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「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの2(四十二) 古今東西硬軟聖俗を眺めれば、古史に残る偉大な先人は幾多挙げられますが、ここでは当初から「神の啓示」を受けた預言者を除きます。然し乍ら、其の彼や彼女達にしても神の啓示受けとる段階以前には、一種の修養と瞑想を行い、啓示を受けるに相応しい内精神が備わってなければ現代にまで信仰の対象とされるものとは成り得なかったでしょう。なかでも特筆すべき人物は旧約聖書の著述を記したとされるモーゼは、エジプト王女の養子であり王族として当時の最高学府で教養を身につけた人物であり、其の彼が啓示を受けるに相応しい内精神を高揚させていたことだけは察することは出来ます。但し、神の啓示に関してはオルレアンの少女の例を挙げるまでもなく、自ら思索し探究する「直覚知」とは異なり、自己の内精神を探究するのではなく「啓示」をもって与えられた神の言葉を人間には解せない言葉を理解する預言という経過をたどるので、自己の内精神を探求して理法の真相を直感するのとは意味合いが異なります。
2015年01月30日
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「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの1(四十一) 過去の直覚を得たとされる偉大な先達に倣った方法で訓練し修養する場合に、其れ等の先達が結論こそ違えども共通の思考方法ともいえる経過を辿っているようにも見えることに其れを受け入れる人間は注目すべきでしょう。言語では同じ「直覚」と云えども其の結論にあっては哲学的な思考によるもの或いは霊性を帯びた神秘学的なもの更には物理世界を極めようとした人間の論理的なものがありますが、思考方法は全く異なっているようにはみえても自己の内精神の深層に関心を向けた思考方法は共通します。其れ等は全て世界の成り立ちの根底を追求していることです。たとえ後世に信仰の対象とされる人間或いは大哲人及び神秘学の権威であれ其の根底にあるのは想像の根底を思考することです。但し、「直覚知」を獲得しようとする人間は其の何れの人間の結論を鵜呑みにするのではなく、其れ等の先人の思考経過を踏まえた上で自らの内精神へ思考方法と思索を探究するすべを手に入れなければ、世界理法の基底の存在である「有」は知り得ないでしょう。
2015年01月29日
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「思考と直覚」直覚と瞬間の永遠性(四十) 過去の先達に倣った思考方法と思索を共有するとはどの様な次第であろうか。それは、いにしえから現代に至る世界理法の基底がどの様にして成り立つのかを追求し、思考し、或いは「直覚」から共鳴並びに覚りを得たを残された資料から読み取り、今現在の自分ならば同様の問題をどう考察したらいいのかを自問自答することが必要とされます。自己が人間として生命を懐き先達に倣った思考方法と思索を共有することになります。其のための前提としては先達への尊敬からの偉大さに感心することもあるだろうし、或いは、時には異同を感じ疑問に思うこともることもあるでしょうが、其の事自体が偉大な先達の思考方法を踏んでいるのであって、其の習慣を身に付けていき、自己の内精神の深層に関心を向けた思考を詰めるならば、言語や言葉では表現することは不可能な感覚的で物質的な世界からは見えない隠されたもの、世界理法の基底に「有」る時間的要素である永劫不朽を超えた「瞬間の永遠性」を感じ取ることも不可能事とは言えないでしょう。
2015年01月29日
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「思考と直覚」直覚能力を訓練(三十九) 「直覚知」を獲得するには如何なる直覚する能力を訓練し修養したらよいのかは重要課題です。其処では先ず自分が自己の内精神に関心をもって沈潜することが必須のこととなります。人間が泳ぎや潜水することを身に付けるには、先ずは水に接触する環境を手に入れなければなりません。その上で水中に入り試行錯誤のうえに泳ぎ潜水することを覚えます。其のことを疎んじて、先に泳ぎうや潜水することを頭だけで学んでそれから水中に飛び込んでも恐らくは其の人間は溺れるだけでしょう。それと同様に「直覚知」を獲得するにも直覚する能力を訓練し修養する前に思考を弄んでも答えは出てきません。思考だけを弄んでも堂々巡りになることは必然です。重要な事は、史上の直覚を得たとされる結論だけに注目する以前に、過去の先達に倣った方法で訓練し修養するのが直覚する能力を得るには有効になります。
2015年01月28日
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「思考と直覚」直覚する素質(三十八) 直覚を志ざす人間にとって「直覚知」を獲得するには、其のことを前提とした適正な思考方法と思索は欠かせません。永劫不朽の世界理法の基底に「有」る存在を知るに至るには、過去の先達の偉人のどの様な思考を受け入れ、其の思考方法と思索を読み取ることは非常に重要です。其れを自己の経験と理性に照らして取捨選択して自分に合った道程を踏むことが必要とされる準備となります。即ち渡されたものだけではなく自分で自己なりに思考方法と思索をすることが必要とされます。自己が人間として生命を懐き青年期に達すれば、特筆される生前存在に恵まれた人間を除いて、誰でもが人類への恵みとしての一定水準の経験と理性を獲得している筈です。但し、其れは人間が素質として備わっているということだけであって、修養すれば誰もが「直覚知」を獲得すると言っているわけではありません。其処には直覚する能力への絶えざる思考と思索があって、更には自己の思考を超えた更なる高みへと昇らせる内精神の深層に眠る魂の惹起が必要とされます。
2015年01月27日
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「思考と直覚」直覚が期待すべき思索(三十七) 直覚を志ざす人間にとって「直覚知」の出番は遅速の違いはあっても信念を持って適正に修養を積めば、必ずしもすべてとまでは言えないにしても、深浅に違いは体験は可能となります。其のための前提としては、先ず我々現代に先んじて直覚を獲得した偉大な達人の思考経過と其の方法を学ぶことです。其々に直覚を獲得し人間の内精神にある世界の理法の末端に繋がる霊性を得た先達は、其々に置かれた歴史的社会条件や環境社会にあって、自ら思索し其の思考を探求して、ときには体制には危険思想だとされ断罪されてまで放棄しない確信をもって定義付けています。「直覚知」には表現に違いはあれども其々に結論的には自己のみならず人間一般の不安や苦悩を拭う偉大な、今風の常識世界と言われる現実世界に隠された深層世界にある絶対的な「有」を見い出す「チカラ」を秘めています。現代の風潮取り分けネット社会に代表される物欲主義で人生を歩む危険性を考察して自己の人生の本当の意義と永遠性を知ることが「直覚知」の出番なのです。
2015年01月25日
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「思考と直覚」直覚の効用(三十六) 社会的効用を前提とした科学哲学であれ倫理学であれ人類の社会的生き方其のものを定義し、其の基板を顕わにして真相を求めて開示する所存に変わりありません。但し、通常生活では人間は自己の生活に規制を設けられることを信仰は別にして嫌う傾向が見られます。「真理や社会の理」を持ちだされても、其れを受け入れられない人間がいることは承知の事実です。人間というものは事実をいくら見せられても内精神が納得できないものは頑なに受け入れられないとも言えます。其処に理屈を超えた「直覚知」の出番があります。信仰ではなく確信としての永朽の自己を人間は望みます。勿論のこと人間に永久などは望むべくして望めないのは誰もが承知しています。然し乍ら、例え宇宙がエントロピーによって滅ぼうと存在として再生を可能にする永遠無窮の存在、今現在する世界の存在を創生し破壊する能力持てども全てが自己存在として完結している「有」を解明しうる力を持たない哲学では人間の深層に眠る死への不安と誘いはぬぐえません。たとえ朧気ながらも「直覚知」が人間の眠った魂を目醒せ得るならば、医療分野で言われるところの「ブラシーボ(偽薬)効果」或いは「方便」にしろ人間の不安を解消させることは現代唯物的科学的理論や信仰の嫌悪症の人間にも平安を齎します。
2015年01月25日
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「思考と直覚」直覚の狙い(三十五) 直覚知が捉えんとする社会的効用を前提とした人生論では解決することが出来ない問題とは、人間の人生の終焉に到って初めて己が運命を呪ったり恐怖に怯えない術を提供するものだともいえます。其のこと故に社会的効用を前提とした人生論には己が人生の深層に潜む内精神の揺れを解決することを出来ないし、現代科学を基礎づけようと藻掻いてるようにしかみえない現状の科学哲学と呼称される唯物観では心障は解決出来得ないでしょう。何ゆえに現代科学万能主義が蔓延する世界にあっても、一方では信仰・預言・運命学等々が人間の思想に比重を占めるのかに説得力がないからだと言えます。本源的な哲学とは人間の内精神の追求と其の不朽の構成を我々人類に示すことにあったのではないか、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum)は単に我執に囚われているのではなく、人間の自我の深層に眠る魂の叫びでもあります。人間の内精神に眠る其の魂の不朽を「直覚知」が伝えます。
2015年01月23日
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「思考と直覚」直覚への期待(三十四) 多くの哲学的な思考が、人間が此の世に産まれて生を受けているのは、ただ一度きりのやり直しの効かない生命だと云います。しかし其のように考察すると、新旧聖書は噴飯物だと言わなければなりません。何故なら一度失った生命が、纏う形姿は異なれど「復活」し、今に生きて存在することを骨格に成り立っている教えであり。神学哲学も其のことを基本として肯定しているわけですから、ただ一度きりのやり直しの効かない人生とは所謂、現代風の唯物論を背景とした科学哲学なるものが言わしめるのでしょう。現代哲学は唯心論を嫌い社会科学に重きを置くことに偏重するきらいがあります。詰まるところ、哲学そのものを即物的な社会的効用を前提とした人生論と化しています。哲学を殊更人間の思考を社会適用に傾かせることは人間本来が持つ形而学的内本性を貶め、人生の本当の意義や意味を問い、「いのち」其のものに疑問を持つ人間に指針を与える事は出来ません。人間の思考の赴くところは本源的には生命とりわけ其の価値観と精神性を重要視することが重要です。其のこと故に「直覚への道標」である「死」の存在を顕らかにする必要があり、社会的効用を前提とした人生論では解決することが出来ない問題を「直覚知」が捉えんとする由縁です。
2015年01月22日
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「思考と直覚」直覚への道程(三十三) 人間其々の立ち位置に拠り、人生観・世界観・倫理観や宗教的観念は異なりますが求めるところは其れ等の基となる根本的な原理・真相を探究することには違いがありません。其れへの探求方法としての思考自体は学問・科学・芸術・宗教を問わず表層から深層へ真相を求めていくことには異なりはありません。人間に精神があり、思考を懐く限りは「自己」を存在せしめる理法、其のまた逆に「自己」を放棄せしめる理法に疑問を抱き世界理法そのものの「根本的な理」を成す存在へと関心が向くのは当然であり自然だといえましょう。但し、其の日その日を行き当りばったり、御都合主義で死を恐れるが故に「死」を考えまいとする人間には世界内存在を在らしめている「有」は見えてこないし、其の「死」が不安・恐怖・絶望しか観想できないでしょう。何故なら人間に「死」は必然的に遭遇するものであり、且つ又、平均余命が幾歳であれ毛嫌いしようにも受胎の時点から誕生を通じて自己を自己たらしめている人間の片時も離れない友人だからです。此の友人の存在を親友と観るか唾棄すべき存在と問うのが「直覚への道標」ともなり、其の人物の人格の形成にさえ影響を与え 胆勇怯懦として表層化しているのは史上の事柄を見るまでもなく其々個人の思考を探る程もなく解ります。
2015年01月22日
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「思考と直覚」直覚知に見る悪の認識(三十二) 世界の実在を睥睨して其の根本を探求するには、先ず思考を働かせて自己が認識するもの其の実在たらしめている「思考する精神」を在らしめるものを探求することから始まります。何故なら物質のみの存在及び自己存在さえ意識しない生物或いは自己を意識はしていても内精神を探究するすべを持たない動物と区別されるのは、人間を人間たらしめるのは「思考する精神」だからです。とはいえ、此の存在総てが世界の理法から看て望ましいのかは其の人間の「思考する精神」の立ち位置により異なります。特に世界内存在の「善悪」に関しては専ら人類にしか適用されません。地球上の自然観を形成する生命はもとより動物にも善悪などは入り込む余地はなく全てが法としての自然の成り行きに従っており「悪」の入り込む余地はありません。唯一つ「思考する精神」を持つ人類だけが悪を認識し創設する力を持つことを認識しなければなりません。世界自然は全てが均衡を基とします。人間だけが其の均衡を破壊する能力、言い換えれば悪魔的要素を「特権的要素」として内部に成長させてきたのです。従って「幸・不幸」も人類が獲得し得たものであり、其のことを認識すれば「思考する精神」の直覚知に見る認識の重要性が解ることに納得出来るでしょう。
2015年01月20日
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「思考と直覚」直覚知に見る思考方法論(三十一) 世界の実在の根本を探求するには幾通りかの方法が考えられるが、其れ等の基(もとい)となる思考は限られる。先ず以て考えられるのは其の人物が拠り所とする人生観です。人生の本当の意味を理解するには実際のところ、社会から切り離された環境ではシッダールタであろうとイエスであろうと、自己の人生の本当の意義を掴み得たかは疑問です。イエスの場合は社会的環境を通しての体験や観相を通して自己を絶対的権威の鏡面と成し得たから唯一の存在との共振が育まれともいえましょう。誕生の素因に神意ありとされる由縁です。釈尊にしても産まれながらに「天上天下唯我独尊」と唱えたのは後世の神格化から来るものであり、唯我独覚は社会環境においての境遇からの体験なしには生じなかった筈です。人間が其のように直覚を獲得するには思考の経過を追体験しなければ生じないのが直覚知に見る思考方法論だとも云えます。
2015年01月20日
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「思考と直覚」直覚知に見る世界観(三十) 自然科学の成果が自然観を形成するように、世界観も科学の発展に伴い其れを基とする考えは一般に受け入れられ説得力もあります。此の現代的な考えは哲学的な認識論と深く結び合い、科学的発展における客観的実在の追求には制限的で障害となるような限界はなく、人間は科学を発展させることによって完全なる客観的真理、世界の実在其のものの真相さえも極められるとするものです。此の立場に立つのが弁証法的な唯物論でしょう。然し乍ら、唯物論にも弱点とされるものも垣間見えます。それが物理科学の変遷にともなって現れた現在主張されている「無」から「存在」が生まれるという理論です。唯物論が現存在分析を基にする以上此処には矛盾が生じます。しかし、「無」から「存在」が生まれるということを認めるにしても「無」を「虚無」と置き換えることは甚だ常識に反します。其のことがかえって「直覚知」が捉えんとする「絶対存在」を浮上させるのです。
2015年01月18日
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「思考と直覚」直覚知への経路(二十九) 直覚知は何も宗教や哲学を探求する者の専売特許ではない。直覚とは信ぜよとか悟れとかを主張するものではない。何よりも人間自身の精神生活における経験や理性から導き出された思考からの発展系列にあるものです。自己の思考方法の探求から内精神の活動や其の霊性に照らしてみて理法の真相を獲得するには、理性や経験が主張するものであり、此れ以外に違った原理に基づいて絶対存在及び絶対意識や絶対意思である「有」には近づき難いと想われるから主張するのです。科学はもとより宗教や哲学の問題を根本へ根本へと探求し、世界一切の統一原理を掴まえようとすれば、現時の段階の人間の物理化学や生命科学等々が飛躍的発展をしない以上「直覚」に頼る以外には現状は致し方無いでしょう。人間が世界の統一原理の基(もとい)から発生した以上、自己の内精神の根本へ根本へと探求することに思考からの認識を超えた原理が観相出来得る方法が「直覚」であり結果が「直覚知」だと云えます。喩えれば、沙羅双樹の花の一輪が樹液の流れる枝から幹へそして根へと遡るようにも見えます。其処には時間線の縛りがない思考を超える「直覚知」が待ち構え絶対存在の意識への融合が期待されるのです。
2015年01月17日
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「思考と直覚」思考と世界観(二十八) 人間誰しもが自己の人生に対して同様の世界観を持つとは限らない。権力・地位・名声・権威・富の等の尽くを自己の人生に真っ只中で獲得した若しくは其の環境に産まれ育まれた人間は其れを手放す因を成す身体的な死のみならず精神、なかでも取り分け霊性を認識している場合は自我或いは精神の死を望まない。其の逆に、転生を信じ再生を望む傾向があるのは秦の始皇帝を持ち出すまでもなく明白です。片や、どうした因縁からかは知らず、隷従・貶め・侮蔑・極貧を望むべくして産まれた人物は恐らくは自らの人生からして身体的な死のみならず精神、取り分け霊性を認識している場合は、其の繰り返される霊性の不滅よりは、自我或いは精神はまだしも、転生が全くない死を望むのは当然です。シッダールタの仏教哲学が其の当時の印度に受け入れられたのは将来に光を見出し得ない階級に甘んじなければならない民衆の諦念と欲求の捌け口を支配層には向けないとした権威とされる統治者には受け容れやすい思想だからです。其れ故に、佛の前に平等を説く仏説が心指すところとは異なり、カースト制度として伝承されるヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ)に吸収され、印度世界での影響力を弱小化させる要因となりました。人間誰しもがユートピアを望んでいます。転生説にしても生涯の送り方によっては生まれ変わればユートピア的な人生が待ち構えているという希望が持てないほどの境遇にあれば解せなくもないことだとは言えましょう。
2015年01月16日
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「思考と直覚」合理主義と神秘主義(二十七) 20世紀を迎えんとする19世紀末には、人類の文明のうちの自然科学取り分け原子物理学の飛躍的な発展に伴い、旧来の形式的な概念を抱く論理学では捉え切れない現象が現れます。例えば光子が粒子としてとしてあり且つ波動として拡散している、光子其のものがエネルギーの集中と拡散の対立要素を持つということは旧来の論理学にはあり得ないことであり、其の統一を考慮した弁証法が現れます。人間の外感覚では捉え切れない超微粒子の領域ではもはや、全体と部分とか原因と結果とかは適合せず、時間的要素の系列さえも不確かなものとされるにいたり、近代的弁証論ばかりか、古史に看られるような因果法則を否定する思想までも蘇らせることになります。其のこと故に哲学は浮沈を繰り返し信仰に救いを求める人間を増加させる結果となり、合理主義と神秘主義の対立を今日まで引きずる結果となり解決が急がれます。
2015年01月14日
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「思考と直覚」思考と科学的認識(二十六) 現代においては科学の発展が外物質のみならず人間の生命及び精神をも科学が解明するとする認識に立場を置く傾向が見受けられます。それ故、人間の思考探求の根拠とさえいえる哲学にも科学哲学と呼称される分野が生じ、もはや思考による実在認識を介せずとも、科学が客観的実在を認識する力を持つことを確信し、人間の内在的な精神への思考は、其の根拠を解明することに向けられている観さえあります。此の立場に立つならば、人間の思考は科学が客観的に解明する根拠を探求することになり、云わば科学が信仰の域(Science faith)にまで高められたと言っても過言ではない現状です。ところが一方では認識論的思考にしても更には科学の発展にも限界があり、世界理法の根本的な真理は科学を超越しており人間の思考は内在的精神の真相を極めて科学に其の指向性を与えなければならないとする立場も浮上してきます。y.blogmura.com/img/originalimg/0000085330.jpg" width="138" height="201" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログへ" />
2015年01月14日
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「思考と直覚」思考と認識の限界(二十五) 思考能力の確立の境地ともいえそうな認識であるが、果たして其の課題に限界は無いのであろうか。そうだとすれば当然に人間の思考能力としての認識、取り分け科学的分析の基としての外物質全般を扱う科学及び生命及び精神並びに社会科学にも限界は無いと言えます。成る程、現在の時点ではおよそ全てを解明しているとは言えないけれど千年後万年後もしくは人類の超越的な進化の飛躍があれば限界を乗り越え「全知」を獲得できると考えることも可能かもしれません。此の立場に立つならば人間は「全能」を手に入れ生命其のものをも支配することが可能であり世界創造をも可能とする能力を獲得することになります。此の見解を認めるとすれば神秘的なものや非合理的なものは世界には存在せしめるものはなく、存在なさしめるものは人間其のものだとの結論に至りますが、片や人間の能力には限界があり人間を其のように認識思考することを傲慢だとの見解をとる者にとっては「神」が浮上することでしょう。
2015年01月12日
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「思考と直覚」思考と認識の三(二十四) 史的には初期の認識論は宗教や道徳から関心が呼び起こされ其の発祥の動機ともなっていました。但し、人間の傲慢ともいえる見えざるものは権威とされるもの以外は認証しないとする実見実証主義がここで障害として立ち塞がります。古くは宗教や道徳於ける「神の実在」や「最高善」を考察するに先立って認識論は、そもそも人間が神の実在や最高善を理論的に解決すべきなのか、且つ亦、其れを人間が理論的認識することは不可能事ではないのかが課題となっていました。それが時代の変遷にともなって、現在では宗教や道徳於ける「神の実在」や「最高善」を考察するよりは科学的実証や認識こそが認識論の中心に置かれて、人間の内精神に関しては傲慢ともいえる物質主義の影に埋もれているのが現状です。
2015年01月12日
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「思考と直覚」思考と認識の二(二十三) 歴史上認識論の権威と云われる人物が絶えず輩出しますが其の問への答えが様々であり、現在ではそもそもの認識論の定義にさえ疑問が提起され、認識論の根拠とされる「認識」とは何なのか、其の成立過程はどの様にして成り立つのか、更には或る認識がそもそも真理であるといえる根拠は何処にあるのか、其の「真理」と呼称されるものは如何ように定義され、更には人間を存在せしめる其の真理とは何処から来たのかも解明されることが求められています。認識論に於いては人間其々の思考観念によっても様々であり、思考能力の深浅によっても差が生まれ、認識能力の増強の便法さえ確立するには至っていないのが現状です。
2015年01月11日
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「思考と直覚」思考と認識の一(二十二) 人間が思考するには何かしらの知力があってこそである。其の知力の働く対象が思考に作用を及ぼすときに認識が生じます。其のことに不足を覚えた思考の側だけを考察する分折学(Analytics)的なノルム (norm) に代表される形式的な概念を「思考」に持ち込む形式論理学に対して、知力の働く対象が思考に作用を及ぼすときの認識作用と其の対象そのものの両面を考察することを基本とし、認識作用と其の対象の定則を究明します。しかし、人間の認識が物質的で感覚的な世界を離れたとも云える人間の思考と其の対象を把握して、はたして世界理法の真相を極めることが出来るのかは史上を眺めてみれば限界があるようにも思えます。此処に「直覚知」でしか成し遂げ得ない真理探求への道が用意されるとも言えるのです。
2015年01月10日
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「思考と直覚」思考方法と其の作用(二十一) 物質的なものや社会現象に一定の法則が見い出されるように、人間の思考作用にも或る種の法則を導き出そうと地球上で生命としての進化並びに精神を成長させてきた人間は絶ゆまず探求して来ています。此のような探求は人間が洞窟壁画であろうと文章であれ記録することが出来始めてから、紀元前の古代ギリシャではあらかた完成されています。此の新しい人間の思考作用にも或る種の法則を導き出そうとする分野が論理学であって、近世以降は哲学としては比較的に旧い数学的論理或いは記号論理額と呼称される分野ですが、殊更に人間の思考を数式化して形式化した規範を与えようとしているようにも見受けられます。ノルム (norm) 即ち一般的に規範とか基準とかの意味が、数学的には空間ベクトルの長さを意味することに代表される形式的な概念を「思考」に持ち込むことも可能かもしれませんが、其のことのみをもって真理に到達する保証はあり得ません。其処には同じ思考法を持ってしても各々の人間の認識にくい違いが生まれ「直覚」にしても様々な形姿を纏って現れることになるからです。
2015年01月09日
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「思考と直覚」思考を踏んだ直覚(二十) 科学や哲学、凡そ人間は通常生活に於いても何らかの思考が必要とされます。自己が人間としての生命を懐く限りは普通時であれば「思考」しています。然し乍ら、人間の思考に誤りがなかったなら人間は過失を起こさず反省することもなかったでしょう。人間の思考は事程左様に考え間違いを屡々繰り返しています。それ故に自己の内精神に心を傾ける前に、普段には見えない物質的には隠されたものに間違った思考からの直感力で理法、人間の生命更には精神の基である霊魂の囁きを履き違えて狂気に走ることが無きよう、絶えず思考の順流としての方法を身に付けるように務めることが「直覚知」を得るのに修養や瞑想を行うときには忘れてはならないことになります。それ故に、古今東西何時でも人間の思考作用が問題とされてきました。
2015年01月08日
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「思考と直覚」直覚への修養(十九) 自己の人生観を見直し直覚に至る「直覚知」を得るのに修養や瞑想を行うといえば、随分素人には近づき難い専門の分野だと思われがちですが、別段に神秘家や仏教及び神学の哲学者や思想家でなくとも、自己の出生や人生及び死生観に関心を向ける人間であれば、其の道の専門化でなくとも自己の通常生活では感じ取ってはいない本当の自分の基礎である内精神に関心を向けるだけで、学術や科学更には哲学に堪能でなくとも容易に探求することが出来、反って要らずもがなの障害となる外感覚的で物質的な要素に妨げられることがありません。何故なら、凡そ人間は誰でも何事かについて知ろうと思考するものだからです。自己が人間として生命を懐き人生を歩む限りにおいて自我の発生と其の源である普段には見えない外感覚的に隠されたものへの探求は決して学術や科学更には哲学に堪能な人間だけが手に入れるのかと云えば、古来の歴史が示す通り「思考と直覚」に長けた人間が獲得するものだからです。
2015年01月06日
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「思考と直覚」直覚と人生観(十八) 一昔前までは自分の人生観や其れについての見解を他の人間と相互に話し合い批判する集いは極限られた特殊な世界でしか成されていませんでした。然し乍ら、グローバル化したIT(Information Technology)時代の現代ではパソコン等の機器を用いて人間の繋がりを持ち、各種の集いに参加する機会に恵まれています。過去には人生問題や人生観を解決することは、他人の体験や批判に刺激されてい自己の経験を豊かにし思考方法を学ぶ機会に恵まれていませんでした。現在では他人の体験や批判によって自己の経験を豊かにし、其れをただ無批判に受け入れるのではなく自己の思考に取り入れていく自由があり、かっての外圧的権威からの抑圧は軽減されているとは言えます。反面、外圧的権威からの思考の自由は自己の理性と経験を持って生まれた思考を探求する強固な意思が必要とされます。自己の理性と思考を通して自分の内精神を探求し深層にある普段には気付かされない霊魂の囁きに耳を傾け其の音色を聴き更には其のものが獲得することが出来得る不朽の霊性である直覚に至る「直覚知」を得ることが出来る可能性を認めるならば、自己の人生観を見直し更なる人間の霊性への高みへと導くことも不可能事ではないでしょう。
2015年01月06日
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「思考と直覚」累卵の危うき(十七) 自らの内精神の深層に眠る霊魂の囁きを人間は、偏見を持つことなく、宗教・宗派の教義ばかりでなく、哲学者等の先達の教えに学び其の結論のみを信奉するのではなく、思考の経過を自らが歩んだ経験と理性に照らして吟味し自分の思考を用いて探求する強固な決意が必要となります。ただ現在の人生観から哲学を学ぼうとするのに挫折が多く、時には自殺にさえ追い詰められた人間に見受けられるのは、答えを与えられることを期待して安易に立ち向かうことにあります。哲学で重要なのは其の結論より思考の経過を重視して思考方法を学ぶことにあり、其の思考方法を学び取り自ら考えることを苦悩ゆえ放棄することさえしなければ、自殺に追い詰められることはない筈です。多くは哲学をしたから自殺したのではなく、自分の思考と探求の放棄を受け入れたが故の夭折です。また、人生の迷いや悲嘆から宗教・宗派の教義に対しても安易に結論だけに跳びつくのにも危険が纏います。宗教・宗派の教義の出生から史上の思考の経緯を鑑みて其処から自らの内精神の深層に眠る霊魂の囁きの声に耳を傾ける必要があり、結論が先にありきでは其の信仰も危うきこと累卵の如しで、強靭さに欠けることになります。
2015年01月05日
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「思考と直覚」直覚と信心(十六) 人間如何に生きるべきか、人間の前生・現生・後生は如何なるものか、人間の前世・現世・後世は如何様なものか、自己の現生を如何ように生きるべきか、人生を真面目に捉えて其の答えを求める人間は安易に出来上がりの答えに解決を委ねてはなりません。何故なら、権威ではなく敬意を抱く人間に諌められ或いは著作によって励まされた経験のある人間の唯一の思考的態度とは、外圧からではなく自己の内精神から沸き起こる理法に則った衝動だからです。成る程、史上多くの哲学的な思考をもって達人が、人間の生命の存在意義或いは精神の有り様を語ってはいます。然し乍ら、其れ等の先人の知恵を鵜呑みにして、自己の思考を持って吟味せずに受け入れるとすれば、其の人間には先人の知恵が外敵権威に転化して先人の知恵を離れて「信心」と化しています。其処にはもはや思考はなく信仰の対象と転化しています。其のこと故に自らの内精神の深層に眠る霊魂の囁きさえ遠吠えのごとく聞こえるばかりであり「直覚」は期待出来ないし、死に至っては一切を去る事にもなる可能性が高くなり真実を歪めかねません。
2015年01月04日
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「思考と直覚」直覚と信仰の権威(十五) 宗教及び宗派の与える基準を信じるという立場から離れて、宗教によっては罪深いとされる疑問を出発点とする以上、疑いの中から抜け出す努力には、もはや外から与えられる真理とする基準を期待することは出来ません。それ故に自己の教義を真理として内精神の深層に答えを見つけ出す必要に迫られます。自己の基準点の第一義は、自分の人生が培った理性と体験です。自己の理性と経験に基いて何ものが真理であるかを探求することになります。此の論理的探求は宗教を離れたところに立場を置く論理的な態度、言い換えれば哲学的な思考とも言えます。宗教及び宗派は其々に教義を此れこそが真理であるとする教理及び教祖を抱いています。教理及び教祖は宗教にとっての権威であり且つ防壁です。然し乍ら、「直覚」への志は外から結果を与えられるような権威は認めないし、否認するところからところから探求が始まります。其のことは自己の人生と理性と経験に信頼を置く生き方をしたかということではなく、たとえ理性に反する破天荒な行為であっても自らを客観的に捉え、権威ではなく敬意を抱く人間に諌められ或いは著作によって励まされた経験のある人間には唯一の思考的態度とは言えます。権威とは外圧からではなく自己の内精神から沸き起こる内圧だと言うのが適正な表現かもしれません。
2015年01月03日
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「思考と直覚」直覚と信仰の経緯(十四) 人生の意義について問い求めた人間が、宗教によって与えられた教義を真理を、素朴に信じることが出来得るときは、其の人間にとっては幸いかもしれない。但し、此の素朴さが一概に現実世界に生きる総ての人間にとって利点だけを齎すとは考えにくい。代表的な宗教には三大信教があり、其の中には更に宗派があり、それぞれが自己の教義を真理として、他の宗教更には宗派を非難し排斥し合っています。此のことが高じると他の人間を殺すことまでが正当化されているのが史上繰り返され現代にも持ち越されています。それ故に、ひとつの宗教及び宗派を素朴に信じるにも多方面からの思考による吟味が必要です。其のように考察する人間は当然の如く基準点を求めていきます。其の時点では既に与えられたものを信じる態度は棄却されていますから宗教及び宗派の与える基準を信じるという立場から離れて、宗教によっては罪深いとされる疑問を出発点とする思考、自己の内精神の深層へと突き進み、外世界取り分け外感覚的で物質的な見掛け上の理を離れて論理を追求し、内的な意識・意思精神の深層を認識し、更には高度に修養を積みあげた自己の霊的な認識である「直覚」への志が頭を擡げ身を移すことになります。
2015年01月02日
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「思考と直覚」直覚と信仰の経緯(十三) 自己の内精神の深層へと突き進む毎に「直覚」への志を持つ人間は、外世界、取り分け外感覚的で物質的な見掛け上の理を離れて内的な意識・意思精神の深層の認識し、更に高度に修養を積むと自己の認識である「我執」を離れた境地へと進み、其のことが成し得たときには霊魂に目覚め、外感覚的に隠された高度な意思の認識を霊性を持って其れに同調できるようになります。此時の人間の精神の有り様は身体を持って産まれた人間存在が永遠と接触する瞬間です。此のように段階を踏むのをもどかしく思い、出来上がった答えを得さえすればいいというのであれば、其の人間は哲学的な教義より、宗教に答えを求めた方が無難でしょう。宗教は其々に教義を此れこそが真理だというものを持っています。ある程度史上で発展展開してきた宗教は自己の教義が真理であると主張するために、筋道を立てて相手を説得理解させる論拠を述べます。哲学的な直覚への修養の経緯を主張するのと相似しています。但し、宗教においては結果が重要なのであって論理的な経緯は補助的な要素に過ぎず、究極的には真理が前に来て故に信ぜよと教えるものです。詰まりは、信じる者は幸いであり、疑いを挟むものは異端で罪深いという訳です。其のことは人生の意義について迷い問い求める人間を信心まで高めれば救済を現世的に苦難を救うことがあるのは否定はしません。
2015年01月01日
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