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بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكم「اسراء(イスラーゥ:夜の旅)」の話を聞いた信徒の反応についてイブン・イスハークは以下のように伝えています。 イスラームに入信していた者の多くが、不信に陥った。人々はアブー・バクルのところへ行き、「あなたの朋友(ムハンマドさま)が、昨夜エルサレムに行き、そこで礼拝をし、その後マッカに戻ってきた、と主張していることについてどう思いますか。」と尋ねた。 これを聞いてアブー・バクルは(最初)、「あなた方は、み使いについて嘘をついている。」と言った。 しかし彼等は「いや、彼はモスクにいて、そこで人々にその話をしたのです。」と言った。そこでアブー・バクルは言った。「アッラーにかけて、もしみ使いがそう言われたなら、それは真実です。なぜあなたは方は怪しんでいるのですか。アッラーにかけて、み使いは私に、『啓示は昼夜の寸刻の間に、天から地の私のもとに下される』と言われ、私はそれを信じました。このことの方があなた方が怪しんでいることより、余程不思議ではありませんか。」 それからアブー・バクルはアッラーのみ使いのところへ向かい、み使いに会うや、「アッラーのみ使いよ。あなたはこの人たちに、昨夜エルサレムに行ってきた、とおっしゃったのですか。」と尋ねたが、アッラーのみ使いは「その通りだ」と答えられたので、アブー・バクルは、み使いに頼んだ。「私にエルサレムの様子を話して下さい。というのは私はかつてそこへ行ったことがあるからです。」 そこでみ使いはアブー・バクルにエルサレムの様子について説明を始められた。そしてみ使いが話し終えられるまで、み使いがエルサレムについて一言話すごとに、アブー・バクルは「あなたの言うことは真実です。私はあなたがアッラーの使徒であることを証言いたします。」と言い続けた。アッラーのみ使いはアブー・バクルに、「アブー・バクルよ、まことにあなたは篤信者である」と言われた。こうしてその日アッラーのみ使いはアブー・バクルに「篤信者」の名を授けられたのである。「預言者伝 著:ムスタファー・アッスィバーイー氏、邦訳:中田 考氏p161~p162」また「اسراء و معراج(夜の旅と昇天)」が起きた日付については諸説あります。確かなのは、召命後十年目のヒジュラ(マディーナ移住)前後に起きたことです。また大多数の学者の考えですと、「اسرائ:イスラーゥ夜の旅」と「معراج:ミ‘ラージュ昇天」は同じ日に起き、覚醒中の出来事で、霊魂のみならず、身体を伴ってのものだったということだそうです。イスラミック・センター・ジャパンのカレンダーにはイスラームのイベントが書かれていて、「اسراء و معراج(夜の旅と昇天)」もラジャブ月の26日と27日と記されています。実はこの日付は確かなことではないのです。ただ日付けを設定するこで、ラジャブ月になると「اسراء و معراج(夜の旅と昇天)」のことを思い出すいい機会にはなります。確かにラジャブに入ってから空気がすがすがしくなったようです。الحمد لالله رب العارمينアッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年08月29日

بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكمブハーリーのハディースにはムスリムにない箇所がありますので、紹介します。 次に我々が第六の天に昇ったときも、『これは誰か』と尋ねられると、『ジブリール』と答え、『一緒にいるのは誰か』と尋ねられて『ムハンマド』と答え、さらに『彼はアッラーから遣わされた者であるか』と尋ねられ『その通り』と答えると、『ようこそ、いらっしゃい』とよびかけられた。それからわたしがムーサー(モーゼ)(アライヒッサラーム)のところへ行って挨拶すると、彼は『ようこそ、わたしの兄弟、そして預言者』と言った。わたしが立ち去ろうとすると彼は泣きはじめ、『なぜ泣くのか』と尋ねると、彼はアッラーに向かって『主よ、この若者はわたしより後に遣わさましたのに、彼の民はわたしの民より多く天国に入るのでしょうか』と訴えた。さて、ムスリムのハディースの後半です。 至高なるアッラーはこの折啓示を給わり、毎昼夜、五十回の礼拝を義務とするように命じられた。 その後、私がムーサー(モーゼ)(アライヒッサラーム)の処へ下りて行った時、彼はこうたずねた。『主はあなたのウンマ(信仰共同体)に何を命ぜられたのですか』私が『五十回の礼拝です』と答えると、彼は『主の処へ戻って礼拝の回数を減らして下さるようにお願いしなさい。なぜならあなたのウンマの者はその負担に耐えられないからです。私自身イスラー’イールの民に試み彼らにそれを課したのですが、彼らはそのような重い負担に耐えられなかったのですよ』(アッラーのみ使いは言われた) それで私は主の許に戻り、『我が主よ、私のウンマのために、負担をもっと軽くして下さい』と頼んだ。 その結果主は私のために五回分だけ礼拝を減らして下さった。 私はムーサー(アライヒッサラーム)の処へ下りて『主は私のために礼拝を五回分だけ減らして下さった』と話したところ、ムーサー(アライヒッサラーム)はこういった。『あなたのウンマはしの負担に耐えることはできないだろう。それ故、主の許に戻り、もっと負担を軽くするようにお願いしなさい』 それから私は幾度も、恩寵深く至高なる主とムーサー(アライヒサッラーム)の間を行き戻り続けた。 主は最後に、こう言われた。『ムハンマドよ、毎日昼夜五回の礼拝が妥当であろう。その毎回の礼拝を十倍に数えれば、日に五十回の礼拝を行うことになろう。一つの善行を志しながらそれを実行しなかった者に対しては、一つの善行が記録される。そしてもし彼がそれを実行した場合は彼のため十倍して記録されるのである。また一方、一つの悪行を企図しながらそれを実行しなかった者に対しては、なにも記録されることはないし、それを実行したとしても、ただ一回の悪行とのみ記録されるだろう』(40のハディースでは『悪行思い立ったが、それを実際に行わなかった者のためにも、完全な善行を一つ行ったと書きとめる』とあります。ブハーリー(ハディース3 牧野信也氏著 中公文庫)には悪行については言及されていません。) その後、私は下って、ムーサー(アライヒッサラーム)の処へ行き、このことを彼に話した。するとムーサー(アライヒッサラーム)はまた『主の許に戻り、負担をもっと軽くするようにお願いしなさい』といった。 (これに関し、アッラーのみ使いは次にように言われた) 『私はすでに私自身が主に対して恥ずかしくなるほど、たびたび主の許に戻り負担を軽くするようにお願いしたのです』 この「اسراء(イスラー:夜の旅)」「معراج(ミ‘ラージュ:昇天)」の出来事以来、ムスリムの義務の礼拝は一日五回と定められました。 ムスリムは一日に五回も礼拝するなんて大変だなあとノン・ムスリムの方は思うかもしれません。例えば、蒸し暑い日に、エアコンのない屋外で作業して、汗でぐちゃぐちゃになったTシャツを、昼休み・3時の休憩時に着替えて、シャワーを浴びたら気持ちいいですよね。気分の一新し、仕事への意欲も持続します。 ほこりだらけの室内で作業して、汗と埃でまみれた顔や口の中や鼻や手や足などを昼休み・三時の休憩・仕事が終わる頃にさっと水洗いしたら、すっきりしますよね。 心こそ実は埃がつきやすいものなのです。人間は誘惑に弱く、また雑念も多く、「妬み」「怒り」「邪心」「懐疑」などの思いを一瞬でも持ったことのない人は、少ないのではないでしょうか。曇りきったガラスだと少々の汚れでも気がつかないですが、いつもピカピカ綺麗に磨かれた鏡やガラスが少しでも汚れると目立ちます。 心もいつも「清潔」に保つために、また我々を生かして下さっている全能なる御方に対し感謝し、「何でも思い通りになる」という傲慢な気持ちを捨てて「謙虚さ」を取り戻すためにも、ムスリムにとって礼拝は最重要の行です。いわゆる「心の浄化法」「心のエステ」なのです。 また最初に定められた回数が五十回だと知れば、また一回の礼拝が十倍、時には七百倍の善行として記録されるのだと知れば、「礼拝」は「アッラーからの賜わりもの」なのではないでしょうか。アル=ハムド リ=ッ=ラーアッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年08月28日

بسم االه الرحمان الرحيمالسلام عليكمムスリムのハディースにはこう書かれています。アナス・ビン・マーリクによるとアッラーのみ使い はこう言われました。「私の処にブラーク(天馬の一種。稲妻「برق」と同義語である点から動作の迅速なることが想像される)が連れてこられた。それは白色で胴体が長く、ろばよりは大きいがラバよりは小さく、それでいてそのひずめを視界の広さまで伸ばすことのできる動物であった。私はそれに跨がり、エルサレムの聖寺院(بيت المقدسバイト=ル=マクディス)まできた。そして私は、預言者らは使う輪にブラークをつないでから、モスクに入り二ラカートの礼拝を行った。そのあと、外へ出たところ、天使ジブリール(キリスト教「المسيحية」ではガブリエールになります。)がぶどう酒入りの容器とミルク入りの容器をもってきたので、私はミルクを選んだ。ジブリールはこれに関し、『あなたは良いもの(「فطرة<フィトラ>」自然にかなったもの)を選んだ』といった。 その後、彼は私を連れて天に昇り、天の門を開けるように頼んだが、その折、『誰か』とたずねられると、『ジブリールです』と答え、更に、『誰があなたと一緒ですか』と問われると『ムハンマドです』と答えた。更にまた、『彼はアッラーの使徒であるか』と問われた時ジブリールは『その通りです』と答えた。その後、天の門は私たちのために開かれたが、なんとそこには、預言者アーダム(アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し、私のために善かれと祈ってくれた。 その後私たちは、第二層の天界に昇った。ジブリールはその門を開けるように頼んだが、その折、『誰か』とたずねられると、『ジブリールです』と答えた。彼はまた『誰と一緒か』と問われ、『ムハンマドと一緒です』と答えた。それに対し更に、『彼は使徒の一人か』と問われたが、『まことにその通りです』と答えた。その後天の門は私たちのために開かれた。そこには母方の従兄弟に当たる’イーサー・ビン・マリヤム(マリヤムの子イエス)(アライヒッサラーム)とヤヒヤー・ビン・ザカリヤー(洗礼者ヨハネ)(アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し私のために善かれと祈ってくれた。 それからジブリールは私を第三の天界に連れて昇った。彼はそこで門を開くように頼んだ。そして、『誰か』といわれた時、『ジブリールです』と答え、更に、『誰と一緒か』と問われると『ムハンマドです』と述べた。更に、『彼は使徒の一人か』とたずねられ、『その通りです』と答えた。すると門は私たちのために開かれ、なんとそこには世界の美の半分を与えられたといわれる美しい顔立ちの預言者ユースフ(ヤコブの息子のヨセフ)(アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し、私の幸福のために祈ってくれた。 その後、私たちは第四の天界に昇った。そこでジブリールは門を開けるように頼んだ。その折、『誰か』と問われて、『ジブリールです』と答え、また、『誰と一緒か』とたずねられ、『ムハンマドと一緒です』と答えた。更に、『使徒の一人か』と問われた時には、ジブリールは『その通りです』と述べた。私たちのために門が開かれたが、そこにはなんと預言者イドリース(彼の名は聖クル’アーン2度<19:56&21:85>出てくるが誰のことか確実にはわかりません。古注釈ではエノクに当たると考えられていました。アッラーフ ア’アラム)(アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し、私の幸いを祈ってくれた。至高にして尊貴なるアッラーは、このイドリース(アライヒッサラーム)についてوَ رَفَعْناهُ مَكانًا عَلِيـًّا「そしてわれはかれ(イドリース)を高い地位に挙げた。」(19:57)と啓示なさっている。 そのあと私たちは、第五の天界に昇った。ジブリールは、ここでも門を開けるように頼み、、『誰か』と問われた時、『ジブリールです』と答え、更に、『誰と一緒か』との問いには『ムハンマドです』と述べ、また、『ムハンマドは使徒の一人か』との質問には、『使徒の一人です』と答えた。門が私たちのために開かれた時、そこには預言者ハールーン(アーロン)(アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し、私の幸いを祈ってくれた。 その後、私たちは、第六の天界に昇った。ジブリールが門を開けるように頼むと『誰か』と問われたが、それには『ジブリールです』と答えた。更に、『誰と一緒か』といわれた時、『ムハンマドです』と述べ、『使徒の一人か』とたずねられると、『その通りです』と答えた。すると門は私たちのために開かれ、そこには預言者ムーサー(モーゼ)「アライヒッサラーム)がいて、私を歓迎し、私の幸いを祈ってくれた。 その後、ジブリールは私を連れて第七の天界に昇った。ジブリールは門を開けるように頼んだが、、その折『誰か』といわれ、『ジブリールです』と答えた。『誰と一緒か』と聞かれた時、『ムハンマドと一緒です』と答え、また『ムハンマドは使徒の一人か』とたずねられた時『その通りです』といった。すると門が私たちのために開かれ、なんとそこにはイブラヒーム(アブラハム)(アライヒッサラーム)が「بيت الممورバイト=ル=マアムール」(「不断に詣でられる聖殿」<52:4>にも出てきます。創造主アッラーを讃えるために天国において無数の巡礼者が詣でる聖堂。マッカのカーバ聖殿の原型ともいわれ、それぞれが天と地にあって、アッラーの唯一性のシンボル、巡礼の中心地とされている。)に背を寄りかからせながら座っていた。そこではまた、毎日七万の天使が、それぞれただ一度ずつの機会を与えられた巡拝のために門内に入っていく姿も見られた。 その後、私は『遠くにあるシドラ木「سدرة المنتهى」(聖クル’アーンの53:14&16と56:28に出てきます)』の処に案内されたが、その葉は象の耳に類似し、その実は土ツボのように大きかった。この木がアッラーの命令によって花で覆われた時の美しさはアッラーの創造物の誰一人として讃え尽くすことができないほど素晴らしいものである。このハディースは長いので後半はインシャーアッラー次回にします。アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年08月27日

بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكم第17章صورة الاسراءです。第1節の「اسرى」から章名になりました。 かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。 سبحان「スブハーナ」は語根は「سبح(称える、称賛する)」で、至高なるアッラーへ称賛するときに使われる固有表現ですが、単独で使われことはなく、「سبحان الله(アッラーへの称賛)」というように使われることが多く、後ろはمضاف اليه(限定名詞にリンクした語)なので、基本的には語尾の母音はカスラになります。この語自体は文法上では مفعول مطلق(絶対目的語absolute accusative)です。الذى「(アッ)ラディー」は男性単数にかかる関係代名詞です。始めの「ا(ア)」はؤ الوصل(ハムザト=ル=ワスル)なので、前に語がある場合は発音されません。اسرى ب「アスラー ビ~(~に夜の旅をさせる)」「سرى(夜に旅をする)」の第4型「夜に旅をさせる」の三人称男性単数完了形。対象に前置詞の「ب」を使います。بعبده「ビ=’アブディヒ(彼のしもべを)」前置詞の後なので「عبد(しもべ)」の語尾の母音はカスラです。それに非分離形の三人称男性単数の「ه」も前の語がカスラなので「ヒ」となります。「彼」とは「至高なるアッラー」のことで「彼のしもべ」は預言者ムハンマドさま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)のことです。ليلا「ライラン(夜に)」مفعوق فيه時を表す副詞(だと思いますが・・)من المسجد الحرام「ミナ=ル=マスジディ=ル=ハラーミ(聖なるマスジッドから)」の「من」は前置詞です。次の定冠詞「ال」で「ا(ア)」は(ハムザト=ル=ワスル)なので、前に語がある場合は発音されません。また「ل」はスクーンなので、「ミン アル~」が「ミナ=ル」と読まれます。「المسجد الحرام(聖なるモスク)」とはマッカのカーバを取り囲むようにしてあるモスクのことです。ムスリムが一生に一度は巡礼先として赴くことが定められているモスクです。前置詞の後なので、語尾の母音がカスラです。الىالمسخد الاقصا「イラ=ル=マスジディ=ル=アクサー(至遠のマスジドへ)」の「الى(~へ)」は前置詞ですので、その後ろの語句も語尾の母音はカスラです。「اقصى(より遠い、最も遠い、至遠)は「قصى(遠距離である)」を語根とする比較級・最上級(アラビア語の場合は同形です)で、比較級・最上級は、ممنوع من الصرف前置詞の後でもカスラにならずにファトハ)です。باركنا「バーラクナー(我々が祝福した)」は「برك」の第3型「祝福する」の一人称複数完了形で行為者は「至高なるアッラー」で、ご自身のことを複数形で表わしています。حوله「ハウラフ(その周りを)」「حول」が目的格のため語尾が母音がフォトハです。それに非分離形の三人称男性単数代名詞「ه(彼に/その)」がついたものです。この場合は「マスジド=ル=アクサー(エルサレムにあるモスク)」のことです。 語の後ろに「ه」がついています。これは「مد الصلة(接続長音))」の「الصلة الصغرى(小接続)」と呼ばれ、2拍伸ばします。لنريه「リ=ヌリヤフ(我々が彼に示すために)」「ل(~ため)」はلام تعليل(理由のためのラーム)でその後ろに未完了形がくるとSujunctive(منصوب)の形になります。「نرى」は「راى(見る)」の第4型「見せる」の一人称複数未完了形です、それに非分離形の三人称男性単数代名詞「ه」がついています。この彼とは預言者ムハンマドさま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)を指します。من ءاياتنا「ミン アーヤーティナー(我々の徴から)」「اية(節)」の複数が前に前置詞があるので、語尾の母音がカスラです。そして非分離形1人称複数代名詞「نا」がついています。「ء」が語の前にきて、その語が長母音になるので、「مد البدر(代用長音)」と呼ばれます。2拍伸ばします。انه هو السميع البصير「インーナフー フワ=ッサミー’ウ=ル=バスィール(本当にかれこそは全聴にして全視であられる。 )」これは名詞文です。アッラーの特性をあらわす99の美名がありますが、この2つもその美名の中にあります。「سمع(聞く)」「بصر(見る)」の強調でもあります。名詞文「~は~です。」の場合は語尾の母音はダンマ(مرفوع)です。「ن」は「ن」のシャッダ(ダブル)なので、「غنةグンナ(鼻濁音)」を伴う「ادغامイドガーム(同化)」のルールで2拍伸ばします。「انه」の後ろに「ه」がついています。これは「مد الصلة(接続長音))」の「الصلة الصغرى(小接続)」と呼ばれ、2拍伸ばします。今回は文法説明だけです。インシャーッラー解説は次回します。アッラーのご加護と祝福がありますようにو السلام
2004年08月26日
بسم الله الرحمان الرحيمالسلام عليكم و رحمة الله و بركاته第75節صورة القيمة啓示はマッカ初期のものと言われています。لا اقسم ب(いや、~に誓おう)という誓言形式ではじまっています。第1節のلا اقسم بيوم القيمة(わたしは、復活の日において誓う。) から章名になりました。第1節から第6節までは語尾がة(タマルブータ)で押韻しています。アーヤをここで区切る場合は「ハー」と溜息のように空気を出します。悔い改めない人間に関して、復活についての訓戒です。その第3節&第4節です。ايحسب الانسان الن نجمع عظامة(人間は、われがかれの骨を集められないと考えるのか。)ا 「ア」は「~か」という疑問です。يحسب「ヤフサブ」は「حسب(~と思う、と判断する)」の三人称男性単数未完了形です。この行為者は「الانسان(人間)」です。「انسان」の「ن」と「س」の間はタジュウィ-ドのルール「اخفاءイフファー(隠蔽)」により2拍伸ばします。الن「アッラン」は英語の接続詞thatに相当する「ان」と未来の否定「لن」が一緒になったものです。次の語とは「ن」のシャッダ(ダブル)なので、「غنةグンナ(鼻濁音)」を伴う「ادغامイドガーム(同化)」のルールで2拍伸ばします。نجمع「ナジュマ’ア」は「جمع(集める)」の1人称複数未完了が前に「لن」があるため、語尾の母音がファトハになっています。عظامة「’イザーマ」は「عظمة(骨)」のことです。بلى قادرين على ان نسوى بنانة(いや、われはかれの指先(の骨)まで揃えることが出来るのである。)بلى「いや(集められる)」は「否定疑問文」に対する「yes」の意味です。この第75章の最後の節でも至高なるアッラー「اليس~じゃないのか」と否定の疑問文でお尋ねになっていますので、ムスリムはこの節を読誦したり、読誦されるのを聞いたら「بلى(はい、そうです)」と答えます。قادرين「カーディリーナ」は「قدر(できる)」の能動分詞の複数形です。على「’アラー(~において)」は前置詞です。ان「アン」は英語の接続詞thatに相当します。次の語とは「ن」のシャッダ(ダブル)なので、「غنةグンナ(鼻濁音)」を伴う「ادغامイドガーム(同化)」のルールで2拍伸ばします。نسوي「ヌサウイヤ」は「سوى(同等である)」の第2型「平らにする」の一人称複数未完了形が前にある「ان」のために語尾の母音がファトハになっています。بنانة「バナーナ」は「بنان(指の先)」のことです。ここで「指の先(Finger Tips)」とは「骨」のことのみならず、その人がその人以外の何ものでないという証である「指紋」のことでもあります。「指紋」が単なる滑り止め用のカーブした模様だけでなく、その人を証明する固有のものであることが、科学的にわかったのは19世紀後期のことだと言われています。「Fingerprints」1400年前、誰も「指紋」のパターンが双子といえども各人によって異なる模様を持っていることを想像だにしなかった時代に、至高なるアッラーはアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)を通して「指紋を含めた指先」さえも復活の日には、寸分の狂いもなく復元すると下されたのです。近年では聖クル’アーンで啓示されたことが科学的に証明されるようになりました。これらも至高なるアッラーの「徴」です。至高なるアッラーが定められたことについて解釈の仕方を法学者や知識のある方に聞いて、それにより至高なるアッラーに近づけるのなら、それも至高なるアッラーの恩恵であり、お導きでしょう。しかし、「単なるあら捜し」のために論議するのを至高なるアッラーはお好みにならないと思います。私たちは、「万能」ではなく、「知識」も十分ではなく、この21世紀に解明されなかったことがインシャーアッラー将来、解明されるかもしれません。そしてそこに我々の子孫は「アッラーの更なる徴」を見出すかもしれません。アッラーフ ア’アラムアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年08月25日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第68章(スーラト=ル=カラム)の続きです。「どんな者たちに屈従してはならないか」第12節はマンナー‘イル=リ=ル=ハイリ ム’ウタディン アティーム(善事を妨げ、掟に背く罪深い者、)「マンナーイン」は「マナ‘ア(禁じる、妨げる)」の第2型「マンナ’ア(近づき難くする)」の派生語です。「マンーナー‘イン」とヌーン(N)のシャッダ(ダブル)は2拍延ばして読誦します。「リ=ル=ハイル(善事に対して)」の「リ(~のために、~に)」は前置詞です。「アル=ハイル(善事)」の「ア」は前に語が来ると発音されないハムザト=ル=ワスルです。前に語句「マンーナーイン」の語尾がヌーン(N)のスクーンで終わり、その後にラーム(L)が来るのでタジュウィードのルールではイドガーム(同化)となり、ヌーン(N)がラーム(L)のスクーン(子音)で発音されます。その後に「リ」と定冠詞の「アル」の「ア」がなくなった「ル(ラームのスクーン)」とラーム(L)の発音が続きます。「ム‘ウタディン」は「’アトゥダ(準備する)」の第4型「ア‘イタダ(用意する)」の受動形です。「アティーミン(罪深い)」は「アティマ(罪を犯す)」の派生語です。「えーー今時、そんなこと流行らない」「かっこ悪いよ」「なんか偽善者っぽい」「ちょっとお人よし」「功名心からじゃないの。」など、批判的なこと言い、「ワルぶる」ほうが「モダンで、かっこいい」と錯覚させ、善行を妨げる者は今も昔も変らずいます。そして「怠け心」を吹き込み、悪事に誘います。掟に背き、罪を犯します。第13節は‘ウトゥッリンーー バ’アダ ザーリカ ザニーム(乱暴(残虐)な者、その外素性の卑しい者、)「‘ウトッリン」はマスハフの解説には「ファーヒスィン リ=ティーミン(罪を犯すことに恥知らずな・残忍な)」とあります。アル=ワキーによると「ウッテイル」とはジュウワーズ(残虐で、粗暴)、ジャザーリ(強欲で、けちな)、高慢な者を意味するそうです。「バ‘アダ(後で)」と指示語「ザーリカ(その)」で「その外」「‘ウトゥッリン」は語尾がヌーン(N)のスクーン(子音)で終わり、その後に「バ’ダダ」のバー(B)で始まります。イクラーブと呼ばれるタジュウィードのルールで、ヌーン(N)がミーン(M)に転化し、鼻濁音で2拍延ばします。「ザニーミン(意地悪な、よそ者)」はアーヤ(聖句)の終わりなのでここで区切る場合は「ザニーン」とスクーン(子音)で読誦します。アル=ブハーリーのハディースにはこう書かれています。イブン・アッバースによると、この言葉は、羊のように首に肉垂れをもつクライシュ族の或る男について言われた、といいます。ちょうど羊の群れの中で、耳が切られた羊が目立つように、その者がその悪で目立つという意味です。ザニームとは、元来はそのグループに属していなかった者がそのグループに養子縁組などにより受け入れられるという意味です。ハリーサ・ビン・ワラブ・アル=フザーイーによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「天国へ入る人達のことを教えてあげようか。彼らは皆弱く慎ましいが、彼らが誓いを立てるならば、アッラーはそれを果てして下さる。一方、地獄へ落ちる人達は、すべて粗野で、高慢で、驕りたかぶっている。」第14節はアン カーナ ザー マーリン ワ バニーン(富と<多くの>子女を持っているために<そうである、これらの者に従ってはならない>)。「アン」は英語のthatに相当する接続語です。「カーナ」は英語のbeに相当します。「ザー(所有者)」の後ろはいつもカスラになります。「マーリン(お金)」「バニーニン(子供たち)」を持っている者です。同様の啓示が第74章(スーラト=ル=ムッダスイル)「包まる者」の第11節から第30節にもあります。アッラーは、クライシュ族の統領の一人であったアル=ワーリド・ビン・アル=ムギーラーへ警告されました。血族で成り立つ部族社会においては、子供が多い者とは、すなわち武力や権力があることを意味します。損得を常に考える人にとって、富がある人や権力のある人とは知己になって、仲良くしようとします。相手に気に入られるためには、相手の要求に対して、少々無理なことでも、我慢して相手に追従します。そうやって周りから、おだてられ、無理も通るようになると、人間は、傲慢に、高慢になっていきやすいものです。豊かな財産も頼りになる息子たちも「アッラーからの賜わり物」でそれをどのように感謝を込めて受け取り、どのように活かし、どのように自分自身を抑制するかという「アッラーからの試し」でもあるのです。「口」(メディアを使って、またはネットを利用して)によって人を傷つける者、「残忍さ」(強大な武力、核兵器の所持を誇示したり)をちらつかせて恐怖を利用して相手をコントロールしようとしたり、「財産や人脈」によって思い通りにしようとする者たちに従ってはならない。現代社会にもたくさんの「従ってはならない者」たちはいます。アッラーを信じる者には、そういう悪たちさえも「アッラーに創られた者」であり、アッラーの力や権能には決して及ばないのです。ハスブナ=ッ=ラーフ ワ ニ‘アマ=ル=ワキール(私たちにはアッラーがいれば万全です。)ラー イラーハ イッラッラーアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年08月12日

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第68章(スーラト=ル=カラム)です。第1節のヌーン、ワ=ル=カラミ ワ マー ヤストゥルーン(ヌーン。筆に誓けて、また書いたものにおいて誓う。)から章名になりました。神秘文字のヌーンの後に、マッカ初期によく見られるワウ アル=カサム(ワウ+アリフ・ラームで始まり、「~にかけて」という意味になります。語尾はカスラです。)から始まります。スーラ(章)の成立順序はさまざまな聖クルアーン学者により異なっていますが、エジプト版ではこの章は最初の啓示である第96章(スーラト=ル=‘アラク)「凝血章」に次ぐものだと考えられています。スーラ(章)の一部はマディーナで啓示されたと見られてはいるものの、かなり初期の啓示だということは学者たちの一致した見解のようです。アッラーフ ア‘アラムその第10節から第14節までです。ワ ラー トゥティ‘ウ クッラ ハッラーフィンーー マヒーン(あなたは、卑劣な誓いをたてるどんな者にも屈従してはならない。)「ワ(そして)」は接続語です。「ラー(~してはいけない)」は禁止です。ですからその後に来る未完了形はマジュズーム(語尾の発音がスクーン<子音>になります)「トティ‘ウ」は「ター’ア(従う)」の第4型「アター’ア(従う)」の二人称男性単数未完了形のマジュズーム(Jussive)です。「クッラ(全ての)」は「従ってはならない対象」なので与格になっています。「クッル」のあとは属核になりますので、「ハッラーフィン」と語尾の母音がカスラタイン(語尾の母音を「イン」と発音します)になっています。「ハラファ(誓う)」の能動分詞です。「マヒーニン(卑劣な)」は「ハーナ(あまり重要ではない、簡素化する)」の第4型「アハーナ(軽蔑する)」からの派生語です。ここでは「ハッラーヒン(誓う者)」を形容しています。形容詞は、形容するものと語尾の母音が同じになりますので、「マヒーニン」とカスラタイン(「イン」と発音します)になります。アーヤ(聖句)の終わりですのでここで区切る場合は、最後はスクーン(子音)で読誦するのがスンナ(推奨行為)ですので、「マヒーン」と読誦します。「ハッラーフィン」と前の語の語尾がヌーン(N)のスクーン(子音)で、「マヒーン」と語の始めがミーン(M)で始めるので、タジュウィードのイドガーム(イドガーム)のルールにより、ヌーン(N)がミーム(M)に変り、鼻濁音で2拍延ばします。「マヒーン」がミーン(M)のシャッダ(ダブル)で表記されているのでわかりやすいですね。では「どんな者たちに屈従してはいけないのか」という具体的に示すアーヤ(聖句)が続きます。ハンマージンーー マッシャーインーー ビ=ナミーム(中傷し、悪口を言い歩く者)「ハンマージン(中傷するもの)」は「ハマザ(せきたてる)」を語根とする「ハムザ(中傷する)」の派生語「ハンマーズ」が、前のアーヤ(聖句)からの続きなので、語尾がカスラタインになっています。「マッシャーーーーイン(歩く者)」は「マシャー(歩く)」が語根です。「ビ=ナミーミン(悪口で)」「ビ(~で)」は前置詞です。「ナンマ(裏切る)」の派生語です。「ハンーマージンーー マッシャーーーインーーー ビ=ナミーム」とタジュウィードのルールにより「ハンーマージン」とミーン(M)のシャッダ(ダブル)の部分を2拍延ばし、「ハンーマージンーー マッシャーーーーイン」と2つの語句の間も2拍延ばし、「マッシャーーーーイン」の「シャー」の部分はマッダ=ル=ムッタスィル(連続長音)の表示があるので5拍延ばします。「マッシャーーーーイン ビ・・」の間もイクラーブというルールにより語尾のヌーン(N)がミーン(M)に転化され、鼻濁音で2拍延ばします。ミーム(M)のように完全に閉じるという説(シリアで習った方の意見)と、口を完全に閉じずに紙一重に口を少し開けて発音する説(エジプトで習った方の意見)の両方の説があります。アッラーフ ア‘アラムムスリムのハディースにはこうあります。ハンマーム・ビン・ハーリスによると私たちがモスクでフザイファと一緒にいた時、一人の男がきて近くに座った。誰かがフザイファに、この人物は権力者(スルターン)に噂話を告げ口する男であると話した。フザイファが、この人物に聞かせたいと願いながら「私はアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)」が『他人の噂をいいふらす者は、天国に入ることはない』といわれたのを聞いたことがある」と語った。イブン・アッバースによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は、たまたま二つの墓の前をお通りになった時こういわれた。「これらの墓の者らは懲罰を受けているが、それは重罪を犯したのではない。彼のうちの一人は他人を中傷したためであり、他の一人は排尿による汚れに気を使わなかったためである」噂の発生源になる者も当然ながらいけないが、それを言いふらす者もやはりいけないと聖クルアーンではこのようにはっきり言っています。誰かと会話をしていて、もし噂されている当人がその場に居合わせていたら、困惑したり、傷ついたりするような内容は話さないことです。運悪くそういう場所に居合わせたら、さりげなく話題を変えるなどして、その話を止めさせましょう。それでも相手がその話題に固執するようなら、座を離れるようにし、「シャッル(悪)」から身を避けるのが賢明でしょう。それもできない場合は「その話を誰にも言わずに、自分で止める」と決めましょう。できれば自分の近しい人、例えば、配偶者にも言わないことです。そして「聞いてしまったこと」(「聞く」ことも罪です!)に対し、アッラーへ赦しを請いましょう。アスタグフィルッラーフ=ル=‘アジームサイード=ル=イスティグファールというドゥ‘アーがあります。ファジュル(暁)と’アスル(夕刻)の礼拝の後には、スンナ(推奨行為)の礼拝を普通しませんので、義務の礼拝の後に、ほかの礼拝、ズフル(昼)、マグリブ(日没)、イシャーゥ(夜)にはスンナ(推奨行為)の後にこのドゥ‘アーを言うようにしましょう。 アッラーフンマ アンタ ラッビー、ラー イラーハ イッラー アンタ、ハラクタニー ワ アナー ’アブドゥク、ワ アナー ’アラー ’アフディカ ワ ワ’ウディカ マ=スタタ’ウトゥ、ア’ウーズ ビ=カ ミン シャッリ マー サナ’ウトゥ、アブー・ウ ラカ ビ=ニ’ウティカ ’アライヤ、ワ アブー・ウ ビ=ザンビー、ファ・グフィルリー、ファ・インナフ ラー ヤグフィル=ッ=ズヌーバ イッラー アンタジャッダード・ブン・アウスは次のような預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の言葉を伝えています。「罪の許しを求める最もよい道は、『おお、アッラー、あなたはわたしの主であり、わたしを創ったあなたの他に神はなく、わたしはあなたの僕として出来うる限りあなたの契約と約束を守り、わたしの行った悪に対してあなたに助けを求めます。わたしはあなたのお恵みを認め、またわたしの罪を認めます。どうぞ罪をお赦し下さい。あなたの他に罪を赦す者は居ません』と言うことである。これを確信してこの言葉を昼間唱える者は、たとえその日の夕方死んでも、天国に入るであろう。またこれを確信してこの言葉を夜唱える者は、たとえ夜になる前に死んだとしても、天国に入る」と。(サヒーフ・ブハーリー、8/6306)インシャーアッラー、続きのアーヤは次回解説します。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年08月11日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム「高慢さ」についてのハディースに数多く書かれていますので、ご紹介します。ムスリムのハディースにはこう書かれています。アブドッラー・ブン・マスウードによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「心の中にからし種の実の重さほどでも高慢さも持つ者は、天国に入ることはできない」或る男がこれに対し、「ともすれば人はよい衣服や履物を好みそれを誇りたがるものです」と述べたところ、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は更に「アッラーは確かに美しく、また自らの優美さを好まれるお方です。ただ虚栄心がもたらす高慢さは真実を軽んじ人々を軽蔑するもとになるものです」と言わました。「高慢さ」は人々を軽んじることによって、「感謝」の気持ちから遠ざかってしまう恐れもあります。それは「自分のサイズ」をきちんと測れないことでもあります。人間は自分のサイズを「大きく」とりがちです。自分に対する評価が甘い傾向にあります。「褒められる」と「そうかな?」とまんざらでもない気持ちになりますが、「批判される」と「批判された内容」を吟味することよりも「批判した人への好悪」や「自分との距離」の方が気になります。「サイズのあわない靴」を履いていると、歩き方が醜くなり、頭が痛くなったり、体の調子が悪くなったり、外反母趾などの骨形成異常にもなったりします。「虚栄」も「サイズがあっていない」という無理をする心の「外反母趾」なのかもしれません。アル=ブハーリーのハディースにはこうあります。イブン・ウマルによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「或る男が驕り高ぶり、衣を引き摺って歩いていると、突然、地面が裂け割れて飲み込まれてしまった。彼は復活の日まで出られないであろう」他のムスリムが、礼拝前のウドゥー(身体を浄め)の時に裾をたくし上げ、サラー(礼拝)が終わると、再び裾をもとにもどす中で、私の知り合いの敬虔なムスリムは、奥さんにズボンの裾が踝よりも上にくるように、全部のズボンを裾上げしてもらっていました。ムスリムのハディースにはこうあります。アブー・フライラによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「天国と地獄の間で論議が行われ、地獄は『高慢な者や、威張った者を私の処へ入れよ』と主張し、天国は『弱者な者や謙虚な者は、私の処へ入れよ』と言った。アッラーは、この時、地獄に対し『お前は、私に代わる懲罰役である。お前によって、私がそうしたいと思う者は罰せられるであろう』と言られた。また、天国に対しては『お前は、私に代わる慈悲役である。お前によって、私がそうしたいと願う者らは慈悲を与えられるであろう。お前たちの相方の場所は(そのような者たちで)満員になるであろう』と言われた。ただ、地獄は、アッラーがその御足をお入れになるまで満員にはならない。その時、地獄は『十分です、十分です』というのであるが、アッラーは一方の者たちを他方に移して地獄を満員になさるのである」その日われが地獄に、「満員になったか。」と問うと、「なお多くの(入る)者がおりますか。」と答える。 (50:30)イブン・アッバースによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「もし(自分の行為を)宣伝する者があれば、アッラーは彼の欠陥を公表なさる。またなにかを誇示する者があれば、アッラーは彼の欠陥を暴露させる。」アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は「地獄の住民について話をしてあげよう」といわれ、人々が「はい」と答えると、次のようにいわれた。「彼らは、全て、高慢で太った体格をしており威張り屋である。」高慢さを避ける方法としては、まず自分の方から「アッサラーム アライクム」と挨拶をする習慣をつけましょう。また、アッラーは耳をふたつ、そして口をひとつ下さいました。つまり「話す」ことより「聴く」ことの方を多くしなさいといいうことであり、「自分のこと」ばかり話すのではなく「相手の話」を謙虚に聴きなさい(「聞く」ではなく「聴く」です)ということではないでしょうか。アッラーフ ア’アラムアッラーもよく「聴く御方」であり、また一番「ご存知の御方」であり、「全視なる御方」です。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年08月01日
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