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2019.06.16
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カテゴリ: 独生女考
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以下は「真の御父母様の生涯路程10」からの抜粋。
(註:()番号はtomy4509が付けたもの)

​真のお母様のみ言(1)
 私は、一九四三年陰暦一月六日午前四時三十分、平安南道安州郡安州邑信義里二六番地で生まれました。今まで故郷の安州の住所を覚えているということは殊勝なことでしょう? 私が生まれる時に外祖父(洪唯一先生)が「今、何時か見ておきなさい」とおっしゃられて、正確な時間が分かるようになったのです。

 そして生まれる時、韓氏の父(韓承運先生)は、胎夢(妊娠する徴候となる夢)と言うより夢示(夢の啓示)、幻を見られたということです。とても鬱蒼とした青い松林の中に清らかで美しい日が射し、二羽の鶴が和動する姿が見えたそうです。それで、名前を「鶴子」とつけられたのです。

 私の村は、ひどい片田舎ではありませんでした。家の裏には丘があり、小川が流れる、とても穏やかで暖かい感じを与える所でした。ちょうどめんどりがひなを抱くようにです。裏庭では、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことを思い出します。

 真のお父様の故郷である定州は、私の故郷の安州と川を一つ挟んだ所にあり、七里の距離です。一九九一年十二月に定州に行った時、ヘリコプターで安州を通り過ぎましたが、アパート団地が建っていて全く変わった姿になっていました。真のお父様の故郷である定州よりも、もう少し市街地へと変わっていたのです。

​真のお母様のみ言(2)

​​  韓氏の父は、新イエス教の篤実な信仰者でした。李龍道牧師、李浩彬牧師、彼らに従って大母様と一緒に信仰生活をされました。二人が結婚して赤ん坊をもてば、天が大きく用いられる息子が生まれるという啓示を受けたのですが、娘が生まれたのです。その李浩彬牧師は、真のお父様と崔先吉さんの主礼も行い、母方の叔父の主礼も行いました。

 外祖父の洪唯一おじいさんは、背が高く美男子でした。だから私が初めて真のお父様にお会いした時も、外祖父と姿がとてもよく似ていて同じ印象だったので、見知らぬ人のような感じもせず、恐ろしくもありませんでした。また、その時代に、嫁にハイヒールを買ってあげるほどのおじいさんだったことが思い出されます。

 趙元模おばあさんは小さくてかわいらしい上に、勤勉で活動的でした。勉強はあまりすることができませんでしたが、開化期の新しい教育を受けた女性であり、ミシン商会をしていらっしゃいました。販売したあとに集金する時、故障した物は修理してあげたりもしていました。

​ 私の家門の歴史を見たときに、母方を見れば、趙氏おばあさん、大母様、そして私のすべて一人娘でしたが、お父様は「それはすべて意味がある」とおっしゃいました。大母様も娘一人、また外祖母である趙氏おばあさんも娘一人だったのです。趙氏おばあさんは定州でお生まれになったのですが、その趙氏の家族は、定州の地でとても裕福だったそうです。皆さんが知っている弥勒菩薩の信仰をもっていらっしゃいました。​

 弥勒菩薩の歴史について話せば、これは伝説ではなく、本当にあった話です。私の家はキリスト教の家庭だったので先祖を崇拝せず、何代かはよく知りませんが、我が国が中国の属国の立場にあった時のことだそうです。中国の使臣が韓国へ来ようとすれば、定州の撻來川を渡らなければならないのですが、その当時、橋がなかったのです。橋を架けるお金が国になかったということでしょう。それで、その橋を架けることができる人を探すために公示文を貼っておいたのです。

 その時、おじいさんの趙漢俊氏という方が、私財を投げ打ってその橋を架けたのです。橋は石橋でしたが、橋の下を船が通り抜けることができるほど大きな橋だったそうです。そして、そのおじいさんが石橋を造る際に全財産を使い果たし、銅銭三文が残ったそうです。それで、あすは橋の竣工式に行くということで、その残ったお金でわらじを買っておいてから寝たそうです。ところが、夢の中に白い服を来たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それで、お前の家門に天子を送ろうとしたが、残しておいた銅銭三文が天に引っ掛かったので姫を送ろう」とおっしゃったということです。その夢を見てから外に出てみると、その丘の上に石仏ができていたそうです。

 昔、弥勒は男性を象徴し、菩薩は女性を象徴したでしょう? 釈迦牟尼はすべての人々が平安な心で福を祈ることができるようにと、慈悲深い印象で造られていたのですが、その菩薩はそれ以上に慈悲深い姿をしていらっしゃり、おなかがふっくらと出た仏でした。昔、父が言われたのですが、馬に乗っていく途中でも、その菩薩の前では、馬から下りて敬拝をしなければならなかったということです。なぜなら、馬がその前では決まって足を止めたからです。誰であろうと、その前では敬意を表さなければならないのであり、そのようにせずには通り過ぎることができなかったのです。

 ところが、私の家門に問題が起こりました。その趙氏のおじいさんが「夢の啓示を受けたとおりに娘が生まれれば、菩薩のような腰がまるまるとした子が生まれるだろう」と言って「その仏のおなかを削り落とそう」と言ったのです。それで、腰の部分を削り落としたところ、血が出てきたそうです。それで人々が悔い改めをして、削り落とした部分にセメントを再び塗ったというのです。父が幼い時にその場所に行って遊ばれた時は、セメントを塗った部分が長い間風に当たって、そこに穴ができ、はちたちがしきりに出たり入ったりしていたそうです。この石仏の話は、定州に住んでいる人は誰もが知っている話です。

 このような話を通して一面を知ることができるように、趙氏おばあさんの家の先祖は、神様を知らなくても、民として国の願いに従って生きようとした先祖だったのであり、それゆえに天が記憶することができる祝福された家庭だったのです。それで、私が笑い話で「趙漢俊おじいさんによって趙氏の家門に王子が生まれるところだったのに、その銅銭三文のゆえに、遅ればせながら王女が生まれたのですね」と言ったのです。​​
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真のお母様のみ言(3)
二千年前にイエス様がイスラエルの地に誕生されるまで、天は、その民族がイエス様を迎えて天の家庭を築き、一つになった国家を築いて世界へ進んでいくことができるようにするために前もって準備させました。しかし、その時に準備されて責任を担った人物たちは、天の深い意味や事情よりも現実問題に汲々としてイエス様を正しく理解することができず、ついには十字架に送ってしまったのです。

 それで、イエス様の復活以後二千年間伝わってきたキリスト教文化を中心として、来られる主を迎えるための新婦としてのあらゆる準備をなすことができるように、天は、無知な人間たちを悟らせながら役事してこられました。天は、韓国を選民の国として選ばれ、韓国のキリスト教が短い歴史しかもっていないにもかかわらず、解放直後を通じて新しい主を迎えるための内的準備を行う団体を立てられました。

 そこに、平安北道の鐵山を基点として、エバの使命を蕩減復帰する、金聖進おばあさんが主軸となった聖主教団がありました。また、聖主教団の金聖進おばあさんが死ぬと、そのあとを継いで、聖主教団の平壌教会の責任者であり、腹中教をつくった許孝彬氏夫婦を通して、天は、内的にどのように再臨主を迎えなければならないかということを直接的に教えてくださいました。

 衣服を準備するにおいても、イエス様が生まれて三十三年の生涯路程を歩まれる時までの全衣服を、それぞれサイズに合わせて作らせるなどの実質的な準備をさせられました。そして、再臨主の三弟子に誰がなり、また三十六家庭の形態を準備する役事までもありました。

 北側では、共産党の勢力が大きくなると同時に、宗教に対する弾圧も激しくなりました。それで、一九四六年八月、許孝彬氏も平壌の大同保安署という監獄に入るようになったのですが、監獄で再臨主に出会うという啓示がありました。その時、真のお父様も、平壌で伝道している中で捕まり、同じ監獄に入られるようになったのです。

 その監獄で、許孝彬氏の一番弟子である黄元信氏を通してお父様がこの事実を聞かれ、許孝彬氏に手紙を送られたのですが、途中で看守に見つかり、お父様は激しい拷問を受けて歯まで折れる受難を経られたのです。

 その時が、私が以南に下ってくる少し前だったのですが、許孝彬氏の母親が啓示を受けて私を呼ばれたのです。六歳のころでした。許孝彬集団は、聖主教に続いて再臨主のための新婦の使命を果たす団体だったのですが、その名目のもとで私に祝祷をしてくれたのです。「この次に大きな使命を果たされる方だ」という祈祷を受けました。白いチマチョゴリを着た若いおばあさんが私一人を呼んで、「天の啓示があった」と言いながら祝福してくれたことをはっきりと覚えています。

 私が六歳にもならなかった時に「このお方こそ天の新婦になられるだろう」と予言したのです。彼女はその時、六歳にもなっていなかった幼い少女が天の新婦になる運命に生まれついたという啓示を頻繁に受けていました。

真のお母様のみ言(4)
復帰摂理路程において、女性の役割はとても重要です。 特に母の使命を準備することに対して、天は、人間が知らない中で、サタンの讒訴を受けない限度内において大変な苦労の路程を導いてこられました。​

 趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で生涯一貫した生活を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の中で型にはまった信仰をすることなく、二十四時間をすべて天の前に奉仕し、主を迎えるための準備に限りない精誠を尽くされました。そのような信仰生活で、大母様はほとんど家にいらっしゃらなかったので、私は、幼い時には主におばあさんと多くを過ごしました。それで、その趙氏おばあさんを通して自然に、当たり前に信仰を受け入れるようになったのです。

 外祖母は、私に対する天の何かのみ旨を知っていらっしゃったのか、私が世の中に染まらす、とにかく純粋に育って天の前に用いられることができる貴い娘として成長するように多くの精誠を注がれました。 ​外祖母は、絶えず私に「お前のお父さんは、天のお父様だ」と言われました。その記憶しか思い出しません。「天のお父様がお前のお父さんだ」と言われていました。​

 それで、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様を思うと常に心温まる感じをもったのであり、外的に見れば人々がすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私を包んでくれているような温かい感じがして、常にゆとりのある心で過ごしました。大母様やおばあさんにも、肉身の父親に対してや、またお二人がどうしてこのように暮らされるのかなどといった質問は全くしませんでした。ただそのままその生活に満足しながら暮らしていました。肉身の父母に対する恨みや反発感といったものは、私の人生には全くありませんでした。

 二千年前のイスラエルの国においても、主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放前の韓国においても、再臨主を迎えるために準備した団体が数多くあり、復帰摂理歴史を内面的に歩んできた団体も数多くあったのですが、おばあさんと大母様は、そのような団体を探して歩きながら世の中と一切妥協することなく、ただひたすらみ旨だけのために、ただひたすら主お一人に出会うその日だけのために生きてこられました。結局、そのような信仰が私をこの位置まで導いたようです。

 絶えず深い信仰生活をされました。絶えず分別され、清潔な生活、清い生活をされました。私は、生活の大部分を大母様から学びましたが、趙氏おばあさんもそうであられました。

 趙氏おばあさんは、真のお父様と私が聖婚したのちに亡くなられましたが、霊界に行かれても、仏教系の霊通する信女(在俗、女子の仏教信者)である尹清浄心氏に現れて、「時になったので昔の君主が王位に就く時に着る服を作りなさい」と言ったことがあります。結局、尹清浄心氏はこれを果たすことができずに逝きました。また、おばあさんは、真のお父様を「王の王だ」と言われ、時局が変わるたびに、その位置がお父様の位置であると証されたりもしました。

​真のお母様のみ言(5)

​​ 聖婚後、大母様は、私に起こるすべての出来事を、啓示を通してすべて見ていらっしゃいました。誰にとってもこの位置は大変な位置でしたが、大母様がいらっしゃったので克服することができました。すべての女性の誤りを大母様がすべて清算されました。大母様が誰よりもよく御存じです。

 今、私の年齢は六十になりつつありますが、幼年期や青年期よりも、その後の四十年間のほうがもっと波瀾万丈な人生を送ってきました。すべてを□に出して言うことはできません。

 (たくさん泣かれながら)神様にも健忘症がおありになるのでしょうか。健忘症があるのですべてのことを忘れ、克服して越えていくことができるのだと思います。健忘症があるということは祝福です。憎い人を憎いと思わすに、愛ですべて克服するということが簡単なことだったでしょうか。

 外からちらっと見るときには、お父様がどのようなお方だということを知っているので、皆さんは全く同じように思い描き、単純に、私がとても幸福で、すべての面において完全な人であるに違いないと思うことでしょう。「あなたは神様からそのように創造され、もともと完全な姿としてお生まれになっているので、自分では何の努力もする必要がなく、ただそのままその位置に選ばれるようになったお方だ」と思うかもしれません。そして、「全天宙の母だということ、お父様に出会って幸福な家庭をもっていて人生を楽しんでいる」というのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。

 しかし、それとは反対に、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩んでいかれる限り、私においても当然、私なりに信じることができないほどの耐え難く、乗り越え難い十字架を背負ってきたのです。もちろん私も、最初から完全な人間として出発したのではなく、完成まで行かなければならない過程がありました。その到達しなければならない基準はあまりにも高く、時には本当に目標まで行くことは不可能ではないだろうかという気までしました。その使命を果たし、神様の期待にこたえるためには、とても難しい試練と、苦難と、絶対的な信仰が必要でした。私はそのような立場にいました。

 過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程について思い起こす時、私はこらえることができずに涙が出てくるようになります。なぜなら、これについて話そうとすれば、苦難と試練のすべての記憶が再び生々しくよみがえってきてしまうからです。ですから、私にとってはそれを話すということは大変つらいことなのです。

 私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連続の道でした。神様は、お選びになったお父様に試練を与えたのと同じように、私に対しても何度も試練を与えられました。そして、サタンもまた、お父様とイエス様を試みたように、私に対しても試みました。メシヤが通過されたのと同じ、そのような過酷で激しい試練をこの弱い女性が通過したと言えば、本当に皆さんは信じることができないでしょう。



 一九六〇年に聖婚式が挙行され、私は、天宙的な使命を帯びられた偉大なお父様と結婚しましたが、お父様がその天宙的な使命を成していかれる生活を傍らで見守るならば、普通の自然人には、そのような使命を果たすということは考えることさえも不可能なことです。

​ 私は、温室の中に咲く一輪の花のように成長してきました。平和な周囲の雰囲気という温室の中で、「砂漠に咲く花のようだ」と私自身が感じてきました。砂漠のようなものは私が生きていた環境であって、行くところはすべて荒海が狂ったように暴れているかのようでした。それは、私の周囲が一寸先も見ることができないほど多くの誘惑と、試みと、様々な苦難が渦巻く、難しい現実的、また霊的な状況だったからです。私は、本当に荒海に浮かぶ小さな帆掛け舟のようでした。​

 一方で、その当時は、私に訪ねてこられる神様の恩恵を最も深く感じた時でもありました。私が苦痛の中にいる時でも、神様は親しく現れて啓示を下さり、導いてくださいました。そのような直接的な導きがない場合でも、私を愛し保護してあげようとする周囲の人々を通して、絶えず導きと啓示を下さいました。ですから、その時が、あれほど難しい試練と苦難の中で耐えなければならない時であったにもかかわらず、同時に、その時こそ最も美しく、神様の恩恵に満たされた、神様が本当に共にいてくださるということを実感することができる時でもあったのです。 ​​







一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2019.06.16 16:58:07
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