各河口から江戸川60km、利根川120kmで合流する所に土木遺産・関宿水閘門がある。この堰より下流1km付近に「棒だし」の名残である関所跡碑がある。この一帯は、徳川家康の関東入府以来「利根川東遷(1594年~1654年」の主戦場で、江戸川流頭部とも言われている。幕府は、水防上きわめて重要な場所と定め、譜代大名に統治させた。
関宿城博物館では、壮絶な洪水との闘いを展示している。そこでは、水を治める要諦を「堤・浚・疏」の3文字に凝縮している。つまり、堤防を築くこと、川底を掘ること、水を分けることである。
「関宿の棒出し」は、疏と堤に当たる。両岸から数千本の木杭を打ち込みながら川幅を狭め江戸川への洪水量を低減させるもので、堤防を突き出す工事。この方法も、時代が進むにつれて、杭⇒玉石⇒角石積み⇒コンクリート製に、と改良してきた。
この棒出しは、天明3年(1783年)の浅間山大噴火により噴出物の流下で、利根川の川底が上昇し、江戸中が大洪水に悩ませられたために考えだされた施策。関宿水閘門が完成する昭和2年までの約100年間この棒出し作業を続けて来た。関宿の関は、江戸水防上の前線基地で、いまの原発対応の「J-ヴィレッジ」に相当するのかも知れない。
写真-1 関宿水閘門を下流から望む(2010年5月撮影)
写真-2 2003年土木遺産認定板
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