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بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكمアン=ニファーク(偽善)についてアン=ニファークには2つに分類できます。(A)信仰における偽善(B)行為における偽善です。(A)信仰における偽善信仰の偽善には6つのタイプがあります。1. 預言者 を偽る2. 預言者 によって齎されたもののに対し偽る(聖クル’アーン、預言者ムハンマド様の言行、法、イスラームの5柱など)3. 預言者ムハンマド様 を嫌う4. 預言者ムハンマド様が 齎したものを嫌う(一神教など)5. アッラーのみ使いの宗教に不評になったり、挫折したりすることを喜ぶ6. アッラーのみ使い の宗教が勝利することを嫌がる。(イスラームが勝利することを喜ばない)本当に偽信者たちは、火獄の最下の奈落に(陥ろう)。あなたはかれらのために、援助する者を見いだせない。(4:145)(B)行為における偽善 行為における偽善は5つに分類される。アッラーのみ使い のお言葉に拠ってそれが明らかになっています。偽信者の明らかな徴とは:1.話す時に嘘言を口にする2.約束をするとその約束を守らない3.信用すると裏切る4.争いごとになると不正を行う5.同盟を結べば、裏切るさて、シャ’バーン月も中盤を過ぎました。ラマダーン月まであと2週間ほどです。前回のラマダーン月に出来なかった分の埋め合わせは済んでいますか。これからシャ’バーン月の後半はいつも定期的に断食しているムスリム以外は、任意の断食は控えてください。ラマダーン月に備え体力を失わないようにというのがその理由のようです。崇拝行為もアッラーとの約束事です。約束を簡単に破ってしまわないようにしましょう。アッラーのご加護と祝福がありますようにو الشلام
2004年09月30日
بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكمアル=クフル(不信心)についての分類「クフル」とは基本的にはイスラームのいかなる信条も信じないことです。イスラームの信条とは1.アッラー2.天使3.預言者たち4.諸啓典5.審判(復活)6.運命・・・アッラーが予め決められたこと。を信じることです。2つに大きく分けられます(1)アル=クフル=ル=アクバル(メジャーなクフル)(2)アル=クフル=アスガル(マイナーなクフル)(1)アル=クフル=ル=アクバルとはイスラームの信仰を完全に排斥するということです。これには5つの型があります。(a)クフル=ッ=タクディーブ神聖な真理を信じようとせず、いかなる信条も拒否することを意味します。アッラーについて嘘を言い、また自分のもとに真理が来るとこれを拒否する者以上に、不義な者があろうか。地獄には、不信心者への住まいがないとでもいうのか。 (39:32)(b)クフル=ル=イバー’ ワ=ッ=タカッバル マア’=ッタスディーク真理を確認したのち、アッラーの定められたこと(戒律など)に従うことへの拒否したり、高慢になることまたわれが天使たちに、「あなたがた、アーダムにサジダしなさい。」と言った時を思い起せ。その時、皆サジダしたが、悪魔〔イブリース〕だけは承知せず、これを拒否したので、高慢で不信の徒となった。 (2:34)(c)クフル=ッ=シャック ワ=ッ=ザンニ6つの信条を疑ったり、確信に欠けてたりすることそしてかれは、邪(な心)を抱いて、自分の園に入った。かれは言った。「わたしはこれが、何時かは荒廃するとは思いません。 また(審判の)時が来るとも思いません。また仮令わたしの主に戻されても、きっとこれよりも良い所を見い出すでしょう。」 その友は、論争している間にかれに言った。「あなたは信じないのですか。土からあなたを創り、次ぎに一精滴から、あなたを人間に形づくられた御方を。 かれこそはアッラー、わたしの主であられます。何ものをも、わたしの主には配しません。(18:35&36&37&38)(d)クフル=ル=イ’ラード故意に真理に背いたり、アッラーが下された明証を逸脱することを意味します。われは、真理と期限を定めずには、天と地、そしてその間の凡てのものを、創造しなかった。だが信仰しない者は、かれらに警告されたことから背き去る。 (46:3)(e)クフル=ン=ニファーク偽善的な不信仰を含みます。かれらはその誓いを(悪行のための)隠れ場として、アッラーの道から(人びとを)妨げている。本当にかれらの行うことは、憎むべきである。 それは、かれらが一度信仰して、それから不信心になったためで、かれらの心は封じられ、そのためかれらは理解しない。 (63:2&3)(2)アル=クフル=ル=アスガル(マイナーなクフル)アッラーの祝福や恩恵に感謝しないこと自体がアッラーへの不信仰を意味します。またかれらの間から(選ばれた)1人の使徒が、本当にかれらに遣わされたのだが、それを拒否した。それでかれらが不義を行っている間に、懲罰がかれらに下った。 (16:112)アン=ニファーク(偽善)についてはインシャーアッラー次回で説明します。アッラーのご加護とと祝福がありますよにو السلام
2004年09月29日

بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكمア=ッ=シルク(多神)についての続きです。「ア=ッ=シルク」とは「アッラー以外のものをアッラーと同位に崇めることやアッラーを差し置いて崇拝すること」です。シルクには3つ大きく分類されます。(1) ア=ッ=シルク=ル=アクバル(メジャーなシルク)(2) ア=ッ=シルク=ル=アスガル(マイナーなシルク)(3) ア=ッ=シルク=ル=カフィー(目立たないシルク)(1)については前日の日記で具体的に紹介しました。(2)ア=ッ=シルク=ル=アスガル(マイナーはシルク)とはア=ッ=リヤー(見せびらかしの行為)のことです。賞賛や名声や現世の利益を得るための崇拝行為や宗教的行いはこの範疇に入ります。「わたしはあなたがたと同じ、只の人間に過ぎない。あなたがたの神は、唯一の神(アッラー)であることが、わたしに啓示されたのである。凡そ誰でも、主との会見を請い願う者は、正しい行いをしなさい。かれの主を崇る場合に何一つ(同位に)配置して崇拝してはならない。」(18:110)「同胞に敬虔だと思わせるために」「仕事の書類の受け渡しのために」「ただ同胞と会って、昼めしを一緒に摂るために」礼拝を普段しない人が金曜日の集団礼拝にはやってきます。金曜の集団礼拝はできるだけ早く来て、クトバの前にスンナの礼拝をするように勧められています。アル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。アブー・フライラ によると、アッラーのみ使い は言われました。「金曜日が来ると、天使たちがモスクの戸のところに立って、一番目、二番目、三番目・・・と次々に来る者を帳簿に書き入れる。真先に来た者は 丁度、肥えた駱駝を捧げる人のようであり、次は牡牛を捧げる人のようであり、次は羊、次は鶏、次は卵を捧げる人のようである。イマームが現れると、天使達は帳簿を閉じてズィクルに耳を傾ける」早くモスクを出たいが為にクトバ(説教)の終わりがけ(クトバを聞かないと金曜礼拝をしたことにならないと思うのですが)に来て、出口近くでササッと2ラカーの義務の礼拝をすませ、人より早くモスクを出る。そんなに急いて出るのは、同胞と「プレゼントや妻に頼まれたもの」の受け渡しと、立ち話のため。ぎりぎりに来たので、車は路上駐車。人が通る道の真ん中で、傍から見ると強面の髭面の男たちが、長々と立ち話をしている。礼拝に要した時間は5分足らずだが、立ち話はその5倍以上の長さ。女性が通るとジーーと見る。金曜礼拝が終わったあとのこういった光景が目に入った時期もありました。اللهم اغفر لنا و لهمアッラーフンマ=グフィル ラナー ワ ラフム礼拝で最も好まれるのはファジュルの礼拝です。起きるのが一番辛い時間で、誰も自分の礼拝を見てくれない時間です。礼拝は「人に見せるためではなく」「アッラーへの思いを表す、行為によるアッラーとの絆を強めること」が原動力になっている崇拝行為です。(3)ア=ッシルク=ル=カフィー(目立たないシルク)これはアッラーによってその当人に定められた避けられない状況を、あれやこれや既に行ったこと又は行わなかったことについて、また、あんなことこんなことを実際に取り掛かっていたら現状よりきっとよい情勢・身分になっていたかもしれないなど今更何ともならないことを反芻し、内心、忸怩たる思いをしていることを意味します。預言者ムハンマドさま はこう言われました「ムスリムの国家におけるシルク=ル=カフィーは、漆黒の闇夜に黒い岩を這う蟻よりも更に目に付かないものである。」そしてこの目立たないシルクの罪を贖うために次の祈願を三回唱えていらした。اللَّهُمَّ إنِّي أعُوْذُ بِكَ أنْ أُشْرِكَ بِكَ وَ أنْا أعْلَمُ وَأسْتَغْفِرْكَ لِمَا لا أعْلَمُ「おお、アッラー、私が意識してあなたと何かを同位に置く事から私をお守り下さい。また私が気づかずにあなたと何かを同位に置いたことどうかお赦し下さい」アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年09月24日

بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكمアル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。アブーザッル によると、アッラーのみ使い は言われました。「天使ジブリールはわたしに『お前の民のうちでアッラー以外に何ものも崇めずに死んだ者は天国に入るか、少なくても地獄に落ちない』と言った。そこで、わたしが『姦通や盗みをしてもですか』と尋ねたとき、ジブリールは『そうだ』と答えた」ムスリム(イスラーム教徒)にとってアッラーがお赦しくださない最も大きな罪は「豚を食べること」でも「お酒を飲むこと」でもなく大きな罪とされている「殺人」「姦通」「盗み」でもなく「アッラー以外のものをアッラーと同位に崇めることやアッラーを差し置いて崇拝すること」なのです。これを私たちは「ア=ッ=シルク(多神)」と呼んでします。シルクには3つ大きく分類されます。(1) ア=ッ=シルク=ル=アクバル(メジャーなシルク)(2) ア=ッ=シルク=ル=アスガル(マイナーなシルク)(3) ア=ッ=シルク=ル=カフィー(目立たないシルク)ア=ッ=シルク=ル=アクバルには4つのものがあります。(a)シルク=ッ=ドゥ‘アー(祈願)・・・アッラー以外の神仏への祈願や懇願や祈祷などを意味します。唯一なる御方アッラーには子供も親もいません。また預言者たちはアッラーが創造になり、アッラーを言葉と携えて人々にお遣わしになった人間にすぎません。教祖も高僧も神官も霊能者もいつかは死をアッラーから賜わる人間です。樹齢何年という大きな木もアッラーの徴にすぎないのです。あなたがたの持つものは凡て消滅する。だがアッラーの御許のものは残る。(16:96)かれらは船に乗っていると、アッラーに信心の誠を尽くして祈る。だがかれが、陸に無事に送って下さると、たちまちかれらは偶像を拝みだす(29:65)(b)シルク=ン=ニーヤ ワ=ル=イラーダ ワ=ル=カスド(意図・目的・決意)・・・崇拝行為や宗教的なことを行う際の意図や目的やその判断がアッラーのためではなく、他の神仏に対しての行為であることを意味します。現世の生活とその栄華を望む者には、われは現世のかれらの行いに対し十分に報いるであろう。かれらは少しも減らされることはないのである。これらの者は、来世の火獄の外に何もない者たちである。現世でかれらの成し遂げたことは実を結ばず、その行っていたことは、虚しいものになる。(11:15&16)「金」「名声」など現世の生活や栄華を望む者にアッラーがお与えになるのに対し、アッラーを信じるものが時として同じような「現世の楽しみ」を賜わらないものを往々にして見られます。「アッラーは万全な御方なのに、アッラーを信じてないものが栄華を極めているのに対し、アッラーを信じているあなたがたは辛い生活を与えられている。おかしいじゃないですか。」「来世」という観念がない人は、現時点だけを見て「勝ち組」と「負け組」だけで判断する傾向にあります。アッラーのこの啓示のお言葉によって、信者たちは絶望しないわけです。سبحان اللهスブハーナッラー(c)シルク=ッタ‘ア(従うこと)・・・アッラーのお命じになったことに反するような「権威」に従うことを意味します。かれらは、アッラーをおいて律法学者や修道士を自分の主となし、またマルヤムの子マスィーフを(主としている)。しかしかれらは、唯一なる神に仕える以外の命令を受けてはいない。かれの外に神はないのである。かれらが配するものから離れて(高くいます)かれを讃える。(9:31)アフマドのハディースにはこう書かれています。アッラーのみ使い が上記の聖句をお誦みになったので、アディー・ビン・ハーティム はこう言った。「おお、アッラーのみ使いよ。彼ら(ユダヤ教徒やキリスト教徒)は彼ら(律法学者や修道士)を崇めていませんよ。」するとアッラーのみ使い は「彼ら(ユダヤ教徒やキリスト教徒)は確かにそうしている。彼ら(律法学者や修道士)は合法なことを非合法なものにし、また非合法なものを合法にしている。そして彼ら(ユダヤ教徒やキリスト教徒)はそういったものに従っている。こういう点から彼ら(ユダヤ教徒やキリスト教徒)は実際、彼ら(律法学者や修道士)を崇めている事になるのだ」ハディースに明らかに書かれているにも関わらず、「イマームがこう言った」「友人のムスリマがこう言った」「私の国ではみんなこうやっている」と言って、頑として受け付けないような同胞を見ると、このシルク・タ‘アの範疇になるのかなと不安になります。でもこれは誰でも陥りやすいのかもしれません。本当にアッラーが私たちを正しく導いてくださること以外これを避ける・防ぐことはないでしょうね。(d)シルク=ル=マハッバ(愛)・・・アッラーを差し置いてアッラーへ帰すべき愛情をアッラー以外のものに表すことを意味します。だが人びとの中にはアッラーの外に同位の者を設けて、アッラーを愛するようにそれらを愛する者もある。だが信仰する者たちは、アッラーを激しく熱愛する。これら悪を行う者が、その懲罰を見る時思い知るがいい。一切の権能がアッラーに属し、またアッラーが厳しい懲罰を加えられることを。(2:165)ア=ッ=シルク=ル=アスガル(マイナーなシルク)とア=ッ=シルク=ル=カフィー(目立たないシルク)についてインシャーアッラー次回解説します。アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年09月23日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム最も大事なことは、アッラーを唱念〔ズィクル〕することである。(29:45)もうすぐマグリブです。金曜日が始まります。8時半から30分ズィクルの時間としましょう。「ズィクル」とは、アッラーを思い出し、アッラーに気持ちを傾け、アッラーを想い、アッラーに浸ることを意味します。具体的には一定の文句を心と舌に唱えることで、「念仏」ならぬ『念神』とでも言えるでしょうか。至高のアッラーは、『まことにそれ(魂、自我)を清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。』(聖クルアーン第91章太陽章第9・10節)と仰せられ、自我を清めることが私たち人間にとって真の成功を得る鍵であるとお教えくださっています。では「何によって?」その答えが、ズィクルというわけです。『言いなさい。「まことにアッラーはお望みの者を迷うにまかせ、悔悟してかれに返る者を導かれよう。これら信仰した者たちは、アッラーの唱念によって心の安らぎを得る。アッラーを唱念することで、心の安らぎを得られないはずはないのだ。」と』(第13章雷電章第27・28節)他にもズィクルの徳を教えてくれる御言葉は数多くありますが、『アッラーを唱念(ズィクル)することは、最も大切である。』(第29章蜘蛛章第45節)、『信徒たちよ、アッラーを唱念しなさい。数多く唱念しなさい。朝晩、かれを讃えるのです。』(第33章部族連合章第41・42節)という御言葉があれば、ズィクルの大切さを知るには十分のはずです。アッラーのしもべとしてムスリムが行う行為には、数限りない恩恵を与えてくださっている唯一真主アッラーに感謝を表明するその証しとしての行為には、多種多様なものがありますが(礼拝、喜捨、斎戒、巡礼など)、どれひとつとってもアッラーを真に思うこと(ズィクル)なしには達成し得えないという事実を共に考えてみたいものです。ズィクルなしには、純粋なイバーダー(崇拝行為)にはなりえない、と言っても過言ではないかもしれません。どんなにイバーダーを重ねても、どんなにイルム(知識)を高めても、ズィクルによって自我を清めることを怠った者が、真の意味で救われることはないでしょう。至高のアッラーは、預言者イブラーヒームさまの口を通して、仰せられています。『その日(審判の日)には、財産も子供たちも役に立ちません。ただ汚れのない心を、アッラーに捧げる者だけは別ですが。』(第26章詩人たち章第88・89節)私たちの身の回りのものには、放っておけばほこりが積もってしまいます。定期的に掃除しなければ、そのほこりは増えるばかりです。人の心もまた然り。日々の出来事の中で、怒り、苛立ち、悲しみ、嫉妬、自惚れ、といった様々なマイナスの感情によって確実にほこりを積もらせてゆくものです。しかも私たちの心は、形あるもの以上にほこりがつきやすいので、毎日掃除しないとあっという間にほこりだらけになってしまいます。そこで注目すべきイスラーム流の掃除法が、アッラーを想い、アッラーに浸る「ズィクル」に他ならないというわけです。生きとし生けるもの一切合切を創られたアッラーだからこそ、それぞれにとって何が一番の栄養になるかを知っておられます。人の身体には、ビタミンやミネラルなど、物質的な栄養素が必要なように、人の心には「創造主アッラーとつなががりを持つこと」すなわちズィクルが心の栄養として必要なのです。『ファ=ズクルーニー アズクルクム ワ=シュクルー リー ワ ラー タクフルーン:だからわれを念じなさい。そうすればわれも汝を思うであろう。われに感謝し、恩を忘れてはならない。』(第2章雌牛章第152節)「 アナ インダ ザンナ アブディー ビー、アナ マアフ ヒーナ ヤズクルニー:われはわがしもべが思うところにある。しもべがわれを思うとき、われはしもべと共にあろう。」(大ハディース学者アル=ブハーリーやムスリムの伝える預言者さまの伝承)と仰せになるアッラーに、日ごろの感謝を念じてみようではありませんか。もし人に良く見られてたいがために、良い行いをしたとしても、周りの人が尊敬の眼差しでその人を見たなら、その行いの報奨はアッラーからはいただけないでしょう。それはその人が、すでの自分の望むもの(尊敬の眼差し)を得てしまったからです。また礼拝をするとき、何の礼拝を何ラクア(礼拝作法の一単位)するのか。ラマダーンのサウム(斎戒)のカダー(埋め合わせ)をするのか、ナフル(任意)のサウムをするのかといったニーヤをはっきり持つことも技術的に大切ですが、より大切なのは、「誰のためにするのか」「アッラーのために」という自己問答を繰り返すことで私たちの気持ちを常に高めることではないかと思います。心がけ次第で、日々の日常生活すべてがイバーダー(ト)(崇拝行為)となるのです。願わくは至高のアッラーが、私たちの心持ちを純粋で誠実なものとしてくださいますように祈るばかりです。ズィクルは本来は心の中で思うものです。キブラの方を向いて、唱念します。灯りは落としてください。自我は恥ずかしがりやなので、暗くしたほうがアッラーへ向かいやすくなります。但し、真っ暗にはしないで下さい。暗闇はシャイターンが好むものです。ズィクルの方法は様々ですが、これはブラザー・アハマドから教えていただいたひとつの方法です。参考までに。ひとつひとつのフレーズを何回も言います。(5分弱ぐらいでしょうか。)(ア‘ウーズ ビ=ッラーヒ=ミナ=ッ=シャイターニ=ル=ラジーム)(ビスミ=ッラーヒ=ル=ラフマーニ=ル=ラヒーム)(ワ マー タウフィーキー イッラー ビ=ッラーヒ=ル=‘アリーイ=ル=’アズィーム)(アスタグフィル=ッ=ラーハ=ル=‘アズィーム)(アッラーフンマ サッリ ‘アラー サイイディナー ムハンマディ=ニル=ヌーリ ワ アーリ(ヒ))(ラー イラーハ イッラ=ッラー)(ヤー ザ=ル=ジャラーリ ワ=ル=イクラーム)(ヤー ラヒーム)純正章を三回、開端章を1回唱える。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年09月16日

بسم الله الرحمان الرحسمالسلام عليكم第54章(صورة القمر)です。第1節のاقتربت الساعة و انشق القمر時は近づき、月は微塵に裂けた。から章名になりました。マッカ初期の啓示と言われています。当時のアラブでは「月」は力の象徴でしたが、真理を認めないマッカのクライシュ族の「力」も全能なるアッラーの前では「月が微塵に避ける」ごとく破滅する外はないという意味です。اقتربت「イクタラバティ(近づいた)」は「قرب(近づく)」の第八型の3人称女性単数完了形で「فاعل主語」は「الساعة」。「معرف(定冠詞)」の「ا」は前に語があると発音されないهمز الوصل(ハムザト=ル=ワスル)で「ل」はスクーン(子音)なので、動詞の語尾は「ت」のスクーンでありながら音の調整のためにカスラになっています。الساعة「サー‘アトゥ(時間)」は主語です。و انشق「ワ=ンシャッカ(そして微塵に砕けた)」の「و(そして)」は接続詞。「(砕く、粉々にする)」の第七型の3人称男性単数完了形で「فاعل主語」は「القمر(月)」。第7型の「ا」は前に語があると発音されないهمز الوصل(ハムザト=ル=ワスル)です。「ن」と「ش」の間はタジュウィードのルール「اخفى(隠蔽)」で2拍伸ばします。ムスリムのハディースにアッラーのみ使い の在世中にも「月が避けた」ことが書かれています。アナス・ビン・マーリク によると、マッカの人々は、アッラーのみ使い に、何か(奇蹟の)徴を見せるように要求した。み使いは月が裂けるのを二度お見せになった。至高なるアッラーからムハンマド様 がアッラーのみ使いであることへの(奇蹟の)徴には次のものがあると言われています。1.聖クル‘アーン至高なるアッラーの書物は、روح القدسルーフ=ル=クドス(ジブリール)を通して下され、千四百年を経た今日も、なんびともたった一文字さえも変えることは敵わず、それに類したものを作り出すこともできない。انا نحن نزلنا الذكر و انا له لحافظون本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。(15:9)2.月が裂けること(ムスリム・アル=ブハーリー)3.ナツメヤシの幹が泣くこと(アル=ブハーリー)イブン・アナスはジャービル・ビン・‘アブドッラーが次のように言うのを聞いた。最初、アッラーのみ使い はなつめやしの幹の上に立って信徒達に話(金曜日のクトバ)をしていたが、説教台が新たに作られると、そのなつめやしの幹は腹に十ヶ月の子をもつ牝駱駝のような声を立てた。そこでアッラーのみ使いが説教台から下りて幹の上に手を置くと、その鳴き声は止んだ、と。4.指の間から泉のように水が出ること(アル=ブハーリー)ジャービル・ビン・アブドッラーによると、アル・フダイビーヤの日に信徒達が渇きに苦しんでいたとき、アッラーのみ使い は自分の前に器を置いて浄めを行われた。すると彼らが彼のもとへ駆け寄ったので、「どうしたのか」と尋ねると、「あなたの前にある器のほか、私達には浄めの水も飲み水もありませんので」と彼らは答えた。そこでアッラーのみ使い は手を器の中に入れると、指の間から水が泉のように湧き出し、彼らは飲み、また浄めを行った。その人数はどれほどであったか、と尋ねられたとき、ジャービルは千五百人であったが、たとい十万人であったとしても、十分であったであろう、と答えた。5.祝福を受けた食べ物が少なくてもたくさんの者が満腹になる(これは長くなるのでインシャーアッラー次回紹介します)(アル=ブハーリー)6.マッカの小道をアッラーのみ使い が通る時はいつも石が挨拶した。(聖クル‘アーン解説:Al-Hilall&Khan)7.棄教した元キリスト教徒の屍アナスによると、或るキリスト教徒がイスラームに改宗し、聖クル‘アーンの「牝牛」の章と「イムラーン家」の章を唱え、アッラーのみ使い の書記をしていたが、その後またキリスト教徒となり、「わたしが書いたこと以外、ムハンマドは何も知らない」と言った。そこで至高なるアッラーが彼を死なせたので葬り、翌朝になると、その屍は大地に放り出されていた。これを見て彼の仲間は「これはムハンマドとその教友達の仕業で、我々の仲間が彼らから逃げたことへの仕返しとして屍を掘り起こし投げ出したに違いない」と言ってさらに深く掘って屍を埋めたが、翌朝また地上に投げ出されていた。そこで彼らは「これは、まさしくムハンマドとその教友達の仕業で、我々の仲間が逃げた仕返しに屍を掘って投げ出したのだ」と言って出来る限り深く地面を掘って埋めたが、翌朝また屍が投げ出されていた。ここで彼らは、それが人間によるものではない、と解り、屍をそのままにした。8.アッラーのみ使い が用を足す時は木が陰を作り彼の姿を隠した。(聖クル‘アーン解説:Al-Hilall&Khan)9..涸れた井戸の水が湧き出す。アル・バラーゥは言った。アル=フダイビーヤの日、我々は千四百人で井戸の水を一滴も残さず汲み尽くしてしまった。そこでアッラーのみ使い が井戸の縁に座って祈り、口に水を含んで井戸の中に吐き出すと、忽ち水が湧き出し、我々は十分飲んで渇きを癒し、駱駝にも飲ませることができた。(アル=ブハーリー)10.ナツメヤシの山をひとまわりすると量が増えたこと。ジャービルは言った。父が負債を残して亡くなったとき、「父は負債を残して死にましたが、わたしには父のなつめやしの収穫のほかに何もなく、またそれも数年間の負債の額に到達しません。どうか私と一緒においでになって債権者が私にひふどいことを言わないようにさせて下さい」と求めた。するとアッラーのみ使い は行ってナツメヤシの山をひとつのまわりを巡り祝福してから他の山に移り、その上に座って債権者たちに「これを持って行きなさい」と言って彼らの貸しをすっかり支払ったが、その後でなお彼らに与えたと同じほどのものが残った。(アル=ブハーリー)11.狼が人間の言葉を話すことアビー・サイード・アル=フドリーによると、突然狼が羊を襲い、奪っていった。羊飼いは、羊を奪い返そうと後を追った。狼は、自分の尾の上に座り、羊飼いに向かってこう言い放った。「アッラーを畏れよ。至高なるアッラーが私にお与えになった分配物をお前は私から取ったのだ。」羊飼いは「何て驚くべきことか。狼が尾の上に座り、人間の言葉で私に話し掛けてくるなんて」と言うと、狼は更にこう言った。「これよりもっと驚くべき事をお前に話そうか。アッラーのみ使いであるムハンマドがヤスリブ(マディーナ)におり、かつての消息を人々に知らせているのだ。」それで羊飼いはアル=マディーナの街まで羊を引率して行き、羊を角のひとところに集め置いてから、アッラーのみ使い の許へ行き、事の次第を全て述べた。アッラーのみ使い は、集団礼拝をみんなに知らせるようにお命じになり、それから出てきて羊飼いに人々にその話を告げるように頼まれた。羊飼いは人々にその話をした。アッラーのみ使い は言われた。「彼は本当のことを述べた。私の魂を手中になさっているアッラーにかけて、肉食獣が人間の言葉を話すまで、むちひもや人の靴紐が人に話し掛けるまで、太腿が彼の後で、彼の家族に何が起こるかを知らせるまで、復活の日は確定されていない。」と。(イマーム・アハマド)12.ミ‘ラージュ(昇天)アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年09月15日

بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكم第52章(صورة الطور)です。第一節のو الطورかの(啓示の)山にかけて(誓う)。 から章名となりました。マッカ初期の啓示でと言われています。「かの啓示の山」とはムーサー(モーゼ)(عليه السلام)が啓示を受けた「シナイ山」を指すと思われます。「~かけて」と第一節から第六節までは語尾が「ر」で押韻する誓言が続きます。アル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。ウンム・サラマ が病気であることを訴えたとき、アッラーのみ使い は「皆の後で駱駝に乗ったまま神殿のまわりを巡りなさい」と命じられたので、彼女はその通りにした。その間に、彼は神殿の傍らで、「かの(啓示の)山にかけて(誓う)。 整然と書き記された啓典にかけて、 巻かれていない羊皮紙に、」(52:1&2&3)と唱えて礼拝された。またムトイム は,アッラーのみ使いが 日没の礼拝のとき、「かの(啓示の)山にかけ....」とだけ唱えるのを聞いた。とあり、日没の礼拝にこの章を唱えるのもスンナ(アッラーのみ使い の言行録・・・従うとアッラーからの報奨がいただけるかもしれません)とも言えるでしょうか。その第48節です。 (それで主の裁きを耐え忍んで待て。本当にわれはあなたがたを見守っている。そしてあなたが立ち上がる時は,主を讃えなさい。)و「ワ(そして)」は接続語اصبر「(イ)スビル(耐えなさい)」は「صبر(耐える)」の命令形。最初の「ا(アリフ)」はهمز الوصل(ハムザト=ル=ワスル)なので、前に語がある場合は発音されません。ل「リ(~に)」は前置詞حكم「フクミ(裁き)」は「حكم(裁く)」の派生した名詞。前置詞の後なので、語尾の母音がカスラです。ربك「あなたの主の」「حكم」のمضلف اليه(限定にリンクした)なので「رب」は語尾がカスラです。それに非分離形2人称男性単数人称代名詞「あなたの」の「ك」がくっついています。ف「ファ(そして)」は接続詞انك「インナカ(本当にあなたは)」は「ان(インナ)」に非分離形2人称男性単数人称代名詞「あなた」の「ك」がくっついています。「ن」がシャッダ(ダブル)なので「インーナカ」と「ン」と「ナ」の間が鼻濁音で2拍伸ばします。ب「ビ(~によって、~で)は前置詞اعيننا「ア’ユニナー(我々の目)」は「عين(目)」の複数形「اعين」が前置詞の後なので、語尾の母音がカスラになり、それに非分離形1人称複数人称代名詞の「نا」がくっついています。「我々の目で」つまり「見守っている」سبح「サッビフ」が語根を「سبح」とする第二型「称える」の命令形です。بحمد「ビ=ハムディ」は前置詞の「ب」の後ろにあるので、「حمد(称賛)」は語尾の母音がカスラです。حين「ヒーナ(~する時」تقوم「タクーム」は「قام(立つ)」の二人称男性単数未完了形sです。アッティルミディーのハデイースにはこう書かれています。アブー・フライラー によるとアッラーのみ使い は言われました。「困惑するような集まりのあるところには座っていけない。そしてそこを立つ前には次のドゥアーを、唱えるように。」 (おお、アッラー、あなたを賛美し讃えます。あなた以外神はいないことを表明します。お許しください、私はあなたの許へ戻ります。) 座った場所から立つ時は、座談中に犯したかもしれない罪を贖うためにこのドゥ’アーを唱えて、アッラーに赦しを乞うのが望ましいとされています。アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年09月10日
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