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作曲につまりドライブとしゃれこむ。エンジン音と車の密室は格好の創作環境を与えてくれる。遠くにいてただ祈るだけでは心もとなく、胸騒ぎがして夜の八時に電話すると「胃炎」とのこと。ストレスでしょう。若ければ少し休めばよいのだろうが80歳を過ぎているので少し心配。翌日に様子を見に行こうかと言うと「来てくれたら余計にストレスだ」と相手を気づかって?の返答だった。どちらにしても来週早々にワイフと訪問するのだから、それまでに元気を取り戻してもらって買い物に行きましょうと、電話を切った。 ブログの友人でもある、或る人から花が届いたと聞いた。お礼の連絡も手紙も要らないからと言うと、電話したとのこと。僕は彼には葬儀を知らせなかった。終わってからのメール報告だけだったが、みなさんそれぞれの立場で心を留めて下さることは有り難いことです。
2017年07月31日
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きょうは年間第17主日。午前と午後の二回ミサに与った。お説教に期待していた。聖福音はマタイ13:44-52.聖福音と説教は関連性なしと解釈すれば、それはそれで終わりの話し。二人の司祭の話しは関連性なしだった。自分の引き出しから「さぁ今日の説教はどの引き出しにしようか?ハイこの引き出しから」と少ない引き出しからのお話しは、はたして説教と言えるものだろうか。そんな説教を長い間聞いていると、これが説教と感じるようになるのが怖い。それで良いのだろうか。
2017年07月30日
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年間第17主日(マタイ13:44-52)「天の国のことを学んだ学者」午後からもミサに与ります。説教が楽しみです。 草津のハンセン病国立療養所内の草津カトリック教会には信者夫妻だけになり、いまは一人となった。米塚夫妻は「教会の祈り」を続けてきた。「教会の祈り」は、第二バチカン公会議以後(1965)、聖職者の「聖務日課」」を信徒にも開放されたのが「教会の祈り」である。僕が高校生のころで、そのころ大人たちには存在知ら知らなかったこの聖務日課を共有できることを歓迎した。これが新旧約聖書ほどの分厚い複雑難解さ、日に七回の祈り、現実的ではないとすぐに横を向いてしまった。朝の祈り、昼の祈り、晩の祈り、就寝の祈りと続く(トラピストなどは更に細かくあるが)。 祈り中にお邪魔することがある。その時は、外で祈りが終わるのを待つか、黙ってその場に鎮座するかである。とても一緒に祈ると言うことは僕には出来なかった。亡くなられたご主人の米塚尚司(88才)さんも奥さんの雉杜子(82才)さんも、超目が悪い、指も変形していて頁をめくるのも時間がかかる。おまけに、この聖務日課は三時間ごとの祈りで時課といい、祈りの箇所がそのつど常に変わるので、それを覚える前に皆さんゲームオーバーとなったわけです。そんな聖務日課を、時間をかけて二人して祈る姿は、誰にも邪魔されたくないだろう僕は思っていました。林竹治郎の「朝の祈り」(1904)を思い出す。このゆったり祈る時間を僕ふぜいがぶち壊しては絶対にイケないと、いつもその祈りの仲間入りを遠慮してきました。あの祈りの姿を、みなさんにお見せしたかったです。いまご主人である米塚尚司さんが召されて、いま雉杜子さんお一人になって「教会の祈り」も恐らく中断していることでしょう。雉杜子さんは、悲しく感じていることでしょう。指先が使えないと言うことはどう言うことか?医療用の大きなピンセットでないと錠剤をつまむことが出来ないんです。この不自由を想像してください。
2017年07月30日
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日本には13カ所とも言われるハンセン病国立療養所がある。大正時代に「懲戒検束権」なるものが生まれた。療養所に入れられると一生そこから出ることは出来ない。出る時は死ぬ時。生涯隔離だから治療らしきものはない。治療をしないのだから医者看護婦は超最低限で看護婦介護士の仕事を補ったのは、同じ比較的元気な同病者がおこなう。人生の先が見えない事を悟った人間はどうするだろうか。正門をくぐると出る時は死んだとき、それも死んで遺骨になっても家には帰れない。こんな自暴自棄のなかではソドムの罪の世界が繰り広げられて当然であろう。犯罪も起ころう。犯罪者が刑務所に送られることはない。ライ者は隔離された身だから健常者と同じ刑務所には収監されることはない。各園長にこの取り締まりの権限が与えられた。園長が裁判官を兼務した。自暴自棄に陥った患者を各療養所にある監房に入れる権限で、これは不穏分子の威嚇見せしめになったであろう。ところが、ある療養所ではその園長の権限である「懲戒検束権」を患者の今で言う自治会長に委ねた。その園長は医師であり学者であったから、自らの手を染めることは望まなかったのであろう。委ねられた自治会長は人物であったが、それはそれ時間が経つと、取り巻きに囲まれるうちにお大尽に、天狗になったのであろう。そうして我が言葉はゼッタの地位で君臨した。すべたが金カネにまみれとなる。療養所間の交流も情報も入らない。どこも同じだと思っていた入園者が病気治療のために他の療養所に移れるようになって初めて、この事実を知るのであった。
2017年07月29日
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その昔、草津の栗生楽泉園のある所で撲殺事件があった。なんとなく、そこを通る度に、閉鎖された人間関係の生き地獄を想像する。今現在この施設で働く看護婦さんは、そんなことを知らないし、知ろうともしないし、死っていても過去の話しと。それに今の看護婦さんにとっては、ハンセン病元患者さんを普通の患者さんとしか見ていない。大変だったねとは口にするが、どんな状態だったのかを調べたり知ろうとはしない。僕の知る限りでは。そんなことは何処の療養所でもあったであろうし、それらを語り継ごうとする元患者さんを僕の知る限りではもういなくなった。自分が死んだら、ハイそれまでよ、と。もし復活があるのであれば、語ってもらいたいものです。
2017年07月28日
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彼が入所した時代は敗戦後の混乱期。凡てが平等に貧しく自分も普通に貧しい時代、つまり平均家族であると思いたい。下を見ればまだまだ貧しい惨めな者がいることが生きる支えになっていたとも聞く。部落社会であったりライ病人と比べると「なんと幸せなことか」と。 ライ病は「癩」と書く。病ダレに頼ると書く。「疒」を「賴」って生きる。この癩と言う字を誰が考案したものか。的を得てると、ハンセン病元患者さんが言っていた。別の元患者さんは「癩患者は癩で生きるしかない」と。
2017年07月28日
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人を亡くして初めて大切さが身にしみます。もっとああすれば、もっとこうすれば良かったと。後悔先に立たずです。取り返しがつかない。米塚さんは1948年に青森の松丘保養園に19才で自ら入所した。強制収容される前に、病気を早く治したいばっかりに自分から津軽海峡を渡った。療養所で治療を受ければ治ると信じて居た。母親も我が子が早く良くなって帰ってくるのをどれほど待ちわびたことか。 当時、家の若者が突然いなくなるのだから世間の目は厳しい。敗戦後の荒廃した時代である。幸い、家の仕事柄、長期留守にできたとは言っても、いつまでも誤魔化しはきかない。そのうち誰が言ったか「あそこの息子は網走刑務所に入った」と、あることないことが噂された。ある意味で、親は内心ほっとしただろう。「網走刑務所」と言えば重罪犯が入る刑務所だが、「ライ病」に罹ったと言うよりは、まだましなのだから。それほどライ病は恐れられていたと言うことです。 ほんとうにライ病は恐ろしい病気だったのだろうか。一生涯隔離してまで。治療法のない不治の病だったのだろうか。そうではない。専門家も政治家も承知していたのに、無知な国民操作のために黙視強制を法的手段としたのだろう。米塚さんは治療を受ければ塀の外に出られたと言うこと。家族の元に戻れたと言うこと。ただし家から遠く離れた所で生きる事にはなったでしょうが。
2017年07月27日
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パウロ米塚尚司さんが亡くなって18日が経ちます。きょうで2回目のノヴェナが終わ、あと1回のノヴェナで終わりにしようと考えています。 8月の、草津教会のミサは16日(水)1時で、聖母被昇天です。聖母が昇られたと同じく米塚さんを偲ぶ茶話会になると思います。宿泊希望者は僕に連絡ください。僕は14~18日までいます。8月1~4日、29~31日も草津にいます。 9月1~4日は、那須ベタニア修道女会に宿泊します。トラピストはあいにく団体さんが入られているのでお隣のベタニア会にお世話になることにしました。二カ所で、音楽会を考えています。
2017年07月26日
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パウロ米塚尚司さんが帰天され、そのことをズラズラ思うがままに書いています。お互いの時間が合わず、お会いできずにいる皆さんからメールやお電話をいただき感謝しています。いちおう、米塚さんの葬儀についてのガイドラインはこのブログで報告しました。皆さんの意見として、僕も同じことを考えてはいたのですが、米塚さんを知る人による「追悼集」みたいな「ガリ刷り版」を作りたいと。故人を偲んでの遺稿集みたいに故人の業績や徳を並べ立てるのではなく、米塚さんと会って学んだこと感じたことなんかを書いてみてはどうかと。彼から得た事柄を皆さんで共有できるし、ハンセン病の生きた証を記録してはどうかと。ゴーサインは五分五分かな?7分3分で止める方が良いのかも。
2017年07月25日
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日本流には小学校六年生の孫娘がアメリカに帰り、家の中がガランとした感じがする。ボストンの孫の夏休みの写真が送られてきた。ブートキャンプ?とかで、ようは米軍の新兵訓練の子供バージョンらしい。中学生の長男が丸坊主になり訓練を受けている写真と、ダディーとグランパの親子三代の軍服姿で卒業式の様子だった。りりしい。CS放送で米軍の訓練をよく見るが、話を聞くとほとんど同じの子供バージョン。以前に、日本の小学校で一年間通学し、いじめられていた子が、今では頼もしい姿を見ると、日本で教育を受けなくて良かったとつくづく感じる。
2017年07月23日
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死者の儀式にはドラマがある。今では簡素化マニュアル化され、故人の個性がいかされないのが残念です。死者ミサは、入祭唱(入堂の歌)のレクィエムから始まる。Requiem aeternam dona eis,(永遠の安らぎを与え給え)と歌われるのでその冒頭歌詞レクィエムで知られる。故人は古い信者さんなので現行の典礼聖歌とはまた違う感情を持っていた。おごそかにレクィエムが歌われるなかで、司祭が入堂し柩に灌水と献香される瞬間で「あぁ~亡くなったんだ」とこみ上げる瞬間でもある。 今ではグレゴリオ聖歌を知らない会衆が多い。なぜかノスタルジーを感じさせるかもしれない。皆さん歌えないから、入祭唱のレクィエム、告別式(赦祷式)の献香の時には赦祷文リベラメ(主よ我を救い給え)の一部をアカペラソロで歌った。告別式を終えて出棺の時に歌いたい楽園歌インパラディスムも歌えないので、やむなくオーソドックスな歌になりました。まぁそれはそれで良いのかも、感動とお礼と祈りの中でお別れすることが出来ました。僕的には、柩を8人で担ったとき、ヒンヤリしたあの重さを、ライと共に生きた十字架の道行が脳裏に浮かんだ。僕の人生の中でも初体験だった。残された者への復活のメッセージだったと思う。あの重さと無の瞬間は、スローモーションそのもので、復活へのプロローグ。お疲れ様、ご苦労様でした、と。
2017年07月22日
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献花の時に、カトリック聖歌集339番「あゝ懐かしき」が歌われた。参列者の心には、歌いながらクエッションを感じたであろう。それもあまり歌われない聖歌だから。喪主の挨拶の時に339番の話が出た。夫がカトリックの聖歌で一番最初に覚えた聖歌で私が教えたんです、と。最期に今一度歌う時になると、339番に息が吹き込まれたかのように復活した。人間の心、人間が心を込めて歌うと、こうも表現できるものかと。音楽をやっていて良かった、と。
2017年07月22日
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日の出前の「夜課」は、さすがに怖かった。イノシシの恐怖を味わった。二つの光る眼。こちらを向いている。熊防止の鈴を大げさに鳴らしながら靴音をオーバーにたててブツブツ独り言の声を出しながら歩いた。さすがに超怖かった。日の出の「賛課」を祈るために教会に行くと、奥さんが電気も付けずに祈られていた。彼女の指も曲っていてロザリオを繰ることができないのに、耳をすますとしっかりアヴェマリアを10回づつ正確に数えてアヴェマリアの祈りを唱えていた。長い間に身に付けた方法なんでしょう。祈りにリズムと流れがある。その祈りは音楽的で、西洋人が祈りから音楽を作る発想と原点を見ている様だった。棺の小窓?を開けて“あんた今日は一番きれいだよ”と話しかけていた。この瞬間は、本当に熱いものがこみ上げてきた。復活があるんですね。大げさな靴音と咳で僕に気づいた。ライ病は末端から侵され、痛みの感覚がないから腐るまで分からない。ある時代にはハサミで自分の指を切り落としたと言う。実際に自分でそうしたと言うライ者を知っている。手も顔もすべてがおかされるから、外見的な醜さを人間は蛇を見て身震いするかのように毛嫌いするのでしょう。「死んで復活する」これが信仰です。復活の信仰なんですね。
2017年07月21日
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献花と最後のお別れ。僕のいないところで、最後のお別れには、参列者が柩に花を入れると決められていた。喪主は、何が何だか分からない状態で承諾していたもよう。ギリギリのところでそれを聞いて、僕の出番!柩を開けての最後のお別れはしない。柩に花いっぱい入れての最後のお別れは、極々少人数だけでする。 亡くなる一・二週間前だろうか。有名な映画監督さんがDVDを作るとのことで取材撮影に来た。一日の午前と午後を三日間。死ぬか生きるかと言う時にである。しばらくして写真が送られてきたそうな。数日して草津訪問した時に開口一番に話してくれた。ぐったりした、がっかりした様子で“如安さん、俺ってこんなに醜かったのか。如安さんはよくこんな醜い俺を買い物に連れて行ってくれたね。自分の顔は髭をそる時に鏡を見るが、目が悪いし良く見たことがなかった”と。プロのカメラマンが撮影した写真は、最高のアングルで撮影するのがプロ魂で当然。最高のアングルとは、客にどれだけ感動衝撃を与えるかが商業映像ということ。ひと目見て、こなごなに破り捨てた、と。この破り捨てる場面を想像するだけでも、本当に辛くなる。僕らは人様の家に土足で入る行為を平気でしているですよね。死んでまで「嫌だ」と言うことをする訳にはいかない。棺の中は花いっぱいに。メガネは外さないといけない。日々、心の指で爪繰っていたロザリオの代わりに、タコ糸で編んだ「紐ロザリオ」を不器用な手に握らせた。紐ロザリオは、死者のためにどうしてもロザリオだけは握らせたいと言う僕の思いがある。僕がドイツ留学時代に教わった編み方を思い出して作ったものです。 前日、あるシスターに最後のお別れにお顔を見ますか?と聞いたとき、即答で、お元気なお顔を知っているから、と言われた。これが本当でしょうね。
2017年07月21日
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あの真夏の暑さに教会は悲鳴を上げた。クーラーなんぞはないからだ。ドライアイスが溶け出した。柩からポタポタと。一瞬だがご遺体からかと、一瞬脳裏をよぎった。幸いに、畳に大きなビニールが敷かれていた。納棺に立ち会えなかったので一番心配していた事だった。ご遺体と柩の間に準備しておいたビニールが敷いてあるかどうか。バタバタしてたので聞くのを忘れていた。この話を皆さんは、不思議に思うことでしょう。今は医療の進歩でなんら問題はないが、以前はライ者の死は大変だったと聞く。いま草津の教会の司式はパリミッションの司祭。僕が典礼音楽を学んだのもパリミッションの司祭。東京のハンセン病療養所の全生園で30数年前、元患者さんから聞いた話しだが、終油の秘跡を授かる時に、臨終のさいの告解を、力なき声を聞きのがさないようにと、司祭は耳を口元に近づける姿を見て、未信者も深く感動し、後に信者になったと言う話を聞いたことがある。“ライ病の死はオレら同病者でも、あの臭いには耐えられなかった。ライ病特有の死臭がするんだ”すべてのライ者がそうだと言えないのは当然だが。そんなライ病の歴史の真っただ中にいた、それもカテキスタだった故人だから、自分の死にはビニールが必要だと感じていたのは当然でしょう。 二年前でしょうか。車で一時間半のカインズホームで買い物。自分用のビニールを買うためでした。豊富な品物の中から決めたビニール。柩と遺体の間に使うと、誰が理解できようか。今と違う何十年か前には必要だったんですね。この行為をどう感じたらよいでしょうか。あまりにも気の毒。人間ってなんてひどいことをするのだろうか。ハンセン病は隔離政策をすべき病気でない事を医者も政治家も関係者も知っていたのだから。いまさらノコノコとお友だちづらをして療養所を訪れる神経が理解できない。
2017年07月20日
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いつもは、湿気が激しく涼しい教会にも真夏が訪れた。昔風に柩が置かれた。今はスペースの関係なのかどうか分からないが、祭壇と並行して柩が横に置かれる。昔は祭壇に向かって縦に置かれた。聖職者は頭を、信徒は足を祭壇に向けるかっこうで。棺の置き方で一番ほっとした。良かったね縦で!僕もそうしてもらいたい、と素直に喜びを感じた。ロートルのノスタルジアと考えるのはワビシイですが・・・
2017年07月20日
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ボストンに住む娘の三兄弟の一番下が女の子で日本風には小学六年生。この子が一人で13時間の飛行機に乗って二週間、日本に来ていた。昨日18時にボストンに帰った。ボストンの日本人学校にも通っているが、日本語はそんなに使わないそう。その理由も聞いて変な納得、日本人の感覚に眉間にしわが残るだけ。日本に一人で来たので英語は通用しない。沢山の生きた日本語を学んで帰ったと思います。イエスノーがはっきり言える。大人と子供が対等な目線で話をしている。これは、人としてとても大切なことだと、つくづく感じた。日本では考えられない。 アメリカでは二ヶ月間の夏休みだとか。それに学校は午前中だけのようだし、宿題もないようだし、それでも大人になれるのだから日本の教育もそうすべきだと思う。勉強漬けだけが人生じゃないのだから。日本の学校に二ヶ月間の夏休みが導入されたら親御さんはどう反応するだろうか?大反対だろうね。家に居られたら困るもの。それに母親も仕事をしないと中流家庭(?)が保てないから。
2017年07月20日
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数カ月ぶりの早朝にある修道院に電話をした。開口一番「米塚さんはどうですか?」。晩課が始まるのでかいつまんで報告した。みなさんお祈りして下さってます。 トラピストに電話した。修道院でのお祈りは心強いです。 本当に大切な、ハンセン病の生き証人でありカテキスタであった米塚さんの死は早すぎた。せめてクリスマスまでは。なぜならば、いま青森の療養所生活の録音を録っている最中だったので。「後悔先に立たず」ですが、これが神様の御心です。
2017年07月19日
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そっとしておいて欲しい。そう思います。 平均年齢85才とも言われ、ハンセン病者は海外ではいても日本ではいない。体にライ菌がなくても、ライ病による後遺症で今もなお悩まされている。世間では神経痛で悩まされる人が多いので神経痛の苦しみは想像できる。が、ライ者の神経痛はその比ではない、ライ者特有の神経痛であること。神経痛に悩む一夜をご一緒したことがあるが、元ライ者をみていて辛かった。僕にはどうにもならないし、僕にできることは唯一つ、その場から逃げ帰ること、見ないですむから。それもできず、ただオロオロする長い一夜の経験がある。そんな彼らとお近づきになる神経は、どこから来ているのだろうか。 ライ者の信者さんらと話したことがある。針の穴を通れない多くはこう言うことだろうと。1.人に名誉を受けたき望みより、▴キリエ・エレイソン。4.人に尊敬せられたき望みより、▴キリエ・エレイソン。5.人に褒められたき望みより、▴キリエ・エレイソン。と祈らずにはいられない。(「眞の謙遜を求むる祈」より)どうか元ライ者に心と留めるひと時をお持ちください。
2017年07月19日
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『米塚宅への弔問電話はひかえてください』人の旅立ちはその人の気持ちが尊重されるはず。しかし、良ければとの思いからか、ごく一部の取り巻きの気持ちが独断専行される結果となった。僕らは遺族の意思を当然尊重し、悲報を関係者に知らせなかった。しかし、ある者は知らせた。その結果、知る者と知らない者のアンバランスが起こった。知らせるべき人が知らなかった。心配が的中した。香典である。いまさら香典でもあるまいに、カトリックの香典は特別な位置にある。香典返しは?礼状は? そんな事をひと雫の気持ちがよぎったら持参しなかったでしょう。香典袋(お花代)にでかでかと名前を書かず献金してくれれば充分なのに。奥さんの手はエンピツが持てませんし、それを皆さんしているはず。代筆発送作業は誰かがしなければならないと言うことです。そんなこと分かりきった事なのに。葬儀の前日に、あるシスターが来られ30分ほどいて関西に行かれた。
2017年07月18日
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『米塚宅への弔問電話はひかえてください』 9日に訪問し、翌日にワイフと息子と孫が合流し一泊、僕は14日早朝にいったん帰宅し、ワイフと孫を連れてUターンして16日に帰りました。思ったほどの疲労感が無かったが、歳だからしばらくしてからドッと出るのかも。 僕的には、ゆっくり教会を独り占めして語らう機会を与えられました。聖務日課の、日の出前の「夜課」から始まり、「賛歌」、キリストが十字架にかけられた昼の「六時課」、十字架上の死の「九時課」、最後の晩餐の時刻の「晩課」、そして寝る前の「終課」と死者を唱え、ロザリオと十字架の道行に心を向けることが出来ました。感謝です。故人がきっと喜んでいることでしょう。 聖務日課は、第二バチカンの1965年前は聖職者のもので、平信徒には知らない存在でした。第二バチカンが終わって、平信徒にも門が開かれた時は僕が高校生で、大人の人が聖務日課なるものが信徒でも唱える時代が来たと喜ぶ姿を記憶しています。が世俗社会では非現実的と今に至るのは残念なことです。(イスラム教徒が日に何度も場所を選ばず祈ると言うから、やはり怠慢でしょうね)でも、こうして一週間ほどだが実践してみると非現実的とは言えないと思う。その聖務日課は、今は名前を変えて「教会の祈り」と言う。故人は、朝と昼と夕方に唱えておられた。指先の不自由な手で、目の不自由な目で、分厚い新旧約聖書のような「教会の祈り」を夫婦二人して守られ、その祈りを娑婆の人たちのために捧げておられた。
2017年07月18日
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7月9日年間第14主日の聖福音(マタイ11章25-30節)の御ミサから帰りコーヒーを飲み(酒の飲める人ならヤケ酒を飲むと同じ)、7月9日のブログを11時5分に配信し、さあ午後の御ミサに期待し車中の人となった。正午に悲報あり。草津のハンセン病療養所栗生楽泉園に住む信者さんであるパウロ米塚尚司さんが11時40分に帰天された。88才。急ぎUターン。誰にも知らせずの密葬というか家族葬というか極々少なくとの意向だった。午後からの予定、一週間のスケジュールのドタキャン、着の身着のままで草津に向かった。葬儀用の資料はいつも用意してあるが、さすがに今回は自称身内なだけに戸惑った。 大きなミスが重なり、大きなミスは最後まで引きずったが仕方がなかった。本人らの一番希望するようにすべきだが、外野の分際をかえりみず、我(ガ)をとおす輩によって、一部の方向に広く知られた。本人らの一番希望する方法にはならない。悲しいことです。 親兄弟と世間から見捨てられた身。なにも今になって涙がもらえようか。涙するならば、もっと何十年も前に改革出来たろうに。それを目と耳と心を開かずに、今になっての涙は偽善でしかない。 長い一日が続いた。
2017年07月17日
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7月9日、年間第14主日。聖福音は、マタイによる福音書11章25-30節。「わたしの軛(クビキ)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:30)どのような説教が聞けるかと期待をした。期待は次に期待しよう。蒸し暑いだけにテンションは下がる一方です。午後からの御ミサに期待します。
2017年07月09日
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孫が習ってもいないピアノで音を探っているのを聞いて、今まで気がつかなかったことにハタと気がついた。セオリー第一主義、セオリー展開の狭いもがきではなく、自由に考えるとイイのではないかと。考えるまでもなく、将棋でブレイクしているID将棋も同じですね。若い世代のID将棋に従来の将棋では付いていけない。何か得るものがあると良いのですが。
2017年07月08日
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アメリカからのお土産に「スキットル」をもらいました。20年以上前の僕の誕生プレゼントされたスキットルが使えなくなっていたところでした。ウイスキーやブランデーを入れる携帯水筒かな。これがまた色々あって。外泊の日数で使い分ける。6オンスだと200ml弱、ウイスキーにするかブランデーにするかの選択が楽しい。今度の外泊で持参するのが楽しみです。
2017年07月07日
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親馬鹿「チャンリン」という言葉に抵抗を感じるが、ついつい使ってしまう。なんとなく侮蔑差別用語の気がしますが「チャンリン」は鈴の音なんですよね。「親馬鹿ちゃんりん蕎麦屋の風鈴」「・・・りん」の韻をふんだ江戸の揶揄言葉だと記憶しています。その昔、江戸時代の屋台蕎麦屋にも半値近くダンピングした不衛生な蕎麦屋が出現。その差を示すように風鈴をぶら下げていたと言う。季節外れの寒い時期にも風鈴の音の馬鹿さかげんと、子自慢の親馬鹿かげんを掛けた揶揄言葉だと。 孫娘を見ると、どうも僕の孫とは思えない。頭は小っちゃくスラッとして、それに運動神経が良いらしくクラシックバレーとかをやっているとか。ボストンバレーのその他一同の子役なのだろうが頑張っているとか。おまけにピアノを習ったことも無いのに自作自演で好きな音楽を作っている。どの子も平等に才能のきっかけは持っているんでしょうね。
2017年07月07日
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仕事で朝寝になって9時に電話で起こされる。長々とコールされ、それも公衆電話の表示。何か急用かと思いきや物言もいわずに切られてしまった。まだ3時間も寝てないのに、眠られず起きてしまった。 孫が楽しそうにピアノを弾いている。テレビ電話でアメリカの娘(母親)に聞かせるのだと、作曲?して聞かせている。あれこれ創意工夫ている。旋律の流れではなく点描画の如くブロックをつなぎ合わせている。いいとこ取り。この方法も面白いな!そう言えば若い頃にゴーストをやって居た頃を思い出した。このシーンは何秒、ここは10秒と指定通りに書くBGM。作曲とは無縁な効果音楽だが、この引き出しには無数の楽句が蓄積されているのを思い出した。あれとこれをつなげば面白い音楽になる、と。 つい口がでそう。ついにほんの少し口が出てしまった。まっさらな頭に余計な知恵を入れたくないので、参考程度の方法を言ってみた。みるみるパズルを解くかのように組み立ててゆく。組み立てるとは、まさに作曲ですね。コンポーザーは組み立てるを意味すのだから。 それにしても子供の想像力には感心する。常識を固定観念を無視するだけで豊かな展開が生まれると言うことでしょうか。参考になります。いま書こうとしている楽曲で、この書き方で試してみようと思ってます。 どの子供も天才ですね。親バカチャンリンじゃなくジジ馬鹿チャンリンの話しでした。
2017年07月06日
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暑いですね。電気は大丈夫なのでしょうか。原発事故の時は節電したのに電力は復興したのでしょうか。熱中症も心配だからエアコンを使わないと。今年は「カ」が大量発生していると感じるのは気のせいでしょうか。大雨被害が心配です。やっと一区切りがついたので、クーラーを入れて就寝。
2017年07月06日
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少し見ぬうちに面影はあるが別人のよう。中学3年生だという。娘の子三人は、日本の小学校に一年間通った。学校の先生も、教育委員会も、同級生の親も、一番肝心な同級生からもイジメにあい、日本と日本人には良い印象を持っていない。本来ならば、日本とアメリカの橋渡しになるべき存在なのに。オリンピックだからと愛想笑いをしても遅いと思う。 長男は軍属の子供たちの訓練キャンプ?に行っているとか。次男はアイスホッケーの試合で良い成績を上げているとかで、大学はアイスホッケーの推薦で大学に入るとか。 日本の学校で一年間一緒だった同級生とは図体(ズウタイ)もたくましさでも大きな違いがあるようで、日本の教育を受けさせなくて正解だったとつくづく思います。 孫娘は自転車に乗りたいとのこと。アメリカには無いらしい。本当かな?そんなことないと思うけど。もしかすると車社会だから自転車なんて乗らないのかも。孫娘の日本についての第一印象は、小さい、何もかもが。そうかもしれませんね。一年間の学校通いが今も残っているんでしょうね。それにしても、教師も教育委員会も父母も同級生も良くないと、今もなお僕自身もそう思っています。
2017年07月04日
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きょう12歳の孫娘が一人でボストンから里帰り。これから成田に迎えに行きます。上の15才と13才の男子は来ません。子供だけの長旅は怖いから、誘拐されるから、が理由らしいです。「女は強し」ですね。 草津の療養所で今年になって四回目のイノシシを見ました。夜10時半頃、宿泊施設の玄関脇で、目の前4・5メートルの至近距離。やばかった。翌日見るとミミズを食べに来ているようで、食料がないんでしょうね。60センチ位のイノシシ一頭でまだ若かった。いっときこちらに向かってきたので、ちょうど小雨まじりで傘をさしていたので、それを向けると逃げて行ってくれた。本当にやばかった。
2017年07月04日
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草津訪問から4時に帰宅しました。向こうを1時5分に出ましたのに、高速もすいてたし、それでもやはり三時間はかかりますね。135キロだと。思ったほどの満足は得られなかったので、やはり疲れだけが残った感じです。きょうは11時から夕方6時までレッスン。
2017年07月03日
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