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「国宝・東京国立博物館(トーハク)のすべて」が2022年10月から開催されていた。1週間延長されたので、12月中旬に相棒と訪れた。トーハクの国宝のすべてを展示されるという。スマートフォンなどによる事前予約制。90分以内の時間も制限がある。 トーハクの所蔵する国宝89件が公開となる。重要文化財を含めると150件を2部構成で企画されていた。博物館創立150年を記念したもの。明治5年、湯島聖堂の大成殿で開催された大博覧会を機に設立された。150年間に積み重ねたものは、約120万件にのぼるという。 国宝展では写真撮影は禁止されているが、唯一出口の展示室の「金剛力士立像」と「見返り美人図」については撮影OKだった。金剛力士立像は、滋賀県蓮台寺の仁王門に置かれていたが、台風で壊れてしまったもの。修復されてトーハク所蔵となった。像高さ2.7mの大きさに圧倒される。またの来館を呼びかけるように見返り美人がいた。 予約制ではあるが鑑賞人数は多い。近くでゆっくり観られない。そこで150年記念特別展の写真集と説明書の書籍(3千円)を購入して、自宅でゆっくり観ることにした。写真-1 トーハク・平成館で入場を待つ来館者。写真-2 トーハク国宝展のポスターなど。写真-3 最終展示室の金剛力士立像(平安時代)。写真-4 滋賀県蓮台寺の仁王像を修復した木造彫刻。写真-5 見返り美人図も150年後も待っている・・。写真-6 特別展示品の説明書籍を購入。
2023年01月03日
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東武スカイツリーライン越谷駅から西へ3kmほど行くと、西洋的な宮殿が現れる。越谷を含む5市1町で構成される東埼玉資源環境組合のごみ処理施設・第一工場だ。一日当り800トンの焼却能力を持つ建物。ごみ処理場とは、見えない。シンメトリックな美しい建築物だ。 焼却で発生する熱エネルギーは、場内外の施設で活用されている。また、蒸気タービン2基を設置して、出力24,000KWの発電を行っている。工場内の電力を賄うのみならず、売電もしているという。建物の両サイドの巨大な円柱内には、収集車がプラットホーム(ごみをピットへ投入場所)までの螺旋路が造成されている。 施設の西端に、高さ100mの煙突塔が立っている。この塔の上部に展望台が造られている。地上80mから360度見渡せる回廊となっている。一般に無料で開放されている。南西方向に富士山を、北東方向に筑波山を望むことができる。北の下には越谷市総合体育館があった。写真-1 新方川沿いに建つ越谷の「リユース宮殿」。写真-2 第一工場ごみ処理施設の入口。写真-3 ごみ処理施設外壁と窓ガラス。写真-4 地上80mの展望台。写真-5 眼下の越谷市総合体育館と新方川。写真-6 江戸川土手からリユース展望台と富士山を望む。
2022年03月18日
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東京国立博物館・トーハクには、陶器や磁器が日本の美術品として、幾つかのコーナーに置かれている。脇役的な存在にも見える。それでは工芸家の方に失礼になる・・。日本美術の流れの部で、「茶の美術」、「暮らしの調度」。ジャンル別部で、「陶磁」と「焼き締め茶碗の美」などのコーナーにある。 茶の美術(3室)は、日本の伝統文化を代表する茶の湯コーナー。掛け軸・花入れ・茶碗・水指など19件を展示。熊川茶碗「田子月」と織部扇形向付(美濃焼、5客)を鑑賞。 陶磁(13室)では、平安時代から江戸時代までの日本陶磁を眺めた。秋をテーマとした作品を中心に42件を展示。大きな伊万里焼の三点セット・色絵獅子鳳凰分有大壺や色絵桜楓文木瓜形鉢(仁阿弥道八作)など・・。 近代の美術(18室)では、明治・大正の工芸や彫刻、絵画48件を展示。明治5年の文部省博覧会に出展した作品もある。七宝焼の大瓶(梶佐太作、竹内忠兵衛作)が美しかった。室内中央に竹内久一作「執金剛神立像」が睨みをきかせている。写真-1 熊川茶碗「田子月」と織部扇形向付と呉須赤牡丹香合。写真-2 織部扇形向付・美濃焼、5客。写真-3 伊万里焼の三点セット・色絵獅子鳳凰分有大壺。写真-4 柿右衛門の水指と色絵桜楓文木瓜形鉢。写真-5 近代の美術(18室)の七宝焼大瓶と黄釉さび絵梅樹。写真-6 近代の美術室で睨みをきかせる執金剛神立像。
2019年10月31日
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トーハクの2階本館で、「日本美術の流れ」を観て回ることができる。そのなかで屏風や掛軸に描かれた絵画の一部を紹介します。国宝2室に「金光明再勝王経金字宝曼荼羅図」を展示。撮影禁止の部屋。 7室は、安土桃山から江戸時代の「屏風と襖絵」を展示。秋を感じさせる「武蔵野図屏風」と静寂館の漂う「網干図屏風」で足を停めた。 8室は、安土桃山から江戸時代の「書画の展開」コーナー。狩野派を多様な展開を遂げた絵画や書跡29件を展示。掛軸「月に秋草図(3幅)」と「石橋山・江島・箱根図(3幅)」を眺める。1 0室は、「浮世絵と衣装」コーナー。江戸時代の庶民の姿を描いた浮世絵など31件を展示。「當時全盛美人揃・兵庫屋内花妻」と「赤沢山の相撲」を鑑賞した。写真-1 2階7室に展示されている「武蔵野図屏風」と「網干図屏風」。写真-2 室町時代の四季山水図屏風。写真-3 近代の屏風。川合玉堂の「渓山四時」。写真-4 「月に秋草図」と「石橋山・江島・箱根図」。写真-5 「當時全盛美人揃・兵庫屋内花妻」と「赤沢山の相撲」。
2019年10月26日
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トーハク本館の日本ギャラリー(常設展)で、日本文化・芸術品を鑑賞した。海外の入場者が多い。1階ジャンル別のコーナーなどで、「刀剣」が展示されている。照明の関係で、反り身の刃が光るとゾグッとする。 「刀剣」は本館13室。年に2、3回ほど展示品が入れ替わるという。訪れた日、三日月形の焼刃が名の由来となった国宝「三日月宗近」や「岡田切吉房」の太刀など作品16口が展示。 刀と剣との違いについて。「剣」は両刃で真っ直ぐな形状。刺突の武器。一方、「刀(かたな)」は、片刃で反りの入った形状。斬激の武器。更に、太刀(たち)とは刃を下向きにした腰から吊る(佩く)。刀は刃を上に向けて腰に差すタイプとされる。 トーハクには、国宝・重文の刀剣が60点以上所蔵されている。そのうち国宝の太刀は12口とされる。次回には、長船景光の代表作・国宝「小龍景光」鎌倉時代が蔵出しする。写真-1 トーハク本館13室。国宝の太刀「身三日月宗近」写真-2 日本の刀剣「相州国光」他。写真-3 長船景光の作「小龍景光」鎌倉時代。写真-4 鍔(つば)の装飾。獅子と牡丹など。写真-5 三所物(みところもの)。水辺の鶴、貝に藻。
2019年10月18日
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トーハク・総合文化展の「日本のよろい」を覗いた。夏休みの企画らしく、「トーハクでサムライ気分・・」と題して、鎧を着る体験コーナーも用意されていた。フル装備では、とても自由に動き回れそうにもない。 日本のよろい(甲冑)は、身を守るものであるが、戦場での活躍をアピールするもの。人目をひくデザインや色鮮やかなものが多い。日本のよろいが世界の鎧と比べて美しいのは、鉄・銅・革・漆・絹糸など様々な材料と技術を集めた芸術品だから・・。鎧の4つの種類と部分名称の説明書きがあった。 大鎧(おおよろい)は、平安時代後期に登場したもので、馬に乗って戦う上級武士(騎馬武者)が見につけたもの。腰を守る草摺(くさずり)が4枚。胴丸は、歩いて戦う武士(徒武者)が来たもので、胴の合せが右脇にあり、草摺が8枚さがっている。 腹巻は、鎌倉時代の徒武者が着たよろい。胴の合せが背中にあり、草摺7枚が標準。当世具足(とうせいぐそく)は、安土桃山時代に登場する。全身をすき間なく守るよろい。「変わり兜」とセットになることもあるという。戦さが無かった江戸後期、ホコリを被った多くの鎧が武家屋敷に飾り置かれていた。写真-1 トーハク総合文化展の「日本のよろい」を鑑賞。写真-2 平安後期、騎馬武者が着た「大鎧(おおよろい)」。写真-3 平安後期、徒武者が着た「胴丸(どうまる)」。写真-4 鎌倉時代に登場した「腹巻」。写真-5 安土桃山-戦国時代の「当世具足」と「変わり兜」。写真-6 4体の試着用よろいを準備してあった。
2019年10月08日
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東京国立博物館(トーハク)本館で開催されていた「奈良大和四寺のみほとけ」。総合文化展(常設展)であるが、9月23日までの期間限定の企画展だ。4つの寺から15体の御仏像が東京まで出張してくれた。 奈良県北東部に所在する岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文殊院の四寺(よじ)は、いずれも7世紀から8世紀に創建された古刹。安置されている仏像は、魅力的に富み、卓越した造形したものばかり。本館11室企画展は撮影禁止なのでガイドブックから、御仏の姿・表情をチョイスした。 石舞台古墳を見下ろす山に佇む岡寺からは、高さ5mの「如意輪観音菩薩坐像」、国宝「義淵僧正座像」。清流・室生川を流す深山幽谷に溶け込む室生寺から、国宝「釈迦如来坐像」、「十一面観音菩薩立像」。 大和と伊勢を往還する街道近く建つ長谷寺から、「十一面観音菩薩立像」、「阿弥陀如来立像」。飛鳥時代に創建された宗敬院を前身とする阿倍文殊院から、獅子に乗った総高さ7mに及ぶ「文殊菩薩坐像」が。現存する文殊菩薩像の中では最も大きいもので、日本三大文殊のひとつ。写真-1 トーハク正面玄関横に設置された企画展の垂れ幕。写真-2 奈良大和四寺のみほとけ。入場チケットとパンフレット。写真-3 岡寺の「如意輪観音菩薩坐像」、国宝「義淵僧正座像」。写真-4 室生寺の「十一面観音菩薩立像」国宝「釈迦如来坐像」。写真-5 長谷寺から、「十一面観音菩薩立像」、「阿弥陀如来立。写真-6 安倍文殊院の「文殊菩薩坐像」。
2019年09月29日
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特別展「三国志」において、三国ゆかりの出土品などの展示品に混じって、人形劇三国志で活躍した英雄・勇者の人形が配置されている。約1800年前の副葬品などに息吹を与える存在だ。 NHKテレビ番組の「人形劇アニメ」として、約25年前に躍動した人形。人形劇三国志は、1年半にわたり、68話が放映された。土曜日の18時から45分間、大河アニメの先駆け・・。 人形アニメ監督・川本喜八郎のもと製作された人形は、精巧に作られている。桃の節句や端午の節句に見られる和製人形技術の集大成だ・・。当時使用した「勇姿」の多くが「飯田市川本喜八郎人形美術館」にある。但し、毎年のように全国に出張する「美術文化財」でもある。 第1章室では、曹操・劉備・孫権がそれぞれのポーズで来館者を迎えてくれる。しばらく進むと、諸葛亮と孟獲が対で並んでいる。孔明が南西した際、「七縦七摛(しちしょうしちきん)」の故事がある。捕えては逃してやること7回繰り返して、南蛮王・孟獲を心から服従させたという。写真-1 曹操孟徳と夏候淵妙才。夏候淳・淵兄弟は、曹操の挙兵からの親族。写真-2 後漢ラストエンペラーの献帝(劉協)と魏初代皇帝・曹丕支桓。写真-3 曹操が最も愛した息子・曹植子建と司馬イ仲達。写真-4 劉備玄徳と関羽雲長。赤兎馬と青龍偃月刀は関羽の代名詞。写真-5 張飛翼徳と趙雲子龍。劉備を支えた五大将軍。写真-6 諸葛亮孔明と孟獲。七縦七摛の故事がある。写真-7 孫権仲謀と周瑜公瑾 孫権の父・孫堅と周瑜は同い年。写真-8 甘寧興覇と呂布奉先。周瑜・甘寧は、赤壁の戦に参戦。
2019年09月26日
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強者(つわもの)たちが激戦を繰り広げた三国時代。最後に天下を治めたのは、司馬一族であり、司馬炎が建てた西晋(せいしん)王朝だった。そのことを物語るものとして、「晋平呉天下大平」磚(土レンガ板、縦30cm×横15cm)が展示。世界一短い三国志と紹介されている。 晋時代に活躍した人物に王義之(おうぎし)がいる。東晋の政治家で高名な書家。王義之ゆかりの土地での出土品も展示。「蝉文冠飾」、壺・カンなどが陳列。冠飾が何故、蝉(せみ)なのか・・。当時死者の口に蝉を含ませて、不老不死を願う風習があったという。 司馬イ・仲達(179年-251年)は、曹操-曹丕-曹叡に仕えて、西晋の礎を築いた政治・軍略家。曹操は、仲達の知謀を警戒していたが,曹丕・曹叡は警戒心が薄かった。孔明は太く短く生き、仲達は太く・長く生き抜いた。日本の戦国時代における徳川家康に少し似ている。 エピローグ「三国の終焉」の展示コーナーは、横山光輝の漫画三国志の「秋風五丈原」で終わる。孔明の5度目の北伐で。魏・仲達と戦うも、五丈原で病死する(234年)。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」との名文がある・・。全60巻単行本のうち、58巻が「五丈原への道」、59巻が「秋風五丈原」。写真-1 世界一短い三国志とされる「晋平呉天下大平」磚。[南京市博物総館]写真-2 王義之ゆかりの土地での出土品「蝉文冠飾」。写真-3 獅子形盃や罐・壺。「西晋時代」写真-4 横山光輝の原画「秋風五丈原」で特別展は終わる。写真-5 単行本の表紙、58巻の司馬い、59巻の諸葛亮。
2019年09月24日
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第2会場の第5章「曹操高陵と三国大墓」へ進む・・。三国時代の支配者たちは、葬儀に対して豪華を競うのではなく、質素・倹約を貴ぶようになる。三国間で熾烈な戦いが続いている時でもあり、賢者の振舞いであろうか・・。 2008年に河南省安陽市で発見された大きな墓は、実は魏武王・曹操の墓だと認定された。既に盗掘されていたが、大きな発見。副葬品のひとつ「魏武王常所用格虎大戟」との銘が入った石碑が決め手らしい。遺言にしたがって、金玉珍宝の副葬品は無いものの、故人を偲ぶ文物を展示している。 蜀の大墓では、地下の墓室と墓道との間に設けて「墓門」を展示。また400個ちかい銅銭を枝葉に飾った金のなる木「揺銭樹」と陶器台座を鑑賞できる。蜀の地域で、このような「金のなる木」は良く出土する。当地の信仰と深く関係があるようだ。 呉の大墓コーナーでは、「虎形棺座」があった。棺を載せるための台座を虎形にすることで、権力を誇示したようだ。副葬品「牛車」が展示。後漢の終わりごろから、馬車以外に牛車も登場する。特に呉の地域での出土例が多く、三国で最も普及したと考えられている。写真-1 2008年当時の曹操高陵と実物大の墓室模型。写真-2 呉の大墓から出土した副葬品、「鼎」、「白磁かん」や「金製獣文帯金具」。写真-3 蜀の大墓の墓門。写真-4 蜀の大墓から出土した副葬品、「揺銭樹」とその台座。写真-5 呉の大墓の墓室と虎形棺座。写真-6 呉の大墓から出土した副葬品、「牛車」と「人面文瓦」。
2019年09月23日
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第2会場の第4章へ進む・・。漢王朝の中心地・黄河流域に勢力を張った「魏」。自然の恵み豊かな長江上流の平原を押さえた「蜀」。長江下流の平野部と沿岸域に割拠した「呉」。異なる地域・風土は、それぞれ独自の思想や習慣をはぐくんだ。各地に出土する文物に、その特色が見えるという。 魏から出土したものに、「方格規矩鳥文鏡」がある。2-3世紀に作られた青銅鏡。紐を積牡為の孔が長方形。銘文には「銅は徐州より出る」とある。また複雑な装飾をもつ石の「五龍硯」を展示。 蜀の人々の暮らしぶりを伝えるものに、墳墓に副葬された人形、俑がある。蜀で流行したと思われる踊り姿の「舞踊俑」、楽器を演奏する俑などで、埋葬された人物が伺い知れる。 御は青磁の名産地であることを示すものに「神亭壺(しんていこ)」がある。272年江蘇省から出土。呉の上流層は、オリーブグリーンの焼物を好んだという。これが青磁の原点だとされる。写真-1 「方格規矩鳥文鏡」。2-3世紀・魏、遼寧省博物館。写真-2 「五龍硯」と「墨書紙」。2-3世紀・魏、沂南県博物館。写真-3 「舞踊俑」と「奏琴俑」。2-3世紀・蜀、重慶中国三峡博物館。写真-4 「車馬出行図磚」他。2世紀、四川博物館。写真-5 「神亭壺」と「銅鼓」。南京市博物館。広西民族博物館。
2019年09月20日
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魏・蜀・呉による三国の鼎立は、後漢末期に形作られる。それぞれの国境で、戦いは熾烈を極めた。220年曹操が没した後、曹丕は皇位を奪うと、蜀と呉も建国する。第3章「三国の鼎立(ていりつ)」では、三国時代の武器や著名な合戦にまつわる文物を展示している。 208年の「赤壁の戦い」は、呉・蜀軍が勝利、魏が惨敗。10万本の矢の逸話がある。諸葛亮は、周瑜から矢10万本を調達する難問をうける。すると濃霧の日、藁人形を乗せた船団20隻を引き連れて、敵地に近づき、慌てて放つ大量の矢を船で受け止めて帰還した。一日で10万本の矢を得たという話・・。 219年の「定軍山の戦い」は、蜀軍が勝利、魏が敗走。魏の将軍・夏候淵が戦死。劉備が漢中を支配する。同年の「樊城の戦い」は、呉・魏軍が勝利。蜀の関羽が呉の朱然に捕らえられて没する。落胆した劉備は、223年に没する。朱然ゆかりの「童子図盤」を展示。 219年の「石亭の戦い」は、呉軍の勝利。曹丕(魏王)が絶大な信頼を置く曹休が呉の陸遜に惨敗する。その曹休の印を展示。写真-1 「赤壁の戦い」をイメージした大量の矢。写真-2 「弩」と「弩機」 河北省荊州、222年、河北省博物館。写真-3 三国鼎立の地図と著名な合戦年表。写真-4 ゲームシリーズに登場する張飛の蛇矛リプリカ。写真-5 武器アラカルト。鉤鑲、撞車頭、撒菱、戟など。写真-6 朱然ゆかり「童子図盤」と魏の重鎮・曹休の印。
2019年09月18日
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特別展三国志展の第2章「漢王朝の光と影」では、王朝の栄華から衰退、そして三国時代の幕開けを伝える。約400年続いた漢王朝は、大帝国に成長し、全国各地に統治の網を張り巡らした。しかし、2世紀後半、王朝内部の政争から皇帝の求心力が失われる。 朝廷の権威が落ちると、黄巾の乱が全土へ燎原の火ごとく広まる。道教信仰の太平道は、政争や凶作に喘ぐ民衆の心をとらえた。「蒼天はすでに死、黄天まさにたつ」が合言葉。その「倉天の碑」が安徽省から出土している。蒼天は漢王朝を、黄天は太平道を意味する。 そんな折、中郎将だった董卓(とうたく)は、黄巾の乱の討伐で力をつけ、落陽(当時の都)にはいり権力をほしいままにする。董卓の部下であった思われる「張将軍」の副葬品の中から、「儀仗俑」と「酒樽」が出展されている。莫大な富を得て、豊かな暮らしぶりが伺い知れる。 若き劉備が筵を織って暮らしていた河北省タク州市から出土しものや、ラストエンペラーとなった献帝が貴族として暮らした、穀倉地帯(山陽地区)の穀倉楼なども展示している。写真-1 洛陽で作られた石像「獅子」山東省、2世紀、山東博物館。写真-2 「儀仗俑」と華やかな「酒樽」河南省洛陽市、2世紀,甘粛省博物館。写真-3 「多層灯」と「鏡台」、河北省タク州市、2世紀、タク州市博物館。写真-4 「五層穀倉楼」と「四層穀倉楼」、河南省焦作市、2世紀。写真-5 「三層穀倉楼」と「邸宅」、2世紀、焦作市博物館。写真-6 「倉天碑」 安徽省2世紀、中国国家博物館。
2019年09月15日
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魏・蜀・呉の三国でそれぞれ活躍した英雄の、ルーツなどを紹介するコーナがある。第1会場第1章の文物展示である。3名のなかで曹操が年長だ。魏の曹操:紀元155-220年、没65歳。蜀の劉備:紀元161-223年、没62歳。呉の孫権:紀元182-252年没70歳。 曹操孟徳は、武将であるとともに政治家・兵法家である。高位の宦官・曹謄の後を受け継いて、大尉の位から、丞相をへて魏王まで上りつめた。動員できる兵力は、50万人から80万人とされる。 劉備玄徳は、諸葛亮の天下三分の計に基づき蜀漢を建国した。出自は前漢の中山靖王の庶子・劉貞の末裔とされる。「三国志演義」の序盤に登場する「桃園の誓い」で、関羽と張飛と兄弟の契り、そして死す時は一緒との、誓いが逸話として語り継がれている。 孫権仲謀の先祖は、あの兵法家・孫武とされる。父の孫堅、兄の孫策を相次いで亡くし、19歳で軍閥の後継者となる。同年代の周瑜公瑾の存在が大きかった。映画「レッドクリフ」は、周瑜にスポットが当たっていたようだ。彼は赤壁の戦い(208年)の2年後に、30歳の若さで亡くなった。写真-1 「会稽曹君喪躯」。会稽郡の長官である曹氏の墓と書かれたレンガ板。写真-2 曹一族の墓から出土した副葬品・玉豚(ぎょくとん)と曹操の筆跡。写真-3 豪華な出土品・豹、玉装剣、酒壺は皇室劉家を連想する。写真-4 対外交易が盛んだった海洋国家「呉」ならでの出土品。写真-5 英雄たちの年表。
2019年09月14日
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紀元2世紀から3世紀にかけ漢王朝の混迷に端を発した三国志は、幾多の武将の栄枯盛衰とともに記録された。後に、歴史性を帯びた伝説となって普及した。人物と物語の伝説は、人々の親しみに変わり、そこから詩文や絵画が生まれた。関羽のように神格化される武将もいた。 横山光輝のマンガ「三国志」や、NHK「人形劇三国志」、さらには人気ゲームのキャラクターまで登場する特別展となっている。会場配置は、5章に区分けされている。第1章英雄たちのルーツ、第2章漢王朝の光と影、第3章三国の鼎立、第4章三国歴訪、第5章天下は誰の手に。 三国志の中心人物は、曹操・劉備・孫権であるが、数多く個性ある人物が登場する。「三国志演義」では、1,192人とされる。そのうち武将が437人。膨大な名前が出ては消える。昔、漢字を覚えるのに役立つとよく言われたものだ。 マンガ「三国志」に触発されて、昔小説も読んだ。吉川英二の「三国志」全10巻、宮城谷昌光「三国志」全12巻、北方謙三「三国志」全14巻。各作家の思い入れと物語構成が異なり、興味は尽きない。写真-1 第1会場第1章の部屋中央に立つ関羽像。明時代に製造 [新郷市博物館]。写真-2 孔明出山図。明時代 [上海博物館]。写真-3 関羽・張飛像(清時代)と趙雲像。清時代。写真-4 関帝廟壁画。「黄巾を大破」と「張飛、督郡を鞭打つ」。写真-5 三国故事画。明時代 [天津博物館]。
2019年09月10日
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東京国立博物館の愛称は「トーハク」。明治5年に創設した老舗の博物館だ。最初の名前は、文部省博物館といった。博覧会会場と使用されながら規模を大きくしてきた。戦前の名前が帝国博物館。現在の名称になったのは、戦後の昭和27年。 レンガ造の美しい建物は、関東大震災で大破し使用不能となる。現在の帝冠様式・鉄筋コンクリート造の本館が完成したのは昭和12年(1937)。戦後、昭和37年に法隆寺宝物館、昭和43年に東洋館が増設される。しかし、特別展が度々本館で開催されるようになると、専用の新展示場が時代の要請となり、平成11年に、平成館が完成した。 9月16日まで平成館では、特別展「三国志」が開催。リアル三国志と銘をうって、若い年代層を呼び込む企画もある。特に、会場内での写真撮影が可能としている。スマホよるインスタ映えができる。もちろん、フラッシュや三脚を使用することは厳禁だ。10月になると九州国立博物館へと舞台を替えて、三国志が続く・・。 以後、三国志展を幾つかに小分けして、紹介します。宜しくお願い致します。写真-1 トーハク本館建物と巨大ユリの木を正面から観る。写真-2 噴水公園から国立博物館を望む。写真-3 表慶館前の百日紅を見ながら平成館へ。写真-4 紅いサルスベリの花。写真-5 平成館側からトーハク本館側面を見る。写真-6 上野博覧会と煉瓦造りの美しい美術館[歌川広重3代目]。
2019年09月07日
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