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きょうも昨日とまったく同様の一日。ただいま23時を回って、制作の筆を置いたところだ。予定どおり描写をすべておわり、ほぼ完成なのだが、一両日の乾燥を待って残り二つの行程のみ。私にとって言わば画龍点睛にあたる気の抜けない技巧的な処理である。 しかし、いま筆を置き、その作品を点検しながら眺め、気持ちがいささかエロチックになっている。つまり、わりと満足ゆく作品になったということ。---他人には説明できない感覚なのだが、様々な思念や技巧がうまく作品として統合することができて、しかも「美」が立ち現われたなら、私の頭脳と生理は不可分のうちにそれを感受し、すなわち私は発情する。セクシャルと言わずにエロチックと言った所以である。---その瞬間の感覚の実現のために絵を描いているようなものだが、なかなか実現するものではない。まだやってこない、まだだ、まだだ---と、何十年も絵を描いて来た。 さて、もう寝よう。明日の仕事がある。 ヒルティーだったかな、「明日また起きることを思って眠ることができる人は幸せだ」と言ったのは? 「明日ありと思う心の徒桜 夜半に嵐の吹かんものかは」とは、「親鸞上人絵伝」のなかの歌。----ハハハ、私には明日があるさ。
Mar 31, 2015
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22時50分、一日中執筆していて、ただいま終わった。 コーヒーを淹れる準備をしている(就寝前のコーヒーであろうと緑茶であろうと、寝付けないなどということはない)。体力も精神力もまだまだ大丈夫だと思いながら。 とは言え、そんなことを思うと、30代半ば頃までの36時間ぶっつづけに執筆してその場に倒れて2時間眠り、また36時間仕事していた日々が懐かしい。食事は握り飯を左手で頬張りながら、右手は筆を動かしながら---。70歳ともなれば、さすがにそんなことはできなくなっている。 作品の完成までにはまだ数日かかるが、描写は明日で終わる。予定より遅れてしまったが、数日内に完成すれば、ニューヨーク展のために約束した作品数がそろう。点数ばかりでなく、私としてはそれをひとつのシリーズとして考えていたので、1点欠けるのは口惜しかったのだ。しかし、急いては事を為損じる、と、じっくりやるべき事はやって来たのだが、どうやら完成が見えてきた。 さあ、コーヒーが入った。一休みすることにしよう。
Mar 30, 2015
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きょうも一日、制作にかかりきり。夕食後、上海で開催されているフィギュアースケート世界選手権のエキシビションを観ていたが、途中で再び仕事場に戻った。就寝まで3時間ほど執筆する。
Mar 29, 2015
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午前中は雑用を片付け、昼食後、12時30分から執筆開始。ただいま午後6時10分になるところ。休み無く仕事したが、描けたのは部分的にはほんのわずか。しかし、まあ、こんなものだ。 ところで、妙なことに気がついた。一昨日の合唱練習で新しい2曲の譜読みをしたのだが、私はその2曲とも楽譜をもらうまでまったく知らなかった。気がついたというのは、就寝し、眠っている間にどうも練習しているようなのだ。声に出して歌っているわけではない。夢に見ているわけでもない。ぐっすりと良く眠っているのだが、頭の中で声を出さずに歌っているらしい。夜中にトイレに行こうと(年をとった証拠だ)、目が醒めた瞬間に頭の中に曲の片鱗が残っていて、---「あれっ?」とそれに気づいて、ためしに小声で歌ってみると、未知の曲がちゃんと歌えたのだ。 へーっ、と思った。眠りながら譜面をたどりながら歌っているのだ! で、2曲のうち1曲は、もうほぼ完全に覚えてしまったのである。
Mar 28, 2015
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15世紀のイングランド王リチャード三世の2012年に発見された遺骨について、並びにレスター大学の研究について、私はこのブログで何度か言及してきた。このたびレスター大学は一応の研究成果を得たので、遺骨を再埋葬することになった。その埋葬式が今日26日にレスター大聖堂で挙行された、とCNNが伝えている。【関連報道】CNN リチャード3世を再埋葬、カンバーバッチさんが詩朗読 英 再埋葬にあたってレスター大学はおもしろい事実を発表している。イギリスでいま最も人気のある映画俳優の一人、ベネディクト・カンバーバッチさんが、DNA鑑定により、リチャード三世の遠い親戚にあたる 、というのである。【関連報道】毎日新聞 英俳優:カンバーバッチさん、リチャード3世の血縁と判明 最近の遺伝子研究は目覚ましく、私たちは(一般論としてではなく、このブログを読んでいる一人一人が)およそ1万7000年前の直接の祖先にたどりつことが可能だ。したがって、カンバーバッチさんの先祖がリチャード三世であるという事実は、遺伝子研究の発展的成果としては何等目新しいことではない。ただその事実が、人気俳優だけに、おもしろいのである。 さらに、(絵描きの私としては)カンバーバッチさんの容貌がリチャード三世の肖像と大変良く似ていることがおもしろい。リチャード三世の肖像として知られる絵は、本人を目の前にして描いたものではない。ずいぶん後に、生前の面影の記憶をたよりに、あるいは伝聞をもとに描かれた肖像画である。それが、カンバーバッチさんの容貌と似ているとは、どういうことか。伝聞や昔の記憶が非常に確かなばかりでなく、いまでこそ名前を忘れられている画家の〈再現力〉の技量の優秀なることの証かもしれない。---ちょっと言葉で言い表せないでいるが、私は画家としてそのことに想いを集中する。 美術史には本人の死後年月を経てから描かれた肖像画、あるいは肖像彫刻が数限りなく存在する。それらが本当に本人と似ているかどうかを確認することはできない。遠い縁戚にあたるカンバーバッチさんの容貌とリチャード三世の容貌との類似を知るような事例は、おそらく肖像美術において異例のことではなかろうか。
Mar 27, 2015
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夜、民生委員合唱団「かしの木」の練習。今日から新たな曲の譜読み。 新実さんの今晩の合唱コンサートに、上のような事情で伺えない旨をメールしたら、その返信に、「山田さんが合唱!」と、エクスクラメイション・マーク(感嘆符;びっくりマーク)が付いていた。そりゃあそうだろうな、新実徳英は日本有数の合唱曲作曲者だもの。われら「かしの木」には、彼の曲はとても歌えない。 その合唱団「かしの木」の先日のステージ写真をもらったので、ここにご覧いただこう。私は男性前列の向かって右です。
Mar 26, 2015
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現代音楽の作曲家・新実徳英氏の曲が演奏される二つのコンサートのおしらせ。 一つは明日26日、池袋・東京芸術劇場コンサートホールにての「オーケストラとうたう日本の合唱曲」。 東北大震災時に詩人・和合亮一氏が創作した「詩のつぶて」に、新実さんが作曲した「つぶてソング」全12曲が、新実さん自身の指揮で演奏されます。 二つめは4月8日、上野・東京文化会館にての「篠崎史子ハープの個展」。 篠崎さんが新実徳英さんに作曲を委嘱した新作(ハープとヴァイオリンのための)、世界初演です。
Mar 25, 2015
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そろそろ作品をニューヨークへ運ぶために画商に渡す準備をしなければならない。いま描いている作品は、間に合えば(本当はとっくに完成してなければならないのだが)後送ということに、先日電話で話をつけた。 で、きょうも終日、制作。6時までやって、一応の区切りはつけたのだが,夕食後、仕事場に入るとまたちょこちょこ筆を入れている。さすがに気が急く。
Mar 24, 2015
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午前中、新宿で買い物。冬のコートを脱ぐ。 とんぼ返りで帰宅して制作。5時まで。 新実徳英氏の CD用音源を繰り返し聴く。身体に染込ませようと---。
Mar 23, 2015
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お彼岸の墓参。両親の命日がそろって3月。愛猫マリも今日が祥月命日。二人と一匹の墓参りである。 道が混み、さらに墓地の駐車場が満杯で、順を待つこと暫し。往復5時間はさすがに疲れた。 春、行路添いは花盛りだ。紅白梅はすでに盛りを過ぎたとはいえ、まだ撩乱と咲き、沈丁花、枝垂桜、桃、椿、辛夷、ユキヤナギ、サンシュウ、キンモクセイ、シバザクラ、桜草、ビオラ、プリムラ----。 我家の小庭の紅椿も、今、もっとも美しい色合いで、毎日三つ四つ五つと、次々に咲いている。 母が亡くなって3年。春から秋口までさまざまな草花が庭を彩っていたのがすっかり枯れ庭と化し,手入れもしないまま雑草が生い茂るままになっていた。今年は、夏に向けて、また花作りをしようか---家人と車のなかでそんな話をした。
Mar 22, 2015
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新しい作品にとりかかる。きのう完成した作品と主題は同じ。
Mar 21, 2015
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午前中、近くの中学校の卒業式に招かれて出席。95名全員が4月から高校生だそうだ。おめでとう。 さて、午後は作品の文字通り最後の一筆を入れ、署名をし、完成。思いのほか長くかかった。 ほっと一息ついてコーヒーを飲みながら、音楽を聴く。 実はこの音楽、現代音楽の作曲家、畏友・新実徳英氏がこの秋にカメラータ・トウキョウから発売予定CDのオリジナル音源。カメラータ・トウキョウのディレクターから届いたばかりだ。私にCDジャケットやブックレットのデザインを担当してくれ、と言うのである。もちろん私に否はないけれど、新実氏の音楽が好きなのと、それをイメージ化するのとでは訳がちがう。 おっと、そんなことを書いてるところへ、新実氏から電話。この話はまた後日にでも。
Mar 20, 2015
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良質のチョーク(白墨)を製造していた羽衣文具(愛知県春日井市)が廃業する。読売オンラインが報じている。教育現場の電子化によって、黒板を使うことが減少したためらしい。同社の優れた製造機械は韓国企業に譲渡されるという。 私にとってこのニュースは他人事でない。絵画制作に羽衣文具のチョークを使っているからだ。どのように使うかは、下書きに使うとしか言えないが、昔、試行錯誤の末にようやく見つけた道具なのである。 アメリカの数学教授らの団体が、廃業を知って大量注文(60カートン、約1トン)して来たそうだが、さもあろう。その良質さは、たかがチョーク一本と侮れないからだ。猛烈なスピードで黒板に数式を書いて行く数学者や理論物理学者にとって、チョークの滑らかな書き味は、さぞかし重要であろう。 私も、少し買っておかなければならない。 【関連報道】 読売新聞
Mar 18, 2015
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午前中は雑用に追われ、昼から執筆。6時までつづけたが、夕食後少し休憩。うとうとしていたが、ただいま8時半、気を取り直してふたたび執筆するために仕事場に戻った。もう少しで描写が終わる。それをやってしまおうと思う。
Mar 17, 2015
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注文しておいた画材が入荷したというので、午前中、新宿まで受取に出かけた。 ところで、先日も不快に感じたのだが、かつての三越がいまではファッション◯クロに変わって、その建物の使い方が実に下品。ファサードのウインドウも柱も広告でおおわれている。ファッションを扱う店舗(どんな商品を扱おうと)にして、この有様かとあきれるほど美的センスに欠ける。いまや世界に展開するブランドらしいが、「衣食足りて礼節を知る」というような、街並の景観を美しくつくることに寄与しようという意識はまるでないようだ。所詮、三流どころか。 ◯クロばかりではないが、とかく今日の日本の大店舗(小店舗は言わずもがな)は、街並を美しくしようという社会性---あるいは公徳心と言ってもよいが---に欠ける。昔は店構というのは大切に考えられていて、大店(おおだな)の前は塵一つなく掃き清められ、暖簾のぐあい、掛け看板のぐあい、あらゆるところに「美的センス」が窺えたものだ。それがいまやガサツそのもの。私は◯クロに入ったことはないが、入るのが恥ずかしい店構じゃないか。良質の商品を製作販売しているという自負があるなら、街行く人が不快を感じるような薄汚いビルの使い方は止めた方がよろしかろう。(私は商品にケチを付けているのではない。書いたように、どんな商品か私は知らない。しかし、安物を売っているということを、そのようなガサツさで知らしめているのだろうか? そうだとしたら、もはや論外である。) ふたたび、ところで。 これも先日書いたが、私は外出しても家と目的との間を脇目もふらずに往復するだけである。街を目的もなくぶらぶら散策することがほとんどない。面白くもおかしくもない男だ。それが今日は、新宿駅に向かっていると有名なセカンドハンド・ブックの店があったので入ってみた。これが大当り。わずか200円でめぼしい一冊をみつけた。忙しいので、買った本が未読のまま溜るばかりだが、みつけたこの本を買わないでおくはずがない。---どなたか、「鼻がきくね」と言って ください。ははは。
Mar 16, 2015
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さあ、今日の午後、歌の会ライブコンサートで歌ってきた。 お引き受けした務めをはたした、と言う感じ。他の女性グループ出演者のマナーが終始悪く、私はとうとう一喝したほどだ。人に見せる聴かせるの根性が出来ていない奴は、芸事はやらないほうがよい。お客さんに失礼というものだ。また、自分が演者として他のステージ上の演者に対して敬意を払えない奴も、演じると言うことから身を引いた方がよい。 というわけで、一部にロクデモナイ出演者がいたコンサートだった。したがって、私は、私に与えられた仕事を精一杯つくしただけである。 さて、そんなことはもう忘れよう。執筆に専念しなければ。 近くの小中学校から卒業式および入学式の招待状が来た。いまやスケジュールがあれやこれやで過密状態である。
Mar 15, 2015
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午前中から執筆をつづけ、ただいま3時、ちょっと休憩している。この期におよんで、すこし構成を変えた。上半分に加筆し、画面をやや重くしている。 きょうの加筆部分の乾燥を待つ間、すなわち明日半日、ある歌の会ライヴコンサートに招かれて歌ってくる。まさかこんなことになろうとは想ってもいなかったが、とにかく開演前1時間リハーサルをするというので、急遽、決めた。 きのうは民生委員と抱括支援センターとの会議。あっちに行き、こっちに行きで、忙しい。精神状態を作品制作にパッと切り替えるのが、なかなか大変である。 ---そうそう、きのう会議に出席した後で、木目込人形制作者のアトリエに招かれ、たくさんの素晴らしい作品を見せてもらった。どうしても私に見せたかったのだ、とおっしゃって。 私は、人間国宝でいられた堀柳女(1897-1984)さんの作品を、子供のころから見ていて、古代裂れを使ったその気品高い作風に感嘆していたものだ。 木目込人形制作は、日本の伝統技能である。東京・浅草橋の問屋街から、いま、大手の二社を残して、多くの人形店が消えているそうだ。伝統技術まで消えることのないように、と思う。 そういえば、昔、26、7歳のころ、大きな卵のオブジェや「ミンスキーのお菓子」と題したオッパイ彫塑作品を制作し、銀座のと或る会場で展示したことがある。その展示用の人形ケースを探して浅草橋の人形問屋街を脚を棒にして歩き回ったことを思い出した。
Mar 14, 2015
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きのうの美術講義を聴講された方々から謝辞を頂戴し、恐縮している。 人に話すことで自分の論理の道筋が明確になることが多々ある。その点からも、今回の機会を与えられて感謝しているのは私の方だ。 話は変わる。 私に歌のお呼びがかかった。歌の会を開くので歌いに来てくれ、と言うのだ。オヨヨ、である。---どうしよう。制作が忙しいのだが。---ピアニストとヴァイオリニストが伴奏してくれるらしい。---う~ん、食指は動くなー。 午後、新宿に買い物に出た。人々の服装が、コートーを脱いでいる人、まだダウンジャケットを着ている人、2対3くらい。しかし大きなウインドーの向こうでメイキャップの指導をしてもらっている、その化粧の色合いはまさに春だ。---きのう講義をしながら、街行く女性の肌の色や仕種を見るともなく見ている、と言ったら、「あら、やだー、見られているの?!」と声があがった。私は買い物に出かけても、家と目的の店との間をほとんど脇目もせずに往復するだけだが、それでもやっぱり観察しているのだ。画家の習慣、習性である。
Mar 12, 2015
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きょうは依頼されていた美術講義の日。午前10時から12時半まで講義し、参加者みなさんと一緒に昼食を摂り、その後、3時まで質疑応答、あるいは私の画家としての歩みなどをお話しした。 講義が予定より30分長引いてしまい、時計を見ながら説明を短くしたり駆け足したり端折ったりしたので、あるいは分かりにくい部分もあったかもしれない。おもしろく思っていただけただろうか。演題は「読書する女性像の発生とその社会的な意味」。聴講くださった方には御礼申上げます。 じつは、その講義原稿をすべてこのブログに掲載しようと入力したのだが、字数が大幅に多くて掲載不可能と表示された。しかも性に関する表現があると、拒否の表示がでた。このブログシステムの、そこは奇妙な規定で、学術的な論文でも性に関することが書いてあれば掲載ができない。---まあ、あえて掲載しなくてもよいと思い、したがってこのブログを訪ねて下さったお客様に今日の講義内容をお読みいただくことはできなくなった。字数の多さは、2ページに分載すればよかったのだが。 さて、昨日今日と外出している間に画廊からたびたび電話があり、ようやくつながって、作品制作の進捗状況やテーマの切り口などについて、私をサポートしていてくださる担当者と話し合った。私の描きたいことを描け、それをサポートしてゆくから、という言葉に、迷っていたことへの或る種のふんぎりがついた。サンキュー,サンキュウー。来週中には新作数点のレジュメを提出できるだろう。すでに提出予定日を10日も過ぎている。 担当者は、私の声に強さがあるので安心した、と言っていた。そう、元気なのはいたって元気なのだ。しかし、心配してくれてこれにも、サンキュー,サンキュウー。明日から仕上げにかかります。
Mar 11, 2015
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午後1時30分から4時まで、市役所で民生委員の会議。高齢者支援のための実践的勉強である。介護保険制度が変わるので、それを踏まえている。 出かけるときは、昨日の雨空とは打って変わっての好天。ところが帰る段になって降り出した。雨具を持たずに自転車で行ったので、濡れながら帰ってきたが、途中からパッと雨雲が消えて白雲の切れ目にすばらしい青空がのぞいた。私の好きなターキッシュブルーである。その下の古屋敷の石垣に連翹の黄が滝のようになだれ落ちてい、空の青との対比が美しい。ああ、春が来た!という感じだ。じつはこの古屋敷の連翹は、春が来ると、きっと私のブログに登場する。梅の開花に遅れること数日、私には何よりの春の花である。 そういえば、我家の昨日まではなかったアガパンサスの若葉が真っすぐに7cmばかり伸びていた。昨日の雨が一気に勢いをつけたにちがいない。私は5月末ころに薄紫の花がおわると、7月前には30cm以上にも伸びた葉を根本近くで刈り取ってしまう。そのため、その後しばらくすると、その場所は何も無いただの地面になってしまう。アガパンサスの面影は完全に消えてしまうのだ。それが、春になると、今日のように一気に7cmも土の下から葉が出て来るのである。毎年のことながら、やはり感動せずにはおれない。 さて、きょう3月10日は、戦後70年目の東京大空襲の記念日である。 戦後70年の節目にあわせて安倍晋三首相による「安倍談話」について検討する「21世紀構想懇談会」の座長代理で、国際大学学長の北岡伸一氏が昨日、さるシンポジウムに出席し、「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」と述べた、と新聞が報じた(朝日新聞、毎日新聞、時事通信、他)。 私はまったく同じ意見だ。事実を念力のような政治権力で捩じ曲げようとしても曲がりはしない。曲るのは心だけだ。狂信の心だ。 そして明日は東北大震災の記念日である。原発災害のいつ果てるともわからぬ、国土汚染記念日である。「美しい国日本」と、ほざいた首相の返り咲きには呆れたが、喉元の熱さも過ぎぬうちに原発回帰となれば、なるほどの虚仮の一念(愚か者の一念)。愚か者を首長に戴いた国家は、必ず破滅するのは,世界の歴史がおしえるところである。
Mar 10, 2015
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先日、「森の水車」で知られる歌手、荒井恵子さんが5年前に80歳で亡くなられていたと報じられた。日本歌手協会の遅ればせの発表だった。じつは、その報道があった日、これはまったく偶然だったが、私は障害者の方々のグループが「森の水車」を歌うのを聴き、私も共に歌ったのである。この歌は、昔の「NHKラジオ歌謡」ではなかったかしら。まだテレビの無い時代、あるいは一般に普及していなかった時代に、ラジオから流れ、そのまま私の耳に残って、譜面無しに歌えたのである。 「NHKラジオ歌謡」からは、すばらしい歌がたくさん生まれている。私が記憶し、かつ歌える歌は、たとえば、「リンゴの唄」があり、「朝はどこから」「あざみの歌」「山小屋の灯」、それに「白い花の咲く頃」もそうではなかったか。 「コトコトコットン コトコトコットン ファミレド シドレミファ」---歌いながら、それらの歌を懐かしく思い出していた。 ところで、今日の新聞は童話作家、松谷みよ子さんが先月28日に亡くなっていたと、これも遅ればせに報じていた。享年89。 松谷さんのお名前は存じ上げているし、代表作「竜の子太郎」は、昔、弟の子供にプレゼントしている。 私自身の幼児からの読書歴に、いくら思い出しても「童話」がないことに気がついた。民話や、室町鎌倉時代の説話に材をとって翻案した絵本などは読んでいるが(私が自分自身で本が読めるようになったのは4歳から)、いわゆるレッキとした作家ものの「童話」は、読んでいない。そこを飛ばして少年文学---すなわち、「十五少年漂流記」だとか、「宝島」だとか、「ニルスの不思議な旅」だとか、ケストナーの「飛ぶ教室」やルナールの「にんじん」や、アレクサンドル・デュマ「三銃士」や、ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」や、バーネット「秘密の花園」だとか、数えあげていたら切りがないが、とにかくそういう類いの読書に移って行った。---ああ、私は、「童話」のない子供だったんだ、と、松谷みよ子さんの逝去の新聞記事を読みながら、初めて気づいたのだった。【後記】 グリム童話やアンデルセン童話は、日本での翻訳はたいてい「童話」と銘打たれているが、私が読んだそれらは、原作どおりの翻訳で、したがって日本の子供向け翻訳ではすべて削除されている残酷描写が、そのまま残っているものだった。たとえば「シンデレラ」の結末は、王子との結婚式に引き出された継母たちは、真っ赤に焼けた鉄板の上で踊らされるのである。原作を読まなければ、ドイツ中世の世界観や人間観は分からないだろう。読書とは、夢の世界にさまようことばかりではないのだ。
Mar 9, 2015
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少し追いつめられた気持で執筆している。描写はあらかた終わり、仕上げの段階までこぎつけたけれど、---(この先の気持ちは公表したくないので、ここに書かない)。 要するに、次に取りかかる作品との兼ね合いに関わる問題だ。連作にすべきか、これはこれで打ち切って、あらたな構図を作るべきか---。 ちょっとクールダウンのつもりで、夕食後は読書を始めたが、こういうときに限って、その本のなかの言葉がチクチクと胸を刺し、そのたびにページを綴じて、立てかけてあるキャンヴァスを見る。ちっともクールダウンにならないのだ。 まあ、いい。明日また筆を執っているうちに、解決の道が拓けるかもしれない。Que Será, Será、Whatever will be, will be---だ。
Mar 8, 2015
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きょうは民生委員合唱団「かしの木」の本番ステージ。朝、蜂蜜湯でウガイをし、眠っている声を起こすために発声練習。それからホールへ出かけた。 市長もご来聴。アンコールもあり、まあ、大成功じゃないでしょうかね(いくぶん自画自賛を含めてであるが)。 先生が、「ステージの虜になりますよ」とおっしゃっていたが、その通りかもしれない。合唱団の私たちは照明で照らされているから、暗い観客席はあまり見えないのではあるが、それでも私には市長さんのお顔も見え、お客さん一人一人の反応も良く見えて、それがまたおもしろかった。 なにしろ私たちはそれぞれ皆、大変忙しい人達ばかりの合唱団。練習は、月に1度、わずか1時間だけ。それで、先生は厳しくおっしゃるが、「実はたいしたものよ」と、きょう初めてお褒めくださった。このあと今月の練習から、新しい曲の譜読みに入るそうで、たぶんそのためのヒートアップの言葉だろう。 それにしても皆、楽しんで厳しい練習に耐えているのである。 我が畏友、新実徳英氏作曲の合唱曲をやれるまでになるには(やれたらいいなー)、はるかな道のりで、そのときが来たとしても、私は民生委員を退任しているだろうけれど。 写真をたくさん撮ってくださったようだから、あとで頂戴できたらいいのだが----
Mar 7, 2015
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相談事が持ち込まれないかぎり、仕事場を出ることなく制作をつづける日々。今日も先ほど17時まで執筆し、一応切りの良いところで止めた。あと1週間くらいで完成するだろう。予定よりは半月ずれこんでしまった。 明日の合唱のために、少し発声の自主練習をする。やっぱり70歳だなと感じるのは、発声練習をしないと、すぐに高い音が出にくくなる。 それに、近頃の理屈っぽい歌詞を忘れてしまう。憶えているのだが、その理屈が一番のものだったか二番のものだったか、はたまた三番のものだったか、うたいながら混乱するのだ。 たとえば、「いま素直になれるなら」なんていう言葉、おそらく私世代の人はほとんど口にしたことがないのじゃないかなー。 最近の若い人は---といっても30代くらいを含めてだが---何かと言うと「素直に」と、自分にも他人にも言うが、とてもヘンな感覚だと思うのは、私だけかしら。 この言葉、心底にあるのは、「私も、あなたも、自我が未成熟だよ」と言っているわけで、自分に対してのつぶやきならまだしも、他人に対してははなはだ失礼。むしろ侮辱しているのだということに、気がつかないのかしら。私なら、「無礼者!」だ。 第一、世間に対して自分が「素直になる」って、どういうこと? どんな人間を望んで、そしてそういう素直な人間たちを掌握しているのは、いったい誰? 私は、この歌詞をうたうときに、実に不可解な気分になる。人を愛したり、人を支援したり、励ましたりするのは、自分が素直だからなのかい? 別にそうじゃないと思うがなー。 人間が成熟するというのは、「素直」なんていう言葉でくくれない、複雑な心性を鍛錬によって獲得してゆくことだよ。いつまでも、赤ん坊みたいに「素直になる」なんて言ってちゃだめだよ。 ってなわけで、おかしなメッセージソングとやらに、手こずっている。たぶん私の気持のどこかに、この歌詞を憶えたくない、ということがあるのかもしれない。
Mar 6, 2015
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ただいま20時15分、合唱練習から帰ってきた。あさってに本番のステージを控え、最後の練習である。 度胸がいいのか図々しいのか、アンコールに応える曲も準備したほうがいい、いや、むりやりもう1曲うたっちゃおうよと、急遽プログラムにない1曲を追加。3回うたってみて、OKが出る。---帰り際、女性陣が何やら相談しているので、首をつっこんでみると、なんと、念のため「サクラ」を用意するんだって。そのための電話作戦である。声が通る人がいいと、まるで歌舞伎の大向こうである。はははは。 さて、私は遅い夕食後は、少しばかり絵の執筆つもりだ。
Mar 5, 2015
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なんだかヘンな一日だった。仕事場に入っても、なんだかんだワサワサと呼び出され、筆がちっとも進まない。ちょっとイライラ気味。 5月に、町内高齢者のために、3回目のミニ展覧会を開いてほしいとの要望も。私の作品を見るのを楽しみに待っているお年寄りもいられるのだとか。まあ、そう言われては、お引き受けせざるを得ない。観客あっての絵描きですから。 5月はニューヨーク展も控えて、今まさにその出品作を制作中だ。それが終わるとパリ展のための制作に入る。こちらは画商の遠慮がちな或る要望があって、承知しましたと応えはしたが、頭の中は構図を作っては消しの連続で、いまだ「ユリーカ!」とも「アイ・ガティット!」とも行かない。---それより何より、今ただ今の作品を完成させること。そして、すぐに、もう1点描かなければならない。
Mar 4, 2015
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とんだ勘違い。親しくしている或る方に電話をしたところ、聞き覚えの無いやや低いハスキーな声で、たどたどしい日本語の応答があった。「おやっ、誰だろう?」と思いながら、呼び出してほしい相手を告げた。すると、一瞬、間をおいて「だ・れ・を・よ・び・ま・す・か?」とカタコトで聞いてきた。「あっそうか」と私は思った、たしかお嬢さんが外国企業に関係していると聞いたことがある。たぶんお嬢さんの親しい方がおいでなのだろう、と。 電話の向こうで、先回りして、私が呼び出したい人の名前を言った。「タロウ?」 姓ではなく名前を言ったので、私はもう間違いないと思って、「イエス、キャナイ・トーク・トゥ・ヒム?」 「あなたの名前はダレですか?」 「マイ・ネーム・イズ・ヤマダ。イズ・ヒー・アト・ホーム?」 「ちょっと、待ってください」 しばらくして、「いま、すぐちかくまで、でかけています。すぐもどります」 「アイ・シー。アイル・コール・ヒム・レイター、サンキュー」 30分ほどして--- なんと、さきほどの電話相手は、幼いお孫さんだとのこと。しかも日本語オンリーの。---私のとんだ勘違い。でも、会話は成立していたなー。
Mar 3, 2015
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きのうの陰気な雨もきょうは霽(は)れて、我家の猫達はベランダに寝そべってひなたぼっこ。私は相変わらず仕事場に閉じこもっている。3月はなんだかんだと外出仕事のスケジュールが入っている。それを横目にしながら、せっせとキャンヴァスに向かって筆を揮っているわけだが、今夜は、自治会の年度末の会計監査役を務めなければならない。帳簿や伝票をチェックして、電卓を叩き、1年間の会計を精査するわけである。会計係も大変な一日となろうが、監査役の私も大変。 ---そんなわけで、きょうの制作は、キャンヴァスを区切って、出かけるまでにここの部分はやり終えると決めてかかっての執筆である。予定通りに行ったので、ちょっと休憩してこのブログを書いている。 明日は雛祭。私の予定は、この作品で最も肝心要の部分を描く。
Mar 2, 2015
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きょうの雨はなんとなく嫌な雨だ。春雨というには陰気。一日中降り止まない。 まあ、私は仕事場にとじこもって相変わらず執筆。外が雨であろうと雪であろうと、どうということもない。 しかし、3月である。そろそろ、「春だ~」と言いたいではないか。春と関係があるかどうか---お彼岸の牡丹餅をさきどりして、昼に善哉汁粉を作って食べた。両親の仏前に供えてから。 ついでに書けば、夕食は舌平目を用意してある。少し旬を過ぎたが、まだ冬場の魚としておいしい。ムニエルにする。 私は舌平目のムニエルを、わりと上手に作るのである。ただし、ムニエルは、できるまで付きっきりで、バターの泡立ちを見ながら丁寧にスプーンですくって上側に掛けつづけなければならないので、それが少し大変。そして、下拵えのときに塩振りは少なめに、胡椒をやや多めにするのが、私流のコツである。レモンを添えて、つけあわせはブロッコリその他。長芋を5ミリほどの輪切りにして両面をバターソテして、火を止める瞬間に醤油を少々じゅっとかけて仕上げる。このつけあわせが、私はなかなか気に入っている。
Mar 1, 2015
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