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プチャーチンの艦隊を派遣する案が実行に移されていれば、開国を促すロシア艦隊がペリー艦隊より十年早く、日本に来航していたことになります。辛い、この案は日の目を見ません。ウロンチエンコ蔵相が極東政策を推進すると財政負担が重くなると反対したのです。チエルメイシュフ陸相は冒険的過ぎると艦隊の極東派遣に消極的でした。ネッセルローデ首相兼外相も、対トルコ政策に熱心で、極東政策は二の次でした。しかし、皇帝ニコライは、極東方面への関心を捨てませんでした。一六五二年(嘉永五年)に入って間もなく、シベリア総督ムラヴィヨフは、アメリカ合衆国が年内に強力な艦隊を日本に派遣するというニュースを聞いて、それをロシア政府に伝えました。
2025年03月31日
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ロシア政府は、レザーノフ派遣でなんらの成果も得られなかったため、日本への関心が急速に冷えてしまい、日本間題には不干渉、無関心の基本姿勢をとっていました。ロシア政府が三度対日交渉意欲を高めたのは、一八四○年代に入ってからです。レザーノフ派遣から、ほぼ四十年の歳月がすぎていました。ロシア海軍の逸材プチャーチン提督は、早くから、清国と日本との外交関係改善が急務であることを、皇帝ニコライ壷や政府閣僚に進言していました。プチャーチン提督の進言を容れて、自責の主宰する特別委員会は、領土問題と通商関係を速やかに解決するため、日本と清国にプチャーチンの艦隊を派遣することを決議します。一六四三年(天保十四年)のことでした。
2025年03月28日
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当時のロシア領アメリカ会社は、カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカを支配した半独立国家でした。ロシア領アメリカ会社独自の判断で行動していました。この会社は、毛皮の採取、販売が主な事業です。しかし、その販路や生活物資の調達は、ほとんどアメリカやイギリスの船舶に依存していました。彼らはロシアの船舶で日本と交易し、毛皮の販売と生活物資の調達ができることを強く望んでいました。その証拠には、紛争が解決した一八一三年(文化十年)以降、一八三六年、一八四三年、一八四五年に、日本人漂流民を択捉島に届けて、交易の可能性を打診してきました。しかし、ペテルブルグのロシア政府とロシア領アメリカ会社の間には、ほとんど連絡はとれていませんでした
2025年03月27日
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文化八年には、ロシア軍艦ディアナ号艦長のゴロウニン少佐以下七名が、国後島で松前藩の役人に逮捕され、ゴロウニンは箱館に連行され、拘禁されました。文化九年には、ゴロウニンの部下のディアナ号副艦長リコルドが、日本商船観世丸の船主高田屋嘉兵衛と水夫四名を捕らえ、カムチャッカへ連行する事件がおきました。しかし、嘉兵衛が沈着に応対したため、リコルドとの間に自然に信頼関係が生まれました。リコルドもまた分別があり、品格のある海軍士官だったので嘉兵衛の友情に近い信頼関係が日露関係を次第に和解の方向に導いていきました。ようやく文化十年に和解が成り、ゴロウニンも嘉兵衛も釈放されて、それぞれ母国に帰りました。レザーノフの怒りに端を発して、北方海域で日露間に紛争がおきましたが、これは、すべてローカルな争いでした。ロシアと日本の争いではなく、ロシア領アメリカ会社と日本との紛争でした。
2025年03月26日
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当時択捉島には、幕府が松前藩と話し合って箱館奉行所の出張所を置き、松前藩、津軽藩、南部藩の警備兵百五十名を配していました。しかし、侵入してきたロシア海兵は人数も多く、海からの艦砲射撃も加わったため、激戦の末、ロシア側の勝利となりました。奉行所の二人の指揮官は、敗戦の責任をとり、自害しました。また、このロシア軍艦二隻は、礼文島沖と利尻島沖で日本商船四隻を襲撃、二隻の積荷や武器を奪い、他の二隻に焼打ちをかけるという暴挙に出ました。幕府側も、度重なるロシア軍艦の襲撃に備え、樺太島南部、択捉島、国後島などの防備を固め、北辺警備に本腰を入れます。また間宮林蔵、松田伝十郎に樺太探検を命じ、間宮林蔵は間宮海峡を発見するなど北辺警備を強化したこともあって、文化八年(一八一一年)から文化九年(一八一二年)にかけての、北方海域における日露間の紛争は頂点に達しました。
2025年03月25日
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レザーノフの話を再三にわたって聞かされていた若い海軍士官のフヴォストフ大尉は、次第に日本人に対して敵意をいだくようになりました。彼は、一八〇六年(文化三年)秋、フリゲート艦ユノナ号で突如樺太島(現サハリン)南部の大泊にあった日本人集落を襲い、住民を殺傷し、家や船を焼き払う乱暴を働いきました。この事件は、翌文化四年に幕府の知るところとなり、フヴオストフの署名による樺太占領の宣言文の鋼板が発見されました。その宣言文にはロシア皇帝アレクサンドル一世の名が記されていたところから、公文書か私文書かをめぐって、幕府内で大問題になりました。しかし、直ぐには確認する術もありません。フヴォストフとダヴィドフ両海軍士官が率いるユノナ、アヴイオス両艦は、今度は択(エトロフ)島を襲ってきました。文化四年五月ことです。
2025年03月24日
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長崎からカムチャッカへの帰航時のレザーノフは、将来に対し全く希望を失っていました。「特使閣下、それでも少し希望があります。それは、長崎の下級役人の中に、なんとか両国の国交成立を望む声がかなりあったことです。また、長崎に来ていた大坂や京都の商人も、内心では交易を望んでいる様子でした。しきりに幕府の頑固な拒絶姿勢に不満を述べておりました」艦長は、レザーノフを励ましながら、交渉再開に一繹の望みをかけていました。しかし、その程度の慰めでレザーノフの怒りはおさまりませんでした。レザーノフは、カムチャッカへの帰航後も、さかんに日本側の応接ぶりの非礼さを周囲の者にぶちまけています。
2025年03月21日
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幕府は、目付の遠山金四郎景晋(かげみち)を長崎に派遣し、長崎奉行所でレザーノフと会見させました。レザーノフが長崎港外に到着してから、実に六カ月後のことです。幕府の姿勢は強硬でレザーノフの長崎市中遊覧も、出島のオランダ商館訪問もついに許可を与えません。レザーノフは失意のまま、三月二十日早朝長崎を出航しました。日本側は二カ月分の食糧として、塩二千俵と米百俵を、また士官への贈物として真綿二十把をレザーノフに送りました。レザーノフも、滞在中ロシア側の世話をした通詞たちに、鏡一面、ラシャ一反、硝子ランプ一台、燭台一対、大理石小卓一対など、珍しいヨーロッパ調のプレゼントをして、謝意を表しました。カムチャッカへの帰航の途次、レザーノフは、クルーゼンシュテルン艦長相手に、しきりに日本に対する批判していました。「われわれはなんら新しきものを得なかったのみならず、従来保持してきたものも失った。将来永久にロシアと日本の交際は断たれたように思う」
2025年03月19日
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粘り強いのがロシア人の身上です。レザーノフは、ロシア皇帝アレクサンドル一世の将軍宛親書の受領と交易のための開港を幕府に要求し続けました。頑固な鎖国論者の成瀬も、ついにレザーノフの熱心な要求に根負けし、長崎奉行所の勘定奉行中川忠英を江戸表に派遣することにしました。中川は十一月二日、江戸城で老中首座戸田采女正氏教にレザーノフ来訪の件を報告しました。戸田氏教は、形式的にレザーノフ長崎来航の件を老中評議にかけました。結果は、ラクスマン来訪時と同じで、漂流民は引き取るが交易には応じない方針を貫くことでした。ロシア皇帝の将軍宛の親書も、皇帝からの贈物も受領しないことに決定したのです。
2025年03月18日
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ロシアの第二回遣日使節レザーノフはナジュージダ号に乗って、一八〇四年(文化元年)に長崎港外に到着しました。レザーノフは、日本人漂流民津太夫一行を護送してきましたし、ラクスマンが取得した長崎入港許可証を持参していました。当然日本側から歓迎されると期待していました。しかし、運悪く当時の長崎奉行成瀬因幡守正定は名うての鎖国論者で、ナジュージダ号の港内入港を認めません。レザーノフは、ロシアの首都ペテルブルグ駐在のオランダ公使からドゥーフ長崎オランダ商館長宛の紹介状や幕府の信牌を武器に粘り強く交渉し、ようやく港内入港が認められました。九月六日に長崎港外に到着してから、二十日後の九月二十五日のことです。それも、湾口の寒村木鉢郷に、船の周囲に竹の矢来をめぐらした所に停泊させられました。昼間に限って乗組員は上陸を許可されましたが、運動のための周囲の散歩程度にすぎません。レザーノフ自身も、長崎の町への訪問はできませんでした。
2025年03月17日
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大黒屋光太夫は、ロシア滞在中にロシア語が堪能になり、日本文化をロシアに紹介する役割を演じました。当時のロシアではかなり有名な日本人で、エカテリナ二世女帝に謁見を許されたこともあったほどです。遣日使節として来日したラクスマン船長の父、ラクスマン教授は光太夫の才能を高く評価していました。帰国してからの光太夫は、幕府の要路に対して、地図や書物、あるいは什器、衣服等を使って、ロシアの文化、風俗を紹介することに努めました。幕府も、光太夫の才能を認めて、外国事情の解明に活用しました。
2025年03月14日
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ロシアの対日交易交渉の歴史は、新興国アメリカよりかなり古いものです。アメリカ建国から十六年ほど経った一七九二年(寛政四年)に、第一回の遣日使節ラクスマンを乗せたエカテリナ号は北海道根室港に入港しました。ラクスマンは、エカテリナ二世女帝の勅命を受けて、伊勢漂流民の大黒屋光太夫一行(三名)を護送しながら、日本と友好的に交易関係を結ぶ目的で来日しました。当時の幕府老中首座松平越中守定信は、目付石川将監、同村上大学を宣諭使として松前藩に派遣し、ロシア側と一年一カ月に及ぶ長い交渉を行いました。幕府側のガードは固く、漂流民は有難く受け取りましたが、交易の許可は与えません。ラクスマンは、長崎入港許可証の信牌と乗組員用の大量の食料品を土産にもらっただけで根室港をさりました。
2025年03月13日
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勤勉と倹約の精神に、理論的な根拠を与え、分かりやすく町人たちに説いたのが石田梅岩(1685~1744)です。梅岩は、丹波(京都府と兵庫県の一部)の山村に生まれ、人間の理想の生き方を求めて、さまざまに読書を重ね、ついに赤ん坊のような自然で無心な状態こそ人間の「本心」であると考えるようになります。梅岩は、自然の中の鳥やけものがそれぞれの仕方で生活をいとなんでいるように、人間にも「本心」のままに行動して、なお社会がいとなまれていくような自然な生き方=「形」があるはずだと考えました。その「形」とは、みずからの勤労によって生活をいとなみ、この世の財貨を無駄に消費しないという倹約の精神です。梅岩はこの考え方を、単に町人だけではなく、武士にも共通する道徳だと説き、梅岩の教えは心学とよばれ、多くの後継者に恵まれて人々の間に広まりました。
2025年03月12日
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日本人は勤勉だとされていますが、人々が勤勉をよいことだと考えるようになるのは、江戸時代になってからです。江戸時代は、戦国時代のように、耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、戦いに巻き込まれて命を失ったりするおそれはなくなりました。まじめに働けば成果が約束され、一生の間、働いてたくわえたものを子孫に伝えることができるという見通しがたちます。そして子孫も、家の仕事を引きついだりして、財産を残してくれた先祖に感謝することが自然に行われるようになります。先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが、人間としての安心立命につながるのです。江戸初期の国土の大開発は、こうした勤勉さによってなされました。しかし、元禄時代にみられた派手な生活により、商人などの中からは、没落していく人々も多数出て、勤勉に加えて倹約の大切さも実感されるようになりました。
2025年03月11日
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吉宗は、禁止していた洋書も一部解禁したので、西洋を学ぶ『蘭学』が流行しました。オランダの医者のシーボルトは、『鳴滝塾』を開いて、多くの蘭学者を育てました。杉田玄白や前野良沢らは、オランダの人体解剖書を基に、『解体新書』を発刊ました。そのおかげで、医学が大きく進歩しました。それから吉宗は、「御三家とは言っても、縁遠くなってきましたので将軍家の血筋が絶えたら大変なことになる」と思い将軍家の血筋が絶えないように、御三家の他に『御三卿』を作り、将軍家に後継ぎがいなかった場合、御三家か御三卿から将軍を出せる事にしました。田安家・一橋家・清水家の御三卿です。御三家みたいに藩ではなく、幕府の直接管理にしたのです。
2025年03月10日
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八代目将軍になった吉宗(1684年~1751年)は、新井白石を退けて、自分で政治を行うようになりました。その頃の幕府の財政は大赤字ですがなかなかの善政を行いました。この赤字をなんとかしようと吉宗は、新田の開発を積極的に行いました。そして『上米』と言って、各大名から一万石毎に百石の割合で、米を徴収しました。当然、反発はありましたが、代わりに、参勤交代の江戸在住期間を短くする事で納得させました。吉宗が行ったこの幕政の改革を享保の改革といいます。有能な人材を多く登用し、財政の再建や都市政策、法整備に文教政策と幅広く改革に着手しました。他にも、『足し高の制』っていって、有能な人材確保に努める制度も始めました。石高が不足して役職につけなかった優秀な人に、在任中だけ給料を上増しして支給したのです。南町奉行所『大岡越前』も『足し高の制』で、吉宗に採用された一人です。他にも、庶民の声を直接聞くための『目安箱』も設置し、庶民のための『町火消し』や『小石川養生所』が作られました。
2025年03月07日
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見盤は、江戸時代最も一般的な測量道具です。紅毛流の測量で使われる平板(見盤)は、定規、コンパスなどを用いて、相似の図形を描き、間接的に測量を行います。見盤上に目標物との相似三角形を作れるものです。この見盤は、木製で誰にでも作ることができ、横に使えば木の高さや山の高さを図ることもでき、また相似による計算も比較的簡単であることから、明治の初期まで測量に用いられました。江戸時代には、この方法で富士山の高さを図ったという記録もあります。
2025年03月06日
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江戸時代の測量に使用する製図道具は、流派や時代によって多少の変化がありますが、基本的には現地で記録する方位と距離を縮図にするための道具が用いられています。方位は、「分度矩(鎌形の分度器と定規の組み合わせたもの)」や「全円儀」「半円儀」「4分円儀」のような、角度を刻んだもの、縮図は、「コンパス」や「定規」で行いました。点線を引くための「星引」や「図引」のように、西洋的なペンタイプの筆記用具も、江戸時代では既に使われていました。
2025年03月05日
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量地図説は和算の関流長谷川門下である常陸笠間藩士甲斐駒蔵広永が著した測量術書です。本書が出版された当時は、ペリー来航直前で、既に多くの西洋測量器具が輸入されていました。これらの西洋測量器具は、工作も精密で数学的な理論も伴って作られていたため、和算家がその原理や使用方法を研究するようになり、量地図説のような測量術書が多く出版されました。本書は、従来の木製測量器具を使用した基本的な町見術を詳細に説明し、高度な西洋測量器具である八分儀(オクタント)などは、基本を学んだのちに使うように、その販売店の広告などを巻末に掲げていました。
2025年03月04日
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量程車は、地上測量の器具です。この道具を置いて曳いて歩くと、下についている車が回り、距離を表示する数字のついている歯車が回り、距離を表示できるようになっています。動輪と連動する歯車機構を使って、動輪円周の長さと歯車回転数から距離表示するもので、測量点間の距離を測定する道具です。伊能忠敬の時代には、いくつかのタイプの量程車(量程器)が作られており、距離を測定する道具として、わりあい利用されたもののようです。しかし、当時の道の状況や動輪の小ささを見れば、とても正確に距離が測れるとは考えられず、おそらくは測量を行なう状況を、周囲に認めさせるような効果を狙ったものでしょう。
2025年03月03日
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