パキスタンの裁判所は2月3日、イムラン・カーン元首相に対して懲役7年の判決を言い渡した。カーンは汚職容疑で懲役3年の判決が言い渡されて2023年8月から収監されているが、1月30日には情報漏洩で懲役10年、31日には汚職で懲役14年が言い渡されている。2月8日に予定されている総選挙の直前、立て続けに「カンガルー法廷」で懲役刑が言い渡されたわけだ。
インターネット・メディアの「インターセプト」がパキスタン政府の機密文書を公開
ウクライナ軍がドンバスへの軍事侵攻を準備している中、2022年2月24日にロシア軍はミサイルでウクライナに対する攻撃を始めた。その攻撃についてイムラン・カーンは首相として中立の立場を表明、パキスタンは欧米の奴隷ではないと集会で演説している。非同盟の立場を明確にしたのだ。アメリカ政府高官とパキスタンの駐米大使との会談はその翌日に行われた。今回、公表された文書によると、その会談でアメリカ政府はパキスタン政府に対し、カーンを排除するように促している。
ルー国務次官補は不信任決議が採択されば首相のロシア訪問は首相の個人的な決断だとアメリカ政府はみなして全てを許すが、失敗すれば厳しい対応をすると語ったという。そして不信任決議の準備が会議の翌日から始まった。
2022年4月に内閣不信任決議案が提出されるが、下院議長は却下。解散総選挙に打って出るとカーンは表明し、4月3日に議会は解散されたものの、4月7日に最高裁が議会解散を違憲と判断、4月10日に内閣不信任決議案の採決が行われて可決されて軍を後ろ盾にするシャバズ・シャリフ政権が誕生した。
これに対し、国民は強く反発。大規模な抗議行動や暴動という形で表面化した。そこで軍は市民の自由を大幅に削減し、軍への批判を犯罪化し、国内経済における軍の役割を拡大、国内は麻痺。言論統制のひとつの結果として、アメリカ政府に従属する軍に批判的なジャーナリストが殺害されたり行方不明になったりしている。カーンは政治集会で銃撃されて足を負傷、その際、支持者のひとりが殺されている。
ウクライナの問題はアメリカの支配層がカーンを排除しようとした理由のひとつにすぎない。パキスタンはアフガニスタンやイランの隣国であり、アメリカにとって重要な戦略的な拠点。パキスタン政府は「アメリカ支配層の奴隷」でなければならない。そのため、アメリカ支配層はパキスタンの将軍たちを買収し、カーンのような人物を抹殺する仕組みを作り上げてきたと言われている。
アメリカに排除されたパキスタンの首相はカーンの前にもいた。ベナジル・ブットの父親であるズルフィカル・アリ・ブットだ。ブットの排除はズビグネフ・ブレジンスキーの戦略と関係していた。ただ、カーンはブットよりイスラム世界で人気があり、ブットのケースと同じ道筋を辿らないだろうと推測する人は少なくない。
ベナジル・ブットの特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、アメリカは1973年からアフガニスタンの反体制派に対する資金援助を開始、その時にCIAはパキスタンの情報機関ISIのアドバイスに従い、クルブディン・ヘクマチアルに目をつけた。ヘクマチアルはカブール大学で学び、ムスリム青年団のリーダーになる。この組織はムスリム同胞団の青年組織で、CIAから支援を受けていた。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
ズルフィカル・アリ・ブットの政権は1977年に軍事クーデターで排除され、ブット自身は79年に処刑された。クーデターを主導したムハンマド・ジア・ウル・ハクは陸軍参謀長だった人物で、アメリカのノースカロライナ州にあるフォート・ブラグで訓練を受けているムスリム同胞団員。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)
CIAは王制イランの情報機関SAVAKは1978年、大金を持たせたエージェントをアフガニスタンへ派遣、モハメド・ダウド政権に対し、軍隊の左派将校を排除し、人民民主党を弾圧するように工作している。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)
ダウド政権は左翼、あるいはコミュニストのリーダーを次々に暗殺していくが、間もなくして粛清への反撃が始まって倒される。1978年4月のことだ。そしてモハメド・タラキが革命評議会兼首相に任命される。このタラキ政権は女性のために学校を創設、貧困層でも大学へ進む道を作り、医療を無料にするといった政策を推進していく。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)
このタラキ政権を倒すために動いたのがヘクマチアルを中心とする武装集団。サウジアラビアの協力でサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団も戦闘員としてアフガニスタンへ派遣された。これが「アル・カイダ」の始まりだ。そうした武装勢力の資金源はベトナム戦争の時と同じように麻薬が利用されている。
この反タラキ勢力は女性のための学校や大学を焼き討ちし、治安は悪化していく。タラキ政権は旧体制の指導者たち約2万7000名を処刑したとも言われているが、国内を安定化させることに失敗した。
タラキが実権を握って間もない1978年7月にアドルフ・ダブスがアフガニスタン駐在アメリカ大使に就任したが、この人物はリチャード・ニクソンのデタント政策を擁護していたことで知られ、ブレジンスキーとは対立していた。
1979年2月にダブス大使は拉致される。彼が拘束されていたホテルへ警察とソ連の顧問が突入した時にはすでに殺されていた。ダブスはアフガニスタンでの工作を進めるため、「生贄になった」という見方もあるが、真相は不明だ。ブレジンスキーたちはソ連の責任を主張した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
タラキは1979年3月にクレムリンへ出向いてソ連軍の派遣を要請するが、アレクセイ・コスイギン首相はこの要請を拒否。その月にイランとの国境に近いヘラトで多くの政府高官や十数名のソ連人顧問が殺害されている。その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になった。襲撃したのはイランの革命政府から支援されたアフガニスタンのイスラム勢力だ。1979年10月にタラキは殺され、同年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻してきた。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)