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予定通り病院に行き、午前中一杯かかって眼科を受診。眼鏡を新調するための矯正視力検査。ついでにいろいろ検査してもらい、診療明細によると次の検査を受けた。屈折検査、調節検査、精密眼圧検査、角膜曲率半径計測、前眼部および後眼部の細隙燈顕微鏡検査、両側精密眼底検査。 病院から一旦帰宅し、昼食後、明日の予定を繰り上げて処方箋を持って眼鏡店に出かけた。 処方箋のレンズをほぼ100%近いUVカットにしてもらう。フレームは、現在使用中のものはバーバリーのゴールドだが、だんだん歳をとると眉毛が薄くなったのであろう、このフレームでは一層老けた感じ、良く言えば優しい印象を与えると感じるようになった。もう少し活動的、私の「本性」をそのまま表現したい。つまり、意志的で頑固者という印象。本性を誤解されたくないのだ。 で、今日選んだのはウェリントン型の上のリムがブラウンで、下は透明のもの。ブラックは似合わなかった。---と言っても、いろいろ試して鏡を見ても、レンズが入ってないので良く見えない。仕方がないから女性店員が「これがお似合いです」と言ったものにした。価格が高かったからかもしれないが---。まあ、いいさ。できあがりは1週間後。 眼鏡店を出て、ついでに(よく、ついでをやる)防塵用ゴーグルを買いに向かった。なにしろゴーグルを装着しないでグラインダーで研磨作業をしたために、飛び散ったダストで眼鏡のコーティングが剥離し、傷もついてしまったのだから。 その後、またまたついでに、作品制作に使用する特殊材料を購入。持って帰るには重いと思ったが、すぐに使いたいので自分で持ち帰ることにした。 帽子店の前で、ちょっと寄ってみようかと思ったが、こればかりは止めにした。ここ2、3年、ランバン・コレクションのハットを愛用している。グレーのハットがほしいと思っているのだが---
Aug 31, 2015
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新作の本格的作業に入る前の準備として、きのうの下図の女性の顔を少し変えた。 ポーズは同じ。表情もまあまあ同じ。ざっくばらんに言うと、Aさんの顔からBさんの顔に変えたのだ。 これによって私が何をめざしているかと言うと、人格による曰く言いがたい「何事か」の表出である。その人の醸(かも)し出す雰囲気と言ってもいいのだが、それよりも、私がこの作品で言いたいテーマ(一個の「私」としてはこの作品を描くことにより掴み取りたいと思っている問題、と言い換えてもよい)、----それを持っている女性かどうかということである。 私の描く人物像、そして描きたい人物像は、解剖学的に変形(デフォルメ)されたものではない。その点ではリアリズムなのだ。が、17、8世紀のヨーロピアン・リアリズムではなく、抽象化された具象とでもいう、矛盾を含んでいる。私はその点において私の作品を「現代美術」と位置づけている。Aさんの顔からBさんの顔に変えた。しかしBさんを表現しようというつもりは毛頭ない。Bさんの人格ないし醸し出す雰囲気に頼りながら、個から普遍的なテーマへ抽象化したいのである。私の関心は、そこにしかない。
Aug 30, 2015
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あの真夏の灼けつく暑さはどこへ行ってしまったのか。例年の残暑もどこへやら、小雨が一日中降るともなく降って、急速に秋の気配だ。 新作のためのキャンヴァスに地塗りをした。今日の作業はそれでおしまい。乾燥したらグラインダーで表面を平滑にして、そこに下絵を写しとることになる。 グラインダーと言えば、先月のこと、民生委員同僚のTさんが、「山田さんの眼鏡、みんなで気にしているんですが、傷が付いているのか汚れなのか、って---」と遠慮深げに言った。 実は、制作でグラインダーを使うのだが、ゴーグルを装着しなかったので、飛び散るダストで眼鏡のレンズのコーティングが次第に剥げてしまったのである。防塵マスクは装着するのに、ゴーグルを装着しない迂闊さ。まさか絵具の粉末で眼鏡のレンズがダメージを受けるとは思わなかったのだ。 眼鏡を新調しなければならなくなって、もう長期になるのだが多忙で検眼にも行けず、眼鏡店にも行けず、いまでは描くときには眼鏡なしの裸眼で、まるで「わだばゴッホだ」の棟方志功氏のごとく画面に目を近づけて描く始末。それに、絵描きの眼鏡作りはなかなか厄介で、中距離のモデルを見る、遠距離の風景(私の作品は風景画主体ではないが)を見る、そして近距離のキャンヴァス画面、近近距離の細密描写と、---それを一つの眼鏡で可能にしたい。光学的にはどだい無理な話で、検眼する医者も眼鏡を最低でも二つ持つことを勧める。分かってはいるが、それでは面倒くさいし、集中を殺がれるので仕事にならない。そんなこんなで、いまだに新調していないのである。 しかし、Tさんに言われて、あらためて、他人の目で自分の外観を気にしなければと思った。新作の制作が本格的になる前に、月曜日に病院へ行って視力検査をしてもらい、火曜日は眼鏡店に行こうと思っている。眼鏡ができあがるまで、たぶん1週間か10日はかかるだろう。
Aug 29, 2015
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新しく描き始める作品の構想がほぼまとまった。一昨日、第一案を素描して、それを土台に想をめぐらせ、人物の手のポーズを変えて第二案を作った。昨日の夕過ぎに合唱練習に行き、絵のことはすっかり頭から追い払った。そして今日。まったく別の構想が出て来た。それをキャンヴァスの大きさで素描し、キャンヴァス上に仮留めしてみた。 いまその状態で立てかけてある。完成作のイメージが見えている。そこには、私の進化を示すであろう新機軸も盛り込めている。よし、これでいけるだろう。9月末までに完成させなければならない。
Aug 28, 2015
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おしえてくれる方があって、コミックファンの間では知らない人はいない〈まんだらけ〉のオークションに、私の初期も初期に執筆している43年前の「別冊少年マガジン」(1972年)が出品され、落札されていたという。ウェブサイトを見てみると、まだそのページは削除されずに残っていた。 懐かしさ半分、恥ずかしさ半分。 この頃、2、3冊にすぎないが、「少年マガジン」に執筆している。どういう経緯で依頼が来たか詳らかにしないが、イラストレーターとして開業する以前、「少年マガジン」のイラストレーション懸賞公募に、私は江戸川乱歩の「人でなしの恋」を描いたペン画を応募したことがあった。選外佳作になって講談社から賞状をもらった。もしかすると、それが縁となったかもしれない。 オークションに出た「別冊少年マガジン」も、私は無名も無名、新人とさへ言えないときで、「ウルトラセブンの怪獣」や 「ウルトラQの怪獣」「マグマ大使の怪獣」をたくさんペンで描いた。 忘れもしない、本誌の編集を請け負っていたプロダクションの事務所が池袋にあり、ある日、電話で、締め切りまで時間がないのですぐに事務所に来てその場で描いてほしいと言った。私は出かけ、そのまま事務所に泊まり込んで(正確には、寝ないで徹夜して)ペンを走らせた。 43年前の仕事が、---執筆者のみなさんの末席ではあるが、こうして市場に出て来て、しかも、どうやら41、000円という高額で落札されたようで、赤面したのである。 以下に、〈まんだらけ〉のオークション・ページを掲載しよう。ただし、商品番号等を削除するなど、オークション業務に関する項目の一部を、私が編集してあることをお断りします。この商品のオークションはすでに終了しています。 【商品名】別冊少年マガジン1972(S47)08 【メーカー】講談社 【発行年】1972(S47)08 【サイズ】B5 【ページ数】356P 【状態】並 【状態詳細】小ヤケシミ、表紙折れ跡、背下部接着剤跡、裏表紙端小破れ 【最低落札価格】25,000円 現在価格 41,000円 【コメント】高橋わたる+神保史朗「金メダルは泣いている」読切 赤塚不二夫「天才バカボン」読切 谷郁夫+真樹日佐夫「貴ノ花よ! 国技館を盗れ」読切 ちばてつや「ハリスの旋風」総集 川崎のぼる+梶原一騎「巨人の星」総集 おだ辰夫「アマテラスくん」読切 ちばてつや+高森朝雄「あしたのジョー」総集 口絵「全怪獣・全怪人四百匹大百科」折込4C3P・1C3P/4C8P1C47P 四色では写真で掲載。一色では、山田維史「ウルトラセブンの怪獣」、磯目雅裕「特撮映画怪獣」「バロム・1の怪人」「変身忍者嵐の怪人」、山田維史「ウルトラQの怪獣」「マグマ大使の怪獣」、鈴木吉男「怪獣王子の怪獣」「ジャイアントロボ」、村田勝美「スペクトルマンの怪獣」、葛西ただお「仮面ライダーの怪人」、水木しげる「墓場の鬼太郎の怪獣」がそれぞれ執筆。 8月2日(日)落札商品
Aug 27, 2015
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気温が一気に下がり21℃。私は過ごしやすかったけれど、我家の猫達は私の膝で眠ったり、少し温かい場所にもぐりこんでいた。 午後、高齢の方々の様子を伺いに訪ね歩いた。途中で雨が降り出す。せっかくだからもう2、3人と思ったが、傘を持たずに出たので、だんだん’’いい男’’になってきた。急いで帰宅。 朝方、目覚の前に夢を見た。 私が外出から帰宅すると、隣家の主人が蹲踞して草むしりをしていた。挨拶すると、無言のまま目配せで,我家の門前を指した。そこに不思議なものを頭からすっぽり纏って、’’ひと’’が立っていた。私は「あっ」と思った。そしてその顔のあたりの衣を、本のページを開くように、そっとめくった。死んだ母だった。目をつむって凍ったような固い顔だった。「よく来たね」と私は言いながら,その額に私の額を押し当てた。「迷わなかった?」死んだ母はかすかに頷いた。私は母の手を取った。細い指が真っ白だった。凍ったようだったが、いくぶん柔らかかった。「ほんとうに良く来てくれた---」 そこで私は目が醒めた。
Aug 26, 2015
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昨日、朝日新聞夕刊の「音楽・舞台」ページを見ると、「ディアンジェロ 恐ろしいまでの精度と熱量」と題する音楽評論家・高橋健太郎氏のステージ評が目にとまった。1995年、ファースト・アルバム『ブラウン・シュガー』で、ブラック・ミュージック・シーンに衝撃的に登場したディアンジェロが、14年振りの新作『ブラック・メサイア』をひっさげて、来日公演をしたというのだ。 いやー、それは聞きたかった。忙しく閉じこもっていたので、ステージ情報を気にとめることもしなかった。 何をかくそう、この70歳のジイちゃん(当時はまだ50歳だったが)、『ブラウン・シュガー』に目をつけた。2000年の2作目アルバム『ブードゥー』を待ち、そのアブナイ詞ともども、ディアンジェロの密室性のたかい粘着性の音楽、独特のファルセットをからませてエロティシズムをにじませる音楽創りに、おおいに関心をもったのだった。 来日ライブは聴けなかったので、せめて新作を聴いて、ディアンジェロの音楽的成熟を確認しよう。
Aug 25, 2015
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昨日の日記で、S.メルヒンガー著『政治演劇史』について触れた。古代ギリシア悲劇アイスキュロス作『アンチゴネー』についての考察を、私は現代日本の安倍政権の政策に重ねあわせた。 S.メルヒンガーが、本書をアイスキュロスをめぐる考察から起筆したのは、アイスキュロス作『ペルサイ(ペルシアの人びと)』(紀元前472年作)が、現存するギリシア悲劇の最古のもので、アイスキュロスの第一作だからである。そしてメルヒンガーが『ペルサイ』を政治演劇の嚆矢と位置づけるのは次のような理由であり、その見解こそが私が瞠目した優れたところなのだ。メルヒンガーはこう述べる。 「(『ペルサイ』がアクロポリスの丘の南面にあったディオニューソス劇場で上演された)紀元前472年といえば、破竹の勢いでギリシアを席巻し、その大部分を占領したペルシアに、ギリシア軍が壊滅的打撃をあたえたあのサラミスの海戦の八年あとである。海戦直後を舞台とするこの劇を、アイスキュロスがなぜ八年もたってから書いたのか。祖国の勝利を賛えるためか。いや、けっしてそうではない。それどころか逆である。これは反戦劇である。戦争への嘆きと弾劾である。(略)しかしアイスキュロスはこの反戦劇を、いわゆる反戦劇一般の意図で書いたのではない。彼には、それを書くべき具体的な差し迫った理由があった。この嘆きと弾劾は、ペルシアを破滅に追い込んだのと同じ帝国主義の懐にいま身を投げようとしている、勝利者である祖国ギリシアの政策に向けられているのである。(略)アイスキュロスが敗けた敵国の都を舞台にしたのは、勝ったギリシア人が権力欲と物欲からこんどは自分たちが他国を侵略しようとした時点で、彼らギリシア人に、戦争の悲惨と、敗北による荒廃を彼が訴えたかったからである。」 重要なところなので長々と引用した。 ところで、私がこの見解に目を見張ったのには、個人的な理由と思い出が絡んでいる。 私は今から50年前、20歳になったばかりの学生時代に、東京大学ギリシア悲劇研究会が日比谷公園野外音楽堂で上演した『ペルサイ』を観ていた。この日記を書く前に、昔の保存資料を探したらそのパンフレットが見つかった。そこに記入されたメモによると、1965年6月6日、午後6時30分開演だった。 パンフレットに、田村徹夫氏による演出意図が述べられている。当時、東京大学ギリシア悲劇研究会が、『ペルサイ』をどう理解していたかを示している。次のようだ。 「 ---八年前のサラミース海戦におけるペルシアの敗北を描き、ペルシア王クセルクセースを、愚かにも神の摂理にふれた故に崩れ落ちる巨像として描いたことは、ただちに、アテーナイ市民の勝利の記憶と自分たちの力と正しさへのあふれる自信とにつながり、大きな感動を生み出したであろう。それは、圧政と物量の力に対する自由な精神の力のよろこびである。当時アテーナイの劇場にわき上ったこのよろこびを、二千数百年を経たいま、全く異なる周囲の事情の中で〈ペルサイ〉を上演しようとするとき、どうしたら再現できるだろうか。ぼくの演出のポイントはすべてこの点にかかっている。」 この解釈は全然新しくはなく、おそらく昔も今も変わらないかもしれない。もっとも、この50年間に、日本における上演があったかどうか。 私も、もしS.メルヒンガー著『政治演劇史』に出会わなければ、20歳のときに観た東京大学ギリシア悲劇研究会の解釈のままに理解していただろう。 東京大学ギリシア悲劇研究会は、アイスキュロスがなぜ亡命しなければならなかったか,亡命先で命を落とさなければならなかったかを問題にしていない。亡命の理由を突き詰める学問的作業をしていないのだ。アテーナイ市民が『ペルサイ』に対し自分らの戦勝劇として歓呼の声をあげただけだったなら、『オレステイア』上演後に至ってアイスキュロスがついにギリシアから亡命することはなかったはずだ。歓呼したギリシアがそのとき帝国主義をかかげ、物欲に駆られて他国へ侵略しようとしていた。権力の圧力にアイスキュロスは亡命せざるをえなかったのだ。 「『オレステイア』におけるアイスキュロスほど、およそ作家が、政治とその動機および意図を、これほど断固と挑戦的、全面的に裁こうとしたことは、その後の歴史において二度となかった」と、S.メルヒンガーは書いている。この後のギリシア悲劇の中心テーマは、問題でも事件でもなく、人物へと変わった、と。 なにごとであれ、いま私は、知らずに死ななくて良かったと、へんな感慨をもようしている。 誤解のないように書いておくが、この東京大学ギリシア悲劇研究会の『ペルサイ』上演が、ちゃちな学生演劇のようなものだと思ってもらってはこまる。 パンフレット表紙画像と上演に関わった人を紹介した扉ページを掲載しておこう。 ついでに述べる。この公演、平土間舞台をコの字にかこんだ観客席、私の左斜向い側に三島由紀夫が観ていた。黒の半袖ポロシャツの胸をはだけ、白い細身のパンツを履いていた。彼がこの上演について何か書いているかどうかは、私は知らない。
Aug 24, 2015
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朝の短時間ながら大降りの雨のせいで、昨日より5度も低い30℃の過ごしやすい一日。私は長い制作から解放され、作品に署名後はほとんど何もしなかった。ときどき読みかけの本を開いて1章ほど読んでは、その重い内容を私自身の言葉で如何にしたら完全に咀嚼できるかを考えこんでしまう。 ずいぶん以前に古書店で見つけて買っておいた、S.メルヒンガー著『政治演劇史』(尾崎賢治・藤原惟治訳、白水社、1976年刊)。2段組507ページの大著である。 読み始めたばかりで、まだ第3章まで読んだだけだが、ギリシャ悲劇アイスキュロスに関する分析は、その賢察に敬服する。私の頭に沸き上り渦巻くのは、現代日本のまさに安倍政治で、アイスキュロスの生命を懸けたアテーナイのポリス体制に対する警告は、そのまま安倍政治に当てはまるのだ。アイスキュロスの『アンチゴネー』をめぐって、著者は次を前提してから、第二次世界大戦後のカール・ラインハルトの見解を引用する。その前提とはすなわち、戦争の動機は「個々人の物欲と権力欲」である。その動機はむろんできるだけ隠されていて、真実とそれを覆う仮象(みせかけ)との弁証法として「命名」の遊戯があらわれる。(山田註;分かりやすく言い直せば、悪の実体を覆い隠すための騙しの言葉。法律の名称によって真実隠蔽工作をすることなど。) ---その「命名」遊戯について、カール・ラインハルトは、第二次世界大戦という経験を踏まえて、こう言う。「命名からどういう権力が出てくるかをわれわれは経験した。命名を貫徹するために、どれだけ膨大な装置となるかを。それは全体主義国家において特にそうであるが、そこだけではない。」 この洞察は、まさに安倍政治を直接に批判しているであろう。日本の平和憲法を踏みにじって「戦争法」を成立させるために、「膨大な装置」を構築しつつある。その装置には、日本が武器輸出を解禁し、国家間の争いや、民族間抗争、宗教間抗争、それらに必然的にともなう人殺しを、積極的に仕掛ける戦争商人に成り下がることが含まれている。人殺しに加担することで、もしくは日本がその従犯になることで、日本経済を支えようという魂胆。安倍政権はこれを「積極的平和推進」という言葉で覆う。まさに戦争の動機である「物欲」だ。これは大東亜戦争の日本の動機とまったく同じで、このときの「命名」遊戯で使われたのが「八紘一宇」(日本の天皇制のもとに世界は一つという身勝手な思想。おわかりかな、某女性国会議員よ)だ。 とにもかくにも、日本人著者による演劇史は無数にあるが、S.メルヒンガーのような鋭い考察は、私は寡聞にして知らない。残念ではあるが、この本を翻訳した尾崎賢治・藤原惟治両氏には学問的謝辞を記しておきたい。
Aug 23, 2015
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午後2時、ついに作品が完成した。身体から力が抜けてゆく。深い疲労感にとらえられて、椅子に沈み込んでいる。日曜日に署名しよう。---そして、次の作品だ。 今は---寝室に行き、少し眠る。何も考えたくない。
Aug 21, 2015
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長らく手がけてきた作品がいよいよ完成に向かって急流に突っ込んだ。今夜、もうひと頑張りして執筆すれば、日曜日には署名を入れることができそうだ。ただいま22時になるところ。これから再び仕事だ。
Aug 20, 2015
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作曲家の新実徳英氏から新著『合唱っていいな! 作曲・演奏・指揮をめぐって』(平塚市・洪水企画発行, 伊万里市・草場書房発売、2015/8/1)をプレゼントされた。 先夜電話を頂戴したさい、民生委員合唱団「かしの木」の話をした。武満徹作詞作曲の「小さな空」を練習中だと、電話口で歌った。そして、私としては新実さんの合唱曲を歌ってみたいのだが、難しくて歯が立たないと思う、と言った。本人に向かって言ったのだから、どうかと思うが、新実さんは「そんなことはありませんよ。難しくない歌もたくさん書いていますから、ぜひ私の歌で遊んでください」と。 そんなやりとりをしたものだから、ご著書を贈ってくださったのだろう。 新実さん、ありがとうございました。さっそく拝読いたします。
Aug 19, 2015
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今日の制作の作業予定は背景を一気にやるはずだった。昨日の日記に書いたことでもある。日記に書いた直後、作業イメージを想い描きながら画面を眺めていて、すでにできていた地塗りにもっと異なるニュアンスを作った方が、背景として視覚に微妙な刺激を与えるだろう、と思った。即座に作業に入り、オイルを変え、新たな地塗りをした。 そんなわけで、その部分は今日になっても未乾燥。作業予定を変更した。 あと10日ほどで完成させるつもりだが、併せて次の作品の構想をまとめてすぐに制作を開始できるように準備しなければならない。 さて、昨日一日中、激しく降ったり止んだりした雨が少しばかり涼しさをもたらしていた。今日はまた青空が広がって、残暑が厳しかった。しかし、次第に季節は移り変わっているのだ。庭の落ち柿に色づいたものがまじっていた。大きさはまだ4cmほど。ひとつ拾ってきて眺めている。
Aug 18, 2015
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腰の痛みは消えたが、ぶりかえさないように家にいるときは固いプラスチックの円筒を布で包み、腰に当ててきつく結わえつけている。女のひとが着物に帯をしめるとき、ふっくら丸みをつけるために枕帯揚げを使う。それを武骨にしたイメージ。昨夜、作曲家の新実徳英さんから電話があり、「お元気ですか?」と言うので、腰に筒を括り付けて仕事をしていると打ち明けた。「いやー、すさまじいものですね!」姿を想像して吹き出したかっただろうが、そこはソフィステケイテド・ジェントルマン。笑わずに、「阿修羅を想像します」と。 しかし、この奇妙な腰帯はなかなか有効なのだ。おかげで作品制作をつづけて行ける。 時間はたちまち過ぎてゆく。8月も半ばを過ぎてしまった。作品も次第に出来上がってきているが、仕上げを見越した微妙な描写段階になっていて、一日一杯執筆しても、他人が一見しては何も進んでいないように思うにちがいない。私の制作はそんなものなのだ。明日は背景部分を一気にやってしまおうと思う。 新実さんの電話は、秋に出版予定のCDに関して、ブックレット用の写真や解説原稿が揃ったという知らせ。私のデザインはすでにできあがっていて、これで最終段階まで詰めてゆくことになる。CDが完成し、11月になれば私のスケジュールも余裕ができるので、会って四方山の話をすることに。新実さんは、今、蓼科の別荘だそうだ。私は---もう30年も前に手放した、富士の裾野の別荘地を思い出し、この暑さのなかでちょっぴり後悔している。
Aug 17, 2015
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モントリオールで開催中のテニス、マスターズ1000、ロジャーズ・カップ。TV中継を録画しながら錦織圭選手の活躍をずっと観て来た。シード選手として2回戦から参戦、準々決勝戦でナダル選手を破るまで全試合をストレート勝ち。ナダル選手とは過去に5回対戦していて、錦織選手、1度も勝てないで来た。それが、昨日の対戦では目を見張る素晴らしい試合をした。完全に主導権を握っていた。次々と決まるサーヴィス・エース! すごいとしか言いようがなかった。 そして進出した準決勝の対戦相手はアンディ・マレー選手。今日ばかりは録画ではなくライヴ観戦。 ところが、どうしたことだろう。錦織選手にまったく精気が感じられない。昨日のナダル戦で見せていた精悍な顔つきは、どこに行ったのか。その目はマレー選手の身体の動きさへ見ていないかのようだ。戦意喪失---!? あろうことかマレー選手のサーブに対して身体が反応せず、ただ突っ立っているシーンさへ---。観客から一斉にブーイングが起った。少なくとも私は、錦織選手に対してこのようなブーイングが起ったのを、かつて見たことがない。 結果はストレート負け。決勝戦でジョコビッチ選手との対戦を観る(私の)楽しみは潰えた。 ツアー、次のシンシナティでのウエスタン・アンド・サザン・オープンは欠場するようだが、その後に始まるグランド・スラム、USAオープンまでに調整して、また大いに楽しませてくれるにちがいない。
Aug 16, 2015
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やっちゃった! 右腕の痛み、肩こりと、昨日クリニックに行き診察してもらったが、今日の午後になってとうとう腰に来てしまった。歩けるけれど、ぎっくり腰のような鈍い痛みがあり、一旦坐ると立ち上がるのに苦労する。背骨が骨盤のなかにめり込んだような具合だ。で、午前中にわずかばかり執筆しただけで、午後の仕事はとりやめた。なんとか治してしまわなければならない。とりあえず、椅子の背もたれと腰の間に、直径10cmほどの固いプラスチックの円筒を挟んで脊椎下部の矯正をしている。 さて、今日は70年目の終戦記念日。書きたいことはあるが、安倍首相を筆頭に歴史修正的愛国主義で戦争への道を開こうと旗降りをする有象無象の輩について、ミルチャ・エリアーデの次のような洞察を述べるにとどめる。「ファシズムのなかには反史的唯物論、反実証主義が含まれている。」(『ポルトガル日記』より) 詐欺師というのは、よくもまあこんなことを考えつくものだ、心理操作に長けているものだと感心させられる。これだけの頭脳があれば、まともな仕事で成功するであろうに、と。---だが、そうはしないのが犯罪者の犯罪者たる本性だ。安倍首相とその内閣の言動をつらつら思うに、私はついつい詐欺師の頭脳を連想してしまう。何の意味もない---実の無い言葉をならべたり、時に二枚舌と受け取れるような発言をして、いったい誰を騙そうというのか。諸外国だろうか、日本国民だろうか、あるいは己自身かもしれない。 精神分析的に言えば、空虚な自己。潜在的な自己存在の不安。自己存在不信に対する埋め合わせのための好戦性だ。「絶対」「断じて」「いささかも」と断言連発は、しかし他者からはまったく根拠がないこと明白で、---たとえば戦争には絶対巻き込まれないって、「敵」がそう言っているの? 日本が同盟国の戦争に補給部隊として参加して、なぜ「敵」はその補給路を断つために攻撃しないの? なぜ安倍首相は「敵」の「善意」を見抜けるの?---安倍首相の身勝手な見解は、まさに空虚な自己に対する弁解なのだ。 我々日本国民は、とんでもないことになっている。
Aug 15, 2015
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半年以上つづいている休みなしの執筆で、ここ1週間ばかり右腕に軽い痛みと肩こりがでてきた。他に体調は万全だが、今朝、ちょっと主治医を訪ねてみた。 心身に特別の不調がないのは、日々の制作によってむしろ意識と潜在意識とのバランスがとれていると思われ、つまり、スケジュール調整等は意識の問題、絵画表現は潜在意識解放の問題で、食事等の日常的摂生と相俟ってうまくコントロールできている証拠。これに、少しリラクゼーションとして軽いストレッチをするように---と診断された。 やることにしよう。 診察までの待ち時間、ずいぶん久しぶりに俳句が浮かんできた。それを以下に--- 落ち蝉や永訣の日は遠くなり 青穹 落ち蝉や日を重ね来て淡き顔 落ち蝉や一瞬の美は我にあり 落ち蝉や生殖の有無問うこぞ(今夜) 落ち蝉や草戸を敲きておわんぬ 落ち蝉や泪重ねて旅の暮 青柿の落ちる日は坐し小夜曲(セレナーデ) 暮方に落ちる青柿新涼かな 終戦日たむけの花に小夜嵐 雲湧きて吾生七十終戦日
Aug 14, 2015
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偉友の作曲家・新実徳英氏が、こういうことを言っている。---「いま僕たちの作る音楽に対し、より顕著な現代的手法や音響が要求されているのは理解していますが、僕にとってそのこと以上に大切に感じられるのは、〈人はどのように生きるのか、生きていけるのか〉ということと音楽が確かに切り結んでいるかどうか、です。」 彼のこの姿勢は、私が現代美術について思い巡らすときに心に浮かぶことと同じだ。その作品を通じて私が新実さんを敬すのは、見事にその思想を作品として形象化し、まさに現代音楽としての音響に因る心象を形成していると感じるからだ。 私は自分の絵画世界を具象にもとめて、抽象に陥らないように細心の注意を払ってきた。その地点に立って現代美術を考えた。造形に名を借りた思想の形骸化を拒んだ。時に自ら仕掛けた罠に捕らえられそうになって、自分を見失いそうになった。いや、常にその危うさを感じているというのが正直なところだ。「現代美術って、何だ?」と。 今日も、筆を休めて画面を点検したとき、ふと、先の新実さんの言葉を思い出した。音楽創造と絵画創造とは大きくことなる(特に私の場合は具象なので)。だが、新実さんの言葉は、私に現代美術を示唆する。私は暫くの間、示唆する先を考えつづけた。
Aug 13, 2015
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23時15分になるところ、いま、今日の執筆を終了した。まだまだ今月いっぱいはかかるだろうが、次第に完成に近づいている。 次々に描き上げてゆく作品をながめていると、自分は老境に入っても「枯れる」ことはないかもしれない、とつくづく思う。 若いころから、歳をとったらこういう絵を描こう、腕が動かなくなったらこういう絵を描こう、目が不自由になったらこういう絵を描こう、死ぬときはこういう絵を描こうと、夢想してきた。 体内を血が沸騰しながら駆け巡り、得体の知れない気がスパークしている私であるが、それもいつかは凋落するであろうと、その時のために心構えというかイメージトレーニングをしてきたのだ。 しかし、70歳になってもそのエネルギーは一向に衰えない。少なくとも、作品の中にはそれが充満している。---それでもなお、「明日ありと思う心の徒桜」で、いつかは今と違う絵を描かざるをえないと夢想はつづく。それに、私はただ1点の傑作さへ描いてはいない! まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、今の作品を完成しなければ。そして9月に 、もう1点。それで当面の約束は果たせる。
Aug 12, 2015
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8日のブログに同窓会開催にちなんで母校・会津高等学校の簡単な歴史に触れた。きょう紹介するのは、高校の前身である旧制会津中学校の、昭和17年4月に入学し昭和22年3月に卒業した第53回同窓生が編纂出版した、戦時記録ならびに回想録『戦闘帽の中学生たち』である。 彼らが会津中学校に入学したその数ヶ月前、すなわち昭和16年12月8日に宣戦布告して大東亜戦争(大平洋戦争)が開戦した。まさに戦中の中学生で、彼らはやがて勤労奉仕から通年動員になって川崎の日本鋼管やジーゼル自動車、東京衡器溝の口工場、地元の会津兵器や星野鉄工所に出て行った。 この本は、生徒達の個人的な勤労動員日記が残っていてそれを基に編纂されている。非常にめずらしいのは、昭和17年から22年までの学校行事の詳細な記録。この記録は、本書編纂当時ご存命だった旧制会津中学校の教師が保存していたものである。 出版されたのは1991年の終戦記念日。私はこの本を2冊、私が在学した会津若松市立第三中学校の体育教師だった恩師・清水和彦先生からプレゼントされた。清水先生はこの本を出版した53回生で、私の母校の先輩になる。 私は2冊のうち1冊を、東京都立中央図書館に清水先生の代理人を名のって寄贈した。国会図書館にも寄贈してある。市販はされていないので、戦時学校教育に関心がある方は、同図書館で読んでいただければ幸いだ。清水先生は、今は亡い。 下の写真は、同書に掲載されている旧制会津中学校の校舎であるが、戦後も残って、会津高等学校として私の時代もまったく同じこの校舎だった。 残念ながら、というかまったく申し訳ない気持になるのだが、私が3年の時に不審火によって全焼してしまった。深夜、市街にとどろく大音響とともにネオ・ゴシック・スタイルの石造の校舎は焼け落ちた。特徴的スタイルの正面の二階部分は大講堂だった。入学式で新入生が粛々と整列すると、途端に上級生が一斉に床を踏み鳴らした。大音響がとどろき、新入生達はギョッとして身を竦めた。男子校ならではの、そんなバンカラ伝統が、私の頃はまだ残っていた。大講堂の建築構造に依るところ大であった。 次の写真は53回生5年2組の面々。清水先生のクラス。そして後年、八総鉱山診療所の医師として私自身がお世話になった丸山先生のクラスでもある。丸山先生が亡くなる前、清水先生が私のことを話すと、「山田さんの家に聡明な少年がいた」と、憶えていてくださったという。赤面のいたりだ。私は水棲幼虫の標本を入れようと、診療所へ丸山先生を訪ね、煮沸消毒した薬瓶を何本ももらったものだ。 この写真を無断で掲載したのは、実はこの教室も、私の時代とまったく同じで、なんと右上に半分見える校内放送用のスピーカーまで同じなのだ。私が入学したのは清水先生や丸山先生が卒業されて14年後。学制も変わって旧制中学は新制高等学校になっていたが、使える機器なら、新しくする必要はないということだ。在りし日の教室を偲ぶ写真を私は所持していないので、あえてこの写真をお借りする。 写真の中の清水先生のお顔がボヤケているので、生前伺ったところ、この写真が撮影されたのは冬。左側にストーブがあり、湯が懸かっていた。その湯気が清水先生の顔に漂って来たのだそうだ。 ---先生が亡くなってみると、そんなことでも、知っているのは私だけだ。2007年秋に会津若松に先生を訪問した。奥様の手料理のお昼をいただきながら、3時間ばかり、いろいろなエピソードを聞かせてもらった。子供だった私には知り得なかった「おとな」の話である。おもしろかった。先生はほどなく亡くなったので、それらの話も今は私だけのものになった。 さて次は、私が会津高等学校を卒業する時に、後輩達が寄せ書きをして贈ってくれた色紙である。その後、再会することはなかったが、みな元気だろうか。もうみんなもいいジイちゃんだろう。
Aug 11, 2015
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昨日おこなわれたグローバル・ゼロ主宰の反核イヴェントについて、米国ワシントンでの様子を毎日新聞デジタル版が写真付で次のように伝えている。毎日新聞 米国:首都ワシントンで反核イベント 原爆被害の範囲体感 http://tinymce.moxiecode.cp/mce_temp_url
Aug 10, 2015
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長崎原爆の日の9日、核廃絶を訴えるグローバル・ゼロから届いた私宛のメールを紹介します。原文は英語。日本語翻訳の責任は私、山田維史にあります。 親愛なる タダミ、 私たちは広島と長崎を思いやりながら、今日、世界中のグローバル·ゼロのメンバーは特別なことをやっています。 記憶のための世界的規模の行為として、彼らは、外に出、行動をおこし、世界の指導者たちが核兵器をなくすために緊急措置をとるように要求しています。世界中の26の都市で、これらの活動参加者たちは、一発の核兵器がもたらすことになる壊滅的な人道的影響について意識を高めるべく、それぞれの地域社会で行動しています。ある人達は核爆心地の周囲にサイクリングしています。他の人は歩いています。核爆弾が日本に投下されて70年、私たちが大切にしているすべてが筆舌に尽くせない大壊滅の危険性にさらされたままである、という事実に注意を呼びかけています。私たちは常に危機に瀕しているのだということです。 私たちはまた、Twitterで#EliminateNukesに緊急行動を要求する動員をかけています。あなたが爆心地に行く今日のデモに参加することができない場合、オンラインで連帯していただければ幸いです。 ハッシュタグの#EliminateNukesでTwitterで終日行動に参加することができます。 You can follow the action all day on Twitter at the hashtag #EliminateNukes. あるいは、#EliminateNukesを検索することによって、Facebook上であなたの仲間の活動がどんなものであるかを見ることができます。 Or you can see what your allies in the movement are up to on Facebook by searching for #EliminateNukes. タダミ、70年は核の影に住んでいるには長すぎます。広島と長崎の惨禍が決して繰り返されることがないと私たちが保証できる唯一の方法は、核兵器をなくすことです。すべての国の核兵器の廃絶です。 私たちは、ノイズをカットし、指導者の注意を得るために私たちが声を大にして十分に話す場合にのみ、それが可能になります。これが、私があなたに、アクションと連帯のこのグローバル日に参加することを求めている理由です。すべての核兵器の廃絶のために私たちの呼びかけにあなたの声を追加してください。 私たちが前進しつづけるためにあなたが行うすべてのことに対して、あなたに御礼を申上げます。 がんばりましょう。 グローバル・ゼロ エグゼクティヴ・ディレクター デレク・ジョンソン
Aug 9, 2015
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長崎原爆70回忌山田維史『戦争の魔手を逃れて私は生まれた---昭和20年の自画像』フォトコラージュ
Aug 9, 2015
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今日8日(土曜日)、午後5時から会津若松市で私の母校・会津高等学校第16期生(昭和36年入学)の同窓会が開かれる。 16期というのは戦後新制高等学校になってからで、それ以前に旧制中学としての歴史と、さらにそれ以前の会津廃藩後の苦難を強いられたなかで、元家老・山川大蔵(後に改名して、浩)・健次郎(後、東京・京都・九州三帝大総長兼任)兄弟を筆頭に貧窮藩士・領民の寄金による私学としての建学の歴史がある。その建学精神をさらに遡れば藩校日新館がある。 日新館は現在復元されて会津若松市郊外に一種のテーマパークとして観光客を招来している。このブログですでに何度か書いて来たが、昔の日新館は鶴ヶ城西出丸の濠を挟んだ真向かいにあった。そして、私はその敷地に住んでいたのだった。 卒業以来52年。思い出せば懐かしいことばかりだ。戊辰戦争のさなかにも絶えることなく撞き鳴らされた城内の鐘楼の鐘の音は、当時の私の生活をゆるゆるとではあるが律していた。その音は、今でも心澄ませば聴こえてくる。 親類縁者もいない会津若松市で、たった一人で私は少年時代を過ごした。現在私の手元にはその当時書き溜めた17歳の詩集『窓なきモナド』が 残っている。孤独の叫びに、読み返すと今更ながら驚く。その85篇のなかの一つ----「闇」今日もまた夜らが俺を抱きにくるその指にとらえられて曖昧になる俺の具体性熱い吐息は闇にまみれ夜が動いて俺はうめく夜はとじる俺の出口を泡立つ秘鑰星は輝きを失わぬにしても俺にはそれを見る力もない目はとじぬむしろ開き血を流して俺はうめく胸をおさえなにもない言葉がない四肢を折りたたみ赤ん坊のように夜の重量にたえて生れ出る悩みを悩むでなく震える舌に闇の雫受け俺はもはや抵抗しない さて、同窓会には懐かしい顔々が参集するであろう。私は作品制作のために出席できない。先月、その旨の葉書を出した。故郷は遠きにありて思うもの---と云うところか。 会津高等学校校歌
Aug 8, 2015
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太平洋戦争終戦70年目、今日は70回目の広島原爆忌である。 そして甲子園球場では全国高等学校野球100年目を記念する第97回大会が開幕した。本来なら101回大会のはずだが、戦争で4大会が行われなかった。この青年たちを、私は戦場に送り出して殺したくはない。 折も折、自民党の国会議員が、学生達の「戦争はさせない」等のプラカードを掲げた安保法制反対デモに対して、「戦争行きたくないは利己的だ」と批難、「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ」と言ってのけた(注;当人のツイッター)。 バカもここまで来たか、の感。 実はこの発言は安倍政権(自公)がひたすら隠蔽につとめている戦争法案という「事実」を、語るに落ちて暴露してしまった。バカ議員でも安保法制の本当の意図は理解し認識していたようだ。政権は、「小者」の発言として無視を決め込んでいる。 笑ってしまうのは、戦後教育を批判した部分。 おいおい、幾つなんだ。まだ30代だろう? まさに自身が戦後教育の申し子じゃないか。 年輩者の間で小耳に挟んだような事を、いい気になって発言するのは、過日の「八紘一宇」をもちだした女性議員と似たようなものだ。 前の文部省から今の文部科学省の学校教育部門の最大の悪は、何にも拘らずに学問的科学的に真実を見つめる精神を育てることから、大きく逸れた政策に組してきたことだ。その教育方針をこれらの議員達(安倍首相も含めてだが)は体現しているわけで、その点では文部省は大いなる成果をあげているといえる。やがて日本は---蟻の穴から石垣が崩れるように、まともな言論も学問も成り立たない国家になってゆくだろう。 甲子園球児諸君、せめて私はその清々しい魂が、この日本を戦火の地獄にしないことを願う。死んではいけない。殺してはいけない。「安倍さん、あなたが一人で戦場へ行きなさい」と 言おうじゃないか。 山田維史『1945年8月6日、8月9日』油彩のディジタル合成山田維史『広島原爆25万の死者』紙に25万個の墨による点 山田維史『230万の死せる日本兵に捧ぐ』手作りコラージュ------------------------------------ 以下、核廃絶を訴える世界組織グローバル・ゼロから私宛のメールを紹介します。日本語訳の責任は私、山田維史にあります。 親愛なる タダミ この日曜日は、1945年8月9日の長崎原爆投下以来、70年目になります。 グローバル・ゼロの世界中のメムバーは、一致団結して、「核の恐怖のなかで生きるには、70年は長過ぎる」というメッセージを世界の指導者に向けて送ることにします。 3大陸5カ国25都市において、我々メムバーの社会がそうであったかもしれない核による悲劇的結末を象徴して、長崎原爆の爆風破壊地帯と同程度の規模を歩くことによって、あるいはバイクによって取り囲みます。 それは、核兵器が地図上から都市を完全消滅させるために設計されたということを、強烈に思い出させるでしょう。 あなたの支援を示すために、今すぐにできることが一つあります。8月9日の日曜日に、みんなで結束してツイートしてください。Join our tweet-a-thon: Use this tool to schedule a tweet or a Facebook post for Sunday using the hashtag #EliminateNukes.このツールは、指定された日時にソーシャルメディア(SNS)に同一投稿を予定して世界中の人に認められたものです。同時に数百のアカウントから投稿できます。我々の声が届く範囲を最大限にし、また、この重要な日を強調するものです。 核兵器は依然として人類の最も危急な脅威のひとつです。そして、あなたの声が状況を変えることができます。世界の指導者にメッセージを送るご助力をお願いします。70年は長過ぎます。 がんばりましょう。 グローバル・ゼロGlobal Zero
Aug 6, 2015
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仕事場に入ってもすぐには作業にとりかかれず、キャンヴァスの描くべき白い空間をただ見つめるばかり。 ぐずぐずと時間ばかり過ぎ、昼食を挟んで午後になる。ようやく決心がついて主人公の35cmにもなる大きな顔を単線で描き、慎重に最初の下塗りをした。ものの数十分。それで今日の仕事は終了。 一日乾燥させてから、この後、何日もかけて描写と同時に何度も何度も薄く濃く塗り重ねて画肌を作って行く。それは集中力を要する前作を超えるための自分自身に対する挑戦であり、実はこの部分の出来一つが、画面の下半分の煩雑なくらい複雑に入り組み焦点のない(わざとそうしているのだが)構図を、まとめあげることができるか、はたまたできないかを決定することになる。7月30日の日記で〈私らしい新奇な「美」が実現する作品世界にまとめあげるのは、かなりの力技(ちからわざ)になりそうだ〉と書いたのは、そういうことだ。 ---とにかく、気力を充実し、さらに1ヶ月間集中していかなければ。
Aug 5, 2015
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東京は今日で5日連続の猛暑日(気象用語で1日の気温が35℃以上の日)だそうだ。私の住まいの記録ではもっと長くつづいているが、定観測点ではないので論外。 暑さのおかげで、午前中に仕組んだ作品の下地にほどこした特殊技巧が、22時現在、すでに乾燥した。これからもう一段階仕組めば、明日の仕事がスムーズに行く。やってしまおうと思う。 作品制作を急ぎながら精力的に進めているのは、画商との約束の期日があるからだが、他にも実は民生委員として、高齢者を訪問して安否を確認してほしいという市役所からの依頼。熱中症対策やオレオレ電話詐欺等の対策はできているか、数日かけて巡回訪問する予定だ。 あまり暑い日の外出は自分自身が熱中症にならないようにしなければならいが、たとえば寝たきり状態の高齢者の熱中症対策は、私自身が亡母の看護でなかなか大変だった。私は母の頭の下に風を通すための特殊ネットを敷き、背中の下には電池式空調座布団を敷き、さらに足に厚手の靴下を履かせたうえで足許にサーキュレイターを設置して胸から顔にかけて風を送った。水分補給はもちろんである。この方法を主治医が見て、他の患者さんにもアドヴァイスしたようだが、母の枕元に寒暖湿度計を置いて、常に注意をおこたらないように心がけていたのだった。 まあそんなわけで、私自身は暑い暑いとも言っていられないのである。
Aug 4, 2015
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絵具の乾燥を1日待つ間、さしさわりのない部分の細部に手を入れた。明後日にはいよいよ主人公の描写に進む。 きょうは絵の制作は終いにして、読書をする。 ミルチャ・エリアーデに示唆されてキルケゴールを少し本腰を入れて読んでみようと思う。信仰を捨て、無神論者としての思索と葛藤が気になる。エリアーデによれば、原始の人間は堅固な自己確信によって存在していたが、キリスト教は「自己を失わせる」ことに成功したことで「革命」であったと言う。そして、「自己を失う」ことは神 への「従属」ではない、と。キルケゴールは徹頭徹尾「自己」の人であった。彼の思索はすべて「自己」からはじまっている。 私も、自己との対話からはじまり、「信仰」を「自己を失った」「隷属」と観察している。これまで、その観察を誤りだったと否定しなければならないような事例に出逢っていない。 大江健三郎さんは無神論者と自己規定しているけれども、なぜ「信仰」に惹かれていられるのだろう。 私は幼少のころから父親に「にいちゃんは、自然児だね、野生児だね」と、ほとんど感嘆に等しい言葉を投げかけられてきた。私に対する父の評は、父が亡くなるまでほぼ変わらなかったような気がする。---それは、ミルチャ・エリアーデの言う「自己確信」の人間ということだろうか? 私は自分自身の気質として、父方の剣で仕えた仙台藩の武士の血と、それとは真逆な母方の親類縁者含めて代々の仏教僧家の血とが、拮抗しつつ同体しているのを認識する。暴力性と非暴力性、論理性と非論理的神秘に対する理解等々、対立矛盾するものが私をつくりあげている。 キルケゴールを手がかりに、これまでいささかなおざりにしてきた領域を探ってみようと思う。
Aug 3, 2015
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きょうも朝から執筆を始め、思いのほか捗(はか)が行った。18時までに予定を大幅に超えた。 もう仕事を終えてゆっくりサッカーをŢV観戦しようと、中国の武漢で開催されている男子東アジアカップの日本対北朝鮮を観た。 試合開始早々、右サイドバック遠藤航(わたる)が入れてきたボールを武藤雄樹がシュート、先制の1点を決めた。幸先の良い立ち上がりに期待したが、前半戦は度々のチャンスを決めることができないまま、後半戦では北朝鮮に押され気味。あろうことか逆転され1-2で敗れてしまった。 日本の敗因を言うよりも、前半終了後の休憩時間に北朝鮮チームが日本守備を崩す方策を立て直した、その頭の良さを讃えたほうがよさそうだ。 このままŢVを見つづける気持もなく、また仕事場に戻った。今日のうちにもう2時間ばかり執筆すれば、進行スケジュールを5日ほど前倒しできるかもしれない。5日の差はおおきい。いまから執筆開始だ。
Aug 2, 2015
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午前9時から制作にとりかかり、ただいま23時53分、一日の仕事が終わった。 頭に描いていたイメージが、キャンヴァスの上に色彩豊かに明瞭に現われ、「いけるんじゃないか?!」という気がしてきた。この作品をやりはじめて、初めて興奮をおぼえた。 構図上のちょっとした訂正をした。途中でしばらく手をやすめて眺めていたとき、「あっ、そうだ!」とヒラメイタ。それまでの直線をゆるやかに曲げてみた。たったそれだけで画面に活気が出てきた。そんなことにまるまる1ヶ月も気がつかなかった。 明日の執筆が楽しみだ。
Aug 1, 2015
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