 羽黒 社殿の裏側から境内の北側は、「第25号 緑の広場」 公園課 御所見市民センター拝殿前から南方向の鳥居境内の南東側に建つ石塔12:41獺郷子聖神社の西側奥に建つ「悠久の大地」碑悠久の大地 藤沢市長 葉山 峻土地改良事業の記念誌獺郷は、ふるく「皇国地誌」によると、かわうそが多く生息していたことからついた地名といわれ、北から南へ浅い谷戸が続き、この地域の降水すべてが当地に集まりドブッ田となり、生産性が低く、農民を長い間苦しめ農業の伸展を妨げていた。1977年(昭和52年)この状況を解消すべく、「子聖神社」を囲む獺郷字六本松、雷、大向、中谷、中村、三清、茅ヶ崎市芹沢字広町の田畑山林他 三十二・一ヘクタールについて、土地改良総合整備事業を実施するに及び、権利者129名は治水排水路の整備と、生産基盤の整備を図るため、度重なる協議を経て土地改良区を設立させた。以来十七年間、幾多の困難を乗り越え総事業費四億五千万円を費やし、農耕地を集団化、整然と区画、すべて幅四メートル以上の道路に接する良好な農耕地に生まれ変わらせ、農道整備事業により地区内南北中央を貫く道路を中心に、八路線二千百メートルについて完全舗装を完成させた。1992年(平成4年)には、農用地集団化優良地区として関東農政局賞を受けた。この土地改良事業は、今後当地の農業経営の安定と発展に寄与するところ限りないものがある。農業は人類の生存と生命を育むものであり、農業の果たす役割が大きく見直され期待が寄せられている。本土地改良事業の完成にあたり、この概要を記して後世に伝えようとするものである。 1994年(平成6年) 3月吉日建立 藤沢市獺郷土地改良区弁天池跡碑碑には、弁天池跡碑 遥か昔より ここに池あり 水清く湧き出枯れることなし 田を潤し皆これを 弁天池と呼び親しんだ 平成六年三月吉日 土地改良区建立 — 続く ー
2021.11.12
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御所見南部・遠藤文化財を巡りで、「少年の森」から南下、「盛岩寺」へ。10月23日(土) 11:50曹洞宗盛岩寺(せいがんじ)所在地:神奈川県藤沢市打戻1119堂の前交差点の北側にある盛岩寺道路脇に建つ石柱門前に立つ案内板「盛岩寺由緒」高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 道路から参道を進み、左側に駐車場がある。参道脇は桜並木、またツツジも綺麗に刈られていた駐車場に建つ案内板、心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺もう一つの駐車場に建つ案内板、高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う 當山開創400年を迎えた古寺らしい風格の山門。山門前の石柱には『高照山 盛岩寺』と刻まれている山門の扁額、「高照山」山門から本堂を望む山門を入ると貼り紙、邸園文化祭行事公開月釜にお越しの方は、左側の建物薬師堂にお進み下さい。山門を入ると右側に、高照観世音菩薩高照観世音菩薩縁起高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内にある稲荷社 山門をくぐると、左手に立派な六地蔵が鎮座当山は高座春は新緑と百花につつまれ、夏が来れば緑蔭に涼を求め蝉時雨を聞き、秋の夕暮れ竹林の風そよぎ虫のすだく音を聞き、そして冬、雪化粧の霊峰富士と阿夫利の山々を遠望する。静寂なひととき・・・風情に満ちた心安らぐ禅寺ですと本堂右前に可愛い、お掃除小像尊(洗心童子)そうじ小僧が箒を持って立ち境内を掃き清めていた石碑には、「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人の心も 庭の落葉も」 そうじ小僧尊珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪本 堂本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ 21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれている本堂の扁額、「○照○」本堂右側に建つ、「高照閣」高照閣の扁額、「高照閣」本堂前から山門を振り返る本堂から南方向の薬師堂本堂の裏側に入り振り返るこの日は天気がよく、本堂裏から富士山が眺望できた昭和文化館現在薬師堂として使用し、檀信徒会館を兼ねている。構造・形式・建設の年代 木造平屋建鋼板葺、建築面積138㎡ 大正13年建築、昭和13年移築、平成24年移築 大正13 年(1924)に「越前屋号合名会社雨谷商店」の店舗 兼住居として、境川にかかる大正橋の近 くに建築された。雨谷商店の前身である「越前や 與左衛門」は、江戸時代中期から清浄光 寺(遊行寺)の惣門前で薬品・砂糖などを扱っていた卸商で大正8年(1919)に店舗兼家屋を新 たに建て直したが、大正12年(1923)関東大地震によって倒壊。翌年に場所を大正橋の近く に移転し新築した。新築に際し、震災で倒壊した家屋の部材も再利用された。 雨谷商店は昭和恐慌の影響で閉店し、建物は商店の関係者が購入して昭和13年(1938)に打 戻へ移築、住居として使われた。その後、盛岩寺が譲り受け 平成24年(2012)に境内へ移築 された。 大商店の店舗兼住居であったため、規模の大きさ、硝子や 貴重な木材を惜しみな く使っている点など通常の民家には見られない特色が多くある。出桁や庇の太い桁など、震 災復興期らしい重厚さを見せる詩吟や写経、茶会など、打戻地区の文化コミュニティの場となっている。時は流れ2010年老朽化により重機で取り壊すことを知った盛岩寺の中津川雅久住職が「歴史的価値のある建物を壊してしまうのは勿体ない」と私産を投じて、宮大工や建具職人らによって移築したと昭和文化館は、登録有形文化財 第14-0227号この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁南側の墓地へ廻り、「慈母観音」慈母観音石柱には、「真言 おん あろりきや そわか」古い墓石が集められていた歴代住職の墓地當寺 開山歴住 大和尚 宝塔後方に大山墓地から本堂を望む墓地から山門へ戻る。山門を入り右側に、「高照観世音菩薩」が立つ12:08山門から本殿を望み、次の「子聖神社」へ ー 続く ー
2021.11.11
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御所見南部・遠藤文化財を巡りで、妙福寺から北へ向かい「少年の森」へ。10月23日(土) 11:25少年の森への途中、道路脇に、「道祖神」この辺りは、藤沢市打戻1680道祖神は掘りおこされたのか座が大きい右側には「享保三年九月 打戻村」、同行八人と次の目的地は、「少年の森」道路の先右側に「藤沢市 少年の森」県道から住宅街に入り「少年の森」少年の森手前に、ざる菊黄色が先に咲くようだコキアは既に終盤に藤沢市 少年の森所在地:神奈川県藤沢市打戻2345昭和55年(1980)に国際児童記念事業とて建設された、県内で最初の青少年野外活動施設。9ha余りの広大な敷地は自然林に囲まれ、キャンプアスレッチク、オリエンテーリングなどをはじめ、季節に応じた自然とのふれ合いを体験する行事が多数催されている。芝生広場の先に管理棟みどりの泉みどりの泉の廻りは落葉樹で紅葉が楽しみ芝生広場に聳える欅、後方に管理棟手前は、「学習水田」、後方に「自由広場」さわやか広場の西側に、「クローバー広場」があり少年野球。以前我々も野球をやったグランドである少年の森を後にする県道を南下。道路脇に、大きな石碑「機械揚水記念碑」裏面には、「工事誌」溜池だけが頼みの天水耕地○○○水不足のため毎年多少の害○○○此の儘では将来が憂慮されてきた有志相謀って水源を目久尻川に求め當局の賛助と流域の理解とを得て衆議一決昭和二十三年一月○○○・・・・・・・打戻榎戸交差点に建つ庚申塔庚申塔の台座に、上惣連道路脇に石像遠藤宮原線の榎戸交差点榎戸交差点から、富士見の丘を望む慶応大学バス停からの、Twin Liner バス浄土宗 薬応院 称業山大法寺 所在地:神奈川県藤沢市打戻1331大法寺は慶長元年(1596)、僧正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には昭和47年(1972)に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体境内には文政5年(1822)の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。右側の塔の側面に「文政5年」とあるが大法寺を振り返る。隣は民家で角に道祖神が建つ鉄柵でガードされている「道祖神」道祖神には、「明治三十七年壱月十四日 建之 講中」と刻まれている大法寺から更に南下、次の「盛岩寺」を目指すこの辺りの農家は、パンジーを栽培パンジー畑の先に朱色の鳥居。スマホでチェックすると「日吉神社」とで、訪れることに右上の高台に石碑群と説明板石段を登ると移設された石碑群市指定重要有形民俗文化財 応永二十六年板碑 一基板碑は卒塔婆の一種で元永(1118)頃から慶長(1614)頃まで流行した。この板碑は武蔵型縁泥片岩製で、一般に浄土教的色彩のものが多い中で、真言密教的色彩が濃いところに特徴があるといえる。たとえば、陰刻されている「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨」は、「この卒塔婆の趣旨とするところは阿弥陀仏の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことに依って即往生できる」という意味で、密教色が濃くなっている。このように特徴のある板碑は数少なく、貴重なものといえよう。 平成四年二月一日指定 藤沢市教育委員会保護保管されている「板碑(いたび)」バス停は「荒井」から振り返る日吉神社所在地:神奈川県藤沢市打戻打戻の農村地帯の農道の横にある素朴な神社で鳥居と小さな社殿がある程度神社の由来の解る説明板なども立っていなかったので、縁起などは不明。敷地に「寛政十戊午歳霜月」と刻まれた石碑が立っていたので、比較的古くからの神社。寛政十戊午歳とは1798年、約220年前。社殿の扁額、「日吉神社」内陣を覗き見る社殿前からの西方向境内の植木は剪定等が行われており、氏子による管理が行き届いているようだ11:50日吉神社から県道に戻り南下、盛岩寺へ ー 続く ー
2021.11.10
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御所見南部・遠藤文化財を巡りで、御嶽大神から東へ向かう。10月23日(土) 10:50遠藤あじさい祭り会場所在地:神奈川県藤沢市遠藤5875この辺りの小出川は水源地に近く川幅も1メートルと狭い。あじさいもきれいに剪定されており、来年の開花時が楽しみである次の目的地は、「妙福寺」妙福寺への途中にある食事処「まるたか」所在地:神奈川県藤沢市遠藤4151海鮮丼、魚料理のフライがあり人気の店である。ガードマンが出て交通整理も丸隆水産直営店「味処 まるたか」営業時間 ランチ 11:00 ~ 15:30(オーダーストップ 14:55) 夜の部 17:00 ~ 21:00(オーダーストップ 20:25)定休日 第一・三 月曜日湘南藤沢キャンパス構内案内図バスロータリー「慶応大学バス停」後方のビルは、湘南慶育病院。バスは、Twin Liner湘南台駅 → 南大曲 → 慶応大学遠藤宮原線に聳えるメタセコイア並木湘南慶育病院神奈川県藤沢市にある医療機関。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに隣接し、藤沢市マスタープラン「健康と文化の森」構想によるまちづくりの中核施設となる病院である。慶應義塾大学や企業との連携により先進的な医療ICTサービスの提供を目標としている遠藤宮原線沿いに、「雨水貯留施設」打越公園の地下には雨水貯留施設があります。大雨の時、雨水を一時止溜めて、河川へ少しずつ流し、河川の氾濫や洪水を防ぐ大切な役目をしています。 貯留施設の大きさ 貯留面積:625㎡ 水 深:2.3m 貯 溜 量 :1,317m3 管理者 藤沢市土木維持課遠藤宮原線から南側の傾斜地にある、妙見神社(みょうけんじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤内陣を覗く妙見神社宮元と呼ばれる古谷家で祀っていたのを、後に打越町内で祀るようになる。古谷家には「天保六未年(1835)十月吉日、明口覚え書婦るや氏」と表書きのある妙見社祭礼入用帳や富士講のお伝え書の入った小箱が保存されている。祭祀は十月一日。昔は打越五人組というオキ、ムケエ、ニイヤ、ウエ、シタと呼ばれる五軒だけであったという。 (遠藤まちづくり推進協議会)記念碑本地区は、藤沢市の都市拠点のひとつ「健康と文化の森」に位置し地域と慶應義塾が連携し、みどり豊かで賑わいのある学園文化都市の形成を目指すとしていました。こうしたことから、地権者と慶應義塾とが鼓働し、都市拠点を形成する機能導入のための道路・公園等の公共施設の整備改善と土地の再配置を行い地権者の生活環境の改善を図り、文化的な都市環境の形成を図ることを目的として平成二十年二月から土地区画整理事業に着手しました。以来、地権者の理解と協力を得て、二十億円の費用と五年の歳月を要し、めでたく事業の完成を見ました。ここに事業の完成を記念すると共に、この地区のさらなる発展を祈念しこの碑を建立しました。 2012年(平成24年)10月吉日 藤沢市遠藤打越地区土地区画整理組合 役員一同石には「絆」と妙見神社の裏手には墓地があったが区画整理で移設されたのであろう妙見神社は小高い所にあり、北側を走る遠藤宮原線を見下ろす遠藤宮原線に戻り、メタセコイア並木これからの紅葉が楽しみ遠藤宮原線の南側の傾斜地に工事現場特定開発事業等予告板事業の名称 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス未来創造塾 ウエスト街区学生寮計画(仮称)計画の建築物 用 途 寄宿舎 (戸数 81戸) 階 数 地上 5階 地下 1階工事の予定 着手予定 2021年4月 完了予定 2023年1月完成予想図遠藤宮原線を西に進み一番高い所に位置する、宇都母知神社入口交差点宇都母知神社入口交差点から下り、正面に富士山雪の積もった頂上をズームアップ今日最初に立ち寄った、「富士見の丘」11:07日蓮宗妙福寺所在地:神奈川県藤沢市打戻2587遠藤宮原線から北側に入り、山門、鐘楼を見上げる山門下に建つ「陽向山 妙福寺」今月の聖語「深く世法(せほう)を 識(し)れば 即ち 是れ仏法なり」Facebook ページを始めました!副住職が楽しく真面目に?お寺の活動報告をしています! ぜひいいね!して下さい!ホームページもやっています。お時間ある時にご覧になってみてください!階段を上り山門へ山門越しに見る本堂日蓮上人像、境内の本堂前にはイチョウの樹が聳える日蓮上人像山門左手に鐘楼妙福寺本堂この妙福寺は慶長八年(1603)に徳川家康の側室であり、家康の次男結城秀康の生母おまんの方(養珠院)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として、創建。当時は寺域が広く、七町歩あったが、後の社会変動、第二次世界大戦などを経て大幅に減少。また昭和九年の火事で、堂塔を焼失した。二棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失った。記録類も失われたと。平成五年(1993)、日遠上人第350遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築した。本堂の扁額、『陽向山』。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。本堂前には可愛い地蔵さん本堂から境内を見下ろすイチョウの樹の下には、搔き集められた銀杏の山。頂きたかったが、この日は袋を持っておらず本堂の左を奧に進むと、御堂が建つ六角堂かと思いきや八角形の屋根の御堂その左奧にも建物建物の裏に、シートで覆われたボート。副住職が愛用しているのであろうか境内の西側に、雲がかかった富士山ズームアップカメラを南側に振り、矢倉岳、金時山山門を入ると左側に、祈願堂祈願堂の扁額には「南無妙法蓮華経」と刻まれていたがその他は読めなかった11:20妙福寺を後にし、少年の森へ — 続く ー
2021.11.09
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かねてから来たかった藤沢市御所見南部・遠藤の文化財を巡る。10月23日(土)御嶽大神(みたけおおかみ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤2539御嶽大神の西側の参道入口にある鳥居鳥居の前に「遠藤 御嶽大神」の石柱が建つ御嶽神社(みたけじんじゃ)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)など九神とされている。遠藤村の鎮守社。神仏習合をうけて「御嶽大権現」と言われた時もある。御神体は新編相模国風土記稿によれば、「運慶作長一尺二寸木像」とある。神社の創建年代は明らかでないが、慶長五年(1600)以前に存在したと言われる。 (遠藤まちづくり推進協議会)Bコースの、① 御嶽大神参道を東方向へ進む参道脇に建つ、郷学琢成学舎跡(きょうがくたくせいがくしゃあと)」江戸末期、寺と神社の別当であった遠藤智英氏により、大験寺(廃寺)に寺小屋「琢成学舎」が開かれたといわれる。明治五年に学制頒布。一時、南原桜井勝衛門邸内に移った後、大験寺跡の新校舎に開校。明治八年遠藤学校と改称した。当時男六十八人、女八人、教員四人であった。秋葉台小学校の前身である。 (遠藤まちづくり推進協議会)境内への石段石段下にある、庚申供養塔、道祖神石段を登り振り返る石段上に、本御嶽大神は、富士山に向けて建てられております。この場所から参道を通して、富士山を見ることが出来ます石段から拝殿を望む狛犬が一対拝 殿拝殿前から西側(参道)を見下ろす枝の間に富士山が見える拝殿左側に、「力石」力石の由来 「うみうみて とおつみおやの 古ゆ力競そいし ほぞ拝む石」此の石は古老の言い伝えによれば、陰形の道祖神として祀り五穀豊穣子孫繁栄旅の安全等々祈願したものなりと云ふ。而し乍ら此の石には銘がない為、昔から若衆達が此の石をもって力だめしをしたので誰れ云うとなく力石と呼ぶようになり今日に到ってゐる。ここに碑を立てて由来を後世に伝えたいと思う。 昭和五十二年九月十五日 奉納 氏子中 当地 青木義春翁 撰文 発起人 世話人一同 総代 櫻井浅之 施工者 片山賢治 神輿百年記念事業境内の南側(大庭獺郷線側)にも鳥居本堂は富士山に面して建てられており、今でも天気のいい日は参道から富士山の雄姿を望むことができる。明治初期に存在した小学校の前身「琢成学舎」跡も遺されている。鳥居の前には、「遠藤 御嶽大神」鳥居の廻りに庚申塔庚申塔、庚申供養塔群県指定重要文化財(有形民俗文化財) 平成十八年(2006)二月十四日指定 御嶽大神の庚申塔市指定重要文化財(有形民俗文化財) 昭和五十二年(1977)四月十三日指定 万治二年庚申供養塔二列の石造物の後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られています。青面金剛像はふつうは六臂ですが、左の上手に三股叉・下手に棒、右の上手に輪宝・下手に羂策(縄)を持つ四臂の珍しいもので、明暦二年(1656)や高座郡大庭庄遠藤村などの銘があります。同時期の同系統の石工による四臂の庚申塔が茅ヶ崎市八幡大神・金山神社・神明宮、寒川町下大曲神社、平塚市長楽寺・正福寺にあり、いずれも神奈川県指定重要文化財とされています。後列の左の塔は、万治二年(1659)銘のもので、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれています。山王は、近江の日吉神社(滋賀県大津市日吉神社)が祀る比叡山に鎮まる神を指し、江戸時代初期の庚申供養塔に多く見られる形態です。 平成二十七年(2015)三月 藤沢市教育委員会後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られている後列の左の塔は、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれている拝殿、本殿、神輿殿境内の周りに、社務所、神楽殿境内の南側を、大庭獺郷線手水舎、鐘楼、社務所手水舎、鐘楼石碑が二基、「記念碑」、「関東大震災記念碑」遠藤地区上水道敷設「記念碑」〇震○○○天災地変は人力を以て豫防し難しとは實なる。大正十二年九月一日午前十一時五十八分の激震は○○○な起り其の震動極めて峻烈にして家屋の潰れ〇男女の惨死幾一〇なるを知らす・・・・・・・後略梵鐘には、「奉納 御嶽大神」鐘楼の奥に、白山神社白山神社の扁額、「白山神社」白山神社の内陣白山神社前から鐘楼、拝殿鐘楼を見上げる石碑には、昭和七年十一月十四日終夜朔風の烈風吹き荒び社木の大松を倒す。後昭和八年農林省地方国救土木事業○より村道改修工事〇際し社地の一隅の欅を撤去す此の賣上金○○りて境外隣地庁山力蔵氏有の山林を購入し之を社地となす。仍而記念の為め碑を建て後〇傳ふ社殿を南側から神楽殿屋根葺替寄附者御芳名 最高額は、金五拾万円 也 ~ 金壱千円 也 寄附年度が記入されていないので葺替時期が解らない拝殿前から南側の鳥居大庭獺郷線側の鳥居かつては遠藤村の鎮守の社として、人々の暮らしに根付いていた神社であると御嶽大神から大庭獺郷線を東へ進み、県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)との遠藤松原交差点。この交差点を右折して県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)へ県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)沿いにある、「養蚕神社(ようさんじんじゃ)」養蚕神社と窪島義翁頌徳碑境内は草が生い茂っていたので社の前には行けず養蚕神社と窪島義翁頌徳碑明治・大正の頃は養蚕が盛んであった。養蚕業の発展を願って神社が建てられた。戦時中食糧増産のために養蚕業はできなくなった。窪島氏は、養蚕組合長、郡畜産組合長として産業振興に尽くされ村長を始め数々の公職に就かれた。その功績を讃えた碑である。碑文には先祖の孫兵衛は北条氏の家臣で後に徳川氏の軍監として関ヶ原の役に出陣、その後帰農とある。 (遠藤まちづくり推進協議会) 窪島義翁碑残念ながら判読できず草に囲まれて、養蚕神社 ー 続く ー
2021.11.08
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この日は天気がよく富士山も綺麗であろうと思い、かねてより訪れたいと思っていた、藤沢市西部の『文化財ハイキングコース 御所見南部・遠藤コース』をハイキングではなく、ガソリンも高騰しているため愛車のリンちゃんで訪れたブログです。10月23日(土) 9:24県道404号線(小出県道)を北上し、ここは富士のビューポイントである稲刈りも終え天日干しの昭和の風景であるポールは、カルペソール湘南スポーツクラブの練習場。大岡越前通り沿いにあるクラブである今年も数回彼岸花を楽しんだ、小出川小出川の下流側。ここで電動アシスト自転車に乗った高齢の女性と出会い会話。青森の弘前から息子に呼ばれて藤沢へ来て以来16年だと。嫁さんがいい人でやることがなく、弁当、お菓子をもらい江の島、大和へ出かけていると。マンションも9階でやることもなく、こちらもそうだが。言葉が一部理解できないところもあったが、話し相手になったので、別れ時にチョコを頂く天気が良いので富士山が期待でき、最近発見した富士のビューポイントへ。前方の杜は、宇都母知神社(うつもちじんじゃ)。畑にはキャベツか宇都母知神社の御神木「椎の木」サクラが咲いていた十月桜であろうか宇都母知神社の鳥居御所見南部・遠藤コース文化財ハイキングコースに入っている、「宇都母知神社」。所在地:神奈川県藤沢市打戻2662既に9月20日(月)に参拝しているので今回はスルー、その時のブログは「宇都母知神社」👈を、クリック願います。この時期、入口に七五三の幟が立つ宇都母知神社の道路を挟んで西側に建つ鐘楼富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668地主の方が畑の一部を提供して造られたビューポイントであるとかざる菊も植えられ咲き始めていた雲がなければ、9月、3月にダイヤモンド富士が見れると今日は富士の裾野に雲が漂っている、矢倉岳、金時山も眺望できる圏央道の高架も、夜景も楽しみだざる菊の本数はまだ少ないが丹沢連峰も一望今まで海岸からの富士山を追いかけていたが朝も良いのではないかと遠藤宮原線を走り慶応大学前交差点から、湘南藤沢キャンパス入口市道辻堂駅遠藤線沿いに生えるススキススキの穂も風に揺られて曹洞宗 宝泉寺所在地:神奈川県藤沢市遠藤6094今回は宝泉寺はスルーしましたので、今年6月23日(水)に訪れた「6月の宝泉寺」👈 をリンク願います。新築された山門宝泉寺の前に建つ、『文化財ハイキングコース案内図』。御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森 藤沢市教育委員会遠藤・御所見南部の今と昔昭和30年代から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています。御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連っています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社を祀ったと考えられています。また、自然を生かして遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(おそごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語り合っています。まず、宝泉寺の近くにある「御嶽大神」へ向かう。途中、大庭獺郷線沿いに建つ石柱には、「芭蕉天神宮」と刻まれていた裏面には、平成二十五年十二月吉日芭蕉天神宮へ行くことに、大庭獺郷線から南側に入り、道路脇に、「南無妙法蓮華経 馬頭観世音」スマホの案内で進むが入口が解らず、小高い所から西側に見つける道案内もなく、農家の温室脇を入ると、芭蕉天神宮(ばしょうてんじん)所在地:神奈川県藤沢市遠藤37階段下の石柱には、「平成二十五年十二月吉日」と刻まれていた真新しい階段を登り鳥居の扁額、「芭蕉天神」小さな社の前には、右側に、「芭蕉天神由緒」、左側に、「芭蕉天神宮改修記念碑」芭蕉天神祭神は愛知県岡崎に本社がある芭蕉天神で学問の神様といわれている。岡崎市史によれば岡崎の天満宮も元は伊豆国芭蕉山の天神を勧請したものとされている。ある時期、窪島家の屋敷内に祀っていたといわれる。三月二十五日が祭日で氏子の新入学生に対し、岡崎から取り寄せた御札を配り祝っている。 (遠藤まちづくり推進協議会)より芭蕉天神宮改修記念碑改修の経路芭蕉天神宮社殿並びに参詣階段は、昭和四十一年十一月の改修からすでに四十七年が経過した。近年、社殿や階段、記念碑などの傷みが甚だしく改修はかねてからの懸案であった。氏子一同協議を重ねた結果一致協力のもとに社殿、参詣階段、鳥居、境内周辺などの改修をするに至った。氏子一同の無事長久並びに子弟の学問の向上を願い崇める為のものである。尚、改修工事奉賛者芳名などは下記・裏面に記載。 平成二十五年十二月吉日 建立竹やぶを開墾して整備されたようだ参道の左側は温室道路脇にカラスウリ朱色の果実と、夜間だけ開く花で知られる。地下には塊根を有する朱色だけによく目立つ果実である芭蕉天神から大庭獺郷線に戻り。おすいマンホール蓋。藤沢市のマンホールは、市の花のフジがデザインされたものをよく見かけるが。珍しく、市の木クロマツをデザイン。中央の丸の中に藤沢市の市章とその上に「おすい」文字が入っている。道路脇に道祖神大庭獺郷線を進むと、左前方に「御嶽大神」の鳥居 ー 続く ー
2021.11.07
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回が13日間シリーズの最終です。事故処理で45分のロスタイムがあったが、まだ明るいのでハンドルを切り立ち寄る。10月6日(水) 16:55曹洞宗 鳳台院(ほうだいいん)所在地:茨城県笠間市箱田2458山号・国見山、寺号・慈眼寺で、開山は竺翁円符(ちくおうえんぶ)和尚である。この寺は後々まで名僧がつづき、曹洞宗禅の道場となって多くの禅僧を育てた。また、春には約17,000本の石楠花が、境内の山肌に赤や白、淡いピンク色など色とりどりの花を咲かせ見事です。この時期に「年に一度の大祭」が行われます世界一を誇る、「達磨大師大仏」ズームアップ曹洞宗国見山 鳳台院 由緒今から約八百年前、承久年間に国見山の麓に寺院が建てられたが、その後の戦乱により廃墟と化し礎石を残すのみとなった。その後、文明八年笠間領主 笠間朝貞は小田原海蔵寺の覚山見智大和尚を請して再建し、開山に竺翁圓符大和尚を迎えて再興された。文亀元年朝貞が没し、法名を「鳳台院殿以習翰翁大居士」と号し、この寺を国見山鳳台院と寺号が命名された。この寺には、のちのちまで名僧がつづき、曹洞宗の道場となって多くの僧を育てた。江戸時代に入り五石の朱印地が給付され、末寺として笠間藩領に三十五ヶ寺、全国に百十余ヶ寺があったと伝えられている。後に度重なる火災により寺宝はことごとく焼失し、現在は山門(笠間市指定文化財)と石柱が昔の面影をしのばせるだけとなった。三十三世禪雲童龍大和尚は、昭和五十年より境内の整備を行い、釈迦如来大仏・達磨大師大仏・五重塔・観音堂本殿・仁王門・客殿を建立、さらには裏参道の整備など現在の壮大な伽藍の完成に尽力し、御本寺より中興の号を授かった。また、花の寺として境内には約二万本の石楠花をはじめ、多くの花が植えられている。 令和元年十月吉日観音堂観音堂縁起明治三十五年頃(1902)箱田に苗木行商人で中野とくさんが暮しておりましたが、夫の浮気を誤解して当土地内で命を絶ち、実家や知人の助けで鳳台院境内地に埋葬されました。生前に仲の良い老婆が気の毒に思い墓掃除をしながら「私の眼は何処の医者にも見放され、とても不自由なので是非目が見えるようにしてくれれば、毎日墓掃除をしてお守りをする」と願をかけたら不思議なことに満願の日に目が見えるようになった。其れ以来お礼の意味で生涯掃除を続けて碑守したそうです。其れからは多くの人がおとくさんに願をかけ、次々と御利益を叶えられますので今尚全国各地から家内安全、商売繁盛、縁談等を始め、諸々祈願に参詣をする信者の絶えることがありません。此の因縁に其いて祈願祈祷の本尊として千手観世音を奉安し新坂東三十三番札所(享保年間設定)を興隆祭願し笠間観音霊場として建立を致し、皆様の一切苦厄を度させんこと〇うもの也。三十三番御詠歌「やましたじはるばるたづね行き見れば法のあらしに身をやすめえん。」 昭和五十八年七月二日 鳳台院三十三世 現住 松田童龍建之観音堂の前に建つ「観音像」仁王門仁王門の扁額、「達磨山」仁王門の先に観音堂本殿五重塔と手前に手水舎五重塔観音堂本殿観音堂本殿の扁額、「大願寺」観音堂本殿前から仁王門を見下ろす同場所から五重塔を見下ろす仁王門、手水舎どの建物もまだ新しいものであったが再建時期はいつなのか17:05観音堂本殿の裏手に、山門、達磨石、本堂、釈迦如来大仏があったようだがスルー。時間が遅いので足早に参拝を終えた17:10鳳台院から帰路につき、国道355号沿いにある、こうや精肉店所在地:茨城県笠間市石井1073-1鳳台院へ行く途中にこの幟を見ており、コロッケ好きな私は帰路に車を止める。老夫婦が経営していたが、お惣菜はスーパーより激安でコロッケ、メンチは50~70円。ウインナーフライはなんと20円と。商品がなくても聞けばその場で揚げてくれると。コロッケ4個 260円を購入肉屋の親父さんから甘柿を頂く。こうや精肉店に隣接して「石井神社」があり、神木が聳える国道355号の石井神社前交差点にある、石井神社所在地:茨城県笠間市石井1074笠間市石井の氏神さまである石井神社は、織物(産業・芸術・芸能)の神・常陸平定の武神(健脚・健康)である御祭神「建葉槌命」の御神徳のもと、古来より地域の発展と氏子の平安を願い続けています。現在の本殿は天明8年(1788)に再建されている。また、鳥居はこの辺りでは珍しい両部鳥居で、平成29年(2017)に建て替えられた鳥居の扁額、「石井大明神」鳥居を潜り右側に建つ、「石井神社」の由来、神社の歴史御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)石井神社の御祭神である建葉槌命は、日本書紀などに記述があり、出雲の国譲りや常陸の国を平定した際に、武甕槌神(鹿島の神)と経津主神(香取の神)に従って活躍した武神で、「開拓(武運)の神」とされています。また倭文の里(那珂市)で倭文織(機織り)を伝えていた神様でもあり、織物(芸事・芸術)の神、産業の神としても信仰されています。鎮座の由来神代の昔、天つ神が豊葦原中国を平定する際に、この地方を支配していた天甕星(香々背男命)だけが従わず、討伐に派遣された武甕槌神・経津主神に対して巨大な石となり抵抗しました。二神の命を受けた当社の御祭神である建葉槌命は、大甕(久慈郡)の山でその巨石を蹴り飛ばし、天甕星を退治しました。割れて三方向に飛んだ石の一つが石井の地に落ち、天甕星の崇りを恐れて建葉槌命をお祀りしたのが石井神社です。尚、討伐地には大甕神社(日立市大甕町)が、三つに飛んだ石の場所には、石神社(東海村石神外宿)と風隼神社(城里町石塚)が鎮座しています。神社の歴史鎮座地である笠間については、奈良時代の初期、和銅六年(713)に編纂された常陸国風土記(新治)に、既に「笠間の村」についての記述があります。石井神社の創建については不詳ですが、平安時代初期の大同二年(807)に社殿を再建したことが伝えられています。社殿は何度か火災に見舞われ焼失し、現在の社殿は、拝殿に掲げた絵馬に「天明八年(1788)」と銘があり、その頃再建したと思われます。境内には各地より神様を勧請した摂社があります。長い歴史の中で、石井の人々が様々な問題から町を守るため、神様のご神威をいただいてきたことがうかがえます。境内について本殿東側には、二つの摂社があります。右側が青麻神社(病気平癒の神)で、鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)・樺山神社(茨城国造の祖)が合祀されています。左側が秋葉神社(火防の神)で、琴平神社(海の神)が合祀されています。また神社より南方にしばらく進むと「御手洗」があり、鎮座の由来となった巨大な石が落ちた場所と伝えられます。これは古くは御手洗の場所から長い参道が続いていたことも物語っています。天王塚ご由緒天王塚に鎮座する御祭神は建速素戔嗚大神様をお祀り申し上げ、遠く神代の昔、出雲国・・・・・・・・後略拝殿の左側に聳える御神木。夕方になり拝殿にも灯が灯る拝殿の左側に御神木御神木・御神像境内に聳え立つ大欅は、推定樹令数百年といわれ、古来より鎮守の森として親しまれています。時代の変遷とともに、欅の本数が激減しました。この大欅は、もともとは二本立ちで、時を経て一方が巻き抱え、一本の大木になりました。春の芽吹き時には、中程の隙間より雫が滴る現象を呈します。洞穴内に鎮座する石造は、 天照皇大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、 齋庭(ゆにわ)の稲穂を授けるところです。 平成九年十一月吉日 寄進並びに製作 谷口 収 殿 照明工事一式 稲川和男 殿 石井神社社務所 手水舎と、左に休憩所(旧鳥居の土台の石)明治三十四年建立の旧鳥居の土台の石を並べて休憩所にしている社殿の東側へ廻り込むと二つの鳥居本殿東側に建つ二つの境内社。右側が青麻神社(病気平癒の神)で、鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)・樺山神社(茨城国造の祖)が合祀されています。左側が秋葉神社(火防の神)で、琴平神社(海の神)が合祀されています。左側の境内社、秋葉神社(火防の神)と、琴平神社(海の神)境内社の扁額、「秋葉神社・琴平神社」境内社 秋葉神社御祭神 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)御神徳 火除け・家内安全祭礼等 火は私たちの生活に必要不可欠ですが、一つ間違うと大きな災いとなる大きな力をも っています。歳末の十二月上旬(第一週日曜など)には、火防祭・防火祈願祭が行われ、 氏子の防火安全が祈念されます。境内社 琴平神社御祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)御神徳 海上安全・大漁満足 これら二社が合殿でまつられており、その右側には加波山神社本宮渡御の神輿があります。一番右側に、青麻神社(病気平癒の神)扁額は、「青麻神社」境内社 青麻神社(あおそじんじゃ)御祭神 天之御中主神・天照大御神・月読神・常陸坊海尊(清悦仙人) 御神徳 中風退徐・病気平癒本 宮 青麻神社(仙台市岩切青麻沢)由 緒 本宮から勧請した年月など詳細については、天明の火災で社殿や文献などをすべて焼失 したため不詳です。 本宮である青麻神社には、仁寿二年(852)に、山城国から来た穂積保昌が、その地で麻 の栽培を教え、一族の尊崇する日月星の三神を岩窟中に祀ったと伝えられます。 古来より中風病退徐・海上安全等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難より のがれる」と言われています。社殿の左側からの本殿17:20石井神社前の、国道355号石井神社前交差点カーナビの目的地を「自宅」にセット、有料道路優先で帰路につく。17:34国道355号(笠間バイパス)を進み、友部I.C入口交差点。カーナビの案内はここを右折笠間市は栗の生産量が日本一であると。栗好きの愚妻に、栗の土産を買わなかったのが心残り北関東自動車道友部I.Cから入り、常磐自動車道との友部JCTへ進む。カーナビの表示は、自宅まで、165km、到着予定は20:24と、所要時間は約3時間常磐自動車道との友部JCT。この後は車窓が暗くなり走行ルートを確認するため、カーナビを撮影渋滞もなく、常磐自動車道の三郷料金所を、18:30に通過。首都高を南下、小菅JCTで首都高6号向島線を案内首都高6号向島線も渋滞がなくスムーズに走る。自宅まで67km、到着時間は20:22、約1時間半で到着この後も渋滞予想はないようだ京橋JCT銀座辺りを通過保土ヶ谷ICここから横浜新道へ19:52横浜新道の戸塚料金所を 19:34 に通過。国道1号を進み夕食をとるためにいつもの「かつや」へ立ち寄る。しかし、旅友が店から出てきて「20時で閉店となりテイクアウトのみ受付」だとこの後、国道1号沿いの「すき家」「リンガーハット」「丸亀製麺」へ立ち寄るが「かつや」と同じように、コロナ関係で営業時間は20時までだと。仕方がなく自宅へ帰ることに、帰宅後石井神社近くの総菜屋で購入したコロッケをおかずに。旅友も購入していたが車内に置き忘れ、ゴチになりました。朝自宅を出る時は、栃木県の続日本百名城「唐沢山城」へも行く予定であったが時間が無くなり次回にすることに。都内の渋滞を予想していたがスムーズに流れ帰宅できた。今日の走行距離は、487kmであった。帰宅後の10月7日 (木)事故の関係で保険会社へTEL、修理引取りになり代車 END
2021.11.06
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回は13日間シリーズの 12/13です。10月6日(水⁾ 15:35笠間稲荷神社 拝殿昭和35年10月の竣工で、神社建築の美と現代建築の粋を集めた豪壮かつ華麗な建物です。笠間稲荷の菊まつりは日本で最も古い菊の祭典で、明治41年(1908年)に先々代宮司の塙嘉一郎が、日露戦争によって荒廃した人々の心をなごめようと、神社に農園部を開園して始めたもので、長い歴史を重ねて、今年で第114回になるとのこと。今年の菊まつりは、10月23日(土) 〜 11月23日(火・祝)に、日本最古の菊まつり「第114回笠間の菊まつり」が開催されます。神社の境内をメイン会場に、黄・白・ピンクなど色とりどりの菊の花約1万鉢が市内全体に咲き誇ります笠間稲荷神社の概要当社は日本三大稲荷の一つで、正一位という最高の神位を持つ大神様です。笠間藩主歴代の祈願所として藩主の崇敬高く、江戸時代から「胡桃下(くるみがした)稲荷」「紋三郎稲荷」の愛称で親しまれてきました。総面積約3万坪(約99,000㎡)の神苑は、仲見世の商店街で賑わう「商業ゾーン」、楼門・拝殿・本殿・社務所など荘厳な社殿のある「信仰ゾーン」、美術館・菊まつりなどが行われる「ふれあいゾーン」で構成されています。● 「胡桃下(くるみがした)稲荷」とは 当社の創建当時、この地に胡桃の樹が群生し、その大樹の下に稲荷の大神様がお祀りされてい たことから、胡桃下稲荷と呼ばれるようになりました。現在でも40数本の胡桃の木が繫ってい ます。なお、この地は胡桃の北限といわれています。 笠間稲荷神社境内配置図御神木 胡桃の木坂本九の母の実家が笠間にあり、戦時中に疎開していた。この縁で昭和46年(1971)、笠間稲荷で柏木由紀子さんと式を挙げたことは、今も市民の自慢になっている。披露宴では大好きだったカレーをふるまったという。拝殿の扁額「稲荷宮」拝殿前から、楼門(萬世泰平門)楼門の左大臣裏に安置されている神馬。当初は総門に奉安されていた、白と黒の木彫の神馬か?笠間稲荷神社では2種類のご朱印がある。一つは笠間稲荷神社で、もう一つはこの七福神の一柱、大黒天さまのご朱印八重の藤 ● 茨城県指定天然記念物 昭和42年(1967) ● 樹齢/約400年 ● 樹木の地 上部直径/3.6m ● 花房の長さ/70~80cm ● 総面積/約150㎡二株の藤樹は、毎年5月10日ごろに花を咲かせます。楼門側の藤は、薄紫色の蝶形の花を付け、150㎝にもおよぶ長い総状の花穂を垂らします。また、拝殿側の八重の藤は、濃紫色の葡萄の房のように花弁が集合して咲き、実を付けない珍しい種類です。樹齢400年の二株は天然記念物に指定されています。これらの藤は、拝殿造営前は池のほとりに繁り、池に映る藤の美しさから、笠間の俳人たちが明治26年に芭蕉の句碑を建てました。 「しばらくは 花の上なる 月夜かな」 芭蕉拝殿手前右側に2本のフジ楼門側のこの藤は、薄紫色の蝶形の花を付け、150㎝にもおよぶ長い総状の花穂を垂らす拝殿側の藤は、濃紫色の葡萄の房のように花弁が集合して咲き実を付けない珍しい種類である。開花時に見てみたいものだが聖徳殿聖徳太子がお祀りされています。笠間施工組合(大工職)が中心に太子講が組織されています。また大黒天(大国主大神)、事比羅社(大物主大神)合殿にてお祀りされています聖徳殿の扁額、「聖徳殿」大黒天 ● 御祭神/大国主神 ● 御神徳/福徳成就・財宝授与「大黒様」とも呼ばれて親しまれている七福神の一つの神です。仏教とともに日本に伝えられ、大国主神と習合の神となりました。糧食を司る神で、福徳や財宝を与える福の神として信仰されています。なお、大国主神は、島根県の出雲大社の御祭神であり、日本で一番古い神社として知られている奈良県の大神神社の御祭神、大物主神と異名同一神です。当社では、常陸七福神の一つとして大黒天を祀っています。大黒天といえば、米俵の上に乗った御姿が一般的とされていますが、これは元禄時代以降の御姿で、当社にお祀りされている大黒天は、くくり頭巾、狩衣姿で、左肩に袋を背負い、右手に打ち手の小槌を持った本来の御姿をしています。聖徳殿の左側に建つ石碑、「聖徳殿新築記念」聖徳殿の右側から林の中に石灯籠、石碑が建っていたが総 門文化13年に再建された入母屋造りの建物である。境内案内図では「東門」となっている。総門屋根の装飾総 門 ● 建立/文化10年(1814)江戸時代の笠間地方の多くの農家に見られた、入母屋造りの建築様式を取り入れた総門です。しっくい装飾の屋根瓦の建物は、方八尺の4カ所に区画され、月次祭御璽の御幣、白と黒の木彫の神馬が奉安されており、周囲には崇敬者奉納の各種奉額が掲げられています。当初は左右に随身像が奉安されていましたが、楼門新築時に移され、総門と称されるようになりました。● 神社における鳥居とは神社の鳥居は、「神域を表徴する神門」であり、ここから先が神聖な神域であることを示しています。鳥居の起源、原形については諸説ありますが、語源は、願い事が「神様に通り入る」が転化したものとか、「鶏居(とりい)」との説があります。しかし、鳥居の本義は「鳥がとまり居る処」という意味から来たものです。時計のない時代、日本鶏の鳴き声は、時を知る上で大変重要だったからです。 この両側に「大毛網」大毛網当社社宝として伝わるこの毛網左右二巻で、長さ 八十メートル、太さ周囲 二十センチメートル、重さ 九十五キログラムという大毛網です。約二万人の女性崇敬者の奉納になる頭髪を網に綯ったもので昭和三十四年八月二十四日に拝殿造営に伴う御本殿移築(後方へ100メートル)の「お曳初めの儀」はこの毛網によって行われましたさざれ石国歌「君が代」によまれている胸像は、「塙嘉一郎大人像」明治41年(1908年)に先々代宮司の塙嘉一郎が、日本で最も古い菊の祭典を開催した塙嘉頌徳碑元侍従 牧野真亮篆額神社の奉斎は傳統を本とし社務の運営は進歩を主とす之れ四十年間よく此の稲荷神社に奉仕せる塙嘉一郎翁の信念なり余〇で其の方針を○○その施設を観て翁の確信に基く努力と業績に敬服するや久志笠間稲荷の名神威と共に高く其の経営〇と共に新なる所以傳〇翁の至誠達識に由るなり翁は明治八年八月五日大洗磯前神社宮司塙豊樹の長男に生れ國學院に学ふ同卅一年三月當社社掌に補せられて○○或は全國神職協議會副議長と○○或は〇城縣皇典講究分所長と為る神職界の為に盡す所最も多く大正九年奏仕官を以て待遇せられ昭和十一年全國神職會の表彰を受て又〇育を重んじて運動場を設け大和流師範として弓道場を築き教化に意を用ゐて帝國教育會の表彰と功勞賞を受く翁常に祭祀の興隆産業の發達文化の開發を念とし新〇献納祭献〇祭を起志全國菊花品評會全國煙火競技會を催す特に育英會を創めて東京に學生寄宿舎を建て境内に図書館を設けて修養に便す同十五年八月十六日六十六歳を以て帰幽し従六位を贈らる翁資性濶達願る情〇に富み町勢の隆昌に寄興する所〇多志氏子崇敬者深く其の徳を敬慕し今息瑞比古君善く翁の職と志を継ぐ茲に相謀りて頌徳碑を建つ○○○ら社運發展の基礎を堅くするものと謂ふべし 文學博士 河野省三撰文弁書藤(布治) 波流・・・・・・・・・・・・・・・ 揮毫者 奈良市 萬葉学会 奈良女子大学 坂本信幸春へ咲く 藤の末葉の うら安に さ寝る夜そなき 児ろをし思へば 万葉集 巻 十四 三五〇四 揮毫者 笠間市 笠間稲荷神社宮司 茨城県神社庁長 塙 東男 総門前に建つ、「塙嘉一郎大人像」「塙嘉頌徳碑」境内に多くのキツネが祀られている稲荷神社と狐” お稲荷さん ” の御祭神はキツネではありません稲荷の御祭神は宇迦之神魂神(ウカノミタマノカミ)と申し上げ、生命の根源を司る命の根の神様です。殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神(復活の神)、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として、その御神徳は広大無辺です。私たちは常に大神様の御霊のお働きによって生かされており、人間生活に大変関わりの深い神様なのです。そして稲荷の大神様にお仕えする狐や馬は、八幡神社の鳩や氏神様の狛犬と同様に、神様のお使いをする「カミノツカイ」「ケンゾク」などと呼ばれる霊獣なのです。これは人間が持っているさまざまな欲望を、神様に直接お願いするのは畏れ多いこととして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが中世時代には行われたのです。神道の原形としてみると、山の神は春、山から降って田の神となり、稲作の収穫を終えた秋に山へ帰って、山の神となります。狐も農事の始まる初午ごろから収穫の終る秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる同じころに狐も山へ戻ります。このような神道の原形である田の神、山の神の信仰と、これらの神と同じ時期に人里に姿を見せる狐の行動が、「稲荷」と狐の関係を象徴しています。屋根や彫刻が立派である手水舎を後方から仲見世通りへこの日は観光客が少なかったが、菊まつりが行われるこのブログをアップする時期にはコロナの感染も落ち着き久しぶりに賑わっているのではなかろうか15:50笠間稲荷神社一の鳥居へ約20分の駈け足参拝であった笠間稲荷神社一の鳥居近くに貼られていたポスター「第114回 笠間の菊まつり」 日本最古の菊の祭典 令和3年10/23(土) ~ 11/23(火・祝)笠間稲荷神社一の鳥居前にある酒蔵笹目宗兵衛商店所在地:茨城県笠間市笠間1339笠間藩お抱えの醸造元だった経緯を持つ笹目宗兵衛商店。代々笠間稲荷神社の御神酒として奉納されています。頑ななまでに一本気な酒造りへの姿勢は、厳寒身を切るような大気の中で本当の銘酒を生み出すためにこだわり続けています。「松緑」は、甘・辛・酸・苦・渋の五味がほどよく調和した逸品です店内で試飲できたが、車の運転があるので軒先に杉玉笹目宗兵衛商店 蔵案内店内には食事処の「朱の門(あけのもん)」がある表札に稲荷神社 御神酒 松緑醸造元 幟には「笠間の地酒 二波山(ふたばやま) 松緑 笹兵衛商店」駐車場への途中、門前通りを振り返る。和菓子屋「中屋総本店」店頭でふかし立ての饅頭を販売している粒あん 300円、こしあん 200円と、少々高いか?おばあちゃんと息子かどうか二人で対応しておられたこの時間帯では既に仕込は終了していた。午前中なら蒸気が流れているのであろう。粒あんを一個購入門前通りを歩き駐車場へ。歩きながら饅頭を食べたが、あんがたっぷり入っていて美味しかった!道路脇にあった道案内16:00かさま歴史交流館井筒屋駐車場を出る。まだ時間が早く外も明るいので「曹洞宗 鳳台院」へ行くことにしカーナビをセット。旧国道50号線(結城街道)へ出て左折。16:05駐車場から旧国道50号線(結城街道)へ出て、前に車があり待機。その車のテールランプが点灯し二人してビックリ、急にバックして我が車にぶつかる。その車はそのまま急発進したため、我々も「当て逃げだ」といいながら追いかける。車のナンバーが「世田谷ナンバーで外車だ!」と言いながらパッシング追うが停車せず。我が車にはドライブレコーダーを付けていないので、写真撮影16:15三つ目の交差点で信号が赤になり停車して止まり、運転席から出てきて「すみません」と。相手運転手は事故慣れしてるのか方々へ電話していた。警察立ち合いで事故処理、16:45 解決我が車の右前のキズ。接触瞬間を感じていなかったので二人とも怪我がなくてよかった。車も大きく破損しておらず、照明も大丈夫であったのが幸いであった — 続く ー
2021.11.05
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衆議院選挙も終わり、コロナ感染者も減少、以前の生活に戻るのか・・・・・。そんな中、文化の日の昼前天気が良いので、ざる菊とひまわりが見頃であろうと思い愛車のリンちゃんで出かけた。場所は度々訪れている「茅ヶ崎小出川桜祭り」会場。所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番付近11月3日(水) 12:00萩園橋から小出川の上流側を望む。高架橋は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)ひまわりの会場アクセスは、● 茅ヶ崎駅の北口からコミュニティバス鶴嶺循環市立病院線鶴嶺北コースで「萩園橋」下車、 徒歩約6分● 茅ヶ崎駅の北口から神奈中バス 茅41・45系統「小谷」行きで「番場」下車、徒歩約10分どちらも1時間に2本程度の運行本数しかないので、時刻表を確かめてから行かれることをおすすめします。車の場合は、駐車場がないので道路脇への駐車となります会の方がテントを張り昼食中小出川の堤防に建つ掲示板掲示板に貼り紙11月7日(日) 10:00~14:00ひまわりの花 5本 200円で販売します ひまわりの会神奈川県茅ケ崎市の小出川沿いには、、約70本の河津桜が植えられている。春先には、河津桜、菜の花が咲き、紫陽花、秋には彼岸花が咲き四季折々楽しませてくれるざる菊とコキア今日は富士山はお隠れにひまわり会場ざる菊、コキアエリアの南側に植栽会の方に聞くと、今年の9月15日頃 2,500本ほど種を蒔いたとひまわりもいろんな種類があると背丈は1メートルも満たないひまわりの会場は二箇所ある。こちらは、県道44号線田端南交差点から萩園通りを南下、50メートル程で東側へ入る。ざる菊、コキア、ひまわりが咲く花とともにくらす会の会長さんがおられ、立ち話。 ① 今年は、ざる菊は病気で出来が悪かった ② ひまわりも数種類植えたが、植える時期を変える必要があったのか ③ 管理をする協力者を探していると ④ 活動は、第2、4日曜日の 9:00~12:00、12月は第2、3日曜日 END
2021.11.04
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回は13日間シリーズの 11/13です。10月6日(水) 14:51藩主下屋敷跡の時鐘楼左側の石段を登り、ここにも歌碑石碑には、「茨城百景」と刻まれている旧笠間町立美術館旧笠間町立美術館この建物は、旧笠間町立美術館である。太平洋戦争後まもなく、笠間町長根本政太郎は笠間の美術団体「常土社」の日本画家田中嘉三、高崎興、海老澤東丘、洋画家の本郷淳らの提案をうけ、笠間町の文化と芸術を核とした街づくり構想を策定し、その一つとして町立美術館建設をきめた。明治三十三年(1900)近衛師団の機動小演習が十一月十日から十七日までの八日間行われた。その視察のため、明治天皇は十五日から十七日までの三日間笠間に行幸された。明治天皇の宿泊所が当時の西茨城第一高等小学校の校舎で、その後「行在所」として今の山麓公園に保存されていた。笠間ではこの建物の一部を現在地に移築改修し「笠間町立美術館」とした。この美術館には当時国宝であった仏像の石膏コピーを安置する方針をたて、町は当時一流の技術者を招き、良質の石膏を集め三年近くかけて奈良薬師寺東塔の水煙や興福寺の仏頭等の石膏コピー仏八体を完成させた。昭和二十五年(1950)十一月一日、当時の奈良東大寺管長北河原公海や、後の奈良国立文化財研究所長小林剛ら関係者を招いて開眼式を挙行し公開された。美術館の入口には彫刻家平櫛田中の揮毫による「笠間美術館」の看板を掲げた。その後昭和二十八年二月には国宝コピー仏三体が加わり内容が充実した。日本初の石膏コピー仏を展示する町立美術館は広く名が知られていった。 笠間市教育委員会収納物は現在は新しい美術館に保存されているであろう藩主下屋敷跡に建つ「時鐘楼」を見下ろす旧笠間町立美術館の裏に、「笠間満州分村懐古之碑」戦時中に満州へ行かれた方たちの碑であろうか。ユニークなお城型の碑には稲穂のデザインが佐白山ハイキングコース、笠間城址公園への登り口に「忠魂碑」台座に「義士顕彰碑」、大きな玉には「誠」と義士顕彰碑建立記浅野家とあるので赤穂浪士に関連するものであろうか。残念ながら、読み取れず鎮 魂支那事変勃発直後の昭和十三年の春、吟詠こそ興國の正聲であるとの確信をもって、市内の先覚者達は笠間桂城吟詠会を創立した。當時の会員は憂国の至情に燃え、道義の昂揚と吟詠報國の大儀を掲げて吟道に情熱を傾けていたが、その年の旧八月十五夜に第一回忠魂慰霊名月吟詠大会を開催し、江湖の共感を得た。爾来終戦を挟んで数年の空白はあったが、毎年旧八月十五夜を期して、一貫してこれを行ない慰霊の誠を捧げてきた。往時を追懐するとき無量の感慨を禁じ得ない。而して本年をもって遂に第五十回の聖行を達成した。これを後世に傳えたい一念からこの碑を建立するものである。 平成七年九月九日(旧八月十五夜) 笠間桂城吟詠会治功神社(ちこうじんじゃ)佐白山麓の山麓公園山際に、神明鳥居と社名標柱が建ち、その奥に治功神社の社殿が鎮座しています。境内は山裾を削って平地にして約二反八畝歩あり、社殿の外に石灯籠一対、稲荷神社小祠、記念碑二基、歌碑一基が建てられています。拝殿左側に建つ、「治功神社修復記」残念ながら判読できず拝殿と本殿本殿は方一間の堀立高床式で高欄があり、戸口一つの平入り形式です。屋根は銅板葺き切妻造で、千木と五本の堅魚木(かつおぎ)をのせ、左右に棟持柱のある典型的な神明造りの社です。拝殿は間口二間、奥行一間半の切妻式コンクリート造りで、内部は壁のない空間になっています。治功神社本殿祭神は、笠間八万石の城主、牧野氏の始祖である武内宿禰(すくね)と歴代の当主、及び明治元年(1868)の戊辰戦争から西南の役、日清・日露戦争、第一次世界大戦まで、笠間町出身の戦死者27柱の霊も祀られています。創建は、明治十三年(1880)当時大和田にあった牧野邸(現在の笠間小学校校舎の地)裏手に建立されました。翌年に旧藩士たちが同志会的な「笠間追遠社」を結成して神社の護持にあたった。その後、牧野氏の所有地の現在地に大正十四年(1925)十二月に移転された。鳥居をくぐると左側に立つ「稲荷神社」稲荷神社の扁額、「正一位 稲荷大〇神」15:00ここから、 → 佐白山ハイキングコース、笠間城址公園、 ← つつじ公園佐白山皆さんに気軽に樹々とふれあい自然に親しんでいただくため、平成10年にいばらき森林浴の道100選が指定されました。笠間市街地の東に位置する佐白山はサクラ、スダジイなど様々な樹々が四季折々の姿をみせ、古い石垣や掘割が静かに往時の歴史をしのばせています。山頂に鎮座する佐志能神社の奥、巨岩が重なり合う石倉からは霞ヶ浦や鹿島灘まで望むことができます。森林浴の道をたどり、自然と歴史にふれあうひとときをお楽しみ下さい。 笠間市笠間の地は、・・・、第二の故郷・・・・・・ この石碑も読みとれず治功神社から藩主下屋敷跡へ四つのテスト言行はこれに照らしてから 1、真実かどうか 2、みんなに公平か 3、好意と友情を深めるか 4、みんなのためになるかどうか 笠間ロータリークラブ 時鐘楼笠間市指定有形文化財、「 時鐘 一口 」 指定日 昭和四十八年十二月七日 製 作 安永七年(1778) 形 態 高さ 142センチメートル 直径 74.8センチメートル時鐘は、笠間藩が寛文二年(1662)に正福寺の梵鐘を借り受け、大町の極楽寺(現在の八坂神社)の鐘楼を設け鐘を撞いたことが発端である。その後、藩は鐘楼を下屋敷の一角に移して鐘撞人三人を雇い、時鐘を撞かせた。現在の時鐘は三代目で、安永七年笠間藩領真壁郡田村(桜川市真壁町田)の鋳物師小田部家が鋳造した。鐘の形は頂上に「竜頭」という鐘を吊るす部分があり、胴体は中ふくらみのない関東型である。表面は「帯」といわれる縦と横の装飾の線でいくつかの面に区切られている。帯が下の方に交わるところ二か所に鐘を撞く「撞座」がある。鐘の響きをよくするために、「乳」という突起が全部で一〇八個ある。面の中央部に左記のような製作者の名が刻まれている。 常陸国真壁郡田村住 大工職鋳物師小田部助左衛門藤原助錦 分家 鋳物師同苗 庄右衛門 助信 同苗 助右衛門 包早 同苗 三郎兵衛 なお、鐘楼は昭和四十五年(1970)に佐白観世音寺(現正福寺)に移され、平成十三年(2001) に現在地に新築移転した。 笠間市教育委員会15:05笠間城主下屋敷跡を後にする15:15旧国道50号線(結城街道)沿いに建つ、「かさま歴史交流館井筒屋」。ここの駐車場に再度駐車して、笠間稲荷神社へ参拝することに人通りの少ない、門前通りを歩く左側に蔦が生い茂った「中屋総本店」所在地:茨城県笠間市笠間1356店頭で饅頭を蒸して販売していたので、参拝後食べることに石畳の門前通りを進むと右前方に、「ほんまや」所在地:茨城県笠間市笠間1193笠間焼はもちろん雑多な土産物があると。また、コンコンカフェで豆乳湯葉アイスを販売門前通りを振り返り、通りの奥正面に三階建ての「かさま歴史交流館井筒屋」。郵便ポストは大きな台座の上に・・・・・。掘りおこされたのか笠間焼 民芸品「田丸屋」笠間市は陶芸の里としても有名だ!。窯元は約300あり、笠間焼は紛れもなく同市最大の観光資源である。1772~81年に笠間在住の久野半右衛門が信楽(滋賀県)の陶工の指導で笠間焼を完成。江戸末期に笠間で修行した大塚啓三郎が栃木県で益子焼を始めた。田丸屋の左隣に、三宅裕司が「ふるさと探訪」で笠間を訪れた時立ち寄った「二ツ木」を発見。くるみ稲荷ずしの「二ツ木」所在地:茨城県笠間市笠間1343稲荷神社にまつわる特筆すべき話題が、平成18年(2006)に始まったB級グルメ「笠間のいなり寿司」だと。市内12店舗が協力してユニークな稲荷寿司を考案し、新名物づくりに奔走している。2008年には新キャラクター「笠間のいな吉」も登場。2010年には「笠間のいなり寿司いな吉会」も発足したと。三宅裕司が立ち寄った、「二ツ木」は、いなりずし好きの私にとって、今回の目的地でもあったのです。お土産用は別の店(きむらや)で既に購入していた。店先には「笠間いなり」の幟、看板には「白狐(びゃっこ)」神具店の「(有) ときわ」所在地:茨城県笠間市笠間1269-2ときわ神具のルーツは、初代が立ち上げた材木業にあります。培ってきた木材の目利きを活かし、「ときわ家具」へと事業を継承。現在の場所に店を構え、家具の一部として神棚の取り扱いを始めました。その後は時代の求めに応え、「デパートときわ」として百貨店に姿を変え、昭和55年より神具専門店として「ときわ神具」に。現在は女将 久野敬子が代表として、接客から店の運営までを担っておりますと。写真の方はここの女将さんで、掃除のかたわら迎えて頂き暫くお付き合い願い雑談。この時も緊急事態宣言解除前でマスク姿で対応。ネットでは雑貨店とあるがこのような店は、「神具店」ですと。鳥居、神棚、神具、ダルマを販売気になり値段を見ると、尺二寸外宮用台座 \278,000(税込)人工石台座 \23,000 銅板葺の社の値段は、?大小の銅板葺の社を販売門前通りの「高橋町」高橋町文禄3年(1594) 笠間城主玉生(たまにゅう)氏の代に石井の人々を移して町人町として創設された。この町の西端に中世、笠間氏の館の堀があったので、高い橋をかけたことから町名となった。15:32笠間稲荷神社の一の鳥居所在地:茨城県笠間市笠間1269平成28年(2016)10月に再建された大鳥居。日本三大稲荷のひとつとして広く人々に親しまれ、あらゆる殖産産業の守護神として、御神徳を慕って多くの参拝者が全国より参拝され、年間350万人を数えます。日本三大稲荷には諸説あるが、「京都の伏見稲荷大社、佐賀の祐徳稲荷、笠間稲荷の3つ。愛知県の豊川稲荷を加えることもありますと。鳥居の扁額、「笠間稲荷神社 宮司 中臣鹿島連 東男書」 参道の両側には、仲見世通りの土産物店が並ぶが観光客は少ない。以前は、二の鳥居があったようだが参道の両側には、「白狐」、仲見世通り。正面に、「楼門(萬世泰平門)」銅板葺の重厚な手水舎笠間稲荷神社の創建は白雉2年(651)、クルミの木の下にほこらを建てたのが起源とされる。その後、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。本殿は1854~1860年の建築で、1988年に国の重要文化財に指定された。入り母屋造りに銅板葺の屋根で、総欅の権現造りである。楼門(萬世泰平門)の右手前では、菊まつり用の準備中。楼門の左側(東)に建つ、「東門(総門)」文化13年に再建された入母屋造りの建物です。左右には奉納の毛綱があります。手前に「さざれ石」楼門(萬世泰平門)楼門の左右には、矢を背負い、剣を帯びた随身姿の神像が奉安されている向って右側の「奇磐間戸神」(クシイワマドノカミ)で左大臣向って左側の「豊磐間戸神」(トヨイワマドノカミ)で右大臣随身(ずいしん)の像 随身・神域の守り神「右大臣・左大臣」楼門(萬世泰平門)の左右には、矢を背負い、剣を帯びた随身姿の神像が奉安されています。右側が「豊磐間戸神」(トヨイワマドノカミ)で右大臣、左側が「奇磐間戸神」(クシイワマドノカミ)で左大臣といいます。この二柱の神は、稲荷の大神をお守りする門戸の神であるとともに、社殿や神域を守り、清浄にする神です。この随身の御姿は、文久年間に安芸の名工、鷲尾石鸞(わしおせきらん)によって作られました。 笠間稲荷神社 ー 続く ー
2021.11.04
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回は13日間シリーズの 10/13です。10月6日(水) 14:00 本丸跡からここ櫓門跡まではなだらかな道だったが、ここから天守台への道は少しだけ急な道に。天守曲輪入口天守曲輪入口に建つ石碑 入口手前右側に建つ石碑天守曲輪入口の石段下に立つ案内表示「佐志能神社」石段横に、「笠間城天主跡」の石柱が建つ、「主」は「守」では石段を登ると、目の前にシートで養生された石垣。東日本大震災の影響で立ち入りができない状態になっていたが、現在は立ち入り可能になっている。天守曲輪の石垣は高さ4mにも及ぶ大きなもので、「土造り」が主流の関東で石垣の城郭は非常に珍しく、「茨城県は笠間城が唯一」といわれている。 この最後の石段を登れば、そこは天守台。ここまで駐車場から15分ほどでした。下から見上げると、急な石段で手摺りもなく怖さを感じた。東日本大震災の影響か崩れた物もここで使用されている石は笠間産の御影石とのことで、この地が石の産地だったというのが大きな理由ではといわれている。茨城県内は石垣の城がほとんどなく、その中でも要所要所で石を積んでいる笠間城は、石垣を楽しめる貴重な城といえる。なかでも天守曲輪の石垣は見事! 蒲生氏の出身が、石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」のいる近江出身だったこともあり、石垣を構築したのは蒲生郷成の時代だと考えられている14:04佐志能神社天守は明治6年(1873)の廃城令を機に取り壊され、代わりに明治時代に建立された佐志能神社が鎮座している。天守の廃材は神社の拝殿に使われているといわれている。拝殿の石垣が一部崩れているが拝殿の扁額、「佐志能神社」佐志能神社拝殿立入について山頂に鎮座しております佐志能神社までの御登拝、誠にご苦労様です。さてこの度、当社拝殿への立入があるとの連絡を受けました。この拝殿は祭典など神事に使用する神聖な建物であり、容易に立ち入ることは関係者以外禁止とさせて頂いております。また、東日本大震災で被災した部分もあり、大変危険な状態となっております。以上のことを踏まえ、今後立入を確認しましたら警察などへの通報も視野に入れ、対応させて頂きますのでご了承下さい。これからも清々しく参拝が出来ますよう、引き続きご協力お願い致します。お帰りの際も気をつけて下山になり、またの御参拝を心よりお待ちしております。 佐志能神社 問い合わせ先(笠間稲荷神社内担当まで) 0296-73-0001拝殿前から右側へ回り本殿。佐志能神社が鎮座する阿武山は標高205メートル佐志能神社の裏側。笠間城のある佐白山は花崗岩が露出した山だったので、石垣を築くには都合が良かった。天守曲輪裏側の「石倉」と呼ばれる場所には巨石がゴロゴロと転がっており、石からは岩盤を割る際についた痕跡の「矢穴(やあな)」も見つけることができますと社殿の石垣も崩れ気味に、補修が必要ではなかろうかこの光景は、熊本城の石垣を思い起こすが天守曲輪の石垣を見上げる史跡 笠間城八幡台櫓跡ここは佐白山で標高182メートル八幡台櫓跡から土塁を西方向へ、前方に東屋土塁に建つ、「関東ふれあいの道」このあたりからの山並み宍ヶ崎櫓跡この先を左側に進み、階段を下りる尾根を下り、舗装された遊歩道へこの辺りの谷間に井戸があった14:25千人溜り駐車場へ降り立つ約40分の笠間城址の散策であったが誰にも会わず14:34千人溜り駐車場から下り、笠間稲荷神社 外苑駐車場(公営稲荷駐車場)へ。駐車場脇に建つ観光案内板「笠間市内まっぷ」この辺りのマップをズームアップ外苑駐車場(公営稲荷駐車場)下に「田町」の石碑慶長期(1596~1614)の初め笠間城主蒲生氏の代、田を埋めて登城路を作ったのでこの町名となった。寛永期(1624~43)末 浅野長直の代に下屋敷を台地に作り、この町を武家町にした史跡 大石邸址大石邸跡ここは、浅野氏赤穂藩の国家老で『忠臣蔵』の物語で名の知られた大石内蔵助良雄の曽祖父良勝及び祖父良欽が住んでいた屋敷跡である。浅野氏は、元和八年(1622)に笠間五万三千五百石の藩主になったが、その頃の笠間城は佐白山頂近くの本丸で政務を執っていた。浅野氏はよりよい政治をするため、城下町に近い台地(今の山麓公園)に笠間城の下屋敷として御殿を建て、また笠間城下町を整え現在の笠間市街地の基を作った。笠間藩主浅野長直の家老である大石氏は、御殿の直ぐ下にあたるこの地に屋敷を与えられていた。長直は、正保二年(1645)に赤穂へ国替えとなったが、その後の代々の笠間藩主もこの地を家老屋敷として与えていた。 笠間市【 浅野家・大石家と笠間市 】元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士が、亡き主君の浅野内匠頭長矩の仇討ちを実行しました。長矩の刃傷事件と赤穂浪士の仇討ちは、赤穂事件と呼ばれ、後に忠臣蔵として広く知られています。浅野家は、赤穂移封前は笠間藩主であったことから、笠間市も浅野家ゆかりの地の一つといえます。浅野家とは浅野家の出自は、美濃国土岐郡浅野村(岐阜県土岐市)を拠点とした土岐氏庶流の光時を始祖とします。豊臣政権で五奉行を務めていた浅野長政は、嫡子のいなかった浅野長勝の養子に迎えられ、早くから豊臣秀吉に属し、豊臣政権の中枢として活躍します。また、徳川家康とも親交があり、関ヶ原の戦いでは家康に従っています。慶長11年(1606)に隠居領として常陸国真壁・筑波両郡の内5万石が与えられ、真壁藩が立藩します。長政の嫡子幸長は、関ヶ原の戦いの後に紀州藩に封ぜられましたが、嗣子なく死去してしまったため、長政の次子長晟が宗家を継ぎ、後に広島藩に移封します。長政の三子長重は、赤穂藩主浅野家につながります。浅野長重と笠間藩長重は、天正16年(1588)に近江国に生まれました。慶長4年(1599)に江戸に移ると、二代将軍徳川秀忠の小姓となります。慶長6年(1601)には下野国真岡2万石が与えられ、真岡藩主となりました。慶長16年(1611)に父長政が死去すると、その遺領である真壁藩5万石を継ぎました。真壁藩主時代の長重は大坂の陣をはじめ、江戸城半蔵門の修復などの功績があり、加増転封の話がありましたが、父の遺領である真壁の領有を望みました。元和8年(1622)12月7日、真壁藩5万3000石と同じ石高で笠間藩に入封し、この時、真壁領の一部も笠間藩領となります。寛永9年(1632)に死去すると、長政と同様に伝正寺(桜川市真壁町)に葬られました。浅野長直と笠間藩長重を継いだ長直は、慶長15年(1610)の生まれであり、笠間藩主就任の前年に内匠頭に任じられています。長直の時代に、笠間城下町が整えられ、この時につくられた区割りや道路は、江戸時代を通じて大きな変化がなく、現在の笠間稲荷神社周辺の市街地の基となっています。さらに、町人町の「五か町」が完成し、武家町も新設しています。この城下の様子は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・国立公文書館蔵)に見ることができます。また、山城である笠間城は、政治を行うには不便なこともあったため、現在の佐白山ろく公園に下屋敷を建設しました。浅野家以後、下屋敷で政務が行われます。正保2年(1645)、浅野家は赤穂藩へ転封となります。幕府の許可なく下屋敷を建設したことが要因であるともいわれますが、赤穂は塩田の収益があり、本家の広島藩にも近い位置になるので、有益なものであったかもしれません。そして移封より57年後に長矩の刃傷事件が起こります。筆頭家老大石家浅野長矩の仇討ちで赤穂浪士を率いたのは、筆頭家老であった大石内蔵助良雄です。大石家は近江国栗太郡大石庄(現在の滋賀県大津市)の出身であり、下野小山氏の一族であるともいわれています。戦国期には、大石良信が豊臣秀次に仕えていました。良信の次男の良勝(良雄の曽祖父)は、仏門に入られましたが、14歳の時に寺を抜けて浪人となり、真岡藩主であった浅野長重に仕えます。良勝は長重に従って大坂の陣に参戦し、首級2つをとる活躍をしました。長重が笠間藩へ移封になった時も従い、長重の補佐を務め、その功績から1500石を拝領し、家老になります。この頃から内蔵助を名乗ります。良勝の子良欽も笠間藩時代に出仕しており、赤穂藩に移封後に家老になっています。良欽の子良昭は良雄の父にあたり、通称権内と呼ばれていました。生年は寛永17年(1640)であり、笠間藩時代に生まれたことになります。良昭は32歳の若さで死去してしまったため、家老職に就くことはありませんでした。このように、大石家は真岡藩時代の浅野長重に仕え、良勝、良欽、良雄は筆頭家老として浅野家を支えました。現在の笠間市と赤穂市このように、笠間市が赤穂藩浅野家のゆかりの地であることから、昭和55年(1980)11月7日、両市は姉妹都市を提携し、現在に至ります。 ※ 写真は、赤穂城の大手門【 赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち 】分家浅野氏の初代長重が元和8年(1622)12月に真壁藩から笠間藩に入封し、二代長直が寛永9年(1632)10月に藩主を相続して、正保2年(1645)6月に赤穂藩へ転封しました。浅野氏の笠間藩在任は約23年でした。■ 堀部弥兵衛金丸 寛永4年(1627)生まれで、父は笠間藩士の堀部弥兵衛です。19歳の時、赤穂に移ったので 義士の中では、唯一の笠間藩士でした。赤穂では300石取りになり、足軽大将を勤め江戸 留守居役に任じられました。・・・(後略)■ 吉田忠左衛門兼亮 寛永17年(1640)に笠間藩士の吉田助兵衛の嫡子として出生しました。赤穂に移転の時、兼 亮は6歳で、後に200石取りとなり、藩の足軽頭兼郡奉行を勤めました。・・・(後略)■ 間喜兵衛光延 寛永12年(1635)に出生し、父は笠間藩士の間左兵衛です。赤穂に移転の時、光延は11歳で 藩に出仕して、100石取り、勝手方吟味役になりました。・・・(中略)・・・。討ち入りに は、長男の間十次郎光興と次男の間新六光風と一家三人で加わりました。 ■ 間瀬久太夫正明 父は権太夫といい、寛永18年(1641)に正明が生まれました。赤穂に移転の時、正明は5歳 で、赤穂藩では大目付役で200石を給わりました。・・・(後略)■ 小野寺十内秀和 父の又八は浅野長重に仕え、秀和は寛永20年(1643)に出生し、3歳の時赤穂へ移転しまし た。赤穂藩150石取りで京都留守居役を勤めました。・・・(後略)大きな石碑が建つ「史蹟 大石邸址」大石内蔵助良雄像大石内蔵助良雄像兵庫県の赤穂城で見たが茨城県で見るとは・・・・・大石内蔵助良雄を統領とする赤穂浪士の義挙は天下に暄伝されて知らない人はいない。その主浅野公が父子二代に亘って笠間城を領し、良雄の祖父良欽が家老として此の地に住したことを知る人は寡ない。而してこの銅像建立の地こそ浅野藩邸を経営した由縁の地である。義挙の精神の源流は関東に尚武の氣風をもつて鳴った当地に発することを信じ、浅野家が笠間より赤穂に移って三百三十年の記念すべき年にこの銅像を建てるものである。 昭和四十七年十二月十四日 大石内蔵助良雄銅像建立委員会石碑が建っていたが笠間日動美術館所在地:茨城県笠間市笠間978-4 開館時間 午前9時30分 ~ 午後5時(入館受付は午後4時30分まで) 休館日 毎週月曜日 入館料 大人 1000円 65歳以上 800円昭和47年(1972) 11月に東京・銀座にある日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により、創業45年と金婚式を記念し、長谷川家ゆかりの地である笠間に創設された美術館。シルバニアファミリー展 2021年10月2日(土)ー 12月19日(日)9つの動物のファミリーと一つのお家、11種類の家具からスタートしたシルバニアファミリー。 現在では70の国と地域で、世代を超えて愛されている。本展では人形やお家、家具など一堂に集め公開。また、シルバニア村を再現した大型ジオラマやドールハウス作家の作品を特別展示している。笠間日動美術館の前庭にブロンズの、「アルヴェアール将軍の馬の頭部」アルヴェアール将軍の馬の頭部 アントワーヌ・ブールデル(1861ー1929)フランスの彫刻家である。オーギュスト・ロダン、アリスティド・マイヨールらと共に近代ヨーロッパの代表的彫刻家敷地内には、 「鴨居玲の部屋」を併設し、ピカソや藤田嗣治をはじめとする国内外の著名画家の展覧会を開催する企画展示館、 おもにフランス美術を常設するフランス館、「金山平三・佐竹徳記念室」を併設し、画家が愛用したパレットを常時200点以上展示するパレット館 、日本の著名彫刻家によるブロンズ像が佇む野外彫刻庭園があります。14:48笠間稲荷神社 外苑駐車場(公営稲荷駐車場)から車で登り、「佐白山麓公園」所在地:茨城県笠間市笠間1015史蹟 笠間城主下屋敷跡石碑の裏面に、浅野家が下屋敷をこの地に築いてから廃藩まで二百二十余年間代々の城主の屋敷がここにあった。○○以前は佐白山頂の本丸にあった上屋敷に住していた。 平成元年九月吉日 笠間義士会 建之佐白山麓公園に建つ「笠間市指定史跡 笠間城跡」1⃣ 笠間城跡の立地 笠間城跡は笠間市の北部、西麓に笠間盆地を見下ろす標高205mの佐白山上に立地し、 複雑に入り込む浸食谷により形成される尾根を巧みに利用する山城跡です。 旧城下町は、笠間稲荷神社を中心とした市街地になっており、往時の風情を残しています。2⃣ 笠間城の歴史 笠間城は、宇都宮一族であり、この地域を治めた笠間時朝によって、承久元年(1219)に築 城が開始され、嘉禎元年(1235)に完成したと伝えられています。この時に、築城以前に祀 られていた佐志能神社と正福寺の伽藍を破却・整理したといわれており、佐白山は信仰の 山であったことがうかがえます。完成後は笠間氏が歴代の城主を務めました。鎌倉時代に 山城を築き居城とすることは考えにくいので、笠間城の原型が出来上がったのは、室町時 代以降のことであり、戦国時代にかけて整備されたものと考えられます。・・・(以降略)3⃣ 笠間城の縄張り 笠間城の縄張りは、江戸時代の絵図で確認することが出来ます。佐白山頂付近の ①天守曲 輪をはじめ、②本丸 ③二曲輪 ④三曲輪が展開します。天守曲輪は、蒲生郷成が整備を 行ない、櫓を築いたといわれています。・・・・・(後略)4⃣ 石垣について 笠間城の特徴の一つとして、石垣を使用した城郭であることが挙げられます。近世城郭で は、石垣を構築することがよく見られますが、茨城県内においては、笠間城で唯一採用さ れています。現在も11か所で石垣が確認でき、石垣の構築年代には時期差がみられます。 特に、天守曲輪に残る石垣は高さ約4.3mであり、・・・・・(後略)5⃣ 笠間城跡の調査について 平成23年度に「笠間城跡保存整備基礎調査」の実施が予定されておりました。平成23年 3月11日に発生した東日本大震災により、天守曲輪の石垣が被災しましたが、もとより計 画されていた基礎調査を実施し、その結果に基づき、国指定史跡を目指すこととなりまし た。平成25年度には「笠間城跡調査指導委員会」を設置し、・・・・・(後略)佐白山麓公園にトイレがあったが、気になるものが目に入る壁面に、「まむしに注意!」佐白山麓公園に建つ「時鐘楼」田崎秀の歌碑「 やはらかに時鐘・・・・・ ゆく盆地 空気 吾も吸 ひと 秀 」田崎秀歌碑建設由来田崎秀君、大正六年茨城県協和町に生る。同八年笠間市に移住、旧制水戸中学、水戸高等学校を経て、昭和十六年千葉医大卒業。間もなく発病寮養生活に入る。昭和十三年より短歌活動を始め、三十三年歌友と共に「茨城歌人」を創刊、県歌担の統一をなす。著書「大洗」は茨城文芸賞、「清瀬」は療養文芸特別賞を受賞。昭和五十六年六月十五日没す。君の短歌文芸推進の功績を称え、ここに自筆の短歌を刻し、後世に伝うるものである。 昭和五十六年十月二十五日 田崎秀歌碑建設委員会 ー 続く ー
2021.11.03
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回は13日間シリーズの 9/13です。10月6日(水) 13:15かさま歴史交流館井筒屋所在地:茨城県笠間市笠間987開館時間:9:00 ~ 21:00 休館日:月曜日 入 館 料 :無料二階の展示場へ上る階段途中にあった、坂本九の結婚式の写真。「笠間稲荷神社にて結婚式 昭和46年12月8日」坂本九の母の実家が笠間にあり戦時中に疎開していた。昭和46年(1971) 笠間稲荷で柏木由紀子さんと式を挙げたことは、今も市民の自慢。披露宴では大好きだったカレーをふるまったという二階の歴史展示コーナー(笠間市の歴史博物館)かがやく! 笠間の先人たち笠間城初代の藩主「松平 康重(1568~1640)」家康覇権の先兵松平康重は、永禄11年(1568)三河国吉良(愛知県)の東条城で生まれました。慶長6年(1601)、「関ヶ原の戦い」の翌年に、武蔵国騎西(埼玉県)城主であった松平康重が3万石の笠間城主になりました。翌年5月、徳川軍に味方しなかった水戸城主佐竹義宜は、突然秋田(秋田県)に領地がえになりました。康重は、留守になった水戸城の二の丸の守りを命ぜられ、兵士を引き連れ水戸へ出発しました。佐竹氏転封の後始末徳川氏の使いへ城の引渡しが済むと、康重の役目も終わり、一時笠間へ戻りました。ところが、水戸ではその留守に、佐竹氏の元の家臣 車丹波らが、水戸城を奪い返そうとする企てがあるとの知らせが康重の耳に届きました。そこで軍を引きつれて急いで水戸へ引き返し、水戸城に駆け付けました。このとき笠間の町人も、武器を持って加勢しました。こうした康重軍と笠間勢の働きで、車丹波らが行動を起こす前に騒動を治め、水戸城を守ることができました。徳川氏は笠間町人のすばやい行動と協力に大変感心し、褒美として笠間城下町のすべての町人が土地の年貢(税金)を納めなくてもよいことにしました。笠間の町人は、その後笠間城主が代わっても、この約束を守るよう文書で取り交わして笠間城下町の〇〇にしました。幕府の地固めに尽力慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。この時笠間藩としてたまわった3万石の領地は、旧笠間市の大部分、・・・・・・・中略・・・・・康重は笠間の歴史を作った重要な先人と言えるでしょう。笠間藩政の資料をまとめた寺社町奉行「高橋義方(生年不明~1780)山外郷百姓一揆を収拾・・・・・・・・聞訟礎石集の編纂義方は、・・・・・笠間城の歴代城主笠間城の歴代城主は、笠間時朝から天正18年(1590)までは笠間氏が代々城主を務めていました。笠間氏の没落後、宇都宮氏家臣の玉生高宗が、慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易になるまで笠間城主を務め、翌慶長3年には、蒲生郷成が城主となります。関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)に松平康重が初代笠間藩主となりますが、江戸時代中期までは頻繁に笠間藩主が入れ替わり、小笠原家、戸田松平家、永井家、浅野家、井上家、本庄家、そして井上家が2度目の笠間藩主を務めます。延享4年(1747)に延岡藩から牧野家が移封されると、牧野家が藩主のまま明治維新を迎えることになります。 歴代の笠間城主 ※ 中世は城主、近世は笠間藩主船の模型は「咸臨丸」写真は、「小野友五郎(51歳)」小野友五郎年譜(1817.12.1 ~ 1898.10.29)小野友五郎は元常陸笠間藩士、後に幕臣。江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚。諱は広胖。官位は内膳正。和算家としては広胖、洋算家としては友五郎と呼ばれることが多い安政7年(1860) 41歳 一月 咸臨丸航海長として米国に浦賀から出帆小野使節団小野使節団とは、幕末期の徳川幕府が海軍力を増強するため南北戦争直後のアメリカに軍艦や兵器を購入するため小野友五郎を正史とする使節団をアメリカに派遣した。 使節団正史 勘定吟味役 小野友五郎 副使 開成所頭取並 松本寿太夫 外国方 調役次席・翻訳御用 福沢諭吉 通弁御用出役 津田仙弥 通弁御用御雇 尺 振八 海軍方 小十人格軍艦組一等 小笠原賢三 同 岩田平作 勘定吟味方 下 役 神野信之丞 小野の従者 関・石川地図は「小野使節団航路図」小野使節団行程(旧暦表示)慶応3年 1月23日 横浜発(米船コロラド号) 2月26日 サンフランシスコ着 3月19日 ニューヨーク着 3月22日 ワシントン着 5月10日 ニューヨーク発 6月5日 サンフランシスコ発 6月26日 横浜着 日本古城絵図 常州笠間城初(国立国会図書館蔵) 年 代:寛文年間 ~ 元禄年間頃 寸 法:78cm × 81cm松平康重が笠間藩主を務めていた時代の笠間城の姿を描いたとされる絵図。旧鳥羽藩主稲垣家旧蔵の城郭絵図集の中の一つであり、笠間城初は松井松平家文書中にある慶長年間の笠間城絵図の精巧な写しと考えられる。笠間城が近世城郭として整備された当初の蒲生郷成時代から松平康重時代の笠間城の姿をうかがわせるものである。曲輪の規模が記載されており、大手口の向かいには正福寺が描かれている。小野友五郎と鉄道左:東京青森間 { 東北本線 } の調査測量出仕命令書 壬申十一年二日 工務省右:中山鉄道建設調査測量出仕命令書 明治六年三月廿九日 工部省 友五郎は東海道線も調査測量し東海道線案が採用された。小野友五郎と鉄道友五郎は二度にわたる訪米の際、蒸気列車を見てこれからの日本の富国殖産振興には鉄道が必須であると考えていた。明治新政府の民部省に移った友五郎は日本で最初の東京と横浜間の鉄道建設に際し、横浜と六郷川間の側量技師長として活躍した。その後、東海道線と中仙道線の調査測量を佐藤政養と共に行い、東海道線案が採用されている。東京青森間・九州炭鉱鉄道の調査測量も実施している。日本の鉄道史では友五郎を抜きには語れない。かさま歴史交流館井筒屋前から、門前通り友部笠間下水道「おすい」マンホール蓋。デザインは、市の花・キク。友部町と笠間市は広域組合を結成。その後、友部町、笠間市、岩間町が合併、笠間市に。友部町の処理施設に笠間市が相乗りのため、最初に友部の名前。岩間町は独自処理している13:35そば・うどん・いなり寿司「きむらや」所在地:茨城県笠間市笠間1351稲荷神社にまつわる特筆すべき話題が、2006年に始まったB級グルメ「笠間のいなり寿司」。市内12店舗が協力してユニークな稲荷寿司を考案し、新名物づくりに奔走している。2008年には新キャラクター「笠間のいな吉」も登場。2010年には「笠間のいなり寿司いな吉会」も発足したと。いろんな稲荷があり、くるみいなり、いなり寿司、そばいなり 5個700円等々店先には多くの貼り紙があり、かつて故地井武男が訪れ、『ちい散歩』で紹介されました! と。三宅裕司の「ふるさと探訪」でも笠間を訪れた時、別の店(二ツ木)に立ち寄っていたちい散歩は、俳優の故地井武男が 2006年4月3日から2012年5月4日まで、テレビ朝日で放送された『散歩シリーズ』の紀行番組である。地井が '12年6月29日死亡後の、『散歩シリーズ』は、現在三代目高田純次の『じゅん散歩』で放送されている昼食用とお土産用を購入このあと、笠間城址へハンドルを切る。13:40笠間城址への途中にあった「坂本九 歌碑」、車を道路脇に駐車坂本九 歌碑所在地:茨城県笠間市笠間616-7石碑には、「坂本九の横顔」と「上を向いて歩こう」の楽譜今でもフアンが多く訪れていると坂本九の歌碑の奥に「弁才天」社の前を草が生い茂る左側には女人像花が供えられているので地元の人々に近くに坂本九が小学校1年生の春まで疎開して住んでいた母の実家があったようだが未確認坂本九の歌碑から更に坂道を登ると、道路に大きな石が転がる石の裏側に廻ると「大黒石」の説明板鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止まったといわれています。この大黒石の中ほどに小穴があり大黒のおへそといわれ、このへそに小石を三度つづけて投げそのうち一つでも入れば、幸せがあると伝えられています。 環境庁・茨城県観光物産課13:47千人溜り駐車場所在地:茨城県笠間市笠間笠間城址の下にある無料の公営駐車場である笠間市指定史跡 平成5年3月26日 指定 笠間城跡 築城年代:承久元年(1219) 築城者:笠間時朝 形態:山城概要 笠間城は、笠間氏の初代時朝の築城伝承を持ち、中世は笠間氏の居城として使用されました。 天正18年(1590)に笠間氏が没落すると、宇都宮氏家臣の玉生氏が、慶長3年(1598)には、蒲 生郷成が城主になりました。この郷成が笠間城を近世城郭として変貌させたと考えられます。 近世は笠間藩の居城として機能し、政務の利便性のために下屋敷が建設された後も、山城部分 は維持されました。茨城県では唯一本格的な石垣が築かれており、当時の姿を見ることができ ます。保存に向けて 平成26年度より、笠間城跡の本格的な調査を実施しています。周辺地形図の作成や考古学的 調査など、各種調査を実施しており、これらの成果を蓄積することで、中世城郭・近世城郭の 笠間城の姿を解明し、国指定史跡の指定を目指します。これまでの調査成果 現在まで、天守曲輪石垣の応急処置、周辺地形図の作成、本丸跡地下探査および微地形測量、 古文書調査を行ってきました。特に、地形図の完成により、笠間城の縄張の詳細が確認でき、 「正保の城絵図」の笠間城の姿と対比することができます。⑦⑧⑨のように、近世は城郭とし て把握されていない部分にも、城郭関連遺構がみられることが確認できました。※ 来城者の皆様へ 笠間城跡周辺は多くの木々に覆われているため、強風や台風などの影響により倒木や落枝が 発生しています。強風時や台風接近時は、ご来城をご遠慮下さいますようお願いいたします。 なお、やむなく駐車場を閉鎖することがございますので、ご了承ください。 令和2年11月設置 笠間市教育委員会かさま歴史交流館井筒屋2階・歴史展示コーナー内にある模型。標高207mの佐白山(さしろさん)に築かれた笠間城。天正18年(1590)豊臣秀吉による「小田原攻め」まで、笠間氏が約380年にわたり代々城主を勤めた。北条氏に味方した笠間氏が滅亡した後は宇都宮氏の家臣が入城。この頃の笠間城は、山の地形を利用し土塁や堀切を設けた、いわゆる中世城郭でしたが、慶長3年(1598)に蒲生郷成が入り登城路の修復や天守曲輪の整備を実施。近世城郭へと姿を変えた石碑には、「佐白山観光道路完成之碑」関東ふれあいの道 茨城県コース案内。関東ふれあいの道は、首都圏に残された美しい自然や歴史遺産などを結び、首都圏を一周する全長 1,799kmの長距離自然歩道です。茨城県コースは、全18コースで結ばれ、御前山・笠間県立自然公園、筑波研究学園都市、水郷筑波国定公園等を通る全長約255kmのふれあいの道です。 4⃣ 焼物とお稲荷さんへのみちこの「みち」は、石寺から笠間駅を結ぶコースで、弥勒堂、笠間稲荷神社などを巡る延長約14kmの一般向けの歩道です。コース内には、笠間稲荷神社や、ツツジの名所として知られるつつじ公園、笠間城跡のある佐白山、日動美術館などの見どころがあります。笠間焼の産地として知られる市内には、200を超える作家が軒を並べ、江戸時代から続く伝統を受け継いでいます。現存する登り窯の見学、ギャラリー散策や陶芸体験を楽しむことができます。駐車場の隅に建つ石碑、「史跡 千人溜り跡」石碑の裏に、「この広場は、いざ出陣というとき武士が集結した所で古図には駒場丸といい俗にこの称がある」 平成二年十月吉日 笠間義士会 建之史跡 笠間城大手門跡登山道脇に、ミズヒキ笠間城「大手門跡」の石柱を過ぎ、右手に石垣、石段があり、「玄関門」石垣には木の根が絡み一部崩壊状態に。東日本大震災により、天守曲輪の石垣や石段が崩壊するなど大きな被害があったため、修復に向けた工法等の検討をしていると石段を登ると本丸跡の広場。写真の奥にあるのが八幡台櫓が建っていた巨大な土塁。本丸には御殿などが置かれていた当時、本丸には八幡台櫓や宍ヶ崎櫓、御殿、城門などが構えられており、なんといっても本丸と天守のある曲輪が別々に設けられていた点が特徴的です。1640年頃までは本丸の御殿で生活してたようですが、多くの家臣が働くには手狭になり、また山道を登る出勤も大変だったことから、浅野長直が藩主の代に山麓にある下屋敷へと移りました本丸跡隅に石碑笠間時朝公を追慕して・・・・・・・・・・・・ 判読できず たま○○、時朝公築城七百五十年祭を行うに当り、いささか○○を述べ、その遺徳を偲ぶ次第である。 昭和三十九年九月二十二日 笠間市長 長谷川 好三汚れを整備してほしいものです!こちらにも石碑が2基あるが、説明板がなく。藤原時朝・・・・・・・「君が身にひとり・・・・・・ 心のたけもあらはれにける」この石碑は?石碑には、「修井碑」とあるが、残念ながら字が判読できず佐白山皆さんに気軽に樹々にふれあい自然に親しんでいただくため、平成10年にいばらき森林浴の道100選に指定されました。笠間市街地の東に位置する佐白山はサクラ、スダジイなど様々な樹々が四季折々の姿をみせ、古い石垣や掘割が静かに往時の歴史をしのばせています。山頂に鎮座する佐志能神社の奥、巨岩が重なり合う石倉からは霞ヶ浦や鹿島灘まで望むことができます。森林浴の道をたどり、自然と歴史にふれあうひとときをお楽しみ下さい。 笠間市新しい石柱には「笠間城跡」市指定文化財 平成五年三月二十六日 平成十三年六月二十日 笠間市教育委員会虎口跡残念ながら説明板の前に木が覆いかぶさり、笠間城についてここ佐白山は、「お城山」ともよばれ、・・・・・・・昔、鎌倉時代に笠間地方・初代の城主笠間時朝によって・・・・・があり、明治の始めまで約六百年間、地方政治の中心地であったから・・・城の地積は、およそ一万六千平方メートルと推測○○、天然の地形を巧みに利用・・・・・曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿守曲輪」を設○、○○には白壁の塀を・・・・・門でかため、要所には「宍ヶ崎櫓」「八幡台櫓」「御殿」「城門」を配置し、守る・・・・・要害堅固な山城であった。今は苔むした石垣礎石・・・・・みである。想を江戸の昔にはせれば、緑・・・・・・山頂に八万石の偉容を誇るかにそそり立つ二層・・・・・とたたえるにふさわしい名城そのものでも○○本丸跡奥に建つ石碑ここ佐白山は、古くから正福寺や百坊があって、信仰の山として栄えていた。鎌倉時代の初め正福寺と穂蔵寺の勢力争いのため、下野国からつかわされた藤原時朝が、正福寺と百坊を滅して城を築き、笠間氏を名乗ってこの地方を支配した。笠間氏は十八代續き天正十八年(1590)に亡んだ。その後、蒲生、松平、小笠原、永井、浅野、井上、本庄などの諸氏が相継いだが、延享四年(1747)から廃藩まで牧野氏の居城となった。明治初年、本丸下屋敷などの殆どがこわされ、今は苔むす石畳を残すのみとなったが自然の要害をたくみに利用した関東地方では珍しい山城の遺跡である。 笠間市石碑には、「ちとせまつ」石柱の囲いの中には、サクラ13:59本丸と天守曲輪の間には空堀櫓門跡へ ー 続く ー
2021.11.02
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緊急事態宣言解除後に、久しぶりに旅友と出かけた茨城県下の続日本百名城と近郊の名所・史跡を巡ったブログです。今回は13日間シリーズの 8/13です。10月6日(水) 11:19東 櫓東櫓は明治時代の火災で本丸館とともに失われましたが、平成10年(1998)に復元されました。復元された東櫓は、江戸時代の建築技術を継承しながら現代工法も取り入れた建物となっており、博物館の付属展示館として土浦城を紹介しています。構造形式木造本瓦葺き 二階建(二層二階)入母屋造り1階 4間×5間=20坪2階 3間×4間=12坪 計32坪(約111.1㎡)土浦城東櫓は譜代大名西尾氏が土浦城主であったときに建てられたと伝えられ、西櫓とともに東西の土塁の上に存在していました。「櫓」は、もともとは城の防御の拠点の一つとしての物見の役割や、武器庫の役割をもった建物でした。それに加えて、江戸時代の東櫓は貴重品などを入れておく文庫蔵の役割を果たしたと考えられます。■ 開館時間 午前9時 ~ 午後4時30分 9:00 AM ~ 4:30 PM■ 休 館 日 月曜日、祝日の翌日■ 入 館 料 一般 105円(75円) ( )内は20名以上の団体料金👉 入館券販売・スタンプ押印は博物館です続日本100名城のスタンプはここにあると書かれていたが、博物館であると!東櫓の入館券は、博物館で購入土浦城霞門(裏門)土浦城霞門は江戸時代中期の貞享元年(1684)、松平信興が藩主時代に造営された建物です。土浦城本丸の東側に位置し、2層の東櫓(平成10年:1998年、土浦市立博物館の付属展示館として復元)と枡形を形成しています。土浦城の裏側(搦手)にあたる事から裏門、又は霞橋と隣接している事から霞門と呼ばれています。切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門形式、袖壁付、門扉に潜戸付。霞橋と霞門、後方に東櫓石碑には、「史跡 土浦城址及び櫓門 指定 茨城県教育委員会」続日本百名城のスタンプが、土浦市立博物館にあるので向かう。内濠の向こうに重厚な「土浦市立博物館」土浦市立博物館所在地:茨城県土浦市中央1丁目15-18土浦の歴史と文化について展示を行う施設であり、国宝や重要文化財を含む土浦藩主の土屋家が所有していた刀剣類を所蔵する。 1988年に県南地区初の大規模博物館として開館し、2007年に展示が大幅に更新された。営業時間 9:00 ~ 16:30休 館 日 月曜日入 館 料 一般 105円(75円) ( )内は20名以上の団体料金 続日本100名城のスタンプは土浦市立博物館入口に置かれていた。土浦市立博物館 利用案内 入館料 一般 105円 団体(20名以上) 1名 75円 児童/生徒 50円 〃 1名 30円 開館時間 午前9時 ~ 午後4時30分新型コロナウイルス感染防止のためのお願い。9月末まで、緊急事態宣言でスタンプ押印は中止していたスタンプ土浦市立博物館の前に石碑が立ち並んでいたが、区画整理等で別の場所から移築された石碑群。土浦領境界石、「従是南土浦領」土浦領境界石この境界石は、江戸時代に水戸街道に面して、土浦領と他領との領界に建てられていたものです。「従是北土浦領」は現在の土浦市中村に、「従是南土浦領」は中貫にあり、それぞれ塚が築かれ、その上に設置されていました。土浦藩主の土屋篤直(1732~1776)が描いた『土浦道中絵図』の中にも、この境界石が描かれています。土浦城櫓門の礎石 8個土浦城櫓門の礎石ここにある8個の石は、土浦城本丸入口にある櫓門の礎石です。昭和62年(1987)の櫓門解体修理の際、発掘調査によって現在の礎石の下から発見されました。おそらくは、明暦2年(1656)と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われます。石材は、すべて輝石安山岩(伊豆石)です。大きい方の長方形の石は、扉の両側に使われました。どの石にも柱を差し込む「枘穴(ほぞあな)」があいています。真鍋の道標市指定文化財 真鍋の道標市指定文化財 真鍋の道標 昭和46年(1971)7月13日 指定この道標は真鍋坂上の水戸街道と筑波街道の分岐点にあった土浦最古の道標である。「建立 享保十七壬子年(1732) 土浦 □人」「右 ふちう(府中、今の石岡市) 水戸道」「左 きよたき(新治村清滝観音) つくば道」 とある。三面の先頭にある文字は勢至菩薩(せいしぼさつ)を表す梵字。二十三夜の月の主尊であり、この碑はその供養碑でもある。旅人を助ける道しるべを建て、その功徳によって二世(現世と来世)の安楽を願う二十三夜講の人々が建てたものと思われる。右下に、「手野町所在の道標」中央は、「従是北土浦領」、現在の土浦市中村にあった石碑手野町所在の道標市内東部の手野町字新堀地内の国道354号沿いにあった道標を、同国道の拡幅工事に伴って移設したものです。正面上方には、梵字「カ(地蔵菩薩)」を配し、「右 とざきむら(戸崎村)」、「中 加も村(加茂村) うしわた村(牛渡村)」、「左 すげのや村(菅谷村) 中つまぎ(中妻木) なるい村(成井村) 田ぶせむら(田伏村)」、向かって右側面には、「天明元年 辛丑 四月吉日建之 手野村」と明瞭に文字が彫られています。天明元年(1781)は江戸時代後期にあたります。この道標は、当時の手野村の人々によって建てられたものです。そこには、庶民の地蔵菩薩に対する信仰心も読み取ることができます。 ※「中妻木」は、かすみがうら市深谷地内の地名です。 平成24(2012)年3月 土浦市教育委員会11:34土浦市立博物館でスタンプを捺印後、二の丸跡を通り抜け、聖徳太子堂内濠と東櫓聖徳太子堂の石鳥居鳥居の扁額、「聖徳太子堂」聖徳太子堂の由来この御堂は、日本文化と日本仏教の元祖である聖徳太子を祀る。境内の聖徳太子報恩碑は、昭和十一年に土浦の有志により桜川畔に建てられ、次いで昭和四十年、土手の改修工事の為移される事になり、時の市長天谷丒之助氏の厚意により、土浦五職組合の人々が、この場所に移し、御堂を建て太子御尊像を奉納した。以後、五職組合の人々が聖徳太子奉賛会を興し、職祖神として太子をお祀りしている。 ● 聖徳太子の伝記と主な行積 敏達天皇三年御生誕(西暦574年) 父 用明天皇 皇太子時代(母、穴穂部間人皇女) 厩戸豊聡耳(うまやどとよさとみみ)皇子、上宮太子とも呼ばれる。 祖父 欽明天皇の時代、最初の仏教伝来あり(538年)。 現在の韓国(当時の百済・高句麗・新羅)より、多くの経典・僧侶・大工・鑪盤師・互師・ 画工・来る。太子は幼時より是等の人々に学問、技術を学び、仏教を大いに信仰し国民 に弘める。 二十才 推古天皇(叔母)の摂政皇太子となる。益々、仏教を信仰し大阪に四天王寺を建て る。推古十一年 冠位十二階を制定し人材の登用をはかる(602年)。推古十二年 憲法十七 條を制定し天皇の尊厳並びに豪族の融和をはかる。 現在の中国(当時の隋)とも外交を結ぶ(607年)。 是等の中国、韓国の国々より建築技術者、仏師、画工、医学博士、暦本天文地理学者、絵具、 筆、墨、紙、布、等の製造技術者、楽人、伎楽舞人等を呼び・・・・・。 国民に学問研究、寺院建築、仏像彫刻、絵画製作、舞楽の研究、絵具、筆、墨、紙、布、薬品 等の製造と販売等を指導し、又 農耕を国是とした。 高麗僧 恵慈を師とし、百済僧 恵聡よりも深く仏教を学び 法隆寺を建立する(607年)。 三経義疏(さんぎょうぎしょ)(法華経・勝鬘経・維麻経・の注釈書)を著はす。609年より615 年にわたり完成する)。 推古三十年二月二十二日 四十九才にて御逝去(622年)。 大阪 南河内太子町磯長に御廟あり。 現在、太陽暦に換算し四月十一日を御命日とす。 当奉賛会に於ては毎年四月中旬御堂前に於て、奉賛、法要を行っている。 川村歌子 記内濠に架かる霞橋、東櫓春には約50本のソメイヨシノが城址に彩を添える内濠と、本丸跡の土壁土浦城址の東側を走る亀城通り(国道125号)に建つ案内板。亀城公園案内図土浦城は別名「亀城」とも呼ばれています。室町時代頃に築かれ、戦国時代には小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となりました。江戸時代前期の〔藤井〕松平氏・西尾市・朽木氏の時におおむね整備され、17世紀終わり頃〔大河内〕松平氏の時に近世軍学による大規模な改修が行われました。なお土浦藩は江戸時代中期以降に城主となった土屋家の時に藩領9万5千石となり、常陸国内では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇りました。明治時代以降、本丸跡には新治郡役所等が置かれましたが後に移転し、昭和9年(1934)に本丸及び二ノ丸の大半を整備した「亀城公園」が完成しました。昭和27年(1952)には「土浦城跡及び櫓門」として茨城県指定史跡第1号となりました。櫓門は明暦2年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸に建つ江戸時代の櫓門としては関東地方で現存する唯一のものです。階上に太鼓を置き時刻を知らせたことから「太鼓櫓」ともいわれます。公園内にはこのほか霞門(現存)、旧前川口門(1980年現在地に移設)、西櫓(1991年復元)、東櫓(1998年復元)、本丸の土塀(2005年復元)などがあります。 土浦市景観重要建造物 指定第4号「土浦城址歴史的建造物」 指定年月日 令和3年7月13日亀城公園案内図 亀城通り(国道125号)沿いに立つ、お食事処の「亀屋食堂」。所在地:茨城県土浦市中央1丁目13昭和の雰囲気を漂わせており、店先には、本日のランチ「オムライス ¥700(税込)」と。ちょうど昼時で、リーズナブルな価格で食べたかったが、カツ丼も亀城通り(国道125号)沿いに立つ商店ビル。かつては賑わっていたのであろうが客足はなくシャッター街亀城通り(国道125号)の中央一丁目交差点、ここを右折し中城通り(旧水戸街道)へ進み駐車場ヘ。交差点角に立つ、天ぷら店の「保立食堂」。所在地:茨城県土浦市中央1丁目2-13この日は営業していたのか、天丼、かき揚げが美味しいと!桜橋の跡(市指定史跡)保立食堂の店先に立つ桜橋の親柱掃除小僧の像コロナに負けるな!私の願い 街をきれいにしましょう かね藤のおやじ11:45中城通り(旧水戸街道)に入り、駐車場はここを右に入る。街道は城下町特有の直線でない道。左前方に、土浦まちかど蔵・大徳、右側に土浦まちかど蔵・野村。土浦まちかど散策を1時間15分楽しみ駐車場へ戻るが、担当者も不在で無料であった次に訪れる笠間城のスタンプ置き場「かさま歴史交流館井筒屋」をカーナビで検索するが無く、電話番号で検索し進む。11:54国道125号を石岡に向けて走る。この辺りは、土浦市真鍋2丁目12:12若松町交差点から県道64号線(土浦笠間線)を北上、中貫バイパス入口交差点で国道6号と合流。引き続き国道6号(土浦バイパス)を北上、千代田庁舎入口交差点千代田庁舎入口交差点近くの、千代田大橋下流は霞ヶ浦に至る12:22国道355号に突き当たる。石岡地方斎場 ← 5.2km恋瀬橋北交差点を右方向へ進み、水戸・石岡市街方面へ12:25国道6号の国府7丁目交差点を左前方に進み、国道355号を北上。日本プロゴルフシニア選手権大会の看板 → ギャラリー P会 場:サミットゴルフクラブ(茨城県石岡市)開催日:10月7日(木)~10月9日(土)※ この看板は10月11日までに自主撤去いたしますバイパス(国道355号)を快調に進む12:33バイパス(国道355号)を進み、国道355号を横切り筑西・笠間方面へ。右前方に、「セブンイレブン石岡東成井店」この辺りは、茨城県石岡市1866-112:55カーナビを、TEL:0296-71-8118 でセットして「笠間市商工課観光課」へ到着。ここには続日本百名城のスタンプは無いため、再度 iPhoneで検索。その案内に従って、「かさま歴史交流館井筒屋」へ進むが、9.1km、所要時間は15分と。13:10かさま歴史交流館井筒屋の駐車場へ駐車駐車台数は13台で無料かさま歴史交流館井筒屋所在地:茨城県笠間市笠間987開館時間:9:00 ~ 21:00 休館日:月曜日入 館 料 :無料かさま歴史交流館井筒屋明治中期建築で木造3階建ての歴史ある建物「旧井筒屋本館」を、建築当時の雰囲気を残しつつリノベーションを施し平成30年4月1日にオープンしました。笠間の歴史や観光情報の発信、市民や観光客等の交流促進により、地域活性化を推進します。1階は笠間城スタンプ設置所、観光案内所、井筒屋カフェを併設2階は歴史展示コーナー(笠間市の歴史博物館)3階は貸し会議室がありますかさま歴史交流館井筒屋は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、9月30日(木)まで1階インフォメーションのみの開館であった。これで続日本百名城のスタンプ捺印は、32/100 となる。今朝自宅を出発時には栃木県下も予定していたが、時間がなくなり受付時間に間に合わないので次回とする。今回は2城の制覇となる。明治時代に移築された笠間城櫓(茨城県指定文化財)本丸の八幡台にあった二重櫓。明治13年(1880)に真浄寺に移築され、七面堂として使用されている。(写真はスタンプ帳から)かさま歴史交流館井筒屋裏の広場13:14人力車が置かれていたが ー 続く ー
2021.11.01
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