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『女のいない男たち』村上春樹(文芸春秋) 何と言いますか、とても便利な世の中になってきまして……と、いきなり何のことだとお思いになられた貴兄、まー、いつものことながら、どうもごめんなさい。 何のことを書きだしたかといいますと、映画視聴についてなんですね。 一年ほど前から、日常生活にかなり時間的ゆとりができたもので、いくつか新しいことを始めようと思ったその中の一つに(新しいことを始めるといっても、なに、全くたいそうなことなどではありません。4つほど新しいことを始めようと思ったのですが、例えばそのうちの一つは、毎週一回女房とランチを食べに行こうなどという、……あ、これはけっこうたいそうな事かな……)、積極的に映画を見ようというのがありまして、それを実践していたら起こった感情であります。 それなりの都会の大きな映画館ではやりのものを見る、少し場末っぽい単館映画館ではやりとは言いづらいだろうという感想をまず持つものを見る、居住地域の公民館などで文化行事と銘打って実施される名作ものを見る、我が家は有線テレビなのでその膨大な今まではほぼ全く見たことのないチャンネルで放映されているものを見る、BS公共放送でも見る、アマゾン・プライムで見る、などと、まだこれ以外にもあれこれ見る方法があるのは一応知っていますが、きりがないので、これ以上の視聴機会追及はしていません。 で、視聴機会の数ということでいえば、とても便利な世の中になったなー、と、冒頭のつぶやきが出た次第であります。 で、冒頭の小説のタイトルから、ではこれかとお思いの貴兄、大当たりであります。 さらに、今時分になってなぜ、とお思いの貴兄、申し訳ありません、重ねてその通りです。初めて上映されて4年ほど経った先日私は、冒頭の小説が原作となっている濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』をアマゾンプライムで見ました。 で、とってもよかったんですね、いまさらながら。 この映画は、カンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞していますが、私もこの映画の3時間にならんとする長いストーリーに、とっても感心しました。なんて上手に作ってあるんだ、と。 そして、最近積極的に映画を見ようとしているとはいえ、そもそもは小説が好きなわたくしでありまして、そこで原作読書に至る、と、こういうわけです。 村上春樹原作短編集は、わたくし再読でありまして、最初に読んだ時の報告も拙ブログに書いてあります。読み返しましたが、やはり覚えているぼんやりした記憶通り、申し訳ないながらあまり褒めてない感じなんですね。 しかし先に、映画と原作小説との比較に関して書いてみます。 本短編集には6つのお話が収録されていますが、ざっくり私がわかった映画原作となっているお話はそのうちの2つ(「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」の2作)が中心です。(いえ本当は、「シェエラザード」のストーリーは中心とはいえず、劇中劇ならぬ、劇中の人物が話す物語としてのみです。) そして、今回読んでいて、おやと発見したのは、別の短編「木野」から一つのフレーズだけが映画に引用されていました。そして、このフレーズは、とりあえず映画理解としてはかなりキーになるフレーズで、映画ではほぼ最終盤に主人公が言う、原作ではこう書かれているフレーズです。(原文にはこの引用部全体に傍点がついてます。) おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、 さて、本短編集には、この筆者には珍しい「まえがき」が付いています。(筆者も「そういうものをできるだけ書かないように心がけてきたのだが」と書いています。) そこに、本短編集全体のテーマが自作解説されています。少し引用します。 しかし本書の場合はより即物的に、文字通り「女のいない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち。 また、こんな風にも書かれています。 短編小説をまとめて書くときはいつもそうだが、僕にとってもっとも大きな喜びは、いろんな手法、いろんな文体、いろんなシチュエーションを短期間に次々に試していけることにある。ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろんな人物を、いろんな人称をつかって書くことができる。そういう意味では、この本は音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれない。 いかがでしょうか。上手に説明してありますねー。 しかし実は私は、少し困ってしまったのですが、上記の3つの引用部を合わせると、本短編集の内容はすべて理解できてしまったじゃないかと、思ってしまったんですね。 いえ、それはお前の浅薄な理解力での話である、というツッコミも持ちつつ、なんといいますか、いつも村上作品読後に漂う深い静寂のような広がりが、勝手ながら、色あせてしまうような……。 さて、再び映画に戻ります。 上記に触れましたが、本映画は3時間近くもの長さがあり、大きな設定的なものと主な登場人物の数名は原作に負っていますが、思うにストーリーや場面の7、8割は映画作成者の創造です。それもかなり巧妙に複雑に展開していく。 私は、映画視聴後そして原作本読了後、日常的なあれこれをしながら(ご飯を食べるとか庭仕事をするとかプールで泳ぐとかですね)ぼんやり以下のようなことを考えました。 本映画は、原作小説をまず素材として採用し、そこに実に巧妙複雑に物語を付け加えた。独立作品としてそれぞれの物語を見れば、おそらく映画のほうが面白いだろう。ただ、登場人物の心の闇の深さを描くということでいえば(それは一般的な映画と文学の比較としても同様であろうが)、原作小説のほうに、より深くそしてより暗いものがあるように感じる。……。 しかし、こういう関係って、ひょっとしたら、理想的な原作小説と映画化作品との関係じゃないかしら。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.05.18
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『阿弥陀堂だより』南木佳士(文春文庫) 本文庫の解説文を書いているのが、小泉尭史という映画監督の方で、わたくし寡聞にして存じ上げなかったのですが、本書を原作とした映画を撮った監督であります。 映画監督が小説の(それも自分が撮った映画の原作小説の)文庫本解説を書いているというのは、これもわたくしよく知らないのですが、私としてはとても珍しく、なかなか面白く解説を読みました。 小説と映画の違いというのは、今私がけっこう興味を持って考えているいる事で、例えば、本解説にはこんなことが書いてありました。 小説で存在感のある人物に出会うことは、シナリオを書く上で確かな力になります。しかし厄介なことにシナリオを基にした映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に近いものです。 映画は音楽に近いというのは、なかなか興味深い表現ですね。 私は読んでいて、なるほどと思うところとても多いと感じました。 と、そんなのを読んだので、ではその映画を見たいものだと思い、ネットで少し探したら見ることができました。 そこで私はこの度、小説をはじめ三分の一ほど読んだところで、それを原作とする映画を見て、見終わった後に、残り三分の二くらいの小説を読むという体験をしました。 これもなかなか興味深い体験でした。 映画の前半部を見ている時は、この場面は小説のあそこに書かれていたものだなと感じながら視聴し、映画を見終わって読書を再開した後は、この描写は映画ではああなっていたなとか思いながら読みました。 どちらも興味深く、共に深く理解できたような気がしました。 また、そんなことをしたから、より上記の「映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に」という表現に、「なんとなくわかるなー」感を持ったのかもしれません。 では、映画の原作としては少しおいて、単独の小説の読書報告としてはどうなのか、本文中にこれもなかなか興味深い表現があります。 本書の主人公(上田孝夫)は小説家で、有名な新人賞を受賞したもののその後、なかなか筆が進まず「鳴かず飛ばず」状態が長く続いているという設定ですが、このように書かれています。 「上田さんの小説は素朴で粗削りな部分も目立ちますが、文章の骨格がしっかりしています。こういう新人作家は磨けば光ります。どうぞじっくりと磨いてください」 多くの地道な生活者たちの平凡な感情に共鳴する小説を書きたい。できれば単行本を出版したい。それさえ実現できれば、他に望むものはないのだが。 一つ目の文は、編集者から言われた言葉ですが、二つ目の文の孝夫自身の感情の描写も含めて、そのまま本小説のいわば「ポイント」になっている気がします。 つまり本書は、設定、文体、テーマ、どれをとっても素朴といえばきわめて素朴で、しかも誠実に一生懸命書いているような感じがします。 ただ、「粗削り」というのは、どういう意味なのか少しわからないのですが、いくつか、読んでいて分からない、というか、その表現が本当に最もふさわしいものとして選ばれているのかなと思うようなところがありました。 例えば、終盤部にいきなり小説家開高健のエピソードが出てくるのですが、このエピソードなんかも、わたしにはかなり唐突感がありました。 しかし、そんなことを言えば、そもそも私は、本書に何度も出てくる地域の広報誌の囲み記事「阿弥陀堂だより」の文章の魅力がよくわかりません。 ひょっとしたら私は、本小説にとってふさわしい読者ではないのかもしれません。 (中盤あたりに、阿弥陀堂を守っている老婆が主人公に、小説とは何かと尋ね、答えきれないでいると、同じ場にいた重要登場人物である誠実な若い娘が、「小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだ」と答え、老婆が納得するという挿話があるのですが、これも私にはあまりよくわかりません。) もちろんそんな個所ばかりではありません。 冒頭に映画との比較について少し触れましたが、やはり小説には、映画ではなかなかそこまで踏み込めない人間や状況に対する深い洞察があったりします。 作家として誠実というのは、そのような洞察や真理をいかに最適に表現するかについて、徹底して考え続け言葉と文章を選び続ける精神を言うのだと思います。 (そう考えれば、上記に少し批判的に取り上げた開高健のエピソードも、開高健の研ぎ澄まされたような文体のことを思い出せば、何が言いたくて書いたのかわからないというわけでありませんが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.03.23
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『名もなき「声」の物語』高橋源一郎(NHK出版) 本書の奥付の前のページにこう書かれています。 本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。 こうあって、次ページ奥付に、2022年7月25日に第1刷とあります。 そして上記引用文で触れられた「太宰治の十五年戦争」特別章の冒頭には「数日前に、戦争が始まった。ロシアがウクライナに侵攻したのだ。」とあって、かなり緊張感のある展開の章となっています。それは、例えばこんな部分からも、ひりひりする感じで伝わってきます。 筆者が、今こそ「あの戦争」のことを考えねばならないとして、その理由を挙げようとしている部分です。 一つは、なんだか「戦争」が近づいているような気がするからだ。そして、もし「戦争」が間近なものになったとき、どう考えればいいのか、太宰治は、それを教えてくれるような気がするからだ。 この後、もう一つの理由も書かれているのですが、それはこの一つ目の理由をさらに詳しく説明したものになっています。 そして、続いて筆者は二つのことを指摘します。 ひとつは、太宰治はその作家活動のほとんど全期間が戦時下であった、ということ。 もうひとつは、自由にものが言えない時代を「戦時」というなら、ひょっとしたらもう今だって「戦時下」なのかもしれない、ということです。 と、いう風にとても興味深く話は拡がっていくのですが、でもそれは、本書の最後三十ページほどの部分で、(もちろん有機的につながってはいますが、)本書の中心は、そこに至る『斜陽』を語る部分であります。 そしてここでも、筆者は優れた指摘をおこなっており、今回はその部分について報告をしようと思っています。 実は、私は拙ブログにすでに何度か書いていますが、漱石・谷崎・太宰が私のフェイバレット作家であります。 そしてある時、なぜ自分はこの三作家の小説が好きなのかと改めて理由を考えました。いえ、別に独創的なことを考えたわけではありません。 それぞれ一言で描けば、漱石は誠実さと倫理性、谷崎は物語並びらび文章の圧倒的才能、そして、太宰は……。 と、思って、自分なりに考えたことはあります。 しかし、どうもうまく言い切れないんですね。明らかに私は太宰の小説が好きなのに、その理由がきれいに言葉にしきれません。 でも、「好き」という感覚は、元々そんなところがありそうだしということで、まー、今までペンディングしていたわけですね。 それを、私はこの度本書で読んだ気がしました。 いえ、細かく考えれば、私の思いと全く相似形をなしているわけではないのですが、かなりすとんと心に落ちる説明がなされていました。 本書の中に、長短点在しているのですが、その一つを引用してみますね。 それは、太宰治が超能力の持ち主だったからでもなく、超天才だったからでもなく、預言者の才能を持っていたからでもない。彼には、聴くことのできる耳があった。世界でなにが起こっているのかを静かに聴くことのできる耳があった。彼は、そうやって彼が聴きとったことを、ことばに記した。まるで無垢な子どもみたいに、熱心に、目を閉じて、いつまでも、ずっと世界でなにが起こっているのかを聴きとろうとしていた。 筆者はこれこそが、今に至るまで太宰の作品が人々に読まれ続けることの理由であるとまとめています。(そしてそれは、上記の「太宰治の十五年戦争」の章の論旨につながっていくわけですね。) ……思い出しました。 私の好きな太宰作品に、「鴎」という短いお話があります。 何というか、いかにも太宰らしい、繊細さや弱さに混じって彼自身の作家的矜持も描かれている作品だと、私がほぼ偏愛する小説です。 で、その作品の冒頭、エピグラフとでも言うのでしょうか、タイトル「鴎」の次行に、こうあります。 ――ひそひそ聞える。なんだか聞える。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.12.31
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『街とその不確かな壁』村上春樹(新潮社) さて、村上春樹の不思議な新作長編であります。 不思議なというのは、作品一部(本作品の第一部のところですね)が2回目の書き直し発表、つまり最初の作品から合わせると3バージョンテクストになるという、そんな話だからです。 でもこういう形って、よくよく考えれば、日本文学の中には(外国文学についてはわたくし何も知りませんので)けっこうあるのかな、と。 例えば、短編小説が最初に書かれて、その後長編小説の中にそれが含まれていくってのは、村上氏自身の他作品にもありますし(『ノルウェイの森』なんか)、確か志賀直哉あたりにもそんなのなかったですかね。(『時任謙作』と『暗夜行路』) また短編小説をいろんな雑誌にとびとびに発表して、そのあと一冊の本にして長編小説にするというパターンもあって、その大御所は何といっても川端康成でしょうね。『山の音』とか『千羽鶴』とか。 でも今回の村上作はそれらとも少し違って、でもまあ、これも十分ありなんじゃないかなとは思いながら、ともかく、珍しい形の新作長編小説であります。 第一部が、上記にも触れました、その書き直し部分ですね。 「リメイク」って、言っていいような気もします。 相応しい例えになっているかどうかわからないのですが、例えば横溝正史『八つ墓村』なんて、もーいろんな方が金田一耕助をテレビや映画でなさっているじゃありませんか。 あれを小説として一人の作家がやっている感じですかね。 だから、というか、今回は、バージョンアップした感がありました。しっかり細かく作ってしっかり書き込んでいる感、ですかね。 実は、第一部は全体の七分の二くらいの分量です。(中心は第二部で全体の三分の二くらいの長さ。)だから、読了後の感覚から言えば、第一部はまずしっかり土俵を作ったという感じでありました。(私としては、「きみ」の消失後の「私」の慌てぶりに少しぎこちないものを感じもしましたが……。) そして、満を持してそこから「新作」部分の第二部に入ります。 長いです。重く、暗いです。(初期の村上作品に頻出していたユーモアが、近年の村上長編にほとんどないのは、展開上やむなしのようにも思いますし、もう少し何とかしてほしい感はあります。でも、何個所かだけ私は読んでいてにこっとしましたが。) で、読んでいる私は、少し考え込んでしまうんですね。 まず、二点。 一つ目は、もうざっくり言ってしまうと、これは過去のいろんな村上作品の焼き直しではないのか、設定や展開に、そして登場人物にも、ことごとく既視感があるように感じました。 そして二つ目ですが、近年の村上作にはどんどん幻想性が強くなっている気はしていましたが、本作に至って、なんか幻想性が爆走、というか暴走している気がしました。 そして読者である私は(少なくとも私にとっては)その非リアルの説得力についていけない所がいくつかありました。 それは、少しネガティブに言えば、白けてしまうという感覚であります。 そこでさらに私は、この二点をもとに考えてしまうんですね。 多くの村上ファンのように、私もデビュー作から、新作が出るたびに読んできましたが、そもそも村上作品は、「本当に」どこが魅力なんだろうか、と。 ……ストーリー(展開)、語られ方(文体)、テーマ(これはざっくり喪失、かな)、キャラクター(主人公)……。 どれもそれなりに魅力的ではありますね。 特に、これも多くの人がたぶんそうだったと思いますが、初期の村上作品というのはそのおしゃれな文体が、もー、何とも言えず読んでいて快感でしたねー。 ……うーん、かいかん……きもちいい……。 ほとんどエクスタシー状態……。 しかし、その文体もだんだん後衛に立ち位置を変えて来て、その代わりガチっと描写するような決して悪くない文体になってきました。(諧謔性は薄れましたが……。) と、いうように、わたくし、あれこれ考えたのですね。 で、私が、テレビの時代劇のように放送されるたびについ見てしまう、出版されるたびについ読んでしまう、本当の本当の原因(本文中の表現でいうならば「水面下深くにある、無意識の暗い領域」って、あ、これは無意識じゃないですかね。)は、……、どうでしょう、つまるところ、主人公のキャラクターの魅力なんじゃないか、と。 上記に私は「既視感」という言葉を使いました。 例えば本作の「子易」に、村上過去作品のいろんな登場人物の性格を、「きみ」(喫茶店の彼女もですか)にもやはり村上過去作品の様々なヒロインの姿を重ねてしまったのですが、そんなことを言えば、主人公の「ぼく・私」なんて、ずっと同じ性格設定な気がします。 でも、「ぼく・私」は、いいんですね。 このキャラだから、気持ちよく読めるんですね。 何を矛盾した訳の分からないことを言っているのだと、お怒り、またはお呆れの皆さま、どうもすみません。 再び本文中の表現でいうなら「現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていた」って、これも、ピントはずているかしら。 (ただ、真面目な話、そういう風に同じがいいと感じる作品というのは、文学性という言葉のもとでみた時、はたしてどうなんだろうかという気は、少ししますが。) しかし、少し寂しいことに、近年の村上作品は私にとって(私だけであれば、それはそれでいいことでありましょうが)、ストーリーの幻想性が突出、暴走して、私の中の感情共有が追いついていかず、展開がどこか他人事のように感じられ、そこを何とか主人公のキャラクターの魅力で繋ぎとめながら凌いでいる感じが増していくようで、……少しつらくあります。 私には、本作も、そのようでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.10.07
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『いずれ我が身も』色川武大(中公文庫) ひさしぶりにこの筆者のエッセイを読み直しました。 以前は、丸谷才一なんかと並んで、私はかなり熱心にこの作家のエッセイを読んでいたように思いますが、丸谷氏も同様、この筆者もすでに亡くなって久しく、そういえば最近、「ファン」として次つぎと読んでいく(繰り返して読んでいく)マイ・フェイヴァレット・エッセイストがいないような気がします。 なんか、さびしいですねえ。 で、なぜ、色川武大のエッセイなのかといえば、それはやはり第一に「凄み」でしょう。 細かな言葉の斡旋にまで、ぞくっとするような凄みがあります。例えば、こんな書き方。 横浜の街とは、十五、六の時分から、いろいろな意味で交際がある。横浜大空襲の日も、中学をサボって、長駆、横浜花月というレビュー小屋に、夜までささりこんでいた。それで命からがら逃げまどったものだ。 どうですか。この短い文章中に用いられている「ささりこんで」なんて表現は、この筆者の文以外で私は読んだことはないし、またこの筆者の表現でなければ心動かさるとは思いません。 この「凄み」は、この筆者の作品を一冊でも読んだ人ならそこからきっと少しは探ってみて発見する、この筆者自身の人生の「凄み」のせいであります。 例えば上記引用文の数行後には、こんなことがさらりと書いてあります。 横浜はばくちの天国だった。東京はさすがに首都圏だし、取締まりもきびしいので地下賭場が大げさにはびこるということはない。川崎や千葉では、客が打ち殺されて絶えるか、その逆に賭場の方が似ても焼いても喰えない客たちに突っつかれて全滅してしまうか、どちらかだ。 実にさらりと凄いことが書かれていますね。この凄さは、幾たびもその場にいて、そしてそれらをじっと目撃しつづけた作者の視線の存在の凄さであります。 そんな筆者の、総タイトルになっている「いずれ我が身も」というエッセイが、冒頭に掲げてあります。この「いずれ我が身も」に続く内容は、こうなっています。少し離れた部分二か所を引用してみます。 犯罪をおかしたりして、窮地におちいっている人間を、我が事に感じる。汗が出るほどにそうなる。これは小さい頃からで、五十の声をきく現在もなお変わらない。 犯罪が発生した記事を見ると、私はいつも、覚悟、のようなものをする。ここに自分のしたことがある。いつかはきっと捕まってしまう。だからその件についての中間報告記事を見て一喜一憂する。それは被害者に対して、世間に対して、ひどく不謹慎なことで、だから口外はしない。けれども、万一、刑事がやってきて訊問されたら、いつの場合でも、私は涙声をあげて自白してしまったかもしれない。 私はこれらの文章を読んで、少しニュアンスは違うが、その心の底辺には同じものがあるのだろうと想像させる文章をどこかで読んだ気がしました。 それは、よどみながら流れるどぶの水を見るたびに、そこにうつぶせに顔を浸けて死んでいる自分を想像するというもので、それは確か、俳優の渥美清が何度か言っていたのを書いた文章だったと思います。 こういう人生観を作り上げてしまう人生の前半生を過ごしてきた人物の書く文章というものは、いわば、そのすべてとは言わないまでも、様々なところに名言・格言が、普通にさりげなく書かれています。そしてそれはやはり「凄み」としか言えないのですが、本書にも至る所にあります。 引用し始めると切りがないのですが、二つ抜き出してみますね。 (略)私が幼い頃から馴染み親しんだ人の多くは、もうこの世に居ない。来世は信じないけれど、まんざら見知らぬ所へ行くのでもないような気がする。 それとはべつに、一生というものがこんなに短いとも思わなかった。芝居でいうと、一幕目が終わるかどうかという頃合いに、もう残り時間がすくなくなっている。 どうも無責任なようだが、近年、私は、人間はすくなくとも、三代か四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。生まれてしまってから、矯正できるようなことは、たいしたことではないので、根本はもう矯正できない。だから何代もの血の貯金、運の貯金が大切なことのように思う。 どうですか。どちらも面白いですが、二つ目の文章の内容はとても独創的でおもしろいですよね。 この文章は、さらにこのようにつながっていきます。 さらにいえば、人間には、貯蓄型の人生を送る人と、消費型の人生を送る人とあって、自分の努力がそのまま報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるようだ。多くの人は運を貯蓄していって、どこかで消費型の男が現われて花を咲かせる。わりにあわないけれども、我々は三代か五代後の子孫のために、こつこつ運を貯めこむことになるか。 こんな人間観の人のエッセイは、なるほど面白いはずですね。 そして、そこにさらに虚構をまぶした小説作品は……。 いうまでもないですよね。 また、久しぶりに読み直してみましょうかね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.08.27
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『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹(中央公論社) 前回の続きです。 前回私は本短編集の一編「中国行きの…」を特に興味深く読んで、5つの疑問点に気がついたと書きました。(すみませんが、詳しくは前回の部分をお読みください。) そして、その問いの「隠された」答えも作品内にあると、私は読んでみました。 今回はその報告からであります。 この短編小説について、以前より私がなんとなく気になっていたことがありました。 それは、本小説は、2章から4章にかけて3人の中国人との出会いが書かれてあるのですが、エピソードとしてみますと、3章の中国人女性の話だけが圧倒的に面白い、と。 それに比べると2章4章は、お話としてはかなり弱い気がしました。これなら、3章の話だけを単独にもう少し膨らませて書けばいいのじゃないか、と。 しかしこの度の読書で気づいたのは、2章4章はお話としては弱いかもしれないが、これがなければ、少なくとも筆者が書きたかったであろうテーマが成立しないということでした。 順序が異なりますが、2章の「落書き」のことから考えてみたいと思います。 まずこの話は、ストーリーとして破綻、というのは言い過ぎとしても、一個所大きな点でかなり無理があるように思います。 それは、彼女の受けた模試の日時と会場が、僕の話の舞台と同じだという彼女の独断であります。この彼女の独断のセリフにはその根拠がほぼありません。ということは、話の展開としてはかなり無理があるということでしょう。 ではなぜ、そんな無理な展開に筆者はしたのか、それが私の問いでした。 答えは、その日に僕が誰かの机の上に落書きをした、ということだと思います。 そう思って読むと、ストーリーの中にたくさんの状況証拠が描かれていることに気がつきます。 次に、問いとして答えの易しいのは、3章についての「僕は心の底でそう望んでいたのか」でしょう。その答えらしきものは、隠されてはおらず、5章の終末部に書かれています。(「誤謬」は「逆説的な欲望」だと。) ただ今回、これは確かにその通りだろうと私が思ったのはそこではなく、4章のエピソードの中にあった一節でした。 3章で僕は彼女の電話番号を紙マッチに書きます。書く場面は描かれていません。一方、4章の百科辞典販売の元中国人同級生についてはこう書かれてあります。(僕は、後日ゆとりができたら百科事典を買うかも知れないと言う、その後です。) 僕は手帳のページを破り、住所を書いて彼に渡した。彼はそれをきちんと四つに畳んで名刺入れにしまった。 彼女に関する僕の「重要情報」の扱いと、僕に関する彼のそれの扱いの描写がこれだけ異なっていることについて、そこに誰の何の意図もないとはとても言えないと思います。 今私は2章と3章のエピソードについて語ってみましたが、この二つは全く同じ原因から生まれたお話であります。 それは、僕が、中国人に対して「悪意」を持っているということです。 もう少し丁寧に書くと、僕は僕の無意識層に中国人に対して「悪意」を持っているという構図であります。 そして意識層の僕は、その不意の出現にかなり戸惑っています。 一方無意識層の僕の「悪意」は、意識層の僕に対してかなりわざとらしくいろんなシグナルを送って揺さぶっています。例えば2章での僕の中国人学校並びに教師に対する印象とか、彼女にしつこく落書きをしたかを尋ねさせるとか、1章のにわとりの話もその一環かなと思います。また、3章での、彼女を山手線に乗せた後の僕の「気持のぶれ」とか。 まだ4章の問いが残っていますが、結局の所この小説は、「悪意と贖罪の物語」あるいは、もっとポピュラーな言い方をすれば、「死と再生の物語」と言えるような気がします。 2章3章が「悪意・死」の物語で、4章が「贖罪・再生」の物語とも言えそうです。 しかし、そうまとめるなら4章はどう読むのだ、それが私の問いの「僕と元中国人同級生の違い」であります。 4章で、喫茶店で出会った元中国人同級生について、私は思い出せないと謝ります。すると元中国人同級生はこう答えます。 「昔のことを忘れたがってるんだよ、それは。きっと潜在的にそうなんだね」 「そうかもしれない」と僕は認めた。たしかにそうかもしれない。 そしてさらに、元中国人同級生はこう話します。 「(略)俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてるんだよ。全く妙なものだね。どうにも忘れようとすればするほど、ますますいろんなことを思い出してくるんだよ。こまったことにさ」 1章に、この彼らの会話を別角度から照射しているような部分があります。ここです。 もっとも、たいていの僕の記憶は日付を持たない。僕の記憶力はひどく不確かである。それはあまりにも不確かなので、ときどきその不確かさによって僕は誰かに向かって何かを証明しているんじゃないかという気がすることさえある。しかしそれが一体何を証明しているかということになると、僕にはまるでわからない。だいたい不確かさが証明していることを正確に把握するなんて、不可能なんじゃないだろうか? 実はこの小説は「記憶の物語」と言ってもいいくらい、各章のいろんな部分が記憶にこだわった話です。 上記に、4章が「贖罪・再生」の話と書きましたが、何がその救いとなっているのか、それは「俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてる」の部分でしょうか。 われわれは本短編小説が発表されてから40年の間に、とてもナーバスにしかしじっくりと確実にそしてしたたかに、村上春樹が中国・中国人に対してある複雑な意識を持ち続けていて、そしてそれを重要なテーマの一つにしている物語を読んできました。 この度私は今更ながら(つまりタイトルに「中国」とありながら)、ここに、その重要なテーマの兆しを初めて読んだように思いました。 ただ、このままではやはりなんといっても弱い。 その弱さが、5章終末部の、逆の方角を指す一続きの部分にあるような気がしました。小説の終了直前の7行です。 それでも僕はかつての忠実な外野手としてのささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろし、空白の水平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その水緑なす草原を想おう。 だからもう何も恐れるまい。クリーン・アップが内角のシュートを恐れぬように、革命家が絞首台を恐れぬように。もしそれが本当にかなうものなら…… 友よ、 友よ、中国はあまりに遠い。 終末2行は、ここに至るまでの部分とかなり示している方角が違っていませんか。 というか、この2行の前の5行のほうが前後から浮き上がっていて、この5行の根拠を4章のエピソードからだけ読む(もう一つ、少年の頃の外野手の挿話と)には、あまりに説得力が弱い、と。そしてそれを感じた作者は、最後にまた180度反転をした、と。 多分このあたりに、デビューしたての筆者の、一種の詰め切れなさ、あるいは「腰の据わってなさ」があったのかなと思います。(あるいは抱いているテーマの、筆者にとっての思いがけない存在の重さが。) ただ、この前半5行に描かれているイメージと比喩が、こんなに力強く美しいというのに。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.01.29
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『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹(中央公論社) いつだったか、作家の小川洋子さんが、本書をかなり絶賛していた文章を読んだ記憶があります。本書の初版は1983年で(文庫本ではありません)、帯に書かれたコピーはこんな文章が書かれています。 後になって、きっと僕たちはこんな風に思うだろう。1983年――あれは、ビヨン・ボルグがコートに別れを告げ、僕たちは三度目の夏をむかえた。そして、村上春樹の短編集――「中国行きのスロウ・ボート」が出版され、おかげで、僕たちは愛しあうことも忘れ夢中で読みふけった年だった、て…… 今でも本の帯のコピーって、こんな感じなんですかね。最近の本についてはよく知らないのですが、とにかく、とってもおしゃれな感じの文章ですよねー、なんか、透明感があって。よく吟味して読めば、ボルグと僕たちと本書にはほとんどなんの関係もないのだけれど(つまり中身などなんにもない文章だけれど)、記憶では私自身もこんな「ノリ」で本書を読んだように思い出します。 で、それから40年の月日が流れました。えらいものですねー。 でも、そのことは決してマイナスのことばかりを生んだわけではありません、少なくとも私の今回の読書体験において。 それは何かというと、この40年間に筆者が次々に発表した(本当に次々という感じの「勤勉さ」の)作品のおかげで、私がこの度の読書のための補助線を密かにたくさん手に入れていたということです。 あ、これはそういうことか、なるほどそう読めばいいのか、と思う個所がいくつもありました。その結果、今回の読書で私が新たに知ったのは、本書は、40年前の帯の文章のように軽いノリの感覚だけで読み終える短編ばかりではない、ということでありました。 特に本書の表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」は、その後の村上作品をそれなりに読めば、彼の「中国」へこだわりが、すでにこれほどまでに表れていたのかと驚くばかりでありました。 以下に、この短編について、私が驚きつつ感心した事柄をまとめようと思うのですが、ただ、この短編のできが本短編集の中で一番いいというわけではないようです。 本書には7つの短編小説(ひとつは少年少女向けかな)が収録されています。 筆者の最初の短編集ということで、「中国行き…」を含む前から4作は、はっきり「初期作品」と言っていいと思います。(収録順がそのまま発表順になっていて、多分創作順もほぼ同様ですかね。) 「中国行き…」を少し置いておくと、残りの3作は、私はこんな風にまとめられるのではないかと読みました。 一種の想像力の極限状況を、反リアリズムの手法でどこまで作品化できるかの試み。 後年、筆者は小説の価値の第一位に文体を多く挙げているように思いますが、それは言葉だけで現実と対峙するという小説の基本的構造について、自分にどの程度までやっていける力(才能)があるのかを探っているような(ある意味では少しけなげな感じのする)試みであるように思いました。 そして後ろの3作(本書には小さなまえがきのような文章があって、前4作と後ろ3作の間に『羊をめぐる冒険』の執筆のための1年近いブランクがあると書かれています。)は、同じ初期作品としてまとめられるとしても、いわゆる「デビュー作にはその作家のすべてが詰まっている」的な、後年の筆者の才能の萌芽があちこちの展開から見え出しているような、そんな懐の深いできの良さがあります。 ということで、私は数十年ぶりの本書の再読をとても「スリリング」に読みました。 そして、上記に書いたように、その中心的読書の「中国行き…」について、以下に、私が思ったことをまとめてみたいと思います。 本短編は、半生の中で主人公が中国人と出会ったうちの印象的なエピソードが3つ、そしてそれを挟んで「序」と「結」のようなパートの、5つの章からなっています。 今回私はわりと一生懸命にこのお話を読んだんですね。そして読みながらいくつかの疑問を持ちました。(小説というのは大体真剣に読むと「?」がまず現れてくるもので、その疑問の解けることこそが、小説読書の快楽だと私は思っています。) それを、本当はもっとたくさんあちこちに散らばっているのですが、まとめながら簡潔にかつ順番に書くとこんな風になります。 1章→僕に正確な日付の調査を止まらせたにわとり小屋とは何か。 2章→机の上に誰かの落書きはあったのか。 3章→僕は「心の底でそう望んでいた」のか。 4章→僕と元中国人同級生の違いと、それが僕にもたらしたものは何か。 5章→作品終末部は、なぜ書かれていることが逆方向なのか。 こんな感じですかね。 うまくまとめられていない気もしながら、しかし、これらの問いの答えも、ほぼ作品内に書かれてあることに私は気づきました。 どうですか、なかなかスリリングでしょ。 それを……、あ、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.01.23
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『一人称単数』村上春樹(文芸春秋) ……えー、前回の続きであります。 村上春樹の最新短編集を読みながら、わたくしはわたくし的「新発見」をしたと、前回最後にハッタリをかましてしまいました。 えー、先にお詫びしておきます。ごめんなさい。 そんな大したものではありません。 でも、まー、わたくし的には、「なーるほど」と、かなり納得のいく了解だったもので、まぁ、そんなつもりで以下、お読みください。 それは、こんな部分の話です。 例えば「ウィズ・ザ・ビートルズ」に出てくる「彼女の兄」(なんとも素晴らしい造形で描かれていますが)のこのセリフ。 「月の裏側まで行って、手ぶらで帰ってくるようなものや」 私もこの関西弁のセリフをクスッと笑いながら読んだのですが、その後、こんな箇所を見つけ、そして、はっと思いついたのでありました。 こんな箇所とは、こんな部分です。 遅かれ早かれ彼女とは別れることになっただろうと思う。とはいえ、彼女と一緒に過ごした何年かを懐かしく思い出すことができる。彼女は僕にとっての最初のガールフレンドであり、僕は彼女のことが好きだった。女性の身体がどんな風になっているか、それを(おおむね)教えてくれたのも彼女だった。僕らは二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした。 多分どの部分か、お分かりになると思いますが、「女性の身体がどんな風になっているか、それを(おおむね)教えてくれたのも彼女だった。」の部分ですよね。 実際、この部分って、なくてもいいと思いませんか。 ちょっと、外してみますね。 遅かれ早かれ彼女とは別れることになっただろうと思う。とはいえ、彼女と一緒に過ごした何年かを懐かしく思い出すことができる。彼女は僕にとっての最初のガールフレンドであり、僕は彼女のことが好きだった。僕らは二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした。 ね。これでもう、しっとりとしたいい思い出の文章じゃないですか。十代の性的な興味についても、後半の記述の範囲で十分仄めかせてありますし。 また、「品川猿の告白」のこんな部分だってそうです。「はい。子供がおられなかったので、そのかわりにといいますか、暇を見ては私をみっちり教育されたのです。きわめて我慢強く、規則性をどこまでも重んじる方でした。真面目な性格で、正確な事実の反復こそが真の叡智への道だというのが先生の日頃の口癖でした。奥様は無口ですが、とても優しい方でして、私にはそれは良くしてくださいました。仲の良いご夫婦でして、こんなことをよそさまに申し上げるのはなんですが、夜の営みはかなり激しかったです」「ほう」と僕は言った。 ここも、猿の最後のセリフはなくてもいいですよねー。(ただ、ひとつ上の引用部に比べたら、ここ記述はもう少し小説のいろんな部分と絡み合っているような気もしますが。) ともあれ、村上春樹はこんなふうに書くんですね。 そして、アンチ・ハルキストから、ミソジニストなんて言われたりして、気持ち悪がられたり、憎まれたりしちゃうわけです。 でも今回私は、上に書いた「ウィズ・ザ~」の「彼女の兄」のセリフなんかとセットで読んでいて、(ひょっとしたら世間では「今更」なのかもしれませんが、)はっと気がついたんですね。 あ、村上春樹は、「関西のしょうもないこと言い人種なんや」と。 これは最近の村上作品に、かつては一切出てこなかった関西弁が時々顔を出すようになったことと関係しているのかもしれませんが、「月の裏側~」の減らず口は、間違いなく関西テイストです。 冗談としての比喩の在り方に、意味を飛ばした過激さがあり、それは関西テイストであろう、と。 以前私は、本ブログで町田康の作品の読書報告をした時に、「さ、家帰ってへぇこいて寝よ」という下品な一文(関西では広く伝播している一文)のことを書きましたが、「しょうもないこと言い人種」は、こんな下品なわざわざ言う必要など全くないことを、つい、言ってしまうんですね。 我が意に反して、本当に、気がつけばすでに舌が滑っているんです。 まるで吸った息を吐くように、何の意味もない下品な表現を、無意識に口から吐き出してしまいます。(これはひょっとしたら、遠く井原西鶴あたりの呪縛かも知れません。難儀な話やなー。) かつて村上春樹は、なぜ作品に過激な暴力やセックスを書くかについて、読者に揺さぶりをかけるためということを書いていました。 それはその通りなのかなとは思います。(本短編集の「石のまくらに」の彼女の、「いっちゃうときに、ひょっとしたら」うんぬんの設定などは、それに近いように思います。) そうなのかなとは思いつつも、ひょっとしたらもう少し「軽い」次元で、村上春樹は、(あるいは村上春樹といえども、)「関西しょうもないこと言い人種」のDNAの命令に逆らえず、つい、つるりと書いてしまったのではないのか、いや、きっと、そうに違いないと、私は、この実にしっとりとしたいい短編集を読みながら、ごく関西人的に考えていたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.02.04
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『一人称単数』村上春樹(文芸春秋) とりあえず買おうか買うまいかと迷っていたら、友人がお貸ししましょうと貸してくれた本であります。 でもちょうどその時、私は別の小説を読んでいましたので、勇んで本書を読み始めるのはもう少し後でと思っていたものの、ある夜、暇に任せて何となく、本書を手に取って、パラパラとめくって、まー、一つだけと思って、一つの短編小説を読み始めました。 「ウィズ・ザ・ビートルズ」という作品です。 するすると読み終わりまして、何と言いますか、とっても感心してしまいました。 読んだのが夜だったせいもないではないでしょうが、かなり驚きました。 なんて上手な短編小説なんだろう、と。 村上春樹は、極めて律義に超長編小説、長編小説、そして短編小説集を順に廻しながら発表していくという、考えてみたらこんな律義な小説家って今まで日本にいたでしょうかね。 多作というのとも違いますよね。いうならば、小説家という言葉の枠組みから想定しがたい几帳面さ、とでもいうのでありましょうか。(三島由紀夫もかなり几帳面な方だったと伺いますが、ある意味こんなルーティーンな仕事ぶりではなかったですね。) きっとそれは才能の質なのでしょうが、ちょうどベートーヴェンが、ピアノソナタ、弦楽四重奏、そして交響曲と、奇麗に廻しながら発表したのと似ていますね。 でも、この度出版された短編集を読む前に、私は、村上春樹はいったいいつまで短編小説を書き続けるつもりなのかな、と少し思っていました。 再び三島由紀夫ですが、彼も晩年まで(早い晩年でしたが)、割と律義に短編小説を書き続けた作家でしたが、確か新潮文庫の短編集の自作解説の中に、この形式にはもう飽きているみたいなことを書いていましたね。 また村上春樹も、自分の主戦場は長編小説にあると何かに書いていました。 上記に私は、ベートーヴェンの名前をちらりと出しましたが、どなたの音楽評論に書かれてあったのかわからないのが申し訳ないながら、ベートーヴェンは、この3つのジャンルの音楽について、自分の中で明確に役割分担をしていたとありました。 まずピアノソナタで新しい音楽の地平に挑戦し、交響曲でそれを総合的な芸術作品に作り上げ、そして弦楽四重奏で、その芸術の神髄を「反歌」のように余韻を含ませて完成させた、と。確かそんな文脈だったように思います。 さてこの度、私は本書を読みまして、8つの短編小説が収録されている中で、3つの作品に大いに感心しました。 この3つは、たぶんどなたが読んでも同じだと思いますが、この3作です。 「ウィズ・ザ・ビートルズ」「謝肉祭」「品川猿の告白」 出来の良さから言えば、1・3・2(上記の順)かなとも思います。(つまり私は、偶然本短編集のもっともすぐれた作品から読み始めたわけですね。)でも「3」とした「謝肉祭」という三題噺めいた短編にも、とても捨てがたい魅力があります。 今私は「三題噺」と書きましたが、「謝肉祭」は、「醜女」「シューマン」「詐欺事件」の三題だと思います。 しかしこの三つのまじりあいが、実に渾然一体として素晴らしい。(それに加えて、本作には、村上春樹の短編小説の作り方がほのかに見えるようにも思え、とても興味深い作品です。) まず、「彼女」をなぜ類い稀な「醜女」にしなくてはいけないのか、次に、「シューマン」についての明らかに一線を越えたようなスノッブさを筆者はなぜ描いたのか、そして、終盤の突然の詐欺事件。 しかしこの3つの書き込みは、どれを取ってもこの形しか考えられないような説得力を持っています。 どれか一つでも、このトーンの密度を下げてしまうと、話に求心力がなくなってしまうような、他に置き換えられない完成度があるように思いました。 他の2作も同じですが、確かにこんなレベルの高い短編小説が書けてしまうのなら、どれだけベテランになろうが、また自分の主戦場は別のところにあろうが、書きたいという意欲はふつふつと湧いてくるだろうなと思います。(実際、村上春樹の文学作品の中で、最も評価されるべきなのは実は短編小説だ、という説もどこかで読んだような気がします。) さて、そんな素晴らしい作品を3点も含んだ短編集を読みました。 しかし私は、読みながらそんなややこしいことばかりを考えていたわけではありません。 何を隠そうわたくしも、たいがい村上作品は半世紀くらいにわたって読み続けてきました。多分個人の作家としては、わたくしが一番たくさん読んでいる作家だと思います。 そんな「慣れ親しんだ」村上作品について、この度わたくしは、「新発見」をしたという話を、……えー、すみません、後半に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.01.24
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『動物記』高橋源一郎(河出書房新社) わたくしの読書の「メンター」のような方に、「最近何読んでますか」と訊ねた時に出て来た書籍がこれです。私は「『銀河鉄道の彼方に』は読みましたか」と訊ねました。近々私が読もうと思っていた本です。 すると「あれは長いから。こっちは短いでしょ。」と、軽くかわされました。 実は、私としては、どうもよくわからない宮沢賢治の評価について、「メンター」的指導を受けたいと思っていたんですね。 しかし、うまくいかず、その代わり私は図書館に行って、本書を借りてきました。 そして、フェイヴァレットな高橋源一郎の小説に改めていろいろ考えました。 九つの短編が収録されています。 タイトルにあるように、みんな動物が絡んできます。 でも、基本的には「ごった煮」のような感じです。なんと言いますか、まとまりらしいものが、ないように感じます。 特に、最初の二作を読んだ時は、少しガッカリ感がありました。 私として注目すべき点がないわけではなかったものの、仮にも高橋源一郎の才能からなる小説としては、あまりに安易、不誠実、もう少し書けるでしょうに、という印象でした。 以前、私は哄笑する純文学小説が読みたいと、本ブログでも述べていました。今でもその思いは変わっていません。 そんな意味で言えば、「哄笑」は少し置くとしても、大いに笑いを伴った純文学小説に、ひょっとしたらこの二作の小説はなっているのかなと、思ったんですね。 でも、そもそもこの筆者の持つ「軽み」は、絶えず「笑い」とほぼ同一地平上にあり、多分本短編集で最も「笑い」の要素の少ない最終話『動物記』の中にも、あるといえば充分あります。 いえ私は、冒頭の二作が、それをかなり中心テーマにしたものかなと思ったのですが、それにしては、うーん、少し物足りない……。 でも、読み進めていくうちに分かってきました。 いわば最初の二作は、準備運動のようなもので、後の作品になっていくほど筆者の本来のテーマがぐんぐん色濃く表れ始めました。それは何かといえば、例えば本書にはこんな表現があります。『文章教室2』の一節。 ……なんてことをいいだすんだ、ここは文章教室であって、生物学教室じゃないんだけど……でも、文章に関係のないことはなにひとつないんです。 以前にも書きましたが、私が高橋源一郎の作品を好きなのは、このあたりの思いを真正面から(もちろん変化球ですが)綴ってくれるからですね。 昔、萩原朔太郎の文章で読みましたが、文学などを仕事にしたおかげで私には趣味というものがなくなった、何もかもが仕事になってしまったとありました。 考えれば、文学者というのも因果な職業ですね。 (同じく私が好きな文芸評論家の関川夏央も、文学について真剣に綴ってくれる作家だとは思いますが、関川氏の場合はここらへんが少し斜に構えている感じで、いえまぁ、それは、それでもいいんですけれど。) と、いう風にこの短編集のテーマは、どんどん文学そのものを説くものになっていきます。そして、どんなところにたどり着いたかというと、最終話『動物記』のクライマックスの部分が、本のオビの後表紙のところに抜き出されています。 私の希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。 これは小説家らしい主人公が、自分の臨終の時の願いを書いているんですね。 家族は傍にいてくれなくていい、その代わりにいて欲しいもの、ということで書かれています。そしてなぜ「なにか獣のような生きもの」なのかというと、獣たちは、何を考えているかわからないものだからです。 筆者をそのまま重ねるわけではありませんが、言葉にこだわり、文章にこだわり、そして文学にこだわった主人公は、最期に、結局私は何もわかっていないのじゃないかと思い、しかし、その時にも何を考えているかわからない獣が傍にいてくれることを願います。 これを、業のように文学に憑かれた人生だと考えると、この終末は、やはり心動かされずにはいられないものであります。 そんなお話でした。冒頭に我が「メンター」が「短いから」といった本書ですが、さすがに高橋源ちゃんの小説であります。 私は、とても楽しくとてもうれしくそしてしっとりと、読み終えることができました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.01.10
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『恋する原発』高橋源一郎(講談社) まず冒頭に、献辞のような形で2ページ、各2行ずつで、こうあります。 すべての死者に捧げる……という言い方はあまりに安易すぎる。 (「インターネット上の名言集」より) 不謹慎すぎます。関係者の処罰を望みます。 ――投書 続いて、「前書き」あるいは「緒言」のような形でこうあります。 いうまでもないことだが、これは、完全なフィクションである。もし、一部分であれ、現実に似ているとしても、それは偶然に過ぎない。そもそも、ここに書かれていることが、ほんの僅かでも、現実に起こりうると思ったとしたら、そりゃ、あんたの頭がおかしいからだ。 こんな狂った世界があるわけないじゃないすか。すぐに、精神科に行け! いま、すぐ! それが、おれにできる、唯一のアドヴァイスだ。じゃあ、後で。 実際にはさらにこの3ページの文は、字のフォントや大きさが、細かく異なっているのですが、それは省略いたします。とにかく、これだけのページを使ってから本文が始まります。ざっくり、その話の主人公を紹介しますと、中年のアダルトヴィデオの監督であります。 その主人公が、東日本大震災のチャリティーのAVを作るというのが、簡単なストーリーです。 今から作ろうとするAVのアイデアや、AV現場の様々な人物のエピソードなどが絡んできて、まず一本の線を作っています。そこに現れるエピソードは、ウンコの話てあったり、老人の性の話であったり、そしてダッチ・ワイフの話であったりします。 筆者はかつて、やはりAV現場の話を小説にしていましたし、作中の一挿話としてもAV監督の話を書いていました。(田山花袋がAV監督をしている話なんかがありましたね。) だからというわけでもないでしょうが、ぐいぐいと引っ張って読者の琴線に触れるようなところに落としていく話は、こちらの「本線」にあります。(また、この手の話は実際コミカルにリリカルに描いていくと、「やがて悲しい」感覚に身につまされるように導かれて行きます。) しかし、もう一本の「本線」がこの小説にはあって、その中心に位置するのは、まず原発事故によって表面化した我が国の原発政策であります。 その他にも、第二次世界大戦における日本軍兵士たちの苛烈な境遇であったり、ヒロシマ原爆の話、そして天皇並びに「ヤスクニ」神社の話、といった事柄に対する激しい告発が描かれています。 これは本書に限ったことではありませんが、以前よりそして現在に至るまで、筆者は文学の立場から、社会変革のための警告や告発を持続的に発信しています。 本書においても、そんなストレートな表現があります。例えばこれ。 文学というものは、これまでもずっと、気の遠くなるような長いあいだ、それを読む人びと、彼らが属している共同体の「倫理」を語ってきた。その共同体が危機に陥るとき、それはもっとも甚だしかった。 実は私は、本書を読んでかなり感心したことがあるのですが、本書の初出が2011年11月号の「群像」であると記されていたことでした。 2011年3月11日に大地震・津波が起こり、原発事故が起こり、特に原発事故の部分については、11月と言えば事故そのものがまだリアルタイムで持続している最中ではありませんか。 そんな時に(なるほど、そう知ってしまえばかなり「荒っぽい」感じのする展開もあるとしても)、これだけの作品はそうざらに書けるものではありません。 何より、筆者の書くことへの強烈な意志力を感じさせます。 冒頭で、私はこの本の「献辞」「緒言」を挙げました。 本書のストーリーは、殆ど荒唐無稽のようなセックスにまつわる滑稽で恐ろしくも悲しいエピソードが続きます。(この部分の面白さについても上述しました。) そんなこんなの思いつく限りの工夫を凝らして韜晦し、そして初めて、大声で原発を巡る我が国の様々な政治的状況を告発する筆者の姿には、私は、純粋に素朴に頭が垂れる思いがしました。 独立した文学作品としては、あるいは色々と「傷」のある小説かも知れませんが、私は、感動したといって間違いはありません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.11.01
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) 1.妻の離婚請求の謎→未解決 2.雨田具彦の変貌(人柄・画風)の謎→詳細は未解決 3.「騎士団長殺し」の絵の謎→未解決 4.免色の生き方(黒歴史)の謎→詳細は未解決 5.宮城県の女とスバル・フォレスターの男の謎→詳細は未解決 6.鈴の音の謎から騎士団長の登場 村上作品読書報告の後半です。 前回の最後に、騎士団長が登場するまでの本書の「謎」の主だったところを取り上げてみましたら(上記)、その謎はほとんど最後まで読んでも解明されていないという事がわかりました。(上記箇条書きの「→」の後の部分です。) つまり、基本的にほとんどのストーリー上の疑問点は、その後解決されることもなく、謎のままにほっぽり出されているということです。 というか、「6」にあたる一番大きい騎士団長の登場の謎が謎のままになっている以上、本文中にも同種の表現がありますが、「この世界は何が起こってもおかしくない世界」になってしまっていて、それ以降、「私」には、今までの謎を謎として捉える関心興味がなくなってしまっています。謎が謎じゃなくなっています。 確かに、もしも現実に「6」のようなことが起これば、ほかの謎は吹っ飛んでしまって、どうでもよくなっても仕方ないといえば仕方ないですよね。(しかしそんな世界を「地下二階」のフロアというのでしょうか。でもそれって、ちょっと都合よすぎませんか。) それでは「6」に至るまでの次々に起こった謎とは何だったのか、例えば最大の謎の騎士団長の登場にしても、登場までは即身仏の話とか上田秋成の『春雨物語』などを出してきて引っ張っておきながら、騎士団長が登場するや、彼はどんどんユーモラスな存在になっていきます。 それはまるで、良くいっても『ファウスト』のメフィストフェレス、いえ、のび太君のドラえもんともいえそうな、さらには、奥様は魔女とか、しゃべる馬とか、ドリトル先生のポリネシアなどまでアナロジーを許しそうなキャラクターであります。 つまり、騎士団長登場に至るまでの一見スリリングな謎とは、そもそも「幽霊の正体見たり」であって、もはや何でもありの世界が登場してしまうと、はったりこけ脅しのたぐいの筆者が読者の興味を誘導していただけの本質のない謎に過ぎなかった、……とまでは、……うーん、少し言いすぎですかねぇ。 初読の時は、きっと私ははらはらしながら読んでいたはずですものねぇ。 さて、とにかくそんな騎士団長は、作品の中に登場してしまいました。 しかし、……やはり、どうなんでしょう。この存在は、あまりといえばあまりに不可解すぎませんか。上記に私は、村上作品に意味を求めてはいけない(特にストーリーに関して)と書きましたが、それでもあまりに無意味すぎませんかね。 そもそも、この騎士団長はいったい何のために作品に出てきたのか、これについても、最後まで読んでもさっぱりわかりません。試しにこの騎士団長がしたこと(登場人物にさせたこと)を挙げてみますと、この二つでしょう。 1.自らを殺させることで、「私」を「地下巡り」に誘った。 2.免色邸で「まりえ」にアドバイスをした。 多分この二つだけだと思います。 まず「1」について、「私」が騎士団長に助けを求めたのは「2」の「まりえ」失踪の解決のためですが、「私」の「地下巡り」が「まりえ」失踪の解決にどれだけ役に立ったのか、まるでわかりません。(思うのですが、解決に役立ったというのなら、もう少しその接点を、それこそほのめかしてもよかったのではないでしょうか。) 次の「2」についても、騎士団長は「まりえ」を激励しアドバイスを与えますが、そもそもそんなアドバイスを与えなければ(決定的なのは、女中部屋に隠れていれば見つからないと言ったことでしょう)、「まりえ」はずっと早く免色に見つかり、少々ばつの悪い思いもしながら、それでも4日間も行方不明になるなんて馬鹿げたことにはならなかったでしょうし、あるいは、彼女の母親についての大切な情報を、免色から聞けた可能性だってありそうです。 ということは、騎士団長は、(関西弁で言うところの)「いらんことしい、いらんこと言い」ですか。いえ、上記の二つをセットで考えれば、彼こそこの失踪事件の「マッチポンプ」、首謀者ではないでしょうか。 それではそんな騎士団長を、我々はどう考えればいいのでしょう。 かつて村上小説には、かなり初期の段階からいわゆる「非存在」なものが再三姿を現してきました。 その代表は、羊男でしょうか。これは、基本的には騎士団長と同じでありながら、小説内での「意味」は明らかに大きく異なって、強烈な存在感と影響力を持っていました。 考えてみれば、上記に「マッチポンプ」と書きましたが、本書で騎士団長が殺されねばならなかった原因は、いわば「まりえ」の失踪であり、でもそれはそもそもローティーンのちょっとしたいたずら心(関西弁で言うところの「いちびり」、あるいは子供の好きな「探検」?)によるものではありませんか。 そんな軽々しいものによって出刃包丁で殺されてしまう騎士団長という造形は、思えば、羊男の存在感といかにかけ離れていることでしょう。(考えるほどに騎士団長は、卑小というか何というか、なんか、情けないかな。) 小説の中の非存在を信じることは、言うまでもなく快い小説鑑賞にとって、とても有効な手段です。しかし、その非存在が描かれたイメージに、深みや広がりがあまり感じられないとすれば、その非存在とは何なのでしょうか。 作品として、高い評価のできるものなのでしょうか。 「意味を問うな」というのなら、別にそれでもかまいません。 しかし、羊男は信じるに足りても、騎士団長については、信じる以前のところで戸惑ってしまう読後感を、この度の私は抱いてしまいました。 クラシック音楽の本を読んでいると、「説得力のある演奏」という言葉が結構出てきて、私のような素人でもなんとなくこの言葉のニュアンスはわかります。 それはとても説明のしにくい言葉ではありますが、音楽を聴いての実感としては、とても納得できる感覚です。 ひょっとしたら村上春樹は、読者に望む自らの小説の評価として、この言葉を抱かせたいと思って作品を書いているのではないとまで、ふと、私は思っています。 作品から意味を離れて、ただ読者を「悪いようにはしない」とすれば、この「説得力」という評価は、なかなか重要な指標だと思います。 ところが、今回の読書は、私にとって微妙に説得力の感じられなかった読書でした。 ……うーん、オールド村上ファンの私としては、誠に残念であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.14
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) この本の読書報告は2回目です。 2回目というのは、連続としてのものという意味ではなく、本ブログに2回別々の感想文を書いた、という意味ですね。ついでに、わたくし本書は2回目の再読になります。 前回、本書の読書報告をした時、同時期に出版された村上春樹のインタビューの本について、かなり面白かったもので、何だかそれが中心の報告になってしまいました。 今回も同じインタビューの本をパラパラと読んでいたら、やはりとても面白く、これはいけないこのままでは前回と同じ展開の読書報告になってしまうと思い、読むのをやめました。そして、単独に小説そのものの読書報告を書こうと思ったんですね。 でも今回も、報告のきっかけについてだけは、記憶をたどってインタビュー集の中の筆者の言葉を取っ掛かりにしたいと思います。 筆者は小説を書く時、全体のまとまりとか、各部の意味とかを全く考えないでまず第一稿を書くと言っています。 しかし、そんなことをしていたら脈絡がなくなってしまわないかというインタビュアー(作家の川上未映子です)の質問に対して、筆者は、自分もそれなりの作家キャリアを重ねてきて、読者に対していわば「悪いようにはしない」というポイントだけは押さえていると答えています。 この「悪いようにはしない」の具体的なものは、例えば何なのでしょうか。 期待を裏切らないという意味で考えるなら、私にとって、村上作品が一番に期待を裏切らないのは、主人公の性格設定です。 私にとってこれは多分間違いありません。私は、村上小説は『風の歌を聴け』以来ほとんどを読んでいますが、読んでいて快感を覚えるものの第一は主人公の人柄であり、そしてそれに基づく生き方であります。それを少しまとめてみますね。 1.ストイックさ。我慢強さ。欲望、特に物欲の少なさ。自分なりの価値判断はあっても偏ったこだわり方はしない。 2.頭の良さ。明晰さ。整理能力の高さ。一人で生きるある種の能力の高さ。加えて様々な事柄に対する知識量の豊富さ。 3.そして、美人とのふんだんなセックス。(これは人柄ではありませんが、あえていえば魅力ですかね。) こう並べてみましたが、どうでしょうか。考えれば、確かに村上作品の主人公は、一貫してこのパーソナリティを裏切っていないように思います。(「3」はちょっと作品による違いはありそうですが。) でもそれって、本当にいいことなんでしょうかね。 文学的な話なんでしょうか。(歌手なんかは、新しいアルバムを出す時あまりに前作と比べて「新境地」の曲ばかりを並べないと、どこかで聞いた気がしますが。) 「悪いようにはしない」は、ストーリーについてもいえそうなところがたくさんあると思います。 まず、これも村上春樹がインタビューの中で言っていたことですが、自分は登場人物の「近代的自我」のようなものは(「地下一階」と筆者は表現しています)、書きたくない。書きたいのはその奥の(「地下二階」と書いてあります)「無意識」「集合的無意識」といった領域だ、と。 そういわれれば、村上作品定番の「井戸」とかは、そんなもののメタファーのような気がしますね。これも「悪いようにはしない」の一つなんでしょうか。 しかし、私は今回そんなことも考えながら読んでいて気づいたのですが、確かにストーリーにおいては「地下二階」のような展開、つまり「意味」とかを求めないものになっていると読めそうです。 ただ実際に、読者に対して「悪いようにはしない」と迫ってきそうな個所は、例えば本書でいえば、妻の「ゆず」との再生活に至るやり取りの部分であり、これは「地下一階」の「自我」フロアの話ではないのでしょうか。 「私」が「ゆず」ともう一度話し合おうと決心したのは、「私」が「地下巡り」を経験することで、自分の「ゆず」に対する欲求=自我のありかを自覚したからではないのでしょうか。 つまり、「集合無意識」に寄りかかって展開した部分は、実は「悪いようにはしない」には当たっていないことを、筆者は本当は分かっていてわざとそんな風に言っているのでしょうか。 さて、そんな「無意識」のようにどんどん進んでいくストーリーですが、冒頭にも書きましたように、私はこの度の読書は再読で、ストーリーについては、かなり穴あきでしたが割と覚えていた状態で読みました。 そうすると、やけに気になったのは、謎の多さでした。本当にこれでもかこれでもかと、出てきます。なんだかまだ食べている途中にどんどん次の料理が出てくる、時間制限付きのコース料理のようです。 前半のクライマックス騎士団長の登場までで、ちょっとどんな謎が出て来たのか、少し書きだしてみます。(小さな謎は見落としているかもしれません。) 1.妻の離婚請求の謎→未解決 2.雨田具彦の変貌(人柄・画風)の謎→詳細は未解決 3.「騎士団長殺し」の絵の謎→未解決 4.免色の生き方(黒歴史)の謎→詳細は未解決 5.宮城県の女とスバル・フォレスターの男の謎→詳細は未解決 とあって、そして満を持して、 6.鈴の音の謎から騎士団長の登場 となるのですが、すみません、……えー、もう少し詳しい報告は、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.06
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『ヨッパ谷への降下』筒井康隆(新潮文庫) 本文庫には、副題として「自選ファンタジー傑作集」と付いており、筆者の多くの新潮文庫の短編集から作品を集めた一冊という形になっています。筆者の新潮文庫の最新ラインナップはこのパターンで、後、「ホラー」「ドタバタ」「グロテスク」のテーマで6冊出版されています。 で、そのシリーズの「ファンタジー」テーマの本書ですが、13作の短編小説が収録されていますが、私はとっても出来がいいなあと感心しました。 実はつい直前に「ドタバタ」テーマの1冊を読んだのですが、うーん、これはちょっと、好悪というレベルで、私は楽しく読むことができませんでした。 今回は「ファンタジー」ということで、そもそもファンタジー小説とは何かという事について、私はよく知っていなかったのですが、これも先日別の本を読んだ時に、ファンタジー小説とSF小説の違いを少し学びました。 まずSF小説というのは、現代のさまざまな自然科学理論をベースにし、そこから延長線上に伸びた世界を描くもので、一方のファンタジー小説は、そんなベースとか延長上理論を特に必要としない世界を描く小説であると、かなり雑駁なまとめ方で申し訳ありませんが、えー、大体合っているでしょうか。 だとすると、ファンタジー小説というのは、ひょっとしたら私のわりと好きな、現実世界からの「浮遊」めいたものを描く小説に重なるのではないか、と。 だから、読み終えた時に、うーん、なかなかいい短編集だなあ、と感じたのではないかなと、そのように思いました。 13作中、私はその半分以上の作品に好感を持ちました。 この「好感率」(実は60%くらい!)は、なかなか高い値だと思います。短編小説集って、一冊まるまる読んでも、いい話しだな、上手に書いてあるなと感じるのは1、2作だけで、後は、ちがうやろーと毒づきながら読むというのが多いように思います。(まー、本書が何冊かの単行本からの傑作集だからだといえば、その通りではありましょうが。) その中でも、特に私が興味深く読んだのは、『ヨッパ谷への下降』『家』『エロチック街道』の3作で、どれも掲載された雑誌は「新潮」と「海」という、純文学系の雑誌でした。(やはり、私の好みっぽい選び方ですかねー。) まず、『ヨッパ谷への降下』ですが、これは少し短いですね。小粒で可愛いという気もしますが(上記3作以外で割と気に入った他の作品もみんな「小粒で可愛い」という感想を私は持ちましたが)、でも少し物足りないんじゃないか、もう少し書き込んでも十分膨らむ余地を持つんじゃないかと思いました。 ただ、「ヨッパグモ」の生態という想像力の中身と方向性について、これはひょっとすると高く評価すべきものじゃないかと思いました。ただし本当のところをいえば、私はこの小説を読みながら、よくわからないでいました。それについては、最後に少し考えてみたいと思います。 『家』という作品も、なかなか好短編だなと思いました。 この小説を、筆者は1971年に発表しているんですね。あの『虚人たち』が78年で、『夢の木坂分岐点』が87年ですから、これは、そもそも筆者のキャリアの初期に書かれたといってよく、今更ながら、私は少し感心してしまいました。 ただ、『エロチック街道』でも同じですが、描写がいかにも息苦しい。もちろんそれは筆者の技巧でもあるのでしょうが、見た端からゴリゴリと味気なく写し取っていくような描写は、細かく読むと少しいびつな所、正しく表せていないんじゃないかという個所を持っているように思います。これは、意識的な筆者の技巧なのでしょうか。 ただそんな偏執的な視覚的描写がうんざりするほど続いていくからこそ、『エロチック街道』のラストシーン、温泉隊道の百メートルくらいのスロープを若い娘と抱き合いながら一気に滑り降りていくという場面が、この上なく瑞々しく感動的に、そしてエロチックに描かれているのは確かであります。 実は私はこれらの3作を読みながら、少し戸惑っていました。 これは優れた文学なのだろうかということを、つい考えていたんですね。 それは結局のところ、私が思っている文学とは何なのか、自分なりに一応理解していたはずの文学とは本当のところどんなものだったのか、といったことを改めて考えるということで、そして、私はそこに戸惑っていました。 もちろん、そういうふうに「心」を不安にさせるということが高い文学性の現れであるという理解は、私の貧しい文学経験からでも、納得しているつもりではあるのですが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.25
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『今夜はひとりぼっちかい?--日本文学盛衰史戦後文学編--』 高橋源一郎(講談社) 図書館で借りてきた本です。丁寧に扱わねばなりません。勝手に折り目なんて入れてはいけません。 というわけで、読み出す前にしっかり本のあちらこちらを眺めていました。 本の帯が、表紙と裏表紙に当たる部分だけ二つに切って裏表紙の内側に貼付してあります。最近こういうのが図書館の本の流行りなんですかね。 そういえば、昔の図書館の本は、いわゆる本の本体部以外はみんな捨てたのかどこかに仕舞ってあるのか、本の箱はもちろん、はなはだしい場合はカバーまでみーんな取り外して本棚に並べてありましたね。 今考えたら、図書館がかなり勝手にその書籍についてのさまざまな情報を取捨していたことがわかりますね。 考えるまでもなく、本のカバーは、その本にとってかなり大事なアピール部分であります。例えばあまり読まれなくなった古典的な小説が、カバーをはやりのイラストレーターの絵に変えたとたんに売れ出したなんてことはよく聞きますものね。(ジャケ買いというやつですね。) ……えーっと、変な話になりましたが、私は、読み始める前に書籍の本文以外の部分を矯めつ眇めつ見ていたら、二つ興味深いことに気づいたといいたかったんですね。 まずひとつめは、帯の文句です。こんな言葉が書いてあります。 「文学なんてもうありませんよ」前作の興奮を、ふたたび。 なるほど。前作、ありましたね。このブログでも紹介しました。私は結構楽しく読みました。そしてそのブログで、二つのことを書きました。 1.筆者は、現代作家中最も文学の将来を真面目に考えているひとりだ。 2.筆者は、文学史を換骨奪胎するという汲めど尽きない小説の鉱脈を発見した。 確かこんな感じだったですが、この度の帯を読んで、ああそうであったと改めて思い返し、今から本書を読むのに、私はますます気持がワクワクしました。 二つ目ですが、本文が終わった次のページに、初出誌の情報が書かれてありました。 それによると初出誌は本文のほとんどが「群像」で、2009年10月号から2012年6月号まで何度か休載しつつ(一番大きな休載は2011年8月号から2012年1月号まで)書かれ、それに別の雑誌に載せた作品をエピローグとして加えています。 この初出誌情報からは、本書成立の重要な経緯がよくわかります。 それは、誰でも気づくことでしょうが、東日本大地震の発生が、本書の内容におそらく大きな影響を与えたという事であります。 そしてさらにもう一つ、この初出誌情報の次のページには奥付があって、そこには本書の第一刷の発行が2018年8月だと書かれています。 つまり、雑誌掲載終了から6年たっての書籍化です。 これは、書籍化までの間隔が異様に長くありませんかね。 ……さて、本文に入るまでのことをぐずぐずと書きましたが、上記のような事前情報を得て本書を読み始めた私は、読み終えてまず、筆者にとってこの形の書籍化は不本意ではなかったかと感じました。 本書の構成は、プロローグとエピローグの間に15の章立てがありますが、「続」とか「2」「3」などの承前の章を一つにまとめると9つのエピソードから成り立っています。 そして内容的に、最後のエピソードを書きだす手前の時点で、東日本大震災が発生している事が読み取れます。そこで内容ががらりと変わっています。 そもそも前作の『日本文学盛衰史』にも、文芸評論か文芸随筆めいた章がありましたが、この度の本作は、ほぼ全編がそんな書きぶりになっています。(エピローグだけが違っていて、ここはより虚構的ですが。) そのことについての賛否は様々にあるだろうとは思いますが、私としては(単なる好みなのかもしれませんが)あまり好きじゃないです。 ただ、この筆者の場合、そのように書き始めた作中の空間が、いきなり鮮やかな虚構空間にパラフレーズしていく展開があったりして、そんな時はとても楽しく読めるのですが、文芸随筆めいたまま終わってしまった時は(私は、文芸的な随筆そのものはとても好きなのですが)、やはり少し不満足さが残ります。 たぶん小説とは何でもありだという持論をお持ちの筆者でしょうが、しかしこれを優れた小説手法だと評価する事はきっと筆者もしないだろう、などと思ってしまいます。 要するに本書は、大地震(と原発事故)のせいで最初の構成が吹っ飛んでしまった作品ではないのか、という事です。(だって、これでは戦後文学についてのエピソードがあまりに少なすぎませんか。) 雑誌連載終了から単行本出版まで6年かかっていることも、それを裏付けているように思います。(このあいだに、何とかしようと思われたのではなかったでしょうか。) あわせて、例えば本書のプロローグにはこんなことが書かれています。 大学院の学生が、近代日本文学者の名前をほとんど知らないというエピソードがあって、帯にあった「文学なんてもうありませんよ」というフレーズが書かれた後の部分です。 (略)ナツメソウセキもモリオウガイも、それから、アクタガワリュウノスケにシガナオヤが少々、それから一気に飛んで、現代の作家たち。「文学」なんかなくても、「小説」はある。そして、いまも読まれつつあるじゃないか。きみの生徒たちだって、みんな、読んでるしね。それの、どこが不都合なんだい? 明治の流行作家で、昭和になっても読まれたやつが、いったい何人いる。生まれてたちまち消え去る泡のような群小作家は、どの時代にもいる。残るのは数人、あとは雑魚。それが「文学」だろうと、「文学」でなかろうと、歴史の篩の機能はいつも同じさ。 そうじゃない。ぼくが問題にしているのは……なにより大切だと思えるのは……。 私は、この最後の行の答えが、あるいは、少なくともそれに至るアプローチの方法かアプローチそのものの描写が、本書には描かれるはずだったと考えます。きっと筆者は書くつもりであったと思います。 しかしそれは果たされることなく、本書の構成は、大きく形を変えてしまいました。 私はそのことを、とても残念ではないかと感じる読者であります。 (ただし、純文学というのはわりと融通無碍で、本書の伏線がひょっとして10年後の筆者の作品に描かれているなんてことは、まぁ、十分考えられるジャンルではありますが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.05.12
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『きみの鳥はうたえる』佐藤泰志(河出書房) 知人から紹介されて本書を読みました。 馬齢を重ねてくると、つまらないことにまで保守的になり、今まで読んだことがない作家の本を読むこともなんだか億劫になったりします。これは精神の老化以外の何ものでもなく、いかんなあと思いながらもつい手が出なかったりするので、そんなとき知人から勧められるというのはなかなか有り難いものです。 というわけで初めて読んだ作家でした。 しかし、本書の筆者は新進気鋭の作家ではなく、既に亡くなって三十年近くなる方です。ただ、ここ数年間に再評価が進んで、幾つかの小説が原作として映画化されたということでした。 なるほどと思ってちょっとネットを覗いてみるといろんな事が分かりました。 一時期村上春樹と並び称されたとあります。 確かに、同世代です。(両者とも1949年生まれです。学齢は村上春樹の方が一年上ですが。)前後して、両者とも何度か芥川賞候補になっています。そして、村上春樹の『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と同様、本書もいわゆる青年の新しいライフスタイルを描く「青春小説」であります。 実際私は途中まで読んでいて、確かに初期の村上春樹の作品に似ているなあと感じていました。しかし村上春樹がデビューした頃、この手の青春小説が、様々な若い作家によってぽろぽろと描かれていたのではなかったかと思い出しもしました。 なぜその頃一気にそんな小説が現れたかというと、私のバイアスの懸かった「歴史観」によりますと、原因は学生運動の終焉ではなかろうか、と。 そんな作品群の嚆矢は、これもわたくし的には、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』ではなかったかと思うのですが、村上龍ほどの刺激的な経験がなくってもみんなが俺も書くぞといろいろ書き出した、と。 数年前に直木賞を受賞した佐藤正午という作家も、そんな「出自」の方であったと記憶します。 では、本書が村上春樹に並ぶくらいの作品かと考えますと、取りあえず私はこの一冊を読んだだけですが、それだけでいえば、やはりそれはかなりひいき目だろうと思います。 同世代であることと、後似ているのは、何度か芥川賞の候補になりながら両者とも受賞し損ねたということがありますが、うーん、どうでしょうか、佐藤氏の場合は、本作では芥川賞は少し難しいんじゃないかなという感じが私はします。 一方、やはり芥川賞を逸した村上春樹の方ですが、村上春樹の芥川賞取り損ない「事件」については、その後の村上春樹の「大化け」から、芥川賞側の見る目のなさが一部取りざたされ、そのせいで幾つかの内部事情が明らかになっていますね。 『風の歌』については、村上氏が翻訳もしていたことから、外国文学からの影響(甚だしければ「剽窃」)が確認しきれなかったので見送った。『ピンボール』については、前作の方がよかったから、もう一度次作を待とうとしていたら、次に『羊をめぐる冒険』が出てしまって、芥川賞対象から外れてしまった(もはや芥川賞対象の中編小説ではなくなった)、と何かで読んだことがあります。 ……えっと、閑話休題、しますね。放っておくといつも「閑話」になってしまい、申し訳ありません。(まぁ、全話閑話のようなものではありますが……。) で、さて、村上春樹は上記に挙げたデビュー作と第2作を、レベル以下だとして長く外国語への翻訳を許可しませんでしたが(数年前に翻訳されたそうですが)、それは書いた本人だからいうことで、この2作は、何といいますか、とてもキュートで面白いです。(現美人の女性の十代の写真を見て、やっぱりかわいらしい十代を確認したような感じですかね。) それに比べますと本小説の欠陥は明らかで、少しきつくいえばストーリーが、これ、「破綻」していませんかね。 「破綻」は言い過ぎですか。でも終盤になってあんな事件を持ち出して、読んでいてわたくしは、なんといいますか、思わず「文学的誠実さを疑う」という感想を持ってしまいました。 それまでは、達者な書きぶりだなぁと思っていただけに、これは何かなーとかなり戸惑ってしまいました。 筆者は本作で芥川賞候補になって以降さらに数回候補になり、三島賞の候補にもなり、しかしすべて受賞までには至らず、41歳で自殺します。 ウィキペディアによりますと、十代から文才を謳われていたとあります。現在再評価が行われつつあるとはいえ、一種の「早熟の不幸」でありましょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.11.25
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『夢の木坂分岐点』筒井康隆(新潮文庫) 本作品は1987年に発表された作品で、この頃の筆者は、取り上げる作品のテーマが一気に深くなり、いわゆる「純文学」へ大きく傾斜した問題作を次々に発表なさっていました。(75年の『大いなる助走』あたりから始まって、『虚人たち』『虚航船団』『残像に口紅を』などですね。) 私はそんな作品群すべてを読んだわけではありませんが、幾つか読んだ一連の作品の中で、本作は頭一つ飛び抜けている作品だと思います。 発想、文章の技、描写力どれをとっても極めて高いオリジナリティと安定感を感じます。 しかし、にもかかわらず、読み終えた時にふと立ち止まって作品全体を思い返すと、何ともいいようのない「不毛感」のようなものを覚えます。 これは作品のテーマから来ているのでしょうか。 どーも、よく分かりません。 そもそも小説の作者というものは、自分の本が読まれる読者像をどのように考えているものなんでしょうか。 昔の、例えば明治時代の純文学作家なら、多分夏目漱石が現れるまで、ほぼ誰もそんなことは考えなかったと思います。いえ、漱石登場後も、そんなことを考えて作品を作るのは文学の堕落だと考えていた作家は山ほどいたように思います。 実は先日、私はある作家の講演会に行って来たんですが、その作家は、直木賞も受賞し、なかなかの人気の方でした。(講演会の後日、その作家の比較的最近の作品を図書館で借りようとしたら、二百人からの予約が入っていて驚きました。) その作家が講演の中で、どんな読者を想定するかについて語っていました。具体的イメージについては触れられてはいませんでしたが、とにかく一人の読者を想定して書くと語っていました。 では、その読者とは、いわゆる一般的な、遍くどこにでもいるような「読者」なんでしょうか。また、その「読者」は、その作家をあるいはその作家の作品を、どの様に感じて読んでいる「読者」なんでしょうか。 もしも本書の筆者もそんな「読者」を想定しているなら、その「読者」は筒井作品にどんなものを要求しているのでしょうか。 本書の終盤に、こんなことが書かれてあります。 主人公は(一応「主人公」です。と、断るのは、既に主人公そのものが極めて独創性の高い、そして「ややこしい」設定と展開になっているからですが。)五十代のベテランの小説家で、その彼の独白です。 妻は婦人雑誌の座談会に出るのだし娘はアシスタント・ガールとしてテレビに出るのだろう。そして冷蔵庫には食べるものが何ひとつないのだ。収入は管理職並みで支出は激しくおれは雑誌に名を連ねるバラエティの一部となってねずみの競走に巻きこまれ文壇制度の中でラディカルであることを義務づけられ制度としての言語に縛られたままでアナーキイであれと要求される。賤業作家だ。ひでえもんだ。やめた方がいい。 「読者」との関係でいえば「文壇制度の中でラディカルであることを義務づけられ制度としての言語に縛られたままでアナーキイであれと要求される」というあたりが、関係がありそうですね。(もっともこれは、小説の「主人公」の独白ですが。) ふっと話は飛んでしまうのですが、当たり前ながら、……そんなことは当たり前ではありますが、この「読者」は、大江健三郎が考える(大江氏も考えるとして)、自分の読者像とはかなり違っているでしょうね。(重ねて、当たり前ですが。) ……と、ここでいきなり私は結論に到達するのですが、筒井氏は、この純文学作家の代表のような大江健三郎とは異なる我が「読者」を想定しつつ、本作のような極めて高い文学性を追求する作品を目指した時、戦略としてこの「不毛性」を選択したのではなかったでしょうか。 それは、本来筆者が文学作品に求めている全き自由と、自らが、いや世界そのものが大きく異なっているという認識の帰結ではなかったでしょうか。 この大いなる「問題作」に、円満な「傑作感」がないことは、筆者の望むところであったのかも知れません。そしてそれは、ひょっとしたら、大江氏も、絶えずシンパシィを感じるような感覚なのかも知れません。 ただ私は、少しヘンな言い方になるのですが、大江氏の方に少し「地の利」を感じるものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.11.10
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『さよなら クリストファー・ロビン』高橋源一郎(新潮社) 本書には6つの小説が収録されています。すべて文芸雑誌「新潮」に掲載されましたが、その時期は、結果的にとても微妙なものになりました。本書の最後に初出一覧が載っていますが、ちょっと写して書いてみますね。 さよならクリストファー・ロビン 「新潮」2010年1月号 峠の我が家 「新潮」2011年1月号 星降る夜に 「新潮」2011年4月号 お伽草子 「新潮」2011年6月号 ダウンタウンへ繰り出そう 「新潮」2011年12月号 アトム 「新潮」2011年8月号 最後の2作が初出順と本書の掲載順が異なっていますね。 それを元の形に戻して、順番に考えてみます。 まず最初、2010年の1月に短編を一つ発表し、1年後にテーマに類似性のある短編を一つ書いた、ということですね。 この2作について、より強くまとまりがあるのは(それが筆者にとってよいことなのかは分かりませんが)、後者の作品だと思います。(前者のタイトルが書籍全体の総タイトルになっていますが、それは明らかにこちらの方が印象的だからですよね。とってもいいタイトルですね。私はエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリックロード」を連想しました。) とりあえず前者の小説は、登場人物たちが、自らが虚構内の存在であることに激しい虚無感を覚えそれに抗おうとするという作品、そして、後者の小説は、肉体の死と記憶の死をめぐるエピソードが書かれています。 どちらも筆者特有の、ポップな外観を装いながら、実は(かなりかなり)しっとりとした透明感ある哀愁に溢れた展開が、カウンター攻撃のようにいきなりせり上がってくるような作品です。 そして3つ目、その年の4月発表の短編も、多分その延長上にあると思われます。 元小説家の主人公が、ハローワークで「読む仕事」を紹介されて、様々な家庭でお話しを読むというものですが、例えばこんな仕事先が描かれます。 図書室には、たくさんの本があった。とりわけ、子ども向けの本が。ほとんどが、読んだことのないものばかりだ。その中から、「生まれてからずっと無菌室で暮らしてきた、末期の小児癌にかかっていて、心臓に先天的な奇形のある、すごくいい子」に合う本を選べというのだ。そんなことができる人間がいると思っているのか? ……といったよく似たテーマの作品を書いていたら、2011年3月、「あれ」が起こってしまったわけですね。 そして筆者は、私が知っている範囲の現存小説家の中では、かなり精力的に「あれ」について発信する仕事をなさってきた(今もなさっている)と思います。 本書の短編報告に戻りますが、4月に発表された後、とんとんとんと連続して12月まで隔月に掲載されています。上記にも触れましたが5つ目と6つ目が逆になっていますが、6つ目の短編は、確かに4つ目の短編に内容面と形式面において連続性があります。 そして、12月に発表された本書では5つ目の作品にこそ、最も「死」の影が見えます。「原発事故、津波をふくむ大震災」が最もイメージされやすい作品です。「死んだひと」が主人公で、こんな冒頭です。 死んだひとたちが、初めて、みんなの前に現れたのはいつのことだったのかは、誰も知らない。 最初のうちは、それが死んだひとだってことに気づかなかった、ともいわれている。でも、信じられないな。死んだひとの、あの、独特の感じに気づかない、なんてことがあるだろうか。 だから、おそらく、死んだひとたちが現れたとき、みんなは、自分だけの秘密にしたんじゃないかと思う。だって、誰だって、死んだひとを自分だけのものにしようと思うのが自然だからさ。 (引用文中の「死んだひと」の表記は原典の本書では、すべてゴシック体で書かれています。) 私がこの短編の、死者に対する名状しがたい親近感を読んですぐに頭に浮かんだのは、例えばいとうせいこうの『想像ラジオ』であり、その他一連の「大震災原発事故」文学(本当はそんな言い方があるのかどうか、寡聞にして私は知らないのですが)であったのは当然といえば当然でしょう。 筆者が、事故が起こる前から書き始めていた人の存在の意味、記憶の意味、忘れること、そして肉体の死などの要素が、強烈なインパクトを持つ現実体験を挟んで、一気にカタストロフの後を生きるという形で、また思いがけなくも、纏まったのかなと思います。 本書は2012年の谷崎潤一郎賞の受賞作品になりました。 これも、少し前に近未来の世界を描いた小説を読んだ時に感じたのですが、今さらながら私たちは既にもう、カタストロフの後、息苦しいディストピアの中に生きて久しいのかも知れません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.07.22
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『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹(講談社) 今回はちょっと、最初になぜこの本を選んだかを書いてみます。 そもそもは評論家の関川夏央が、私の読んだ二冊の本の中で共に高野悦子に触れていたことです。 この高野悦子とは、もう今となっては昔、1969年に二十歳で自殺をし、その後親族が彼女が残した日記を出版したらベストセラーになった『二十歳の原点』の作者高野悦子のことです。 実は以前にも私は、本ブログで確か『赤頭巾ちゃん気をつけて』を取り上げた時に上記の関川夏央の一冊に触れました。その高野悦子を取り上げた個所が、なかなかいい文章だったんですね。 今回読んでいた本にもまた高野が取り上げられ、そしてそれも感情の籠もったいい文章でした。 そこで私は、二回も取り上げた関川を少々訝りながらも気になっていたら、たまたま図書館にあったので『二十歳の原点』を借りて読んでみました。 私もかつて、たぶん二十歳前後の頃に読んだ本です。でもその時ははっきり言って、部分的には興味深く読みながらもトータルとしては一過性のベストセラーという感じが、たぶんしました。(だからその時読んだ『二十歳の原点』は買ったのですが、今わが家にはありません。) ところが今回読んでみると、何というか、いいんですね。 なんか読んだ後、柄にもなく心がざわざわするんですね。この心のざわざわは何だろうかと考えたんですが、これはやはり感動というものだろう、と。 そこで高野悦子『二十歳の原点』についてちょっとネットで調べてみました。 すると幾つかのことが分かったんですが、思いがけなく今でも『二十歳の原点』は一部で根強い人気があることを知りました。 そして、そんなページを幾つか覗いていたら、やはり関川夏央が出てくるではありませんか。 で、ああそうかぁ、と私は分かったんですね。 つまり、彼の高野悦子への強いシンパシィの理由が。 彼等は同年生まれでありました。(学年は一つ違います。) 後の話が早いので、3人の生年月日をまず並べてみますね。 高野悦子→1949.1.2 村上春樹→1949.1.12 関川夏央→1949.11.25 ……えー、さて、ここになぜいきなり村上春樹が出てくるかと言いますと、もちろん今回取り上げた作品の著者だからですが、そしてそもそもこの文章はこの方に繋いで行くために書いているのですが、これはやはり上記のネットのあるページに、お二人の同級生の指摘があったせいです。 とまれ、そういうわけで改めて関川夏央の高野悦子に触れた文章を読んでみました。 以下に上げた部分はその文章の末尾のところだけですが、こんな風に書いてあります。 六〇年代末、時代の空気には、彼女に限らず、誠実な青年に過剰適応を強いる悪意が潜んでいた。いたましい、とつぶやくのみである。(『本読みの虫干し』岩波新書) 「いたましい」も気になる表現ですが、その表現の真意をさらに知りたい箇所として「誠実な青年に過剰適応を強いる悪意」があります。 なるほど、高野悦子は時代の潮流に過剰適応を強いられたのか、そこのところを少し斜に構えられたらそうならずにすんだのか、ではそうならずに済んだ他の同時代人は何をどう表現したのか、と繋いでいった結果浮かんだのが村上春樹(高野とわずか10日違いの誕生日!)、そして冒頭の短編集だったという経緯であります。 というのが、……えー、本書に至った経緯なんですが、……でも、あー、はっきり言いまして、これはミスチョイスだった気がします。 村上春樹の本書にはどうも時代が青年に過剰適応を強いる悪意は描かれていない(もちろん、全く描かれていないとは思わないのですが)と感じました。(かつてあの時代、セックスは山火事のようにタダだったとかが書いてありますがー。) ではその代わりにあるものは何かといいますと、様々な現代人の「病み方」であると思います。 この短編集の主人公たちは様々な状況下で様々な原因で病んでいます。筆者はその姿を都会的にシャープに綴っているのですが、うーん、どうでしょうか……、私には少し設定の安易さ(みんなヤング・エグゼクティブみたいな方のアーバンライフの話です。バブル期直前はこんなのが流行りだったんでしょうが。)と深みにかける感がしました。 村上春樹の初期の短編集といえば、ほとんど奇蹟的に完成度が高い『中国行きのスロウ・ボート』が本作に先行してありますが、私としてはなんだかちょっと退行した作品群のように感じたのが少し残念でした。 以上です。あと言わずもがなのことを追記しますが、本年度のノーベル文学賞をカズオ・イシグロ氏が受賞したことで、村上春樹の同賞受賞は近づいたのですかね。スルーになったってことは、ないんでしょうかね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.11.25
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『日本文学盛衰史』高橋源一郎(講談社文庫) 今年もいよいよ終盤になり、漱石イヤー2年目も終わろうとしている、そのせいでもありませんが、なんとなく漱石関係の文芸批評をあれこれつまみ食いをしながら読みました。(ところで次回の漱石イヤーは、やはり約50年後なんでしょうかね。なんか少し寂しい気がしますね。……べつにしませんか。) 読んでいたのは本ブログに取り上げた作品以外に、小谷野敦、石原千秋、関川夏央といった方々の文章を集中的につまみ食いしました。 しかし実際、世界は平和や経済について混迷の度合いをますます深める21世紀前半に、こういった文芸評論のたぐいを続けて読むと、非現実的な気分をはるかに通り越して、なにかアブノーマル、変態的な思考のような気がします。 世間に背を向けて生きるのもなかなか大変なことです。はは。 さて、その「仕上げ」が本書です。講談社文庫658ページであります。再読です。 ……うーん、しかしこれは、いかにも長い。この著者には類似テーマの『官能小説家』とか『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』とか、これまたやたらと長い作品がありましたが、今回も長い。2回目読んでもやっぱり長すぎる。 作者も相当疲れていると思われますが、それもそのはずで、そもそもが文学なんていう「結論」の出るはずもないテーマをずっと考え続けるわけですから(それに高橋源一郎という方は、私生活についてはそうなのかどうかは存じませんが《クグるとなかなか興味深そうな私生活がいろいろ書かれてありましたが》、こと文学に関してはとても真面目な方です)、疲れるはずでそれが高橋作品の中の例の「ナンセンス」になるんじゃないかと思います。 例の「ナンセンス」とは例えば本書で言うと、二葉亭四迷の葬式で夏目漱石が森鴎外に「たまごっち」をねだるなんて場面のことです。 わたくし思うに、これは手塚治虫漫画の中の「ひょうたんつぎ」や「オムカエデゴンス」ってヤツですね。作品内の真面目圧力がかなり高まった時の「ベント」ですね。(「ベント」って言い方は少しよくないですかね。例の原子力発電所事故で人口に膾炙した用語ですものね。) (さらに少しだけ付け加えますが、えらいもので本書は1997年から書き始められ2001年に刊行された作品ですが、真面目に語った部分は全く古びていないにもかかわらず、こういった「ナンセンス」部は無残なくらいに古びています。他の「ナンセンス」部分も大同小異で、ひょっとした筆者の「ナンセンス」センスは、あまりよくないんじゃないかしら……。) しかし、田山花袋がAV監督になるというエピソードは「ベント」ではありません。 実は私は、この長い小説の中で、田山花袋と漱石の『こころ』の2つのエピソードが印象に残りました。この2つを少しだけ以下に紹介してみます。 花袋がAV監督になるというのは、花袋の自然主義についての信条「露骨なる描写」の敷衍を真剣に考えた結果なんですね。 そもそも高橋源一郎はAVへの文学的興味を描いた作品が他にありますが、花袋の『蒲団』の主人公の女弟子に対する感情を徹底的に「露骨なる描写」していくと、行きつくところは人間の考えうるあらゆる性的嗜好何でもありのAVに到達することは、まぁ、当然といえば当然であります。 ただそこに広がるものは不毛以外の何物でもなく、寓話としてはとても興味深く読むことができましたが、得たものは殺風景なものでしかなかったのが少し残念でした。 もうひとつの漱石『こころ』のエピソードですが、これはなかなか巧妙に書かれています。 なんでもありーの高橋源一郎ですから、最初は小説ではなくて文芸評論的に展開していきます。このエピソードは文庫60ページくらいの分量がありますが、冒頭から半分くらいまでが文芸評論的に進んでゆき、そこから小説描写がカットバックされて最後は二人の有名な文学者による会話描写で終わっています。 このエピソードで筆者が述べているのは、『こころ』の「K」のモデルは誰であったかということ、もうひとつは「K」の意味であります。 まず「K」のモデルですが、筆者は石川啄木がそうだと書いています。この結論に至るプロセスはなかなか興味深く、また本書には啄木の姿が様々なエピソードに点在していて、それなりの説得力を持ちます。 そして「K」の意味ですが、筆者はこれを『こころ』の不思議な伏線から説き起こします。『こころ』の不思議な伏線とは、作品冒頭のこの部分です。 私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じをもっていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚がありませんね。人違じゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。 筆者は、ここの伏線は作品の中でまったく回収されていないと指摘するんですね。そしてこの「極度に思わせぶりの書き方」の原因は何かと探っていくのが、このエピソードの眼目です。 ここを読みながら私は思い出したのですが、我が家に『漱石の実験』松元寛(朝文社)という本があるのですが、なぜこの本があるのか忘れていたのですが、この高橋作品で触れられてあったのでたぶんネットで買ったのでした。 それは、思わずネットで注文してしまうスリリングな展開でありました。 (松元氏の本についても少しだけ書きますと、例えば『こころ』の「先生」の自殺理由がよくわからないのは、「先生」が「私(青年)」に本当の自殺の原因を隠しながら遺書を書いたからだと喝破するというとても興味深い内容でした。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.11.11
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『旅のラゴス』筒井康隆(新潮文庫) じわじわととっても人気の小説であるらしい、とどこでだったか聞きました。 なるほど、アマゾンのレビューの数を見ますと、他の筒井作品のレビュー数より完全に頭一つ飛び抜けて多いですね。こんな数値になっています。 『旅のラゴス』→169 『パプリカ』→44 『家族八景』→70 『ビアンカ・オーバースタディ』→67 『時をかける少女』→72 『ロートレック荘殺人事件』→74 筒井作品の中からレビュー数の多いのを挙げてみましたが(これ以外のレビュー数はだいたい10~20くらいです)、第2位の『ロートレック~』をダブルスコアに、さらに上回っています。すごいですね。 レビュー数が多いということはやはり人気のある作品ということですよね。でも、なぜこんなに人気なんでしょうか。 私も一読すぐに、とても筒井作品とは思えぬ落ち着いた涼やかな展開と文体(描写)であることに驚きました。 この筆者はこんな作品も書けるのだと、少々失礼ながら呆れるように感じたんですね。 だって筒井康隆といえばスラップスティックが自他共に認める(とたぶん思うのですが)売り物じゃないですか。 筒井作品といえばこれ、とも言えるどこかキレた人物が今回は登場してきません。 また、筒井作品に様々に見え隠れしつつ漂っている「下品さ」が感じられません。 これは何? 筆者のキャリアの中のそんな特殊な時期なの? それとも時代の影響? と思いながらちょこちょこと調べてみました。まず筆者のキャリアです。 本作は1986年に作られた作品ですが、本作の前後十年ほどは筆者絶好調の時期ではありませんか。まさに筆者を華々しく現代日本文学の最前線に一気呵成に祭り上げたような作品群が、立て続けに書かれた時期です。少し年譜を追ってみますとこんな感じ。 1975年(41歳)『大いなる助走』 1978年(44歳)『虚人たち』 1984年(50歳)『虚航船団』 1987年(53歳)『夢の木坂分岐点』 1989年(55歳)『残像に口紅を』 1992年(58歳)『朝のガスパール』 ……うーん、どうですか。ほれぼれしてしまう名作意欲作問題作の山脈ではありませんか。 筆者の年齢も働き盛り、筆の一番乗ってくる40~50代で、火山の噴火の如く次から次へ駈け上がる充実した仕事ぶりが見事であります。 しかしこうして前後の作品を列挙して見比べますと、むしろ本作は、地味で目立たないちょっとインターバルめいた作品のように感じてしまいそうですよね。……ふーむ。 (閑話ながら、このほとんど直後に筆者に大きな人生上の試練が訪れるんですよねー。1993年から3年間に及んだ「断筆宣言」、まさに「好事魔多し」の言葉通りでありました。) などと思いながら、もう一度本作の読後感想を丁寧に振り返ってみますと、どうもかつて同じような感覚をした「何か」に思い至りました。その「何か」とは何だったのか。 少し考えましたが思い出しました。 パソコンのRPGゲームです。 そんなに「嵌った」というほどではありませんが、かつて私も、一応人並みにそんなゲームを経験しました。あれはいつ頃のことであったか……。 ……わかりました。 1986年『ドラゴンクエスト』第一作発売 1987年『ファイナルファンタジー』第一作発売 ど真ん中にこの時代ではありませんか。そして確かに『旅のラゴス』の読後感は、上質のRPGゲームをクリアしたときの満足感に近いものがあると感じます。 ……うーん、これだったのか。……。 さて冒頭に書いた本小説の人気ですが、さらに詳しく調べますと、どうも男性に人気だといいます。なるほど、さもありなん。 RPGゲーム感覚、ロードムービー的展開、(『フーテンの寅さん』イメージでもいいですね)そして主人公が様々な困難を経験して成長していく様は、本書をビルドゥングスロマン(教養小説)として読むことも可能にし、それはまさしく男性に人気の小説の王道であります。 実は私はかつて、井伏鱒二の小説を読んだときに考えたことですが、日本には成人男性がしっかり読める小説がないのではないか、と。(井伏作品はそうであるという論旨ですね。) だから仕方なく(「仕方なく」は失礼ですが)、成人男性は時代小説を読むのだと、そんな分析したことがありました。 というわけで本書はうわさ通り、男性読者の一番人気小説です。 なるほど、とても面白かったです。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.07.12
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) 前回の続きです。 前回は、冒頭の村上春樹大長編小説を読んだ後に下記の本を読んだらとっても面白かったという話をしていました。 『みみずくは黄昏に飛びたつ』村上春樹・川上未映子(新潮社) いろいろ面白いところは一杯あったのですが、特に興味深かったのが、冒頭の小説を書いている時の筆者のリアルタイムの思考について語られた部分でありました。 ちょっとそのあたりをまとめてみたいと思います。 まず村上はインタビュー中再三このように言っています。 「それが何を意味するとか、いちいち考えている余地はない」 「頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くもなんともない。」 村上はノープランで小説を書きあげると言っているわけですね。それに対して、これは我々の共通の疑問であると思うのですが、そのような作り方だと作品としての脈絡がなくなってしまわないかと、インタビュアーの川上が食い下がります。すると、こんなふうに村上は答えます。 (略)だから、小説が……僕はとにかくプログラム無し、プラン無しで話をかいていくわけだけど、その暗がりの中で自分が何をつかめばいいのか、何をつかんじゃいけないのか、そういうことはだいたいわかるんです。僕に小説家としての才能がどれくらいあるかとか、そういうことはまったくわからないけれど、そういう能力とかがある程度自分にあるということは感じるんです。 どうですか。 少なくとも私は、ここ数作前からの村上作品に対する私の個人的なもやもや感が(それがあっても村上作品は好きなのですが)、一気に晴れたような気がしました。 そして、後二つだけ付け加えたい(付け加えたいといっても、上記の内容とこの二つは、村上春樹の中ではたぶん同等の重みだろうと思いますが)ことがあります。その2つ目3つ目はこんな感じのことです。 2.村上春樹が書こうとしていることは「近代的自我」ではないという事。 3.村上春樹が小説で最も大切にしていることは文体(文章のリズム)であるという事。 まず「2」については、家の例え話があって、地下一階は「近代的自我」の階で、多くの小説家はこの階で止まった話を書いている、日本文学史に出てくる明治以降のほとんどの作品もそうであると述べています。 しかし村上が目指すのは、そこよりもうひとつ下の階である、と。 その地下二階にあるのは、例えば自分の中の闇であったり、世界や宇宙と響き合うものであったり、古代から連綿と続く集合的無意識であったりします。もちろんそれらには、簡単に理解できるような意味や整合性はありません。だからこそ、村上はそれをできる限りそのままの形で、一つの物語のまとまりとして読者に提出するのだと説くわけです。 そしてそのことを保証するのが、「3」の文体の力である、と。 村上はこんな風に書いています。 で、そこで何より大事なのは語り口、小説でいえば文体です。信頼感とか、親しみとか、そういうものを生み出すのは、多くの場合語り口です。語り口、文体が人を引きつけなければ、物語は成り立たない。内容ももちろん大事だけど、まず語り口に魅力がなければ、人は耳を傾けてくれません。僕はだから、ボイス、スタイル、語り口ってものすごく大事にします。(略) どうですか。この3点の解説があれば、一応近年の村上作品について、面白がるかどうかはともかく、納得はできそうに私は思います。 さて、冒頭の作品についての読書報告をするスペースがなくなってきたのですが、前回の報告の冒頭で、第2部の中盤あたりまではとにかく一気呵成に読んだという事を書きました。 しかしなぜ最後までそれが続かなかったのかについて、上記にインタビュー本の3つのまとめとして私が挙げた項目になぞれば、とにかく2つ目3つ目の小説的な結実は大いに堪能した、と。でも1つ目の「暗がりの中で自分が何をつかめばいいのか」ということについては、その物語の塊りは、少し私のイメージとは違っていると感じたということでありましょうか。 もちろんこれは、私という一読者の勝手な、しかしすべての読者が自由に抱いていいはずの「感想」でありますが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.05.14
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) この度の村上春樹の大長編はわたくし、出版されて比較的早く買いました。 振り返ってみれば、村上春樹作品を出版されるやすぐに買っていたのは、たぶん『ダンス・ダンス…』あたりまでだったと思います。 下記にもありますがやはり村上作品は私にとってフェイヴァレットでありますゆえ、買うか買わないかというとまず買うだろうなと自分ではわかっている書籍ではありますが、何といいますか、村上作品の新作発表が「社会的事件」みたいになるに及んで、やはりちょっと引いてしまったのですね。 だから結局『スプートニク…』と『海辺のカフカ』は、ハードカバーではなく文庫本でしか持っていません。(でもそれは、文庫になるまで読まなかったのではなくて、買う前につい友人に借りたり図書館で借りて読んでしまったんですね、心ならずも。) ということで「本体」の2冊は割とすぐに購入したものの、少しの間読まずに放ったらかしにしてありました。 そしてこの度、えいやっと読み始めたのですが、……うーん、やはり面白かったですねぇ。特に第1部は一気呵成で読んでしまって、第2部の終盤だけ少したゆたってしまいました。その訳も後で考えてみたいと思います。 ところで、本作を読み始める前、4月の初め頃に新聞に村上春樹のインタビュー記事が載っていました。割と興味深いことが書いてありましたが、その記事のヘッドコピーがこの二つでした。 「物語の力信じている」 「再生につなげたいという思い強く」 その時私はまだ本作を読んでいなかったので、あ、そうなんだ、そんな風に作者が考えている作品なんだ、くらいの気持ちを持ちました。 そしてこの度、本書を読み終えて、さらに最近めったに行かないリアル本屋さんにたまたま時間つぶしで行ったら下記の本が平積みされていたので、そのまま買ってしまいました。 買った時に私はちょうど本書の第2部の真ん中あたりを読んでいまして、とても面白いあたりだったので、あれこれ考えずそれこそすっと手が伸びて買ってしまったんですね。この本です。 『みみずくは黄昏に飛びたつ』村上春樹・川上未映子(新潮社) そして冒頭の本書2冊読了後まだその余韻冷めやらぬ頃に読み始めると、とにかくこのインタビュー本はめちゃめちゃやたらと面白いではありませんか。 あれよあれよとこの本も読み終えてしまいました。 というのも、この本には村上春樹が本書を書いていた時のリアルタイム・ドキュメントが書かれてあります。もちろんそれは結局村上自身が語った言葉ですから、本当の本当にドキュメントかどうかは判断次第でもありましょうが、しかしそれでもとっても面白かったです。(しかしそれによって私は、上記の新聞記事の見出しの二つ目は、たぶん新聞記者がいかにも新聞記事的にまとめたコピーだなという事が分かりました。) あまりに興味深いので、こちらのほうの報告からちょっと書いてみます。 私も同様ですが、村上春樹の「創作秘話」についてもっと知りたいのはこういうところです。川上はこのように発言します。 ――(略)たとえば村上さんは「物語にはうなぎが必要」であり、「困ったら、うなぎに相談する」と常々おっしゃっているんですが、最初にそれを読んだとき、「ほんとは全部わかって書いているのに、またうなぎとか言ってる! 何も決めないで、あんな小説書けるわけないじゃん!」とか思ったりしたこともあったんですけれど(笑)、違うんですね。村上さんは、本当にうなぎに相談しているのかもしれない。率直で、これは驚くべきことだと思いますよ。 この発言が述べている疑問と、それにちゃんと答えようとしない(としか取りあえず理解できない)村上への不満は、たぶん以前より多くの読者に共通していたことだと思います。 でも、どうやらそうでもなさそうだという事が、このインタビュー本には書いてあったということです。 ……という風に書くと、なかなか興味深いでしょ。 つまり、「うなぎに相談する」という意味が、まー、書かれているといえば書かれているわけですね。 ちょっとついでの話になるのですが、上記の川上発言に対して村上春樹は、その直後には、やはりはぐらかしたようなこんな答え方をしています。 村上・うーん、褒めてもらえるのは嬉しいですけど、でもねえ、僕自身はずっと、世間から嫌われていると思って生きてきたんです。 ね。ちょっとかみ合っていないですよね。うなぎに相談するとこれが正しい文脈なのかもしれませんが、やはり村上春樹的はぐらかしを感じるところでありますね。 という面白いところですが、……えーっと、次回に続きます。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.05.07
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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上下)村上春樹(新潮文庫) エクセルの読書メモを見ていたら、私は本作を今回を含め3回読んだことがわかります。(1回目なんか、刊行されてすぐに買って2日で読んだと書いてあります。村上春樹のファンだったんですね。) しかし今回の読書を含め、どーも、もひとつ、本作は好きになり切れません。 というか今回読みだしたのも、以前よりそんなイメージを持っていたものだから、本当にそうだったのかと思い立って、本当に久しぶりに本書の3回目の読書にチャレンジしたわけです。 という部分をもう少し丁寧に述べますと、そもそも本作は、今に至る全村上作品の中でも、かなり高い評価を幅広く得た作品であると同時に、にもかかわらず私のような感じ方をし、村上作品の中では苦手な一作といっている読者が少なからずいることを、なんとなく知っていたからであります。 それで読み直してみました、ということですが……。 ……うーん、やっぱり重苦しいですねー。うっとおしい。関西弁で言うと、辛気臭い。(「辛気臭い」ってのは、関西弁であっているのかな。) この感じは、カフカっぽいんですかね。いえカフカについては、わたくし入門的な2作くらいしか読んでいないので(『変身』『審判』ですかね)、実はよく知らないのですが、でも、「ハードボイルド…」章の不条理さはあきらかに『審判』のような感じがします。 さて本作に戻って、この「辛気臭さ」はいったいどこから来るのかというと、すぐに誰でも思いつくのは「世界の終わり」の章の、なんというか内容、描写、「世界観」、ですよね。今回は、その辺を中心にぐずぐず辛気臭く考えてみたいと思います。 奇数章と偶数章が異なる内容を描くというのは、まさに村上春樹の自家薬籠中の展開方法ですが、本作も同様であり、そして「世界の終り」を描くのは偶数章となっています。 しかし、詳しくチェックしたわけではありませんが、一応交互に描かれてはいますが、分量的には奇数章の「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうが多いようですね。これは、この書き方の最初の小説であった『1973年のピンボール』における、「鼠」の章と「僕」の章の分量関係と相似だと思います。 やはり、セリフが少なく改行が少なく地味に描写を書き込むと、1ページがびっしりと文字だらけになるのに反比例してページ数は少なくなるようですね。 さてそんな「世界の終わり」の章ですが、一方の「ハードボイルド…」との関係については、作品の中盤あたりでわりと早々に種明かしがなされます。 しかしそこに至る前からでも、いくつかのキーワード、例えば「一角獣」や「世界の終り」という言葉の用いられ方から、読者は何となくそんな感じじゃないかという想像が付くように書かれています。 ということは、小説作品に読者を引き込む極めて有効な要素である「謎の設定」で引っ張っていくというやり方が、そのあたりでできなくなってしまいます。 ではその次に出てくる読者を惹きつける要素はといえば、今度はその世界からいかにして脱出するかという冒険小説的なプロットとなるはずでしょうが、しかしそれについても、本作はほぼ描かれることがありません。(終盤に少し現れるだけです。) ではこの偶数章は、読者は何を魅力に感じて読み進めるのでしょうか。 それは結局のところ、唯一残されている、そもそもその世界はどんな世界なのかという「世界観」の謎解きだけとなります。 ところがさあ、これが根本的に「辛気臭い」わけですね。 秋が去ってしまうとそのあとには暫定的な空白がやってきた。秋でもなく冬でもない奇妙にしんとした空白だった。獣の体を包む黄金色は徐々にその輝きを失い、まるで漂白されたような白味を増して、冬の到来の近いことを人々に告げていた。あらゆる生物とあらゆる事象が、凍りつく季節にそなえて首をすくめ、その体をこわばらせていた。冬の予感が目には見えない膜のように街を覆っていた。風の音や草木のそよぎや、夜の静けさや人々の立てる靴音さえもが何かしらの暗示を含んだように重くよそよそしくなり、秋にはやさしく心地良く感じられた中洲の水音も、もう僕の心を慰めてはくれなかった。何もかもが自らの存在を守り維持するために殻をしっかりと閉ざし、ある種の完結性を帯びはじめていた。かれらにとって冬は他のどんな季節とも違う特殊な季節なのだ。鳥たちの声も短かく鋭くなり、ときおりの彼らの羽ばたきだけがその冷ややかな空白を揺さぶった。 この引用個所は、上巻の2/3くらいのところに出てくる冬がやってくる場面ですが、ここ以降作品の終わりまで「世界の終わり」の章はこの重苦しい描写で描かれる冬の季節を背景に進んでいきます。 一方この重たいトーンは、「世界の終わり」の世界に極めて静謐な雰囲気も作り出しています。 それはこの世界が、進歩も後退もなくトラブルもなければサプライズもなく、悲しみもない代わりに歓喜もやってこないことを極めて象徴的に表しています。 そういう意味では優れた描写なんでしょうが、どうでしょうか、読む側にとっては少々苦しい感じがする気がします。 ということで、結局私は3回目の読書においても本作に苦手感は残ったままでありました。 何かの本で村上春樹が、小説内になぜセックスと暴力を書くのか(村上春樹の描く長編小説にはほぼこの2要素が含まれています。デビュー作『風の歌を聴け』には、セックスと死の描かれていない「鼠」の小説を高く評価するというエピソードが書かれてあったのに。)と問われて、それによって読者の感覚にある種の揺さぶりをかけるためと答えていました。 本作にはセックスはほぼ描かれていませんが(『ノルウェイの森』以降ですかね、セックスが前面に取り上げられるのは)、暴力については、大きな描写ではありませんが何か所か極めて効果的に印象に残る形で描かれています。 実はこの村上が描くところの「暴力」もかなり苦手で(代表的なのは『ねじまき鳥…』の「皮剥ぎボリス」のところでしょう。)、そのせいで『ねじまき鳥…』も、私は3回目の読書ができないでいます。(2回読んだことは冒頭に書いたエクセル読書メモで同じように知りました。) 最後に、もちろん読んでいて感心したところもいっぱいありました。 何より、村上春樹が本当に一生懸命に自分の持っているものをすべて出し切るようにして様々な場面をがっちりと描き、ストーリーを次々と紡ぎ出していることが、読んでいてひしひしとわかるのは、ほぼ感動という言葉で表すことのできるものだったと思います。 だからこそ苦手感が……いえ、少々、残念でありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.12.18
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『巨船ベラス・レトラス』筒井康隆(文芸春秋) 先日、作家の小川洋子さんの講演会に行ってきました。(厳密に言いますと講演会ではなく、「小川洋子さんと語る会」で、小川さんがまとまった時間一人で聴衆に語りかける会ではありませんでしたが。) その会で、小川さんの出版したいろんな分野の科学者との対談の本が話題に取り上げられ、小川さんは、対談の時間中私はとても楽しかった、とっても素晴らしい時間を持てたと述べられました。 そしてその理由について、一流の科学者のみなさんが同様にお持ちである自然や真理に対する敬虔さについて強く指摘なさっていました。 なるほど、うろ覚えの記憶で申し訳ないのですが、万有引力の法則をはじめ自然科学界で様々な業績を残したあのアイザック・ニュートンでさえ、「私は自然界の真理を解き明かしたりなどしてはいない。自然界という広い渚の波打ち際で、波と戯れていただけである」みたいなことを、確か……、えーっと、確か、言っていませんでしたかねぇ。 ……毎度出所不明な文章ばかり書いてすみません。 しかし、そんな「敬虔」なんて言葉を、落ち着いたしっとりとした感じの小川洋子さんが口に出されますと、なんかはっと心撃たれるものがあって、以来わたくしの心に「敬虔」というキーワードは、暖かい温もりを放ちながら残っております。 ところで、上記に私は小川氏のことを「落ち着いたしっとりとした」と書きましたが、実際のところ小川氏の人となりが本当にしっとりと落ち着いた感じの方かどうか、わたくしは全く存じ上げません。しかし、まー、普通小説のひとつも書こうという方は、外見の印象はともかく、そんなにしっとりしたり落ち着いていたりはなかなかしていらっしゃらないんじゃないかと、こっそり推測するばかりなんですがー。……。 さてここに、冒頭に挙げた筒井康隆氏の「文壇小説」(といっていいのかよくわかりませんが)があります。登場人物はことごとく上記に挙げたエピソードの「敬虔」の対極に位置する人物ばかりです。それはもちろん、作者がそう書いているからであります。 一時期、わりと丁寧に筒井作品を追いかけて読んだことがありましたが、最近はほぼ新作を読んでいませんので、この作品が、今に至って続いている作者の長い執筆活動期間の中で、どんな位置づけなのかまったくわかりませんが、なんといいますか、なんでこんなの書くのかなというのが、正直なところ初読感想でありました。 ただ、そんな感想と共に、筆者がひたすら追求しているものの存在と、その存在=目的のためにのみすべての表現活動は捧げられるというような、思いがけない筆者の(いおうと思えばそうもいえそうな)「敬虔」さも、この度は、同時に感じるのでありました。 ではその対象とは何かと考えますと、それは「小説の全き自由と永遠の可能性」というテーマではないか、と。 実は多くの小説家(ほとんどの小説家)は、小説を執筆しながら小説以外のものをテーマとしています。そのテーマは、例えば人間であったり、生きるということであったり、また、社会や、人類、国家、神、など様々なものです。 一方読む側の我々にしても、感動したっ! と強く思うその感動は、その小説が人生なり人間を描いているからという理由がほとんどで、「この小説の存在そのものに感動した!」というのは、まー、ないとは言いませんが、極めてレアなケースでしょう。 それは小説だけでなく、純粋に音楽がテーマの音楽とか、絵画がテーマの絵画だとかは(そんなものがあるとして)、たとえそこに優れた結実があっても、人はなかなか感動までには至らないというのが実際ではないでしょうか。(テクニックとか実験とかにはそんな側面が確かにあります。) ところが、ここにある筒井康隆氏の小説であります。 実は私はこの冒頭の小説の前にも、筒井氏の『邪眼鳥』という小説を読んだのですが(こちらの方が私はできがいいと思ったのですが)、またしても何とも感想の述べにくい小説で、2冊連続して筒井作品を読んだ私は迷い悩んだあげく、畢竟これは小説自身がテーマの小説だなというところに落ち着いたのであります。 だから登場人物の男性がことごとく女と金と権力にしか関心のない下品な人格であっても、女性が絶世の美女ばかりであっても、それはそれでよく、小説世界の新たな可能性の広がりがそこにもたらされたら、その小説は完成(成功)である、と。 ……また話題は少々飛ぶんですがー、……少し前にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊教授が、受賞時のインタビューで、先生の業績は何の役に立つのですかというはなはだ「下品」な質問に対して、「すぐに何かの役に立つということはない、ただ人類の知の地平を広げただけだ」とお答えになりました。 それをテレビで見ていたわたくしは大いに納得したのですが、それと同様の理解ができるものか見当のつかない所も少しありながら、筒井氏のこれらの小説群とはまさに、小説の可能性の地平を広げるためなら作品の感動など屁とも思わないという、世の中にまれに見る「純粋小説」ではありませんか。 冒頭わたくしは、小説家に「敬虔」は似合わないとばかりの暴論を展開しましたが、なんのなんの、ここに実に敬虔な「小説教ファンダメンタリスト」(すべてを小説の可能性のために奉仕する主義)の筒井康隆氏を、思わず発見したのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.06.15
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『村上さんのところ』村上春樹(新潮社) ……えっと、これはアリなのか、という気は、まぁ、自分でもしとりますがー。 改めて記すまでもなく我がブログのコンセプトは(と振り返ってみれば、それについても長く記していないことに気づくのですが)、高等学校で学ぶ近代日本文学史教科書に取り上げられているレベルとジャンル(ジャンルというのは、ぶっちゃけて申しますと「純文学」というカビの生えたような言葉のことですが)の小説家の作品を(そんなメジャーな小説家の、できたらマイナーな作品を)、もっぱらの報告対象とすると、まぁ、自分で勝手に決めて、そして始めたんですね。 ところがその範囲が、いつの間にかずるずるとパンツのゴムの如く伸び広がって、とうとう今回は人生相談であります。 ……ははは。……まぁ、いいか。 というわけで人生相談、というか他人の相談事というものは、特に調べたわけではありませんがたぶん古今東西、けっこう人々が見聞きしたがるものでありましょうなぁ。 私が知っている範囲で思い出しても、古くはラジオで人生相談をする番組がありました。子供専用の相談番組なんかもありましたね。わりと人気だったように思います。 活字で思い出しても、いろんな週刊誌や新聞なんかが人生相談のページを作っていたと思い出しますし(確か『少年マガジン』にもあったのじゃなかったかしら)、わたくし、最近の雑誌については全くと言っていいほど何も知らないんですが、今でもそうなんじゃないんですか? 違うのかな? そして、そんな連載がそのまま本になったりなんかしました。 私がかつて、結構読んでいたのは中島らもの人生相談でしたね。 『明るい悩み相談室』のシリーズであります。 振り返ってみれば、あれは、何がそんなにおもしろかったのでしょうね。 ごそごそと本棚を探しましたらありました。 ぱらぱらとページを紐解いたのですが、なるほどね、韜晦・虚構・無意味、みたいな言葉でまとめられそうな人生相談であります。 なるほど、人生相談も進化しているのか、と。 そして、その進化した人生相談の一角を現在担っているのが村上春樹であるのか、と。 現在における進化した人生相談人気(そんなものがあるとしてですが)の秘密は、昔から言われている「他人の不幸は蜜の味」をソフィスティケートしたものに加え(昔の人生相談ははるかにストレートでしたよね)、人生の虚構化・無意味化のフィクション性にある、と。 でもよく読んでいけば、ふーむ、と考え込むようなことが、やはり書いてあります。 例えば、妊娠5か月の検診に行った時、医者からお腹の胎児がすでに死んでいる事を告げられたという女性への回答に村上春樹はこんな風に書いています。 お気の毒です。とても悲しかったと思います。どうかその悲しみを抱えて生きていってください。それも生きる大事な意味のひとつだと僕は思います。「悲しいことは早く忘れた方がいいよ」と言う人もいるでしょうが、悲しみを忘れないこともやはり大事です。もしよかったら、まだ読んでいなかったら、僕の『国境の南、太陽の西』という小説を読んでみてください。ひょっとして、あなたの気持ちに通じるものが少しはあるかもしれません。 この回答からは、村上春樹の作品理解に対して、私は二つのことがサジェストされていると思いました。 一つは悲しみを抱えて生きることを村上春樹がかなり重要なことだと考えていること(同種の表現がこの人生相談回答集の中には何回か出てきます)、もう一つは『国境の南、太陽の西』の自己解説の一端であります。 こんな風に読んでいくと、結構面白いです。 以前、村上春樹作品の研究をしている大学の先生の講演を聞いたことがあるんですが、村上春樹のこの種の本は(何冊か同様の本が出版されていますよね)、村上春樹研究家にとっては宝の山の様なものですという趣旨のことをおっしゃっていました。 研究者もなかなか大変そうですし、研究される側も、なかなかなかなか、大変そうですね。 参考までに、上記に触れた中島らもと村上春樹は、他にどんな接点があるのか、わたしはよく存じ上げないんですが(村上春樹と糸井重里なら、以前一緒にショートショートの本を作っていらっしゃいましたね)、ふっと思い出して本棚を探したら、ありました。 中島らもの『啓蒙かまぼこ新聞』(ビレッジプレス)という30年近く前の本の解説を、若き日の村上春樹が書いていました。 なるほど。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.09.06
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『女のいない男たち』村上春樹(文芸春秋社) とりあえず、現段階での村上春樹小説の最新刊であります。 予定通りの短編集であります。 「予定通り」と書いたのは、これは有名な話ですが、村上春樹氏は、「大長編小説→長い目の中編小説→短編小説集」というサイクルを、見事に長期にわたって守り続けて執筆活動をしていらっしゃる方で、ちょうど今回の順番が予定通りの短編小説集であったと、そういうことですね。 しかしつくづく頭の下がる勤勉振りであります。 さて、短編集であります。 以前村上氏はインタビューの中で、短編小説は頭の中に引っかかったいくつかのフレーズをもとに、短時間に、即興的にとりあえず第一稿を書く、といったことをおっしゃっていたように思います。 それによると、そんな短編小説を鑑賞するには、あまり細かい部分について論理的にあげつらうんじゃなくて、そこに表現された言葉や展開そのものの「感覚」に大いに興味を持つべきじゃないかと、まー、私は考えまして、そして、読んだわけです。 もちろん、面白かったですねー。 そして、ある意味、少しヒヤリとしました。 何にヒヤリとしたかといいますと、これも以前よりそういった指摘をなさる方があることは私も知っていた、村上春樹氏の女性蔑視傾向であります。 例えば、本書には珍しく筆者による「まえがき」が付いてあるのですが、そこにこんな風に書いてあります。 僕がこれまでの人生で巡り会ってきた多くのひそやかな柳の木と、しなやかな猫たちと、美しい女性たちに感謝したい。そういう温もりと励ましがなければ、僕はまずこの本を書きあげられなかったはずだ。 どうということもない、いかにも「まえがき」らしいフレーズのようにも思います。 また、「柳の木」「猫」という言葉は、集中の『木野』という短編を踏まえているのだと思います。(ついでながら『木野』という短編は集中いかにも異色かつ破格な短編で、この作品はきっとこの後、次の村上作品の取っ掛かりになるように思える好短編です。) しかし、ここになぜ「美しい女性」が出てくるのでしょうか。 でも、一方でここに「美しい女性」が出てくるのは、いかにも村上春樹的とも思えます。そしてそのような表現をかつて私は、村上春樹のレトリックだと思っていました。 しかし、今回は、少しこの表現がヒヤッとします。 6作収録されている短編の最初から3作が『ドライブ・マイ・カー』『イエスタデイ』『独立器官』となっていますが(実際に筆者が各作品を書きあげた順については、「まえがき」に詳細されています。ただし、村上春樹の場合、そう書かれているからといってそれが本当なのかどうかについては、やや判断を保留するところではありますが)、1作目と3作目に女性の精神の病が、2作目に男性の精神の病(「病」という言い方がもしも不適切であるなら「大きなトラブル」が)描かれています。 そして、私が読んだ印象では、男の病は人間的で、女の病は不気味で陰湿な気がしました。これは私の読み違いでしょうか。 しかしそもそも総題が『女のいない男たち』となった時点で(その時点は、一番早い時に発生したとこれも「まえがき」に書いてあります)、こういった傾向とか、上記のまえがきの表現とかは、当然書かれるべくして書かれた、とも考えられます。 『シェエラザード』という短編中にこんな表現があります。 女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちが提供してくれるものだった。 この短編集に描かれる「女」あるいは「女がいなくなること」とはそういう意味なんだなと分かる引用部ではありますが、さて、この上記の引用部の「女」を「男」に変えても、この文脈は成立しているのでしょうか。 そのようにも思うし、とてもそうは思えないとも感じます。 それが、今回、本短編集を読んで、最後まで私が少しヒヤヒヤし続けた原因であります。 もちろん一方で、村上作品らしい深い喪失感と癒しの感動も味わいながら。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.11.09
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『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』高橋源一郎(集英社文庫) このタイトルを見たとき、ふーんと思いました。 どのように「ふーん」と思ったのかは、本の末尾に穂村弘という、この方は歌人ですかね、その方の書いた解説にも書いてありますが、実は私も同じように思った、というか、たぶんほとんどの高橋源一郎ファンは同じように思ったはずであります。つまり、 「宮澤賢治は一人で一冊なんだ。」 もはやいうまでもありませんが、この時期、高橋源一郎は『官能小説家』『日本文学盛衰史』という、日本文学史上の多くの表現者の名を持つ登場人物の出てくる力作小説を続けて発表していました。そこには漱石鴎外をはじめ、様々な文学者の名前が出てきました。 私はこの二作を読んだとき、筆者はこの度、この上なく豊饒な鉱脈を発見したものだと感心致しました。 で、今回もその連続かと思ったのですが、今回のはタイトルで見る限り一人で一作の模様です。で、上記の感想になったわけですね。 今私は「豊饒な鉱脈」と書きましたが、作品に取り上げられた文学者をみていきますと、筆者が実に鋭い嗅覚を持っていることを感じさせる人選になっています。 漱石鴎外という実際の大巨人を別格にすれば、啄木・一葉の扱いがとても大きい。そしてこの二者に注目したのが、何と言っても素晴らしいと思います。 この二人には、若くして貧窮のうちに亡くなったという共通した悲劇性があることに合わせて、文学史という歴史の中で、どこか単独に屹立するような「実存的」なところがあります。 そして啄木・一葉と並ぶ同類の文学者がそれ以外にいないだろうかと思ったとき、私に浮かんだのは、正岡子規と宮沢賢治でありました。 この二人にも、実に実存的な文学性があります。 でも、冒頭の短編集(とても分厚い短編集で600ページもあります)を読んで思ったことは、本書は上記二冊の日本文学史関連小説とはだいぶ違うという、まぁ考えたら、あたりまえかもしれない感想でありました。 決定的に違うところは、本短編集は宮沢賢治がモデル(モデルといっても、上記の日本文学史小説も利用しているのは名前だけで、事実関係のモデル性なんて全くないに等しいのですが)ではなく、賢治の作った作品のタイトルだけを模倣しているということです。 だから、これは一種のパロディ小説になるんでしょうが、その「パロディ性」につきましても、(個々の作品にもよりますが)ほぼ、「本歌」作品と内容的関連を持たない(そんな意味で言いますと、上記二冊の日本文学史関連小説と実在の作家の関係にきわめて近い)ものであるということであります。 そうだ、近いいい例えが思い浮かびました。 その関係は、かつてロックンローラー忌野清志郎が、自ら日本語の歌詞を書いてカバーして歌っていた『ラブ・ミー・テンダー』や『サマータイム・ブルース』と元歌の関係みたいなものであります。 (我ながらいい例えだなと思ったのですが、今度はこっち方面のことをあまりご存じない方にはわかりかねる例えかなと思い、でもユーチューブで『ラブ・ミー・テンダー』を探して聴いていただくと一発でわかります、たぶん。) さて具体的に、全部で24編ある短編小説ですが、まーとにかく、24編であります。上述しましたが、600ページもある短編集です。 何といいますか、やはり多すぎません? 作品にかなり出来不出来があるように感じます。 ただこの筆者の作品を読み慣れている人には何となく判るのですが(というか、何となく許しちゃうという感じなのですが)、無意味悪ふざけも芸の内、みたいなところがあるんですね。別の言い方をすれば、そんな部分もひっくるめてひとかたまりで読んでよ、といわれているみたいな。 結局、高橋源一郎の小説を、取り敢えず好きで手に取って読めるか否かという分水嶺は、わたくし、この辺にあるんじゃないかと、さすがに少しは高橋作品を読み慣れてきて、密かに思っています。 そこさえクリアできれば(ちょっと許し難いと思うときもありますが)、実は高橋作品は、結構ウエットな生きる悲しみが通底してることに、ほっと気づくのであります。 ……つまり、そんな短編集であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.10.14
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『カンガルー日和』村上春樹(平凡社) この夏わたくし、村上春樹についての講演を聞いてきたんですが、とっても面白かったです。好きなこととか、興味ある人についての話を聞くというのは、面白さの二重重ねみたいな感じで、とっても贅沢・充実感の時間でありますね。 もう大昔になりましょうが、そんな時間のことを、確か糸井重里氏が「一粒で二度おいしい」と、そのころのコマーシャルコピーを用いて表現していたのを思い出しました。 さて村上春樹といえば、出す本出す本ほとんどベストセラー(それも世界規模でのベストセラー)で、現在日本で一番本の売れる作家であるうえ、またその文学性の高さについては、ここ数年、毎年のようにノーベル文学賞候補に挙がっている(「挙がっている」と私は思ってきたんですが、それで正しいんでしょうか)ことからも分かる、すごい方でありますね。 このたびそんな作家の、古ーい短編小説集(「ショートショート」という言い方のほうが正しいでしょうか)を再読、というか全部を読んだのは再読か三読くらいでしょうが、部分的な作品についてはもっと何度も読んでいますが、ともかく、久しぶりに読み返してみました。 まず、久しぶりに読んでも、その面白さが色あせていなかったのがとても嬉しかったですね。 そしてさらにこの度思ったのですが、この短編集は1983年に出されているのですが、30年もたって作家の初期の、それも「小さなお話」を読み返してみると、後に長編や中編になった話の萌芽があちらこちらに見られる気がして、ちょっとした新鮮な驚きが随所にありました。 ところで、冒頭に触れた村上春樹についての講演の時、講師の先生(大学の先生でした)がおっしゃっていましたが、村上春樹は短編小説を三日で書くそうであります。 講演の時いただいた資料に、インタビューによる村上春樹の言葉として、こんな引用がありました。 「短編というのは三日で書くんです。というか、三日で書かないと意味がない。」(『広告批評』1999.10) 「集中して短編小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。(略)リストにしておく。それで短編を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの筋をつくります。」(『文学界』2005.4) ……なるほどねぇ、と、読んで、わたくし、つくづく感心いたしました。 そして同時に、村上春樹の短編について、少し理解の程度が高まったように思いました。 まず感心したというのは、村上春樹という作家は全く想像以上の天才作家だなということであります。 世間にはいろんな分野のプロフェッショナルがいて、その仕事ぶりに驚く例はたくさんありますが、上記に発言された村上春樹の仕事ぶりも、間違いなくそんな、ある分野の天才の仕事ぶりでありましょう。ちょっとやそっとでできることではないと思いましたね。 そしてもう一つ分かったことは、村上春樹の短編に見られる一気呵成というか、ある種の「勢い」の正体であります。 ストーリーの整合性を飛び越えていきなり全体として姿を現してくるものや、テーマなどという言葉では律しきれないほとばしりのようなものの描かれる理由が分かった気がしました。 ……わたくし、ふっと思ったんですがね。 ベートーヴェンについてのエピソードなんですがね。きっと昔読んだ本に書いてあったのだと思いますが、ベートーヴェンはさまざまな種類の音楽を創造したが、終生書き続けたのがピアノソナタと交響曲とそして弦楽四重奏である、と。そしてこの3種類の作曲がひとつのセットになって、ベートーヴェンのそれぞれの時期における音楽性がどのように成熟していったかを、実に明瞭に示している、と。 一方ご存じのように、村上春樹は短編小説、中編小説(普通の長編小説くらいの長さですが)、そして長編小説(大長編小説)をきちんとローテーションしながら書いていく、これも実に勤勉な作家であります。 ベートーヴェンの3種類の作曲にそれがきれいに重なるわけでもないでしょうが、そして後の2つのどちらがどちらかはさておき、1つだけは私にとってはそのように感じ、なんだか頭の中にピアノの音が聞こえながらの心地よい読書のひと時でありました。 最後になりましたが今回読んで、私が特に面白いと思った作品は『カンガルー日和』『眠い』『駄目になった王国』『鏡』でありました。 この中には、以前読んだときの印象を全く忘れていたものもありました。 なんだか、不思議ですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.09.28
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『優雅で感傷的な日本野球』高橋源一郎(河出文庫) 確かにいろんなことを考えますね、こんな本を読むと。 たぶん、それが本書の魅力であり、そして出来の良しあしの分水嶺であろうと思うのですが、でもこの出来の良しあしのポイントは、考えればなかなか大変なことだということがわかります。 例えばこんな部分。 苦しい鍛錬の日々は続いた。 ある時は二時間以内に九百個の野球詩を作る荒行。 (略) 七十三。タイトル、センター。 ぼくは三十九年もセンターを守り およそ一万三千個のセンターフライを捕ってきた 考えてみれば フライを捕る時しか、空を見たことがない こんなフラグメントを読むと、なかなか詩的な印象を持ちますね。 われわれの好感覚をさらっとはけでなぞったような。 でも一方で、落ち着いてじっくりとにらんでみれば、こんなフラグメントは「落書き」みたいなものだと、失礼ながら、言えないこともありません。 小学校の頃、私は、ノートに教科書に、様々な落書きをしたことを思い出します。 その頃の私は少しだけ絵が得意で、そして漫画少年でしたから、時間つぶしに本当にあちこちに落書きをしました。(小さかった頃って、なぜあんなに後5分の授業が我慢できないと思ったりしたのでしょうかね。不思議ですね。) その中には、わりと上手に書けたなと自分で思える落書きがあったり、あ、駄目だと、途中で感じて鉛筆でくしゃくしゃにしてしまう落書きがあったりしました。 そしてそんな時の一つ一つの小さな「作品評価」は、すべて感覚が、感覚だけが行っているわけであります。 今回、冒頭の小説を読んで、こういった「ポストモダン」な小説は、読み手にいろんなイメージや古い記憶を呼び起こさせるのが、結局のところ狙いなのだろうと思うのですが、なんといいますか、その「方法論」みたいなものはあるのでしょうかね。 「方法論」というのは、もう少しスノッブな言い方をすれば、「ポストモダン小説の書き方」といったものですが、もちろんそんなものあるはずないではないかと考えますが、まてよ、そんなに簡単に否定できないんじゃないかとも思うんですね。 いつでも誰にでも有効な「ポストモダン小説の書き方」とまでは、なかなかいかないでしょうが、いろいろ考えてみると、例えば「中期の谷崎小説の書き方のツボ」とか、「漱石的三角関係小説の極意」みたいなものなら、なんとなくイメージできそうではありませんか。そんなことないですかね。 で、「中期の谷崎小説」のパターンで高橋源一郎の書く小説の「方法論」について少し考えてみた時、私は、これはなかなか大変だと気付いた次第であります。 なぜなら、ストーリー一つを取り上げてみても、普通のリアリズム小説ならば、それなりの「作業的手順」でこなせる部分がかなりあると思うのですが(上記の「谷崎小説」うんぬんなんかは、まさにそんな感じで、粘土をこねあげるような「段取り」部分がかなりありますよね)、どうなんでしょうか、その場その場で感覚勝負をしながら、「面白い」「面白くない」で作り上げていくストーリーは、それこそ息つく暇もないように思うのですが、どうなんでしょう。 だから、この筆者の小説は、モザイクのようになるのでしょうね。 一つのエピソードだけに絞り込んでは、おそらく長編小説は書ききれないのだと思います。 ふっと思い出すのですが、安倍公房の『箱男』なんかも、主たるストーリーはありましたが、ところどころにやはり「フラグメント」のようなものが散らしてありましたね。 公房の初期のシュールレアリズム作品は、短編が主流だったように思います。 われわれは、意味の手助けなしに、なかなか長い連続したイメージを持つことはできません。 そんなことでいえば、やはりこの筆者の様々な作品は(今回の本作だけに限らず)、かなりの力量による大いなる力技の仕事だと、私は思うのであります。……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.05.20
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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹(文藝春秋) しかしこのタイトルも、なかなかといえば、なかなかなタイトルですよね。 でも、そもそも「名前」というものは、そう付けるとそうなっていく、といいますか、結果的に馴染んでいくものでありますよね。 私もだいぶ昔に、名前付けの最大イベント、我が子の命名をしたことがありました。 5つほどを最終候補に絞り、その中から付けたのですが、その付けた名前、仮に「A」としますと、「A」は他の候補「B」「C」「D」「E」と入れ替わっていても、付けた当初はちっともおかしくなかったはずですが、今となっては人物「A」は、「A」という名前以外の選択肢は全くないように感じます。 だからこのタイトルも、慣れればこんなものなんでしょうかね。 同筆者の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言う旧作も、新作当初は私は、少々違和感があったように思い出しました。 で、さて、本書ですが、まー、いちおー、あっという間に読んでしまったもので……。 あ、まずこの件について述べてみたいと思います。 この件というのは本作のリーダビリティの高さということでありまして、私の知っている純文学作家の範囲で言えば、やはり村上春樹が一番な気がします。 谷崎も太宰も漱石も、読んでいるととても面白いですが(太宰は少しレベルに高低差がありますが)、「ワンシッティング」では読めませんね。 いえ、別に巻を措く能わずでなくてもいいんです。 今、ふっと思い出したのですが、野上弥生子や河野多恵子の長編なんかは、しばらく読んでは巻を措き、じっと考えて又ページを開く、みたいな事を繰り返す読み方を私はしていましたが、とっても感動的でありました。 ともあれ、この度私は冒頭の村上春樹の新作長編を、知人からたまたま図書券1000円を貰ったものだから思わず本屋で買ってしまい(いずれ買う予定だったとしても、こんなにまだ売れたての頃に買うつもりはなかったんですね)、そしてまんまとワンシッティングで読んでしまい、さらによせばいいのにアマゾンのレビューまで怖い物見たさに見てしまったんですね。 で、ふぅ、とため息を一つついて、少し戸惑っているわけです。 そうなるんじゃないかなという予想はしつつ、やはり最後のアマゾンがいけなかったですよねー。 つまり、私にはよく分からないんですね。 レビューに、例えば「数ページ読んで我慢できなくて売り飛ばした」なんて書くことの意味が。 一方、そんな事を書いてはいけないと言うレビューもあったりします。 でも、それにも、「なぜそんなことを書いてはいけないのか分からない」という趣旨の感想がひっついていたりします。 筆者村上春樹に対する人格攻撃の文章も結構あったりします。 これって、なんなんですかね。読者というのは、そんな権利まであるんですかね。 こんな言い方をすると、ある種のレビューアーからはいっぺんに馬鹿にされてしまうかもしれませんが、作家に対してであれどんな職業人に対してであれ、正当に行われた「仕事」に対して、最低限の敬意さえ払う必要がない場合ってあるんですかね。 そういえば、昔、安部公房が「地獄への一本道は善意に満ちあふれている」みたいなことを書いていましたしー。 それに、上記の私の文の「正当」とは何かについても、人によっては諸説ありそうですしー。 安部公房といえば、またこんな文章も思い出しました。 「なぜ書くか」と自問して、公房が自答していた文章です。 この質問はたぶん倫理的なもので、論理的なものではないはずだ。論理的には質問自体が答えをふくんだ、メビウスの輪である。作家にとって創作は生の一形式であり、単なる選択された結果ではありえない。(『死に急ぐ鯨たち』) こういう角度から、アマゾンのレビューを見ると、かなり整理されては来るのですけれど。(やはりポイントは100万部以上売れたってことですかね。) ともあれ、今回は、冒頭の小説の読書報告をほとんどしていません。 こんなケースは、本ブログには過去にも結構あったりするんですが、今回はこの終え方については、個人的にとっても苦いものを感じます。 いずれ、本作の「騒動」が落ち着いてから、再読し、また考えてみますね。 でも、一言だけ。 私は一読、とても落ち着いた深いところまで歩んで来たものだという感想を持ちました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.30
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『官能小説家』高橋源一郎(朝日文庫) 冒頭の長編小説の読書報告の後半であります。 前回は、ワーグナーとブラームスは結局ベートーヴェンでもあり夏目漱石と森鴎外でもあるが半井桃水と高橋源一郎はとっても小林秀雄っぽい、ということでありました。たぶん。 ところで本小説は、わたくし、再読であります。 だいぶ昔に一度読みました。その時の私の読書メモにこんな風に書いてあります。 「前半はひどかった。中盤はさすがに読ませた。終盤は又すかすかしてきた。全体としてはまあまあかな。」 かなりわがままな感想ではありますが(どうもすみません)、本書再読後に改めてみてみると、今回の読後感想もほぼその通りではないかと、少々厚かましくもそう思ったのでありました。 まず、前半はひどかったという感想ですが、かつての私がそう感じたのは、たぶんこんな所だと思います。 後は「億万長者と結婚する方法」だ。藤原紀香の脚は、この世で見る価値のある数少ないものの一つじゃないだろうか。まあ、あくまで脚に限るけど。それから、「ナースのお仕事3」。もちろん、観月ありさの脚が出てくるところが素晴らしい。それに神田うのに松下由樹か。あんな看護婦ばかりいる病院がほんとにあるだろうか? ……うーん、この意味ですが、……うーむ、後で、考えてみますね。 次の、中盤はさすがに読ませたというかつての私の感想ですが、これは、ある意味高橋源一郎の小説の読ませどころですね。 半井桃水と樋口一葉のラブストーリーを書いた部分ですが、実は筆者の小説はポップな衣装を纏ってはいますが、その中に描かれる感情は「透明感のある切なさ」というような言葉でまとめることのできる、かなり広くポピュラリティのあるものです。 しかしもしも、この「透明感のある切なさ」という感情の描写やテーマが、少し感傷的でありはしないか、通俗的でありすぎはしないか、あるいは芸術性に欠けるのではないかという不安を、筆者自身が持ったとしたら……。 さて、この度私が本書を再読して気が付いたのはそのことであります。 そして、前半のマゾヒステックなまでの物語の壊しぶりや、終盤の「すかすか」の原因こそこれではないのか、と私は思ったのでありました。 作品の最後のあたりに、鴎外の思いとしてこんな事が書かれています。 だが、結局のところ、鴎外は一度も満足したことはなかった。 ある作品は毀誉褒貶に晒され、ある作品は無視された。また、格別の評判を得る作品もあった。その度に、喜び、哀しみ、また無知や無理解に怒りを感じたこともあった。やがて、鴎外はほとんどなにも感じなくなった。人々あるいは世間というものの評価に興味をなくした。 それではいけない。何度もそう思った。この世界から切り離されたところで自分のためにだけ書く「芸術家」だけにはなるまいと心に決めていたからだ。だから、冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるようにして新しい作品に立ち向かってきた。 しかし、それはいったいなんのためだったのだろう。 前回のこの欄に私は、筆者がとても真面目に書いている(真面目に不真面目に書いている)ということに触れましたが、そもそもこんな小説家小説を書くというのがきわめて「本気」でありますよね。 そしてまさに「冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるように」書いたのが、この悪ふざけのように見える「物語の解体」の部分であったのかもしれません。 そういえば、筆者はデビュー当時、もっともっとわがままに小説を書いていたような気がします。もっと「無意味」のそばで遊んでいたように思いました。 それに比べれば(本作においてだけなのかもしれませんが)、本作はかつて筆者の自家薬籠中にあった「無意味」の対極に位置するようなお話になっていると、この度私は思ったのでありました。 なるほど、生きている作家とは、やはり大変なものですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.05.12
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『官能小説家』高橋源一郎(朝日文庫) どこで読んだ文章であったか覚えていないのですが、たぶん複数回同趣旨の文脈を眼にした記憶がありますからある程度間違っていないのだと思いますが、何の話しかというと、リヒャルト・ワーグナーのエピソードであります。 ワーグナーが、ベートーヴェンの後に交響曲を書く何の意味があるか、と言ったというエピソードであります。 また、よく似た「文脈」の中で、ブラームスが交響曲第1番を書いたのは、43歳の時であった、と。 ……私はクラシック音楽に関して、好きなだけで何にも分かってはいませんので、ほとんど「与太話」の如くではありますが、確かにベートーヴェンの後に交響曲を書くのは、かなり勇気のいったことだろうと愚考いたします。 さて、何の話しかといいますと、冒頭の高橋源一郎氏であります。 私にとってフェイヴァレットな作家の一人ではありますが、発表される作品の出来の善し悪しについて、ちょっと差の激しい方でもあります。 で、なぜそうなのかと考えますに、この方は小説についてとっても苦悩していらっしゃるからではないか、と。 では、なぜ苦悩していらっしゃるかとさらに考えますに、それこそが「ベートーヴェンの後の交響曲」ではないか、と。 例えば本書にこんな事が書かれています。 明治の作家半井桃水が、酔っ払って森鴎外と夏目漱石に絡んでいる場面(まぁ、こんな場面設定そのものも、高橋氏の苦悩の現れでありましょーがー)であります。「(略)……ぼくはすぐに目を閉じた。それはまがい物だった。すべての部分が他の小説の寄せ集めでしかなかった。言葉も感情もすべてが他人の借り物だった。それがぼくの小説だった。ほんとうはその時、ぼくは書くことを止めるべきだったのだ。だが、ぼくにはそれができなかった。ぼくは小説家のふりをし続けた。そうすれば、いつかぼくもほんものの小説を書くことができるようになるかもしれない。ぼくはそういい聞かせてきた。だが、そんな時が来るはずなどなかったのだ」「小説にほんものもにせものもありはしない」漱石が静かにいった。「わたしもまた、言葉や感情を借りて来る。小説家のふりをしたことがない小説家などあるわけがない」「だが、あなたたちとぼくは違う。あなたたちの作品は日本語がこの世に存在する限り残るだろう。だが、ぼくの作品は出たとたんに忘れられる。時の裁きは公正だ」「未来のことなどわからない」林太郎が答えた。「わたしは時の裁きも信じない。わたしたちが知っているのは、この国のいま、この言葉のいま、それだけだ」「あなたたちはその謙虚さにおいて傲慢だ。あなたたちに理解できるのか? 才能のない作家の苦しみを。それでも書いていたいと願う者の苦しみを。ぼくの苦しみこそ普遍なのだ。書くことのできないぼくこそ、叶わぬ希望を持って生きるしかない大多数の者たちの代表なのだ。(略)」 ……こうして書き写していて改めて分かったのですが、高橋源一郎さんって、真面目な人ですねー。なかなか、こんな文章は書けませんよ。 ところで、なぜ高橋氏がこのような苦悩に取り付かれてしまったかといいますと、それは小林秀雄の悲しみであります。 ……なんか話しがどんどん横滑りしているような気もしますが、まぁ、もう少しご勘弁いただきたいと思います。 いえ、別に突飛なことを言い出すのではなくて、高橋源一郎氏がまれに見る小説読み技巧者であると言うことであります。 これはもうほとんど定説化しておりまして(たぶんしていると思うのですが)、筆者の書く文芸評論はきわめてレベルが高く面白いと、私も全くそのように思うのであります。そして本人もそのことはきっと自覚的であります。 だって、本書にもこんな風に書いてあります。 それからもう一つ、付け加えなければならないことがある、と桃水は思った。それを教えられるのは最高の作家ではない。なぜなら、最高の作家は小説の書き方を自然に知っていて、どうやって作られるか気にならないからだ。それを教えることができるのは、小説の書き方を知ろうと死に物狂いで努力してきたぼくのような作家、ぼくのようについに最高の作家になることができない人間だけなのだ。 ……ほんと、なんか真面目な方ですよねー。 しかし、そんな小説読みの上級者である高橋氏は、結果的に自ら述べるごとくあたかも小林秀雄のように「眼高手低」であると言うわけですが、あれっ? こんなところに小林秀雄を出すのはよくなかったかしら。 ともあれ、筆者の苦悩は誠に深く、今回取り上げた小説も、全くそんな見本みたいな作品でありますが、次回、もう少し丁寧に見ていきたいと思います。 あ、最後になりますが、そして言わずもがなの事柄ではありますが、冒頭で触れたワーグナーは、その後「楽劇」という独特のオペラを自ら作り上げほとんど教祖の如くになり、またブラームスの書いた交響曲第一番は、ベートーヴェンの第十番であるとまでの高い評価を得たのでありました。歴史のおさらい。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.05.06
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『東京奇譚集』村上春樹(新潮社) 村上春樹の新刊小説が出まして、そして村上春樹の新刊が出るということはもはや社会的な事件のようなもので、そんな話題になる作家は長く日本にいなかったですね。 もちろん私も村上春樹の小説は大好きであります。しかしこの度の新刊はまだ読んでいません。だからこそ、それなりの分量のあるまだ読んでいない村上春樹の小説があるという実感は、とてもわくわくと心躍る嬉しいものです。 そんな作家は、ごく個人的な感じ方ではありますが、やはり長く日本にいなかったような気がします。 さて、そんなことがやはりきっとわたくしの深層心理に影響しまして、この度冒頭の本を再読してみました。再読なんですが、前回読んでからかなり経っていたので、ほとんどストーリーを覚えていませんでした。 そもそも村上春樹という作家はきわめて勤勉な作家で、とても「安定的」に書籍を発行なさいます。 翻訳ができるということも大きな強みなんでしょうが、軽いエッセイやインタビューの類まで入れると、ほぼ毎年のように村上春樹がらみの新刊が出されているはずですね。そのうちの「目玉」的な本は限られた出版社から出ているようですが、それでも出版業界全体に、計り知れない多大なる文化的功績と経済的効果を生みだしていらっしゃいますね。実際その勤勉さにはつくづく頭が下がります。 ……えーっと、私は何が言いたかったのかといいますと、再読ながら、ほとんど新刊のごとくに本書を読んだと言うことなんですが、にもかかわらずそれは、見事に読み慣れた「村上ワールド」でありました。 この短編集には五つの物語が収録されています。 きわめて個性的に、バラバラに、五つの物語が作られています。しかし、そこに流れている大気というか香りというか、はたまた音楽というか、そういったトータルな雰囲気は相互に関係し合う一つの円環のようなまとまりです。 例えばこんな部分。 「ねえ、淳平くん、この世界のあらゆるものは意思を持っているの」と彼女は小さな声で打ち明けるように言った。淳平は眠りかけている。返事をすることはできない。彼女の口にする言葉は、夜の空気の中で構文としてのかたちを失い、ワインの微かなアロマに混じって、彼の意識の奥に密やかにたどり着く。「たとえば、風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」 こんな小さな引用部分ひとつを取ってみても、毛細血管に染み渡っているように末端にまで「村上ワールド」の魅力を読み取ることができます。 地の文に見られる、いかにも村上春樹的な比喩。 この繊細に選ばれた言葉の群れのジャンプ力のようなものが、私たちにきわめて深い静謐な感覚をもたらせてくれます。まずこれが「村上ワールド」の原点です。 次に女性の語る言葉の端々から汲み取れる汎自然的な世界観。 これは遠く、村上春樹のデビュー三作目『羊をめぐる冒険』から、連綿と続いている筆者の世界観でありましょう。きわめて東洋的であると感じる一方、今もっとも新鮮な世界に対する切り口という気がします。 そして、セリフの終わりの方にあるこの表現。「私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」 こんな現実の把握の仕方もとても村上春樹的だと思うのですが、何というかここからは、生き方の根底にどうしようもない欠落(あるいは欠陥とか偏向といったもの)があって、それを受け入れていく意志と痛みのようなものが、きわめて禁欲的に読みとれます。 本書の五つの短編小説に共通するストーリーとは、いわば、これらの村上春樹的世界把握の仕方をあぶり出す、突然の暴力的あるいは特殊な出来事の物語であります。 ある作品は主人公の身近な二人の女性の乳癌にまつわる話しであり、ある作品は鮫に息子を殺される女性の話しであり、ある作品は「それが見つかりそうな場所で」永遠に見つからないものを探す話しであり、……と、それらは実に独創的な展開を取りながら私たちを、生きることに静謐でストイックな人々のいる「村上ワールド」に誘ってくれます。 この心が解きほぐれていくような魅力こそが、たぶん村上春樹の人気の秘密であります。 村上春樹が小説を書き始めたのが一九七九年。 近年さらに魅力増すこの「村上ワールド」の「旬」は、はたしていつまで続くのだろうかと、ふと思ったりします。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.04.29
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『十九歳の地図』中上健次(河出文庫) たぶんあの本にあったとは思いながら、探すのが面倒で、ごまかしごまかし書くのですが、三島由紀夫であります。(そういえば、こういう書き方も書き手の不誠実を表すと、これは『小説とは何か』に書いてありましたが。) 確か三島がこんな感じの事を書いていたと思います。 君が二十歳で無一文であるならばそれは素晴らしい。未来はすべて君のものであるからだ。……というニュアンスの文章です。 「二十歳」という年齢設定は、ひょっとすれば、ちょっと違っているかも知れません。 一方で三島は「十六歳では早すぎる。十八歳では遅すぎる」という警句もまた書いていると、この知識もなんだか出所がはっきりしませず、うーん、私って、本当に不誠実で、誠に申し訳ありません。 とにかく、二十歳前後で何も持っていない、という状況であります。 冒頭の小説集ですが、四編の短編小説が収録されています。 中上健次は、実はわたくし、ほとんど読んでいません。それは、あかんやろとは思いつつ、何と言いましょーかー、ちょっと読むべき時期を逸してしまったんですね。本当なら、大江健三郎にのめり込んでいた頃か、その後くらいに読めばよかったのにと思うのですが、今思い出しますと、ひょっとしたら私はそのあたりから、読書だけのいびつな演劇青年になっていったんじゃなかったかしら。もっともそんなことは、理由にも何にもならないですが。 ともあれ、私にとって中上健次の小説は二冊目であります。前回の読書は『枯木灘』で、これはもちろん評判通りの素晴らしい作品だとは思いましたが、それがこのー、まー、やっぱり重いですわな、この中上の世界は。それで、怯んだんでしょーなー。あ、ちょっと、これ、あとまわしに、しょ、と。 と言うわけで今回ほとんど初読に近い状況で読みましたが、やっぱり凄いですよねー。 ひしひしと作者の力量が、肌で感じられてくるようです。 その中の、総題にもなっている『十九歳の地図』でありますが、ここでやっと冒頭の話題に戻ってくるのですが、寮に住み込みの、何も持っていない、十九歳の新聞奨学生の予備校生の話であります。 主人公は、新聞配達担当区域の家にいたずら電話を掛け人を不愉快にしたり、ターミナル駅に脅迫電話を掛けて、人々が混乱するのを想像したりします。明確な犯罪行為であります。 ただ、小説という存在は、いつの時代も犯罪と併走する側面を持ちます。ドストエフスキーの『罪と罰』を例示するまでもなく(そういえば冒頭にあげた三島由紀夫も、たくさんの犯罪小説を書きました)、犯罪行為の中には、人間存在、人間精神が持つ「暗部」を考える鍵となる、きわめて大切な要素が数多く含まれるからです。 事実、様々な犯罪は小説やドキュメンタリーとなり、表現のテーマになっています。 そこに描かれる犯罪者の精神は、それを実行した・実行しないという決定的な分水嶺を持ちながらも、しかし、自らの内面深くに絶えず視線を降ろそうとしている者にとっては、自分の心の中にも存在していると気づかせずにはおかないものであります。 我々はラスコリニコフに共感するように、様々な犯罪者の心の闇にもやはり感情移入をし、そして、自らの心の深さ広さ不思議さ複雑さなどに改めて思いを馳せ、恐れと眩暈のような感覚を持ちながら、しみじみと感じ入ります。 『十九歳の地図』の無一文の主人公の持つ、ぶよぶよと肥大した強烈な不満、自意識、そして劣等感は、本当に反吐の出そうな薄汚いものでありますが、しかし同時に、間違いなくそうしたものが、自分の心の片隅にも密かに佇んでいることに、我々は読んでいてはっと気付きます。 坂口安吾は、人生の持つ、氷の彫刻を抱きしめるような冷たさと愛おしさを文学のふるさとと書きましたが、文学のふるさとの一方には、この眩暈を覚えるような人間精神の深さと闇があるように思います。 優れた才能は見事にそれを見抜き、我々にそれを直視させようとします。 そんな直視などしたくもないものを読者の前にさらけ出す才能こそが、中上健次の持っていたものでありました。 その後それは一定の開花をしさらに深化を求めつつ、しかし十分に叶うことなく四十六歳で筆者が亡くなってしまったことは、言葉無きほどにいかにも残念であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.03.10
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『白鳥の歌なんか聞こえない』庄司薫(中公文庫) 上記本の読書報告の後半であります。 前回述べておりましたのは、本来青春時代に感動と共に読んで、その後は感動の記憶として心の中だけに留めておいたらいいのに、もう「老境」に入らんとする歳になって再読なんてしたものだから、意地悪な二つの疑問を持ってしまったという愚かな話でありましたが、それはこんな疑問でした。 (1)あんな状況下で本当に男は○精するものなんだろうか。 (2)で、由美は、どうなる。 まー、(1)については、まー、何といいましょうか「人それぞれ」ですからねー。 気合いの入った人もいるでしょうし、も一つ気合いの乗らないケースもありましょうしぃ……(「気合い」って、一体なんだ?)。 ま、18才の健康な男の子ですから、フライングもありましょう。 (ところで、薫くんは射○後、その始末はどうしたのでしょうか。つまらないこわばり、あ、間違った、こだわりですがー。……まぁ、書かれていないだけで、一応の始末はしたんでしょうね。だって登場人物のすべての行動を、小説は描写するわけではありません。小説の登場人物のほとんどに用便場面はありませんものね。) 続いて(2)についてですが、本文では一応この件についても、その後「薫くん」は大いに反省し、今後を懸念しているように書かれながら、いつの間にか「或る言いようもなく懐かしくやさしい気持がしみじみとぼくの心を包みこんで」きて(このパターン、薫くんシリーズに結構あるような気がするんですがー)、あっさりペンディングしてしまいます。(そんな簡単でええんかな?) もとより、私の(2)の疑問は、小説の後日談についての話で、これはどうでもいいと言えばどうでもいいものなんですね。 有名な後日談疑問に、芥川龍之介の『羅生門』ケースがあって、その後下人はどうなったかというのがあります。(高校の時に学校でやりませんでしたか?) 先日たまたま読んだ本にその話が載っていたのですが、ある大学の国文学者は、筆者がそこまでで終えている話のその後を想像することには何の学問的意味もない、という趣旨の発言がありましたが、うーん、そうなんでしょうかねー。 「学問的」と言われればそうなのかも知れませんが、私は漱石の『こころ』の想像される後日談として、「私」と「奥さん」が結婚するという文芸評論を読んでとても面白かった記憶があるんですがねぇ。 そもそも「学問的」というなら、文学研究は本当に学問的なのかどうか突き詰めればよく分からないところがありますしねー。(わたくし、こっそり思うのですが、文学研究というのはウィキペディアみたいな部分がかなりある、と。適当な部分がかなりありつつも、表現されたものの分量が、質の向上を少しずつ図っている、と。理系学問とは、かなり違いますよね。) ということで、今回の小説『白鳥』ですが、なんか「人の死」に対してとてつもなくウブでナーバスな話であります。 主人公達は、いったい今まで身近に知人親族の死を経験したことがないのでしょうか。 ところが、これが、ないんですよねー、きっと。 若い頃って、様々なことに経験不足なものですが、知人の死すら、ほぼ未経験なんですね。だって、両親はまだ取りあえず元気な場合が多いでしょうし、祖父母と言っても同居していないことが多いものだから、その死に出くわしても人間性に関わる本質的なショックを受けることがほぼありません。 (歳を取るとそうじゃないんですよねー。身内親族のリアルな死に加え、年末近くになると賀状欠礼はがきがいっぱい来たりします。) ひょっとしたら本作は、「老人文学」の草分けのような位置づけのできる作品になった可能性がありつつ(現在の日本文学は老人文学と貧乏文学が花盛りですものね)、そうならず青春文学に留まったことは、当たり前とも思いますし、大きな枠で考えますとやはり時代の影響でしょうねぇ。 あの頃は、戦後の日本の国自体が一つの青春期であり、老人問題なんて考えてみたこともないような時代でありました。 そしてその様に考えるなら、実は私は本書を読みながら、よく指摘される庄司薫と村上春樹の類似性についても考えてみたのですが、その指摘には充分納得できる部分があることを実感しつつ、しかしトータルとしては、小説が起承転結で終了し得た時代(小説の「青春期」)と、もはやそれが出来なくなっている時代(小説の「老成期」)との違いという理解に及び、さて、なかなか現代文学とは大変なものだと、改めて思ったのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.11.04
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『白鳥の歌なんか聞こえない』庄司薫(中公文庫) 本書は、いちおー「薫くんシリーズ四部作」の中では、白眉ではないでしょーか、と。 なんかそんな評価を聞いたような気もするし、ページ数も4作の中では一番多いんじゃなかったかしら。(「白鳥」に「白眉」は、関係ないですかね。) 今「四部作」と書きましたが、『青髭』のお話は、少し時期が遅れて書き出されたせいか、後の三つと少ししっくりいっていない感じの記憶(昔読んだきりの記憶ですがー)があります。 そう言えば、あんまり関係ありませんが、村上春樹の「僕・鼠」シリーズも、本当は四部作なんですよね。ずっと遅れて『ダンス・ダンス・ダンス』が書かれましたが、まぁ、もっともあの場合は、「鼠」が三作目で死んでしまったせいで、「僕」は同一人物でもその片割れの「鼠」が出てこないから(「鼠」はとっても大切な登場人物ですものねー)、一般的には前三つで「三部作」のように理解されていそうです。 閑話休題。「薫くんシリーズ」中、白眉の『白鳥』であります。 昔は、2、3回読んだような気がしますが、今回は本当に久し振りの再読であります。 この間、私もいたずらに馬齢を重ねまして、読了後直ちにこんな意地悪な感想を二つ抱きました。 (1)あんな状況下で本当に男は射○するものなんだろうか。 (2)で、由美は、どうなる。 まず(1)ですが、まぁ、健康な18才の男子のお話ですから、確かに場合によっちゃぁ、気合いひとつで、風に当たった程度でも(そら「痛風」やがな)○精くらいはりっぱにしても見せましょうが、まぁ、なんといいますか、……そもそもわたくし、今回読んでこのシーンについて幾つかの細部を改めて確認したのですが、相当にややこしい場面で二人は抱き合っていたんですね。 まず隣の部屋に「小沢さん」という妙齢の女性が寝ています。本当はあまり寝ていません。耳を澄ましながら(電話を待っているんですね)うとうととしています。 同様に由美も薫も、いつ電話が掛かってくるかも知れないと言う気ぜわしい状況下にあります。 次に二人が抱き合った部屋とベットは、去年お嫁に行った由美の姉のものであります。ほぼ空っぽの本箱と机とベットだけのある部屋です。 部屋に入った由美は、最初に窓を開けます。庭に面した部屋(いかにも広そうな庭で、「高い水銀灯」があります)のようですが、耳を澄ますと車の走る音や街のざわめきが聞こえてくると書いてあります。 まーどうでもいいような話ですが、この窓は、二人が抱き合っていた時も開け放たれたままであります。(季節は春、春分の日の前後であります。) つまり二人は、いえ、由美の立場で考えてみると、小沢さんという学校の先輩の祖父で、由美自身も崇拝しているその祖父が今にも亡くなろうとしている、その知らせの電話がいつ掛かってくるか絶えず耳を澄ませて待っている落ち着かない時に、由美の部屋の由美のベットの上ではその小沢さんが微睡んでいるその隣の去年嫁に言った姉の部屋の、去年まで姉が寝ていたベットの上で、薫と初体験をしようとしている、と、まぁ、気ぜわしいというか何というか、そーとーややこしい状況なんですね。 (こんな時、するか? ちょっと「デリカシー」に欠けません? まぁ実際はしなかったからよかったものの、もししていたらたぶんそのまっ最中に、下記にあるように電話が掛かってきて、とってもトンデモナイ状況になっていましたよ。……由美のお母さんが電話を知らせに部屋に入ってきたらどうすんだよ。) ……しかしまぁ、とりあえず、若い二人に罪はない、と。(でもほとんどもう、「若さは無敵」ですな。) で、それに続いて上記感想の(2)であります。 薫に「抱いて」と囁き、腕を引っ張って薫をベットに引き込んで、自分で衣服を脱いで待っていたら、薫から「だめだよ」と言われ、なんだか様子のおかしい薫を見ていたら(薫の射○ですね)、階下で小沢さんの祖父の死を知らせる電話が鳴り、それに釣られるように薫は部屋から出ていき、ぽつんと裸で一人残されてしまった由美に、はたして状況理解はできたでしょうか。 この後由美は、我が体当たりの告白をさっとかわした薫に、その状況説明を要求し、納得行く回答を得ることができたんでしょうかね。 しかしあれだけ「デリカシー」うんぬんにこだわる薫くんに、そんな説明ができたとはとても思えませんよねー。 ……うーん、この二人はどうなっちゃうんだろうか。 ちょっと、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.10.28
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『コインロッカー・ベイビーズ・上下』村上龍(講談社文庫) 「コインロッカー・ベイビー」、いわゆる駅構内などのコインロッカーに、生まれたての嬰児、あるいはその死体を遺棄するという事件は、1970年代前半に同時多発的に起こり、一気に社会問題化したということですが(この作品の主人公「ハシ」と「キク」が、コインロッカーで発見されたのも1972年という設定です)、その後、この手の事件はどうなったんでしょうか。 あの頃に比べて、嬰児遺棄が少なくなる環境に現代がなっているとも思えませんし、コインロッカーに捨てにくくなった、何か特殊な装置がついたのでしょうか。或いは逆に、現在ではニュースにもならないくらい、しょっちゅうそれは行われているのでしょうか。 先日たまたまNHKで、捨てられた子供達の乳児院のドキュメントをしていました。嬰児遺棄は、確かに現在でもあります。 「赤ちゃんポスト」というのが、マスコミで話題になったのは確か5、6年前だったと思いますが、さっきちょっとだけネットで調べてみたら、現在でもそれはあるということでした。赤ん坊は捨てられ続けています。 また、嬰児遺棄に近いところに「ネグレクト=育児放棄」というのもありますね。 これもついでにちょっとだけ調べてみたのですが、いろんなケースがあるようです。例えば、学校に行かせないとか、病気になっても病院に診せないとか、食事を与えない、寒くても服を着せない、風呂に入れない等、ちょっと想像しただけで、胸が締め付けられるようで、うんざりしてしまう事例が挙がっていました。 嬰児遺棄の話題に戻りますが、先日私は、作曲家ビバルディの頃のイタリアの孤児院を舞台にした小説を読んでいました。 それはピエタ慈善院のことで、この孤児院の制度は1300年代からあったそうです。(ビバルディは17~18世紀の人ですが。) 既にそんな時代から、広く子供(嬰児)の遺棄は、まぁ、考えれば当たり前かも知れませんが、あったんですね。(そう言えば日本でも確かもっと昔、聖徳太子がそんな施設を作ったりしていなかったでしょうかね。) だから嬰児遺棄自体は、珍しくないといえば、珍しくないのかも知れません。 例えその舞台が、いかにも都会的なコインロッカーであったとしても。 本作品中にも、主人公達と争う登場人物が、コインロッカーに捨てられたくらいで威張るな、とどなるセリフが出てきます。 しかし、この『コインロッカー・ベイビーズ』というタイトルは、とっても秀逸ですよね。また、私の読んだのは、上下巻になった講談社文庫版ですが、この表紙絵も素晴らしいです。確かこの表紙絵は、最初の単行本のものと同じだったと思いますが、都会的でセンスがあって、そしてとてもエネルギッシュです。 というふうに、「コインロッカー・ベイビー」を特殊なものじゃないと考えてしまうと、この話のエネルギーの源泉はなくなってしまい、ストーリーのリアリティを担保しているものが急に失われてしまいます。 実はこの小説が後半失速気味になるのは、明らかにそのせいであります。(ただし、後半失速は、この作家の長編作品に広く見られる、まぁ、持ち味といえば持ち味に近いものではありますが。) というふうに、作品として瑕疵は認められつつも、しかしこの作品の持つ、圧倒的なパワーとイメージは、ほとんど現代小説に他に比較するものを持たず、驚かざるを得ません。 例えばこんな表現。 キクは鳥の鳴き声のような細く高い音に気付いて水溜まりから顔を上げた。右目のすぐ横を殴られたらしくて視界は白く濁っている。路地に集まった人々が歪んで見える。聞こえてくる鳥の鳴き声がゆっくりと旋律に変わった。始めてハシが歌っているのに気が付いた。赤土の地面に跪いたまま、ハシは歌っている。不思議な声だ。とても小さなスピーカーから響いて来るような声質、部屋の片隅に転がった電話の受話器から漏れている音に似ている。ハシの歌声は流れずに立ち込める。旋律を発する極薄の膜が耳を包み込んだようだ。弱々しく感じられる音は肌に張り付き毛穴から体に侵入して記憶の回路を揺さぶった。振り切ろうとしてもだめだった。歪んだ視界が色を失い匂いや温度が切り離されて、ハシの歌の旋律が作る幻覚が現れた。自分がどこにいて何をしているのかわからなくなってくる。回りの空気が重く体に絡み付き、ヌルヌルした海底へ引き摺り込まれるようだ。キクは真黒な馬が夕暮れの公園を疾駆する情景に捕えられた。映像が浮かぶのではなく、その情景が描かれた絵の中へ強引に引っ張り込まれたのだ。黒い馬はオレンジ色の逆光を浴びて恐ろしい速さで木立ちの間を駆け抜け、いつの間にかいななきが爆音に変わり、滑らかに輝く産毛が金属となり、銀色の窓ガラスの谷間を走る大型のオートバイに姿を変えた。猛烈な速さで移動するオートバイを追って、その情景を映す視点が同じ速さで動く。空中に張ったワイヤーロープに吊るしたカメラを時速二百キロで滑らせ、撮影したフィルムを観ているようだ。不安になる。恐ろしいスピードで移動しているのが何なのか、わからなくなった。自分なのか、カメラなのかオートバイかそれとも周囲のビルディングや街路樹や窓灯りなのか。キクはこの不安できれいな幻覚から逃れようと思った。 少し引用が長くなってしまいましたが、実は本作は文庫本上下500ページほどのすべてが、こんなイメージの洪水と言葉のオーバードライブで成り立っているといって間違いではありません。 これだけ書き込まれると、そこに書かれたプロットに少々破綻があろうが、この恐ろしいパワーに、やはり筆者の特殊な才能を感じずにはいられません。 かつて三島由紀夫は、小説の美は細部に宿ると言いましたが、本小説の描写も、いえ、本小説のこんな描写こそが、細部に宿る美の一つの典型なのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.30
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『吾輩は猫の友だちである』尾辻克彦(中公文庫) 冒頭の小説の読書報告の後半です。 前回書いていたのは、尾辻克彦=赤瀬川原平の文章は、内容いかんによらず、読んでいるだけで快いと思うということでありましたが、先日、ある音楽の本を読んでいましたら、こんなことが書いてありました。 ピアニストの友人がこう語っていたのを思いだす。「ショスタコの前奏曲とフーガは、自分で弾いていると、指の『運動的な愉悦』があるのです」(『チャイコフスキーがなぜか好き』亀山郁夫) 私は思わず、なるほどねー、と思いました。しかし、さらによく考えてみれば、そもそも楽器演奏にはこういった側面がいつも、少なからずあるのではないか、と。 私はほとんど楽器演奏などできない人間ですが、それでもこういった「愉悦」は充分想像できそうです。 あ、エアーギターなんて、そんな「愉悦」の純粋培養のパロディを楽しむ遊びじゃないですかね。 そんな風に連想していきますと、例えばクラシック音楽を聴いていて、自分でタクトを振ったことのない人なんていないんじゃないでしょうか。 あなたもきっと、こっそり一人で自分の部屋で、愉悦に浸りながらベルリンフィルの演奏を指揮したでしょう?(私は菜箸を持つと、いつも一人で振ってしまうんですがね。ベートーヴェンの交響曲5番なんて得意中の得意ですよ。ただし始めのちょっとだけ。) ということで、音楽鑑賞においては、聴いているだけで快いというのは、ほぼ当然のことであると分かりました。(こんな当たり前のことに気づくだけで、どんだけ時間がかかってんねん!) しかし文鳥というのはどうなのだろうか。やはり魔法を持っているのだろうか。それはまだ私は観察していないのでわからない。やはり猫にくらべると文鳥は表情に乏しい。いや猫だって人間にくらべたら表情に乏しい。顔面の表情筋の一番発達しているのはやはり人間である。だから人間は薄笑いを浮かべたり苦笑いをしたりということができる。猫には苦笑いができない。薄笑いもたぶん浮かべることができない。いや極く極く薄い薄笑いなら浮かべているのかもしれないけれど、それはまだちゃんと発見されてはいないようである。でもそのかわり猫の場合は表情筋というものが体全体に分布している。だから猫というのはときどき体全体を使って苦笑いをすることがある。まだはっきりとはわからないがきっとそうだ。 上手な説明ですよねー。 この上手さは、筆者の文章が、「見て」そして「考える」タイプのものであるからですね。或いはさらにもう一歩進めて、「見る」ことが「考える」ことになっている思考といえるのかも知れません。 ご存じのように、筆者は小説家の前に画家(前衛芸術家)でありました。(小説を書き出してからも、画家でもいらっしゃいますが。) 私は以前、筆者の美術評論を読んだことがありますが、文章が、その絵を見る視線から感じられる感覚と、見事にぴたりと一致しているのに驚いたことを憶えています。 つまり読んでいて心地よい文体の原因は、画家の文体=見る者の文体であるから、と、まず言えそうに思います。 地球は六千度の太陽からちょうどいい距離にいて、そのまわりをほとんど円軌道で回っているけど、それがちょっとでも太陽に近づき過ぎると、百度ぐらいはアッという間に上ってしまう。百度というとお湯が沸騰する。人間の血や汗や涙というのもすぐ沸騰してしまうそうだ。そうすると私たちは血も涙もない人間となってしまって、人体は黒焦げの炭素となって、鉛筆の粉みたいにフワッと散って、もう何もなくなってしまう。 だけど地球はそういうことをしないで、いつも同じ軌道をそれずにジーッと回っているのだから、地球は偉い。ねばり強い性格だ。それが五年や十年のことでなくもう何億年とその同じ軌道を回りつづけているというのだから、地球には頭が下がる。 上記の文章、このとっても上手な文章を書き写しながらふと気づいたのですが、この文章って、漱石の『猫』のパロディなんでしょうか。 タイトルは明らかにそうですから、筆者は、文体についてもそれを意識したかも分かりません。しかし、稀代のユーモア作家としての才能を持ちつつ、それを花開かせる方向には進まなかった漱石の文体のパロディであるかどうかはさておき、この文章がまた、実に尾辻克彦=赤瀬川原平的ユーモアに満ちあふれていることは間違いありません。 このユーモアの方向性について、実は本書の解説文を書いている村松友視がとても上手な表現で説明してくれています。 「いいかげんな厳格主義」 そう言えば赤瀬川原平は、「トマソン」という、あれは何とまとめればいいのでしょうか、「都市における前衛芸術概念」とでもいえそうな芸術発見運動をしていました。 あの運動の持つユーモラスな性格も、いわば、「いいかげんな厳格主義」が生み出した新しい「美意識」であるような気がします。 当たり前の話でありましょうが、ある分野の「美」について敏感な感覚とは、他の分野に移行しても、「嚢中の錐」のごとくみる間に頭角を現し、人を魅せるものなのですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.24
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『吾輩は猫の友だちである』尾辻克彦(中公文庫) 「ペット・ブーム」と言われてすでに久しいですね。 しかし、ずうっっっっと、ブームが続いていたら、もうそれはブームとは言わないんですよね、確か。 例えば、「韓流映画」なんてのはどうなんでしょう。少なくとももう、「ブーム」ではないような気がするんですがね。じゃ、代わりになんて言うんでしょうか? ……うーん、わかんないですね。何か言葉があるように思いますが、「定着した」とでも言うんでしょうか。でもこの言葉って、その状態を示す言葉ではないようにも思いますね。 (……えー、ちょっと中断いたしましてー、一言申し上げますがー、そもそもわたくしは、「ブーム」なんてものの情報に、ほぼ100%詳しくない人間であります。先日も知人と流行歌の話をしていて、私の挙げる流行歌が、一番最近のものでも2年ほども前の歌であることの指摘を受け、失笑を得ると共に、わたくしもつくづく考え込んでしまいました。……えー、そんな私の「ブーム話」でありますゆえ、少々(ひどく?)ピントが外れておりましても、ぜひとも笑ってお読みいただければと思うものであります、はい。) さて、「ペット・ブーム」でありますが、ネットを見ていましても、ブーム音痴の私でありましても、相変わらずペット・ブームである、いや、相変わらずどころか、この傾向はなんだか日々拍車が掛かりつつあるのではないかと薄々感じられるこの頃ですが、この理解は間違っていないでしょうか。 冒頭の小説タイトルからも分かるように、話題は「猫」であります。 とにかくもー、とってもたまらないくらい可愛いということで、上記に述べたブームに拍車が掛かっているんじゃないかという私の指摘も、「愛猫自慢」めいたブログやホームページが最近とみに増えているように思うことから生じたものなんですが、これも間違っていないでしょうか。 我々が猫をかわいらしく思うことについて、本書には「猫の魔法」としてこんな風に書いてあります。 道端を歩いていて猫を見ても、「あら可愛い」 とは言っても、「あら可愛いン」 とはならない。魔法にかかっていないのだ。魔法にかかった場合には、どうしても最後の語尾のところが、「いン……」 というふうに鼻にかかってしまう。つまり魔法にかかれば鼻にかかる、これが猫の魔術を見破るときのコツのようである。 この小さな表現一つをとってもそうですが、何といいますか、実に読んでいて心地よいとお思いになりませんか。 私は(最近はちょっと、さほどでもないんですが)、かつてこの筆者(尾辻克彦=赤瀬川原平)の作品を、かなり追っかけて買っていたのですが(といっても文庫本になってからですが)、その魅力はそれこそ「猫の魔法」のように、 「気持ちいいン」というものでありました。 ……うーん、どうなんでしょう。 その作家の書いた文章を読んでいると、とにかくそれだけで快いと思えるような作家。 そんな作家って、実際のところなかなかいるものでもないように思うのですが、一時期の私にとって、筆者は間違いなくそうでした。 もちろん私にも、尾辻克彦=赤瀬川原平以外にもフェイヴァレットな作家はいますが、ストーリーではなく、描写が、説明が、文体が、触れているだけで快いとなりますと、これはちょっと、……はて、他にどんな作家が、作品が浮かぶだろうかと少し考えてみて、何となく一つだけ、いきなり浮かんだんですが、こんな作品。 『園芸家十二ヶ月』カレル・チャペック 本当にふっと、何となく浮かんでしまった作品なので、責任はよく取れないんですけれど(ごめんなさい)、チャペックという人はチェコの小説家・劇作家でありますね。小説としては『山椒魚戦争』、戯曲としては「ロボット」という言葉を作り出した『R.U.R』が有名であります。 そしてこのエッセイも、私は読んでいて、まるで波間にゆらゆらとたゆたっているように、その文章に触れているだけで思わず「気持ちいいン」な作品だったように思い出します。 では、そんな「文体」とは、はたしてどんなものなのか。その辺のところ、次回もう少し、考えてみたいと思います。 続きます。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.06.21
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『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫(中公文庫) さて、上記小説の読書報告の3回目になってしまいました。どーも、すみません。 今回は、前回までを振り返らず、一気に行ってみたいと思います。 キーワードは、「エンペドクレス」でした。 この「エンペドクレス」のエピソードは、主人公の薫くんが、ガールフレンドの由美ちゃんと電話で話した時に一番に出て、そして二人の喧嘩の切っ掛けとなった話題ですが、これが実は、今回読んでいて、私には今ひとつぴんと来なかったのですが、昔読んだ時は分かったんでしょうかね。 いえ、今回も、何となく分かった気になる、くらいの所までは分かった気になるんですがね、でもそれをもう少し明確にしたいと考えると、あまり分からないんですね。 まー、そんなものなのかなと思って読み進めていったのですが、次に小林君という友人が現れます。その小林君が、薫くんに長々と泣き言のような話をし、その後薫くんは急激にそして強烈に、社会に対して悪意のような憎悪のような感情を抱え込むのですが、このあたりも、分かると言えば分かるし、いえ、かつては確かに分かっていたような気がするのですが、それは何だっただろうと、なかなか思い出せないでいました。 その時、私に浮かんだのは、関川夏央の『本よみの虫干し』という岩波新書に書かれてあった、高野悦子の『二十歳の原点』に対する評論でありました。 私は本棚から取り出して読み返してみたのですが、わずか三ページの文章ですが、高野悦子を紹介するこんな書き出しで始まっています。 高野悦子は一九六九年に二十歳で、立命館大学史学科三年生だった。小柄で、笑うと八重歯がのぞいた。指が細くて長かった。美人だった。 そして、彼女が学園紛争の中に、急速に主体的に巻き込まれていく様子を綴った後で、彼女の紹介をこんな形で終えます。 そうして高野悦子の疲労は少しずつ積もった。彼女は六九年五月四日の日記に書いた。 「階級闘争あるのみ(ウソだなあ、どうしたってこれはウソだよ)」 五月二十三日、キャンパスで機動隊に投石し、連行された。逮捕はまぬがれたが、警棒で殴られ、髪を引っ張られた。六九年六月二十四日未明、睡眠薬の眠りからさめた彼女は下宿を出て歩き、列車に身を投じた。 (今、書き写していて気が付いたのですが、六九年の五月号の『中央公論』に『赤頭巾ちゃん気をつけて』は掲載されたのであります。あの頃時代の流行の雑誌は『朝日ジャーナル』だったと思いますが、高野悦子ははたしてこの小説を読んでいたでしょうか。) そして関川夏央は、三ページの文章の最後をこんな風に書いています。 六〇年代末、時代の空気には、彼女に限らず、誠実な青年に過剰適応を強いる悪意が潜んでいた。いたましい、とつぶやくのみである。 友人の小林君が帰った後で、彼の嘆きを引き継ぐようにしながら社会に対する憎悪を増殖していった薫くんのリアリティとは、まさにこの「誠実な青年に過剰適応を強いる(時代の)悪意」であります。 これこそが、この度本書を読んでいて、最初私が忘れていた(十代の頃の私には普通に感知できていた)時代の「ニュアンス」であり、筆者が、すぐに古びるピンポイントな固有名詞を駆使してまでこだわった六〇年代末であり、まさに筆者が描こうとしたものではなかったかと、私は感じたのでありました。 実は風俗小説を読み切るには、作品内各所に点在しているこんなちょっとしたスイッチを、一つずつ見付けて丁寧にチェックしていくことが必要であり、特に作品がリアルタイムを過ぎるとその発見は少々困難になっていくのですが、それは同時に作品解釈の楽しさにもなっています。 ところで、「エンペドクレス」はどこに行ったかといいますと、これも後になって私は、これが思わぬ伏線であったことに「あっ」と驚いたのですが、作品内にエンペドクレスの説明がこう書かれてあります。 「世界最初の、純粋に形而上的悩みで自殺した」 いうならば、全編を通して流れている「人類の知性に対する信仰告白」とでもいえそうな薫くんのポジティブ・シンキングな生活と意見に、小林君から引き継ぐ形で彼に襲いかかってきた時代の「純粋に形而上的悩み」(と、その克服)こそが、この作品のストーリーの骨子そのものではありませんか。 エンペドクレスは自殺をし、高野悦子も列車に身を投じ、しかし薫くんは、由美ちゃんの手を後ろから握りしめ、ゆっくりゆっくりと歩くのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.04.15
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『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫(中公文庫) 私の高校時代に面白い国語の先生がいらっしゃいまして、その先生にこの小説を薦めましたら、「僕には、ちょっと内容がちゃらちゃらした感じがして、うまく読み切れなかった」と言われました。 少しご年輩の先生でしたが、そう言われた時私は、なるほどこの小説の新しさは「年寄り」(なんと失礼な言い方でありましょうか)には分かるまいと思ったのを憶えています。(生意気なガキですよねー、わたしって。) (後日その国語の先生には、また別の小説、確か織田作之助の『夫婦善哉』を、面白かったですとお勧めしたら、それは僕も読んだとおっしゃって、「君はなかなか面白い本を読むんだね」と褒められたことも憶えています。) さて、冒頭の小説の読書報告の後半であります。 青春時代、「バイブル」のようにしてむさぼり読みながら、節操なくその後急速に熱を冷ました本書を、私は久し振りに読みました。 その感想を一言で言えば、「よかった。今でもとても面白かった。」でありますが、でもこの本は、一般的な小説として、今でも現役であるのかについては、少し疑問に思いました。 というのも、読み始めてしばらくして気づいたことですが、これだけ限定された時代の固有名詞が沢山出てくる小説は、あまりないんじゃないかと言うことであります。 流行歌手やテレビ俳優の名前が頻繁に出てきて(その中には、後に筆者が結婚した中村紘子の名前も出てきて、もちろん中村紘子は「はやりすたり」の方ではないでしょうが、少し微妙なところもありますよね)、また流行歌の歌詞なんかが(これは割と効果的な用い方をしている個所もありますが)あちこちに出てきます。 風俗小説の宿命ではありますが(いえ、別に「風俗小説」と限らなくても、そもそも小説とは世態風俗を描くものでありますから、それは逃れられない宿命ではあるのですが)、やはりいろいろなものが、特にその細かな「ニュアンス」において古びてきて、よく分からないものになっています。 しかし、繰り返しますが、ここまで時代にピンポイントな固有名詞がちりばめられている小説はあまり記憶にありません。 (村上春樹の『海辺のカフカ』の中に、井上陽水の歌の歌詞が出てきて、私は少し驚いたことがありました。村上春樹は、作品中に沢山の歌に関する情報を詰め込むことで有名ではありますが、そのほとんどはクラシック音楽であったり世界的なレベルで有名なポップスであります。それに、このころ発表される村上春樹の小説は、まさに「世界文学」レベルでありましたのに。) こういった固有名詞が一番に古びることを、小説家が知らないはずはありません。だとすれば、筆者の意図は一体どこにあったのでしょうか。 そしてもう一つ気になりながら読んだのは、「文体」であります。 古今東西、強烈に個性的な文体というものは、その作家の中においてもなかなか使い廻しのしにくいものであります。 例えば、初期の宇野浩二の文体とか、野坂昭如の文体とか(なんか関西っぽいのばかりですが)、あるいは平野啓一郎のデビュー作などもそんな感じがしました。堀辰雄などもそうではなかったでしょうか。 こういう、いかにも個人の色の付いたような文体は、とても特徴的で人々の印象に残りやすいですが、反面古びやすいものでもあります。 そんな意味で、本書もかなり個性的な文体でしたが(この文体に対してサリンジャーとの影響関係をうんぬんされていたのは有名な話ですが)、今でも読めるものだろうかと気になっていたのですが、率直なところ、思ったよりまだ読める、という印象を(少しほっとしつつ)持ちました。まだ現役的であります。 と、ここまでだらだらと、私の「再読の印象」といった程度の感想を羅列してしまいましたが、前回の報告の最後に、今回私がそのように読んだ、本書のテーマについて触れていました。 それは、結局本書には何が書いてあるのかと言うことですが、そのキーワードを前回最後に書いておきました。 「エンペドクレス」であります。 あ、今回もまた、同じ単語で終わってしまった。 どーも、すみません。次回こそは、終わりにしますので。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.04.12
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『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫(中公文庫) 本小説の初出は1969年とあります。そしてその年の芥川賞を受賞し、小説はベストセラーになった、と。 なるほど。私の年齢で言いますと、リアルタイムでの読書はちょっと無理っぽい微妙な年度ですが(シリーズ第4作目の『ぼくの大好きな青髭』が、私にとってはリアルタイムの読書でした。連載当時と単行本との内容が、大きく異なっているのに驚いた記憶があります)、しかし読みましたねー、この「薫くんシリーズ」は。 時代をほぼ同じくする方ならきっと大いに同感し、そして懐かしがっていただけると思いますが、本当に当時はむさぼるように読みました。 そして、すごく影響を受けました。 今日に至るまで、好きな作家はいろいろと出てきましたが、あれほど強烈に影響を受けた小説は、私にとっては、他にはないと思います。 それは、そのころの読書好きな青少年にとっては、おそらくライフスタイル全般に関わった、ほとんど「全人格的」な影響じゃなかったかと思います、私もその一人でありますが。(本作はベストセラーになったし、映画化もされていますから、別に読書好きな青少年だけに限ったわけではないですが、しかし読書好きな青少年にとっては、たぶん別格だったと思います。) そんな、そのころは我が青春の「バイブル」のように思っていた作品でしたが、その後急速に「熱が冷めた」(少々はしたない話ですが)のは、少し客観的かつ散文的に考えますと、やはり新作が出なかったからでしょうね。 同じような感じで、デビュー作『風の歌を聴け』から読み始め、それも始めはさほど「ぞっこん」の読者でもなかった村上春樹が、いまだに私のフェイヴァレット作家であることを考えますと、やはりある程度、次々と新作を発表していただかねば、読者はいつまでも付いていないことが分かります。 だって、恋愛と同じでしょう。どうしても去る者は日々に疎くなっていきます。 というわけで、この度、全く久し振りに本書を手にしましたが(例の大型古書籍販売店で再廉価本の棚にありました。私がかつて読んだ本は、たぶんもう我が家にはないと思いますが、ひょっとしたらどこか本棚の隅にあるかも知れません)、うーん、何といいますか、ちょっと、客観視しにくいですよねー。 あたかも、初恋の彼女に数十年ぶりに会ったみたいで。 脈絡のない、分析的でない感想が、だらだらと浮かんできたりしました。 この「由美ちゃん」は、今読んでもやはりなかなか魅力的なお嬢さんだなー、とか、あ、思い出した、乳房を見せてくれた女医さんはアンニュイに煙草を吸っていたんだっけ、とか、やはり久し振りに出会った初恋の彼女(別に初恋の彼女でなくてもよいとは思いますが)みたいに、あの遊園地に二人でよく行ったよねー、とか、カラオケでユーミン得意だったよねーとか、あなたはよく浜省歌っていたじゃない、とか、全くとりとめのない会話がしばらく続きます。 そして、少し落ち着いて振り返った時、私に浮かんだのは、この小説にはどんな事件が起こっていたのだったっけということでありました。 実は、この小説には、何も事件が起こっていなかったのであります。 スキーのストックに足の親指をぶつけて生爪を剥がした薫くんが、ガールフレンドの由美ちゃんと喧嘩をする(まー、じゃれているような喧嘩でありますが)話と、友人の小林君が家にやって来てぐずくずよく分からない話をして、そしてその後片足を引きずりながら街に出た薫くんが5歳位の女の子と知り合いになるという話と、まー、これだけであります。 出来事の量的なものだけで言いますと(一般的に考えられる「質的」なもので言っても)、例えば保坂和志の何も起こらない小説と同じくらいのものであります。 でも、言うまでもなく、保坂和志の小説とは読後感がかなり違います。(これは別に保坂和志の小説がダメだと言っているわけでは、もちろんありません。) では結局、この小説には何が書かれていて、昔の私は、一体何に強烈に惹かれていたのかと、少し考えてみました。 分かったのはこういう事でした。そして少し驚いたのですが、私の考えついた作品のテーマ(にひょっとして近いと思われるもの、あるいは作品全体の骨格)には、作品中にキーワードが書かれていました。これであります。 エンペドクレス えー、すみません。次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.04.08
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『月山・鳥海山』森敦(文春文庫) どうもいけません。 何がいけないといって、よーするに書いてあることがちっとも分からないんですね。 いえ、本小説のことではありません。(本当はちょっとくらいは本小説のことでもありますがー。) 何がちっとも分からないかというと、解説の文章のことであります。 解説の文章なんて、そんなもの分からなくてもかまやしないという考えもありましょうが、これだけ何が書いているか分からないと、ちょっと不安になってきます。 本書の解説は、小説家の小島信夫が書いているんですね。 小島信夫といえば、「第三の新人」グループの中でも極めて異色な作家で、特に晩年になっていくほど、ほとんどシュールレアリスムみたいな作品が出てきたりしていました。 まー、そんなシュールっぽい作品を書くような方だから、解説文も一筋縄ではいかず、一つの作品のごときものである故、だから何が書いてあるか分からない、と。 そう考えることもできます。それに、解説文と書きましたが、実はこの解説は本書のために書かれたものではなく、雑誌に文芸時評みたいに書かれたものの転載であります。 ということは、ますます一つの評論としての文芸作品だから、小島カラーでシュールっぽく、何が書かれているかさっぱり分からない、と思ってもいいわけではあります。 ただ、面白い指摘もありました。 というより、この指摘が興味深いゆえに、他の分からない部分がじれったいという思いなんですが、こんな指摘です。 (略)漱石の名をあげたのは「月山」という小説がひどくおおざっぱにいったとき、「草枕」に似ているが、「明暗」をへた「草枕」だということをいいたいからである。 この指摘は、読んだ時はっとしましたね。さすがに鋭い感性と分析力だなと思いました。 実は本作は、まさにそんな話です。そして「草枕」の話が、なんともストーリーとしてよく分からないように(ただし私が「草枕」を読んだのはずっと昔で、単にストーリーを忘れているに過ぎないのかも知れません。また読み返さなくっちゃ)、この話もほとんどストーリーが、何といいますか、ないんですね。 こういう筋らしい筋のない小説は、かつて芥川が谷崎と論争したそんな昔より、連綿と日本文学の中に繋がっています。 本作も、全体として紀行文のように月山・鳥海山界隈の自然と風土と、そしてそこに住む人間の様子を綴っています。その筆致は、さすがになかなかのものだとは思います。例えばこんな感じ。 遠くこれを望めば、鳥海山は雲に消えかつ現れながら、激しい気流の中にあって、出羽を羽前と羽後に分かつ、富士に似た雄大な山裾を日本海へと曳いている。ために、またの名を出羽富士とも呼ばれ、ときに無数の雲影がまだらになって山肌を這うに任せ、泰然として動かざるもののようにも見えれば、寄せ来る雲に拮抗して、徐々に海へと動いて行くように思われることがある。海抜二.二二九メートル、広い庄内平野を流れる最上川を挟んで遙かに対峙する月山よりも僅かに高く、ともに東北地方有数の高山とされているが、たんに標高からすれば、これほどの山は他にいくらもあると言う人があるかもしれない。しかし、鳥海山の標高はすでにあたりの高きによって立つ大方の山々のそれとは異なり、日本海からただちに起こってみずからの高さで立つ、いわば比類のないそれであることを知らねばならぬ。 この文章は、連作「鳥海山」の中の第一話「初真桑」の冒頭ですが、実に見事な文章ですね。めちゃめちゃ気合いが入っています。 この気合いの文章だけでも、読むに十分だといえばそうなんでしょうが、ただねー、私としましては、これにもうちょっとよく分かる筋らしい筋が欲しいんですけれど、それって、ピントはずれな要求なんでしょうかねー。 本文庫本には、「月山」のタイトルの連作で「月山」と「天沼」という二つの話、そして、もう一つの連作が「鳥海山」のタイトルで五つの話が入っています。けっこう長いです。340ページあります。 ところが、その中で印象に残るくっきりとしたエピソードは、私としては、一つきりであります。(これだけ極端なのは、もちろん私の乏しい読解力ゆえでありましょうが。) それは、村にやってきたよそ者で行き倒れになった者をミイラにしてしまう、という話なんですが、これは印象的でした。 しかし、340ページでそれしかない(低読解力の私ゆえですが)という読書は、これは、けっこう辛いと思いませんか。 辛かったです。 上記に触れましたが、筋らしい筋がなくて、その代わり美術品のように鍛え上げた文体の力で読ませる小説は、日本文学の中に長く続いており、またそんな作品に対する評価は、今に至っても極めて高いように思います。 ただ、ちょっと、わたくし、思うのですが、評価、高すぎません? もちろん読んでいて心地よい名文は、読書の楽しみの大切な部分ではありましょうが、もう少し筋の方でも読者に「サービス」していただけないものでしょうかねぇ。 私のような「下手の横好き」っぽい読者も、世の中にはけっこういると思うのですが。 そんなことを、ふと考えました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.03.17
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『遠雷』立松和平(河出書房新社) 昨年亡くなった本書の筆者につきまして、私はほとんど知りません。 わずかに知っていたことと言えば、筆者に関わる「盗作」事件が確か複数回あったという報道と(だったと思うんですがー)、後、ニュース番組のレポーターをしていたお姿を何回かテレビで見たことがあるという程度であります。 そして、必然的に(って、なぜ必然的なのか、極めて私的にバイアスの掛かった人物評価なんですが)筆者に対して私は余りよい印象を持っていなかったんですね。 (ちょっとだけ説明しますね。「盗作」云々について、それを知って良くない印象を持つのはとりあえず理解していただけると思いますが、テレビのレポーターについては、これはまー、私の偏見であります。小説家がそんなことしてる場合やないやろー、という偏見です。すみません。) ところが(というか、そんなやつに限ってという感じで)、私は筆者の小説を今まで全く読んでいなかったんですね。 (ちょっとだけ説明しますね(2)。人物評価の際に、「本職」といいますか、その人物が最も心血を注いだ対象について全く無知なまま、周辺的な事柄だけをもって評価するという「風潮」が、とっても多いと思いません? 「~以前の問題だ」みたいなフレーズとともに……って、それはおまえのことだろう! あ、そうでした。どうもすみません。) そこで、反省して(という訳でもありませんが)今回、冒頭の作品を読みました。 よくできていますねー。感心いたしました。まるで、中上健次ばりではありませんか。『枯木灘』みたいですよ。(ただ、都会近郊の農村を書くと、今ではすぐに『枯木灘』っぽく思ってしまうような気がわたくし、するんですが。) とにかくとても感心しまして、ちょっとネットで調べてみたんですね。 すると、お亡くなりになるまでにとってもたくさんの著書があることをまず知りました。また、芥川賞候補にも二度なっていらっしゃる事を知りました。そして、二度取り損なった候補作の次の作品がこの『遠雷』なんですね。 うーん、実に立派なものであります。 この3作目というのはちょうど、村上春樹でいえば『羊をめぐる冒険』になり、村上龍で言えば『コインロッカー・ベイビーズ』になり、そして、中上健次でいえば『枯木灘』になるんですね。(……えー、ちょっとアバウトな作品数計算になっていますがー。一応、習作的なものは除外して、ってことで許してください。) つまり本作も、名作率がとっても高いイニングでの作品ということで、なるほどさもありなんという感じなわけです。 (ちょっとだけ説明しますね(3)。しかし、立松氏にとっては、本作を書いたおかげで芥川賞を受賞しそこなってしまいましたね。芥川賞の対象作品は、新人作家の中編までの小説であります。村上春樹が同じくこのパターンで芥川賞を逸し、一方村上龍と中上健次は3作目までにすでに受賞していました。ただ、本作は野間文芸新人賞を受賞していますから、それでよいとも思いますが。ついでにこの3作目で野間文芸新人賞というパターンも、村上春樹・村上龍と同じであります。) ところが、これも私の偏見なのかも知れませんが、このように中上健次・村上龍・村上春樹と並べると、えー、誠に申し訳ないながら、本作の筆者は少し、すこーしだけ、ちょっとだけ一般的評価が低いような気がしません? ……うーん、やはり芥川賞の力ですかねー、村上春樹は例外としてですがー。 さてとにかく、本書は、高度成長期の急激な都市開発に見舞われた旧農村に住む様々な人々の生活を描いて、なかなか読み応えのあるものとなっています。 一言で言うと、土地成金となった旧弊な旧農家と、新興住宅地の団地に住む浅薄な都市生活者の、ともに猥雑で浅はかな人間模様を(ということは、すべての人間の、ということでもありますかね)、一文一文を積み重ねるように、かつ、素っ気ないような文章で描いています。 そんな田舎の旧弊な嫌らしさと新都市の沙漠のような殺伐さに対比する形で、主人公・満夫青年のトマトのハウス栽培の様子と、彼の恋人・あや子との日本的でもありアポロン的でもあるような肉体と性が描かれます。 特に愛し合う二人の姿は、猥雑な舞台にふさわしい猥雑さをも含みつつ、この時代にふさわしい一種「純愛」といってもよいような描写が瑞々しく(あたかも真っ赤に熟すトマトと重なり合って)、とても好感の持てるものとなっています。 ただ、作品の視点を、主人公・満夫に完全に寄り添う形で設定したため、クライマックス部分の友人の事件の書き込みが不足しているように感じられ、またそれ以外のエピソードについてもやや重量感に欠けているようで、あれだけ手間暇をかけて作り出した作品世界の印象が、後半から終盤にかけて弱くなったのは、少し残念な気がします。 とはいえ、私としましては、久しぶりに作者の実力が大いに感じられる作品を読んだという思いでありました。いえ、堪能いたしました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.17
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『不安の周辺』辻井喬(新潮文庫) この作家を読むたびに(といっても、そんなに読んだことはないのですか)いつも考えるのですが、第一級の企業人と文学者との関係であります。 企業人で文学者というのは近代日本文学史で探す限りではほとんどいないですね。 以前に本ブログでも触れたことのある水上滝太郎くらいではないでしょうか。この人は、明治生命保険株式会社専務取締役でありました。 ついでの話ながら、医者は、結構いますよね。 森鴎外を初めとして、木下杢太郎や加賀乙彦や北杜夫や安部公房など(ただし加賀乙彦・北杜夫は程なく文筆に専念しましたし、安部公房はそもそも医者にならないという条件で医学部を卒業したと聞きますが)、まー、その他にも多分数多くいらっしゃるんじゃないでしょうか。 でも、医者というのは、基本的に一匹狼的な側面があると思いません? そんな側面は、やはり文学者に相通じるように思います。 ただ、鴎外はやはり別格でしょうねー。でも今考えれば、それも時代の差が、現在と比較するとかなりあるような気がします。 では、政治家はどうでしょうか。これも過去に一度書きましたが、まーやはり近代文学史ということで言えば石原慎太郎は外せませんね。 あと、宮本顕治というのはどうなんでしょうね。 しかし、この方とか、田中康夫なんて方の場合は、文学者的部分は段々無くなっていったんではないですかね。 村上龍が『13歳のハローワーク』という本の中でこんな風に書いています。 医者から作家になった人、教師から作家になった人、新聞記者から作家になった人、(中略)ギャンブラーから作家になった人、風俗嬢から作家になった人など、「作家への道」は作家の数だけバラエティがあるが、作家から政治家になった人がわずかにいるだけで、その逆はほとんどない。(中略)それは、作家が「一度なったらやめられないおいしい仕事」だからではなくて、ほかに転身できない「最後の仕事」だからだ。 そういえば村上龍も一時期映画監督をしたりしていましたが、やはり作家に戻っていますよね。 ともあれ、辻井喬の事を考えると、ついそんなことを考えつつ、しかも、例えば水上滝太郎の「明治生命保険株式会社専務取締役」は確かに凄いとは思いますが、辻井喬=堤清二の企業人としての実績は飛び抜けて凄くありませんか。 そんな方が、企業人が主人公の小説を書いています。 これはやはりその独特の視点には納得せずにはいられないものがありますよね。例えば、 たとえ倒産の通知を見ても、決してその会社に働いていた人々の困惑や経営者の懊悩、その家族が持ったであろう暗い夕餉の模様などを考えたりはしません。情緒の世界にかかずらっていたら事務処理が遅れてしまいますから。これは意志の強さと慣れ、それに経営に対する責任感があればできるのです。このような私の態度に、豪放磊落な経営者であったあなたは全面的に同意されるに違いないと思います。 しかし、誰だって自分の素直な気持とは別のところで仕事しているのだから、あまり生真面目に生活と職業の関係などを考えてはいけない。そんなふうでは競争相手に敗けてしまう。企業の勝敗は、経営者の感覚の切れ味や鮮度ではなく、精神的耐久力なのだと、私は不安を押し殺すようにして頑張ってきたのです。「軽く付合うぶんには刺激になるがね、考え方の基本が違うんだから何処かで必ず衝突する。まあ、深入りしなければプラスになる。芸人、政治家、女、みんなそうだ。」 挙げて行けばきりがないのですが、こんななかなか面白いフレーズがたくさん散りばめられています。 そして、その中心には何があるかといえば、この作家・この小説の場合は、異常に強いと言えそうな父親の存在感であります。 それは、憎しみと理解と、そして自らの血の中に流れているのが分かる骨絡みの肉親意識でありましょうか。 堤清二という企業人についてネットでちょっと調べてみたのですが、その父親の存在感というのは、なるほどと納得する強烈さでありますね。 ネットという安易な検索でも、さもあらんと納得してしまう強烈な個性が、堤清二の父親の説明について山のように出てきます。 そんな強烈な個性の人物が父親であって、一方文学的資質が自らに備わっていたならば、これは全く汲めども尽きぬ鉱脈だという気がします。 さて冒頭で触れましたが、優れた企業人で文学者という存在が極めて少ないと思われるこの世界であるならば、この筆者は、今後も優れた人間研究事例として、大いに文学作品を世の中に問い続けて欲しいものであります。 本作内容に十分触れきれていません。 かなり技巧的、意欲的作品であります。芥川的でもありますが、安定しています。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.11.16
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『震える舌』三木卓(新潮文庫) 近代日本文学において、病気というテーマは、結構たくさん書かれているものでありますね。(世界文学においてもそうなのかどうかは、わたくし寡聞にして、って寡聞なことが多すぎるんですけどー、存じ上げません。ごめんなさい。) 描かれる形は、まー、常識的に整理して、二種類ですかね。 (1)自己の病気 (2)他者の病気 また、別の部立てもできそうな気もします。 (a)肉体の病気 (b)精神の病気 さらにこの四つは、順列組み合わせができそうですね。ついでに、この組み合わせに沿って、私が思いついた小説作品をひとつずつあてはめてみますね。 (1-a)『いのちの初夜』北條民雄 (1-b)『狂人日記』色川武大 (2-a)『風立ちぬ』堀辰雄 (2-b)『死の棘』島尾敏雄 うーん、名作が並びましたねー。それに、まだまだこのほかにも一杯作品を挙げることができそうですしね。例えば志賀直哉の『和解』とか、他の病妻ものの小説もいっぱいありそうですし。 と、そんな日本文学と病気の蜜月関係でありますが、さすがに近年になりますと、そんな、何といいますか、ちょっと余裕をかましたような作品ばかりではありません。(って、そんな見方は、かなりバイアス掛かっていますかねー。) 本作もそんな作品です。 一方で、小説と病気の関係は、ホラーとかサスペンスとかのジャンルでもひょっとしたらたくさんの作品がありそうであります。ただ、その分野については、わたくし全く疎いもので、ほとんど存じ上げません。(また「存じ上げません」で、まったく、困ったものですなー。) しかし、今回冒頭の小説を読み始めて、しばらく読み進んだ時の感覚は、ちょうど瀬名秀明氏の『パラサイト・イヴ』を読んでいた時のものととてもよく似ていました。病気がテーマのホラー小説ですね。 特に前半の、平凡な日常生活が一変して、幼い娘が犯されてしまう病気の病名が分かるまでの部分は、極めて巧みなサスペンス仕立てになっており、大いにハラハラと読ませるものであります。 また文体が、無機質的な、カリカリとした硬質な感じのもので、スリリングな展開を大いに盛り上げています。 ちょっと、顰蹙を買いかねない「はしたない」ようなことを書きますが、確か筒井康隆が、カミュの『ペスト』を取り上げて、あれは循環器系の病気だから雰囲気がある。もしも消化器系の病気がテーマだったらああはいかない、ということを書いていたのを思い出します。もちろん私は、筆者の意図通りぎゃははと大笑いしながら、その文を読んだのですが。 今回の病気が、破傷風なんですね。 ……うーん、雰囲気のある病気ですねー。(もちろん、これはギャグであります。すみません。) それにまたこれが、幼い子供が、いたいけな女の子が、罹ってしまうんですね。 これが、つらい。 わたくし、いたずらに馬齢を重ねて参りまして、本当に無駄に年ばかり取ってきましたが、近年、子供がひどい目に遭うような作品(例えば『火垂るの墓』なんか)を見たり読んだりしますと、もうドーーッと涙が出てきてどうしようもない状態になります。 本作も、何度となく泣きました。 実は、だからなんですね、今回の読書報告が、読んだ作品内容とあまりそぐわないような、少し「低回的」な書き方をしているのは。 もうちょっと真正面から書き始めますと、これまたわたくしと致しましては、大変な状態になりかねないのであります。 というわけで、文体的にはストイックな書きぶりと、内容的には、前半のドラマティックでサスペンスな展開と、後半のヒロイックな治療描写が(能勢という女性の主治医がとてもいいです)、それこそカミュの『ペスト』を彷彿とさせるようで、大いに読ませる作品となっていました。 名品であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.26
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『ぽろぽろ』田中小実昌(中公文庫) 7つのお話が入っている短編集なんですが、冒頭に総題にもなっている『ぽろぽろ』という短編が入っています。 この短編だけが、主人公が旧制中学校4年生なんですね。 後の短編はことごとく、主人公は二十歳か二十一歳あたりで、昭和二十年から二十一年くらいの中国大陸を、軍隊の初年兵として過ごした過酷な話になっています。 トータルで見ますと、この構成は実によく作られたもので、特に一作だけ作品内容が異なっておりながら、そのテーマとなるものがこの短編集の芯になっていることは、感心するばかりであります。 とにかく、開巻一番に読み始める『ぽろぽろ』という小説の密度が異常なまでに高いです。異様な感じがします。 文章はむしろ稚拙。いえ、稚拙感を漂わせながら実はかなり計算的かとも思うのですが、何といいますか不思議というのか、はっきり言うと、少し気味が悪いです。 この不思議な感覚の文章は全編にわたっていまして、私が思い出す近い感覚の文体といえば、深沢七郎の文章かな、と。でも深沢七郎の方が、もう少し上手な感じにされてあったかな、と。 例えばこんな感じなんですね。 南京から上海へは列車できたのだろう。だが、この列車のことは、ぜんぜんおぼえていない。たぶん南京のどこかで列車にのったときのこと、列車のなかでのこと、たぶん上海のどこかで列車をおりたときのことなど、まるっきりおぼえていない。 これはきみょうなことだが、とくべつなことではなく、よくあることだ。よくあることなので、じつは、きみょうだともおもえる。 どうですか。なんか少しヘンでしょ。私が少しヘンだと思うのは、二つの点なんですがね。 一つはまず、書かれている内容がよく読めば少しヘンじゃないですか。書かれてあることに論理性が全くありません。 いえ、論理性のないところがこの文の、さらに強いて言えば、論理性を突き抜けたところにこそこの小説の美点が宿っているのだ、と言えないわけではないでしょうが、でもそう言った好意的なスタンスに立たなければ、ただの「与太話」と感じても仕方がないんじゃないか、と。 (もっとも、日本文学には、そう言った「好意的なスタンス」に立って読むのが前提となっている小説は、溢れかえっているのですが。) もう一つ、私がなんか「気味の悪い感じ」を持つのは、上記引用個所の漢字とひらがなのバランスなんですね。 この個所は、二つの形式段落(行替えが中に一つと言うことですね)から成り立っていますが、二つ目の形式段落には漢字が一文字もありません。まさか、たまたまって事はないですよね。 さて、上記にも書きましたように、この短編集には7つの小説が含まれているのですが、後半の小説になっていくほどに、実は「メタ」っぽい個所が出てきまして、描いている小説についてのエクスキューズがどんどん増えていきます。こんな感じです。 それとおなじように、ぼくは、大尾を物語にした。また、くりかえすが、大尾は大尾だ。その大尾を物語にすると、大尾は消えてしまう。あるいは、似て非なるものになる。 ほんとの大尾が消える、などとも言うまい。ほんと、なんて言葉もまぎらわしい。戦争の悲劇とか、戦争の被害者だとか、そんな言葉は、ぼくはつかったことはないが、そういう言葉をつかうのとおなじことを、ぼくはしゃべってきた。 引用したのは『大尾のこと』という7篇中の最後の小説ですが、この小説などは、ほぼ半分ほどがこういった小説の方法論についての記述になっています。 どうなんでしょうか。 「筋のない小説」については、近代日本文学は一種「お家芸」みたいなところがあって、有名な谷崎と芥川の論争をはじめ、「私小説」系列作家の中には、「物語」は文学的価値の一段低い物だという考え方は連綿としてあり、志賀直哉なんかははっきり「嘘は書けない」なんて書いていますね。 その一つの究極の方法論が、今回の小説の筆者の方法論であるのでしょうか。 このこだわりは、保坂和志などにも受け継がれているように思え、私としては、だから面白くないなんて気持ちは決して持ってはいないのですが。 ただ私が少し気になるのは、なぜそう言うことを作品内に書くのかと言うことで、いや、それこそが新しい形なのだという気も一方ではしつつ、例えば、徳田秋声などの作品には徹底的な客観描写が描かれながら、それについてのエクスキューズなどまったくなかったぞ、と。 無かったからこそ、我々はその描かれた世界の構築性に、一種の感動を覚えたのではなかったか、と。 うーん、この辺になると、「好み」みたいな感じになってくるのでしょうか。 『ぽろぽろ』の持つ異常に高い緊張感については、私は大いに圧倒されたのではありますが、後の作品になっていくに従って、少し、好みの違いが出てきた感じがしたのは、少し、残念でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.05
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『枯れ葉の中の青い炎』辻原登(新潮文庫) ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。色々なものが此の男にのり移るのださうだ。鷹だの狼だのの霊が哀れなシャクにのり移つて、不思議な言葉を吐かせるといふことである。 こんな文章で始まる短編小説を書いたのは中島敦で、タイトルは『狐憑』といいます。「狐つき」のことですね。 原始時代の話、憑きもののしたシャクは次々と譫言のように物語を語り続け、それを彼の部落の若者たちが聞きたがるようになっていきます。ところが老人達、つまり村の中心人物達はその事がどうも気にくわない……、と話は進んでいきます。そして、作品の結語は、 ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱え出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。と結ばれています。これは、物語の魔に取り憑かれた男の話であります。 さて、今回報告する小説ですが、辻原登という作家の作品で、私、この度初めて読みました。 いやー、まだまだ私の知らない、凄いお話を紡ぎ出す方がいらっしゃるものですねー。びっくりしました。 新潮文庫の裏表紙に内容紹介の文章が載っていますが、そこに「小説の愉しみを存分に味わえる」と書かれてあるのですが、本文を読む前に私はこれを読んで、失礼ながらあまり信用しなかったんですね。今までよく似た文言をいろんな紹介文なんかで読み、そして期待して本文を読んでがっかりした経験がとても多かったからです。 そもそも短編集の総題の『枯れ葉の中の青い炎』というタイトルからして、何も知らなければ、なんか心境小説を延々と書き続けてきたこの道50年の老作家の、今回もまた老境の日々を淡々と描いた作品、みたいな感じ、しませんか? ところが、これがぜんっぜんっ! 全然違うんですねー。びっくりするんですねー。 何気なさそうな新聞記事の紹介から始まって、プロ野球の今は無き球団トンボ・ユニオンズの話に進み、そこから往年の名投手スタルヒンの話と若い同僚選手相沢進の話に移動したかと思えば、ゴーゴリが出てくるわチェーホフが出てくるわ、そしてさらには南洋諸島にいる中島敦の話しに飛んでいく、そしてそしてその上……と、驚くべき連想力とそれを支える筆力とで、読者をぐいぐいと引っ張り回し振り回し仰け反らせはらはらとさせ、徹底的に凝りに凝ったストーリーで、まさに「小説の愉しみを存分に味わえる」作品となっています。 この短編集には6つの話が収録されているんですが、そのうちの4つまでがこのタイプ、つまり「ジェットコースター小説」(今私が命名しました)であります。 しかし6作品のどれもとってもおもしろいので、じゃ私のランキングを作ってみようと思って順に挙げていくと、 『ザーサイの甕』→『水いらず』→…… と、おやっ? 私が「ジェットコースター小説」じゃないだろうと判断した残りの2作品が、我がランキングの上位に入ってしまいました。 上記に、抜群におもしろい「ジェットコースター小説」と自分で書いておきながらこうなってしまったのは、うーん、何故だろうかと考えたのですが、こんなのは微妙な好みの問題にすぎないとも思いつつ、あえてその理由を挙げてみますと、それはたぶん作品の終え方のせいかなと考え至りました。 つまり、結局の所短編小説の難しさとは、作品の幕の降ろし方の難しさではないかと私は考えるわけですね。 それが「奇談」になるのか、「人生の断面」になるのか、書き込みすぎてもいけないし書き足りないのもいけないという、まさに微妙な作品の着陸地点をどこに設定するかで、いわば作品の「高み」というものが決定されると考えるわけです。 だから結局、私のランキングの不思議は、「ジェットコースター小説」であるか否かとはあまり関係がないようにも思いますし、ただひょっとすれば、「ジェットコースター小説」は、往々にして書き込みすぎるきらいがありはしないかと、少々、そんな感じが致します。 しかしともあれ、この万華鏡のようにカラフルな小説を生み出していく作者の姿に、わたくしは、まさに冒頭にあげた中島敦の作品のように、 「ああここにも一人、物語を紡ぎ出す魔に取り憑かれた男がいる。」と、ゾクゾクしながら感じたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.01
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『アカシヤの大連』清岡卓行(講談社文庫) この文庫には5つの(少し長めの)短編小説が収録されています。これです。 『朝の悲しみ』『アカシヤの大連』『フルートとオーボエ』 『萌黄の時間』『鯨もいる秋の空』 読んでいる時は結構辛い小説でした。しかし読み終えてみると、とても見通しの良い読後感の残るものでした。 それはこの5部作(といわれているそうです)の最終話『鯨もいる秋の空』の読後感が、とても爽やかなせいであると思われます。 実はこの最初の小説『朝の悲しみ』というのが、この筆者の小説デビュー作なんですね。 そして2作目の『アカシヤの大連』で芥川賞を受賞した、と。 「小説デビュー作」と書きましたが、この筆者はそもそも詩人なんですね。そして評論家。 有名な評論がありましたよねー。高校の国語の教科書で私も読みました。 ……えーっと、なんてタイトルでしたか、ちょっと良く覚えていないんですが(もうこの失念状態はなんか致命的でありますねー)、確かミロのビーナスの美しさは両腕が欠けているからだと説いた「失われた両腕」(確かこんなタイトルだったような)という評論であります。 詳しい内容は既に分からなくなっていますが、なんか、明晰な、びしびしと迫ってくる、タイトな感じの評論だったように覚えています。(ちがったかしら) という詩人兼評論家のイメージが私にはあったのですが、それもそのはずでこの筆者が小説を書き出したのは47才からなんですね。女房が亡くなったのが、まぁ、切っ掛けみたいな感じで書き出された「私小説」。 さて、上記に「読んでいる時は結構辛い小説」と書きましたが、なぜ辛いのか、その理由は二つだと思います。 (1)文体について、かなり観念性の強い部分があり、そこが非常に読みづらい。 (2)昭和後半あたりにもなって「私小説」を読まされる意味がよく分からない。 この2点だと思いますが、この2つはお互いに関係し合って「読みにくさ」を増幅しているように思います。 まず1点目についてはこの表現通りなんですが、その寄って立つテーマが「青春の彷徨」といった感じの部分であり、そこにはやはり青春期特有のナルシズムも含まれ、そんな部分が、うーん、とっても読みづらいです。 そして2点目については、少し説明いたしますね。 上記に「青春期特有のナルシズム」と書きましたが、そもそも「私小説」と「ナルシズム」はその成立期より不可分の関係にありますよね。 そのころ(「そのころ」というのは「私小説」の成立期ですね)、人々はまだまだ「野蛮」で、そしてその自らの野蛮さを、誰かに指導して貰いたがっておりました。(説明がだんだん物語り口調になってきました。どうも、マユツバですなー。) その指導をしたのが、例えば志賀直哉なんかですよねー。 「おれの生き方を読め。おれの生き方感じ方こそが、文化的な人間の生き方なのだ」と、私小説でもって自分の生き方を描き、それをお手本にさせたわけです。(『小僧の神様』なんて、まさにそんな話ですよね。) ところが時は移り、その間もいろいろな私小説作品が描かれてはきましたが、世の中は少しずつ野蛮さから啓蒙されてきました。 いえきっと、本当は相変わらず野蛮であったのでしょうが、人々は「少なくともおれだけは野蛮ではない」と、ほぼ全員が、ばらばらに思い始めました。 で、こんな風に感じ始めるんですね。 「もう手本などはいらない。というより、手本なんて鼻につく。」 人々は、私小説がもはや古くさく、何より、「自分のことを描く価値がある人間だと考えること」が私小説の前提であることに、恥ずかしくなってくるんですね。(ふつーの羞恥心なら、そのあたりの感覚は、まー、正しいですわねー。) しかしここに、あくまで「おれを見ろ」と、私小説をしつこく書き続ける人々がいます。 しかしその方法論が、もはや今までのままでは通用しない(少なくとも尊敬されない)ことも熟知しており、そこで彼らは新しい戦略に出ます。 「居直り」です。 現代小説の私小説作家は、ことごとくこの「居直り」を手法としています。 ところで、今回の清岡卓行の作品の頃はどのあたりかといいますと、これがとてもビミョーな時期なんですね。私小説の手法が古くさくなり始めて、人々が、「なぜこんな個人の話を読まねばならないんだ」と思い始める、ちょうどそんな時期ですね。 で、そこに強い観念性が加わって、そしてとっても「読みづらい」と。 しかし、にもかかわらず、前述しましたように読後感はとてもいいです。一体これはなぜでしょうか。 ……うーん、それはおそらく、文章の力なんでしょうねー。 上記「失われた両腕」の部分でも述べましたが、「明晰な、びしびしと迫ってくる、タイトな」文章。 今更ながら私は、文章の持つ凄い力に大いに感銘を受けたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.08.27
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