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忙しくて放置ブログと化してしまったが、せっかくのハロウィンなので、その由来について、昔紹介したブログを再掲する。さてその前に、いろいろと、もうりさんにコメントを戴いているのだが、読む暇もなく、レスする余裕もなく、大雑把なレスとして返答したい。神とは簡単にいえば、人類に自我意識を与えた存在で、昔は自我意識とはいえ、コンピュータの進化からもわかるが、全体的な統合的な、いわゆる大型コンピュータを中心とする端末の存在意識みたいなものだった。シュタイナーは、それを族長意識と呼んで、いまでいう動物の種意識、つまり集合意識と呼んでいる。簡単にいえば人類という一つの意識体だったわけである。これをアダムと呼んでいる。「神から生まれた」という言葉の象徴がエデン(Eden)である。このアダムの意識は神の意識と一体なので、族長は神と交信できたわけである。人類創成の話である。人智学でいう土星紀で遥か昔の話である。いまの人間でいう深い睡眠状態の無意識のことを差す。だから人間は深い睡眠のなかで、神の意識と遭遇する。だから深い睡眠のなかで、自我意識が再び目覚め、活性化される。そこから太陽意識に進み、太陽は地球を切り離し、一部が完全覚醒意識に達するが同時に、残念ながら太陽に黒点があるように、月意識も生まれ、月と一体だった地球から、月を切り離さないと、地球が危うい状態に至ったので、月と地球が分かれたという。人類の意識は、族長意識から、徐々に個人意識へと分かれてきたのは、コンピューターの進化と同じである。祭りや儀式などは、族長意識のときの神との交信が後に個人的意識になり、形骸化したのである。族長のときの思い出が、より個人的に象徴化されていった。だから族長意識のときは、皆同じ記憶をもっていて、子は親の記憶をそのまま引き継いだから、二世、三世などの呼び名やジュニアなどの呼び名の習慣が残っているのである。集合意識の霊能力から、徐々に個人意識へと進化してきたので、個人個人の記憶の違いが生まれてきたのである。この現象はバベルの塔の崩壊で象徴化されている。個人の相違から、悪の自由への意識も芽生えてきたので、要は、分裂と統合の繰り返しといってよいだろう。分裂とは、個人的な出来事を体験することで現れる新しき自我意識、統合とは、祭りや儀礼などの集団的出来事を体験することで呼び起こされる古き自我意識の事である。人間の意識はこの2つの間で揺れ動いて、その中庸を探求しているといってもいいだろう。個的体験と、祭りのような集合的体験は、意識の両輪なのである。さて長々と前置きを書いたが、ハロウィンとは何かを以下に再掲する。簡単にいえば、ハロウィンとは悪を儀式化して目にみえるようにする事である。共通の悪体験と言っていいかもしれない。人間の自我は、時に悪戯やお遊びを自由に楽しむ必要がある。それは悪を乗り越えるためである。というわけで、以前のブログを紹介する。 ハロウィンは、5月1日のメイクイーンと共に、悪が地上に現れる日とされています。特にドルイド教では悪に染まりやすい日として悪魔封じ込めの儀式を行っていたそうです。悪に耐えうる善に至ったかどうかを、実際に悪霊を召還して試してみたようです。要は、免疫のワクチンと同じです。 色々なドリールの書を斜め読みしているので、うろ覚えで書いていることをお許しください。改めて書を読んでみて、若干、うろ覚えだったことがわかるから、何度も読まないといけないことを痛感した。 以前、3種類の聖者について紹介したが、若干、違っていたことを発見したので、訂正したい。それは、アデプトと、マスターの違いである。 アデプトは、以前、転生する存在と紹介したが、ドリールによると、ネガティヴ想念に陥っていないので、転生の必要がない不可視の存在だという。マスターが、転生から、ネガティヴ想念を捨てることを学び、意識を浄化した可視の存在だという。 さて、前回は、男性(陽)原理と、女性(陰)原理と、そして両性具有(中庸)の原理を紹介した。これら3つの原理は、三種の神器として、剣、勾玉、鏡として象徴化されている。人体で言えば、脊柱、太陽神経叢、松果腺というところだろう。 これらの三種の神器は、人間が再び神に還るために必須の霊的器官を意味する。ドリールによれば、エジプトのピラミッドは、人類の進化のために必須の装置であるという。ピラミッドは、生命の樹を表し、10のセフィラー(光球)を、4世界を意味するテトラグラマトン(YHVH)の4倍にした40の数のピラミッドが、エジプトにつくられたという。 そして、ピラミッドは、アトランティス時代の叡智を引き継いだ図書館の機能をもち、また、地球の環境制御を担っているという。また、勿論のこと、秘儀参入の伝授の場でもあり、何度も、地球環境を変えることで、地球住人の高次の意識を目覚めさせてきたという。 地球人は何度も滅亡の憂き目に遭って来たそうである。地球がネガティヴ(暗黒)に陥ったときに、ポジティヴ(白光)に転換する装置(原子力装置らしい)がピラミッドには眠っているという。モーセーが、この装置を持ち出して、紅海を渡った話は有名である。 驚愕すべき話なのだが、かつて、太古の地球は、第10番惑星(地球と火星の間に惑星があったので、第11番惑星だったが、第10番惑星人により破壊されて小惑星群となったので第10番惑星になった)の住人より侵略を受け、地球人は支配されたという。 アダム以前の当時の地球人は、20~50メートルほどの巨人だったが、第10番惑星人は、地球人よりも数十倍もの大巨人だったそうである。第10番惑星人が地球人を支配し、自分たちを神として拝ませ、一部の人間と交尾し、蛇人をつくり、リリスという女性を介して、人類を奴隷として支配したが、とうとう、蛇人と人類の間に戦争が起こり、地球が、非常にネガティヴ(暗黒)に陥ってしまったので、アンタレス星から、高次意識の白色霊団が、地球に救済にやってきたという。 リリス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%B9 白色霊団の成員は、光の子アヴェターラ(アバター)らで、第10番惑星人を、滅亡させようとしたが、激しく抵抗したので、地球の内部(シュタイナーは、月といっている点で異なる)に閉じ込め幽閉したという。しかし、リリスは、巧く逃げて、いまも地球上を徘徊しているという。第10番惑星人たちは、いまも地球内部(月)で、活動しているという。 第10番惑星人は、いまも地上に出て、地球人類を支配しようという野望を捨てきれないでいるという。白色霊団も、地球を常時監視し、見守り、地球内部を、青色人種に守らせているという。青色人が、第10番惑星人を封じ込めているが、メーデーとハロウィンのときだけは、その封印が解けるという。 だから、メーデーとハロウィンのときだけ、人間はネガティヴの領域に一瞬陥り易い傾向にあるという。 メーデー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC ハロウィン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3 メーデーとハロウィンのつながりから、以下のサイトに興味深い話が載っている。 UK in Japan http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/visiting-the-uk/about-uk/customs-traditions/traditional-holidays 上のサイトから抜粋すると、 ☆ ☆ ☆ ハロウィーン ハロウィーン(万聖節の前夜)(10月31日)と魔女・幽霊との関連づけは、ケルト族の「大晦日の夜」― 幽霊が地上を歩きまわり、魔女が出ると言われた夜― に由来しています。 魔女と超自然的存在の話は今も英国全土に残っており、この夜には、子供たちの集団がお化けのような仮装をし、ハロウィーンのちょうちんを持って、町を歩き回ります― このちょうちんはカボチャの中身をくり抜いて、片面にお化けのような顔を彫り、中にろうそくを灯らせて光を放つようにしたものです。 近年、「トリック・オア・トリーティング」(ごちそうしてくれなきゃ、いたずらだ)と言って菓子や果物をねだる習慣が人気を集めています。我々は一般にこの習慣をアメリカと関連づけていますが、この習慣は元はイングランドで始まったもので、子供たちがいたずらをしても叱られない「無法の夜」を宣言した「いたずらの夜」(通常、メーデーの前夜またはハロウィーン)が起源です。 ハロウィーン・パーティー(通常、子供のためのパーティ)では、アップル・ボビングのようなゲームが行われます。これは、リンゴを水に浮かべるか、ひもに吊るして、両手を頭の後ろにまわし、歯だけでリンゴをつかもうとするゲームです。 ☆ ☆ ☆ 上記の抜粋した内容の『「いたずらの夜」(通常、メーデーの前夜またはハロウィーン)が起源です。』は、地球内部(月)に幽閉された第10番惑星人の影響を意味しているように思われる。魔女は、リリスのことだろう。 このような話に関連したことを、老子は第14章で説いているので、例のごとく抜粋して紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第14章 古えの道を執りて、もって今の有を御すれば、能く古始を知る 原文 視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰、故混而爲一。其上不徼、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是爲惚恍。迎之不見其首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。 書き下し文 これを視れども見えず、名づけて夷(い)という。これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。これを搏(とら)うるも得ず、名づけて微(び)という。この三つの者は詰(きつ)を致すべからず、故(もと)より混(こん)じて一と為る。その上は徼(あきら)かならず、その下は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂(い)い、これを惚恍(こつこう)と謂う。これを迎(むか)うるともその首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うともその後(しりえ)を見ず。古(いにし)えの道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。これを道紀(どうき)と謂う。 英訳文 Things that we cannot see, I call them “the obscure”. Things we cannot hear, I call them “the faint”. Things we cannot catch, I call them “the subtle”. We cannot sense these and these are originally the same one. The space above it is not bright. The space below it is not dark. I cannot name it because it is too vague. It returns to nothingness in the end. I call it, for convenience’ sake, “appearance of no appearance”, “form of the formless” or just “the vague”. You cannot see its face even if you meet it. You cannot see its back even if you follow it. If you observe the present time with “the way” from ancient time, you can understand the origin of things. This is the start of “the way”. 現代語訳 目をこらして視ようとしても見えないもの、これを「夷」と呼ぶ。耳を澄まして聴こうとしても聞こえないもの、これを「希」と呼ぶ。手探りで取ろうとしても得られないもの、これを「微」と呼ぶ。これら三つのものは元々一つのもので、我々には捉える事の出来ないものなのだ。その上に行っても明るくならず、その下に行っても暗くならない。おぼろげでとらえどころも無いので名づける事も出来ず、結局は無に帰ってゆく。これを「すがたの無い姿」、「かたちの無い形」または「おぼろげなもの」と呼ぶことにしよう。こちらに向かって来るのを迎えても顔は見えず、後から追いかけても後姿は見えない。この古くからの「道」を通して眼に見える今を見れば、物事の起源を知る事ができる。これを「道の始まり」と呼ぶ。 Translated by へいはちろう (続けて、「タオの法則」より抜粋する。) 第14章 「よろこび」には二種類ある 陰陽のバランスで成り立つ「喜び」と それを超えた「悦び」だ 人間を恒久に幸せにするのは 「喜び」ではなく「悦び」だ 「幸せと苦労は、誰でも半分半分与えられている」 「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」 たしかにそうだ。しかし、この場合の幸せや楽とは「喜び」のことだ。 大金が手に入った。有名になった。大願が成就した。これらはすべて陽の現象である。陽である「喜び」は必ず陰を伴う相対幸福だ。その獲得は、獲得した分だけ、それとは正反するバランス作用を生み出す。 昔の人たちは、子どもが興奮して笑いすぎると、「そんなに笑いすぎると、すぐに泣くよ」と言って教えた。子どもは運命リズムの回転スピードが速く、この法則が手に取るようにわかる。興奮した大笑いの後は、必ずと言っていいほど大泣きする。このリズムは、大人にも同様に流れている。大金を手にし、出世して有頂天になることは、子どもの大笑いに等しい。 しかし、老子の言う「悦び」は、これとは異なる。それは、陰陽を超えて本願の一点(タオ)へと帰一する時に生じる、人間の最も深い根本の意識であり真の愛である。この恍惚とも言える悦び意識は、正反する「苦」というバランスを生み出すことなく根本の幸せの次元へと人を引き寄せる。 タオはすべてのバランスを超えている。 ☆ ☆ ☆ エヘイエ アシェル エヘイエ。バランスによりバランスをもたらす。 よりよい善には悪というバランスが必要です。本当の個人主義とは、全体意識で、個人を理解する事です。つまり自分を出すのではなく、自分を抱くのです。自分を理解する事が目標なのです。それには全体を理解しないといけません。他者を理解する事で、自分が理解できるのです。他力本願と自力本願は同じなんです。
2018年10月31日
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忙しくてほとんど放置のブログだが、また久しぶりに書きたいといっても、つぶやきみたいなものだが、少し前に、子どものときに好きだった漫画シティーハンターの続編のエンジェルハートが実写ドラマ化したのをみたのだが、なかなか良かったので、是非実写化してほしいと思う今日この頃である。なんでもフランスでニッキ―ラルソンというタイトルで、実写映画化されるらしいが、日本でもやってほしいと思うからである。来年にアニメで映画化されるようである。個人的希望では是非実写化してもらいたい。個人的には冴羽りょうは福山雅治がいいと思う。香は新垣結衣か? 冴子は北川景子か? 海坊主は渡辺謙(ちょっと格好良すぎるが、なかなかいない)、なんか錚錚たるメンバーなんで、出演料だけで大変なことになるかも?内容としては映画キングスマンみたいな感じがいいのではないかと勝手に妄想している。たわいもない妄想である。
2018年10月21日
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犬HKの番組は面白いのがよくある。「悩みごとは哲学者に聞け」も面白かったが、残念ながら終わってしまったが、今日、NHK特集のマネーワールドをみていて、ニューマネーワールド時代が現代に到来していることがわかった。中央銀行というシステムが、もはや破たん寸前にあるという。コンピューターの歴史を改めて考えてみると、中央銀行はメインフレームで、かつての大型コンピュータ時代を思い起こさせる、人類はマイコン、パソコンの時代を乗り越え、パソコンからインターネットを構築した。それはかつての大航海時代から、車、飛行機、そして計算機から、インターネットへと世界は小型化、電子化され、つながり、新しい経済環境、つまりニューマネーの舞台が整ったように思える。つまり、本来の、幸福をつくりだす手形であるはずのマネーの活用環境が、ようやく整いつつあるというのである。仮想通貨をはじめに、いまは電子化マネーの試行錯誤、実験段階にあるが、つまり中央銀行から、本当の個人銀行の創設、通貨が電子化し、個人通貨としてのマネー、マネーが、本来のオカルトの意味での、マナス=霊我に近づいてきたのである。マナスは使えば使うほど増えるという意味をもち、ナゾナゾに使われるが、知恵の事でもある。知恵は使えば使うほど増える。マネーに知恵の人口知能AIを付け加えて、AIマネーをつくればいいだろう。要するに、個人個人の欲望に沿ったマネーを発明する時代が到来しているのである。信用性は人工知能の水準に還元させる。マネーに人工知能を搭載すればいい。この番組をみていて、私には将来クラウド銀行によるAIマネーが現れるように思えた。クラウドファンディングは、いわばその前身である。本来マネーとは、現世での自己実現のための手段であるべきで、クラウドファンディングのように、実現したら、すみやかに効力を失うものであり、いまのマネー、お金は、企業の内部留保などのように無目的に蓄積したりと、使い勝手が悪すぎる。マネーは本来個人的なものになるべきなのに、そこに権力が加わり、社会差別的になるのが間違いで、そこにはマネーが稀少で、非常に画一的な価値しかもたないところに問題がある。マネーを稀少なものにすればするほど大金持ちになり、格差社会が拡がるわけである。いまの貨幣システムでは息詰まるのが自明で、実際に格差が拡がり行き詰っている。本来は、個人的に誰にも行き渡り、自己実現を獲得させる多様性をもつように、マネーをつくるべきなのである。マネー自身に付加価値をつけさせるべきである。マネーに価値があるのではなく、マネーを使うことに価値がある。持っているだけでは宝の持ち腐れである。それには中央銀行をやめて、パソコンのように、個人銀行にすべきなのである。個人と個人の通貨のやり取りは、つまりレートは個人銀行をクラウドにして、グラウドをAIで統合し、AIで社会における自己実現度を評価させて取引すればいい。日々個人の社会活動においてレートが変化すべきなのである。稀少価値を物的にするのではなく、霊的にすべきなのである。誰もが個人という希少価値をもっているのだから、社会に関わらないと損なのである。社会は自己実現の場なのである。いまやAIで株価取引きしているのだから、それを個人レベルに増殖すればいい。AIがオーバーフローしない限りは、自己破産はなくなるだろう。この個人銀行システムに近いのが、SNS、つまりFACEBOOKの「いいね」である。いいねという共感が多いほど個人銀行の取引きが上がり、レートが上がるわけである。この番組では、タイムマネーという時間のマネーを紹介していたが、そのような多目的な多様なマネーが増えていいはずである。現にこの国の江戸時代では、多様なマネーが流通し、江戸幕府が管理していたのは、年貢ぐらいだった。秀吉が天下をとれたのも、朝廷を中心とする銀資本体制を、被差別部落民出を生かして金資本に転換し、唐銭を大量に輸入したからである。そういうわけで、いまはマネー革命の時代にあるということがわかった。それには各個人で、マネーを発明しなければいけない。
2018年10月07日
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