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NHK合唱コンクールのドキュメントを仕事をしながら聞き耳を立てる。中学生の課題曲がメインで作曲の若い女性をとおして話が進行するわけで、フォークソングというのかそんな楽曲である。失礼ながら楽譜を書けるのかどうか、そんな音楽であるので、おそらくいつものパターンだろうゴーストライターが合唱用に編曲されるのであろう。ここ十年かもっと前からかそういう合唱曲の作り方がされているし、どれを聞いてもみな同じと感じる人は多いと思う。それはそうでしょ、初めから合唱曲として作曲されず、単旋律がありアメリカアルモニーがあり、それを合唱曲に無理になおすのだから、それも担当者が決まっているのであろう書き方なのが想像できる。無垢な少年少女にはもっと価値ある合唱曲を歌ってもらいたいものである。おまけに審査員がはたしてふさわしい審査員なのか。それと、昨日の運動会もそうだが、一等、二等、三等、一位、二位、三位は不平等とかなんとかで金賞何組、銀賞何組となる。オリンピックでは金メダルの頂点を目指す努力も必要かと思うのだが。音楽の低迷は文化国家の低迷ですな。今一番大事なのは心の回復。それには魅力ある宗教の出現こそが第一番ではないだろうか。個人的にはまた僕の周りは「無教会」的な動きが呼吸している。心臓にたっぷりのきれいな空気がはいり、サラサラな血液がドキドキと鼓動している。
2012年09月30日
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台風の前日の晴れの日。小学校の運動会に数十年ぶりに子供たちの元気な姿を見てきた。一年生の真剣に走る姿は幼稚園の運動会とは一味違う。子供たちの素直な心をそのまま育てることの大切さを痛烈に感じた。先生の姿を観察すると、何十年も進歩のない、怒鳴り、怒鳴り、上から目線の怒鳴り、怒鳴り・・・父兄もそれを良し!と何も感じていないのか、子供を人質にしているから何も言えないのか・・・生徒と先生との間の壁は厚く、これでは子供の才能を育てる教育はまったく希望のかけらもない、これでは自由な独創的発想が子供が大人になって生まれるはずがない。右ならえ!前に進め!集団行動、集団からはみ出したらダメ、そんな教育が我々の時代から延々と続いていることに寒々と鳥肌が立つ思いだった。御来賓?の胸にリボンを付けたお偉い方々に小学生3,4年生の子供たちがお茶を持っていく。これにはビックリをとりこしてショックを感じる。昔なつかしい騎馬戦があった。男女混合。大将の頭には折り紙の兜をかぶり、ほかは黄色と赤の通学帽?をかぶっている。我々の時代は鉢巻をきつく締め取られないようにしたものだが、あっけないもの。とにかく、スケジュールをこなすだけ。怒鳴り、にらみ、父兄がいるからあの程度の怒鳴り、にらみ、命令口調なのだから、父兄のいないところでは大変なことが毎日繰り返されているのが想像できた。とにかくスケジュールをこなすだけ。子供のためではなくマニュアルをこなす教師の言い分だけ。気分が悪くなり、お昼の朝食を孫たちと楽しみ、校庭を後にした。気分が悪いので午後からは何も手につかず。あしたは月に一度のワンコインコンサートだというのに。日本の学校教育は根本からはき違えているのではないだろうか。小学生と言っても児童ではない。一年生と5,6年生では全く違う大人の人格。不満疑問を持ちながら中学生になり、高校生になる過程で暴れ学校崩壊があっても不思議はない。気分を悪くするいまひとつの出来事が直面している。僕はTVながら属でNHK番組が流れている。NHK合唱コンクールのドキュメントが流れている。こんな合唱とも言えない合唱曲がまかり通る日本の教育に明日はない。
2012年09月29日
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前回のブログ。ベデスダは多くのことを暗示しているし興味を強く覚える。水面が揺れる瞬間を360日にらめっこしているとはどんな心境か、そんなことできるはずがない。数億円の宝くじに当選するよりも確率は天文学数字の確立になるであろう。ましては身体不自由者がどうして一番に入水できようか。人間では計り知れない力が存在しているということですね。そう考えるとキリストを知る、ということ自体がジャンボ宝くじ一等当選よりも難しいということかもしれませんね。オスプレイの試乗。乗る団体と乗らない団体とがTVにあった。車の試乗じゃぁあるまいし。試乗すると言うことはオスプレイの安全と基地配備を容認すると解釈されるだろう。尖閣、竹島と隣国との領土問題が触れる中、やっぱり日本はアメリカの傘の下でないと何にもできないと言うことがヒシヒシと感じ、オスプレイの配備は日本にとって必要ではと言う気風がにおう。どうせ、わが県に、我が家の近くに来るのはないし・・・。こんなエゴが露骨に表れているような気がする。オスプレイだかゴスプレイだかゴスプレだか、そんなものは必要ない。沖縄から基地を撤退させる。ただただこれだけ。民主党はぶれないでほしい。総理が国外に向けて尖閣問題を言い切った。党内のトップ争いは少しは後の話になるだろうが、トップが変わっても、政権が代わっても尖閣は我が領土とぶれないで欲しい。自民党総裁選を強い関心を持ってTVにくぎ付けだったが、やっぱりの結論。にらみの議員対へなへな元総理の対決は清潔そうで紳士でわれら庶民とは違うお公家さんに軍配が上がった。ネット検索すれば自民党総裁の突然の辞任。体の不調でおやめになったようだが、隣国との領土問題、原発問題、不況、就職問題などなど、それに沖縄、基地、九条など頭の容量がパンクするほどの国政を自民党新総裁は担うことができるのだろうか。どうせ、いますぐに総理になるのではないからと先見の明があるのだろう。死ぬ気で国民のために身命をささげての総理大臣職であるはず。雇われサラリーマン社長や官僚とは違うはずだが、体調を理由に突然いとも簡単に総理を辞したあの記憶を国民は忘れてはいないはず、なのだがそんな元総理大臣が自民党新総理になった。右を見ても左を見てもわが日本を救えるヒーローはいないようだ。
2012年09月27日
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エルサレムにある羊の門のほとりに、ヘブル語にてベテスダという池あり、之にそいては五つの廊あり。その内に病める者、盲人、跛者、痩せ衰えた者ども夥多しく臥しいたり。(水の動くのを待てるなり。それは御使のおりおり降りて水を動かすことあれば、その動きたるのち最先に池にはいる者は、如何なる病にても癒ゆる故なり)。そこに38年病に悩む人ありしが、イエスその臥し居るを見、かつその病の久しきを知り、之に「汝癒えんことを願うか」と言い給えば、病める者答え「主よ、水が動く時に、我を池に入るる者なし、我が往くほどに、他の人が先に降るなり」。イエスは言い給う「起きよ、床を取りあげて歩め」。この人ただちに癒え、床を取りあげて歩めり。(ヨハネによる福音書、5:2-9) 五つの回廊にヘブライ語でベデスダと言う池でのできごと。 主の御使がこのベデスダ池に降りてきて水を動かす。水が動いた時まっ先に水を浴びる者は、どんな病気も癒やされると言う。 病む人々は朝夕、池を眺めながら暮らしたであろう。彼らの切なる願いは、主の御使いが天より降り、池の水を動かしてくれるだろうと言う希望となり、癒されると言う確信であったろう。 38年間、水の動くのを待っていた人があった。水は動き癒やされる機会はしばしばあったが、不自由な身では先んじて水を受けることはかなわないでいた。 手をのばせば届くほどの距離にあって、求めてもかなわず、彼の力ではその距離はあまりにも遠かった。自己の無力、情けなさ、罪の深さに池に向かって大きな声で号泣し叫んだであろう。 癒やしを目の前にして心身の焼かれる地獄炉の38年は彼をして忍従の人、待つ人、信仰の人となった。 「汝癒えんことを願うか」 「主よ、水が動く時に、我を池に入るる者なし、我が往くほどに、他の人が先に降るなり」 「起きよ、床を取りあげて歩め」 この人ただちに癒え、床を取りあげて歩めり。 イエズスの「治りたいのか」と言う言葉は、長年病み苦しむ人たちに対して適切な言葉ではないだろう。 「治りたいか」と言われたら、心身の救霊を求める人たちはイエズスを嘲笑罵倒するだろう。 彼ら病者の求めている言葉は「治りたいか」ではなく「治してあげる」の言葉である。 イエズスの問いに答えられる人は「信仰の人」である。 イエズスは彼の信仰を見て言われた「起きよ、床を取りあげて歩め」。 彼が38年間水面の動きを待ち耐えたのはイエズスであったことを知るのであった。我が身を癒やしてくれたのはイエズスであることを証した。 イエズスと彼との出会(時)いはけっして偶然ではない。神があらかじめ彼のために備えておいた時なのである。苦難の地獄炉の中で試されているとき、必要なことは忍耐して待つことであった。 イエズスは我らすべての人に救いの時を備えておられる。
2012年09月21日
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ハンセン詩人故伊藤さんのポエムに音楽を付けた「頬杖」も完成しホッとする暇もなく書いています。朗読をじゃませず、BGMでは朗読をじゃませず、インテルメッゾにあって前後の暗示と簡単なようで技術を要すると思う。ある意味で実験的試みができるのが魅力ではあるが、テーマがハンセン病だけに暗さの中に明るい希望の音の表現に魅せられる。本で読むのと違い、耳からの想像はある意味危機流しにはなるが、それによって興味のある人にはじっくりと本を読んでもらう架け橋となろう。ハンセン病は知りつくされたように言われるが、表面づらはそうかもしれないが、本質的な問題は内面にあると思う。ここが一番大事なところで、これなくしてハンセン病を知ることはできないし、ハンセン病という忌み嫌われる難病はこれから出現するであろう、いやもうすでにある恐ろしい病気への理解をするうえでとても大切なスタンスにあると思う。テレビでは中国国内での日本バッシングがデモ化暴徒化し、現場の緊張は想像できないくらいなのでしょう。これも全て日本人のアイマイさ、イエスノーを腹芸としてしまう鎖国国民の悲劇だと思います。テレビ解説者は「日本が中国近代化にどれほどの協力援助をしてきたか、今の人に知らせていない」と。腹芸も美徳だが、これほど援助協力しながら何か事あると逆になるのは当然で、見返りを心で思っていることへの明快な回答だと思う。そんなことで思い出されるのは敗戦後すぐに起こった韓国での「和夫一家惨殺事件」。日本統治下での韓国にあって少数ではあろうが韓国人を愛し孤児の教育、中には大学まで進ませ、そんな教え子、我が子のような韓国人少年らに殴り殺され、昨日までお母さんと言っていた彼らに妻は「強」「姦」され狂い死に、メッタ刺し腸までちぎりだされた。娘は餓死。と言う事件を思い出します。いつも日本人は隣国に大変ま加害国としていつもいつも下を向いて歩いているが、悪いことは改め、良いことには胸をはるべきでしょう。竹島問題が韓国とすぐに勃発するでしょう。草食男児の虚弱日本人がどう対処するのだろうか。政治家も戦後生まれの、へたをすると40代の苦労知らずのボンボンが総理大臣になったぁーそら恐ろしいことですなぁー。
2012年09月18日
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Act.16「霧の夜に」 一一人の狂女によせて―― この広い武蔵野の、いったい何処から生まれ、何処から湧いて来たのか。 深々とたちこめた霧の中、望楼の一つ灯が虹色に溶け、もっと地表に近いところ、 呉々と並んだ療舎の灯が、こんなにも優しくうるんで。その中の一番右が、あなたの住む病棟。 あぁ、霧がこんなにも深いから、夜がこんなにも静かだから、そして、あなたがこんなにも静かだから。 私はあなたを想う。まだ見たこともないあなたを想う。 いつも今時分になるときまって、あの、哀しいあなたの叫びが聞こえてくるのに。 今夜は、この深い霧に包まれて、あなたはもう眠っているのだろうか。 あなたはすっかりこわれてしまった心を抱いて、金網の張られたその病棟へ移って、もう、8年にもなると云う。それから毎日毎日、夜になると、ひと時あのけたたましいあなたの叫びが、痛ましい呪詛に充ちた、夜気を震わせ続けて来たのだと云う。だが、今夜はもうあなたは眠っているのか。この静かな暖かい霧に包まれて。おお、あなたよ、やすらかに眠れ。あなたを虐げている人達の記憶も。こわれゆく意識への恐怖の記憶も。すべて忘れて、あなたよ、安心して眠れ。 すっかり涙も枯れてしまったあなたのために。 もう誰も泣いてくれる人もなくなったあなたのために。ああ、今夜は、霧がこんなにも優しいから、灯があんなにうるんでいるから。あなたよ、私も出かかった涙を拭いてしまおう・・・。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月17日
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Act.15「怪談」 カッタイの上に、ハイビョウなんだってよそいつぁ! つまり、内も外も腐ってるんだ。 で、なぜ溶けてしまわないかって? そりゃ、その・・・。ホラ、あの地下室の標本のようによ、ク・ス・リ漬けになっちまってるってわけだ。 そいつがだよ。昼間は何てこたぁないんだが、夜になると、フラフラ歩き出すんだとよ・・・。 壜から抜け出しては、其処らを探しまわるんだと・・・。 いや、嘘じゃないんだ。Kの奴が何度も見たって云うんだ。 ついこの間もよ、映画の帰りに、ホラ、あの空地んとこで逢ったんだとよ。 で、奴ぁ、あのとおりの馬鹿で恐い物なしだからよ。逃げもせずに、ノコノコ付いて行ったんだと・・・。おまけに聞いてみたんだとよ。 “もしもし、あんたぁ、この夜中に毎晩、何を探してるんですか?”って・・・。 そしたら、何てったと思う? そいつが細い声で云うにはよぉ。 なんでも・・・“レ・イ・コ・ン”だとか、“ア・イ・”だとかを“探してるんです”・・・って云ったんだとよ!その時んなってさすがのKも怖くなったらしいんだな、一目散に逃げて来たってんだとよ。 なんだか訳が分からんがよ、あんまり気味のいい話じゃないやなぁ、 “オイ! 冷えてきたぜ、炭でもつげよ!”=ENDE= (朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月15日
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Act.14「グレゴリオの日に」 今日は3月12日、聖グレゴリオの祝日。そして、僕の、誕生日・・・。 みんなが祝ってくれた。沢山の贈り物も・・・。 僕は、もう一度並べて見る。 数々の霊的花束! イエズス様の聖絵! マリア様のメダイ! 小さな、可愛いお菓子! そして、シワのよった百円札が3枚!。 “これは、コーヒー代” “これは、タバコ代” “年に一度の日だから、バットではなくピースを喫え”と・・・。 あァ、別れて来た神山の病友達から送られて来たこれらの品々。 眼に見える、そして眼に見えない沢山のこれらの祝いの品々。 貧しさの中からの、その貧しさの中からの心からの贈り物。あァ、高原さんよ。新谷君、花島さん、関原のおばさん、竹田のいさちゃんよ・・・。 これらの品々の裏に隠されたあなた方の温かい真実・・・。手を触れなくてもこんなにも温かく、その温かさが僕の胸の中でひとつになり、ジィーンと熱をもち、いつか、ポトンと、手紙の上に何かが落ちたと云ったら、高原さん、あなたはそれを女々しいと云うだろうか。 今日は僕の霊名グレゴリオの日。 送られて来た沢山の心に包まれた、僕の誕生日・・・。 やっと開いた沈丁花の、その一枝を飾った部屋で、今夜はしっとりとお茶を飲もう。 あァ、別れて来た病友たちよ。 あんなに我がままばかり云ってきた僕なのに、人の好意に甘えることしか知らなかった、こんな僕なのに・・。高原さんよ。新谷君、花島さんよ。関原のおばちゃん、竹田のいさちゃんよ。 こんなにも美しい愛情に支えられ、 こんなにも沢山の人たちに見守られているから・・、 今のうちに、このまま死んでしまいたいような気になる、と僕が云ったら、高原さんよ、あなたはそれを、大げさだと笑うだろうか・・・。=ENDE= (朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月15日
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Act.13「ベネディクション」 きれいな眺めです。 本当に美しい眺めです。 男も女も、年寄りも若い者も、元気な者も、不自由な者も、みんな、祭壇に向かって、揃って跪いています。 さまざまな燭台に一斉に点された灯が、さまざまな形にゆらいでいます。クリスマスの、朝のベネディクションです。 みんな今日ばかりは、それぞれに一応の晴着を着て。 女の人は特にきれいです。 純白のヴェールが、朝の陽射しに輝いています。きれいです。本当にきれいな後ろ姿です。 あの人も・・・あの人も・・・、ああ、あの人も・・・。 たとえこの瞬間だけは、みな、きっと赤ん坊のようにきれいな心に違いありません。そのすなおな、やさしい、そして幾分さびしそうな後ろ姿が、思わず私を感動させます。 みんな、祭壇の上のホスチアを見守っています。 ホスチアの中の天主様とお話をしています。 天主様・・・。或る人にとっては、天主様は、まことに物の分かった旦那です。 また或る人には、おしゃまな娘の、可愛いおねだりにいちいち眼を細めて聴き入っている、優しいパパです。 そして・・・そして恋人です。そうかと思うと、揃えた膝の上で、煙管を持った手を細かく震わせている、今にも爆発しそうな、雷オヤジです。 そしてまた、狸寝入りをしながら、息子のすることをじっと視ている。そうです、少々煙たい存在です。 その天主様の前に、ああ、今日は本当にみんないい子で並んでいます・・・。 鈴が鳴って、ホスチアが高く捧げられました。みんなそろって十字架を切ります。 在る人は、とても丁寧に・・・。在る人は幾分おっちょこちょいに・・・。キラキラ光る顕示台の陰から、昨夜お生まれになったばかりのイエズス様は、それらをとても面白がってご覧になっていることでしょう。 思わず頬ずりしたくなるような、あどけない笑顔で・・・。 魂にしみ透るように最後の鈴が鳴って、アッ! イエズス様がこっちをご覧になりました。 私もあわてて頭を下げました。そして思わずとんちんかんな挨拶をしてしまいます。“イエズス様。きょうは本当に良いお天気ですね!”=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)こんな信仰生活があったんですね。いまではどこに行っても見られない考えられない場面です。50年前は我々の身近にもあったような記憶がありますが・・・。
2012年09月12日
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Act.12「驢馬の上のキリストに」――枝の主日―― 主よ。 あなたは人間のかなしみ、人間の苦しみをよく御存知でおられます。 いえ、かえって私たち人間以上に、よく御存知でおられるはずです。なぜなら・・・あなたは、近視眼の私たちにはよく視えない「罪」と言うものを、罪の恐ろしさを、よく識っておられましたから。 そのうえ、あんなにまでお愛しになった人間たちから、あんなにまで、ひどい、裏切りを受けねばなりませんでしたから・・・。 そうです。あなたは身をもって、人間を体験なさいました。 そしてあなたのお受けになった苦しみは、あなたの愛の故に、あなたの愛の深さに比例して、どんなにか大きかったことでしょう。けれども・・・主よ。 ひと言だけ私に言わせて下さい。 あなたはたったひとつ、御存知にならなかったことがお有では・・・? そうです。確かにあなたは、私たち人間に裏切られ、この上ない苦しみの内にお亡くなりになりました。けれども・・・けれども主よ。 人祖の罪を身に負っておられないあなた。 神の子で在られるあなたは、私たちのように、自分自身に、自分自身の心に、裏切られることはお有りにならなかったでしょう・・・。 その人間のかなしみ。 その絶え間ない苦しみをこそ、私はあなたに、身をもって識って頂きたかったのに・・・。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月12日
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Act.11「一つの灯」 夕ぐれが近ずくと、ひととき、この静かな天地を雀等の騒めきが包んだ。 病床の一日もこうして終え、萌しくる熱に堪えながら、過ぎ去った一日をふりかえるとき、私は言い知れぬ淋しさに包まれる。 この日が無駄であったとは考えられない。そしてこのような生活も、過ごしようによっては、どんなに尊いものかを、私は知っている。 しかし、すでに塒へ入った雀達の、あの幽かな含み声すらまったく消え、静寂が夜と昼とをかっきりと区別するひととき。 あぁ、このひと時は、私にはあまりにも淋しすぎる。 けれどもまた、このひと時は私に、この短い人生と、それにつながる永遠とを考えさせる時でもある。 そのとき、萎えた私の心にも、ぼっちりと明るくひとつの灯が点るのだ。 とこしえの生命を信ずる者のみが持つことのできるひとつの灯。 考えれば考えるほど尊い灯。 その小さな灯をかたく抱きしめ、何とかして消さぬように、消さぬようにと、努力している私ではあるが・・・。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月11日
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Act.10「風の中で」 樹々よ、お前たちは知っているか。 お前たちは人間の本当の辛さを知っているか。 人間の本当のむごさを知っているか。人間であることの辛さ。 人間であらねばならない辛さを知っているか。 樹々よ、お前たちは見た。 人間が人間でなくなった時のその恐ろしい姿を。樹々よ、お前たちは見た。 人間が人間でなくなった時どれほど残酷に、どれほど醜くなれるかを。 そして、それでもなおうわべを飾ろうとする、そのあさましさを。 樹々よ、風にゆれる梢たちよ。 相手が人間でなくたっても、自分が人間であらねばならない。 相手が人間でなくなっても、そのつらさを知っているか。 そして、それでもなお人間であるが故に許さねばならない。 そのむごさを知っているかい。 あァ樹々よ、創られたまま偉大を持って大空に突っ立っているもの達よ。 お前たちは見た。すべてを見た。 樹々よ、だが・・・ お前たちは何も語らない。 じっと、沈黙を守って、寒風に耐えている。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月10日
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Act.9「距離」また時計が鳴りました。さっき鳴ったばかりなのに。 そしてさっきも、すっかり同じ想いで聞いたばかりなのに。 そう、また時計が鳴りました。寝しずまった病室の、澱んだ空気を震わせて響くその音を、ぴったりと耳を塞ぎたいような想いで。 そのくせ、ひとつでも聞き逃すまいと、耳を澄ましている私です。ココノツ・トオ・ジュウイチ・ジュウニ、そして今はもう一時!! あァ、なんと簡単な、なんとあっけないものでしょうか。今日が昨日になり、明日が今日になるということは。鈍いひかりの輪を描いて、波紋のように消えてゆく。その音を追って滴滴と、したたり落ち・・・。やがて滔滔と、音をたてて流れてゆくのは、これが「時間」というものなのでしょうか。それとも、私の「血」なのでしょうか。 その中にあって、あァ、今夜もまた私は凝視めているのです。絶望に沈んだ魚のような眼を揚げ、短い芦の一茎をたよりに、そうです、私は測っているのです。測ろうとしているのです。遥かみなかみ、その空間の、もうとっくに行き着いていなければならなかったはずの私の席と、今の私との、あまりにも遠い、あまりにも懸け離れたその距離を。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月09日
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Act.8「できそこないな話」天主様。 私は、あなたが私をお創りになったことを、信じています。 信じていますが・・、でも・・あなたのお創りになったものにしては、なんと、できそこないでお粗末なのでしょうか。 それは、あなたの責任ではないと仰有る。でも、それでしたら天主様。 私に、人祖を怨むことを許して下さいますか? そうです、私は人祖なら、何だか憎めるような気がするんです。それなのに天主様。 私は、悪魔を、どうもうまく憎めないんです。 こんな話ってあるでしょうか。 そこのところが、どうも変なんです。ですから、ですから天主様。 どこまでも、私はできそこないだと、言いたいんです。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月08日
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Act.7「汽車の音に」懐かしい汽笛の音よ、お前は何時も私に、故郷の事を思い出させる。優しかった父母の顔も・・・。そして、何時も私に、故郷の話をしてくれるのだ。だから、私はお前を愛している。淋しい汽笛の音よ、お前は何時も、私の涙を誘う。病気で寝て居る時も・・・。夜中にお前の音を聞いていると、たまらなく淋しくなる。そしてそれが、故郷を離れ病む身にとって、どんなにつらい事か・・・。けれど、私はお前を愛している。何時も変らない汽笛の音よ、私の淋しい日の友よ、私は、お前を愛している。色々な思い出をたくさん話してくれる汽笛の音よ、私は何時までも、何時までも、お前を愛している。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月07日
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Act.6「昔 ひとびとは・・・」むかし・・・。人々は、さびしがり屋だった。さびしいから、肩を寄せ合い温め合った。さびしいから、天を仰いで、神を呼んだ。もはや、人々はさびしがらない。神を信ぜず、人も信ぜず、それでいて、もはや、人々はさびしがらない。人々は考えることも忘れ、もはやさびしがることさえ忘れてしまった。 あァ、今日・・・。この寒々とした風景の中を、風に向かって去っていったものよ・・・。もしかしたら・・・あれは、神ではなかったのか。うしろ姿が、あんなにもわびしげだったのは・・・。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月06日
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Act.5「夕ぐれ」さあ行こう、子羊よ。お前の食欲には限りがない。もう間もなく日も昏れよう。ほら向こうの山裾には、あんなに靄が深くなった。さあ行こう、子羊よ。ねそべってばかりいた野っぱらにさようならして、さあ早く、みんなの待っている家へかえろう。さあ行こう、子羊よ。道草ばかりくっていないで、さあ今こそ、前をゆくあの牛のように、一歩、一歩、確かな歩みを進めよう。さあ行こう、子羊よ。はるかにまたたいて見える、あの懐しい灯に向って。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月06日
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Act.4「見えない神に」凝っと跪き、眼を開き、眼をつむり、見えない神に向かって私は祈る。ふと瞳に映ったステンドグラスの紫が、なぜか胸に泌み、またも生々しい私の傷ぐちに触れ、あァ、幾多の痛恨の連鎖を引きずって、在るものから、在るべきものへの、血みどろの移行。だが所詮、翼を失った身の、いたずらに地を這う他にどうしよう術もなく。ただ、より高きものへの希いをこめて今日も、見えない神の御前に、私は祈る。凝っと跪き、眼をひらき、眼をつむって。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月04日
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Act.3「春のひなた」ママゴト遊びは真昼の郷愁。草の葉っぱの青いジュース、牡丹の花の真紅いジュース。春のひなた、幼な子の瞳はそのまま宝玉。幼な子よ、凍ってしまったこの血のために、紅いお酒を飲ませておくれ。青いジュースはそのハンカチへ。疲れきった旅路の、せめてもの希望のしるしに。幼な子よ、みどりの旗をつくっておくれ。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月04日
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Act. 2「野っぱら」君たちが強すぎるんだよ。僕には耐えられないんだ。愛のない愛だらけの、傷のない傷だらけの、こんな生活が・・・。その中で胸を張って、大きな息のできる君たちのような、丈夫な肺を、僕はもっていないんだ。だからこうして、きょうも・・・、すこしでも温かい、美しい言葉が落ちてはいないかと、野っぱらを歩きまわっているんだよ。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月03日
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Act.1「訣別」さようなら、かっての僕だったものよ。 僕はお前を憎むことを学んだのだ。さようなら、かっての僕だったものよ。 僕が泣いているのは、お前との別れを惜しむためではない。 こんなにもお前を愛していた、僕自身を憎んでいるのだ。 さようなら、かっての僕だったものよ。 僕は、こっちの道を行こう。=ENDE=(朗読と音楽によるハンセン病レーゼドラマの上演をご希望の方には台本と音楽を提供します。ハンセン病は多くのことを語ると思います。)
2012年09月02日
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木管楽器の演奏会を聴いた。演目の中に、同じ楽器のアマチュア奏者が作曲した作品が世界初演と解説があった。この作品が書かれた経緯として、この楽器のオリジナルが少ないこと、書いてみないかの誘いで書かれたとのことである。アマチュア楽器奏者がどれほどの作曲技量があるのか、それを考えた上で演奏者が依頼したのか。依頼する方もする方で、それを真に受け書く方も書く方である。お遊びならプライベートなら許されようが、人様に聞かすとはどれほどの神経なのだろうか。音楽への冒涜ではないだろうか。こんなことは今では普通のことなのだろう。ピアノ伴奏によるその作品は良く言えば習作。おそらく「作品」と「習作」の違いも知らない作曲者であろう。ワンフレーズを聞く間もなくその音の流れは想像できた。人様に聞いてもらうにはそれなりの作品であるべき。演目の前後の作曲者に肩を並べて演奏されるべき作品であるか否かを演奏者はどう考えているのだろうか。まだまだこんな演奏者がいるということは我々の時代と何ら変わりのない音楽感を感じて鳥肌が立つ。なんでもありぃーの社会を象徴しているかも。こんなことが日常茶飯事で行われているのだろうが、音楽の後進国を証明されたようなもの。これで思い出すのは、日本のギター界。ギター奏者がギター曲を書くと一方的同一的作品を提供する。どれも同じような、それも単純な初歩的書法に終始する。これが良い悪いというのではない。その昔にあっては作曲家=ピアニストであったことと同じく作曲家=ギタリストが作曲技法を習得していないで書くとこうなる。ギターエチュードとなる。根本的違いは昔にあっては作曲家の技量を備えているということ。今回の作品も同じ傾向にあり、それ以下であった。習作の前の段階、つまり音大作曲科在学生の前の段階。音大生の作曲試験にもあたらない。それをお披露目し、素晴らしい作品と社交儀礼で絶賛され、本人がこれを成功ととらえ、またまた多くの作品が生まれるのは罪だと思う。楽器の特徴を羅列し、貧弱な書法で書かれる。いまはパソコンで音楽ソフトを買えば誰でも作曲家。この傾向はこれから続くだろう。作曲書法は無用の社会がもうとっくに出来上がっているということだろう。我々はフラーゼを第一義にしてきた。一つのフラーゼを一気に書くのは創作の基本。それはベートーヴェンらの書法筆跡を見てもわかること。ところが今はそんなことは不要になってくる。と言うことは音楽の創作とは何ぞやと言うことであろう。多重音楽などもパソコンで自由自在に作られる。作曲とは何ぞや?なんだか長生きはしたくないなぁーと感じるところです。
2012年09月01日
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