漫望のなんでもかんでも
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「美術家たちの太平洋戦争」BS 1月8日 を見ました。何となく昔から言われていたことが実証された貴重な番組でした。 アメリカが、敵国の美術品を保護するという任務を持った部隊(「モニュメンツ・メン」)を編成していたという事はなにかで目にしたことはあったのですが、日本を対象とした実際の活動について詳しく知ることができたのはいい事でした。 日米開戦も日本の敗色が濃厚となり、本土爆撃が視野に入った時点で、爆撃から守るべき日本の文化遺産のリストが作られます。中心となったのは、ラングトン・ウォーナー。彼が日本人の専門家も交えての作成したリストの中には、博物館、美術館、寺院だけではなく寺院、神社、そして個人の収集家も含まれていたことに驚きました。東京で26か所、奈良で15か所、京都が71か所。全国で137か所。そして、提出されたリストによって、「爆撃を避けるべき地点」が指定され、実際に137か所のうち8割が空襲の被害を免れています。東京では浅草寺は焼失してしまいましたが、上野公園は戦火を免れました。その中に、靖国神社があるのは何とも皮肉な事です。 また、戦後になって起こった、「美術品を賠償として提供する案」がどのようにして廃案となったかも初めて知りました。 この活動の中心となったのはシャーマン・リーという人物で、ウォーナーの孫弟子にあたる研究者です。彼は、「美術品は不可侵である」という信念の元、正倉院の御物などを賠償品として差し出すことに反対し、極東委員会の当初案を撤回させます。日本人にとっていかに文化財が敬愛の対象になっているかを示そうとして「正倉院展」が始まったとは初めて知りました。 いくつか考えたことを以下に記します。 信仰か文化財かの問題。 興福寺は貴重な仏像を吉野に疎開させました。法隆寺は、万が一の場合は、三体の仏像を池に沈め、私も一緒に池に飛び込む覚悟であったといいます。葛藤はあったでしょう。しかし、法隆寺の救世観音などは、もはや一寺院を離れた貴重な文化財であると私は思います。 また、敵国アメリカの日本美術研究者の手によって被害を免れたこと、賠償の対象とならなかったことは、あの戦争が「文化面での敗北」であったことも明白に示しています。政府は、「貴重な伝統的文化財を組織的に兵火から守る」という事をやっていません。つまりは、「燃えても仕方ない」と思っていたという事でしょう。最後は、「一億特攻」「一億玉砕」ですから、文化財の保護などは、視野に入っていません。恥ずかしいことです。本当に恥ずかしい。 また、日本が侵略の矛先を向けた国々で、軍は、その国の文化財を守るという活動を正式な任務として遂行していたのでしょうか。中国などで盛大に掠奪はしています。掠奪した文化財、特に書籍などを返還するというニュースが流れると、その図書館、博物館に脅迫の手紙が来たり、罵詈雑言を浴びせかける手合いがいると聞いたこともあります。 日本には、「支那学者」は多数いたはずです。しかし、その人たちが軍に働きかけて文化財を戦火から守ろうとして、それを軍も受け入れたという事を寡聞にして知りません。 自国の文化財に対して、他国の文化財に対して、日本人は戦争中に全く敬意を欠いた行動をとったという事になります。 アメリカの「モニュメンツメン」の活動、ウォーナーとシャーマン・リーの活動、フランスのルーブル美術館の美術品の疎開、などを知るにつけ、考えさせられることは山ほどあるのです。 日本の伝統がどーのこーのという手合いが、日本を「戦争ができる国家」にすることに熱意を傾けているというのは、彼らの思考の中に、「文化財をどう守るか、引き継いでいくか」という事が皆無であることをはしなくも語っているという事でしょう。 日本史の図録にも載っている尾形光琳の「燕子花図屏風」は、元は西本願寺が所有していたものですが、売却し、購入したのが根津嘉一郎という人物で、かれが根津美術館を建てたのは1942年。所在地は東京都港区南青山です。ここも戦火を免れています。 実は今日は三年生の最後の授業だったのですが、以上のことをベースにした話をしました。明日はセンター試験。頑張ってほしいものです。
2017.01.14
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