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東日本大震災の被災地の一部を見て回った。主な見学地点は、以下の3市町。(1)岩手県田野畑村、(2)岩手県陸前高田市、(3)宮城県三陸町。目に見える復興事業として、防潮提や水門の建設、高台盛土および震災遺構の整備だろうか。印象に残る復興風景等をアップします。 未曾有の大震災から立ち直るために、復興事業が続いている。政府は、更なる2021年からの5年間を、第2期復興創生期間と位置付けている。質的に異なる大災害を同時に進めて来た。つまり、地震津波被災地と原子力災害被災地とを。復興費用は、14年間で33兆円とも言われている。 一方、ロシアの侵攻により焦土となったウクライナの復興費は、7500億ドル(約100兆円)とも(7月4日報道)。東日本大震災の約3倍規模だ。ウクライナの小麦畑まで爆撃して、収穫と輸出を妨害・・。弱者を蹂躙するロシア。すこし前まで沖縄では、不発弾調査とその処理に多くの時間を費やした。 ロシアの為政者は、エネルギーと情報統制、そして穀物でも人間を服従させようとしている。ロシアの穀倉地に「デメテルの怒り」が及ぶかも知れない・・。デメテルは、ギリシア神話の「穀物の女神」。ゼウスの姉であり妻。写真-1 三階まで津波に襲われたが、1年8か月後に営業再開。写真-2 防潮提の上を走るリアス線電車を思わせる平井賀漁港。写真-3 奇跡の一本松と遺構のユースホテル。写真-4 高田松原再生地と防潮堤。写真-5 南三陸さんさん商店街とモアイ像。写真-6 震災遺構の三陸町防災庁舎と遠方の高野会館。
2022年08月02日
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主に岩手県の三陸地方を旅した旅景色をセレクトした。2011年の東日本大震災から復興した、いやまだ復興中の景色、および魅力的な海岸風景を2回に分けてアップします。 三陸海岸とは青森県八戸市から宮城県牡鹿半島まで、3県にまたがる延長600kmの長大な海岸線。陸奥、陸中、陸前の3国に跨るので、「三陸」とも呼ぶ。これらの沿岸沖では、寒流と暖流がぶつかり、プランクトンが豊富。そのため海の幸に恵まれる沖合と海岸だ。 国内で屈指の景観といわれる三陸海岸。北と南ではその様相が異なる。北三陸は壮大な断崖絶壁が、南三陸は美しいリアス式海岸が特徴。北三陸の代表的な海岸として、北山崎、鴻の巣断崖、小袖海岸など。南三陸の代表的な海岸として、浄土ヶ浜、千畳敷、碁石海岸などある。 限られた旅行行程だったが、心に残ったもの選定した。写真-1 北三陸の海岸風景を代表する北山崎の断崖と奇岩。写真-2 安家川河口と遠望の三崎半島。写真-3 明戸浜から鵜の巣断崖を望む。写真-4 弁天崎の日の出(田野畑村)。写真-5 南三陸を代表する海岸風景。写真-6 養殖が盛んで、豊潤な志津川湾。
2022年07月29日
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雨模様のなか、松島湾内に浮かぶ島々を船で眺める周覧に参加。ツアー旅行なので、時間の変更はできない。団体2グループだけの乗船なので、ゆったりとした船旅になる。風が弱かったので、時折デッキに出て、代表的な奇岩を撮影する。 松島は、日本三景のひとつ。仙台駅から車で40分の距離。松尾芭蕉が「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだ景勝地。松島湾内には、大小260あまりの島と奇岩が浮かぶ。リアス式海岸が更に進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み、山頂が島として残っている。凝灰岩・砂岩・礫岩からなる岩は、侵食されやすく奇岩を形成する。 小生らは、大型観光船「あすか」に乗船して、「政宗コース」を遊覧する。沖合5kmの「仁王島」を大きく回り、引き返す約50分コース。「あすか」は、総トン数99トン×旅客定員210名の船舶。安全運航に感謝して下船する。すると雨が止み、空が明るくなってきた・・。写真-1 松島湾の周覧と五大堂。写真-2 「雄島」と「二子島」。写真-3 政宗お気に入りの「千貫島」と「鎧島」。写真-4 「伊勢島・小野島」と「在城島」。写真-5 仁王像が葉巻をくわえるような「仁王島」と4つの洞門を持つ「鐘島」。写真-6 観光船あすかと島めぐり政宗コース(50分)。
2022年07月26日
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瑞巌寺の南側に隣接する円通院を訪れる。雨降るなか、庭園を散策する。山門を潜ると縁結び観音と石庭が目に入る。石庭は、天の庭と地の庭で構成されている。天の庭は、須弥山を中心に松島湾に実在する七福神の島を表しているという。 円通院は、伊達政宗の嫡孫にあたる光宗の菩提寺。19才という若さで死去した光宗。その死を悼んだ二代藩主忠宗が霊屋「三慧殿(さんけいでん)」を建立する(1646年)。厨子の中に、白馬に跨る衣冠束帯の像を祀っている。厨子にはバラ、水仙、アカンサスなどの西洋的な模様が描かれている。西洋帰りの支倉常長の影響か・・。 本堂の大悲亭は、光宗の江戸納涼の亭を解体移築したもの。禅寺らしい落ち着いた寄棟造萱葺の建物。この本堂広間では、数珠作りの体験ができる。本尊の聖観音像もと、色とりどりの天然石やプラスチックまたはガラス玉でオリジナルの数珠を作ることができる。写真-1 円通院三渓殿と苔参道。写真-2 円通院石庭「天の庭」。写真-3 入園受付の山門と縁結び観音。写真-4 三慧殿の厨子と案内パネル。写真-5 聖観音像を安置する本堂広間で数珠作り体験ができる。
2022年07月25日
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日本三景の「松島」。一方、古来松島は霊場として、人々の崇敬を集めていた。松島の景観と極楽浄土を重ねて、多くの人々がこの地を訪れた。9世紀初期、瑞巌寺の前身に天台宗延福寺が創建される。奥州藤原氏が滅んだ鎌倉期に、臨済州へ改宗して円福寺となる。戦国乱世の中、寺は荒廃の一途をたどる。 関ケ原の戦の後、伊達政宗が仙台に居城を移すと同時に、この古刹の再建に力を入れる。「松島青瀧山瑞巌禅寺」の名称に表れている。先の大戦で焼失を免れたため、桃山様式を今に残す貴重な建築物が残っている。本堂、庫裡、御成門などが国宝に指定されている。 政宗は、伊達家の菩提寺として、強い想いと夢を抱いて瑞巌寺を造り上げた。瑞巌寺の繁栄と存続は、伊達家の繁栄に繫がる。戦乱で亡くなった家臣・領民を弔うための寺院で、領内の平和を実現せさるための精神の拠り所となる。過酷な戦国時代を智力で生き抜いた伊達政宗。「永遠の繁栄と安寧」を強く願う宰相だった。 訪れた日、石斛(セッコク)のピンク色の花が見られた。中門(ちゅうもん)まえの杉の枝に、着生したもの。日本蘭の一種で、松島周辺では「イワタケ」とも呼ぶようだ。絶滅の危機にある貴重種、松島町の「町花」となっている。写真-1 ツインの大杉-中門-本堂と直列配置。写真-2 国宝指定の庫裡と本堂(桃山文化を今に伝える)。写真-3 杉に着生した石斛(せっこく)のピンクの花。写真-4 中門前の苔床と白衣観音像、登竜門。写真-5 海岸から続く参道。本堂中庭と法身窟。写真-6 本堂室中の孔雀の間と松孔雀図[パンフレットより]。
2022年07月22日
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仙石線・松島海岸駅の裏手(西へ約500m)に、西行法師の言い伝えが残る松の公園がある。松島湾を箱庭のように観ることができる。春には桜の名所となる展望台だ。 平安時代、西行法師が諸国行脚の折り、松の下で出会った童子と禅問答して敗れて松島行を諦めたという由来の地。松島海浜公園のエリアで、カフェからも眼前の「松島」を望める。訪れた日は、生憎の雨模様となった。 高台に白衣観音(びゃくいかんのん)堂が建っている。昭和43年に建立されたお堂の中に、白衣観音と千手観音が安置されている。毎年4月下旬に、過去の大戦で散った多くの戦没精霊の冥福を祈るようだ。宮城県では、仙台市泉区に建つ、巨大な「白衣大観音」が有名・・。写真-1 日本三景の松島湾を望む。写真-2 松島海岸の船着場と朱色の福浦橋。写真-3 西行戻しの松公園。写真-4 白衣観音展望台からの眺め。写真-5 桜の時期に訪れたい高台。写真-6 松島白衣観音堂と仙台白衣大観音像。
2022年07月20日
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雨の降るなか、南三陸さんさん商店街を訪れた。先ず、モアイ像そして宝船モニュメントが出迎えてくれる。当地のモアイは、チリ地震以来友好関係を結んでいたチリ(イースター島)から再度贈呈されたもの。地元志津川高校生徒の想いが、チリの人々を動かして実現したという。今や町の復興と絆のシンボルになっている。 現在の商店街は、建築家・隈研吾氏が監修したもので、地産の杉をふんだんに使用。平屋6棟に約30店舗が入居している。震災翌年の2012年に開催した「福興市」が出発点。仮設店舗で地元産物を観光客などに販売して復興の火を灯し続け、2017年3月に本設の商店街がオープン。今後、隣に道の駅「さんさん南三陸」がこの10月に完成するという。 当該商店街は、かつての町の中心地を、8.3m嵩上げした盛土部。すぐ傍を流れる八幡川は、志津川湾に注ぐ。目の前の海は、ラムサール条約に登録されるほどの「海藻の森」。多種多様の海洋生物を育む。商店街名物の「南三陸キラキラ丼」は、豊かに志津川湾が造る逸品と言える。写真-1 南三陸さんさん商店街のモアイ像。写真-2 震災後8.2m嵩上げした盛土版に木造りの平屋が並ぶ商店街。写真-3 南三陸の杉が多く使用した地産地用の建物。写真-4 当該商店街は、モアイとオクトパスがイメージ・キャラクター。写真-5 八幡川(志津川)に架かる木製の「中橋」。写真-6 震災遺構と復興まちづくりパノラマ図。
2022年07月17日
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ホテル観洋から北へ700m行った高台に、「海の見える命の森」がある。国道45号から山側に少し登る。その「命の森」に、地元有志とボランティアが切開き広場がある。土地の提供は、ホテル関係者。ホテルから徒歩15分ほどなので、朝食前の散歩に丁度良い。 志津川湾を見渡たせるこの展望広場に、白い大仏が鎮座している。縁があってミャンマーの方が寄贈したもので、南三陸大仏と呼ばれる。ミャンマーで産出する大理石の彫刻像。白い大仏さまは、異国の顔立ち。2019年、ミャンマーと日本それぞれの僧侶によって、大仏開眼の儀式を執り行われた。 大仏の台座に、3つの願い「鎮魂」、「施無畏」、「興願」が刻まれている。東日本大震災による犠牲者の慰霊と安寧を願う場であり、震災を伝承する丘になってゆくようだ。「伝えよ、千年百年 津波てんでんこ」の石碑を見かけた。誤解されやすい言葉であるが、一刻を争う避難の要諦が込められている。 あの日、南三陸町で起きた被害の一例として、「高野会館(震災遺構)」では年寄り300名ほどが屋上に逃れて無事。一方、公立志津川病院では、病人の避難が間に合わなくて75人が犠牲。明暗を分けた事例・・。写真-1 ホテル観洋近くの「海の見える命の森」。写真-2 志津川湾を一望できる高台。写真-3 志津川漁港と荒島。写真-4 高野会館(震災遺構)と震災直後の公立志津川病院。写真-5 南三陸大仏と震災の伝承石碑。写真-6 ホテル館内の展示テーブル(カリンの木)と出入口のモアイ木像。
2022年07月14日
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宮城県志津川漁港から太平洋に突き出ている神割崎まで、奥行き約4kmの志津川湾。この湾には、八幡川、水尻川など6つ以上の川が流れ込む。三方を北上高地・分水嶺に囲まれ、流れ出る水は里を潤し、豊穣な志津川湾を注ぐ。 沖合では暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかりあう。豊かな漁場と穏やかな湾内とで、ギンザケやワカメ、カキなどの養殖が盛に行われている。海の幸の宝庫と言われる南三陸。しかし東大震災では、沿岸漁業と藻場の施設が壊滅的被害に遭う。養殖業の復活まで約5年を要したという。 太平洋につながる志津川湾を一望できるホテル観洋に泊る。海に抱かれるように建つ白いホテルの特徴は、全室オーシャンビューと水平線を眺めながら露天風呂に浸かることができること。ホテル東館の屋上は、一般開放されている。「潮風の空」と呼ばれ、日の出、星空を観ることが可能。ホテルは、定期的に「スターパーティ」を企画して、星座観測会を実施しているようだ。写真-1 眼下の志津川湾と水平線。写真-2 椿島と神割崎方面を望む。写真-3 志津川漁港近くの荒島と豊穣な海。写真-4 オーシャンビューのホテルロビー。写真-5 ホテル屋上の「汐風の空」。写真-6 夕食と展望露天風呂(ポスター)。
2022年07月12日
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広田湾を望む陸前高田市。大津波により壊滅した沿岸の町・集落は、「高田松原津波復興祈念公園」(略して祈念公園)に生まれ変わった。その中核施設として、「津波伝承館」と「道の駅高田松原」がツインで建っている。施設エントランスから、防潮堤上の「海を臨む場(献花台)」まで一直線に伸びている。 防潮堤天端に設けられた「展望台からは、津波が押し寄せて来た海と復興してゆく高田市街、そして震災遺構が望める。眼下に(高田松原再生地)が広がっている。大津波を阻止するために、3段備えの「防塁」が完成。最前線は第一線堤(鋼矢板+捨て石)、次に高田松原で波力を削ぐ。抑えとして海抜12.5mに第二線堤を構築した。 震災遺構としては、「旧道の駅タピック45」と一本松、そしてユースホテルが見える。また復興遺構として、「希望の架け橋基礎」が残っている。大量の土砂を短期間に、運搬するために架設された「ベルコン専用吊り橋」の基礎コン部分。時間当り6000トンの運搬能力で、延べ500万m3の土砂を運搬したという。復興の立役者である。写真-1 高田松原津波復興祈念公園の祈りの軸。写真-2 防潮堤天端の「海を望む場」と祈りの軸。写真-3 防潮堤と高田松原と説明図。写真-4 復興遺構「希望の架け橋基礎」と活躍したベルコン吊り橋。写真-5 祈念公園と震災遺構と旧道の駅「タピック45」。写真-6 犠牲者と記念公園マップ。
2022年07月10日
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岩手震災復興に希望の「元木」を与え続けた「奇跡の一本松」を観る。英語表記も気に入った。「ザ・ロン・ミラクル・マツ」(The Lone Miracle pine)。一本松の直ぐ近くに、ユースホテルが当時のまま、震災遺構として保存されている。気仙川河口の水門は、高さ30m×幅210m×扉体5門にバージョンアップ。 陸前高田の2011被害が甚大だった。当時の新聞は、街は壊滅したと報じた。人口2万3千人のうち、死者・行方不明が約2000人、倒壊家屋が4000あまり。高田市の南側(太平洋)に広田湾が口を開けている。間口約3.5km×奥行8kmの湾の形状と方向が津波を増幅した一因か・・。津波の高さは17.6m。 7万本もの松が流されたなか、残った1本の木(樹齢170年)。現在、実物台のリプリカ(樹高27.5m×幹径90cm)として保存されている。その横にモザイク画「ヒョロ松君」がある。アンパンマンの生みの親、故・やなせたかし氏のイラストを基に製作しもの。彼の一本松に対する思いが碑に記載されている。写真-1 陸前高田の震災遺構と復興シンボル。写真-2 第2線防潮堤から広田湾を望む。高田松原を再生している。写真-3 第二線堤防と防潮堤の規模案内看板。写真-4 気仙川と改築された河口の水門。写真-5 ザ・ロン・ミナクル松の今昔。写真-6 希望の木と「ヒョロ松君」。
2022年07月08日
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浄土ヶ浜園には展望台があり、「フィールドウォーク」を楽しめる。レストハウス、御台場、マリンハウス、ハマユリ、剛台の5箇所。各所を巡ってみた。レストハウス2階食堂からは、浜側にデッキがあり、浄土ヶ島の奇岩群を一望できる。昼食は、当地名物の「ぶっかけ瓶ドン」を食べる。 「中の浜」のマリンハウスへ行く途中、ハマナスを見つける。震災後に植栽したものだろうか。中の浜からは、サッパ船が運行している。青の洞窟や千畳敷などを観るための拠点。また当浜の南側に御台場の崖が迫っている。この上に御台場展望がある。 レストハウスの西側600mほどの高台に「ハマユリ展望台」がある。松の枝などで視界は良くないが、蛸の浜や砂子島が見えた。途中、アカシア、ヤマボウシ、ダイセンボクの白い花を観る。更に足をのばして、「剛台展望台」に上った後、レストハウスへ戻る。1.5万歩以上を稼いだ。写真-1 青の洞窟などを巡るサッパ船が出港する「中の浜」。写真-2 御台場の断崖と展望台。写真-3 アカシアが咲く頃。写真-4 紅いハマナスと浄土ヶ島。写真-5 ハマユリ展望台と剛台展望台が蛸ノ浜と砂子岩を望む。写真-6 レストハウスでランチ。宮沢賢治の歌碑。
2022年07月06日
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三陸復興国立公園を代表する景勝地のひとつ、浄土ヶ浜を訪れた。三陸ジオパークの中心的な場所で、宮古観光の拠点でもある。海水浴の季節には多くの人で賑わう。2011年で津波被害に遭ったレストハウスや遊歩道等が復興していた。 浄土ヶ浜は、乳白色の火山岩が造る奇岩、岩礁の上に生えている青松(ナンブマツ)そして入江の海色とで、独特の景観を創り出している。常安寺の霊鏡和尚が「さながら極楽浄土のごとし」と称したことが名の謂れ。 流紋質のマグマが噴出した固まった岩石が、波の浸食をうけて奇岩を形成した。流紋岩(りゅうもんがん)は、冷却過程により、板状の節理を伴う。アルカリ質(斜長石や輝石など)の鉱物が少ないので、白っぽく見える。ケイ酸質成分が多いので、硬い岩石だ。荒々しい岩形と穏やかな松とが合わさって、浄土の景観を生み出した。写真-1 三陸ジオパークでもある宮古・浄土ヶ浜。写真-2 奥浄土ヶ浜の名物・鷹岩。写真-3 穏やかな水面の小沼と大沼。写真-4 扁平した砂利からなる「礫浜」。写真-5 荒々しい剣の山と穏やかに青松。写真-6 流紋岩の節理と岩肌が作り出した景観。
2022年07月04日
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三陸鉄道堀内駅を発車して、まもなくすると「まついそ公園」そして沢漁港が海岸線に見えて来る。これらの場所にさしかかると、電車は徐行してくれる。旧北リアス線(久慈-宮古)区間は、2014年4月に開通している。全面開通(久慈-盛間163km)は、の2017年。震災から6年を要した。 堀内漁港の南側に再整備された「まついそ公園」が見えた。海浜公園で、釣り、磯遊び、BQなどを楽しめる。津波で大きな被害をうけたが、2014年に復元した。宮沢賢治の「敗れし少年の歌へる」詩碑は、津波で流されずに残った。 まついそ公園からトンネルをひとつ過ぎると、沢川が注ぐ「沢漁港」がある。ここでも電車は徐行。国道45号線を通す赤いアーチ橋の「堀内大橋」が山手に見える。リアス線を通すのが「大沢橋梁」。この場所は、観光ポスターになるほど風光明媚で撮影スポット。 普代駅で下車する。ホームには、ラッピング列車「かいけつゾロリ冒険号」がすれ違いのため停車していた。駅前広場には、北緯40度東端の地球村と「青の国ふだい」とをアピールしている。写真-1 遠ざかる堀内駅。写真-2 堀内漁港と松磯公園。写真-3 大沢橋梁から沢漁港を望む。写真-4 大沢橋梁軌道とリアス線ポスター写真。写真-5 普代駅とラッピングした下り電車。写真-6 三鉄リアス線乗車証明書他。
2022年07月02日
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三陸鉄道リアス線を久慈駅から普代駅までを、1両電車で旅する。 その距離26kmを40分間かけて走る。トンネルの多い区間ではあるが、海岸風景等を眺める場所もある。そのような場所では、徐行運転してくれる。列車の白・青・赤は、誠実の白、三陸の青、そして鉄道情熱の赤だという。 堀内駅(ほりないえき)の手前に、安家川(あっかがわ)が流れている。アイヌ語のワッカ(きれいな水)に由来し、清涼として知られている。この川を3本の橋が近接して平行に架かっている。海岸寄り国道45号を通す安家大橋。その上流に架かるのが安家川橋梁。視界が開けて海が良く見えるので、ここで電車は徐行する。 朝ドラ「あまちゃん」の舞台となった堀内駅で一時下車する。ユイちゃんがトンネルへ入る電車にむかって、叫ぶシーン。また、このホームから「岬の巨人」が見えるという。三崎半島のガケ模様がそのように見えるらしい。その写真がホームに掲示。電車の前で各自、「あまちゃんガイド」と記念撮影。そして電車が動き出した。写真-1 久慈駅ホームの搭乗電車。と別の待機電車。写真-2 田野地区の海岸防潮堤と新設の水門。写真-3 安家大橋(国道45号)と安家川橋梁。写真-4 安家川橋梁と下安家漁港。写真-5 三崎半島と「岬の巨人」。写真-6 堀内駅ホームからトンネルと堀内魚港を望む。
2022年06月30日
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久慈駅から三陸鉄道に乗車する予定。その前に時間調整の意味もあって、道の駅久慈・やませ土風館に立ち寄った。買い物を済ませて、歴通路(レトロ)広場-久慈銀座通り(国道281号)をぶらつく。道の駅は、久慈駅から西へ500mほど。国道から通りひとつはずれ場所に、2008年にオープンした。 道の駅の施設は、物産販売の「土の館」と観光交流の「風の館」からなる。風の館には、久慈秋まつりに使用する絢爛豪華な山車(備前組)が展示されている。津軽家の始祖にあたる大浦光信軍と安東水軍との合戦をイメージした山車。な高さ12m×幅10m。市内8組の山車が、祭り当日銀座通りをパレードするという。 土の館には、昭和アイテムを展示したレトロ館があり、通り挟んで歴通路広場がある。この広場も昭和の雰囲気。横丁風にして、5店舗が並ぶ。短各牛を食べられる「たむら屋」が人気とのこと。駅に着くと、太古ロマンのまちとアピールしている。2018年にティラノサウルス類の化石が発見されたことにもよる。写真-1 道の駅久慈「やませ土風館」。写真-2 風の館に展示されている備前組の山車。大浦光信軍と安東水軍の戦い。写真-3 土の館2階の「レトロ館」。写真-4 昭和の横丁風の「歴通路(レトロ)広場」。写真-5 久慈銀座通りと「三船十段之像」、山車パレード。写真-6 三陸鉄道・久慈駅前広場のようす。
2022年06月28日
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田野畑・ホテル羅賀荘の前浜に、小さな漁港がある。防波堤の前面に、無数の波消しブロックが積まれている。防波堤の内側には、手摺が設置されおり、先端展望台まで散歩できる。防波提からは、潮風を感じながら弁天崎やひらなめ海岸、およびイシ浜を見渡すことができる。 白亜紀の化石産地として知られる「ひらなめ海岸」。羅賀集落から明戸にかけて崖下に広がる海岸だ。白亜紀の海底が隆起し、約30度太平洋側に傾いている。県道44号から覗くと、荒波に削れて「鬼の洗濯岩」のように見える。三陸ジオパークのひとつである。 ホテル前に幕府軍艦高雄号に関する「歴史散歩パネル」が設置してある。防波提先端方向、弁天崎の手前に位置するのが「石浜」。政府軍の新鋭艦に追われて、この崎で座礁したという。2本マストの高雄は、秋田藩が米国から購入した蒸気船。艦長41m×大砲5門を装備していたとされる。写真-1 羅賀荘から弁天崎を望む。写真-2 羅賀漁港と防波堤。写真-3 傾斜する白亜紀の堆積岩。写真-4 平滑(ひらなめ)海岸と防波堤先端が向い合う。写真-5 幕府軍艦「高雄」沈没の解説パネル。写真-6 石浜方面と古戦場説明パネル。
2022年06月26日
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三陸鉄道リアス線・田野畑駅(愛称カンパネルラ)から海側へ400m歩くと、平井賀漁港がある。漁港から平井賀川に沿って遡上する流れをせき止める、水門の機械室がユニークだ。三陸鉄道の電車をデザインしたもの。この「電車水門」を中心に、城壁のような防波提が築かれていた。 平井賀の漁村集落は、東日本大震災の津波で、家屋が流された。高台の住家も、一時孤立したという。ホテル羅賀荘に通じる道路トンネル(L=400m)も水没した。トンネル出口に、大きな防潮堤のコンクリート壁が迫る。但し、常時には車が通行できるように、横スライド式の水門が設備されている。 三陸ジオパーク・ジオサイトに指定されている平井賀漁港。白亜紀の地層が露頭している。一部の地層から化石(サンゴ、二枚貝そのた)が発見された。また、太古から繰り返されてきた津波の歴史に触れることができるという。大正14年、三陸を旅した宮沢賢治の「発動機船1」歌碑が同地区にある。写真-1 田野畑村・平井賀漁港。写真-2 「電車水門」と新たに建設された防潮堤。写真-3 平井賀集落と三陸鉄道駅そして宮沢賢治歌碑。写真-4 羅賀トンネルと防潮堤との関係。写真-5 平井賀漁港に露頭している白亜紀の地層。写真-6 大津波被害うけた平井賀地区と水門機械室。
2022年06月23日
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ホテル羅賀荘から北へ約1.2km行くと、白い砂浜・明戸浜(あけどはま)に到る。この浜一帯も、東日本大震災で被害をうけた。震災前、明戸川とクロマツの保安林が広がった美しい砂浜だった。夏には、ワカメ干し作業に汗を流す海岸でもあった。 明戸海岸には、チリ地震の津波を経験して、高さ9m×長さ378mの防潮提を築いていた。しかし、あの日の大津波(波高17m)は、軽々と超えて濁流にのみ込まれた。震災後、検討・協議を重ねて、高さ12m×長さ350mの防潮提を再構築した。その構造は、堤頂幅11m盛土+表面保護コンクリート盛土タイプ。 旧防潮堤と破損した一部を残置して「震災遺構」として保存している。一帯を「明戸浜園地」に整備して、未来に語り継ぐ場所にした。この浜からは、三陸海岸の景勝地のひとつ「鵜の巣断崖」が見える。高さ200mが5層に連なる景観、そしてウミウの営巣地だという。写真-1 明戸川が流れ込む明戸浜。写真-2 白い砂浜。鵜の巣断崖を望む。写真-3 津波で破壊された旧防潮堤。写真-4 震災遺構として保存されている旧堤防の一部。写真-5 高さ12mの新防潮提とその案内看板。写真-6 あの日の大津波とその直後の明戸浜状況。
2022年06月21日
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北山崎断崖を構成する弁天崎を望むホテル、羅賀荘(らがそう)に宿泊する。食べきれないほどの夕食、そして展望風呂を浸かった後、早々に就寝する。翌朝、弁天崎付近から昇る朝日を観るために・・。食事の折り、当ホテルの売りは、「星降り、日の出する宿」だと女将さんが言っていた。 4階の小生らの部屋からも弁天崎と太平洋を見渡せる。朝4時過ぎからガサゴソするため、日の出直前にはホテル前の海岸に出る。二つの岩の間から昇る日の出がベストであるが、訪れた日は、岬側の陸中弁天埼灯台辺りから昇って来た。灯台へは県道44号脇の駐車場から海側へ200mにあるという。 ホテル羅賀荘は、東日本大震災時、3階部分まで津波が襲ったという。しかし1年8カ月後の2012年11月には、ホテルを再開する。海抜5mほどに建つ建物は、将来また被害を受けるかもしれない。移転することなく、「潮騒の宿」にこだわって営業して行くようだ。建物そのものは、シンプルな構造で、丈夫にできていると思った。写真-1 北山崎断崖を構成する弁天崎の日の出。写真-2 ホテルの部屋から日の出前の弁天崎を望む。写真-3 ホテル前の海岸から朝日を観る。写真-4 朝照の海と弁天崎。写真-5 ホテル脇の断崖と津波の爪痕(3階部分)。写真-6 ホテル羅賀荘の食事と展望風呂そして星降る夜。
2022年06月17日
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海のアルプスと称される三陸の北山崎断崖。高さ200mの断崖と奇岩怪石、海蝕洞窟などが約8kmにわたって続く。北山崎ビジターセンター近く、海側にせり出した展望台から絶景を眺めた。第1展望台はウッドデッキのバリアフリー。ここから350段の階段を下りると、第2展望台だ。 北山崎断崖から鵜の巣断崖へ続く海岸線は、「三陸復興国立公園」。かつジオパーク指定の場所がある。弁天崎より北側は、前白亜紀(約1.2億年前)に火成活動があった地層が隆起したものだという。太平洋の荒波で侵食されて、今日の景観が出来た。 当初の旅行スケジュールでは「断崖クルーズ」を予定して、出発港近くのホテルが宿泊地。しかし、天気晴朗なけど波高しで欠航となった。海上からダイナミックな断崖を眺めることは叶わず。知床半島沖の観光船沈没事故をうけて、船会社がより慎重になっている。安全が第一だ・・。 北山崎の断崖に群生するシロバナシャクナゲは、本州の海岸では希少植物。ビジターセンターの裏側に、植栽した散策路がある。人口約3千人の田野畑・村の花は、シロバナシャクナゲ(白花石楠花)・・。写真-1 いわて三陸の絶景、北山崎断崖。写真-2 第一展望台から矢越崎・ローソク岩、そして眼下にミサゴの営巣地を望む。写真-3 第二展望台から矢越崎と彼方の重茂半島の月山を望む。写真-4 太平洋の波に洗われる岩群。写真-5 第一展望台と第二展望台のデッキ。写真-6 ビジターセンター広場とシロバナシャクナゲ。
2022年06月14日
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湧水量が多く、湖の水深が大きい岩泉龍泉洞。日本三大・鍾乳洞のひとつで、昭和13年「岩泉湧窟(ゆうくつ)および蝙蝠」として国が天然記念物に指定。調査された洞窟の総延長は、4088mにも及ぶ。そのうちの700mほどが一般に公開されている。 龍泉洞の特徴は、ドラゴンブルーと呼ばれる深い青色に輝く地底湖。第一地底湖から第三地底湖までを覗くことができる。その中でも第三地底湖は、その水深が98m。更に鍾乳洞全体からの湧水流は、大量の毎秒1500ℓ。周囲の森林地帯に育まれ、ミネラル豊富な勇水は、上水道やお土産として利用されている。 龍泉洞に住むコウモリは、「キクガシラコウモリ」など5種類が確認されている。そして凍てつく冬期には洞窟内で冬眠をする。観光通路や壁にぶら下がる姿を観ることができる。4月初めには冬眠から覚め、虫などを捕食するようだ。ウィルスの自然宿主であるコウモリは、医学的に注目されている・・。写真-1 岩泉の龍泉洞に潜入。写真-2 龍泉洞橋を渡り鍾乳洞の入口へ。写真-3 洞内気温11度のなかを歩く。写真-4 第一地底湖と第二地底湖を覗く。写真-5 第三地底湖覗きと説明パネル。写真-6 鍾乳洞内のワイン熟成庫と出口への燈篭。
2022年06月12日
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新幹線盛岡駅から国道455号を岩泉市へ向かって観光バスで移動する。盛岡市と岩泉市の境にある早坂峠は、従来交通の難所であった。南部牛追いの道、小本街道と言われた。2014年に早坂トンネル(L=3115m)が開通して、龍泉洞などへのアクセスが改善された。 早坂トンネルを過ぎ7km進み、道の駅「三田貝(みたがい)分校」でトイレ休憩。旧門小学校三田貝分校をイメージした外観。給食室と名付けられた食堂には、懐かしい机と椅子が並ぶ。地元生乳を使った専用チーズで作るピザが人気という。小生らは濃厚な牛乳ソフトクリームを食する。 三田貝分校は、明治22年開校し、ピーク時には児童100人(昭和7年)を超えた。しかし過疎化により1999年に廃校となる。この辺りは炭鉱業で栄えた村。給食室のメニューに「炭鉱ホルモン定食」なるものがある。往年を偲ぶ一品。道の駅を出発してまもなくすると、旧岩泉鉄道の橋梁が姿を現す。 コロナが落ち着いたので、バスツアーに参加した。三陸海岸風景と震災復興状況を見る旅となる。バスと三陸鉄道リアス線を利用して、仙台駅に至るコース。「いわて三陸の旅」をシリーズとして掲載します。写真-1 国道455号 道の駅「三田貝分校」。写真-2 盛岡市内昼食場所から見た手岩手山。写真-3 食事処・初駒で盛岡三大麺ランチをいただく。写真-4 南部牛追いの道脇の三田貝分校と路線バス。写真-5 三田貝分校をイメージしたノスタルジック駅舎。写真-6 分校の給食室とメニュー表。
2022年06月09日
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