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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第16章(スーラト=ン=ナフル)です。章については4月8日に既述しましたので、そちらをご覧下さい。 預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)がおっしゃったことやなさったことをまとめたハディース(言行録)は聖クル’アーンと並んで、ムスリム(イスラーム教徒)が生活の指針とするものです。 最近、「風水」の本を参考にして、家の片付けを楽しんでいるのですが、ハディースを重複しているところがあって、とても興味深いです。 蜜蜂は預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)が好まれたハチミツを花々から集める動物であり、ハチミツの効用はよく知られていますが、「金運風水」としてもお勧めのだとは驚きました。さてその第61節です。ワ ラウ ユ・アーヒズ=ッラーフ=ンー=ナーサ ビ=ズルミヒムー マー タラカ ’アライハー ミンー ダーーーッバティゥー ワ ラーキィー ユ・アッヒル イラーーー アジャリンー ムサンーマー(不義を行ったために、アッラーが人間を罰されるならば、地上に生存者は残されなかったであろう。だがかれは定められた時まで、かれらを猶予される。)「ワ(そして)」は接続詞「ラウ(もし)」「ユ・アーヒズ=ッ=ラーフ=ン=ナーサ(アッラーが人間を罰される)」では「アハザ(とる、捕まえる)」の第三型「アーハザ(罰する)」の3人称男性単数未完了形「ユ・アーヒズ」の後ろに動詞の主語(行為者)「アッラーフ」その後ろにその目的対象である「アン=ナース(人々)」が語尾がファタハ(「ア」と語尾の母音が発音されます)になる与格(目的格)になっています。 「ビ=ズルミヒム(彼らの不義によって)」では前置詞の「ビ(~によって、~のために)」の後ろなので、「ズルム(悪事、不義)」の語尾の母音がカスラ(「イ」と発音します)となりますので、そのあとの非分離形3人称複数代名詞でこの場合は「~の」と属格の意味になる「フム」が「ヒム」になっています。「マー」は完了形を否定する語です。「マー タラカ(彼は残さなかった)」と3人称男性単数完了形がきています。「’アライハー(彼らの対して)」の非分離形女性単数代名詞「ハー」は「アン=ナース(人々)」を指していると思われます。前置詞「ミン(~から、~の中から)」の後ろなので「ダーッバ(トゥン)(動物)」の語尾の母音は「ティン」になってます。その後ろに「ワ」がきていますので、タジュウィードのルールのひとつ「イドガーム(同化)」がおこり、「ティゥー」となります。「ワ ラーキン(だが、しかし)」は逆節の接続詞。「ラーキン」の語尾が「ン」というヌーン(N)のスクーン(子音)で終わり、その後ろに「ユ・アッヒルム」のヤー(Y)が来るので、タジュウィードのルールのひとつイドガーム(同化)がおこり「ワ ラーキィー」となります。「ユ・アッヒルフム(彼は彼らを猶予する)」は第2型「アッハラ(遅らす、延期する)」の3人称男性単数未完了形に3人称男性複数の非分離形代名詞「フム」がくっついたもの。「イラーーー アジャリンームサンマー(定められた時間まで)」はよく聖クル’アーンに出てくる定番の言葉です。「イラー(まで)」が前置詞なので無定冠詞の「アジャル(デッドライン)」の語尾の母音がカスラタイン(「イン」と発音)となっています。「サンマー(名付ける)」を語根とする「ムサンマー(名付けられる)は前の語が「アジャリン」とヌーン(N)のスクーン(子音)で終わっていますので、やはりイドガーム(同化)が起こり、前の語と区切らずにミーム(M)を2拍で鼻濁音で発音します。「(ア)ン=ナーサ」の「ン」と「ナ」はヌーン(N)のシャッダ(ダブル)「ムサンマー」の「サ」と「ン」はミーム(M)のシャッダ(ダブル)なので、同様に2拍の鼻濁音です。アッラーが定められたことに従わないという理由でアッラーが人々を罰したら、全ての者が該当し、地上の生存者はいないということです。でも「お赦しになる」ことを好まれる寛容な我々の主は、「定めの時」まで、その罪を問いて、罰することを猶予なさっているのです。我々全ては、アッラーしか分からない「執行猶予」付なのですね。アスタグフィル=ッ=ラーフ=ル=アジーム悪を行った者は別だがそれでも、その後、悪の代りに善を行う者は(恐れることはない)。本当にわれは寛容にして慈悲深き者である。 (27:11)無知のために悪を行ったが、その後に、悔い改めてその身を修める者に対し、あなたの主は、その後は本当に寛容にして慈悲深くあられる。 (16:119)あなたがたの主の御赦しを願え。本当にかれは、度々御赦しなされる。 (71:10)あなたの主の栄光を誉め称え、また御赦しを請え。本当にかれは、度々赦される御方である。 (110:3)アッラーを畏れ、アッラーが定められた禁忌を避けるように努めるのがアッラーに帰依したものムスリム(イスラーム教徒)がするべきことなのではありますが、人間は元来、弱く創られていて、アッラーへの想念を忘れ、ついシャイターン(悪魔)の囁きに耳を傾け、アッラーから遠ざかって、悪事を働いてしまうこともあります。 ムスリムの中にはイスラームの道から逸脱した行為をして、傍からは「あれがイスラームなのか」と思われてしまうこともあります。それはやはり「イスラーム」を知ってもらうためのダ’ウワ(宣教活動)が不十分ということなのでしょう。 インシャーアッラー(アッラーがお望みになれば)と全ての行為をアッラーの裁量に求めるムスリムは、どうしてもさまざまな外的アプローチに対して消極的になってしまう傾向があります。「消極的」がいつしか「怠慢」に変わってしまわないように、ムスリム同士交流を怠らずに、イマーンを高めあっていきたいものです。イッタクッラー(アッラーを畏れ)ア’ウーズ ビ=ッラーヒ ミナ=ッ=シャイターニ=ッ=ラジーム(シャイターンからの加護を願い)スブハーナッラー(アッラーを賛美し、)アル ハムド リ=ッ=ラー(アッラーを称賛し、)アスタグフィルッラー(アッラーに赦しを請いましょう。)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年06月25日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第21章(スーラト=ル=アンビヤーィ)です。マッカ中期の啓示と言われます。この章は預言者たちについて記されていますので、それが章名となりました。「アンビヤーゥ」は「ナビー(預言者)」の複数形です。第35節です。クッル ナフシン ザーイカァトゥ=ル=マウトゥ、ワ ナブルークム ビ=ッシャリ ワ=ル=ハイリ フィトナ「人はすべて死を味わう。われは試練のために、凶事と吉事であなたがたを試みる。」クッル(全ての)の後ろの語は語尾がカスラ(「イ」と発音)になります。無定冠詞なので「ナフシン(魂)」とタンウィーンになります。「ザーイカトゥ=マウティ」(死の味覚)は「ザーカ(味わう)」が語根である名詞「ザーイカ(味覚)」とそれを後ろから修飾するムーダーフ イレイヒの「マウトゥ(死)」から成っています。ここで区切る場合はスクーンで「マウトゥ」ですが、続ける場合は「マウティ」とカスラ表示(語尾を「イ」と発音します)をきちんと読みます。「ワ(そして)」は接続詞。「ナブルークム(我々はあなたがたを試す)」は語根が「バラー(試す)」の1人称複数未完了形に非分離形の2人称複数の代名詞がくっついたものです。「ビ=ッシャリ ワ=ル=ハイリ(悪と善とで)」は「ビ(~で)」という前置詞の後ろなので定冠詞のついた「シャル(悪、凶事)」と「ハイル(善、吉事)」の語尾がカスラになっています。「フィトナ(タン)(試練)」はマフ‘ウール(目的語)なので、フォタハタインになっています。(「アン」と語尾の母音を発音します)慈愛深きアッラーは、禍福を全ての人間に齎します。善きことが起これば、アッラーに感謝し、凶事が起これば、「お縋りするのはアッラーしかいない」と再認識され、信仰心が高められる機会となります。全てが上手くいっている時は、「アル=ハムド リッラー」とムスリムが、アッラーに感謝しますが、その中につい「自分の努力もある」という驕慢な気持ちをもちがちです。逆に自分の力だけではどうにもならないような凶事に襲われた場合、普段は「神様」のことを考えないような人でも急に信仰心に目覚める人がいます。それは上手くいっている時にはあまり見られないことです。「凶事」は上手くいっているときよりもアッラーを思い、アッラーにお縋りすることを思うと、一概に「悪いこと」だとは言えないように思われます。 筋肉をつけるには、運動して筋肉繊維に「傷をつける」ことだとスポーツ医学では言われています。「傷つけられた筋肉繊維」は、自己治癒をはじめ、その結果、以前よりも太い筋肉組織が作りあげられるそうです。 同様に人間の心も凶事によってプレッシャーをかけられると、よりアッラーのことをジクル(想念)するようになり、アッラーの目からみて、より好ましい信仰者に変わることになるのかもしれません。 そしてそのような災難や困難も予めアッラーが決められていたことだと理解すれば「ああすればよかった」「こう言えばよかったのに」という既に終わってしまって、今更変えようもない過去のことぐだぐだ考えたり、言ったりしなくなるのではないでしょうか。 現世は「人間が常に試される場」だと考えるとわかりやすいかもしれません。 アッラーに帰依し、すべてをアッラーの委ねたものには、吉事も凶事もアッラーからの「お試し」であり、それは同時にアッラーからの「慈悲」であり、「恩恵」であり、どんなにじたばたしても「人間はいつか死ぬ」「その死ぬ日も定められている」と思えば、憂いも心配も軽くなると思われますがいかがでしょうか。全ての人間に死を賜れるアッラーを畏れながら、その日まで「奮闘努力」して一刻一刻を大切に感謝しながら、生きていきたいものです。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年06月20日
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