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【学校】「授業っていうのはクラス全員が汗かいて、みんなで一生懸命になって作るものなんだ。それがよくわかった。・・・いい授業だった。どうもありがとう。それじゃ授業終わります」同僚が息子さん(小学2年生)の不登校で悩んでいる。ゴールデンウィーク明けからずっと学校に行けてないとのこと。どうやら担任の先生が原因らしい。50代ベテランの女性教員だとういうが、かなりクセ(?)のある人物だと言う。何があったのかはプライバシーにかかわることなので割愛するが、しょせん先生と言えども人間であるということだ。つまり、相性の合う合わないは、人が2人以上存在すれば必ず発生する問題なので、もうこればっかりはどうすることもできない。50数年間その性格でやって来た人に対し、今さら性格を変えろと言ってみたところでおそらくムリな話だし、ならば子どもに我慢しろ、と叱って諭してみたら不登校になってしまったという図式である。柔軟性のあるはずの子どもでも、理不尽なことには納得できなくて当然だ。まだ子どもだから大それたこともできず、本人なりのせめてもの反抗が不登校という形で現れているのかもしれない。しかし、親としてはたいへんな心労であるし、苦悩である。 私はTSUTAYAで『学校』をレンタルしてみた。もう20年以上も前の作品なので、何度も繰り返し見ているが、何度見ても飽きない名作である。原作は『青春 夜間中学界隈』で、実際に夜間中学の教員として30年以上も携わって来た松崎運之助のノンフィクション作品なのだ。山田洋次監督もほぼ原作に沿ったシナリオを手掛けているらしい。(ウィキペディア参照) ストーリーはこうだ。都内某所に、様々な理由から義務教育を受けられなかった人のために、公立の夜間中学が開校されている。その夜間中学に、もう何年も勤務している黒井が、ある日、校長室に呼び出しを受けた。校長は黒井に、全日制公立中学への異動の話を持ち掛けたが、黒井はそれを断る。黒井はずっと夜間中学で教鞭を執っていきたいと答えた。黒井の受け持つクラスでは、卒業に向けて作文を書いていた。その間、黒井は生徒一人一人との出会いを思い巡らし、感傷に耽るのだった。ホームレス一歩手前の不良少女みどり。日中の労働で授業中は居眠りしたり生意気な口をきくが、根はやさしいカズ。中国人の父親と日本人の母親を持つ中国人の張。焼肉屋を経営する在日韓国人のオモニ。中一で不登校になり、普通の中学校には通えなくなってしまったえり子。脳性マヒで言葉の不自由な修。山形出身で苦労人のイノさん。黒井はそんな生徒たちの抱える背景を考えると、卒業させてあげられることの幸せを実感せずにはいられなかった。 山田洋次監督作品をいくつも見て来たけれど、そのどれも人間の悲哀がクローズアップされている。『男はつらいよ』シリーズも、コメディとして楽しまれているが、基本は人間の悲哀である。人間の持つ悲哀の裏側にこそ滑稽さがあり、十人十色の生き様が刻まれているのだ。『学校』においては、夜間中学に通う生徒の持つ苦悩や生い立ちから、一体幸福って何なんだろうと考えさせられることがテーマとなっている。一言で幸福についての定義を語ることはできないし、この作品においてもそれをムリに考えさせようとしているわけではない。ただ、基本的なところで学問を学べる幸せというものが、そこはかとなく伝わってくるのだ。私たちは義務教育だから仕方なく勉強してきたような心持ちだが、実際にはその教育を受けられることがどれほどありがたいことかを忘れてしまっている。『学校』を見ると、本当に日常のささいなことが幸せなのだと、改めて思い知らされる。 これは、何らかの理由で学校へ行きたくないと思っている子どもたちに推薦したくなるような作品だ。とはいえ、実際には私のようにすでに義務教育を終えた子を持つ親が、半分はリラックスした気持ちで、魂を休めるために見ているのかもしれない。 1993年公開【監督】山田洋次【出演】西田敏行、竹下景子、田中邦衛
2017.05.28
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【17歳】「売春の目的はお金かい?」「いいえ」「自分の価値を知るため?」「そんなんじゃない!」「あーあ、女子高生(JK)に戻りたいなー」などとぼやく友人がいる。ちょっとしたおしゃべりに興じている最中の戯言なので、どこまでホンネかはわからない。とはいえ、少なくとも高校時代が楽しい思い出の1ページであることにはまちがいなく、青春を謳歌していたのだと思う。でも私はそうではなかった。家庭環境のこともあるし、自分自身に対する言いようのない嫌悪感や、鬱屈したものを抱えていたからだ。とてもじゃないが、テレビドラマにありそうな恋とか友情などに彩られたバラ色の青春などではない。もっと暗く、内向的な思春期だった。私は今さら高校生のころになど戻りたくはない。だが、四十代も半ばを過ぎてみると、あのころを思い出すことはある。決して甘美なものではなく、「若さ」という期間限定のアイテムである。あのころの若さは、言葉は悪いが、核兵器みたいなもので、敗北を知らない恐ろしい武器なのだ。 今回はTSUTAYAでフランス映画の『17歳』をレンタルしてみた。フランソワ・オゾン監督による作品だ。この監督の過去の作品からするとサスペンスモノが多いのだが、『17歳』はどちらかと言うとヒューマンにスポットを当てている。ざっくり言ってしまえば、不機嫌な17歳(女子高生)の物語だ。 ストーリーはこうだ。高校生のイザベルは、夏のバカンスで家族とともに別荘に来ていた。ランチのあと皆はそれぞれ昼寝をするのだが、イザベルの弟ヴィクトルはなかなか寝付けない。興味本位でこっそり各人の部屋をのぞいて回るヴィクトルは、イザベルの部屋を見て息を呑む。なんとイザベルは裸で自慰行為に耽っているのだった。その後、イザベルはドイツ人青年フェリックスと出会い、夜の海辺で初体験を済ます。だがイザベルは冷静で、取り立ててフェリックスに恋をしているわけでもない。翌日になるとフェリックスに素っ気ない態度を取り、自分の17歳のバースデーパーティーにも呼ばない。こうして短い夏のアバンチュールは終わった。高校では後期の授業が始まったものの、イザベルはいつも物憂げで不機嫌な感情を抱えていた。そのはけ口としてSNSで知り合った様々な男たちと密会を重ね、300ユーロと引き換えにその肉体を提供していた。ケチでつまらない男がほとんどの中、とても紳士的な老人ジョルジュは、女性の扱い方をよく知り、イザベルでさえも安心できる相手だった。そんなジョルジュとは定期的に会い、肉欲を満たしていた。ある日、心臓に持病のあるジョルジュはバイアグラを使用したことで、イザベルとの行為の最中に発作を起こす。イザベルは息をしていないジョルジュに必死で心臓マッサージを行うなどの応急処置をしたものの、再び息を吹き返すことはなかった。イザベルは売春の発覚を恐れ、助けを呼ぶこともなくその場を立ち去ってしまうのだった。 私は『17歳』を見て「これが青春のリアリティだ」と思った。女子高生のみんながみんな援助交際に手を染めているわけではないし、年がら年中不機嫌なわけでもない。だが、少なくともドラマや漫画で描かれている理想的な青春は、あくまでも「学生とはこうあるべき」だとする大人の視点から表現したものに過ぎない。その点、『17歳』は見事に現実をあぶり出している。思春期は人間ならばだれもが通る通過点だが、とても入り組んだ迷路のような難しい時期である。性というものに興味を持つ一方で、精神が成熟していないのでいつも自分を持て余し、行き場のないエネルギーの放出に囚われてしまいがちになる。主人公のイザベルがお金に不自由しているわけでもないのに売春に手を染めているのは、一体なぜなのか?その部分を突き詰めていくと全体像がより鮮明になるかもしれない。 主人公イザベルに扮するのは、マリーヌ・ヴァクトである。やや小ぶりの胸のふくらみが成熟していない少女の美しさをかもし出している。この作品が初の主演作品らしいが、何やら堂々とした演技で見事なものだった。濡れ場も多くあるのに、エロスや官能というものからは離れ、クールでドライな美しさに魅せられた。親への反抗や退屈な日常との決別、刺激を求めてやまない若さゆえの加速。我々は親の立場となった今なら、あのころの自分に伝えたい何かがあるはずだ。私は決してイザベルのような思春期を送ったわけではない。なのにあのころの自分を思い出し、不思議と共鳴するものを感じるのだ。 さてみなさんはこの作品を見て、しょせんドラマ上の作り話だと思うだろうか。それとも・・・ 2013年(仏)、2014年(日)公開【監督】フランソワ・オゾン【出演】マリーヌ・ヴァクト
2017.05.21
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【メメント】「自分の外に世界はあるはずだ。たとえ忘れてもきっと何かしらやることに意味がある。目を閉じててもそこに世界はあるはずだ。本当に世界なんてあるのか? そうだ、記憶は自分の確認のためなんだ」冷蔵庫の中身をチェックしていたら、玉子が一個もないことに気が付いた。玉子料理の大好きな私にとって、玉子のない冷蔵庫なんて致命的だ。買い物に出かけたら、いの一番に玉子をカゴに入れなくてはと思った。私は近所の大型ショッピング施設に出向き、まずはパン屋に寄った。大好きな米粉パンやカリカリのメロンパンをゲットすると、もうそれだけで気分は盛り上がった。その後、何か冷たい物でもと、マックでサンデーストロベリーを注文し、ささやかな幸せをかみしめた。さて、生鮮食品売り場で食材を買って帰ろうと、私はいつもどおりの順路でスムーズに買い物を終えたのである。帰宅して私は冷や汗が出た。言葉も出ない。あろうかとか、肝心な玉子を買い忘れていたことに気付いたのである。一体何のための買い物だったのか?!よもや若年性認知症なのか?!いや、単なるもの忘れに過ぎない。だがこの記憶の喪失感をだれに訴えたら気が晴れることだろう・・・ 私はTSUTAYAで『メメント』を借りた。これは、前向性健忘という記憶障害に見舞われた男が、愛する妻を殺害した犯人に復讐する物語である。 ストーリーはこうだ。ロサンジェルスで保険の調査員をしていたレナード。ある日、浴室の方から物音がしてくることを不審に思い、おそるおそる様子を見に行く。するとそこには愛する妻が何者かによってレイプされ、殺害されようとしていた。レナードは慌てて現場にいた犯人の一人を銃で撃ち殺すが、犯人の仲間に殴られ、そのときの外傷がきっかけで10分間しか記憶が保てない前向性健忘になってしまう。レナードは愛する妻を殺害された復讐心だけを支えに、犯人捜しを始める。自身のハンデを克服するため、ポラロイドカメラで写真を撮り、メモをし、さらには重要なことを忘れないために自分の体にタトゥーを刻んだ。こうしてレナードは少しずつ手がかりを追って犯人に近づいていくはずだったが・・・ 『メメント』のレビューを読んでみると、皆一様に「難解だ」というコメントが多かった。リピーターが多いのも、おそらく一度見ただけでは理解できないという理由から、二度三度と視聴される方が多いのであろう。思い出すのは、2000年代の始めは記憶喪失をテーマに扱ったものがトレンドだったということだ。『ボーン・アイデンティティ』などがその筆頭である。『メメント』は時間軸を解体し、結論から逆行していく構成など斬新だったかもしれない。だがそこにばかり注目してしまうと、作品のテーマを見逃してしまう。 私が注目したのは、次から次へと入ってくる情報に翻弄されながらも、たった10分間という記憶のある瞬間を生きるしかない主人公の姿である。本来、人間というものは過去の記憶に囚われつつも、新しい環境にゆっくりと順応していく生きものである。だが現代の情報化社会では、過去を消去し、次から次へとアップデートしていくことがスタンダードとなっている。ならば過去の記憶などゴミ箱に捨て、絶望感さえ忘れて生きてゆけと訴えているような気がするのだ。『メメント』は、今を生きるしかない現代人の姿を投影しているようにしか思えない。アイデンティティの崩壊さえ感じられるこの作品を、みなさんはどう受け留めたであろうか。 2000年(米)、2001年(日)公開【監督】クリストファー・ノーラン【出演】ガイ・ピアース
2017.05.14
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【プライドと偏見】「彼が高慢で不愉快なことは皆知っているよ。おまえが好きだというなら問題ないが・・・」「好きなの。彼を愛してます。私が間違ってたの。彼をすっかり誤解してた。パパも知らないのよ、本当の彼を・・・」元同僚の息子さん(26歳)が、今年の秋に結婚とのこと。晩婚化が進んでいる昨今では、珍しく早めだ。とはいえ、男子26歳では少しばかり早すぎはしまいかと思いきや、「男ばかり3人の息子らなので、長男が片付かないと下がつかえていけない」とのこと。そんなもんなのかと、母親としての心境を傾聴した。「やっぱり男は結婚して一人前なのよ。あなたもそのうちわかるわよ」私にも一人息子がいるせいだろう、元同僚は説得力のある口ぶりでそう言った。深い意味はないとしても、その考えが一般社会の常識と見て間違いはない。確かに、いい年したシングルの男性と接したとき、どことなく居心地の悪さというか、幼さとか不安定さを感じてしまうことがある。おそらく結婚によって、人間が成熟するということなのだろう。(無論、それだけがすべてではないけれど。) 今回はTSUTAYAで『プライドと偏見』を借りた。これはイギリスの女流作家ジェイン・オースティンの小説が原作となっている。驚くのは18世紀に女性がこれだけの作品を執筆していたということだ。(日本はまだ江戸時代。女性の地位は低く、読み書きできるのはほんの一握りという時代である。)『プライドと偏見』をラブ・ストーリーとして分類してしまうのは早計だ。ざっくり言ってしまうと、恋愛ドラマというより英国中流家庭のホームドラマである。もう少し丁寧に言えば、女性が結婚に至るまでのプロセスを冷静で客観的な視点から描いている。ストーリーはこうだ。舞台は18世紀末のイギリス、ハーフォードシャー州ロングボーン村。ベネット夫妻には5人の娘たちがいた。美人の長女ジェイン、聡明な二女エリザベス、三女のメアリー、四女のキャサリン、そして五女のリディアである。この時代、女性には一切の相続権がなく、万が一、父親が亡くなれば遠縁の男子が相続する決まりとなっていた。そんなわけで、ベネット夫人はなんとか娘たちを資産家と結婚させようと躍起になっていた。ある日、年収5千ポンドの独身男性ビングリー氏が近所に引っ越して来た。ベネット家の娘たちは、期待感と好奇心でワクワクするのだった。舞踏会の催される晩、ビングリー氏は妹のキャロラインと親友のダーシー氏をつれてやって来た。ビングリー氏はすぐにジェインの美貌に心を奪われ、ダンスを申し込む。一方、ダーシー氏はどこかとっつきにくく、プライドばかり高そうな人物に見えた。ベネット家の娘たちに対しても見下しているような素振りさえ感じられた。エリザベスはそんなダーシー氏に反感を抱き、しだいに嫌悪感を募らせていくのだった。 惚れたはれたの恋愛小説ではないので、原作の方はもっと淡々と描かれている。相手の年収がいくらだとか、どれほどの資産を所有しているかとか、うるさい小姑がいるかいないかなど、女性の婚活は現代よりもっとシビアでハードなものだったかもしれない?! 主人公エリザベスに扮したのは英国人女優のキーラ・ナイトレイだ。代表作に『つぐない』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどがある。ものすごい美貌の持主なので、正直、美人の長女という設定であるジェインが二女のエリザベス役のキーラに呑まれているようにも思えた。この作品がおもしろいのは、結婚を意識する女性たちに虚飾がないからだ。さらには、この当時の中流家庭の日常を巧みに再現し表現しているところが興味深いのだ。恋に落ちるまでの男女の波瀾万丈を描いたストーリーはいくらでもあるけれど、お見合い結婚から恋愛結婚への意識改革を計ったような作品は珍しいのではなかろうか。『いつか晴れた日に』も併せて、女性のみなさんにお勧めしたいイギリス映画である。 2005年(英)、2006年(日)公開【監督】ジョー・ライト【出演】キーラ・ナイトレイ、マシュー・マクファデイン
2017.05.07
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