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米アップルが、世界的に人気のあるロックバンド「U2」の新作アルバムを同社の音楽配信サービス「iTunes(アイチューンズ)」の5億人のユーザーに向けて無料配信を行ったところ、ユーザーから苦情が殺到した。とりわけU2になじみのない若者らは、欲しくもない一斉配信サービスに腹を立てている。 「U2って誰?」「誰がわたしのアイチューンズにU2を入れたの?」「悪い冗談だろ」「削除してくれよ」「こんなのいらない」 無料配信以降、利用者の一部はネット上にこんな不満をぶつけた。音楽業界に詳しいボブ・レフセッツ氏は「聴きたくもない曲を勝手に端末に入れられて、これほど頭に来ることはない」とブログに書き込んだ。 U2の5年ぶりの新譜「ソングズ・オブ・イノセンス」の無料配信は、アップルが9日に開催したスマートフォンの新型モデル「iPhone(アイフォーン)6」と腕時計型情報端末「アップル・ウオッチ」の発表会にU2が出演し、大々的に発表された。 ☆「U2って誰?」。うーん・・・。ただ、配信される側の許可も取らずに、「U2なら喜ばれるだろう」という思い込みはバツだと思う。 私なら、AKBが送られて来たら怒り狂うから。削除するのにお金がかかるというし。 アップル、こんな読み間違いをして大丈夫か?
2014.09.24
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明日から22日まで帰省してきます。
2014.09.19
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『NHKさかのぼり日本史 (2)昭和 とめられなかった戦争』加藤陽子 NHK出版 を読みました。 第一章が「敗戦への道」。この章での加藤さんの問題設定は、「1945年(昭和20年)8月の敗戦以前の時点において、戦争を終結させなければならないと日本側が判断を下すべき機会があったとすれば、敗戦のほぼ一年前、サイパン失陥の時点だった、このときに戦争は終わらせるべきだったと考えています。この機会を逸したことで、日本はより悲惨な戦いを強いられ、敗北を重ね、被害を一挙に増大させていくことになったからです」というものです。 かなり以前になりますが、太平洋戦争を教えるための教材の一つとして、私が住んでいた明石市西部の町の遺族会の方にお願いをして戦死者名簿をお借りし、誰が何年何月何日にどこで亡くなったのかをパソコンに打ち込んで整理してみたことがあります。1945年に入ってからの戦死者の数はまさにうなぎ上りであり、「いったい何があったのか?」という疑問につながります。プリントして配布しました。 この時史料として同時にプリントしたのは、『太平洋戦争の歴史』黒羽清隆 講談社現代新書(現・講談社学術文庫)です。 「そして、やがて、このマリアナ基地群に、おそるべき『空の殺し屋』超大型空の要塞・ボーイングB29がやってきた。(第一陣到着は、10月12,13日ごろという) 昭和19年9月の大本営の掌握データについてみるに、爆弾4,54トンと燃料18トンをつんでとんだばあい、巡航高度・7630mで行動半径・2640キロとなり、東京・マリアナ諸島間・約2500キロに適合的となる(益井康一「超空の要塞B29」1971年) しかも時速500キロ(零戦が550キロ)で1万メートル上空を飛び(アメリカ陸軍省公表)、日本軍のデータでは、高度9500メートルで最大速度580キロとみなされた。また武装は、20ミリ機関砲6門(弾数各300発、「零戦」は20ミリ機銃二挺)と12,7ミリ機関砲16門(弾数各500発 「零戦」は7,7ミリ機銃二挺)、というもので、要するに、はるかに軽い「零戦」と同じ攻撃能力を持った「空の要塞」だったのである」 加藤さんの本では、サイパン島の激戦の様子、そしてマリアナ沖海戦の両方が描かれます。 日本は完敗。そして、サイパン増援計画は中止、「制空権・制海権を握られて救援も来ないとなったら、4万4千人の大部隊も孤島の守備隊と同じで、米軍の火力と物量の前に消耗を重ねていくしかないのです」 「絶対国防圏」は崩壊し、本土空襲が始まり、太平洋の島々に点在していた日本軍の将兵、民間人たちは見捨てられます。そして、降伏の権限は与えられませんでした。 『レイテ戦記』で大岡昇平は記しています。 「近代の戦争は、職業的に訓練された軍事力によらずには行われない。歩兵についていえば、それは開けた第一線において弾雨を冒しての突撃、陣地死守ができねばならない。これは組織された教育と、国家に身命を捧げた職業軍人の存在を前提とする。しかし一般国民にこれを課するのは治者として残酷であり、不仁である。国民は国家の利益の外に、おのおの個人的家族的な幸福追求の権利を持っている。従って軍が徴募兵に戦いを続けさせる条件の維持に失敗した場合、降伏を命令しなければならない。そのため諸国は、互いに俘虜に自軍の補給部隊と同じ給与をあたえ、あとで決済する国際協定を結んでいるのである。しかし旧日本陸軍はこの国際協定の存在を国民に知らさず、『生きて虜囚の辱めを受けず』と教えて、自決をすすめた。本土決戦のような夢物語のために、国民の犠牲を強要するのは罪悪である。国民に死を命じておきながら、一勝和平の救済手段を考えるのは醜悪である」『レイテ戦記』中公文庫 下p290 職業軍人、特に階級が上の連中が「国家に身命を捧げ」なかった例を私たちは忘れてしまったのでしょうか。「戦争」という命のやり取りの場においては、本来は認識そのものがリアルさに徹底することが求められます。ところが、参謀クラスの無能さ、現実認識の喪失、「こうあってほしい」という期待と現実との取り違えを加藤さんは一つ一つ指摘していきます。 読んでいて「そういえば」と連想したことがあります。NHKで放映している将棋の対戦ののちに行われる解説です。プロでも「失着」というものはあります。それが少ないほうが勝利するという展開もあります。また、「敗着」という手もあります。負けに直接つながる悪手です。 サイパン失陥の段階で、将棋で言えば、飛車も失い、角もとられ、玉の周りには香車と桂馬しかいないという状態だったと言えるのではないでしょうか。 しかしそれでも戦争を継続した。そして、「まともではない作戦」、特攻などの「初めから生還を期すことのない攻撃作戦」が下命されます。 特攻によって命を散らせた若者を悼む気持ちは私にはあります。しかしそれ以上に強いのは、当事者によって「作戦の外道」と呼ばれた作戦を下命した指導者層の無責任、無能力、卑怯さに対する怒りです。指導者層の無能ぶりに対する記述は最小限、特攻に命を散らせた若者たちに対する共感を強要する本がベストセラーになり、映画化される時代に私たちは生きています。健忘症の極みです。 加藤さんは、東条について「権力主義、強硬な戦争遂行論、偏狭な精神主義」と評しています。自殺に失敗するという失態を演じ、のちに絞首されたこの男を「昭和殉難者」として祀る神社に国会議員がゾロゾロ参拝する。これを醜態と私は思います。 第二章「日米開戦」、第三章「日中戦争」、第四章「満州事変 暴走の原点」と「さかのぼって」行く歴史。さらに第一次大戦、日露、日清と見ていくと、やはり大岡が『レイテ戦記』に記した以下の言葉が具体的な像として浮かんできます。 「歴史から教訓をくみ取らねば、我々は永遠にリモン峠の段階にとどまっていることになる。ただしこれは必ずしも旧日本軍の体質の問題だけではなく、明治以来背伸びして近代的植民地争奪に仲間入りした日本全体の政治的経済的条件の結果であった。レイテ沖海戦におけると同じく、ここにも日本の歴史全体が動いていた。リモン峠で戦った第一師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史全体と戦っていたのである」中巻p218 次は、『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)を再読します。傍線を引き、書き込みをしながら味読したいと思っています。
2014.09.19
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『法の番人』内閣法制局の矜持 阪田雅裕(第61代内閣法制局長官)・川口創 大月書店 を読みました。 安倍内閣が集団的自衛権を閣議決定をしたことに対して、数人の元内閣法制局長官が実名で批判をしたという異常事態が起きているのですが、この本は、聞き手に川口創弁護士という人を得たことによってポイントを的確に押さえた仕上がりとなっています。 内閣法制局とは、一言でいえば「憲法の番人」と言っていい機関です。様々な省庁は自分のカバーする範囲において法令を所管しますが、憲法に限って言えば、どの省庁の所管でもないので、内閣自身が所管をし、法制局が中心的にその解釈を担うという構造になっています。 阪田さんは、川口さんの問いに答えて、PKOによる自衛隊の海外派遣、イラク戦争への派遣、さらにテロ対策特措法などについて、法制局がどのように解釈を行ってきたかを、自己のかかわりの深さの程度に応じて説明をされています。 とにかく、ぎりぎり一杯の線は、「自衛隊は海外において武力行使を行わない」という憲法第九条を根拠とする解釈です。 阪田さんは、自衛隊がなぜ合憲であるのかについて以下のように語っています。 <自衛権発動に必要な三つの要件> 自衛隊の役割は申し上げたように、外国から侵略があったときにそれを排除するということですから、なによりもまず(1)急迫不正の侵害があること、すなわち、武力攻撃が我が国に対して加えられるという事が大前提です。自衛隊が実力を行使するのは、論理的にそう言う事態に限られるはずです。さらに、攻撃があったからと言って、常に必ず反撃をするというのではない。平和的に事態を解決できる場合には、実力行使の必要はないわけです。自衛隊の行動というと何か他人事みたいですが、生身の人間がやるものですから、国民が無事でも自衛隊員に犠牲が出るということもありうる。そういう犠牲も可能な限り避けるというのが政府のあるべき姿ですよね。武力攻撃=急迫不正の侵害があったから直ちに出動というのではなくて、他に手段がないかを十分考える。そして、自衛隊が実力を行使しなくても、解決できる方法があればそれを取るのだという事です。ですからもう一つの要件としては(2)侵害を排除するために他の適当な手段がないという事だと言っています。それからもう一つの要件として(3)必要最小限度の実力行使の範囲にとどめるという事も言っていますが、これは発動の要件というよりは、実力行使をする場合にそれが許される範囲という事になりますね。 問題は外国から武力攻撃を受けたときに、国家はどうすればいいかという事です。九条がある故に無抵抗だというのが、果たして憲法の予定するところであろうかということです。やはり国家としては、国民の生命や財産が危機に瀕するような状況でも指をくわえてみているというのがあるべき姿であるとは思えない。そういう不正な攻撃に対処する、少なくとも人権が侵害されている状態を排除するというのは、主権国家として最低の責務ではないか。そういう意味でのいわゆる自衛権がある。国をまもるというのは、別に抽象的な国ではなくて、そこで生活している国民一人一人の命を保障し、財産の安全を確保するという事で、それは主権国家としての責務でもあり権利でもある。自衛隊が発足してからは一貫して変わらない政府の立場です。 この阪田さんの考え方は、憲法と自衛隊との法的整合性を追求してきた人ならではのものです。 加藤陽子さんと佐高信さんの対談の中で紹介されていた栗栖元統合幕僚会議議長の発言は、これに照らせば誠に異様なものでした。彼は、自衛隊は国民を守るためにあるのではないと公言しました。では何を守るのか?「国体」だそうです。 戦前・戦中と、使う人間によってコロコロと中身が変わり、まるで鵺のように使われた「国体」という言葉。栗栖は1920年生まれですから、敗戦の時は25歳。その時の脳みそのままで歳だけ重ねた人間であったとしか言いようがありません。 閑話休題。 「我が国に対する武力攻撃」に対する川口さんの見解は、以下の通りです。 「それはあくまで『国または国に準ずる組織』による武力攻撃という事です。」 阪田さんが受けます。 「加えて、たとえ軍隊によるものであったとしても国家としての意思と認められない場合がありうる。一部の部隊の暴発と言った場合も、それはやはり「我が国に対する攻撃」とは考えないという事です。」 内閣法制局は、自衛隊の海外派遣に際して、九条との整合性を常に考え、自衛隊が海外で武力行使に及ぶ事態を一貫して「許されない」としてきました(第二章に詳述)。その積み重ねの上に立っての、「集団的自衛権は許されない」、「もしも許されるとするのであれば、九条を変えるしかない」という立場なのです。 憲法規範というのは、一内閣がこうしたいと思ったからと言って、変えられる性格のものではない。憲法の枠内でどの内閣も動くのでなければ、立憲主義は成り立たないわけです。気に入らないから俺たちはこう解釈するということは出来ないという事です。 「集団的自衛権」について、「現代社会」の教科書には以下のように説明してあります。 「同盟関係にある国家が攻撃を受けたとき、自国が攻撃を受けなくても、防衛活動に参加する権利」。 これは明らかに、自衛隊の海外における武力行使を容認する考え方です。 「集団的自衛権は国際法では容認されているのに憲法上は行使できないというのはおかしい」という論に対して、阪田さんは明確に言い切ります。 法律学のイロハみたいなものですが、国際法というのは単に国家間の約束ですから、そこで禁じられたこと以外は国家は何をやっても許される。けれども、憲法はそういう国家を国民の意思によって縛る規範ですから、これは他の国がどう考えるかとは関係なく、国家に対して、何を許し何を許さないかという事をまさに国民の意思によって決めているわけです。 川口さんの、「この問題に直面して、私たちは何をどう考え、議論をするべきだとお考えですか」という問いに対して、阪田さんは、以下のように答えています。 「ムードや感覚ではなく、論理の問題として考えてほしいと思っています。特にこれは憲法という法令の理解の問題ですから、どちらが好きか嫌いかという問題ではない。立憲主義の原点に立ち返ってというと大げさですが、理屈として何が正しいのか、日本語の読み方として納得できるか否かということを、ぜひ考えてもらいたいと思います。」 まことにタイムリーな、そして「憲法」、特に「九条」について改めて考えさせられた本でした。
2014.09.17
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「加藤陽子」と入力して検索したら、いろんなページに行きあたりました。「阿修羅」という掲示板があり、侃侃諤諤なのですが、加藤さんの論を「トンデモ」と批判する人々の論旨は、「日本国内の動きばかり問題にしていて、日本を取り巻く諸外国の動きに無関心」というものが大半でした。 これひとつとっても、「本を読まずに著者を批判する」人士の如何に多い事かが知れます。加藤さんの著書の特徴は、日本が置かれていた状況の中で、諸外国はそれをどのように見ていたのか、また、日本はそれに対してどのように対応したかが豊富な資料を使って論証してあることなのです。 また、「批判」(?)者の悪口雑言の種本は、西尾幹二「自ら歴史をおとしめる日本人」現代史研究会 です。 ワタクシ、批判するときは読んでから・・・と思っていますので、読みました。まさに「堪えがたきを堪え、しのびがたきをしの」んで読みました。 以前に、ワタクシは、氏の『国民の歴史』という本を読んだのですが、「この本を歴史の本だと思う人もいるんだな」と思いました。「国民の歴史」というなんとも大げさな題に反して、書いてあることは縄文時代の日本がいかに素晴らしかったかという事が大半を占めていました。 その時点から全く進歩していません。 歴史家の著作を批判しようとするなら、その方の著作に全て目を通し、思い込みを排して私心なく読まねばならないのですが、なにせご本人に近現代史の素養がないものですから、「私の日ごろ信じていることと違うことが書いてある」という単純な怒りの表出の場と化しています。 ワタクシ、すでに還暦を過ぎました。駄本を読んでいる時間はありません。 真面目に勉強しようと思っています。
2014.09.15
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加藤さんの本を読み進んでいます。 『戦争の論理』(勁草書房)『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館)『戦争と日本人』(角川新書)『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社)読了しました。 日清日露から太平洋戦争までの期間をカバーするのは大変な努力を要することは私のような素人でも理解できることなのですが、一次資料に当たり、膨大な量の研究書に目を通し、従来の「定説」に対して違う角度から切り込む力量は、これはもう大変なものです。 とにかく、付箋を貼って読んでいるのですが、どのページにも付箋が必要という状態で、勉強不足を痛感しています。 読み通して行って、手元においておきたい本は、価格と厚さの関係で『戦争と日本人』、『戦争の日本近現代史』の二冊です。これは、買おうと思います。 ずっと読んでいって、「記憶に残る箇所は残るだろう」と半ばあきらめの境地なのですが、自分なりにもう一度整理しておきたいのはやはり明治・大正・昭和という時代です。 深く印象に残った部分を紹介します。『戦争と日本人』のなかで、原敬暗殺の報に接した大杉栄が、傍らにいた佐藤春夫に、「やつたのは子供なのだね」とだけ言ったという部分です。刺殺犯の中岡艮一は当時19歳ですから、まさしく「子供」なのですが、対談相手の佐高さんの「要するに、子どもっぽい短絡的な衝動で起こしてしまったということですね?」という問いに対して、加藤さんは「そういう意味にとれると思います」と受け、中岡の動機を弁護士資料から推察し、中岡がその後、無期懲役となり1934年に大赦で釈放されているという事実を紹介し、中岡の後ろにだれかがいたのではないかと話は進んでいきます。 また、『徴兵制と近代日本』についても話は及ぶのですが、「不幸の均霑(きんてん)」という言葉が出てきます。「徴兵令は何度も改正されることによって、当時の社会では一般的であった絶対的な階層差、教育水準の差による不公平を均一的になめしていく法令になっていくという面もあるのです」、「大学生は徴集猶予によって不当に保護されていたと言われます。しかし戦争末期においては、知識階層への徴集は一般的な聖年男子の徴集率と変わらない、79%となります。国がそれをやった時、一般の国民は正直、『いい気持ち』がしたのではないかと。『なんであのひとたちだけ免除されてきたのか?』などと不満を抱く人たちの感情に、国家はうまくおもねっていった」と加藤さんは指摘します。 この「見せかけの平等感の創出」は、婦人会活動などでも見られたことは以前から指摘がありました。 「不幸の均霑」、「みんな等しく不幸にする」、そのような幻想をばらまくことによってしか日本は戦争を遂行できなくなっていったともいえるかもしれません。 「幻想」といえば、『昭和天皇と戦争の世紀』のなかに、当時ハーヴァード大学留学中であった鶴見俊輔の回想が紹介されています。 「自分だけ騙さずに他人をだますのは難しい。日本の政治家はそこまで賢くない。長い間日本の軍事力と工業力について国民をだましてきたツケをやがて払わなくてはならないだろう」 「原発の安全神話」、「集団的自衛権」などもそうなのでしょうが、鶴見の言葉と見事に重なってきます。 戦後70年が経とうとして、重要度を増してきたのは、「あの戦争」から日本人は民族としてどのような教訓を得たか、ということではないでしょうか。大岡昇平は、『レイテ戦記』において、「健忘症の日米国民」と書きつけています。 韓国や中国に対するほとんど扇情的と言っていい本が平積みで本屋の店頭を飾り、脊髄反射に近いような憎悪をかきたてる週刊誌の見出し、一歩引いて冷静に物事を見る「大人」の減少と、「子供」むきだしの言論の増殖は、知的水準の確実な低下を見せつけられているようですが、加藤さんの書いた本が読まれていることは小さな光明かもしれません。 もう少し頑張ってみたいと思います。
2014.09.13
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