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●通りがけにあった区役所の図書館を覘いて、小松左京の『ユートピアの終焉:イメージは科学を超えられるか』という本を借りてきた。正直言って、この本はお勧めできるようなものではない。ユートピア論についてのエッセーから未来のことに関するゴッタ煮のエッセーを束ねた代物である。●但し、ユートピアは幻想であり、デストピア(反ユートピア)になるという解説には同意できるところがあったので、以前「ユートピアはフレームでなければならない」といった趣旨の記事を書いたが、この補足の意味で、ユートピアのデストピア性についてコメントすることにした。◆参考記事未来社会とユートピアの関係ユートピア●トーマス・モアの『ユートピア』は、次のようなとんでもない代物である。・市会または一般選挙場以外の場で一般の政治について多少でも協議することは、死刑をもって禁じている。・奴隷制がある。姦通や無許可州外旅行の重犯者は奴隷刑に処せられる。・傭兵による戦争が奨励されている。必要とあれば巨額の報酬の約束の下に、どんな危険な所だろうがお構いなしにどしどしこの傭兵を送るが、殆どその大部分が生還しないので、結局その報酬もそれだけ浮くというわけである。・賭博、居酒屋、酒屋は無い。全国民が同じ型の服を着ている。・人口が増えて新たな土地が必要になった場合には、島を出て内陸の荒地を開墾するが、そこに原住民がいる場合、かれらが一緒に生活せず、入植を拒むのであれば、彼らを追い払う。・食事サービスや雑役を行うのは奴隷である。・婚前性向は厳禁であり、もしそんなことがばれたら、一家が教会から指弾、排斥される。・厳重な一夫一婦制で、一度結婚したら、原則として離婚できない。そのかわり、結婚前、花嫁、花婿候補はそれぞれ付き添い立会いで、双方素っ裸になって、それぞれの肉体上の欠陥がないか、丹念に調べあう。●カンパネッラの『太陽の都』にはおよそ自由などというものがなさそうである。・婦人共有制になっている。所有権というものは、自分だけの家をつくり、自分の妻や子どもをもつことから生じ、そこから利己心が生まれる。利己心がなくなれば公共への愛だけが残る。・役人の選任は4人の統治者「太陽」「力」「知恵」「愛」と学芸の教師達であるということになっているが統治者に関しては統治者としての要件について書かれているだけであり、選挙はないようである。・自由恋愛もなければ結婚生活もない。子づくりとしての性交と、性欲を満足させるための不妊女性との性交がある。いずれも管理されたものである。●『ユートピア』や『太陽の都』はこういった具合で、このほかにも首を捻りたくなるような記述が多数ある。反ユートピア●ハックスリィの『素晴らしい世界』やジョージ・オーウェルの『1984年』は社会主義をもじったような理想的社会だと思うが、いずれも完全に統制された社会である。●前者は生物学的培養によって人間を規格に応じて型通りに作り出す社会である。後者は北朝鮮のような社会を思い起こせばよいかもしれない。自発的に党の言うことが絶対の真理であると思うようにならされた社会である。中世キリスト教世界●異端審問や魔女狩りによる処刑などが行われた中世キリスト教の世界は、教皇とか法王庁の人達にとってはキリスト教絶対のユートピアであったに相違ない。社会主義●社会主義は、個人所有が国家所有に、市場経済が官僚主義の計画経済に置き換わったに過ぎない。国王の独裁所有よりも個人所有、統制よりも自由市場の方がましなのと同じで、資本主義的私的所有のほうが、国家による単独所有よりもなんぼうか良いに違いない。資本主義的自由主義●ところが、資本主義は相続制度という差別システムを前提としたものである。これは、富や権力の所有者達にとっての自由主義であって、多くの持たざる者や競争の敗者にとってはデストピアでしかない。●幾多の希少生物種(の抹殺を含む生態系の破壊)、水と大気と土壌(の汚染)、資源(の乱獲・破壊)など地球環境にとっては、汚染人類史上の最悪のデストピア社会である。イスラム教に基づく政治●アフガニスタンのタリバンはスラム原理主義に基づくユートピアを建設しようとした。これは、排他的一神教による支配であり、他宗派にとってはデストピア以外の何物でもない。デストピアにならないユートピアの条件●思想や宗教と名のつくものによる支配は多くの場合デストピアになる。提案者や賛同者にとってはユートピアでも、非賛同者にとってはデストピアである。ユートピアとデストピアはしばしば表裏一体の関係にある。●イスラム原理主義者の支配する世界が資本主義的自由主義者にとってデストピアであるように、資本主義的自由主義者のユートピアはイスラム原理主義者にとってはデストピアである。価値感は主観的なものであり、客観的な正しい価値観などというものは無いものと観念すべきである。●国、企業、宗教、教育機関、NPOやNGO…はすべて組織である。国を股にかけた組織もある。組織には当然ルールがある。●現代世界で、国は突出してはいるが組織のひとつである。未来社会では、国は行政区域のひとつに過ぎなくなるとともに、他の組織と比較して特別な組織ではなくなる。国法は居住地に適用されるひとつのルールに過ぎなくなる。●ユートピアが主観的なものである以上、様々なユートピア(組織)がありえる。ユートピアが国である必要は無い。●自身の所属する組織が、デストピアに感じられるようであれば、直ちに離脱可能でなければならない。●人は、本人の意志のみによって、あらゆる組織に入ること及び離脱することができなければならず、何人もこれを妨げてはならない。選択の自由を容認しないユートピアはデストピアになる。●このような各種の自称ユートピアが他者にとってデストピアにならないためには、・自称ユートピア(組織)の非賛同者への押し付けの排除・ユートピア(組織)からの離脱希望者の無条件での離脱の自由●この2つが守られなければ、自分達のユートピアは、他人達にとってデストピアになるものと考えなければならない。●しかし、本人はユートピアから離脱したくても、経済的制約(土地やお金が無い)故に、離脱できない場合がある。組織の側も離脱希望者が経済的理由から離脱できないことを十分に承知していて、このことを利用して、名目上の離脱自由、実質的な拘束が行われているのが普遍的といえる。●このように考えると、ユートピアの多くはデストピア的性格をもっているといえる。●従って、離脱するための不可欠な条件として経済的制約の除去が追加されねばならない。例えば、私の考える未来社会では配当システムのようなものである。◆配当システムに関する記事未来社会の仕組みを考える(2)未来社会の仕組みを考える(3)フレームとしてのユートピア●個別のユートピアは、他者にとってはしばしばデストピアにすぎない。従って万人にとっての普遍的なユートピアなるものは存在しない。万人にとってユートピアがありうるとすれば、様々なユートピアを許容し、これらユートピア間の移動・離脱が自由であるような、世界的フレームワークにならざるをえない。●未来社会では、様々な組織のうち、住み易さや大きな生き甲斐を実感できるなどの理由によって人気がでてくれば、その組織の賛同者は増え、組織は大きくなるであろうし、人気がなくなれば衰退するであろう。●一般には偏屈と思えるような集団、特定の主義主張や宗教で凝り固まったような組織も、小集団に留まるかもしれないが、ユートピアとして選択の自由によって並存するであろう。
August 22, 2007
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●中里介山は29年も『大菩薩峠』を書き続けたが、未完に終わった。●6月10日にちくま文庫の『大菩薩峠』全20冊が届いてから、暇のなせる業といえばそれまでだが、このような長編小説を2か月ほどで読み終えた。こんなに短期間に読んでしまっては中里介山に申し訳ないような気がする。●この本を紹介してくれた友人は、「精神的に落ち込んだ時に、この本によって救われた」という。私は、読み終えて中里介山の世界の余韻に埋没している。●物語の時代背景は幕末であるが、日本語の表現の豊かさと様々な故事来歴が盛り込まれている。●この本を一口と言うと、「人生の目的や生き甲斐を求めてさまよい歩く旅」といったことになるのかもしれない。●例えば、端役的な仏頂寺弥助や丸山勇仙のように突然人生の目的がないことを理由に自害したり、結局は世を儚んでのことかもしれないが、お雪ちゃんのように湖上で魔が刺したように心中を試みたりする者が出てくる。「丸山--おれは死ぬぞ、どう考えても生きる口実を見失ったから、これから本当に死んで見せるのだ、検死をつとめさっしゃい」「生きて行くには相当の準備がいるだろうが、死ぬに準備はいらない、出たところ勝負で結構」「そこでだ--お前が死ぬとなれば、おれも死ぬ--と、なぜ最初から言えなかったのか、それが考えてみると不思議だ」●俳優は様々な役に扮するが、自身の人格以上の性格を表現することができない--と私は考えている。これと同じで、小説にはどのようなキャラクターでも登場させることができる。しかし、著者の感性を超えた人物を表現することはできない。この意味で、中里介山の感性の豊かさにはひたすら感心せざるをえない。●主人公的な人物が多数登場する。机龍之介はそのうちの一人にすぎず、彼に割かれたページ数も多いものではない。描かれた人物は実に生き生きしている。物語の主要人物・動物だけで、竜之介、米友、与八、兵馬、お松、七兵衛、駒井、神尾、弁心、茂太郎、ムク犬、白雲といった人物が登場する。●登場人物中での私のお気に入りは米友と十八文の道庵先生であるが、人それぞれで、与八、お銀様、お松、お角、中には神尾主膳のファンもいるかもしれない。●お祭り騒ぎ好きで庶民の味方の道庵と反権力志向の強い米友との中仙道の旅は、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅と弥次喜多道中をミックスしたような痛快なものになっている。文体もベランメエの名調子である。映画化されたものは机竜之介を主人公にしたものばかりだが、こちらを映画化する方がはるかに面白いものになるだろう。●このブログのテーマは未来社会なので、以下では『大菩薩峠』のユートピアに関することについてコメントにするに留める。●これらのユートピアに関する部分(胆吹の巻や椰子林の巻)は中里介山が軍国主義の軍靴の足音高い時期に書いたものであると思えるので、よくぞ書いたと言える。お銀様のユートピア(胆吹王国)「わたしは今、愛情のことばかり言いましたけれども。わたしたちが住もうという世界は、愛情の自由を与えることばかりではありません……有形にも、無形にも、人間のすることに人間が決して干渉してはならないのですよ、圧迫してはならないのですよ。そこには、服従の卑屈があってはならないように勝利の快感もあってはならないのです」「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことが出来ます」「所有が決して、富をも幸福をも齎さないのみならず、かえってその反対と裏切りとをつとめていることは、物事をじっとほんの少しばかり眼を留めて見つめていれば直ぐに分かることなのに、ですから、わたしの領土では、決して一事一物をも所有ということを許しません、形の上でそれを許さないのみならず、所有を思うことをさえ許さないのです」「わたしは、この世で、人間が人間を相犯さないという世界を作りたい、相犯さないということは、いわゆる悪いことをしないということじゃありません、何をしようとも自分の限界が犯されない限り、他の自由を妨げてはならない--という領土をつくってしまいたいと思います」●お銀様のユートピアは金力による上からの王国建設で、ロバート・オーウェンのアメリカで理想社会ニューハーモニーと類似していないこともない。●土地を含む生産手段はお銀様の所有であり、お銀様が女王、不破の関守氏が首相の役割を担う専制的自由主義の王国(集落)である。●お銀様的なユートピアの行き着く先は、賢人政治的な社会主義社会かもしれない。このようなシステムは必然的に、ピラミッド型の官僚社会、牢獄的社会になる。中里介山の時代には社会主義の牢獄的体質は顕在化していなかったが、胆吹王国はそのことを示唆するようでもある。●お銀様の呼びかけに応じて集まってきたのは、必ずしも主義理想に共鳴するものばかりではなく、経済的理由や興味本位で参集したものが大半である。やがて理想と現実の乖離に気づいたお銀様は胆吹王国を放擲してしまう。駒井甚三郎のユートピア(海洋王国)●駒井甚三郎のユートピア建設は西洋の造船技術や操船技術のみならず、カンパネッラの『太陽の都』やメイフラワー号で渡航したピルグリム・ファーザーズなどについての知識を十分に得た上でのものである。「私は一人一家主義です、ここに一人が独立の生計を与えられれば、必ず独立した一家を持たなければならぬという論者です、いわんや結婚生活においておやです。…」「生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい…治める人と、治められる人とがありません、従ってこの国には賞というものがなく、罰というものがないことになります。…では、善いことはせんでもよい、悪いことは仕放題で罪が無いかと申しますと、それは大いに有ります、おたがい同士仲良く生きて行くために害を為すことは悪い、それを滑らかにするものは善い、とこう定めて置きましょう、そうすれば、おのずからこの島に於いて為さねばならぬことと、為して悪いことがわかるはずです。…故に、皆さんは、まず食物を作ることを第一の善事だと心得て下さい。」「…我々は決しておたがいに過大の労力を課することを慎みましょう…。半日は食物のために働き、半日は趣味のために生くるということ、これを島のおきてとしましょう。」「…それから、万々一、おたがいの中に我儘気儘が昂じて、他の害悪をなす場合には…この島のうちで別世界をこしらえて、そちらへ移ってもらう、そうして、そちらで自分の好きなような生活ぶりをやってみるがよい…」●当初から極端な男女比率のアンバランスが問題とされている。●入植後、暫く経ってから欧米文化を忌避して移住してきた一人の先住民(異人)がいた。「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍を踏むにきまっています、失敗しますよ」…とこの異人氏は言う。これは欧米が行ってきた植民地の実態に基づく教訓を絶望的に語っているとものと言えよう。当然、駒井はこのことを理解できない。●駒井の海洋王国は平等を旨とする自由主義の国である。土地以外の生産用具は駒井が全て用意した。自由と平等を信条とする国(集落)である。●思想的一致によって集って建設されたユートピアは結束力があると思うが、将来的には異端者が出現する場合もありえるので、人間的社会の仕組みとしては、種々雑多の人間を受け入れる包容力をもっている必要がある。●ユートピアとしてのリアリティは南海の孤島という舞台設定の上でのことかもしれないが、社会システムの普遍性としては次のような点から疑問が残る。・法律や罰則が無い社会というものがありえるか?・コミュニティとしての意思決定ルールが示されていない。人口が増えた場合には選挙制度が必要になると思うが?・共有社会を想定しているようだが、分業に基づく大規模社会の想定がされていないと思える。・お金の不要な社会を想定していると思えるが、世界的な経済システムになった場合に貨幣システム無しにすませられるであろうか?与八のユートピア●ユートピアとして語られている訳ではないが、『大菩薩峠』にはもう一つのユートピアがある。それ以来、そのつもりでみていると、見ているほど光出して来るのが、このデカ物の働きぶりです--この男は経済学を無視している、分配の法則から飛び離れている。他の何事よりも経済学を無視しているということが、伊太夫にとっては不思議であり、驚異であり、無謀であることを感じずにはおれないらしい。何となれば、伊太夫の頭は、ほとんど全部が経済学から出立しているのです。あの薄馬鹿のようなデカ者は、親切である上に先生ができ! あそこへ子供をやっておけば間違いはない! 子供もよい癖がついた上に、読み書き、そろばんまでも教えて帰される!そのうちに、誰言うとなく、こんどお大尽様へ来たデカ者は、あれは只者ではござらねえ、まさしくあれは木喰五行上人のお生まれかわりに相違ない、五行上人が生まれかわって有野村のお大尽の邸へお出ましになった--●与八のユートピアは、理論先行ではなく、経済合理性を無視したものであり、与八の活動によって自然に形成されていく。お銀様のユートピアは簡単に放棄され、駒井甚三郎のユートピアも先行きの行き詰まりが予感されるが、与八のユートピアは発展していきそうである。●ユートピアは計画してできるものではなく、意図せざる善行の積み重ねが、周囲の人々を感化していくことによって実現されるものかもしれない。●中里介山は、ことによると盲目のお喋り小坊主、弁心の宗教観をベースにした与八の貨幣経済的価値観を無視した自然な世界に救いを求めているのかもしれない。
August 12, 2007
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●抽象的かつ分かりにくいものほど有難いものであるかのような哲学的な説や解釈ではなく、科学的な人類学から「人間について」知ることは未来社会を考える上で決して無益なことではない。●今回は、『暴力の起源』について紹介する。この本は「人は殺し屋であることからのがれられない--つまりその動物的遺産により人類は遺伝的にも本能的にも攻撃的であり、それは宿命なのだ」とする著名な学者や作家達による説を検討し、このような結論を打ち破ることを目的として書かれたものである。『暴力の起源―人はどこまで攻撃的か』アシュレイ・モンターギュ(著)、尾本恵市&福井伸子 (訳) この本は楽天ブックスにはなかったので、他のオンラインショップを探して下さい。●原題は"The Nature of Human Aggression"(人類の攻撃性の本質)で、1976年に出版されたものである。出版から30年以上経つが、教えられることが少なくなかった。訳文どおりではないが、以下に要点を抜き出してみた。1.原罪、フロイト、ダーウィンの影響●原罪の教義は、ユダヤ・キリスト教信仰の最も有力で影響力のある原理である。"殺し屋としての人類"は、何世紀もの間、西洋で猛威をふるった一つの考え、すなわち原罪の教義の現代版にすぎない。しかし、決して、人類は事実生まれながらにして罪深いのかどうかという問題は論じられなかった。それは自明のこととされていた。●19世紀の二つの学問的発展もまた思いがけず人類性悪説の速やかな受け入れを助けた。これらの一つはフロイトの指揮下にあった心理学と精神分析学の分野であり、他の一つは、ダーウィンを信奉する生物学の分野である。●フロイトは、当時の、うわべは慎み深い世界に対し、人類の動機づけの力として最も重要なのは性であることを示した。悪は人間の本質の欠くべからざる一部であるという確信を新たにする効果があった。さらに、彼のいわゆる死の本能という形で、このことに大いに寄与した。事実は、精神分析学の教義が宗教の教義より少しばかり科学的であるということにすぎない。宗教同様、それは大部分哲学であり、その基礎は人類の本性に関する道徳的判断にある。●ダーウィンの意図したことではないが、私たちが殺し屋であるのは、祖先の動物からの遺伝によるということは、多分受け入れやすい考えだろう。●ダーウィンが生存競争という言葉を使ったのは「大きな比喩的な意味あいにおいてであって、それは他の個体への依存を含み、さらに(これが最も重要なのだが)固体の生存だけでなく、子孫を残すのに成功することを含んでいるのである」ということであって、ダーウィンの説は広くその信奉者によって曲解されてしまう。●当然のことに、動物学者の多くが衝突よりむしろ協力の方が、動物における進化の過程に効果のある主要な要素であるという結論に到達している。●曲解された"適者生存"原則"は自然における闘争といういかがわしい概念を、自由放任の市場競争にまで拡大解釈し、社会ダーウィニズムとして自由放任競争に科学的承認を与えた。"適者生存"は産業界の大立て者やナチスにとって、彼らの方針や行為の示唆であると同時に、正当化でもあった。●このようにして、民族差別、偏見、企業連合による地球支配などの全てが、動物的遺産によって正当化されてしまう。2.本能●遺伝的なプログラミングに基づいて行動するように仕向けられた攻撃本能(闘争本能)、性本能、母性本能といったものは人間にはない。知能と学習を利用して環境の挑戦に反応する生物にとっては、本能は、適応的に全く無用であろうということである。●セックスでさえ本能がさせるものではない。誰かに教えられなければ知らないまま過ごすことになってしまうかもしれない。母性本能なるものがあれば捨て子や嬰児殺しなどは決しておきないはずである。●本能は、まだ主として生物学的宇宙に生きている他の動物においては、有益な目的にかなうものかもしれないが、おもに人工的環境の中で進化してきた人類の場合、人間環境の要求にみあうようにデザインされていない本能的行動は、まったく非適応的であっただろうし、体質的に欠陥のある集団をすみやかに滅亡へと導いたであろう。●闘争へとかきたてる自発的な刺激が身体の内部に生じるという生理学的な証拠は何も無い。このことは、外部の環境に起こる事から離れては、攻撃的にしろ防衛的にしろ闘う必要は何もないことを意味する。●文明社会における、あらゆる種類の青少年の犯罪率は、社会及び家庭の事情の反映である。3.脳の発達と幼形成熟●チンパンンジーやゴリラの幼児は成獣とくらべてもはるかにヒトに似ている。人間は幼形成熟した動物であるといえる。●頭と脳が大きくなったことはすばらしい財産となったが、一方で大変困ったことが生じた。それは出産である。女性の骨盤が胎児のより大きな頭を収容するために広くなり、また子供は脳が発達しきるかなり前に生まれるようになった。誕生した時にこれほどまでに弱弱しい生物は他にはない。かくして子供の依存期間の延長という結果を生んだ。●子供の成長のためには、長期間の養育とそのたの家族間の協力・愛情が必要なのであって、これ無しには人類は繁栄しなかった筈である。人類が成功するためには「動物的な闘争本能?」など全く必要ないのである。●協力には学習が不可欠であり、そのための有効な手段が言語であった。言語による複雑で抽象的な思考こそ、人類以外の動物と人類の間に大きな溝をつくっているものなのである。●幼児や無力な人々の世話をみようとするある自然な傾向をもつ人間およびグループに、自然淘汰は有利に働いた。どんなグループにおいても、お互いにめんどうを見合った人々は、相互の敵意や暴力によって特徴づけられたグループより、はるかに長く生きのびたであろう。4.なわばり●なわばり行動の傾向をまったく示さない動物は数多い。なわばり的行動が生まれつきの固定された行動パターン、つまり遺伝的に決定された根深い性質であるどころか、そんなものでは全くなく、状況的背景すなわち環境の影響に大きく左右される一行動様式であるという事実を強く主張している。●人々が「祖国」に対してもつ感情的愛着は、生まれた「土地」に対する公私にわたる忠節や共同体への忠誠の制度化によって、さらには旗を振ること、旗への忠誠の証し、「よかれ悪しかれ私の国」、そしてその他多くの愛国的標語のような現代の制度機構に相当するものによって、習慣的に強化される。「父なる国」、「母なる国」、あるいは「祖国」は感情的なかかわりあいをもつようになり、その感情を支持するために部族主義者はあらゆる複雑性や信仰を利用する。5.戦争と暴力●人間の脳は抑制の機関である。それは熟考と選択の機関である。行動するということは、多くの中から一つのパターンを選ぶということである。●英雄とはできるだけ多くの敵を殺し、また殺すことを可能にする人である。事実上私たちの全ての制度、伝統及び公的メディアは、敵を殺すことを国家奉仕におけるもっとも気高い道徳的義務として、共謀して高めかつ清める。そのような殺人に参加することを拒否するものは、それが良心的反戦主義者によろうと徴兵逃れであろうと、脱走であろうとその他のものであろうと、非難され、牢につながれ、さもなくば処罰される。●もし、戦争が本能的な衝動の覚醒によるものであるならば、国家は軍隊を組織するのに募兵や徴兵に頼らなくてもよいであろう。●国家のない社会は概して戦争を好まないということ、そして、ついに真の戦闘が始まるような状態の前には普通、政治的な国家への社会の組織化が行われていること、これらが単純な事実のようである。●戦争は普通、大きな権力の座にある少数の個人-「偉大な指導者」、「思慮深くて」「尊敬すべき」「政治家」によって為される。6.攻撃性の方向転換●戦争のない平和な世界では闘争本能の捌け口を設けるためスポーツを奨励すべきであるとのもっともらしい意見がある。事実は逆で、勝敗に拘るスポーツは、民族心を煽り、平和な人間をさへ一時的あるいは永続的に排他的民族主義者にする。1969年のエルサルバドルとホンデュラスのサッカーの試合では、暴動ばかりか本物の戦争になった。●オリンピックが平和の祭典であるというのは真実ではない。すくなくとも平和でない国ではオリンピックが開催できないという意味での「平和の祭典」にすぎない。スポーツを為政者の民族心高揚に利用させないためには、オリンピックでの国別メダル獲得競争や国旗掲揚を止めて、個人表彰のみに留めるべきである。7.遺伝子と環境●文化による淘汰圧の結果、人類は自己の行動の発達に関する遺伝子の作用にも大きな影響を与えた。このことは、人類が他の動物とはことなり、遺伝子の影響から完全に自由であるという意味ではなく、人類では、行動に関する遺伝子決定の度合いが他の動物に比べてはるかに弱い、ということを意味する。●生まれたばかりの赤子は無辜であり、白紙状態にあるが様々な潜在的能力を付与されている。ここに性善説や性悪説などを議論する意味は無い。赤子や幼児だけでなく成人にとっても、自らの社会環境は通常選択の余地のない与件である。その後の人生は社会及び家族環境によって、人格が形成されていく。●社会規範はそこに生きている人々によって共有されているものであるが、それは社会のシステムによって定まる。無辜であった赤子がやがて暴力をふるったり、金の亡者になったり、戦争指導者になったりするのはつまるところ社会のシステムによる「教育」の「賜物」である。●人間進化論は、ダーウィンの進化論はナチスによる利用などの苦い経験から、敬遠されることさえあるように見受けられるが、放送大学の講義をとおして、汝自身(人間)を知るための不可欠の学問であるように思えた。暫く、この人間進化論に興味の関心を置いておこうと思っている。
August 4, 2007
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