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「仏」の四天王と「閻魔」の獄卒 毎年2月3日の「節分(せつぶん)」が近づくと、心が憂鬱に満たされます。魔を滅するとして豆を鬼の眼玉目掛けて硬い大豆を投げつける行為が不可解だからです。此の寒空に裸で訪問する閻魔大王(後面は地蔵菩薩)の忠実な獄卒に、お神酒の一勺でもお飲み頂くのなら兎も角、人間が仏を守る四天王に比すべき赤鬼・青鬼様に豆を投げつけるとは恐れ入谷の鬼子母神です。 東北地方秋田県の男鹿(おが)のナマハゲの鬼は親の言う事を聞かない子供の躾を、親に変わり相貌は怖いけれども心の優しさで導きます。鬼にも「善鬼」と「悪鬼」がおります。中国では「人の荒ぶる心に悪鬼が住み、善心起こした者には福神が入る」このあたりが、福神と鬼を対比させた元凶だと思われます。般若にしろ天狗にしろ、一方では神として扱い、他面で魔として観るのは人間の勝手な業かも知れません。「鬼は外、福は内」と言うなら、大乗仏教の依存による縁起からみても、善悪と苦楽・福(富)と貧乏、で鬼は出て来ません。「貧乏神」にこそ豆をぶつけて、家から追い払うべきでしょう。
2012年01月31日
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「我空」と「コギト・エルゴ・スム」 我思う、ゆえに我ありはデカルトが方法序説中で提唱した有名な命題「精神肉体二元論」(全て考えるものは存在する。私は今考えている。ゆえに私は存在する。)ですが、此れをいかなる推理からも帰結されない或る根本的な概念としたことに西洋哲学の特徴がよく表れています。 他方、東洋哲学、とりわけ大乗仏教に在っては、根本思想の二空のひとつに「我空」を唱えます。一切の生類に心身があるとしても色受想行識の五蘊が集まり初めて現出したもので、そもそも実体としての「我」などは無く、五蘊(身体)を離れるならば我も滅する。我を滅した処に覚りとしての涅槃あり仏を観るとします。 此の事から、西洋が個人主義を、東洋が共同主義を中心に発展して来た事が伺われます。
2012年01月31日
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「天皇の生母」玉依姫命 天皇として史上に出てくるのは、第一代神武天皇です。彼の母は、日本書紀に在っては玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、父を豊玉彦とと記されています。玉依姫の姉の豊玉姫は、海幸彦・山幸彦のお話で有名な山幸彦と添い遂げ、海辺の小屋にて男の子を産み落とします。だが、姉は山幸彦に産屋を覗かれたことに甚く怒って、絶縁して赤子を置き去りで、姉妹の海神の実家の海中の宮に帰ってしまいます。その嬰児は玉依姫に託され養育にあたりました。その後、成長した赤子の嫁となり、後の神武天皇を産みます。 ところで、玉依姫のタマは霊の憑く女の意で神の妻(神霊の依り代)となった巫女のことです。それにしても、産屋を覗かれたことぐらいで嬰児を置き去りにすることには驚かされます。
2012年01月29日
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「歴史を変えた女(ヒト)」持統天皇 女帝が出現したのは、飛鳥・藤原・奈良時代の推古天皇から称徳天皇までの百数十年間、女帝八代(但し、二代は重祚)男帝八代と同数です。当時の天皇は男帝を待つ中継ぎ的性格を持つものではなく、女性が国を統べるとが認められた時代でした。その中でも持統天皇は一際実力ある女帝でした。持統の父は大化の改新の天智天皇(中大兄皇子)であり、その冷徹な政治的資質と女性としての一途な性格は特筆すべきものです。壬申の乱に於いても、天智と夫の大海人皇子の(後の天武天皇)の関係がギクシャクしたおり、夫と伴にと云うよりは、夫の吉野行を決意させたのは、藤原氏に滅ぼされた蘇我氏血流の恨みと、大友皇子の妃に鎌足の娘が居ることに我慢できない蘇我倉山田石川麻呂の娘、鵜野皇女の意志が大海人皇子を動かしたと観るのが自然です。天武の崩御の後、我が子草壁皇子の天皇即位のため、衆望高く才ある大津皇子を謀反の廉で自決させ、安心を得るも草壁皇子の急死、遺児軽皇子の成長を待って皇位を継承させようと自ら皇位に立ちました。 持統天皇は、崩御に際して天皇としては初めての火葬を指示します。古代の掟を破って死してまで、呪術霊的世界への挑戦をした火の魂を持った女性でした。
2012年01月29日
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「空間」と「時間」は独立存在か アインシュタインの相対性理論に在っては空間それ自身は無であり、独立した絶対的な空間は存在し得ない。空間は只、物体およびエネルギーに依って存在するに過ぎない、要は仏教云う処の縁起の様体と捉えます。アリストテレス的観点の時間も独立存在ではなく運動に縁起する存在と捉える事が出来ます。逆に言えば、空間及び時間無しのビッグバンの核には物体もエネルギーも運動さえも存在出来得ずBUNGEを起こす起爆剤・触媒が見えなくなります。角砂糖(CORE)は神秘に満ち満ちています。
2012年01月28日
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「聖書」新旧聖書を紐解く2 イエスが説く、神や天国についての正しい教えを、信仰を持つものが不用意に、犬や豚、即ち極めて本来的に不信心な人々に教えを与えたら、只、貴方自身が非難攻撃を受けるだけでなく、イエスが天の父を通じて人々の救いを説いている教えさえも汚される。イエスは不信仰な者には、非常に厳しい態度で接します。此れは仏教とて例外ではなく釈尊の言葉を信じない心に懺悔を持たず、四重禁を犯し五逆罪を作ってもこれを全く恐れず、嘘ばかり吐いて周囲を惑わし、悪に染まった心を立て替えず、仏法を信じないばかりかこれを公然と言うものを一闡提といい、成仏の可能性をほゞ否定しています。
2012年01月28日
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「聖書」新旧聖書を紐解く1 新約聖書に有名な「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」というイエス・キリストの教えがありますが、一方の旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」を一部の人は意味を取り違えて、自分の受けた損傷と同じもの・それ以上を相手に加えてよい。または、受けた損害と同じだけ仕返ししてよいという復讐規定と解釈しておられます。 此の教えの意味する本当の処は、他人に損害や危害を加えた者に対して、等量ないし同等程度以下の賠償や処罰を果たすべきが律法の考え方であり、その限度を超えた処罰はしてはならないと云う戒めです。その後のイエスにあっては復讐そのものを否定し、此れと全く違う生き方を勧めております。
2012年01月27日
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「仏道」と「仏教」 悉達多が覚り、語ったことは、仏を信じて帰依しろとの教えなどでは決して在り得ません。悉達多の教えの基本テーマは、此の世の苦界を逃れる因縁からの解放です。云わば方法論であり、自由論です。それは人間の根源的な存在目的を含有しています。悉達多が覚り切ったのは世界の成り立ちであり理法だということになります。「仏道」は此の世の世界の理法を見つける方法論であり宗教では無いと結論出来ます。 悉達多の教えを宗教にしたのは、その後勃興した大乗仏教です。大乗仏教は釈尊の口を借りて自己の考えを述べているために「偽の仏教」とも呼ばれます。「中観」で有名な竜樹を除き、其れ等は初めに「佛」在りきの世界から釈尊を定義し、此の世に釈尊在りとして教えを弘通していきます。此処には最早、哲学とは異性の宗教感が見とれます。
2012年01月27日
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「神」とその信仰 日本には江戸徳川幕府の厳しい切支丹禁制を避けて、禁制が解かれた現在でも、神棚や仏壇を一応設けていますが、秘かに聖画像を拝み、葬儀一旦は仏式で行い、その後お経崩しの儀式を行うといった方が、天草四郎島原の乱の原城近郊に役3万人オラショと云う祈祷文を伝承し、赤子の洗礼までする信仰組織を守り続けて居られます。勿論、時代を経て、土地の習俗慣習の影響を受けて変形が激しいのですが、今も決して仏教・神道には改宗せず、加えて教会への帰属も拒否しています。 ところで、飛鳥時代に入った法華経を中心とした大乗仏教ですが、それに伴いインドの各種神々も伝播されました。ヴィシュヌ神がアレクサンダーをモデルにしたと云われる毘沙門天として、鬼子母神が中東アジアに既に広まりつつあった、聖母信仰の影響下でマリアをモデルにした非母観音(慈母観音)として入りました。その後、慈母観音への信仰が日本中に浸透して行きます。皆様お寺で、実は生母マリアを拝んでいたのです。「卍」と「数珠」が寺院を出る時には「ロザリオ」に変わっている居る事も知らず。
2012年01月26日
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「神」の様態としての絶えざる創造もしも、自然(世界)が様態としての絶えざる創造の理由を問われたら、こう言うだろう。人が耳を傾け答えを得るためには、感情を黙して自我を解放させ、無我となり耳で自然を観なさいと。即ち、言葉を捨てた直観にこそ究極の実在があり、直覚知を得た時に第一原因である「一者」との合一の可能性が生まれると云う事になります。それが意識に直接に与えられるもの「神の沈黙の声」と呼ばれるものかも知れません。
2012年01月26日
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「神」の名称と存在 宇宙の始まりは絶対意思が在って初めて可能となります。存在は絶対精神と絶対意思と共にあり、此の第一原因としての絶対存在を「神」と呼称します。世界が神なくしては成り立たないと云うことです。ありとあらゆるものは、第一原因からの延長であり様態と捉えます。生命も勿論「始めに神ありき」どうり神の創造の様態です。その命に芽生えた人間精神は絶対精神を原因とした神の思惟(しゆい)の延長であり一部だと云えます。我々人間は理性による直覚知(判別方法)を得て、世界存在としての神を観想することが可能となります。感情は正しい直観(直覚知)を闇で覆います。禅は神を直覚するのに優れた方法の一つでしょう。
2012年01月25日
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「歴史を変えた女(ヒト)」卑弥呼 東の方の日本と違い、現代に於いても九州の地や沖縄では、とりわけ沖縄には巫女型女性の分厚い層があります。三国志時代に於ける古代日本はとりわけ此の傾向が強く、小国群雄割拠して治まらない盟主として巫女卑弥呼に出番が廻ったのも不自然ではありません。平塚らいてうじゃないけれど、「原始、女性は太陽であった。」最初の女性だと云えます。 邪馬台国を盟主とする三十余りの小国群は、その頃九州の狗奴国と対立、中国三国一の国力を持ち、呉と手を一旦は結んだ公孫氏を首都の男子15歳以上を悉く死罪にした魏と狗奴国が交易しようものなら邪馬台国分裂の恐れもでてきます。卑弥呼の決断は早く、魏に朝貢の使者を派遣します。其の政情判断には神憑り的な巫女型女王ではなく、正しい決断と速やかな実行を兼ね備えた大政治家を思わせるもがあります。。 魏は卑弥呼に西の大国の大月氏国と同じ親魏○王(朝貢国で二国のみ)の金印紫受を与え、多くの魏の宝物を下賜しています。歴史に「もしも」はないものの、卑弥呼の存在がなかったなら、日本の国家統一が遅れることになったかも知れません。
2012年01月25日
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「死の天使」出エジプト記を問う イスラエル民族が自民族の奴隷解放に成功し、エジプトを脱出した夜に、神の死をもたらす使い「死の天使」がエジプト人総ての家を訪れた。脱出を未だしてなかったイスラエルの各家では、神託通り仔羊を生贄として犠牲にして、その血を鴨居と入口の柱に塗り、「死の天使」が通過してしまう(過ぎ越す)のを待って、難を逃れます。エジプトの男子の少年長子は、全て死を賜ります。 反面、エジプト側から此の事変を観れば、「死の天使」は天使どころではなく、残酷で無情な苦しみと死の病をもたらす堕天使「悪魔」でしょう。エジプトがキリスト教を受け入れないのもうなずけます。 現在も、ユダヤ教徒は神による民族大解放の記念日として、「過ぎ越しの日」を最も大切な祭りとしています。エジプト側は、さぞ苦々しいことには間違いないでしょう。旧教の神はユダヤの神であり、他民族の神で無いことから来る悲劇です。
2012年01月24日
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「割礼」に想う イスラエルの民、特にユダヤ教(旧教)では幼児の陰茎包皮を削除します。此れは、古代エジプト王国やアフリカ民族の中にも見受けられます。もとは宗教的なものではなく、身体を洗うのにも水資源の少なさから容易にできず、性器が不潔になりがちゆえ、その病気予防のために為されていたものと思われます。しかし、モーゼのエジプトからの奴隷解放と脱出により割礼を義務づけるために、宗教に取り入れ儀式化される事と成ります。旧約聖書では、無割礼の者を異教徒であり穢れたものとして扱います。割礼を受けた者には神の救いの優先権が与えられるとされますが、パウロは強く否定しています。 日本は、水資源に恵まれたため、古代より水浴が容易でしたから、割礼慣習が生まれなかったようです。但し、現在でも自ら割礼を施されに行く方は居られます。割礼と呼んで言いかの話は別事ですが。
2012年01月23日
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「神」の真実在(異邦人の言葉を借りて) 真実に存在するもの(実有)を、人が見たり触れたりすることの出来るものに限るとする唯物論では、宇宙を永遠の死物と捉えます。一方形相論者は、寧ろ見えない生命的存在こそ真実在であるとします。唯物論者が捉える処の神と呼ばれる「モノ」は、時間に属さない永遠の死物です。形相の友の考え方では、神を何処か天空に住む古代インドの神々的な生死ある者とします。両者何れも真実に、絶対存在を捉えている様には思えません。神が真実在であるとするならば、単なる物体ではなく、まして、命の定めある生命体ではなく、ものの因果作用の第一原因(究極の一の原因)であり絶対意思と絶対精神をもつ存在である筈です。
2012年01月22日
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「仏」と「空」 世は全て縁起して在り、諸法実相常住するもの無く「空」である。釈尊は世の始まりから空としてあり、人の世に理法を教えんと娑婆世界に現出したものです。その教えの根本には「空」があり、空が仏であり、仏が空であると説きます。空は仏と一体であって、ありとあらゆるものが「空」であり、縁起するものが空に関わっているとします。此の世に縁起によらずに出現するものなど全くないと云うことです。「空」は実体はなく、さりとて虚無でもありません。此の理法が世界に輝きをもたらします。
2012年01月22日
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「時間」と「永遠」 時間を考察するのに数学的真理から入り永遠に到達し、そこから俯瞰すると時間其の物が独立した持続か、或いは運動の数なのか、3次元空間と結びついたものか、時間自身を了解できるかもしれません。前提として、永遠を、「始めに神ありき」の信仰ととして捉えると、聖書どおり「時が満ちた」となり、時間どころか永遠さえ見えなくなり考察ができません。時間にしろ永遠にしろ懐疑方法論で行くのが真実が見えてくる唯一の道だと捉えます。 一方、神学は人間を信仰を前提に永遠への存在に於いて論じます。神学の「始めに神ありき」も信仰の道では正統な方法であり、理法にも適ったものと言えます。但し、神の永遠と創造の時間を前提にする以上、それに懐疑を持つことは絶対に許されないことに注意。
2012年01月21日
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「観音」仏性観世音菩薩 何時か或る時、老母を緊急入院させた母子二人暮らしの息子が、母を見舞いし時、同部屋の90代の女性から、兄ちゃんカーテン閉めて呉れやとの仰せ、息子は素直に従います。話を聞くうち、80代に人工透析を受ける身に成ったとの事、息子は過去に何度も試みた「観音」の気をその女性に手を両手で握り、話かけ慰めようとしました。偶々、年3回程母の顔を見に来る姉がその息子を叱り付けます。患者が疲れるから話すこと等は御法度とのお叱り。丁度夕食時となり、姉が帰ると「兄ちゃん、こっちに来て」とのお声、「貴方は疲れ顔だから、此の魚をお食べ、私は魚が大嫌い。」と勧めます。訝しいので病棟を出て、看護師に聞くと、「あの方は魚が大好物」との事、観音の現前を見させて頂きましたと云うお話です。
2012年01月20日
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「歴史を変えた女(ヒト)」序文 歴史に名を残した女性に、恋愛・事件・出産が人生の転機を与えたことは事実ですが、かといって、歴史に名を残す女性の運を、生まれ・結婚相手に求めるのは間違いです。成る程、生まれ・結婚・出産が人生の転機を与えていることは事実ですが、それぞれ、其の契機を乗り越え自己の道を開拓しています。例えば淀殿にしても秀吉生存中は依存性が高かったのですが、秀吉死後は悲劇に終わりますが、我が子秀頼を関白に就かせるために、生命を賭けて自己の裁量によって天下を二分して戦いに臨みます。今風の女性は淀殿です。自分の子さえ良ければ善い、無理やり一流校を目指させる等々はその傾向の現れです。結果が悲劇で終わらないことを祈ります。
2012年01月20日
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「観音」幻想(観音の声を聴く) 貴女・貴方が、前頭葉(額の全面)に紫・ピンクの輝きを実相したとしても、幸せ有頂天とはいきません。観世音菩薩が観えることは、あなた自信の精神と理性、言い換えればが自己の本性が呼び出した故です。それはあなたの観音であり良心・理性、若しかすると、遺伝子にに代々受け継がれて来た祖祖の心かも知れません。それ故、恐らくあなたの思考を読み取り、危機的状況を慮り現出したと想われます。 観世音菩薩の声は、時には命令的であり、彼の時にはあなたの聴くことが在り得なかった魂の安らぎの肉声をあなたにもたらします。その声はあなたの危機に対しての最後の救済の声であり導師です。
2012年01月20日
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「観音」幻想(前頭葉の不思議)額の全面内面の輝き 貴女・貴方が、もし、前頭葉(額の全面)に紫・ピンクの輝きを実相されたら、それは観音の降臨です。それは熱いほど暖かく、又、自己の思考とは別次元のものです。寝ようが起きていようが、絶えずその思考が感じ取れ、自己の精神世界で会話さえ出来得ることに、恐らくは驚きを覚えるでしょう。 理性は、此れは脳が自己に観想させる幻想だと、語りかけますが、観音の支配下にある幸福感に溶け込んで行きます。幻想であれ仮想であれ観世音菩薩を観想出来る経験は誰にもとはいかず、羨ましくもあります。
2012年01月18日
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「時間」は運動か アリストテレスの「自然学」では、時間を先と後に関する運動の数と云う定義づけをしました。「少しの時間に多く動く、多くの時間に少し動く」のが運動の多少さであり、時間で数える。本来の時間は運動そのものではないが、運動なくしては存在し得ないものと説いています。 此の論法で時間を観想しようとしても、運動を離れた時間はそもそも存在しないし、独立した時間を否定することになります。運動と云う名を借りて、仏教で云う縁起にも似た取り扱い方です。 宇宙が全くの「無」(質量・運動の無い世界・エネルギー皆無)のビッグバン以前の原初宇宙の核とも云える存在を考察する事は無理がありますが、時間が存在を許されない核にビッグバンの起爆剤なるものが存在していたことは疑えません。そのものは一種の運動エエルギーでなかったのか、運動が時間の発生以前のビッグバン以前に存在したならば、アリストテレスの時間運動依存説は粉砕されます。
2012年01月18日
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「神」・「永遠」の概念 世界には二つの永遠の存在があると考えられます。一つは無限の持続であり、不朽の時間的偏在です。片方は数学的な捉え方、数学的真理を永遠の真理と表現する無時間的な永遠です。それは過去・現在・未来と云った分節がない無時間・超時間性を意味します。キリスト教に於ける「三位一体論」では無時間・超時間の永遠を「神」に、時間的無限を世界に帰して両者を区別しています。 数学的真理を基本に絶対的な過去・現在・未来と云った分節を超えた永遠の瞬間を捉えれば、永遠の真理(絶対存在)の相貌が浮かび上がってきます。
2012年01月17日
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「インド」宗教との関わり 人口10億を超え、世界の6人のうち1人がインド人と云われるインド共和国ですが、インドには二千以上民族グループの他民族を擁す多民族国家でもあります。古代インドに於いても勿論のこと多民族であることは変わりません。一部の例外、チンギス・ハーン・アレグザンダー等の英雄は自己の力と才能で国家統一を成し遂げますが、どれも築き上げた統一国家を永くは保てず、すぐに分裂の憂き目に遭って居ます。 インドでも同様ですが、最初にインドを統一したアショカ王は統治力を高めるために宗教を利用しています。その宗教のなかで利用されたのが仏教です。それが仏教に急速な拡大をもたらします。宗教発展の歴史を観ると洋の東西を問わず権力の宗教利用とその保護、宗教の権力利用とその助成がみとれます。宗教を権力保持に利用した国家は比較的永続します。
2012年01月17日
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「神」を帰納的に証明 自己に我あり、と考えるのは何故か。それは仏教で云う処の五蘊(身体)の存在があっての意思がそう想わせます。次に意思の母体となる我々人間の身体を造りし者は何者か。当然に生命を創りし地球です。しかし、生命が地球だけで創造されることはありません。太陽の大いなる援助なしには考えられません。その太陽も銀河系が育んだものです。最後に銀河系を発生させた空間の大宇宙若しくはその大宇宙さえ創造し得た、それ以上は遡上することが出来ない絶対第一原因、これを「神」と称します。それ故、人間の意思は神の絶対意識の一部だと結輪されざるを得ないと云えます。
2012年01月16日
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「神」を不二一元論で解釈 過去のインドに於ける最大の哲学者ジャンカラによって唄えられたアドバイタ(不二一元論)を絶対存在・絶対意思に当て嵌めて考察すると、絶対者は無限・無差別の存在であり、存在世界の只一の個我であり最高絶対の我だということです。現実世界に人間に現れている個別的な我は、無明ゆえで現実には存在しないし、幻の如きもので、此の一の我を直観することにより我執は無くなり解脱すると捉えます。唯一の我から派生したものは回収されると云う事です。肉体的な終末を迎えても、身体以外無くなるものは何もないと決論して良さそうです。
2012年01月15日
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「宇宙」物理的法則の進化 Big Bangなるものから始まったとされる宇宙には、現在基本的な諸法則がありますが、それらには定数が含まれています。光の速度が毎秒三億センチメートル進むとか、引力の加速度等です。現在これ等は定数とされて居ますが、宇宙はビッグバン(角砂糖大)のときから現在に至るまで増々スピードを加速して膨張してきています。宇宙の進化がこの様なものなら、無限的過去の宇宙から光の速度は時代の経過と伴に高速化したのではないかと観想されます。我々人間が宇宙を観測したのが宇宙レベルの時間からみれば、ほんの僅かなことですから。永遠的時間で宇宙を考察すれば、宇宙の諸法則の定数が変化しないとは断言できない筈です。 光は、膨張を加速化し光速度以上で遠ざかる遠方宇宙の星雲の速度に追いつけず、幾ら高性能な望遠鏡を以ってしても、宇宙の果てを探究しきれません。光より高速度な粒子によって観測すべき時代が来ています。
2012年01月14日
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「イスラーム」を紐解く イスラームとはアラビア語で「神に帰依すること」とか「平和たるべきこと」を意味します。遊牧の民の出で、紀元500年頃マホメット(ムハンマド)がメッカ近郊に在ったとき、大天使ガブリエルの声を聞いて以来、幾たびか天啓を受け、アッラーの予言者としての自覚に目覚め、確信を深めます。イスラームは最初は幾分多神教だったのですが、彼へのメッカでの激しい迫害が一神教へと向かわせます。その信仰の中心はアッラー・天使・マホメットと「コーラン」、最後の審判を信ずることです。イスラム教徒は自分達のことをムスリムと呼称しますが、ムスリムはアッラーの前では絶対的に平等であることが強制され民衆に歓迎されました。また、貿易商人や武力征服によって世界三大宗教の一となりました。
2012年01月14日
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「神」の存在を表象 直覚知とは人が、他物の存在(作用・反作用)他者を感じる事の不在であり、自己の意識・記憶・思考が取り払われたときに、直観として捉えられた、ものの第一原因、それ以外に発出する事が考えられない存在を世界で一の存在を覚ることです。此れを「神」と呼ぶことも許されましょう。一方、釈尊にの仏道にあっては、世界の理法「物事は全て縁起している諸法実相・空」を捉えることも一種の直覚知と言えます。 また、「神」を偉大なる精神などと捉える事は許されません。それは我々人間を含めた脳を持った神経動物、糞転ガシ・ゴキブリから派生して来たものだからです。神学的な画家が描く雲上から下界を見下ろす老人として神を描くのは、画家の神への思念としての表現です。
2012年01月13日
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「神仏」を観想1 自然界とは人間の領域を四方八方無尽に拡張した一のものを云います。主体としての人間・客体としての自然(宇宙悉く自然世界)、主体としての自然(宇宙悉く自然世界)・客体としての人間、即ち、主客がなくなったとき、智を離れ、情を離れ、自己の我執が消滅した瞬間、言い換えれば、直覚知(直観)なるを真に捉えたとき、神の統一力(理法)・仏教が説くところの空(縁起)が観想できる。 しかし、我々凡人は覚りが生じたとしても、情が戻ると、只の人に戻ります。此れは人が、どこまでも智の営みに依ろうとするところに原因がありそうです。覚り切るには繰り返し直覚知を求めて行くしか仕方なさそうです。
2012年01月13日
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「阿吽(あうん)」を問う 日本の五十音の最初の「ア」と最後の「ン(フーム)」はインドのサンスクリットからきています。密教では、此の二字を、ギリシャ語のαやΩのごとく、万有の起源と究極を示すものとし、「阿」を悟りを求める菩提心、「吽」に悟りの結果としての涅槃の意味をあてます。 寺院の門の左右に配置された一対の狛犬や仁王像は、一方が口を開いた阿形、他方に口を閉じた吽形をあてるのは、仏教の教理「阿吽の呼吸」によるものです。東大寺南大門の運慶・快慶作の大仁王像がその代表例です。人は何時かは阿吽を獲得したいものです。 日本語の文字は、漢字かな交じり文に加えて、カタカナの涅槃経の(諸行無常・是正滅法・生滅滅己・寂滅為楽)を表す「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 朝き夢見じ酔ひもせず」など、一つの文字を超えた芸術です。世界の文字が単なる記号に成っていく中、此の文字文化を後世まで伝えていきたいものです。
2012年01月13日
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「仏」の三昧を紐解く 三昧はサマーディーを漢字に音写したもので「只一つの対象に自己の精神(心)を集中して、心が散乱するのを防ぎ、心が鏡水面が如く静かで穏やかに澄み渡った状態」を指します。仏は随時、三昧に入り智慧を理法に感応させ、真理を覚り、仏道を志す弟子に新しい教えを説かれました。大乗では仏が三昧に入って説かれた教えを実に数百もの名称を着けております。華厳三昧・海印三昧等々数え上げたら切のない程です。しかし、この中には贅沢三昧は入っていないので、仏道では破者と看做されることを肝に銘じて下さい。
2012年01月12日
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「時間」の特異性 時間は今現在と云う瞬間に在って、方向性を持った無限で絶対的な流動する変動と考えられます。過去の瞬間・未来の瞬間とは断絶的に異なった瞬間だとも云えます。過去や未来の時間は主体的に捉えれば、浮かび上がってきますが、此の非連続的な流動する今によって過去と未来が分断されます。時間は宇宙空間のように相対的なものではなく、或る種エネルギーを離れた絶対存在としたものかも知れまん。それ故、我々人間が過去・未来をタイムマシンで探索する夢は断ち切られます。
2012年01月12日
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「眼をもって神仏を聴く」 人は普段耳でもって聴くことは誰でも出来ていますが、眼を以って聴くことはそうそう容易いものではありません。神仏を観るにしても、自己の心のなかに見る人在り、他者に神仏を感じ見ることもあります。心に神仏を観て幻想と捉えようと、それは貴方・貴女もしくは神仏の絶対意思の一部を拾ったのかもしれません。神仏を心の中に観想したからとて何も怪しむことはありません。神仏はこの自然世界に遍く存在するからです。滝や山を見て何かしらの神厳さに心が打たれる時、あなたは、眼をもって神仏を聴いています。
2012年01月11日
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「知性と理性」誤謬の価値 人間に現在の様な知的発展を可能ならしめたのは、我々人間が全ての行動に於いて、常に誤りを犯す可能性を持っていると云う事です。其れに対して本能的行動しかとらない下等生物は殆んど誤りを犯さないし、無生物に至っては無謬です。 ところが、人間は理性を獲得し、それに依り重要行動をとる傾向がありますが、此の理性的判断はしばしば誤謬を犯します。しかし、ここで重要なのは此の行動のランダム性が人間の知的発展を促してきた事に在ります。此れからのコンピュータの目標は此のランダムな理性的直観を取り入れ自らを発展させる能力を獲得することにあります。
2012年01月11日
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「生と死」を考察1 貴女若しくは貴方は、今を、自己を認識して生きて居られますか。生きていると答えた御方に御伺いします。誕生以前はどの様で在ったのでしょう。無から突然あなたが宇宙に産まれ出たとは考え難いでしょう。何億の精子と一個の卵子との御縁で生まれ出たと言われた方にお聞きします。その瞬間にあなたに自己意識が芽生えたのでしょうか、将又、胎内で成長する過程で獲得したものなのでしょうか。容易な説明としては、遺伝子が与えてくれた情報に因って意識が目覚めたとするのが一般的な考えです。では其の情報を他人と共有する部分は有ると思われますか。有るとされた方は既に救われています。「我」に固執するなら恐らく「死」は恐怖をもたらします。我執を離れた処に涅槃・HEAVENが待っています。
2012年01月10日
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「因果性」を考察 因果性とは、一般に原因が結果生み出すことだと言われます。此れを宇宙の根源的な要素と捉える人もいるし、精神作用の根本的な因果関係(例えば仏教)と考える人もいます。此の因果作用という原理が疑う余地のないもの広く常識として認識されています。 他方、エネルギー保存の法則は此れに異論を唱えます。此の法則に従う現象は、過去が未来を決定するのと全く同様に、未来が過去を決定するとされます。少なくとも過去が未来を決定するのは我々人間の主観的な精神作用にだけ当て嵌まるものだということです。これと似た考えを持った人物に、紀元150~250年頃のインドの八宗の祖師ナーガールジュナ(龍樹)がおります。彼は過去が未来を決定すると云う事は無く、また、未来が過去を決定するを決定する事も無く、すべてが縁起していると捉えました。思想として興味深い考え方だと思われます。
2012年01月10日
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「身心を浄める」水に感謝 東北大震災は、今や自然災害などではなく人災だと解き明かされて居ります。特に原発は充分な予防設備の不完全性と予算不足による手抜きが指摘されています。その塵穢を浄らかしめるのが「水」であることにも驚きを覚えます。「水」は身を浄め、心を浄めます。イエスはヨハネに川に身を浸し洗礼を受け、釈尊は身を水で浄めるこそ世の理法を覚ること第一とさえ説かれています。我が国日本の神道にあっても巫女は身を浄めることを強いられます。それらは皆、神聖なものに対して無垢ならんことから来る教えです。昨今は、教会・寺院・神社で浄めと称して手だけ洗いますが、出来得れば身体すべてを水で浄めて出掛けたいものです。道元禅師は、「水に情(こころ)があるわけでもなく、また情がないわけでもない。」と説きます。 「水」こそが国土の穢を濯ぎ清なかしめるものであり、我が国土は幸い水ありきの国であり、洗浄を水に託すことが出来ます。その自然への感謝を忘れることは許されません。
2012年01月10日
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「女性兵士」が戦場に赴くことを批判 動物は人間を含め、本能の第一に種族の保存が基本であるのは明白です。とりわけ、決定的な危機(戦争)に対しては「個人的な生」を些細な事柄と看做すように促されます。誰もが命を投げ出すことを難しいことだと考えますが、兵士がその場に臨めば死ぬことを厭わないことは、戦場の兵士を見ればわかります。こうした性格が女性が男性ほど顕著でないのは、種の保存のためには女性が男性より重要であり、その犠牲を要求することが種族保存の観点からも間違っているからです。フェミニズムのせいで男女同権を叫び、女性兵士が危険な戦場に行くことを要求することは生物学的にも正しくないと言えましょう。
2012年01月09日
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「信念」を解剖 人間が信じているものには、自己がその教えに帰依して行為する信仰に於ける信念、自己の人生にとって決定的に重要な事柄に、本能的に正しき行為・理法・直覚知に従う用意があるのを根本的に信頼を置ける信念と呼びます。その他に、単なる信念がありますが、此れは容易に外世界によって覆えされます。人間総体としての環境に在っては個人の信念など何程の影響があると御考えの御方もあるとは想いますが、生ある人としての古仏・仏祖は何かを信仰するのではなく、信念に依って世の理法・縁起・空を観想し、自らが身体を離れた世界の理法として存在することを信念から覚りました。信念から世の理法を覚られた最初の御方であり、最後の御方であると此処では言い切っておきます。
2012年01月08日
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「デジタル化」現象を問う 世の中何でもデジタル化大合唱の昨今、私の頭上で「?」マークが踊って居ます。真にデジタル化は先進的なのかという疑問です。実は人間の脳内の情報処理は神経細胞(ニューロン)が担っています。神経細胞同士の信号の伝達は、電気信号(デジタル信号)によって行われています。一方、活動電位を出すか出さないかは、シナプスに発生する信号の合成の結果が活動電位発生はプラスかマイナスとなります。 人類発祥以来、脳内はデジタル化されていました。其れに対して「初めに言葉ありき」の言語とその文字はアナログです。文字はと云うと御存じの通り、絵文字から発展した記号文字です。我が国の漢字仮名交じり文などは、一目で意味が取れる様に、非常に洗練されています。此れが、人類が獲得してきた最先端の進化です。コンピュータが手に入れようとしているのは実はアナログなのかも知れません。
2012年01月08日
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「神」の存在を疑う・否定する Big Bangなるものから始まったとされる大宇宙、半径約460億光年の球状の物質の果てを疑うことは、至極真っ当な考えだと云えましょう。その宇宙を在らしめるのが物理学の原理以上の何ものでもないと考察されることも頷けます。しかし、その果てを考察するその感性は誰のものでしょう。自己存在として認識ありの自己意識世界です。貴方・貴女が、自己は存在しないとされるなら、勿論、宇宙や自然、時間はあなたには存在しません。人間在っての時間・宇宙・自然です。しかしこれ等を在らしめるのは、時を超えた何者かです。神は人間を観ておられます。
2012年01月08日
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「観世音菩薩(観音菩薩)」を考察2(種々の観音) 日本の天台宗では、真諦を観る空観(真観)を准胝観音に、塵沙の染汚を離れる仮観(清浄観)を十一面観音に、空・仮を双べ照らす中道観(広大なる智慧の観)の広大を如意輪観音に智慧の観を馬頭観音、空・仮・中の三観を用いて衆生の苦を抜く悲観(悲の観)を千手観音に、三観を用いて衆生に楽を与える慈観(慈の観)を聖観音に配しています。衆生に感応して、あらゆる姿をとる観自在菩薩は、受け取り手により様々な姿で現出するのです。各地寺院の観音像を拝見するとその多様さに驚かされます。 例えば、観音が衆生を救うために現出した三十三身と云われる中に、四の婦女身があります。それ故、観音女性説が広まりました。
2012年01月07日
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「観世音菩薩(観音菩薩)」を考察1 現世に在って衆生に感応して、あらゆる姿をとって、音声を起こして救いを求め祈念したその人の心に現れ、大慈悲をもって俯瞰して救うことから観世音菩薩と称され、自ら総ての衆生を救う迄は仏にはならないと誓われた菩薩です。現世に在って、衆生救う迄は仏にはならないと誓われた菩薩のもう御一方に表閻魔・裏地蔵の地蔵菩薩がおります。 観世音が救う衆生は、至心に称名した者・利益(りやく)の有ること・観音との結縁の厚い者・果報が決定してない者であり、それ以外は救わないとされて居ります。また、一人の観音を供養すれば全ての諸仏を供養したことになり、我が身心と感応すれば同一の「報身」となれるとされる極めて尊い菩薩です。
2012年01月06日
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「Heaven」の存在を問う Heavenとは、絶対精神の善の世界のことであり、或る意味過去に既に存在していたもの、或る意味未来にも既に存在するもの、或る意味個々の人の心のなかに実存するもの、次元や空間・時間を超越した、永遠の瞬間の世界を意味します。絶対理法の神を信じ愛する事は、神の愛にすでに包まれていると云うことになります。それを確認するには我々世界の自然に耳を・精神を傾けその声を直覚知することにあります。 さすれば、神の存在に一体となることが観想され、至福のときが約束されるに違いありません。
2012年01月06日
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「聖徳太子」法華経を招聘 日本最初で最初に法華経を招聘したのが聖徳太子です。太子は法雲の義記を参照してその注釈を自筆で、法華義疏(日本最古の書物)を著わしています。その根本理念を大乗仏教の法華経に求め、「万善成仏・仏壽無極(総ての善道者の涅槃と仏祖の有難味は白蓮が如し)を太子は会得し、法華経を以って日本民族の末代までの幸福を願われました。此れが和の国日本の、仏教の教主としての太子信仰へと繋がっていきます。奈良信貴山への拝山は現在も途絶えることがありません。
2012年01月05日
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「神」を絶対認識(みえる神) 自然界の絶対存在である神の存在を確信するには、どのような方法をとればいいのか。それは只、信心するだけでは見えて来ない存在です。世界は主体と客体、即ち実存する自己と空間・時間(運動)・自然創造物といったものを分析的に捉えるのではなく、無分別に自己と対象を一体化するものを直覚することです。これを私は直覚知と呼びます。直覚知を実現することにより、世界の在り方、そう在らしめる統一力が観えてきます、この力の源泉こそが「存在者たる神です」。世界は全てこの理法に依って成り立っていることを観想するのです。
2012年01月05日
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「HINDI Music&Movie&Dance of World」の殿堂「Bollywood」1 ボリウッド及びその他の地域の映画産業は、今やアメリカ映画産業の中心地「ハリウッド」を抜いて世界最大の規模を誇ります。年間映画制作本数も映画館観客総数も世界一多い映画大国でもあります。これらは日本では「マサラムービー」と呼ばれ増々人気が上がってきています。 その中でも、Miss World出身の、第4位叙勲であるパドマ・シュを受賞したアイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン(Aishwarya Rai Bachchan)はBollywoodの女王としてインドに輝きをもたらしました。若き頃のその歌と踊りは、現在にも通用するもので、我が国で言うナツメロなどでは決してありません。
2012年01月04日
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「悪魔と悪霊」 悪魔(サタン)は、聖書では「大天使ルシフェル」は神の右に座する神の次に強大な力と地位を持つ天使でありながら神に逆らった天使とされ地上に堕とされたと言われます。全能である神が何故「敵対者となるサタン」を存在させるのか、我々には理解しずらいものがあります。しかし、誰しも悪に誘惑された経験はおありでしょう。釈迦はおよばずイエスもその誘惑に立ち向かい戦い勝ちぬきました。このあたりに神の本意が見えそうな気がします。悪魔は悪霊として、人間が神への信仰に目覚めさす試金石として残されているのかもしれません。
2012年01月04日
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「女人禁制」結界を批判 我が日本にあっては、戒律を護持するために一定の地域を囲み、別境の人と過ちなき様、結界と称して女人を締め出している場所が散見されます。此れは笑止なことです。僧侶・山伏が何の修行か、とさえ思われます。批判をすれば、此処は神聖なところで、古来よりの習いですと答えが返ってきます。女性が汚れていて悪魔の申し子だとでも言いたいのでしょうか。あの鬼子母神の慈母観音が入場するのもお断りか?。釈尊は、法華経に在っては、比丘尼が仏に成る事を宣言されておられます。修行の目的を再考されたい。しかし、世の学識ある人や評論家が声を大にして批判されないのにも考えさせられます。 我が国古来の相撲道が、女性が土俵に上がることを断る理由が、力士が取組を神に捧げる神聖な場所というのなら、野球賭博やしごき事件は起こらなかった筈です。
2012年01月03日
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