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先日までこの日記のトップに掲載していた『ポーの肖像のある静物』は、かつて早川書房が刊行したイギリス・ミステリ傑作選の1975年版『ポートワインを一杯』のカバー画として使用した作品である。この傑作選はイギリスにおける原題を『ウィンターズ・クライム』という。ミステリ・ファンへのクリスマス・プレゼント企画として、毎年11月にマクミラン社から刊行されている。収録作品がすべてこの企画のために書き下ろされ、そのため有名な人気シリーズになっている。 ところでいま述べた『ポートワインを一杯』という表題作は、そっくり同じ部屋が別々な場所にあるというのがトリックになっている。これがトリックであるということは、殺人を計画している主人公が作中で語っているので、ここで私がネタバラシしても読者はお怒りにならないだろう。つまり建築物の双子を殺人のアリバイに使おうというわけだ。 このアイデアは面白いが、現代の日本では如何であろう。建て売り住宅はみな同じデザインだし、実際、深夜に酔っぱらって帰れば、間違って他家の玄関を開けかねない。同じ町内ばかりではなく、日本中が同じようなデザインなのだから、その気になれば東京と大阪にまったく同じ家がすぐにも細工できそうだ。双子の建築どころか五つ子、十つ子などおちゃのこさいさいかもしれない。 みなさんはコペンハーゲンに双子の町が実在するのを御存知だろうか。双子が住んでいるという意味ではない。河をはさんで両岸の町が左右対称になっているのだ。まるで鏡に映したように。 あるいはまたローマのポポロ広場にある双子教会はあまりにも有名だ。広場中央に聳え立つオベリスクから見て左がサンタ・マリア・ディ・モンテサント教会。右がサンタ・マリア・ディ・ミラコーリ教会。この双子教会、厳密には大きさが違うらしい。右の敷地が少し広いのだ。しかし見た目にはまったく同じに見える。これこそお互いが鏡像関係にあるといってもよい。左をベルニーニが建築を監督し、右をフォンタナが監督したとつたえられているが、双子として計画したのはどうやらカルロ・ライナルディらしい。 ミステリ小説には双子を題材にしたものがかなりあり、私はたちどころに15篇くらいは思い付く。ミステリ意外でもスタインベック『エデンの東』や、H・R・ハガード『二人の女王』、さきごろ亡くなられた倉橋由美子氏の『反悲劇』が思い浮かぶ。井原西鶴に『本朝櫻陰比事』、そのなかの一篇『子子(フタゴ)は他人のはじまり』がある。そうそうワーグナーのオペラ『ニーベルンゲンの指輪』から楽劇『ワルキューレ』もそうだ。ジークムントとジークリンデが双子だった。 私は“TWINS ON TWINS”という、双子の写真家が双子ばかりを撮影したちょっと風変わりな写真集を所蔵している。それを見ていると、彼ら彼女らの興味や才能が同じである場合が多くあらためて感心してしまう。ふたりともバスケット・ボールの選手だったり、バレリーナだったり、音楽家だったり。 パーレビ元イラン国王も双子だ。映画『スターウォーズ』で美術を担当したティムとグレッグ・ヒルデブランドも一卵生双生児の兄弟でしょう? 最近の日本の芸能界にも随分たくさんの双子がいるようだ。私はそのへんの事情はあまり詳しくない。どなたかおしえてください。誰がなにをやっているかをちょっと知りたいものだ。 サルヴァドール・ダリは9歳のときに双子の弟と死別したといわれている。たぶんダリ自身がどこかでそう発言したのだろう。これを受けてエドワード・マッカボイという画家が『ダリの肖像』で、双子だったダリの運命を描いている。しかしこのダリ双子説はまったくの誤説らしい。私の憶測では、ダリはルネサンス期のネオ・プラトニズムに影響されて、自己の双子説を打ち出したのではあるまいか。 世の中には自分に似た人が何人だかいると言われる。ばかばかしい説で、日本中さがすのも困難だし、まして世界のなかに自分と似た人をさがせるわけもない。確認するすべもないことを、さももっともらしく口にする人に出会うと、私は時間の無駄使いと心得て、すぐにサヨナラすることにしている。「アッ、アナタ、○○さんにそっくり」などと口走る人もゴメンだ。これは知性が幼児的段階にある証拠だ。個体の真相を科学するもっとも最初の段階が、「コレとアレは似ている」という認識なのだ。幼児ならまだいい、そうして次第に個々の事象の正確な認識に到達してゆくのだから。しかしいい年令(おおまけに御負けして中学生以上かな)になって、それも他人に向って「○○に似ている」などと言うのは、回復不能なほどオツムがイタンデいるとみなしてよろしかろう。つまり、そんな無礼なことを平気で口にするのは、世界広しといえども日本人くらいかもしれない。「わたしはオバカさんですヨ」と言っているようなもので、実に恥ずかしいふるまいなのだ。やはり自他の認識を成熟の証しと考えて、私と似た人などいないのだということをアピールしてゆかなくては。 私の遠い親戚にあたるある寺の住職が亡くなった。随分むかしむかしの話ですがね。お寺の住職だから、近隣のひとたちは誰ひとり知らない人はなかった。後姿を見ただけでも、わかるほどで、晩秋から冬いっぱいはインバネス(シャーロック・ホームズが着ているようなコートです)を愛用し、それがなかなか似合って評判だった。亡くなってしばらく経った夕暮れどき、Kさんが寺の前を通りかかると、山門への石段をゆっくりした足取りで登ってゆく人がある。その人はインバネスをはおっていた。「御住職さま!」 Kさんは驚いて声をかけた。後ろ姿には懐かしいやさしさの気配があった。その人は少し立ち止まった。しかし振り返ることもなく山門の中に消えた。 Kさんが死んだはずの住職の姿を見かけたという話は、すぐに一帯にひろまった。「住職の幽霊か?」「インバネスを着て、はっきりした姿だった。幽霊なんかじゃない」 近隣を駆けめぐった噂は、やがて蝋燭が燃え尽きるようにしずかに消えた。ときどき古老たちが「そういえば、そんなことがあった」と思い出した。その後ろ姿の人が誰であったのかは分らない。 私は新宿駅の人ごみでもう何十年も会っていなかった旧友をみかけ、間違いなくその人だと思ったので、その人が乗った電車に私もあわてて飛び乗った。三輛くらい離れていただろうか。私はつぎの停車駅までになんとか見つけようと思い、車内を歩いて行った。昼間だったけれど車内は混雑していた。すこし気まずい思いをしながら人をかきわけていると、ひとつ向こうの車輌にちらとその人が見えた。何十年ぶりなのに、その人の着ているものに見覚えがあるような気がした。私はひとりでに笑いがこみあげてくるようだった。懐かしいと思うあまり、昔の衣服がふと記憶をかすめたのだろうと。 連結器のそばのドアをあけ、その人の後ろに立った。そしてそっと肩をたたいた。その人が振り返った。私は衝撃のあまり気が遠のいた。振り返ったのは、私だったのだ。
Sep 30, 2005
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ここ数日いそがしくて思うようにこの日記の更新ができないでいる。いまも『ミステリー庭園』などというタイトルをつけたが、話を練り上げる時間がない。お客さんには、まったく申し訳ない。お茶濁しにもならないけれど私がいま思い浮かぶ庭園を題材にしたミステリー小説を列記してみよう。いくつあげられるかしら。 エラリイ・クイーン『日本庭園殺人事件』 ヴァン・ダイン『ガーデン殺人事件』 同 『ドラゴン殺人事件』 F・W・クロフツ『フローテ公園の殺人』 エドガー・アラン・ポー『庭園』 レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』 ジョン・コリア『みどりの想い』 J・K・チェスタトーン『煙りの庭』 同 『ラッパチーニの娘』 レオ・ブルース『庭園の死』 横溝正史『花園の悪魔』 陳舜臣『方壷園』 鷲尾三郎『文殊の罠』 泡坂妻夫『乱れからくり』 篠田真由美『祝福の園の殺人』 ウ~ン、もう思い出せないか!? 『大いなる眠り』は、マイケルウィナー監督で映画化されていましたね。ロバートミッチャムが探偵F・マーローを演り、依頼主に会いにゆくと、その人物が熱帯植物をあつめた温室にいるのでした。将軍と呼ばれて、それがジェイムス・スチュアート。ほかにセーラ・マイルズやリチャード・ブーンが出演していた。 映画だとピーター・グリーナウェイ監督の『英国式庭園殺人事件』がある。このストーリーは監督自身の書き下ろし。英国式庭園というのは18世紀のイギリスで主流となった風景庭園のこと。広大な敷地にいかにも自然らしく見えるように、緻密な計算にもとづいて様々な樹木や川や四阿(あずまや)などを配置している。館の主人の部屋の窓からながめると理想的な田園風景がひろがる、と、そんなふうに造られているのだ。川の曲り具合だとか、土橋が木の間隠れに見えるとか、そんなことを隅々まで計算している。当時は貴族ばかりではなく新興の地主階級もそのような野趣に富む庭園をつくり、自慢しあっていたのだ。イタリアなどに豪勢な旅行をしては、庭に置く彫刻を購入して得意になっていた。そういう彫刻がないときは、人を雇って彫像に化けさしていたらしい。この映画のなかにも出て来たのを御記憶の方もおられよう。素っ裸に緑青のような緑色の絵の具を塗って、日がな一日庭園の台座の上でじっと彫像になりきるのである。ばかばかしいけど、映画のなかに見ると、まことに面白い光景だった。 川崎寿彦氏の『庭のイングランド』という本にこんな一節がある。 [中世末期からルネサンス期にかけて、民衆文学や伝承のなかでは、女性の性器を呼んで「庭」または「パラダイス」と称する習慣があった。わが国の古典的ポルノ文学にあっても、女性の性器は「桃源郷」と呼ばれたりする。] さきごろ亡くなられた歌人の塚本邦雄氏に『悦楽園園丁辭典』という瞬篇小説集がある。瞬篇小説というのは氏の造語だろう。短篇より短いのを掌篇、それより短いので瞬篇か。かつて『血と薔薇』創刊号から3号終刊まで連載されたものと、そのほかの雑誌に発表したものを一本にまとめてある。鋭い言語感覚もさることながら、小説集として凝りに凝ったつくり。まさに悦楽の園に遊ぶおもいがする。塚本氏は悦楽園の園丁よろしく、庭園の造作から手入れまでおさおさ怠り無い。妖しい植物の香りに読者はただ陶然と酔うだろう。 そういえば作曲家の武満徹氏が自身の作曲法を語って「庭園を造るようなもの」と言っていた。 絵画の創作もまたそのようであるかもしれない。私の最初の個展は『卵神庭園』という。
Sep 28, 2005
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マンハッタンのマディソン街でバスに乗り、セントラル・パークの北はずれを左に曲って、ウェスト・エンド・アヴェニューをさらに北上したハドソン河をのぞむ丘のうえに、その美術館はある。メトロポリタン美術館付属クロイスターズ中世美術館である。バスに乗るときは「クロイスターズ」、あるいは「クロイスターズ・チャーチ」と確認すればいい。私の大好きな美術館だ。 この美術館の主なコレクションは、ヨーロッパ中世後期のロマネスク様式とゴシック様式の美術品である。しかしクロイスターズをもっとも特徴あるものにしているのは、美術館の建物自体が、フランス中部やポワトゥやバーガンディ地方、あるいはスペイン等にかつてあった中世の教会の建築部材を丁寧に再構築したものだということだ。美術館として機能させるための現代的な諸設備は一切目にふれないようになっている。 展示物も宝物室だけはガラス・ケースに納めているが、それ以外はまるで12世紀頃の修道院にいるかのように飾りつけている。 明るい日射しの窓辺に菩提樹材のどっしりとした書き物机。その上には質素な燭台が置かれ蝋燭が立っている。よくみるとその蝋燭は火をともされたことを示す蝋涙がたれているのである。壁際のキャビネットの上には金メッキした銅製のおおきな鉢が並び、暖炉には薪がつまれ、そばには使い込んで黒光りする鍋がおいてある。家具も鍋もみな大切な展示品なのだ。 チャペルの石の祭壇の上に十字架がまつられ、その背後の天井下には聖母子のフレスコ画、また側壁にはおおきな木製の磔刑像が掛けられ、堂内のあちらこちらに大燭台が置かれ、そこにも蝋涙を流すたくさんの蝋燭がたっている。 まるでいままでそこにいた修道僧たちが、ふと何処かに行ったような、日常的だけれど荘重な雰囲気がある。 前置きが長くなった。私がこの美術館が好きなもうひとつの理由はその庭のすばらしさだ。 三つの中庭がある。これらもまた可能な限り中世のスタイルを再現し、その当時栽培されていた植物を植えている。美術館(博物館)として美術品を並べれば事足れりといのではない。現代の私たちからは遥か彼方に去ってしまった〈中世〉を、如何にしたら実感させられるか、その追求の仕方が徹底しているのである。美術館で植物を育てる、しかも中世の教会建築の中でそれをやるというのは、特別な人員と管理が必要であろう。それを労を惜しまずやってのける。そこに私は讃嘆をおしまないのだ。 三つの庭がすべて中庭というのには理由がある。修道僧たちが修道院を離れることなく、言い換えれば、俗世間から隔離されて修道院にとじこもったままで自然を楽しむためである。 クロイスターズの三つの庭はそれぞれ名前がつけられていて、庭の性格も異なる。個々に見てゆこう。【カクサの中庭:The Cuxa Cloister Garth Garden】 屋根付き回廊にかこまれているこの中庭は、日射しの温かい教会の南側にある。十字路の中心に噴水がある典型的なスタイル。ここでは中世種と現代種の両方の植物が、効果的に植え込まれている。冬になると回廊はガラスで閉ざされ、そこにローズマリーやジャスミンやシトラス、アロエや月桂樹やアカンサスの鉢がおかれていっぱいになる。水仙やヒヤシンスやクロッカスやマドンナ・リリーの球根は、開花を強制し、その後、屋内の聖ギルヘム柱廊と名付けられた石畳の場所に移される。そこには中央に噴水があり、その周囲に小庭としてアレンジされる。この屋内の聖ギルヘム・ガーデンは、クリスマスからイースターまでのものである。【ボニフォント・ハーブ庭園:The Bonnefont Cloister Herb Garden】 この庭園は中世に栽培された250種以上を植えている。この庭のデザインは中世修道院の典型的なスタイルである。植物は歴史的考証によって選択された。高く持ち上げた苗床、編み枝の柵、中央の泉水、それが中世の庭園の特徴である。修道院はしばしば果樹園にかこまれていたので、それを表わすために南の壁の外側に果樹を植えている。アロエやレモン、あるいは月桂樹は、装飾付きの鉢で育てられているが、ニューヨークの冬の気候でも育成が難しいというわけではない。それらは中世後期を通じて北ヨーロッパではごく普通の園芸植物だった。しかしクロイスターズではその期間は屋内に移動している。【トライ庭園:The Trie Cloister Garden】 この庭のテーマはおもしろい。美術館所蔵の『一角獣狩り』というタペスリーに描かれている植物を栽培しているのだ。それらは、ナツメヤシやザクロやオレンジ以外は、すべて中世時代に北方ヨーロッパで普通に見られた植物であるという。トライ庭園は、7枚のタペスリーから成るシリーズの第2番目、『泉のそばの一角獣』に描かれた植物を、可能な限り再現しようと試みている。タペスリーのデザイナーは同一画面に春と夏の植物を一緒に描き、あまつさえ秋に咲く花や果実も描いている。また現実の庭園栽培にはあきらかに不可能なものもある。しかしそれでもなお、描かれた植物は中世には良く知られたものであり、中世庭園にも存在したものである。トライ庭園は、『一角獣タペスリー』のなかの花々に命をあたえている後期ゴシックの幻想を反映しているのである。 上の2点の写真は私が撮影した。こんな雰囲気は、日本の美術館には無いでしょう? 屋内といってもドアで閉ざされていないので、植物の香りが回廊にほのかに漂っている。石の壁にぽっかり開いた窓からハドソン河の川風が直に流れ込んでくる。どうやって美術品を保護しているのだろうと不思議なほどだ。実際、世界的に重要な美術品があるのだ。『一角獣』のタペスリーもそうだが、ベリー公爵の持物だった『9人の英雄たち』というタペスリーのシリーズもある。同じくベリー公のためにリンブルク兄弟が制作した彩飾写本『美麗時祷書』。ロベール・キャンピンの三幅対祭壇画『受胎告知』もある。あるいは、かつて文藝春秋から刊行された『謎の十字架』という本があり、そんじょそこらのミステリー小説など足許にも寄せつけない面白さだが、それは〈謎の十字架〉がこの美術館に購入されるまでの経緯をつづったものだ。その謎の十字架が宝物室にある。 ニューヨークへ旅行されたら、ぜひクロイスターズ美術館をおたずねください。中世の庭に坐って、ぼんやりハドソン河をながめて一日すごすのもいいですよ。
Sep 27, 2005
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庭の柿のちょうど反対側の端にひともとのムラサキシキブを植えている。夏の盛りに小さな白磁のビーズ玉のようだった果実が、4,5日前から淡い紫色に染まりはじめた。秋が深まるにつれて次第に濃き紫になってゆく。丈1mほどの低木なのだが、若葉が芽吹く前の枝伐りをしなかったら、いまは小薮のように枝をのばしている。細い枝に長楕円形で先のとがった葉が対になって付く。初夏をすぎる頃から、葉のつけねに淡い紫の小さな花が群がり咲く。それが白いつややかな小さな小さな果実をつけるのだ。そして紫色に変化してゆく。季節のなかでは今頃から10月半ばころまでが一番華やかだ。たった一本の木なのに、対になった葉のねもとすべてに鈴生りの実をつけるのであるから、植物としての景観はみごとである。 我家の庭は狭いながら2月の盆栽仕立ての白梅の開花にはじまり、3月のアーモンド、そして5月になると2種の蔓薔薇が何百という花を咲かせる。薔薇は手のかかる花で、放っておくと若芽若枝はアブラムシにたちまち食いつくされてしまうし、花も日持ちが悪い弱々しいものになってしまう。しかしせっせと手をかけると、つぎからつぎに花をつけ、ほのかに甘い香りを漂わせる。我家では、薔薇の手入れは私の役目だ。しかし今年は父がなくなり、その後の瑣事におわれて薔薇の手入れもできなかった。さきほど見たら、枯れた花冠の咢の部分が果実のようにふくらんでいた。例年なら花が枯れるとすぐに枝先を伐り落すので、果実をつけることはない。薔薇は枝先にしか花をつけないので、常に新芽を出しやすくしておかなければならないのである。薔薇の果実を見上げながら、今伐るべきなのかどうかをしばらく思案していた。 アーモンドのそばに、鉢植えのローズマリーがある。強い香りをはなっている。昨夜、その葉を2枝手折って、夕食の軍鶏(シャモ)のソテーに使った。いい肉だったので、塩胡椒してローズマリーをまぶし、バターで軽く焦げ目がつくていどに焼いた。サヤインゲンをさっと茹で、軽くソテーして軍鶏に添え、ひと皿ができあがった。ローズマリーのほのかな苦味と豊かな香りで、とても美味しい夕食だった。 ローズマリーのとなりにバジルの鉢をつくっていた。昨年はパスタに入れて盛んに登場し大好評だったのだが、今年はなぜかすっかり消滅してしまった。理由はわからない。鉢をほじくりかえしても何もなかった。 11月になったらチューリップの球根の植え付けをする。それが終れば我家の庭は冬支度である。
Sep 26, 2005
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先日のこの日記で『人形の家』について書き、そのなかでニューヨーク市博物館に触れた。この博物館の規模はけっして大きくない。しかし私が感心するのは、ニューヨーク市の成り立ちの歴史をできるだけ実物で示そうという態度である。地下には、この町の消防史をいろどる放水ポンプから消防自動車まで、ゆきとどいた手入れのもとに展示されている。あるいはブロードウェイ・ミュージカルに関する展示室もある。私が訪れたときには、まだ上演中の『キャッツ』を展示していた。私はこれを見て、文化行政についておおいに考えることがあった。深慮とか、公共財についての本当の意味とか、誇りとか、----さまざまなことが頭をよぎった。 一番最初に思ったのは、日本の公立博物館では、現在上演中のステージ・ショウなど、まず問題にもしないだろう、ということだった。たぶん商業演劇を税金をつかって〈宣伝〉して〈やる〉ことはない、という意見がでてくるだろう。おそらくそれですべてが終ってしまうような気がする。その後にまるで宝刀のように「前例がないから」と付け加えるであろう。 ステージ・ショウはひとつの例にすぎないけれど、私があきれてしまうのは、国立博物館が大々的におこなう企画展の豪華なカタログに外国語の解説がまるでないことだ。 ためしに私の手許にある1990年に東京国立博物館で開催された『日本国宝展』のカタログを見てみよう。全368ページのうち10ページ分が英語表示にあてられている。しかしこれは展示品の名前と年代を記述しているにすぎなくて、その展示品がいかなるものであるかの解説は、日本語ではまず申し分なく解説しているけれども、英語なり他の外国語ではまったくなされていない。そればかりではなく、会場における展示プレートにいたっては品名や年代の英語表示さえしていなかった。 この展覧会は千載一遇の機会とまでは言わないけれど、日本人である私たちでも滅多に見ることができない充実した展覧会であった。私はこの会場で、何人もの外国人観客が、なんの手がかりもなく当惑している姿を見かけた。ある年輩の夫妻はその不親切にあきれるよりも、ほとんど茫然として頭をふっていた。 博物館の職員たちよ、あの外国人たちの姿が目にはいらないのですか!? ブロードウェイ・ミュージカルには世界中から観客がおとずれる。博物館は、ニューヨーク市の隆盛をになっている一端としてそれをきちんと認識し、同時に博物館を訪れる観客に歴史を展示するばかりではなく〈宣伝〉もし、〈観光マネー〉が落ちるように考えているのだ。それが博物館をふくむすべての文化行政の深慮というものであろう。 〈ケツの穴がチーセー馬鹿やろうども〉に、文化行政はできないのだ。そこでは権力なんて何の意味もないことを知らなければならないし、こまかい目配りがとても大切なのである。 日本の政治家や行政官は、海外視察に名をかりた卑しく馬鹿げた遊興旅行などしていないで、細部の仕組みを見ていらっしゃい。文化は細部にあるのですよ。
Sep 24, 2005
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今日の日記は文章を休ませてください。その代りというのもヘンですが、先日お話したイタリアの文豪アルベルト・モラビア氏にお目にかかったときに頂戴した氏の御署名を掲載いたします。邦訳『無関心な人びと』初版の見返しに逆さまに書かれたものです。ここでは正しく向きをかえてお見せしましょう。 もうひとつお見せします。これはまだお話していませんが、三島由紀夫氏に頂戴した御署名です。私の万年筆で力をいれてお書きになったので、最後のところでペン先が割れてしまいました。実物は、インクが出ないまま紙がすこし凹んでいます。もっとも、現在ではそれさえも薄れていますけれども。 岸信介氏の御署名はまだ見つかりません。いずれまた。
Sep 23, 2005
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越前蟹の季節にはまだひと月以上あるが、もう今から待ち遠しい。この越前ガニ、呼び方にいろいろあって、雄ガニをズワイガニ、雌ガニをセイコガニというのは御存知のとおり。越前ガニというのも福井県あたりの呼び名で、鳥取県あたりでは松葉ガニと呼んでいる。 ズワイガニもセイコガニもそのまま茹でて食べるのが一番旨い。特にセイコガニの甲羅につまった赤肉(赤子)、卵巣、カニみその味は格別だ。カニ豆腐やカニ寿司にしてもいい。 三條西公正『王朝の料理』のなかに、大饗(たいきょう)の食品構成がでている。大饗というのは、平安時代の宮中でおこなわれていた大饗宴のこと。例年おこなわれていたのが二宮(にぐう)大饗と大臣大饗、臨時におこなわれていたのが任大臣大饗。----この饗宴に出される料理のなかにカニが入っている。もっとも、カニといってもヤドカリのことらしい。ついでだからそのメニューを書き写してみよう。 ○飯(いい)、○汁物、○窪坏(くぼつき)物八種、○貝物四種、○生物(なまもの)四種、○干物(からもの)四種、○菓物(くだもの)八種、○調味料四種、○追物四種。 そして上記の窪坏物八種として次の食品が盛られている。 ○モモキコミ(雉の臓で作った嘗物)、○海月(くらげ:酒と塩のほかに鰹の肉を酒にひたした)、○老海鼠(ほや:嘗物)、○蝙イ(虫ヘンに若と書く)(いい:海辺の砂のなかにいる虫)、○シダタミ(きさご)、○蟹蜷(かに:やどかり)、○石華(ところてん)、○ウニ 古代には現在私たちが食べているカニは食べなかったのだろうか。もしかすると、そうなのかもしれない。 A・S・マーカタンテ『空想動物園』にこんな一節がある。「日本人は、蟹の甲についている顔のような形は平家のしるしであると信じている。つまり、海に身を投げて自殺し、海の中で平家の武者たちは蟹と化したというわけである」 また、カール・セーガンは『コスモス』で、こんなふうに述べている。「平家の武士たちは、カニに姿を変えて、いまも瀬戸内海の底をさまよっている、と漁師たちはいう。このカニが網にかかっても、漁師たちは食べない。壇の浦の悲しい戦いをしのんで海に戻すのである。壇の浦の戦いの前でも、漁師たちは、そのようなカニを食べるのをためらったり、ちょっとばかり吐き気を催したりしたことだろう」 カール・セーガンの話は食品についての講義ではなく、遺伝の問題、人為淘汰について述べているのであるが、私は食品に対する古代人の感性の問題として引用してみた。あんなにおいしいカニを、もしかしたら食べなかった時代があったかもしれないのである。 そういえば三島由紀夫はカニが大嫌いなことで有名だった。かたちが無気味に感じるらしいのだ。ブルブル震えるほどだったというのだから面白い。 その反対にカニのかたちが大好きだった小説家といえばピエール・ド・マンディアルグである。私もカニが大好きで、じつはマンディアルグの小説本の装幀をやりたくて仕方がないのだ。もう2,30年も前から腹案ができあがっている。少しコスト高になる案だけれども、彼の本は贅沢に仕上げたい。どこかやらせてくれる出版社はないだろうか。白水社さんどうですか? 企画があったらお声をかけてください。 なぜだか分らないが、刺青の動物の図柄として好まれるものにカニがはいっているそうだ。歌川国芳の大判浮世絵に『大物之浦海底之図・新中納言知盛公霊』というのがある。例の平家蟹が10数匹、鋏をふりかざしている。そのほかにも『隅田川』の図でも、前景に大きく蟹を配している絵がある。国芳の浮世絵は刺青の題材として昔から好まれているようだから、蟹の図柄も案外そのあたりから来ているのかもしれない。 そういえば1972年に刊行された『飯沢匡刺青小説集』は、全9篇刺青に関する小説を集めた珍書。そのなかの「がまんテスト」なる一篇にこんな一節がある。老刺青師の愛妾の秘部になされた刺青。「肉体を蟹の穴に見立てて、蟹が半分身をかくしているところである。真赤な沢蟹が、大きな鋏をふり上げているところが微細に彫ってあった。」 どういうことかお分かりですね? まあ、そういうことですよ。ウフフ。 ところで私は、新種のカニの和名をつけているのです。〈ニシノシマホウキガニ〉というカニです。このカニは昭和50年(1975)に西之島新島で発見された。発見者は当時国立科学博物館の主任研究官だった武田正倫氏と小笠原水産センター副参事研究員だった倉田洋二氏のふたり。このカニは第3火口から出た溶岩流の端にある三角形の水溜りでみつかった。分類学上の種より一段上の属でもあったらしい、新属新種である。学名は武田・倉田両氏が命名した。和名については、理由は分らないがNHKが一般公募したのである。私は10ばかりの名前を書いて応募したのだった。そのなかに〈ニシノシマホウキガニ〉があった。NHKからその名前に決定したと知らせがあった。 もっとも、同じ名前を考えた人がかなりいたようで、いわば合作のようなものだ。それでも私はちょっと嬉しくて、いつの日にか実物にお目にかかりたいものだと思っていた。 しかしそれが叶わぬ夢となってしまった。発見場所である三角形の内湖が、地形の変化で陸化し、カニは消息不明になってしまった。そして昭和58年(1983)、武田・倉田両氏は〈ニシノシマホウキガニ〉の絶滅を確認したのである。私たちの目の前に姿をあらわしてわずか8年のできごとだった。 いったい、いつから生きつづけ、この年に完全に地球上から姿を消してしまったのだろう。私が名付けた私の子らよ!【追記】 コメント欄で釈迦楽さんがご教示のヘンリー・ミラー『北回帰線』初版本の画像を掲載しておきます。1000部だけ出版されたいまや大変貴重な本です。(2018、3月8日)
Sep 21, 2005
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庭の柿がいろづきはじめた。おそらく何日も前から赤くなっていたのだろうが、家のなかに閉じこもりきりなので気がつかなかったのだ。 この柿の木は細枝にたわわに実をつける。渋柿なのだが、ひと枝におよそ150~200個もつけるのだから驚く。ところがその重さに耐えきれなかったのだろう、4年前のある大風が吹いた日、幹のつけねで折れてしまったのである。直径4cmほどまで成長していた青柿は、庭のそこらじゅうに散乱していた。大きなゴミ袋に拾い集めたら、袋半分にもなった。あるいは200個以上あったのかもしれない。 「昔から柿の木には登るなと言ったものだよ」と、亡父が言った。たぶん柿の木というのは枝が弱いのであろう。 その後、この柿の木はまったく実をつけなくなった。一番の大枝を失ったのだから、それも当然だった。 ところが面白いことに、実をつけないかわりに、木の周囲の地面にやたらに新しい芽をだしはじめたのだ。ぐんぐん根を張っているらしく、あちらこちらに勢いのある若葉が開いた。どうしようかと思ったが、狭い庭が柿の木に占領されても困るので、可哀想だが摘み取ることにした。摘み取っても摘み取っても芽は出てきた。そんなことが昨年までつづいたのである。 そして今年、私は庭掃除をしながら、「おや、柿のひこばえが出なくなった」と思っていた。夏のはじめごろ、母が、「柿が実をつけているわよ」と言った。見ると、母が落ち柿を手にしている。私は、柿もやっと痛手を回復したかと思った。 どうやら私たちは種の保存にかけるこの柿の〈凄さ〉を見せつけられていたようである。主枝を失い、実をつけることがでないので、根を伸して新芽を出した。しかし芽を出せば摘み取られてしまう。そこでふたたび短い枝に実をつけることにしたのだ。ここまでくるのに4年かかったのだろう。 午後から降り出した雨に濡れて、我家の庭の柿は、内側から光をはなつように赤くいろづいていた。
Sep 20, 2005
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以前、ディクスン・カーの読者から、私がブック・ジャケットの絵をどのように制作しているのか、と尋ねられたことがあります。早川書房版も東京創元社版も、小説のなかの場面を描かないという方針を採っているので、読者のなかにはイメージをどのように決定するのか、すこしばかり関心をもたれるのかもしれません。早川書房版の場合はタロットと〈物〉の組み合わせで、小説のなかに出てくる物を、時代考証をふくめてできるだけ正確に描こうとしています。東京創元社版もその点は変りませんが、取り上げる対象がもうすこし幅がひろい。 これらの制作のために、私は小説を精読して、準備ノートをつくっているのです。きょうはそのノートを披露しようと思います。考証のための条項を書き連ねているだけのもので、みなさんがご覧になって面白いものではないでしょう。しかし私が絵筆を執る前の作業はおわかりになるだろうと思います。 『ビロードの悪魔』のノートをそのまま書き抜いてみます。--------------------------------------------------------------『ビロードの悪魔』1951年刊:後記に書誌あり。1925年の物語。作中に1675年のこと。(1)抱水クロラール(睡眠薬)(2)ケンブリッジ大学パラセルサス学寮、キーブ学寮 パラセルサスは日本では通称パラケルスス。(3)ハーウェル著『国事犯裁判』 キャプテン・ジョンソン『ニューゲイト監獄暦報総録』(4)タペストリ・チェア(5)帝王紫(インペリアル・パープル)(6)ジョン・コットンのパイプ(7)ペルメル街の南側(8)ベルギー北西部イープルの激戦。毒ガス使用。(9)火口箱(ほくちばこ)(10)ルイーズ・ド・ケルワール風髪型(英国チャールズ2世の側室)(11)ホワイト・ホール宮殿(チャールズ2世の墓がある?) ‘The 18th Century’p.48(12)クレメンズ・ホーンの剣。英国最大の刀匠。p.56(13)ホワイト・ホール宮殿王妃の間の汲み上げポンプ付き風呂(14)西大門の悪魔亭(テンプル・バー・デヴィル) チャンセリー・レイン角のキングズ・ヘッド酒場(15)砒素(16)ニュー・エクスチェンジ(陳列場)(17)サック牛乳酒(サック・ポセット)→ 熱い飲み物 p.77 卵4コ泡立て、半パイントの牛乳と棒砂糖4つ、サック酒1/2ビン(18)円頂党(19)グリーン・リボン・クラブ。シャフッツベリー卿とバッキンガム公がキングズ・ヘッド酒場で創立した党派。 Green Ribbon Club, ブリタニカ5、P453(20)ホルバイン・ゲイト スプリング・ガーデンズ(21)ウィチャレー(1640~1716)、『森の中の恋』(22)サマセット・ハウス(旧館)(23)セント・クレメンツ・デインズ(24)死人小路(デッド・マンズ・レイン)の〈ブルー・モーター〉→薬剤店?(25)ストランド街 ‘London 1900’Fig.2, ブリタニカ14、p266(26)フリート街。テンプル近くアルセイシア地区。 ブリタニカ14、p266 (27)シターン(ギターに似た楽器。シタールのことか?)(28)ベッドラムの瘋癲病院(29)ルーパート(1619~82)、内乱のとき、伯父チャールズ1世を援助。ネーズビーの戦い、オーケー竜騎兵。(30)マスケット銃(31)ピーター・リーリー卿(1618~80、オランダ生まれ、チャールズ1世の宮廷画家)(32)法学院広場(リンカンズ・イン・フィールズ)(33)ホワイトフライアーズのドセット・ガーデンズ(34)サザンプトン街の〈ラ・ペル・ポワトリーヌ〉。マダム・ボータンの店。(35)ウィリアム・ダヴナント卿(1606~68、オペラで名高い) Sir.William D'Avenant、最初の英語劇の提供者。シェイクスピアが教保(名親)。またシェイクスピアの息子であるというゴシップがある。1913年、Arthur Achesonは、彼の長命だった母ジェーンは、シェイクスピアのソネットに登場するdark-ladyと同一人物であるという説を打ち立てた。ブリタニカ7、p93(36)ジョン・ドライデン作、韻文劇『オーレンズィーブ皇帝』 Jhon Dryden(1631-1700),‘Aureng-Zebe’1675,ブリタニカ8、p572(37)カルバリン砲(16,7世紀、蛇形ハンドルのある長砲) culverin (Old French ⇒colubrine)、ブリタニカ2、532a、415c(38)ジョン・ダルリンプル卿(1619~95、スコットランドの法律学者)、著書『大ブリテン及びアイルランドの歴史』 Sir.John Dalrymple ブリタニカ6、p513a(39)セント・ポール寺院再建工事(40)クリストファー・レン卿(1632~1723、建築家)、ロンドン再建計画 Sir.Christopher Wren, ブリタニカ14、p277、23、p812、肖像画あり。(41)ビリングスゲイト魚市場(42)ハンススローン卿(1660~1753、医師、博物学者)。彼の蔵書が大英博物館の基礎となった。 Sir.Hans Sloane ブリタニカ20、p661(43)ロンドン塔の動物園。p478、看守の服装はヘンリー8世以来の伝統。(44)シャドウェル氏(1642~92、劇作家、桂冠詩人) Thomas Shadwell ブリタニカ20、p309、8、p579c-------------------------------------------------------------- 以上のようなノートをもとに実物の写真資料や当時の絵などを探し、イメージをふくらませ、あれこれ構図を考えます。 このノートにはありませんが、あるとき、旧ロンドン警視庁の建物の写真がほしくなりました。有名な建物ですからすぐに手に入ると思ったのですが、意外や意外、いくら探してもないのです。東京・神田の古書店を数日かけて文字どおりシラミ潰しに探しました。こうなったら執念とばかり、歩きに歩いて、なんとイギリスで刊行された建築書のなかにたった一枚収録されているのを探しだしました。まあ、絵を描く時間より、こういう準備に多くの時間を必要とするのです。できあがってしまえば、一枚の表紙絵にすぎないのですが。 きょうは普段お見せしない制作の準備段階をお話しいたしました。
Sep 19, 2005
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この遊卵画廊をたびたび訪れてくださる若い画家の良次さんの数日前の日記に、ミニチュアの展覧会を見に行ったとあった。そのときは何の気なしに読ませてもらったのだが、しばらくして私は別館で連載している『映画の中の絵画』で、オランダのハーグにあるマウリッツハイス王立美術館について紹介した。17世紀のオランダ領ブラジル総督だったヨーハン・マウリッツ・ファン・ナッサウの業績を簡単にたどったのである。 当時オランダは、初めてヨーロッパ以外の地域との交易の機会をとらえ、植民地獲得に勢力をそそいでいた。ブラジルのほかにもマンハッタン島(現在のニューヨーク)にも根拠地を獲得していた。 オランダ領ブラジルは、ハドソン河沿いの小さなマンハッタン島の植民地より、はるかに良い未来を約束しているようにオランダには思えたのだが、あにはからんやブラジルにおける植民地政策は失敗してしまう。一方で、マンハッタン島のオランダ人入植者は、地道な努力を重ねてこの小さな島を重要な都市へと開発していった。 と、マウリッツハイス美術館について執筆しながらも、ふとミニチュアのことが頭をかすめるのだ。 現在のニューヨーク、5番街103丁目のニューヨーク市博物館。1923年にアメリカの歴史に捧げられて設立されたアメリカの最初の博物館である。ここにはそのオランダ人入植者の活動と生活をしのばせる品々が展示してある。じつは私の頭にちらちら浮かんでいたのは、その玩具ギャラリーに並べられている、当時の子供たちが遊んだ人形の家のコレクションであった。 すばらしく精巧な細工のちいさな家。ちいさいと言っても高さ1mをこえるものもある。玩具の家ではあるけれど、当時の建築スタイルから家具調度品にいたるまで正確に活写されていて、どんな資料よりも生活スタイルを雄弁にものがたっているのである。 私がこのようなヨーロッパの人形の家の実物を初めて見たのはもう40年も前のことだが、日本橋三越で開催された『クイーン・ビクトリア王朝展』でのことであった。ロンドンのベスナルグリーン博物館所蔵の人形の家が展示されていたのである。そしてこのとき別会場でイギリス骨董即売会もひらかれていて、いかにも百貨店の企画した展覧会らしかったが、そのいわば目玉商品として人形の家が売りにだされていた。値札には100万円とあった。現在の金額に直すとどのくらいなのだろう。とにかく貧乏学生の私には、大変な高額であった。 私は買えるわけでもないし、興味はあるけれど所蔵したいとも思わないのだが、なぜか値段をよく記憶していて、1980年代のロンドン・ドールズ・ハウスというミニチュア専門店で売りにでていた人形の家もよく憶えている。18世紀の画家ゲインズボロの家をモデルにした松と桧製のものが140万円。19世紀初期の貴族チューダー家をモデルにした松と桧とラワン製のものが38万円。19世紀後期の魚屋のモデルは、松と桧製で3万円であった。 冒頭でのべたマウリッツハイスがあるハーグ市には『マデュローダム』というミニュチュア都市がある。これはひとりの学生を記念して1952年に創建されたものだ。第2次世界大戦でドイツ軍がオランダに侵入したとき、ライデン大学の学生ジョージ・マデュローは勇敢に戦ったが捕らえられ、ナチの収容所で1940年に死亡した。ひとり息子の死を悼んだ両親のJ・M・L・マデュロー夫妻が寄金し、これをきっかけにしてこのミニチュア都市が造られたのである。 私はプラスティックでできたものには一向に関心がない。本物をそっくりそのまま縮小したものか、そっくりにしようという意志、もしくはとにかく小さくすることへの情熱に支えられた手作りのものが、何やら私の胸をあやしくときめかせるのだ。 パリのポンピドー・センターの玩具展示室にあったママゴト道具のなかには、なんと本物の鉄製鍋があった。どこからみても本物そっくりで、工芸技術の粋さえうかがえるのである。このような玩具は、日本では見たことない、と嘆息したものだ。 ところがどっこい、それは私の無知であった。瓶泥舎コレクションというギヤマンの蒐集を見る機会があった。そのなかに江戸時代につくられた見事なギヤマンの雛道具があったのだ。これにはビックリしてしまった。蒔絵漆の盆に口径3cmほど、高さも4cmにみたない切り子の栓付き徳利ふたつ、これも切り子の高さ2cmほどの盃がそえられているのである。ほかにも高さ3.9cmの切り子霰紋の三段重やら台付き盃やら、凝りに凝ったデザインの切り子のデカンターまであった。これはフランスの鉄鍋どころではない、おそるべき技術である。なにしろクリスタルガラスで小さな小さな瓶をつくり、それをさらに切り子にカットしているのだ。小さいだけでなく、美しい。美しさの追求のため、いささかの手抜きもない。私は嬉しくなってしまったのである。 ところで、もしかしたら私のミニチュア好きを決定付けたのではないか、と思われる事件があった。 5歳か6歳のころのことだ。隣家の赤松さんの家に遊びに行った。年頃の子供がいたわけではない。高校生のお兄さんがいたので、5歳の幼児からすれば大人だったであろうが、きっと〈それ〉を見せてくれると言われたのだ。 居間の出窓に飾られていた〈それ〉は、全長40cmほどの帆船の模型だった。お兄さんの手作りである。昭和25,6年頃だから、現在のようなプラモデルやりっぱな模型キットが売られていたわけではない。自分で図面をひいて、部品ひとつひとつを作り、数カ月がかりの仕事だった。 私をおどろかせたのは、その甲板のおよそ3,40人はいたであろうと思われる小さな乗組員たちであった。赤や青の縞のマドロスシャツを着て、それぞれの持ち場で仕事をしていた。 私はそのとき後ろ髪をつかまれてのけぞるように空中に浮かび、恍惚として天上へと〈落下〉していったのである。 もう25年以上前になるが、あるとき松岡正剛氏と話していて、そんなミニチュアの思いでからだったろうか、私はこう言った。 「私にはどうも世界を一望したいという願望があるようなんです。これは権力指向なのでしょうか」 すると松岡氏は言った。「いや、病的なんですよ」 これには私はギャフンとなってしまった。
Sep 18, 2005
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きょうの夕食は栗御飯。地栗を近所の八百屋でみつけ、これが今年の初物。この八百屋さんは、毎年いまごろになると地栗を店の一番前に置くので、我家ではそれをまず栗御飯にするならわしだ。地栗は丹波栗よりやや小粒だが、なにより取り立てなので、味は良い。先日は松茸御飯を炊いたけれど、思えば我家では、季節季節の初物をちょっと目先をかえて食膳にのせて楽しんでいる。正月しまいの七草粥、15日の鏡開きの焼餅をいれた小豆汁粉。3月の節供のちらし寿司や、5月になれば初筍で若竹煮と筍御飯。----なんだかんだと季節を味わうのである。 このごろは夜ともなれば、窓の外は虫のすだきが喧しい。残暑はまだすっかり払ったようでもないが、室内の冷房はきのうきょう一度も入れていない。そういえばさきほど、TVの娯楽番組の司会者が「あと3ヵ月で今年もおわりです」と言っていた。気の早いと笑うよりも、私の胸のなかにもあった思いなので、一瞬身震いしてしまった。 じつは木曜日にしばらくぶりで外出し、新宿で小説家の花輪莞爾(はなわかんじ)さんと会ってお話しをした。花輪さんが長年書き続けてきた悪夢幻想短篇小説101篇を、一冊の本にして出版する予定なのだ。どうやら生涯のまとめをしておこうという気持らしい。花輪さんが所蔵している私の昔の作品を表紙に使いたいとおっしゃる。私は、「昔の作品を使うのはいやです」と言い、「新しい作品を提供しましょう」と、その25号大の新作を携えて行ったのだった。 「なるほど、昔の山田さんの幻想画は具象、具象でやっていたけれど、この作品は具象と抽象を融合させようとしているんですね」 「どうですか、これで行きませんか」 「いいですね」 「ついでにデザインも私がやってしまいますから、出来上ったら見てください」 と、そんなわけで、ひとりの小説家の中間決算をおてつだいすることになったが、さて我身は如何にせんや。 そぞろ身に滲む秋の風とまでは言わないけれども、小さい秋みつけた今日このごろである。
Sep 17, 2005
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きのう八総鉱山の写真をさがしていたら、こんなものがでてきました。遊び好き、イタズラ好き、好奇心旺盛のわたしの本性まるだしの写真。ハハハ、プライベート写真の初公開です。いずれも19歳のときです。(1)山霧のなかでの乗馬。鞍をつけていません。(2)僧形。
Sep 16, 2005
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きょうは八総鉱山の一部を写真でご覧ください。全体を写したものがないので、御想像していただくしかありませんが。(1)選鉱所全景。坑内の採鉱現場から電気機関車に連結されたトロッコで運び出された鉱石は、この選鉱所で岩石を取り除き、精鉱にします。右側手前から弧をえがきながら軌道がはしっています。左奥につづくのは排水の沈澱池です。 『後記』(2021,10,21) この写真は、私の父が編集主幹を兼ね、会社が発行していたタプロイド判の社内報〈やそう〉のロゴ下に使っていたものです。 ちなみに、この社内報の印刷を請け負っていたのは、会津若松市の「南雲印刷」でした。 まったく私の個人的なことですが、私は八総を離れて会津若松の学校に通いながら「童劇プーポ」という劇団に在籍していました。「童劇プーポ」創立10周年のときに入団し、すぐに記念公演『おんにょろ盛衰記』(木下順二作)で、村人役で初舞台を踏みました。劇団に入ったことは両親に伝えていませんでした。ところが『おんにょろ盛衰記』のパンフレットを「南雲印刷」が印刷し、それには私のポートレート写真が掲載されていました。南雲社長さんが、御シンセツにも、そのパンフレットを持って父に会いにいらして、「ご子息が出演されますよ」と見せたのです。両親は私がやることに口を挟むような人たちではなかったし、私も演劇をやることを内緒にしていたわけではないのですが、まあ、「南雲印刷」とは妙なつながりをしました。(2)手前に清瀬地区社宅。なかほどに末広地区の社宅。右側の一番奥にかすんで見えるのが八総鉱山小学校。中央付近の右の松の木の側に所長宅そのすぐ奥の下側に少し見えるのは中鉢商店。(3)清瀬の龍沢川に沿って奥に接待館を望みます。真冬にはこんなに雪に埋もれてしまいます。
Sep 15, 2005
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私は三つの小学校を母校としている。長野県南佐久郡川上村立第2小学校、福島県南会津郡荒海村立小学校、そして八総鉱山小学校である。前の2校は現在でもあるが、八総の小学校は、学校としては存在しない。ただ校舎だけが補修もされないまま朽ち果てるのをまつように山のなかにぽつんと残っている。詳しい事情は知らないが、所有者がつぎつぎに変り、いまはグラウンド跡や校庭跡はオートキャンプ場としてときどき利用者があるらしい。 八総鉱山小学校に入学し卒業した、私のいわば後輩たちは、母校喪失者ということだ。最後まで在学した人達も、親兄弟とともに離山して数十年たち、40歳を過ぎていることだろう。彼等のなかには両親の詠嘆をまじえた言葉で、「最盛期の八総」について聞かされておとなになった人もいたようだ。「最盛期という言葉を聞くと、誇らしかった」と、ある人は言っていた。彼等はおとなになり、自分の家族を持ち、その家族を連れてわざわざ遠くから、現在は何もない草深い八総を訪ねることがあるらしい。一人や二人ではないという。八総鉱山小学校のむかしむかしの教諭のご家族さえも訪ねることがあるらしいのだ。 何がみんなを引き付けるのだろう。じつは私の母も弟も一度行っている。私はふたりに何も聞きはしない。心それぞれの風景がある。 昭和29年の末か30年の初め頃に、清瀬川対岸の山腹を開拓して末広と旭が丘地区ができた。その川向いは笹原地区である。その3地区にすこしおくれて笹森地区が拓かれた。またもっとも古くからの住吉や赤倉も再開発された。それらの地区には従業員社宅と3カ所に共同浴場が建設された。笹森にはスーパー・マーケット(配給所と呼んでいたが)、病院が建ち、少しはなれて理容室ができた。たしか末広には24棟が建ち、笹原には40棟くらい建ったのではないか。住吉にあった中鉢商店は、笹原と清瀬の間に移転した。末広の浴場の隣接地に運動場と小学校が建設された。 緑色に塗られたトタン葺きの家並が、整然として山の緑に融けていた。 学校は昭和30年の2学期、荒海小学校八総鉱山分校として開校した。建設から諸設備にいたるすべての費用を八総鉱山が負担し、公立学校とすべく自治体に寄贈したのだった。私は4年生だった。翌31年度に改称されて田島町立八総鉱山小学校となった。ちょうどその頃、田島町・中荒井・長野・荒海・糸沢・滝の原・八総等々がひとつの行政区として町村合併された。私たちがまだ荒海小学校に通っていたころ、その祝賀ポスターを図工の時間に描かされたのを憶えている。〈田島町立〉というのは、近年のそういう事情によるのだった。 八総鉱山小学校の諸設備は、近隣の小・中学校に比べてほとんど別格といってよいほど充実していた。おそらく都市部から赴任してくる父兄が子供の教育に不安感をいだかないように、会社は学校設立に潤沢な資金を用意したのであろうと思われる。開校後は近隣の学校からのみならず、県内の学校から視察に訪れるほどだった。まず誰もが驚かされるのは、体育館に付設された映写機2台を備えた映写室。前方のステージの上部にスクリーンが巻き込まれて収納されており、体育館の丈高い窓には紐の操作で開閉する暗幕が垂れていた。この映写設備は、一般の映画館とまったく同じであった。学校用の設備と会社の厚生設備を兼ねているのだったが、隔週の土曜日の夜には無料の映画館となり、もちろん昼間、小学校児童の映画教室も開かれた。 映写室を体育館玄関と体操器具室とが挟んでいたが、それらの二階部分は、私の時代には図書室になっていた。残念ながらまだ蔵書は貧しかったように思う。本好きな私だったが、じつは一度も利用した憶えがない。 校舎内の3カ所に分厚い金属の防火扉が設置されていた。現在でこそ当り前の設備だけれど、戦前からの建物を使用している学校が多かった近隣には、そのような設備はどこにもなかったはずだ。校舎内の壁は、すべて淡いグレイがかったグリーンに塗装されていた。これは工場や病院等の内装のカラー設計にみられるのと同様、精神安定や学習意欲に対する色彩効果の研究を早くも取り入れていたのである。 見学者を羨ましがらせたのは、理科実験の諸器具である。父兄に理工系出身者が多いためか、とにかく豊富な数量の実験器具が理科準備室のガラス戸棚のなかに並んでいた。試験管やフラスコやシャーレーやアルコール・ランプ等の基本器具にくわえて、必要充分な台数の顕微鏡、周波数が異なる数種の音叉や蒸留装置、起電機、放電管、真空装置、天体望遠鏡があった。 音楽室の机がちょっと変っていた。天板が開けられるようになっていて、鍵盤が印刷してあった。音が出ないのだから、音楽教育の実際にどれだけ役立つかわからないが、運指の練習にはなったかもしれない。 戦後ちょうど10年目、まだ物が豊富とは言えない時代だった。その2年前、八総鉱山が費用を提供して、荒海小学校の全教室に双方向性のスピーカー(内部にマイクロフォンが仕組まれていた)を備えた放送設備が完成したとき、先生たちがどんなに自慢していたかを思い出す。教室をスパイされているようで、私たち児童には評判が悪かったのだが。 PTAは熱心に活動し、会津若松市の謹教小学校や鶴城小学校へ視察に行った。未経験の環境ではじまった子弟教育に対する創立期の熱気や期待が、親たちの心をとらえていた。よりよい学校環境を早いうちにととのえる必要を感じていたのだ。 ほかの学校と比較したとき、意外に思うことがひとつある。それは、校長室がわずか3畳(1坪半)程度だったことだ。いや、もしかしたら、設計段階の当初から、校長室はつくらなかったのではあるまいか。と云うのも、私が在学中に校長室として使用されていたその小さな部屋は、保健室のつづき部屋で、保健室をつっきらなければ入れなかったからだ。むしろ保険医の事務室、もしくは器具・薬品保管室として設計されたのではなかっただろうか。としたなら、企画者と設計者の思いのなかには、何か新しい教育理念と教師像があったかもしれない。その思想は、建物が完成して、赴任してきた教師たちの裁量にまかされたとき、必ずしも十分に実現されなかったのだが、50年後の現在、あの校舎を思い浮かべると、私の心にはその設計者の思想がつたわってくる。 私にはその校長室と初代のO校長先生について特別な思い出がある。 校長先生の机の前の作り付けの戸棚の下に、たくさんの手紙の束が入っているのを、私は掃除当番のときに見つけた。珍しい切手が貼られているのもあった。私は切手を蒐集していたのだ。それである日、校長室に行き、「校長先生、ぼく、切手をあつめているんです。校長先生のところに来る手紙に貼ってある切手を、ぼくに下さい」といった。校長先生はすぐに承知して、あつめておくことを約束した。数日後、私はまた校長室に行った。すると先生は約束どおり、たくさんの切手を私にくださったのだった。
Sep 14, 2005
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八総鉱山小学校ができる前に通っていた荒海小学校は、八総から約16km離れた荒海村関本(現・田島町荒海)というところにあった。昭和30年以前、そのあたりはタバコを栽培している農家が結構あり、学校のグラウンドの裏手にその畑がひろがっていた。そういうことを記憶しているのは、私は放課後、スクールバスに乗り遅れるのも意にかいさないで、村の級友たちと連れ立ってあちらこちら歩きまわったからだろう。 荒海川にメダカやヤツメウナギを捕りにいった。メダカもヤツメも八総鉱山の川には棲息していなかった。ヤツメウナギは川岸近くの浅瀬の砂のなかに見つかるのだったが、目のうしろに七つの鰓孔があって、名前の由来となっている。ヤツメ捕りをおしえてくれた友人が、「食うと、目にきく」と言っていた。ビタミンAが多いのだ。50年前の川辺の景色が目にうかぶ。 ある日の休み時間に級友ふたりと一緒に、グラウンドの横の道を走って、遠く水無し川原まで遊びに行った。お昼休みだったろうか。何しに行ったのか憶えていないが、とにかく気が付いたときには、もう授業が始まっているころだった。あわてて教室にはいった私たちを、先生が一喝した。そして教壇のわきに立っているように命じた。 立たされたほかのふたりが誰であったか。ひとりはA君だったような気もするが、確信はない。つぎが体育の時間で、みんなが体育館にあつまったとき、「山田くんが叱られたのをはじめて見た。山田くんでも叱られることがあるんだなァ」と、誰かが感心したように言った。 その遅刻事件のときに私たちが遊んでいた水のない川原は、岸辺に山栗の林があって、秋に、スクールバスを待つ間に栗拾いに行ったこともある。 小学校から中学校方面にむかってゆくと、右側に製材所があったように記憶する。中学校を過ぎていたかもしれない。あまり大規模ではなかったが、大鋸屑(おがくず)が山のように積り、小屋の外にあふれだしていた。私たちはそこでカブトムシを探した。 そんなふうに遊んでいたときに、地元で〈ジャンボ〉といわれている野辺送りの葬列をみかけた。柩を担いだ人達を先導しながら、おおきなシンバルみたいな金属楽器を「ジャーン、ジャーン」と打鳴らしていた。南会津一帯は、その当時、まだ土葬がおこなわれていた。〈ジャンボ〉は、柩を墓地まで運ぶための行列と、その儀式とを表現する言葉らしかった。 土葬の風習で思い出したことがある。 荒海から糸沢を抜けて滝の原にさしかかると、左側の土手の上に墓地が見えてくる。ときどきスクールバスでの帰宅が夜になることがあり、その墓地にさしかかると運転手のタモツさんはのろのろ運転をし、「青火みるか」と言った。私たちはキャーキャー大騒ぎしながら、窓ガラスに額をくっつけると、タモツさんはバスを止めた。前日ごろ雨が降り、空気に湿り気があるような日は、燐光がもえたつのである。透き徹るような薄青い光が、墓のところどころでボーと上がるのが見えることがあった。おそらくそれは比較的あたらしい墓だったのだろう。私たちは、ただ「見えた」「見えない」と大騒ぎしたのだった。 荒海小学校のスクールバス停留所は、通用門わきに一軒あった商店の前、駅からまっすぐ30メートルほどの道が本通りにぶつかるところにあった。木のベンチが一脚置いてあり、まるい筒形の鋳物製の郵便ポストが立っていたように思う。バスが来るまでの時間、八総の子供たちは、女の子は縄跳びをしたりゴム跳びをし、男の子は駅に向って左側の材木集積場に高く積まれた杉の原木の上で遊んだりしていた。 ベンチに坐っていると、当然、商店にやってくるお客さんを見かけるのだが、みな「ハイットー」と言いながら入る。私は当初その意味がわからず、帰宅してから両親にきいたが、両親もわからなかった。 何かを〈配達〉しているのだろうか? おしえてくれたのが誰であったか忘れてしまったが、「ごめんください、こんにちは」という意味だった。といっても、道ですれちがって「ハイトウ」と挨拶するわけではない。あくまで訪問の挨拶だった。 村のK子さんの家に行ったときだっただろうか、それとも担任のH先生の御実家に立ち寄ったときだろうか。家のひとに「ブツカリナンショ」と言われた。これも意味がわからなかった。私にむかって言われた言葉だったから当惑してしまった。するとそれを察して、その人は「坐ってクナンショ」と言い直した。お坐りなさいと勧めていたのだ。 八総鉱山の子供達は各地から移転してきていた。地元出身者はもちろん福島県の出身者さえいなかった。北海道の言葉がとびかい、東京の言葉や、四国の言葉がとびかっていた。いわゆる標準語にちかいのだが、そのなかに微妙に方言がまじっていた。だから私の耳はよく方言を理解したが、荒海地区の「ハイトウ」と、この「ブツカリナンショ」はすこし難ブツだった。しかし、子供心にも、それらの言葉の深層には、とても優しさがあるようにおもわれた。 さて昭和29年以降、鉱山が本格的に稼動はじめると、鉱業施設や、社員とその家族2000人を受け入れるための住宅や、病院や小学校などがつぎつぎに建設されていった。山峡の清瀬川に沿った狭い土地が、あたらしい建物でうまった。 道路も産業道として新しく拡張整備され、道筋がすこし変った。清瀬の龍沢川に掛る橋もいままでの橋から10mほど離れたところに新造された。 その工事をしていた作業員だと思うが、どこからか鶏を一羽ぶらさげてきて、川辺でさばきはじめた。私たち4,5人の子供達が上からのぞきこんでいた。羽をむしり、腹を割いた。すると小さな卵黄の粒が、いくつかかたまって血のなかに見えた。男の人は手をつっこんで、ビー玉ほどのおおきさの粒粒をすくいあげた。それをちらと私たちに見せた。と思ったら、ズルリと口に入れてすすってしまったのだ。私たちは「ワッ!」と、いっせいに声をあげた。
Sep 13, 2005
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昭和28年(1953)9月、私たち一家が八総鉱山に入った当初、清瀬の社宅に荷物が到着するまでの数日間、住吉の健保会館の一室に逗留していた。窓から模型飛行機を飛ばして遊んだり、向いの中鉢商店の娘で同級生のKちゃんのところに遊びに行き、漫画雑誌を見せてもらった。雑誌の名前は忘れたが、このとき見た上田とし子『フイチンさん』の印象が記憶に残っている。また、少女中村メイコ(女優の中村メイコさんである)を主人公にした漫画で、彼女の眉が左右つながっていたのが忘れられない。それは、現在ならさしずめ女流画家フリーダ・カーロの肖像を想像していただければよい。もちろん少女メイコさんは、ずっと可愛らしいのであるが。 家財道具がすっかりかたづいて、その後昭和38年(1968)3月までのちょうど10年間にわたる八総鉱山での暮しがはじまった。その当時の清瀬は、山の中腹に鉱山長宅、ふもとに道路に平行して2棟づつ2列8世帯。龍沢川をはさんで川に平行して2棟4世帯。それだけであった。Oさんの家の玄関内に緊急連絡用の磁石式電話器があった。社宅内に電話はこれ1台だけだった。現在の若い人には磁石式電話器といってもイメージがわかないかもしれない。壁に取り付けられた木箱に真鍮製のベルと朝顔形の送話器が付いていて、筒形の受話器を耳に押し当てながら木箱の横のハンドルを廻して起電すると交換手がでる。番号を告げると相手につないでくれるのであった。 学童はおよそ16kmはなれた荒海村の小・中学校に会社のスクールバスで通学した。まだ八総鉱山小学校はなかったのだ。2年生終了時の写真を見ると、八総鉱山の同級生は私をいれて7人。それが3年生の初めには15人になった。4年生の3学期に八総鉱山小学校に移転したときの同級生は総勢33人。全学年の学童総数は350人だった。八総鉱山がしだいに大きな聚落になりつつあった。 赤倉と住吉と清瀬地区しかなかったころ、後に笹原地区となる辺りは丈高い草にうもれていた。住吉から移転後の中鉢商店の前のスキー場のふもとも同様で、そこにひとりの浮浪者が住んでいた。木の枝を四方に立てて筵をかぶせ、かろうじて雨露をさけるだけの宿をつくり、襤褸衣をまとってひっそり暮していた。誰もいじめはしなかったが、素性はわからない。いまでは忘れてしまったが、何か通称で呼んでいたような気もする。戦後の没落疲弊から立ち直る機会を逸してしまったものか。あるいは兵隊から復員したものの、身寄りはすでに離散して行方知れずであったのか。 昭和28年頃は東京上野の山下には、まだたくさんの戦災孤児がいたし、30年代初頭でも大きな駅の待合室には、ゴミ箱に捨てた弁当や、ゆで卵などの殻をあさる人たちがめずらしくなかったのだ。私は4年生のとき、家族で北海道旅行の途路、そうした光景を目にしている。 笹原の浮浪者を見かけなくなったのはいつだったろう。その頃、笹原に運動用のグラウンド造りが始まっている。子供たちの間では戦車を改造したのだと言っていたブルドーザーで整地し、母達も総出で地固めをした。ブルドーザーは車高が低く、たしかに戦車に似ていた。相撲の土俵もつくられた。しかしこのグラウンドは、たしか1年もしないうちに社宅建設の現場になってしまった。運動場として活用されたという覚えがない。一度、盆踊りがあった。また、仮設舞台を組んで、演芸会が開かれた。 川向の幼い男の子が、「タダミさんが、裸で外にいる」とお母さんに知らせた。真冬のことだった。お母さんが戸外をのぞくと、たしかに私が上半身裸で雪のなかで遊んでいる。なにしろ積雪1m3,40くらいになる豪雪地帯だ。驚いて、「タダミさんはどうかしてしまったのじゃないか」となった。隣家のHさんも見ていたらしい。後日そのことが母の耳にとどいた。母はキョトンとして、しばらく考えていたが、私が肌色の毛糸のピッタリしたセーターを着ていたことを思い出して、大笑いになった。昭和29年の荒海小学校3年進級の学級写真のなかで私が着ているのがそのセーターだ。 冬仕度は漬け物造りで始まった。私の家では沢庵漬けや鰊漬けを樽に漬けこんだ。鰊漬けは、もともと北海道出身の両親の忘れられない味だった。身欠き鰊、乱切り大根、千切り人参を糀でつけこむのである。厳寒に、表面に張った氷をシャリシャリ割って、暖房のきいた部屋で食べる鰊漬けは、たしかにうまかった。氷がシャリシャリするほど冷たいのがミソなのだ。たぶん我家以外でも、北海道から移転した家庭では、この漬け物をつくっていたのではあるまいか。 一冬分の薪割りも八総の風物詩だ。各家庭に1mほどの丸太が分配され、順番に巡回してくる電動回転鋸で30cmほどに切ってもらう。回転鋸の音が毎日どこかで鳴り響いた。それからは各家庭でそれぞれ斧で割るのだ。できた薪は軒下に積み上げてゆく。一冬分の薪は、壁のように家の周囲をおおった。 真っ白に雪をかぶって家に帰ると、裏口で大声で母を呼ぶ。すると母が帚をもってあらわれ、雪をはらい落してくれた。朝、長靴が冷たいので、学校に行く前に、ストーブの横で靴底をあたためておく。昨日遊んで濡れた手袋も、かたわらの薪の上にならべて干してあった。 ストーブや煙突が真っ赤に焼けるほど燃えている。そこに餅をこすりつけると、鉋屑のようにめくれてパリパリとした煎餅ができた。「ストーブが汚れるからやめなさい」と叱られるが、そんなことはお構い無し。餅をこすりつけるスピードと離し方にコツがあった。
Sep 12, 2005
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きょうは久しぶりに外出。と云っても選挙の投票所に行っただけ。小雨が降っているのだが、いやに蒸し暑い。天気予報によると、関東地方は真夏日の気温だったようだ。そんなわけで、投票をすませるとさっさと帰宅。 猫たちが、ちょっと庭に走り出ては、背中を濡らして帰ってくる。そのたびに濡れたからだを拭いてくれと鳴く。足を拭いてやったり、まあ忙しいことだ。 「ニャめろと言われても、GO!GO!」 「いまでは遅すぎる、ニャー! ニャー!」 「オマエたち、いいかげんにしろ!」 「ニャだよ~」 さて、日記のほうは、八総鉱山の蝶と昆虫にまつわる思い出。 清瀬川の滝下のあたりでは、しばしばコムラサキをみかけた。川岸の小薮のなかにネコヤナギ(カワラヤナギ)があった。コムラサキの食樹はヤナギやポプラの類いだと図鑑にある。まさにその説明のとおりだったのだ。 ネコヤナギは龍沢川が清瀬川に合流している辺りにも繁っていた。しかしこの蝶を私は滝下以外で見かけたことはなかった。美しい紫の輝きを放ちながら、滝水を背景に舞う姿はすばらしかった。 八総にいたときはいろいろの研究や分類標本をつくった。シダ類の葉裂の研究をした。風媒花の種子の標本をつくった。蛾の標本もつくった。 蛾の採集には接待館の玄関前の誘蛾灯がおおいに役立った。そして、父に頼んで会社の工作課の方の手をわずらわして作ってもらった標本箱に収めた。 水棲昆虫や水棲幼虫の標本もつくった。ゲンゴロウの成虫および幼虫。アメンボ、エラミミズ。あるいはトンボの幼虫や、トビゲラの幼虫などだ。私の標本には慣れっこになっていた母も、この水棲幼虫はさすがに気味悪がった。しかし、しばらくすると、私の留守中にみつけた幼虫などを採集しておいてくれるようになった。長いハリガネムシを採集しておいてくれた時には、その変りぶりに私のほうが驚いてしまった。それらのアルコール漬けの小瓶や試験管が、例の廊下の机のうえにならんでいた。 小瓶の標本容器は、ペニシリンの空き瓶だった。診療所に行ってM先生にもらってきたものだ。私がわけを話すと、先生は煮沸消毒した空き瓶を10本20本とくださった。町にでかけて、瓶の口に見合うコルクを買ってきて栓をすると、とてもよい標本容器になった。 M医師とペニシリンといえば、こんなことがあった。私が怪我をしたかして化膿でもしたのだったろうか。私自身がペニシリン注射されることになった。体質に適合するかどうか検査するために、試験用に少量の注射をされた。反応が出るまでしばらく廊下の長椅子に坐って待つように言われた。私はそんな〈危険〉な注射をされるのが嫌で、そのまま逃げるように家に帰ってしまった。突然患者が消えてしまったのだから、M先生は驚き、たぶん呆れてしまったことだろう。私はそれ以後、診療所に行ったことがない。私の病気はどうなったのだろう。記憶にないのだが、自然に治癒してしまったのだろう。その後は、身体に何か異常があると、母は私をM先生の自宅に行かせた。先生は私の家の3軒隣の社宅に住んでいたのだ。 先月、私は40年ぶりに会津若松市を訪ねた。M医師は同市にお住まいとうかがったが、重い病気だった。東京に帰った翌日にお亡くなりになったと、人づてに聞いた。あのとき会いに行くべきだったか、と慙愧に似た想いが胸に去来する。 昆虫にまつわる瀕死の思い出がある。 私は4年生だった。中学生のマコトさんと一緒に、清瀬のはずれに遊びに行った。何をしに行ったのか覚えていないが、1年生だった弟と、もっと幼かったタツヒコちゃんがついてきた。滝のあるあたりを過ぎてしばらく歩いたところで、私とマコトさんは山際の草薮のなかにイタドリを見つけた。たしかそれを採って茎を齧ろうとしたのだ。イタドリの茎は酸っぱい汁がでて食べられるのである。小さなふたりを道端に残し、私とマコトさんは草薮に入って行った。 とその時だった、タツヒコちゃんが奇妙な叫びをあげたのだ。振り返ると、その足許の地中から真っ黒い煙のようなものが唸りをあげて空中に飛び出していた。 「ハチだ! 逃げろ!」 マコトさんはいち早く身をひるがえして走り出した。小さなふたりは竦んで動けず、泣きだした。ハチは一旦空中にたなびくように散ったが、たちまち真っ黒にかたまってタツヒコちゃんの方へ向って襲いはじめた。 駆け寄った私は彼におおいかぶさりながら、マコトさんに弟をつれて逃げてくれるように叫んだ。羽音すさまじくハチは私の頭に群がり、刺した。払い除けるとワッと飛び去るが、すぐにまた三角形の編隊を組んだ。何千匹の群れだったろう。真っ黒な三角のおおきな雲が、私の頭のつむじ目がけて襲ってきた。私はタツヒコちゃんを懐にかかえこんだまま、追い払うこともままならなかった。 どのくらい時間が経ったか分らない。そのとき行手に自転車に乗った牛乳屋さんがやってきた。配達の帰りだったらしい。 「たすけてください! たすけてください!」 私の声は悲鳴だった。牛乳屋さんは仰天して、着ていた紺色の半纏を脱いで、私の頭のうえに叩き付けるように打ち振るった。私はタツヒコちゃんを走らせた。 ----それからどうやって帰宅したのだろう。記憶がとぎれている。全身の焼けるような痛みに泣叫ぶ私を、近所のおばさん達が介抱した。「気が狂うから、泣くんじゃない」と母が言った。Hさんのおばさんが、新しい草履を持ってきて、それで私の頭をこすり、皮膚にささった針を取った。横たわった私の周囲に、ハチの死骸が山となった。 帚で掃きあつめる母に、私はほとんど息もきれぎれになりながら、「捨てないでちょうだい。あとで調べるから」と言った。 母は私のタチをよく知っていたので、塵取りにうずたかくなったハチの死骸を、だまって廊下の隅においた。 それはツチスガリというハチだった。体長12~14mm。地中に営巣するので、外からは見えないのである。そして、刺しかたを観察すると、どうやら獲物に針をつきさしたハチは、獲物のからだに針を残して死んでしまうらしかった。私のからだや頭髪のなかにあったハチの死骸には、どれも、針がついていなかった。 私はショック死をまぬがれて生還した。----------------------------------------------八総(荒海関本・滝の原)の蝶(1)キアゲハ、(2)ミヤマカラスアゲハ、(3)カラスアゲハ、(4)クロアゲハ、(5)アゲハ、(6)アサギマダラ、(7)スジグロチョウ、(8)モンシロチョウ、(9)キチョウ、(10)モンキチョウ、(11)キベリタテハ、(12)コムラサキ、(13)スミナガシ、(14)ミスジチョウ、(15)ミドリヒョウモン、(16)オオウラギンヒョウモン、(17)イチモンジ、(18)コヒョウモン、(19)ウラギンヒョウモン、(20)ギンボシヒョウモン、(21)アカタテハ、(22)クジャクチョウ、(23)ルリタテハ、(24)キタテハ、(25)シータテハ、(26)エルタテハ、(27)オオイチモンジ、(28)サカハチョウ、(29)ヒメキマダラセセリ、(30)コキマダラセセリ、(31)キバネセセリ、(32)ミヤマチャバネセセリ、(33)コチャバネセセリ、(34)オオチャバネセセリ、(35)ダイミョウセセリ、(36)ウラナミシジミ、(37)ミドリシジミ、(38)ベニシジミ、(39)アカシジミ、(40)ウラナミアカシジミ、(41)ルリシジミ、(42)ヒメシジミ、(43)スギタニルリシジミ、(44)ツバメシジミ、(45)シルビヤシジミ、(46)ツマジロウラジャノメ、(47)コジャノメ、(48)クロヒカゲ、(49)ヒメウラナミジャノメ
Sep 11, 2005
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昨日につづく植物をめぐる少年時代の思い出ばなしです。 Uくんの家の近くの山肌は、まるでバリカンで刈り上げたように樹木がなかった。人の手でそのようにしたのだろうが、冬になると私たちのスキー場だった。中鉢商店の前もスキー場になったが、そこよりずっと滑走距離が短く、急斜面だったけれども単純だった。初夏、草原にワラビがたくさん生えた。小さな背負い籠や竹編みの買い物籠を持って、近所のひとたちと一緒にワラビ採りに行くのが年中行事だった。そのあたりから山に入り、ひとやま越して普段目にしない陰山を歩くこともしばしばだった。採ってきたワラビは、灰汁で煮てから樽に漬けこんだり、天日に干して乾燥ワラビをつくった。 また、その草の斜面の刈り残された周囲は、山栗の林だった。秋には栗拾いをした。落ちたイガの割れ目からつやつやした栗の実がのぞいている。山栗だから小粒だったが、2,3時間遊びながら歩き回れば結構な量が採れた。 栗の実もおいしいけれど、ナツグミやオンコ(イチイ)の実もおいしい。なんといっても絶品な山の実は、コクワ(サルナシの古名)だ。太い幹の蔓植物で、ちょっと梅に似た花をつけるらしいのだが、私はこの開花を見かけたことはない。しかし果実はこまかい種が果肉のなかにたくさん詰まっていて、甘酸っぱい何ともいえないコクのある味がした。 赤倉の事務所近くに大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)があった。その石段の登り口にトチノキの大木があって、おおきく立派な実をつけた。栃の実の種子からは澱粉がとれる。また栃餅にしたり、粥にいれて栃粥にしたりして食べる。私はこの実を採って食べたことはないが、種子から取り出した果肉を砕いて、石鹸水のようにして遊んだ。水にひたして掌でこすると、ヌルヌルするのだ。廊下の端に座り机を置いて、本棚や試験管立てなどをならべていた。廊下の隅であたかも実験室にいる気分で、栃の種子を試験管に分け入れ、アルコールランプで熱したり、振ったりして遊んだ。たぶん溶け出した澱粉質が水の様相を変化させ、それが面白かったのかもしれない。 いま、こうして書いていると、不思議なことにそのときの香りがフッと鼻をかすめて漂う。匂いの記憶がよみがえるのだろうか。しかし、確かめようとすると、はかなく消えてしまう。---- そうだ、栃笛もつくった。種子の尻に小さな孔をあけ、釘の頭を耳掻きのように使って、中身を掻き出す。殻をできるだけ薄くしてできあがり。孔に唇をあてて吹く。種子の大きさや、殻の厚さ薄さで、いろいろな音が出た。 接待館の前の二股道は、右が上り坂になって接待館の玄関へ、左は川沿いに龍沢の奥へつづいていた。そのちょうど二股にわかれるところから龍沢へほんの少し入ったあたりに、トウヒの小さな林があった。おとなの一抱えほどの大木もあれば、直径20cm程のものまでさまざまな太さのトウヒが6,7本あっただろうか。クリスマスがちかずくと、私は弟を連れて、その林へ1m丈程度の枝を伐りに行った。モミのかわりにクリスマス・ツリーにするのだ。冬になれば人は通らないから、降り積った雪のなかを腿のあたりまで埋まりながら、エッチラオッチラ漕いでゆくのである。あれかこれかと探して、冠雪を払い、積った雪のうえに這うように伸びているなるべく姿が良い下枝を一本伐る。引き摺ったり、担いだりしながら、また雪を漕いで帰るのだ。 ところが、雪がすっかり溶けた頃、そのトウヒのもとに行って驚いた。私が枝を伐ったところは、地面より2m50cmも上方なのだ。その高さまで雪が積っていたのだ。いまでは腕をのばしてもとどかない。私はまっすぐに聳え立つトウヒの真新しい切口を見上げた。 八総の植物ではないが、私は荒海中学校の正門前の薮のなかに、麻が生えているのを発見した。八総鉱山小学校が設立するまでの約2年間、八総鉱山のこどもたちは荒海の学校に通っていた。私たちは会社のスクールバスか、ときには銘々かってに汽車で滝の原・荒海間を往復した。八総鉱山と荒海間はおよそ4里(16km)。私はせっかちだったのか、遊び好きが嵩じてのことだったのか、下校時のバスが待切れず、しばしば歩いて八総まで帰った。線路づたいに歩き、今市・日光方面の分かれ道になっている羽塩陸橋のあたりで、急な土手を尻滑りしながら下りることもあった。そんな折りに、荒海中学校の前で麻をみつけたのだ。 麻は一般には栽培植物だから、たぶん何処か近くに麻畠があって、そこから種が飛んできたのかもしれない。麻は悪臭がする。近づいただけで分る。私が麻に気をとめたのは、しかし、植物学的な関心からというより、忍術漫画か映画の影響だった。『おもしろブック』の杉浦茂「猿飛佐助」だったろうか、いや、大友柳太郎が出演していた映画だったような気もする。それはともかく、忍者がより高く跳躍できるようになるために、毎日、麻を跳び越す修行をするのだと覚えていた。麻は成長が早い。毎日跳び越えているうちにおのずと高く跳躍できるようになっている、というのだ。私はその修行がやってみたくて、中学校前の麻が気になってしかたがなかった。 その頃、私には誰にも内緒の就眠儀式があった。蒲団のなかで忍者になるのだ。まず俯せになって、できるだけ体を薄くするイメージを頭にえがく。薄っぺらく、薄っぺらくなって、ついには蒲団と同化してしまう。誰も私が寝ているとは思わないだろう。忍術には、火中に身をかくす火遁(カトン)の術があり、水中に身をかくす水遁(スイトン)の術がある。私のは、これぞフトンの術! 私は蒲団のなかでいつまでも息をころしていた。----------------------------------------------八総鉱山の植物(28)ユウガギク、(29)ヤマシロギク、(30)フジバカマ、(31)サワギキョウ、(32)キキョウ、(33)ホタルブクロ、(34)ツリガネニンジン、(35)カラスウリ、(36)オミナエシ、(37)カワラハハコ、(38)オナモミ、(39)ノコギリソウ、(40)ノアザミ、(41)コウゾリナ、(42)エノコログサ、(43)キンエノコロ、(44)イヌビエ、(45)ホタルイ、(46)ツユクサ、(47)ヤマジノホトトギス、(48)トコロ、(49)ゼンマイ、(50)ワラビ、(51)ノビル、(52)ナズナ、(53)タンポポ、(54)アツモリソウ、(55)アケビ、(56)カラハナソウ、(57)ツリフネソウ、(58)アズマシャクナゲ、(59)カタバミ、(60)ツルウメモドキ、(61)キンミズヒキ、(62)ナギナタガヤ、(63)サイトウガヤ、(64)ヤマアワ、(65)イノコズチ、(66)ヤマハタザオ、(67)ネジバナ、(68)ヤマユリ、(69)イトスゲ、(70)ムギスゲ、(71)ウシクグ、(72)ススキ、(73)ヤマアワ、(74)オヒシバ、(75)カラスムギ、(76)ウシノケグサ、(77)スギナ、(78)ヤマムグラ、(79)コケオトギリ、(80)カニツリグサ、(81)フキ、(82)イチゴツナギ、(83)クサイチゴ、(84)アズマネザサ、(85)シシガシラ、(86)ヒエノシダ、(87)クリ、(88)サルナシ、(89)シラカシ、(90)ミズナラ、(91)コナラ、(92)クヌギ、(93)トチノキ、(94)コブシ、(95)ヒノキ、(96)ハイマツ、(97)ヒバ、(98)トウヒ、(99)ホオノキ、(100)ネコヤナギ、(101)ヤマウルシ、(102)マンサク
Sep 10, 2005
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このところ制作のためほとんど外出をしていない。この日記も今日のできごとではなく、すっかり昔々のお話になっている。それもいたしかたあるまい。 先日、亡父から聞いておいた八総鉱山の坑内の様子などを書いた。ことのついでに植物や昆虫にまつわる私の思い出を書いてみよう。 私の八総における植物との〈出逢い〉は、ヤマウルシから始まると言ってもよい。私たち家族が一番はじめに入居した清瀬社宅は、清瀬川に合流している龍沢川の下流にむかって右側だった。裏口から山裾の小薮を分けて、ほんのひとまたぎで父兄たちが子供たちのために龍沢川を塞き止めてつくったプールに出られた。その小薮をもうすこし山にのぼって行ったところにヤマウルシがはえていたのだ。小学2年生から3年生にかけての頃だから、最初はもちろんそれがウルシであることを知らなかった。それほど丈も高くない細枝の潅木で、葉末にいたる枝がすこし赤味をおびていた。たぶん何の気なしにその枝を折り、さらに山をのぼって行ったのだろう。 ひと遊びして帰宅するころには身体のそこらじゅうが痒く、肌がザラッとして粉を吹いたような細かい発疹におおわれていた。陰部がやたらに痒い。見ると、オチンチンがひどくかぶれて腫れている。樹液でよごれた指のまま小便をしたからだろう。診療所に行ってはじめてウルシのかぶれであることを知った。 ウルシにかぶれるタチの人は、樹木に触れなくとも近くに行っただけでかぶれることもあると聞く。しかし私は子供のころから、自分の蒙った災害の原因をたしかめておきたいタチだった。後日、もういちど例の小薮にわけいり、ヤマウルシとやらを観察したことは言うまでもない。 6年生のころ、私は植物や昆虫等の標本に貼付するための私の名前入りのラベルを持っていた。採集年月日、採集地、科名、和名、学名、その他、採集者名/山田維史とした7項目が謄写版印刷されていた。モデルをつくって父に頼み、おそらく総務課のどなたかの手をわずらわせて制作してもらったのだ。 〈その他〉の項目には採集時の状況や、状態などを記録した。たとえばナンバンギセルの場合は、「ススキの根に寄生していた」と云うふうに。このラベルを貼った標本が、およそ50点ばかりは50年後の現在も私の手許に残っている。 私は採集のため、八総や滝の原のいたるところを歩き回った。一人のときもあれば、弟を連れていたときもある。龍沢の奥深く入り、弟は「熊の鳴き声がした」などと言って、私の注意をうながしたこともあった。大きなヤマカガシに追いかけられたこともあった。 そんな山奥で、淡いクリーム色をした野生のホップ(カラハナソウ)が、周囲の潅木の茂みに撩乱とまといついているのを発見して驚喜したり、広く探索してもごく限られた場所にしか存在しない植物があることを発見したものだ。ナンバンギセルもヤマジノホトトギスも、私が知っている生育地はそれぞれ1カ所だけだった。あるいは滝の原から八総へむかって行くと、八総の入口である袋口近辺まではアツモリソウが見つかるけれど、八総の奥に入るともう見かけることはなかった。 清瀬のはずれ、同級生のN子さんの家や校長先生宅の近くの潅木のまばらな茂みに、7月頃、アケビの淡い紅紫を含んだ白い花がさくのを私は知っていた。秋、数個の美しい紫いろの実がなった。独特の香りがしてほんのり甘い実を、私は背伸びしたり棒切れでたたき落とし、家に持ち帰って食べた。 (今日はここまでに。以下に八総鉱山の植物を記しておきます。私の記録には102種あります。)(1)ヤブマオ、(2)イタドリ、(3)オオイタドリ、(4)サクラタデ、(5)アカザ、(6)アカソ、(7)スベリヒユ、(8)フシグロセンノウ、(9)タケニグサ、(10)ミヤコグサ、(11)シロツメグサ、(12)ヌスビトハギ、(13)クサフジ、(14)ノブドウ、(15)トモエソウ、(16)オオマツヨイグサ、(17)ナンバンギセル、(18)キクムグラ、(19)オオバコ、(20)センナリホオズキ、(21)ヒメジソ、(22)オドリコソウ、(23)ウツボグサ、(24)ヒルガオ、(25)ホウコグサ、(26)ヒメジョン、(27)ノコンギク
Sep 9, 2005
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昭和35年(1960)。私は15歳、中学3年生だった。 この年は騒然とした年だった。1月19日、ホワイトハウスで米大統領立ち合いのもと、日米安保条約が両国全権の間で調印された。日本側の全権は岸信介首相であった。国民の反対は強く、国会請願の署名は約1,350万人にのぼった。国会は紛糾した。条約通過をはかる自民党は何度も強行採決をくりかえし、国会の会期は異例の半年ちかくにおよんだ。自民党はついに警察隊を国会に導入し、5月20日に単独で通過を可決した。 6月15日、学生たちのデモ隊が衆議院正門前でバリケードを張っていた警察車輌15台を横転させて火を放った。西門から入ったデモ隊は警察隊と大乱闘になり、ついに死者がでた。東大生の樺美智子さんである。 7月、岸首相退陣。第1次池田内閣成立。 11月の衆議院総選挙を1ヵ月後にひかえた10月12日、3党首立会演説会が日比谷公会堂で開催された。社会党の淺沼稲次郎委員長が演壇に立ったときだった。左から猛然と駆け寄った17歳の右翼少年が委員長を刺殺した。この様子はテレビ中継されていたので、おおくの人々が恐るべき殺人を目撃することとなった。 さて、その事件後あまり日にちが経っていなかったが、秋深いころだったろうか。それとももう冬に入っていただろうか。私は白いダスターコートを着て学生帽子をかぶり、新築成ったばかりの市民会館にでかけた。岸信介氏の演説会が開催されたのである。 中学生の私の入場をとがめる人はいなかったが、子供はだれひとり見掛けなかった。おとな達はみな、怪物と異名をとる政界の大物が地方都市に遊説におとずれたことに、いくぶん興奮を隠せないようだった。そんなおとな達をしり目に、私は座席に腰を落着けた。 演説が終り、岸氏は満場の拍手におくられて舞台の袖にはいっていった。私はふいに立ち上がり、聴衆を掻き分けながらホールの横手の扉から通路にでた。それはドア1枚で舞台袖に通じていた。そのドアがおおきく開けられ、おおぜいの人々に囲まれた岸氏の姿が見えた。私は通路に立って、ほんのしばらくその物々しい移動を見ていた。それからその集団に向ってちかづいて行った。取り巻きの人達が私に気がついた。そのうちの数人がバラバラと私に向って走り寄った。岸氏が気付いてこちらを見た。ひとりが岸氏を守るように前に立ち塞がった。走り寄った人達が私をとりかこみ、口々に何か言った。私の身体にふれた者がある。そのときだった。 「やめなさい! その坊やを放しなさい」と、岸氏が言った。 私を掴んでいた人が驚いたように、手を放した。岸氏がすこし歩み寄った。 私は胸ポケットにあるはずの手帳を思い出した。私はそれを取り出した。それから適当なページを開き、鉛筆をそえて岸氏に差出した。 「お目にかかった記念に、御署名をいただけますか」 岸氏はおおきく頷き、手帳を受取った。すこしうつむきながら、すばやく署名した。そして私に返しながら微笑した。 (どうだい、この坊やは私の署名がほしかったんだよ)と、そんな風な微笑だった。ギョロリとした大きな目に大きな口。冬なのに陽焼けしたように色黒い顔。圧倒的に自信にあふれているようだった。 政界の怪物と中学生のやりとりに、周囲の緊張がほぐれた。 翌日、私は学校に一枚のソノシートを持って行った。そして放課後、放送室のレコードプレイヤーに掛けた。美術のI先生もやってきた。それは週刊誌に挿まれていた付録で、樺美智子さんが亡くなった乱闘の実況録音だった。私とI先生は、無言で聞き入った。----------------------------------------------(このときの岸信介氏の署名が、以前お話した家の大修理のための片付けのときに、ひょっこり出てきた。今さがしたが、見つからない。後日探し出して、ここに掲載しましょう。)
Sep 8, 2005
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いやァ昨日から今日の昼ごろまで、私のモニターが故障してしまい、さんざんでした。全部が全部モニターのせいではないのですが----。 いろいろなことを順をおってお話ししましょう。 まず、この私のブログですが、日頃から少し遊びがすくないかなァと思っていたんです。私自身はずいぶん遊んでいるのですが、その感覚とお客さんの感覚は違う。本の読者と直截お会いすることなく長年仕事をしてきた身には、そういうことも薄々感じるのですね。そんなとき、この遊卵画廊を手伝ってくれているシルフさんがトップにWELCOMEの動画をとりいれてくれ、昨日はまたいつも訪問してくれている良次さんが芸術系サーチエンジンとそのアクセス・ランキング競争の情報を提供してくれた。私はブログのまったく初心者で、何かあるとシルフさんに聞いている状態。良次さんにも御迷惑かけながら動画バナーをアップしました。 そこまでは大変よかった。 つぎに私は、別館の『映画の中の絵画』の執筆にとりかかりました。あれは、記憶といくらかの映画メモをたよりに書き下ろしなんです。「きょうは○○○について書こうかな」と思うと、机のうえに記憶を確かにするために必要な資料や年号表などを用意して、キーボードを叩きはじめるわけです。 で、きのうは『雨あがる』を書き始めました。本文に入るところで用事ができてしまった。執筆を一時やめ、書いた分だけ登録して、アップ完了。それから2時間ほどのちに執筆再開。しばらくキーボードを叩いて、ほぼ終末までやってきました。「もう20行ばかりでこの項は終るな」と思いながら次の仕事のことが頭を横切った。そのときです、ジャーン、やっちゃった。何かがキーボードにふれたのでしょう、いままで書いてきたものがコンピューターから消えてしまったのです。このブログのプレビューが真っ白! たぶんエスケイプ・キーを、開いた資料がずれて押してしまったのでしょう。「アア~」と嘆いても始まらない。しょうがない、つづきはまた明日だ。でもさきほども言ったように、書き下ろしでしょ? さっき書いた原稿は頭のなかにしかないのですよ。それを思い出しながらの再執筆ですから、まるで頭の体操です。 ところが悪いことは重なるもので、同じようなことがこちらの日記でも起ってしまいました。 昼間、雨の降りしきるなかに選挙カーの連呼が遠くから聞えていた。そのうちにふいに鮮やかに思い出したことがありました。私はそのことを日記に書くことにしました。『危険ないたずら』というタイトルにしました。執筆を開始。なかなか快調に飛ばし、もうすこしで終了するというとき、突然、コンピューターがフリーズしてしまったのだ。 「エッ!!??」 マウスを操作しても、カーソルは微動だにしない。モニター上には今書いた日記が表示されている。途中でも、登録さえすれば生き残る。でもウンともスンともいいません。 しかたがない、私は電源を切り、再度入れました。当然不適切な手順でコンピューターを終了したのですから、ファースト・エイド機能がはたらいても、書いた日記は消滅してしまいます。そしてそのとおりになりました。こればかりは二度執筆する気にはなれない。日記は休むことにしました。 そしてつづく今日の昼、コンピューターの電源を入れたところ、本体は作動しているのにモニター画面は真っ黒。警告ランプが明滅している。「ウ? どうした?」。モニターのスイッチを押してみたが警告は出つづけている。本体やモニター周辺をくまなく調べてみた。「アッ! 水滴だ」 なんとモニターの上部がほんの少し濡れているのである。「しまった」 そう、私は朝方、雨が止んでいたので窓をすこし開けたのだ。しばらくしてまたザーッとやってきたので窓を閉めたのだが、たぶんそのとき雨が吹き込んでモニターを濡らし、内部にまで水がはいったのに違いない。これはよわったぞ。 私はコンピューター本体の電源を切り、再度入れる。本体は作動しはじめる。しかしモニターは相変わらず警告を発するばかり。私は扇風機を持出して、モニター上部の放熱スリットから風を送ってみた。そんなことをして役にたつかどうか分らなかったけれど----。20分ほど経過。コンピューターの電源を入れたままモニターの電源を切る。入れる。「ウン?」入力信号音がした。しかし画面は真っ黒。 入力信号音がしたことに気を取り直し、電源の操作を5,6度くりかえした。すると、パット画面が明るくなりアイコンが並んだ。「なおった!」と思うまに、明るい画面が次第に小さくなり一瞬パッと大きくなって完全に消えてしまった。 私は同じことを繰り返した。そのうちに、現われる画面がすこしずつ安定してきた。 そうです、完全になおったのです。 私はさっそくこのHPを開き、こうやって日記を書いているというわけです。
Sep 7, 2005
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蟻の巣のように縦横に拡がった坑道のそれぞれの採鉱現場から出た鉱石は、集められて竪坑の中に投込まれ、下方の集積場へと落ちてゆく。 集積場は上から下へとブロックを形成しているが、そこからさらに落差60メートルの漏斗へ蓄鉱量を調整しながらあつめられ、ついにはエレベーター上部の開口部へ落ちてゆくのである。いっぱいになるとエレベーターは地上に降下し、待ち受けるトロッコに移されて坑外へ、さらに選鉱所へ運搬された。バッテリー式電気機関車が1トン積みトロッコを14,5台牽引して往復した。 昭和31年(1956)頃までに選鉱所の〈精鉱〉の日産は250トン。翌32年には日産500トンに達し、福島県随一の銅鉱山に成長した。 〈精鉱〉というのは、採掘した鉱石から岩石をとりのぞいたものである。銅鉱が単独で存在することはなく、金と銀と混合している。また別に鉛と亜鉛の混合があり、黒鉱からは2種の精鉱を産出するのである。八総鉱山の主要鉱は銅であるが、精鉱1トンあたり金が4グラム、銀が60グラム程度含有していた。金の含有量としては多いほうである。 精鉱は愛媛県四坂島の別子精錬所に送られ、そこでそれぞれの純粋金属に精錬された。 選鉱所から精鉱を搬送するためのトラックは、毎日引きも切らなかった。そのため道路を整備する必要がでてきた。 私の父が国庫補助を陳情するため東京へ出張し、当時の社会党代議士戸叶氏に面会した。この陳情は即座に受諾された。父が出張から帰ってきたときには、すでに国庫から会社に送金されていた。おどろくべき対応と言ってもよいだろう。八総鉱山が国家的にいかに期待されていたかを証明している。 道路は国の産業道として拡張整備された。施工は鹿島建設がおこなった。 私の家があった清瀬地区の滝の原方面側は、すなわち八総鉱山の入口であったが、ここには警備詰所が設けられ、鉱山関係者以外の入所がチェックされた。 ちなみに八総鉱業所の職務組織は鉱業所長の下に、総務課、採鉱課、工作課に大別され、課ごとにさらに係職があった。おおよそは以下のようであるが、係職はそれほど厳密に分担されていたわけでなく、課のなかで仕事の内容によって相互に補助しあっていた。 総務課 ― 経理、人事、労務、倉庫、運搬(外部)、庶務 採鉱課 ― 保安、削岩、支柱、線路、運搬、選鉱、雑役 工作課 ― 電気、建設 私は6年生の夏休みちゅうのある日、担任のH先生とT先生をおさそいして父を案内役に、赤倉通洞を見学した。900メートル〈ヒ〉までトロッコ用の線路が敷設され、両側の岩壁に蛍光灯が付設されていた。坑内は夏でも気温が低く、寒いくらいだった。足許は水に濡れ、900メートル〈ヒ〉から先の坑道は次第に狭くなってゆく。というのも坑道は〈ヒ〉に到達するのが目的であるから、その余は避難用等の便宜的なつけたしに過ぎないからだ。坑内というのは採鉱目的以外は極力、経済的省力的にできているのである。余計な掘削は山を弱くしてしまうからでもある。 1200メートルを歩いて館岩口に抜けると、ひろびろとした原っぱだった。そこから山をくだると館岩村に到る。私たちはしばらくその原っぱで休息してから、ふたたび坑道を引き返した。私はさまざまな植物を採集した。 いまになって思えば、坑道はもちろんその周辺も一般の立ち入りはできなかったから、社員家族にしても坑道に入ったひとはいないはずだ。まして子供はなおさらで、おそらく私ひとりであろう。 それより以前だったと憶えているが、私は選鉱所も見学させてもらったことがある。選鉱係長はAさんだったが、小学生の私を案内してくださったのはどなたであったか。 この話を、聞き書きをしながら病床に寝たきりの父に話すと、「そうかい、そんなことがあったのかい。ひとりで見学してきたのか。ベルトコンベアーが連なって、鉱石がどんどん流れていたでしょう」と笑った。
Sep 5, 2005
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ことし初めての松茸ごはんを父の仏前に供える。 それでは父からの聞き書き、昨日のつづき。 選鉱所が建設され、人員増加のため笹原、末広、旭が丘、笹森の各地区が開拓されて社宅が建設された。それまで社宅が建っていたのは事務所近くの赤倉と住吉にあわせて10数棟。それに独身寮と健保会館、診療所。私たち家族が居住していた清瀬地区は、わずか6棟12世帯と鉱山長宅だけであった。それが清瀬だけでも、一挙に全26棟47世帯になった。ほかに全従業員520人を収容する住宅が山を切り崩すなどして建設されたのである。全人口は2000人ほどだったろうか。小学校が建設され、さらに規模を拡大した診療所、3カ所の共同浴場、床屋、配給所(スーパーマーケット)、接待館等がつぎつぎ建設されていった。 これらの基礎工事と建設は、当初から八総鉱山に入っていた北海建設株式会社に加えて鹿島建設株式会社が一手に請け負っていた。それぞれの事務所は赤倉にあった。八総鉱山の建設工事はその後もつぎつぎとあったので、両社は事務所のほかに住宅を設けて、設計を担当する社員のほかに大勢の労働者を常駐させていた。飯場と称していたが、いわゆる労働者飯場ではない。普通の住宅である。 工事のなかには選鉱所の沈澱池の建設もあり、巨大な沈澱池は排水でいっぱいになるとその横にあらたに増設していった。 坑道は900メートル〈ヒ〉でいよいよ上方へ掘削されてゆく。赤倉露天抗である。 赤倉通洞は、赤倉口から館岩口まで1200メートル。完全に山を横断していた。鉱石運搬用トロッコの線路が敷設された。さきに述べた900メートル〈ヒ〉の手前に、〈見張り〉と称していた4~5坪くらいの広さの事務所が、岩盤をくり抜いて設けられている。もちろん板壁に天井を張り、床板を敷いてあるので、中にはいればごく普通の事務所とかわりない。朝、出勤した現場作業員は、この〈見張り〉に立ち寄ってから、各々の現場に向った。 〈ヒ〉から鉱床に入ってゆく露天抗の最初の採掘坑----いわゆる先進坑である竪坑は、地上から上方へ250メートル、下方ヘ約30メートル、途中で鉱床の逃げ(傾き)にそって屈曲しながらもほぼ垂直に掘削されている。坑道は直径約1間(180cm)、内部が1寸板(厚さ約2.5cm)の壁で巾120cmと巾60cm程度との二つの空間に分けられている。広いほうは採掘した鉱石を投げ落す坑で、狭いほうには作業員が昇り降りする木梯子が岩盤に打ちつけた枠に取り付けられていた。木梯子は長さ1間半程度のごく普通のもので、上方の岩盤に丸太を打ち込んでつくった足場へ、そこからまた次の上方の足場へと、交互に、250メートル地点まで上っていた。 そしてこの竪坑には別に鉱石運搬用のエレベーターの坑道が固い凝灰岩の岩盤を貫いて上下それぞれ30メートルのところまで併設され、さらにもう一本の別の坑道がその30メートル地点から上方60メートルまで開鑿されているが、これは採掘した鉱石を上から落して溜める漏斗であった。その下部には斜に開閉扉が取り付けられている。 先進竪坑は250メートル上方まで採掘を終了すると使命を達成した空坑として打ち捨てられたのであるが、エレベーターの到着点の地上30メートルより上方15メートル地点に探鉱用の試掘坑が横にのび、さらにその上方15メートル地点に本坑が掘られた。その坑道は鉱床の塊(マス)の逃げ(傾き)にしたがってマスの内部で四方八方にのび、それぞれの坑道はまた竪坑を穿ち、試掘坑と本坑の15メートルごとのパターンによって、マスの内部の各所で採鉱がおこなわれているのだった。八総鉱山の鉱床のマスの特徴はさきに述べたように、上方にいくにしたがい北西方向へ傾きながら固まっている。先進竪坑からこの鉱床のマスにもぐりこんだ採掘坑はこのマスをすべて掘り出してしまうべく、いわば蟻の巣穴のように縦横にのびて行ったのである。と言っても、黒鉱交代鉱床は比較的やわらかいのが特徴で、崩壊や落盤をふせぐため採掘を終了した坑道は試掘坑からでる岩石(ズリと言う。石ヘンに并と書く)で埋めもどしながら次に移ってゆくのである。 エレベーターは人間が乗るためのものではないので、現場作業員は垂直な暗黒の坑道を、ヘルメットに取り付けたカンテラの明かりだけで、削岩機を担ぎ、梯子から梯子へと移りながら昇り降りした。(以下つづく)
Sep 4, 2005
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「山があれば 川がある ふるさとよ」 深尾須磨子女史のうたが、私の思いを消えてなくなったひとつの聚落へとはこんで行く。福島県南会津の山の奥深く、旧八総鉱山へと。 昭和28年から38年までのちょうど10年間、私の家族はそこに暮していた。人口およそ2000人。全員が鉱山社員とその家族という、その意味ではちょっと特異な聚落だった。しかしいまは跡形もない。かつてそこに豊かなひとの営みがあったと誰が想うだろう。 昭和31年(1956)、日本は国際連盟への加盟が承認され23年ぶりに国際社会の一員になった。これは国内の産業経済のシステムが大幅に変換することを意味した。保護貿易から自由化への転換。88%貿易自由化の効果は、1960年代にはいるとはっきり現われ、日本の第一次産業に目に見える打撃をあたえた。昭和35年(1960)の三井三池炭坑の大争議はまさにその象徴的事件だった。 福島県随一、国内でも有数の銅生産量を誇った八総鉱山も、国際競争の荒波のなかでついに1962年に事業縮小に踏み切り、やがて完全に閉山したのである。まるで一つ家族のように暮していた2000人のひとびとはそれぞれの新しい生活の地をもとめて分れていった。鉱業施設も、住宅街も、病院も、スーパーマーケットも、三カ所にあった共同浴場も、すべてが完全に跡形もなく取り壊されて丈高い草の茂みにうもれてしまった。ただひとつ私の母校である小学校の校舎だけが神奈川県の研修施設として買い取られ、山のなかにぽつんと残った。いまではそれも荒れ果てた。 私の家族がその地を去って42年が経った。私の旧友はいまでもときどき遠くからそこを訪れるのだという。いや、そういう人がたくさんいるらしいのだ。何がみんなを呼び寄せるのだろう。「山があれば川がある」、あの地。 ことしの3月に父が亡くなった。その5ヵ月ほど前に、まさか父が亡くなるとも思わずに私はふと思いたって、病床の父を駆り立てるようにして鉱山学的見地をまじえての八総鉱山について聞き書きをしたのである。鉱石蒐集家などの報告書に八総鉱山についての記述がないわけではないが、それはごく一般的なことにすぎない。八総鉱山の関係者でも鉱山の〈状態〉を知っていたのは3人ほどだったそうだ。 八総鉱山小学校の最後の卒業生もいまでは40歳を過ぎている。彼らに父親の仕事場のようすをおしえてあげたい気もする。そこで私はその聞き書きの一部をここに掲載することにした。八総鉱山にゆかりのある人がこのHPを見てくれることを願って。 福島県南会津郡田島町の荒海山系に属す旧八総鉱山は、おそらく古く戦前からあちらこちら探鉱がおこなわれていたと推測されるが、昭和25年(1950)から住友金属鉱山株式会社が探鉱を開始した。この現場作業に従事したのは、終戦後廃山になった北海道の北見鉱山にいた人たち、あるいは愛媛県の別子鉱山からの転勤者だった。探鉱にともなう建設事業は、北海建設株式会社が請け負っていた。 ちなみに住友金属鉱山株式会社の前身は別子鉱業株式会社と称した。これは昭和23年(1948)の財閥解体によって住友傘下の会社が名称変更せざるを得なかったためで、各地にあった旧住友系の鉱山は昭和26年6月頃までは別子鉱業株式会社を名のっていたのである。 昭和28年9月30日に私の父が長野県甲武信鉱山から八総鉱山に赴任したときは、まだ探鉱の最中であった。しかし900メートル掘れば〈ヒ〉に当ることが予想できた。〈ヒ〉というのは鉱床の心臓部のいうならば扉口である(註:金ヘンに通と書く)。 予想は的中した。昭和29年に大鉱床にぶつかったのである。住友金属鉱山としての探鉱開始からおよそ4年後のことだった。この4年という期間は、探鉱開始から採掘に到る鉱山業の一般的期間としては、ごく短かったと言ってよいだろう。 八総鉱山の特徴を鉱山学的にのべれば次のようだ。 鉱床は第3期層の新しい地層にある黒鉱型(金、銀、銅、鉛、亜鉛の混合体)交代鉱床である。第1回目のマグマが上昇してきて沈積し、白色粘土化する。その白色粘土層にそって第2回目のマグマが上昇し、やがて沈積する。これが当該鉱床の随伴鉱物で、黒鉱の場合はアイアンコーツ(赤鉄石英片岩)その他の鉱物である。さてこの第2回目の沈積にそって第3回目の黒鉱交代鉱床を形成することになるマグマが上昇してくるのである。 八総鉱山の場合、この第3回目のマグマが冷えた塊(マス)は、赤倉通洞の地点を底面として上方北西方向にやや傾いた登山帽子のようなかたちで存在するのである。それ以外は凝灰岩である。したがって八総鉱山の場合、鉱脈と言うのは正しくない。あくまでも塊(マス)なのである。そしてマスのてっぺんの一部が、山頂の地表に露頭としてあらわれていた。八総鉱山の発見のきっかけは、この露頭の発見であった。 さきに「第3期層のあたらしい地層」と述べたが、これは地球誕生の地質学的な表現である。住吉地区から事務所がある赤倉地区にはいる少し手前、道路の右側に安山岩の柱状節理がきれいに露出していたのを思い出す。これだけで八総がはるか地質学的古代の火山系のなかにあることがはっきり分る。 第3期層のあたらしい地層に黒鉱型交代鉱床が存在するのは、世界中で日本だけである。この点に関しては早くから学問的議論があったのであるが、それはともかく、日本においても福島県以北にしか存在しない。八総のほかには、花岡(秋田県)、小坂(秋田県)、安部城(青森県川内町)、余市(北海道)などが鉱山学的には同型である。 八総鉱山は登山帽子のかたちをしたマスのてっぺんがほぼ山頂に近い地点にあり、しかも底がないいきなりの心臓部にぶちあたったので、鉱山経営的には鉱山の寿命が容易に算出でき、投入人員等をきわめて効率的に計算できた。そのことは最盛期のみならず、後の事業縮小を経て閉山にいたる過程の人員整理についても適用可能な理屈だった。 さて、本格的に採掘が開始されると、会社の名称が〈住友金属鉱山株式会社八総鉱山〉から〈住友金属鉱山株式会社八総鉱業所〉と改称された。(以下つづく)2005年9月5日、10日、11日、12日、13日、14日、15日の日記。
Sep 3, 2005
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小学生時代、私は先生にひっぱられて合唱部に入っていた。〈部〉とはちがうかもしれないが、とにかく、NHK主催の小学生合唱コンクールの地方大会などに出場していたのだ。4年生のときの課題曲は、江間章子作詞・大津三郎作曲・岡本敏明・岩川三郎編曲『花のまわりで』。自由曲は、深尾須磨子作詞・橋本国彦作曲『いずみのほとり』だった。この『いずみのほとり』という曲は、そのころ多くの学校が自由曲に選んでいた。私自身、たしか6年生のときもこの曲を歌ったおぼえがある。現在は演奏されることがあるのだろうか。 『いずみのほとり』 1 水よ水よ きれいな水よ 水よ水よ きれいな水よ 青い空やすすきの影を映している 水よ水よ 秋の水よ 水よ水よ 秋の水よ 2 むかしむかし 泉のほとり 天使たちが小羊たちと遊びました むかしむかし 今はむかし 3 水よ水よ きれいな水よ 水よ水よ きれいな水よ 青い空やとんぼの影を映している 水よ水よ 秋の水よ 水よ水よ 秋の水よ 懐かしいこの曲の作詞をした深尾須磨子女史(1888―1974)に、私は大学時代にお目にかかっている。大学に講演にこられて、大正から昭和初期にかけての先進的な女性たちや、師の与謝野晶子について話された。お帰りのときに私は立ち話で、御親交のあった岡本かの子について少しうかがったのだ。 「そうなのよ、活発な人でね、男たちを従えてしまうのよ。それでも男の人たちは、かの子観音なんて言ってたわね。そういう魅力が、かの子にはあった」 深尾須磨子女史は兵庫県の丹波の山村に生まれ、詩人としての出発は遅く、夫に先立たれてからだという。故郷がわたしの血肉であると言い、女史の詩の本質として自然や動植物に対するやさしい眼差しがある。 『望郷』 山があれば 川がある ふるさとよ 山にきつね 川にごんろく いまも居るか ふるさとよ 大正10年(1921)に当時44歳の与謝野晶子に初めて出会い、爾来、生涯の師とさだめて薫陶を受けた。深尾須磨子33歳のときだった。 深尾女史は「詩は行動するものだ」と言い、戦後はみずから苦悩しながら反戦を説いていた。 私が大学でお目にかかってから3,4年して、偶然バスの中でお姿をおみかけした。「中村さんはお元気かしら」と女史は言った。法政大学の学長中村哲氏のことだった。私はすでに卒業していたので、学長の動静はしらなかったが、「はい、お元気とうかがっております」とこたえた。そして小滝橋から新宿駅までのあいだ、また少しお話をうかがった。そのころ深尾女史は朝日新聞に自伝を御執筆していらした。そんなこともまじえたお話だった。 それから間もなくだった、1974年にお亡くなりになった。1888年のお生まれだから、私が大学でお目にかかったときは78,9歳。バスのなかでお会いしたのが1971年だから、83歳だったことになる。背筋がぴんと伸びてじつに矍鑠としておられた。 (註)『望郷』のなかの「川のごんろく」とは ハゼ科の淡水魚ドンコの丹波地方の名称。
Sep 2, 2005
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革命世代の苦悩教の教祖などといわれた小説家高橋和巳が病死したのは、三島由紀夫が自死して半年後の昭和46年(1971)、たしか5月の初めだった。享年39歳だったという。『悲の器』で河出文芸賞を受賞。以後、『捨子物語』や『邪宗門』、巨大新興宗教教団の腐敗を描いた『日本の悪霊』、『憂鬱なる党派』などを発表し、全共闘の学生を中心にカリスマ的存在になっていた。 はっきりした年月を忘れてしまったのだが、たぶん1967,8年だったと思う。新潮社が主催した文芸講演会が東京であり、講師は武田泰淳と高橋和巳だった。まず若手の高橋和巳が講演し、ついで武田泰淳がおこなった。しかし私は武田氏の講演を聞いていない。というのは高橋氏の話の内容がとても気になり、私は席を立って、舞台裏からエレベーターで上階にのぼった控え室に行き、おそらく新潮社の担当者であろう男性に高橋氏に会いたい旨を告げた。 昨日お話ししたモラビア氏の場合もそうだが、私は若いころ何人かの文学者に直接お目にかかている。いずれの場合も、前もってアポイントメントを得ているわけではない。一学生のいきなりの面会要請にもかかわらず、私は拒絶されたことがないのだ。高橋氏の場合もそうだった。 だだっぴろく殺風景な部屋の片隅に、応接用の低いテーブルとそれをはさんで二つのソファがすえてあった。壁を背にして武田泰淳氏が坐り、向いあって高橋氏が黒っぽいスーツで疲れきったように坐っていた。武田氏は私と入れ替わるようにすぐに迎えの男性に伴われて部屋を出て行った。 新潮社の人はなぜか私を高橋氏のとなりに坐らせ、自分は武田氏がいたソファに腰をおろした。私はおさまりのわるい格好で挨拶した。高橋氏もうなずくようにおじぎをし、すぐにうつむいてしまった。 「先生は、いま、スランプなんです」と、新潮社の人が言った。きっと高橋氏の担当編集者なのだろうと私は思った。 そのとき私が高橋氏に問うたのは、氏の社会観はあまりにも絶望視しすぎてはいないか、それでは革命もなにもありはしない、何も起こりはしないのではないか? と言うことだった。 随分ずけずけと言ったものだ。高橋氏は黙ってうつむいていた。 私はさらに仏教の現世回向の話しをした。極楽浄土が億万年の彼方だと思っていたところ、はたと気付けば今自分が立っているところだった、と。「私はもっと楽観的に考えています。一人が一人を信じることができれば、やがてそれは鼠算式にひろがるだろうと----。いまや世界はバッタバッタと切り倒して革命は成就しないのではありませんか?」と、私は言った。「あなたは、よく分っておられる。あなたは武田泰淳さんと話しをすべきだった」と少し皮肉な口調で言って、高橋氏は私の顔をみた。「お疲れのところを申し訳ございませんでした」「いえ、あなたの率直な御意見です」 私は、陰々滅々とふさいでゆく高橋氏の様子をかたわらに見ながら、かすかに悪い予感がした。 その面会から数年後に高橋氏が病死したことを知ったのだが、むしろ私の予感が当らなくてほっとした気分だった。〈苦悩教の教祖〉などと言われていたことを高橋氏は御存知だったのだろうか。私は、揶揄ともとれるそんな言葉を投げかける気にはなれない。 高橋和巳氏はデビュー間もなく『仮面の美学 ― 三島由紀夫』と題する評論を発表していて、三島に関心があったらしい。三島の自死に衝撃を受けたとも聞く。たしかに三島由紀夫は死にいたるまでの数年間、全共闘世代に向ってアジを飛ばしてはいた。しかし高橋氏よ、三島氏の政治論は、現実の政治を語っていたのではありますまい。そのことはよほどの脳天気か彼への阿諛者か、あるいは彼を利用しようとする輩以外は、みな知っていたはずです。あなたの生真面目さは、全共闘のアイドルなど〈演じ〉られなかったのです。それに気付いても、あなたの心のなかは、二進も三進もゆかなくなっていたのではないでしょうか?
Sep 1, 2005
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