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このころ、伊藤に宛てた山県の書簡の全体がその心情を伝えています。福島事件に大弾圧を命じたかれの毅然たる姿勢には、それこそ「国家の命脈に関する一大事」のため一歩たりとも退かぬという決意がよみとれる。伊藤博文もまた、ベルリンの空から、西欧列強がいかにすみやかに軍国主義に変わりつつあるかをのべて、同じコースを歩みはじめた祖国の盟友山県中将に声援を送っている。福島事件は、政府側のこうした筋書きに多分にはめられる可能性をもって爆発したのです。
2025年12月24日
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馬場らにかわって自由新聞の主幹になった古沢敢(この男は数年後に井上薫の秘書官になる)が、改進党への敵意を煽りはじめました。ここまでくれば自由・改進両党の提携という最悪事態は避けられる。あとは陸海軍の大拡張をし、「外患」にむかって突進するのみだ。そのために絶対必要な増税のじゃまをする府県会や政党には、「一刀両断の措置」をとれ。日本陸軍の生みの親として、近代的軍事制度の導入と樹立の成否に明治国家の運命をかけてきた山県有朋としては、そう固く信じていました。
2025年12月23日
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伊藤の渡欧の留守政府をあずかる山県のもとには、全国四十一府県会からぞくぞく郡長公選を要求する建議がだされ、改進党が「天下の豪商豪農を団結し、以て政府に迫らんとする」形勢を示していることに、眉をひそめていました。それに、なんたる演説会の盛況!全国どこかの町や村で、烏の鳴かない日はあっても、政府弾劾の演説の聞かれない日はない。この年七月、京城に朝鮮軍民の叛乱がおこり、日本の公使館が焼き打ちされたうえ、清国軍の軍備が着々と充実され、「内憂外患併せ到るの日」が近づいていることを怖れるのだ。それゆえ、せめて「内憂」なりとも片づけておかねばならぬ。板垣を一日も早く海外につれだし、自由党に内証をおこさせ、さらに自由・改進両党の競争心を煽らなくてはならぬ。さいわい馬場・大石・末広らは自由党を脱党した。板垣も十一月十一日、ようやく出帆しました。そして、その洋行費の出所をめぐって、期待どおり改進党系の新聞が論評をくわえはじめました。
2025年12月22日
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政府は自由・改進両党に対して御用党の擁立を発し、その結果同年三月には、福地政一郎・丸山作楽・水野真次郎らが帝政党を結成しました。その背後には熊本の紫溟会、土佐の谷干城・佐々木高行らもいました。これは純然たる御用党で、なかでも福地が「東京日日新聞」によってさかんに政府支持の筆をふるい、主権在君、二院制論、欽定憲法論を主張したのは、政府の方針を代弁するものにほかなりません。諸政党の勃興はまことにめざましかった。この年の四月、板垣は東海地方に遊説して、六日岐阜の演説会場で反対派の刺客から襲撃されました。この時板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと伝えられているが、この時が板垣の声望の絶頂であり、同時にまた自由党の最盛期であったといえます。
2025年12月19日
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この自由党に対して一八八二(明治一五)年三月には、先に下野した大隈重信を総理として、その与党の河野敏鎌・矢野文堆.小野梓らと、自由党系と相いれなかった沼問守竺・藤田茂吉・犬養毅.尾崎行堆・島田三郎らが加わって改進党を組属しました。自由党は愛国社以来の民権運動の伝統に立っていたから、地方の地主層にひろい地盤をもち、植木や中江兆民らによって代表されるような急進的自由主義を標榜した。改進党はイギリス流の議会主義をとり、都市のブルジョアジーないしインテリ、地方では県会議点という、急進主義に不満な層を地盤としたから、この両党はおのずから急進と改進(漸進)を代表する在野の二大政党となりました。
2025年12月18日
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国会期成同盟の運動は、やがて政党組織へとすすみます。その機運は一八八〇(明治三)年末にきざし、植木枝盛らの急進派の強い主張によってともかく自由党の名称が内定して盟約四力粂を議定した。やがて翌年一○月に、いよいよ政府が国会開設を声明すると、国会開設期成の目的は一応貫徹したので、政党組織を急いで、同じ一〇月の一七・一八日に大会を開いて一潟千里に「自由党盟約」三章と同規則を議定した。板垣退助を総理に推し、後藤象二郎・中島信行・馬場辰猪・竹内網・根本枝盛・中江兆民・内藤魯らの立志社の主力がここに集った。その盟約第一章に「吾党ハ自由テ拡充シ権利チ保全シ幸福テ増進シ社会ノ改良チ図ルヘシ」とあるごとく、その主張や発見の顔ぶれからいって、愛国社以来の民権運動の正系であった。この自由党の結成は、各地の民権連動に活気を与えて、諸政党勃興の機運をもたらしました。九州の民権派は自由党に参加せず、別に九州改進党を結成した。これは自由党の別動隊であった。また大阪にも同系統の立懇政党ができました。「内外政党事情」などによると、このほか各地に自由党を名乗るものが数多く結成されました。
2025年12月17日
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板垣は元気で東京にかえり、伊藤・山県・井上馨らが用意していた板垣を西欧につれだし、かの地で伊藤や西園寺や森有礼らがよってたかってかれを軟化させよう、という政府の極秘の計画にまんまとはまり、政商三井から出たひもつきの金をもって洋行するといいだしました。党幹事の馬場辰猪・大石正巳らははげしく反対し、多くの党員もきびしくいさめ、一時は党議も否決しましたが、金の出所を知らない板垣は頑固にいいはりました。とうとう馬場がどなりだしました。「板垣君、キミはバカモノだ。井上や福岡(孝弟)の奸策にのり、わずかの金をもらって洋行するなどとは、実に自由党総理の位置におって恥かしくないのか」「板垣も存外果敢の気象に乏しく見える。馬場・大石ごときを制することができない」と、いらだちながら伊藤に手紙をかき送ったのは山県有朋でした。この参事院議長は、民権運動鎮圧に余念がなく、集会条例の改悪も、かれの院議をへておこなわれたのです。
2025年12月16日
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しかし、その自由民権運動も、政府の徹底的な弾圧にあって、一八八二年四月六日、板垣は岐阜の演説会で刺客に刺されました。このとき、後藤象二郎は手早く旅じたくをして自由党本部にあらわれ、「板垣すでに兇刃にかかるか、予はこれより岐阜におもむき、一大演説会を開き、死屍を台上に横たえ、もって板垣のために弔演説をなさん、しかして予もまた繁るべくんは共に繁れん」と叫んだ。しかし、板垣の傷は浅く、急報におどろいた政府が山県有朋を参内させ、天皇は板垣慰問の勅使を派遣した。「板垣死すとも自由は死せず」とのことばは、明治も終りごろになってこの形に定まったらしい。
2025年12月15日
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日清戦争にさきだつ明治二二年(一八八九年)に、明治政府が策定した帝国憲法が発布されましたが、これこそ帝国主義への道をはっきりさししめすものでした。この憲法では、天皇の大権として、法律の裁可・公布から、軍隊の統率の権限までが明記されています。そして政府は国民にたいして責任を負うものではなく、天皇を補佐して、天皇にたいして責任をおうものとなっています。「政体書」にえがかれた三権分立の理想は、はやくもきりすてられてしまったのです。しかし、民主主義をもとめる人民の力は、いちどに抑圧することはできませんでした。ましてや近代西欧の民主主義の思想がさかんにはいってきていたときです。「国民の選挙によってえらばれた議員による国会を、はやくひらけ」という自由民権運動が板垣退助らによってはじまると、その火は日本じゅうにひろがりました。
2025年12月12日
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諭吉は同年「日章の国旗をもって東洋の全面をおおうて、その旗風は遠く西洋諸国にまでもふきおよぼすがごときは、また愉快ならずや」と書いています。すなわち、アジアの旗手として西洋の全面的な侵略に異議をとなえていたわけです。「文明をアジアにおよぼす」ということがよくいわれたのです。この場合の文明とは、もちろん西欧文明のことで、当時の日本人の目が、いかに西欧にたいしてむけられていたかを、ものがたっています。やがて、明治二七~八年の日清戦争で、日本は支那と紛争を起こし、台湾を支那から独立させ、まもなく朝鮮にも支配権をおよばしました。それ以前から日本と支那は朝鮮の内政に干渉していたのですが、日清戦争でもって、日本のアジア政策が明白になってきました。
2025年12月11日
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はやくも明治一〇年代に、民主主義(当時は民権思想といわれていました)は弾圧され、議会をひらくことも延期されてしまいます。それと同時に、日本は朝鮮や支那などを積極的に開明しなければならないという思想が、力づよく台頭してきたのです。そのもっとも代表的な思想家が福沢諭吉です。明治一六年に、諭吉は「日本ははやくアジアの悪友たちからはなれて、西洋のような文明国になるほうがよい」という〝脱亜論〟をとなえ、多くの日本人の賛同を得ました。当時の日本の思想が、すこしずつそのような方向へかたむきつつあったからこそ、諭吉の意見が多くの支持を得たのでしょう。
2025年12月10日
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先ずは士農工商という四つの階級にわかれていた身分制度を廃止しました。この時代、よく「一君万民」とか「四民平等」ということばがつかわれました。ひとりの君、つまり天皇の下にすべての国民が平等だという意味です。江戸時代まで武士の支配に抑圧されてきた農民・職人・商人たちは、差別から解放され、職業の自由が保障されたのです。さらに、明治五年八月には学制が公布され、全国民がひとしく教育をうける権利が保障されました。
2025年12月09日
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徳川将軍は迷ったあげく、翌一八五四年にアメリカの要求を受け入れました。諸藩の愛国者たちは外国の要求に屈した日本政府の弱腰を許すべからざることとみなしました。激しい反対の動きがおこり、多くの不満分子は、希望を天皇につないだ。その後再三にわたって諸外国の海軍の圧力に屈した徳川幕府は、その信用をいっそう失墜しました。こうして一八六八年のクーデター一によって幕府は倒れ、天皇制への復古がはたされました。皮肉なことに、こうして天皇の名のもとに徳川幕府を転覆した人々は、いざ権力を握ったとたん、西欧の進出を食い止める唯一の方法は、その進んだ技術と政治の秘密を学ぶことだと考えたのです。少数の日本人はすでに、ペリー提督が一八五四年に日本を「開国」する前から、それに手をつけていました。そしていったん開国したあとは、ますます大勢の愛国的日本人たちが組織的に行動を開始し、西欧列強をこれほどまでに強力にした原因である技術と知識を習得しようとしたのです。西欧の侵入から国を守るために、彼らは計画的に革命をおこしました。
2025年12月08日
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支那が西欧の圧力に抵抗できなかったのを見ていた日本人は、これを教訓としまし。一六三九年以来厳しい鎖国政策を行ってきた日本ですが、いまや開国をせまる西欧の海軍強国の意志に逆らって、その政策を続けるのは不可能でした。西欧の装備の整った軍艦を阻むには、日本の沿岸防備はきわめて不充分です。日本人のなかでも少数の実際的な精神の持ち主は、アヘン戦争で支那がうけた屈辱からこのことを認識しました。だが大多数の日本人にとっては、外国人に対する嫌悪を一層つのらせました。事態が決定的となったのは一八五三年、ペリー提督の指揮下に四隻のアメリカ艦隊が日本の港に入港し、開港を迫ったときです。目的は交易と、サンフランシスコと上海のあいだを航行する船舶の燃料補給基地として日本を利用することでした。
2025年12月04日
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明治推新の重要性から考えると、西洋の学者がこれにあまり注意を払っていなかったのは驚くばかりです。最近、欧米の著者も日本の社会学者のあとを追って、維新の「原動力」やその重要性に関心を寄せるようになったが、それでも変革そのものや、これをもたらす力となった人々についての関心は比較的うすい。維新の原動力や重要性をさぐることは確かに重要な事柄であるが、しかしそれは正しくは諸事件の叙述のあとに来るべきものであり、それに先だつものではありません。明治政府が身分制度を廃止したことは、たしかに偉大な改革でした。しかし、それは「一君万民」ということばからでもわかるように、天皇崇拝によって保障されていたということです。そのため、いちど天皇に大権がうつると、たちまち専制政治へ転化してしまいます。天皇個人が独裁的というのではなく、天皇の周辺の人たちによって、専制政治へかわりやすかったのです。
2025年12月03日
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明治政府は出発において、民主主義の高い理想をかかげており、しかも法律によってあるていど保障されていたのです。だからこそ「明治維新」は偉大な変革だったのです。しかし、どんなに政治思想がすぐれていても、また民主主義の法律がつくられていても、指導者というものは、いちど権力をにぎってしまえば専制政治に転化してしまうことがあります。どこの国でもそうです。また、民主主義をとなえても、マルクス主義をとなえても、やはりそうなりやすいのです。それが現実の人間のすがたなのです。したがって、民主主義の政権といっても、つねに国民の批判にさらされなければならないのです。そのためには、国民もつねに努力し、高い政治的自覚をもち、政治を批判しなければならないのです。
2025年12月02日
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維新の時期にあれほど有用なスローガンとなった「復古」の思潮は、土佐にもすでに十分現われていました。鹿持雅澄(一七九一-一八五七年)などをはじめとして私塾の教師たちは、さきに本居宜長が唱道した教義にそって、庄屋や郷士の子弟を訓育したのです。この塾生たちが、のち一八六〇年代に武市瑞山の勤王党の党員になったとしても驚くにあたりません。なお、武市自身が鹿持の甥であり、弟子であったのです。
2025年12月01日
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