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神の存否-307 スピノザは「本性」なる概念をどのように捉えているのでしょう。神の「本質」では神なる世界の実体には、神の「本性」としての「有」があります。ですから、神の本質は「実体」にあるということです。当然に、神の延長としての表現、一神教の人間が神に似せて創造されたのは別としても、神の様態としての表現、神の属性の一部を表現する人間は、其の度合が高まる程に大なる「本性」、より能動的な「本性」を持つと云えましょう。:記 定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。 証明 人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されている間は、人間精神はその物体を現在するものとして観想するであろう(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。)により。したがってまた(第二部定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により、人間精神がある外部の物体を現在するものとして観想する間は、言いかえれば(第二部定理一七の備考要約:もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。)により、それを表象する間は、人間身体はその外部の物体の本性を含むような仕方で刺激される。だから精神が我々の身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを表象する間は、身体はその活動能力を増大しあるいは促進するような仕方で刺激される(この部第三部の要請一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激されることができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激されることもできる。)を見よ。したがってまた(この部第三部の定理一一 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。)により、その間は、精神の思惟能力は増大しあるいは促進される。そのゆえに(この部第三部の定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。)、または{注:何故に及びを用いずまたはを用いたのか?。}、(この部第三部の定理九 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。)。精神はできるだけそうしたものを表象しようと努める。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月31日
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神の存否-306 人間誰しもが肉体を持って産まれたからには、何れは身体能力に目覚めて活動し、其れを自覚している自分に目覚め、精神活動を高め自我に到達します。:記 次に欲望の何たるかはこの部第三部の定理九の備考に(要約:欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。)において説明した。 この三者、喜び・悲しみ・欲望のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである。 だが、先へ進む前に、いかにして観念が観念と相反するかをいっそう明瞭に理解するために、私はこの部の第三部の定理一〇(我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。寧ろそうした観念は我々の精神と相反するものである。)をここでもっと詳しく説明したい。 第二部定理一七の備考(要約:我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。そしてこのことは他の原因からも起こることが可能である。)において我々は、精神の本質を構成する観念は身体自身が存在する間だけ身体の存在を含むということを示した。次に、第二部定理八の系(個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる)。ならびにその第二部定理八の備考(もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語っている事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであろう。しかし私はできる限りこの事柄を(一つの例をもって)解説することに努めよう。)において示したことから、我々の精神の現在的存在は精神が身体の現実的存在を含むことにのみ依存するということが分かる。最後に、精神が物を表象し・想起する能力も同様に精神が身体の現実的存在を含むことに依存するということを我々は示した(第二部定理一七(もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう)および第二部定理一八(もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。)ならびにその備考(要約:記憶(メモリア)の何たるかを明瞭に理解する。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(アフェクティオ)〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。)を見よ。以上の帰結として、精神の現在的存在およびその表象能力は、精神が身体の現在的存在を肯定することをやめるや否や消滅するということになる。しかし精神が身体のこの存在を肯定することをやめる原因は精神自身ではありえない。この部第三部の定理四(いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。)により。だからといってこの原因は身体が存在することをやめることにも存しない。なぜなら第二部定理六(おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。)により、精神が身体の存在を肯定する原因は身体が存在することを始めたことには存しないのである以上、同じ理由からして、精神が身体の存在を肯定することをやめる原因もまた身体が存在することをやめることには存しないからである。このことは寧ろ第二部定理八(存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。)により我々の身体の現在的存在、したがってまた我々の精神の現在的存在、を排除するある他の観念から生ずるのである。だからそうした観念は我々の精神の本質を構成する観念と相反する。哲学・思想ランキング
2022年01月30日
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神の存否-305 スピノザの精神と身体は定理一一の備考においては心理学の様相を帯びてきます。人間精神の能動性と受動性を取り上げ、人間には真に完全なる能動性は自然なる有としての実体、たとえ、マルチバース理論が並行宇宙や多宇宙論を唱えようと、因果関係から人間実在が存する宇宙こそが、我々人間が存し実在できる世界である以上、他の宇宙は此の宇宙を認識する人類とはかけ離れた、隔絶された虚の世界です、有りて無い世界です。人間精神は大いなる想像性を持ちます。此れこそが人類の発展性を確保します。其の面においては、スピノザの世界の全面的受け入れは、現代物理科学の神「可能世界」の捉え方とスピノザの神「自然」の捉え方に齟齬が生じます。然し乍ら、スピノザの精神論に関しては現代物理科学であれ妥協することがありえましょう。 備考 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。哲学・思想ランキング
2022年01月29日
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神の存否-304 スピノザの精神と身体は謂わばコインの表裏の如く一体化しており、片方の何れが欠けても実在が脅かされることに成ります。此のことが唯物主義者がスピノザ思想を歓迎した要因となり、スピノザを無神論者や唯物主義者と決めつける世相を生みます。 定理一一 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。 証明 この定理一一は第二部定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるから、あるいはまた、第二部定理一四 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。から明白である。 此の定理一一ほど、人間に関しての西洋思想と亜細亜思想、なかでも印度のバラモンの流れから意を異にした仏教哲学の精神思想と相容れないものはないでしょう。此れは基督教の最後の審判をもって肉体をも復活する報償論の天国思想と、仏教、なかでも大乗仏教の霊の浄土世界の思想の相違に顕れます。勿論、スピノザがは実践倫理の人であり信教や道徳には批判的ですから同一には語れませんが、認識論者であることは精神に重きを置く亜細亜、なかでも仏教とは一線を画します。哲学・思想ランキング
2022年01月28日
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神の存否-303 臨済宗妙心寺派の名刹、乾徳山恵林禅寺。武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚、天正10年(1582年)4月3日に織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。事程左様に禅宗は精神から身体の存在を滅却したところに「精神の自由(寂徳:著者造語/巌の如く振れない自然体)」を肉身の実体からの離脱の境地を心の静寂を尊(たっと)びます。対して西洋哲学の実践倫理学の祖とも云えるスピノザは身体と精神の関連を如何用に捉えているのでしょうか。 定理一〇 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。寧ろそうした観念は我々の精神と相反するものである。 証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない(この部第三部の定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。により)。したがってそうした物の観念は神が我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中に在ることができない(第二部定理九の系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。により)。言いかえれば(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)そうした物の観念は我々の精神の中に在ることができない。むしろ反対に、精神の本質を構成する最初のものは現実に存在する身体の観念であるから、我々の精神の最初にして最主要なものは、我々の身体の存在を肯定する努力である(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。したがって我々の身体の存在を否定する観念は我々の精神と相反する、云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月27日
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神の存否-302 スピノザは人間の個々の人生の精神を、「無限定な持続の間」続くと表現しています。つまりは、精子は発生からその各々が生物学的には有に固執しようと努め、運よく着床に成功したものが生き残り、卵殻を食い破ります。然し乍ら、受精・受胎・誕生、それ以降のどの段階から精神が発生するのか、疑問が昂じます。「精神」なるものの概念が物理科学の認証された諸々の概念を超えないからです。物理科学が生命神秘を明かしたときには解決されることがあることを夢見ます。何れにしろ、人間は其れ自身は生じた時を認識せず、滅びの時も認識しない存在だということです。 定理九 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。 証明 精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている(この部第三部の定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。で証明したように)。したがって精神は(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)妥当な観念を有する限りにおいても非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。しかも(この部第三部の定理八 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる。により)ある無限定な持続の間自己の有に固執しようと努める。ところで精神は(第二部定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神は(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)自己の努力を意識している。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの云々。自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのものにほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。哲学・思想ランキング
2022年01月26日
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神の存否-301 人間は日本の真言宗の祖「空海」の如くに、自己の死期を年月日を持って予期は出来ない。重篤の人でもなく活発旺盛な人間も隕石落下で頭蓋骨が粉砕されることもあろう。人間誰しもがいくら医療が発達したとしても体内贓物の移植は可能になるにしても、寿命が長いとされる脳の寿命(480年)は免れえません。だとしても、日々其れを自覚している人間がいるとも思えません。人間精神は身体がなくなれば居所を失います。即ち、人間とは常時絶えずに「自己の生と死」が共存しています。 定理八 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる。 証明 なぜなら、もしこの努力が物の持続を決定する限定された時間を含むとしたら、その物が存在する能力そのものだけからして、その物がその限定された時間のあとには存在しえずして滅びなければならぬということが帰結されるであろう。ところがこれは(この部第三部の定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。により)不条理である。ゆえに物を存在せしめる努力は何ら限定された時間を含まない。むしろ反対に、おのおのの物は外部の原因によって滅ぼされなければ、それが現に存在している同じ能力をもって常に存在しつづけるのであるから(同じくこの部第三部の定理四同上 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。により)、したがってこの努力は無限定な時間を含んでいる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月25日
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神の存否-300 我々人間が自己の及ぶかぎり自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努めるように努めるのは当然であろうが、西洋世界と東洋世界、特に武士道なるものを培ってきた日本では、自己よりも他者に、より大なる存在意義(妥当な観念)を認めれば、自己の及ぶ(妥当な観念)をも見かぎり、自己の有に固執するように努めることを放棄することは、容易くはないでしょうが在り得べくこと、葉隠武士道や第二次大戦の「神風・回天」が示します。恐らくは、スピノザにいわせれば其れは非妥当な観念を妥当と取り違え、倫理を履き違えたものと一蹴するでしょう。 定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。 証明 なぜなら、個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である(第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態にほかならぬ。この証明は定理一五および定義五から明らかである。により)、言いかえればそれは(第一部定理三四 神の能力は神の本質そのものである。により)神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する物である。その上いかなる物も自分が滅ぼされうるようなあるものを、あるいは自分の存在を除去するようなあるものを、自らの中に有していない(この部第三部の定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。により)。寧ろおのおのの物は自分の存在を除去しうるすべてのものに対抗する(前定理 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。により)。 したがっておのおのの物はできるだけ、また自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。Q・E・D・これが証明すべきことであった。 以上のことを推論するに、近代日本でのスピノザ研究が意外にも活発ではなかったことの要因はデカルトの学会評価の高さにあります。日本では多分にスピノザの影響を受けたであろう「善の研究」の著者である西田幾多郎が顕れるまでは、スピノザ評価はそれ程ではありませんでした。
2022年01月24日
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神の存否-299 スピノザは物の本質には自己原因なるものがあり、その基底に自己保存の本質を見ます。 定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。 証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、おのおのの物の定義はその物の本質を肯定するが否定しない。あるいはその物の本質を定立するが除去しない。だから我々が単に物自身だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼしうるようないかなるものも我々は見いだしえないであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。 証明 なぜなら、もしそうした物が相互に一致しあるいは同じ主体の中に同時に在りうるとしたら、同じ主体の中にその主体自身を滅ぼしうる物が在りうることになるであろう。これは(前定理 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)不条理である。ゆえに物は云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえれば我々人間の精神の葛藤が想起されます。現代心理学でも問題解決の困難な、外部環境からの損壊からの逃避、内部環境崩壊からの精神の自己損壊からの逃避、人間の精神の威厳の保持、外部環境からの非妥当攻撃による自己保存の矮小化等々に、スピノザは対抗すべきは「倫理(エチカ)」だと云うのでしょうか。日本の侍の武士道なるものの倫理と比較するのも一考でしょう。
2022年01月23日
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神の存否-298 「エチカ」第三部の感情の起源および本性について、スピノザは当然に人間は「神」自然に基礎をもつものと考えているから、人間精神も自然の活動性としての延長、自然の様態の如きものと考えています。人間は自然の一部なのであって、人間の中の精神もその例外ではないとします。精神は自然と異なったものではない。精神も又自然の一部なのです。だから精神が、それ自体として自立的に活動することはない。つねに身体と一体となって活動する。人間というものは、精神と身体が渾然一体となったものなのだ。スピノザは、精神が身体を支配することはなく、また身体が精神を支配することもないと言っているが、その意味は、精神と身体は相互に切り離しえないということなのです。能産そのものの精神は神を起因とし、部分的にしろ、その神を起因とする妥当な精神の観念は能動的な精神であり、神を起因とする精神に他の要因の助けが必要になる精神とは受動的で非妥当な精神だということになります。 定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。 証明 精神の本質を構成する最初のものは、現実に存在する身体の観念にほかならない(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)。そしてこの観念は(第二部定理一五 人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から組織されている。により)多くの観念から組織されていて、そのあるものは(第二部定理三八の系要約 すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。なぜなら、すべての物体はいくつかの点において一致し、すべての人から妥当にあるいは明瞭判然と知覚されなければならぬからである。により)妥当であり、またあるものは非妥当である(第二部定理二九の系 人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損(きそん)した認識のみを有するということになる云々。により)。ゆえにすべて精神の本性から生ずるもの、精神をその最近原因とし精神によって理解されなければならぬものは、必然的に妥当な観念あるいは非妥当な観念から生じなければならぬ。ところが精神は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける(この部の定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)。ゆえに精神の能動は妥当な観念のみから生じ、また精神は非妥当な観念を有するゆえにのみ働きを受ける。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえないことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにあるのだから今はそれに立ち入らない。哲学・思想ランキング
2022年01月22日
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神の存否-297 第三部定理二の備考の後半部では人間の身体と精神の関わりを具体的に述べます。 第三部定理二の備考の後半部 実際、今日まで、誰も身体の機能のすべてを説明しうるほど正確には身体の組織を知らなかった。人間の知恵をはるかに凌駕する多くのことが動物において認められることや、夢遊病者が覚醒時にはとてもしないような多くのことを睡眠中になしていること(これは、身体が単に自己の本性の法則のみによって、自分の精神を驚かすような多くのことをなしうることを十分に示している)について説明できないのは言うまでもない。次にどのような仕方、どのような媒介で精神が身体を動かすか、またどのような程度の運動を身体に与えうるか、またどのような速度で身体を動かしうるかを誰も知らない。こうした点から見れば、人々が身体のこのあるいはかの活動は身体の支配者である精神から来ていると言う時、彼らは実は自らの言っていることを理解していないのである。そして彼らがその活動の真の原因を知らず、しかもそれを何ら怪しんでいないということを体裁のよい言葉で告白しているのに異ならないのである。 しかし彼らは言うであろう。どのような媒介で精神が身体を動かすかを知っていようと知っていまいと、人間精神が思考に適しない場合は身体が不活発であることを自分らは経験すると。また言うであろう。話すことや沈黙すること、その他多くのことが単に精神の力の中にのみあることを自分らは経験する、だからそうしたことは精神の決意に依存すると信ずると。 だが第一の点に関して私は彼らにこう尋ねる。経験はまた逆に、身体が不清澄な場合には同時に精神が思惟に適しないことも教えはしないかと。なぜなら、身体が眠って静止している間は精神も同時に身体とともに無意識状態にとどまり、覚醒時のように思考する能力を有しないからである。さらにまた精神が同一対象について常に等しく思惟するのに適当しているわけでなく、むしろ身体がこのあるいはかの対象の表象像を自らの中に生み出すのに適当した度合に応じて精神もこのあるいはかの対象を考察するのに適当するということは誰しもみな経験しているところと信ずる。 しかし彼らは言うであろう。建築・絵画・その他人間の技能のみから生ずるこの種の事柄の原因を、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみから導き出すことはできない、また人間身体は精神から決定され導かれるのでなくては寺院のごときものを構築することはできまいと。しかし、私のすでに指摘したように、彼らは、身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らないのであるし、また彼らは、精神の導きなしに起こりうるとは彼らの決して信じなかっただろうような多くのこと、例えば夢遊病者が睡眠中にしてあとで覚醒してから自分で驚くようなことが、単なる自然の法則のみによって生ずることを経験しているのである。なお私はここで、人間身体の構造そのものが人間の技能によって作り出されるすべてのものを技巧上はるかに凌駕していることを付言する。私がさきに述べたこと、すなわち自然がいかなる属性のもとで考察されようとも自然から無限に多くのものが生ずるということを、今は言わないとしても。 さらに第二の点に関しては、もし沈黙することも話すことも等しく人間の力の中にあるとしたら、たしかに人事はもっとうまくいっていたことであろう。しかし、経験は、人間にとって舌ほど抑えがたいものはなく、また自分の衝動を制御するほど困難なことはないことを十分以上に教えている。この結果として大抵の人々は、我々はただ軽度に欲求する事だけを自由に成すと信じている。そうしたものへの衝動は我々の頭にしばしば浮かぶ他の事柄の想起によって容易に抑制され得るからである。これに反して、激しい感情をもって欲求する事柄に対してはそうはいかないと信じられている。このような感情は他の事柄の想起によっても鎮められえないからである。実際もし彼らが、人間はあとで後悔するような多くのことをなすものであり、また相反する感情に捉われる時は往々にしてより善きものを見ながらより悪しきものに従うものであるということを経験しなかったとしたら、彼らは人間が何もかも自由に行なうと信ずるのに躊躇しなかったであろう。 このようにして、幼児は自由に乳を欲求すると信じ、怒った小児は自由に復讐を欲すると信じ、臆病者は自由に逃亡すると信ずる。次に酩酊者は、あとで酔いが醒めた時黙っていればよかったと思うようなことをその時は精神の自由な決意に従って話すと信ずる。同様に、狂人・お喋り女・小児その他この種の多くの者は、実は自分のもつ話したいという本能を抑ええないで話すのに、精神の自由決意から話すと信じている。これで見れば、経験そのものも理性に劣らず明瞭に、人間は自分の行動を意識しているが自分をそれへ決定する原因は知らぬゆえに自分を自由だと信じているということを教えてくれる。それからまた精神の決意とは衝動そのものにほかならず、したがって精神の決意は身体の状態の異なるのに従って異なるということを教えてくれる。 各人は自分の感情に基づいて一切を律し、さらに相反する感情に捉われる者は自分が何を欲したらいいかを知らず、また何の感情にも捉われない者はわずかの弾みによってもこっちに動かされあっちに動かされするからである。 以上すべてからきわめて明瞭に次のことが分かる。それは精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいは寧ろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意(デクレトウム)と呼び、延長の属性のもとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定(デテルミナテイオ)と呼ぶということである。 このことはなお、これから述べることからいっそう明瞭になるであろう。というのは、ここで私の特に注意したい別のことがある。それは、我々は想起しないことは決して精神の決意によってなしえないということである。例えば我々は想起しない言葉を話すことはできない。なおあることを想起したり・忘れたりすることは精神の自由にはならない。そこで人々は想起することについて任意に黙っていたり・話をしたりすることだけは精神の力の中に在ると信じている。しかし我々が話をする夢を見る場合、我々はやはり精神の自由な決意によっで話をすると信じており、しかも実は話をしていない、あるいは話をするとしてもそれは身体の自発的運動から生じているのである。次に我々はいろいろなことを人に隠すという夢を見る。しかも覚醒時に我々が知っていることを人に黙っているのと同じ精神の決意でそうしていると夢の中で思っている。最後に我我は、覚醒時にはとてもしないようないろいろなことを精神の自由な決意によってやってのけるという夢を見る。そこで私はぜひ知りたい、精神の中には二種の決意、すなわち空想的な決意と自由な決意とがあるのかどうかを。もしそんな無意味な結論に到達したくなければ、この自由であると信じられている精神の決意は、表象そのものあるいは想起そのものと区別されないのであって、それは観念が観念である限りにおいて必然的に含む肯定(第二部定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。を見よ)にほかならないということを人々は必然的に承認しなくてはならぬ。 こんなわけで、精神のこうした決意は、現実に存在するもろもろの事物の観念が生ずるのと同一の必然性をもって精神の中に生ずる。だから精神の自由な決意で話をしたり・黙っていたりその他いろいろなことをなすと信ずる者は、目をあけながら夢を見ているのである。哲学・思想ランキング
2022年01月21日
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神の存否-296 第三部定理二の備考でスピノザは心身合一・一元論を他者を模したり、思索的に顕したのではなく、あくまでも自己の経験からのものであることを強調します。 備考の前半 このこと(思惟の属性と延長の属性のあり方)は第二部定理七の備考(要約 無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである云々。)で述べたことからいっそう明瞭に理解される。それによれば、精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである。この結果として、物の秩序ないし連結は、自然がこの属性のもとで考えられようとかの属性のもとで考えられようとただ一つだけであり、したがって我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時であるということになる。このことはまた我々が第二部定理一二(人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。)を証明した仕方からも明らかになる。 事情はかくのごとくであってこれについてはもはや何ら疑う理由が残っていないにもかかわらず、もしこのことを私が経験によって確証しない限りは、人々にこれを冷静に熟慮するようにさせることはまずできない相談であろう。それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいる。身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技能にのみ依存していると。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである。言いかえれば、身体が、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみによって何をなしうるか、また精神から決定されなくては何をなしえないかを、これまで誰も経験によって確定しなかったからである。哲学・思想ランキング
2022年01月20日
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神の存否-295 スピノザ(蘭:Spinoza/1632 - 1677)は多分に影響を受けた先達デカルト(仏:Descartes/1596 - 1650)の古代ギリシァ以来の心身二元論に対し、私が思うことができるのは、この身体があるから可能、心身の相互性を抜きには成りたたないとして心身合一の心身一元論をもって、この心身二元論の批判若しくは矛盾を指摘します。 定理二 身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない。 証明 思惟のすべての様態は、神が思惟する物である限りにおいて神を原因とし、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない(第二部定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。により)。ゆえに精神を思惟に決定するものは思惟の様態であって延長の様態ではない、言いかえれば(第二部定義一 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現することと解する。第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態にほかならぬを見よ。により)身体ではない。これが第一の点であった。次に、身体の運動ないし静止は必ず他の物体から生じ、この物体がまた他の物体から運動ないし静止に決定されなければならぬ。一般的に言えば、身体の中に生ずるすべてのことは、思惟のある様態に変状したと見られる限りにおける神からではなく、延長のある様態に変状したと見られる限りにおける神から生じなければならぬ(再び第二部定理六により)。言いかえれば、それは思惟の様態である精神(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。により)から生ずることができない。これが第二の点であった。ゆえに身体が精神を云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザの心身一元論は精神と身体が一元・合一は勿論のこと、人間の精神の実在の観念そのものが「神」に起因すると捉えます。ところが其の「神」なるものは、此のスピノザの物理・天文観測科学の時代背景世界では「神=世界=宇宙=法則=数学>人間」です。此れは近代マルクスの唯物主義に通じます。スピノザが唯物主義者といわれる所以です。神に神格性を求めるのか、永遠の無限を求めるのか、将又、神の名を求めずして世界の理を究問するのか。現代は世界の側から認識が要請されています。哲学・思想ランキング
2022年01月19日
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神の存否-294 スピノザの心身一元論は精神が身体と合一していること、我々の身体が精神の対象であることから明らかに示します。したがって、これと同じ理由により、精神の観念も精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で、その対象と、言い換えるならば精神自身と合一していなければならぬとします。 定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。 証明 おのおのの人間精神の中にある観念は一部は妥当なものであり一部は毀損し・混乱したものである(第二部定理四〇の備考一 いかなる概念が他の概念より有用であるか、またこれに反していかなる概念がほとんど無用であるか云々。また、備考二 我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的概念を形成することが明白に分かる云々。により)。ところがある物の精神の中で妥当であるような観念は、神がこの精神の本質を構成する限りにおいて神の中で妥当であり(第二部定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部であるにより云々。)、一方、精神の中で非妥当である観念も同様に神の中で(同じ系 人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚するにより)妥当であるが、この場合は神が単にこの精神の本質だけではなく、同時に他の諸物の精神も自らの中に含む限りにおいてである。さらにまた与えられたおのおのの観念から必然的にある結果が生じなければならぬのであり(第一部定理三六 その本性からある結果が生じないようなものは一として存在しない。により)、そしてこのような結果について神はその妥当な原因である(この部の定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な[十全な]原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な[非十全な]原因あるいは部分的原因と呼ぶ。を見よ)。しかもそれは神が無限である限りにおいてではなく、この与えられた観念に変状したと見られる限りにおいてである(第二部定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。を見よ)。しかし神がある物の精神の中で妥当であるような観念に変状している限りにおいてある結果の原因となっているとすれば、同時にこの精神がまたこのような結果の妥当な原因である(第二部定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々。により)。ゆえに我々の精神は(この部第三部の定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義 妥当な[十全な]原因・非妥当な[非十全な]原因の定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と云う。により)妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなす。これが第一の点であった。次に単に一人の人間の精神だけではなくその人間の精神とともに他の諸物の精神も自らの中に有する限りにおいての神の中で、妥当である観念から必然的に生ずるすべてのもの、そうしたものについては(再び第二部定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々。により)この人間の精神はその妥当な原因ではなくて、単に部分的原因にすぎない。したがって(この部第三部の定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義 妥当な[十全な]原因・非妥当な[非十全な]原因の定義により)精神は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。これが第二の点であった。ゆえに我々の精神は云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。 一見短文に思える文章も引用が多くなると余程の記憶力がないと文意が掴めなくなること夥しいので、注意が肝要です。哲学・思想ランキング
2022年01月18日
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神の存否-293 第三部 感情の起源および本性についてでは、目新しい項目、第二部定理一三と同様の「要請」なるものが登場しています。此の第三部にて定理より前に置くのはスピノザの意向です。公準と訳されることもある「要請」。辞書には証明なしにたてられる事柄、または命題とあります。ユークリッドは、彼の幾何学を建設するとき、今日の我々がいうところのユークリッド幾何学の公理を要請としてたて、幾何学に限定されないより一般的な公理、たとえば、同一のものに等しいものは相互に相等しいを、公理として区別した「要請」なることを、スピノザは其の意を含んでいるのか。「要請」なる其の内容が公理と公準の相違の意味合いを帯びているのか、スピノザの意向に理解を求めているのかは推測の域を出ません。 要 請 一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキトゥル/Afikitur)されることができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激されることもできる。 この要請あるいは公理(スピノザは両者をそれ程には公理と要請を厳格には区分していないようです。)は「第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。のあとにある要請一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体、そのおのおのがまたきわめて複雑な組織のから組織されている。ならびに補助定理五 もし個体を組織する各部分が、すべてその相互間の運動および静止の割合を以前のままに保つような関係において、より大きくあるいはより小さくなるならば、その個体もまた何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。と補助定理七 そのほか、このように複合した個体は、全体として運動ないし静止していようとも、あるいはこのないしかの方向に運動していようとも、もしただその各部分が自己の運動を保持してそれを以前と同じように他の部分に伝えてさえいれば、その本性を保持する。」に基づく。 二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を(これについては第二部定理一三要請五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。を見よ)残す。したがってまた事物の表象像を保持することができる。表象像の定義については第二部定理一七の備考 もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。そしてこのことは他の原因からも起こることが可能であるを見よ。 古代ギリシャの哲学的霊魂観に見られるように、西洋思想史では魂や精神を重視し、身体を第二義的に扱、人が死ぬと魂は神々の下に帰る、霊魂は生命の元と考えていました。この哲学的霊魂観が、霊肉二元の宗教思想と結びついて西洋の思想的な中核が形成され、心身一元論をもって批判します。哲学・思想ランキング
2022年01月17日
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神の存否-292 第三部 感情の起源および本性についての構成は、序言、定義、要請、定理、付録:感情の諸定義、感情の総括的定義となっており、第一部 神について、第二部 精神の本性および起源について共通の構成の「公理」なるものが存在しません。それだけに感情の起源および本性については、背景的には思想的な統一的な見解がなかったことを示す。若しくは意識的に公理を置き換えたのでしょうか。 定義 一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な[十全な]原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な[非十全な]原因あるいは部分的原因と呼ぶ。 二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義 妥当な[十全な]原因・非妥当な[非十全な]原因の定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と云う。 三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状「刺激状態」、また同時にそうした変状の観念であると解する。 そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、そうでない場合は受動と解する。 我々は通常一般でには感情は外部からの刺激に反応して起こる即ち受動的と解しますが、スピノザは感情を能動と受動とに捉えて展開してみせます。哲学・思想ランキング
2022年01月16日
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神の存否-291 物理科学の観測技術のIT技術革命を伴って、観測天文学は勿論のこと実験物理学は理論物理科学さえをも先行する勢いです。然し乍ら、世界の有り様が解せられれば生命、なかでも人類の存在の意味合いがどれ程解せられるのかには甚だ疑問が残ります。それが人間の精神、感情なのです、付け加えれば心と呼称されるものの存在でしょう。 第三部 感情の起源および本性について 序 言 感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。実に彼らは自然の中の人間を国家の中の国家のごとく考えているように思われる。なぜなら彼らは、人間が自然の秩序に従うよりも寧ろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有して自分自身以外の何ものからも決定されないと信じているからである。それから彼らは、人間の無能力および無常の原因を、共通の自然力には帰さないで、人間本性の欠陥。どんな欠陥のことか私は知らないが、それに帰している。だから彼らは、こうした人間本性を泣き・笑い・侮蔑し・あるいは、これが最もしばしば起こることであるが呪詛(じゅそ)する。そして人間精神の無能力をより雄弁にあるいはより尖鋭に非難することを心得ている人は神のように思われている。 とはいえまた、正しい生活法について多くのすぐれたことを書いて、思慮に充ちた勧告を人間に与えた卓越せる人々もないではなかった。我々は彼らの労作と勤勉とに負うところが多いことを告白する。しかし感情の本性と力について、また他面精神が感情の制御に関して何をなしうるかについては、私の知る限り、まだ何びとも規定するところがなかった。もちろん私は有名なデカルトの成したことを知っている。デカルトはやはり精神がその活動に対して絶対の能力を有すると信じていたものの、それでも人間の感情をその第一原因から説明しようとし、同時に、精神が感情に対して絶対の支配権を有しうる道程を示そうとつとめたのであった。しかし彼は、少なくとも私の判断によれば、彼の偉大な才能の鋭利さを示したにとどまっている。このことについては適当な場所で論証するであろう。なぜなら今私は前に戻って、人間の感情および行動を理解するよりもむしろ呪詛し・嘲笑しようとする人々へ立ち向かおうと思うのであるから。これらの人々にとっては、私が人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱おうと企てること、また理性に反した空虚な、不条理な、厭(いと)うべきものとして彼らの罵る事柄を厳密な推論で証明しようと欲することは、疑いもなく奇異に思えるであろう。しかし私の理由はこうである。自然の中には自然の過誤のせいにされうるようないかなる事も起こらない。なぜなら自然は常に同じであり、自然の力と活動能力はいたるところ同一であるからである。言いかえれば、万物が生起して一の形相から他の形相へ変化するもととなる自然の法則および規則はいたるところ常に同一であるからである。したがってすべての事物、それがどんなものであっても、その本性を認識する様式もやはり同一でなければならぬ。すなわちそれは自然の普遍的な法則および規則による認識でなければならぬ。このようなわけで憎しみ、怒り、妬みなどの感情も、それ自体で考察すれば、その他の個物と同様に自然の必然性と力とから生ずるのである。したがってそれらの感情は、それが認識されるべき一定の原因を持ち、また他の事物、単にそれを観想することそのことだけで我々に喜びを与えてくれるようなそうした他の事物の諸特質と等しく我々の認識に値する一定の特質を有しているのである。 そこで私は感情の本性と力、ならびに感情に対する精神の能力を、私がこれまでの部で神および精神について論じたのと同一の方法で論じ、人間の行動と衝動とを線・面および立体を研究する場合と同様にして考察するであろう。哲学・思想ランキング
2022年01月15日
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神の存否-290 スピノザ「エチカ」第三部に入る前に、エチカ著作当時の天文・物理科学の時代背景に注目してみたい。ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)やアイザック・ニュートン(英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)と粗方同時代であるバールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日)も其の風潮の影響は大きかったに相違ありません。当時の世界観から見れば宇宙は世界であり、無限無久、永劫の存在で唯一の世界「ユニ・バース」であった筈です。即ち、スピノザの云う世界の有り様は「神=世界=宇宙=法則」が成り立つ世界でした。ところが、21世紀の現代AI技術を駆使した天文・物理科学はアルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)を始めにして、天文学では我々の銀河系の外にも銀河が存在することや、それらの銀河からの光が宇宙膨張に伴って赤方偏移していることを発見したエドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble, 1889年11月20日 - 1953年9月28日)の登場により、天文科学はもとより物理科学の超速的な新たな認識論を生み、21世紀現在ではビッグバン理論でさえ過去とするインフレーション理論、更には宇宙は唯一無二とする過去のユニ・バース認識を覆すマルチユニバース若しくはマルチバース理論が提唱され、スピノザの云う世界の有り様が、「神=世界>宇宙>法則」へと変容しています。哲学・思想ランキング
2022年01月14日
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神の存否-289 スピノザは「エチカ(倫理学)」第二部 精神の本性および起源についての終りに自己の哲学が、単に形而上の哲学理論に修まらず、認識論に立ち位置を持つ実践哲学であることを強調します。また、我々は旧約聖書のアブラハムの子イサクの生贄の逸話を試練を表象しますが、其の逸話も精神の本性が真に認識すれば、神格の存在・不存在は別として我々が神の命令のみによって行動し・神の本性を分有する者であること、精神そのものが誤謬しているとは一概には言えません。 終りに、「この説」、此の指示が「エチカ(倫理学)」そのものを指すのか、「エチカ(倫理学)」第二部の精神の本性および起源についてを指すのかは難解です。)の知識が実生活のためにいかに有用であるかを指摘することが残っている。このことは次のことどもから容易に看取しうるであろう。 一 この説は、我々が神の命令のみによって行動し・神の本性を分有する者であること、そして我々の行動がより完全でありかつ我々がより多く神を認識するにつれて一層そうなのであることを教えてくれる。ゆえにこの説は、心情をまったく安らかにしてくれることのほか、さらに、我々の最高の幸福ないし至福がどこに存するかを我々に教えてくれるという効果をもつ。すなわち我々の最高の幸福ないし至福は神に対する認識にのみ存するのであり、我々はこの認識によって、愛と道義心の命ずることのみをなすように導かれる。これからして、徳そのもの、神への奉仕そのものがとりもなおさず幸福であり・最高の自由であることを知らずに、徳と善行を最も困難な奉仕とし、これに対して神から最高の報酬をもって表彰されようと期待する人々は、徳の真の評価からどんなに遠ざかっているかを、我々は明瞭に理解するのである。 二 この説は、運命に関する事柄あるいは我々の力の中にない事柄に対して、言いかえれば、我々の本性から生じない事柄に対して、どんな態度を我々がとらなければならぬかを教えてくれる。すなわち我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに耐えなければならぬのである。三角形の本質からその三つの角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。 三 この説は共同生活のために寄与する。なぜならこの説は、何びとをも憎まず、蔑(さげす)まず、嘲らず、何びとをも怒らず、嫉(ねた)まぬことを教えてくれるし、その上また、各人が自分の有するもので満足すべきこと、そして隣人に対しては女性的同情、偏頗心ないし迷信からでなく、理性の導きのみによって、すなわち私が第四部 人間の隷属あるいは感情の力についてで示すだろうように、時と事情が要求するところに従って、援助すべきことを教えてくれるからである。 四 最後にこの説は国家社会のためにも少なからず貢献する。なぜならこの説は、人民をいかなる仕方で統治し指導すべきかを、すなわち人民を奴隷的に服従させるようにでなく自由な動機から最善を行なわせるように統治し指導すべきことを教えてくれるからである。 以上をもって私はこの備考で取り扱おうと企てたことを果した。これで私はこの第二部を終えることにする。私の信ずるところによれば、私は、この第二部で、人間精神の本性とその諸特質とを十分詳細にかつ事情の困難が許す限り明瞭に説明し、そしてもろもろの事柄を、それから多くのやれたこと・きわめて有用なこと・ぜひ知らなければならぬことが導き出されうる。そのことは一部分は次の部から明らかになるであろうのようなもろもろの事柄を述べたのであった。 第二部 終り哲学・思想ランキング
2022年01月13日
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神の存否-288 我々は幼い頃には絵本の童話の森の木が話すとか、サンタクロースのお話にのめり込み、想像を巡らします。 第二の反対論に対して私は、判断を控える自由な力が我々にあることを否定することをもって答えとする。なぜなら、「ある人が判断を控える」と我々が言う時、それは「彼が物を妥当に知覚しないことに自ら気づいている」と言うのにほかならないからである。ゆえに判断の差控えは実は知覚であって自由意志ではない。このことを明瞭に理解するため、我々は、ここに翼ある馬を表象してそのほか何ものも知覚しない一人の小児を考えよう。この表象は馬の存在を含んでいるし(この部第二部の定理一七の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。により)。また小児は馬の存在を排除する何ものも知覚しないのであるから、彼は必然的にその馬を現在するものとして観想するであろう。そして彼はその馬の存在について確実でないにしてもその存在について疑うことができないであろう。こうしたことを我我は日常夢の中で経験する。しかし夢見ている間自分の夢見ているものについて判断を控えたり自分が夢みているものを夢見ていないようにしたりする自由な力が自分にあると思う人はないであろうと私は信ずる。もっとも夢の中でも我々が判断を控えることは起こる。それはすなわち我々が夢見ていることを夢見る場合である。なおまた私は、何びとも知覚する限りにおいては誤っていないということを容認する、言いかえれば精神の表象はそれ自体で見れば何の誤謬も含まないということを容認する(この部の第二部定理一七の備考 我々は、屡々起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。)。しかし私は、人間が知覚する限りにおいて何ものも肯定していないということはこれを否定する。なぜなら、翼ある馬を知覚するとは馬について翼を肯定するというのと何の異なるところがあろうか。すなわちもし精神が翼ある馬のほか何ものも知覚しないとしたら精神はその馬を現在するものとして観想するであろう。そしてその馬の存在を疑う何の原因も、またそれについて不同意を表明する何の能力も有しないであろう。ただし翼ある馬の表象がその馬の存在を排除する観念と結合しているか、あるいは精神が自らの有する翼ある馬の観念は妥当でないことを知覚する場合はこの限りでない。その場合には精神はその馬の存在を必然的に否定するか、そうでなければその馬について必然的に疑うであろう。 これでもって私は第三の反対論 一の肯定が他の肯定よりもよりその実在性を含むとは思われない、言いかえれば我々は真なるものを真として肯定するにも、偽なるものを真として肯定するより以上の能力を要するとは思われないにも答えたと信ずる。すなわち意志とはすべての観念に適用されるある一般的なもの、単にすべての観念における共通物、肯定のみを表示するある一般的なものである。ゆえに、意志がこのように抽象的に考えられる限りにおいては、意志の妥当な本質は、すべての観念の中になければならず、且つこの点においてのみ意志の本質はすべての観念において同一である。それはちょうど人間の定義がまったく同様に各個の人間に適用されなければならぬのと同じである。このようにして我々は意志が常にすべての観念において同一であることを認めうるのである。、しかし意志が観念の本質を構成すると見られる限りにおいてはそうでない。なぜならその限りにおいては個々の肯定は観念自身と同様相互に異なっているからである。例えば円の観念が含む肯定と三角形の観念が含む肯定とはあたかも円の観念と三角形の観念とが異なるのと同様に異なっているのである。さらにまた我々が真なるものを真として肯定するのに偽なるものを真として肯定するのと同等の思惟能力を要するということを私は絶対に否定する。なぜならこの二つの肯定は、その言葉をでなくその精神のみを見るならば、相互に、有が非有に対するのと同様の関係にあるからである。というのは観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しないのだから(この部第二部の定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。とその備考 誤謬が認識の欠乏に存する云々。およびこの部第二部の定理四七の備考神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる云々。を見よ)。 ゆえに、一般的なものと個々のものとを混同したり理性の有ないし抽象的有と実在的有とを混同したりする時に我々はいかに誤謬に陥りやすいかをここで特に注意しておかなければならぬ。 最後に第四の反対論 もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうかに関しては、そのような平衡状態に置かれた人間、すなわち餓えと渇き、ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間が餓えと渇きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら溢死する人間を何と見るべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。 スピノザは「エチカ(倫理学)」の対象を知性と意志を持つものを前提にしたかのように締めくくります。此れは「エチカ」が慈愛の書ではなく、愛の認識による幸福・喜びの書であることを示します。哲学・思想ランキング
2022年01月12日
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神の存否-287 この部第二部定理四九の系 「意志と知性とは同一である。」についての反対論の第一についての返答、反対論の第二についての返答は、意志すなわち同意能力が自由であって認識能力と異なるということ。反対論の第三については、観念の観念の真意、意志と知性の同一への反論への返答です。反対論の第四については人間の自由意志に対しての返答です。 第一の反対論 意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっていることを確定事項と思っていることにある。に対して私はこう答える。もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私は意志が知覚一般あるいは思惟能力一般より広きにわたることはこれを否定する。また何ゆえに意志する能力が感覚する能力に比して無限であると言われるべきかは私のまったく了解しえぬところである。なぜなら、我々が無限に多くのものを(と言っても一つずつ順次にである。無限に多くのものを同時に肯定することはできないから。)同一の意志能力で肯定しうるように、我々はまた無限に多くの物体を、もちろん一つずつ順次に、そして同時にではなく、それは不可能だから、同一の感覚能力で感覚ないし知覚し得るからである。もし彼らが「我々の知覚しえない無限に多くのものが存在する」と主張するなら、私はそうしたものはいかなる思惟をもってしても、したがってまたいかなる意志能力をもってしても把握しえないと答えるであろう。しかし彼らは言う、「もし神が我々にそれらのものをも知覚させようと欲したとしたら、神は我々に、現に与えたよりもより大なる知覚能力を与えなければならなかったであろうが、より大なる意志能力は与える必要がなかったであろう」と。これはあたかも「もし神が我々に無限に多くの他のものを認識させようと欲したとしたら、その無限に多くのものを把握するには、神が現に与えたよりもより大なる知性を我々に与えることが必要であったろうが、実在に関するより一般的な、言い換えれば、より広汎な観念を与える必要はなかったであろうと言うに等しい。なぜなら、我々の示したように、意志とはある一般的な有、あるいはすべての個々の意志作用、言い換えればすべての個々の意志作用に共通のものを説明するためのある観念であるからである。だからもし彼らがすべての意志作用に共通的ないし一般的なこの観念を、我々の精神の能力であると信じているのなら、この能力が知性の限界を越えて無限にわたることを彼らが主張するとしても、何の不思議もないのである。なぜなら、一般的なものは、一の個体にも、多数の個体にも、また無限に多くの個体にも、等しくあてはまるのであるから。哲学・思想ランキング
2022年01月11日
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神の存否-286 スピノザは神学者や教会権威の非難は覚悟の上で「エチカ」の執筆にかかったとはいえ、デカルト哲学への簡潔な手引書として今日なお最高のものである「デカルトの哲学原理」の著者に、同系列ととられては大変、降り懸かる火の粉は払わねばならぬとするデカルト主義の信奉者からの批判には、神学者や教会権威の非難以上の憤りに駆られます。この傾向は異質の宗教・思想・科学的立場より近似の立場により酷い争いがあること頻繁なことからも分かります。 この部第二部定理四九の系・証明に次いで長文の備考の後半部二 これらのことについては以上二、三の注意で十分であろう。だから私は前に予告したもろもろの反対論に移る。 反対論の第一は、人々が、意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっていることを確定事項と思っていることにある。ところで彼らが意志を知性よりも広きにわたると思っている理由は次のごときものである。彼らはこう主張する。経験によれば、我々が今知覚していない無限に多くの事物に同意するためには我々が現に有するよりもより大なる同意能力あるいはより大なる肯定ないし否定の能力を要しないが、より大なる認識能力を要する。ゆえに知性は有限であり意志は無限であってその点において意志と知性とは区別されると。 第二に我々に対して次のような反対がなされ得る。我々が我々の判断を控えて・我々の知覚する事物に同意しないようにすることができることは、経験の最も明瞭に教えるところであるように見える、このことは、何びとも物を知覚する限りにおいては誤ると言われないで、ただ彼がそれに同意しあるいは反対する限りにおいてのみ誤ると言われることからも確かめられる、例えば、翼ある馬を想像する人はだからといってまだ翼ある馬が存在することを容認するわけではない、言いかえれば彼はだからといってまだ誤っているわけではない、ただ彼が同時に、翼ある馬が存在することを容認する場合にはじめて誤るのである、ゆえに意志すなわち同意能力が自由であって認識能力と異なるということは経験の最も明瞭に教えるところであるように見えると。 第三に次のような反対がなされ得る。一の肯定が他の肯定よりもよりその実在性を含むとは思われない、言いかえれば我々は真なるものを真として肯定するにも、偽なるものを真として肯定するより以上の能力を要するとは思われない、ところが、観念にあってはこれと事情が異なる、なぜなら。我々は一の観念が他の観念よりもより多くの実在性ないし完全性を有することを認識する、すなわち一の対象が他の対象よりすぐれていればいるほどその対象の観念もまた他の対象の観念よりそれだけ多く完全である。このことからもまた意志と知性との相違が明らかになるように見えると。 第四に次のような反対がなされ得る。もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうか。彼は餓えと渇きのために死ぬであろうか。もしこのことを容認するなら、私は驢馬もしくは人間の彫像を考えて現実の人間を考えていないように見えるであろう。これに反してもしこのことを否定するなら彼は自分自身を決定するであろう。したがって彼は自分の欲する所へ行き自分の欲することをなす能力を有することになると。 このほかおそらくなお他の反対がなされうるであろう。しかし私は各人の夢想しうるすべての場合を持ち出す義務がないから、ただ以上挙げた反対論にのみ答えることにしよう。しかもできるだけ簡単に。哲学・思想ランキング
2022年01月10日
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神の存否-285 デカルト哲学は現代文明を創造したとも云われる程にその後の思考方法に影響を与えたといえます。彼の方法序説論の思考方法は、現代でも研究者が研究する時に使用する思考方法です。それに対し、スピノザはアルバート·アインシュタインが愛した哲学のようで自然その物を神と思考しています。知性を説明するか、本質を観察する力を説明するのかの立場は似て非ならずの相違があります。此の「似て非なるもの思考・思想・宗教」が却って厄介になり、却って異質な思想より対立・抗争を煽ることは史実が証明しています。 この部第二部定理四九の系・証明に次いで長文の備考の後半部一 しかし前定理をいっそう詳しく説明するため に二乃至三の注意すべきことが残っている。なおまた、我々のこの説に対してなされうる諸々の反対論に答えることが残っている。最後に、すべての疑惑を除去するため、この説の二乃至三の効用を指摘することを徒労ではないと私は考えた。二乃至三のと私は言う。なぜなら、主要な効用は、第五部 知性の能力あるいは人間の自由について、で述べることからいっそうよく理解されるであろうからである。 そこで第一の点から始めるとして、私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表象する事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する言葉とを、区別することが必要である。なぜなら、この三者すなわち表象像、言葉、観念を多くの人々がまったく混同しているか、そうでなければ十分正確に区別していないか、あるいはまた十分慎重に区別していないかのために、意志に関するこの説は、思索のためにも、しいては学問のためにも、賢明な生活法樹立のためにも、ぜひ知らなくてはならぬことであるにもかかわらず、まるで彼らに知られていなかったのである。実に彼らは、観念を、物体との接触によって我々の中に形成される表象像であると思っているがゆえに。我々の脳髄に何の痕跡も印しえない事物、すなわち我々がそれについて何ら類似の表象像を形成しえない事物の観念は、実は観念でなく、我々が自由意志によって勝手に造り出す想像物にすぎないと信じ込んでいる。だから彼らは観念をあたかも画板の上の無言の絵のごとくに見ているのである。そしてこの偏見に捉われて、彼らは観念は観念である限りにおいて肯定ないし否定を含んでいるということに気づかないのである。次に言葉を、観念あるいは観念が含む肯定と混同する人々は、自分が感覚するのと反対のことを単なる言葉だけで肯定ないし否定するたびに自分は自分の感覚するのと反対のことを意志することができると信ずるのである。 しかし延長の概念を全然含まない思惟の本性に注意する人は、これらの偏見から容易に脱することができるであろう。そして彼はこのようにして、観念は思惟の様態であるがゆえに、観念が物の表象像や言葉に存しないことを明瞭に理解するであろう。なぜなら、言葉および表象像の本質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだからである。哲学・思想ランキング
2022年01月09日
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神の存否-284 この部第二部定理四九の系・証明に次いで長文の備考が載せられています。此の備考は当時のオランダの政治情勢でオランダ総督を戴いた教会派神学者に無神論者と指摘される程のスピノザに、思想的に近隣とされたデカルト主義者が、好意派だと目されるとばっちりを避けようとの思いがスピノザ批判に追い撃ちをかけ、そのデカルト主義者への鋭い批判が憤りとなって追記されたものでしょう。 備考 これでもって我々は通常誤謬の原因とされているものを取り除いた。ところでさきに我々の示したところによれば、虚偽〔乃至は誤謬と解せられる〕とは単に毀損し混乱した観念の含む欠乏にのみ存するのである。ゆえに偽なる観念は偽である限りにおいて確実性を含まない。だからある人間が偽なる観念に安んじて少しもそれについて疑わぬと我々が言う場合、それは彼がそれについて確実であるというのではなくて、単にそれについて疑わぬというだけのことである。あるいは彼の表象を動揺させる原因、言いかえれば彼にそれを疑わせる原因が少しも存在しないから彼はその偽なる観念に安んじているというだけのことである。これについてはこの部第二部の定理四四の備考(我々は物を現在に関してもあるいは過去ないし未来に関しても偶然なものとして表象するであろう。)を見よ。したがってある人間が偽なる観念にどこまでも固執する。そして誰も彼にそれを疑わせることができないと仮定しても、我々は彼がそれについて確実であるとは決して言わぬであろう。なぜなら我々は確実性をある積極的なものと解し(この部第二部の定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。および、その備考 要約 我々の精神は物を真実に知覚する限りにおいて神の無限な知性の一部分である。したがって精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。を見よ)、疑惑の欠乏とは解しないからである。これに反して我々は確実性の欠乏を虚偽と解する。哲学・思想ランキング
2022年01月08日
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神の存否-283 この部第二部定理四九の系で、我々が通常使い分けて使用している意志と知性を同義だとします。我々が通常一般に使い分ける用語に「知情意」があります。「知情意」とは、「知性」と「感情」と「意志」の三つのことを指します。 もともとは哲学者カントが提唱した言葉です。 「知性」とは、知識や思考といったものを活用すること、「感情」とは、喜びや悲しみや怒りなどのこと、「意志」とは、意欲や精神力・決断を指します。一般辞書では感情を加えて「知情意」とは、「知性」と「感情」と「意志」の三っつのことを指すとあります。 もともとは哲学者カントが提唱した言葉で、 「知性」とは、知識や思考といったものを活用すること、「感情」とは、喜びや悲しみや怒りなどのこと、「意志」とは、意欲や精神力・決断を指します。此れ等を「三つの心の働き」と捉えて、知性と感情と意志を解釈します。一般的には知性とは学び知ることで、強くなる心であり冷静に判断していく心だと思います。感情とは何でしょうか。喜怒哀楽感情の心とは、出来事に反応する心。内側から沸き上がる心だと思います。では、第二部定の理四九の系で用いられている意志とはなんでしょうか。何か目指すものに対して揺るがない気持ちという意味合いです。ところで「意思」は、自分の考えや思いという意味合いがあり意志とは区別されます。意志は、何か目指すものに対して揺るがない気持ちという意味合いがるのはよく知られています。今回スピノザの言う「意志」の語何か目指すものに対して揺るがない気持ちを持つということになります。なんの目標も無く、意志だけを持つことは無いと憶えます。意志を持つに至るためには、それまでの自分と向かい合って、自分に足りないものや、知らないことを学び、身に付けていこうという明確な目標を持った時に、それを自分なりに成りたい自分として志すことが意志となっていくと思います。意志の心とは、これまでの反省から芽生える心。学んで身に付けようとする心だと思います。ところが、意外にもスピノザは意志と知性とは同一だと解します。 系 意志と知性とは同一である。 証明 意志は個々の意志作用そのものにほかならぬし、知性は個々の観念そのものにほかならぬ(この部第二部の定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進むにより)および、その備考 精神の中に認識し・欲求し・愛しなどする絶対的な能力が存しないことも、これ(因果)と同一の仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物であるか、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的概念にほかならないということになる。したがって、知性がこのあるいはかの観念に対し・意志がこのあるいはかの意志作用に対する関係は、石なるもの一般がこのあるいはかの石に対し、人間なるもの一般がペテロあるいはパウロに対する関係と同様である。なお、何ゆえに人間が自分を自由であると思うかの理由は第一部の付録(要約:神が必然的に存在すること、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因であること、ならびにいかなる意味で自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力による云々。により)。ところが個々の意志作用と個々の観念とは(前定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。により)同一である。ゆえに意志と知性とは同一である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月07日
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神の存否-282 スピノザにおける「観念(idea)」と「自己の有に固 執する力」であると共に「行為する力」でもある「コナトゥス(conatus)]は統一的なものとして把握します。「エチカ」第二部終盤と同書第三部に登場する「意志(voluntas)」は概念が一義的 に用いられ、スピノザが決定論的な「判断の意志説」というべき立場を支持しており、「判断の意志説」、判断を意志の能力に依拠する心的働きと見なす故、意志と知性とは同一との説を成します。此の点でデカルトおよびスピノザの意志と判断に関する見解は似通います。デカルトとスピノザに帰されている立場は、「意志の判断説」、または「意志の主知説」と呼ぶ ことが出来得ます。つまり意志を知性能力の一部と解された「判断」に従属させる見方なのでしょう。然し乍ら、少なくともデカルト、意志を自由な選択能力として解する立場からであるとしても、 むしろ「判断の意志説」、または「判断の主意説」と呼ぶべき立場、つまり判断を知性ではなく意志に従属させる立場をとっていたと見る方が妥当でしょう。デカルトの神は意志の力によって数学的真理をも変更し得る権能を備えており、人間の意志はそのような神の意志に匹敵するものとして、敢えて数学的真理をも懐疑の俎上に上せることを明晰な知識にもとづいて決断できるとします。此れは現代物理科学の恩恵を受けている現代人はマルチユニバース候補の第一原理は別として、第二・第三・第四候補を受け入れないユニバース宇宙論の世界=自然=法則=数=神の立場にたてば、デカルトの神が意志の力によって数学的真理をも変更し得る権能を持つというのは、まさかデカルトが協会権威を恐れていたとも想えず、スピノザならずとも疑念に駆られます。哲学・思想ランキング
2022年01月06日
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神の存否-281 スピノザが本著に「エチカ(倫理学)」という名を冠したことからも窺えるように、彼は元来は何が真であるよりは何が幸福であり、何が善であるかを考究の対象としたした哲学者です。近代西洋哲学に名を成さしめた「善の研究」の著者である西田幾多郎が「エチカ(倫理学)」などのスピノザ哲学の影響を受けたことは疑いを得ません。 定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。 証明 精神の中には(前定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進むにより)意志したり意志しなかったりする絶対的能力がなく、単に個々の意志作用、すなわちこのあるいはかの肯定、ないしこのあるいはかの否定があるのみである。そこで今ここにある一個の意志作用、例えば三角形の三つの角の和が二直角に等しいことを精神に肯定させる思惟様態を考えよう。この肯定は三角形の概念あるいは観念を含んでいる。言いかえればそれは三角形の観念なしには考えられることができない。なぜならAはBの概念を含まなければならぬというのとAはBなしに考えられることができないというのとは同じことだからである。次にこの肯定は(この部第二部の公理三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。により)三角形の観念なしには在ることもできない。ゆえにこの肯定は三角形の観念なしには在ることも考えられることもできないのである。さらにまた三角形のこの観念はこの同じ肯定を、すなわちその三つの角の和は二直角に等しいということを、含まなければならぬ。ゆえにまた逆に三角形のこの観念は、この肯定なしには在ることも考えられることもできないのである。したがって(この部の定義二それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言う。により)この肯定は三角形の観念の本質に属し、結局三角形の観念そのものにほかならない。そして我々がこの意志作用について述べたことは、我々はそれを任意に選び採ったのであるから、すべての意志作用についても言われうる。すなわちすべての意志作用は観念そのものにほかならない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月05日
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神の存否-280 定理四八 備考 精神の中に認識し・欲求し・愛しなどする絶対的な能力が存しないことも、これ(因果)と同一の仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物であるか、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的概念にほかならないということになる。したがって、知性がこのあるいはかの観念に対し・意志がこのあるいはかの意志作用に対する関係は、石なるもの一般がこのあるいはかの石に対し、人間なるもの一般がペテロあるいはパウロに対する関係と同様である。なお、何ゆえに人間が自分を自由であると思うかの理由は第一部の付録(要約:神が必然的に存在すること、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因であること、ならびにいかなる意味で自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力による云々。の中で説明した。 だが先へ進む前に、ここで注意しなければならないのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し・偽なるものを否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいは忌避させる欲望とは解しないのである。しかし我々が、これらの能力は一般的概念であってそれは個々のものから形成され実は個々のものと区別されないものであるということを証明したので、今度は、その個々の意志作用が事物の観念そのもの以外のある物であるかどうかを探求しなければならぬ。つまり精神の中には観念が観念である限りにおいて含む肯定ないし否定以外になお他の肯定ないし否定が存するかどうかを探求しなければならぬ。観念が観念である限りにおいて肯定ないし否定を含むことについては次の定理四九ならびに、この部の定義三(観念とは、精神が思惟する物であるがゆえに形成する精神の概念のことと解する。説明 私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から働きを受けることを示すように見えるが、概念はこれに反して精神の能動を表現するように見えるからである。)を参照して欲しい、そして思惟を絵画に堕さしめないようにしてもらいたい。なぜなら私は、観念を、眼底に形成されるとされる脳の中央も表象像とは解せずに、思惟の概念、あるいは単に思惟の中に存する限りにおける事物の想念的有と解するからである。哲学・思想ランキング
2022年01月04日
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神の存否-279 スピノザの精神の語彙・概念とは如何なるものなのでしょうか。例えば、日本語の「精神」は、中国語に既にあったものを流用、漢語系語彙として使用してきたが、明治の文明開化以来、ギリシア語: Pneuma、ラテン語: spiritus、英語: spirit、フランス語: esprit、ドイツ語: Geist等の訳語としても使われていますも。日本語では、「精神」と「理念」と「スピリット」などと別表記にして相互に関連が無いと思い込んでいても、元のインド・ヨーロッパ語族の話し手は同一語を使っており、なんらかの語感を意識して込めている場合が多いので注意が肝要です。また中国では、「精」と「神」とを組み合わせた古い漢語であり、元来は元気や、物体が他の物体に対して仕事をすることができる能力(エネルギー)という意味でした。これが今日のような「物質」の対義語として使われるようになるのは、明治の日本でドイツ語のGeistなどの翻訳語に選ばれて以来のことです。インド・ヨーロッパ語族の語の示す概念の広がりと似ており、背景となっている「気」が精神と物質との双方を包摂した概念であり、「気」は純度に応じ「精」「気」「神」に細分され「精」においては物質的、「神」においては精神作用も行うとされています。一般には精神は、魂ないし知性を持たない物質、あるいは、魂を持つが知性を持たない生物動植物との対立に置かれます。一方で唯物論においては一般に精神を独自の存在として立てず、精神を人間等の体内での微小物質の運動として記述する事が古代より行われてきたのであり、スピノザの精神の概要が解らないと「エチカ」第二部が曖昧模糊になります。近代西洋哲学用語としての精神は、知性的存在者の認識能力、意志能力、判断能力の総称であり、論者によっては理性、悟性、知性などと同義に用いられます。まれには魂と同義に用いられるが、一般には、感情、知覚、受動性にかかわる能力とされる魂に対して、精神は能動的で知性的な働きとされる事が多いでしょう。 スピノザの精神の段階的区分は、第一種の認識 観察または伝聞による認識である知性。第二種認識 推論に基づく論理的認識である理性。、第三種の認識 神の属性についての十全な観念から、事物の本質についての十全な知へと進むもの、直観的なものであり、論証的なものではない、神の認識そのものを基礎とする認識。受動的感情の位置付けうまく利用することによって能動的な活力へと転化する感情の療法、瞑想・座禅等を通じて感情が精神の極小部分を構成するようにさせ得る自分なりの「行」、人間の身体刺激から生じる感情からの逸脱と制御を永遠性や至福につながる「直感知(記者は直感知と著します。)」として位置付けます。なかでもスピノザは永遠性や至福につながる最高の喜び「至福」が「倫理の実践」に求めます。哲学・思想ランキング
2022年01月03日
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神の存否-278 精神の因果律からみて、その経緯は我々が普段に感じている精神精神の自由は寧ろその自由を裏切るように思えます。まして人間組成が此の人類が在する宇宙である限りにおいては精神は、信仰・神秘主義を除けばその影響の範囲外には及びません。個々の出来事を原因として個々の出来事が生じる機械的・因果連鎖である水平的因果性と呼ばれるものだからです。いろいろな解釈、特に神の永遠性によって「垂直的因果性」と呼ばれるもがある。神の属性である永遠の瞬間という本性に規定されており、その属性に属するものは其の俯瞰性によりいかなる事物も生成する可能性が完全に規定されているとスピノザは看做します。どのような物体も、それを規定する物理法則によって規定された可能性に基づいて生成するようなものであるとするのです。 定理四八の証明 精神は思惟のある一定の様態であり(この部第二部の定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。により)、したがって(第一部定理一七の系二 単に自己の本性の必然性のみによって働くひとり神のみが自由原因である。により)自己の活動の自由原因でありえない、あるいは意志したり意志しなかったりする絶対的な能力を有しえない。むしろ精神はこのことあるいはかのことを意志するように原因によって決定されなければならぬ。そしてこの原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され云々(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年01月02日
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神の存否-277 人間精神の自由意志とは、人間夫々の身体の心の在処のうちにあって、自然の因果の必然によって規定されずに自発的に発動する能力が自由意志であるとします。そうした能力の存在は、選択とか意志決定の自由として意識されています。もっとも、スピノザによれば、人間が自由意志をもつと信じるのは行為の真の原因について無知であることによるので、人間の意志や行為もすべて因果の必然によって規定されていることを強調します。このように自由意志の存在を否定するのが決定論で、現代の科学者や科学哲学者のなかにも決定論者は多く存在しています。然し乍ら、精神の自由をスピノザの人間精神の自由意志を更に推し進めたカントによれば、理論的認識の妥当性は因果律が支配する現象界に限定されるから、自由の存在は理論的には証明不可能であるが、しかし実践理性は人間が従うべき道徳法則の存在を認め、そこから自然の原因性とは異なった自由の原因性が英知界において成立することを確認する。すなわち意志の自由は、自分自身に対して道徳法則を課し、かつそれに従うといった意志の自律であって、この自由は非決定論的な選択の自由ではなく、道徳法則によって規定された善への自由を意味する。なおヘーゲルは、カントの説く自由はまだ有限的で主観的な意志の自由にすぎないと批判し、真に無限にして自由な意志は、即自かつ対自的にある意志で、それは意志の形で自己を貫徹する思考であり、したがって自由とは、実は「認識された必然」にほかならないと考えたとしますが、「認識された必然」を「神の必然」と捉えればスピノザの精神自由論は誤謬なき正論となります。 定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。 此の定理四八は大乗仏教の祖「空論」を著した龍樹(ナーガールジュナ)の縁起の否定にはどう対処するのでしょうか。 世間では巷を騒がせる多くの無差別犯罪を代表に、それが恰も精神の自由のごとく捉え其の拘束を訴える向きもありますが、其れ等は誤った認識の拘束から逃れられない精神の奴隷状態にあります。たとえば、犯罪の前に身体に震えが見られるのは其の例でしょう。一方、道徳法則によって規定された善を、自らの編み出す善を神の意志として誤認識した場合です。この場合には歴史が示すように世界秩序にさえ驚異と成り得ましょう。哲学・思想ランキング
2022年01月01日
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