全11件 (11件中 1-11件目)
1
『スターリン』(横手慎二 中公新書)を読みました。 著者の問題意識は、スターリンという人物に対するロシアとロシア以外の世界での評価のずれをどう考えればいいのか、という点です。 「スターリン没後50年になる2003年になされたロシア国内の世論調査では、彼の役割を肯定的に見るものが34,7%、否定的に見るものが40,3%だった」(はじめに)という数字は、いささかながら私を戸惑わせます。 「農業集団化に伴う飢餓や大粛清といった暗い過去を...事実として認めている現在のロシア人が、それでもなおスターリンを一方的に断罪するのは正しくないとみなしている以上、彼を知らないのは彼らではなく、私たちかもしれないと考える」と著者は指摘します。 スターリンについての基本的な本をまだ読んでいない(ドイッチャーの『スターリン』は、途中まで読んでそのままほったらかしにしています)私にとって、この本は、参考になりました。 第一章では彼の生い立ちが記されています。第二章では、神学校へ入学したものの、神学校のあまりのひどさに革命家へと変貌していく姿が記されています。第三章では、何度も流刑にあいながらも国内にとどまり続ける彼の苦節の日々、そしてレーニンとの出会いが記されています。 第四章「革命と内戦の日々」では、「レーニンまではまともだったけれど、スターリンになってからおかしくなった」というロシア革命観、ソビエト観が、1990年になって公開されたレーニンの書簡などを引用しながら正しくないことが明らかにされます。レーニンは、農民たちの反抗に対して容赦ない弾圧(十分に見せしめとなるような)を指示し、スターリンは「レーニンから農民の抵抗に対処する仕方を学び、やがてスターリン自身が統治者となった時に、師の行動を想起する」(p110)と著者は指摘します。 第五章「権力闘争の勝者」では、革命直後は討議機関として機能していたソヴィエトが急速に共産党に支配されるようになり、他党派の人間は排除されていく過程、そして、「資本主義国との関係をどうするか」、「工業の発展を達成するためには農民の犠牲は必要なのか」という問題に共産党がどのように対処しようとしたのか、その中でスターリンが果たした役割が述べられています。 第六章「最高指導者」。ここで集中的に記されるのが、重工業重視の五か年計画と農業の集団化の現実です。1929年に始まる世界大恐慌の中で順調に成長し続けるソヴィエトの経済政策に世界が注目する一方で、農民たちに対する穀物の徴発、反対するものの粛清、餓死者の続出といった事態が進行していきます。「飢えて死んだ者の数は現在も正確には算定できていない。多くの研究者は、国勢調査などの史料を利用して400万人から500万人ほどだったのではないかと推測している。つまり、第一次大戦で死亡したロシア国民よりも多くのソ連人が、この時期の政策の結果として命を落としたのである」(P191) この事態をスターリンは、「急進的工業化政策によって強大な軍事国家を建設した」(P205)ことによって正当化します。 「大粛清によって多数の経済専門家を排除してもなお、『計画経済』は国内各地に重工業の拠点を生み出していた。戦争を予想して西側の国境近くばかりか、ウラルなどソ連の中央から東部地域にも拠点が建設されていた。当然、航空機、戦車等々の兵器、そして弾薬の生産工場が急速に拡充されていた。この結果、軍需産業の総生産高は、1937年には77億5920万ルーブルであったが、翌1938年には106億7140万ルーブル、さらに1939年には159億30万ルーブルへと増大した。そのうち、航空機生産の増強は、特に目覚ましく、1939年には1937年の二倍以上の生産高となった。 スターリンは間違いなく、彼のこれまでの政策によってとてつもない数の犠牲者を出してしまったことを理解していた。しかしそれでも、これだけの成果を挙げていれば、近い将来に起こる戦争が、必ずや自分のこれまでの政策を正当化すると自分に言い聞かせていたと思われる。戦争の脅威はすぐそこに迫っていたのである」(P205~6) 第七章「ヒトラーとの戦い」。ミュンヘン会談をスターリンは、「資本主義国が結束してドイツをソ連にむかせる策」だと理解し、自国の安全保障のために「独ソ不可侵条約」を結び、世界を震撼させます。しかし、ヒトラーは、約束は破るためにあると考えるような人間であり、突如ソ連に対する攻撃を開始します。「ドイツ軍の侵入は近い」との情報はスターリンによってすべて無視され、前線が突破され、多くの死傷者を出した後は、「闘わずして敗北した将校たち」を非難し、自らの判断ミスは認めません。 ドイツに対する勝利が確実になった時点、そして東欧を自己の勢力圏に組み込むことに成功した時点で、彼は初めて「我々の政府」の少なからぬ失敗を認め、同時に普通の人々の功績をたたえています。ソ連は「軍だけで866万人、国民全体では2700万人もの犠牲者」を出したのですが、その勝利は彼が「強硬に進めてきた政策」によるものであると国民に認識させる道をスターリンは敷くのです。そして、彼の歴史的評価は、せんじ詰めればこの一点にかかってくるのです。 第八章「アメリカとの戦い」。ここで意外なのは、アメリカとの対立よりも、ドイツと日本のソ連に対する復讐戦の方をスターリンが警戒していたこと、警戒の重心は徐々にアメリカに向かいつつも、「ドイツ軍国主義と日本軍国主義の再生という議論は、1980年代までソ連の定期刊行物ではお馴染みのテーマだった」(p241)という点です。 中国革命の成功に対するスターリンの態度、北朝鮮の指導者金日成との関係など、これまでの私の知らなかった点が多く、参考になりました。 戦後史についてきちんと勉強していないという事です。 さて、「終章 歴史的評価をめぐって」は、著者がこの本を著す動機となった、「彼を知らないのは私たちかもしれない」という点に集中的に答える内容となっています。 「スターリンなしに、ソ連はヒトラー軍との戦争に勝てたのか。フルシチョフが評価を与えなかった1930年代の急進的工業化なくして、ソ連は第二次大戦を戦うことができたのか。この集団化と結びついた工業化は、スターリンがいなかったとしてもソ連共産党は成し遂げたのか。もし、そうだとすると、集団化が出した数百万の犠牲者はどう評価すべきか。歴史の大きな転換期には、普通の人々が犠牲になるのは不可避なのか。更につづければ、戦後のアメリカとの戦いは、一方的にソ連に、つまりスターリンに責任があったと言うのであろうか。当時ソ連政府が主張していたように、アメリカの軍事力と経済力に頼る姿勢こそ世界を支配しようとする政策を生み、それが冷戦という対立を生み出したのではなかったか。これに対するスターリンの政策は基本的に誤りではなかったのではないか。ソ連国内ではこうした疑問が次々に湧き起こり、人々の感情を掻きたて続けた」(p288~9) ゴルバチョフの演説が引用されています。ここでゴルバチョフは、スターリン擁護派の主張をほぼ完全に認めています。 そしてソ連崩壊後の2003年にロシア科学アカデミー付属歴史研究所でなされたシンポジウムでの報告の中から、「指導的役割を果たした」と著者が評価しているセニャフスキーという人物の報告の概要が紹介されます。 スターリン統治下での抑圧は正当化できるものではない、しかし、「倫理と政治は峻別されねばならない」、20世紀の政治家は「誰一人として何らかの倫理的判断を指針とすることはなかった」。真の革命にテロはつきものであり、フランス革命などを見ればその事はよくわかる。集団化と工業化は不可避であり、スターリンはそのような政策をとることによって第二次大戦で勝利を収めた。そして戦後も短期間で国家を復興に導いた。 セニャフスキーは、スターリン主義とは「犯罪と失敗、それに歴史的勝利の不可分の一体」とまとめたのですが、「その力点が『歴史的勝利』にあることは明らかだった」と著者は指摘します。 そして、「どこの国であれ、国家の内側から見た歴史評価と外側から見た歴史評価に違い」があることは当然かもしれないが、「両者のずれが大きくなるほど内外の相互理解が困難になることは確かである」と著者はこの著書を結んでいます。 日本でも、この問題は他人ごとではありません。その事が常に私の頭の中にあり、最近扱った「信長問題」(?)についても考えさせられました。 学びの起点となる本でした。
2014.10.30
コメント(4)
『スターリン』(横手慎二 中公新書)を読みました。 著者の問題意識は、スターリンという人物に対するロシアとロシア以外の世界での評価のずれをどう考えればいいのか、という点です。 「スターリン没後50年になる2003年になされたロシア国内の世論調査では、彼の役割を肯定的に見るものが34,7%、否定的に見るものが40,3%だった」(はじめに)という数字は、いささかながら私を戸惑わせます。 「農業集団化に伴う飢餓や大粛清といった暗い過去を...事実として認めている現在のロシア人が、それでもなおスターリンを一方的に断罪するのは正しくないとみなしている以上、彼を知らないのは彼らではなく、私たちかもしれないと考える」と著者は指摘します。 スターリンについての基本的な本をまだ読んでいない(ドイッチャーの『スターリン』は、途中まで読んでそのままほったらかしにしています)私にとって、この本は、参考になりました。 第一章では彼の生い立ちが記されています。第二章では、神学校へ入学したものの、神学校のあまりのひどさに革命家へと変貌していく姿が記されています。第三章では、何度も流刑にあいながらも国内にとどまり続ける彼の苦節の日々、そしてレーニンとの出会いが記されています。 第四章「革命と内戦の日々」では、「レーニンまではまともだったけれど、スターリンになってからおかしくなった」というロシア革命観、ソビエト観が、1990年になって公開されたレーニンの書簡などを引用しながら正しくないことが明らかにされます。レーニンは、農民たちの反抗に対して容赦ない弾圧(十分に見せしめとなるような)を指示し、スターリンは「レーニンから農民の抵抗に対処する仕方を学び、やがてスターリン自身が統治者となった時に、師の行動を想起する」(p110)と著者は指摘します。 第五章「権力闘争の勝者」では、革命直後は討議機関として機能していたソヴィエトが急速に共産党に支配されるようになり、他党派の人間は排除されていく過程、そして、「資本主義国との関係をどうするか」、「工業の発展を達成するためには農民の犠牲は必要なのか」という問題に共産党がどのように対処しようとしたのか、その中でスターリンが果たした役割が述べられています。 第六章「最高指導者」。ここで集中的に記されるのが、重工業重視の五か年計画と農業の集団化の現実です。1929年に始まる世界大恐慌の中で順調に成長し続けるソヴィエトの経済政策に世界が注目する一方で、農民たちに対する穀物の徴発、反対するものの粛清、餓死者の続出といった事態が進行していきます。「飢えて死んだ者の数は現在も正確には算定できていない。多くの研究者は、国勢調査などの史料を利用して400万人から500万人ほどだったのではないかと推測している。つまり、第一次大戦で死亡したロシア国民よりも多くのソ連人が、この時期の政策の結果として命を落としたのである」(P191) この事態をスターリンは、「急進的工業化政策によって強大な軍事国家を建設した」(P205)ことによって正当化します。 「大粛清によって多数の経済専門家を排除してもなお、『計画経済』は国内各地に重工業の拠点を生み出していた。戦争を予想して西側の国境近くばかりか、ウラルなどソ連の中央から東部地域にも拠点が建設されていた。当然、航空機、戦車等々の兵器、そして弾薬の生産工場が急速に拡充されていた。この結果、軍需産業の総生産高は、1937年には77億5920万ルーブルであったが、翌1938年には106億7140万ルーブル、さらに1939年には159億30万ルーブルへと増大した。そのうち、航空機生産の増強は、特に目覚ましく、1939年には1937年の二倍以上の生産高となった。 スターリンは間違いなく、彼のこれまでの政策によってとてつもない数の犠牲者を出してしまったことを理解していた。しかしそれでも、これだけの成果を挙げていれば、近い将来に起こる戦争が、必ずや自分のこれまでの政策を正当化すると自分に言い聞かせていたと思われる。戦争の脅威はすぐそこに迫っていたのである」(P205~6) 第七章「ヒトラーとの戦い」。ミュンヘン会談をスターリンは、「資本主義国が結束してドイツをソ連にむかせる策」だと理解し、自国の安全保障のために「独ソ不可侵条約」を結び、世界を震撼させます。しかし、ヒトラーは、約束は破るためにあると考えるような人間であり、突如ソ連に対する攻撃を開始します。「ドイツ軍の侵入は近い」との情報はスターリンによってすべて無視され、前線が突破され、多くの死傷者を出した後は、「闘わずして敗北した将校たち」を非難し、自らの判断ミスは認めません。 ドイツに対する勝利が確実になった時点、そして東欧を自己の勢力圏に組み込むことに成功した時点で、彼は初めて「我々の政府」の少なからぬ失敗を認め、同時に普通の人々の功績をたたえています。ソ連は「軍だけで866万人、国民全体では2700万人もの犠牲者」を出したのですが、その勝利は彼が「強硬に進めてきた政策」によるものであると国民に認識させる道をスターリンは敷くのです。そして、彼の歴史的評価は、せんじ詰めればこの一点にかかってくるのです。 第八章「アメリカとの戦い」。ここで意外なのは、アメリカとの対立よりも、ドイツと日本のソ連に対する復讐戦の方をスターリンが警戒していたこと、警戒の重心は徐々にアメリカに向かいつつも、「ドイツ軍国主義と日本軍国主義の再生という議論は、1980年代までソ連の定期刊行物ではお馴染みのテーマだった」(p241)という点です。 中国革命の成功に対するスターリンの態度、北朝鮮の指導者金日成との関係など、これまでの私の知らなかった点が多く、参考になりました。 戦後史についてきちんと勉強していないという事です。 さて、「終章 歴史的評価をめぐって」は、著者がこの本を著す動機となった、「彼を知らないのは私たちかもしれない」という点に集中的に答える内容となっています。 「スターリンなしに、ソ連はヒトラー軍との戦争に勝てたのか。フルシチョフが評価を与えなかった1930年代の急進的工業化なくして、ソ連は第二次大戦を戦うことができたのか。この集団化と結びついた工業化は、スターリンがいなかったとしてもソ連共産党は成し遂げたのか。もし、そうだとすると、集団化が出した数百万の犠牲者はどう評価すべきか。歴史の大きな転換期には、普通の人々が犠牲になるのは不可避なのか。更につづければ、戦後のアメリカとの戦いは、一方的にソ連に、つまりスターリンに責任があったと言うのであろうか。当時ソ連政府が主張していたように、アメリカの軍事力と経済力に頼る姿勢こそ世界を支配しようとする政策を生み、それが冷戦という対立を生み出したのではなかったか。これに対するスターリンの政策は基本的に誤りではなかったのではないか。ソ連国内ではこうした疑問が次々に湧き起こり、人々の感情を掻きたて続けた」(p288~9) ゴルバチョフの演説が引用されています。ここでゴルバチョフは、スターリン擁護派の主張をほぼ完全に認めています。 そしてソ連崩壊後の2003年にロシア科学アカデミー付属歴史研究所でなされたシンポジウムでの報告の中から、「指導的役割を果たした」と著者が評価しているセニャフスキーという人物の報告の概要が紹介されます。 スターリン統治下での抑圧は正当化できるものではない、しかし、「倫理と政治は峻別されねばならない」、20世紀の政治家は「誰一人として何らかの倫理的判断を指針とすることはなかった」。真の革命にテロはつきものであり、フランス革命などを見ればその事はよくわかる。集団化と工業化は不可避であり、スターリンはそのような政策をとることによって第二次大戦で勝利を収めた。そして戦後も短期間で国家を復興に導いた。 セニャフスキーは、スターリン主義とは「犯罪と失敗、それに歴史的勝利の不可分の一体」とまとめたのですが、「その力点が『歴史的勝利』にあることは明らかだった」と著者は指摘します。 そして、「どこの国であれ、国家の内側から見た歴史評価と外側から見た歴史評価に違い」があることは当然かもしれないが、「両者のずれが大きくなるほど内外の相互理解が困難になることは確かである」と著者はこの著書を結んでいます。 日本でも、この問題は他人ごとではありません。その事が常に私の頭の中にあり、最近扱った「信長問題」(?)についても考えさせられました。 学びの起点となる本でした。
2014.10.30
コメント(0)
『未完の戦時下抵抗』田中伸尚 岩波書店 戦時下にありながら、言わねばならぬことを言った人、五人が取り上げられています。細川嘉六(植民史研究者、「横浜事件」に連座)、鈴木弼美(キリスト教に基づく学園を創設、戦後、自衛隊違憲訴訟を戦う)、浅見仙作(キリスト者として農民伝導に携わる)、竹中彰元(真宗大谷派僧侶、反戦発言で本山からも処分される)、浪江虔(農村図書館を開設するも、兄らの弾圧事件に連座)。 以前NHKテレビで放映していて衝撃を受けた「戦争は罪悪である」に取り上げられた竹中彰元氏を紹介します。 氏は、1867年生まれの真宗大谷派の僧侶であり、布教使となって本山から上位の階級をあたえられた人ですが、日中戦争開始直後に、召集された村の青年の壮行時、或いは村内の寺院の集まりの際に反戦的に言辞をくり返し、逮捕されています。 「このたびの事変に就いて、他人は如何考えるか知らぬが、自分は侵略のように考える。徒に彼我の生命を奪い、莫大な予算を費い、人馬の生命を奪う事は大乗的立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ」 このような発言は、現代から見れば、いかにも仏教の本旨に沿った発言のように見えます。しかし、当時は、「国賊」、「非国民」と罵られ、「このご時世になんたる不謹慎」、「仏教者として不穏当極まる」という事で密告され、彰元氏の発言は「特高月報」、そして取調調書に記載されて残ることとなったのです。 「仏教者として不穏当極まる」という非難の声には違和感を感じるのですが、当時はそうではなかったことが、NHKの番組でも説明されていました。 大谷派はすでに日清・日露の時代から国家に全面的に協力し、日中戦争に際しては、門徒に東洋平和を実現するための今回の戦争への協力を徹底させる活動を行っています。さらに、最高権威者の法主(第24代・大谷光暢)が、全国900万の門徒に「今や皇軍は折伏の利剣を執って起つ、もとより平和建設の方便なり」という「親言」を発しています。 浄土真宗の核心的な教義は、「神祇不拝、国王不礼」であるそうです。つまり、神社参拝は行わない、王に対して礼をしない。ところが、大谷派は、天皇制国家に対して協力するために、この二つをいとも簡単に投げ出します。1936年12月1日に法主と裏方(妻、智子、香淳皇后の妹)ら一行は明治神宮に参拝、その後宮城に赴き、さらに4日には靖国神社に参拝しています。親鸞の教えからはありえないことをやってのけたにもかかわらず、「文部省初め多方面より非常な好評を受けつつある」と機関紙『真宗』には誇らしげに記してあります。9日には伊勢神宮にも参拝。まさに「毒食わば皿まで」状態と言っていいでしょう。 著者は、彰元氏が「神祇不拝」を語り、「戦争は罪悪である」と語っていた時に、「日本としては今度は支那の抗日思想を根絶せしむるまで徹底的に戦わねばならぬ」「天皇陛下万歳と唱えて戦場に屍をさらすものは神仏の国に生まれるのである」と戦争を煽るだけ煽った真宗僧侶・暁烏敏の言葉を引用し、「暁烏敏は戦後、大谷派宗務総長に就き、戦争を煽った事実には触れず、また宗門も問わず、眩い光の中を歩き続けたのであった」と記しています。 ウィキペディアで「暁烏敏」の項目を見ると、1925年から1950年までの事跡が全く記してありません。これは偶然なのでしょうか? 1938年に真宗大谷派は彰元氏を最下級の僧侶の地位に落とす処分を行い、布教使の資格も剥奪されます。 彰元氏は1945年10月21日に78歳の生涯を閉じますが、長い間、忘れられた存在となります。本山も、国家に追随した態度を反省することもなく、日が過ぎていくのですが、敗戦50年を期として、真宗大谷派の大垣教区に属する426ケ寺の若手僧侶の中から、教団の責任、そしてそこに属するものとしての責任に正面から向き合おうという機運が生まれ、彰元氏の顕彰へとつながってゆくのです。 2007年になってようやく本山は彰元氏の処分を取り消す決定を行いますが、どのように審理を行い、処分決定がどのように間違っていたかの説明はありませんでした。公式謝罪も行われましたが、毎年10月に大垣教務所主催の彰元忌には、2008年以降は本山からの参加者はないとのことです。 「倫理」の教科書に、「日本人の精神風土」という項があり、以下のような事が記してあります。 「古代日本人にとっての罪悪とは、自然の災いや病気同様、基本的には外から降りかかって心身にまとわりついたものと考えられていたのであり、それゆえそれを『はらい』さえすればもとの正常な状態に戻れると考えられていたのである。こうした考え方は、今日でも『その事は水に流そう』、『選挙でみそぎが済んだ』といったいい方の中にそのまま残っている」 簡単に元の状態に戻れる、という考え方のなんという底の浅さ。 古代日本人の心性の中に依然として私たちはいるのかもしれないと考えると、ぞっとするのですが、その事に対して自覚的である必要がありそうです。
2014.10.28
コメント(6)
「戦国時代とはどんな時代だと思う?」「戦国時代は統一された方が良かったと思う?」と質問してみました。 まず「戦国時代」のイメージ。 1 戦いが多く、荒れているイメージ。色々な人がトップを目指して戦っている印象が強い。 2 いろいろな武将が領土を求めて戦っている時代。 3 戦争のような時代。 4 自国を財力があったり、土地が広かったりと豊かな国にするために他国と争っていた時代。 5 主従関係がはっきりしていて武力で土地を奪い合う時代。 6 支配することを目的として武力で相手と勝敗を決めるような死が間近にある時代。 7 戦いの絶えない不安定な時代。 8 日本各地に強い権力を持った人がいて、土地を統治していた時代。 ※数が21になっていないのはダブった意見が多かったからで、「大名たちの権力争いの時代」というイメージが多かったです。 次に「統一された方が良かったか?」 1 戦国大名にとっては憧れであり理想であったと思う。 2 統一しなくても必要なときは敵同士でも助け合っているから必要なかったと思う。 3 統一していないと他国から攻められたかもしれない。 4 統一していないと今でも日本はバラバラだったかもしれない。 5 全国統一してくれたおかげで今の日本があると思う。 6 多くの土地を求めた結果が全国統一だからそこまでする必要はなかったと思う。 7 まとまりがないともっとたくさんの戦争が起こりそうだから必要だったと思う。 8 世の中が落ち着いたから必要だったと思う。 9 特に必要なかったのでは。それまで千年以上の時間も統一されていなかったのに上手く行っていたのだから。 10 全国統一しても藩などに分けていたのだから、別に統一しなくても平和的に充実して自国を治めていたのだから必要なかった。 11 統一していないとずっと戦いが続いていたと思う。 全国統一されて何が変わってきたのか、という事を説明します。 その前提として、戦国時代と言う時代は、大名だけではなくて、「日本各地に強い権力を持った人が」いた時代でもあったという事を説明します。大寺社、裕福な都市、農民たちが一揆をおこして武士を追い出して自治を行っていた例も紹介します。そして、農民たちも武装していたこと。村同士のトラブルも多くの場合、実力(武力)で解決されることが多かったことも紹介します。 また、統一されなかった場合、他国から侵略を受けて植民地にされたケース(インドなど)も紹介します。 戦争が終わり、平和な社会が訪れ、全国を結ぶ商業・経済圏が作り上げられたこと、村同士の争いもその多くが話し合いで解決されるようになった事も紹介します。多くは統一のプラス面です。 統一されていなかったらどうなっていたかというテーマはとても魅力的なのですが、切り上げてしまいます。 そして、次の質問。「全国統一のプラスの面を紹介してきたけれど、統一のためには信長のような大量殺戮は当時としても必要だったんだろうか?」と質問しました。 1 いつ殺されるかもしれない時代で、生きるためには必要だったのではないか。 2 必要ではない。どんな時代のどんな目的でも命を粗末にすることには反対です。 3 相手の意見を尊重して聞くべきだったと思う。必要ない。 4 信長は生きているうちに全国統一しようと思っていたわけで、説得するよりも武力の方が早かったと思う。 5 信長に反抗したら殺されるという見せしめのためには必要だったと思うけれど、やりすぎだと思う。 6 あれほどの大量殺人は当時としても必要なかったと思う。 7 全国統一されたことの良い面を見ていくと必要だったと思う。 8 話し合いで決まるような時代ではなかったから必要だったとは思うけれど、あまりに数が多すぎる。 9 武士だけではなく一般庶民も武装していたのなら、抵抗する力が十分にあるので、自分やりたいことを押し切って相手を黙らせるためには必要であったと思う。 10 無力な女性や子どもを含む庶民を殺す必要はなかったと思う。戦国時代だと言ってもよくないと思う。 11 見せしめになるし、力を誇示するのにはよかったと思うけれど、武力以外の方法で人を従わせる方法も考えたらよかったと思う。 12 ほとんどの人が武装して時代だから、殺された人たちが無害だとは言い切れない。必要だったと思う。 13 全国統一するための犠牲はしょうがないと思う。 14 統一反対勢力を恐れてすべて排除したかったのだろうか。自分がその時代にいたら抵抗していたと思う。 信長の突然の死を予言していた安国寺恵景の言葉、本能寺に信長が宿泊した時になぜ少数の部下しか連れていなかったのかという点について簡単に説明して終わりました。
2014.10.27
コメント(0)
週に一時間の授業を担当しています。今年は、「人間とは何か」というテーマ。要するに、何を取り上げても成立しそうな(無理やりその方向へと持っていけそうな)テーマであるというのがその理由です。 後期は、新しいメンバー21人で出発しました。 一時間目は、生徒たちに、「人間とは何か」についてその定義を書いてもらい読み上げながらコメントして終わりました。 さて、二時間目。取り上げるのは織田信長です。 まず、「信長についてのイメージ、そして、好きか嫌いか、どっちでもないか」というお題で書いてもらいます。「どっちでもない」が大半で、「好き」という生徒がちらほら。 一枚目のプリントを配ります。山川出版の日本史Bの教科書で信長に関する処をコピーしてそのままプリントしました。 「教科書読んで、印象が変わったところとかあったら書いてみよう」というお題。「こんなに戦争しているとは思わなかった」とか、「新しいことに挑戦している」とか言った意見。 そして、二枚目のプリントを配ります。 藤沢周平さんのエッセイ「信長ぎらい」(『ふるさとへ廻る六部は』新潮文庫所収)をプリントしたものを配布します。すでにお読みになった方もいらっしゃると思うのですが、概要を紹介いたします。 藤沢さんは、和辻哲郎の『風土』を読み、鎖国が日本にもたらした罪悪を改めて心に刻み、信長の先見性と革新的な気性、政策に注目し、「もしも信長が長生きしていれば・・・」という思いを抱きます。ところがその後、作家となり、信長に関する資料を読んでいて、「信長ぎらい」となります。その理由は、非戦闘員に対する大量殺戮です。叡山焼き討ち、長島一向一揆の殺戮、謀反を起こした荒木一族に対する族滅。 藤沢さんは、強いリーダーシップを発揮する人間の恐ろしさを指摘し、たとえ人物払底と言われようが、私たちより少しだけ賢い程度の人物をリーダーとした方がいい。そうでないと、とんでもないババを掴むことになりそうだと結んでいます。ヒトラー、スターリン、ポル・ポト・・。 さて、そこで「『信長ぎらい』を読んでどう考えたか?」というお題で生徒たちが書いてくれた文章が以下のものとなります。 「信長ぎらい」を読んで 1この作者のいう事はもっともだと思う。信長はかなりひどいことをしていて、信長のよい面だけを見て好きだと思うのは違うと思う。 2 たしかに強いリーダーシップがある人は頼りになるかもしれない。けれど、その強さが、文章の最後にあるように、ようしゃない人の扱いや殺し方を招くかもしれないと思うとそんなリーダーは嫌だと思った。とても納得する文章でした。 3 信長がたくさんの殺戮を行っていたなんて初めて知りました。こんなひどいことをしていたら、不満どころか、明智に殺されてしまうのももっともだと思った。 4 信長は、「殺し」を楽しんでいるとは言わないが、「殺し」を好んでいるように思えた。また今の日本のトップが信長だったら、私達もそれを受け入れることはできないと思う。 5 好んで大量に人を殺しているとなると、非常に印象が悪い。このような趣味のせいで、配下に背かれているのなら、その報い、良いざまである。自業自得である。このような人が現代にいない事を願いたい。 6 嫌になる理由もわかる気がするけれど、日本を変えるとか世界を変えるためにはそういうものが必要なのかもしれないと思う。平和的な解決が一番だけれど、それは理想論だと思う。だから信長はすごいと思う。 7 確かに信長の虐殺はほめられるものではない。今このような指導者が現れて虐殺を始めたら困ります。けど、信長の行動力や、信念を貫くというところはすごいと思うので、私はこの事実を知っても信長を嫌いにならないと思います。 8 何十億という人間が生まれたり、死んだりを繰り返しているのだから、少少危険な思想を持つものが現れてもふしぎなことではない。殺戮だけでは嫌いになれない。 9 筆者が書いていたように、ひどいと思いました。少し嫌いになりました。 10 無関係の人を殺す考え方はこの時代の人もなかったと思います。だから信長は統一方法を間違えていたのかもしれないと思いました。リーダーシップをとるのと、自己中心的なのは全く違います。信長は自己中心的だったんだと思います。 11 信長をリーダーとしては賢くて頼りになると思っていたけれど、戦力的に無力なものを虐殺していたという点では、やはり彼は残酷な人だと思った。天下統一を目指していたことから考えると行動力のある人だと思うけれど、他の面から考えると、全然違う見方ができて面白いと思った。 12 どちらでもなかったが、やはり好きでも嫌いでもない。目的のために物事をまっすぐ進めることは、良いことだと思った、しかし、もっと周りの事も考えるべきだと思った。 13 信長は残酷な人だと思うけれど、やはり何か理由があったと思う。けれどそういうところが部下に殺される原因なのだと思う。 14 そんな大量の殺戮を行い、何より信長にそんな性向があったというのには驚いた。心のどこかで強いリーダーシップを必要としていた部分があったが、この文章で考え方が変わった。 15 信長嫌いの理由が分かりやすく書かれていた。特に殺戮のところは、やっぱり人としてひどいと思います。 16 前半を読んだときはやっぱり信長は賢くてすごい人だと思ったけれど、後半の無力な人を大量殺戮するというところを読んで嫌いになりました。無抵抗の人や一般の市民を殺すのはしていいことではないと思います。 17 文章を読んで、信長がひどい殺戮を行ったことを知って、信長は残酷な人だったんだと思って少しイメージが変わりました。筆者と同じように、信長に対していいイメージがもてなくなったと思います。 18 敵に対してとことん攻撃をして殺戮までするのはやり過ぎだと思います。この話は知りませんでした。こんなことまでしていたなんて驚きました。確かに先行き不透明な時に、英雄を求めて、独裁的になるのは、怖いと思いました。 19 どんな理由があったにしても、虐殺をして罪もない人たちを殺したことは許せない。 20 目的のためには必要な犠牲と言って、信長は何の罪悪感もないのだろう。残酷な人だと感じた。 21 作者がそうであるように、視点を変えると、イメージが真反対になった。しかし、どちらの面も織田信長が備えていた面だからこそ信長のイメージはバラバラなのだと思う。 さて、次の授業は、このプリントを紹介するところから始めます。
2014.10.15
コメント(8)
台風の進路を走行する危険性がありますので、一日早めて帰省しました。 今日の法要は、ほぼ一年前にお寺さんに連絡して決めていたのですが、実に穏やかな日和で、父も上の方で、「見たか!」と鼻を高くしているかもしれません。
2014.10.12
コメント(2)
明日から三日間帰省してきます。父の法要です。
2014.10.10
コメント(0)
明日から三日間帰省してきます。父の法要です。
2014.10.10
コメント(0)
NHKで武器輸出三原則が、「閣議決定」によって大幅に変更され、事実上ザル法と化したという番組を放映していました。 武器輸出三原則は、憲法第九条とセットになり、時の内閣の政治的な判断もあって、厳格に守られてきました。「同盟国」であるアメリカにさえ技術供与を行ってきませんでした。 すべて自民党の内閣で行われてきたことです。 鈴木善幸氏の言葉が紹介されました。 「戦争でも起こって儲かったらいいなと思うような産業界の人を作りたくない」 いまはコンサルタントをしているケビン・メア氏(在日本大使館政治軍事部部長、在沖縄総領事、国務省東アジア・太平洋局日本部部長を歴任) もインタビューに答えて以下のように発言しています。 日本人もやっと現実的に思考できるようになった。「平和ボケ」から抜け出せた。 アメリカに輸出したら、それから先、その技術がどこに行くかはアメリカが判断することであり、アメリカは、それがどこに行くかを追跡することを許さないだろう。 まことにあけすけな物言いです。戦争が年中行事になり、民間人を世界で最も多数殺しているテロ国家アメリカという国の人間らしい物言いです。目先の「実利」に気をとられて、ソ連のアフガン侵攻の際はアルカイダを育成し、イラクとイランが対立していた時にはフセインを援助し、結局は自分の育てた「テロ分子」を掃討しているというなんとも間抜けな国アメリカ。 その国の人間から、「現実的になった」とお褒めの言葉をいただく日が来るとは思ってもいませんでした。 防衛省の担当者は、「厳正に審査する」、「装備、技術の移転を通じて友好国との安全保障上の関係を強化していきたい」と力説していました。「アメリカを信頼ている」という言葉も何度も出ました。メア氏の言葉と突き合わせてみると、信頼ではなく、「盲信」という言葉が適当であるように思えます。または、「見たくない現実を見たくない」症候群。 それに対して、諸外国からの技術移転の申し出を断り続けてきた自民党の首脳の姿を身近で見てきた人物は、「安全保障関係の強化という名目で技術移転に協力すると、それは際限なく行われるということになる」と懸念を表明していました。 防衛省は、来年夏に、諸外国からの技術移転の申し込みを受け入れるための部署を独立して作る予定だそうです。 これがすべて一内閣の閣議決定で行われているのです。歴代自民党内閣が決して越えようとしなかった一線を安倍内閣はいとも簡単に越えてしまいました。 国会での論戦もなく、国民的議論もなく、歴代内閣の積み重ねてきた努力と政治的判断も一挙にひっくり返してしまったのです。 本当に驚きました。この番組を見なかったら、全然気づかなかったことでした。 NHKに感謝しなければなりません。 同時に、安倍内閣が、歴代自民党内閣の中でも突出して異常であるということがますます白日の下に晒されています。 閣議決定でとんでもないことを決定してしまうこの内閣を一日でも延命させることは、日本国民が平和で安全な生活を送っていくことの基盤を本格的に崩すことにつながります。 ただ、防衛省(庁)のOBと産業界との懇談会では、前のめりになって歓迎する声と同時に、企業イメージに傷がつくことを懸念する声も上がっていたと言います。 現状を広め、同時に、どんな切り口で宣伝し、安倍を引きずりおろすかについて知恵を絞らねばならないと思っています。 目が覚めました。
2014.10.09
コメント(4)
明治維新が何だったのか、しっかり解析されていませんよね。西郷、大久保、伊藤、みな思惑はちがったのではないか、と。岩倉具視は、どうだったのでしょうか。とくに統帥権をもつはずの明治天皇は、御年16歳で、発言権は、ほとんどないし。 ☆研究の骨格を作ったのは、遠山茂樹さんの『明治維新』(岩波全書)ではないかと思っています。ただ、その後、新しい精緻な研究書も山ほど出版されており、個別の事案についても、新資料の発掘を元にした実証研究が進んでいます。 ただ、わたしは今、あえて古い本を読んでみようと思っています。 『新日本史』竹越与三郎 岩波文庫 という本です。刊行開始は1891年(明治24年)です。維新から24年たった時点で明治維新がどう見えていたのか、それを確かめたいと思っています。 「時の娘」を読みました。同時にgyaoで「英国王のスピーチ」を観ました。兄の突然の退位で、国王にならざるをえなかったジョージ6世。で、思いました。リチャード三世も、国王になるなんて、夢にも思っていなかったのではないか、と。ただ、成り行きでそうなってしまったとき、その誠実な人柄が悲劇をまねいたのではないか、と。 西郷も明確な新体制のビジョンはなく、ただ、幕末から明治の動乱に巻き込まれただけではないのか、と。西郷さんとは、そういう人、まさに「時の娘」です。そして、敵からみると、そういう人ほど、恐ろしい。 シェークスピアの描く「リチャード三世」は、「ジョン王」に似ています。最高の人を、最悪の人に似せる。そうしないとヘンリー7世は、安心できなかった。 ☆たとえば、「開国」「攘夷」と言った事柄に対しても、情報を独占していたという点はあるのですが、幕府の高官の方がはるかに開明派であったという皮肉があります。 おそらく、明確なビジョンなど描けなかったのではないか。 次々と情勢は変転し、ビジョンを持とうとした人間、ビジョンを信じた人間は屍を野に曝すことにもなっています。 「偽官軍」とされた赤報隊、解体され、捨てられた奇兵隊。 新政府の高官たちの過去を知っている人間は、世をすねた戯作者となったり、隠棲しています。 「結果として」日本は列強から侵略を受けることもなく、租借地を設定されることもなく、近代的な政治体制を整え、憲法を作り、日清・日露に勝利を収めて「一等国」の仲間入りをします。 ただ、「日本は涙を呑んで上滑りをしなくてはならない」と記した漱石は、明治という時代のある意味でのうすっぺらさを自覚していた人なのかなと思ったりもします。 それでも、昭和の日本の政府と軍人たちの驚くべき劣化ぶりに比べれば、明治はまだましであったと(あくまで比較としてですが)思います。しかし、その明治の中に、すでに昭和は胚胎しています。司馬遼太郎が観ようとしなかったのはこの点であり、吉村昭が見通していた点がそこにあります。 私がほんとうに許せないのは、そのバカの大将たちを「昭和殉難者」として祀る靖国神社の厚顔無恥と、そこへ参拝する議員たちのアホ面であります。 歴史は繰り返す。リチャード三世の苦しみを、ジョージ6世が味わい、ひょっとしたら明治天皇や西郷さんも味わっていたかもしれない。 もっと、現代の原点である明治維新を、ほりさげたくなりました。 「明治維新とは何だったのか」というシンポジウムの提案は、どうでしょうか。却下でしょうね。 ☆近現代史は、教師になってからの私の興味の中心であり続けました。加藤さんの本に接してさらにその思いを強めています。 ただ、今の三年生たちとの授業もあと二か月。その間は自分なりに微力を尽くしたいと思っています。のめり込んで本分を忘れないようにしなければなりませんね。
2014.10.07
コメント(4)
やっとのことで採点を終え、『戦争の日本近現代史』(加藤陽子 講談社現代新書)を読了しました。 この本の魅力は、「歴史には『出来事』のほかに『問い』がある」という点につきます。「研究書を水割りしたような概説書」、「教科書を水増ししたような概説書」には、そのような「問い」はないと記したのちに、著者は「問い」の例を引きます。 「永い間の封建制度に圧せられ、天下の大政に容喙することを一大罪悪と教え込まれてきた我々の父祖が、なぜ近代になると政治を国民自身の仕事と考えるようになったのか、明治初年にあって、万機公論、天賦人権などの発想に、人々がどうしてそれほど容易に飛びつくことができたのか?」 これは、吉野作造が1927年(昭和2年)に発した「問い」ですが、こんな「問い」を紹介されると、吉野の『我が国近代史における政治意識の発生』を読みたくなってしまうのです。困ります。ホントに。戦線が拡がりすぎます。 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』から始まった加藤さんの本めぐりですが、ここまで読んできて驚くのは、ダブりがほとんどないという点です。そして、自分自身が漠然と信じてきた「知識の枠組み」が見事にひっくり返されたり、深められる快感を味わってきました。「ここが底かな」と思っていたら、実はその下にまだ秘密の部屋があったというおどろき。これが、歴史書を読む醍醐味と言っていいでしょう。 さて、「ひっくり返された箇所」を一つだけ挙げます。 征韓論と西郷の下り。 「西郷が、彼を慕う不平士族の論を『不平』という言葉に包括されるような後ろ向きの反動的な論とみなしていたはずはなく、ましてその不満を対外侵略にそらし、みずからの死に場所を求めるような状況を作り出したかったとみるのは誤っています」(P47) では、西郷の意図はなんだったのか? 「幕府が滅亡したのは、ひたすら攘夷の戦争を避けるという『無事』の追求に終始したからだと考える西郷にとっては(明治六年八月十七日付 板垣退助宛書簡)、日本の現状は危機的なものに見えました。すなわち、国力は衰微し、兵備は空虚で、人心は惰弱で、独立の気概がなく、因循である、と」 「鹿児島旧士族派がつくった、士族民権雑誌『評論新聞』」の論調も紹介されています。「法律は公議輿論で決められるべきである」と主張する傍らで、彼らは、「日本国に正気がなくなると、外国にやられてしまうから『朝鮮であれ支那であれ相応な相手を選んで戦を始め、以て全国の英気を引き起こせ』と主張して」いたのです。 そして著者は述べています。 「ですから、国内改革と対外侵略を密接不可分として考える態度は、教科書的な説明に見られるような、士族の反乱を防ぐために対外侵略をガス抜きとして使おうとしたという態度とは、まったく違うものです。正理真道から遠く離れてしまった日本を、名分論によってどうにか救うにはどうしたらよいかという、むしろ、自己本位な動機からきていました」(P48) うーん・・・、征韓論についても参考文献『近代日本における東アジア問題』「征韓論の前提」を読みたくなりました。 ここ数年、日本史をまともに教えていませんが、言い訳にはなりません。学びたいという意欲を掻きたてていただいた事に感謝せねばなりません。あと何年教壇に立ち続けられるかわかりませんが、学ぶ姿勢だけは持ち続けたいと思っています。
2014.10.03
コメント(1)
全11件 (11件中 1-11件目)
1