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●A.モンターギュの『ネオテニー』は、幼形成熟によって進化したヒトの生物学的特徴を敷衍した人間観とでもいう著書であったかもしれない。その人間観は、ネオテニーに寄せた人類愛に満ちた著者の思想とでも呼ぶべきものであるように思う。私も著者の思想には共鳴するが、人間の特徴に関しては、あまりにも「愛」に満ち溢れすぎているような気がしてならない。●「DNAの意志」と言われることがある。DNAの変異そのもは中立的なのだが、結果的に繁殖に成功して残った形質にたいして、それがDNAの意志であるかの如く見ているだけのことであろう。DNAは中立的かもしれないが、意識をもった個体としての生物は生き延びることに必死である。このため、個体はしばしば、状況に応じて(人間の場合には、社会システムに強制されて)利己的、功利的に振舞う。●このような個体の利己性・功利性は、全ての生物を貫く性(さが)であって、性善説的な「愛」と衝突すると場面が多い。利他的な「愛」よりも、生きるために個体としての利己性を優先せざるをえないことは無理からぬことである。●全ての個体(人間)の幸福は社会の「愛」に満ちた仕組み、ネオテニーの本性をすくすくと育てる仕組み、利己性・功利性をコントロールする仕組みなしに実現する筈はない。●下記の『進化と人間行動』は、7月の放送大学の講義をテレビで観て取り寄せた本であり、放送大学の教材と同一書名になっているが、内容は若干異なるようである。第1章の表題が「人間の本性の探求」となっているとおり、この著書の目的は人間性の本性の科学的探究にある。●こちらの方は、教科書としての性格によるものかもしれないが、『ネオテニー』と違って、客観的な証拠に基づいて生物としての人間の特徴及び人間行動の特徴を描いている。ということで、思想的にはA.モンターギュに共鳴するが、客観的存在としての人間についての論述については、こちらの本で描かれているような姿の方が真実味を覚える。進化と人間行動長谷川寿一/長谷川真理子東京大学出版会●本の内容は、下記の放送大学のシラバスをご覧になって下さい。◆進化と人間行動('07) シラバス●放送大学の授業を盗視聴ばかりしていたが、授業料を払って10月から専科履修生になった。
September 28, 2007
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■スポーツや遊び…今日のアメリカなどでは、大人たちが遊びを“勝つ”という攻撃的衝動に変形させてしまい、さらにスポーツでは、眼にあまる規模で一大企業へと堕落させられ…彼らは、試合を楽しむかわりに、あたかも“敵”あるいは自分自身とはげしい勝負をしているかのようだ。彼らは、なんとしてでも勝たなければならないのである。人間、とりわけ“高度に”文明化された欧米の人間だけが、そんなふうにして遊ぶ唯一の生き物である。他のすべての生物は、また無文字社会の人々や他の国の人々は、ほとんど、楽しみのために遊び、腕前や競技精神を披露するよろこびのために遊ぶだろう。こどもたちを協力的に試合をするように育て、スポーツにおけるアマチュア性を奨励し、そして、あらゆるプロスポーツの完全中止を実現するために必要なことをする、私は、その重要性をここでは強調しておきたいと思う。競技に金儲けがはいりこめば、それは競技ではなくなり、金銭の奪取と避けがたく関連している腐敗と堕落をまねくのみだ。●『未来社会の構造』より未来社会では、スポーツに限らず、どのようなものにもプロとアマの区分はない。現代社会風に言えば、試合に向けたスポーツに専念している地域や組織代表のようなスポーツマンがプロで、サイドワークとして自身と観客の楽しみのために競技している人がアマチュアということになるのかもしれない。アマチュアであっても、人々に楽しみを与えれば配当が貰える。高校野球の選手が応援者や観客から金品のご褒美を貰えるようなものである。●商業主義的プロスポーツのあり方には賛成できないが、ビジネスであるか否かによらず、芸術でもスポーツでも人に感動を与えることができるようなことに対しては、ご褒美があってしかるべきではないかというのが私の考えで、モンタギューとは意見が異なるかもしれない。■教育の問題…こどもが“罪深い存在”であるというところから、こどもにおける罪の証拠に焦点がしぼられ、それを探しだそとする。そのような視点から探せば、それは見つかるにきまっている。両親の役割のひとつに“悪い”行為は罰し、またおさえつけて規制をきびしく、そして、“良い”行為の基準を教えなければならないという、あたかも警官のような役割があると私たちが考えるのは、すなわち、そのような観点に偏向させられ影響されたものだ。●私も、社会のおかしな仕組み、利潤追求や権力志向の組織、公教育などが、素直で純真な自然にうまれついた人間を醜悪な性格に改造していると考えている。愛国心、競争心、宗教心などといったものをやたらに植えつけてもらう必要などないのである。社会の仕組みが人間的・ネオテニー的であるならば、天性の愛が育まれるはずである。■男らしさと正義欧米社会では、同情的知性はふつう少女に奨励され、少年にとってはどちらかといえばタブーとされる。やさしさをタブーとすることに少年は慣れ、そして“男らしさ”や“男性優位”が強調されることで、男性のもつ同情的知性の能力は破壊されてしまう。…男性優位の社会では、それを“正義”という観念に置きかえている。問題は、その正義にじゅうぶんな同情が欠けていることで、同情のない正義など正義ではまったくない。■年齢差別ところで、“老齢”という概念は、私たちのほとんどがあまりにあっさり慣らされてしまう悪習である。…そして、年老いたということは、つまり、卑しむべきことである。…アングロ-サクソン系における年令集団間の差別は、まさに、“人種差別主義者”のそれにも似た“年齢差別主義者”の偏見をつくりだしている。…年寄りは老齢相応の法的要求に従うように望まれる。規則の侵犯は認められない。六〇歳かそこらで、人は仕事をやめなければならない。それは、多くの人たちにとって、人生そのものからの隠退を意味する。私たちが関心をもつべきは、たんに人生の“延長”では無く、むしろ幼体の持つ原動力の延長、若さの延長、人生の質の延長、そして私たちの運命の認識、ということである。すなわち、年をとるという身体上のプロセスの阻止や逆転ではなく、健全な行動と心理の成長の可能性、ふんだんに与えられていながらほとんど私たちが理解していない可能性、そのことを認識することである。…身体が年をとれば、必ず精神も年をとるというわけではない。年をとることについての最新の研究は、年齢についての多くの神話をくだきつつある。そして、つみかさねられた証拠は、老齢に関連した心身の障害は大幅に改善されたりすべて取りのぞかれるという将来を建設的に約束している。合衆国政府が一回の月への宇宙船打ち上げに投じる金額を、年をとるプロセスについての研究に投じるならば、そのような将来はぐっと近づく。●老人の将来に関しては楽観的すぎるような気がする。宇宙開発のすべてが無駄とはいわないが、貧困や病気で苦しむ人々をさしおいて、膨大な無駄使いではないかと思っていたところなので、アメリカ人にこのような指摘をする人がいるとは思わなかった。…世の中は、年老いてつぎはぎだらけでひからびた老いぼればかり、しかもたぶん管で食事をし人工の電子器官の助けで動く老いぼれたちが住むようなところになると信じていることである。しかし、この醜悪な図は、まったくの誤りである。つまり、寿命がのびるということは、当然、健康状態そのものが改善されたということになるのである。…高齢にたっする人は、それだけずっと、若い人たちのような肉体をもちつづけることだろう。そして精神も、もっと改善されさえするだろう。●『未来社会の構造』より未来社会には定年はない。健常者であるうちはいくらでも働くことができる。未来社会の高齢者の多くは、成人が平均的に保有している以上の授権配当をもっている。若い時から蓄積した経験、技能や人的ネットワークももっている。趣味に打ち込みたい高齢者は趣味を活かせば良いが、趣味しかやることがない社会ではなく、「労働」が生活の手段ではなく目的である社会である。六十代は決して高齢ではなく、脂の乗り切った働き盛りの年代である。七十歳でも八十歳でも、健康でさえあれば、自らのリソースを用いて、ベンチャービジネスを起こし若者を指導するなど、意気軒昂に活動しているのが未来社会である。●昨日、私がパソコンを教えていた69歳の女性がソプラノのコンサートを行った。収容人数300名ほどの会場は人でいっぱいであった。プロの歌手ではないが、その若々しい美声に、ただただ感心して聞きほれた。確かに、晩年を一生のうちでもっとも花開いた状態にすることもできるものだなと思った。■著者の目的読者が、人類進化においてネオテニーの果たした中心的な役割を理解され、そして、ネオテニーが人間性の基本的な源であり、幼児期から老年まで生涯にわたって柔軟性をもたらす偉大なる者であることを理解されるよう望んでいる。私たちは、人類の本当の性質について、新しい理解の上に立たなければならない。そして、社会というものの本質を、再定義しなくてはならない。社会は敵を発明し作り出す機関であるとか、自然や人類のすべてを無条件反射的恐怖の中にとじこめてしまう機関であるとか、社会は人間の需要を利用したゲームであり帳簿上の価値を生み出す機械に過ぎないといった概念を、いまや、私たちは、はねつける必要がある。進化の事実のもとづけば、社会とは、すべての世代において人類のネオテニー的特徴をはぐくみ伸ばすような養育を行う生活システムであると定義できる。進化から見れば、私たちのネオテニー的で延長された幼年期、つまり一生つづく“若さ”こそ、ただひとつの、もっとも支配的な事実であり、そしてそれにもとづいて、社会と生産関係が設計されている(設計されるべきという意味では?)ことがわかるだろう。“晩年”は、人の一生でもっとも幸福なものとなりうるのである。●A.モンターギュが考えるネオテニーの特特性が生物種としての人間本来の姿であるならば、ネオテニーが素直にその諸特性を成熟させた姿は、私が描く未来人の姿そのものであるかもしれない。●私には、A.モンターギュが(英国生まれであれ)アメリカ人であるとはとても信じられない…アメリカ人への偏見かもしれないが?
September 23, 2007
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●「人間とはなにか?」との質問に対し、どのように答えるかは人によって様々であろう。社会学的な答え、宗教的な答え、心理学的な答え、或いは哲学的な答えが返ってくるかもしれない。●しかし、人間はなによりもまず生物であることから、進化論的に人間とはどのような種であるかについて述べるのが妥当ではないかと思う。●そして、人と人との関係、社会のあるべき姿を考える上でも、進化論的な意味での人間の特徴がその土台にあるべきではなかろうか?●ということで、以前解説した『暴力の起源』に引き続いて同じ著者の『ネオテニー』も読んでみた。ネオテニー ―新しい人間進化論―A.モンターギュ(著)尾本恵市&越智典子 (訳)●私は、A.モンターギュの述べるような人類愛に満ちたヒトの特性の全てが進化論的に説明できるものと思っているわけではない。しかし思想的にはおそらく彼と大筋で異なることはないと推察できる。●以下で、『ネオテニー』の要点を抜粋するとともに、私の考える未来社会と対比してみた。■ネオテニーとは幼い形のまま成長する過程をネオテニー(幼形成熟)、または幼形成熟とよぶ。…その意味するところは、要するに、幼児や胎児(さらには私たちの原始的な祖先のこどもや胎児)にみられる特徴が、成人にも保存されている、ということである。…ヒトは、その身体、精神、感情、行動のいずれにおいても、幼児的特徴を減少させるどころか、逆に、強調するような方向で成長し、発育する動物なのだということこそ、真実なのである。つまり、私たちは多くの点で幼児の性質のままでいるように設計されているのであり、けして私たちの大多数がそうなってしまったような大人に育つべく、つくられてはいなかった。●ゴリラ、チンパンジー、オランウータンなどの類人猿とヒトの胎児や幼児は驚くほど類似している。このうちヒトのみが、類人猿が幼児期に必要とされた特徴を成人にまで引き継いで成熟させる。●本能に基づく行動とは、反射的な自動的な行動で、脳に予めプログラミングされたものである。大多数の生物の行動はこの本能的行動といえよう。しかし、霊長類のような動物は少なからず経験や学習に基づいて行動する。●環境条件の変化に対応して、遺伝子を変化させることによって適応を図ることよりも、頭脳を用いた学習による適応の方が、飛躍的に効率的である。●ヒトは、幼児の時に、特に必要であった未知に対する適応力のための白地キャンバス(前頭葉)を幼児期を過ぎても成長させ、反対に融通のきかない本能をかなぐり捨てることによって、環境対応力を身につけたといえる。ヒトは教育されることを前提とした生き物である。●ヒトは幼児期の行動上の特性の多くを成人期まで残存するように仕組まれた動物であることは間違いない。ヒトの場合、胎児から幼児、子供から大人への発育の速度が、他の霊長類のどの種とくらべても遅く、また、ヒトの成人の特徴のなかに胎児の特徴であるものが多いというのも事実であろう。■ネオテニーの特徴偏見をもたず、新しい考えをうけいれ、順応性をもち、探求し、努力し、疑問を発し、追求し、批判的にためし、古い考えと同時に新しい考えも検討すること、つまり偏見のない好奇心と、新しい経験を享受することにたいして興奮すること、完全に理解しようと進んで努力すること、くわえてユーモアと笑いのセンス--これらは、すべてネオテニー的特徴である。じっさい、これらは、ヒトが成長発達する機会を充足するうえでかかせない。そしてその機会を与えることこそが、すべての社会の基本的な目的でなければならない。■人種や民族の相違他の動物のように反応を遺伝的に固定するかわりに、ヒトは、自分の反応を発明する種“ホモ・サピエンス”に属している。発明し、とっさに判断し、“反射”ではなく“反応”をし、“選択する”という、独特な能力のおかげで、人類のじつに多様な文化がうまれたのである。したがって、すべての人類集団や民族集団に遺伝される能力の幅や平均値は、かなり似たりよったりである、ということがわかるだろう。●人種や民族に対する拘りや差別、国などといったものが作為的なものであるとの私の主張にも合致する。■婚姻制度ほかの霊長類の雌たちでは、発情周期によって、性行動は短期間のくりかえしにとどまっている。しかし、女性は、そのような生理的隷属から解放され、同時に、男にとって女性は常時、“入手可能”となった。そして、そのことが一夫一婦制の起源となった。ひらけた平原に生きる場所をもとめた人類にとって、この新しい“家族単位”は、自然選択上、かなり有利にはたらいたことだろう。というのは、この“母”と“父”からなる安定した社会単位は、それぞれのやりかたで、こどもの生存と発達に寄与しながら、長期間、こどもの世話をおこなうからだ。●歴史的には一夫多妻制、一妻多夫制、複合婚とかプナルア家族のような婚姻制度もある。しかし、例えば全ての男が一夫多妻では女の数が不足する。複合婚の場合にも実質的にはカップルができていることが多かったのかもしれない。■女性の魅力はネオテニー性…若い女性が男性にとって魅力的であるのは、声が割れていない、子供のような外観をしている、体毛が少ない、身体が丸みをおびている、また少女じみた行動をとるといった、幼形特徴の組み合わせによるものだ。■人間の特徴はネオテニーに由来…もっとも深い意味において、子供の精神こそ人間らしい精神であり、もっとも高い生物学的価値をもった適応的特徴だということである。…私たちは、こどもにこうあるべきだという先入観を押しつけ、そして彼らの手に負えない本性と考えられるものを罰するのである。そのような偏見のもとで、私たちは、こどもが本来なにになろうと努力しているのか、そのことを理解しそこなってしまう。こどもは、人と、深く愛情によるかかわりをもとうとしており、そして与えられたすばらしい特性のすべてを発達させようと努力しているのである。●『未来からの伝言』より「ホウ、ホホーウ! 誘拐される資格というのは、『子供であること、素直な性格であること、凝(こ)り固まった価値観のようなものを持っていないこと、柔軟な頭の持ち主であること、世の中のおかしなことはだれが何といおうと『おかしいんじゃない』と思えること、自分の意見をはっきりいえること、ちょっとませていて捻(ひね)くれたところがあること』なんだ」「そんな、ありきたりのことが資格なの? 誰でもよさそうな資格に思えるな。それにちょっと気になるんだけど、『素直なこと』と『捻くれたところがあること』って、矛盾するんじゃないの?」「ホーウ! 先生や親のいうことならば、間違っていそうなことでも『はい』と言うようなYESマンではないということさ。自分なりに判断して納得しないと、『はい』とは言わないような性格で、普通の人は捻くれていると思うからね。ところが、こういう条件の整った子供というのは、意外にいそうでいないんだ」■年齢区分の不自然性…胚・胎児・赤ん坊・幼児・こども・青年・成人・老齢者といった用語は、すべて生物学的にも発達上の観点からも、いわゆる現実には対応していない、かなり恣意的なものである。すでにのべたように私たちは、習慣として発達の各“時期”に恣意的な境界をもうけ、そして、それらを“段階”と名づけているのである。こうして私たちは、ふたつのことを把握しそこなってしまった。ひとつは、“発達”とはいつも、それが起きている状況こそ問題なのであるということ。ふたつめは、それが連続的なプロセスであって、それぞれが独立分離していて、おのおの異なる服従や義務、地位、役割などを必要とする不連続な期間のつながりではけしてないということ。…こどもたちを年齢によって学年にわけるのは、機能上の誤りである。彼らは、本来、要求される作業をこなす能力に応じてわけられるべきなのである。こどもは、ふつう、ある科目の学習について、またその適性について、それぞれ発達する速度が違うし、その熟達の速さにおいてもそれぞれちがう。これは、よく認識されなければならない。すべての科目を同時に、ひとしくうまくこなすように子供に期待するのは、非現実的であり、有害である。胎児から老齢にいたる、“人生の諸段階”という考え方は、なんとしてもあらためる必要がある。そして、とりわけ幼児期の意義と、それがもつ個人と社会と人間性の発達にかかわる重要性については、もっともよく理解されねばならない。●『未来社会の構造』より未来社会における未成年、成人と老人の境界は、現代のような不連続なものではない。成人、定年などについて決められた年齢のようなものはなく、連続的なものである。教育を受ける権利、選挙権、法の裁きなども年齢による差があるわけではない。人類を偉大にしたのは考えることである、とパスカルはいった。しかし、私たちの何と多くが本当には考えていないことか。私たちは、それと気づかないまま考えることをやめ、そして決まり文句や常套句、偏見などに、ほとんどふりまわされている。●法律、儀礼、因習、社会制度、社会規範のいかに多くがこれらに類するものであろうことか。
September 22, 2007
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●今回は未来社会に関することではなく、私自身の最近の生活スタイルの変更に関することを取り上げた。●6年半前のサラリーマンを止めた直後に、突然絶望感や虚無感に襲われ、その後一週間ほど鬱的状態にあったことがある。そのとき、これはまずいということで始めたのがパソコン教室などである。●ところが、今年8月初旬、中里介山の『大菩薩峠』を読み終えた直後にまたしても突然、このような絶望感や虚無感に襲われ食欲が全く無くなった。しかし、今回も一週間ほどで回復した。●念のため心療内科に相談に行ったが、その頃にはすっかり癒えていた。クリニックに置いてあった本を読んでみると、このような症状は『パニック障害』と言われるもののようだ。●『種の起源』の著者であるダーウィンはこのパニック障害という持病を一生持ち続けた人のようである。ダーウィンは、世間からの批判や非難を恐れ、進化論を打ち立ててから15年後にようやく自然淘汰理論を発表することになった。それも年少のライバルの出現に後押しされ、しかもこのライバルと連名での発表であった。その翌年に公刊したのが『種の起源』である。このような行動様式はパニック障害にみられる「慎重」「臆病」といった性癖と関係している…とのことである。●今回の私のパニックの原因は、6~7月の2カ月間に『大菩薩峠』20冊と放送大学の印刷教材など4冊を読破するような集中の反動ではないかと思っている。勿論、面白かったので集中したことではあったが、読破したあとの虚脱感、あるいは部屋に閉じこもって本の虫になっていることに対する脳の拒否反応かもしれない。●たまたま高校の仲間が暑気払いの飲み会をしようというので出席した。この飲み会には10名程度しか参加していなかったが、鬱病の経験者が2人ほどいた。意外にも、2人とも学生時代に陽気でリーダー的気質の人物であった。しかしこちらは鬱病で、パニック障害ではなさそうであった。●パニックに襲われると、直ちにこれではまずい、なんとかしなければと考え、対策を実行するような人は鬱なんかではありえない…と言われるかもしれない。そうは言われても、本人にとっては深刻な事態に陥っていたことには変わりはない。●再度パニックに襲われることを恐れて、考え、実行した対策は次のようなものである。・裏庭の空き地の猫の額のような土地を開墾して、野菜づくりをはじめた。初めての園芸である。・ソフトテニスを始めた。パソコンの生徒さんに、気楽にエンジョイできるサークルを紹介してもらった。テニスを終えた後のレストランでのダベリングも結構楽しい。・家内の希望でもあった折りたたみ自転車2台を購入し、毎日のようにサイクリングをするようになった。家内とは週一回程度である。…といったように学究的(?)生活スタイルをエンジョイ型に大きくシフトするようにした。●私は、冬場の半年程は結構仕事で忙しいが、後の半年はパソコンを教える程度の仕事しかしておらず暇状態にある。従って、この暇状態の半年に何をするのかが課題になる。読書、ブログや本を書くこと、放送大学もこの課題のためである。●私の大敵は「何もすること(意義の感じられる)が無くなること」である。このことに、怯えているといっていいのかもしれないし、自由の恐怖というものかもしれない。あるいは、サラリーマン的人生の後遺症、貧乏性であるのかもしれない。●今回の件は、人生にそれほど意義の感じられることばかり転がっているわけではないので、適当にリラックスすることが肝要であるとの教訓かもしれない。人生は、意義がなくても楽しめれば良いのである。他の動物にとっては「生きることの意味とは」などという自身への問いかけのようなものがある訳がない。●『大菩薩峠』の仏頂寺弥助や丸山勇仙、お雪ちゃんは、人生に対して貧乏性すぎたのである。●仕事が生き甲斐だった人も多いのかもしれないが、仕事が金のための強制された労働であった人にとっては待ち望んだ解放かもしれない。いずれにしても定年というのは強制された怠惰に違いない。●団塊の世代の人達が定年を迎える。働くことしかしてこなかった定年退職者のうちにはあり余る自由の処置に困る人も少なからず出てくるのではないかと思う。その有力な対策としてボランティア活動があるのかもしれないが、そこに老後の楽しみを見出せる人ばかりとは限らない。●このような贅沢な悩みに苦しむ人は実際には少なくて、国家の財源制約から年金生活が安閑としたものでなくなっている現在、定年後の収入確保の方が問題である人の方が遥かに多いのかもしれない。
September 15, 2007
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