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2024年12月03日
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カテゴリ: 戦国





11「山中氏その後」


Ø 幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、上月城陥落時に尼子氏庶家 亀井茲矩 率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたため尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。尼子遺臣団の一部は庶家たる亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。


出雲 半国 という恩賞約束のもと秀吉麾下にて転戦を続けるも、 本能寺の変 の際の秀吉の 中国大返し における 毛利家 との講和に従いその約は反故とされ、以後は 亀井茲矩 が官職名「琉球守」を名乗り 琉球 国を欲して秀吉よりその認可を得るも、しかし警戒した 島津家 の琉球侵攻の前に阻まれる形となる。


Ø 朝鮮出兵にも従軍、秀吉の逝去後は東軍に属し 関ヶ原の戦い にて前衛の部隊として参陣、 斎村政広 の寝返り受諾・ 鳥取城 下焼き討ち・近江水口城主 長束正家 の追撃包囲開城などに参加し、徳川 幕藩体制 に組み込まれる。


出雲 に隣接する 因幡国 鹿野 を拝領、 鹿野藩 として 朱印船貿易 を行い シャム 朱印船 を派遣。そして 千姫事件 後に長州 毛利家 に程近い 石見国 津和野 へ転封し、そのまま 津和野藩 勇万3000石として 幕末 を迎えた。


千姫事件


元和 元年(1612)の大坂夏の陣による 大坂城 落城の際に、家康の孫娘で 豊臣秀頼 の正室である 千姫 を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる。


この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説、家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である 堀内氏久 に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が 徳川秀忠 の元へ送り届けた、とする説があり、この他、直盛が火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もあるが、このうち火傷に関しては俗説であるという意見もある。


また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、 公家 との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然 姫路新田藩 主・ 本多忠刻 との縁組が決まったため、面目を潰されたという説もある。


いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが、この計画は 幕府 に露見していた。


幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説、 立花宗茂 の計策により、 柳生宗矩 の諫言に感じ入って自害したという説がある。


なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。


一方、当時江戸に滞在していた イギリス商館 リチャード・コックス の日記によれば、


1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、 こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり


とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(石見の中村家や加賀の三宅家など、出羽守の子孫と伝わる家も存在する)。


関ヶ原の戦いに敗れ、改易された 出羽 横手城 主・ 小野寺義道 は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)。



人物


藩政においては、側溝を多く作ったことによる蚊の大量発生に備えて、鯉の養殖を創始したと伝えられる。また、紙の原料である コウゾ の植樹を奨励するなど、のちの津和野藩に与えた影響は大きい。


直盛の性格は、直情的で愚直、 偏執 気質だった。 宇和島藩 主で縁戚にあたる 富田信高 が直盛の家臣を殺した 宇喜多左門 を匿っていたのを知ると引き渡しを求め、拒否されると武力衝突覚悟で一戦に及ぼうとしたり、引き渡しの一件を家康や秀忠に訴えてまで求めたりするなど、性格にかなりの執拗性が見られる。なお最終的に、幕府は直盛の訴えを受け、富田を 改易 に処した。


浦上宇喜多両家記 』においては「武気強精、常に荒くして家人など手討する事数知れず、武道も尤も強し。されどもさして勝れたる働きなき故にここに記さず」と記述されており、「気性は荒いが特段の武功はない」という評価もある。






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最終更新日  2024年12月03日 12時50分56秒
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