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南に面したリビングルームの窓の外、今年も、新たに、オーシャンブルーの緑のカーテンが半ばできかけています。昨日(5/30)、オーシャンブルーの初咲き、一輪が花開いていました。家人に咲いたよと言われて、昨日、初咲を撮りました。 今朝見ると、初花は閉じています。それに続くのは今のところ見られません。これからどれだけ花開き、咲き続けてくれ烏rかが楽しみです。また、 我が庭の西端、ブロック塀の前の花壇に地植えのアジサイが花開いてきています。 序に、記録として・・・・アジサイは、5月26日時点では、 こんな感じから花が咲き始めていました。一塊だけが色づいている状態でした。アジサイの開花たよりが報道され始めることでしょう。地元宇治にある三室戸寺では、今日からあじさい園の開園となるそうです。ホームページには、7月6日(日)までと開示されています。ご覧いただきありがあとうございます。補遺三室戸寺 ホームページ あじさい園の開園 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.05.31
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奈良国立博物館を出た後、興福寺を迂回しなければならないので、興福寺の参道を北辺まで歩き、県庁前の通りを左折して、久しぶりに東向の商店街通りを歩いてみました。遅めの昼食&休憩タイムにするつもりもあって・・・・です。冒頭の景色は、興福寺北辺の北西角近くの歩道側で目に止まったモニュメントです。昼食後、商店街を南に取り抜け、三条通に出て、猿沢池畔に向かいます。 これは池の北西側から東方向の眺めです。左の景色をご覧ください。興福寺の五重塔がすっぽり工事用シートで被われています。 池の畔に設置された「采女まつり」の案内碑。 池の南東側に設置されている案内地図の部分拡大図。方位を赤字で追記しました。 池の南東隅から眺めた興福寺南円堂猿沢池の南辺を率川が流れています。この率川に架かる橋を渡って南進するのですが、その前に、橋上から川を眺めると、 川中にこの石の船形が見えます。まず、これを久しぶりに見たくて、こちら方面の散策を思いついたのです。川を流れる水は枯れていて、近くに川に降りる階段が設置されていますので、川床に降りてみました。 左は、川上側からの船形の眺めです。石橋の橋脚の角柱には、「明和七庚寅年五月吉日」と刻されています。明和7年は1770年です。 数多くのお地蔵さまがこの船に乗船されています。 池の近くに設置された石灯籠。六角形を基本とした灯籠で、中台には「春日社」と刻されています。竿の正面には「常夜燈」と刻されています。道沿いに南方向に歩みますと、 町家の格子に「今御門町」の案内板が掲示されています。池からすぐ南の通りの両側が今御門町です。奈良には、七御門と称する各御門があったそうです。今を含めて、西・北・中・高・下の六御門は現在も町名として残っています。東御門町だけが町名としては消滅。「今御門は元興寺の北門がここにあったところからといわれているが、一説には今御門と称する公卿が住していたからともいい伝えている 奈良町座」(一部転記) この今御門町に、「道祖神」の額を掲げた朱塗りの鳥居が見えます。この南進している道路が「上ツ道」に繋がることを神社の傍の標識が示しています。 鳥居の内側に、格子扉があり、右側の扉に駒札が掲げてあります。「猿田彦神社(道祖神)」です。奈良市今御門町壱番地鎮座と冒頭に記されています。祭神は猿田彦命と市寸島(イチキシマ)姫命。例祭は9月7日。「当社は入皇五十一代平城天皇の御代に元興寺境内に始めて創祀申し上げた奈良市に於ける神社であります。 宝徳二年元興寺大火災後再度の火難に類焼し終に現状の小祠となりしは歎きても余りあります。 尚当社は往古より道祖神、妻神、賽神として名高く道開きの神に依り商売繁昌、開運招く福の神であり、又良縁、安産の神、即ち妻神として特に婦人に信仰が厚いのであります。 境内の巨石は賽の神として勝負の守護神として篤い信仰をあつめております。 古歌に 村のよめ 道祖伸に願をかけ(明和) 」 (駒札転記) 今御門町に続く南側が勝南院町です。ここにもう一社。こちらは黒塗りの冠木門に朱塗りの板塀。参道の奥に、朱塗りの鳥居が見えます。 「住吉神社」です。門の左側に読みやすい駒札が掲げてあります。 冠木門を入ると、左側にお地蔵さまが安置されていて、右側に手水舎があります。 神仏習合、健在です。 小社ですが、本殿の扉には風景が描かれています。松の木に雪が積もっている絵のようです。 基壇部正面の絵この先は、ならまち大通りに出ます。 北側の歩道脇に、勇壮な鹿のブロンズ像が建立されています。なぜここに? 不詳。地図を確認しますと、ならまち大通りの南には元興寺があり、ならまち大通りを東に行けば、旧大乗院庭園手前で行き止まり。勿論、さらに東方向の先は春日大社境内です。大通りを横断し、南進します。交差点の南東角に「奈良町情報館」があります。 通りの左(東)側でまず目に止まったのがこの町家です。建物の北端に、「元興寺 極楽坊禅堂」と刻した寺号標石が置かれています。町家の腰板に「元興寺(ガンゴウジ)と奈良町」の案内板が掲示されています。「元興寺は飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)を、八世紀初めに平城京に移した古代の大寺でした。中世以降、奈良の町の発展にともない寺地の大半は宅地化しました。 ここ中新屋町と周辺の町は、金堂や講堂、僧坊、東塔など主要な伽藍があった地域です。 当町に接する中院町の元興寺は、現在は真言律宗の寺院で、境内は奈良時代の元興寺に遺跡として史跡に指定されています。また極楽堂と禅堂は奈良時代の僧坊を改築した建物で、国宝に指定されています。 奈良市教育委員会 」 (全文転記)さらに、南に歩むと突き当り。ここには「奈良町物語館」があります。 突き当りの近くにある地蔵堂左側に、「総本家 きくをか」と刻した石標が立っています。上部に、総本家菊岡と刻され、また「きくをかくすり」「養血湯」という言葉も記されています。調べてみますと、「菊岡漢方薬局」として現存する老舗です。(資料1)やはり奈良ですね。歴史の都。戻るのは、JR奈良駅ですので、この辺りで方向転換です。右折して駅方向を目指しつつ未訪のところに立ち寄り、散策を続けます。 途中の町家の入口傍で目に止まった飾り。これは多分、京都の八坂庚申堂で目にした「くくり猿」かなと思います。お猿は庚申信仰では、庚申さん(本尊 青面金剛)のお使いです。(資料2)奈良の庚申堂情報を調べてみて、「魔よけとして町の軒先に吊るされている猿をかたどったお守りは、住民の災いを代わりに受ける」という説明に出会いました。「身代わり猿」とも称するそうです。(資料3)記事をまとめるにあたり、地図を確認して後付けしてみますと、右折して西新屋町を通り抜け、隣の高御門で突き当たり、通りを右折。北にむかい、すぐ次の角で左折して西に向かいます。ジグザクと北西方向にあるJR奈良駅に向かっているという次第。その隣は、陰陽町です。高御門は上記の今御門と同類の現存する町名。陰陽町・・・さすが奈良の町名という感じです。 目に止まったのがここ。「鎮宅霊符神」と記された額が門に掲げてあります。 右側の門扉には、この案内板が掲げてあります。ここもまた、初めて訪れる神社です。 いかめしくはなく、ちょっとユーモラスな親しめる狛犬が出迎えてくれました。 拝殿の向こうに本殿が見えます。右側に見えるのは、多分境内社でしょう。時間の関係もあり、本殿前までは行きませんでした。この神社の西隣りに「からくりおもちゃ館」があります。今回はパス。またの機会に。この後は、西進し、大きな通りに出てから右折して北へ。地図を確かめると「やすらぎの道」です。北進して、三条通に戻ります。 三条通に向かう途中で出会ったお地蔵さま。これをまとめていて、ふと思いました。奈良では、お地蔵さまのお顔に化粧を施したものには出会っていません。奈良には、京都のように化粧を施すという風習はないのでしょうか・・・・。 上三条町の交差点に戻って、後はJR奈良駅へ。その途中に幾度も見ていますが、改めて撮ってみたのがこのモニュメント(?)某銀行の支店の前にあります。この意匠は何を表象しているのでしょうか?ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 菊岡漢方薬局 ホームページ2) くくり猿 :「八坂庚申堂」3) 庚申堂 :「ならまち情報サイト」補遺八坂庚申堂 ホームページ庚申堂 :「奈良市観光協会」上ツ道 :「いかす・なら」奈良町情報館 :「ならまち情報サイト」元興寺 ホームページ奈良町物語館 ホームページ奈良町からくりおもちゃ館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.05.30
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5月23日(金)、奈良国立博物館開館130年記念特別展として開催された「超国宝 祈りのかがやき」を鑑賞してきました。到着した時は、冒頭の建物の入口(西)から建物のちょうど西端まで、入場券保有者と当日券購入者の2つのそれぞれ複数人の待機列ができていました。 前売券前売券を購入していたので、入場券保有者の列に並ぶだけで済みました。そうでなければ入館までにほぼ倍の時間を要するところでした。10分弱の入場待ちでした。予約してコンビニで受け取る前売り券の実にそっけないこと! 半券の意匠の楽しみすらないのは、残念。 PRチラシこの特別展のPRチラシです。館内は撮影禁止でした。このチラシに掲載の画像を一部引用して、覚書を兼ねて、ご紹介します。はや、開催期間もあと2週間余になりました。開館130年記念を兼ねたこの特別展、一部の展示品を除いて国宝がずらりと展示されています。企画の意図として、上掲チラシには、「『超国宝』という言葉には、そうしたとびきり優れた宝という意味とともに、時代を超えた先人たちから伝えられた祈りや、この国の文化を継承する人々の心もまた、かけがえのない宝であるという思いを込めました」と、メッセージが記されています。この特別展は、「文化の灯を次の時代につなぐため、奈良博が踏み出す新たな一歩」と位置づけられています。まず全体の構成をご紹介。 第1章 南都の大寺 第2章 奈良博誕生 第3章 釈迦を慕う 第4章 美麗なる仏の世界 第5章 神々の至宝 第6章 写経の美と名僧の墨蹟 第7章 未来への祈りそれでは会場に。展示会場は2階。入口を入り、2階の東側第1会場と西側第2会場に分かれています。各会場は反時計回りに巡る形で、各セクションの展示を鑑賞しながら順次進むという形です。けっこう混んでいました。展示期間で言えば、展示替えがあった後半期を鑑賞したことになります。 図録表紙< 第1章 南都の大寺 > 最初に、購入した図録の表紙に使われていますが、法隆寺の「観音菩薩立像(百済観音)」がまず目に飛び込んできます。その傍に、「四天王立像 広目天・多聞天」と「地蔵菩薩立像」が展示され、一つの独立空間が構成されています。すごくスリムで像高209cmの百済観音立像をごくまじかで見上げるように鑑賞できるのはまたとない機会でした。こんなに高くてスリムだったかというのが驚きでした。かつて法隆寺でも拝見したと思うのですが、まじかで眺める距離感の迫力を再認識しました。 普段、ダイナミックな姿の四天王像を見慣れていますので、法隆寺の広目天・多聞天像の直立の姿に異次元の印象を抱きました。威厳の凝結した姿。東大寺、大安寺、唐招提寺、元興寺、法華寺という大寺所蔵の仏像が展示されています。東大寺の「重源上人坐像」を久しぶりに拝見しました。岡寺の「義淵僧正坐像」、法華寺の「維摩居士坐像」は初拝見です。 東大寺大仏殿宝前に配置されている「金銅八角燈籠火袋の羽目板」の一面。銅製鋳造で鍍金。これが縦101.7cm、横51.3cm という大きさです。東西南北の両開き扉の四面には獅子、その間の四面には楽器を奏でる音声菩薩が配されています。その内の一面です、< 第2章 奈良博誕生 >ここでは、木製模型で精巧な「帝国奈良博物館本館昇降口雛形」(重文)が印象に残っています。明治27年(1894)作。イギリスの王子二人が明治14年(1881)に奈良を訪れた際に入手したとみられる古写真と共に、「八雷神面」(奈良・元興寺蔵)が展示されていました。鬼面の頭頂に龍が乗っていてその上に鬼が跨っています。鼻の両側に忿怒面が二面彫られています。本面両眼下で上下に割れて、その内側に忿怒面三面が彫られているという複雑で奇妙な面です。近世の元興寺において雨乞いの霊験ある面とされたと言います。藤田美術館蔵「空也上人立像」も久しぶりに拝見できました。室町時代(15~16世紀)作<第3章 釈迦を思う > このセクションでは、やはり京都・清凉寺の本尊「釈迦如来立像」が目を惹きつけます。鎌倉時代以降に、この仏像を元にして、その姿を写し、清凉寺式釈迦像が数多く造られるようになりました。インド・中国・日本の三国を渡った「生身の釈迦」として信仰を集めました。清凉寺式の模刻像はいくつも拝見してきましたが、そのルーツ像を間近くで拝見するのは初めてでした。 釈迦如来椅像 東京・深大寺 飛鳥時代(7世紀) 国宝 釈迦如来坐像 奈良・室生寺 平安時代(9世紀) 国宝 釈迦如来立像 奈良・唐招提寺 鎌倉時代(1258年) 重文清凉寺式をはじめ、造像された時代が異なり、容貌もかなり違う釈迦像を一堂に眺められたのも興味深いところでした。 唐招提寺蔵の「金亀舎利塔」も精巧な工芸品です。まさに匠の技が発揮されています。鎌倉時代(13世紀) 国宝奈良・西大寺からは、「叡尊坐像と像内納入品一式」の他に、「金銅透彫舎利容器」「金銅宝塔」「鉄宝塔および五瓶舎利容器」という鎌倉時代に製作された国宝類も出典されていて、見ごたえのある作品でした。このセクションの最後に、伊藤若冲作「動植綵絵」から、「雪中鴛鴦図・大鶏雌雄図」の二幅が展示されています。これも久しぶりに見ることができた絵です。なぜこのセクションに? 図録の次の解説でなるほど・・・・。「仏教信仰に篤かった若冲が当初から仏画として寺院への安置を意図したものと考えられる。釈迦像とともにおびただしい数の生き物を描くという構成は、入滅する釈迦を多くの動物たちが供養する仏涅槃図の情景を念頭に置いたものだったに違いない」(p315)< 第4章 美麗なる仏の世界 > このセクションでの私にとってのハイライトは、やはりこれ。奈良・円成寺蔵の運慶作「大日如来坐像」(国宝)です。平安時代、1176年作。すぐ近くで拝見できるのはこのような機会しかありません。併せて、次の諸仏も後期展示で拝見できます。 十一面観音立像 東京国立博物館蔵 中国・唐(7世紀) 重文 虚空蔵菩薩立像 京都・醍醐寺 平安時代(9世紀) 国宝 虚空蔵菩薩像 東京国立博物館 平安時代12世紀 国宝 そして、この「菩薩半跏像」です。京都・宝菩提院願徳寺蔵。平安時代(8世紀)また、先日ある講座を聴講しました。その中に出て来た「地獄草紙」(奈良国立博物館蔵)「餓鬼草紙」(東京国立博物館蔵)の現物の巻を見ることができたのはラッキーでした。これらはともに平安時代(12世紀)の作。国宝。金属製の華鬘は、岩手・中尊寺金色院蔵「金銅華鬘・金銅幡頭」2枚を拝見しました。平安時代(12世紀)の作。国宝。一方、奈良国立博物館蔵「牛皮華鬘」2枚も初めて拝見。珍しい物だなと思いました。平安時代(11世紀)の作。国宝。< 第5章 神々の至宝 > このセクションのハイライトは、やはり奈良・石上神社蔵「七支刀」です。この異様な形に祈りの思いが込められているのでしょう。刀の表裏両面に象嵌銘があり、部分的に読み取れます。拝見できる機会を滅多に得られないと思います。こういう機会だからこそでしょう。古墳時代(4世紀)の作が、連綿として維持保管されてきたことはすごいなと思います。神奈川県・清浄光寺(遊行寺)蔵の「一遍聖絵」巻三を拝見できたのも私にはよかったです。< 第6章 写経の美と名僧の墨蹟 >整然と乱れのない文字で書され経典の展示を見ると、いつも驚嘆するばかりです。残念ながら経巻の文字列を判読できないので、字面をさらりと眺めるだけに終わるという不甲斐なさです。整然とした文字列の美しさは感じますが、そこでとどまっていす次第。< 第7章 未来への祈り >昨年、NHKの大河ドラマ「光る君へ」を見ていたせいもあるのか、奈良・金峯神社蔵の「藤原道長経筒」が印象に残ります。平安時代、寛弘4年(1007)年のもの。 図録裏表紙この特別展を締めくくるのは、奈良・中宮寺蔵の「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」です。飛鳥時代(7世紀)の作。国宝。上掲のPRチラシにも、菩薩半跏象像が載っています。 (参照資料1) 館内1階には、この記念撮影スポットが儲けてあります。 今回はテラスへの出入口が出口になっていましたので、庭を見ながらテラスを通り外にでました。 最初に見たのが、鹿の親子連れ。奈良博を出た後、少し散策することにしました。 最後にこの点にふれておきましょう。興福寺の南円堂前から五重塔横の通路を抜けて奈良博に行こうとしたにですが通行止めで迂回をしなければなりませんでした。五重塔の工事が進行中でした。当分この案内板の通りですので、ご注意ください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「超国宝 祈りのかがやき 展示品一覧」*図録『超国宝ーー祈りのかがやきーー』 奈良国立博物館 20251) 弥勒菩薩半跏思惟像 :ウィキペディア補遺奈良国立博物館 ホームページ法相宗大本山 興福寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.05.29
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京都市伏見区竹田に所在の安楽寿院を特別公開の期間に探訪しました。この時の記事の補遺として、京都国立博物館に寄託されている「阿弥陀三尊像」をご紹介します。今日(5/27)、京都国立博物館で開催中の特別展「日本、美のるつぼ」を鑑賞に出かけてきました。そこで上掲の委託石仏像を久しぶりに眺めてきました。この特別展は後日、別稿としてご紹介します。冒頭の写真に見えるように、石造の阿弥陀三尊像は覆屋の中に安置されています。京都国立博物館敷地の南西角に近いところです。数十メートル北側には、西門(表門)があります。 この案内板が覆屋の手前に設置されています。 中央の阿弥陀如来 向って右に蓮台を持つ観音菩薩、左に合掌する勢至菩薩が脇侍として配されています。 ご覧いただきありがとうございます。安楽寿院についてご紹介したこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -1 安楽寿院と鳥羽・近衛天皇稜
2025.05.27
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昨日(5/26)撮りました。先週土曜日にはこの一鉢のアマリリスの花が最盛期でした。そして、一輪がしぼみ始めています。が、まだ満開と言える状態です。記録として、この姿を残したいと思います。 ご覧いただきありがとうございます。
2025.05.27
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先日、東高瀬川の堤防を伏見の竹田辺りから宇治川河口まで歩いてみたことをご紹介しました。5月19日(月)の午後、東高瀬川よりも東に位置する濠川(ホリカワ)が宇治川に合流する河口に設けられている「三栖閘門」を訪れてきました。東高瀬川からの帰路の折には、閘門建物を眺めるだけで通り過ぎてしまったので、久しぶりに再訪してみようと思ったためです。冒頭の景色は、観月橋から300mほどの西に位置し、宇治川に架けられた近鉄京都線の鉄橋です。その堤防に、河川表示板が設置されています。ここは「大阪湾から約44.5km」の地点だそうです。 観月橋の傍に、京阪電車宇治線の「観月橋駅」があります。観月橋の傍から、宇治川右岸の堤防上を下流方向に歩きます。 偶然見かけました。この時は、流れに逆らう形で移動中でした。 少し先に、濠川の河口に架けられた幅の狭い歩道部分が見えてきます。 この歩道から北西方向を眺めた景色。濠川に架かる「三栖高架橋」が北に見え、西寄りに「三栖閘門」の北側の閘門が見えます。その手前の緑地は、濠川河口の右岸です。 歩道を渡り、堤防を西に進むと、この南側の「閘門」が正面に見えます。 この標識が目に止まりました。閘門の柱部分に貼付されています。 閘門の前の通路途中で眺めた北側の閘門です。 この閘門は、現在観光遊覧船(十石船)の乗り場に使用されています。河口側(南側)の閘門のゲートは閉じられ、北側のゲートは開けられています。遊覧船が北側のゲートをあと少しで通り抜けて行こうとしています。 河口側の閘門傍を通り過ぎると、堤防の南側が宇治川内に出っ張った形の広場のように整備されています。以前に訪れた時の記憶にはなかったように思います。 案内板ここはかつての濠川右岸の部分が三角形状になり堤防と地続きになっています。左側が北方向。右側が宇治川の堤防側です。赤色▲マークがこの案内板の設置場所。「三栖閘門は伏見湊と宇治川を結ぶ施設として昭和4年(1929)に造られました。2つのゲートで閘門内の水位を調節し、水位の違う濠川(ゴウカワ)と宇治川を連続させて、船を通す施設です。 昔は、たくさんの船が閘門を通って伏見と大阪の間を行き来していました。 現在、道路や鉄道の発達にともない、交通路としては利用されていませんが、地域との関わりが深く、歴史的にも大変貴重な施設です。 *濠川(ゴウカワ)は「ほりかわ」とも呼ばれています。」 (案内文転記) 左隣りに設置の案内地図 水でつながる文化とくらし 酒と歴史が薫るまち 案内地図の部分拡大図 三栖閘門資料館建物入口前の階段の傍に「三栖閘門資料館」の案内板が設置されています。「昔の捜査室を復元し、三栖閘門のなりたち、伏見の歴史などを紹介しています」(転記)この案内板は新しいものですが、資料館自体はちょっと寂れた年代物という雰囲気が漂っています。 「伏見港と伏見の町」を示すジオラマ風パネルが展示されていて、 宇治川から、閘門を利用して、伏見港に向かう船の様子を模型で示す展示もあります。閘門が使われている様子が、動きとしてビジュアルに示されています。 室内の一壁面には、時代ごとの変遷史の説明が掲示されています。 安土桃山時代。 秀吉が築いた大都市の玄関、伏見港。 江戸時代。 巨大宿場町と京都の外港としての繁栄。 明治~大正。 舟運の近代化、蒸気船が就航、そして鉄道へ。 昭和初期。 治水と水運を両立させた三栖閘門の開運。 昭和中期~平成。 舟運の減少と治水の強化で通船が終焉。 平成~。 十石舟が行き交う情緒ある港町の復活。 北側の閘門 濠川の水位に合わせた上で、ゲートを開けた状態。 十石舟の遊覧船通過に合わせたゲートの開放度なのでしょう。 河口側(南側)の閘門を正面に眺めた景色 三栖高架橋の手前から、濠川の上流側を眺めた景色。「伏見みなと橋」が架けられ、左(右岸)側が「伏見みなと広場)、右(左岸)側が「伏見港公園」です。伏見港公園には府立総合体育館があります。この濠川は、かつての伏見城の外濠であり、琵琶湖疎水開削後はその水路として利用されることになりました。上掲の琵琶湖からの距離表示は琵琶湖疎水の延伸距離ということになります。また、角倉了以の開削した高瀬川は、かつてはこの濠川に河口が合流していました。現在の地図で見ると、竹田街道が宇治川流派を横断し中書島と往来するための「京橋」。その京橋の西方向に「伏見であい橋」があります。濠川と宇治川流派が出会う地点です。この近くに高瀬川の河口が合流していました。近くに、角倉橋があり、角倉了以翁水利紀功碑が建立されています。現在の東高瀬川は豪川とほぼ並行でストレートに南流して、宇治川に合流しています。 北側の閘門をさらに北から眺めた景色 三栖閘門資料館の北側は、「伏見みなと広場」と称されています。 伏見みなと広場は濠川の右岸に設けられた広場で、ここはその一部です。 小さなお地蔵さまの立像が祀られています。 お地蔵さまの近くから南(宇治川)方向を眺めた景色広場の通路沿いに南に歩めば、 「巻上機モニュメント」が設置されています。「巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。 ここでは、実際に後扉室側(現宇治川展望スポット)で使っていた巻上機をモニュメントとして設置しています。」(説明文一部転記)これで三栖閘門のエリアをほぼ一巡してきたことになります。このあたりでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「京都・洛南探訪マップ」 製作・発行 洛南保勝会こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -4 東高瀬川沿いに
2025.05.25
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鉢植えのアマリリスの花が咲きました。ジャスミンの花はもうすっかり枯れてしまいました。 ジャスミンのすぐそばから、トケイソウがジャスミンに絡みつくように延びていて、次々に花を開かせてきています。あわせて、鉢植えのサボテンが気温の上昇に反応したのでしょうか。 花を咲かせました。 咲いて散る花咲いてくる花花を楽しめる時季はいいですね。記録を兼ねて・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。
2025.05.21
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北向山不動院の表門(南門)前の東西の道路を東に歩み、突き当りのT字路で右折して南に歩みます。逆に、左折して北に歩めば「竹田駅」です。少し先に、西方向「城南宮参詣道」との交差点があります。ここは東高瀬川が道路を横切る箇所でもあり「城南宮橋」が架かっています。冒頭右側の河川表示板を以前にも見ていましたので、ここでふと、東高瀬川の堤防を歩いてみようと思いついたのです。ここが独り歩きの気楽さ!それでは、東高瀬川に沿って南下し、宇治川に合流する河口まで歩きましょう。東高瀬川の堤防に上る角に、地蔵堂がありました。 小さなお堂ですが、覆屋が設けられていて、「南無地蔵大菩薩」と墨書された大きな赤地の提灯が吊るされた、いいお堂です。 堤防上の道を南に歩み始め、最初に出会った橋は「醍醐田橋」。橋詰の角壁面に世界地図が装飾されています。アジア・ヨーロッパ・アフリカ・オセアニアの地域を示しています。地球儀を両手で支えているような意匠です。おもしろい。 橋の傍から 下流側の眺め 野田橋 野田橋を通り過ぎてから振り返った景色。野田橋の近くで、北東側からの七瀬川が東高瀬川に合流します。 下流側 高瀬橋津知橋通の幅に合わせた幅広の橋です。 下流側 しばらく南進して振り返った景色。東から、琵琶湖疎水の放水路が合流しています。津知橋通を東に進みますと、近鉄京都線「伏見駅」の近くにいたります。そこからさらに少し東に進めば「津知橋」があり、ここはかつては伏見城の豪川・外堀があった箇所です。それが琵琶湖疎水の流路になり、津知橋の南少し先で、流れが分岐します。西方向に分岐する流れ(川)が琵琶湖疎水の放水路です。本流はかつての濠川を水路として琵琶湖疎水がジグザクと曲折しながら南西方向に南流していきます。 下流側 西丹波橋丹波橋通の橋です。丹波橋通が上記の濠川(琵琶湖疎水の水流)と交差するところに「丹波橋」が架けられていますので、こちらは西丹波橋という名称です。 西丹波橋の西詰には、川の名称表記が「新高瀬川」となっています。この日、記録写真を撮っていて「新」の表記に気づいたのはここだけです。 三雲橋 西丹波橋と三雲橋との中間あたりから、現在の東高瀬川の数十m東側に旧高瀬川が南に流れていたのです。つまり、角倉了以により開削された高瀬川の水路です。この旧高瀬川があったがゆえに、丹波橋通で、西丹波橋が架設される時、新高瀬川との銘板が使用されたのでしょう。(資料1)東高瀬川は、鴨川下流の左岸流域に位置する部分を言うようです。「この流域では,比較的早くから都市化が進み,洪水時によく浸水被害がおこりました。このため,昭和45年度から改修事業に取り組み,整備促進に努めているところです」(資料2)という概要説明から推測すると、1970年代以降に河川改修・整備がなされたようです。 下流側 大信寺橋ここは毛利橋通で、東高瀬川、旧高瀬川の東側に大信寺というお寺があります。濠川に毛利橋が架かっています。 大信橋からさらに南に歩めば、川の東側に酒蔵が見えます。 新大手橋大手筋通。伏見城の大手筋にあたる通りです。濠川に大手橋が架かっています。 新大手橋の西詰、南西側から橋越しに酒蔵を撮りました. 縄手橋この橋は油掛通にあります。東に進めば、下油掛町に油懸山地蔵院西岸寺という浄土宗のお寺があります。地蔵堂には俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されています。 下流側 三栖橋 堤防の道は、外環状線の架橋に突き当り横断できません。近くの交差点まで迂回して下流側に横断することを余儀なくされました。 交差点を渡り、迂回して戻った下流側の堤防道路 京阪電車の踏切が見えます。 踏切を横断した先に、橋がありますが老朽化のために通行禁止になっています。ウォーキングと言う観点で、東方向に向かうには重要な橋なのですが、放置されているのは残念です。 東高瀬川が宇治川に合流する河口にたどり着きました。 宇治川の下流側の景色。宇治川沿いの上流側、つまり東方向には三栖閘門と三栖閘門資料館があり、濠川が宇治川に流れ込む河口などがあります。これで東高瀬川を歩くという目的を完了しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「京都・洛南 探訪マップ」 制作・発行 洛南保勝会 2) 東高瀬川-概要 :「京都市情報館」補遺伏見散策マップ :「伏見観光協会」高瀬川(京都府) :ウィキペディア七瀬川遊歩道と東高瀬川(約1.2km)の桜並木♪伏見のお花見穴場スポット(京都伏見) :「とっておきの京都プロジェクト」東高瀬川[8606040770]淀川水系地図 国土数値情報河川データセット :「geoshapeリポジトリ」西岸寺(油懸地蔵) :「京都観光Navi」三栖閘門の歩み :「国土交通省 淀川河川事務所」三栖閘門資料館 :「国土交通省 淀川河川事務所」三栖閘門資料館 :「京都ミュージアム探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -1 安楽寿院と鳥羽・近衛天皇稜 へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -2 北向山不動院 (1) へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -3 北向山不動院 (2) へ
2025.05.19
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北向山不動院の南門です。ここが表門になるようです。門としては新しい感じ。この門前の東西方向の道路は、油小路通を横断し西に歩めば、城南宮の社地の北辺を通り、鴨川に架かる小枝橋に到ります。東に歩めば、近鉄京都線の線路手前で行き止まりのT字路です。 表門を入る前に、東側に立つ「北向不動尊」の大きな石標の向こうに見える鐘楼からご紹介を続けます。 霊元天皇の皇子、二品済深親王の撰文銘があり、三条釜座の名越浄味の鋳造による銅鐘を吊るした鐘楼があります。江戸時代、1694年の作。池ノ間には、梵字が陽刻されています。 表門を入りますと、参道が北に延び、本堂・収蔵庫の西側に到ります。 手前が収蔵庫側、その北に本堂が続きます。表門からこの収蔵庫に到るまでの参道の途中、東側に、 普賢菩薩 文殊菩薩 虚空蔵菩薩 千手観音菩薩 4体の石造菩薩坐像が奉請されています。境内を巡って気づいたことは、建立されてそれほど長い年月を経てはいない等身大に近い石仏像を数多く拝見できることです。ここを起点に境内各所に建立された石仏像を眺めてみます。境内の北西側に数多くの地蔵石仏が安置されていることを前回ご紹介しました。その続きに 弁財天坐像 阿弥陀如来坐像 大威徳夜叉明王像水牛に乗る姿が特徴の明王です。 (資料1) 金剛夜叉明王像 降三世夜叉明王像胸前で降三世印という強い呪力的メッセージを発する印を結び、一対の男女を足下に踏みしめている姿に特徴があります。 (資料1) 軍荼利夜叉明王像左右両手を拳印にして胸前で交差させる大真瞋印(ダイシンイン)を結び、白蓮華が両足を受ける姿です。宝生如来が忿怒の相に身を変えたものとされるそうです。(資料2)洗心井戸の手前(北側)に建立されています。 北面する本堂の北西側、西門の傍にある地蔵堂の前、東側にこの「水かけ不動尊」(石像)が安置されています。 石像を切り出してみました。不動明王の手前、左右には、コンガラ童子とセイタカ童子が従者として立っています。不動明王の背後の一段高い位置に建立されているのは大日如来です。印相は智拳印。不動明王は大日如来が衆生の教化のために忿怒身に姿を変えられたものと考えられています。(資料1,2) 西側面に水鉢が備えてあります。前回ご紹介した北向山の諸仏一覧の掲示には、「北向山の五大力尊」として、水不動・降三世夜叉明王・軍荼利夜叉明王・大威徳夜叉明王・金剛夜叉明王を一覧にしています。そして簡略な説明が記されています。 西門 こちらは西門です。油小路通に面している門ですが、通りより少し東側に入り込んだ場所に門が設けてあります。 油小路通の歩道と車道の境界辺に、「北向不動尊」と太文字で刻した石標と常夜灯の残欠が遺構として見られます。通りに面して石灯籠の竿部分に「永代常夜燈」と刻されています。その南側面には奉納主でしょうか、「伏見柳町傾城中」と刻されています。傾城は傾城町、つまり遊郭、遊里のことです。伏見柳町はかつては全国で有名な傾城町の一つだったようです。現在の地名では伏見の中書島です。伏見には城下町ができ、遊郭も設けられていたようです。公許の遊郭がありました。伏見は大坂と京の都を結ぶ水運の拠点、交通の要衝地となっていました。 (資料3,4)さて、再び境内に戻ります。 天女や龍王名を刻んだ石碑に石鳥居を建てた社もあります。稲荷山に見られるお塚を連想しました。白蛇大弁財天女を中央にして、左側に玉吉龍王・白雲弁財天女。右側に白龍弁財天女・黒長大龍王と五柱の名称が刻されています。 本堂前の境内に立つ石灯籠。右が北方向。向こうが西方向で、水かけ不動の背後の大日如来の基壇の角柱と大日如来の文字が見えます。 一対となるもう一つの石灯籠が東方向、護摩堂の手前に立っています。文政4年辛巳歳の年号が刻まれています。1821年正月に奉納された常夜灯です。竿の形がちょっと変わった石灯籠です。ポピュラーなスタイルとは言えない石灯籠です。記録として載せておきます。不動院の境内を一通り巡った後、北向山不動院を出ました。この後は、ウォーキングです。どのルートを歩こうかと思いながら歩き始めて、城南宮参詣道に到りました。東高瀬川にぶつかりましたので、そうだ、堤防を河口まで歩いてみようと・・・・・。つづく参照資料1) 『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 2) 『仏尊の事典』 関根俊一 編 学研3) 伏見の紹介 傾城町としても栄えた中書島 :「伏水物語」4) 消えゆく遊里の残痕 京都「中書島」遊郭跡 :「レトロな風景を訪ねて」補遺不動明王 :ウィキペディア降三世明王 :ウィキペディア大威徳明王 :ウィキペディア軍荼利明王 :ウィキペディア金剛夜叉明王 :ウィキペディア夜叉 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -1 安楽寿院と鳥羽・近衛天皇稜 へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -2 北向山不動院 (1) へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -4 東高瀬川沿いに へ
2025.05.18
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安楽寿院から少し西に、「北向山不動院」があります。「京都非公開文化財 16カ所で公開」という見出し記事(2025.2.7 朝日新聞)に、この北向山不動院の不動明王像の写真が掲載されていて、記事本文に「鳥羽上皇ゆかりの北向山不動院は、秘仏本尊の不動明王像(重要文化財)を開帳」という一行が記されていました。これが今春の特別公開の中で2カ所を訪れた動機になりました。竹田浄菩提院町に所在。北向山不動院には、冒頭の東門から入りました。 拝観券 境内に入って、最初に目に止まったのがコレ!傍に、「六角手水鉢」と案内板が設置してあります。手水鉢としては珍しい形。北朝時代暦応年間(1338年)の作。六角柱の一面に暦応の文字を判読できます。 北向山不動院の案内駒札。これは南門近くに設置されていますが、ここでご紹介します。 本堂この本堂は、正徳2年(1712)東山天皇の旧殿を賜り移築したものと言います。(資料1,2)本堂の正面は北面しています。 この本堂の背後に鉄筋コンクリート造りの収蔵庫が連接されています。その側面の入口から入り、開帳されている「半跏不動明王像」を拝観しました。堂内撮影禁止です。この半跏不動明王像は、大治5年(1130)、鳥羽上皇の勅願により、興教大師覚鑁(かくばん)に不動明王像を造像させて、王城鎮護の為に北向きに安置されました。北向山不動院と号して、お寺が創建されました。俗に「北向きのお不動さん」「北向不動」と称されています。元は天台宗延暦寺派末のお寺だったそうですが、現在は単立寺院だそうです。近畿三十六不動尊霊場第二十二番のお寺です。 (資料1,2)秘仏半跏不動明王像は、収蔵庫側の重厚な厨子に安置されています。この秘仏の厨子とは少し離れた北側の手前、本堂の内陣側に、もう一つの厨子があるように見えました。こちらにお前立の像が安置されているようです。(当日、講話が行われていましたので、内陣の前には近づけませんでした。) 本堂に向って左(東)側に手水舎があります。 「洗心井戸について」という案内が掲示されています。”この井戸から湧き出るお水を「洗心水」と言い(本堂東側にもあります)嘉永二年の昔から行者の修行を行うお滝や参詣者の心身を清めるお水として大切にされています。 この洗心水で心身を清め 護摩壇の「龍水泉」のお水でお不動さんに「心願」を唱えてお供えください。 合掌” (案内文転記) (飲料にはご遠慮くださいと別記あり) 洗心井戸の左隣りに、「開山堂」があります。 階下が通路になっているこの二階部分は回廊の感じなのですが、その腰板のところに、この北向山不動院に祀られている諸仏の一覧が掲示されています。 左奥に、「護摩堂」があります。 薬師堂 お瀧洗心井戸。上掲案内文中の本堂の東側にあるもう一つの洗心水です。 ここがたぶん瀧行の場所なのでしょう。役行者像が安置されています。 本堂の東側を巡ります。ちょっと小高くなった箇所があります。 北側の入口となる石段があります。灯籠を兼ねた石柱に、地蔵尊と刻されています。 石段の上の小堂には石造大日如来坐像が祀られています。 お地蔵さま 薬師三尊石 左側の小社には白狐像が置かれています。稲荷社でしょう。 右側の大きな社は「山王大権現」の木札が柱に掲げてあります。つまり日吉大社です。 この山王大権現社の近くに、南側の入口となる石段があります。 ここには石仏群を拝見できます。お地蔵さまとして祀られているようです。 石仏群の傍に覆屋があり、そこに祀られている石仏。如来坐像のように見えます。 その右側には五輪塔と石塔風石造物が置かれています。右端もお地蔵さまでしょうか。北向山不動院には、西門もあります。こちらは次回にご紹介します。西門側、境内の北西側にもお地蔵さまが数多く安置されています。ここではそちらをまずご紹介します。 この宝形造の屋根のあるのは地蔵堂です。覆屋形式の建物。正面はオープンです。 向って左側 向って右側二体の石造地蔵菩薩立像が安置されています。右側の地蔵尊はお顔が化粧されていて、手と足も化粧が見えます。正面に奉納された提灯には、延命地蔵尊、六体地蔵尊、町内安全地蔵尊、十方地蔵尊という名称が墨書されています。上掲掲示板の中に、「北向山の諸仏」の項に、地蔵尊としては歯神地蔵・安産地蔵尊・延命地蔵尊・六体地蔵尊の名称が列挙されています。 その右(北)隣りの覆屋もまたお地蔵さまがご集合。 上段には六体地蔵尊が安置されています。その右側の石仏も、中段の石仏も、前掛けをしてありますので、お地蔵さまです。下段には、香炉と思える六角柱石が置かれています。その側面に浮彫りが見えます。これもまた六体地蔵尊を表しているように思います。 さらに、右(北)隣りに小さな地蔵堂があります。「南無地蔵大菩薩」と墨書された提灯が奉納されています。 さらに、その右(北)隣りの覆屋にもそれぞれ大きさの異なるお地蔵さまの立像が六体安置されています。結果的に六体地蔵尊となった感じです。それぞれ作風も異なります。この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料1) 当日いただいたリーフレット 「鳥羽天皇勅願所 北向山不動院 略誌」2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂補遺北向山不動院について :「北向山不動院」 上記の新聞報道記事が掲載されています。半跏不動明王像の写真掲載。特別公開情報 北向山不動院 :「京都古文化保存協会」近畿三十六不動尊霊場会 ホームページ 22番 北向山 不動院 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -1 安楽寿院と鳥羽・近衛天皇稜 へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -3 北向山不動院 (2) へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -4 東高瀬川沿いに へ
2025.05.17
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令和7年(2025)度春期京都非公開文化財の特別公開が16ヵ所で行われました。その中から2ヵ所、5月7日に訪れました。一つが冒頭の「安楽寿院」です。近鉄京都線「竹田駅」を起点に、ウォーキングを兼ねての探訪。覚書を兼ねてご紹介します。竹田駅西口から南方向へ歩みます。近衛天皇稜の宝塔が一部見えてきますので、その方向に右折して、西に歩めば安楽寿院に到ります。徒歩約10分です。 拝観券特別公開されたのは、築地塀で囲まれた安楽寿院の書院建物内部に展示された寺宝と書院の庭、それと境内の西側の収蔵庫とその一画です。いずれも拝観箇所は撮影禁止でした。 冒頭の築地塀の一画のすぐ西側に「史跡 安楽寿院境内」の石標が建てられています。 境内の西端には鉄柵で囲まれた収蔵庫と遺跡展示の空間があります。ここがもう一つの普段非公開文化財のエリアです。その間の境内地はいつでも訪れることが出来るオープンな境内になっています。ここでは、アクセス自由な境内部分をご紹介することになります。上掲の石標の右側には、「鳥羽離宮跡」の案内板が設置されています。 杉山信三氏による鳥羽離宮復元案が、イラスト(中西立太作)で掲示されています。このイラストの左上には、 「鳥羽離宮跡の遺跡図」が併載されています。ここで、収蔵庫への入口近くに掲示されている「鳥羽離宮跡配置図」を先に併載します この配置図に右寄りで赤丸を追記したところが、安楽寿院辺りです。右上隅が「竹田駅」になります。 鳥羽離宮跡配置図に併載のこの説明に記されていますが、鳥羽上皇が鳥羽離宮の東殿に阿弥陀三尊像を本尊とする仏刹を建立されました。これが安楽寿院の始まりです。それを契機に、安楽寿院の伽藍が整備されていきます。時代の推移の中で隆盛、衰退、復興という変動を経て、江戸時代に、安楽寿院は十二院五坊の塔頭寺院を擁したそうです。現在の「書院、庫裡は江戸時代の塔頭寺院のひとつで唯一残った前松院」(資料1)が本坊として寺名をつないでいます。 (資料1,2)新義真言宗智山派のお寺です。山号はなし。伏見区竹田中内畑町に所在。安楽寿院境内を東から西に眺めていきましょう。 上掲石標傍の参道を北に歩むと「薬師堂」があります。現在の建物は昭和33年(1958)に再建されたお堂です。阿弥陀堂(旧本堂)と称されて阿弥陀如来坐像を安置していたようです。収蔵庫ができた後に薬師堂になったものと思われます。(資料1.2) 降り棟の先端の獅子口 薬師堂右前方の石灯籠 参道の途中、右手に鐘楼があります。梵鐘は元禄5年(1692)の鋳造だそうです。 鐘楼の手前の木の傍には数多くの石仏が集っていらっしゃいます。前掛けが掛けてありますので、お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 隣の参道の正面に見えるお堂は、 「大師堂」、弘法大師が祀られています。慶長元年の地震で倒れた新御塔の遺材で建てた勤行堂だそうです。(資料1) 宝筐院塔大師堂への参道の途中、西側に 手水舎 龍の口から注がれる水が同心円の水紋を描いていました。 さらに西側の参道には鳥居が立っています。 三宝荒神社慶長11年(1606)新御塔復興に際して、伽藍安穏を祈願して三宝荒神を勧請されました。(資料1)眼病平癒祈願の信仰があり、「目病み荒神」とも称されているとか。(資料2) この3つ目の参道の途中、西側に宝篋印塔があり、その傍に鉄柵に囲われた収蔵庫への入口があります。その傍に、上掲の「鳥羽離宮跡配置図」が掲示されています。宝篋印塔の左後方に小屋が見えます。ここには三尊石仏が安置されています。この石仏には古来歯痛平癒を祈る信仰があるそうです。 (資料1)釈迦三尊 薬師三尊三尊石仏は松香石製で、火山灰のかたまりでこわれやすいのが欠点だそうです。数少ない藤原時代の石仏として貴重なものとされています。 (資料2)中央に阿弥陀三尊の額入写真が置かれています。この弥陀三尊は京都国立博物館に委託されていて、博物館の庭で見ることができます。平成知新館の南にある庭の南西隅の近くです。 収蔵庫に、今回特別公開されたこの阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されています。これは、冒頭の写真に見える特別公開案内掲示板に使われている写真を借用しました。鳥羽法皇念持の定印阿弥陀如来像で、院政時代の代表的仏師賢円もしくは長円による製作だそうです。桧材による寄木造りで、像内は完全に内ぐりされ、各部は一定の肉厚に仕上げられているそうです。 (資料1) 安楽寿院の南に、「近衛天皇安楽寿院南陵」があります。御陵は東面しています。 新御塔が上記の通り、慶長元年の伏見大地震で倒壊した後、慶長11年に、片桐且元を普請奉行として豊臣秀頼により、この二層の多宝塔が復興されました。(資料1,2)元の新御塔は、鳥羽上皇の皇后美福門院得子のために建立されました。没後に新御塔に葬られる想定でしたが、永暦元年(1160)に没した折、遺命によって高野山に葬られることになりました。その結果、美福門院得子所生の近衛天皇の遺骨が新御塔に移し納められたのです。そして、現在の多宝塔の復興という経緯になります。 (資料1,3)近衛天皇は鳥羽天皇の第九子として保延5年(1139)に誕生し、母は藤原得子。3歳で第76代天皇に即位し、在位14年、久寿2年(1155)7月、17歳で崩御。船岡の西野にて火葬し、遺骨は紫野知足院に安置されたのですが、長寛元年(1163)11月に新御塔に改葬されたと伝えられています。(資料2) 安楽寿院前の道を西に歩むと、この石碑があります。この辺り一帯に造営された鳥羽離宮が院政という体制で政治が行われる拠点となりました。 ここで右折して少し北に歩むと、 「冠石」鳥羽天皇が法皇になられたときに、冠をこの石の下に埋められたところと伝えられているとか。(資料2)その先に 「鳥羽天皇安楽寿院陵」があります。 現在の御陵は宝形造りの法華堂で、東面しています。鳥羽天皇は堀河天皇の第一皇子です。母は贈太后藤原苡子。嘉承2年(1107)5歳で即位、在位16年。崇徳天皇に譲位後、白河上皇の後、1129年より、崇徳・近衛・後白河の三天皇に及んで院政を行います。保元元年(1156)7月崩御されると、遺命により安楽寿院本御塔(三重塔)に奉葬されました。本御塔は永仁4年(1296)に焼亡しました。現在の法華堂は、元治元年(1864)の造営だそうです。 (資料2)鳥羽天皇安楽寿院陵の前の道をさらに北に歩むと、 この大きな五輪石塔(重要文化財)が見えます。弘安10年(1287)の銘があり、鎌倉中期の作。高さ約3mで花崗岩製です。 (資料1,2) 五輪石塔の傍に小屋が見えます。小屋の正面側から見ますと、石仏が安置されています。前掛けが掛けてありますので、たぶんお地蔵さまとして信仰されているのでしょう。ここは境内の西北で、特養老人ホーム城南ホームの前にあります。現在は境内からの飛び地になっているようです。ここから、北向山不動院に向かいます。つづく参照資料1) 「安楽寿院紹介」 受付で拝観手続きの折にいただいたリーフレット2)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p142-1473)『京都市の地名 日本歴史地名大辞典27』 平凡社 補遺鳥羽離宮跡 :「京都市埋蔵文化財研究所」鳥羽離宮 :ウィキペディア白河天皇 :ウィキペディア鳥羽天皇 :ウィキペディア美福門院(藤原得子):「高野山へのアクセスと歴史探索など | 秋里籬島」藤原得子 :ウィキペディア近衛天皇 :ウィキペディア院政 :「コトバンク」院政のはじまり:「名古屋刀剣博物館 刀剣ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -2 北向山不動院 (1) へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -3 北向山不動院 (2) へ探訪&歩く 京都非公開文化財・春期公開と東高瀬川 -4 東高瀬川沿いに へ
2025.05.15
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いよいよ、醍醐寺聖天堂秘仏初公開のエリアに向かいます。表書院から、「純浄館」と称する建物の回縁を左に回り込み、本堂に繋がる廊下に進みます。聖天堂は本堂の西側に位置しています。 廊下の途中に「醍醐寺聖天堂」に向かう廊下があり、最初にこのお堂を拝観しました。この景色は、聖天堂内で説明を聞いた後、本堂に向かう前に撮った景色です。聖天堂に進む廊下の入口に、案内掲示が掲げてありました。拝観手続きの際に案内説明文をいただきました。宝形造りの屋根のお堂の正面入口のところに唐破風の屋根が設けてあります。聖天堂とはその名の通り、大聖歓喜天(聖天)を祀るお堂です。今回の初公開にあたり、大聖歓喜天像は本堂の一画に初公開の場所が設定されていて、そちらで拝観する形でした。その前段として、聖天堂内を拝見し、その場で唱導に合わせて真言を唱えた後で、説明を拝聴しました。堂内はせいぜい数人が入れる広さです。 唐破風の屋根の棟の正面の鬼板には巾着の形が造形されています。「巾着は大根、お酒とともにお供えされる油で揚げたお菓子」を表しているそうです。併せて、「聖天様のもたらすご利益の大きさも表しています」とのこと。油で揚げたお菓子は「清浄歓喜団」という名称で知られています。京都の亀屋清永さんがこの和菓子処です。奈良時代に伝わった唐菓子のの一種「団喜」です。(資料1)聖天堂の正面入口の上部には、「鶏羅山(ケイラセン)」と彫られた額が掲げられています。これは聖天様が住んでいるヒマラヤ山脈のカイラス山をあらわすそうです。醍醐三宝院の聖天堂では、毎朝午前3時から、聖天行者が聖天様に油を注いで供養する秘法(浴油法)が行われているそうです。 純浄観の東側面の向こうに、池の土橋が見えます。 本堂の南面の回縁からの庭の眺め 純浄観の東側面 本堂に入る前に、回縁の北側を眺めました。五社明神の西側に「拝殿」があります。三宝院境内の北東隅には「五社明神」が祀ってあります。 ふり返ると、本堂は正面が西向きで、向拝と屋根を支える柱、本堂と純浄観をつなぐ廊下の屋根、純浄観の入母屋造檜皮葺の屋根が見えます。 頭貫の上の蟇股 向拝の正面から見上げた蟇股と本堂の棰本堂内は撮影禁止です。本尊は快慶作の弥勒菩薩像。本尊に向って右に宗祖・弘法大師(空海)像、左に開祖・理源大師(聖宝)像が安置されています。本堂は弥勒堂とも呼ばれています。本尊の弥勒菩薩坐像は建久3年(1192)、勝賢僧正が後白河上皇追善のため造立したもので、像内に銘文が残されているそうです。(リーフレットより)堂内に入ると30人近くの人が正面の外陣に坐って案内係の人の説明を聞いています。その列に続いて坐りました。しばらくして様子が掴めました。本堂内の北東隅の一画を臨時に秘仏聖天(歓喜天)初公開の場所に設定されていて、一度に5人ずつが拝観できるという形でした。待機時間がけっこうありました。拝観した大聖歓喜天像は、印象では高さ16cm位の感じ。頭が象で人の身体をした2体が抱擁する姿の双身像です。拝観できたのは江戸時代に造像の聖天さん。三宝院は醍醐寺座主の居住する本坊となっています。私の聞き間違いでなければ、座主それぞれの聖天さんが祀られてきているとの話でした。御蔵山聖天さんの記事を書いた時に載せた図像の事例を引用し聖天さんをご紹介しましょう。(資料2)本堂を出た後は、純浄観の回縁を引き返し、順路指示に従って、奥宸殿に向かいます。 純浄観の回縁から眺めた奥宸殿の東面と池この池は奥宸殿と聖天堂との間に位置します。池に架けられた木橋の向こう(北)に茶室「松月亭」が見えます。 奥宸殿の東側奥宸殿の南東隅から眺めた畳敷きの通路を兼ねた空間と回縁 奥宸殿の回縁から眺めた純浄観の北面と池。純浄観は高床式になっていて、建物の下を池が横切っています。 松月亭手前に躙り口が見えます。茶室の屋根は檜皮葺きでしょうか。 「奥宸殿」(重要文化財)の内部。江戸時代の建築で書院造です。醍醐寺座主の居住空間と言われています。左側面に武者隠しがあります。床の左側に違い棚があります。違い棚は背後の壁面から少し手前にあるようです。「醍醐棚」と呼ばれ、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに、「天下の三大名棚」と称されているそうです。(リーフレットより)違い棚の上部に天袋が設けてあります。 床 床の右側に付書院があり、ここの窓は花頭窓の形で腰障子が使われています。 付書院の箇所の外側の眺め 書院造の間の続きにある部屋です。奥宸殿を拝見して、三宝院見学の順路は終わります。 三宝院の門を出て、唐門の表側を改めて眺めてみました。 東をみれば、桜馬場の両側の桜の木々の先に西大門(仁王門)の屋根が見え、その向こうに笠取山が見えます。笠取山の山頂にあるのが上醍醐寺です。874年(貞観16)に笠取山の山頂に如意輪・准帝胝両観音を安置する堂宇を建て、聖宝(理源大師)が創建したのが醍醐寺の始まりです。上醍醐が出発点でした。上醍醐は907年に醍醐天皇の勅願寺になりました。 理源大師の門弟の観賢が初代の座主となり、下醍醐寺の造営が始まります。五重塔が落成したのは、952年(天暦6)です。 (資料3) 西大門(仁王門) リーフレットよりこれで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*三宝院の案内図リーフレット(間取り図として上掲の資料)1) 千年菓子 :「亀屋清永」2) 歓喜天 :ウィキペディア3) 『日本史大辞典 4』 平凡社 p493-494補遺世界遺産 京都 醍醐寺 ホームページ三宝院 :ウィキペディア伝統の技 :「村上社寺工芸社」檜皮葺・柿葺 :「文化遺産オンライン」書院造とは? :「THE GATE」書院造から生まれた文化 :「NHK for School」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -1 大玄関、勅使・秋草・葵の間ほか へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -2 表書院 へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -3 三宝院庭園(1) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -4 三宝院庭園(2) へ
2025.05.11
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5月5日(月)の13時45分近くに撮ったときは、ジャスミンはまだかなり蕾を数多くつけていました。五、六分咲きという感じだったでしょうか。 5月7日(水)、京都の春季公開の寺院を朝から訪れ、帰宅した14時半過ぎにジャスミンを眺めるとほぼ満開に近づいていました。 今朝(5/11)10時45分すぎに見ますと、はや枯れている花が各所に見られます。 ジャスミンの花の命は短い・・・・。 一方で、家人に教えられて気がついたのですが・・・・ノイバラが咲きました。調べてみますと、ノバラとも言うそうです。 また、玄関先の鉢植えのマチルダが咲きそろいました。ジャスミンの花はこれで一区切りと致します。ご覧いただきありがとうございます。補遺ノイバラ 多摩川の植物 :「サラノキの森」ノイバラ :ウィキペディア『八重山ノイバラ』は、作りやすい! :「みんなの趣味の園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 我が庭の花 ジャスミンが開花、他にシラン、ゼニの花も -1 へ観照 我が庭の花 ジャスミン咲く -2 そして、バラも へ
2025.05.11
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表書院南面回縁の中央部ではなくて、その両端からの三宝院庭園の眺めについてのご紹介です。冒頭の景色は、庭園の西端部分です。私が釣殿風の空間と称した箇所、つまり間取り図では、表書院の南西隅の少し張り出した空間のところです。池の西端に植えられた蘇鉄の左側の先に、唐門の菊紋が見えます。回縁を歩みつつ、南から東方向に目を転じていきます。 こちらからは、このような庭の広がりを眺めることができます。 池の西岸と鶴島とに架けられた石橋。緩やかな反りをもつ石橋です。 鶴島と亀島との間には平石の石橋が架けてあります。島の中央には山形の亀甲石が据えられ、五葉松(姫小松)がその上を亀の甲羅のように覆っています。島の右側には丸くて穏やかな亀頭石が見えます。 島の左側の方には、尻尾(しっぽ)を立てたような亀尾石が据えられています。三宝院案内のリーフレットによりますと、亀島は亀の「静寂」を表しているそうです。 表書院南面、池の北岸と亀島とに架かる橋もまた、一枚岩の平石橋です。その橋の向こうに土橋が見えます。樹木の背後に茶室の屋根の一部が遠望できます。 砂利の筋目が示す水の流れを挟んだ左側、表書院のすぐ近くに小池を囲む石組等が見えます。表書院の向こう側に、「純浄観」(重要文化財)が見えます。太閤秀吉が「醍醐の花見」で使用した建物を槍山から移築したものと言われています。 砂利にレーキで描かれた砂紋、水の流れが素敵です。 視点を移すと、水の流れの雰囲気も微妙に変化します。 砂紋の創り出す水の流れの中で、手前の3つの石は、「賀茂の三石」と称されています。”左の石は、賀茂川の「流れの速い様」を、中央の石は「川の淀んだ状態」を、右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表している” と言います。(リーフレットより)余談です。鴨川は、淀川水系の一級河川。京都市北西部の桟敷ヶ岳を源流としています。雲ヶ畑を経て、鞍馬川が合流し、出町柳で大原・八瀬を経た高野川が合流します。四条大橋の北で白川が合流してきます。鴨川は伏見区下鳥羽付近で桂川に合流します。京都市内を南北に流れる約27kmの河川。出町柳から上流部を「賀茂川」、下流部を「鴨川」と表記することが一般的になっています。賀茂川が加茂川と表記されることもあります。かもがわの名称は「上賀茂神社や下鴨神社が川沿いに位置し、平安京造営前から上賀茂の地に定住していた賀茂氏(鴨氏)に由来するという考え方が一般的です。」(資料1)元に戻ります。 表書院の南東端近くから眺めた景色 藤戸石が平石橋の先の対岸に見えます。 純浄観への渡り廊下辺りからの眺めこの辺りで庭園細見を一区切りと致します。 リーフレットよりそれでは、秘仏聖天(歓喜天)像初公開のエリアに入ります。表書院の回縁の南東角で初公開拝観の手続きをしました。つづく参照資料*三宝院の案内図リーフレット(間取り図として上掲の資料)1) 千年の都と鴨川治水 pdfファイル :「京都府」補遺世界遺産 京都 醍醐寺 ホームページ三宝院 :ウィキペディア醍醐寺三宝院庭園について :「おにわさん」枯山水めぐり 情報サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -1 大玄関、勅使・秋草・葵の間ほか へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -2 表書院 へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -3 三宝院庭園(1) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -5 秘仏聖天像初公開、奥宸殿ほか へ
2025.05.10
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表書院の南側に庭が広がっています。この庭園は慶長3年(1598)、醍醐の花見に際して豊臣秀吉が自ら縄張り、つまり基本設計を行ったと言われています。一書によれば、「庭園は慶長3年(3月15日)の花見に際して、庭奉行竹田梅松軒らに命じて、旧庭を取り毀ち、名石藤戸石を配して築庭されたもの」(資料1) とのこと。表書院南面の回縁中央部辺りを多少移動しながら撮った景色をご紹介します。冒頭の景色は池の中央辺りです。 南西方向を眺めた景色。池の西側の岸辺と鶴島に少し大きな石橋が架けてあります。鶴島と左端の亀島とに、小さな橋が架けてあります。冒頭の景色をご覧いただくと、亀島と手前の岸辺は大きな石で繋がっているのがわかります。一方、南の岸辺と亀島にも橋が架けてありますが、上掲の画像では少しわかりづらい感じです。 南東方向を眺めた景色回縁の中央部を少し移動しつつ眺めた庭の景色を細見していきます。 亀島と南の岸辺に架けられた橋は土橋です。 ズームイン! 土橋の左(東)側に、「天下の名石」と称される「藤戸石」がその左右に低い景石を置き、「三尊組」として配置されています。藤戸石は、室町時代から歴代の権力者により、「天下を治める者が所有する石」として引き継がれてきたそうです。秀吉は二条城からこの石を聚楽第に移します。秀吉は、文禄4年(1595)7月15日に秀次を自害させた後、同月28日には聚楽第の破却を命じています。「醍醐の花見」は1598年3月ですので、聚楽第から三宝院に移すように命じたこともなるほどと思います。藤戸石は庭園の中心に据えられて、この三宝院庭園の「主人石」となりました。(リーフレット、資料1) 表書院の南東角近くの小池と岸辺の石組 庭の東南隅にある茶室枕流亭は樹木の背後にあり、建物の屋根と壁面の一部が見えるだけです。「伏見城から移した秀吉好みの茶室とつたえ、三畳の本席と二畳台目と二畳の小間からなっている」(資料2)と言います。 枕流亭手前の土橋をズームインしてみました。 亀島(左)と鶴島(右)樹齢500年以上といわれる五葉松(姫小松)が亀島を覆っています。 ズームインすると、水面に映える姿が抽象画風に・・・・なってしまいました。 回縁の西寄りに移って、庭の池の西端付近を撮りました。 リーフレットよりつづく参照資料*三宝院の案内図リーフレット(間取り図として上掲の資料)1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p135, p1712)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p343補遺藤戸石 :「国土交通省」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -1 大玄関、勅使・秋草・葵の間ほか へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -2 表書院 へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -4 三宝院庭園(2) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -5 秘仏聖天像初公開、奥宸殿ほか へ
2025.05.09
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勅使の間から廊下を通り表書院に進みます。表書院には、回縁の内側に畳敷きの通路としても使われる空間があります。 大玄関の方向に繋がる廊下と表書院との境となる板戸 こちらは通路を南方向に進んだ先の板戸です。この板戸の南側は、 表書院の南東隅で、たぶん釣殿に相当する空間と思われる板敷の間に繋がっています。吹き曝しの板敷の間の外側三方は高欄のある回縁になっています。末尾に引用した三宝院の間取り図をご覧いただくと位置関係がおわかりいただけるでしょう。釣殿の東側の回縁に立つて景色を眺めてみますと、 幅の狭い溝のような真っすぐな小川の中間に小橋が架けてあります。この小橋を左(南)方向に歩めば唐門(勅使門)です。 西方向の眺め。正面にこの庭園に直接入る門が見えます。右に桜の木が見えます。その向こうの唐破風屋根が大玄関の入口部分です。 桜の木の手前の唐破風屋根と南に面した階段は、勅使が直接に勅使の間に入るための入口になるところでしょう。 こちらの建物の大屋根の棟の先端の獅子口です。三つ巴紋が見えます。 釣殿空間の屋根裏と梁上の蟇股。草花文が浮彫にされています。 表書院の南面、回縁の箇所の屋根裏 西側の通路から東方向を眺めた「表書院」内部のほぼ全景手前が「下段の間」(27畳)で、別名「揚舞台の間」と称されるそうです。畳を上げると、この空間が能舞台になるとか。 下段の間だけは室内に入ることができました。 この下段の間は、石田幽汀が「孔雀と蘇鉄」を描いたそうです。調べてみますと、石田幽汀は禁裏絵師で、法眼に叙せられたそうです。「狩野探幽の流れをくむ鶴沢探鯨に絵を学んだが、琳派風の豊かな装飾性と写生的感覚を融合した、濃彩緻密な画風を得意とした」とか。円山応挙の最初の師。「江戸狩野と、写生画派・装飾画派をはじめ多様な展開をみせる江戸時代中期の京都画壇の間をつなぐ絵師」と言います。(資料1) 手前が「中段の間」(18畳)、奥が「上段の間」(15畳)です。中段・上段の間は、下段の間(揚舞台の間)より、一段高くなっています。下段の間が舞台として能楽や狂言に使われるとき、一段高い位置から鑑賞できるようになっているのです。 案内掲示の置かれた辺りから、庭の方向を眺めた景色 上段・中段の間の襖絵は、長谷川等伯一派が描いた「四季の柳」や「山野の風景」だそうです。三宝院そのものについてご紹介します。三宝院は、平安時代、永久3年(1115)に醍醐寺第14世座主の勝覚僧正により創建された塔頭です。応仁・文明の乱(1467~1477)で被災し荒廃したそうです。醍醐寺第80世座主の義演准后は豊臣秀吉と親交があり、慶長3年(1598)に秀吉が「醍醐の花見」を企てたとき、これを契機に醍醐寺の復興を願い出たと言います。醍醐寺は秀吉、さらに秀頼の援助のもとに復興できたそうです。(資料2) リーフレットよりそれでは、表書院から眺める庭に移りましょう。三宝院庭園です。つづく参照資料1) 石田幽汀 :「静岡県立美術館 デジタルアーカイブ」2) 三宝院の案内図リーフレット(間取り図として上掲の資料)補遺世界遺産 京都 醍醐寺 ホームページ 年中行事 豊太閤花見行列(4月第2日曜日)石田幽汀 :ウィキペディア石田幽汀 :「京都通百科事典」長谷川等伯(信春) :「石川県七尾美術館)長谷川等伯 :ウィキペディア醍醐の花見 :ウィキペディア【秀吉一世一代の花見】700本の桜を植樹した醍醐の花見 :「Kyoto Love.Kyoto」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -1 大玄関、勅使・秋草・葵の間ほか へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -3 三宝院庭園(1) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -4 三宝院庭園(2) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -5 秘仏聖天像初公開、奥宸殿ほか へ
2025.05.08
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総門一昨日(5/5)、ウォーキングを兼ねて、醍醐寺塔頭の三宝院を訪れてきました。先日、御蔵山聖天探訪の記事をまとめていて、三宝院で5/1~5/6の期間に「聖天堂内拝及び秘仏聖天像公開」が行われるということを知りました。初公開ということに関心を抱きました。三宝院庭園も大昔に一度拝観しただけですので、改めて拝見したいと思った次第。 総門に向って右側に、醍醐寺の案内駒札が設置されています。 その傍に、醍醐寺が世界遺産「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されたことの案内銘板も設置されています。平成6年(1994)12月15日登録。 リーフレットより総門を入りますと、桜馬場と称される幅広い参道が西大門(仁王門)に到りますが、この参道の左(北)側の築地塀に囲まれたところが「三宝院エリア」です。桜馬場の右(南)側は「霊宝館エリア」、西大門から東側が「伽藍エリア」と称されています。三宝院の門前脇の受付で拝観手続きを済ませ、門を入ります。 リーフレット、拝観券、それと秘仏公開の特別拝観券 (特別拝観の手続きは別途、表書院の東端にて) 拝観受付でいただいた三宝院の案内リーフレットから案内図を切り出しました。 門を入りますと、大きな広場になっていて、正面に大玄関の唐破風屋根が見えます。手前に見えるのは太閤しだれ桜です。右方向に見えるのは、三宝院庭園に通じる門です。石標が2つ立っています。近くで見ますと、向って左側は「史蹟及名勝 三寶院庭園」、右側は「特別史蹟 特別名勝 醍醐寺三寶院庭園」と刻されています。特別史蹟と特別名勝の二重指定を受けているのは、全国で9例だそうです。(資料1) 広場の中央部にデンと樹木が植えてあります。 大玄関を入りますと、まず正面に見えるのが「富嶽の間」です。 雄大な富士山の様々な景色が襖に描かれています。 左側を見ると、五七桐紋の幕に花吹雪の障壁画が描かれているようです。太閤花見行列の一瞬の情景でしょうか。 こちらは小玄関です。 小玄関の正面の部屋「竹の間」。大きな衝立には「鸞鳳」と揮毫されています。写経の部屋として使われている感じです。 富嶽の間の隣は「日・月海の間」です。部屋の中央には、五大明王の功徳を讚える2月23日の「五大力さん」(五大力尊仁王会)の大鏡餅が飾ってあります。 (資料2)これら玄関の襖絵は、平成10年(1998)の三宝院庭園築庭400年を記念して日本画家・浜田泰介画伯が平成9年(1997)に奉納されたものだそうです。 大玄関傍の廊下から北側の庭を眺めた景色大玄関から表書院に向かう時、廊下の右側には、 京都三大祭の一つ葵祭の風景が描かれている「葵の間」があります。左手横長の壁貼付絵から、一段高くなった正面の襖四面には、下鴨神社から上賀茂神社へ向かう勅使一行の行列が描かれているそうです。 北側の庭を眺めながら廊下を進みます。 廊下を右折し、再度右折しまますと、 襖絵は「竹林花鳥図」が描かれています。 勅使の間 「勅使の間」側の廊下から眺めた「秋草の間」 襖絵は「秋野図」です。 秋草の間西面の襖を開くと、上掲の「葵の間」に続いています。 「秋草の間」側から眺めた「勅使の間」の方向の眺め。「秋草の間」「勅使の間」の襖絵は長谷川等伯一派により描かれたものと言います。秋草の間の辺りから、庭に目を転じます。 桜の木が植えられています。 庭は砂地の広場になっています。 向こうに見えるのは「唐門」。三宝院の勅使門です。唐門と勅使の間が位置関係として対応しているのでしょう。慶長4年(1599)、三間一戸の平唐門として建立されました。現在のこの唐門は、平成22年(2010)に創建当時の姿に復元されたものだそうです。 勅使の間の辺りの廊下から南東方向を眺めた景色表書院の南西角辺りが見えます。 その先には、三宝院庭園の西端の景色を眺めることができます。次は、表書院に進みます。つづく参照資料*受付にていただいた醍醐寺のリーフレット、三宝院の案内図リーフレット1) 『特別名勝』と『特別史跡』の二重指定はレア!二重指定9スポット全リスト! :「旅人サファイアのお出かけブログ」(Hatena Blog)2) 「五大力さん」五大力尊仁王会(2月23日)とは :「醍醐寺」補遺浜田泰介 :ウィキペディア平成のふすま絵師 縁に導かれ 2022年6月1日 :「朝日新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -2 表書院 へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -3 三宝院庭園(1) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -4 三宝院庭園(2) へスポット探訪 京都市伏見区 醍醐寺 三宝院細見 -5 秘仏聖天像初公開、奥宸殿ほか へ
2025.05.07
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二の石鳥居から石段道を上って行くと、中間辺りの左側に「頼政道跡」と刻した石標が目に止まりました。 石標の左側にこの駒札が設置されています。頼政とは、源頼政のことです。源頼光の子孫で、若い頃に鵺(ぬえ)退治の武勇伝で名を馳せた弓上手の武者ですが、鴨長明には歌人として認められていたそうです。治承4年(1180)4月、後白河法皇の第二皇子・以仁王が令旨を発し、5月に源頼政らが以仁王を奉じて、先駆けとして挙兵します。この時、頼政は76歳。近江の園城寺(三井寺)を本陣としたそうです。頼みとする寺院勢力の分裂があり、平家に追われることになります。源頼政は園城寺を捨てて奈良興福寺に落ち延びようとしました。大津から宇治を経由して奈良に向かうというルートです。宇治に通り抜ける間道としてこの辺りを利用したと言います。頼政軍は宇治に到りますが、宇治川を挟んでの戦いは、頼政軍300に対し平家は2万だったとか。勝敗は明白。頼政は平等院の扇の芝で自害します。そこには碑が設けてあります。また、平等院の塔頭最勝院に頼政の墓があります。 石段をさらに上ると、左側に「洛東用水路跡」という駒札が立っています。 石段からの眺め。現在の姿はここが間道のように見えますが、用水路が流れていたのでしょう。その用水路には、「小野まで来ていた琵琶湖疎水を採り入れた用水路を日野まで延伸し」と記されています。琵琶湖疎水が活用されていたことを初めてしりました。その用水路は廃止になって埋められてしまったのでしょうか。詳細不詳。長尾天満宮の境内を巡った後、この道(?)を北方向に歩いてみました。 進んでいくと幅は狭くなり、さらに荒れた状況になっていきますので先に進むのを中断。少し引き返します。 この石段道が整備されています。これは長尾天満宮への裏参道の一部になるようです。つまり、洛東用水路跡にリンクし、表参道の石段につながるという形です。これは、歩いてみた結果として理解できたことです。 裏参道沿いに進みますと、稲荷社があります。そして、住宅地の道路に出ました。 道路の反対側で、このお地蔵さまと出会いました。台座に「幸福地蔵」と刻されています。近年に建立された感じです。 裏参道の入口 裏参道を引き返します。 整備された石段道の途中で、住宅地と天満宮境内との境界と言える箇所があります。ここがなかば道のような状態です。そして、この道沿いに改めて植林がされています。この道を歩いてみました。 この道をさらに進むと、「頼政道跡」に到りました。つまりここが、頼政が利用した間道だったようです。逢坂から追分を経て、醍醐に到り、長尾天満宮のこの道を利用し、一言寺前~日野の法界寺傍~木幡~宇治というルートを頼政は宇治へ落ち延びる経路としたようです。醍醐路から木幡の里にかけての間が「頼政の逃げ道」として伝わっています。頼政道の石碑が設置された場所。頼政橋と名づけられた橋。宇治市内でこれらの地点をスポット的に訪れています。今回、「頼政道跡」がまたポイントとしてつながりました。いずれ、想定されている頼政道を歩いてみたいと思う次第です。 さて、前回、「菅公衣装塚」を最初にご紹介しました。その傍に山道と南方向に下る石段道があります。この石段道を降りてみました。 石段道を降り切ると、そこは醍醐寺と長尾天満宮の境界に到ります。現在は金網のフェンスが設置されていました。多分、昔はお寺と天満宮は仕切りがなく、自由に往来できる状態だったのでは・・・・と想像してしまいます。そうならば、頼政は醍醐寺の寺域を横切って南下し、一言寺前へ抜けることができたのかもしれません。あくまで想像ですが・・・・。 境界側から振り返ってみると、長尾天満宮の境内にこの寂れた小社が鎮座します。境内を西方向に進んで行くと、一の石鳥居の傍に出ました。 醍醐寺へ引き返し、再び西大門(仁王門)を眺めました。長尾天満宮のスポット探訪をこれで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p166-173補遺源頼政 :ウィキペディア平家打倒へ、以仁王・源頼政の挙兵と源頼朝の動向 :「JB press」頼政の墓 :「日本史の戦場」演目事典:頼政 :「the能.com」洛東用水路 :「京都東山ロータリークラブ」洛東用水跡 :「忘れ去られた時空を求めて」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都市伏見区 長尾天満宮と周辺 -1 境内散策 へ
2025.05.06
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5月1日、ウォーキングの序に、黄檗霊園の道路沿いのツツジの咲き具合を眺めに立ち寄りました。時季到来で、道路沿いのツツジはほぼ満開でした。丘陵地の高所から下って行く形で、道路沿いの生垣のツツジを撮りました。記録を兼ねて、掲載します。ご紹介が遅くなりました。 これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。観照 宇治 黄檗霊園のツツジと北向地蔵尊堂 へ観照 宇治 黄檗霊園のツツジ その2 へ
2025.05.05
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ここを起点にご紹介を始めます。旧奈良街道に面した醍醐寺の総門です。醍醐寺は世界文化遺産京都の一つとして登録されています。運動不足解消を兼ねたウォーキングの途中でこの地点に立ちました (2025.4.30) 。 総門を通り、桜馬場と称される幅広い参道を、三宝院の唐門を左に見つつ、 西大門(仁王門)前に向かいます。三宝院の拝観と醍醐寺境内の拝観は別です。醍醐寺の境内はこの西大門の内側に受付があります。今回はパス。通路として横切るだけ。 西大門の仁王像を眺めた後、この門前で左折し北方向に進みます。 少し先、右側に石鳥居が見えます。 右手前に「長尾天満宮」の社号碑が建てられています。 左手前に駒札が設置されています。該当箇所であらためてふれます。 右折して参道を進むと、二の石鳥居があり、その先は石段です。石段を上って行くと、左側の石段傍に、2か所、駒札が立っています。「頼政道跡」と「洛東用水路跡」です。これらについては次回にご紹介することにして、まずは石段を上ります。 石段を登り切った右手前方に、「菅公衣装塚」があります。菅原道真がこの地長尾を遊覧した折、醍醐寺開祖の聖宝理源大師と約束されたそうです。死後に墓をこの地に築くと。醍醐寺の創建は平安時代の初期。開祖の理源大師は天長9年(832)生まれで、延喜9年(909)に寂滅されました。(資料1,2)菅原道真は承和12年(845)の生まれで、延喜3年(903)に大宰府にて薨去と言います。(資料3)「醍醐寺一世観賢座主が先師の約束を忘れずに大宰府に使者を遣わして衣装や遺物を持ち帰り、この地に墓が築かれました」(駒札より)この説明から考えると、菅原道真の死後かなりの時間的な隔たりを経てから、衣装塚がここに建立されたことになります。930年に清涼殿落雷事件が起こり、さらに醍醐天皇の死が3か月後。道真の怨霊が原因と恐れられ、北野天満宮において神として祀られたのが947年と言います。(資料3,4)少なくとも、菅原道真が神として祀られる以前にこの道真衣装塚が建立されていたのでしょうか。興味深いところです。駒札の向こうにある宝篋印塔が道真衣装塚なのでしょう。一の石鳥居の傍の上掲駒札によれば、長尾天満宮は949年に勧請されたそうです。石灯籠の右側の石碑には、上部に「神詠」と刻されていて、 東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしととて 春な忘れそ の歌が刻まれています。 石段を上った左側に、手水舎があります。 石段の先には、「皇大神宮」の額を掲げた鳥居が立ち、石段道が続き、覆屋を設けた小社が所在します。左折して境内を歩みますと、拝殿の手前に 天満宮には欠かせない臥牛像が奉納されています。 拝殿「必勝」と揮毫された文字が目にとまりました。何らかの祈願が行われたのでしょう。不詳です。右端に駒札が立っています。「悠久の歌」という題が記され、橘ナオキ作とあります。 すぐ傍の渡り廊下の腰板部分に描かれている作品をさすのでしょう。「精霊のなかでも霊格が極めて高いとされ、四霊と呼ばれる麒麟、霊亀、鳳凰、応龍の姿を描きました。 遥か太古の昔から巡る四季のそれぞれに美しい彩りは、その地に息づく精霊たちの歌声です。 その歌は、すべての生命を祝福し、たたえる賛歌であり、世の中にめでたく幸運な気運をもたらします」(本文転記) 本殿全景 石灯籠 ちょっとユーモラスな表情を見せる狛犬像 駒札によれば、現在のこの本殿は、1821年に再建されたものです。三間一面檜皮葺の建物です。本殿正面の階段の両側に狛犬像が置かれています。菅原道真公と大巳貴命(オオナムチノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を御祭神とします。 かなり剥落してしまっていますが、「柱や梁には胡粉下地の上に岩絵の具で彩色を施し、極彩色の文様が描かれ」ていたという駒札の説明の痕跡を感じることはできます。 右側面 右側の脇障子 鯉の滝登りの透かし彫りの幕板が嵌め込まれています。 左側の脇障子こちらの幕板は、獅子の子育てを題材にしたものです。 左側面 本殿前には境内社が並んでいます。 南西側に、向って右、本殿に近い方から、春日社、事代社、住吉社です。 南東側に向って右の朱色の社は稲荷社ですが、左側の社にはこれだけ案内の掲示がなく不詳です。 本殿手前の瑞垣は、近くで見ますと窓部分に透かし彫りが施されています。植物文のようですが判断しかねます。それでは参道の石段に立つ2つの駒札に移ります。つづく参照資料1) 世界遺産京都 醍醐寺 ホームページ2) 讃岐五大師のひとり『理源大師』 :「坂出市」3) 北野天満宮 ホームページ4) 菅原道真 :ウィキペディア補遺聖宝 :ウィキペディア観賢 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.05.05
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4月29日に、久しぶりにウォーキングを兼ねて、御蔵山聖天を訪れてきました。御蔵山聖天(オクラヤマショウテン)は、正式には宝寿寺(ホウジュジ)と称する天台宗延暦寺派のお寺です。 (資料1、以下適宜参照))宇治市木幡の御蔵山の頂上に所在するお寺。最寄り駅はJR奈良線の六地蔵駅と京阪電車宇治線六地蔵駅になります。御蔵山商店街を通り抜けて、御蔵山の坂道道路を上っていきます。御蔵山とは称するものの標高は87.6m。御蔵山小学校のすぐ傍です。 石鳥居の前、両側に狛犬像が置かれています。石鳥居の形は、山王鳥居と称されるちょっと特異な形です。「原型は、明神鳥居の上に破風形の合掌造を加えたことと、柱脚に藁座(根巻)をつけていること」(資料2)大津市坂本に所在の日吉大社の鳥居が淵源であり、山王鳥居は別名日吉鳥居です。日吉大社のホームページでは日吉大社山王鳥居と表記されています。(資料3) 石鳥居側から眺めた本殿境内に入るとすぐ左側に、 御蔵山大明神を祀る社があります。境内に入ってまず思ったのは、異色な形の灯籠がいろいろ奉納されていることです。石鳥鳥居の右手前の灯籠がまず異風です。石塔の一部を活かして石灯籠にしたようです。 この社の本殿の手前、右側に稲荷社が祀ってあります。 御蔵山大明神の本殿正面の階段下と本殿前外縁に狐像が対面する形で置かれています。つまり、御蔵山大明神は稲荷系の神が祀られているということになりますね。ホームページには、「明治維新に行われた廃仏毀釈以後初めて建立された神仏習合のお寺」と記されています。 この石灯籠もまた、特異な形です。ここ以外で、同種の石灯籠を見たことがありません。 参道の傍に藤棚があり、花を咲かせています。その奥の方に鐘楼が建てられています。 鐘楼に吊り下げられた梵鐘の縦帯には、梵字が陽刻されています。残念ながら私には判読できません。左側の池ノ間の最初に、国運繁昌と言う文字が陽刻されています。その下の草ノ間には、瑞鳥と龍の姿が見えます。 手水舎 手水舎の水鉢の正面には、「洗迷」と刻されています。迷いを洗いながしなさいという意味合いでしょうか。中央部のレリーフは、大根のようです。大根と巾着が聖天を象徴するものとして使われています。たとえば、本龍院・待乳山聖天のホームページでは、”大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています”と説明されています。 (資料4) 参道を挟んで、反対側にはこの石灯籠が置かれています。こちらも、古い石灯籠のパーツとの組み合わせですが、興味深いのは竿の部分です。巾着のイメージがここに重ねられているのでしょうか。 本堂の手前には、こんな石灯籠も置かれています。 本堂正面には唐破風屋根の拝所があり、正面に「最護衆生」と読める扁額が掲げてあり、手前にはこれも巾着形と思える香炉が置かれています。 本堂正面の右側外の外縁にこの駒札が設置されています。堂内は外からは拝見できませんが、この駒札によりますと、十一面観音を本尊として、両脇に、歓喜天と弁財天が祀られているようです。 十一面観音との関係は不詳なのですが、入口の石造山王鳥居の近くに、この案内板が設置されています。歓喜天は聖天と同義です。梵名でナンディケーシュヴァラと称し、本来は「歓喜自在」の意で、大聖歓喜自在天と漢訳されたそうです。それを略して、歓喜天、聖天と言います。「本来、仏道修行の邪魔をする障礙神であったが、仏教に取り込まれてからは、あらゆる障害・困難を排除して仏法を守護する神となった」(資料5)のです。歓喜天の事例: 高野山真別所円通寺本『図像抄』に載る歓喜天の図。ウィキペディアから引用しました。 蟇股・笈形・木鼻などと木組 釣灯籠 本堂に向って、右側にこの覆屋が見えます。 中には、地蔵菩薩立像が祀ってあり、その両側に数多くのお地蔵さまが祈願奉納されています。 さらに、その右側には六角形のお堂があります。 子安地蔵尊を祀る地蔵堂です。 本堂に向って右側の手前に、ブロンズ製の灯籠が立っています。この灯籠は普通に目にするスタイルのものです。 その近くには、小ぶりな社がいくつも点在しますが、何を祀ってあるのかは不詳。特に明示もありません。 参道沿いに、枯山水庭園が作庭されています。これで探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 御蔵山聖天 福徳成就のお寺 ホームページ2) 『図説歴史散歩辞典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1293) 日吉大社 ホームページ4) 大根まつりの由来 :「本龍院 待乳山聖天」5) 『仏尊の事典』 関根俊一 編 学研 p1646) 歓喜天 :ウィキペディア補遺 京都に所在の聖天を調べてみました。香雪院(東山聖天)とは? :「京都に乾杯」天台宗金玉山雙林寺 聖天堂 :「天台宗金玉山雙林寺」 東山北向山 雨宝院 通称ー西陣聖天宮 ホームページ山科聖天ー双林院 ホームページ初公開 聖天堂内拝及び秘仏聖天像公開【総本山醍醐寺】 :「京都観光Navi」歓喜天浴油祈祷 :「真言宗大本山 隋心院」嘉祥寺 通称深草聖天 :「京都観光Navi」別格本山 覚勝院 嵯峨野 大覚寺塔頭 ホームページ観音寺(山崎聖天) :「山崎観光案内所」 京都府乙訓郡大山崎町 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.05.03
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今朝眺めると、ジャスミンの全体は二分咲き程度です。昨日は雨でしたが、今日はいい天気! 連休の始まりとしてはいいスタートですね。 部分的にかたまって咲いている箇所があちらこちらに。 もう1木、玄関に向かって右側の柱に巻き付いているジャスミンが少し花開いてきました。 その柱の傍に置いた鉢植えにマチルダが一輪咲きました。 玄関手前の左側にも、鉢植えの薔薇が一輪。こちらはブルーローズだとか。 庭の東側の花壇の薔薇が、大輪の花を開きました。画像検索してみますと、バラ(ブッシュローズ)のようです。(そう見えますというレベルなのですが・・・・) リビングルーム側(南側)に、この花を見つけました。家人の知らない花だとか。ネットで画僧検索してみますと、ヒメヒオウギ(姫緋扇)と称されるそうです。フリージア・ラクサという名称でも紹介されています。のんびりと、我が庭からの花便りです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料ヒメオウギの仲間 :「みんなの趣味の園芸」フリージア・ラクサ(姫緋扇)は庭木の下で自然に広がる :「末庭」補遺バラ(ブッシュ・ローズ)の基本情報 :「みんなの趣味の園芸」マチルダ :「IBARAKI FLOWER PARK」SUNTORY blue rose APPLAUSE :「水と生きるSUNTORY」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 我が庭の花 ジャスミンが開花、他にシラン、ゼニの花も -1 へ観照 我が庭の花 ジャスミン咲く -3 そして、ノイバラとマチルダ へ
2025.05.03
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