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洪秀全は、一八四〇年から、民衆を啓発して新しい社会を築くための上帝会を組織していましたが、一八五〇年ヒ月、各地から上帝会員を結集させ、ただちに多くの農村で革命運動を展開しはじめました。上帝会の軍隊は一つの農村を占領すると、まず住民をあつめて、反乱の目的を説明し、住民の協力をもとめました。洪秀全は多くの麒村の民衆を組織して太平軍をつくり、広大な占領地に建設しつつあった新しい国を太平天国と名づけました。一八五三年はじめに太平軍は支那本土の中心にある漠口を占領しましたが、このとき太平軍は五〇万人に増加していました。しかし、太平軍があまりに急速に膨張したことと、太平天国の建国をいそぎすぎたため、新しい国をつくるさいの多くの困難を克服することができず、ついに欧米に支援された清朝の軍隊にやぶれさってしまいました。太平大国は高い理想をかかげ、一時は支那本土の半分を席巻したのですが、最後には弾圧されて、ほろんでしまったのです。
2025年10月31日
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一八四〇年から四二年にかけてのアヘン戦争で、支那はイギリスに惨敗し、ますます大壷のアヘンがはいるようになり、支那人を堕落させました。そのうえ、ぼう大な戦費とイギリスへの賠償金の負担が、まずしい農民にかかってきました。そこで農民は、洪秀全のよびかけに共鳴して、太平天国の乱をおこしました。洪秀全は、広東省の一小村に生まれ、はじめ官僚の試験に失敗し、失意のなかに重い病にかかり、その病床で不思議な夢をみました。神様があらわれて剣と印綬をさずけ、「悪魔を全滅せよ」と命じたのです。それから六年後の一八四三年に、洪秀全は『観世良言』というキリスト教の宣教書を読み、キリスト教思想と支那伝統の儒教思想を融合し、公正な社会の実現をめざし、農民のなかに「上帝会」を組織しました。そして、一八八○年に、上帝会の農民二万人が結集し、反乱をおこしました。いちじは揚子江流域を席巻し、五○万の大軍にまで膨張しましたが、あまりにはやく膨張したために、組織固めがじゅうぶんできず、上部組織にもみだれがおき、そこへ英仏軍の援助をうけた政府の奴撃がかかり、一八六〇年に壊滅してしまいました。
2025年10月30日
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太平天国のたたかいをリードした洪秀全は、長年儒教を勉強していましたが、キリスト教に接してのち、エホバの神の前にすべての人が平等でなければならないととなえだしました。「人はみな兄弟であり、田をともにたがやし、ともに食べ、平等ですべての人が満足する」理想社会の実現をさえぎっているのは、人民をくらませる偶像、絶大な権力をもつ皇帝、そして一般人の私心であり、その根底(悪の根源)は清帝国の体制にあるものと、洪秀全は考えました。そして、この人民を搾取する清帝国の打倒に、敢然と立ちあがったのです。
2025年10月29日
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一八五〇年代におきた支那の太平天国のたたかいと、インドのセポイの乱、ならびに一八六八年の日本の明治維新の三つは、アジア近代史をきりひらいた三大民族解放闘争だといわれています。明治維新についてはあとでのべますが、太平天国とセポイの乱は、アジアを見くびっていた西欧の侵略者をおどろかせ、アジア人が(とくに支那人とインド人)近代西欧の侵略に対抗して決然と立ちあがった決意をしめすものであり、これよりアジア解放闘争が開始されたのです。
2025年10月28日
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南京条約によって、支那はイギリスに香港を割譲させられ、賠償金を支払い、また、広州・上海・厦門など五つの港を外国貿易、ならびに外国人居住のために開放することをみとめさせられました。そしてそれは、開港場でイギリス人がひきおこした事件については、支那人に裁判権がないという、支那の主権を無視したものでした。アヘン戦争によって西欧の支那にたいする明白な侵略がはじまったのです。これは支那史にとっても、アジアの歴史にとっても、一つの重大な転機となりました。南京条約から二年後の一八四四年に、支那はアメリカやフランスとも同様な条約をむすぶように強制され、支那の主権はいちじるしく侵害されることになりました。
2025年10月27日
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皇帝の命を受けた清の大臣、林則徐(りんそくじょ)は、イギリス人貿易商から手持ちのアヘン約1300トン(2万3000箱)を没収し、大きな穴を掘って、海水と石灰石を混ぜてそこにアヘンを投入し、化学処理をして廃棄しました。すると、イギリスの軍艦は、「自由貿易」を口実に清国沿岸に発砲し、1840年、アヘン戦争が始まります。イギリスは貿易保護という名のもとに艦隊を派遣し戦争は2年余りも続き、圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して、一八四二年、しかたなくイギリスと南京条約を締結しました。イギリスは香港島を占領し、中国大陸へ進出する足がかりを得ました。
2025年10月24日
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一八世紀後期から一九世紀前期にかけて、インドはイギリスの餌食となったわけですが、イギリスがそのつぎにねらったのは、支那です。一八二〇年に、マンチェスター商業会議所がイギリス下院に、つぎのような請願をしています(マンチェスターはイギリス綿工業の中心都市)。「支那はたいへん富裕で、人口の多いこの国はマンチェスター地区の綿工業にとって重要な市場となることでしょう。」すでに一入世紀末から、イギリスは支那に人体を害するアへンを輸出して、金もうけをはじめていました。その理由は、支那から大量の茶を買うための資金にすることでした。アヘンをつくるケシという植物はインドのギリス州(当時すでにイギリスの植民地となっていた)で栽培され、その実(アヘン)は支那に売られて、支那人のからだを害し、そしてぼう大な金がイギリス(ベンガル総督府)の手にはいっていました。一八二七年には、アヘンによる利益がベンガル総督府の総収入の一二パーセントとなっていました。
2025年10月23日
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さて、イギリスの産業革命が一段落した一九世紀の一八三八年に、イギリスのインド総督は「木綿織布工たちの骨はインドの平野を白くしている」と記しています。世界一の伝統をほこっていたインドの木綿工業は徹底的な打撃をうけ、多数の木綿織布工が失業して、餓死したのです。それはいうまでもなく、産業革命を経たイギリスから、安い綿製品が大量にインドへながれこんだからです。もちろん、インド伝統の手工業はイギリスの機械工業にかなわなかったのですが、インド木綿工業の衰退は、単なる経済競争の結果としてあらわれたものではなく、イギリスがインドの木綿工業をつぶすために、いろいろな経済的な手段をこうじたからです。イギリスは大量のインドの綿を安く輸入し、大量の綿製品をインドにおしつけて、インドの経済社会をひどく破壊しました。産業革命の直前の一七六〇年に、イギリスがインドから輸入した綿は一〇〇万ポンドだったが、一八〇〇年に五六〇〇万ポンド(二万トンあまり)に増加し、さらに一八四〇年には一兆二〇〇〇万ポンド(四億トン)にまで急増しています。
2025年10月22日
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それでもイギリスはたやすくインドを征服することはできませんでした。デカン高原南部のマイソール王国は、一貫してイギリスの侵略に根づよく抵抗して、イギリス軍の進撃をはばみました。一七六九年には、武将ハイダル=アリーのひきいる軍隊が、イギリスのインド東南部の根拠地マドラスにせまり、イギリス軍をあわてさせました。一七八〇年には、アリーの軍隊がイギリス軍を大敗させています。また、一七八三年に、アリーの息子のティプーがまたもイギリス軍をうちやぶり、一七八四年にイギリスはマイソール王国と条約をむすび、イギリスはマドラスできわめて不利な立場におかれました。しかし、イギリスはその後狭滑な手段をもちいて、マイソールを孤立させました。イギリスはまず、マイソールの北部にあるニザム政権と同盟し、つぎに西部にあるマラータ族ともむすび、三方からマイソールを攻略しました。そして一七九九年に、ようやくのことで強敵マイソールを征服することができたのです。
2025年10月21日
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産業革命以前の西欧はアジアから、コショウやシルクや茶などを買い、産業郡部ののちには、工業原料を買って加工し、その工業製品を売りつけるようになりました。さらにイギリスでは、急速に工場労働者がふえ、農業に従事する人がへりましたので、海外から食糧を輸入することになりました。こうして、アジアは工業原料と食糧を供給し、工業製品を販売する市場とみなされるようになりました。そしてそのためのてっとりはやい方法は、アジアを自分たちの植民地にすることです。アジアの植民地として、イギリスがまずねらったのはインドでした。イギリスは、一七世紀はじめからインド進出をくわだてましたが、ムガル帝国が強大であったために、かろうじて三つの小さな根拠地を得ただけでした。ところが、一七三八年にイランの征服王がインド(ムガル帝国)のデリーにせめこみ、ムガルに致命的な打撃をあたえたのちは、情勢がかわってきました。ムガルはいちじるしくおとろえ、インドの各地にいくつかの独立政権(地方政権)が登場してきて、インドはばらばらの状態になったのです。
2025年10月20日
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ロビンソン・クルーソーを書いた鋭い観察者ダニエル・デフォーは、その作品『ヨーク州の西区』の中で次のように書いています。……このように自然の恵みは他の点では恐ろしい国に豊かにめぐみ、実業と国民の安楽のために欠くべからざる二つのものがここには存在し、しかも私は、これに匹敵するところをイングランドのどこにもみたことがない。こんなに誹えむきにできている所は世界のどこにも見当らないように思う。私が言っているのは石炭と最も高い山々の頂きから流れる水のことで、これは神の貿明な御手によって導かれ、今日それが仕えている目的に奉仕させられているように思われる。その目的とはマニュファクチュアのことで、これはもしそうでなかったらやってゆくことはできないだろうし、住民の五分の一はマニュファクチュアがなかったら養えなかったろう。なぜなら土地では彼らを扶養できないからである
2025年10月17日
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だいたい一五四〇年から一六五〇年にいたる期間は、歴史には都合のよい呼び名がありません。従来反対ルネサンスと呼ばれてきましたが、この名はその前の段階に対する反動の程度を、実際そうだったよりずっと大きく見せがちです。この期間に合まれるのは、反対宗教改革〔新教に対抗する旧教側の改革〕およびその視覚的表現だったバロック様式、フランス(一五六〇―九八年)、オランダ・ベルギー地方(一五七二-一六〇九年)、ドイツ(一六一八-四八年)と相次いで荒れ狂った宗教戦争、一五七六年のオランダ連邦共和国(States General of Holland)と一六四九年のイングランド共和国(Commonwealth of England)の樹立です。これらの事件のうち最後の二つが、結局は最大の意義をもつことになりました。この両者は、世界の商業とマニュファクチュアの大半が集中した二つの国でブルジョア階級が政治的に勝利を収めたことを示しています。
2025年10月16日
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産業革命の第一の鍵は、蒸気機関の発明にあります。一七八一年に、ワットはピストンの直線運動を回転運動になおすことのできる、画期的な蒸気機関を発明しましたが、これは万能原動機とよばれています。万能と名づけたのは、すべての機械をうごかすことができるという意味です。とくに注目されるのは、このような蒸気機関のおかげで、一九世紀のはじめに汽車と汽船があらわれてきたことです。歴史のなかにおける産業革命の意義をのべてみますと、第一は「道具↓機槻」への進歩です。機械が道具にとってかわったのです。「手工業→機械工業」というふうにあらわすこともできます。第二は、天然のエネルギーにかわって、蒸気エネルギー(人工のエネルギー)を使用したことです。それ以前の人力・牛馬の力・風力・水力などは、天候に左右されやすく、また時間的にも限界がありました。しかし、この新しい人工エネルギーは、気候や時間にしばられることなく、いつでもどこでも自由につかえしかも、はるかに能率のよいエネルギーでした。
2025年10月15日
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産業革命の最大の特徴は、機械が大はばにつかわれるようになったことです。機械化を推進したのは、蒸気機関の発明でした。ジェームズ=ワットは、水が沸とうしているとき、やかんのふたがうごくのを見て蒸気力を知り、蒸気機関を発明したとのべられています。しかし、じつは蒸気機関はワットが生まれる前から発明され、使用されていたのです。産業のすすんだイギリスでは、一七世紀ごろから、石炭と鉄の採掘量がふえていたのですが、こまったことに、採掘のときにいつも大量の地下水がでてきて、作業を阻害します。それで地下水をくみあげねばならないのですが、そのために、一七一二年からイギリスではそまつな蒸気気機関が使用されていたのです。それはニューコメンの大気圧機関とよばれていました。ワットはこのそまつな大気圧機関を改良してすぐれた蒸気機関にしあげたのです。
2025年10月14日
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イギリスでは、一七世紀末に市民革命が成功し、新興商工業者(ブルジョア)を中心とする勢力が政権をにぎったので、それ以後商工業が順調にはやく発展するようになりました。なぜならば、以前は国土が商工業老にたかい課税をしていましたが、革命以後は、新興商工業者が自分たちの都合のよい法律を制定できたからです。産業界は活気にあふれ、それがまた技術のいっそうの進歩を刺激し、一八世紀後期の産業革命をひきおこしたのです。
2025年10月10日
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一六世紀に薪炭の値段が上るにつれて、ますます多くの石炭が利用されるようになり、その生産は急速に増大しました。一五六四年から一六三四年までの七〇年間に、ニューカッスルからの石炭の年間積出量は一四倍になり五〇万トンに近づきました。これに対応し、石炭をますます深い所から掘り、したがってまた炭坑の排水を容易にすることに、ますます多くの技術上の努力が注がれました。その結果、主に西欧の金属鉱山から採り入れた装置――改良されたポンプと、鉱山から荷車を走らせる木製の軌道が使われるようになりました。実際、石炭は、従来文明に対しまだ伐られていない森林を求めてますます奥地へ進むことを強いた繰り返えし起こる燃料危機を解決することができたのです。その時以来、産業と文明の中心は、炭田地帯へ向かって移動し、少なくともその後四〇〇年間そこに釘づけされることになりました。イギリスに産業の支配権をもたらした要因は、何よりも先ずこのことでした。
2025年10月09日
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鉄の精錬のため森林を伐ったことは、一六世紀にオランダとイングランドを襲った急性の木材危機の多くの理由のうちの一つにすぎません。商業の一般的繁栄は、木材の需要――船・家屋・薪炭・製塩・石鹸製造・麦芽製造・家庭燃料――を高め、その土地の森林容量をはるかに越していました。少しは輸入することもできたが、救いはすぐ手もとの炭坑にころがっていました。石炭はローマ時代以来ノーザンプリアとスコットランドの露天炭層から掘り出されており、すでにロンドンでは海炭(sea coal)として、また大陸でも中世から売買されていました。それはかなりきたない燃料でしたが、市民たちはその使用を禁止するあらゆる法律にもかかわらず燃料用に使うようになりました。
2025年10月08日
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鉄が高価なことからあらゆる技術に加えられていた制約は急速に取り除かれました。しかし多量の鉄を精錬するに必要な木炭の不足という新しい隘路が現われました。サセックスのウィールドのような古くから知られた産鉄地域は木炭の不足から支配権を失い、中心は木材の供給の豊かなスウェーデンとロシアに移りました。実際、鉄は商業と戦争を通じてこれらの国を世界経済にひきいれた要因でした。鋳鉄〔銑鉄〕は先ず武器に使われ、特に青銅の鐘作り技術を大砲に応用できるようになって以来大砲に使われました。イングランドは良い大砲の名声をはやくから獲得し、それは純粋に商売の原則にのっとって売買されました。カトリックヘの信仰の最も厚かったスペイン王の大帆船(galleons)の大砲も不信心者のアルジェ州知事の大帆船(galleons)の大砲も、ともにサセックスで鋳造されたものです。
2025年10月06日
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鉄は三〇〇〇年にわたって小さな塊鉄炉で木炭とともに低温還元して粘り気のある塊鉄にする方法でつくられてきました。中世を通じこういう炉がしだいに大きくつくられるようになり、その送風がフイゴで行なわれ、最後にはフイゴを水力で動かすようになりました。たまたま温度が十分高くなって鉄が熔け、打ち展ばすことができる「ブルーム」〔塊鉄。鉱滓を含んだ海綿状の軟鉄の塊〕が手におえぬ「熊」〔bear銑鉄の塊〕にかわりました。ついで、一四世紀ラインランドではじめて、鉄を炉の前面の床の凹所へ流し出すという考えが生まれました。この凹所はまもなく「豚」鉄〔pig iron なまこ形の銑鉄〕をいれる「雌豚」〔sow 大鋳型〕になりました。この豚銑は最初は精錬が困難で、改良はのろかった。しかし、このやり方が広く知られてゆくにつれて、塊鉄炉は新しい熔鉱炉に取って代わられ、一六世紀の末には、鉄は百ポンド単位(hundredweiht)で打ち展ばされる代わりにトン単位で炉から流し出されるようになりはじめました。
2025年10月03日
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ずっと後にもっと重要意義義を生じた変化が、比較的目立たない物資とくに鉄の生産方法に、ほとんどそれと気づかれずに起こっていました。一四世紀以来、西欧で成熟しつつあった鉄冶金の変革がはじめて決定的な効果を生じはじめたのはこの時期のことです。鋳鉄は支那では西暦前第一世紀以来知られていましたが、西欧でそれが現われたのはだいぶ遅れていたのです。その生産は、単なる仕事の規模の増大によって決定的な変化がもたらされることを典型的に示しています
2025年10月02日
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宇七年戦争とは、主にプロイセンとオーストリアの対立を中心に、イギリスとフランスの植民地争いが絡んだ1756年から1763年まで続いた大規模な国際的な紛争です。プロイセン王国とイギリスが同盟を組み、フランス、オーストリア、ロシア、スペインなどの連合国と対立する形で展開されました。プロイセンが占領したシュレージエンを巡る対立が引き金となりました。オーストリアのマリア・テレジアは、シュレージエンを奪還するためにフランスやロシアと同盟を結び、プロイセンに対抗しました。一方、イギリスは植民地でのフランスとの対立からプロイセン側に立ちました。特にイギリスとフランスが北アメリカやインドの植民地支配をめぐって激しく対立した戦争でもあります。経済的な利権、航路の確保、交易の独占などを巡る争いが、戦争を国際化させた大きな要因となりました。
2025年10月01日
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