実は、少なからぬ人びとがこうした襲撃を事前に予想していたことも事実。 今年9月に中東/北アフリカからEUへ向かう難民を西側メディアは大きく取り上げ始めた
が、本ブログでも紹介したように、その中に戦闘訓練を受けたIS(ISIS、ISIL、ダーイシュなどとも表記)のメンバーが潜り込んでいるとする情報が流れていたのだ。ロシア軍の空爆で決定的なダメージを受けたアル・カイダ系武装集団やそこから派生したISの少なからぬ戦闘員がシリアの外へ脱出し、イエメン、ウクライナ、新疆ウイグル自治区、あるいはEUへ向かったとされている。
難民を送り出しているトルコはアル・カイダ系武装集団やISの拠点があり、トルコ政府はシリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すためにそうした集団に物資を供給し、兵站ラインを守ってきた。アル・カイダ系武装集団やISを支援しているという点で、トルコはイスラエル、アメリカ好戦派、サウジアラビア、カタールなどと同じだ。
難民騒動の幕開けに疑惑があることも本ブログで伝えた。騒動の「アイコン」としてトルコの海岸に横たわる 3歳の子どもの遺体
の写真が使われたが、その状態に疑問を感じた人が少なくない。身体が波と直角になっていることが不自然だというのだ。しかも、子どもの父親が難民の密航を助ける仕事をしていて、沈没した船を操縦していたのはその父親にほかならないことも判明する。
現在、NATOはロシアとの国境近くで軍備を増強、ミサイルを設置しているほか、戦闘機などを増やしている。昨年4月にアメリカ軍はイージス駆逐艦のドナルド・クックを黒海に派遣、ロシアの国境近くを航行させて挑発したのだが、その際にロシア軍は電子戦用の機器だけを積んだスホイ-24を船の近くに飛ばし、船のシステムを機能不全にし、レーダーも使えない状態にしたとされている。その直後、ドナルド・クックはルーマニアへ緊急寄港、それ以降、ロシア領の近くへアメリカの艦船は近づかなくなった。
アメリカ軍の中枢、統合参謀本部は2001年から03年にかけてネオコン/シオニストなど好戦派の戦略に抵抗していたが、その後、スタッフは好戦派の息がかかった軍人に交代させられてきた。中でも好戦的なのがNATOだが、この軍事組織に「テロ部隊」が存在していることは1990年にイタリア政府が公式に認めた。(この件については拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』で触れた。)
イタリアの「テロ部隊」はグラディオと呼ばれているが、この部隊は1960年代から80年代にかけて「極左」を装い、爆弾攻撃を続けていた。いわゆる「緊張戦略」だ。この戦略によってイタリアの左翼勢力は弱体化、治安/監視体制は強化された。
1969年にはパドゥア大学とミラノの産業フェアで左翼過激派を装った爆破事件を起こし、12月にはミラノのフォンタナ広場にある国立農業銀行を爆破しているが、16名を殺害し、約90名を負傷させたフォンタナ広場の事件で実行犯のひとりとして2001年にミラノ地裁で終身刑を言い渡された人物に日本政府は日本国籍を与えている。
この人物は1973年にベニス地裁から武器および爆発物の不法所持で有罪判決を受けたことがあるのだが、79年から日本で生活、80年に日本人女性と結婚、89年に日本国籍が与えられた。イタリアからの脱出には同国の内務省と笹川良一が協力したとも言われている。
グラディオの存在が明るみに出る切っ掛けを作ったのはイタリアの子ども。同国北東部の森で偶然、秘密の兵器庫を発見したのである。その1週間後、カラビニエッリと呼ばれる準軍事警察の捜査官が近くで別の武器や弾薬だけでなく、C4と呼ばれるプラスチック爆弾を保管している兵器庫を見つけている。
ところが、この事件の捜査は途中で止まってしまう。1984年にある判事がその事実に気づき、捜査を再開し、同国の情報機関SISMIが関与していた事実が判明するのだが、その背後にはCIAが存在していた。1990年7月にジュリオ・アンドレオッチ首相はSISMIの公文書保管庫の捜査を認めざるをえなくなり、同年10月にグラディオの存在を認める報告書を発表している。
こうした「テロ部隊」の創設をNATO加盟国は義務づけられ、秘密の反共議定書に署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)この議定書の存在はほかの研究者やジャーナリストも指摘、またスイスの学者であるダニエレ・ガンサーによると、「右翼過激派を守る」ことを義務づけているという。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)
グラディオの源流は1944年にアメリカとイギリスの秘密機関SOとSOEが編成したジェドバラ。この人脈はアメリカの極秘部隊OPCにつながる。OPCは後にCIAの破壊工作部門、つまり計画局(1952年設置)、作戦局(1973年に名称変更)、そして2005年からはNCS(国家秘密局)になった。
OPCは東アジアでも活動、中国の制圧を目指して当初は上海を拠点にしていたのだが、1949年1月に解放軍が北京に無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立してしまう。そうした流れの中、OPCは拠点を日本へ移動させるが、活動の中心は厚木基地だった。
1949年には国鉄を舞台とする怪事件が続発、政府はマスコミを動員して共産党によるテロだと宣伝、労働運動は大きな打撃を受けた。その怪事件とは7月の下山事件と三鷹事件、8月の松川事件だ。その翌年には朝鮮戦争が勃発する。本ブログでも何度か書いたことだが、シャルル・ド・ゴール仏大統領の暗殺未遂事件にもOPC人脈、NATOの秘密部隊が関与した疑いが持たれている。
今年1月にフランスの週刊紙、 シャルリー・エブドの編集部が襲撃された事件
も不可解で、例えば、容疑者の特定は素早すぎないか、プロフェッショナル的な技術をイエメンやシリアでの訓練や実戦で身につけられるのか、襲撃に使った装備をどこで調達したのか、スキー帽で顔を隠している人間が身分証明書を自動車に置き忘れているのは「9-11」のときと同じように不自然ではないのか、襲撃しながら自分たちがイエメンのアル・カイダだと叫んでいるのもおかしくないか、襲撃の後、どのように非常線を突破したのか、事件の捜査を担当した警察署長のエルリク・フレドゥが執務室で拳銃自殺したのはなぜなのか、容疑者のひとりで射殺されたアメディ・クリバリが2009年にエリゼ宮でニコラ・サルコジと面談できたのはなぜか・・・。負傷して歩道に横たわっていた警察官の頭部を襲撃犯のひとりが自動小銃のAK-47で撃ち、殺害したことになっているのだが、頭部に損傷は見られず、周辺に血、骨、脳などが飛び散ることもなかった。