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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクムア=ッ=テルミディーのハディースにはこうあります。イブン・アッバースによるとある時、私がアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の後ろにいたら、「おお、少年よ、お前にいくつか良いことを教えてやろう」と言われました。そして次のことを言われました。a)アッラーに忠節を尽くし、従順でありなさい。アッラーのことをいつも念じ、ご命令に従いなさい。お前をあらゆる悪からお守り下さり、この世でもあの世でもずっとお前を愛してくださるであろう。b)アッラーに忠節を尽くし、従順でありなさい。そうすれば、アッラーが側にいて下さることがわかるだろう。お前の願いも聞き届けてくださるであろう。c)頼むのであれば、アッラーにお縋りしなさい。d)助けを請うのであれば、アッラーの助けを求めなさい。e)人々が纏まって、お前に何か益なることをもたらそうとしても、アッラーがお前のためにお命じになったこと以外の何ものも彼らはお前に益をもたらすことはできないし、人々が纏まって、お前に対し、害をもたらそうとしても、アッラーがお前のためにお命じになったこと以外は何も彼らはお前を害をもたらすことはできないということを知っておきなさい。ペンはもう書き終えられており、インクが書かれる紙は既に乾いてしまっているのだ。」アル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。アブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「アーダム(アライヒッサラーム)<人間の祖、アダムのこと>とムーサ(アライヒッサラーム)<十戒で有名なモーゼのこと>が争い、ムーサ(アライヒッサラーム)が『アーダムよ、あなたは我々の祖先だが、我々を堕落させ、楽園から追い出したのだ』と言ったとき、アーダム(アライヒッサラーム)は、『ムーサよ、アッラーはあなたを選んであなたに語りかけ、あなたのために自ら聖典を書かれたが、アッラーが私を創られる40年前にお決めになったことのためにわたしを非難するのか』と応え、こうして彼らは二度も三度も言い合った」と。ムスリムのハディースにもこうあります。アブドッラー・ビン・‘アムル・ビン・’アースはアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)が次のように言われるのを聞きました。アッラーは天地を創造される5万年前に全ての被造物の予定を決定された。そしてそのとき彼の玉座は水の上にあった。アッラーは物事が起こる前にそのことをご存知であり、起こるべき時期にその通りに起こることを既に前もって書留められています。こういったことはアッラーにとっては造作もない容易いことであります。誠に、アッラーは今起こっていることも、過去に起こったことも、未来に起こることも、実際には起きなかったことも、ご存知で、実際に起こるのならどんなふうにそれが起こるかもご存知なのです。アル=ブハーリーのハディースにはこうあります。アブドッラー・ブン・マスウードによると、真実を語られ、信頼に価するアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は人間の誕生についてお話になりました。「先ず母の胎内に精液が四十日四十夜留まり、次のそれは血の塊となり、次に肉の塊となり、それから天使が遣わされて、生まれる赤子の賜物と寿命と行いと、幸福か或いは不幸かを書きつけ、その後で生命を吹き込む。あなた方のうちの或る者は、天国へ行く人々の行いをして、遂に天国まであと一尺のところに達するが、すでに定められていることに従って、その後、地獄行きの行いをして地獄に落ちる。一方、あなた方のうちの他の者は、地獄へ行く人々の行いをして、遂に地獄まで一尺のところに達するが、すでに定められているように、その後、天国行きの人々の行いをして天国に入るだろう。」いやはや、このハディースは心にズシンですね。最後の最後の土壇場で大ドンデン返しもある人生。慢心せずに常にアッラーを畏れ、アッラーにお縋りするしかありません。アスタグフィルッラー先ず「高慢にならないこと」です。私たちが持っているものは、アッラーからの与りものなのです。自分で稼いだと思っていても、「もとで」がなければ、何も出来ません。「もとで」とは例えば「目が見える」「口がきける」「耳が聞こえる」「歩ける」「走れる」「考えられる能力がある」「いい匂いを嗅ぐ鼻がある」などなど、書き出せばキリがありません。平和な「日本」に生まれたことだって、私たちが選択したことではありません。アル=ハムド リ=ッ=ラーそして今持っているこういった「与りもの」だってアッラーがお望みになれば、明日にだってお取り上げになって、私たちのものではなくなってしまうかもしれません。例えば「今動いている心臓」・・。アスタグフィルッ=ラーフ=ル’アジームイブン・カースィールのタフスィールにあるア=ッ=タバリーによると至高なるアッラーは仰せになりました。「アッラーがあなたがたに恩恵をかけ給うたことを人々の前で自慢してはならない。なぜならあなたがたの努力で得られたものではないからである。むしろ、これは唯アッラーがあなたがたのために定められ、あなたがたに糧としてお与えになったものなのだ。だからあなたがたへのアッラーの恵みをひけらかすためや他人に対し傲慢になるために用いてはならない。」イクリマはこう述べています。「誰でも喜んだり、悲しんだりします。だが、あなたがたは喜びを感謝に変え、悲しみを忍耐によって堪えなさい。」アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月30日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第57章(スーラト=ル=ハディード)です。第25節のワ アンザルナ=ル=ハディーダ フィーヒバ・スン シャディードゥー ワ マナーフィ’ウリ=ン=ナーシ(またわれは鉄を下した。それには偉大な力があり、また人間のために種々の便益を供する。)から章名になりました。真理を拒絶し、それに対する証拠がもたらされた後もなお頑強にそれに抵抗した者に対する抑制となしたという意味です。鉄は、剣・槍・槍先・矢じり・鎧などの武器になり、また人間の生活においては、鋳造貨幣・斧・鞍・鋸・ナイフ・シャベルなどがそれから作られ、その道具によって耕作・織物・料理・パン焼きに用いられます。(ムスリム新聞第144号クルアーン解説より)マディーナ後期とヒジュラ8年ごろに啓示されました。第22節&第23節です。マー アサーバ ミン ムスィーバティン フィ=ル=アルディ ワ ラー フィー アンフシクムイッラー ミン キタービン ミン カブリアン ナブラ アハーインナ ザーリカ ’アラ=ッ=ラーヒ ヤスィール(地上において起こる災厄も、またあなたがたの身の上に下るものも、一つとしてわれがそれを授ける前に、書冊の中に記されていないものはない。それはアッラーにおいては、容易な業である。)リ=カイラー タ・スー ’アラー マー ファータクムワ ラー タフラフー ビ=マー アータークムワ=ッラーフ ラー ヤヒッブ クッラ ムフターリン ファフール(それはあなたがたが失ったために悲しまず、与えられたために、慢心しないためである。本当にアッラーは、自惚れの強い高慢な者を御好みになられない。)「マー(完了形の動詞の否定に使われる)」と「ラー(未完了形の動詞・名詞などの否定に使われる)」に「イッラ-」がセットになり、「~以外は~はない」と言う2重否定によって、より「イッラー」以降を強調する手法です。「ラー イラーハ イッラ=ッラー」(アッラー以外に神はいない)と同じ手法ですね。「アサーバ ミン ムスィ-バティン(厄災から起こる)」と「アサーバ」も「ミスィーバ」も同じ語根「サーバ」(当たる)から来た語で、「アサーバ(届く、得る、陥る、起こる)」は第4型の動詞です。「ミン(~から)」は前置詞。無定冠詞の「ムスィーバ(ティン)(不幸・厄災・災害)」は前置詞の後ろなのでカスラタイン(語尾の母音が「イン」と発音されます)です。「フィー(~に、中に)」は前置詞。「アル=アルディ(地上)」は前置詞の後なので語尾がカスラ(「イ」)です。定冠詞「アル」の「ア」は前に語が来ると発音されないハムザト=ル=ワスルです。「ワ(そして)」は接続詞。「アンフシクム(あなたがた自身)」は「ナフス(ン)(魂。自身)」の複数形が「フィー(~に)」の前置詞の後なので語尾がカスラになり、それに2人称複数の人称代名詞「クム」がくっついたものです。タジュウィードでは「マーーーー」とマッド(長音)のマークは2拍か4拍か5拍です。4拍が一般的です。「ミンー ムスィーバティンーー フィ=ル=アルディ」と「ミン」と「ムスィーバティン」の間はイドガーム(「ムスィーバティン」の始めの「ミーン(M)」がシャッダ(ダブル)で表記されていますので、それが目印になるでしょうか。「ミン」の最後の「ヌーン(N)」は後ろのミーム(M)の音に引っ張られて鼻濁音のミーム(M)になります。)のルールで2拍、「ムスィーバティン」と「フィ=ル=アルディ」の間、また「アンーフスィクム」(「ン」と「フ」の間)はイフファーのルールで2拍です。「フィー キタービン ミン カブリ アン ナブラ アハー(われがそれを授ける前に、書冊の中に) 」「フィー(~中に)」は前置詞無定冠詞の「キタービ(ン)(書物)」は前置詞の後ろなのでカスラタイン(語尾の母音が「イン」と発音されます。)「ミン(~から)」は前置詞「カブリ(以前)」は「ミン」の後ろなので、語尾がカスラです。「ミン カビリ」とセットで聖クル’アーンには出てきます。「アン」は英語の接続詞「that」に相当します。「ナブラ・ア ハー(我々はそれを創造する)」は「バラ・ア(創造する)」の1人称複数未完了形に3人称女性単数代名詞「ハー(彼女を/それを)」がくっついたもの。「それは」は「起こる出来事(この場合は複数です)」を指すと思われます。タジュウィードのルールでは「アンーー ナブラ・ア ハーーー」と「アン」と「ナブラ・ア」の間(ナブラの始めの文字「ヌーン(N)」がシャッダ(ダブル)になっています。イドガームのルールで、「ミン」の最後のヌーン(N)は鼻濁音で発音します。)は2拍で、「ハー」は2拍か4拍か5拍です。このマッダのマークを例えば、一旦2拍で読むことにしたら、ずーーと2拍で読みつづけてください。4拍で読むのが一般的ですが。アル=マッド=ル=ムンファスィル(分離長音)と呼ばれます。「インナ(本当に)」も「ン」と「ナ」の間は2拍です。「インナ」の後ろに来るムブタダ(名詞文の主語)の語尾の母音はファトハ(「ア」と発音します)ですが、ここは「ザーリカ(それは)」という指示語ですから、形は変りません。ハバル(名詞文の述部)は「ヤスィール(ン)」です。「アラ=ッラーヒ(アッラーにおいて)」の「アラー(の上に)」は前置詞ですから「アッラーヒ」と語尾の母音はカスラ(「イ」と発音します)になっています。「リ=カイラー」の「リ」は「~のため」という意味です。「カイラー」は「~しないように」という意味で後ろの未完了形の動詞がマンスーバーになるコントローラーです。「タ・スー(あなたがたが悲しむ)」は「アスィヤ(悲しむ)」の2人称男性複数未完了形が「カイラー」が前にあるために「タ・スーナ」の最後の「ヌーン」がなくなり、かわりにアリフ(発音はしません)が表記されています。「アラー(に対し)」「マ ファータクム(あなたがたから無くなったもの)」の「マー」は英語の関係詞の「what」に相当します。「ファータ(消滅する、通り過ぎる)」に2人称複数の人称代名詞「クム」がくっついたもの「ワ(そして)」は接続詞「ラー タフラフー(あなたがたが喜ばない)」の「ラー」は否定を表します。「ファリハ(喜んでいる、幸せである)」の2人称男性複数未完了形が、「カイラー」のためにマンスーバの形になっています。「ファリハ ビ(~に喜んでいる)」とよく前置詞の「ビ」がセットになって使われます。「ビ=マー アータークム(あなたがたに与えたものに)」の「アーター(与える)」に2人称複数の人称代名詞がくっついています。「ビ=マーーーー」と「マー」にもマッダ(長音)の表記がありますので、2拍か4拍か5拍伸ばします。「ワ=ッラーフ(そしてアッラーは)」「ラー ユヒッブ(お好みにならない)」の「ラー」は否定、「ユヒッブ」は「ハッバ(大好きである、愛する)」の3人称男性単数未完了形です。ファーイル(動詞の主語)はアッラーです。「クッラ(~のすべてを)」に懸かる語もカスラで表記されますので「ムフターリン(騙す者)」「ファフーリン(高慢な者)」となっています。「ムフターリン」の語根は「ファタラ(欺く、だます)」「ファフーリン」の語根は「ファハラ(自慢する)」ムスハフ・タジュウィードの注釈には「与えられたものに対し、高慢になっている者」とあります。「ムフターリンーー ファフール」とタジュウィードのルールで「ムフターリン」と「ファルール」の間はイフファーのルールで2拍伸ばします。また節の最後なので、表記は「ファルーリン」でも「ファルール」と最後をスクーン(子音)で読みます。そういうふうに読むのもスンナ(預言者様サッラッラーフ アライヒ ワ サッラムの言行ゆえに推奨されること)です。タカッバラ=ッ=ラーフ ミンナー ワ ミンクム(アッラーがあなたがたをそしてわたしたちを受け入れてくださいますように)今回は文法の説明のみです。インシャーアッラー解説は次回です。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月29日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム至高なるアッラーはこう仰せられました。ワ ラー タクトゥルー=ン=ナフサ=ッ=ラティー ハッラマ=ッ=ラーフ イッラー ビ=ル=ハック正当な理由による以外は、アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない。(17:33)それは人間でも、動物でもですが、特に同じムスリム同士にはワ マー カーナ リ=ム・ミニン アン ヤクトゥラ ム・ミナン「信者は信者を殺害してはならない。」(4:92)ムスリムのハディースにはこう書かれています。ジャービルによると、アッラーのみ使い(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「ムスリムとは、手によってでも、言葉によってでも他のムスリムたちを安ずる人のことです。」イラークにいる過激なグループは、アッラーが尊いものとされた生命を奪い、また同胞に「平安」の代わりに「恐怖」「憎しみ」「対立」「不信」「絶望」などを与えているように私には思えます。アル=ブハーリーのハディースには第4章第94節の解説としてこう書かれています。イブン・アッバースは次のように言いました。或る人が羊の群を追っているとき一団のムスリムに出遭ったので、「アッサラーム ‘アライクム」と挨拶したが、、彼らはその人を殺し、家畜を奪った。そこでこの言葉が下された。」マジュマ ア=ッザワー‘イドにはこうあります。アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はアル=ミクダード・ビン・アル=アスワドにこう言われました。「不信仰者たちの間で、信仰心を密かにしている男がいたが、その男がお前に自分の信仰を示したのにも関らず、お前は彼を亡き者にしてしまったのだ。お前だって嘗てマッカにいた頃は、自分の信仰心を公にせず、隠していたのに。」「イド‘ウー リー=ル=ミクダーダ、ヤー ミクダーダ! ア カルタ ラジュラン ヤクール:ラー イラーハ イッラ=ッ=ラー(フ)、ファ=カイファ ラカ ビ=ラー イラーハ イッラー=ッ=ラーフ ガダン?(ミクダーダ、私に説明してくれ。おお、ミクダードよ!お前は「ムスリムだ」と言った男を殺したのか?アッラー以外に神はいない、それなのに、アッラー以外に神はいないということに明日直面した場合、お前はいったいどうするつもりなのだ?)」自分の命を守るために、財産を、現世の利益のために、結婚のために、どんな理由で入信したものであろうと自ら「私はムスリムです。」と言って、アッラーに「ラー イラーハ イッラッラー」と誓った者に対し、「お前はムスリムではない。」と他の者が決め付けることはできないのです。イスラーム国家と言われる国が、この啓示とは逆のことをしていて、それが、実は全然「イスラーム的」ではないということが理解してもらえるでしょうか。アル=ブハーリーのハディースにはこういう興味深いものがあります。フザイファ・ビン・アル=ヤマーンによると、人々はアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)に良いことについて尋ねていたが、わたしは悪いことに襲われるのを恐れ、それについて尋ねるのが常であり、ある時、わたしはアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)に次のような質問をした。「かつてわたし達はイスラームの教えを知らずジャヒリーヤ(無道)と悪の中に居ましたが、アッラーはこのようなよいものをお与え下さいました。それで、このよいことの後に悪いことが来るのでしょうか」「来る」「では、その悪いことの後に良いことが来るのでしょうか」「来る。だが、そこに争いが起るだろう」 「誰がそれを惹き起こすのですか」「わたしの道以外の道を行く者で、お前は或るときは彼らを認め、また或る時は斥けるであろう」「またこの良いことの後に悪いことが来るのでしょうか」「来る。地獄の門のところには人々を喚ぶ者達が居て、彼らの呼びかけに応えた者を地獄に投げ入れるであろう」 「アッラーのみ使いよ、彼らはどんな人達ですか。」「我々と同じ種族で同じ言葉を話す人達だ」「そのような悪いことに襲われたとき、何をすればいいでしょうか」「ムスリムの集団とそのイマーム(長)に従え」「集団もイマーム(長)もいないときはどうすべきでしょう」「すべての党派から身を退け、たとい木の根を食べて遂にそのまま死に至ろうとも」このハディースのようなことが、今のアラビア半島に「兆候」として見られると思うのは、私の穿った見方によるものでしょうか。アッラーフ ア’アラムアスタグフィルッラーアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月28日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第4章(スーラト=ン=ニサーィ)は既出です。その第94節です。ヤー ハイユハ=ッ=ラディーナ アーマヌー イザー ダラブトゥム フィ=ッ=サビーリ=ッ=ラーヒ ファ=タバイヤヌー ワ ラー タクールー リ=マン アルカー イライクム=ッ=サラーマ ラスタ ム・ミナン (信仰する者よ、あなたがたがアッラーの道のために、出動するときは、<慎重に>事態を見きわめ、あなたがたに挨拶する者に向かって、「あなたがたは信者ではない。」と言ってはならない。)「ヤー ハイユハ」は呼びかけです。「ア=ッ=ラディーナ」は関係代名詞で、男性複数を指します。「those who」に相当するでしょうか。「ア=ッ=ラディーナ」の「ア」はハムザト=ル=ワスルなので、前に語がある場合発音されません。「アーマヌー(信仰する)」は「アムナ(信仰している)」の三人称男性複数完了形です。「イザー(~とき)」で条件文の始まりです。「ダラブトム(あなたがたは出かける)」は「ダラバ(打つ、離れる、去る、動く)」の二人称男性複数完了形です。「フィ=ッ=サビーリ=ッラーヒ(アッラーの道のために)」これは頻繁に出てくる表現ですので、セットとして覚えてしまいましょう。「フィー(~に)」が前置詞なので、「ア=ッ=サビール(道)」の語尾がカスラです。「ア=ッ=サビール」はムダーフ(被修飾語)で「ア=ッ=ラー」がムダーフ・イレイヒ(修飾語)です。ですので、「ア=ッ=ラーヒ」と語尾がカスラになります。どちらの「ア」もハムザト=ル=ワスルなので、前に語があるため、発音されません。「イザー」からここまでが、シャルタ(条件)です。「ファ=タバイヤヌー(だから、あなたがたは慎重になりなさい)」は、シャルタ(条件)に呼応するジャワーブ(条件文の結び)の部分です。ジャワーブは、一般に「ファ」や「ラ」で始まります。「タバイヤヌー」は「バーナ(明快になる、明らかになる)」の第5型の命令形です。「タバイヤヌー(明瞭にし)」という読誦法が一般的ですが、「トゥッサビトゥー(確認して)」という読誦法もあるそうです。「ワ(そして)」は接続詞「ラー(~してはいけない)」は禁止の意味ですので、後ろの未完了形の動詞はマジュズームです。「カーラ(言う)」の二人称男性複数未完了形「タクールーナ」の「ナ」がなくなり、変わりにアリフがついています。このアリフは発音しません。「リ=マン(~に)」の「リ(~に)」は前置詞で、「マン」は英語の人称の関係詞「who」に相当します。「アルカー(投げる、分ける)は「ラキヤ(会う)」の第4型。「イライクム(あなたがたへ)」は「イラー(~へ)」に二人称複数の人称代名詞「クム(あなたがたを/に/の)」がくっついたもの。語尾のアリフ・マクスーラーは後ろにこういった人称代名詞がくっつくと「ア」の発音が「イ」になります。「‘アラー(上に)」に「クム(あなたがた)がくっついて「’アライクム(あなたがたの上に)」と同じです。「ア=ッ=サラーム(平安の挨拶)」はムスリム同士の挨拶です。「ア=ッ=サラーム ‘アライクム(あなたがたの上に平安を)」はムスリム同士が会ったら時に、言い、また別れる時にも言います。普段使う言葉は違っても、この挨拶は、世界中共通です。そして聖クル’アーンでは天国でも使われる挨拶だと言っています。アドン(エデン)の楽園、それは信じていても目には見えないものだが、慈悲深い御方がそのしもべたちに約束なされたものである。本当にかれの約束は、いつも完遂される。かれらはそこでは無用の話を聞かず、只々「平安あれ。」(と言う語を聞く)だけであろう。(19:61&62)本当に信仰して善行に励む者には、かれらの主は、その信仰によってかれらを導かれる。至福の楽園の中に、川はかれらの足元を流れるのである。その中でかれらの祈りは、「アッラーよ、あなたの栄光を讃えます。」であり、またそこでのかれらの挨拶は「平安あれ。」であり、そして祈りの結びは、「万有の主アッラーを讃えます。」である。(10:9&10)「ア=ッ=サラーム」の「ア」はハムザト=ル=ワスルですので、前に語がある場合は発音しません。「アリフ(「ア」と発音します)」なしで「サラム」という読誦法もあります。イスラームを示す信仰表明の言葉を唱えることによる服従の意味だそうです。「ラスト ム・ミナン(「お前は信仰者ではない」と)」の「ラスタ」は「ライサ(じゃない)」の二人称男性単数です。「じゃないだろう」と未来の時は「ラー ヤクーン」、「じゃなかった」と過去の場合は「マー カーナ」が使われます。「ライサ」の後に来るハバル(名詞文の述部)は対格(目的格)になりますので、「ム・ミヌン」ではなく「ム・ミナン」です。解説はイン シャーア=ッラー次回です。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月27日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第53章(スーラト=ン=ナジュム)は既出です。その第32節です。ワ イズ アンートゥム アジンーナトゥンー フィ ブトゥーニ ウンーマハーティクムファラー トゥザックーーー アンーフシクムフワ ア’アラム ビ=マニ=ッ=タカーあなたがたが母の胎内に潜んでいた時のあなたがたに就いて、最もよく知っておられる。だから、あなたがたは自分で清浄ぶってはならない。かれは主を畏れる者を最もよく知っておられる。「ワ(そして)」は接続詞「イズ(~のとき)」という意味です。「アントゥム(あなたがたは)」は主格の二人称複数人称代名詞です。タジュウィードでは「アンーートゥム」と「ン」と「ト」の間を2拍伸ばします。イフファーと呼ばれるルールです。「アジンナトゥン(胚子、胎児)」は「ジャニーン(胚子・胎児)」の複数形です。語根は「ジャンナ(隠す、覆う)」です。「アジンーーナトゥン」とヌーン(N)のシャッダ(ダブル)の間はタジュウィードのルールにより、2拍伸ばして読誦します。また語尾がヌーン(N)のスクーンで終わり、次に「ファー(F)」が来ますので、タジュウィードではイフファーのルールで2拍伸ばします。「フィー(~の中に)」は前置詞です。「ブトゥーニ(子宮)」は「バトゥン(子宮・お腹)」の複数形です。語根は「バタナ(隠されている)」です。前置詞の後なので語尾がカスラ(母音を「イ」を発音します)です。「ウンマハーティクム(あなたがたの母親)」は「ウンム(母)」の複数形「ウンマハー(トゥン)」が前置詞の後ろなので「ウンマハーティ」と語尾がカスラになり、その後ろに属格の二人称複数非分離形人称代名詞「クム」がくっついています。ミーン(M)のシャッダ(ダブル)なので、タジュウィードでは「ウンーーマハーティクム」と「ン」と「マ」の間は2拍伸ばします。「ファラー(だから~してはいけない)」は接続詞の「ファ」と禁止を表す「ラー」がくっついたものです。「トゥザックー(清浄ぶる)」は「ザカー(心が清浄である、増える)の第2型「ザッカー(清浄化する、成長する)」の二人称男性複数未完了形が禁止の「ラー」(マジュズームのコントローラー)があるので、「ヌーン(N)」はなくなって、語尾がアリフ(A)になっていますが、これは実際は発音しません。「アンフサクム(あなたがた自身を)」は「ナフス(ン)(自身、魂)」の複数形が目的格(与格)なので、「アンフサ」と語尾がファトハ(「ア」と発音します)になり、属格の二人称複数非分離形人称代名詞 「クム」がくっついたものです。「アンーーフサクム」と「ン」と「フ」の間はタジュウィードのイフファーと呼ばれるルールで2拍伸ばします。「フワ(彼は)」は主格の三人称男性単数の人称代名詞です。「ア’アラム ビ(~を知っている)」が「’アリマ(知る)」を語根とする派生語「’アリーム(知っている)」の比較級・最上級「より知っている、一番知っている」です。「アッラーフ ア’アラム(アッラーが一番ご存知です)」は何かを尋ねられた時に、自分の知っている範囲内で質問者に答えます(アドバイスを求められたら、できるだけ応えることはムスリムの義務です)が、人間の知識には限界があり、真理をご存知なのはアッラーのみです。また思い間違いや聞き間違ったりして、自分自身の中で未消化なものもあるでしょう。間違った知識を持っているのも拙いですが、その間違ったものを他の人に伝えてしまい、それを聞いた人がその間違った知識や情報を他の人に伝えてしまうかもしれません。それらの行為は全て、発信源である回答者自身が最後の審判の日に罪として問われます。アスタグフィルッラーですので、必ず「アッラーフ ア’アラム’(アッラーが一番ご存知です)」と言いましょう。万一、仮に与えた情報が間違っていてもそれで回答者が、最後の日にアッラーからその罪を問われることにはならないであろうと言われています。アッラーフ ア’アラム「マニ=ッ=タカー(畏れる者)」の人称の関係接続詞「マン」と「ワカー(護る)」の第5型&第8型の「イッタカー(畏れている)」から成っています。「イッタカー」の「イ」がハムザト=ル=ワスルで、前に語があると発音されません。「マン」と語尾がヌーン(N)スクーン(子音)で終わり、「イッタカー」も「イ」が発音されないと「ター(T)」のスクーンで始まります。アラビア語ではこのようにスクーンが続く場合は音調のためにカスラ(「イ」と発音します)をつけてスクーンが続かないようにします。そのため「マン」が「マニ」となります。アル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。イムラーン・ビン・フサインによると預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われた。「ハヤー<慎み>は善いこと以外は齎さない。」自分が犯した罪さえも、「慎み」ゆえに公表すべきではありません。ムスリムによっては偽悪的に「わたし実は~はしてなくて・・・」とか「私は~はいけないって知っているけど、つい・・」とか言う者がいますが、そういう者は、アッラーからの赦しの機会を自ら逸していることになるのです。アスタグフィルッラーアブー・フライラは伝えている。アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「私のウンマの者は全て、犯した罪を許されるが、しかし、それを公表した者らは除かれる。アッラーがお隠しになっていたにも関らず、夜行ったことを朝になって人々にしかじかのことを昨日行ったと、公表するしもべであり、また昼間行ったことを夜になってから人々に、アッラーがお隠しになっていたにも関らず、公表するしもべである。」しかし、自分の罪を言わず、よいことを話すように努めているとつい自分がしていないことも相手に勧めてしまう、「いい子ぶってしまう」ということがおこりがちです。「信仰する者よ、あなたがたが行わないことを口にするのは、アッラーが最も憎まれるところである。あなたがたはどうして(自ら)行わないことを口にするのか。」(61:2&3)偽悪的に自分のことを披露するのは、アッラーの赦しの機会を失ってしまうことになり、自分がしないことを口にするのは今度は偽善者的な行為になってしまうのです。ムスリムのハディースにこう書かれています。シャキークは伝えています。ウサーマ・ビン・ザイドは次のように語った。(中略)かつて次のようにアッラーのみ使い(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)が言われたことを想い出します。即ち『復活の日、或る男が連れ出されて業火の中におとされる。そして自らの腸をひきずりながら、丁度、驢馬が、石臼のまわりをまわるように、地獄をまわることになる。その時、地獄の住民たちが彼の傍に集まり、”某よ、どうしたのか。お前は私たちに善を行なえと命じ、悪を禁じたのではなかったか”というと、その男は”その通りです。私は人々をいつも善を行うよう命じたが、私自身ではそれを行わなかったのです。人々には悪を禁じたが、私自身がそれを行ったのです”と答えることだろう』と」人を指導する立場の者、人の上に立つ者は、人より知識のある者、人より豊かな者、優秀な子供を持っている者など、人が羨ましいと思う物や人より優れた物を持っている者ほど、身を正し、口を慎み、ひっそりと善行をし、できればそれを地道に続けなければならないのです。「背伸び」することは時として、それがきっかけで始められるという点では評価できますが、その時だけ「いい子のふり」をしないよう、常にアッラーを畏れたいものです。アスタグフィルッラーフ=ル=’アジームインナフ ラー ヤグフィル=ッ=ズヌーバ イッラー アンタ(本当にアッラー以外に罪を赦される御方はいません)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月25日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第18章(スーラト=ル=カハフ)です。第9節から22節まで出てくる信仰のために洞窟に逃れた青年たちの話から、章題になりました。全110節からなっています。この章を読誦すると、さまざまな徳があるとハディースでは伝えられています。アル=ハキームのハディースにはこうあります。アブー・サ’イードによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「金曜日に洞窟章を誦む者はだれでも、次の金曜日までの間、光で照らされるであろう。」アル=バイヤキーのハディースにはこうあります。「啓示されたように洞窟章を誦む者は誰でも、復活の日に光があるだろう」イマーム・アハマドのハディースにはこう書かれています。アブー・ア=ッ=ダルダーによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「洞窟章の始めの10節を暗誦した者は、ダッジャール(偽メシア)に対して護ってもらえるだろう。」アル=ブハーリーのハディースによるとこう書かれています。アル=バラーゥによると、或る男が自分の傍らに馬を二本の綱で繋いで「洞窟章」を唱えたとき、雲が空を覆い、近づいてきたので、馬が逃げてしまいました。翌朝、その男がアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)のところへ行ってこれを話すと、彼はこう言われました。「これは聖クル’アーンがもたらした<サキーナ>(聖霊という形をとったアッラーの臨在を表す)である」また洞窟章にはアル=ヒドル(「緑の男」と言う意味で、古代アラビアの民間説話の主人公)(アライヒ サラーム)と預言者ムーサー(アライヒ サラーム)の不思議な逸話や、ズール=ル=カルナイン(「2つの角のある王」の意味で、一般にアレクサンダー大王だとされていますが。はっきりとはわかりません。)の冒険騨もあります。聖クル’アーンのマスハフをちょうど真ん中で開けると、第18章です。その第23節と24節です。ワ ラー タクーランナ リ=シャ・イン インニー ファー’イルンーー ザーリカ ガダンイッラー アイーー ヤシャーーーー・ア=ッ=ラーフワ=ズクル ラッバカ イザー ナスィータワ クル ’アサーーーー アイーー ヤフディヤニラッビー=リ=アクラバ ミン ハザー ラシャダー何事でも、「わたしは明日それをするのです」と断言してはならない。.「アッラーが御好みになられるなら。」・と付け加えずには。あなたが忘れた時は主を念じて、「わたしの主は、これよりも正しい道に近付くよう御導き下さるでしょう。」と言え。 「ワ(そして)」は接続詞「ラー タクーランナ」の「ラー」は禁止で「~してはいけない」禁止を意味する「ラー」の後の未完了動詞はマジュズーム(語尾がスクーンになったり双数複数の最後のヌーンがなくなる)なので、カーラ(言う)の二人称双数未完了形「タクーラーニ」は「タクーラー」になっています。それにヌーン・タウキード(強調のヌーン)が付いています。「リ(に対して)」か前置詞ですので「シャイ・ゥ(こと、もの)」の語尾が不定冠詞でもあるので、カスラタイン(「イン」と発音します)になっています。「インニー(本当に私は)」「ファー’イルン(行う)」は「ファ’アラ」の能動分詞。「ザーリカ(それを、そのような)」は指示語「ガダン(明日に)」は目的語の副詞的用法で、最後がファトハタインです。「イッラー(~以外)」「アン」は英語の接続詞「that」に相当します。「アン」の語尾がヌーン(N)のスクーン(子音)なので、その後ろの未完了動詞の「ヤー(Y)」に影響を受けて「アイーー」と読誦します。タジュウィードの「イドガーム(同化)」です。また「アン」はマンスーバ(後ろに来る未完了動詞の語尾の母音が「ア」になる)のコントローラーなので、「シャー・ア(望む)」の三人称男性単数未完了形の「ヤシャー・ゥ」が「ヤシャー・ァ」となっています。この動詞の主語(ファー’イル)はアッラーですので、「アッラーフ」と語尾がダンマ(「ウ」と発音します)です。「ワ=ズクル(そして念じなさい)」は「ザカラ(想念する)」の命令形「イズカル」の「イ」はハムザト=ル=ワスルなので、前に前置詞「ワ」(そして)という語があるので、発音されません。「イザー ナスィータ(あなたが忘れた時は)」の「イザー」は「もし~のときは」という意味です。「ナサー(忘れる)」の二人称男性単数完了形が「ナスィータ」です。「ワ クル(そして言いなさい)」は「カーラ(言う)」の命令形は「クル」です。「’アサー(おそらく~でしょう)」「アン」が後ろの来る未完了形が「ヤー(Y)」で始まるので「アイーー」と読誦します。「ハダー(導く)」の三人称男性単数未完了形「ヤフディー」がマンスーバのコントローラー「アン」があるため、「ヤフディヤ」と語尾がファトハになり、それに「ニー(私を)」の非分離形の動詞目的格の代名詞(「私の」の時には「イー」となりますが、動詞にくっつく場合はヌーン(N)がくっついて「ニー」となります。これを<ヌーン アル=ウィカーヤ<動詞が壊れたり、変わったりしないように守るヌーン>」と言います。)がくっついています。最後の「ヤー」がなくなり、ヌーンのカスラになっています。「ラッビー(私の主は)」「リ=アクラバ」の「リ」(~のため)は前置詞です。「アクラバ(より近い)」は「カリーブ(近い)」の比較級「アクラブ」が前に前置詞があるので、語尾の母音がファトハ(「ア」と発音します)です。前置詞の後ろは一般に語尾がカスラ(「イ」と発音します)なのですが、この場合はマムヌー’ア=ミナッサルフ(カスラの代わりにファトハが使われる)です。「ミン ハーザー(これより」の「ミン」は比較級の後ろにきて「~より」の意味となります。「ハーザー」は男性単数指示語です。「ラシャダー(正しい道にいる状態)」は「ラシャダ(正しい道にいる)」は状態を表す目的語になりますので、最後がファトハタインになっていますが、ここの節で区切る場合はタジュウィードのルールで「アン」は「アー」と読誦します。ムスリム(イスラームに帰依した者)が「イン シャー・ァ=ッラー(もしアッラーがお望みになるのなら)」と言うのは、約束を守れなかった時への言い訳のために使っているのではなく、聖クル’アーンでこのようにアッラーがお命じになっているからです。その言葉は責任逃れのためではなく、アッラーを畏れるが故の言葉なのです。時間にルーズだったり、言葉通りの約束を守れないのは、その人がムスリムだからではなく、その人の国の慣習や育ち方や環境やその人の位置付ける優先順位によるものだと思います。日本人同士だったら、言葉のニュアンスによって、言っている人の「本気度」が暗黙の内に理解できるので、あまり外れがないだけのような気もします。ムスリムでも人によって、きちんとしていたり、ルーズだったりしますので、その点においては日本人と同じではないでしょうか。2・3回約束をしたりすると、その人の時間に対する考え方や約束に対する姿勢というものがわかってきます。 やはり国民性というものはどうしてもありますが、それだけやその人の宗教だけで判断するのは危険だと思います。ただムスリム同士で、明日や明後日、果ては一ヵ月後の約束をする時、「じゃ、また来週」と言うと「イン シャー・ァ=ッ=ラー」と返してくれる人と返してくれない人がいます。その人の「ムスリム度」がそこで計れます。未来のことを言う時「イン シャー・ァ=ッ=ラー」をいい忘れたときは、アッラーをジクル(念じ)て、「ヤフディヤニー ラッビ=リ=アクラブ ミン ハザー ラシャダー」と言うように聖クル’アーンにはありますので、今日から実践してみたらいかがでしょう。「インシャッラー」という書き方をしているのを良く見かけますが、「イン(もし)」と「シャー・ァ(望む)」と「アッラー(フ)」の3語からなっている言葉ですから(「アッラー」の「ア」はハムザト=ル=ワスルなので、前に語がある場合は発音されません。)正しくは「イン シャー・ァ=ッラー」となります。「シャー・ァ」の「・ァ」はきちんと発音されなければいけないのです。ともあれ、一人でいるときよりもムスリム同士で会話すると「イン シャーァ=ッ=ラー(アッラーがお望みなら)」「マー シャー・ァ=ッ=ラー(アッラーがお望みになったこと・・素晴らしい)」「スブハーナ=ッ=ラー(アッラーに称えあれ)」「ワ=ッ=ラー(ヒ)(アッラーに誓って)」「タカバッラ=ッ=ラー(アッラーが受け入れてくださいますように)」「アスタグフィル=ッ=ラー(私はアッラーに赦しを請います)」「ジャザークム=ッ=ラーフ ハイラン(アッラーがあなたがたに善き報いを下さいますように)」などたくさんアッラーへのジクルやドゥ’アーが出来ます。やはり同胞に会うのっていいなあと一人の時間が長かった後など、痛切に思います。アル=ハムド リ=ッ=ラー(凡ての称賛はアッラーに・・・アッラーに感謝します)ヤー ラッバ=ル=’アーラミーンアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月24日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第28章(スーラト=ル=カサス)です。数節を除き,ヒジュラ直前、マッカに住むムスリムに対する迫害がその頂点に達し,預言者ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)が命さえも危うくなり、窮地の極に陥ったころに啓示されました。第56節です。インナカ ラー タフディー マン アフバブタワ ラーキンナ=ッ=ラーハ ヤフディー マイー ヤシャー(ゥ)、ワ フワ ア’アラム ビ=ムフタディーン (本当にあなたは、自分の好む者<の凡て>を導くことは出来ない。だがアッラーは御心のままに導き下される。かれは導かれた者を熟知なされる。) 「インナカ(本当にあなたは)」はインナ(本当に)に2人称男性単数の代名詞「カ」がついたもの。ラーは否定形タフディーは「フダー(導く)」の2人称男性単数未完了形です。マンは「~者」という意味で、英語では関係代名詞の「who」に当たります。アフバブタはハッバ(好きになる)の第4型の2人称男性単数完了形です。ワ(そして)は接続詞。ラーキンナ(しかし)はイスム・インナの姉妹ですので、同様にムブタダ(名詞文の主語)の語尾の母音はファトハ(「ア」と発音します)。ですからアッラーハと最後が「ハ」になっています。ヤフディー(彼は導くだろう)は「ハダー(導く)」が原型の3人称男性複数未完了形。「マイー」は既述の「マン」ですが、語尾がヌーン(N)のスクーン(子音)でその後ろの語がヤー(Y)で始まっていますので、タジュウィードのルールのひとつイドガームが適用され、マイーと、読誦します。ここで休止のマークがありますので、区切った場合はヤシャー・ゥの語尾を子音読みに、区切らなかったら「ゥ」と発音します。フワ(彼は)は3人称男性単数代名詞。ア’アラム(熟知した)は「’アリマ(知っている)」の派生語です。この動詞は前置詞のビ(~によって)を伴うことがよくあります。アル=ムフタディーンも「ハダー」を語源とする「ムフタディン」は複数形「ムフタドゥーン」が前置詞の影響で「ムフタディーン」になっています。もしかれらがこの消息(クルアーン)を信じないならば、恐らくあなたはかれらの所行のために苦悩して、自分の身を滅ぼすであろう(18:6)かれらが信者になろうとしないため、あなたは多分、死ぬ程苦悩していることであろう。(26:3)アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はその血筋においても、徳の高さによっても、人格の高潔さと優しさと人々の思いやりにおいても、ハビーブ=ッ=ラー(アッラーの最も愛された御方)と呼ばれるのにふさわしい優れた御方です。ハディースのサヒーフ・ムスリムにはこう書かれています。アブー・フライラーはアッラーの使徒(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は次のように語ったと伝えています。「私は最後の審判の日、人類の長となる。また私は墓から復活する最初の者である。また私は最初の取り成し者でありその取り成しが受け入れらる最初の者である。」と全ての被造物の中、我らの預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)が特に優れていると言っています。またその生涯を通してアッラーからの絶大な庇護のもとにありました。しかし、その預言者ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)でさえ、望んだ者凡てを信者にすることが出来ず苦悩なさっていらしたのです。彼の最も近い縁者の中にも、信者にならなかった者もいます。たとえば、スンニーでは第4代目カリフとなった預言者様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の従兄弟にあたり、また女婿にもなるアリー(ラディア=ッ=ラーフ アンフ)の父、アブー・ターリブはハーシム家の当主で、預言者様(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)を幼少の頃から保護し、宣教活動中にも支え、強力な協力者ではありましたが、最期まで信者になりませんでした。 イスラーム圏で生まれ育ち、親兄弟親類縁者、凡てがムスリムの環境から日本に来たムスリムの中には、私のような一本釣り状態でムスリムになった者へ過大な期待と過大な激励を好意的にしてくれる人がいます。「聖クル‘アーンの一節を唱えたら、恐れ入って、すぐイスラームに帰依する」ことに不思議はなく、そうならないことは私の努力が足りないとでも言うかのように。確かに聖クル‘アーンの一文字一文字にはアッラーの徴が見られ、時には涙を誘うくらい心が動かされることがあります。でも、そういう気持ちにさせるのはアッラー以外の何者でもなく、私がそうしようと望んで意図的に「感動するぞ!!!」という心構えで臨んだわけではないのです。本当にアッラーは、御望みの者を迷わせ、また御望みの者を導かれる。だからかれらのために嘆いて、あなたの身を損なってはならない。アッラーはかれらのなすことを知り尽される。(35:8)もし主の御心なら、地上の凡ての者は凡て信仰に入ったことであろう。あなたは人びとを、強いて信者にしようとするのか。(10:99) 政治団体と二人三脚で、その熱心な勧誘、その後のフォローにも、見習う点があるなあと思う某S会の方が「どうして、戸別訪問などして、信者を増やさないのですか。そんなにいい宗教だったら、どしどし普通、人に勧めるんじゃないですか。おかしいですよ。私ならそうします。だから私は新聞の勧誘も熱心にしています。」と胸を張って言っていました。本物は輝きが違う、アッラーがそう望めば、人はわかるようになる。いくら目の見えない人に色を説明しても、うまく説明できない。でもアッラーのお力によって、目が見えるようになれば、その時、初めて見る光景を私たちは説明できる。その場に居合わせる栄誉、そして説明できる幸せをアッラーは、その本人の周りにいるムスリムたちにもお与え下さるのではないでしょうか。と思うのは傲慢でしょうか。アッラーフ ア‘アラムアッラーが私たちを使って、ちょっとしたことがきっかけとなって、周りの人を「目が見える」「心が開く」状態へお導きになるやも知れません。ですから、まず、私たち自身が日頃の言動をよりイスラーム的にして、説明を求められれば、不十分ながらもある程度答えられるように、イスラームの知識を深めておかなければいけないと思います。イスラームは実は人間が心から穏やかな気持ちや幸せを感じる宗教で、その本質は容易です。礼拝のことや断食のこと、食べ物のこと、女性の服装のことで難しいと思わせるのであれば、それは実践している私たちがきちんと伝えられる能力が、不十分だと言うことなのかもしれません。アスタグフフィルッラータカッバラッラーフ ミンナー ワ ミンクム(アッラーが私たちをそしてあなたがたを受け入れてくださいますように)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月17日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第23章スーラトゥ=ル=ム・ミヌーンです。第1節カド アフラハ=ル=ム・ミヌーン(信者たちは確かに勝利を勝ち取る)から章名になりました。マッカ時代末期の啓示と言われています。真理はひとつながらそれが否定され、イスラームを信仰する者たちが、侮辱され迫害され、生命を奪われる危機もあった頃の啓示です。 現在の世界情勢の中で、現世の享楽と利権に執着する為政者やその周辺で享受している者たち、それに洗脳された者たちが、イスラームの真理やムスリムのアッラーへの崇拝行為を悪意を持って歪めて解釈し、違う名前を与え、本質を見えなくしています。 啓示のあった頃とどこか似ているような気がします。 その第52節です。インナ ハーディヒーーー ウンマトゥクム ウンマタン ワーヒダタン アナー ラッブクム ファ=ッタクーン(ニ)(本当にあなたがたのこのウンマは、唯一の共同体である。われはあなたがたの主である。われを畏れよ。)インナ(本当に)のあとのムブタダ(名詞文の主語)はハーデヒー(これ)です。ウンマ(共同体)が女性形なので、指示語ハーザーも女性形のハーディヒーになっています。ウンマタン(共同体)はダドル(同格)です。 イスム・インナのムブタダはマンスーブ(語尾の母音が基本的にはファトハ)です。ワーヒダタン(ひとつである)はウンマタンの形容詞です。ウンマトゥクム(あなたがたの共同体である)がハバル(名詞文の述部)です。直訳すると「ひとつであるウンマ、これは、あなたがたのウンマである。」アナー ラッブクム(わたしはあなたがたの主である)アナー(わたしは)が名詞文の主語で、ラッブ(主)に2人称複数代名詞「クム」がくっついたのがハバル(名詞文の述部)です。アラビア語でこういう場合は「です」(英語ではBE動詞)にあたるものはありません。ファ=ッタクーン(だから、私を畏れなさい)のファは接続詞、前の言葉を次いで「だから」とも訳せます。イッタクー(畏れなさい)の「イ」は接続詞「ファ」が前にあるので、発音されないハムザト=ル=ワスルです。複数の相手に言っている命令形です。それに目的語「私に/私を」に当たる「ニー」がくっついていますが、命令形なので、語尾はスクーン(子音)のため、ヌーン(N)の語尾の母音、カスラの形になっています。ここで区切って読むときはスクーン(子音)で読誦します。第109章不信者たち章の第6節と同じ用法です。イブン・アッバースなどによれば「あなたがたの宗教はひとつであり、あなたがたが行く道はひとつである。これは明らかにあなたがたに示されたあなたがたのシャリ’アである」アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「我々預言者たちは違う母親から生まれた兄弟であるが、我々の宗教はひとつである。」アッラーの言葉を預かった者たちの定めたことは細かなことでは異なるが、人類が崇め従うべき対象は、アッラー以外にいないということです。人間は(元来)唯一族(1つのウンマ)であった。(10:19)人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。(49:13)あなたがたの言語と、肌色を様々異なったものとされているのは、かれの印の一つである。本当にその中には、知識ある者への印がある。 (30:22)あなたがたはアッラーの絆に皆でしっかりと縋り、分裂してはならない。(3:103) 種族、言葉、肌の色が違うのは「反目」するためでなく、「知り合う」ためであり、またこれ自身がアッラーの存在を示す徴であり、アッラーが人類に与えた試みでもあるではないでしょうか。サヒーフ・ムスリムのハディースにはこうあります。アナス・ブン・マーリクによると、預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。あなた方が自分自身を愛するように、兄弟や隣人を愛するようにならない限り、まことの信仰を持つとはいえません。「兄弟」とはイスラームを信じる同胞のことです。アッラーを信じ、ムハンマド様がアッラーの預言者であり、僕であることを信じ、それをアッラーに表明したものは、ムスリムであり、同胞です。相違点はあっても、それだけで「彼らはカーフィル」とレッテルを貼って、差別したり、迫害するのは、アッラーを畏れる者の行為とは思えません。イスラームのウンマが、「相違点」を気にする余り、協力しあったり、助け合ったり出来ず、果ては裏切ったり、反目しあっている状態だからこそ、現世においてアッラーの試みが厳しいのではとも考えられます。アスタグフィルッラーアブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「信仰心を持たぬ限り、天国へに入ることができない。また、お互いに愛し合わない限り、信仰心を持つとはいえない。そうすることで互いに親愛感を育てる方法を私はあなた方に教えなかったですか。それは、お互いがアッサラーム・アライクム!(あなた方に平安を!)と言って挨拶を交わすことです。」まず、ムスリム同士、きちんとサラームを交わすこと。それによって信頼感を育て、互いに愛し合うようになる。信仰心はそういう愛し合いの中から育まれ、それによって強固になった信仰心によって、アッラーがフィルダウス(天国)を用意してくださるということでしょう。アッラーフ アアラムそして嘘を言わず、約束は守り、信頼されたらそれに応えることです。「たとえ、彼が断食や礼拝を行い、ムスリムであると主張したとしても(前述のことができないものは)不信者の特徴である」アラー・ビン・アブドル・ラフマーンによる伝承(サヒーフ・ムスリムより)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年07月15日
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