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グレゴル・ボジッチ「栗の森のものがたり」元町映画館 予告編に惹かれて見ました。スロベニアという国の若い監督グレゴル・ボジッチという人の「栗の森のものがたり」です。 イタリア半島が地中海に突き出ていて、その東の海がアドリア海ですね。で、その海に面しているヨーロッパが、かつてはユーゴスラビアでした。で、今は北の端がスロベニア、海に面している国がクロアチア、そして、その東方にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソヴォ、モンテ・ネグロ、の国々のようですが、まあ、よくわかりません。イタリア半島の付け根に接しているスロベニアですが、北はアルプスを隔ててオーストリアに接している。まあ、そういう地域のようですが、映画の舞台はスロベニアの山のなかでした。 時代は1940年代の後半くらいでしょうか、栗拾いの女性マルタの境遇が、夫は戦争に行ったまま帰ってこない寡婦という設定でしたから、多分その頃です。 黄葉した林のシーンに雪が風に流されながら舞い落ちてきて、落ち葉が積もった平地に、墓穴と思しき長方形の穴が口を開けていています。やがて、その穴に栗のイガのようなものが埋められて、その上からたくさんの落ち葉で覆うというシーンが、何の音もないまま映し出されて映画は始まりました。 棺桶だけではなく家具も作っているようですから、指物師ということでしょうね。主人公らしき老人マリオには具合の悪い妻ドーラがいて、あてにならない医者とのやり取りもありますが、眠り込んでいる妻の寸法、棺桶のでしょうね、を測ったりするシーンが折り込まれ、やがて、妻が亡くなり、再び、あの四角い穴のシーンがあって、一人になります。家を出てしまった息子がベルギーあたりにいるようで、出されなかった手紙が声に出してが読み上げられるシーンがあります。 どういう経緯でそうなったのか思い出せないのですが、胸に迫って涙がこぼれたりしました。 で、一人になった老人マリオは何処かへ出発するのですが、その途中、収穫した栗を川に流して困っている栗拾いの女マルタと出会います。栗拾いの女も、おそらく、行く方が知れない夫を探す旅に出発しようとしていますが、旅費がありません。で、老人マリオは持ち合わせていた金を女マルタにやってしまうのです。女は出発し、残された老人は死んでしまいます。 まあ、かなり端折りましたが、そういう映画でした。で、まず、森とか落ち葉とか、雪とかのシーンが美しくて印象的です。 その次に部屋のなかのシーンです。これが暗いのですが、室内の光の作り方が独特で、多分、意図的なのですが、いかにも、その時代のヨーロッパの田舎の村を思わせて、「自然」なのです。ただ、暗さに弱い老人には、ちょっときつかったのでした(笑)。 それから、部屋の中に置いてある水差しの撮り方なんて、たしかにフェルメールで、そういう映像処理の面白さにに唸ったのですが、もっと、おおーっと思ったことがありました。 ボクが、子どもころラジオから流れていた、フランスのポップスで、あの、シルヴィ・バルタンの、多分、60年代のヒット曲「アイドルを探せ」だったかが流れてきたことでした。 まあ、よく考えてみれば、この映画の物語の、時代的にも、筋書き的にも、何の必然性もないと思うのですが、「えー?なにぃー?」 とうろたえながら、結局、この曲のメロディが、この作品の記憶として残るに違いないところがふしぎですねえ(笑)。 好き勝手に、のびのび映画を作っている、若い才能という印象ですが、栗林の落ち葉の降り積もった中に、ポッカリ開いていた四角い穴と、風に舞うように降る雪のシーンは、スロベニアという国に生きる人間の「今」 を象徴的に 表しているかのようで、この監督を支えている現実認識、あるいは歴史観の深さを感じさせる映像でした。 映画の中で、死んでしまった二人の老人に拍手! それから、グレゴル・ボジッチという若い監督に期待込めて拍手!でした。監督 グレゴル・ボジッチ脚本 グレゴル・ボジッチ マリーナ・グムジ撮影 フェラン・パラデス編集 グレゴル・ボジッチ ベンジャミン・ミルゲ ジュゼッペ・レオネッティ音楽 ヘクラ・マグヌスドッティル ヤン・ビソツキーキャストマッシモ・デ・フランコビッチ(指物師マリオ)ジュジ・メルリ(マリオの妻ドーラ)イバナ・ロスチ(栗拾いの女マルタ)トミ・ヤネジッチ(村の医者)2019年・82分・スロベニア原題「Zgodbe iz kostanjevih gozdov」2023・11・24 ・no143・元町映画館no213<img!
2023.11.30
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北野武「首」109シネマズハット 一月ぶりのSCC、シマクマ・シネマ・クラブの例会は世界の北野武が、まあ、ボクにはビート・タケシですが、監督、脚本、原作で、満を持して作った(?)らしい、作品「首」でした。 本能寺の変を描いた時代劇でしたが、まあ、北野映画ですから、殺伐としたグロテクス・リアリズムだと予想して見ましたが、さほどグロテスクというわけでもありませんでした。 SCCでご一緒するM氏の提案された作品の一つだったのですが、北野映画は見たことがないとおっしゃっていたので、そのあたりのことを少し心配しながら見終えました。「いかがでしたか?」「いや、結構、面白かったですよ。」「残酷シーン、非人間シーンがありましたが、そのあたりは?」「いや、様式化しての繰り返しですから、気にならなかったですよ。」 というわけで、心配は杞憂に終わったのですが、ボク自身は、M氏がおっしゃる様式化というか、残酷シーンのパターン化と、登場人物たちのキャラクター設定、信長にだけ方言(尾張弁?)をデフォルメして喋らせながら、ほかの登場人物たちに、音声的なアクセントとしても、少し不自然な標準語(?)を喋らせるセリフ構成、浅薄とでもいうしかない男色描写、どれ一つとっても、今までに見た北野映画を越える要素どころか、ある種の衰弱を感じるばかりで、ダレてしまいました(笑)。 グロテスク・コメディーというジャンルがあるのかないのか知りませんが、暴力的なグロテスクが、同じパターンで繰り返される中で、見ているボクに弛緩現象をおこしたからでしょうか、本来、あっけにとられるべきドタバタ喜劇的シーンも緩んでしまい、笑えない笑いが宙に浮いて、出来の悪いというか、描線の粗雑な劇画マンガを読まされていう感じでしたね。 信長、秀吉、光秀、家康という、本能寺の変を構成する4人の登場人物の性格描写のデフォルメ化に、現代社会の人間類型を重ねた社会批評性を読み取るような見方もあるのかもしれませんが、そういう、社会観、大衆性とは切れたところに北野映画の徹底した暴力性の魅力を感じていたシマクマ君には、チョット、トホホな作品でしたね。 というわけで、SCC第13回は主宰者がずっこけて終わりでした(笑)。いや、ホント、二人して拍手!の映画って、ホントないものですね(笑)。監督・脚本・原作 北野武撮影監督 浜田毅編集 北野武 太田義則音楽 岩代太郎キャストビートたけし(羽柴秀吉)西島秀俊(明智光秀)加瀬亮(織田信長)中村獅童(難波茂助)木村祐一(曽呂利新左衛門)遠藤憲一(荒木村重)勝村政信(斎藤利三)寺島進(般若の佐兵衛)桐谷健太(服部半蔵)浅野忠信(黒田官兵衛)大森南朋(羽柴秀長)六平直政(安国寺恵瓊)大竹まこと(間宮無聊)津田寛治(為三)小林薫(徳川家康)岸部一徳(千利休)2023年・131分・R15+・日本配給 東宝・KADOKAWA2023・11・27・no145・109シネマズハットno35・SCCno⒔!
2023.11.29
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天野忠「しずかな夫婦」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) しずかな夫婦 天野 忠結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。とくに静かな夫婦が好きだった。結婚をひとまたぎして直ぐ しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。おせっかいで心のあたたかな人がいて 私に結婚しろといった。キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて ある日 突然やってきた。昼飯代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し お見合だ お見合だ とはやして逃げた。それから遠い電車道まで初めての娘と私は ふわふわ歩いた。―ニシンそばでもたべませんか と私は 云った。―ニシンはきらいです と娘は答えた。そして私たちは結婚した。おお そしていちばん感動したのはいつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころポッと電灯の点(つ)いていることだった―戦争がはじまっていた。祇園まつりの囃子(はやし)がかすかに流れてくる晩 子供がうまれた。次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ徴用にとられた。便所で泣いた。子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。 ひもじさで口喧嘩(くちげんか)も出来ず 女房はいびきをたててねた。戦争は終った。転々と職業をかえた。ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。貧乏と病気は律義な奴で年中私たちにへばりついてきた。にもかかわらず貧乏と病気が仲良く手助けして 私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)思い思いに デモクラチックに遠くへ行ってしまった。どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって夫婦はやっともとの二人になった。三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。―久しぶりに街へ出て と私は云った。 ニシンソバでも喰ってこようか。―ニシンは嫌いです。と 私の古い女房は答えた。 小池昌代さんの「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)を読んでいて、心に残った詩の一つです。 編者の小池さんは詩の後ろに載せられた短い解説で「詩のなかに、いびきをかく女房が出てくる。いや女房とは、いびきをかく者のことを言うのだ。」 と喝破しておられるのですが、その「女房はいびきをかいてねた」の一行が心に残りました。「あのな、トイレに置いてる詩集やけどな、天野忠っていう詩人な、鶴見俊輔がどこかで話題にしてたような気がするけど、京都の人やねんな。その人のしずかな夫婦というのがエエねんな。」「どこが?」「女房はいびきをかいてねたっていうねん。詩のなかで。」「それで?」「あんた、自分がいびきをかいてるかもしれんって思うことある?」「いびきうるさいのんは自分でしょ。」「いや、それは知ってるけど、自分はどうなん?」「寝言は気づいたことあるけど、いびきかいてるの?」「うん、まあ、絶無ではないな(笑)。」「なに、それがいいたいの?」「いや、ちゃうちゃう」「そしたら、なにがどうなん?」「いや、あそこ置いてるから読んでみ。ええ詩や思うで。」「わたし、トイレでは読みません!」「風呂では読むやん。まあ、ええけど、その奥さんなニシン蕎麦いうか、みがきニシンな、京都の蕎麦にはいってるあれな、嫌いなんやて。」「あっ、わかる。わたしもニシン蕎麦きらいやわ。」 と、まあ、こんな会話になったしというわけです(笑)。天野忠のほかの詩については、またいずれ紹介しますね。ご本人は1993年に亡くなっておられるようですが、編集工房ノアという所から詩集がたくさん出ています。思潮社の現代詩人文庫にもあります。まあ、また、ですね(笑)。
2023.11.28
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「これって、栴檀?」徘徊日記 2023年11月26日(日) 王子公園あたり 一月ぶりの王子公園です。約束より早く来たのでフラフラしています。動物園の園内にある旧ハンター邸当たりの通路にいます。目的地はここの少し東にある登山研修所ですが、黄葉、紅葉がうれしくて徘徊中です。 メタセコイアの並木ですが、動物園の駐車場なので自動車がいっぱいです。すぐ隣が、競技場のサブ・グラウンドでしたが、今は駐車場です。 こちらは緑の立ち木と公孫樹の黄色が美しいです。グランドの東の端に、何やら実をいっぱいつけた木がありました。 これって、「双葉よりかんばし」の栴檀ですかね? 夏の終わりころに、すぐ、この上の、上野道というハイキング道を歩いたときには、摩耶山の山中で緑だった実を見かけたのですが、王子公園にもあるのですね。 もうちょっとアップすると、こんな実です。たわわになっています。 ちょっと、齧ってみればよかったですね。まあ、どうせ、苦いか、渋いかでしょうけど、だって、こんなに実がついているのに鳥の影が、ただの一羽もないのですよ(笑)。 帰り道に、アメフトのスタジアムの裏で、こんな実も見つけましたよ。多分、ウバメガシとかの一種だと思いますが、こちらは実に手が届きません。 今日、王子公園にやってきたのは、お昼の1時過ぎだったのですが、用事を終えて帰るころには日が暮れてきて、月が出ていました! 今日は満月のようです。 ああ、そう、そう、JRの灘駅から歩いてくる途中に、こんなお地蔵さんがありました。 どうも、頭がないようなのですが、赤い帽子(?)で覆ってあるのでよくわかりません。阪急の王子公園駅のすぐ南の交差点です。このあたりは、学生時代に暮らした町なので、大概、知っているつもりでしたが、今日初めて気づきました。あてにならないものですね(笑)。ボタン押してね!
2023.11.27
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島田裕巳「日本人の神道」(ちくま新書) とりあえず、日々の徘徊のお供とでもいう興味で手に取りましたが、いや、なになに、なかなか読みでのある1冊でした。 日本に土着の宗教が「神道」である。 神道がいったいいつ生まれたのか、その起源は分かっていない。分からないほど、その歴史は古いとも言える。(P7) 「はじめに」の冒頭です。 仏教が来て、儒教が来て、道教が来て、キリスト教が来て、まあ、近世以前に思いつくだけでも、外から来たのがその四つ、その四つの「外来」と「土着」の関係はどうなっているの? 古い古いというけれど、どれくらい古いの? 実際、一番古いのはどこの神社? 八百万の神とかいって、ポコポコ神さん産まれるけど、結局、神社に行って何を拝んでんの? 八幡大菩薩とか、神宮寺とか、本地垂迹とか、廃仏毀釈とか言うけど、あれってなに? 伊勢対出雲の対決の真相は? 実際、信心とかいうこととは一切かかわりたくない徘徊老人なのですが、興味はある訳です。で、この本は、とりあえず、徘徊か老人が思いつくことのできる、まあ、その程度の質問には、ほぼ全部答えてくれました。 中でも面白いのは第5章 出雲大社の「生き神」・国造の謎解きあたりでしたね。出雲大社が、超巨大な高層建築だったのではないかとかいう話は生噛りで聴いたことがあったのですが、「生き神」さまですよ。伊勢神宮が天皇家の祖先神だとかいう話は、まあ、「物語」としては知っていたわけで、さほど驚かなかったのですが、出雲はスゴイですね(笑)。本物の生き神様登場ですからね。興味津々です。解説を読み始めて、それで?それで? の連発で、どうも、この本で終わりそうもありません。 で、まあ、この本自体は、靖国の話あたりで締めくくって、最後は神道についての「信仰」についてでした。ちょっと、あとがきのあたりから引用してみますね。 神道は、私たちの身近にあり、ごく自然なものである。宗教には、それをわざわざ選び、それだけを信仰するというイメージがあるが、神道にはそれがない。 それも、神道には開祖も教えも聖典も存在しないからだ。そこで私は神道を「ない宗教」と呼んできた。そこには神道は宗教ではないという含みもある。 教えがない以上、私たちは神道に縛られることはない。また自分を救ってくれるよう強く願うこともない。宗教には救済の手立てがあり、それが決定的に重要だが、神道にはそれもないのだ。 神道がそうした性格を持っている以上、神道の神についても、私たちはあえて信じるかどうか問題にしない。(P233) 結論のカギは「自然」だとおっしゃっているのですが、納得ですね。ここの所、手を打つ回数とか、頭を下げる姿勢とか、意味ありげに吹聴する世相がありますが、あれって、きっとウソだろう! とか、勝手に思っている徘徊老人には納得の結論ですね。 で、まあ、姓も同じということもありますから、島田裕巳先生の宗教解説、もう少し追いかけてみようかなと思いますね。新しいのを読んだら、また紹介しますね。なかなか、すっきりしていていいですよ(笑)。 ついでですので、目次を載せておきますね。目次第1章 神とは何か第2章 祭祀に現れる神第3章 神はいつから神社に鎮座しているのか第4章 神宮の式年遷宮はいつはじまったのか第5章 出雲大社の生き神・国造第6章 神道と仏教の戦い第7章 社殿のない神社、
2023.11.26
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鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」元町映画館 「SEIJUN RETURNS in4K」という特集を元町映画館が上映し始めました。鈴木清順生誕100年の記念特集のようです。 これは、まあ、見ないわけにはいかない! そういう気分で、初日、駆けつけたのが「ツィゴイネルワイゼン」です。1980年の封切ですが、その当時、とても評判になった作品です。定期購読していたキネマ旬報の、その年のランキングは日本映画ベスト1で、ベルリン映画祭でも評判がよかったらしく、当時、ボクは、まだ、大学生だったのですが、かなりな映画狂いで、周りに大勢いた映画好きのお友達たちが、口をそろえて絶賛!する中、まあ、ボクも尻馬に乗ってあれこれ言っていたような記憶ががありますが、何を言っていたのか、まるで、覚えていません(笑)。その作品を、久しぶりに見ました。 見終えて、仰天、嘆息でした。どうしたことでしょう? あの頃、あんなに面白がっていたはずなのに、なにをおもしろがって騒いでいたのか全く見当がつかないのでした。 一応、お断りしますが、この作品が駄作だとかいうことをいいたいのではありません。ただ、1980年に20代の終わりにさしかかっていた映画青年があっけにとられた衝撃の正体が一体何だったのかが、40年後に、同じ映画を見ている69歳の老人に全くイメージできないのです。 原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代、麿赤児、樹木希林、みんな覚えています。夢が夢を呼び出し、幻想が幻想と重なり、正体不明の不安が映画を覆っていく様を、ボンヤリとした既視感をかみしめるように、ため息をつきながら見入っているのですが、見ているボクの意識はどんどん醒めていく、そんな感じです。 あの頃、その境界線を越えれば、おそらく、ズブズブ深みに引きずり込まれるような場所に沈み込むことができた、その境界線をこっち側からじっと見ている老人が、今、ここにボンヤリへたり込んでいる。そんな感じでした。40年の歳月が奪って行ったものが、あのころ、そこにあった!はずの空っぽになった場所を覗きこんでいるような体験でした。 まあ、それにしても、大谷直子も大楠道代も美しいハダカでしたよ(笑)。まあ、今の自分の空っぽさに対する詮索はともかくとして、あと二本、試してみようと思います。 監督の鈴木清順、原田芳雄、藤田敏八、みんないなくなってしまったと、やはり、ため息だったのですが、怪人麿赤児と美女のお二人はご存命のようで、ちょっと嬉しくなりました(笑)。監督 鈴木清順原作 内田百間脚本 田中陽造撮影 永塚一栄照明 大西美津男美術 木村威夫 多田佳人録音岩田広一編集 神谷信武音楽 河内紀記録 内田絢子スチール 荒木経惟キャスト原田芳雄(中砂糺)大谷直子(芸者小稲・中砂の妻 園)藤田敏八(青地豊二郎)大楠道代(周子・青地の妻)麿赤兒樹木希林真喜志きさ子1980年・144分・日本2023・11・25・no144・元町映画館no214!
2023.11.25
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「銀杏並木が、今、見頃ですよ!」 徘徊日記 2023年11月21日(火) 朝霧あたり 季節が季節なので、黄葉の話ばっかりです(笑)。とりあえず、黄色くなった葉っぱの話が続きます。ここはJR朝霧駅の山手、北向きに行くと神陵台から伊川谷に向かう道路のイチョウ並木です。 右が神戸市垂水区狩口台、左が明石市松ヶ丘です。 神戸市の垂水あたりの、まあ、舞子あたりのともいえますが、山手、地下鉄の学園都市という駅とJRの垂水駅、舞子駅の中間に住んでいますから、明石の図書館とかに行くときには通る道の一つです。素晴らしい黄葉並木ですね。 こうやって、写真を撮っても、誰も人が写らないのが、まあ、何というか、このあたりの町の特徴です。50年ほど前には明舞団地の東の一角で、名を知られていた街ですが、今はお年寄りの町です。 今日は、お天気が良いので並木が、余計に美しいですね。まだ、緑が残っている木もありますが、おおむね黄葉しています。一本、一本、とても風情があるので、一本、一本写真を撮ればいいのですが、実は原付、スーパー・カブ号で明石に行った帰り道なので、所々ということになります(笑)。 狩口台の団地です。多分、植えられたころから、並木の世話が丁寧だったんでしょうね。 いかがでしょうかね、イチョウの並木は、兵庫区とか、長田区、まあ、あちらこちらにありますが、これだけ樹木の高さが揃っていて、葉っぱが茂っている並木には、なかなか出会えませんね。 見上げると、やはり見事なものです。お暇な方は、一度、歩かれたらいいんじゃないかなあ、という気持ちです。まあ、他には何もありませんが、南に下ると朝霧駅あたりから明石の海と明石大橋を眺めることはできますよ(笑)。ボタン押してね!
2023.11.24
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「実家が、喫茶店?!」 徘徊日記 2023年11月22日(水) 和田山あたり あのォー、今日は2023年の11月22日です。で、シマクマ君は朝5時に起きて、始発の市バスに乗って、JR舞子駅から姫路駅、姫路駅から播但線で帰省でした。 よく考えたら、明日は休日ですが、今日は普段の日です。早起きしたつもりでしたが、加古川あたりから学生さんや通勤の方で満員です。7時過ぎの播但線も、通学列車のようで、立ちんぼうです。寺前までやって来て、和田山行に乗り継いでようやく一息つきましたが、いやはやなんとも、久しぶりの学生軍団にヘトヘトです(笑)。 帰省先は朝来市の和田山という町で、町はずれのド田舎の村です。駅には午前9時過ぎに到着しました。で、たどりついた実家の近所には、何というか晩秋から冬の気配が満ちていました。 まずは山茶花です。もう満開を通り越して、写真写りのいい花を探すのが大変です。 こちらはユズです。皆さん庭先とか、畑の隅に植えておられます。たくさん実をつけています。 こちらは南天の赤い実です。白い実は咳止めとかで煎じて飲まされた記憶がありますが、赤い実は縁起物で、お正月とかのお飾り用ですね。 で、実家の玄関にたどり着いて「びっくり!」でした(笑)。「あんカフェ」とかいう暖簾が下がっているではありませんか。 住む人がいなくなっていた田舎家が喫茶店になっていましたよ!家の中も少し改築されたようで、元気なおばちゃんが二人で出迎えてくれました。 朝の食事も食べないままたどり着いたシマクマ君にはこんな食事も用意されていましたよ。ベジタブルなおいしいカレーでした。 ちょっと、立ち寄ったら、人と出会える場所が作りたくて! いい話ですね。名物は「牡丹餅」にするそうです。「牡丹餅を食べてコーヒーを飲む!」 もう、その組み合わせで笑えますが、みんなが集まってくる場ですが、なんとなく、老人憩いの場の雰囲気です。今日は店開きの練習会でした。 但馬は、これから、寒くなりますが、近所の方も、お家にとじ込もらないで、ちょっと覗いてみましょうか! というふうな場所になるといいですね。 お店の、だから、まあ、実家の駐車場には以前住んでいた老人、だから、まあ、亡くなった父ですが、が植えたミカンが鈴なりでした。今日のお土産はミカンです(笑)。 但馬の冬の味覚にミカン!とはこれいかに! ですが、案外、甘くてナットク!でした(笑)。暑かった夏のせいでしょうかね。まあ、その代わり、お米の出来は今ひとつだったそうで、それはそれで残念でした。ああ、それから、カメムシは、但馬でも大群だそうです。 朝の暗いうちに出かけたのですが、夜、暗くなって帰ってきた団地のバス停の公孫樹はライトアップされていました(ウソですけど)。 上に見えるのお月さんです。くたくたでしたが、最後にこれでした。ちょっといいですね(笑)。ボタン押してね!
2023.11.23
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タナダユキ「百万円と苦虫女」パルシネマ どなたかと結婚されて、お子さんもいらっしゃるらしい、女優の蒼井優さんの15年前の映画です。新開地のパルシネマが「朝パル」でやってました。最終日だと知ってあわてて出かけました。タナダユキという、多分、女性の監督の作品です。題名は「百万円と苦虫女」です。 多分、未決犯で拘留されていただけですから、刑務所じゃなくて、拘置所だと思いますが、若かりし日の蒼井優ちゃんが、まあ、刑務所風の門から出てきて、「シャバダバダー♪♪、シャバダバダー♪♪」 と歌いながら塀に沿って歩くシーンから始まりました。 で、まあ、ケーキと手巻き寿司の出所祝いを用意して待っている、明らかにウザイ両親と、コマッシャクレタ小学生の弟と暮らしている「家」に帰ってきます が、まあ、そこでブチギレて宣言します。「百万円貯まったら出ていきます!」 で、そこから、今いる場所を出ていくために、短大を出たばかりの佐藤鈴子(蒼井優)さんが、くりかえし、奮闘努力し、百万円貯めては、その町を出ていく映画でした。今いる場所を出ていく! なかなか、いい響きですね(笑)。出ていく先はあの世しかないのではないかという老人には懐かしい響きですね。でもね、足止めされる理由があれこれ、ポコポコわいてきちゃうんですよね、そこで暮らしちゃうと。で、そのポコポコが映画のお話になっているというわけです。まあ、ある種のロード・ムービーなのでした。 見ていて楽しかったのは、なんといっても、困ったような顔しかできない蒼井優でした。まあ、それが見たくて朝一番にやってきたわけですからね(笑)。で、思ったのですが、彼女の表情のポイントは「泣かない」でしょうね。 映画の結末ですが、これまた若き日の森山未来くんがバイト先の大学生中島くんとして、足止めの定番、恋の相手役で登場します。なかなか、いいヤツで、「オッ、これはどうやって終わるのかな?」 と危惧したのですが、結局、ホッポラカシて、やっぱり、次の町へ流れていく鈴子さんに拍手!でした(笑)。 前科者(?)の姉のためにイジメられる弟拓也(齋藤隆成)くんとの、虐げられた者同士の絆とか、桃農家の跡取り春男(ピエール瀧)さんの不思議な存在感とか、ポコポコ出てくるエピソードも悪くありません。しかし、まあ、蒼井優のあの表情なしにはあり得ない作品でしたね(笑)。ナットク!でした。監督・脚本 タナダユキ撮影 安田圭音楽 櫻井映子 平野航主題歌 原田郁子キャスト蒼井優(佐藤鈴子・姉)齋藤隆成(佐藤拓也・弟)森山未來(ホームセンターの中島くん)ピエール瀧(桃農家の春男)竹財輝之助(海辺のユウキくん)笹野高史(喫茶店の白石さん)佐々木すみ江(桃農家の絹さん)2008年・121分・日本配給 日活2023・11・20・no142・パルシネマ74!
2023.11.22
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「金毘羅さん、定休日!だそうです(笑)」 徘徊日記 2023年11月20日(月)新開地あたり 11月の月曜日の朝の9時過ぎに、なぜか、こんなところを歩いています。で、「おや、こんなところに金比羅さん!」 正面からの写真を撮って、境内にはいろうとすると鳥居の下にこんな張り紙があって、入り口が閉じられています。 本日定休日! だそうです。ここは、神戸のピンクゾーンといえばここ!という、新開地は福原の桜筋です。まあ、往年の勢いはまるでありませんが、その街筋に讃岐の金毘羅さんの神戸分社という神社を初めて見つけたのですが、定休日だそうで、笑いました。神社の定休日って、初めて見ましたよ(笑)、あるんですね。ウーン、どなたがお休みなのでしょうね? 歩いてきた道筋を振り返るとこんな感じです。 ここが、あの「桜筋か!?」という雰囲気です。まあ、時間が朝の9時過ぎで、曜日が月曜ですから、こういうことなのでしょうが、さすがですね、驚いたことに、なんちゃらクィーンとかのお店は営業中でした。 まあ、ボクには縁がなさそうなので、湊川公園に向かいます。 秋晴れの、いや、もう冬晴れかも?の楠公さんです。ちょっとそのあたりで一休みして、持参のサンドイッチを頬ばりながらパンくずを投げると、あっというまに集まってきました。 どこにいたのか、最初は鳩が2羽だけいたのですが???。スゴイモンですね(笑)。で、これからどうするかなのですが、まあ、天気はいいのですが、チョット映画でも見ようかなですね。 蒼井優ちゃんです。朝から新開地をウロウロしていた目的はこれですね。それでは、そろそろ始まりそうなので行ってきます。 感想は、また書きますから、また覗いてくださいね、じゃあ。ボタン押してね!
2023.11.21
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「団地も黄葉です!」 徘徊日記 2023年11月20日(月)団地あたり 今日は11月21日、火曜日。朝から快晴です。明るい日ざしのなかで、イチョウの黄葉が美しい季節になりました。住んでいる棟の前の公孫樹です。向うに見えるのは廃校になった小学校の校舎です。 小学校の前の歩道沿いの公孫樹です。学校に子どもがいなくなって半年たちました。静けさが淋しかったのですが、慣れました。歩道に人がいないのはいつものことです。 団地の中にもどって、集会所の近くにある公孫樹です。どの公孫樹も、あざやかに黄葉しています。 集会所から少し南にのぼると欅の林があります。落葉が始まっていますが、今が黄葉です。林の全景を撮ればよかったのですが、下から見上げた青空です。こういう風景というか、景色が好きです。 ああ、今、ちょうど、こういう桜(?)も咲いています。十月桜というのですかね、小粒の八重の花で、地味なのですが、寒くなっても咲き続けます。葉っぱが一枚もないのが、ちょっと凄いですね。 で、オシマイは、団地の正門のバス停の前にある公孫樹です。それほど大きな樹ではないのですが、一年中、ここに立っている姿を見るので、こうして黄葉すると、何とはなしに時の流れを感じます。 まだ、11月なのですが、「また、一年がたちましたね。」 まあ、そういう気分です(笑)。ボタン押してね!
2023.11.20
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三原光尋「高野豆腐店の春」パルシネマ パルシネマが企画した「父娘映画」2本立ての1本が「658km、陽子の旅」、で、もう1本が、この「高野豆腐店の春」でした。監督は三原光尋という方です。「陽子の旅」の熊切和嘉監督のちょうど10歳年長で、同じ大阪芸大出身のかたのようです。 映画の冒頭に、まず、紺のジャンパーに白い前掛けの高野辰雄さん(藤竜也)が水に浸けた大豆の水を切りながら、おそらく、蒸して豆摺りをする機械に入れる作業をしているところに、同じく白い作業着の娘の春さん(麻生久美子)が入ってきて「お早うございます。今日もよろしくお願いします。」 と挨拶をするシーンから映画が始まりました。このシーンがとてもいいなあと思ったんですね。で、その様子を見ていて、普段なら、あくびが出そうなホームドラマなのですが、なんとなく納得して、終始、寛ぎながらノンビリと映画を見終えました。まあ、そういう映画でした(笑)。 そろそろ、本気で体にガタがき始めてはいるのですが、相変わらず、頑固一徹な豆腐屋と、所謂「出戻り」で、父の仕事を律儀に手伝う看板娘、とはいえ、しかし、まあ、さすがに40歳は超えているだろうという娘の、父と娘の物語でした。で、舞台は、あの尾道です。なかなかな設定ですよね。 尾道を舞台に、頑固ジジイの辰雄の老いらくの恋と、春の再婚話がコメディタッチで重ねられて話は進み、無事、ハッピーエンドを迎えますが、ノンビリ見ていて驚いたことは、実はこの映画は「ヒロシマ」を描いた作品だったということでした。 映画の中で、辰雄は「あの雲を疎開先で見た。」という言葉を口にしますが、そうであるならば、2015年くらいがこの映画の現在であるとして、主人公の辰雄とその恋人は優に80歳を超えている年齢なわけで、さすがに、そのことに気づいて驚きましたが、同時に、三原光尋という、1964年生まれの監督が、2023年の、今、「ヒロシマ」を描くという勇気にも驚きました。 ただ、その結果、映画の筋運びが冗長になったことは確かで、いろいろ盛りすぎて、且つ、コテコテの笑いが、ノンビリ見ているボクでさえだるいのが難点でしたね(笑)。 辰雄と春が、毎朝、作業を終えて豆乳を飲むシーン、二人で体操をするシーン、ラストシーンで、もう一度、朝の豆腐作りが繰り返され、そこで、辰雄が口にするセリフ、まあ、ありきたりといえばありきたりなのですが、生活するということが「ありきたり」を繰り返すことだという真実を描いているともいえるとボクは思いました。 藤竜也を主人公として見るのは、なんと、あの「愛のコリーダ」とか、「愛の亡霊」とか以来ですが、彼は今年、なんと、82歳なのですね。だから、実年齢通りの役を演じていらっしゃったわけで、ちょっとびっくりでした。アクションまであるのですよ(笑)。もちろん、拍手!ですね。 相手役の中村久美さんも、春役の麻生久美子さんも素直な演技で拍手!でしたね。監督・脚本 三原光尋撮影 鈴木周一郎編集 村上雅樹音楽 谷口尚久エンディングテーマ エディ藩キャスト藤竜也(高野辰雄)麻生久美子(高野春)中村久美(中野ふみえ)徳井優(金森繁)山田雅人(横山健介)日向丈(山田寛太)竹内都子(金森早苗)菅原大吉(鈴木一歩)桂やまと(西田道夫)黒河内りく(田代奈緒)小林且弥(村上ショーン務)赤間麻里子(坂下美野里)宮坂ひろし(坂下豪志)2023年・120分・G・日本配給 東京テアトル2023・11・17・no141・パルシネマ73!
2023.11.19
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熊切和嘉「658km、陽子の旅」 パルシネマ 熊切和嘉監督の最新作、「658km、陽子の旅」を見ました。パルシネマが企画した「父娘映画」2本立ての1本でした。もう1本が「高野豆腐店の春」です。 両方とも、シネ・リーブルでの封切りが今年(2023年)の夏でした。その時、どうしようかなと考えたのですが、なんとなくパスしました。特に「陽子の旅」は、チョット贔屓にしている熊切監督の作品なので、かなり惹かれましたが、予告編を見て、「なんだかめんどくさそう・・・」 だったので躊躇しました。で、秋になって、早速のパルシネマ企画です。これは見ないわけにはいきませんというわけで、ホイホイやって来ました。 で、映画は始まりました。カーテンを閉めた暗い部屋で、パソコンのトラブルに舌打ちしたり、通販の荷物を受け取り、部屋に運び込みながらスマホを壊したり、ベッドでユー・チューブか何か見ながら寝てしまったりの女性が映っていました。この方が陽子(菊地凛子)さんらしいですね。 なんとなく、どこかで見覚えのあるお顔なんですが、よく知りません。で、なぜだかわかりませんが、ボクは、そのシーンで、白けてしまったのですね。 そこから従弟の竹原ピストルくんがやって来て、父親の死を知らせ、まずは彼の自動車で東京から青森に向かう、まあ、ロード・ムービーが始まるのですが、なんとなくノレませんでしたね。 見ながらよかったのは、たぶん弘前の山とか、おそらく、福島でしょうね、その堤防から見える海とか、時々俯瞰で挿入される高速道路とか被災地の風景、それから登場人物では、ヒッチハイクをしている、まあ、陽子と行きずりで出逢う少女見上愛が、その身の上について「いってもなあ・・・」 と言い切った、時の表情とその一言とか、被災地の老夫婦を演じた風吹ジュンの笑顔でしたね。まあ、ボクの好みですが。 菊地凛子さんが陽子を熱演していたことは認めますが、いいと感じたのは寝顔だけでした。結局、彼女自身に心情を語らせないと映画が成り立っていないのが、熱演を帳消しにしてしまった印象が残りました。 彼女が波をかぶる海辺のシーンも、時々登場する彼女の父親、オダギリジョーくんの幻影も、インチキ野郎との濡れ場も、上滑りしている印象しか残りませんでしたね。 物語を語るために、何が必要なのかというところで、ボクがズレているのかもしれませんが、映画の作り手は、現実の社会と、そこで生きている陽子の内面(?)について、リアル(?)な行為のシーンや、象徴的な夢や幻覚のシーンが必要だと考えておられるのだということが、透けて見えてしまうのがこの映画のつまらなさだと感じました。 たとえば、老夫婦との別れのシーンで、陽子が二人と手を握り合う美しいシーンがあるのですが、その後、やっとのことでたどり着くはずの葬儀場で、彼女がどんなふうに父親の遺体と出会うのかということを、あのシーンで暗示しているつもりで映画が作られているとすれば、陽子の「父との葛藤(?)」の深さに映画は届いていないとボクは考えますが、さすが熊切和嘉ですね、出会わせませんでした。語れないことは語らない! まあ、そういう覚悟のようなものを失って「わかりやすい」ことを求めているかの様相を呈している、今の日本映画を覆っている退廃現象の、なんとか、一歩手前で、ラスト・シーンになって、ようやく、踏みとどまったかに見える熊切和嘉には、「まあ、ぎりぎり、こらえたろ(笑)」 の拍手!でしたね(笑)。 ボクは、この監督に、わけのわからない無言のシーンや風景描写の美しさを期待しているのですが、むずかしいようですね(笑)。監督 熊切和嘉原案 室井孝介脚本 室井孝介 浪子想撮影 小林拓編集 堀善介音楽 ジム・オルークキャスト菊地凛子(工藤陽子)竹原ピストル(工藤茂・従弟)黒沢あすか(立花久美子・最初に乗せてくれた人)見上愛(小野田リサ・行きずりの少女)浜野謙太(若宮修・インチキ野郎)仁村紗和(八尾麻衣子・被災地で暮らす姫路の女性)篠原篤(水野隆太・黙って乗せてくれた人)吉澤健(木下登・被災地の老人)風吹ジュン(木下静江・登の妻)オダギリジョー(工藤昭政・父の幻影)2022年・113分・G・日本2023・11・17・no140・パルシネマ72まt!
2023.11.18
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司馬遼太郎・林屋辰三郎「歴史の夜咄(よばなし)」(小学館文庫) 作家の司馬遼太郎(1923年生~1996年没)と歴史家の林屋辰三郎(1914年生~1998年没)の対談です。司馬 あの狛(こま)というあたりに、黄文(きぶみ)の絵師なんかがたくさん住んでいますね。だから黄文とか、黄色い色を出すというのは、新羅や百済のイメージよりは高句麗のイメージですね。林屋 そうですね。黄色というのはほんとうに大事にされてきたのですね。要するに東・西・南・北は四神といって、青龍・朱雀・玄武・白虎とある、そのまん中はどんな色かと、これが黄色なんですな。司馬 神聖色が黄色というわけですかね。林屋 やっぱりこれは道教じゃないでしょうか。司馬 道教でしょうね。あるいは道教以前から黄色信仰はあったかもしれませんが、道教が吸い上げた。道教では決定的に黄色ですね。林屋 これはびっくりしましたな。かれこれもう十年近く前のことになりますが、伊勢神社の式年遷宮の時に、内宮の中まで開放しましたでしょう。そこで見たんですが、ちゃんと黄色が使われています。そういえば四神では黄色がないですものね。五色と言ったら黄色が入るのです。気がつかないのがふしぎなくらいで、その場合黄色をまん中に置くのですね。ちゃんと内宮と下宮の高欄に、その玉が入っています。 全部白木の中で、あそこだけ五色の極彩色がパーッと見えるんです。司馬 そうですね。私も物見高いものですから、その時の式年遷宮にも、そのまえのときも行ったのですが、あれは鮮やかな印象です。私が親しくなった宮司さんがおりまして、そのときはもう退役して老人になっておられましたが、要するにこれは中国のまねでしょう、と言ったらいやがりましてね。(笑)「思想としては道教じみていて、礼儀は儒教によったわけでしょう?」と言っても「うん。」と言わないのですよ。(笑)伊勢神宮のえらい人としては、やはりこれが惟神(かんながら)の道といいたいものですから。 ところが伊勢神宮が単に神聖な場所というのではなくて、ある程度は国家鎮護のにおいがあって、効きめということでは道教でしょうね。林屋 そうでしょうね。(古代出雲と東アジアP105~106) ちょうど読んでいたところからの引用です。いかがでしょうか、面白いですね。 司馬遼太郎については、さすがに説明はいらないでしょうが、林屋辰三郎というと、「誰?それ?」となりそうです。 金沢のお茶屋の御曹司で、京都帝大の史学科を出て、戦後、長く立命館史学の看板教授でしたが、ボクが学生の頃は、70年の大学紛争で立命館をやめて、京大の人文研の所長とかしておられた日本中世史の第一人者でした。「町衆」とか、「お茶」、「お花」というような京都文化の世界を学問として説いてくれた人です。 まあ、そのお二人が1970年ころに新聞紙上で連載対談なさったのが、1982年に単行本になって、その後、小学館ライブラリーに入っていたらしいのですが、2006年に小学館文庫で再刊されたのがこの本です。 今、思えば、司馬遼太郎という人は、1980年代から90年代の、所謂、「日本論ブーム」の火付け役にして、あれこれ薪を足しつづけることで、「歴史的視点」の広がりや客観性を支えた人だったと思いますが、もし、今、生きていらっしゃって、昨今の妙な歴史観の横行をなんとおっしゃるのか、チョット興味がありますね。 対談のお相手である林屋辰三郎さんの、日本中世史についての著作も、もう一度読み直すべき基本図書だと思うのですが、忘れられているようですね。 手に取ると、あれこれ興味の尽きない、超博識の老人二人の「夜咄(よばなし)」でしたが、元町の古本屋さんで100円でした(笑)。 一応、目次をあげておきます。寂しいことですが、対談をなさっているお二人も解説を書いていらっしゃる陳舜臣さんも、もう、いらっしゃいません。古代史から、江戸、西から東を縦横にしゃべっておられる、在りし日のお二人をなつかしいと感じられたり、まあ、日本がどっちを向いているとかいう方面に興味のある方には、きっと、楽しい本です(笑)。参考までに、一応、目次を載せておきます。 目次遠近の感想―まえがき―司馬遼太郎日本人はどこから来たか まず「古代」を半分にしてみる~古代日本はアジアの標本蔵日本人はいかに形成されたか 日本的律令制のスタート~中世に終止符をうった秀吉古代出雲と東アジア イリュージョンの国・出雲~平和のデモンストレーション花開いた古代吉備 高い生産力を誇る~秀才官僚を産むフロンティアとしての東国 勿来関(なこそのせき)の向う~商業の原点は京都・中京(なかぎょう)中世瀬戸内の風景 生きるのが難儀な時代~津山は投馬(とうま)国か日本人のこころの底流 諦めの浄土と活力の法華~芸術ショックに弱い日本人世界のなかの日本文化 日本の中華思想~世界の文化の事務局にあとがき―林屋辰三郎解説 陳舜臣
2023.11.17
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山崎貴「ゴジラ−1.0」109シネマズハット 見ちゃいましたよ(笑)。山崎貴監督の「ゴジラ−1.0」です。ゴジラ映画70周年なのだそうです。 東宝映画の初代ゴジラと同い年なのを理由にゴジラ老人を自称しているシマクマ君としては、「ゴジラ」と題がつけば見ないわけにはいかないわけで、なんだか評判らしくて、少し億劫だったのですが出かけました。ハット神戸の109シネマですが、やっぱりいい映画館ですね。500人ほど座れそうなホールに20人ほどのお客が座っての鑑賞で、もちろん、ゴジラを見るには、画面も音響もデカイですし、鑑賞環境はサイコー!でしたね(笑)。 で、映画ですが、1945年、敗戦直後の東京を踏み潰す陸のゴジラ、不思議なことに大海原で立ち上がったかに見える海のゴジラ、大きな画面に納得の姿で登場していて堪能しました。 題名は「ゴジラ・マイナス・ワン」と読むそうです。なんで、そういう題なのかは、まあ、わかったような、わからなかったようなですが、久しぶりの和製ゴジラの雄姿には心躍りました。もっと暴れろ!もっと踏みつぶせ! まあ、そんなふうな気分が盛り上がってしまうのがゴジラ映画を見るときの常なのですが、何だか、ずっと怒っているゴジラの表情が笑えましたが、青い放射火炎のエネルギーを充填する新しいアイデアのシーンも、それなりに面白く見ました。 1945年以前、まだ戦争中だった南の島の海軍基地に「原ゴジラ」というべき、チョット小ぶりのゴジラを登場させたのが、まあ、このゴジラ映画の新機軸で、その島で日本人としては最初の「ゴジラ体験」をした特攻帰りの青年にまだ、終わってない戦争 をいかに清算させるかというのが、人間側のメインプロットでしたが、青年を演じた神木隆之介君といい、ヒロインとして登場する浜辺美波ちゃんといい、ゴジラ駆除!(映画の中で、実際に口にされた言葉ですが駆除!ですよ、駆除!ゴキブリじゃあるまいし! の計画を立てる元帝国海軍の技術将校を演じた吉岡秀隆君といい、大根の王様のよう俳優さんたちと、子どもも夫も喪った戦災未亡人を演じた安藤サクラさんや、吉岡君とゴジラ駆除作戦のコンビを務める元海軍将校を演じた佐々木蔵之介君という、どっちかというと達者な俳優との激突で、チョットのけぞりました。 最後の最後に、大日本帝国海軍、最後の切り札、幻の戦闘機「震電」とかが登場して飛ぶところなんて、特撮得意の監督さんとしては、飛ばして撮りたかったんでしょうねえ(笑)、という感じでしたが、結局、体当たりなのですね。それって、脱出シート付きならいいんですかね。何とも、まあ、安易というか、アホか! と言いたくなるような、意味の分からないマンガ的ご都合主義ですよね。 で、頭が吹き飛んでしまって、水没していくゴジラに、作戦に参加した元帝国海軍士官だった復員兵たちが最敬礼するシーンを、結構、長々と入れたのはどういう意図だったのでしょうね。 南方の戦場で無念の戦死で亡くなった日本兵の荒魂(あらみたま)の化身とかいうゴジラ論も読んだことがあるような気がしますが、復員兵たちの「オレたちが日本を守る!」というセリフには、ドン引きのゴジラ老人でした(笑)。 吉岡君に「一人の死者も出さない駆除作戦!」 と叫ばせはするのですが、日本とか、日の丸とか、なんとなくクローズアップされる筋立てと、自衛隊が登場する以前の、戦後社会の描き方に、ちょっと違和感の残るストーリーでした。 しかし、まあ、お堅い話はさておき、ゴジラのあの足音! あの咆哮! で締めたラスト・シーンには拍手!拍手!でした。ゴジラは永遠に不滅!でした(笑)。監督・脚本 山崎貴撮影 柴崎幸三照明 上田なりゆき録音 竹内久史特機 奥田悟音響効果 井上奈津子VFX 山崎貴編集 宮島竜治音楽 佐藤直紀キャスト神木隆之介(敷島浩一)浜辺美波(大石典子)山田裕貴(水島四郎)青木崇高(橘宗作)吉岡秀隆(野田健治)安藤サクラ(太田澄子)佐々木蔵之介(秋津清治)2023年・125分・G・日本配給 東宝2023・11・14・no139・109シネマズハット35!
2023.11.16
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「焼き物の砥部の山の中です!」 徘徊日記 2023年11月12日(日)松山あたり さて、今回の松山徘徊、目的地はこの美しい噴水池でした。松山市から少し南の山沿いにある砥部という焼き物の里の、もう少し奥にある結婚式場ですね。 10年ほど昔、勤めていた高校の図書館で出逢った、当時、高校生だった、だから、今は青年の一人が「11月12日に松山で結婚式をするけど来ない?」 と声をかけてくれてやってきたわけです。 というわけで、到着した11日の夜は、まあ、このブログではおなじみの肴薫というお店で、彼の同級生だった青年たちと合流し、それから、新郎・新婦までお呼びしての宴会でした。 ちょっとはしゃぎすぎたようですが、青年たちのお世話になりながらお泊りしたのがこのホテルです。 久しぶりに式服なんぞというものに身を包み、食べるだけ食べ、飲むだけ飲み、笑いすぎをたしなめられるほどに楽しかった式も終わって、マイクロバスに送っていただいて、帰ってきた大街道です。 一泊二日、同行、同宿で、いろいろ世話を焼いてくれた青年たちは松山空港から飛行機とかで、東京とかへ帰ってしまって、いきなり寂しいだけの徘徊老人にもどって、大街道から銀天街とかをウロウロしながら、やってきたのが松山市駅です。伊予鉄の発着駅で、チンチン電車や市バスの駅ですあ、ここには高速バスのターミナルもあります。 ベンチとか、待合室とか、まあ、いろいろあるのですが、結婚式帰りの徘徊老人は道端に座り込んで電車を眺めながら、17歳で出逢った、担任でも、クラブの顧問でもない図書館の老人を10年もたっているにもかかわらず、彼が出会ったセンセー代表のように呼んでくれた青年夫婦と、相変わらず楽しく世話を焼いてくれた青年たちの、なんともいえない暖かい気持ちを思い浮かべながら煙草をふかし、チンチン電車の写真を撮ったのでした(笑)。 青年たちの一人が、お別れの握手をしながらいってくれた言葉が浮かんできます。「今度、東京で式を挙げるんですが、来てくれますか?」「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、行く、行く、もちろん行くよ(笑)」 まあ、東京徘徊が実現するかどうかはわかりませんが、うれしい別れの言葉、楽しい松山徘徊でした。 帰りの高速バスは、徳島道で事故だとかいうことで、高松道に迂回しました。所要時間に大差はありません。折角ですから、新しい休憩地、高松のどこかのサービスエリアで讃岐うどんを買いました。 今回の徘徊のお土産は、松山銘菓「山田屋饅頭」と讃岐うどん、それから、さかなクンが焼き立てを買ってくれていた松山のパン(お店の名前がわかりません)でした。ボタン押してね!
2023.11.15
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池澤夏樹「十六段の階段」(大岡昇平全集6・月報5・筑摩書房) 作家の池澤夏樹が「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)の中で、大岡昇平の「事件」という作品について紹介しています。 その紹介をめぐっては、別に案内しようともくろんでいますが、その目論見のために「事件」が所収されている「大岡昇平全集6」(筑摩書房)を引っ張り出してきて見つけたのがこの「十六段の階段」というエッセイでした。読み直してみると、面白いので案内しておこうと思いつきました。 今回は、本文を写すのではなくて、写真を載せてみようと思います。 いかがでしょうか。引用とは関係ありませんが、今回、久しぶりに大岡昇平全集とか引っ張り出して思い出したことをちょっと書きます。 ボクの、大岡昇平びいきが始まったのは浪人暮らしの1年間を過ごした19歳くらいからですが、大岡昇平全集というのは、1988年の大岡昇平の死後出版された決定版全集で、手元にある第6巻は1995年の初版です。価格は8200円、別巻の対談集を数えれば全24巻です。1995年というのは神戸の地震の年で、ボク自身は40歳を過ぎていて、すでに4人の子どもがいる家庭を営んでいたわけです。その中で1冊8200円の全集を、新刊で揃えたわけですから、まあ、よっぽど好きだったんですね。ちなみに、長男の名前には、彼の名前をそのままいただいています(笑)。 それから30年近くたつわけですが、箱装の箱だけではなく、中身もタバコのヤニで黄ばみかけていますが、読んだ形跡はほとんどありません。作家の生前、単行本で出された本は必ず購入して読んだわけですから、全集を買ったりしたのは読むためではなかったのでしょうね。「欲しい!」 ただ、それだけの気持ちで買い込んだとしか思えません。どうするのでしょうね(笑)。
2023.11.14
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「高速舞子バス乗り場です!」 徘徊日記 2023年11月11日(土)徳島道あたり 今日は2023年11月11日(土曜日)です。朝から高速バス舞子停留所にやってきています。二月ぶりの松山行きですが、今回は高速バスです。 お天気は曇りです。風が少し冷たいですね。六角堂が明石大橋の橋脚の下に見えています。いつものことながら、写真が下手です(笑)。 明石大橋のたもとのバス停に登る長いエスカレーターです。この下でタバコを吸っていて外人さんに叱られたことがあります。マジというか、本気だったので、ちょっとビビりました。誰もいないのに、なんでタバコを吸ったらいけないのか、よくわかりませんでした。 このバス停まで登って来るのは久しぶりなので、うれしくてトンネルの方の写真を撮りました。このトンネルの上に、昔の職場とかあることを考えると不思議です。 バスは、定刻通りやって来て、出発です。松山まで4時間くらいバスに乗りっぱなしですが、途中、淡路島と、徳島道の吉野川のサービスエリア休憩があります。 吉野川のサービスエリアから見える吉野川です。 乗ってきたJRバスです。三列シートで、カーテンで回りを覆うことができる座席です。トイレもついています。 到着しました。松山です。大街道の西の入口あたりにいるタヌキくんです。今年の9月に見つけてから気に入っています。 今日は、ホテルにチェックインして、夜は飲み会です。で、明日は?ですね。続きがあります。また覗いてくださいね。じゃあ、これで。ボタン押してね!
2023.11.13
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小野智美編「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫) どこで知ったのかよく覚えていませんが、注文して届いた本をその場で広げて、読み始めて,絶句しました。落ち着いて読めば、2時間もあれば読み終えることができる内容ですが、なかなかそうはいきませんでした。小野智美編集「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫)です。 2012年、東北の震災の翌年だされた本です。ページを開くと目次の次のページにこんな言葉が載っています。 東日本大震災の後、女川町の女川第一中学校の全生徒約200人が俳句を作った。2011年5月と11月に行われた2回の授業。津波で家族を、家を、故郷の景色を失った生徒たちが、季語にこだわらず、五七五に心の内を織り込んだ。時と共に深まる思いをたどる。 小野智美という女性記者が、俳句を作った中学生一人一人と会って取材し、朝日新聞の宮城版に連載された記事を書籍化した本です。 ページを繰ると俳句のページがはじまります。○○○○さん(3年生)グランドに 光り輝く 笑顔と絆(5月) 3年生の友里さんが津波から2カ月後の5月の授業で詠んだ。被災の現実を感じさせない。学校ではソフトボール部の主将だ。「中総体に向けて燃えていた時なので」と笑いながら言った。 大会を終えた11月、こう書いた。空の上 見てくれたかな 中総体 あの日、友里さんは、山の上の中学校にいた。地震の後、高校から下校途中の姉が中学校に来た。やがて母も駆けつけてくれた。「お姉ちゃんと一緒にいなさいよ」。母は、山の下の自宅へ祖母を迎えに行った。それが最後の言葉ととなった。 あの日に限って朝、『行ってきます』を言わなかった。7月、葬儀を行った。父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。母と祖母に今ひと言だけ伝えられるなら、何を? そう問うと、笑顔をつくりながら、声にならない声で答えてくれた。その言葉は、11月に書いた句の中にある。今伝える 今まで本当に ありがとう(11月) いかがでしょうか、ボクが絶句したのは、例えばこの記事だと、父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。 というあたりです。7月になっても、友里さんのおかあさんとおばあちゃんは見つからなかったんですね。葬儀の場で声をあげて泣いている少女の姿が浮かびます。 そこから、ありがとうまでを思うと、ページを繰る手は止まってしまうのでした。 まあ、こういう俳句と、それを紹介する記事をまとめた本です。出版されて10年たって、ようやく読み終えましたが、ここに出てくる、この中学生たちはどうしているのだろう?、そんな気持ちになる本でした。乞う、ご一読ですね(笑)。 参考までに目次と著者のプロフィールを貼っておきます。[目次]はしがき003(生徒たち22名の句の紹介)*当サイトではお名前をふせています俳句で鍛え上げられた言葉083佐藤敏郎教諭「十五の心 国語科つぶやき通信」089大内俊吾校長の式辞093阿部航児さんの答辞103付記世界を駆けめぐった108最後の教材「レモン哀歌」116父と娘の15カ月1222度目の春 共振共鳴した日々を刻む135すべては五七五の中に 佐藤敏郎149編者あとがき小野智美(オノサトミ)朝日新聞記者。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から仙台総局。宮城県女川町などを担当
2023.11.12
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セルゲイ・ロズニツァ「破壊の自然史 戦争と正義Ⅰ」元町映画館 元町映画館がやっているセルゲイ・ロズニツァ特集、題して「戦争と正義Ⅰ・Ⅱ」、「破壊の自然史」と「キエフ裁判」を、Ⅱ,Ⅰの順番で続けてみました。堪えましたが、今回は「破壊の自然史」の感想です。 この「破壊の自然史」は、いわゆるロズニツァ流アーカイヴァル・ドキュメンタリーの手法で作られているドキュメンタリー映画でしたが、今までに見てきた彼の作品とは、「これは、ちょっと?」 と感じる、すこし違った手法が取り入れられていて唸りました。 ナレーションによる解説、あるいは、地名、歴史的時間を表示する字幕が、一切ないのがロズニツァ流です。彼が扱う映像は、撮影主体が誰なのか、ひょっとしたらどこかに表示されているのかもしれませんが、ボクのような観客にはわかりませんが、その時代、その事件を何者かが撮影し、「記録」として保管されてきた白黒で、おそらく無音のフィルムです。 その、音のないフィルムに映し出されている登場人物、例えば演説する人間や叫ぶ人、裁判であれば弁明する被告や木槌を打つ裁判官、ざわめく聴衆、戦争シーンであれば爆音や爆発音が、単なる効果音としてではなく、あたかも「歴史的事実」を描いていくため加えられていくというのがロズニツァの手法です。 当然ですが、そこには制作者による「映画的作為」が働いていて、表現の意図が込められているはずです。それは、ここまでに見てきた「粛清裁判」や「国葬」という作品を見ていて気付いたことでしたが、この作品では、新たに「色」が使われていました。ボクが「これは?」と思ったのはそこでした。 映画の途中から、カラー映像が使用されるのです。それだけなら気づかないのですが、冒頭のシーンで空に浮かぶ雲のシーンが出てくるのですが、後半に差し掛かったころ、そのシーンがもう一度出てきます。で、二度目には色が付いているのです。これは意図的ですね。しかし、その意図がボクには分からないのです。 この映画では第二次大戦末期の英独双方による空襲戦・空爆戦のありさまが繰り返し映し出されています。闇の中から浮かび上がるように襲われる都市の街灯りが映り、次々と落下していく爆弾の影、爆音、閃光、見ていて、何が起こっているのか分からないシーンが続き、瓦礫の山、横たえられた死体、そこを無言で通り過ぎる人々の姿、そういう悪い夢でも見ているようなシーンが重ねられていくのです。連合国による、ベルリン、ドレスデンに対する対ドイツ無差別爆撃だけではなく、ナチスによる対ロンドン空襲のシーンも出てきます。 しかし、まあ、ヨーロッパに限りませんが、明らかなランド・マークでもあれば別ですが、ヨーロッパの都市を上空からの暗い映像や、瓦礫の街並みの写真ではとても見分けられないボクには、それぞれの街が、いったいどこであるのかは、被災地を視察するのがチャーチルであったり、ナチスの将校ゲーリングであることでしかわかりません。 イギリスの将軍、たぶん、モンゴメリー元帥が爆弾工場を慰問して演説したり、なんと、あの、フルトヴェングラーが、多分、兵器工場でワグナーを指揮している、音楽付き映像があったりしますが、そういう、ボクでも知っている特徴的な人物が出てくれば、そこがどこなのかわかるのですが、映像がどんどん重ねられていくと、路上に並べられている死体がどちらの国の国民のものなのかはわかりません。その混乱のなかで、フト「破壊の自然史」という題名が浮かんできたのです。この編集の仕方にこそ、制作者、ロズニツァの意図が込められている違いありません。 そんなふうに、少し落ち着きを取り戻してみていると、カメラが廃墟の街に残った塔を映し出し、その先端に天使の像が現れるのを見てエッ?と思いました。ヴェンダースです。「ここは、ベルリン?」 何だか、突如の訝しさのまま、実はボンヤリしながら、映像に色が付き始めたことに気づきました。別に、映されていることが平和的に変わったわけではありません。相変わらず大量生産されていく爆弾が、今度はカラーになっただけです。瓦礫の山の向うの空が青空になっただけです。 ボクは、この作品を見終えてから1週間たった今、この映画のラストシーンを思い出すことができませんが、空中を落ちていく無数の爆弾が、あたかも水に落ちた石のように、微妙にカーブしながら落ちていく様子を上からとったシーンが繰り返し思い浮かぶばかりです。地上には人間がいるのですが、映画に降臨した天使はどこに行ったのでしょう。 見終えた会場で、渋谷哲也というドイツ映画の研究者のレクチャーを聴きました。ゼーバルトというドイツの作家の「空襲と文学」(白水社・ゼーバルトコレクション)という作品への応答としてこの作品を見るという、なかなか、刺激的なお話だったと思いますが、レクチャーの中で、ヴェンダース映画との関連も出てきたのですが、天使の行方については聴き洩らしたようです。 まあ、それにしても、ロズニツァの映画は疲れますね。今回は「戦争と正義」という組み合わせでしたが、「国家と正義」、「民族と正義」、「宗教と正義」、個人的には「教育と正義」あたりも浮かびますが、「正義」が問い直されるべき時代 そういう時代がすでに到来していることを、ロズニツァは叫び続けているとボクは思います。誰か、後に続く人つづく人を期待しますが、かなり無理そうですね。 まあ、ボクには、とりあえず、ゼーバルト再読が課題の作品でした。イヤ、それにしても、2本続けてロズニツァは草臥れますね(笑)。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 レギーナ・ブヘーリ グンナル・デディオ ウリヤナ・キム セルゲイ・ロズニツァ マリア・シュストバ編集 ダニエリュス・コカナウスキス2022年・105分・ドイツ・オランダ・リトアニア合作原題「The Natural History of Destruction」2023・11・04・no136・元町映画館no212!
2023.11.11
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四元康祐「日本語の虜囚」(思潮社) 洗面鏡の前のコギト 四元康祐眼を開けて鏡のなかの自分を見る眼を閉じてその自分を闇に流そう(マバタキは 慌しくも無言の舞台の暗転息殺す黒子らの汗の臭いよ)眼を開けると 自分はまだそこにいてだがその自分がさっき見たあの自分だという保証はあるのかしらん(あれはあれ これはこれただひたすらに流れるだけの3Dハイヴィジョン)どれだけ覗きこんでも睨みつけても笑いかけても眼は口どころか手ほどにも物を言わんねまるで塀の節穴の向うからきょろきょろとこっちを見ている赤の他人の目玉のよう沐浴するスザンナ もう何世紀にもわたって物陰に屈みこんでその裸身を視姦している二人組の老人たちお尻ふりふり逃げだす対象を視線はしつこく追いかけて景色はめくるめくメリーゴーラウンド意識は続くよどこまでも君はどっちだ 見る人それとも見られる人?目の前に我が手をかざして振ってみる(仰向けのザムザの視野の辺境で これが俺かよコガネムシ風にたなびく脚脚脚脚脚脚・・・・・)可哀相なグレゴール 部屋には鏡ひとつなかったのかねカフカが Die Verwandlung(変身)を書いていたちょうどそのころリルケはWendung(転向)という詩を書いたおなじプラハ生まれのふたりは題名同士の語根も同じ「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい・・・・・・内部の男よ 見るがいい お前の内部の少女を」ってリルケは言うけどどんなに眼を閉じたって内部なんか見えるもんか瞼の裏でも目玉親爺は直立不動 律儀に寝ずの番をしているからね夢現を問わず形なし色めくものを片っ端から指差してはあの甲高い声でものの名前を喚き続けるおかげで鬼太郎の大きすぎる頭のなかには名辞の卒塔婆がぎっしりだ虚空に浮かぶ閉鎖系としてのソラマメひと粒からだは殻だ からだは空だ(闇に薔薇 籠に虫の音 胸にひと・・・・・・我は悲しき卓上ビーマー)眼の穴 鼻の穴 耳の穴 そして皮膚のぽつぽつそこから奔流する感覚のことごとくをデカルトは虚空として退けたすえに「そう考えているこのわたし」がそこに存在することだけは揺るがしがたい真理として認めるに至ったがその瞬間の〈わたし〉に自画像を描かせたとしたら一体どんな姿が現れただろう彼は幾何学が好きだったそうだから単純明快な三角形でも描いてみせただろうかだが光学を研究し光の屈折や虹の論文まで書いている人にその頂点近くに丸い孔を描きこむ誘惑に抗うことができたかどうか?丸窓に額押し付けたままなすすべもなく冷たい炎に包まれてゆくアストロボーイラグビーボールひとつ小脇に抱えていろは坂駆け下りる首なし男の気楽な足取り操る者と操られる者の凭れ合い癒着の構造もの言わざれば腹膨るるというその腹をば切り裂いて覗いてみたいな未だ発せられざる言語なるものあえいうえあお「浮かべる脂の如くして水母なる漂へる」粥状なりしややゆぇいゆゆぇやよどこから湧いてくるのかわうぇうぃううぇうぁうぉ文字は干からびきった言葉の吐瀉物そこに己の唾を垂らしてオートミールのごとく素手で掻き混ぜ舌の先ぴんと尖らせて「こをろこをろに掻き鳴ら」す物書く人の姿こそおぞましけれ反吐が出そう「我思う」とは「我言語する」、いやもっと正確に訳すなら「我推敲す、故に我あり空高く我が脳髄を蹴り上げたまえこちら、カモメ」やまとうたは、人のこころをたねとして、よろずのことのはとぞなれりけるって貫之くんは言ったんだ、ならば言葉の蔓をザイルに縒って意識の深層へ降りてゆこうか か、 か、 かるた、たいよう、 うみ、 みる、 る、 る、 るーびっくきゅーぶ、 ぶんしこうぞううぞうむぞう、うくれれれもんみかんぽんかんちかんはあかん?歯ブラシ片手に鏡の前でぽっかり口を開ければ地獄岳暖簾くぐって喉ちんこ ちぎれて揺れる蜘蛛の糸その先どろりと澱む生あったかい闇の奥から立ち昇るのは匂えど無色響けど透明 あれぞ言霊?いいえ、あれはポエムのシャボン玉 星影に誑かされて宇宙を目指し脳天に当たって砕けて消えた 現代詩なんて、長いこと読んだことがなかったのですが、だから、四元康祐なんて言う詩人の名前も知りませんでした。知ったのは池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)に載せられている2011年11月15日の読書日記「デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐」(池澤本P395) によってです。 池澤夏樹はこんなふうに紹介しています。×月×日 まいったな、と詩集を手に座り込む。いや、四元康祐の「日本語の虜囚」(思潮社)のことだ。テーマは日本語の歴史、主人公は日本語そのもの、比喩はすべて性交がらみ、 やったわな、やったわな、 大陸渡来の帰化人と 稲作欲しさにやったわな 仏像抱えた鑑真と 漢字貰ってやったわな って、この卑俗きわまる七五調が効き過ぎて痛いほど。 やったわな、やったわな どんな客とも寝てしまう 軽業並みの膠着語 融通無碍のてにをはは アメノウズメの陰部(ほと)の紐 なでしこジャパンの処女性は 万世一系不滅です」これだけのところに注を付ければ何十行になるだろう。こういう圧倒的表現の技術を詩というのだ。 いかがでしょうか、池澤本に引用されているのは「旅物語 日本語の娘」という詩の一節です。下に詩集の目次を写しました。参考にしていただければと思いますが、後ろの数字は所収ページです。一つ、一つの作品が、結構、長くて読みでがあります。若いのかと思っていたら、ボクが知らなかっただけで詩人は1959年生まれで、まあ、もう、お若いというお歳ではありません。長くミュンヘンに暮らした人のようです。詩は日本語で発表されているらしく、思潮社の現代詩文庫179に「四元康祐詩集」があります。いずれ読むことになりそうです。目次日本語の虜囚 009洗面鏡の前のコギト 017多言語話者のカント 025歌物語 他人の言葉 035旅物語 日本語の娘 045島への道順 063マダガスカル紀行 069新伊呂波歌 079ことばうた 109こえのぬけがら 113うたのなか 117 われはあわ 121うみへのららばい 125みずのれくいえむ 129虚無の歌 133日本語の虜囚―あとがきに代えて140
2023.11.10
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クリスチャン・カリオン「パリタクシー」パルシネマ パルシネマのタクシー映画二本立ての二本目でした。もう1本がジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」で、それを見たあとに続けてみたものですから、なんとなく「つづき」というか、もう1本、パリを舞台にしたジャームッシュを見ているような、変な気分で見始めました。 何というか、見終えての比較でいえば、ジャームッシュの才気あふれる作品に並べられると、カリオンという監督が、いかにも素直というか、素朴なのですが、チョット見劣りする気がしました。しかし、才気や新しさは感じませんでしたが、とても後味のいい作品でした。一人ぼっちの老婦人とうだつの上がらない中年男の出会いと別れのお話でしたが、かなり好感を持ちました。 90歳をこえた一人暮らしのマドレーヌさん(リーヌ・ルノー)が、いよいよ一人暮らしをあきらめなければならない境遇になって、老人介護施設にお引っ越しという、その日、タクシーを呼びます。呼ばれてやって来たタクシーの運っちゃんシャルル(ダニー・ブーン)は、金欠と免停、ついでに家庭の危機のなかで、イライラの絶頂です。不機嫌な老婦人と、これまた、不機嫌な中年男との出合いで始まる映画でした。 まあ、どうなることか? で始めて、メデタシ!メデタシ! で終わる定型なのですが、結局、このお二人、リーヌ・ルノーという人も、ダニー・ブーンという人もフランスでは誰でも知っている歌い手さんとコメディアンらしいのですが、このお二人の雰囲気がいいのですね。とてもいい後味で見終えました。 90年という、波乱万丈とはいえ、堂々たるとはいえ、始まりから今日まで、文字通り孤独な人生を、文字通り一人で歩いてきた女性が、しがないタクシー運転手に心を開く機微が、パリ名所見物というべき風景を時間旅行の様に通り抜けながら、他人同士が背を向けて座っている狭い車内で、視線の演技として繰り広げられていく二人芝居でした。 人が人と出会うことの暖かさを、素直に描いていて、お二人に拍手!でした。 まあ、好き好きですが、こういう話、ボクは好きですね(笑)。監督 クリスチャン・カリオン脚本 シリル・ジェリー クリスチャン・カリオン撮影 ピエール・コットロー編集 ロイック・ラレマン音楽 フィリップ・ロンビキャストリーヌ・ルノー(マドレーヌ)ダニー・ブーン(シャルル)アリス・イザーズジェレミー・ラユルトグウェンドリーヌ・アモン2022年・91分・G・フランス原題「Une belle course」2023・11・07・no138・パルシネマno71!
2023.11.09
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ジム・ジャームッシュ「ナイト・オン・ザ・プラネット」パルシネマ パルシネマのタクシー映画二本立ての1本目はジム・ジャームッシュ監督の1991年の作品で「ナイト・オン・ザ・プラネット」でした。数年前にシネ・リーブルの特集で見て感想を書きました。今回、自分の書いた、その時の感想を読み直しましたがアホなことをやっていますね。というわけ、今回のお目当ては二本目の「パリタクシー」なのですが、せっかくなので、両方見ようとやって来ました。 映画館の前のポスターを見ていて、「なんか変だな?」と思いました。上のポスターですが、ハンドルのところに写っているのが運転手のコーキー役のウィノナ・ライダーなのですが、イメージと違って妙に老けて写っていて、往年の松岡きっこさんとかいうタレントさんのように見えたことにひっかかったんです。「こんな顔やったかなあ?」 と、しげしげと見入っていて、後ろの座席に座っている女性が、ジーナ・ローランズだと気付いてびっくりしました。実際のポースターもぼやけている野にです。昨年から、カサヴェテス映画の彼女を繰り返し見たせいですね。「へぇー、ジーナ・ローランズが出てたんや!」 で終わりでしたけど、こうやって映画館をウロウロしてると、ボクでもそういうことに気づくようになるんですね(笑)。 で、ウィノナ・ライダーの方は、映画を見ながら再確認しました。「な、やっぱり、もっと若いやんな。まあ、それにしてもようタバコ吸うなあ。」 ロサンゼルスからヘルシンキまで、それぞれ、バカバカしいっちゃあバカバカしいのですが、おもしろいですねえ。それにしても、ローマのジーノ君、あんなところに、神父さん、ほっぽらかしてしまって大丈夫なのですかね(笑)。いや、ホント、ようやるわ! ですね(笑)。それにしても、もう、30年以上も昔の映画なのですね。そのことが、一番不思議な気がしますね。いや、ホント。(笑)監督・脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 フレデリック・エルムス編集 ジェイ・ラビノウィッツ音楽 トム・ウェイツキャストロサンゼルスウィノナ・ライダー(運転手コーキー)ジーナ・ローランズ(ヴィクトリア)ニューヨークアーミン・ミューラー=スタール(運転手ヘルムート・グロッケンバーガー)ジャンカルロ・エスポジート(ヨーヨー)ロージー・ペレス(アンジェラ)パリイザック・ド・バンコレ(運転手)ベアトリス・ダル(盲目の女性)ローマロベルト・ベニーニ(運転手ジーノ)パオロ・ボナチェリ(神父)ヘルシンキマッティ・ペロンパー(運転手ミカ)カリ・ヴァーナネン(客)サカリ・クオスマネン(客)トミ・サルミラジャンカルロ・エスポジート(客アキ)1991年・129分・アメリカ原題「Night on Earth」2023・11・07・no137・パルシネマno70!
2023.11.08
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照井翠「龍宮」(コールサック社) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)という書評集に教えられた1冊です。まあ、そうは言うものの、実はかなり以前から照井翠という方の「龍宮」という句集が存在し、次のような句が読まれていることは、何というか、風の便りで知っていました。喪へばうしなふほどに降る雪よ春の星こんなに人が死んだのかなぜ生きるこれだけ神に叱られて寒昴たれも誰かのただひとり いかがですか。下にも、もう少し引用しましたが、これらの句を紹介しながら、池澤夏樹はこの句集との出会いをこういいます。感情を揺すぶられてどうしようもなくなった。人はたった十七文字を前にして取り乱すこともあるのだと知った。(P207) ボクはボクで、そういう句集があると知りながら、なんとなく遠ざけていたのは、こんな句があることを知っていたからかもしれません。毛布被り孤島となりて泣きにけり もう、ボンヤリした記憶なのですが、1995年の神戸の、どこかの体育館で見たことのある光景だと思いました。アスファルトが陥没して地下鉄の線路が見えていたり、町全体が傾いていたり、石の鳥居が真ん中でおれていたりした光景が一緒に浮かんできて、なんとなく、しんどいなと思ったんですね。 でも、池澤夏樹の解説というか紹介を読みながら、まあ、そうはいっても読んでみるかとなったわけです。 文学に携わる者として、あのような出来事を文学はどうやって作品化するのかずっと考えてきた。自分も含めてたくさんの文学者が三・一一と格闘している。恐怖と戦慄・激情・喪失感、はたまた時を経た後でもまだ残る喪失感と悲哀の思いは文字にできるのか。協調の副詞ばかりをハデに立てても遠くの者には伝わらない。余る思いを容れるにはしかるべき器が要る。 それが、この人の場合は俳句だった。 ボクが手に入れたのは照井翠 句集 新装版「龍宮」(コールサック社)という文庫版で、2021年に出版された本です。池澤が紹介しているのは2012年の角川書店版のはずです。で、角川版にも載せられている、照井翠自身の「あとがき」に、こんな一節がありました。 てらてら光る津波泥や潮の腐乱臭。近所の知人の家の二階に車や舟が刺さっている、消防自動車が二台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる、赤ん坊の写真が泥に張り付いている、身長の三倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。その泥塗れの玉葱を拾う。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。 戦争よりひどいと呟きながら歩き廻る老人。排水溝など様々な溝や穴から亡骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形をとどめていない亡骸。これは夢なのか?この世に神はいないのか?(P249~250) 照井翠自身が釜石で被災し、三日目の話です。句集にはその体験を彷彿とさせる句が並んでいます。池澤夏樹が「どうしようおなくなった」作品群です。 ボクは、ボクで、湧き上がってくるなんともいえないなにかと格闘する羽目になりました。某所に座り込みながら、文庫本の句集相手に涙をこらえるなんて、まあ、チョット想像できない事態です。冥途にて咲け泥中のしら梅よ脈うたぬ乳房を赤子含みをり双子なら同じ死顔桃の花卒業す泉下にはいと返事してひとりまたひとり加わる卒業歌初蛍やうやく逢ひに来てくれた灯を消して魂わだつみへ帰しけり柿ばかり灯れる村となりにけり廃校の校歌に海を讃えけり節分や生きて息濃き鬼の面半眼に雛を並べゆく狂女虹忽とうねり龍宮行きの舟朝の虹さうやつてまたゐなくなる 被災から、ほぼ1年半の間に詠まれた二百句ほどの句が載せられています。ある種の直接性というか、いきなり突き刺さってくるなにかを、何とか受け止めようと踏ん張りながらの読書(?)ですね。詠んでいるご本人も大変だったでしょうね。 ちなみに文庫版には、池澤夏樹の「いつだって・・・」の全文と、「照井さんは今、俳句によってかろうじて人間界とつながっているが、もはや鯛やヒラメは寄せ付けない、一匹の龍なのだ。」 と結んでいる玄侑宗久の解説も載っています。
2023.11.07
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セルゲイ・ロズニツァ「キエフ裁判 戦争と正義Ⅱ」元町映画館 歴史資料のフィルムを編集し、ソビエト・ロシアやウクライナの社会の歴史的事件の「実相」を描くドキュメンタリーを、立て続けに発表しているセルゲイ・ロズニツァという監督の新作「破壊の自然史」と「キエフ裁判」の2作が「戦争と正義Ⅰ・Ⅱ」と銘打ってセットで上映されています。もちろん、元町映画館です。 三連休の中日の11月4日の土曜日が初日でした。2週間の上映期間があるようですし、連休中で、人も多そうですから、まあ、昼過ぎ上映になる来・来週を待つのがいつものシマクマ君ですが、ロズニツァの新作というだけで、なんだか気が焦って、朝一番、10時開映4日に出かけました。先週、1週限定上映の「竜二」を見損じたこともあってでしょうね、とても、月曜まで待ちきれない気分でした。 1本目が「戦争と正義Ⅱ」、「キエフ裁判」でした。1946年、現在はウクライナ共和国の町ですが、当時はソビエト連邦の町だったキエフで行われたナチスの戦争犯罪者たちの裁判のドキュメンタリーでした。 ロズニツァのドキュメンタリーには、所謂ナレーションがありません。場所とか時間を指示する字幕も、ほぼ、ありません。現在の世相の真反対の、実にわかりにくい映像です。「あんたが見てどう思うかやで!」 まあ、そういう啖呵を切られているえいがですから、見る側も、それ相当の覚悟がいりますが、それがたまらなくいい! という感じ方もある訳です。 映像はモノクロで、所謂、人民裁判の光景が延々と続きます。裁判ですから罪状認否に始まり、証人喚問、被告の弁明まで延々とありますが、一方で、吊し上げ的糾弾会でもあることに対して、おそらくロズニツァは意識的です。 「粛清裁判」という、以前見た、ロズニツァの作品でソビエトロシアの裁判のドキュメンタリーと、ほぼ、同型の構成です。 映画は、キエフを占領していたナチスの軍人、まだ少年兵といっていい若い兵士もいますが、彼らが占領地の住民に対してやった所業が、一般に知られている絶滅収容所でのホロコーストにとどまらない、まあ、耳と目を疑うような「悪」であり、それに対して、告発する民衆の、素朴な「善」が対比されているかのように、裁判が物語られているとボクには見えましたが、とどのつまりは10数人の絞首刑が見世物化され、その、ありさまを、おそらく千人を超える群衆が喝采しながら見物しているというシーンで幕を閉じます。 裁判の始まりから、絞首刑の終わりまで記録として残されていたらしい映像が、みごとに編集され、実に、ロズニツァらしいドキュメンタリー映画になっていました。セリフや民衆のざわめきを音として加えることで、歴史的実況中継として、ドラマ化されているところが、この監督の手法です。実に、うまいものです。 しかし、見終えて、ほとほと、疲れました。個人的は思い込みかもしれませんが、この作品がボクの胸中に呼び起こしたのは、直接的には、ロープに吊るされた死体を、断末魔の引きつり姿まで丹念に映像化した1946年当時のカメラマンの胸中にある「善」=「正義」、あるいは、実直な「服務」を支えていた「勤勉」に対する疑いでした。 確かにナチスによる想像を絶する所業は「悪」でしょう。しかし、この日、この場所で、彼ら一人一人を、この形で処刑することは、はたして「善」=「正義」でしょうか。 まあ、そういう、問いかけです。殺すな! そんな言葉も浮かんできました。奴は「???」だ、「???」は殺せ! 人間の歴史の中で繰り返し使われてきた論理です。日常的な法の中にあっても、まだ、この論理を越えることができない社会にわれわれは生きています。世界に目を向ければ、複数の戦争を、起こったことは仕方がない、それぞれに、それぞれの「正義」があるかのような、中立的客観性を装ったかのニュースが公共の名によって蔓延しています。殺すな!」ただちに「戦争行為」をやめよ! おそらく、それをいうためにロズニツァはこの映画を作ったと思いました。彼は、ナチは悪だけど、人民裁判は正義だというような楽観主義者ではありません。これは「殺すな!」を貫くための映画でした。まあ。それが、ボクの実感でした。 監督・脚本 セルゲイ・ロズニツァ編集 セルゲイ・ロズニツァ トマシュ・ボルスキ ダニエリュス・コカナウスキス2022年・106分・オランダ・ウクライナ合作原題「The Kiev Trial」2023・11・04・no135・元町映画館no211
2023.11.06
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池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社) 昔から、書評とかブックレビューいうのが好きだったんです。で、市民図書館の棚を見ていると、2019年の初版なのに、新入荷の棚に、デン!と座っていたのがこの本です。その分厚さと、何と言っても、この書名に惹かれました。 池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社) 今は、書評というのか、レビューというのか、まあ、よくわからないのですが、小説家の池澤夏樹が「私の読書日記」と題して2003年から2019年までの16年間、週刊文春という週刊誌に連載していた444冊の書評、本に関するコラムを1冊にまとめた本だそうです。 腰巻の広告というか、キャッチ・コピーによるとそういうことなのですが、実際に手に取ってページを繰り始めてみると、小説、エッセイはもちろんですが、歴史書、科学書、絵本から児童文学、写真集まで、ほぼ、700ページ、表題になっている本は、たしかに444冊なのでしょうが、1冊について、多ければ数冊の関連本を話題にして語っているわけで、平均すれば、1ページに1冊、ほぼ、700冊を超える書名がこの本の中には出てくるのです。すごいでしょ(笑)。で、どんなほん? まあ、まず、そう思いますよね。で、ネット上の紹介記事を見ていて気付いたのですが、あまりの多さに、どんな本の紹介、書評が書かれているのかわからないのです。目次も、多分、あまりの多さののせいでしょう、掲載されていません。困りますよね。 そこで、調子乗りのシマクマ君の出番です。目次を写して読書案内すればいいじゃないか。 というわけで、目次を写しはじめたのです。 こんな感じです。目次を読むだけでも大変です(笑)が、お付き合いいただけるでしょうか。目次 : はじめに2003年001 伊良子清白、星野道夫、絵本など002 海賊船の子供、複言語の時代2004年003 ヒトの手と歯、数学の天才、詩人たち004 ハイチとアフガニスタン、今の日本語005恋と歴史と日露戦争006 兵役とアルファベットと住所、映像の力007 移住者、クレオール、日本史への挑発008 生理レベルの快感、消費生活、網野史学009 医師と銃、ルポルタージュの水準010 科学者の感情、パルテノン、赤いキリスト011 アボリジニの歴史観、野生の旅路、技巧の短歌2005年012 理科年表、四色問題、コンクリート 013 武装解除の技術と二重国籍014 カナダの作家、イタリア御作家、狂牛病015 アメリカの先住民、カタコトの響き、知識人016 チェーホフの恋、画家たちの恋017 家庭新聞とカレーソーセージ、等質性018 戦争の伝説化、沖縄戦、渓流の風景019 大西洋、烈女の大活躍、ブレスレット020 戦後の雰囲気、戦後の思想、好きな建物021 常識転覆、ロンドン便り、架空飛行2006年022 ロリータ、神話朗読、脱神話の小説023 母語と敵語、性の地獄、楽天的024 地球を測る、父の肖像、スローフード025 映画のサイード、地中海、スナネズミ026 バラ再び、こども哲学、小説の文体027 ロシアの森、人体の設計、卓抜な比喩028 クマムシ、昆虫の脳、キノコ図鑑029 爆撃機の幽霊、かわいい猿、情報と調理030 速い小説、幕末と維新、悪口2007年031 現代建築、漂流、フランス人032 旅する思想、肩すかし、宇宙論033 老いた作家、南仏、アフリカの神034 椅子と椅子、それに民家035 作家の自画像、器械、味覚のことば036 アメリカ文明、モスラ、海の中の旅037 イラク、「すばる」、火星を走る038 ナイジェリアとアメリカ、牛を飼う、豆腐039 ビルマ、シベリアの記憶、声の詩集2008年040 樺太の旅、私小説、宗教と科学041 火星の日没、岩壁を登る、アニ眼042 美しい骨格、幼年期、深海生物043 詩を読む、弔辞を読む、宇宙エレベーター044 地学論争、ホビットはいたか、北の自然045 核の廃墟、Uボート、冒険島046 責任の所在、ロンドン、博学の人047 ヴェトナムのカメラマン、女性軍医の日記048 モノの質感、サンパウロ、老作家の怒り2009年049 金魚、言葉のセンス、変な博物館050 万民のための南極文学入門051 アップダイクと自戒、幸福と喪失、ポスト戦後052 戦争とスパイと少年、ジュールヴェルヌ、遠い土地053 ブルターニュの死者たち、綱渡り、旅するアフリカ054 環境世界、トニ・モリスン、明治の函館055 ブタを飼う、詩の束、哈爾賓056 遠距離家族、木の戦略、怪力乱神2010年057 数学の天才、偶然という罠058 正しい医学、怪しい医学、緩やかな時間059 アフガニスタンという鋳型、祖父母の怪談060 大胆な歴史小説、進化と生命、ミクロの世界061 砂漠の絵、粘菌の問題解決、再編集された『今昔』062 凍死した兵士たち、野菜また野菜、雲の行き来063 写真は語る、夫婦バトル、子供向けの詩064 クマがたくさん、作家の人望、数字の読み方065 我が妬み、アフリカへの旅、空襲とスズメ2011年066 フランスのコミック、山田風太郎、植物図鑑。067 ホッキョクグマ三代記、動物の行動、樹皮068 牧畜少年小説、箱を作った男069 チェス、中国系、キューバへ行こう070 メキシコの壁、ルーヴルの地下、変人たち071 浸水範囲、「降れ降れ」、江戸の自由人072 灯台の少女と動く灯台073 ペンキを塗られた鳥、普天間、沖縄074 原発、普天間、沖縄075 アラブの春、炭坑、パスタの歴史2012年076 詩人のダイヤグラム、雪のダイヤグラム、宇宙077 デザインの思想、地史の証拠、詩と死078 津波、座談の達人、昔話の達人079 今どきの歎異抄、キノコ、密室トリック080 ヤンキー、うまい短編、気持ちのよい詩081 死の詩、古典あそび、津波の後082 地球と人間の歴史、生物の歴史、東京駅083 デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐084 震災句、シェークスピアの秘密、数学の秘密2013年085 北方の自伝の傑作、建築の最前線 086 「原発事故報告書」、地震を学ぶ、黒い羊087 現代の人種論、おっさん、おっきらい088 イラク戦争、ユージン・スミス、ピンチョンの冒険089 永続敗戦、文士のブログ、担ぐな、ひねるな090 長崎の負の遺産、半藤史学と戦争の評価091 アサギマダラ、ベートーヴェン、原発のコスト092 巧緻の小説、ミツバチの家探し、動く彫刻 093 意地悪な小説、優しい小説、コンピューター史2014年094 サーフィン、星に住む生き物、オオカミ095 汚れた写真、空港共和国、歪んだ言葉096 老いと病と死、柳田と折口、偽フェルメール097 「いか問」、化学遺伝学の発想、新幹線098 子供向けの詩の響き、文学賞、ねずみ099 話の中の話の中の…、墓を開いて、アンソロジスト100 馬の乱入、夢の恋人、内耳のサイズ101 あり得ない美術館、悲惨な二十世紀史、イグ・ノーベル賞102 進化論の見取り図、亡命ロシア料理2015年103 ヒョウタン、日本列島と料理、古典と奇譚104 本当のアイヌ史、原発は「漏れる」105 建築のスペクトル、木造建築、アホウドリ106 戦艦大和、「ふりだした雪」107 日本人の由来、二重螺旋秘話、元気な元素たち108 薬害エイズ、電柱のない風景、映画の検閲109 アロハで田植え、我らが祖先、山上憶良の年収110 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ、灯台のレンズ111 クリスマスだから(変な)短編を読もう2016年112 贋作、見事なインタヴュー、佐藤春夫 113 日本沈没、死都日本、亡国論114 東北の叛乱、変なエッセー、変な小説115 英国の桜、日本語の謎、日本語の遊び116 軌道上の雲、地図とマップ117 三冊の詩集118 田中小実昌、ナダール、巨大数119 キノコ、物理と計算、昭和なことば120 贋作者の告白、読書の歴史2017年121 難民の現実、このモノはなに? 122 ウニとバッタ、飛ぶ小鳥、一遍さん123 文学のトリエステ、震災の短歌と俳句、地球の中124 移住先の料理、地名の由来、ネズミの月旅行125 和邇一族、イスラムの文化遺産、数学ゲーム126 今様、日本人奴隷、十六世紀のイギリス127 全歌集と索引、泰斗の随筆、祝詞と神道128 恩寵の物語、犬の物語、愉快な病理学2018年129 ミステリと建築、自転車二人乗り、スパイたちの老後130 バテレンと変形菌131 民族、伝統、久保田万太郎132 ネコの野生、声のすべて、動物たちの応用物理133 展覧会二つ、書評家の偉業、市場の古書店134 核と共生、数学と宇宙135 日本語を学ぶ、旧字体・正字体、アラブ音楽136 宇宙に行くべきか、独楽とモノレール2019年137 おばあと化学、深い穴、2001年138 丁々発止の対談、体熱の収支、御嶽とグスク139 かがく、縞模様、日本語、季語140 中国のSF、南極紀行、南洋の科学者人名索引 書名索引 はい、これが目次です。ここまで、画面を読みながらスクロールした方に拍手!ですね。繰り返しですが、全部で444冊の書評に、140章の表題をつけて600ページを越える1冊の本に編集してあるわけです。目次だけで9ページもあります。 ところがです、こうして目次を写しても(まあ、ここまで読んでいただいても)、やっぱり、どんな本が話題にされているのかわからないのです。こまりましたね・・・💦💦 さて、どうしましょうかね。 もちろん、シマクマ君も写しながら気づいて、バカバカしいからやめようかなとも思ったのですが、まあ、始めてしまったことだしという気分で写しました。 で、これからどうするか。 あのですね、目次の表示で色が変わっているところをクリックしてみてください。そうすると、もう少し詳しい記事がわかるようになっているかと思うのです。こう書いている2023年の11月5日には色が変わっているところはまだありません。そのうち変わると思いますが、完成するのがいつになるか、飽きずに続けられるか、ちょっと自信がありません。 まあ、とりあえず、池澤夏樹が20年近くかけた仕事です。ちょっと、というわけにはいかないでしょうが、付き合ってみようかな、という思い付きです。というわけで、一緒に遊んでいただけるとうれしいかなということですね。じゃあ、よろしくね(笑)。
2023.11.05
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マーティン・スコセッシ「キラーズ・オブ・ザ・フラワー・ムーン」109シネマズハット マーティン・スコセッシという監督は、1942年生まれで、今年、80歳だそうです。まだ30代だった1970年代に「ミーン・ストリート」(1973年)、「アリスの恋」(1974年)、「タクシー・ドライバー」(1976年)という3作で、但馬の田舎から神戸に出てきて、大学には入ったものの、することがなくてボーっとしていた20歳になったばかりの青年を映画狂いの落第生に変貌させた監督、まあ、複数いますがその一人です。 あれから、50年ほどたちました。スコセッシは80歳、映画狂いで身を持ち崩しそうだった青年は69歳、監督が映画の世界に連れてきて、今や、世界的大スターになった名優ロバート・デ・二―ロは79歳です。で、69歳の老人はあのころ目を瞠った二人が映画を撮ったというわけですから、見に行かないわけにはいきません。三連休の初日ですが、109ハットの朝一番のプログラム(まあ、10時45分でしたが)(笑)をものともせず出かけましたよ。マーティン・スコセッシ監督の3時間を超える大作(?)「キラーズ・オブ・ザ・フラワー・ムーン」です。 2人は5年前だったかに「アイリッシュマン」という、アル・パチーノとデ・ニーロの老優共演で、なかなか渋い作品が公開されましたが、今回はアル・パチーノではなくて、レオナルド・ディカプリオが主役で、大根デカプリオと芸達者ロバート・デ・ニーロの演技合戦でした。 ことに、デカプリオ君は、汚名返上の百面相演技ともいうべき、気合の入り方で、こういう演技のお好きな方には見逃せないシーン満載ですし、齢79歳とは、とても思えないデ・ニーロは、期待通り、正体不明のお芝居が炸裂しているデニーロでした。というわけで、206分という長尺映画、なんのその! といいたいところですが、ちょっと空振りでしたね(笑)。見ながら、普段は決して見ない腕時計の灯りをこっそりつけて、3度も見ました。 1920年代のアメリカ西部です。ゴールド・ラッシュとか、インディアンとの戦いとかいう話の時代から、100年ほどたっています。第1次世界大戦が終わった直後、新しく降って湧いたように起こったオイル・ダラー騒ぎのオクラホマが舞台でした。 大雑把に言えば、偶然、棲んでいた土地から石油が湧き出して、大金持ちになったネイティヴ・アメリカンたちをいかに毟るか! と陰謀をめぐらす白人男と、渦中にあって、陰謀にも加担しながら、どこまでも「善き人」でしかありえない、もう一人の白人男の戦い(?)でしたが、長い映画の終盤に至って、映画が語ってきた、一連の迷宮入り殺人事件の解明が、あの、悪名高いフーヴァーのFBIの誕生秘話のテレビ番組として語られるという、まあ、1920年という時代、歴史を背景にした入れ子型の物語だったことが明かされるわけですが、そういう映画の構成も登場人物たちの演技も、面白いといえば面白いのですが、古いといば古いわけで、ボクの頭にわいてきた感想はただ一言「ああ、スコセッシも年をとったなあ・・・・。」 でした(笑)。 映画がFBIの手柄噺の宣伝のための映像だったということは、さすがにわかりませんでしたが、デ・ニーロとデカプリオの出会いのシーンから始まる物語の結末に至るまで、プロット、プロットで、次に何が起こるのか、なんとなく予想できてしまうという不思議な展開でした。だから、ギョッとしてすくむというか、アッと驚きの声を上げるというかがないのですよね。善人を演じているデ・ニーロなんて、はなから信用しない目で見ているからかもしれません。ひょっとすると、デ・ニーロがそういう演技をしていたんじゃないかとも思ったりもしながらなわけですからそうなったのかもしれませんが。 「タクシー・ドライバー」でギョッとしたあの時から、50年ですね。ますます年の功を感じさせるデ・ニーロを見ながら、なんとなくあきたらなく思うのはないものネダリなのでしょうかね(笑)。 でも、まあ、デカプリオ君とデ・ニーロさんには拍手!ですね。マーティン・スコセッシ監督も、これでオシマイとかいわず撮り続けてほしい気持ちを込めて拍手!でした(笑)。監督 マーティン・スコセッシ原作 デビッド・グラン脚本 エリック・ロス マーティン・スコセッシ撮影 ロドリゴ・プリエト美術 ジャック・フィスク衣装 ジャクリーン・ウェスト編集 セルマ・スクーンメイカー音楽 ロビー・ロバートソンキャストレオナルド・ディカプリオ(アーネスト・バークハート)リリー・グラッドストーン(モーリー・カイル)ジェシー・プレモンス(トム・ホワイト)ロバート・デ・ニーロ(ウィリアム・“キング”・ヘイル)タントゥー・カーディナル(リジー)カーラ・ジェイド・マイヤーズ(アンナ)ジャネー・コリンズ(レタ)ジリアン・ディオン(ミニー)2023年・206分・PG12・アメリカ原題「Killers of the Flower Moon」2023・11・03-no134・109シネマズハット34!
2023.11.04
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「ケーキやったら、何個でもダイジョウブよ!」 ベランダだより 2023年11月3日(金)ベランダあたり 今日は2023年の11月3日、金曜日です。チッチキ夫人のお誕生日! です。 いくつになったのかは謎にしておきたいようですが、戌年です(笑)。 実は、写真のケーキは11月4日のケーキです。元町ケーキのザクロと、もう一つの名前は覚えられませんでした。「ケーキやったら、何個でもダイジョウブよ!」 まあ、そんなふうに豪語する方ですから、一日遅れを理由に、まずはご自分の分を平らげて、その後は‥‥。 今年も平和な11月3日でよかったですね(笑)。 ベランダでは唐辛子が、こんな風に赤くなって、かなり辛そうです。 で、ちょっと、ちょっと! と大騒ぎしてご自分でお撮りになったちょうちょもいました。お祝いに駆け付けたようです。 玄関先にはこんな花も咲いていました。 実は、もう散りかけいるのですが、ホトトギスです。 で、日は違うのですがヤサイクンが訪ねてくれました。ゆかいな仲間の皆さんは、あれこれお祝いを届けてくれていて、チッチキ夫人はご満悦ですが、ヤサイクンが贈ってくれたのはモンゴル800の絵本「琉球愛歌」と彼らの絵葉書でした。で、今までヤサイクンの愛称で登場してもらっていたのですが、今後は、まあ、彼の愛車トラキチ号にちなんで、トラキチクンと改名したいと思います。もちろん、ブログの上での話で、本人の与り知らぬことですが、読書の皆様には、よろしくお願いいたします。 これがトラキチ号です。なかなかかっこいいのですが、トラキチむき出しなところが笑えますね。 というわけで、チッチキ夫人のお誕生日、あれこれありましたが、プレゼントについてはまたのご報告ということですね(笑)。それではまたね。ボタン押してね!
2023.11.03
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クリスティアン・ムンジウ「ヨーロッパ新世紀」元町映画館 夜の7時から始まる「裸のランチ」を見ようというのが、この日の目論見だったのですが、それまでの時間をどうつぶそうか?という時間つぶしで見たのがこの作品でしたが、あえなくノック・アウトされてしまいました(笑)。 クリスティアン・ムンジウというルーマニアの監督の「ヨーロッパ新世紀」という映画です。見終えてウーンと唸りながらノック・ダウン!でした。繰り出されるパンチが凄かったですね。 原題は「R.M.N」というらしいのですが、日本では「MRI」と呼ばれている医療機器、音波だかで脳とか内臓とかの断層写真を撮る、あの機械のことですが、映画は「21世紀ヨーロッパ」の断層写真とでもいうべき構成です。 しかし、この映画が俊逸なのは、R.M.Nというローマ字が「ルーマニア」という、EUの中では、東ヨーロッパのはずれの田舎国家の頭文字になっていて、その中でもトランシルヴァニアという、ボクなんかは吸血鬼がらみでしか知らない地域がMRIで検査されているにもかかわらず、21世紀のヨーロッパ全体の、まあ、もう少し大げさに言えば世界全体の断層写真を提示していたと感じさせるところにあったと思いました。 父親がドイツの食肉処理工場に出稼ぎに行っていて、母と二人暮らしの少年が、学校の帰り道の山の中で「なにか」を見ておびえるシーンから映画は始まりました。「なににおびえたのだろう?」 上のチラシの少年です。名前はルディ、いい顔しているでしょう。 場所はあのトランシルヴァニアの森のなかです。少年が見たのは吸血鬼だったのでしょうかね? 映画の最後のシーンに、もう一度、画面が暗くてよくわかりませんでしたが、クマのような何かが出てきます。舞台になっているこの地域は野生のヒグマの生息数がヨーロッパでも有数の地域なのだそうです。映画の中にフランスから来た野生動物の保護活動をしている青年も出てきます。 ネタバレのようですが、この映画が差し出した難問は、最初と最後のシーンに「なにが出てきたのだろう?」 でした。これからご覧になる方で、ファーストシーンとラストシーンに「なにが出てきたのか」おわかりになったら、教えていただきたいぐらいのものです(笑)。 ここまで、いかにも意味不明の映画のような感想を書いていますが、にもかかわらず、じつは、すごい作品だと思いました。この作品は、グローバリズムに翻弄されている現代社会の負の局面を見事に映し出していると思いました。しかし、にもかかわらず、イヤだからこそでしょうね、見終えて、ぐったりします。 たとえば、この作品の字幕は3通りに色分けされています。配給会社ではなく、映画の編集上の工夫だと思いますが、映像の中ではルーマニア語、ハンガリー語、外国語(ドイツ・フランス・英語)の3通りの言葉による会話が飛び交うからです。 舞台はヨーロッパの田舎の町ですが、もともと、複数の母語を使用する多民族地域なのです。ことばが通じ合わない、だから、おそらく、日常的習慣や宗教意識、常識も異なっている他者の寄り集まりの社会なのです。その社会に、外国語である英語を使う新しい他者が流入してきます。アジアからの移民労働者です。すると、今まで、多様だったことが当たり前だったはずの住民たちの中に、不満なのか不安なのか、判然としませんが、何かがくすぶり始めます。 で、SNSという、いかにも火の廻りが早く、火の持ちのよさそうな導火線に火がつきます。人々の心の奥の火薬庫には、数え上げればきりがなさそうですが、「貧困」、「格差」、「地域主義」、「人種」、「家族制度」、「宗教意識」、(映画にはみんな出てきますよ)という不満と不安を掻き立てていたいらだちの種が山積みされています。どれに火がついても社会全体の崩壊を予感させる爆発物ですよね。 映画のクライマックスの一つは、火がついてしまったおじさんやおばさんたちが、新しい他者に、「汚い!」「バイキン!」「帰れ!」と声に出して叫び始めるシーンを見事に描いた町民集会でした。 まあ、このシーンを見るだけでも、近代的な常識であるはずの「人間の平等」、「個人の尊厳」といった、本来、根源的であったはずのモラルが戯言でしかなくなりつつある現代を実感できると思います。 グローバリズムという現代社会を象徴する概念がありますが、ようするに地域や歴史を超えて重層化する資本主義の圧力が辺境に向かう時、閉鎖的な社会に残存する前近代的心情の不安が燃え上がり、なりふりかまわぬ他者排斥=ヘイトが心のつながりを作り出し、貧しくはあるけれども、穏やかな田舎生活をしていたはずのおじさん、おばさん、おじいさんや、おばあさんたちに拡散していく展開は、まあ、悪夢でしたね。 しかし、そのシーンを終わらせるのが、現実の悲劇でした。少年の祖父であり、羊飼いだった老人が森の、最初の、あのあたりの木を選んで縊死するのです。この老人の死から、映画のラストまで、ワクワク、ドキドキしっぱなしなのですが、何が起こっているのか全く分からなかったですね(笑)。多分、自分勝手に見間違えているのでしょうね。しようがありませんね。 結局、少年が、映画の始まりで何を見たのかに答えるシーンはありませんでしたが、少年には励ましの拍手を贈りたいですね。 彼はきっと、自分が、これかから生きていく、すぐそこにある、近未来の世界の悪夢を見たにちがいないのですからね。まあ、見間違えでしょうけどね(笑)。 この夏「福田村事件」という映画が評判になりましたが、あの映画を見ながら、思わず「日本人同士なのに」とハラハラされた方には、是非、見てほしいと思いました。 近代社会がようやくのことでたどり着いたはずの、人間という概念の普遍性が喪われつつある現代社会のMRI画像は、一見の価値があると思いますよ(笑)。 まあ、しかし、疲れますし、話のディテールはよくわからないですけどね。監督・脚本 クリスティアン・ムンジウ撮影 トゥドル・ブラディミール・パンドゥル編集 ミルチェア・オルテアヌキャストマリン・グリゴーレ(マティアス)マクリーナ・バルラデアヌ(アナ)マーク・ブレニッシ(ルディ)ユディット・スターテ(シーラ)オルソレヤ・モルドバン(デーネシュ夫人)アンドレイ・フィンティ(パパ・オットー)2022年・127分・G・ルーマニア・フランス・ベルギー合作原題「R.M.N.」2023・10・24・no129・元町映画館no208 !
2023.11.02
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NTLive C・P・テイラー「善き人」シネ・リーブル神戸 ここの所、毎月、出かけているナショナルシアター・ライブです、今日はC・P・テイラーという人の戯曲、「善き人」です。 セシル・フィリップ・テイラー、1981年に42歳で亡くなった、イギリスのユダヤ系劇作家の遺作のようです。アウシュヴィッツ以後の世界、所謂、戦後演劇の世界では、今や古典的戯曲といっていい作品だと思います。映画にもなっています。原題は「GOOD」ですから「善い・・・」ですね。「GOD」ではないのですが、なんか、ちょっと引っ掛かります。 で、舞台に登場するのは3人の俳優だけでした。デヴィッド・テナントという男優が主役のハルダー教授だけを演じますが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモールというお二人は、リーヴィーが主人公が出会うすべての男性(ユダヤ人モーリス・アイヒマン・ナチスの将校・他)を、スモールが、同じくすべての女性(母・妻・愛人・他)を演じていました。舞台は壁で囲まれた空間で、壁際がベンチ、あるいはベッドになっています。 場面の転換は、照明に浮かび上がる人物の姿とセリフによるものだけで、映像も書割も使われていません。音響はクラシックの楽曲が、時折、背景的効果音として聞こえてきますが、ラストシーンでは収容所のユダヤ人たちの合唱が舞台全体を包み込むように演出されていました。 生真面目な文学研究者であるハルダー教授が、「安楽死」に関する論文によって、ヒトラーに見いだされ、ナチスの批判的協力者から、ホロコーストの推進者へと変貌していく経緯と、老いた母と長年連れ添った、しかし、わがままな妻を捨て、若き愛人との暮らしを選び取っていきながら、水晶の夜=クリスタルナハトを目前にして不安に苛まれるユダヤ人の友人モーリスを見捨てていく姿を重ねて演じていく舞台です。 同じ舞台に居続けている主人公ハルダー教授の「ことば」と「すがた」が「善き人」であり続けようととすることの欺瞞を浮き彫りにしていく、デヴィッド・テナントの静かな演技には目を瞠りました。「われわれの想像力はアウシュヴィッツを経験した。われわれはその地点から後戻りしてイノセントになるわけにはゆかぬ。」 今年、2023年に亡くなった、作家大江健三郎の若き日の発言ですが、彼がこの発言をしたのは1972年でした。C・P・テイラーがこの戯曲を書いたのが1981年だそうです。 今、目の前の社会には「イノセント」というようなことばでは、とても言い表せそうもない「無知蒙昧・夜郎自大」の「善き人」たちがあふれていると感じるのは、老人の勘違いでしょうか。 ヨーロッパの映画や演劇が繰り返しアウシュビッツをテーマにするのは、必ずしもユダヤ資本による自己正当化の結果ではないでしょう。しかし、一方にガザの現実もある訳で・・・・。 見終えて、納得した舞台でしたが、何となく不安が湧き上がってくる帰り道でした。世の中、どうなるのでしょうね。 まあ、何はともあれ、主演のデヴィッド・テナントは勿論ですが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモール、さすがのお芝居でした。拍手! シンプルな舞台構成で、役者の内面の表現をクローズアップした演出家ドミニク・クックにも拍手!でした(笑)。作 C・P・テイラー演出 ドミニク・クック出演デヴィッド・テナントエリオット・リーヴィーシャロン・スモール2023年・136分・G・イギリス原題National Theatre Live「Good」2023・10・29・no133・シネ・リーブル神戸no209!
2023.11.01
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