2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全22件 (22件中 1-22件目)
1
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第7章(スーラト=ル=ア’アラーフ)です。これも既出の章です。「象の年」のラビー’ウ=ル=アウワル(第三月)12日月曜日(「象の年」は西暦568年、569年、571年など諸説あります。「スィーラ」の授業では西暦570年とのことでした。8月20日)に我らが指導者、ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)がお生まれになりました。今年は今日のマグリブからヒジュラ歴3月12日になるのでしょうか。イマーム・アハマドのハディースにはこうあります。「私は父イブラヒームの祈りであり、兄弟’イーサーの福音です。母は私を産んだとき彼女の肉体から光がほとばしり、シリアの城の光を照らしたのを目にしました。」イブラヒーム(アライヒッサラーム)はハリール=ッ=ラー(アッラーの親友)であり、ムーサー(アライヒッサラーム)はカリーム=ッ=ラー(アッラーと語る者)であり、ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はハビーブ=ッ=ラー(アッラーが愛する者)と言われています。ムスリムのハディースにはこう書かれています。アナスによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「あなた方誰もが、私をあなた方の子供、父親、あるいは全人類よりも大切な存在と考えるようにならない限り、イスラームの信仰者とはいえません。」アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はアッラーの愛される方であり、また私たちムスリムが誰をおいても模範にすべきお方です。ヒジュラ歴前12年ラマダーン月27日(西暦610年8月19日)その後「ライラト=ル=カドル(みいつの夜)」と呼ばれるその夜に、ヒラーの洞窟にて啓示が下された時より、ヒジュラ歴11年(西暦623年)までの23年間を信者が倣うべきすべてのことをさなって63歳の生涯を閉じられました。「今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。」(5:3)前置きが長くなりました。第7章の第3節です。イッタビ’ウー マー ウンジラ イライクム ミル=ラッビクム ワ ラー タッタビ’ウー ミンー ドーニヒー アウリヤー(ァ)「(人びとよ)主からあなたがたに下されたものに従い、かれ以外の保護者に従ってはならない。」「イッタビ’ウー(従いなさい)」は「ラビ’ア(従う)」の第8型「イッタバ’ア」の命令形複数「マー ウンジラ イライクム(あなたがたに啓示されたこと)」は「マー(~のこと)」と「アンザラ(啓示する)」(三人称単数完了の受身)と方向を表す前置詞「イラー(~に、~へ)」に二人称複数の代名詞「クム」がくっついたものです。「ミル=ラッビクム(あなたがたの主から)」は前置詞「ミン(から)」の後ろだから「ラッブ(主)」の語尾の母音が「イ」になり、それに二人称複数の代名詞「クム」がくっついています。「ミン」の語尾が「ヌーン(N)」の子音で終わり、その後ろに来る「ラッビ」の「ラ(R)」の影響を受けて「ミル=ラッビクム」と「ヌーン(N)」の子音が「ラ(R)」の子音になります。イドガーム(同化)とタジュウィード(聖クル’アーンの読誦ルール)ではいいます。「ワ(そして)」は接続詞。「ラー タッタビ’ウー(あなたがたは従ってはならない)」は禁止を表す「ラー」がコントローラーなため「タビ’ア」を語根とする第8型の二人称複数未完了形の最後の「ヌーン(N)」がないマジュズーム(jussive)形です。「ミンー ドーニヒー アウリヤー(ァ)(かれ以外の保護者に)」は「ミン ドーニ(~以外、なしに)」に三人称単数の代名詞「フ(それ/かれ)」が前の語尾の母音「イ」の影響で「ヒ」になったものです。「アウリヤー(ァ)」は「ワリー(ュ)(保護者、守護者)」の複数形の目的格(与格)です。アル=ブハーリーのハディースにはこうあります。アブドッラーによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「もっとも善い言葉はアッラーの書(すなわち聖クル’アーン)であり、最も善い導きはムハンマドの導きであり、最も悪いことは新奇なことである。」ムスリムがアッラーのご満悦を得るには、預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)のなさったことに従うことです。そしてなさらなかったことには従わないことです。 聖クル’アーンの第108章「潤沢章(スーラト=ル=カウサル)」が啓示されたときのハディース にこうあります。「”カウサル”とは至高にして尊厳に満ちたアッラーが私に約束された(天国の)川の名前でそこには恵みがある。それは一種の巨大な貯水槽で審判の日には信徒達が水を飲みにやってくる。またそこには大型コップが星の数程もある。一人の信徒がそこに集まっている人々の群れから引き離されようとしている。そこで私(ムハンマドサッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は『我が主よ、彼は私の信徒のうちの一人です』というと、主は答えて『汝はあの者が汝のなき後(かってに)イスラームに附加物を加えたことを知らないのだ』と仰せられる」 黒田壽郎氏編「イスラーム辞典」(100P)にはこう書かれています。(前略)マウリード=ン=ナビー(預言者の誕生日)として、預言者の誕生、生涯を讃える歌や詞を朗誦して祝う。預言者の誕生日が祭事となったのは、およそファーティマ朝(909ー1171)に入ってからであるといわれる。ただし当時は宮廷および一部のスーフィー(イスラーム神秘主義)たちの行事としてとどまっていた。しかし13世紀、サラーフ=ッ=ディーン治下のエジプトで、スーフィーと一般大衆が共に参加する祭りとして広まり、ついでマッカ(メッカ)その他の地域でも祝われるようになる。現在でも一部の’ウラマー(宗教学者)の反対が根強いことも忘れてはなるまい。預言者ではあるが、一介の人間であるムハンマド(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)をとりたてて祝うことは、彼の神格化への危険を孕んでいるからである。 預言者の誕生日を祝うことは、’イーサーの誕生日であろうと考えられている(実際は違うようだが)クリスマスを祝うキリスト教徒の真似だと切り捨てるウラマーもいます。イスラームQ&AやイスラームWEBファトワNo.563&684&800&2120&など参考までに「わたしたちは、(教えを)聞き、服従します。主よ、あなたの御赦しを願います。(わたしたちの)帰り所はあなたの御許であります。主よ、わたしたちがもし忘れたり、過ちを犯すことがあっても、咎めないで下さい。わたしたちの罪障を消滅なされ、わたしたちを赦し、わたしたちに慈悲を御くだし下さい。あなたこそわたしたちの愛護者であられます。不信心の徒に対し、わたしたちを御助け下さい。」 ヤー ラッバ=ル=’アーラミーンアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月30日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第51章(スーラト=ッ=ザーリヤート)です。第1節めの「ワ=ッ=ザーリヤーティ ザルワー(広く撒き散らす(風)にかけて )」とアル=カスム(誓い)で始まり、その中の語句が章名になりました。マッカ啓示の初期の特徴である、誓言が並び、各アーヤ(節)が短く、リズミカルです。来世のことを述べ、そのためには現世でのタウヒード(アッラーのみを唯一信じ、崇めること)を勧めています。第56節です。ワ マー ハラクトゥ=ル=ジンナ ワ=ル=インサイッラー リ=ヤ’ウブドゥーン(ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。)「ワ(そして)」は接続詞です。「マー」は否定です。後半の「イッラー(~以外に)」とセットにして「A以外はBしない」という限定と否定のセットで目的であるAを強調する手法です。「ハラクトゥ(私は創造した)」は「ハラカ(創造する)」の1人称単数完了形です。「私」とはアッラーご自身のことです。アッラーはご自身を時には単数、時には複数で、称されています。アッラーが複数なわけではなく、複数にすることで威厳さや敬うべき御方であることが強調されるわけです。 「アル=ジンナ」は定冠詞に「ジン(妖霊)」(集合名詞です)の目的格(与格)です。「ア」は前に語句があると発音されません。「ワ(そして)」は接続詞です。ハルフ=ル’アトフといって前にあるマ’ウトゥフ アレイヒと後ろにくるマ’ウトゥフを結びます。ハルーフ=ル=’アトゥフで結ばれた2つの語句の格は同じです。ですから「アル=インサ(人類を)」も目的格(与格)です。人間は「インス」のほかにも「インサーン」「バシャル」「ナース(インサーンの複数形)」などいろいろな表現があります。「リ(~のため)」は目的を表します。この後ろに未完了形が来るとマンスーブ(普通は語尾は「ファトハ」”「ア」の発音”)になるので、「コントローラー」と呼ばれます。「ヤ’ウブドゥー」は「’アバダ(仕える)」の3人称複数未完了形の前に「リ」というコントローラーがあるために最後の「ヌーン」がなくなったマンスーブ形です。この節だけでなく、第43節からさいごの第60節のアーヤ(節)まで「ヌーン(N)」で揃えています。本来なら「リ=ヤ’ウブドゥーニー(私に仕えるために)」となりますが、「ニー(私に)」を「ニ」とヌーンのカスラにして押韻規則に従っています。アル=ハズフ(省略)というアル=ワクフ(停止)の規則によって最後のヤーゥ(Y)を省略して、押韻を揃えているわけです。 同じように第57節・第59節もそうです。 第109章「不信者たち章(スーラト=ル=カーフィルーン)」の第6節の最後も「ディーン(宗教)」に所有を表す「イー(私の)」をつけるとき、上記の規則に従い、最後のヤーゥ(Y)を省略して、「ヌーン(N)」をカスラにして押韻を揃えています。「人間は何のために生まれてきたのだろう。」と哲学的な思いに駆られることが、人生においては誰でも少なからず一度はあるのではないでしょうか。でも、ムスリムはこの難問にあまり拘泥しなくてもいいのです。アッラーからこのような簡単明瞭な答えを教えていただいているからです。「自己啓発セミナー」を受けたり「セラピスト」に相談したりしなくてもいいわけです。アル=ハムド リ=ッ=ラー「えーーー、そんなの、ムスリムだけの論理でしょ。」そうかもしれません。いや、そうでないかもしれません。ムスリムだけへの啓示であれば、「ヤーーーアイユハル アーマヌー(信者たちよ)・・」という呼びかけのフレーズで始まりますし、「インス(人類)」ではなく「アーマヌー サーリハートゥ(善行を成す信者たち)」と啓示なさったことでしょう。アッラーフ アアラム「誰が踵を返そうとも,少しもアッラーを損うことは出来ない。だがアッラーは,感謝(してかれに仕える)者に報われる。」(3:144)「誰にしても信じない者は,その不信心で自分自身を損う。かれらの不信心は,主の憎しみを増すばかりであり,またかれらの不信心は,自分の損失を増すばかりである。」(35:39)「だがもし背き去る者があっても、本当にアッラーは、自足なされる御方讃美されるべき御方であられる。」(60:6)「見よ、あなたがたは、アッラーの道のために(所有するものの一部の)施しを求められるのである。それなのにあなたがたの中には、貪欲な者がいる。だが貪欲な者は、只自分の魂を損うだけである。アッラーは自足されているが、あなたがたは貧しい。(47:38)」アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月29日

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第36章です。これも既出です。第1節が章名になる神秘文字ではじまっています。預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の別称とも言われています。今日はその39節です。ワ=ル=カマラ カッダルナーフ マナージラハッター ‘アーダ カ=ル=’ウルジューニ=ル=カディーム(また月には、天宮を振り分けた。(それを通って)ナツメヤシの老いた葉柄のように(細くなって)戻ってくる。)「ワ(そして)」は接続詞「アル=カマラ(月を)」は目的格(与格)です。定冠詞の「ア」は前に言葉が来ると発音されません。「カッダルナーフ(我々はそれを定めた)」は「カッダラ(定める、決める、振り当てる)」の二人称複数完了形に代名詞の「フ(それ、彼)」がくっついたものです。この「我々」とはアッラーがご自身のことを述べるときにお使いになる表現です。複数表現で称されることにより、その威厳さがより強められ、かつ敬語表現になります。同様に相手が一人であっても複数形を使うことにより丁寧さが増します。「アッサラーム アライカ(相手が男性)」「アッサラーム アライキ(相手が女性へ)」よりも「アッサラーム アライクム」の方が丁寧になります。「クム」は相手がひとりであってもいいです。またこれには性別がありませんので、男女両方にも、一人に対しても複数に対しても使えます。「フ(それを)」は月のことを指していると思われます。「マナージラ」は「マンジル(家、止まる所、駅、月の宿)」の複数「マナージル」の目的格(与格)です。井筒俊彦氏は天宮(占星術でいう28の月の宿)と訳しています。「ハッター(ように、~まで)」「’アーダ(戻ってくる)」「カ(まるで~ように)」は前置詞です。「’ウルジューン」は「カ=’ウーディ ’イズキ=ン=ナフラティ=リ=’アティク(まるで老いたナツメヤシの枝が戻ったように)」という意味で、前置詞「カ」の後なので語尾の母音が「イ」になっています。「アル=カディーム(古い)」もここで休止する場合は、語尾は子音で発音しますが、タシキール(母音表示)はカスラ「イ」です。定冠詞の「アル」の「ア」は前に語がある場合は発音されません。イスラームは実に科学的です。当時のアラブの人が知らないことまで聖クル‘アーンでは言及しています。それらは、現代になり、科学技術の発展と共に、その意味が、事実だということがわかったものが数々あります。当時のアラブが星の運行に極めて高い知識を持っていたのかしれませんが、このアーヤ(節)も実に科学的です。 「月宿(lunar mansion)」は、占星術で使う用語と同じです。ここでは単に月が宿る場所とか留まる場所を意味しているようです。時には「止まる場所」statioと呼ばれることもあります。月宿はもともとバビロニア起源であったようです。はじめから28個と設定されていたかどうかはわかりませんが、 当時から月宿は存在していたと思われます。 月は27.3日で白道を一周します。月の満ち欠けは29.5日の周期です。新月→上弦→満月→下弦→新月となるまでに、月は28宿を1周ちょっと移動します。白道上を389°移動します。 「古いナツメヤシの葉柄のようになって戻ってくるまでの間に」 新月から28宿全てを通過して元の場所に戻ると、つまり白道上を360°移動してもとの星座に戻ると、月齢27.3の逆三日月になります。(下の写真を参照してください)ナツメヤシの葉柄が逆三日月だとすると、28宿の話とぴったりとつながります。このアーヤ(節)は、天空の月の通り道を分割することに言及しているようです。 イブン・カスィールの解釈では 「(太陽は日が昇ると昼をそして日が沈むと夜を齎し、それで一日がわかる)月は満ち欠けによって一ヶ月を表す。一と月の初めは月は細く、ひと月の真中では満月になり、また欠けていく。それによって人々はひと月の今どこに当たるかがわかり、満ちて再び欠けて元の形に戻るとひと月が終わることがわかる。」とあります。科学的な解釈が得意でない私は、今回、シスターSの説明から、殆ど借用いたしました。そして書かれたことをきちんと理解するために、天文・気象が専門であるザウジに図を使って説明してもらいました。ジャザーフムッラーフ ハイラン。私は、ただアッラーの英知は凄いと言うことがわかりました。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月28日

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクムアル=ブハーリーのハディースにはこうあります。アブー・フライラによると預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は「最も徳の多い行いは何か」と問われ、「アッラーとその使徒を信じること」とお答えになり「次に何か」と問われ、「アッラーの道のために戦うこと」とお答えになり、「次に何か」と問われ、「敬虔な巡礼」と答えられた。’アーイシャ・ビント・タルハによると、信徒達の母’アーイシャがアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ サッラム)に「聖戦が最も徳のある行いだと思いますが、私たちも聖戦に加わることができないでしょうか」と尋ねたとき、「それはできない。しかし敬虔な気持ちで行う巡礼は最も徳の多い聖戦だ」とお答えになった。アブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「罪深いことや淫らなことをせずアッラーのために巡礼を果たしたものは、誰でも、生まれた日のように浄くなるであろう」つまり穢れもない無垢な状態になるということでしょう。アブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「小巡礼から次の小巡礼までの間の罪は帳消しになり、アッラーに受け入れられた巡礼の報奨は天国の他にはない。」イマーム・アハマドのハディースによると預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「明らかな用事や引篭もらなければならない病などで妨げられたり、横暴な独裁者が禁じるというわけでもないのに、巡礼を行わない者は、ヤフード(ユダヤ教徒)でもナスラーン(キリスト教徒)にでも望むままになって死なせればよい。」(このハディースの伝承者に関しては「ダイーフ(弱い)」とされながらも「ハサン(良好)」と判断できるとア=ッ=シャウカニは言っています。)アブー・ダーウードによると「ハッジは一度である。」生涯に一度が義務です。しかし、老いた親のために、代わりに巡礼に行くことも、認められています。新婚旅行が巡礼ということもあります。ハッジは金銭的にも肉体的にもかなりな負担です。家族を残し、仕事を休み、長旅、また、世界から集まる200万人の人々の間(平日の山の手線のラッシュで鍛えぬかれている人の方が有利かも)で行う巡礼で定められた行為もアッラーへの真の敬愛なくしては出来ません。しかしそれだからこそ、普段の生活から遊離し、周りは同じ志をもった同胞との中で、アッラーへのジクルは非常に集中した状態になります。聖地は、信仰心と敬神の雰囲気で、「神々しい」ので、むくつけき風貌の男性でも感涙してしまうようです。精神向上のための高度な修練の機会です。また異なった国々のムスリムとの間の同胞愛の精神を効果的に育みます。「ハッジで知り合って、今でもメールでやり取りしている」というシスターもいます。また、日本で知り合った後、一人が母国に帰ってしまって、メールのやり取りの後、ハッジ(大巡礼)で会うというシスターもいます。金持ちであろうとぎりぎりの生活に与している者であろうと、身分があろうとなかろうと、誰もがイフラームという2枚の縫い目のない布に身を包んだ状態で、アッラーへの思いだけで、一緒に礼拝をします。これは、イスラーム的友愛と民主主義(あくまでイスラーム的)の発露の場です。「ラッバイカ=ッ=ラーフンマ ラッバイカ ラッバイカ ラー シャリーカ ラカ ラッバイカ、インナ=ル=ハムダ ワ=ル=ニ’ウマタ ラカ ワ=ル=ムルカ、 ラー シャリーカ ラカ」(アッラーよ、あなたに応えて私はここです。あなたと並べ称されるものはありません。私はここです。あなたと比べるものはありません。まことに称賛も恩恵もあなたのもの、そして王権も。あなたと比べるものはありません。)」と唱えると本当にアッラーの家に来たのだなあと思うのでしょう。ある人は「既視感(デ・ジャブ)」があったといいます。私たちはアッラーの許からきて、アッラーの許へ還るからでしょうか。私はハッジ(巡礼)も’ウムラー(小巡礼)もまだです。連れてもらう側なので、連れていく側が時間的金銭的な準備が整ってGOサインを出すまで「待機中」です。人ごみが苦手、空気が悪いところも苦手なので、内心、びびっています。(大丈夫かな~)我が家に貼ってある巡礼先である「マスジッド・アル=ハラーム」のラマダーン月のタラーウィーフ(夜の礼拝)の写真(ハッジに行ったシスターのお土産です)は、バラカ(祝福)に満ちており、その写真を見るたび、「インシャーアッラー、いつかは・・・」という思いがむくむくと湧いてきます。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月27日

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第3章です。既出の章ですから、第97節の説明だけします。ワ マン ダハラフー カーナ アーミナー、ワ リ=ッラーヒ ‘アラ=ン=ナーシ ヒッジュ=ル=バイティ マニ=スタター’ア イライヒ サビーラー(誰でもその中に入る者は、平安が与えられる。この家への巡礼は、そこに赴ける人びとに課せられたアッラーヘの義務である。)「ワ(そして)」は接続詞です。「マン」は「~するものは誰でも」という条件文のシャルタ(条件部分)です。「ダハラフ(それに入る)」は「ダハラ(入る)」に代名詞「フ(それ)」がくっついたものです。「フ(それ)」はバイト=ッ=ラー(アッラーの家)。・・・つまりサウジのマッカにある「カーバ」のことです。「カーナ」は英語では「be」動詞に相当し、過去形、ときには継続を表す現在完了にもなります。「過去から現在を経て(多分将来においても)ずっと~状態が続く」ということです。「アーミナー」は「アミナ(安全である)」の派生語「アーミン(安全、平安)」の語尾に「アン」がついて状態・状況を示します。タジュウィード(聖クル‘アーンの読誦ルール)では、休止する場合は「アン」は「アー」と読み、続けて読む場合は、この節の場合、後ろに接続詞の「ワ」が来ていますから、その影響を受けて「アゥー」となります。イドガーム(同化)です。「リ=ッ=ラーヒ(アッラーへ)」は目的を表す前置詞「リ(~へ)」の後ろですから「アッラー」の語尾の発音は「ヒ」となります。「‘アラ=ン=ナーシ(人々の上に課せられた)」は「’アラー(の上に)」の後ろに定冠詞のついた「ア=ン=ナース(人々)」が来て語尾は「ナーシ」と母音は「イ」になります。「ヒッジュ=バイティ(家の巡礼)」は「ハッジャ(巡礼する)」の動名詞「ハッジ」(「ハッジ」と「hajju」と「a」にする読誦法と「hijju」と「i」にする読誦法があります。ここはタシキールに従って「ヒッジュ」で読むことにします。)がこの文の主語です。これにムダーフ=イライヒ(修飾語)の「バイト(家)」がついています。ムダーフ=イライヒは通常、語尾の母音が「イ」になります。「マニ=スタター‘ア」は人称関係代詞の「マン(~者、~人)」と「ター’ア(従う)」の第10型「イスタター’ア(行う、出来る、する状態にある)」から成っています。「イスタター‘ア」の「イ」はハムザト=ル=ワスルなので、前に語句がある場合は発音されません。そうすると「シーン(s)」の子音から始まり、子音と子音が続く場合は、母音を入れて音を整えますから「マン」の最後の「ヌーン(N)」の子音にカスラ(母音の「イ」)をつけて読みます。「イライヒ(彼へ)」は方向を表す前置詞「イラー(~へ)」に代名詞「フ(彼、それ)」がくっついたものです。「イラー」の最後の「ア」は後ろに語句が来ると「ヤー(y)」になり、また代名詞「フ」が前の語尾が「イ」になると「ヒ」になります。「彼」とはアッラーのことです。「サビーラー(道を)」は「サビール(道)」のaccusative endings(目的語と考えればいいでしょう。)で「(道)として」と訳せばいいでしょうか。ですので、語尾は「アン」になりますが、文の最後なので、タジュウィードのルールに従うと「アー」となります。 今回はアーヤ(節)の文法的な説明だけです。「巡礼」に関する説明はインシャーアッラー次回にします。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月25日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクムイマーム・アハマドのハディースにはこうあります。アブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言わました。「祝福された月ラマダーンがやって来た。斎戒(断食)をアッラーはあなた方の義務とされた。この月の間、天国の門は開かれ、地獄の諸門が閉ざされ、シャイターン(悪魔)は鎖に繋がれよう。この月には、1000の月よりも優る夜がある。(この月に)善行を阻むものは、あらゆる善行の機会を阻まれるであろう。」アブー=ブハーリーのハディースにはこうあります。アブーフライラによると預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「『ライラト=ル=カドル』(ラマダーン月の最後の10日間のうち、いづれかの奇数日にあたる夜、次の年の出来事に対するアッラーの決定が下されると信じられている)に、信仰をもち、来世に報いを望んで礼拝するものは過去に犯した罪を赦されるであろうし、また信仰をもち、来世に報いを望んでラマダーンの断食を行う者も過去の罪を赦されるであろう。」ムスリムのハディースにはこうあります。サフル・ビン・サアドによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「天国にはライヤーンと呼ばれる門があり、断食を行っている者は、復活の日、その門より入り、彼ら以外の者は一緒に入ることは出来ない。そこではまず、『断食をしている者達はどこか』という呼びかけがあって、彼らはそこより入っていく。そして彼等の最後の者が入った時、その門は閉じられ(その後は)誰一人入ることは出来ない。」アブーフライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「人間の一つ一つ(の報酬)は倍加される。善行については十倍から七百倍にして頂ける。至高偉大なるアッラーは『断食はわがためにある。わがために欲望や食物を放棄する者には報酬を与えるであろう』と仰せになった。なお断食している者には二つの喜びがある。その一つは、その者が断食を終えた時の喜びであり、他の一つは、その者が主にお目通りした際の喜びである。まことに断食している者の息はじゃこうの香(ムスク)よりも香しいものである」アブー・サイード・フドリーによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「アッラーの道にために一日断食を行う下僕(イスラームの信者)は、アッラーがこの日(一日)のために彼の顔を七十年の間(地獄)の火より遠ざけて下さる」 ラマダーン月の日の出の一時間半前から日没までの間にすることは「飲食を断つこと」だけではありません。「全ての悪を断つこと」です。「性交」「喫煙」だけではなく、「悪口」を「言う」、「聞く」、欲望を掻き立てるようなものを「見る」ことも含まれています。東照宮にある3匹の猿「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の状態ですね。アブーフライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「断食は盾である。あなた方は誰でも、断食をしている日には不品行な言葉は慎み、声を張り上げてはならない。それで誰かが悪口を言ったり口論を仕掛けてきたら、『私は断食をしている』と言うがよい。」 断食は忍耐力や自制心を養います。また日ごろ十分に物を食べられない貧しい人々への思いやりも強くなります。断食している者には、争いごとやひわいな言葉の使用を戒められており(断食していない時でもそうだと思いますが・・特に断食している時は)、それはひいては身の危険、安全につながります。 ラマダーン月には、善行に対し、日ごろにも増して倍加されますので、義務の礼拝は当然ながら任意の礼拝も奨励されています。特に、タラーフィーフと呼ばれるイシャー‘ウ(夜の礼拝)のあとに行われる集団(集団が無理な場合は一人でもいいです。)の礼拝は、実践を強く奨められています。ラマダーン月の慈善行為(ザカーやサダカ)も、同様に報酬が倍加されます。聖クル’アーンの読誦もこの時期、熱心に奨められています。ジュズという聖クル‘アーンを読む際に全体を分割する単位があり、それがちょうど月の日数である30になっています。一日に1ジュズ読めばラマダーン中に聖クル’アーンを全章読めると言うわけです。あくまでも、目安ですが。もっと速く読める人は2・3回それ以上完誦します。(年によってラマダーン月は29日の時もあります。また女性の場合は、聖クル’アーンが読誦できない日も時にはあるので、一日1ジュズよりも多めに読誦するように心がけたほうがいいでしょう。) ラマダーンは日頃、アッラーへの感謝も畏れもやや薄いムスリムが急に敬虔になる特別な祝福に満ちた月で、天使たちも普段にも増して、動いています。「断食って大変そう」とムスリムでない方は、その「大変さ」だけしか目が行きませんが、ムスリムにとっては空気までが清浄化された特別な月で、「ここで日頃のいいかげんさを挽回するぞ」とめちゃくちゃ気合が入る月なのです。 イフタール(断食明けの食事)を振舞うことにも報奨があり、食事に招待したり招待されたりと、ムスリム同士の交流も盛んになる月で、エキサイティングな月でもあります。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月23日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今回はムスリムの‘イバーダ(崇拝行為)として最もよく知られているラマダーン月の斎戒(断食)についてです。章としては既に紹介した第2章雌牛章です。第67節の「インナ=ッ=ラーハ ヤ・ムルクム タズバフー バカラ(アッラーは、一頭の雌牛を犠牲に供えることをあなたがたに命じられる。)」から章名になりました。イスラームの教え全般が書かれている章で、‘イムラーン章のところで既述しましたが、日陰のないヤウマ=ル=キヤーマ(審判の日)にこの2つの章が日陰を作るだろうといわれる徳のある章です。その185章です。シャフル ラマダーナ=ッ=ラディー ウンジラー フィーヒ=ル=クル‘アーヌ フダッ=リ=ン=ナーシ ワ バイイナーティンーミナ=ル=フダー ワ=ル=フルカーン、ファ=マン シャヒダ ミンクム=ッ=シャフラ ファ=ル=ヤスムフ(ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きと《正邪の》識別の明証としてクルアーラが下された月である。それであなたがたの中、この月《家に》いる者は、この月中、斎戒しなければならない。)「シャフル ラマダーナ(ラマダーンの月は)」は「シャフル(月)」と「ラマダーナ(ラマダーンの)」はムダーフ(被修飾語)とムダーフ・イライヒ(修飾語)の関係です。語尾がマクスーラ(カスラ表示)にならず、マフトゥーフ(ファタハ表示)になるマムヌーア=ミナ=ッ=サルフ(カスラの代わりにファトハが使われること)の用法だと思います。「ア=ッ=ラディー」は先行詞が男性単数の場合の関係代名詞です。「ア」は前に語がくると発音されないハムザト=ル=ワスルです。「ウンジラ」は「アンザラ(啓示する)」の男性単数の受身完了形です。「フィーヒ」は「フィー(~の中に)」と男性単数非分離形代名詞「フ(それ/彼)」がくっついたものです。「フ」は前の語尾の母音が「イ」で終わると「ヒ」になります。この場合は「シャフル(月)」のことを指していると思われます。「アル=クル‘アーヌ(聖典クル’アーンは)」は「クル‘アーン(読誦されるもの)」の主格(「ン」が「ヌ」というように語尾がダンマ「ウ」の母音になります。)に定冠詞「アル」がついたもの。この「ア」もハムザト=ル=ワスルなので、前に語がある場合は発音されません。「フダン(導きとして、導きのために)」はマフ‘ウール リ=ル=アジュラ(目的のためのaccusative endings)なので、語尾の母音が「アン」となっています。「フダン」の語尾が「ヌーン(N)」の子音でその後に「ラーム(L)」が来ますので、最後の「ン」は「ル(L)」の子音で発音します。イドガーム(同化)です。ここでは便宜上(フダ=ッ=リ=ン=ナーシ)と小さい「ツ」で表記しました。「リ=ン=ナーシ(人々のために)」は前置詞「リ(~へ)」と「ナース(人々)」に定冠詞がついたものがです。また「ヌーン(N)」は月文字ですので、定冠詞は「アル」ではなく「アン=ナース」になり、語尾は前置詞の後なので、カスラ「イ」になりますので「アン=ナーシ」です。「バイイナーティン(明証として、明証のために)」は「バイイナート(明証)」は「バーナ(明らかになる)」の第2型「バイイナ(明らかにする)」の派生語「バイイナ」の複数形です。これも‘ウール リ=ル=アジュラ(目的のためのaccusative endings)です。語尾の母音は女性形複数なので「イン」となっています。「ミナ=ル=フダー ワ=ル=フルカーン(導きと識別から)」「ミン(~から)」は前置詞です。「アル=フダー(導き)」は「ハダー(導く)」の派生語です。「フダー」は主格も与格も属格の同形です。ここでは属格です。「ワ(そして)」は接続詞。「アル=フルカーン」は「ファラカ(分ける、識別する)」が語源で「フルカーン(証明、証拠)、善と悪との識別」は聖クル‘アーンの別称にもなっています。前置詞「ミン」の影響で「フルカーニ」と語尾の母音が「イ」になっていますが、ここで休止する場合は「ヌーン(N)」の子音になります。「ファ=マン」は前置詞「ファ(それで)」と条件を表す「マン(~の者は誰でも)」で出来ています。「シャヒダ(証人となる、その場に居合わせる)」「ミンクム」は「ミン(~から)」と2人称複数非分離形代名詞「クム」が一緒になり、「あなたがたの中で」という意味になります。「アル=シャフラ(その月を)」つまりラマダーン月のこと。「あなたがたの中で誰でもその月に居合わせたものは誰でも」つまり「ラマダーン月に家にいるものは誰でも」という意味になるのでしょうか。「ファ=ル=ヤスムフ(彼に斎戒させなさい)」条件文はシャルタ(条件部分)とジャワーブ(受ける部分)からなります。この文はジャワーブの部分で、よく「ファ」や「ラ」で文が始まります。「ファ=ル・・」は「~させなさい」という使役の命令形の意味です。この後に来る未完了の動詞は語尾が子音になるマジュズーム(jussive)です。「ヤスム」は「サーマ(断食する)」の男性単数未完了形の語尾「ム(mu)」の母音「ウ」がありません。これに男性単数非分離形代名詞「フ」がついています。これは「ラマダーン月」のことを指していると思います。今回はアーヤ(節)の解説だけで制限字数になったような気がするので斎戒に関する説明はインシャーアッラー次回します。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月21日
慈悲あまねく慈愛深いアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第24章(スーラト=ン=ヌール)です。第35節の「アッラーフ ヌール=ッ=サマワーティ ワ=ル=アルドゥ(アッラーは、天地の光である。)」が章名になりました。マディーナにヒジュラした5・6年後に啓示されたとされています。その第56節です。ワ アキームー=ッ=サラータ ワ アトゥー=ッ=ザカータ ワ アティー‘ウー=ッラスーラ ラ’アッラクム トゥルハムーン (それで礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、使徒に従え。そうすればあなたがたは、慈悲にあずかるであろう。)「ワ(そして)」は接続詞。「アキームー=ッ=サラータ(礼拝を行いなさい)」の「アキームー」は「アカーマ(行う)」の複数の命令形。「アトゥー=ッ=ザカータ(定めの喜捨を与えなさい)」の「アトゥー」は「アター(与える)」の複数の命令形。「アティー‘ウー=ッ=ラスーラ(使徒に従いなさい)」の「ター’ア(従う)」は複数の命令形。「ラ‘アッラクム」は「ラ’アッラ(たぶん、おそらく)」に2人称複数非分離形代名詞「クム(あなたがた)」がくっついたものです。「トゥルハムーン」は「ラヒマ(慈悲を与える)」の2人称複数未完了受身形です。 聖クル’アーンの中で、ザカー(定めの喜捨、浄財、義務的慈善)はよくサラー(礼拝)と一緒に言及されていて、‘イバーダ(崇拝行為)においては、同等なものと見なされています。ザカーは「(植物が)生育した」という語から派生していて、聖クル‘アーンでは「罪を浄める」という意味でも使われています。 ザカート=ル=‘アーマー(年次浄財)とザカート=ル=フィトル(断食明けの浄財)があります。 ザカート=ル=’アーマーは一年の個人所得として残る財産に対し毎年賦課されるもので、その金額がある一定の段階に達したものはニサーブと呼ばれます。ニサーブは財産の種類によって課される率が異なりますが、通常の蓄財は2・5%が課されます。 ザカート=ル=フィトルはラマダーン月が終わり、‘イード=ル=フィトル(断食明けの祭り)のサラート=ル=’イード(祭りの礼拝)の前までに払います。なつめやし又は大麦の1サーアが規定の量ですが、日本の場合はそれに相当する金額(1,500円ぐらい)を払っています。 義務的慈善はザカーという名称ですが、ときにはサダカとも呼ばれます。特にハディースの中で言及されているサダカは義務的慈善の意味で使われていることが多いです。 また自発的慈善も奨められていて、聖クル’アーンではインファク(寛大に費やす)、イフサーン(善行)、サダカ(施し・・・スィディク(真実)からの派生語)というような言葉で表現しています。 ムスリム(イスラーム信者)の間では、義務的喜捨をザカー、自発的喜捨をサダカといっています。 サダカとはお金を費やす慈善行為だけでなく、「全ての善い行い」を指します。アル=ブハーリーのハディースにこうあります。アブーフライラによるとアッラーの使徒(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「それぞれの信者は毎日陽が昇るごとにサダカを行わなければならない。二人の人の間を仲裁することもサダカであり、よい言葉を話すこともサダカであり、礼拝に行く時の一歩一歩もサダカであり、危険な物を道から取り除くこともサダカである。」サダカを出し渋っているうちに、「死」が訪れるかもしれません。「死があなたがたを襲う前に、われが与えたものから施しなさい。かれは、『主よ、何故あなたは暫くの間の猶予を与えられないのですか。そうすればわたしは喜捨〔サダカ〕をして、善い行いの者になりますのに。』と言う。定められた時がやって来た時、アッラーは誰にも猶予を与えられない。」(63:10&11)アブー・ダーウードのハディースにこうあります。アブー・サイードによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「生きている時の一銀貨の施しは死んでからの100銀貨の施しに優る」 聖クル’アーンにでは、アッラーからのリズク(賜りもの)である財産や金銀を、アッラーの道のために施さないものに対して警告を与えられています。「また金や銀を蓄えて、それをアッラーの道のために施さない者もいる。かれらに痛ましい懲罰を告げてやれ。その日、それら(の金銀)は地獄の火で熱せられて、かれらの額やわき腹や背に、焼印が押されるであろう。『これはあなたがたが自分の魂のために、蓄積したものである。だからあなたがたが蓄積したものを味わえ。』」(9:34&35)サダカ(自発的慈善)の機会がきたら、逃さないでください。それはあなたの魂のためであり、そして来世のためなのですから。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月20日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第29章(スーラト=ル=’アンカブートゥ)です。「マサッル=ッ=ラディーナ=ッ=タハズー ミンー ドゥーニ=ッ=ラーヒ アウリヤー・ア カ=マサリ=ル=’アンカブーティ=ッ=タハザトゥ バイターアッラーを差し置いて外の主人を取る者を譬えれば、(自分で自分の)家を造る蜘蛛のようなものである。」と多神教徒(ムシュリクーン)を蜘蛛に譬える第41節が章名になりました。マッカ時代の中期の終わりごろの啓示とされています。「アリフ・ラーム・ミーム」の神秘文字がこの章から3つ続きます。「マ’アード」(帰り行くところ・・アッラーの許へ還るという教義)で結ばれています。その第45節です。イトル マー ウーヒヤ イライカ ミナ=ル=キタービ ワ アキミ=ッ=サラー(タ)(あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。)「イトル」は「タラー(読む、読誦する)」の命令形です。「マー ウーヒヤ(啓示されたこと)」は「マー(こと)」と「ワハー(啓示する)」の第4型「アウハー」の受身形です。「イライカ」は 「イラー(~へ)」に2人称男性単数非分離形代名詞「カ」がくっついたものです。「あなたへ」はアッラーがムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)に向かって仰っています。「ミナ=ル=キタービ」は「ミン(~から)」と「アル=キターブ(the book・・・つまり啓典)」から成ります。前置詞の後ろなので「アル=キターブ」の語尾の母音が「イ」になり「アル=キタービ」となっています。「ワ(そして)」は接続詞です。「アキミ=ッ=サラー(タ)(礼拝を確立しなさい)」「カーマ(立つ)」の第4型「アカーマ(行う)」の命令形「アキム」の最後の「ミーム」は本来は子音で終わります。次の「ア=ッ=サラータ(礼拝を)」の「ア」は前に言葉が来ると発音されない「ハムザト=ル=ワスル」と呼ばれるもので、その次に来るのは「サード(S)」の子音です。アラビア語の場合は「子音」の次に「子音」が来る場合は母音を入れて音を調整します。ですから「アキム」が「アキミ」となります。「サラー(タ)(礼拝を)」という目的格(与格)なので、語尾の母音は「ア」になりますが、ここで休止する場合は「タ」は読まずに「サラー」と読んで最後に「ハー」と溜息のような息だけ出します。今までは信仰箇条(’アキーダ)というものを紹介してきましたが、これからはムスリム(イスラーム信者)以外でも知られている崇拝行為(’イバーダ)を紹介していきます。生まれつきムスリムの人は違いますが、途中でムスリムになる場合は「シャハーダ」という表明をします。それを言うときに二人のムスリムがその「シャハーダ」に立ち会えばいいだけです。女性(ムスリマ)が立ち会う場合は男性一人の代わりには女性二人が必要です。全部女性がいいというのであれば、4人ということですね。「アッラー以外に神はいません。ムハンマド様はアッラーの使徒です。」と表明し、そして「アッラーを、天使を、啓典を、預言者たちを、来世を、運命を信じます」と言います。これでもうムスリムです。簡単でしょう?実際はアラビア語で言わなければならないのですが、たいていの場合はアラビア語を知っている方が区切ってまず言って、それをリピートします。できれば、臨む前に体を所定のやり方で浄めてくるといいですね。表明した後に浄める場合もあります。さて、こうしてムスリムになりました。「信仰は行為である」とアル=ブハーリーのハディースにあります。日本の仏教は、浄土真宗あたりから、「心で信じていればいい」といった内面を大切にし、行為を軽んずる傾向になりました。「般若湯」といって酒も嗜み、妻帯もします。あまり形式行為だけに囚われていったことに対する反動だとは思いますが。しかし、ムスリムは「信じること」も大切ですが、日々の「行い」も大切だと考えています。人間はとかく忘れやすい被造物です。足を骨折してしばらく歩かないと筋肉が衰えてしまうように、「アッラーを思い出す行為」を怠ると、醜行や悪行に対する警戒心や嫌悪感が薄れてしまいます。「崇拝行為」の中で最重要項目は「礼拝」です。この45節は続けてこうあります。「インナ=ッ=サラータ タンハー ’アニ=ル=ファフシャー・イ ワ=ル=ムンカル(本当に礼拝は、《人を》醜行と悪事から遠ざける。)」タバーリーのハディースにこうあります。アブドッラー・ビン・カルトによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「審判の日、最初に評価されるのは礼拝である。もし礼拝が正しいものなら、彼のすべての行為も正しく取られよう。もしその礼拝が欠けているなら、彼のすべての行為は腐敗する」イマーム・アハマドのハディースにはこうあります。ブライダによるとアッラーのみ使い(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「我らと彼らの契約は礼拝である。よって、これを放棄する者は不信心者(クフル)である。」聖クル’アーン第74章で楽園の中にいる人たちが「何が、あなたがたを烈火の中に導いたのですか。」と罪を犯した人に問うと、彼らは4つの理由を挙げます。「礼拝をしませんでした」「貧しい人を養いませんでした(食べ物をあげませんでした)」「空論を好む輩(やから)と無駄話に耽りました」「審判の日は来ないと否定していました」いろいろなBBSで「空論」を仕掛けてくる人々がいます。彼らは何かを知りたい・求めたいのではなくただ論争が好きなだけなので、それにむきになって答えることは「無駄話に耽ること」になるかもしれません。私も一日の時間の使い方を振り返ると、無駄なことに浪費しているような気がします。アスタグフィルッラームスリムのハディースにこうあります。アブー・フライラによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)こう言われました。「あなたの身体の汚れは、自分の家の前に流れる清流で一日5回洗っても残ると考えるだろうか。」「いいえ、身体に汚れは残りません。」とサハーバ(教友)が答えると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「1日5回の礼拝の効用もまったくこのようなものである。アッラーの御慈悲により、すべての罪が清められるであろう」「1日に5回もするのって大変だよなあ。よくやるよ。」と考えていらした方々、このような徳が礼拝にあることを知ったら、ムスリムが礼拝する理由が少しは理解いただけたでしょうか。よくムスリムの人が一人だけじゃなくまとまって礼拝するのをテレビなどで見たことがあると思います。アル=ブハーリーのハディースにこうあります。アブドッラー・ビン・’ウマルによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「集団礼拝は個人礼拝より27倍の徳がある。」集団礼拝の奨励により、ムスリム間の結合力・相互理解・団結意識・民族的親善・深い同胞意識を高める効果があります。また、教育の差・皮膚の色の違い・社会的地位の上下の区別なく一線上に立ち並んで平身低頭します。アッラーの前では人間は等価だという意味です。これは「平等だから皆同じようにしなければならない。他の人と違ったことしてはいけない。目立ってはいけない。」という機械のひとつの部品のような意味ではなく、アッラーはそれぞれ一人一人に違う才能・力・身分・環境などを与えられました。それは同じ種類の花がひとつひとつ微妙に違うように。アッラーからみれば「人間は人間」です。等価なのです。アッラーがお創りになったひとつひとつの作品。誰もこの世に必要じゃない者はいないし、アッラーから見れば誰も彼も意味があり、価値があるのです。太陽の光がこの地上に降り注ぐようにアッラーのご慈悲(ラフマーン)は全ての生きとし生きるものに降り注いでいます。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月19日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクムムスリムが信じていること(‘イマーン)を紹介してきました。ちょっと確認してみます。1. アッラー(アッラーは唯一の御方である。)・・・タウヒードと言います。これをきちんと押さえておけば、天国へいけるとも言われています。アッラーフ アアラム2. 天使・・・マリク、複数はマラーイカと言います。ついで聖霊はルーフと言います。3. 啓典・・・キターブ、複数はクトブと言います。4. 預言者・・使徒はラスール、複数はルスルと言います。5. 来世・・・アル=アーヒラと言います。その前に全てのものが消滅する「その日」(ヤウマイディン)、定められた終わりの日を「ヤウマ=ル=キヤーマ」と言います。そして人間が蘇生し、御座するアッラーの前に引き出されます。「ハシャル」と言います。6. 運命・・・カダルと言います。人間の生や死、信仰に導かれるか、不信仰者のまま終わるかなど、大切なことはもう既に決まっているということです。そこで今日の聖クル‘アーンのアーヤ(節)です。第81章の章名は第1節の「イザ=ッ=シャムス クーウィラット(太陽が包み隠される時)」の「クーウィラット(包み隠された)」(受け身の女性単数完了形)の語根が「カウワラ(包む・巻く)」で、動名詞の「タクウィール」が章名になりました。マッカ最初期の頃に啓示されました。「その日」に起こる天変地異からの導入で、物の複数は女性形になりますからその受身の完了形、語尾の「ター(T)」の子音が第14節まで続き、非常に緊張感があります。その第29節はこうです。ワ マー タシャーウーナ イッラー アイー ヤシャーア=ッラーフラッブ=ル=‘アーラミーン(万有の主、アッラーの御望みがない限り、あなたがたはこれを望むことも出来ないのである。)「ワ」は「そして」という意味の接続語。「マー」は否定。「タシャー・ウーナ」は「シャー・ア(望む)」の2人称複数未完了形。「イッラー」は「~以外、~なしには」で「マー・・・イッラー~」(~なしには・・・できない)という2重否定のセットで頻出する強調法です。「アン」は英語の「that」に相当する節の接続詞です。「アン」の語尾が「ヌーン(N)」の子音なので、その後ろに「ヤー(Y)」が来ると、その音の影響で「アイー」という発音になります。「イドガーム(同化)」です。「シャー・ア(望む)」の3人称単数未完了形「ヤシャー’ウ」が「アン」という接続詞の後に来ると語尾の母音が「ア」になりますので、「ヤシャー・ア」となります。この動詞の主語は「アッラー」です。主格の場合は「アッラーフ」と「ハー(h)」はマルフー‘ア(ダンマの表記で「ウ」と発音します。)になります。「ラッブ=ル=‘アーラミーン(世界の主)」は「アッラーフ」の同位格です。「日本の首都、東京」という表現も同位格ですね。アッラーがお望みにならなければ、何事も人間は出来ません。お決めになったことに人間は従うだけです。だから「自殺」という行為がいかに「大きな罪」であるかが理解できると思います。「じゃ、結局、何しても同じじゃん。」そうではありません。この世は「イブタラー(試験)」のためにあり、また災難や不幸もその人間に対する「試験」です。「ア=ッ=タワックル」(常に能動的で目的を達するためにアッラーからいただいた才能や能力を充分に使い、結果はアッラーに委ねる。 )であるべきで、「ア=ッ=タワークル」(「アッラーが何とかしてくださる。」と思い、自らは何もしない。ひたすら受動的。)になるべきではないと思います。「本当にあなたは、昼間は要務で長く追われる。」(73:5)とあるように、昼間は自分の仕事や勉学など責務をきちんと全うする時間に割り当てられています。バスマラで始めるいかなる事(アッラーが禁じたこと以外)も全て、アッラーへの崇拝行為となります。奮闘努力することをアッラーは好まれます。全てを自分がコントロールできると思うような傲慢な不遜な考えや態度をしない限り、アッラーは努力奮闘する者を助けて下さるし、また、苦しみや悲しみを和らげて下さいます。アッラーを畏れ、アッラーに感謝しましょう。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月18日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第40章です。章名は「ガーフィル(赦す御方)」とも「ム・ミン(信者)」とも呼ばれます。「(主の)玉座を担う者たち、またそれを取り囲む者たちは、主の御光を讃え、かれを信仰し、信じる者のために御赦しを請い、祈って(言う)。『主よ、あなたの慈悲と知識は、凡てのものの上にあまねく及びます。悔悟してあなたの道を踏む者たちを赦され、かれらを炎の懲罰から御守り下さい。』 」(40:7)とあるように、アッラーを信じる者のために、天使たちがアッラーのお赦しを願って祈ります。第28節にはフィル’アウン(ファラオ)の一族の一人が、信者(ム・ミン)として表明し、アッラーを畏れていると言います。一人の信者として、信仰と善行への努力が、最後は勝利に導かれることが記されています。マッカ時代の後期に、前章の集団章の直後に啓示されたとされています。この章から神秘文字「ハー・ミーム」で始まる章が続きます。さて、その第39節です。インナマー ハーディヒ=ル=ハヤートゥ=ッドンヤー マター’ウゥー ワ インナ=ル=アーヒラタ ヒヤ ダール=ル=カラール(現世の生活は束の間の享楽に過ぎません。本当に来世こそは永遠の住まいです。) 「インナマー」は「インナ(本当に)」と「マー(こと)」が一緒になったものです。「ハーディヒ」は指示語の「ハーディー(これ)」の女性形です。その後に来る女性名詞の「ハヤート(生活)」を指しています。これは名詞文の主語になります。「アル=ハヤート=ッ=ドンヤー(現世の生活)」はいつも「アル=アーヒラ(来世)」とセットで頻繁に聖クル’アーンに出てきます。「マター’ウ(ン)」は「マタ’ア(持ち去る)」が語根で「もの、事、楽しみ、享楽」という意味です。「ハーディヒ」が名詞文の主語で「アル=ハヤートゥ=ッドンヤ」が同格で「マター’ウン」がその述部です。ですので、主語と同じようにマルフー’ア(ダンマ表示です。語尾の母音が「ウ」「ウン」となります。)です。聖クル’アーンの読誦ルールで、「ウン」の語尾が「ヌーン(N)」の子音で終わり、その後に「ワ」(「そして」の意味の接続語)が来ると、その影響を受けて、「ウゥー」という感じになります。「イドガーム(同化)」と言います。「インナ=ル=アーヒラタ」は「インナ(本当に)」の後ろでは、名詞文の主語がマンスーバ(語尾が「ア」「アン」になります)ですから、「アル=アーヒラ(ト)(来世)」は「アル=アーヒラタ」となります。そしてそれを代名詞「ヒヤ(それは/彼女は)」で言うことで、強調しています。「アル=アーヒラタ」も女性名詞です。「ダール(住まい、家)」「アル=カラール」は「カッラ(住む、落ち着く、居続ける)」が語根で「不変、固定」という意味です。「ダール」を修飾していますから語尾の母音は「イ」です。アーヤ(節)の最後ですから、ここで休止する場合は、子音で終わります。ムスリム(イスラーム信者)は「来世」を信じています。たいていの日本人の「彼岸観」は「この世」と「あの世」が同時に存在していると考えているようです。「天国で幸せに暮らしているよ」とかお盆や彼岸の日には「彼岸から亡くなった人」が戻ってくるという意識があります。ムスリムはお墓参りはしますが、亡くなった人が、あの世にいるとは考えていません。最後の審判にアッラーが全ての人間を甦らせになるまで、「アル=バルザフ」と呼ばれるところにいます。そこで、心静かに待てるか、既にそこから責め苦が始まるかどうかは、現世でのその人のあり方によります。「アザーブ=ル=クブール(墓の懲罰)」という言葉があります。アル=ブーハーリーのハディースにはこうあります。アナルによると、預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「死者が葬られ、友人たちが去って行き、まだその靴音が聞こえているとき、二人の天使が死者のもとへ来て彼を座らせ、『この人ムハンマドのことを何と言っていたか』と尋ねる。そこで彼が『わたしはムハンマドさまがアッラーの僕(しもべ)そして使徒であることを証言します』と答えると、天使は『見よ、これがお前の地獄で座ることとなる場所だ。しかしアッラーはその代わりに天国の座る場所を与えられた』と言い、彼は両方の場所をはっきり見る。一方、不信仰者(クッファール)或いは似非信者(ムナーフィクーン)が天使の件の問に対して『わたしは知りません。ただわたしは皆が言っていることを真似しただけです』と答えると、天使は『たしかにお前は何も知らなかったし、また唱えもしなかった』と言うやいなや彼の脳天に鉄槌をくわせるので、彼はまわり中に聞こえるほどの叫ぶ声をあげる。しかし、これは人間とジン(妖霊)だけには聞こえない。」ムスリムのハディースにはこうあります。イブン・’ウマルによると預言者(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われた。「人が死ぬと、彼は朝晩、彼の居場所を示される。もし、彼が天国に入る者であれば、それは天国で示され、もし彼が地獄に入る者であれば、それは地獄で示される。その後、彼は『そこが、復活の日にお前が送られる場所である』と告げられる」しかし、聖クル’アーンにはこうあります。「かれらがそれを見る日、(墓の中に)滞留していたのは、一夕か一朝に過ぎなかったように思うであろう。」(79:46)人によっては、現世もバルザフも「短い」と感じるようです。ムスリムのハディースにはこうあります。「死に際しては、アッラーに対し、善き望みを託することが大切である」ともあれ、人間は誰でも必ず死を迎え、審判の日まで墓に留まります。そして天使によって終末の日の到来を告げるラッパが吹かれると、すべての人間は死に絶えます。そして2度目のラッパが吹かれると、すべての人間はアッラーによって再び魂をその体に吹き込まれ、復活します。(イスラミック・センター・ジャパン刊「イスラーム・・アキーダと’イバーダ」より) 「記録の書」が審判のためにアッラーの前に呈示され、各人の記録にアッラーが最後の判定を下されます。報償と懲罰は思慮深く行われ、その審判の結果により、ある者は天国へ入り、永久無上の幸福の扉が開かれるでしょう。懲罰を受けるに値する者は堪え難き火と苦痛の地獄へ送られることでしょう。(A.A.マウドゥーデイー著「イスラームの理解」より)善行が報われないように見えること、悪徳が栄えることなど、この世での不条理な出来事に対して、「来世」を信じることは、ムスリムの生活の再生として力を与えてくれていると上記の書は結んでいます。ムスリムのハディースにはこうあります。アナスによると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。「”最後の時”は、地上で人々がアッラーへの祈りが続く限り、来ることはない」私たちは「アッラーへの祈願(ドゥ’アー)」を続けましょう。そして、「墓からの懲罰からお守くださるように」亡くなった同胞たちへの祈願(ドゥ’アー)もしましょう。そしてそれよりも優るとされている「時間どおりの義務の礼拝」を確立しましょう。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月17日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第3章です。第33節にある「インナ=ッ=ラーハ=スタファー アーダマ ワ ヌーハゥー ワ アーラ イブラーヒーマ ワ アーラ ’イムラーナ ’アラ=ル=’アーラミーン(本当にアッラーは、アーダムとヌーフ、そしてイブラーヒーム一族の者とイムラーン一族の者を、諸衆の上に御選びになられた。) の言葉から章名になりました。全200節と牝牛章の次に、長い章です。マディーナ時代に4回に渡って啓示されたとされています。1.第1節から第32節まではバドルの戦いのすぐ後2.第33節から第63節まではヒジュラ暦9年、ナジュランのキリスト教徒の使節団来訪受け入れの頃3.第64節から第120節は、1のすぐ後に4.第121節から第200節はウフドの戦いの後’イムラーンとはムーサー(アライヒッサラーム)の父とも’イ-サー(アライヒッサラーム)の母マリヤムの父とも言われています。牝牛章と同じく、「アリフ・ラーム・ミーム」の神秘文字で始まっています。イマーム・アハマドのハディースによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「牝牛章と’イムラーン家章を学びなさい。それらには光があり、またそれは(何も日陰になることがない)審判の日に2つの雲のごとく、また並んで飛ぶ鳥の影が日陰になるごとく、(2つの章を習得した)そういう者たちの日陰になるだろう」その第84節の後半あたりにこうあります。「ラー ヌファッリク バイナ アハディンーミンフム(わたしたちはかれら《預言者たち》の間に、どんな差別もしません。)」「ラー」は未完了形動詞を否定します。「ヌファッリク」は「ファラカ(区別する、分ける)」の1人称複数未完了形です。「バイナ」は「~の間」という前置詞です。「アハディン」は「アハド(ひとりひとり、それぞれ、各々)」が前置詞の後に来るため、語尾の母音が「イン」になっています。「ミンフム」は「ミン(~から)」と3人称複数非分離形代名詞「フム(彼ら)」がくっついたものです。「彼ら」とはその前に出てくる「アン=ナビーユーナ(預言者たち)」のことです。聖クル’アーンには「ナビー(預言者)」と「ラスール(使徒)」のふたつの用語が出てきます。「預言者(ナビー、複数はアンビヤーゥ)」とは既に「フード章」のところで説明しました。「使徒(ラスール、複数がルスル)」とは「啓典(タウラー、ザブールやインジール)」を授かった者のことです。伝承によれば使徒は33人だそうです。使徒は皆、預言者であり、彼らのほうがより高い位にあると言えましょう。ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は「ナビー(預言者)」であり、「ラスール(使徒)」でもあります。そして「封緘」(紅白歌合戦で言うトリ)です。「ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。」(33:40)つまり、彼で「完結」「終わり」。彼以降には預言者も使徒も現れないということです。聖クル’アーンには25人の預言者が出てきます。アーダム(アダム)、イドリース(エノク・・異説もあります)、ヌーフ(ノア)、フード、サーリフ、イブラーヒーム(アブラハム)、ルート(ロト)、イスマー’イール(イシュマエル)、イスハーク(イサク)、ヤ’ゥクーブ(ヤコブ)、ユースフ(ヨセフ)、シュ’アイブ、アイユーブ(ヨブ)、ズルキフル(エゼキエル・・・異説もあります)、ムーサー(モーゼ)、ハールーン(アロン)、ダーウード(ダビデ)、スライマーン(ソロモン)、イルヤース(エリヤ・・異説があります)、アルヤスウ(エリシャ・・異説があります)、ユーヌス(ヨナ)、ザカリーヤー(ザカリヤ)、ヤフヤー(ヨハネ)、’イーサー(イエス)、ムハンマド私たちムスリムは私たちのウンマ(共同体)の指導者ムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)だけでなく、これら全ての使徒(預言者)たちを信じています。また彼らの間を区別しません。そして彼らはそれぞれの共同体(ウンマ)に預言者として遣わされたと認識されています。「それぞれの民に対して、使徒が(遣わされたので)ある。」(10:47)ムスリムのハディースによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「私は全人類の中で’イーサーに最も近い親族である。諸預言者達とは腹違いの兄弟である。私と’イーサーの間には預言者はいない。」イブラーヒーム(アライヒッサラーム)は「最も素晴らしい被造物」であり、ユースフ(アライヒッサラーム)は「アッラーを最も畏れるが故に、最も尊敬に値する人物」であり、「ムーサーに比べて私(預言者ムハンマド様、彼の上に祝福と平安がありますように)が優れているとしてはならない。人はすべて死ぬものだが、私が最初に目覚めるであろう。そしてそのときムーサーは玉座の端に座っています。」「私(預言者ムハンマド様、彼の上に祝福と平安がありますように)がユーヌス・ビン・マッターより優れていると言うべきではない。」とあります。この世が終わりになる”最後の時”には’イーサー(アライヒッサラーム)の降臨があると言われています。気になるハディースとしてサヒーフ・ムスリムにこう言うのがあります。「ユーフラテス河は程なく金の山を露出する。人々はそれを聞くとここにむらがり集まるが、宝を手にした者らは『もし、我々がこれを取ることを他の人々に許すと、彼らは全部持って行くに相違ない』といいだす。結局、彼らは、相戦うことになり、百人のうち九十九人は殺される」「『金の山』って『石油』のことかしら」とシスターaが言っていましたが、そう置き換えると、今のイラクの状況に似ているような気がしませんか。アスタグフィルッラーアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月16日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第7章「スーラト=ル=’アーラフ(高壁章)」です。第46節の「ワ ’アラ=ル=’アーラフィ リジャールィー ヤ’ウリフーナ クッランー ビ=シィーマーフム(高い壁の上には印によって、凡ての者を見分ける人びとがいて、)」から章名になりました。「アル=アン’アム(家畜章)」と同時期のマッカの最後の年に啓示されたと言われます。「アル=’アーラフ(高壁)」とは「そこでかれらの間に壁が設けられる。そこに一つの門があるが、その内側には慈悲が、その外側には懲罰がある。」(57:13)とあるように楽園と獄火の間の仕切る壁でそこには門があります。「アル=’アラーフ」は「’ウルフ」の複数形で、「’ウルフ」とは当時のアラブでは、地面が盛り上がった全ての箇所のことを意味していました。イブン・アッバースによるとフダイファが、「アル=’アーラフ」のことを尋ねられたときにこう答えたと言う。「アル=’アーラフとは見分けられる人たちがしばらく留まるところである。その者たちは、善行と悪行の数がほぼ等しい者たちのことで、彼らの悪行が、楽園に入ることを妨げ、彼らの善行が獄火を防ぐ。アッラーが(彼らが楽園に行くか、獄火に行くかを)お決めになるまで、彼らはそこに閉じこめられる。」 その第157節のやや前半にある言葉です。アッラディー ヤジドゥーナフー マクトゥーバン ’インダフム フィ=ッ=タウラーティ ワ=ル=インジール(かれはかれらのもっている(啓典)律法と福音の中に、記され見い出される者である。)「アッラーディー」は関係代名詞に相当し、先行詞は男性単数です。この場合は「文字を知らない預言者、使徒」つまりアッラーのみ使いムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)のことです。「ヤジドゥーナフ(彼らをそれ/彼を見つける)」「ワジャダ(見つける)」の男性複数未完了形に男性単数非分離形代名詞「フ(それを/彼を)」がくっついたものです。「それ」とは「彼の名前も特徴も」と考えられます。「マクトゥーバン」は「カタバ(書く)」の受動分詞「カクトゥーブ(書かれたもの)」。語尾の母音が「アン」となっていますからこれもaccusative endingsの用法のひとつタミ-ズ(specification)だと思います。(ごめんなさい。日本語でどういうかわかりません。)「~の関しては、~のことでは」と訳せるでしょうか。「’インダフム(彼らの許で、彼らが持っている)」「’インダ」は前置詞でそれに男性複数非分離形代名詞「フム」がくっついたもの。「フィー」は「~の中で」という前置詞。「ア=ッ=タウラーティ」は「タウラー(律法の書・・・旧約聖書の最初の五書)」に定冠詞「アル」がついたものす。前置詞のあとなので、タウラー(トゥ)」の語尾の母音が「イ」になっています。「タウラー」については聖クル’アーンでは18回言及されています。「アル=インジール」は「インジール(福音・福音の書・・・’イーサー(イエス)の与えられた啓示または「福音の書」のこと)「インジール」については聖クル’アーンでは12回登場します。ムスリム(イスラーム信者)の聖典が「聖クル’アーン」とはよく知られていますが、先行啓典もアッラーから啓示されたものと考えていることはあまり知られていないのではないでしょうか。イブラーヒーム(アブラハム)に啓示された「スフフ(聖なる書)」ムーサー(モーゼ)に啓示された「タウラー(律法の書)」ダーウード(ダビデ)に啓示された「ザブール(詩篇)」’イーサー(イエス)に啓示された「インジール(福音の書)」などの先行啓典を補完・確証するために下されたものが最後の啓典である「聖クル’アーン」なのです。先行啓典では「タフリーフ(歪曲)」が行われたという概念があり、それゆえ、最後の啓典である聖クル’アーンが最も優れていると聖クル’アーンの中でアッラーご自身が仰せになっています。「あなたがたが持っているもの(タウラー)の確証として、われが下した啓示(クルアーン)を信じなさい。」(2:41)「かれら(ユダヤ人)の中の一団は、アッラーの御言葉を聞き、それを理解した後で故意にそれを書き変える。」(2:75) 「タウラー」「ザブール」は信じるが「インジール」「聖クル’アーン」は信じない者、また「タウラー」「ザブール」「インジール」は信じるが、「聖クル’アーン」は信じない者には「啓典の一部分を信じて、一部分を拒否するのか。凡そあなたがたの中こんなことをする者の報いは、現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には、最も重い懲罰に処せられよう。アッラーはあなたがたの行うことを見逃されない。」(2:85) とアッラーは仰せになっています。また「タウラー」や「インジール」は最後の預言者であるムハンマド様(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)の到来を明白に述べています。「その言葉は、はなはだ美しく、彼はことごとく麗しい。エルサレムの娘たちよ、これが愛する者、これがわが友なのです。」(雅歌5章16節)のヘブライ語の発音は「ヒッコ マミッタディム マハマディム ズフドゥディヴェゼム ラアイ ベヌテヤプス ハラム」直訳すると(彼の口は最も甘く、そう、彼はムハンマド。完全無欠に美しい。おお、エルサレムの娘よ、この人こそわたしの愛する者、わたしの友なのだ)となるそうです。しかし、故意にか故意でないのか不明ですが、訳される段階で彼の名前は消えてしまったそうです。また福音書の中に述べられている「アフマド」という単語はまさにアラビア語のアフマド(「最も賞讃されるもの」という意味です。・・ムハンマド様《サッララーフ アライヒ ワ サッラム》の別名です。)ただし、バルバナの福音書はキリスト教会ではムスリムの捏造だと言い、正式な福音書としては認めていません。(一部「ISLAM OUR CHOICE」阿部優子さん訳から抜粋)アッラーフ アアラム「マルヤムの子’イーサーが、こう言った時を思い起せ。『イスラエルの子孫たちよ、本当にわたしは、あなたがたに(遣わされた)アッラーの使徒で、わたしより以前に、(下されている)律法を確証し、またわたしの後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである。』」(61:6)「啓典の民よ,あなたがたがわたしたちを非難するのは,只わたしたちがアッラーを信じ,またわたしたちに下されたもの(クルアーン),また以前に下されたもの(律法,福音)を信じるためであるのか,只あなたがたの多くがアッラーの掟に背く者たちであるためではないか。」 (5:59)アッラーは全てご存知です。「このクルアーンは,アッラー以外のものによって作られるようなものではない。それどころかこれは,それ以前にあったものの確証(の啓示)であり,万有の主からの,疑いの余地を残さない,啓典の解明である。」(10:37) アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月15日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第86章です。マッカ時代初期の章と言われます。第1節は、「ワ=ッ=サマーィ ワ=ッ=ターリク(天と、夜訪れるものによって《誓う》。) 」とマッカ時代の初期の啓示によく見られる「ワウ アル=カスム(ワウ+アリフ,ラーム)で始まり、その語尾は『イ』の母音で終わります。『~にかけて、~に誓って』という意味です。」で始まっています。カターダによると、星が「ア=ッ=ターリク(夜の訪問者)」と名づけられているのは、昼間は隠れていて、夜しか見えないからです。その第4節です。イン クッル ナフシン ランマー ’アライハー ハーフィズ(誰も自分の上に守護者(天使)をもたない者はない。)「イン(本来は仮定の「もし」)」と「ランマー(ラムとマーが一緒になったもの)」の「ラム(本来は過去の否定形で「じゃなかった」)」で「(真に)(何も、誰も)~ものはない、」と 2重否定形のような意味になり、強調の効果があります。アル=カスル(exception)と言います。「イン フワ イッラー ジクル=ッ=リ=ル=’アーラミーン(これ《クルアーン》こそは、万人への教訓に外ならない。 )」などと似たような用法です。「クッル ナフシン(全ての魂は)」は「クッル(全て)」を「ナフス(自身、魂)」が修飾しています。「ランマー」は「ラム(じゃなかった)」と「マー(こと)」が一緒になったものです。「マー」は英語の「what」に相当します。「’アライハー(その上に)」の「ハー(それ、彼女)」はここでは「ナフス(魂)」を指します。「ハーフィズ(守護者)」は「ハフィザ(保つ、護る)」の能動分詞です。ここでは人間全て、その一人一人にいる天使のことを指します。聖クル’アーン全114章を一語一句漏らさず、暗記している人のことも「ハーフィズ(聖クル’アーンを保持している者)」と呼びます。「見よ、右側にまた左側に坐って、2人の(守護の天使の)監視者が監視する。かれがまだ一言も言わないのに、かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。」(50:17&18)「本当にあなたがたの上には2人の看守(天使)がいるが、かれらは気高い記録者で、 あなたがたの所行を知っている。 」(82:10&11&12)「各人には、前からも後ろからも、次から次に(天使)が付いていて、アッラーの御命令により監視している。」(13:11)人間の右と左にいる天使は、人間の行動を逐一記憶・記録していると考えられています。右は善行を書き留め、左は悪行を書き留めます。また人間の前と後ろにも天使はいて、その人間を護り、保護しています。つまり2人の記録者と2人の守護者がいて、彼らは時間になると交代します。(信者には160の天使が、蜜の壷に飛び交う蝿のように飛び交っているという説もあります。アッラーフ アアラム)天使はその人間と常に一緒にいますが、排泄・儀礼上の不浄(性交)・入浴という3つの生理的欲求のときは離れています。アル=ブハーリーのハディース(言行録)にはこうあります。アブー・フライラによると預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「天使達は、或る者は夜、また或る者は昼、代わる代わる下ってきて、ファジュルの礼拝と‘アスルの礼拝にとき皆集まる。それからあなたのもとで夜を過ごした天使達がアッラーのもとへ戻っていく時、アッラーはすべてご存知だが、彼らに『お前たちがここに来る時人間はどうしておったか』とお尋ねになると、天使達は『我々が行ったときも、来るときも、彼らは礼拝していました』と答える。」天使たちは善いことも悪いことも人間が話したことを全て書きます。「食べた」「飲んだ」「見た」「行った」「来た」という言葉まで書きます。最後の審判の時には、人間は自ら、「記録の書」を読みます。「(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなたがたは見るであろう。かれらは言う。『ああ、情けない。この書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。』」(18:49)イマーム・アハマドのハディース(言行録)にはこうあります。ビラール・ビン・アル=ハーリス=ル=ムザニによるとアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。「本当に、本人がそれがどんなに高く評価されるか意識はしてないが、至高なるアッラーがご満悦になる言葉を発した男は、アッラーにまみえるその日(審判に日)までに、彼がアッラーを喜ばしたということが(善行として)加えられる。逆に、男がそれがどんなに酷いかを意識はしていないが、至高なるアッラーがお怒りになる言葉を発した者は、アッラーに見えるその日までに、アッラーを怒らせたということが(悪行として)加えられる。」ですから、ハディース(言行録)にはこうあります。「アッラーと最後の(審判の)日を信じている者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなくば口をふさいでいるべきである。」逐一書き留めた天使は木曜日になると、その者の言葉や行為を見直し、その中の善と悪を定めて、その他を廃棄します。天使達は人間の行為を記録する時、お互いに会話を交わしているようです。善行をなす者がいた時には「よかった」と言い合い、悪行をなす者がいたときは「地獄に行くかもしれないぞ」と語り合っているそうです。「善行を志しながらそれを果たさなかった者に対しては善行が一つと記され、善を志しそれを実行した者に対しては、アッラーは10倍から700倍の増加分、またはそれ以上の善行数を記録なさる。悪行を企図した者でもそれを実行しなかった場合、アッラーは完全な善行を一箇記して下さる。またもし悪を企てそれを行った場合には、アッラーは彼に悪行一つと記録なさるのである」アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月14日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第11章です。この章には章名となったフード(アレイヒッサラーム)のほかに、イブラーヒーム(アブラハム)、イスハーク(イサク)、ヤ’ァクーブ(ヤコブ)、ヌーフ(ノア)、ムーサー(モーゼ)、サーリフ、シュ’アイブ(アライヒムッサラーム)などと預言者が出てきます。「預言者(ナビー、複数はアンビヤーゥ)」は「未来を予測する予言者」のことではなく、アッラーから言葉を預かり、人々に「最後の審判(この世の人々は、全て『その日』に甦り、アッラーにより、報奨を賜るかもしくは懲罰が与えられる)」があることを警告する者のことです。伝承によれば12万4000人いると言われていますが、聖クル’アーンには25名の預言者の名が出来てきます。その中のほとんどは、聖書で言及されていますが、この章名のフードやサーリフ、シュ’アイブ(アライヒムッサラーム)は言及されていません。フード(アライヒッサラーム)は、伝承によればヌーフ(ノア)(アライヒッサラーム)の息子セムの子孫とされるアラブの預言者です。「(われは)’アードの民に,その同胞のフードを(遣わした)。」(11:50)円柱の立ち並ぶイラムという都に住み、繁栄を誇っていた’アードという民に遣わされた預言者で、彼の警告を拒絶した者たちは滅ぼされたと書かれています。「朝になると,かれら(’アードの民)の住みか以外,何もなくなっていた」(46:25)「’アードは,唸り狂う風によって滅ぼされた。7夜8日にわたり,かれらに対し絶え間なく(嵐が)襲い,それで朽ちたナツメヤシの木のように,(凡ての)民がそこに倒れているのを,あなたは見たであろう。 それであなたは,かれらの中,誰か残っている者を見るのか。」(69:6&7&8)第11章はマッカ時代の後期に、第10章ユーヌス章のすぐ後に啓示されたと考えられています。内容も前章の追記のようになっています。その第6節はこうです。クッルン フィー キタービンームビーン(凡てはっきりと書物に(記されて)ある。) 「クッルン」は「全ては」という意味で、主格で無定冠詞なので、語尾が「ウン」という母音で終わります。「フィー」は「~の中に」という意味の前置詞です。「キターブン」は「キターブ(本)」が前置詞の後ろで無定冠詞なので、語尾が「イン」という母音になっています。「ムビーン」は「明白な、明瞭な」と言う意味です。アーヤ(節)の最後なので、ここで区切って読む時は「ムビーン」と最後の「N」は子音になりますが、次のアーヤ(節)を小休止なしで読む時は「ムビーニン」と語尾の「イン」という母音を発音します。「ムビーン」は前の言葉「キタービン」を修飾しています。また「キタービン」と語尾が「イン」と「N(ヌーン)」の子音で終わり、次に「ムビーン」と「M(ミーム)」で始まる場合は、タジュウィード(聖クル’アーンの読誦ルール)では「イドガーム(同化)」と呼ばれる読誦法で、鼻腔から音を出し、区切らずに2拍の長さで読みます。「キタービンーームビーン」という感じでしょうか。「キターブ」とはアラビア語では「本」という意味ですが、聖クル’アーンにおいては「啓典」「天の書」「記録の書」という意味で使われています。ここでは「 守護された碑板に(銘記されている)。」(85:22) 「(それは)秘蔵の啓典の中に(書かれてあり)」(56:78) 「それはわが許の母典の中にあり、非常に高く英知に溢れている。」(43:4) と同様に聖クル’アーンの原型である「天の書」のことだと思われます。タバリーはこの「明瞭なキターブ(キターブン ムビーン)」のことをこう解説しています。「存在しているもの、存在しつつあるもの、まだ存在していないもの、どれも『護られた書板(ラウフン マフフーズ)』(天の書)に書かれていないものは何もない。それらはここに書かれていて、その数や量、存在している時間、終わりの状況についても書かれている」しかし、聖クル’アーンはこうも言っています。「アッラーは、御好みのものを取り消し、または確認なされる。啓典の母体はかれの御許にある。」(13:39) タバリーは言っています。「アッラーは幸不幸、生死以外のその年の事柄を『カドルの夜(ライラトゥ=ル=カドル・・・ラマダーン月の最後の10日間の奇数日と言われています。27日だろうとも言われますが、本当のことは、アッラーのみがご存知です。)』にあらかじめ書き換えられる」またアン・ナサ‘イーとイブン・マージャーのハディース(伝承)にはこうあります。「罪を犯したことにより、彼の(予め書かれていた)リズク(糧、アッラーから賜るさまざまなもの)は取り上げられるだろう。ただし、ドゥ‘アー(アッラーへの祈願)のみが、運命を変え、敬神からなる善行のみが、寿命を延ばすことができる。」自分の運命を変えるのに有効なのは「ドゥ‘アー(祈願)」と「善行(アッラーへの信仰がなければ意味がありません)」です。「おお、アッラー、あなたが私たちを不幸な者の中に書かれたなら、それを消して、祝福された者の中にお移しになってください。もしあなたが私たちを祝福された者の中に書かれたら、そこに留まり、それを確かなものになさってください。あなたは本当に御好みのものを取り消し、また確定なさる御方であり、あなたの御許には啓典の母があるのですから。」アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月11日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第16章「スーラト=ン=ナフル」は第68節の「ワ アウハー ラッブカ イラ=ン=ナフリ(またあなたの主は、蜜蜂に啓示した)」にある「ナフル」から章名となりました。蜜蜂が花々から集めた蜂蜜は「腹の中から種々異った色合いの飲料を出し、それには人間を癒すものがある。」(16:69)とアッラーが仰せになっているように病弱の者への薬になります。ハディース(言行録)にも蜂蜜の薬効についての伝承があります。アブー・サイードの伝承によると、或る男が預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の許へきて、「わたしの兄弟は腹が悪いのですが」と言ったとき、「蜂蜜を飲ませない」と彼は言われました。(中略)そこで蜂蜜を飲ませたところ、兄弟は治りました。蜂蜜はそのように肉体的な病に対して効果があり、預言者たちと聖クルアーンは,人間の精神的な病を治療するということが暗示されています。最後の3章を除き、この章はマッカの後期に啓示されたと言われています。さて、その第98節です。「ファ=スタ’イズ ビ=ッ=ラーヒ ミナ=ッ=シャイターニ=ッ=ラジーム」(忌まわしきシャイターンに対して、アッラーの御加護を祈れ。) 「ファ」は「そして」と接続語で、「ワ」と違い、「すかさず」というニュアンスがありましたね。何に対してかというとその前の「ファ=イザー カラ・タ=ル=クル’アーナ(あなたがクルアーンを読唱する時は、)」にです。「イスタ’イズ」は「イスタ’アザ(ご加護を求める)」の命令形です。「イスタ・・・」というのは動詞の10型と呼ばれるもので、「請う、求める」とか「・・と見なす」という意味のものが多いです。例えば「イスタグファラ(赦しを請う)」「イスタ’アーナ(助けを請う)」などです。「ビ(~によって)」は前置詞です。「ビ=ッ=ラーヒ」で「アッラーに(ご加護を求める)」「ミナ==シャイターニ=ッ=ラジーム(呪われたシャイターンから)」は「ミン」「ア=ッ=シャイターン」「ア=ッ=ラジーム」の3語から成っています。「ミン」は「~から」という意味の前置詞「シャイターン」とは「シャタナ」=「バ’アダ」<(アッラーの真理から)遠ざかった>からの派生語です。「ア=ッ=ラジーム(呪われた)」は「マルジューム(石を投げられたもの)」いう意味です。シャイターン(悪魔)はあらゆる手段を使って人々をアッラーから遠ざけようとします。しかし、シャイターンは実際のところ、力はなく、出来ることは「囁く」だけです。悪事の行為者はその「囁き」に惑わされた者たち自身です。そして行為の責任を問われるのも行為者です。(アスタグフィルッラー)(かれらは)悪魔のように人に向かって、「信仰を捨てなさい。」と言う。(その人が)一度不信心になると、かれは、「わたしはあなたと関わりはない。本当に万有の主アッラーが恐ろしいのである。」と言う。 (59:16)と(悪魔またはその悪魔の仲間に)唆されたとしても、その唆した本人でさえ、アッラーを恐れて、言ったことさえ撤回しようとし、関わりがあったことを否定しようとします。アッラーのご加護を求めて私たちムスリム(イスラームの信者)は「イスティ’アーザ(悪魔祓い)」を求めます。まず、聖クル’アーンを読誦するときは、ウドゥーと呼ばれる手や口、顔、足などの浄めを行い、強制ではありませんが、アッラーに敬意を示すと言う意味で、ヒジャーブ(被り物)します。そしてこのアーヤに従って、「ア’ウーズ ビ=ッ=ラーヒ ミナ=ッ=シャイターニ=ッ=ラジーム(忌まわしいシャイターンに対してアッラーのご加護を私は求めます)」と唱えます。それからいつもこの日記を始めるときに使っている言葉(「バスマラ」と言います)を言います。「ビ=スミ=ッラーヒ=ッ=ラフマーニ=ッ=ラヒーム(慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において)」礼拝の時にも「ドゥ’アゥ=ル=イスティファタ(フ)」という始める時のドゥ’アー(アッラーへの嘆願)の後に「イスティ’アーザ(悪魔祓いの句)」と「バスマラ(アッラーの御名において)」で始めます。ハディース(言行録)にはこうあります。或る男が預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)に「何とぞ助言を与えて下さい」と言うと、「腹を立てぬこと」と答えられました。再度求めると「腹を立てぬこと」とまた答えられました。(アル=ブハーリー)心を平安に保つ秘訣は「怒らないこと」です。「アッサラーム アライクム」というムスリム同士が会ったときに交わす言葉には、相手の心が常に「平安」でありますようにという気持ちが込められています。しかし、人間は弱いもの。怒りに駆られることもあるでしょう。そういったときにもこの「イスティ’アーザ」を言い、怒りを静めるようにします。「○○さんには内緒よ」で始まる「秘密の相談」と言うものも「悪魔の囁く声や示唆」によるものです。しかし、そういった相談を2人でしていれば、3人めにアッラーがいます。3人でしていれば、4人めはアッラーです。4人でしていれば、5人めはアッラーです。「3人で秘密の相談をしてもかれは4人目に常におり、5人の時もかれらの6人目に常におられる。それより少くてもまた多くても、かれらが何処にいようとも、かれはかれらと共におられる。」(58:7)「秘密の相談は、悪魔による(示唆)だけで、信仰する者たちを悲嘆させるためのもの。だがアッラーの御許しがない限り、少しもかれらを害することは出来ない。それで信者たちに、アッラーを信じさせなさい。 」(58:10)悪夢を見た時も、「へんな夢見た~!!こうこうで・・・」とは言わずに自分の左肩辺りに向かって唾を3度ほど吐きこの「イスティ’アーザ」を言います。「もし、悪魔の扇動が、あなたを唆かしたならば(どんな場合でも)アッラーの御加護を祈れ。本当にかれは全聴にして全知であられる。」(41:36) 「ハスブナ=ッ=ラーフ ワ ニ’ウマ=ル=ワキール(わたしたちには、アッラーがいれば万全である。かれは最も優れた管理者であられる。)」(3:173)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月08日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第76章は「スーラト=ル=ッ=ダフル(運命章)」または「スーラト=ル=インサーン(人間章)」と呼ばています。「ハル アター ’アラ=ル=インサーニ ヒーヌン ミナ=ッ=ダフリ ラム ヤクン シャイアン マズクーラー(人間には、なにものとも呼べない、長い時期があったではないか。 )」という第1節目の中にある「インサーン」「ダフル」という言葉からそう呼ばれています。この章には信仰者たちへの報奨としての天国の様子が描かれています。銀や金の杯を使って飲むこと、お酒を飲むこと、また男性は絹の服を着ることが、イスラームでは禁忌とされていますが、こういった禁忌は、天国でそれを享受する悦びを増すためかとも思われます。純良な飲み物はアッラー自ら、天国の住民にいただけるとも解釈できる描写です。・・・井筒俊彦氏の訳では「主お手ずからいと浄らかな飲み物を注いでくださる」とあります。(凄いなあ。ワ=ッ=ラーヒ=ル=’アジーズ)そのためにはこの世界(ドンヤー)ですることとは「ワ=ズクリ=スマ ラッビカ ブクラタゥー ワ アスィーラー(朝な夕な、あなたの主の御名を唱念しなさい。)」「ワ」は「そして」「(イ)ズクリ」は「ザラカ(思い出す、想起する、心に留める)」の命令形です。前に「ワ」という語が来ていますので、最初の「イ」は発音されません。「(イ)スマ」は「イスム(名前)」の対格です。「イ」は前に言葉が来ると発音されないので、「スマ」になります。「ス」が子音なので、前にある動詞の命令形「イズクル」の最後の「ル」は本来子音なのですが、その後に「(イ)スマ」のように子音が来る場合は「イ」という発音記号の「カスラ」をつけ、「(イ)ズクリ」となります。「ラッビクム(あなたがたの主の)」は「ラッビ」は「ラッブ(主)」の属格で前の「(イ)スマ」を修飾しています。「クム」は2人称複数代名詞で、「ラッビ」にくっついた形になります。「ワ=ズクリ=スマ ラッビクム」で「そして、あなたがたの主の名前を(声にだして)想起しなさい。・・つまり唱念しなさい。」「ブクラタン」は「バカラ(朝早く起きる・・つまりファジュル(暁の礼拝)のために起きる)」から「ブクラ(トゥン)朝の早い時間」の対格です。そこから転じて「明日」と言う意味にもなり、口語では「明日」として日常的に使われています。「アスィーラー」は「アスイール(日没前の遅い午後。。つまり’アスル(夕刻の礼拝)のころ」の対格です。「ブクラタゥー ワ アスィーラー(朝な夕な)」と聖クル’アーンのタジュウィードという読み方のルールによると「ブクラタン」の後ろに「ワ」という音が来るとその音の影響を受けて最後の音が「ン」と明瞭には発音されずに「ゥー」という音に変わります。イドガーム(函に入れる・・同化)と言います。またこの句は文法的にはaccusative enndingという用法の中の「時間の副詞的用法(って日本語でいいのかどうか・・・日本語でどう言うのかわかなくて・・・すみません。)」なので、「ブクラタン」「アスィーラン」と最後の母音が「アン」になります。「アスィーラン」の「アン」はタジュイードによると節の最後で、ここで区切って読む場合は、「アー」と長母音で読みます。マッド=ル=’イワド(取り替え長音)と言われます。聖クル’アーンを読誦するのはどんな時期でもいいですし、ジクル(アッラーのことを思い出して唱える・・・たとえば「アスタグフィル=ッ=ラーハ=ル=’アジーム」からはじめ「ラー イラーハ イッラ=ッ=ラー」を何度も唱えるなど)を唱えるのもいつでもいいですが、この「ブクラ」と「アスィール」は2交替制の天使たちが、一同に揃う時間なので、「聖クル’アーン」の読誦やジクルを聞く天使の数が他の時間帯より多い(簡単に計算すると2倍ですね)と言われます。サウジ(私のパートナー)は「引継ぎに忙しくて聞いていないんじゃないの?」と言いますが。(アスタグフィルッラー)アッラーフ アアラムすべての私たちの行動が「アッラーのため」という「意図(ニーヤ)」を持ち「ビ=スミ=ッラー(アッラーの御名において)」という言葉ではじめると「掃除をする」「子供の世話をする」「食事を作る」こと全てが崇拝行為「’イバーダ」となり、「ジクル(アッラーを想起する)」の機会になります。逆に「アッラーへの想起」を忘れ、その目的を意識せずに、ただただ漫然と日常生活をこなしていくとそれは「シャイターン(悪魔)と共にしていること」となり、せっかくの報奨の機会を逸してしまいかねません。「慈悲深き御方の訓戒に目を瞑る者には、われはシャイターンをふり当てる。それは、かれにとり離れ難い友となろう。」(43:36) 「誰でも、わが訓戒に背を向ける者は、生活が窮屈になり、また審判の日には盲目で甦らされるであろう。」(20:124)アスタグフィル=ッ=ラーハ=ル=’アジーム(偉大なるアッラーに私は許しを請います) アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月06日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第45章です。前回は「ハー・ミーム」で始まる章でしたが、今回も「ハー・ミーム」で始まる群の第6番目の章です。いつ下された章かは、はっきりとはわかりませんが、前の章第44章「スーラト=ッ=ドハーン(煙霧章)」のすぐ後だと考えられています。前章と内容が類似していて、まるでひとつの章のようだとも言われています。アッラーフ アアラム第45章は第28節「ワ タラー クッラ ウンマティン ジャーシヤ(ティン)(そしてあなたは各集団が跪くのをみるだろう)」から「ジャーシヤ」がその章名となりました。「スーラト=ル=ジャーシヤ(跪く時章)」の第3節です。インナ フィ=ッ=サマワーティ ワ=ル=アルディ ラ=アーヤーティン リ=ル=ム・ミニーン(ナ)(本当に天と地には、信者たちにとり種々の印がある。)この文は「名詞文」です。動詞がありません。「動詞文」は例えば前回のフッスィラ章第34節やその前の婦人章第28節のように動詞で始まります。「インナ」は「本当に」いう意味です。「インナ」の後に来る「名詞文」の主語(ムブタダ)はマンスーブ(対格・・普通はマフトーフと言って「ア」という母音が最後に来ます。) です。ここでも倒置法という技法を使って、その主語をすぐに紹介しないのです。「フィー」は「~の中に」「ア=ッ=サマワーティ」は「サマー’(空)」の複数形「サマワート」に定冠詞の「アル」がついたもの。「アル」の後ろに来る文字が「スィーン(S)」という「太陽文字」なので、「アル」とは読まず、「ア」の後ろは「S」の子音がきます。そしてその後に「S]と母音の「ア」が一緒になった「サ」を発音します。前置詞「フィー」の後なので、属格になり、「ティ」と最後の母音が「イ」になっています。「ワ」は「と、そして」英語の「and」に相当します。「アル=アルディ」は「アルドゥ(大地)」に定冠詞「アル」がついたもの。月文字で始まりますので定冠詞は「アル」と発音されます。「フィ=ッ=サマワーティ ワ=ル=アルディ(天と地とには)」これは、聖クル’アーンに出てくる頻度がとても高い用語なので、覚えておきましょう。そしてやっとここで名詞文の主語が出てきます。「ラ=アーヤティン」です。「ラ」は「強調(タウキード)」です。「インナ」で「本当に」と強調して「ラ」でまたも強調しています。ダブル強調です。「アーヤティン」は「アーヤ(徴、節、アッラーの徴)」の複数「アーヤートゥン」の対格・属格です。「アーヤ」は女性形で、その複数形の対格、属格は同形で語尾の母音は「イン」となります。「リ=ル=ム・ミニーナ」の「リ」は「~のために、~へ」「アル=ハムド リ=ッ=ラー」良き事(辛い事もです!)があったときアッラーに感謝します。その時ムスリムが使う「定番ドゥアー」です。「(全ての)賞讃はアッラーのためです」という意味ですが、これと同じ「リ」が使われています。「リ」は前置詞なので、うしろに来る語は属格です。「アル=ム・ミニーナ」は男性単数形「ム・ミン(信仰者)」の複数形「ム・ミヌーナ」の対格・属格に定冠詞「アル」がついたものです。ここで節が終わりますから読誦のときここでストップできます。そういう場合は「ム・ミニーン」と最後の「N」を子音にして読みます。このような読み方はスンナ行為(預言者さま<サッララーフ アライヒ サッラム>がそうなさっていたというなので、倣うことが推奨されています。)です。桜が満開で本当にきれいです。空が晴れて雲がうすくかかって光に満ちています。今日は、沖合いにある人工島がくっきり見えます。吹く風が咲き始めた花の馨を含んでやや甘酸っぱく頬を撫でていきます。午前中、仕事をしていると、木々の間から「ほーほけきょ」と鶯の鳴く声が規則正しく聞こえてきました。その合い間には雀の鳴く声もしました。庭には雑草ではありますが申し合わせたかのように一斉に生えはじめました。全てこれは「アッラー」の存在を示す「徴(アーヤ)」なのです。聖クル’アーンも「アッラー」の存在を示すもので、その一節一節が「徴(アーヤ)」です。「旅行する」ことも「ジハード(奮闘努力)」のひとつと言われます。いろいろな所へ行き、さまざまな自然や生き物に出会うことが推奨されています。そのひとつひとつが創造主アッラーの存在を示す「アーヤ」であり、その出会いの感動によって、アッラーの偉大さを感じ、アッラーを想起することに繋がるからでしょう。ヤー ラッバ=ル=’アーラミーン(世界の主よ)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月05日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は第41章です。第3節にある「キターブン フッスィラトゥ(解明された聖典)」という言葉から章名がこう呼ばれています。またこの章は「ハー・ミーム」と神秘文字から始まります。この神秘文字で始まる章は全部で7章あり、この章はその2番目と考えられています。第37節に「ワ=スジュドゥ リ=ッ=ラー(アッラーにサジダしなさい)」(サジダとは跪礼のことです)から「ハー・ミーム=ッ=サジダ章」とも呼ばれています。「ハー・ミーム」にはさまざまな解釈が試みられてきました。しかし、結局その意味はアッラーのみがご存知です。さて今日のアーヤ(節)です。イドファ’ウ ビ=ッ=ラティー ヒヤ アフサン(<人が悪をしかけても>一層善行で悪を追い払え。)「イドファ’ウ」は「ダファ’ア(押し返す、取り除く)の命令形です。「ビ」は前置詞で「~で」「アッラティー」は関係代名詞で、係る言葉は女性形の単数です。関係代名詞は男性形単数なら「アッラディー」男性形双数なら「アッラザーニ(主格)アッラザイニ(対格、属格)」男性形複数なら「アッラディーナ」女性形双数なら「アッラターニ(主格)アッラタイニ(対格、属格)」女性形複数なら「アッラー・イー」と係る性・数・格によって変わります。「ビ=ッラティ」で「(これ以下のこと)で~」と訳せばいいでしょうか。「ヒヤ」は「それは、彼女は」と女性単数の代名詞です。ではこの女性形単数に係る関係代名詞、そして女性形単数の代名詞の指す「それ」とは・・・と引っ張って引っ張ってその正体が最後にきています。「アハサン(更なる善)」は「ハサン(善)」の比較級・最上級です。これはアーヤ(節)の途中なので、ここで区切れば「アハサン」と読み、続けるときは「アハサナ」と読みます。聖クル’アーンを読誦するときは「ここで止まれ」「ここで止まったほうがいい」「ここで止まってもいいけどできれば続けて」「ここで止まってはいけません」というマークがあります。道路標識みたいですね。何もマークがないときは止まらずに続けますが、息が切れそうになったら止まります。そういう場合は「アハサン」と一旦読んで、そして少し戻って次は止まらずに「アハサナ」と読み、そのまま続けます。前の節からこの節全体の日本語訳をご紹介します。「人びとをアッラーの許に呼び、善行をなし、「本当にわたしは、ムスリムです。」と言う者程美しい言葉を語る者があろうか。 善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。」 このアーヤーターン(節)は「本当のムスリムとはどういう者か」が端的に示されています。「インナニー ミナ=ル=ムスリミーン(本当に私はムスリム<の中の一員>です。)」「子供は全てフィトナ(本来の姿)を持って生まれて来ないものはいない。」とハディース(言行録)にあります。みんな「アッラーの祝福を受け、アッラーの慈悲によって、アッラーに仕える者(つまりムスリム)として生まれてきます。」ただ「その両親がユダヤ教徒にしたり、キリスト教徒にしたりする」とハディースでは続けて書かれています。そういった境遇に生まれてもアッラーのヒダイヤ(導き)がある者はムスリムとして還ってきます。「アッラーは、御望みの者を迷うに任せ、また御望みの者を正しい道につかせられる。 」(6:39)「ムスリムでよかったなあ。有難いなあ。」と日々思います。「満月通信」のトップにある「あなたがたは、必ず一層から他層に登るであろう。 」(84:19)には「今日はいいムスリムであっても明日はわからない。(気をつけよう。)今日は過ちを犯すムスリムであっても明日は敬虔なムスリムになるかもしれない。(だから他のムスリムを見下してはいけない。)あの人は今はムスリムじゃないけど、明日には私たちより更にアッラーからの強いお導きがあるムスリムになっているかもしれない。(自分がムスリムだからとアッラーからのお導きがあるからなどと傲慢になってはいけない。)」とアッラーが「私たちの心」をも簡単に変えてしまえる御方であることを心にいつも留めておこうと思ってサイトの副表題にしました。「心(カリブ)」とは「移ろいやすいもの」という意味もあるそうです。「ラッバナー アフリグ ’アライナー サブラゥー ワ タワッファナー ムスリミーン(主よ、わたしたちに忍耐を与え、ムスリムとして死なせて下さい。)」(7:126)「ラッビ タワッファニー ムスリマゥー ワ アルヒクニー ビ=ッ=サーリヒーン(<わが主よ>わたしをムスリムとして死なせ、正義の徒の中に加えて下さい。)」(12:101)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月04日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第4章は女性に関する啓示が多いことから「婦人章(スーラト=ン=ニサーィ)」と呼ばれます。この章も全部で176節とやはり長いのですが、こういった長いスーラ(章)は一度に啓示されるのではなく、幾節かかたまって何回かに渡って啓示がされます。一部はヒジュラ暦(預言者さま<サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム>がマッカからマディーナに聖遷なさってから何年めかいう数え方をします。)の3年目の後半に、一部は4年目の後半に、一部は5年目のはじめに啓示されたそうです。1節目から28節目辺りは、オホドの戦いの後ぐらいに啓示されたと考えられています。この戦役は戦死者が74名にも及び、それによって生じた財産相続や寡婦の結婚また孤児の保護といった現実的かつ当面の問題に関する啓示がされました。この内容は、現在のムスリム(イスラーム信者)の日常生活をも律しています。第28節目はこうです。ワ フリカ=ル=インサーヌ ダ’イーファン(また人間は<生まれつき>弱いものに創られている)「ワ」は「そして、また」「フリカ」は「ハラカ(創造した)」の受身形「創造された」です。「アル=インサーヌ」は「人間は」と最後が「ヌ」と「ダンマ(母音が「ウ」となるマルフー’ア・・・つまり主格)」なので、主語です。「人間は作られた」どういう状態にかというと「ダイ’ーファン(弱い状態に)」(こういった状態様態を表す文法用語を「ハール」と言います。「アン」という形で終わります。)です。ここのところ「時間どおりの礼拝」「親孝行」「奮闘努力」「アッラーのみを崇める」と「大切」ですが、きちんとするのは結構難しいなあと思われることを挙げてきました。「ムスリムって大変だなあ。」と思われたかもしれませんが、お創りになったアッラーご自身が「人間とは本来弱いもの」だと仰せになっています。アッラーはそうやって何度も挫けそうに過ちを犯しそうになる人間には「あなたがたの(負担)を軽くするように望まれる(4:28)」し、また犯してしまって、後悔している人間には「あなたに対し悔悟を赦そうと望まれる(4:27)」また辛い事があって、それに耐え忍んでいる者には「本当にアッラーは耐え忍ぶ者と共にいらっしゃる(2:153)」ドゥアー(アッラーへの嘆願)をする者には「われ(アッラー)は本当に(嘆願する者の)近くにいる。かれ(嘆願する者)がわれ(アッラー)に祈る時われは答える(2:186)」絶望している者には「それでもアッラーの慈悲に対して絶望してはならない。アッラーは、本当に凡ての罪を赦される。かれは寛容にして慈悲深くあられる。 (39:53)」アッラーはいつも「あなたがたが何処にいようとも、かれはあなたがたと共にあられる。(57:4)」と言われるようにとても近くにいます。「われは(人間の)頚動脈よりも人間に近いのである。(50:16)」アッラーを頼りアッラーを信じアッラーを畏れアッラーに感謝する者にはアッラーは誰よりも心強い味方であり、アッラーを拒みアッラーに隠れて悪事をし、それを悔い改めない者にはアッラーは誰よりも厳しく恐ろしい敵になるのでしょうね。アスタグフィル=ッラーハ=ル=アジームハディース(言行録)によりますと、「イフサーン(心を尽くすこと)」について尋ねた天使ジブリール(カブリエル)にアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は「それは、アッラーに、あたかも見えるかの如くお仕えすることです。あなたが彼(アッラー)を見たことがなかったとしても、彼(アッラー)はあなたを見ていらっしゃるからです。」アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月03日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム第2章牝牛章という聖クル’アーンの中で一番長い章で、全部で286節ありますが、その中でも特によく唱えられるアーヤト=ル=クルシー(玉座節)と呼ばれる節があります。ハディース(預言者さま<サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム>の言行録)の中でも一番有名な学者アル=ブハーリーの中にこうあります。アブー・フライラの伝承アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)がわたしにラマダーンのザカート(喜捨)の保管をお任せになっていたとき、ある男が来て、その一部を取ろうとしたので、私はその者を捉えて「お前をアッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)の前に突き出してやる」と言うと、その者は「夜寝る前に『玉座』の節を唱えなさい。そうすればアッラーの許から天使が来て絶えずあなたを護り、朝になるまでシャイターンは近づかないだろう。」と言いました。これを伝え聞いた預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は「それはシャイターン(悪魔)だ。彼は大嘘つきだが、お前に言ったことは本当だ」と言われました。その「玉座節」のスタートはこれです。アッラーフ ラー イラーハ イッラー フ(ワ) (アッラー、彼以外に神はいらっしゃいません。)「ラー」は強い完全なる否定です。未完了形の動詞の否定、名詞形の否定に使います。「イラーハ」は「神」です。ここでは「崇めるもの」と拡大解釈してもいいと思います。それが人によっては「お金」であったり「恋愛」であったり、「子供(の教育)」だったり、「学歴」などのブランドや「世間体」だったりと、「自分が至上とするもの」のことです。「ラー イラーハ」で「神はいない」という全てのものを否定しています。「イッラー」はすべてを完全に否定して、何ものもなくなったところで「例外」を出してきます。「~以外は」と言う意味です。その例外となるのは・・・(番組ならここでコマーシャルといったところです。)その例外とは「フワ(彼)」です。「彼って?」ここで文の最初を思い出します。そう、「アッラー(フ)」で始まっていました。心憎いばかりの演出です。「大切な御方」をお迎えするにあたり、「自分の中にあるさまざまもの」を外に出し、きれいにします。何もなくなりすっきりしました。「ああ~済んだ。片付いた。すっきりした。どっこいしょ。」何か忘れていますよ。そうです。自分自身もそこから出なければいけません。「自己愛(ナルシズム)」は大きく場所を占めるいらないものです。イブン・アラビー(アンダルシアの神秘主義詩人)の素敵な詩を紹介します。「惚れて」狂おしいほど惚れぬいた男があったそうな。男はある日、惚れた御方の家に行き、扉を叩いたんじゃと。その方は中からこう言われた。「どなた?」男は答えた。「私ですよ。」すると、その方はおっしゃったそうじゃ。「この家は狭くて、二人でいることなんてとても無理」男は砂漠に出向き、うんとこさ考えた。一年して男は惚れた御方の家に戻り、また扉を叩いたそうじゃ。その方がお聞きになったと。「どなた?」そこで男はこう言った。「あなたですよ。」すると、扉は開いたとさ。(「イスラムの言葉」ナセル・ケミール編・いとうせいこう訳)アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月02日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム今日は巡礼章(スーラト=ル=ハッジ)の第78節からです。巡礼とはムスリム(イスラームの信者)に定められた五つの崇拝行為のひとつです。現在はイスラーム暦(ヒジュラ)の第2番目の月サファルですが、2ヶ月前のヒジュラ暦12月10日に2大祭のひとつである’イード=ル=アドハー(犠牲祭)というのがありました。その頃、サウジアラビア王国のマッカ(メッカ)には世界中から大勢の信者が集まって、巡礼の行為を敢行していました。第78節のはじめに以下の言葉があります。ワ ジャーヒドゥー フィ=ッ=ラーヒ ハッカ ジハーデイヒ(またアッラーの(道の)ために、限りを尽くして奮闘努力しなさい)「ワ」は「そして、または」「ジャヒードゥー」は「ジャーハダ(奮闘努力する)」の命令形の複数形「アッラーの道のために(フィー サビーリ=ッ=ラー(ヒ))」は「サビール(道)」が入った形が定番です。そして前置詞の「フィー」もしくは「’アラー」とのセットになっています。「ハッカ(真実、本当、)」「ジハーディヒ(彼の奮闘努力の)」が修飾して「ハッカ ジハーディヒ(彼の奮闘努力の真実・・本気)」から「限りを尽くして」と訳されるのでしょう。アッラーフ アアラム「時間どおりの礼拝」「親孝行」の次に大切なのが「ジハード(奮闘努力)」とハディースでは言われています。くどいようですか「任意の礼拝」「喜捨」「断食」より優ると言われています。「ジハード」と聞くと戦闘的な攻撃的なイメージを浮かべてしまう傾向がありますよね。「イスラーム」そのものをネガティブな印象にしたい○○○系のメディアのやり方が功を奏したのか、定着してしまった感があるのは、否めません。「ジハード」はイブン・カイイム氏の説では4つのカテゴリーに分類できるそうです。ます、ジハード=ン=ナフス(自分自身に対する奮闘努力)真の導きとは何かを学び、それを知りえたら、それに従い、ほかの信者にも呼びかけます。他の者に、アッラーの道へ誘い呼びかけることの困難さや厳しさに耐えることを言います。そして次は、ジハード=ッ=シャヤティーン(悪を囁く悪魔やその類から自己を守る努力)悪魔がその類のものが自分に吹き込む堕落や信仰心が揺らぐような欲望や疑わしいことへの誘惑、囁きに対して自分を守る努力をすることです。3つめはジハード=ル=クッファール(不信仰者に対する奮闘努力)です。そして4つめはジハード=ル=ムナフィキーン(偽信仰者に対する奮闘努力)です。この二つは心と舌を使い、自分自身の財産や生命を捧げ、奮闘することです。ジハード=ル=クッファールは主として自分の体を使って奮闘します。それは自分の生命や信仰また自分のウンマ(イスラーム共同体)が不信仰者の迫害によって危機に陥ったとき、自衛手段として行われるものであり、テロとは異なります。ジハード=ル=ムナフィキーンは主として言葉を使って奮闘します。特に、自分自身が信仰心を確固としたものにしていなければ、ジハードという行為が成り立たないのは自明の理です。常に自己に対しての奮闘努力を怠らないように、アッラーの助けを求めましょう。タカッバラッラーフ ミンナー ワ ミンクムアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2004年04月01日
全22件 (22件中 1-22件目)
1


