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松花堂庭園近くに「月夜田」という交差点があります。月夜田交差点この交差点の角に、大きな石碑があります。岡の稲荷社の碑「正平七年役 神器奉安所 岡の稲荷社」と書かれています。いわゆる南北朝時代の正平7年(1352年)2月、南朝の後村上天皇は足利尊氏の隙をつき、京を攻め取ります。しかし3月には足利勢に反撃され、京を脱出して男山に立てこもり、5月には脱出して6月に賀名生(あのう)へと帰還します。この碑は、落ちのびる際、この地に三種の神器を隠し置いたと伝えられていることを示しています。それを狐が守護していたため、後に稲荷社が建てられたといわれています。同上横側には「右 高野街道 峠 十五丁 野崎 四里」などと書かれています。洞ヶ峠まで15丁、その先は河内国。ここは石清水八幡宮の門前町から旅立つ出口だったのかもしれません。
2011年02月26日
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松花堂庭園および美術館の入口は、北側にあります。松花堂庭園入口同上上の写真、左手の茂みが東車塚古墳の一部です。入口横の石碑庭園の入園料が400円、美術館の観覧料が400円(いずれも大人)です。また、松花堂弁当を考え出したと言われている料亭「吉兆」の松花堂店があり、発祥の地で松花堂弁当を味わうこともできます。
2011年02月25日
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元の東高野街道(水月庵の石碑のあるところ)に戻ると、すぐ南側に「松花堂庭園」の白い壁が見えています。松花堂庭園(西面)かつては石清水八幡宮のある男山の中腹にあった松花堂がこの地に移築され、現在では日本庭園と美術館のある施設として整備されています。少し先に進むと、門が見えてきます。松花堂庭園西門脇に立っていた説明によると、この門は八幡小学校が開設されて以来、長らく校門として使われていたということです。もともとは石清水八幡宮の一の鳥居の近くにあった「高坊」という宿坊のものと言われており、200年以上前の建築物だそうです。同上門の右手には、なにやら石碑があります。なかなか判読できないのですが、資料と突き合わせてみたところ、「志水月の岡前の碑」と書かれているようです。この一帯を「月の岡邸」と称していたそうです。また同じ碑に「東車塚跡」と書かれています。松花堂庭園は、「東車塚古墳」のある場所だそうです。後円部が内庭の築山として残存しているということです。八角堂が建っている西車塚古墳に、松花堂庭園になっている東車塚古墳。古墳にとっては迷惑しているようです。
2011年02月24日
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八角堂の手前にあった「水月庵」の石碑。「水月庵」水月庵(水月寺)は、ここから南南西の方向にさらに20分ほど歩いたところにあります。かなり離れているのに道標が置かれていることは、この道(東高野街道)が主要道であったことを意味しているように思えます。さて、実際の水月庵は、以前ご紹介した円福寺(達磨堂)の西にあります。タイトルは「八幡市駅周辺」としていますが、実際には樟葉駅のほうが近いです。かつては緑に囲まれていたのでしょうが、周囲は宅地化されました。水月庵(水月寺)「水月庵」の碑お寺の山門前に置かれた由緒書によると、水月庵は、もともとは「阿弥陀堂」と称していたといいます。天明初年(1781年)、越前から霊宗尼という人がやって来て、円福寺の住職のもとで修行しました。やがて水月庵は尼僧の禅道場として名が知られるようになったということです。ところでこの由緒書には、「何と云っても円福寺が近いので尼僧道場にふさわしく無い」という理由で道場は京都に移ったと書かれていました。男の僧が尼僧の近くにいては修業の妨げになるという意味なのでしょうか。たしかに円福寺まで山続きのようで、直線距離で200~300メートルしかありませんから、修業の場としては近すぎたかもしれません。将軍・徳川家茂に降嫁した皇女和宮の死後、そのお付きだった人が、この水月庵で出家し、その菩提を弔ったということです。お付き女性が賜った和宮愛用の打掛けが残されているそうです。
2011年02月20日
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京阪の八幡市駅から南へ、東高野街道に沿って歩いています。東高野街道の道標「八角堂まで約0.1km 松花堂庭園まで0.1km」 と書かれています。「水月庵」の石碑ほどなく、Y字の交差点に「水月庵」と書かれた石碑を発見。左手に行くと、松花堂庭園の白い塀が見えます(上の写真、左側)。ここで右手の道へと入っていくとすぐに、八角堂と呼ばれるお堂があります。八角堂入口階段左にある石碑には「八角院」と書かれていました。この場所には「西車塚古墳」があります。八幡市内最大の前方後円墳だそうで、全長約115mとのこと。その後円部分に八角堂が建てられているんだそうです。八角堂八角といっても正八角形ではなく、正方形の四隅を切り取った形をしています。本尊として阿弥陀如来が安置されているため、「阿弥陀堂」ともいうそうです。同上このお堂は、もともと石清水八幡宮の境内にあったのですが、明治政府の神仏分離令によって撤去される際、現在の場所に移され、正法寺に属する境外のお堂になりました。八角堂は、順徳天皇の御願によって13世紀初めに建立されましたが、その後、大破。慶長12年(1607年)には、豊臣秀頼によって再建。しかしその後はほとんど手が入らず破損転倒と、かなり荒れていたようです。現在の八角堂は、元禄11年(1698年)に再興されたものです。八角堂階段を下りて、裏手から見たのが上の写真です。小高い丘(古墳)の上に建っているのがよく分かります。
2011年02月19日
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京阪・八幡市駅から東高野街道に沿って南に向かって歩いてきました。八幡松原の精肉店の前に、大きな石の道標がありました。「左 京街道」左へ行けば京街道ということですが、東高野街道は京街道ではありません。淀川沿いまでいけば京街道(大坂街道とも)があるという程度の意味です。「御幸橋廿丁 鳥羽三里 伏見二里半 淀一里半 東寺四里廿丁」と記されています。「左 東在所道」「東在所道」はここを起点に東へ向かい、八幡市内の戸津、内里を越えて上奈良までつながっています。「戸津八丁 内里十五丁 岩田渡船場廿五丁 寺田一里半 下奈良渡船場廿二丁 宇治二里」などと書かれているようです。岩田の渡船場、下奈良の渡船場と書かれていますが、さらに川下に向けて川口、橋本などいくつかの渡船場があったようです。
2011年02月14日
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京阪・八幡市駅から東高野街道に沿って南へと歩いてきています。神原の交差点を過ぎ、八幡清水井まで来たところに、「正法寺(しょうぼうじ)」というお寺があります。正法寺正法寺は、浄土宗の寺院で、山号は徳迎山です。近くに設けられた説明板には、「12世紀末高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使として八幡に来住したことに始まる」と書かれています。「高田氏は後に姓を志水と改め、菩提寺として寺領堂舎をととのえた」ということです。別の資料によると、1191年に開創となっています。天文15年(1546年)には後奈良天皇の勅願寺となります。同上山門へ続く参道の脇の石碑には、「尾張大納言義直候母堂相應院殿墓所 正法寺」と記されています。「尾張大納言義直」とは、尾張徳川家の祖、徳川義直のことです。その母である相應院の墓所がこの正法寺だということです。相應院とは、正法寺の志水家の娘、お亀(亀女)のことです。正法寺山門徳川家康の行列がこの地を通りかかったとき、あわてた亀女は、行水させていた子どもをタライごと運び去ったといいます。家康は、そのたくましさに亀女を見初め、文禄3年(1594年)、徳川家康の側室として迎えられます。家康が53歳、亀女はこのとき21歳くらいだったようです。慶長15年(1610年)、石清水八幡宮領を「検地令免許、守護不入」とする家康の朱印状が出されます。もちろん石清水八幡宮の権威に対するものですが、亀女の影響も大きかったものと思われます。亀女は家康の死後、「相應院」と名乗ります。晩年には正法寺に大金を寄進し、本堂などが建立されました。没後も尾張藩の庇護を受け続けました。正法寺上の写真で左奥に写っているのが重要文化財指定の本堂のようです。唐門(重文)唐門の後ろには、やはり重文指定の大方丈があります。鐘楼(府指定文化財)相應院の墓所は、境内の右奥にあるようです。男山の麓を取り入れた庭園は、ツツジの名所だということです。
2011年02月13日
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京阪・八幡市駅から東高野街道に沿って南へと歩いています。善法律寺の南東、一筋東側の道沿いに、1本の標石が建っています。巡検道の標石同上同上ここを起点として東へ向かう道が「巡検道(じゅんけんみち)」と呼ばれています。八幡の旧市街地を抜け、下奈良地区まで続く、約2キロメートルの道です。標石には「宇治近道」と書かれています。かつてはこの道を境にして、南が綴喜郡、北が久世郡だったそうで、巡検道はいわゆる郡界であったわけです。江戸時代の初め、国郡巡検の役人が図をもって取り調べのために歩いたという記録が残っているそうです。巡検道の標石からさらに100メートルほど南に行ったところに、別の石碑が建っています。「寝物語古跡国分橋」「寝物語(ねものがたり)」とか「国分橋(くにわけきょう)」とか、いかにもいわくありげです。かつては、郡や村の境を決める際、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたといいます。それにまつわる言い伝えが地元に残っているそうです。堺を決めるというその日、「出発までにはまだ時間がある」と思っているうちにそのまま寝てしまい、出発の時刻を過ぎてしまいました。そのために領域が減ってしまったというのです。郡境近くに残る「寝物語古跡国分橋」の石碑。同時に歩いて境界を決めるとは、なんとも悠長な話ではありますが、寝過してしまった者にとっては、悔いても悔やみきれないことでしょう。
2011年02月12日
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京阪・八幡市駅から南へ1kmほど、男山の麓にあるグラウンドの南側に「善法律寺」があります。善法律寺善法律寺山門善法律寺同上善法律寺は、奈良の唐招提寺の末寺です。正嘉年間(1257~1258年)、石清水八幡宮社務だった善法寺宮清が私宅を寺に改めたことに始まります。室町時代には、善法寺通清の娘・紀良子(きのよしこ)が2代将軍足利義詮(あしかが よしあきら)の側室となり、3代将軍義満の母となります。以後、将軍家と善法寺家とは密接な関係になります。足利家の庇護を受け、善法寺家は栄えます。良子は善法律寺へ紅葉の樹をたくさん寄進したということです。いまでも秋には境内が紅く染まり、「紅葉寺」とも呼ばれているそうです。
2011年02月11日
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小野頼風塚の東には、八幡市民図書館があります。図書館(正面奥)上の写真の右手が頼風塚の入口です。正面奥が八幡市民図書館です。図書館の正面に、石碑が2本建てられています。図書館前金剛律寺故址「金剛律寺故址 京都元標四里三十二丁」と書かれています。京都から4里32丁、おおよそ18.5kmです。金剛律寺は、建武年間(1334年~37年)ごろに建立されました。江戸時代末に壊れてしまい廃寺になったといいます。大正3年にこの地に町役場ができ、ここが八幡における計測基点となりました。「正平役園殿口古戦場」の碑本妙寺のところにも「正平役」と書かれた石碑がありましたが、正平の役とは、南北朝が対立していた正平7年(1352年)に八幡の地で起きた戦いです。「男山合戦」とも呼ばれるようです。南朝の後村上天皇は、八幡に出て京をうかがいました。しかし3月、足利義詮の攻撃により男山周辺で戦いが始まります。しかし5月には兵糧が少なくなり、退却を余儀なくされた後村上天皇は、吉野の賀名生(あのう)に戻ります。2ヶ月に及ぶ戦いは南北朝時代最大で、この後、南朝は急速に勢力を失っていきます。
2011年02月10日
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京阪の八幡市駅の南、本妙寺からさらに南へ150メートルほど歩き、左へ曲がったところに、「志゛ばん宗(じばんそう)」という和菓子屋さんがあります。「志゛ばん宗」上の写真、右手が和菓子屋さん、正面奥に建っているのが八幡市民図書館です。この和菓子屋さんの左側に細い路地があります。「小野頼風塚」の碑路地の入口に、「小野頼風塚」と書かれた背の低い石碑が建っています。その右側には、この人にまつわる言い伝えが記されていました。案内板話は平安時代初期に遡ります。「小野頼風」という人が男山に住んでおり、京の女性と深い契りを結んでいました(案内板では京に妻を置いていた」となっています)。しかしいつしか、二人の間は疎遠になってしまいます。京の女は八幡へ訪ねてきましたが、頼風には他の女がいると知り、思い余って川に身を投げて死んでしまいました。女が脱ぎ捨てた衣はやがて朽ち、そこから女郎花(おみなえし)が咲いたといいます。頼風が近寄ると花はこれを嫌うように遠退き、離れると元に戻るのを見て、頼風は自責の念にかられて、川に身を投げて死んでしまいました。人々は哀れみ、二人の塚を築いたといいます。頼風塚路地を奥まで入ると、空き地に「頼風塚」があります。小さな五輪石塔です。ちなみに女の塚は女郎花塚といい、ここから2kmほど南にある「松花堂庭園」(住所は八幡市八幡女郎花)の敷地内にあります。なぜこの話がこれほどに長く語られてきたのかと思いましたが、どうやら「女郎花」という謡曲(ようきょく)があるんだそうです。その中では、妄執で苦界をさ迷っていた男女の亡霊がこの塚から現れるんだそうです。しかし旅僧に回向してもらい、そのおかげで結ばれたということです。
2011年02月09日
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八幡市の泰勝寺の南に、本妙寺というお寺があります。本妙寺本妙寺入口の石碑手前の石碑には「日門上人墓所本妙寺」と書かれています。日門上人が開基した法華宗のお寺で、山号は久遠山です。日門上人はもともと真言宗の僧侶だったようですが、日蓮宗に改宗し、盛んに布教活動をしていたようです。この布教活動がのちの「安土宗論」に発展する一因となったということです。安土宗論とは、天正7年(1579年)、安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、織田信長の命によりひらかれました。宗論の内容は難しくてよくわかりませんが、結論は法華宗の負けでした。外で待機していた日門上人はその場で捕えられ切られたそうです。平成8年(1996年)、不審火で本堂が焼失しましたが、平成12年(2000年)に本堂が再興されました。もう一つの石碑には、「正平役城之内古跡」と書かれています。「正平役」とは、南北朝の戦いのうち、正平7年(1352年)、八幡を主戦場とした争いです。いろいろな時代が積み重なって歴史の重みになるんでしょうね。
2011年02月08日
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京阪の八幡市駅から南へ徒歩7分、八幡橋のすぐ南に「泰勝寺(たいしょうじ)」があります。泰勝寺同上「松花堂旧跡」「松花堂」は江戸時代初期の僧侶、松花堂昭乗が建てた草庵で、当初は男山の中腹にありました。しかし明治に入って神仏分離に伴い、松花堂は石清水八幡宮の山麓に移されます。(その後、さらに移設され、現在は2キロメートルほど南にあります)明治に入って移設された所が泰勝寺の付近だろうと思っていたのですが、どうやらこの石碑に記された「松花堂」とは、松花堂昭乗自身が建てた「里坊」らしいという記述を見つけました。里坊とは山で修業を積んできた僧が晩年を過ごすために人里に構えた住まいのことです。泰勝寺には、松花堂昭乗の墓(五輪石塔)があります。泰勝寺は、この墓を保存するために大正9年に建立されたんだそうです。寺の名前は、ゆかりのあった細川家の菩提寺「泰勝寺」(熊本市)をもらったんだそうです。ただ、どんな「ゆかり」があったのか、あいにくまだ文献に行き当たりません。この寺には「閑雲軒」という茶席があります。この茶席に出す料理として、昭和の初めごろに考案されたのが「松花堂弁当」です。一般には、昭乗が愛用していた箱をヒントにして、料亭「吉兆」の創業者・湯木貞一氏が創作したと言われています。田の字に仕切られたそれぞれに器を置いた「松花堂弁当」は、今では全国にその名が広がっています。もともとは、農家が作物の種などを入れるものでしたが、昭乗は、これを絵の具箱に用いたり薬を入れたりして愛用していたそうです。
2011年02月06日
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京阪の八幡市駅から南へ、東高野街道沿いの散策です。石清水八幡宮の一の鳥居を右手に、安居橋を左手に見て、八幡橋まで来ました。八幡橋の碑石標には「八幡橋 右 志水町 十二丁 左 橋本町 十一丁」と書かれています。右(南)に行くと志水町(現在の八幡清水井付近)、左(北)へ行くと橋本町です。もう一つの面には「右 奈良街道」と書かれています。まっすぐ右(東)に向けて行くと、八幡市内を抜けて田辺(現在の京田辺市)、奈良へと続く道です。八幡橋を渡って南へ向かへば東高野街道です。石標には「川口 十五丁 下奈良 二十丁 上奈良 廿五丁 内里 三十丁 上津屋 一里 岩田 一里六丁 大住 二里 田辺 二里半 木津 五里 奈良 六里半」と読めました。川口から岩田までが現在の八幡市内です。八幡橋の由来についてはよく分かりませんが、この石標を見ると交通の分岐点、あるいは出発点だったように思えます。八幡橋の東側に、「念佛寺(ねんぶつじ)」というお寺があります。念佛寺同上「天照山光明院念佛寺」というそうです。天慶年間(938年~947年)、「阿弥陀聖」「念佛聖」とも呼ばれる空也上人が開祖で、「空也念佛堂」とも呼ばれていたそうですが、慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いの時、官軍の砲火によって焼失したということです。「戊辰史蹟念佛寺」の石碑 同上境内には比較的新しそうな御堂がありました。
2011年02月05日
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東海道57次とも呼ばれていたかつての「京街道(大坂街道)」は、現在の府道13号(旧国道1号)の近くを通っていました。この京街道から分岐して高野山へと向かっていたのが「東高野街道(ひがしこうやかいどう)」と呼ばれる街道です。八幡市駅周辺上の写真は御幸橋側から八幡市駅周辺を撮ったものです。右側の山が男山です。東高野街道は、この辺りから始まってまっすぐ南へと続いており、以前にご紹介した「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」を越えていきます。これからしばらくは、東高野街道に沿って歩いてみようと思います。東高野街道の案内表示旧街道筋同上大規模に開発された男山団地とは違い、旧街道筋の雰囲気が残っています。ただし、道が狭いのに車がけっこうなスピードで走っていますし、場所によっては路線バスも入ってきます。車に気をつけながらの散策でした。
2011年02月04日
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京滋(けいじ)バイパスは、名神高速道路の瀬田東ジャンクションから久御山ジャンクションまでが国道1号、そこから名神高速道路の大山崎ジャンクションまでが国道478号です。大津や京都の市街を迂回するルートが完成し、名神高速道路の渋滞緩和に貢献しています。国道478号の区間は2003年に開通しました。この区間は有料道路とともに一般道路も建設されています。国道478号上の写真は国道478号(一般道)の宇治川付近から大山崎ジャンクション方向を写したものです。左側の高架道路が京滋バイパスです。同上上の写真は反対に久御山ジャンクション方向を写したもので、宇治川に架かる橋には「石清水大橋」という名前が付けられています。石清水大橋宇治川鉄橋わざわざここまで歩いてきたのは、高い視点から鉄橋を捉えてみたかったからです。同上同上見降ろす感じになり、ちょっとした「ジオラマ」気分です。同上
2011年02月02日
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宇治川鉄橋の北側、宇治川右岸までやってきました。宇治川鉄橋同上宇治川右岸の堤防上に設けられた道は、線路とクロスする部分にフェンスがあり通行できません。同上鉄橋の下をくぐることができる程度の通路がありました。通り抜けようとすると、ちょうど頭上を列車が通過してびっくり。迫力ありますねえ。同上反対側から見たところです。同じようになっています。淀車庫淀車庫が見えてきました。
2011年02月01日
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