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●今回は予定(社会の仕組みと意識の変化)を変えて、最近読んだ本と関連することを書くことにした。●人間の幸福感は、絶対的な富の大きさ以上に他者との相対的な富の大きさや機会・差別の程度に依存する。経済的に豊かになったからといって格差や差別を感じるようであれば、幸福感は得られない。●おそらく資本の意志(強制力)に基づく生産性や競争力のアップは、人々の望むところではない。経済的に緩やかな進歩あるいは停滞状況にあってさえ、人は社会的関係次第で幸福でいられるはずである。物財の生産を伴う経済成長が続けば地球環境も悲鳴を上げざるをえない。●分業を前提とする限り市場は必要だが、人間性を無視したような競争が必要だとは思えない。結果の完全な平等は悪平等であることに異論はないが、全ての人間が生きていくためには所得の再分配(機会と結果のある程度の均等化)の仕組みは不可欠である。●ということで、資本主義社会を当面は廃棄できないものとして、にもかかわらずこの社会を多少とも人間的なものに組み替えようとするのでれば、政治が資本の意志に逆らったことを何処までできるかということになる。●このための仕組みの前提になるのが税制である。具体的には次の2つをどこまでできるかということになる。(1) 機会均等をはかるための相続税の累進率アップ(2) 結果の平等をはかるための所得税の累進率アップ●人間的社会の実現は高税率・高福祉社会にならざるをえない。財政規模からすれば大きな政府になる。しかし財政規模=政府のサイズとは限らない。おカネの使用方法を大幅に国民に任せたり、役所の権限を小さくすることで小さな政府にすることができるはずである。●「資本の自由→自由」、「大きな政府→税金の無駄づかい」と思っている人、「結果の平等→悪平等」と思っている人からは猛反発を受けると思うが、良く考えれば高税率・高福祉社会以外に社会を人間的なものにする術はない。●にもかかわらず、「低税率・競争社会と高税率・高福祉社会のいずれをあなたは選択しますか」ということになると、多くの人が理念的には後者を好んでも現実的には前者を選ぶことになるような気がする。●とうのは、「高税率では金持ちに敬遠され、資本が海外に逃げ、競争力がなくなってしまい、経済活動のレベルを維持できなくなる」と考えるからである。●従って…競争原理に従えば、格差はやむをえない。競争に負けた地域・会社・人が貧しくなるのは仕方ない。企業も役所もコスト削減に勤めるべきであり、国際競争に打ち勝つためには所得減税をすべきであり、替りに消費税をアップすべきである…ということになる。●ここまできたら、もうあたなたは立派なネオコンである。●結果の平等を批判し、機会均等による自由競争を声高に唱える人は、実際には相続制度に基づく機会の不平等に目をつぶっている。結果の不平等の原因も機会の不平等によるところが少なくない。それ以上に、人は自身の天性の資質に責任を負っている訳ではない。天性に恵まれなかった人間は滅ぶべきだというならば、社会的ダーウィニズムである。●市場主義者の言うセーフティネットは、「結果の不平等は個人の責任であるからして」、せいぜい「おちこぼれを死なないように救ってあげるためのもの」でしかない。●競争社会での勝者は常に少数者であり、多数が敗者になる。かくして資本による強制競争社会では決して最大多数の最大幸福は訪れない。●私は、高福祉社会の実現のために「所得税や相続税の累進率の大幅アップ」を唱えるような政党があれば投票してもよいと思っているが、既成野党は無責任な高福祉だけを唱えている。私の望むような奇特な政党はない。●日本やアメリカを含めて多くの国でネオコン主義が席捲しているように見える。市場主義・保守主義の問題点としてどのようなことが書かれているかと思い、下記3冊の新書を読んでみた。市場社会の思想史間宮陽介著市場主義の終焉佐和隆光著人間回復の経済学神野直彦著●『市場社会の思想史』で扱っている登場人物(経済学者や思想家)は、以前読んだ『貨幣の思想史』と少なからず重複している。前者は貨幣に着目したものであり、後者は「市場を善とみるか悪と見るか、市場を自由に任せるべきか制御すべきか」といった類の視点から整理したものであるが、共に良く整理されていて面白かった。●『市場主義の終焉』は「日本経済をどうするか」という副題がついているが、日本に限らずに保守主義・市場主義とリベラリズムの問題を整理している。『市場社会の思想史』でも歴史的に市場主義と反市場主義の思想が繰り返し展開されてきたことが述べられているので、『市場主義の終焉』を同じ脈絡の中で読むことができた。もっとも著者の言う「第三の道」についての解説は具体性に欠けると感じた。●一般に市場主義者は、国家主義的、所得税の減税に熱心、競争力の維持・拡大のため地球環境問題に関しては消極的、他方で自由と民主主義の押し売りには熱心であるといった特徴がある。●資本主義社会だから仕方が無いと考える人は保守主義になり、差別化された人々或いはその同情者はリベラルになる傾向がある。戦争(例えばイラク戦争)が泥沼になるとリベラルが力を増し、財政赤字や経済競争力が落ちると保守主義に回帰する…といった具合に振り子運動を繰り返しているように見える。●最近では、「競争力の強化によって失業を救う」という幻想によって、フランス国民は大統領選挙において保守主義(サルコジ)を選んだ。●いずれにしてもグローバルな資本主義は、次のような理由から、世界中の大多数の人を幸福にすることは決してできない。グローバルな「市場の失敗」は国内の「市場の失敗」よりも深刻である。なぜなら、市場の競争の結果として生じる格差は、市場に参入した際の初期条件―各主体の能力、保有する資金など―の格差に依存するからである。一国経済の場合、公的教育の充実、奨学金、相続税率の引き上げ、貧困な家庭の子女への経済的支援などによって、ある程度まで初期条件を均一化することができる。しかし、グローバルな市場経済には、ルール違反を監視し処罰するWTOはあっても、国家間の初期条件の格差を是正するための措置を講じる「政府」にあたるものは存在しないからである(『市場主義の終焉』より)●『人間回復の経済学』の著者は、「経済のための人間」ではなく「人間のための経済」にすべきである説いているが、具体的な例としてスウェーデンのような高税率・高福祉国家について詳述している。●スウェーデンがハイエクのいう『隷属への道』を歩いているようには見えない…どころか自由への道を歩いているように思える。いずれにしても保守・市場主義(低税率・強制競争・低福祉)に巻き返されないよう健闘を祈りたい。●日本人には「高い税金(年貢)=悪い政府(悪代官)」と思っている人が多いように思う。北欧の国々(スウェーデン、ノルウェー、オランダ、デンマーク、ベルギー)の租税負担率は45%以上なのに対して、日本は25%程度に過ぎない。現代世界では低い税率は富者に喜ばれても、貧者が豊かになることは無い。●このことは、税率アップに反対すれば票になると思っている野党やマスコミも大いに反省する必要がある。少なくとも累進課税は月光仮面(正義の味方)なのである。●保守主義・市場主義の対極としてリベラリズム(経済はケインズ主義)があるが、これらに対してスウェーデンのような高税率・高福祉社会は第三の道のように見える。ことによると、私の考える未来社会に通じる道であるかもしれない。
May 25, 2007
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●人は社会、職場、家族などでの分業に基づく有機的な社会を構成するがゆえに、特別に精神的な動物であるといえる。このため、人間の幸福感は経済的な豊かさにもまして社会規範に依存することになる。●設計主義的合理主義にも書いたように、生命は本質的に利己的であり、人間だけが特別なものではない。人間も所与の環境の中で、一般的状況においては功利的に行動すると考えられる。この功利的行動が結果オーライになるような仕組みが、良い仕組み(人間的社会)と言える。●そこで、私が提案する未来社会の仕組みの主要なものをとりあげ、このような仕組みによって人間の行動・意識がどのように変化するかを推論してみる。 (1)貨幣が時間と共に減価するようになった場合 (2)相続や譲与制度が廃止された場合 (3)基本配当・投資配当制度が導入された場合 (4)選挙方法が距離逓減・無境界選挙に変わった場合 (5)組織が出入り自由になるとともに民主主義になった場合●これらの仕組みが実現すれば社会規範は現代社会とは劇的に異なったものとなるであろう。全てが実現すれば人間の歴史を画する出来事となる。(1) 利子貨幣が減価貨幣になった場合●減価貨幣については、減価貨幣についてのメモをしたためたばかりである。このメモと重複する部分もあるが、今回は人間の行動・意識の変化の観点から述べることにする。●私の考える未来社会では、現代社会でいう貨幣を「配当」と呼んでいる。この「配当」は物理的実体を持たないデータでしかない貨幣である。●ここでは減価貨幣と呼んでいるが、「配当」と性格が似ているので、一緒に扱うことにする。但し、「配当」は減価ではなく、定率で回収されるものである。この回収率を減価率と呼んでもよいし、税率と呼んでも良い。要は、持っているおカネは時間とともに減っていくことになるということである。●この減価貨幣は古代エジプト、中世中期のヨーロッパ、第一次大戦後のドイツ東南部の町シュヴァーネンキルヘン、オーストリアのザルツブルグ近郊の町ヴェルグルなどで用いられたようである。●減価貨幣については、下記の3つの本が邦訳や本が参考になる。 『自然的経済秩序』:シルビオ・ゲゼル 『エンデの遺言』:NHK出版 『マネー』:ベルナルド・リエター●ところで、貨幣には次の三つの基本的な機能があるといわれている。 a.交換の媒体 b.価値の尺度 c.価値の保存●これらの基本的機能に加え次のような機能を持つに至っている。 e.投機的利益の道具 f.支配の道具●このうち、c~fの機能は利子貨幣の機能であって、減価貨幣はaとbの機能しか持たない。●保有していると時間と共に目減りするようなおカネの場合、できるだけ早くモノと交換しておいたほうが得策になる。こうして貨幣は保存手段であることをやめ、交換手段にすぎなくなる。減価貨幣の社会では交換価値よりも使用価値が重視されるようになる。貯蓄手段の機能を削減された貨幣は神の座から追放され、拝金主義社会は終焉する。●貨幣の退蔵が少なくなり、貨幣の流通が速まるようになる。減価率が大きくなればなるほど、おカネは高速回転するようになり、モノやサービスの生産が活発になる。●利子貨幣の場合には、好況期に多くの貨幣が市場に提供され、不況期には蛇口が閉じられる。つまり必要が無い時に多量の資金が投入されてバブルを招き、必要な時に出回らなくなるといった景気変動がある。減価貨幣でのこのような景気変動はなくなる。●利子貨幣の場合には、財布の紐を緩めさせるために涙ぐましい努力(宣伝、営業)が必要になる。減価貨幣の場合には、こういった労力の大半が不要になる。後払いよりも先払いの方が有利になる。●利子貨幣の社会での売買は価格を巡る駆け引きであるが、減価貨幣の社会での売買からは猜疑心が消えるはずである。買い手はお客様ではなくなり、売り手と買い手は対等の関係になる。物々交換では両者は対等であるが、減価貨幣は物々交換の媒介手段にすぎなくなるからである。●モノやサービスの提供者は販売が容易になるので、事務、営業、販売、管理などの多くの人が必要なくなる。●だからといって、大量失業時代になるわけではない。おカネは溜め込んでいても目減りする一方なので、出し渋っていたことにもおカネを支払うようになる。現代社会でボランティアや趣味に該当するような活動やサービスも収入になる。●資本主義社会では、売れるモノやサービスのために研究・技術開発を含めた激烈なバトルが展開される。減価貨幣の社会ではモノやサービスの販売が容易になるからといって競争がなくなるわけではないが、資本主義社会のように絶えず背中に火のついたような状態ではなくなる。●減価貨幣の社会は不断の好景気状態になり、資源の使用量が増えることにもなるので、経済活動の抑制を図ることが必要になる。おそらく、労働時間の大幅な短縮が必要になる。デマレージ貨幣のあった中世中期では労働時間が制限されていたとのことである。ドイツの歴史家フィリップ・シュワルツは『農家と城になんの格差もなかった』と言い切っている。……当時の祝日はなんと年に百七十日もあったと主張する歴史家さえいる。職人は週に平均四日以上は働かなかった。その上、一日の労働時間も制限されていた。(『マネー』より)●モノは時間とともに減価していくので、モノで価値を保存しようとするならば、減価率が小さくて長期的に使用できるようなものを購入することになる。人によっては、これまでどおり貴金属や宝石などを買い込むかもしれない。或いは、耐久消費財や生産手段の購入や維持修繕におカネを使うかもしれない。おカネの減価率を小さくするため投資する手もある。●おそらく将来に備えたストックづくり以上に、日々をエンジョイする消費生活に重点を移すようになであろう。現金で貯蓄しにくいときは、うまく保管できて将来的に価値を生むようなものに投資するのは当然のことである。通貨を貯め込む代わりに土地開発や灌漑計画、絵織物や絵画、家畜、羊、機織機、橋、運搬機具、風車、ブドウ圧搾機、そして時には大聖堂に投資することが普通になったのである。(『マネー』より)●資本主義社会では人は金の亡者や守銭奴になることを強いられる。これに対して減価貨幣の社会では「金欲が物欲に変わるだけだ」と考える人がいるかもしれない。しかし、おカネやモノの獲得が容易になるため、利子貨幣社会での「カネの獲得に駆り立てられる」が「モノの獲得に駆り立てられる」に置き換わるだけになるとは思えない。●馬車馬のように稼がなければ生きていけない生活から解放され、生活をエンジョイするようにライフスタイルが変化することによって、精神的な楽しみを求める動機が増すのではないかと思える。●資本主義の定義に確たるものは無いようであるが、資本とは利子貨幣を前提としたものであように思う。モノを生産するには資金は必要だが、資本は必要ではない。減価貨幣が支配的通貨になったら株式市場(減価率を緩和するためのもの)などというものは消え失せるに違いない。であるならば、減価貨幣の社会はもはや資本主義社会ではない。●逆に社会主義は、個人所有の資本が国家に集中されただけであるので、シルビオ・ゲゼルの言うように社会主義は資本主義をアウフヘーベンしたわけではない。●利子が無くなることによって、おカネがおカネを産むことは無くなる。おカネは生産・サービス活動の対価としてのみ得られるだけとなる。●おそらく、おカネを巡る忌まわしい事件や争いの大半は社会から一掃されるであろう。現代社会におけるようなおカネを巡るギクシャクした人間関係がなくなる…ということは、精神衛生面が大幅に改善されるということである。●景気変動がなくなるので政府の財源も安定する。安心とゆとりの社会は、人々の関心をよりいっそう地球環境問題や社会福祉などに向けさせることにもなる。ことによると、ロハス的なライフスタイルが一般化するかもしれない。●とはいうものの減価貨幣が全ての問題矛盾(機会の不平等、結果の不平及びこれらに起因する諸問題、国際的諸問題など)を解決するわけでは決してない。
May 16, 2007
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(1) リバタリアンの幻想●市場は分業の要請によるものであり、モノやサービスの交換・調達の必要性によって誕生した。そして、この市場での交換の利便性のために貨幣が発明された。●市場も貨幣もハイエクが言う「自生的」に生まれ・発展してきたものかもしれない。この自生的秩序を覆し、「設計主義的合理主義」を適用しようとした社会主義は破綻した。●ハイエクは設計主義的合理主義なるものを批判する一方で、資本主義社会の「市場」や「価格システム」などの「自生的秩序」にあまりにも信頼を置きすぎているように思う。●リバタリアンは、政府の統制を可能な限り制限し、可能な限り諸個人の自由を広げることを主張する。確かに、アダム・スミスの言う「神の見えざる手」に委ねても問題が起きないのであれば、それが一番良いのかもしれない。しかしその環境条件が問題である。●ハイエクは「資本が自由に活動できる環境=諸個人の自由が最も発揮される環境」と考えているように思える。●実際には、資本主義社会における諸個人の自由は、持てる者にとっての自由であって、持たざるものにとっては自由など無いに等しい。資本主義社会の自由とは資本の自由なのであって、諸個人の自由とは程遠い。職場は資本の専制的支配下にある。●仕組み(環境)が良ければ、レッセ・フェール(自由放任主義)でも良いのかもしれない。しかし、仕組みが悪ければ様々な法規制(つぎあて)が必要になる。逆に言えば、様々な法規制が必要になるのは仕組みが悪いからである。●コントロールしているつもりの市場は時にバブル現象や経済恐慌を引き起こす。利子貨幣による経済システム、利潤追求動機の資本主義経済システムでは、様々な社会・経済事件や問題に事欠かない。●生命は生存競争に勝ち抜くために本質的に利己的である。人間だけこの本性から免れることはできない。このことの前に性善説や性悪説などの不毛な議論は意味を持たない。このような本性の人間に、無条件で自由放任が一番良いなどとは決して言えない。●加えて、この経済社会(環境)にあっては、人は守銭奴であること、金の亡者になることを強いられる。●人間の本性を変えることはできないが、教育(宗教を含む)によって人間を利他的にさせることは出来ると多くの人が言うかもしれない。二者択一の問題ではないが、脳味噌の改造と社会の仕組み(環境)の改造とどちらがよいであろうか?●思想や宗教による「人のため」は、どのような思想や宗教であるかが問題となる。そのこと自体が人と人を反目させることにもなる。宗教は人間の幸福を問題とする以前に宗教自身を問題とし、凄惨な歴史を繰り返してきた。●生命の利己的本性を変えることはできないが、利己的な動機による活動が結果的に人のためになるような仕組みをつくることは可能な筈である。それこそが人間に与えられた頭脳の活用方法である。資本主義にもこのような要素が全くない訳ではないが故にそれなりの成功を収めてきた。●思想教育としての洗脳によって「人のため」に活動するように仕向けるのではなく、「人のため」と言う動機が発現しやすい社会・経済システムとすることの方が功利的であり、生命の利己的本性も納得する。●「徳」が「得」になり、「得」も「徳」になるような社会・経済システムとすることができれば、安心してレッセ・フェールにすることができる。●リバタリアンが諸個人の自由と法規制による制約の少ない社会を望んだとしても、犯罪や暴力が横行すれば国家がしゃしゃり出てきて法規制を強化せざるをえなくなる。●確かに国家による諸個人の自由の制約は心地よいものではない。しかし、仕組みが悪ければ、虚偽、犯罪、貧富の差、道徳的頽廃など様々な問題がおきる。そして、複雑多岐に亘る法律が必要になり、法律を守らせるための役所や警察が必要になり、学校では道徳教育が必要になり、軍隊が必要になる。●このため、私有財産と資本主義経済の下での諸個人の過度の自由要求は自家撞着に陥る。諸個人の自由は国家という保護者無しにはありえないからである。(2) 野党の幻想●資本主義社会においては「利益が出なければ給料は増えない、下手をすれば倒産する」、「経済発展が無ければ、税収が少なければ、儲けが無ければ、十分な社会保障ができない…」というのは真実である。●この社会においては利益がメインであって、給料アップや福祉の充実はサブにならざるをえない。この主従関係を国民は意識的・無意識的に弁えている。自民党政権が危うくなると見るや国民の保守バネが働く。●与党の失政などから運よく政権にありつけた野党(非現実政党)は、直ちに現実政党化するしかない。非現実に固執するようであれば、現実から手痛いしっぺ返しを受けることになる。●ということで、資本主義社会では一般に、経済的支配者側の政党は常に与党で、労働者や弱者側の政党は野党が定席になる。南米のベネズェラのチャベス政権は労働者や弱者側に立っていると言えるが、国家資本の手による石油産業の賜物である。●弱者救済を訴える政党に組みしたくなる感情は分からないではないが、野党側の論理にいつも説得性が欠けるのは、この現実社会の主従関係に理由がある。変節を拒む野党側の論理の行き着くところは設計主義的合理主義であり、大きな政府や社会主義(資本の国家占有)である。(3) 諸個人の自由を条件とする設計主義的合理主義●主(資本主義経済システム)を変えない限り、従(自由、貧富の差、犯罪、環境問題)の改善には限りがある。●守銭奴・金の亡者を必然化する経済システムを前提に精緻で堅固な社会システムを構築するよりも、「徳=得」になるような社会・経済システムの方が単純にして安価で済むはずである。盗む必要が無いような社会であれば盗みは起きない。なによりも人がハッピーに暮らせるようになる。●未来社会の基本フレームは次のようなことになる。<経済の仕組み>・利潤追求動機の元になる利子を貨幣から取り去る。(減価貨幣にする)・生活不安を除くためのセーフティネットとしての基本配当制度がある。・人に感謝されるような投資・寄付が所得になるような投資配当制度がある。<社会の仕組み>・機会均等を妨げる遺産相続制度を廃止する。・無用な縄張り意識と争いの元になる国境などの境界を廃止する。・政治及び組織に無境界選挙制度を導入する。・地域や組織間の移動・参加と離脱・や脱退が自由である。●ハイエクに言わせれば、このような仕組みを考えること自体が設計主義的合理主義かもしれない。●ところで、専門家や官僚達(彼らも専門家である)達による設計主義的合理主義が問題であるのは次のような点ではないかと思う。・専門家や官僚が考えた合理性と諸個人が市場で選択した結果としての合理性とは異なる。・専門家や官僚は選挙で選ばれた人間ではない。・専門家や官僚がつくる組織が利益団体化する。●しかし、前述の未来社会の仕組みは下記のような諸個人の自由を条件とするような設計主義的合理主義であって、国家による「諸個人の自由の制限が大きい自生的秩序」よりも好ましい筈である。●仮に、未来社会のシステムが設計主義的合理主義の範疇に入ろうとも、もはや設計主義的合理主義の弊害は除かれている。・市場や価格システムは引き継がれる。・自らが生存中に築いた財産は自らのものである。・投資配当の管理は専門家や官僚ではなく諸個人に委ねられる。・資本主義は組織内封建制(任命制)であるが、未来社会は組織内も民主主義(選挙制)である。●私は…思想としての設計主義的合理主義が先導役になることがあるかもしれないが、未来社会は歴史的必然として自生的に形成される。但し、自生の条件が整うには少なからぬ年月を要するが…ではないか思っている。【参考】◆未来社会(新紀元)へのプロセス
May 8, 2007
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